東京高等裁判所 昭和57年(う)65号 判決 1983年6月22日
本籍《省略》
住居《省略》
建材業 塚本育五郎
昭和一〇年一一月三〇日生
<ほか一名>
右被告人塚本育五郎に対する傷害、殺人、脅迫、銃砲刀剣類所持等取締法違反、同永井喜世に対する傷害、殺人各被告事件について、昭和五六年一一月一八日水戸地方裁判所下妻支部が言い渡した判決に対し、被告人(塚本)及び弁護人(永井)から控訴の申立があったので、当裁判所は、検察官渡邉正之、同山中朗弘出席のうえ審理を遂げ、次のとおり判決する。
主文
原判決中、被告人塚本育五郎、同永井喜世に関する部分を破棄する。
被告人塚本育五郎を懲役一年二月に処する。
同被告人に対し、原審における未決勾留日数中、右刑期に満つるまでの分を、その刑に算入する。
同被告人から押収してある切出しナイフ一丁を没収する。
同被告人に対する本件公訴事実中、岩田徳次に対する傷害及び殺人の点について、同被告人は無罪。
被告人永井喜世は無罪。
理由
本件各控訴の趣意は、被告人塚本育五郎の弁護人高瀬孝男作成名義の控訴趣意書及び被告人永井喜世の弁護人荒川正三郎、同羽石大共同作成名義の控訴趣意書(一)(二)に、これらに対する答弁は検察官山中朗弘作成名義の答弁書に、それぞれ記載されている通りであるから、これらを引用する。
控訴趣意中、原判示第一、第二の両事実につき、任意性のない塚本・永井両被告人の自白調書を採用して有罪の証拠とした訴訟手続の法令違反及び事実誤認を主張する点について
所論は、要するに、任意性のない塚本・永井両被告人の各自白調書を採用し、任意性、信用性のない両被告人の自白調書及び信用性のない小嶋周一の証言、Hの検察官に対する供述調書に基づいて、塚本・永井両被告人を原判示第一、第二の岩田徳次に対する傷害及び殺人の各事実(以下本件又は本件事実という)につき有罪と認め、信用できるアリバイ証人(丸山健次、冨山信昭、永田晴美、G子、工藤加代子、A子、I子)の各証言及び右被告人両名の否認供述によって無罪としなかったのは事実を誤認したものである、というのである。この点こそ、本件の中心的争点であるから、以下、一件記録及び関係証拠により、先ずこの点について判断したい。
一 本件公訴事実の要旨
第一 被告人塚本育五郎、同永井喜世は、小嶋周一と共謀のうえ、昭和五二年六月二五日午前一時三〇分ころ、結城市《番地省略》スナック「チェリー」ことA子方店舗内において、岩田徳次(当四四年)が「おれハジキ持っているんだ、おれにさからうとぶっ放すぞ。」等と怒号しながらからんできたのに憤慨し、同人を同店前路上に連れ出し、こもごも同人の顔面腹部等を殴打足蹴りしたうえ、突き飛ばして大谷石塀に後頭部を打ちつける等の暴行を加え、よって同人に対し全治約一ヶ月以上を要する脾臓破裂、右腎臓出血、両肺出血等の重傷を負わせた。
第二 さらに、被告人塚本育五郎、同永井喜世は共謀のうえ、前記傷害により意識不明の右岩田を走行車両に撥ね飛ばされて死亡したものの如く装って殺害しようと企て、前同日時ころ、同所から約一二二・八メートル離れた同市大字上山川乙二七六番地先車道上まで引きずって行き、同所において、同人の頭頂部を歩車道の境にある高さ〇・二五メートルの縁石に激突させ、よって同人を頭頂部の打撃による頭蓋底骨折、脳挫傷により死亡させて殺害した。
二 事件の発生と本件捜査の経過
昭和五二年六月二五日午前一時五三分、結城警察署に、茨城県結城市《番地省略》所在のスナック「チェリー」の手前で男の死体を発見した旨の女の通行人による一一〇番通報が入り、倉持栄芳による第二報が午前二時二分に入った。
結城署ではひき逃げの疑いで現場へ急行し、午前二時二〇分ごろから実況見分を始めた。
現場は、「チェリー」から北(結城市街、下館市方向)へ約一二〇メートル離れた道路上であり、道路東側の歩車道の境界として設置された縁石(高さ二五センチメートル)の上に頭をのせた岩田徳次(当時四四才)の死体が発見された。死体は頭部を縁石にのせ、顔を下にして口から上を歩道側に出し、両足を車道中央に向け、縁石に対しほぼ直角に倒れ、腰から「く」の字になって体は上半身をうつ伏せにし右足を下にするように右半身の形で倒れており、口と鼻から多量の出血が見られ、流出した血液は縁石から歩道側に流れていた。降雨中であり、着衣(小豆色ジャンパーに茶色格子ズボン)もぬれていたが、死体はいくらかのぬくもりを感じる程度であった。死体の近くに真新しいタイヤ痕があったが、死体にはタイヤ痕など交通事故死を示すものはなかった。
死体から結城市街方向に一・九〇メートルの地点から五・二〇メートルの地点まで縁石の内側上部及び内側に何かでこすった感じの形跡があり、表面の付着物がなくなっていた。その方向は結城市街方面(南方)に向けてこすったと認められる。死体から〇・五三メートルの地点から岩井市方面に〇・二七メートルの長さで縁石内側表面の付着物が円形部から次第に左上部に流れるようにして取れている。死体から岩井市方面に一・〇二メートルの地点から長さ〇・二〇メートルで縁石内側に二本の何かでこすった跡があり、表面の付着物がなくなっていた。死体から結城市街方面に二・九〇メートルの地点から四・七〇メートルの地点にかけて外側線上部表面の汚れがなくなっており、その方向は結城市街方面から岩井市方面と認められた。
「チェリー」の前付近に岩田徳次のぞうりが散乱していた。また、「チェリー」前やや南方の西側の縁石上部に自動車が乗り上げた形跡のある破損個所があり、その近くに永井喜世の自動車運転免許証が落ちており、付近に所有者不明の帽子も落ちていた。
死体解剖の結果は、死亡推定時刻午前一時前後、身長一七二センチメートル、胸囲八二センチメートル、腹囲七〇センチメートルで、死体の損傷は
1 頭頂部の打撲擦過、頭頂部・後頭部皮下出血、硬脳膜下出血、頭蓋底骨折、脳挫傷
2 右頬部の擦過創、鼻部打撲、鼻軟骨々折、鼻出血、口唇の軽い咬傷
3 頸部気管内血液の吸入、舌骨後面の出血
4 上胸部及び右鎖骨右第三助骨部の擦過傷と皮下出血、肺挫傷
5 左側腹部の皮下出血及び脾臓破裂、噴門部後膜下出血、右腎実質内出血、右肘部背側手背の擦過傷、左大腿膝足背の軽い擦過傷皮下出血、右膝足趾の軽い擦過傷であり、死因となったと思われるのは1の頭部の損傷であり、その外傷は頭頂部に垂直に強い力が加わり、第一頸椎が脳底に強打しほぼその型に脳底が複雑骨折を起こしている。この骨折は強度で、受傷時骨折と同時に脳幹部に力が加わり、ショック状を呈し死に至るものと思われ、ほぼ即死状態を呈したものと思われる。頭部の変化は頭頂部に打撲擦過傷があり、やや表面があらい平らなもので強打又は強く打ちつけられたものと推定される。胸部及び腹部の損傷は足で蹴られ又は手で強打されてできた可能性が強い、とされた。
