東京高等裁判所 昭和54年(行ケ)163号 判決 1982年11月30日
原告
ラポート・ケミカルズ・リミテツド
被告
特許庁長官
主文
特許庁が昭和54年5月29日昭和48年審判第4576号事件についてした審決を取消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
事実
第1当事者の求めた裁判
原告は主文同旨の判決を求め、被告は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求めた。
第2請求の原因
1 特許庁における手続の経緯
原告は、1966年9月30日グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国(イギリス国)においてした特許出願に基づく優先権を主張して、昭和42年9月30日、名称を「ラクトンの製法」とする発明(以下「本願発明」という。)につき特許出願(昭和42年特許願第63003号)をしたところ、昭和48年2月20日拒絶査定を受けたので、同年7月10日審決を請求し昭和48年審判第4576号事件として審理され、昭和52年1月7日明細書を補正したところ、同年2月20日出願公告をされたが、同年7月18日、特許異議の申立てを受け、昭和53年1月6日及び同月9日明細書を補正した。ところが、特許庁は、右審判事件について、昭和54年5月29日「本件審判の請求は成り立たない。」との審決をし、その謄本は同年6月13日原告に送達された。なお、出訴期間として、3か月が附加された。
2 本願発明の要旨
ペルオキシカルボン酸と環状ケトンとを反応させることによりラクトンを製造する方法において、
(a) 酢酸と過酸化水素とを水溶液中でカルボン酸対過酸化水素とのモル比2対1から7対1で反応させ、過酢酸を含有する水溶液を得ること、
(b) 前記過酢酸を含有する水溶液を蒸留して、過酢酸、酢酸、水及び酢酸と過酸化水素との反応により得られる液体平衡混合物と較べて極めて少量の過酸化水素とを含む液体蒸留物を生成すること、
(c) 前記液体蒸留物と、5ないし12の炭素原子を環に有し、その環原子と反応すべき置換基として0ないし3のメチル基を有する環状モノケトンとを反応させて、ラクトンを含む反応混合物を生成すること、及び
(d) 前記反応混合物を蒸留してラクトンを分離することを含むラクトンの製造法。
3 審決理由の要旨
本願発明の要旨は、前項記載のとおりである。
これに対して、本願発明の特許出願について優先権主張の基礎となつた第1国出願前に頒布されたケミカル アブストラクツ 第64巻 第1号 603b~e(1966年)(以下「第1引用例」という。)には、蟻酸516グラムと、83.5%の過酸化水素水65グラムとを2時間室温に置き、ここへ147グラムのシクロヘキサノンを加えて20℃で反応させ、ベンゼンで抽出、中和後、ベンゼンを蒸発させて、144グラムのε―カプロラクトンを得ることが記載されている。
そこで、本願発明と第1引用例の技術とを対比すると、両者は、環状ケトンを過酸で処理してラクトンを製造するに当つて、過酸として、過酸化水素と過剰のカルボン酸との反応生成混合物を用いる点で変らず、また、カルボン酸の過剰の程度も7モル倍の点で重複するところからみて、同等ということができる。そして、両者の相違点は、①カルボン酸として、前者においては酢酸を用いるのに対して、後者においては蟻酸を用いる点、②過酸化水素とカルボン酸との反応生成混合物を、前者においては蒸留してその留出物を用いるのに対して、後者においてはそのまま用いる点、及び③ラクトンを分離するに当つて、前者においては蒸留によるのに対して、後者においてはベンゼンで抽出する点にある。
①の点について検討する。
第1引用例には、過蟻酸溶液以外の過酸溶液を用いることを示唆していないことは事実であるが、過蟻酸と過酢酸とは、ともに代表的な過酸として共通する作用を示すことはよく知られており、また、両者はともに、蟻酸又は酢酸に過酸化水素を反応させて製造されることもよく知られている。
さらに、環状ケトンが種々の過酸により酸化されてラクトンを生成することも、本願発明の特許出願前当業者によく知られている。
そうすると、第1引用例の蟻酸に代えて酢酸を用いることは、当業者ならば、格別の困難を伴うことなくできることである。
