東京高等裁判所 昭和57年(う)163号 判決 1982年11月10日
被告人 岡田光生
昭八・一一・三生 無職(元医師)
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人中村巌、同三宅陽連名の控訴趣意書及び同補充書並びに弁護人伊達秋雄、同小谷野三郎及び同虎頭昭夫連名の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官宮本喜光名義の答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これを引用する。
弁護人中村巌、同三宅陽の控訴趣意書第一(事実誤認及び法令適用の誤りの各主張)について
所論は、要するに、原判示第二の事実につき、(1)被告人は二回にわたつて確定申告書の提出に関する期限延長の申請をしたところ、淀橋税務署長はそのうち第二回の申請に対してのみ棄却の決定をしているから、昭和五四年四月一五日までの延長を求めた第一回の申請についてはその申請どおり黙示に延長の決定をしたことになり、法定の提出期限が延長されているのに、延長がなされなかつたとして法定の提出期限を徒過したと認定した原判決には事実の誤認があり、(2)被告人の右提出期限延長申請の理由とするところは「災害その他やむを得ない理由」に当るのに、これに当らないと判断した原判決は、国税通則法一一条の解釈適用を誤つており、(3)仮に提出期限延長の決定がなかつたとしても、被告人としては、第一回延長申請に対しこれを拒絶する応答がないので提出期限が延長されたものと信じていたから、提出期限を徒過して脱税する犯意がなかつたのに、被告人に右犯意を肯定した原判決には事実の誤認があり、(4)更に、そうでなくとも、税務署側には被告人の延長申請に対する決定を放置するなど信義誠実の原則及び禁反言の原則に反する事情があつて、被告人の法定提出期限の徒過について刑罰をもつて責任を問うことはできないのに、右各原則に反する事情を否定し、被告人の有罪を認定した原判決には事実の誤認及び法令適用の誤りがあり、これらの誤りはいずれも判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。
そこで、調査すると、原判決挙示の関係各証拠を総合すれば、所論指摘の各点を含めて、原判示第二の罪となるべき事実の認定は、優にこれを是認でき、原判決には所論の法令適用の誤りもないうえ、原判決が(補足説明)として説示するところは、正当としてこれを肯認することができる。
まず、所論(1)について検討すると、被告人がいずれも妻艶子を介して所轄の淀橋税務署長に対し、昭和五三年分の所得税確定申告書の提出に関する期限を、昭和五四年三月一〇日には同年四月一五日まで、同年四月一〇日には同年六月一五日までそれぞれ延長するように申請したこと、同税務署長が明示には同年五月二一日付の書面で右第二回の延長申請を棄却する旨の通知をし、第一回の申請に対しては応答を与えていないことが認められる。ところで、所得税確定申告書の提出等に関する期限の延長について規定する国税通則法一一条によれば、所轄税務署長は、同条所定の災害その他やむを得ない理由により期限までにそれらの行為をすることができないと認めるときは、その理由のやんだ日から二月以内に限り当該期限を延長することができるとされているに止まつているのであつて、法人税法七五条五項のような、却下の処分がなかつたときは期限の延長がされたものとみなす旨の規定が設けられていないから、所得税確定申告書の提出に関する期限については所轄税務署長の延長の決定がなされてはじめて延長の効果が生ずると解するのが相当である。したがつて、所轄税務署長が提出期限延長の申請に対し何等の応答を与えなかつたことによつては、黙示に申請どおりの延長決定をしたと見ることができないのはもとより、当該提出期限延長の効果が生ずると解する余地はなく、右の延長の効果が生じていることを前提とする所論は採用できない。
次に、所論(2)及び(4)について、(証拠略)によると、被告人が昭和五四年二月八日医師法違反容疑により逮捕され、以後同年四月一八日に保釈されるまで拘束されていたこと、被告人が当時の弁護人の示唆により「医師法違反の疑いにより身柄拘束のため、診療カルテ、仕入れ及び支払書等押収されたため」との理由及び同旨の理由を付し、前記のとおり二回にわたり確定申告書の提出期限の延期申請をしたこと、所轄税務署係員が右第一回の申請の際、岡田艶子に対し「一応受けますが上の人が判断することなので、どうなるかわかりません。何かあつたら電話で連絡します。」旨説明したこと、同署係員から被告人の側に何等連絡がなく、被告人側からも、それ以上に当時の弁護人その他専門家に相談もせず、税務署に照会もしないで、三月一五日が経過したこと、第一回の申請前に医師法違反容疑の証拠として、被告人から診療録等が押収されていたものの、既に右押収前で第一回捜索の後に被告人自身により多数の診療録が廃棄されていて、右押収そのものにより実際所得額の把握が特に困難になつたとはいえないこと、被告人に実際所得額のすべてを開示する意思があれば、事業収入を源資とする仮名預金通帳・国債・債券等の所在を明らかにして、専門家に確定申告を委任するなどの方法があつたこと、被告人は、事件が脱税問題に波及するよう報道され、これまでと同じ程度の虚偽過少申告では通用しないと思いつつ、反面すべての所得を開示して正確な確定申告をする決意にまではいたらず、その対策を考慮する余裕を得る目的で右提出期限延長の申請をしたことを認めることができる。