岩田の着ていたズボンの両膝が破れており、死体の傷跡からも、引きずって行ったと思われる状況にあった。
六月二六日の実況見分の結果、「チェリー」の前北側にある大谷石塀(高さ約一・二八メートル)の角や下付近、同店出入口のドアの横の板壁等に毛髪様のもの数本が発見された。
六月二八日施行のルミノール検査により、ルミノール反応が右大谷石塀の上や、その前の路上や死体現場の縁石の切れ目までの歩道上及び右切れ目から車道上縁石寄りに北方へ向かう発光個所(全長四二・一〇メートル)が発見され、死体現場及び大谷石塀上のものは血痕、大谷石塀前のものは人血と証明された。
そして、被害者岩田がその夜前記「チェリー」で飲酒していたところから、六月二五日午前中から、実況見分当時「チェリー」前路上の自動車の中で寝ていた小嶋周一(その夜「チェリー」の客でもあった。)、H、免許証を落し前夜「チェリー」で飲酒していた被告人永井喜世(結城市《番地省略》で板金塗装業経営)、「チェリー」を経営している被告人塚本育五郎、A子夫婦らの取調べが始まった。
塚本被告人は、同日別件傷害事件(原判示第三、一、二の事実)で逮捕され、小嶋と永井被告人は、同日夜一旦帰宅を許されたが、翌二六日も任意出頭により朝から取調べを受けた。
小嶋は、六月二五日から本件公訴事実第一に沿う共謀による傷害の事実を自白し、その後「チェリー」へ入ったので後のことは知らないと述べ、塚本被告人の甥のHが、翌二六日、「チェリー」前での三人の共同暴行及び小嶋はその後「チェリー」へ入り、塚本・永井両被告人が岩田を両脇にかかえて北の方へ引きずって行ったことを自動車の中から目撃した旨供述し、小嶋と永井被告人は、同月二六日午後九時ごろ共謀による殺人の事実(後掲)で緊急逮捕された。塚本被告人も、同月二七日改めて同事実により逮捕された。
三名は、その後勾留されて(塚本被告人は結城署、永井被告人は下館署)接見を禁止された。塚本被告人は、否認していたが、七月一日一部(傷害のみ)自白、翌二日から再び否認したが、七月六日以降自白し、永井被告人も、否認していたが、七月一〇日自白、翌一一日から再び否認したが、一五日以降自白し、七月一七日塚本・永井両被告人は本件公訴事実で起訴され、小嶋は本件公訴事実のうち傷害のみで起訴されるに至った。
本件捜査の経過を見ると、捜査官は、小嶋の自白により、本件は数多くの粗暴犯の前科を持つ塚本被告人主導下の兇行であるとの見込みをたて、Hの目撃供述が得られた段階からは、本件殺人が塚本・永井両被告人によるものであるとの強固な確信を形成し、その方向に強力に捜査を推進して行ったものと考えられる。
なお、塚本被告人は、別件傷害、脅迫、銃砲刀剣類所持等取締法違反事件につき、同年一二月二九日追起訴された。
三 本件被疑事実の要旨
逮捕状及び勾留状に記載された本件被疑事実の要旨は次の通りである。
被疑者である小嶋・塚本・永井三名は共謀のうえ、昭和五二年六月二五日午前一時三〇分ころ、被疑者塚本育五郎の妻A子の経営する結城市《番地省略》スナック「チェリー」店内において、結城市《番地省略》岩田徳次四四才がA子や居合せた被疑者小嶋周一に対して、「おれハジキ持っているんだ殺してやる。」「おれ暴力団員を知っていんだ。」などと暴言を吐きながらからまるので、同人を店舗前に押し出したが、さらに暴言を吐くことに憤慨し、同人を殺害せんとして、同人を手拳で殴打、足蹴りあるいは同店前の大谷石塀に頭部をぶつけるなどして、同時刻ころ同所において頭蓋底骨折により死亡させ殺害したものである。
四 原審の審理経過と原判決の要旨
第一回公判以来、小嶋は岩田に対する傷害の事実を認め、塚本・永井両被告人は本件公訴事実を否認し、第五回公判以降塚本被告人に対する別件傷害、脅迫、銃砲刀剣類所持等取締法違反事件が併合審理された。
昭和五三年六月二一日の第一〇回公判期日において、原裁判所は、アリバイ証人等を含む被告人側の証拠申請をすべて却下し、原審弁護人らから忌避申立がなされたが、同年七月一二日右忌避申立は取り下げられ、同日の第一一回公判期日において、アリバイ証人若干名が採用されるなどのことがあり、昭和五四年八月七日原裁判所で発生した火災により、公判調書(供述群)を除く一件記録が焼失したため、検察官及び原審弁護人からコピー等の資料の提供を受けて記録が再製され、異議なく審理が続けられた。
原審は、昭和五六年一一月一八日、被告人両名につき本件公訴事実を有罪と認めて、次の通り判決した。
第一 被告人塚本育五郎は茨城県結城市《番地省略》所在のスナック「チェリー」経営者A子の夫、被告人永井喜世、同小嶋周一は同スナックの馴染み客であるが、昭和五二年六月二五日午前零時ころ、酔余右スナックに入って来た岩田徳次(当時四四歳)が「俺はピストルを持っている。俺にさからうとぶっ放すぞ。」「五郎はいないか。五郎を出せ。」などと言いながら執拗にからんだため、同日午前一時三〇分ころ、被告人小嶋において右岩田を店外路上に連れ出してなだめたものの、なおも同人がつきかかって来る気勢を示したため、被告人らは憤慨し、ここに共謀のうえ、被告人小嶋において岩田の胸倉を掴み、同人の太股を足蹴りし、被告人永井において同人の太股を足蹴りした上、その顔面を右手拳で殴打し、被告人塚本において同人の下腹部を膝蹴りし、顔面に頭突きを加えた上、手拳で顔面を殴打し、前記スナック前の大谷石の塀に同人の後頭部を打ちつけるなどの暴行を加え、よって、同人に対し、全治一か月以上を要する脾臓破裂、噴門部後腹膜下出血、右腎臓内出血両肺挫傷等の傷害を負わせた。
第二 更に、被告人塚本育五郎、同永井喜世は前同日時ころ、右第一記載の傷害により意識を喪失した右岩田を、前記スナック前路上から約一二二・八メートル離れた同市大字上山川乙二七六番地付近路上まで引きずって行き、右傷害事件を隠ぺいするため、同人を交通事故によって死亡したもののように装って殺害しようと企て意思相通じてここに共謀の上、同所において仰向になっている岩田の左側から被告人塚本が、左手で岩田の股の辺りを、右手で頭の下辺りを、さらに右側から被告人永井が、右手でその股の辺りを、左手で肘の辺りを持って持上げ、共に反動をつけて同人の頭頂部を歩車道の境界として設置された高さ二五センチメートルの縁石に激突させ、よって、そのころ同所において、同人を頭蓋底骨折、脳挫傷により死亡させて殺害した。
