東京高等裁判所 昭和56年(ラ)256号 決定 1981年7月30日
抗告人
桜井博
右代理人
鎌田久仁夫
相手方
土屋恵美子
主文
本件抗告を棄却する。
抗告費用は、抗告人の負担とする。
理由
本件抗告の趣旨及び理由は、別紙記載のとおりである。
疎明資料及び審尋の全趣旨によつて一応認められる事実は、原決定理由二1(二枚目表二行目から同一〇行目まで)と同一であるから、これを引用する。ただし、原決定二枚目表七行目「そこで」を「昭和五六年一月八日始業式当日、抗告人が学校から自宅へ連れ帰ろうとしたが、その途中再び相手方によつて連れ去られて、以後」と改める。
右事実によれば、当時満一一歳四月及び九歳八月であつた智子及び薫はその自由意思によつて相手方との同居を選んだものとも考えられるが、仮にそうでないとすれば、相手方は、抗告人の右子らに対する親権の行使を妨害しているものと認めなければならない。しかしながら、親権は、子の福祉のためにのみ行使されるべきものであるから、これに対する妨害の排除を仮処分によつて実現することも、もつぱら子の福祉の観点から、著しい損害を避けるためその他その必要があると認められるときに限り、許されるものと解すべきところ、本件において、疎明資料によれば、相手方は、抗告人との離婚に際し子らの親権者を抗告人とすることに同意したものの、元来母として子らに対する愛情自体はこれを失わず、子らを自ら監護することを熱望して前記認定の子の親権者変更の調停の申立をしているばかりか、母としての日常の監護養育にも格別欠けるところはないものと窺われるのであつて、子らの利益の観点からみた場合、さしあたり子らが相手方の監護下に置かれているものの、それが子らに著しい損害をもたらしているとか、あるいは、そのほか抗告人の支配下に子らを復帰させるべき緊急の必要性があることの疎明はない。そして、右の点において緊急の必要性が認められない以上、抗告人の親権の行使が不適切でなかつたか否か、あるいは、終局的に、抗告人と相手方とのいずれが子を監護養育することが、子の利益、幸福のためより適当であるかは、本件仮の地位を定める仮処分の必要性の判断にあたつて考慮すべきことではなく、これらの事情は、子の引渡請求の本案訴訟において引渡請求が親権の濫用にあたらないか否かの判断にあたつて考慮され、又は、子の親権者の変更の審判においてその変更の当否の事由として判断されるべきことであると解される。そのほか、抗告理由主張の諸事情を検討しても、本件仮処分にその必要性があることを認めるに足りない。
なお、抗告人らの予備的申請の趣旨(親権行使妨害に係る不作為命令請求)について付言するに、現に抗告人は智子及び薫の親権者であり、相手方は親権者ではないのであるから、一般的にいえば、相手方は抗告人の親権行使を妨害してはならない立場にあるといわなければならない。しかしながら、親権行使の内容、態様は子の福祉のためにする広範で非定型的なものであるところ、本件の場合未だ子らの引渡断行を認める仮処分の必要性を認め難いことは前段説示のとおりであり、この子の引渡しの点以外の部面においては、母としての相手方の所為の中に親権の行使と重複するものがあるとしても、直ちにそれを抗告人の親権行使の妨害とはいえないことが多いと思料される。したがつて、単に「親権行使を妨害してはならない。」との主文の仮処分命令は、いたずらに執行に困難を来すのみで具体性を欠くものといわざるを得ないから、抗告人の前記予備的申請は、この点からも失当であることになる。
そうすると、抗告人の本件各申請を保全の必要性を欠くものとして却下した原決定は相当であつて、本件抗告は、理由がないから、これを棄却し、抗告費用の負担につき民事訴訟法第九五条、第八九条を適用して、主文のとおり決定する。
(沖野威 内田恒久 野田宏)
〔抗告の理由〕