そして、蟻酸に代えて酢酸を採用したことによる効果として、同じモル比の場合には、分子量の小さい酸を用いた方がその大きい酸を用いた場合よりも相対的に過酸化水素の濃度が上がること、したがつて爆発域に近づくことは自明のことであり、そして、第1引用例において蟻酸を用いて安全に実施している以上、これと同程度のモル比で酢酸を用いればより一層安全であることは、当然のことであつて、予期しえない効果とはいえない。
②の点について検討する。
本願発明の特許出願について優先権主張の基礎となつた第1国出願の日前に頒布されたジ オイル アンド ガス ジヤーナル 1962年7月30日号 第159頁(以下「第2引用例」という。)には、酢酸と過酸化水素とを硫酸触媒の存在下に反応させ、反応混合物を蒸留して、過酢酸、酢酸及び水からなる留出物を得る方法、及び得られた留出物を有機化合物の反応に利用することが記載されている。
さらに、第2引用例には、得られた留出物は、硫酸、有機過酸化物等の不純物を含まないため、「in situ」法(過酸ができ次第そのまま反応に使われる方法)よりも広い範囲の有機出発物質の反応に適用できる旨の効果も記載されている。
なるほど、第2引用例には、加える酢酸と過酸化水素とのモル比は特定されていないが、その冒頭に、この方法が過酸化水素の活性酸素を有効な過酸に変えるものである旨明記されているところからみて、酢酸よりも過酸化水素を有効に反応させることを目指しており、そして、一方の原料を有効に反応させる場合に他方の原料を過剰に加えることは広く行なわれていること、留出物中の過酸の濃度が10ないし55%であること(残りは酢酸と水)、及び反応の際別途水を加えないことからみて、酢酸を過剰に加える場合を少なくとも排除するものでないことは明らかである。
なお、第2引用例をみれば、安全装置は、55%というような高い過酢酸濃度までの留出液を得ることを可能にするために付けられたものであつて、必ずしも不可欠のものではないことが明らかであるから、本願発明において(実施例における過酢酸溶液の濃度は30ないし35%程度である。)安全装置を使用することなく蒸留を行なつたことも、予想外のことではない。
したがつて、過酸の反応生成混合物を用いる反応において、反応生成混合物をそのまま用いることなく、一度蒸留してその留出物を用いることは、第2引用例をみれば、当業者ならば格別の創意を要することなくできることと解される。
③の点について検討する。
一般に、反応混合物から生成物を分離するに当たり、蒸留による方法も溶剤抽出による方法も、ともに慣用の手段であつて、いずれを選ぶかは、当業者が適宜に選択するところである。また、第1引用例には、生成ラクトンを蒸留によつて分離することが困難であることを示唆する記載はない。
そして、第1引用例の抽出法に代えて、蒸留法を採用したことによつて、溶剤の毒性、汚染等の問題が解決されたとしても、この程度のことは、溶剤の不使用に伴う当然の結果であつて、予期しえない効果とはいえない。
からに、本願発明における酢酸と過酸化水素とのモル比の特定については、明細書その他の記載からみて、前記モル比の特定に格別の臨界的意味があるものとも解されない。
以上のとおりであつて、本願発明は、第1引用例及び第2引用例の技術に基づいて、当業者が容易に発明をすることができたものであるから、特許法第29条第2項の規定により特許を受けることができない。
4 審決取消事由
審決は、次のとおり、本願発明と各引用例のものとの間に存する本質的な差異を看過して、本願発明の進歩性を否定しているが、判断を誤つた違法のものであるから、取消されねばならない。
1 酸として蟻酸に代えて酢酸を用いることの困難性
(1) 蟻酸と酢酸の相違
第1引用例では酸として蟻酸を用いているが、本願発明では酢酸を用いる点について
審決は、過蟻酸と過酢酸とは、ともに代表的過酸として共通する作用を示すこと、両者はともに蟻酸又は酢酸に過酸化水素を反応させて製造すること、環状ケトンが種々の過酸により酸化されてラクトンを生成することは、本願発明の特許出願当時当業者によく知られていたところであるから、蟻酸に代えて酢酸を用いることは当業者の容易にしえたことであるという。