小嶋は第一事実につき有罪となり確定した。
以上を前提にして、以下、小嶋供述、H供述の信用性、塚本・永井両被告人の自白の任意性と信用性、アリバイ関係証人の供述の信用性の順に検討を加えることとする。
五 小嶋共述の信用性について
原審相被告人小嶋周一の供述は、本件捜査の出発点であり、その基礎をなしている。
原判決は、小嶋証言の信用性についてなんら説くところがないが、原審が同証言の信用性に疑問を持たなかったことは、原判決自体から明らかである。
同人が本件犯行に関与していることは、同人が終始一貫岩田に対して暴行を加えたことを認めていること、同人の上衣の袖に血痕がついていたこと(H証言、昭和五七年七月九日付捜査報告書、以下57・7・9<捜>の如く略記)などから明らかであり、同人の供述はこの点からも慎重な検討を必要とする。
原判決が証拠とした小嶋の原審証言の要旨は次の通りである(以下年度の表示のない場合はすべて昭和五二年を示す)。
「六月二四日午後九時過ぎごろHと友人宅で飲酒した後、Hの自動車(カローラ)に乗って『チェリー』へ行った。店内に客はなく、塚本とA子がいるだけであった。Hは酔って気持が悪いと言ってビールを少し飲んだだけで車へ行って寝たようである。午後一〇時ごろ塚本が店からいなくなった。午後一一時近くごろ顔見知りの永井が来た。午後一二時ごろ初対面の岩田徳次が連れ(同人の弟岩田功)と一緒に入って来た。連れは間もなく帰った。岩田は、大声で、『五郎いっか。』『五郎出せ。』『ハジキを持っている。』『俺に逆らうとぶっ殺す。』などとどなり回り、握手を求めてくるので何回も握手をした。シャツにさわって来るので腹が立ち、『俺の胸にさわるな。』と文句を言ってどなっているうちに、A子から『表に出しちゃって。』と言われ、同女の後ろを見ると、塚本がいた。いつ帰って来たかはわからない。塚本からも出すように言われたので、岩田の右腕をつかむようにして表に出した。表に出て、口論のうえ岩田が私を突き飛ばしたので、私も岩田ののどの下をつかんでゆすったり、太腿か腰辺りを蹴ったりした。
もみ合っているうちに(一〇分位たってから)永井が私の右側に来た。永井はやはり私と同じようにブツブツやっていたが、それから少したってから塚本が出て来た。それからは、三人が一かたまりになってもみ合った。誰が何をしたかよくわからない。永井が初めに一回突き飛ばしたことと、永井と塚本が殴るように胸の辺りを突き飛ばしたのはおぼえている。三人の言ったことはおぼえていない。
もみ合っているうちに岩田が倒れたので、傍へ行って『起きろ。』と言って腰の辺りを蹴飛ばしたが動かないので、岩田をまたいで肩の辺りを持ってゆすぶったが気絶しているようで動かなかった。後頭部から血が出ていたので、その時上衣の袖に血が着いたのだろう。塚本が、『ドアとか塀とかにぶつかった。』とか言っていたので頭の傷はそこにぶつかった時できたものだと思った。岩田が気絶してしまったと思い、そんな大したことだとは思わなかったので、そのまま店に戻った。
A子に岩田が倒れたことを話したらそれ程たまげた様子もなかった。一五分か二〇分程して永井が店へ戻って来たので、『未だ帰らなかったのか。』と言うと、『車を乗り上げてしまったので手伝ってくれ。』と言われ、手伝いに表へ出た。表に岩田はいなかった。気絶しただけで気がついて帰ったと思った。永井に岩田と塚本のことはきかなかった。永井を手伝ったがうまく行かず、永井はA子の自動車(サニー)を借りて自宅から妻I子と共にレッカー車で現場へ戻り、乗り上げたコロナを引き出して帰宅した。私はカローラに戻って寝た。少したってから警察官に起こされた。」
これは、なんとなく奇妙な感じを与える話である。特に、永井・塚本両被告人の暴行について具体的証言のないことが注目される。
そもそも、小嶋証言は、全体としてあいまいであるが、特に永井・塚本両被告人の暴行の具体的態様について尋問されても、細かいことは良く見ていないとか、検察官らに調べられた時にもはっきりおぼえていたわけではない旨を述べ、立会検察官から、「前に違ったことを言っていることはわかるか。」ときかれて「わからない。」と答え、検察官調書に基づいての具体的な質問に対しても、「ひとかたまりになってやっていたのではっきりわからない。」と答えている。しかも、小嶋の証言するところによれば、尋問を受ける第一八回、第一九回各公判期日の二、三日前に、検察官から調書を読みながらきかれて尋問の打合せをしたというのであるから、同人の前記証言内容は理解に苦しむものである。同人が、真実共犯者の一人であり、塚本・永井両被告人の暴行を目撃しているのであれば、もう少し具体的なはっきりした記憶があるはずである。
同証言を、経験しないことであるから具体的な供述をすることができないばかりでなく、右のように述べることによって、同人のせめてもの良心を示したものである、と解することも可能であろう。原審最終陳述における同人の「本当に申訳ないことをし、長いこと皆さんに迷惑をかけ、岩田さんにも申訳ない気持で一杯です。」という微妙な発言をも考慮すると、むしろ、右のように解する方がよさそうにも思われる。被告人らの面前における真実の証言の回避だとすると、「当時はおぼえていたが、今は忘れた。」と述べるのが普通であるからである。
原審は、共同審理をし、小嶋の関係で請求され取調べをした捜査官調書の具体的な内容を知っていたためであろうか、小嶋証言は、被告人らの面前における具体的な証言の回避に過ぎないと考え、それ以上の疑問を持たなかったもののようである。
当審で小嶋を再尋問した結果は、塚本被告人が店にいるのに気がついた時期は岩田を「チェリー」から連れ出す途中である、塚本被告人から表へ出せと言われていない、永井被告人は私と岩田が出た後直ぐ出て来た、岩田の頭でなく鼻から血が出ていた、という点などで証言の変更があったほか、検察官調書は、当時おぼえていたままを話したと思うと言うので、当裁判所は、念のために、検察官調書二通を刑訴法三二一条一項二号書面として採用し、なお、員面調書一〇通(このうち六月二五日付、二六日付、二八日付の三通は当審の最終段階に提出された)をも同三二八条書面として採用して、検討を加えた。
塚本・永井両被告人の暴行の具体的態様についての小嶋の供述は、検察官に対する七月一七日付供述調書(以下7・17<検>の如く略記)によれば、次の通りである。