一、抗告人と相手方は昭和五四年五月三〇日協議離婚し、その際子供二人(抗告の趣旨記載にかかる桜井智子、桜井薫、以下智子、薫と略称する。)の親権者を抗告人と定め、以後抗告人が右二人を看護養育して来たものであるが、昭和五五年一二月二六日右子二人は相手方の指導誘導に基き家を出、相手方宅に赴き、その後相手方によつて相手方の実家である土浦市小松に連れ去られ、相手方は抗告人からの再三にわたる引渡請求に応じなかつた。昭和五六年一月八日新学期が始まつた。子らの就学する東玉川小学校においては、当然、子は親権者である抗告人の看護養育に服せしむべきものとし、下校の際子らは抗告人に引渡された。よつて抗告人は子らを連れ帰宅の途についた。ところが、自宅近くまでくると相手方がタクシーで追いかけて来て路上で子供を渡せ、渡さないでもみ合い騒然となり、近所の人々も集つて来たため、抗告人がやむなく子らの手をゆるめたところ、相手方は無理矢理タクシーの中に子らを押し込んで連れ去り、以後今日に至るまで子らを不法に拘束し、抗告人の親権の行使を妨害しているものである。しかして、智子はこの四月から六年生、薫は五年生となる。従つて、抗告人は親権者とし、子らをその膝下におき、充分話合いを行い、子の一生の方針を決定し、同人らの進路に誤りなきを期して、養育看護を尽さねばならない緊急の事態に遭遇しており、これは一日を争うものであり、小学校に通学し得ることが重大なことは勿論であるが、進路問題は一生の問題であつて、これと比肩し得る程重大なことといわなければならない。しかして、家裁の手続は今後とも長い月日を要し、右の如き緊急事態に適切に対応し得ないので、右緊急事態に基く権利確保のためには仮処分以外の方法がなく、そこで抗告人は親権に基く妨害排除請求権を被保全権利とし、本件仮処分の申請をしたものである。
二、しかるところ、原裁判所は次の理由により抗告人の仮処分申請を認めなかつた。
1 子らの家出は、長女智子が弟の薫を誘つて母親である債務者を慕つて家出したと見るのが相当であり、債務者が何らかの手助をしたのではないかという疑いもないわけではないが、積極的に働きかけたり、自分で出向いて連れ出したものとは考えられない。子二人は一月の冬休み明けに一週間程度学校を休んだが、その後は通学しているので、その面の心配は少ない。
2 親権者変更の問題は家裁の判断に待つことになるが、その場合債権者が今後引続いて親権者となることが確実であるともいえない。従つて、この段階で子二人を強制的に債権者のもとに返し、あるいは仮処分の方法で裁判所が介入するのは相当ではない。
三、しかしながら、右理由はいづれも不当不法であり、当然取消を免れないものである。即ち、
1 もともと親権の可否の認定は家裁の専権に属するが故に、子に対する虐待等一見明白に親権者として不適任と認め得ない限り、仮処分裁判所はこれが可否につき判断すべきでないし、もとより疑問を有する等のあいまいな判断などなすべき筋合のものではない。
原審裁判官は親権変更の可否は家裁で双方が充分証拠を提出し判定すべき問題であつて、本仮処分においては親権が債権者にあることを前提とし、保全の必要性のみを検討すると明言され、抗告人も当然の事理を表明したものとし、この趣旨に従い疎明資料を提出した。即ち、現に離婚の際当事者により子の親権者を抗告人と定め、右以後抗告人がその親権を行使し、懸命に子の養育看護を尽していることが疎明されている限り、仮処分裁判所はその親権の可否等の重大事項に関し、軽々しくこれを判断したり、これに疑問を投げかけたりすべきものではなく、現に親権者と定められている者に親権がありとして、その妨害排除請求権の必要性のみに関し判断すべきである。審尋の段階において、前記の如く当然の事理を明かにして事件を進行させた以上、抗告人が母親幾子等の援助を受け、懸命に子の看護養育にあたつて来たことが充分疎明されている本件においては、前項2の如き「債権者が今後引続いて親権者となることが確実であるともいえない」等の憶測的判断などなさるべき筈のものではない。要するに、右の点に関する原審認定は全く不法失当のものというほかない。又、抗告人が子を虐待した事実は全くなく、相手方が主張する食事抜き等の制裁は次頁以下に記す躾の範疇の問題に過ぎない(尤も、これとて一、二回のことに過ぎない。)。
なお、一〇歳程度に過ぎない智子、薫にいづれの看護に服すべきかの重大事項を判断し得る十分な意思能力があるといえない(判例時報六五一号八四頁東京地裁昭四六(人)四号民事第九部判決)から同人ら自身にかゝる疎明資料には証拠価値は乏しく、右によつて親権行使不適切と判断されるべきものではない。