しかしながら、右判断は、過蟻酸と過酢酸とが代表的な過酸として共通した作用を示す等という極めて漠然とした一般論のみによつて、本反応における蟻酸を酢酸に置き換えることが容易である旨断ずるものであり、到底説得力をもたない。
先ず、比較されるべきものは、過蟻酸と過酢酸との性質の一般的な差異ではなく、蟻酸と酢酸の、なかんずく、酸と過酸化水素との反応混合物と環状ケトンとを反応させてラクトンを得るという本願発明における特定の反応工程での、両者の差異でなければならない。
そして、右反応工程において、蟻酸と酢酸とでは、全く異なる作用を示し、蟻酸ではラクトンを生成しうるが、酢酸ではラクトンを生成しえない。
このことは、本願発明の特許出願当時当業者であれば知りえたことであるから、右反応工程に、蟻酸に代えて酢酸を用いることは、当業者であればこそ容易には着想しえなかつたもの、といわなければならない。審決のこの点に関する判断は誤つている。
(2) 過酸化水素の除去
第1引用例では酸と過酸化水素との平衡混合物をそのままケトンと反応させるのに対し、本願発明では右平衡混合物を一度蒸留した後ケトンと反応させる点について
審決は、酢酸と過酸化水素とを反応させた反応混合物を蒸留して、過酢酸、酢酸及び水からなる留出物を得る方法、及び得られた留出物を有機化合物の反応に利用することが第2引用例に記載されているから、当業者ならば、これを見れば格別の創意を要することなくしうることであるという。
しかしながら、前述したとおり、本願発明の技術的思想は、残留(平衡混合液中の)過酸化水素をケトンと直接反応させることを避けることにより、酢酸と過酸化水素及び過酢酸とケトンとの反応を進めること、並びに爆発性のケトン過酸化物の生成を回避することができる、という2点にあり、したがつて、平衡混合液の蒸留の主たる目的が残留過酸化水素を除去することにあることは明らかである。そして、この過酸化水素の除去ということが右の目的にある以上、過酸化水素を除去するという技術的思想は、本願発明に固有のものであるということができる。
ところが、第2引用例には、なるほど、酢酸と過酸化水素との反応混合物を蒸留してこれを種々の有機出発物質に適用することが記載されているけれども、これは、あくまでもそこに記載されているとおり、その後の反応に有害となりうる触媒や有機過酸化物等の不純物を除去して、より広い範囲の有機出発物質の反応に適用することを目指したものである。
第2引用例の記載は、
① 45°ないし46℃に保たれた減圧蒸留塔に触媒量より多い硫酸を入れ、
② これに過酸化水素と酢酸とを連続供給すると、
③ 過酸化水素中の活性酸素が有効な過酸の形に変換して、過酢酸、酢酸、水の結合(混合)物が生成し、
④ 上記生成物中には、硫酸や有機酸化物のごとき不純物を含まないから、
⑤ in situ法より広い種々の有機出発物質に適用可能である。
⑥ その結果、オレフインと反応させて高純度のエポキシドを得ること、高純度のヒドロキシル化アミンオキシドスルホンを得ること等、高純度の有機生成物を得ることができる。
ということに要約することができる。
右の①、②、③、⑤から、第2引用例には、なるほど、「酢酸と過酸化水素の平衡混合液の蒸留生成物が種々の有機出発物質に適用可能である」ことが記載されているということができる。しかし、この記載から、ケトン(有機出発物質の1には違いないが)と反応させてラクトンを蒸留法により得るという本願発明の技術が容易に着想しえたはずであると結論する審決の判断は、性急に過ぎる。
およそ、化学反応において、その大部分は有機出発物質を用いる有機反応であること及び有機反応の数、態様、したがつてまた、これに関わる技術は無数といえるほどに存在することを考えれば、「有機出発物質に適用ができる。」というだけでは、技術的に内容のあることをいつているものとは到底いえない。換言すれば、「種々の有機出発物質に適用ができる。」との記載は、「種々の化学反応に適用ができる。」という、技術的にはおよそ空疎な内容を出るものではない。
第2引用例に技術的に何らかの意味のある記載があるとすれば、右の部分にあるのではなく、第2引用例の記載の全体に求めざるをえない。