「(小嶋が岩田の右足太腿辺りを一回強く蹴った後)今度は、永井が岩田に『さつきはずい分でかい声を出してくれたな。』とか文句をつけたら、岩田は、『俺に逆らうのか。この野郎。』と言い返していた。それで永井が、岩田の胸辺りをつかんで押したり引いたりしてもみ合っている時、塚本が出て来て、岩田に『なめてんのか。』とかどなりながら、今度は永井と塚本の二人で岩田を殴ったり蹴ったりした。初めは永井が拳骨で胸か顔辺りを二回位殴ったり蹴ったりし、又突き飛ばしたりし、右足で岩田の右横腹辺りを蹴り上げたりした。塚本も右手の拳骨で岩田の顔や肩辺りを殴ったりし、腹付近を膝蹴りなどして乱暴した。そのうちに塚本か永井かわからないが、岩田は突き飛ばされて大谷石塀に後頭部をぶつけたようで、その侭ヨロヨロと二、三歩前に出たかと思ったらその侭くずれる様に仰向けに倒れてしまった。」というのである。7・6<検>とは、「膝蹴り」がなく、また、「岩田は突き飛ばされた時ブロック塀か何かに当ったのかわかりませんが……」となっている点で異っている。これは相当重要な相違である。
ところで、小嶋の員面調書を検討すると、初めのうちは、暴行が「チェリー」の前の南側で行なわれ、暴行の内容も三人で殴る蹴るといった漠然とした内容のものが、捜査の進展につれて、場所が北側の大谷石塀前となり、暴行の内容も具体性と多様性を取得して行く過程が手に取るようにわかる。
これを具体的に分析すると次の通りである。
最初の自白である六月二五日付司法警察員に対する供述調書(以下6・25<員>の如く略記)では、「私が岩田の胸倉をつかんでこづきながら『でかい顔すんな。』と大声で言っている時、塚本が私達の所へ来、その時私の横にいた永井が私と岩田の間に割って入るようにして来たと思ったら私と岩田の喧嘩を横取りするようにして永井と塚本が店の前南角辺りで殴りつけていた。そのうちに岩田が道路に仰向けに倒れてしまった。」というのである。
6・26<員>では、「私が岩田の胸倉をつかんで入口ドアの(南側の)横壁に押しつけていると私と岩田の間に永井と塚本が入って二人で岩田を殴ったり、また、塚本は足で蹴飛ばしたりしていて、岩田は二回位道路上に倒れては起き上って殴られていた。そのうちに岩田は道路上に仰向けに倒れてしまった。」という。「足蹴り」が初めて加わる。
6・27<員>から暴行の内容が詳しくなり、「胸を突き飛ばす」が加わるが、その内容は前記検察官調書と同一というわけではない。(6・27<員>では、「塚本は来るなり手拳で二、三回顔面付近を殴ったり、腹の辺りを二回位蹴り、永井も塚本と一緒に顔面付近を二、三回手拳で殴ったり、胸を突き飛ばしたり、腹付近を二、三回足蹴りした。」、6・29<員>では、「永井が右手で胸辺りを店の壁の方に突き飛ばした。倒れて起き上った岩田を左手掌で二回位胸辺りを突いた。塚本も、一、二回右手か左手で胸辺りを突き飛ばした。」、6・30<員>では、「永井は、右か左の拳骨で二回位胸か顔面辺りを殴ったり、大谷石塀の方に突き飛ばしたりした。永井が殴った後、塚本も直ぐに殴り始め、二人一緒になってボカボカと連続して殴る、蹴る、突き飛ばすだった。永井は、更に右足で横腹辺りを強く蹴った。塚本も拳骨で顔面や肩辺りを少くとも三回位殴ったり突き飛ばしたりした。又右足か左足で腹付近を一回位強く蹴った。」という。)「膝蹴り」は、7・17<検>にのみ登場する。
犯行場所については、6・27<員>でも、6・29<員>でも、「チェリー」の出入口南側であるが、6・30<員>からは、そのうち移動して北側へ行ってそこでやったと思うということになり、最後に北側の大谷石塀のある前に間違いない(7・6<員>以降)ということになる。これは、毛髪様のものの発見、ルミノール検査の結果等による誘導、修正と考えられる。6・30<員>から、初めて、店の北側の大谷石塀に当って倒れたということになる。それまでは、店の南側の横壁に突き飛ばし、その前に倒れたと言っていたのである。
塚本被告人登場の場所と時期についても重要な食違いがある。
すなわち、6・25<員>、6・26<員>では、「岩田が余り大きな声で五郎などとどなっていたので聞いたらしく塚本も奥から出て来ていやな顔をしてレジの辺りにいた。」「(表へ出た後)塚本は多分南側(同人方住居の入口)と思うが出て来て私達のところに来た。」(6・25<員>)というが、6・27<員>、7・6<検>では、塚本被告人を店内で見たとの記述はなく、「表へ出て暴行を加えているうちにどこから来たかわからないが、塚本も来た。」となり、6・29<員>、7・6<員>、7・17<検>では、店の中で見たと言うが、その時期は、6・29<員>では、「A子に言われて岩田の右袖を引っ張ったころ、塚本がカウンター内のドアから入って来てカウンター内の西隅にいた。」と、7・6<員>、7・17<検>では、「岩田にあんまりさわるなよと文句を言った時、塚本がカウンター内のドアから出てA子の後ろに来て、岩田に、『ずい分でかい声出してんじゃねえか。』と言った。」と変り、一定していない。表へ出て初めて塚本被告人が出て来たのでは同被告人の犯行の動機はなくなってしまうのである。
岩田を表へ連れ出した動機としては、「A子が岩田に『出て行ってくれ。』と言っても出なかったため、私に『連れ出してくれ。』と言うので」(6・25<員>)、「A子が『もう看板です。帰って下さい。』と言うのに岩田が帰らないので表に出して話をつけてやろうと思い」(6・29<員>)、「A子が『時間だから出て行ってよ。早く出て行ってよ。』と言ったから」(7・6<員>)、「A子が私と岩田に『出て行ってよ。』と言ったから」(7・6<検>)などという。
永井被告人が表へ出て来た時期についても一致していない。「私と岩田が出た後直ぐ出て来た。」(6・25<員>、6・26<員>、6・27<員>、6・29<員>、7・6<員><検>、7・17<検>)「表で岩田をやっつけているうちに出て来た。」(6・30<員>)などといい、原審証言では前記のとおり一〇分位してから出て来たという。
喧嘩の張本人ともいうべき小嶋が、岩田の気絶後ただ一人店内に入ってしまって知らぬ顔の半兵衛をきめこむというのはまことに合点の行かない話であるが、この点の説明も変転しており、その内容もすっきりしていない。摘記すると次の通りである。
6・25<員>では、「血が流れているのを見て急にこわくなって」と、6・27<員>では、「失神しているだけだと思ったが、もしかして死んでいたら大変と思って」と、6・29<員>では、「頭のけがでもしかしたら死ぬということも考えられるので」と、7・6<員>では、「永井と塚本が岩田を介抱するでもなく立っているのでこれは死んでしまっては大変だと思ってもいたしするので」と、7・6<検>では、「岩田は気絶した程度で少しその侭寝かせておけばいずれ気がつくだろうと思って」と、7・17<検>では、「これは大変なことになった。もしかしたらこの侭死んでしまうんではないかと思ったら急にこわくなってしまいその場にいられなくなったので」というのである。