以上の事実に照らすと、被告人の提出期限延長申請の真の目的は、もともと正しい確定申告書の提出をすることにあつたとは認められず、税務署に通用する虚偽過少申告の方策を考え出す余裕を得ることにあつたといわざるを得ないのであり、正しい確定申告書を提出するためには、被告人が提出期限延長の理由とした被告人の身柄拘束や書類の押収が別段妨げにはならず、他に有効な方法が残されていたことが明らかであるから、被告人の各提出期限延長申請を容れ、提出期限を延長しなければならない「災害その他やむを得ない理由」があつたとは到底認められない。なるほど、税務署係員の事務処理には、期限延長申請書を受け取りながら、延長の決定があつてはじめて提出期限が延長される旨を明確に教示せず、決定の提出期限までに何ら連絡をしなかつた点でその対応に適切さを欠いた点があつたと認めざるを得ないけれども、この対応の不手際が被告人の刑事責任の帰すうに影響しないことも明らかである。その他所論にかんがみ記録を検討しても、所論のように、法定の提出期限を徒過したことについて、被告人に対し刑事責任を科するのが相当でないと認めるべき事由があつたとは認められない。原判決にはこの点に関し何ら事実の誤認も、法令解釈適用の誤りもないから、所論(2)及び(4)は採用できない。
更に、所論(3)についてみると、被告人には、昭和五三年分所得税確定申告書を提出すべき所得があつたことの認識、その法定の提出期限が昭和五四年三月一五日であることの認識及び確定申告書を提出しないでいるうち、右期限が経過したことの認識があつたことは、関係証拠により明らかであるから、法定の提出期限徒過による不申告の事実について、被告人の認識に欠ける点はない。所論は、結局右提出期限延長申請に税務署長からの応答のないことを根拠として、被告人において、提出期限延長の法律効果が生じているものと信じたというのであり、提出期限延長に関する法律解釈の錯誤を主張するに帰するところ、被告人にそのような法律の錯誤があつたとみて、関係証拠を検討しても、右法律の錯誤が被告人の犯意を阻却すると解すべき特別の事情を見出すことはできないから、所論(3)は採用することができない。
以上のとおり、原判決には所論のような事実の誤認及び法令適用の誤りはなく、論旨はいずれも理由がない。
弁護人中村巌、同三宅陽の控訴趣意第二及び弁護人伊達秋雄、同小谷野三郎、同虎頭昭夫の控訴趣意(量刑不当の主張)について
所論は、要するに、原判決の量刑は、被告人に懲役刑の執行を猶予しなかつた点で、重過ぎて不当である、というのである。
そこで調査すると、本件は、当時医師であつた被告人が医業による事業所得を秘匿し、昭和五二年分につき実際額が一億三四八五万五五六八円である総所得を九九万一一七七円とし、所得税額が零であり、むしろ源泉徴収税額四五七三円の還付を受けるべきことになる旨の虚偽過少の確定申告書を提出して正規の所得税額八五三五万六一〇〇円に右還付申告額を加えた八五三六万六〇〇円(端数処理)を免れ、昭和五三年分につき実際総所得額が三億四〇一六万八二三六円であるのに、法定の提出期限までに確定申告書を提出しないで、期限を徒過し、所得税二億三九五五万円を免れたという事案であるところ、本件の犯情は、原判決が(量刑の理由)として詳しく説示するとおりであり、本件の逋脱税額が合計三億二四九一万六〇〇円に達し、巨額であり、確定申告書に記載の洩れていた源泉徴収税額を除くと、所得税額全部を逋脱したものであること、被告人は、本件当時医師として社会の指導層に属し、地位・収入等の面で社会から多大の恩恵を受けながら、社会への利益還元の一つである納税の意識が極めて低く、脱税のための収入秘匿を日常継続して実行していたこと、すなわち、被告人は、その主要な収入である自由診療報酬(このうちには後記の医師法違反の行為による収入も含まれている。)を毎日自宅に持ち帰り、金額と対照した後直ちに計算書を廃棄し、右報酬金を多数口の仮名口座等に預金し、又は国債・債券を買い入れるのを常としていたこと、昭和五二年分の確定申告では過納付による還付申告をしていること、昭和五三年分の法定の提出期限徒過には、所轄税務署の対応の不手際も加つているけれども、被告人は、もともと同年分についても正しい納税をする意思がなく、自ら延長を求めた期限までにも確定申告書を提出せず、法定の提出期限から約五か月後の昭和五四年八月一七日にした確定申告でも欠損が二一四九万円余りあるとする虚偽過少の申告をしているのであつて、税務署の不手際が同年分の被告人の脱税の犯情を軽くする事情になるとはいえないこと、被告人が原判示確定裁判にかかる医師法違反により懲役二年、三年間執行猶予に処せられていること(右判決の確定日昭和五四年一一月二一日)及び脱税事犯が申告納税制度の健全な発展を阻害しかつ国庫の基盤を危険にするばかりでなく、国民大衆の税に対する公平負担を害する反社会性の強い犯罪であることに徴すると、被告人の刑事責任は重大であるといわなければならない。そうすると、被告人が脱税した所得税の本税付滞税及び関連地方税並びに修正申告にかかる他年分所得税等合計五億五五六一万円余りを納付したこと、このために親から三〇〇〇万円を借り受けたほか、資産の大部分を失つたこと、被告人が前記医師法違反のため医師免許を取り消されたこと、被告人が本件を深く反省し、神社清掃・社会福祉活動等の社会奉仕に努めていることその他所論の指摘する被告人の健康状態・家庭の状況等の諸事情を被告人の有利に十分斟酌しても、本件は懲役刑の執行猶予を相当とする案件ではなく、被告人を懲役一年六月及び罰金五〇〇〇万円に処した原判決の量刑が重過ぎて不当であるとは認められない。論旨は理由がない。
よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 海老原震一 和田保 杉山英巳)