そこで、前記①、②、③、④、⑤、⑥を総合すれば、それは、「酢酸と過酸化水素との反応混合物を蒸留して触媒や有機過酸化物等の不純物を除去し、これを広く有機出発物質と反応させることにより、高純度の有機化合物を得ることができる。」という内容に要約され、また、この内容に尽きる。ここでは、爆発性のケトン過酸化物の生成を回避するという、本願発明に特有な技術は何ら問題にされていないし、まして、本願発明の産業上極めて重要な作用効果、すなわち、反応生成物(ラクトン)を爆発の危険をおかすことなく、蒸留法により分離することが可能になるという作用効果については、何ら着想されていないことが明らかである。
要するに、ケトンと反応させることについての特有の課題(爆発性)、その解決方法(技術的思想)、また、それによる効果(生成物の蒸留分離が可能になつたこと)等については、第2引用例には何ら記載されていないのである。
したがつて、当業者が第2引用例を読んだとしても、これらのことを容易に着想しうるはずがない。そして、これらのことこそ、本願発明の技術的思想の中核ともいうべきものであるから、第2引用例の記載から、本願発明の技術的思想は格別の創意を要することなく発明しうるものであるとした審決の判断が誤りであることは明らかである。
2 ラクトンの蒸留による分離の着想の困難性
ラクトンを分離するに当り、第1引用例ではベンゼン抽出するのに対し、本願発明では蒸留による点について
審決は、反応混合物から生成物を分離するに当り、蒸留による方法も溶剤抽出による方法も、ともに慣用の手段であつて、いずれを選ぶかは、当業者が適宜に選択するところであり、また、第1引用例には、生成ラクトンを蒸留によつて分離することが困難であることを示唆する記載はないのであるから、当業者であれば容易に考えつくという。
しかしながら、前述したように、第1引用例の反応工程からは、必ず少量のケトン過酸化物が生成することは避けられず、これが過酢酸と比較して過度に爆発性を有するため、蒸留法によりラクトンを分離することができないことは、本願発明の特許出願当時の当業者の技術常識であつた。第1引用例がわざわざ複雑な工程を用い公害や毒性のあるベンゼン抽出法に拠つたのは、このことの故である。
このように、第1引用例の反応において、ベンゼン抽出法に拠るか蒸留法に拠るかは、決して適宜選択できることではなかつた。
一般に、反応混合物から生成物を分離するに当たり、溶剤抽出に拠るよりも蒸留に拠る方が、その簡便さ、低公害性等から、はるかに望ましいものである。ところが、第1引用例の方法では蒸留法に拠ることができず、本願発明の方法によつてはじめて蒸留法によることが可能になつたのであるから、この点の差異は、本願発明について進歩性を認むべき重要な要素である。審決がこの点に関する着想の困難性を看過したものであることは、明らかである。
3 顕著な作用効果の看過
審決は、本願発明が上述の相違に基づいて奏する次の顕著な作用効果を看過している。
(1) 容易、安価に大量のラクトンを生成することができる。
(2) 毒性を伴うベンゼン抽出法に代え、安全で経済的な蒸留法による目的物の分離が可能となつた。
第3被告の答弁
1 請求の原因1ないし3の事実は認めるが、同4項の主張は争う。
2 次のとおり、審決の判断は正当であつて、審決には、原告主張の違法はない。
1 蟻酸に代えて酢酸を用いることの困難性について
(1) 蟻酸と酢酸の相違
原告は、第1引用例の蟻酸に代えて酢酸を用いることの困難性を主張する根拠として、「蟻酸では、過酸生成の反応が早いので、過酸化水素の残留が少なく、ケトンとの反応の恐れが少ないのに対し、酢酸を用いると、過酸生成の反応が遅く、過酸化水素の残留が多く、それとケトンとの反応が問題となつてラクトンを生成しえないというのが技術常識であつた。したがつて、反応混合物の蒸留ということも考えられなかつた。」旨主張する。
なるほど、酢酸と蟻酸とでは、過酸化水素との反応に際し、反応に要する時間、触媒の必要量といつた反応の最適条件が異なり、同一触媒量では、酢酸の方が反応速度が遅いということは、当業者によく知られた事実である。
しかしながら、蟻酸の場合と酢酸の場合とでは、右のとおり最適の反応条件はある程度相違するものの、それぞれに適した条件を選べば、同様に過酸を生成することも、当業者によく知られており、一般に、過蟻酸、過酢酸の生成反応の場合に限らず、同じ反応性基を持つ近似した化合物に同じ反応を行なわせる場合、反応の最適条件はある程度異なるが、それぞれに適した条件を選べば、同様に目的化合物が得られることは、化学の分野で普通に見られることである。