また、小嶋が店内へ戻って、「A子に『岩田が倒れて頭から血が出ている。』と言って知らせたところ、同女は余り驚きもせず、平気な顔で、『飲み癖悪いんだからあの人は。』と言っただけで」(7・17<検>)何もしなかったという点は、一貫してそのように述べているが、スナックのママの態度としては、いささか理解し難いところであり、右検事調書でA子の右のような態度から別に死ぬようなこともなかろうと思って少し安心したと述べる点も奇妙な心理というべきであろう。その後永井被告人に岩田や塚本被告人のことをきかなかったという点も、おかしな話である。
以上のような検討によると、小嶋供述を真の経験事実の供述と見るには、大きい疑問があるといわなければならない。小嶋が本件犯罪の関与者であることを考えると、同人が単独犯行を共同犯行と偽って自分の刑事責任の軽減を図ったのではないかという疑いが持たれるところである。
原審弁護人の原審における弁論での以下の指摘は、本件捜査の基礎を提供した小嶋供述の危険性を衝いて余すところがないので、そのままこれを引用したい。
「本件の被害者とされている岩田徳次が、頭蓋底骨折のほかそれだけでも死亡が予測される脾臓破裂その他多くの傷害を負って死亡していたことは厳然とした事実である。そして、被告人小嶋が、岩田に対し暴行を働いたことは、その衣類に付着した血痕のほか、証人A子の証言及び被告人小嶋自身の供述によって明白であるから同被告人にとってそれは逃れることのできない事実なのである。この厳しい状況の下で、若し岩田に暴行を働いた者が被告人小嶋以外にはいないとされた場合、同被告人が殺人罪又は傷害致死罪の嫌疑を被ることは明白である。他面、捜査官が、岩田の傷害の部位程度から本件は単独人による犯行ではないと考えて、被告人小嶋に対し『共犯者』の存在を追及することは当然あり得ることであり、しかも、その場合名前が浮かび易い者としては前歴の多い被告人塚本であり、また、自動車を縁石に乗上げた被告人永井である。従って、被告人小嶋が捜査官から『お前一人の犯行ではあるまい。塚本や永井も関係しているのだろう』との趣旨で追及されたとするならば、被告人小嶋にとってそれは正に渡りに舟のうまい話であり、同被告人がそれに飛付かぬ筈はない。しかも、同被告人は、本件の事件当夜、被告人永井や同塚本にも会っているから、一部真実を織交ぜた話ができるのであり、従って、捜査官が同被告人の供述を信じ易かったこともまた事実である。」
なお、大したことではないが、岩田が「五郎出せ。」などという乱暴な言葉を使ったかも疑問である。原審での岩田功、A子各証言によると、むしろ、「五郎さん(又は社長)を出してくれ。」というような調子の言葉遣いであったように思われる。
小嶋供述は終始あいまいで動揺が多く、その内容も不合理、不自然であって、信用性を認め難いことは所論の通りである。
六 H供述(検察官調書)の信用性について
Hは、当夜小嶋と行動を共にした親しい友人で、唯一の目撃者とされており、検察官調書で目撃状況を供述したが、公判では、目撃したことを否定し、「チェリー」へ着いてもカローラから降りず、酔払って助手席のシートを倒して寝ていたので何も見ていない旨証言している。
検察官調書の要旨は、「深夜カローラの中で何か言い争っている声で目がさめた。フロントガラスから前を見ると、『チェリー』の出入口付近で、小嶋が年齢五〇才位で身長は小嶋より一寸低いやせ型の髪の毛を少し伸ばし黒っぽい感じのジャンパーのようなものを着てズボンをはいた男と言い争っていた。小嶋は男の胸倉をつかみ、ゆすりながら出入口のドアの方へ押しつけていた。何回か小嶋がその男をドアへ押しつけていた時ドアが開いて塚本と永井の二人が出て来た。そして今度は、この二人が相手の男に何かどなりつけたが、塚本はどなりながら相手の男の両肩の辺りを両手でつかみ前へ引いた。すると男は前のめりになった。そこを塚本は右足でその男の脇腹辺りを一回か二回蹴り上げた。男は腹を押えながら前にかがみ込んでしまった。そこを塚本は今度は左右の拳骨で二、三回男の後頭部を斜め上から突きおろすようにして殴りつけた。永井と小嶋の二人もこの男を囲み体がもつれているようだったので、手を出したと思う。三人の誰かはっきりしないが、かがみ込んだ男を引き起こしてどなりつけていた。男もその時何か言い返したようだ。すると今度は、塚本が力をこめて拳骨で顔辺りを殴りつけた。男は仰向けによろけながら倒れた。それを塚本は両手で起こし、両手をもって店の出入口の脇の石の塀に男の頭を何回かゴツンゴツンとぶつけた。男は崩れるように倒れて塀の下で動かなくなった。すると、小嶋が倒れた男の上にまたがり、顔をのぞき込むようにして肩を持ち上げ、二、三回上下にゆさぶった。その形から男は仰向けに倒れていたように思う。そのかっこうで小嶋は、右斜め上を見上げるようにして脇にいた塚本と永井に何かを話しかけていたが、二言三言話をして店の中へ入って行った。外に残った塚本と永井は、その男を抱き起こし、脇の下を持ち上げ、引きずるような形で歩道上を結城方面に向って、私の方から見て右側が塚本、左側が永井の状態で、引きずるように歩いて行った。その姿は『チェリー』から二〇メートル位先にある魚屋の前まで見えていたが、それからは見えなくなった。一〇分位たって永井が引き返して来て『チェリー』前路上にとめてあった車に乗り込んで急発進させたところ、縁石に乗り上げて動かなくなった。そこで、小嶋が『チェリー』から出て来て手伝ったが動かなかったので、永井ではないかと思うが、サニーで岩井方向へ発進して行った。すると小嶋が、『あの馬鹿あんなところへ乗り上げやがって。』と言いながら、車に乗り込んで来たが、私は寝たふりをしていた。それから少しして足音がしたので、首を起こして見ると、塚本が結城方面から戻って来て『チェリー』の住宅の方の出入口から中へ入って行った。それから一五分位してサニーがレッカー車と共に戻って来て、その車を引っ張って帰った。小嶋が車に戻って来て、私に『H行くか。』と右胸辺りを突っついた。寝たふりをしていたら、小嶋は車を発進させるふうもなく、そのうち眠ってしまったらしい。三〇分位してから車の後ろでエンジンの音がし、塚本の車が私の車の左脇を通って結城方向へ走って行った。」というのである。