2 子にとつて父親に比し母親の方がよりやさしい存在であることが一般的である。従つて、通常離婚に際しては母親が親権者となる場合が多かろうが、本件においては、母親はこの通例に従わず、父親を親権者とすることに合意し、あえて、離婚したのであつて、このことは父による家庭教育の方が子にとつて幸福との相手方の判断が内包されているものと解さなければならない。ところで、子の看護養育ということは只単に子にやさしく接し甘やかせばよいというものではない。未完成な子を立派な社会人として育てあげるため、それ相応の躾は子の看護上必要不可欠の要素といわなければならない。抗告人が父親として子に対してなして来た躾は、あるいは兎角子に迎合し勝ちな最近のパパ、ママ像を基準として考えれば、幾分きびしいものであつたといゝ得るかも知れないが、抗告人がかかる躾を実行して来たのは、抗告人自身が同様に親から、きびしく躾られたことを現在深く感謝しており、それが正しい子の教育方法と信ずるが故のことであつて、それ以外の何物でもない。
虐待等のことではなく、あくまでも愛情に基くやむにやまれぬ鞭と理解しなければならないものである。
ピアノのレッスンを一時やめさせたのも、そのレッスン先が子の教育上好ましくないと判断したからであつて、一月からは他の教師のレッスンを受けさせることとし、この事実は一二月中に智子に告げられているのである。
相手方も抗告人に子の教育を一任した以上、抗告人の教育方針を理解し、これに協力しなければならない筈のものである。
3 しかるに、相手方は離婚後も抗告人にかくれて、親しかつた智子の同級生の母親福井帛代、前田某等の援助を得、智子との接触を重ね、同人が父親から離れるよう指導、誘導を重ねて来ており、一月八日抗告人が薫から聞いたところによれば、一二月二六日智子に連れられて薫が相手方宅に行つたときには既に子供用の二段ベットが用意されていた程であつて、もともと五年生程度の子供が、全く自己のみの意志で家出等をなし得る筈はなく、相手方が拉致したとの非難をさけるため、正に用意周到に打合せをなし、準備をした上決行されたものというほかないものである。若し、そうでないとすれば、何故に前日の夜、抗告人と子二人の三人で楽しいクリスマスの夕がもち得たのか、全く合理的解決が不可能とならざるを得ないからである。
表面的事象からだけ判断し、相手方が積極的に働きかけたりしたことはないと認定したことは事実誤認も甚しい。よろしく裁判官は事実を見通し事実の認定をしなければならない。
4 原決定は現に子が通学している点をとらえ、その面での心配は少いと認定している。抗告人は審尋の際、実力をもつて解決したらに近い示唆を受けたことがあつたが、あえて子の幸福のため、これをなさず、法に基き裁判官の命令を得て、これを行うことが一番子のためであると考え本件申請に及んでいるのであつて、抗告人は、若し、命令なくして実力をもつて引致等すれば、非常識な相手方故、又々相手方との間に大紛争となり、子の通学すら不可能とならざるを得ないことをおそれているのであつて、抗告人にこの自制心があるからこそ、子の通学が確保されているのである。従つて、原決定にいう通学の心配が少いことは決して、本件仮処分の必要性を希薄ならしめているものではないのである。なお、子の看護養育は、子を通学させればそれでよいというものではない。前記2で明かにした如く、家庭における正しい躾が不可欠であるところ、相手方ではこれが不可能(夜の勤務、その他)であり、その上進学問題もあり、子の一生の方針を定めなければならないという重大な時期に遭遇しているのである。要するに、この点においても、原決定の認定は正しく本件仮処分の必要性を判断していないものといわなければならない。
5 更に、原決定は抗告人の一月八日相手方は実力を行使し、子をタクシーで連れ去り、以後今日に至るまで抗告人の親権の行使を不法にも侵害しているとの主張を全く度外視し、この点に関し何らの判断も示していない。仮りに百歩を譲り原決定のいうとおり一二月二六日智子らが母親を慕つて家出したとしても、一月八日学校の先生の指導もあり、子は抗告人の処に戻つたのである。従つて、この時点で一二月二六日の家出は単なる過去の事情となつたというほかなく、一月八日相手方が故なく子を拉致したものであることは明白である。(大塚修司手記)しかりとすれば、相手方の積極的親権妨害行為は明らかであり、抗告人の求める仮処分は当然認可されて然るべきものと確信する。
四、以上の理由により原決定は取消され、抗告人の申請は容認されなければならない。