そして、反応を行なうに当つては、それぞれの化合物に最適の条件で反応させるものであるし、化合物を置き代える場合には、反応条件も合わせて置き代えるというのが、当業者の常識である。
したがつて、第1引用例の蟻酸を酢酸に置き代えるに当り、酢酸の方が蟻酸よりも過酸化水素の生成反応速度が遅いことが知られていれば、当業者ならば、反応時間を長くしたり、触媒量を多くするなど、酢酸の場合に適した反応条件を選んで反応させるものであり、まして、酢酸の場合に適した反応条件を選んで蟻酸の場合と同様に過酸を生成させる技術が前記したように当業者によく知られているのであるから、なおさら、蟻酸の場合の反応条件のままで酢酸の反応を行なうことなど、当業者の思いも及ばないことである。もしそのように反応させるならば、過酸化水素が多量に残留し、それとケトンとの反応が問題となつてラクトンが生成しないということもあろうが、そのような当業者の常識外のことを前記転用の困難性の根拠とすることは不当である。
したがつて、過蟻酸及び過酢酸がいずれも対応するカルボン酸の過酸化水素による酸化によつて製造され、また、いずれも環式ケトンをラクトンに酸化する働きをすることが、当業者によく知られたことであるから、この点を考慮すれば、第1引用例の蟻酸を酢酸に置き代えることに格別の困難性はない。
(2) 過酸化水素の除去
原告は、第2引用例には、酢酸と過酸化水素との反応混合物を蒸留して触媒や有機過酸化物等の不純物を除去することは記載されているが、過酸化水素の除去については記載されていない旨主張する。
しかしながら、第2引用例の「過酢酸、酢酸、水の結合物を与える。」という記載から明らかなように、第2引用例の方法によれば、酢酸と過酸化水素との反応混合物から留出する成分は、過酢酸、酢酸及び水であり、除去される不純物として硫酸触媒と有機過酸化物しか例示されていなくても、過酢酸、酢酸及び水以外のものは、不純物として除去されることを示唆している。そして、第2引用例の蒸留条件は60mmHg、45°ないし46℃であるところ、過酢酸、酢酸及び水の60mmHgにおける沸点はいずれもほぼこの蒸留温度の近辺であるのに対して、過酸化水素の60mmHgにおける沸点は約85℃であつて著しく高いこと(これらの沸点については、当業者によく知られている。)からみても、第2引用例の留出物が過酸化水素を除去されたものであることは明らかである。
この点に関して、原告は、過酸化水素の濃度が低くなれば過酸化水素水溶液の沸点が低くなるところからみて、100%の過酸化水素の沸点と第2引用例の蒸留条件から単純に第2引用例の留出物中には過酸化水素は含まれないと結論することは誤りである旨主張する。
しかしながら、高沸点成分と低沸点成分の混合溶液の沸点は、成分の混合比によつて異なるとしても、いかなる混合比、したがつて、いかなる沸点における場合においても、蒸発してくる蒸気の組成は、残留液に比して高沸点成分が著しく少ないという現象があるのであり、蒸留とは、この現象を利用して混合物を沸点の差によつて各成分に分ける手段にほかならないものである。そうすると、単に沸点のみを問題とし、蒸気組成を無視した原告の主張は、蒸留そのものを否定するものというほかはない。特に、第2引用例におけるように分留塔(蒸留が何回もくり返される。)を用いる場合には、高沸点成分である過酸化水素が低沸点成分である過酢酸、酢酸及び水とともに留出することは殆どないことが明らかである。
原告は、第2引用例には、生成する過酢酸、酢酸及び水の混合物を環式ケトンの酸化に用いることについては記載されていないと主張する。
しかしながら、第2引用例には、生成する過酢酸混合物が「in situ法より広い種々の有機出発物質に適用可能である。」と記載されており、この「有機出発物質」は、過酸によつて所期の化合物に酸化することができる化合物であることはいうまでもなく、そして、環式ケトンが過酢酸等の過酸によつてラクトンに酸化されることは、本願発明の特許出願前当業者によく知られたことであるから、第2引用例で生成する過酢酸混合物が環式ケトンの酸化に利用しうることは、当業者ならば直ちに判ることである。
2 ラクトンの蒸留による分離について