右供述の内容は、小嶋供述の内容と似ている。しかし、永井・塚本両被告人が「チェリー」から同時に出て来たこと、暴行が殆ど塚本被告人によるものとしてその内容が細かく明確に述べられていること、塚本被告人が、左右の拳骨で二、三回岩田の後頭部を斜め上から突きおろすようにして殴りつけ、更に、倒れた岩田を引き起し、両手をもって大谷石塀に頭を何回かゴツンゴツンとぶつけたとされていることなどにおいて、小嶋供述の暴行態様と甚しく食い違っている。小嶋供述では、塚本被告人と永井被告人の暴行には甲乙がなかったのに、ここでは、塚本被告人による縦横無尽の一人舞台である。また、永井被告人の暴行態様についての供述部分が非常に漠然としているのと比べて、塚本被告人の暴行態様の描写の余りの精細さ、明確さも気になるところである。
それに小嶋が、前記のように、最初は、「あの馬鹿あんなところへ乗り上げやがって。」と言って、次は、「H行くか。」と右胸辺りを突っついて、二度にわたって車に乗り込んで来たというのに、相手にならずに寝たふりをしていたというのも不自然であり、小嶋の方は、Hは寝ていたようだし、二度とも何も話しかけたりしなかったと証言していて、様子が違う。
また、Hの6・28<員>では、「塚本は出入口の脇にあるブロック塀の所に男を押し、男は後ずさりするようにして背中の方がブロック塀に当り、そのはずみでいくらか前に出るなりその場にギャとかグウとかいう気味悪い声を出しながら倒れて仰向けになってしまった。酔払いが倒れたのか位に思った。」旨述べている点が、前日付の前記検面調書と全然違う。
しかし、右の点を除けば、Hは、前記検察官調書と同一内容を捜査段階でほぼ一貫して供述しており、当審で取り調べた七月二〇日付実況見分調書によれば、同人は現場へ行って目撃状況を指示説明しているのであって、その供述の信用性には相当強いものがある。
Hは、犯行を目撃したというのは嘘であるとし、虚偽の供述をした理由として、原審で、事件の後警察官に起こされてひき逃げ死亡事件のことなどを聞き、また、帰りの車の中や、その日の夜警察の調べの後小嶋宅で、同人から事件のことやその前後の話を聞いていたので、警察で六月二五日、二六日の両日にわたってきつい調べを受け、「あんな傍にいて見ていない訳がない。」と言ってどなられたり、「塚本も永井も犯行を認めている。」と言われたり、誘導されたりしたので、右の知識に想像を加えて見ていたように適当に供述することになってしまった旨証言するのである。それにしても、「外に残った塚本と永井が男を抱き起こし、脇の下を持ち上げ、歩道上を結城方面に向って塚本が右側、永井が左側で引きずるように歩いて行った。」という部分などは、勿論小嶋から聞いたわけではなく、単なる想像というにはでき過ぎているというほかないように思われる。
しかしながら、当審証言で、Hは、六月二六日も朝から調べられて、「偽証罪になるぞ。」とか、昼過ぎごろからは、「もう一寸はっきりしろ。」「それを言わなければ帰さない。泊めることもできる。」などと言って脅かされ、「死んだ人がなんで向うへ歩いて行ったか。」「お前が起きているのを見ている人がいる。」などと言って調べられたため、被害者のズボンに、引きずられたために切れたようなきずがあったと小嶋か誰かに聞いていたので、適当に引きずって行ったように言った、と述べるのである。そして、事件及び事件前後の話をしたことは小嶋証言の認めるところであり、小嶋6・30<員>、7・7<員>には、事件後自動車の中で寝ていて警察官に起こされた時、北の方をさして「ここから一二〇から一三〇メートル先でひき逃げがあった。」と言われたこと、六月二五日夜警察から帰宅した後、集っていたHらに警察で供述した内容を話した時、小嶋の勤務先結城産業株式会社の宮田工場長が、「駐在所の話では死んだ人はズボンが引きずったみたいに穴が明いているとのこと、誰か引きずって行った者がいるんだろう。」と言ったことなどが記載されているのである。Hは、小嶋からきかれて車の中で酔って寝ていてわからなかった旨を述べ、六月二五日に警察で調べられた時にもそのように述べ、その夜小嶋宅で同人が問いつめられた時にもそう述べていたのである。
このように見てくると、Hが車の中で終始寝ていて、犯行状況等を目撃していない可能性は否定し難い。そして、話を組み立てる材料は十分あるから、寝ていて何も見ていないHが小嶋の話を信用し、また、警察官に言われるままに塚本被告人らが岩田殺害の犯人であることを認めていると信じたとすれば、前記のような内容の虚偽供述ができ上る可能性も否定し難いのである。H供述の中で塚本被告人の暴行が殆ど全部を占めているのは、警察が塚本被告人を主犯と見立てていたことの反映であろう。
原判決のように、「小嶋の供述とは別個にHの供述をとったところ、右両名の供述がほぼ一致したと解する外はない」と一応はいえるとしても、小嶋の話を下敷きにして供述すれば、供述がほぼ一致するのは当然のことであって、それだけで信用できるというものではなく、むしろ、どの点がどのように違うのか、それは何故かが検討されなければならないであろう。また、原判決は「Hは被告人塚本の血縁の甥であり、……虚偽の供述をなし、それによって被告人塚本を無実の罪に陥れようとするとは到底考えられない。」というが、右側か左側かといったささいな点はとも角、大筋において真実に沿った話をしているつもりであれば、虚偽の供述をしているといった深刻な意識は余りないであろうし、塚本被告人が殺人犯人であることを認めていると信ずれば、叔父を無実の罪に陥れるという意識の働く余地はないであろう(原判決は、H証言が信用できない理由として、「公判廷における重要な証言部分の変転経緯」をあげるが、われわれはそれを発見することができない。)
H供述(検察官調書)の信用性に疑問があることは所論の通りである。
なお、ここで、原判決の判示する塚本被告人による「顔面に対する頭突き」という特異な暴行方法が、小嶋供述にも、H供述にも出て来ないことに注目しておきたい。
七 塚本自白の任意性について
塚本被告人は、六月二五日午後から本件の取調べを受けて否認し、同日別件傷害事件で逮捕され、同月二七日本件殺人事件で逮捕後、七月一日に一部(傷害のみ)自白をしたが、再び否認に転じ、同月六日午前まで否認し、同日午後から再び自白し、同月一七日の最後の自白調書に至る。録取された供述調書の詳細は次の通りである。
原審提出分
当審提出分
(ただし供述経過立証のためのもの)
6・27<員>大竹(結城署)否認
7・1<員>安(結城署)一部自白
7・6<員>安(〃)自白
7・6<検>荒井(地検下妻支部)否認
7・7<員>〃(〃)〃
7・8<員>〃(〃)〃
7・8<検>荒井(〃)〃
7・9<員>安(〃)〃
7・13<員>安(結城署)自白
7・14<員>安(結城署)自白
7・15<検>荒井(結城署)自白
7・17<検>〃(地検下妻部)〃
7・17<員>大竹(〃)自白
塚本被告人は、第一回公判以後再び否認に転じたが、右否認供述の内容は終始一貫しており、当夜は愛人のG子方へ泊りに行くつもりで、午後一〇時半ごろ「チェリー」を出て、本件犯行時刻である午前一時半ごろには、G子の経営する下館市川島所在飲食店「花」で、永田晴美、飯岡香と共に飲酒していて、本件犯行は全く関知しない、というのである。
これに反し、塚本被告人の自白の内容には後記のような大きな変転がある。
塚本被告人は、警察の取調べについて、連日連夜長時間の取調べを受け、否認供述を受け付けず、取調べ中は片手錠(片方の手に手錠を二つかける)を施され、ひもを机の足につないで動かせないようにし、数時間にわたって手錠のかかっていない方の手をつかんで動かせないようにして、「やったと言ってくれ。」と迫られたり、否認したり黙っていたりすると半日位直立の姿勢をとらせたり、机を押してぶつけたりなどの強制拷問を加えられたほか、「小嶋と永井は三人でやったと泣きながら言っているんだ。」「近所の人が何人も見ている。」「川島の連中も塚本と会ったという人はいない。」と言うなどの偽計を用い、「警察は調書さえできればいい。」「ひとり言でもいいから言ってくれ。」「作り事でもいいから言ってくれ。」「幹を作れば後は警察の方で枝と葉はうまくつけてやる。」などと言って自白を強要されたため、グロッキーになり、供述内容をそれとなく教えられながら自白を作って行った旨を原審で供述している。更に、当審において、机を叩いて調べられた、安刑事からこづかれるのはしょっ中だった、きいてくれないから黙っているとそういうことが始まる、同刑事が二度声をからしたことがある、などが付加して供述された。
右取調べ及び自白調書成立過程は、塚本被告人作成の上申書(原審で却下されて取り調べられなかったもの)、最終陳述に代る弁論要旨及び控訴趣意書において、一層生々しく、順を追って整理されて如実に記述されているが、その内容は、事実を経験した者のみが持ち得る迫真力に富み、若干の記憶違いなどは免れないとしても、殊更に虚偽を作為して述べたものとは到底思われない。
六月二九日以降塚本被告人を取り調べた警察官安克博は、原審及び当審において、当然のことながら右のような自白強制過程を否定するが、片手錠をかけたこと、小嶋やHの供述を真実と考え塚本被告人の供述を虚偽と判断して同被告人を追及したこと、本当のことは一つしかないんだと言って説得したこと、塚本被告人が眠そうにしていたので、眠ければ眠気をさませと言って、立たせたことがあること、その後坐れと言っても坐らないで本人の意思で二時間かそこら立っていたこと(以上原審証言)、説得のため「どうだ。」ということで片手を握ったり、時には机を叩いたり、大声を上げて取調べをしたことがあること、塚本被告人が「幹を話すからあとはなんでも書いてくれ。」と言ったことがあること(以上当審証言)は、認めているのである。
そして、当審取調べの結城警察署留置人出入簿によれば、連日連夜長時間にわたる取調べがなされたこと(午前は早い時で九時ごろ、午後は遅い時で一〇時四〇分ごろ)が認められる。
以上によれば、少なくとも、安刑事らが、連日連夜長時間にわたり、片手錠をかけたままで取調べをしたこと、頭から犯人扱いして、否認も黙秘も受け付けず、真実のことは一つしかないと言って自白するよう追及したこと、時には机を叩いたり、大声を上げて取調べをし、時には自由な方の片手を握ったまま調べたり、数時間直立させたようなこともあること、「幹を作ればあとは警察の方で枝と葉をつけてやる。」などと言って自白を迫ったことは明らかであり、前記のような否認―一部自白―否認―自白という供述経過及び後記のような自白内容の変転を併せ考えると、自白の任意性に関する塚本被告人の前記供述は信用し得ると考えられるところであって、警察官に対する各自白調書に任意性を認めることは到底できないというべきである。
検察官に対して何故自白したかの点について、塚本被告人は、検察官に対して否認し、警察はでたらめである旨訴えたところ、「あんたの場合は第三者がしっかりしているから否認しても持っていかれてしまう。」「もう一回調べ直してもらえ。」と言ってきいてくれない(7・6<検>の時であろう)ので、いくら言っても警察官と同じだし、検察官もぐるになっている、警察で調べ直してもらってもまた拷問にかけられると思って、次の調べの時(7・8<検>)からみんな認めてしまった旨原審で供述している。
塚本被告人の取調べに当り、検察官は、手錠を外させたほかには、警察での取調べの影響を遮断すべく配慮した形跡はない(むしろ、七月八日と一五日は、結城署へ行って取調べをしているし、塚本被告人の供述によれば、取調べの際取調べ警察官らを在席させている。)から、右自白は警察の取調べの影響下になされたものと見るほかなく、任意性を認めることはできない。
以上によれば、塚本被告人の自白調書の任意性の否定されるべきことは所論の通りであり、その任意性を肯定して有罪の証拠とした原審の措置は誤りであるが、原判決は、右自白調書の記載内容からいっても自白に信用性があり、自白の任意性も認められるとしているので、念のために、原審で採用された各自白調書の信用性についても判断を加えることとする。
八 塚本自白の信用性について
塚本被告人の自白の内容は無視し難い変転を重ね、最終自白の内容にも不自然、不合理な点がある。
最初の一部自白である7・1<員>の内容は要旨次の通りである。
「午前一時ごろ『津軽』を出て、『チェリー』へ帰り、店の出入口からカウンターの中へ入った。午前一時半ごろ岩田が入って来て、『俺はやくざ者だ。マスターいつでも勝負してやるから。』などと盛んに能書きを言って五分位たった時、小嶋が岩田を連れ出そうとした。私も頭に来たので、その方に歩み寄り、永井も近寄って来、出入口の手前辺りで追いつき、私が岩田の左腕、小嶋が右腕をつかみ、背中の方から永井が押し出すようにして三人で岩田を表へ連れ出した。出入口の戸の前付近で、最初『この野郎』と言いながら小嶋が岩田の顔辺りを手で殴り、次に黙って永井が足で蹴飛ばした。その後私が右手で岩田の前から襟首辺りに手をやって、後ろにあった大谷石塀の所に力強く押し倒した。その後酔いをさませてやろうと思い、三人で坐った岩田の腕をつかみその場から引きずるようにして店の南側にある空地に持って行き、そこに仰向けに寝かせたまま置いて来てしまった。その場を離れて三人とも店の中には戻らないでそれぞれの車に乗って帰り、私も自分の車に乗って『花』へ帰った。」