原告は、第1引用例においては、少量のケトン過酸化物が生成することは避けられず、そのため、蒸留により生成ラクトンを分離することができないことは、本願発明の特許出願当時当業者の技術常識であつたと主張するが、根拠がない。
第1引用例及びその原報である乙第1号証の記載を詳細に検討しても、カプロラクトンの分離に当つて「ケトン過酸化物の爆発の危険があるため」蒸留法を採用できない旨の記載は見当らない。
しかも、その乙第1号証には、ラクトンの分離を蒸留法により行なつてもよい旨記載されている。
ただ、乙第1号証には、蒸留法を採用する場合には、減圧薄層蒸発法によらなければならない旨の記載はあるが、その理由としては、ラクトンが蟻酸及び水とともに長時間40℃以上におかれると加水分解される(ホルミルオキシカプロン酸となる。)ためである旨記載するのみであり、そして、カプロラクトンではなく、ホルミルオキシカプロン酸を目的化合物とする実施例(第1引用例のb7行~c3行―乙第1号証の実施例1参照)においては、蟻酸と過酸化水素とシクロヘキサノンの反応混合物を普通に蒸留しているところからみても、第1引用例においては、「ケトン過酸化物の爆発の危険があるため蒸留法を採用できなかつた。」という原告の主張は理解できない。
さらに、原告が引用する甲第7号証をみても、第1引用例の反応混合物(反応したシクロヘキサノンのわずか1%が過酸化物に変つているのみである。)が爆発の危険があるため蒸留できないことを示唆する記載は見当らない。
3 作用効果について
(1) 容易、安価に大量のラクトンを生成することができる、との点について
本願発明の明細書には、本願発明の効果について「本発明によれば、操作の簡易性、安全性、不要の副成物の排除、安定性の向上、転化率の向上を可能としたラクトンの製法が得られる。」(甲第2号証第6欄42行ないし44行)と記載されているのみで、具体的にどのような点を指して、何に比して、どの程度「容易、安価、大量」であるのか明らかではない。
もし、蟻酸と過酸化水素との反応条件で、酢酸と過酸化水素とを反応させれば、過酸化水素が多く残留し、それとケトンとの反応が問題となつてラクトンが生成しえないという原告主張の前記技術常識に比して、容易、安価、大量であるというのであれば、前述したように、そのような技術常識はないのであるから、原告の主張は根拠のないものである。
また、もし第1引用例に比して、容易、安価、大量であるというのであれば、本願発明及び第1引用例におけるラクトンの収率を対比しても、著しい差異があるとはいえないところからみて、根拠のあることとはいえない。
(2) 毒性を伴うベンゼン抽出法に代え安全で経済的な蒸留法による目的物分離が可能となつたとの点について
原告は、第1引用例では困難であつた蒸留法が本願発明において初めて可能となつたと主張するが、第1引用例には、蒸留法が困難であることを示唆する記載はなく、そして、前記乙第1号証には、生成するラクトンを蒸留によつて分離してもよい旨積極的に明記されている。ただ、乙第1号証には、蒸留による場合はラクトンの蟻酸水溶液による加水分解を避けるために、40℃以上に長時間さらされないように落下薄膜蒸発器を使用する等の工夫を要する旨の記載もあるが、本願発明においても、落下薄膜蒸発器を用いるものであり(同第6欄11行ないし16行、第8欄34行ないし43行)、両者に変わるところがない。
なお、原告は、第1引用例では、副生するケトン過酸化物の爆発の危険のために、蒸留分離が不可能であると主張するが、乙第1号証の実施例12から明らかなように、蟻酸と過酸化水素との反応混合物にケトンを加えて反応させた場合、生成するケトン過酸化物は使用したケトンのわずかに1%であり、このように微量のケトン過酸化物の存在によつても蒸留できないことを明らかにする根拠は示されていない。そして、乙第1号証には、前述したように、積極的に蒸留分離できると記載されているのであるから、第1引用例では不可能であつた蒸留分離が本願発明において初めて可能となつたという原告の主張は誤つている。
結局、本願発明は、第1引用例における抽出法を、これと同様に慣用の分離手段である蒸留法に置き代えたに過ぎないものであり、その結果毒性のあるベンゼンを抽出溶媒として使用しなくてもよいとしても、それは抽出法を蒸留法に代えたことによる自明の結果に過ぎないものであり、予期しない効果を奏したものとはいえない。以上のとおりであるから、本件審決は、顕著な作用効果を看過したものでもない。
第4証拠関係
原告は甲第1号証ないし第8号証を提出し、乙号各証の成立を認め、被告は乙第1号証ないし第4号証を提出し、甲号各証の成立を認めた。
理由
1 請求の原因1ないし3の事実は、当事者間に争いがない。
2 そこで、原告主張の審決取消事由の存否について判断する。
原告は、先ず、第1引用例において酸として用いられている蟻酸に代えて酢酸を用いることの困難性を主張する。
過蟻酸と過酢酸とは、ともに代表的過酸として一般的に共通する作用を示すところがあること、両者はともに蟻酸又は酢酸に過酸化水素を反応させて製造すること、環状ケトンが種々の過酸によりラクトンを生成することが、本願発明の特許出願前公知であつたことは、当事者間に争いがない。
ところで、成立に争いのない甲第2号証ないし第6号証及び乙第1号証並びに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。
先ず、第1引用例においてシクロヘキサノン(環状ケトン)と接触する反応成分は、蟻酸と過酸化水素との反応混合物であるから、化学常識からみて、この反応混合物は、蟻酸、過酸化水素及び水が特定の割合で混合している状態にあるとみられる。そして、第1引用例に示された技術には、シクロヘキサノンと右反応混合物とを反応させる工程において、過酸化水素の存在が何らか不利な効果をもたらすものとする観点が全く欠けていたとまではいうことができないとしても、第1引用例には、少なくとも、過酸化水素の存在を、本願発明におけるラクトンの収量改善、爆発性に対する配慮などのように、特定の目的のために避けねばならない重要な素因とする具体的な技術的思想は示唆さえされていないといわねばならない。
そうすると、第1引用例の技術において蟻酸の代りに酢酸を使用することが仮に着想できるものとしても、過酸化水素がラクトンの製法上不利な効果をもたらす重要な素因であることが知られていないのであるから、酢酸と過酸化水素との反応混合物をそのまま使用しないで、本願発明のように、過酸化水素を除去するための蒸留工程をことさら設けることまでもが、第1引用例の記載や蟻酸と酢酸との過酸生成反応の遅速の差等の性質から、容易に推考しえたものとすることはできない。
この点について、審決は、第2引用例に過酢酸を製造するために酢酸と過酸化水素とを硫酸触媒の存在下に反応させ、反応混合物を蒸留して硫酸や有機過酸化物のごとき不純物を含まない過酢酸を製造すること及びその過酢酸をオレフインのエポキシ化などの有機反応に適用できることが記載されているから、本願発明のように酢酸と過酸化水素との反応混合物をシクロヘキサノンと反応させるに先立つて反応混合物の蒸留を行なうことは容易であるとしている。しかしながら、右のような第2引用例の記載が純粋な過酢酸の存在と製法を一般的に示唆するものとしても、前記のとおり、第1引用例の反応において、蟻酸に代えて酢酸を使用した場合に生ずべき、酢酸と過酸化水素との反応混合物中の過酸化水素がもたらす爆発の危険等の致命的な支障を克服するとの技術的思想が含まれているものでも、また、これを示唆しているものでもないから、前記のようにその致命的な支障にかかわる認識が第1引用例になく、また、他に示されてもいない以上、具体的な技術的関連づけに欠けることになり、右第2引用例の一般的な記載を第1引用例の記載にたやすく結合することは当を得ない。
そうすると、過酸化水素を除去するための蒸留工程を設ける本願発明における構成の重要性、ひいては、第1引用例の反応における酸としての蟻酸に代えて酢酸を採用することの困難性に関する原告の主張は理由があり、この点を看過して本願発明を第1引用例、第2引用例の記載から容易に発明をすることができたものとする審決は、その結論に影響を及ぼすべき重要な点において判断を誤つており、その余の点について検討するまでもなく、違法であるから、取消されねばならない。
3 よつて、審決の取消を求める原告の本訴請求を正当として認容するこことし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法第7条、民事訴訟法第89条の各規定を適用し、主文のとおり判決する。
(荒木秀一 舟本信光 舟橋定之)