なお、「津軽」又は「花」から「チェリー」までは自動車で約一五分かかる(当審提出の7・7<捜>)。
この自白は、後の自白内容とは全く違うが、小嶋を含めて三人が終始一緒に行動していること、岩田を連れて行った場所が「チェリー」の南側の空地になっている点が特に注目される。全体として、前記逮捕・勾留の被疑事実と酷似しており、当審において、塚本被告人が、「作り事でもなんでもいいから言ってくれ。」と言うので逮捕状の被疑事実を思い出して供述した旨述べているのももっともなことだと考えられる。
七月六日午後以降全面自白が始まるが、その内容には大きい変転がある。
「これから申し上げることは決して作り事や話が面倒になって申し上げると言うのではなく、本当の気持から申し上げる。」旨の前置きのある7・6<員>の要旨は次の通りである。
「『津軽』を出て車で『チェリー』へ帰り、店の出入口から中へ入りカウンターを素通りして二階へ上り、子供の寝顔を見て安心し、降りてカウンターの中へ入り、椅子に腰かけてウイスキーを一人で飲んだ。カウンターの所にいた小嶋と永井と話はしなかった。椅子にかけて五分位したころ岩田が店の中に立っていた。便所にでも入っていたのかなと思った。カウンター近くの椅子に腰をかけ、私の顔を見るなり、『俺に文句あんならいつでも勝負してやっから。』などとどなり始め、因縁をつけ出した。私が知らぬ振りをしていると、今度は小嶋と永井の傍に行き、『俺はやくざ者だ。』とか、『俺はやくざを知っている。文句あんならいつでも勝負してやっから。』などと喧嘩腰に大声で悪態をついた。A子は、『いつでも癖悪いんだからかまねどけ。』と二人に言っていた。しかし、岩田がやめないので小嶋が、『岩田うるせえから、しょうがねえから。』と言いながら、岩田をつかみ片手で引っ張るようにして表へ連れ出した。私は客同士が表に出て喧嘩でもあっては困ると思って表へ出た。永井も続いて出て来た。表では、小嶋が『この野郎』などと言いながら、岩田を手で殴ったりしていた。永井が止めに入ったところ、岩田が殴ったため小嶋と永井が岩田を相手に殴合いになってしまったので、私が止めて双方を分け、岩田に『人の店に来てやくざ者みたいなことを言ってお客にいい迷惑でないか。……お前は酔払っていっから今夜はまっすぐ帰れ。』などとお説教をした。しかし、岩田が言うことをきかず、小嶋と永井に手をかけようとしたので、腹が立ち、岩田の胸倉辺りを右手でつかむようにして大谷石塀目がけて突き飛ばした。岩田は、後ろにあった塀に身体をぶちつけ塀の前にうずくまってしまった。そのうち小嶋は店の中へ入ってしまった。」
塚本被告人のこの辺りまでの供述は、「チェリー」に着いた時間が午前一時近いころであった(7・9<員>)、「私も我慢できなくなって岩田を殴ったり、蹴ったりした。」(7・15<検>、ただし、蹴った個所は不明)、「岩田は小嶋や永井や私にさんざん殴られたり、蹴られたりした。」(7・17<検>、ただし、誰がどこを蹴ったか不明)と変更されたほかは、その後の自白調書でも殆どそのまま維持されているので、ここで右供述内容の信用性について検討しておきたい。
右供述内容は、先に見た小嶋証言と著しく異なる点がある。小嶋証言では、カウンター内での塚本被告人の右のような状況は全く述べられていない。岩田が塚本被告人に直接因縁をつけたことなど全くない。塚本自白では、A子や塚本被告人が岩田を出せと言っていない。塚本被告人と永井被告人の出る順序も逆である。小嶋供述では、永井被告人が出て来て、小嶋に「加勢して」(小嶋7・6<検>)岩田に、「さっきは随分でかい声を出してくれたな。」とか(小嶋7・17<検>)文句をつけて同人ともみ合っている時に塚本被告人が出て来たと言うが、塚本自白では、塚本被告人が先に出、続いて永井被告人が出たのであるし、永井被告人は止めに入ったところ岩田から殴られたので殴合いになったというのである。一時双方を分けて塚本被告人が岩田に説教をしたという点などでも暴行時の状況はかなり異なっている。岩田が倒れた後で、小嶋が「起きろ。」と言って蹴ったり、またいでゆすぶったというくだりもない。永井被告人に関する部分では、同被告人の温和な人柄を知っている塚本被告人と、これを知らない小嶋との差が現れているように思われる。
塚本被告人の右自白は、塚本・永井両被告人が表へ出てから小嶋が「チェリー」へ入るまでのH供述ともまるで違う。塚本被告人の暴行としてHが述べた「左右の拳骨で二、三回岩田の後頭部を斜め上から突きおろすようにして殴りつけ」、「倒れた岩田を引き起こし、両手をもって大谷石塀に頭を何回かゴツンゴツンとぶつけた」ことなどは全く出て来ない。総じて、暴行の態様が通り一遍で具体性に欠けている。
それにしても、塚本被告人は、カウンターの中の椅子に五分も坐っているというのに、誰にも声をかけず、「五郎(さん)いるか。」と言って来店していた岩田が、その塚本被告人に会ったというのに、いきなり前記のような因縁をつけるというのもおかしな話である。それに、「客同志の喧嘩でもあっては困ると思って」出て行った飲食店のマスターが、酔った客(岩田は少年時代からの友人である。)が言うことをきかない位で、このようにたやすく手ひどい暴行を加えるものであろうか。
このように見てくると、この三人の供述は、あら筋は一致しているけれども、本質的には全く違った三つの話なのではないかという思いを禁じ得ない。その内容が真実味に乏しい点でも共通性があるように思われる。塚本被告人の右自白は「作り事」ではないだろうか。
7・6<員>によれば、その後の話の要旨は次の通りである。
「岩田がウーウーうなっているので、永井に『ここではうるさくて困るからあっちの方に持って行って酔いをさまさせよう。』と言って永井と二人で両側からうなっている岩田の腕をかかえるようにして結城方面に向って歩道上を引きずって行き、『チェリー』から一〇〇メートル位離れたダンプ屋の前付近まで行って、手を離し、歩道上に岩田を落した。岩田は前へ倒れた。私と永井はそのまま店に戻った。小嶋の姿は見えなかった。私はカウンターから二階へ上り、もう一度子供の寝ている様子を見て店に降り、飲んでいたウイスキーの残りを口にした後A子に『ちょっと行ってくる。』と言って車のキーを持って表に出、店の前にとめてあった車に乗って川島へ行った。」
しかし、この話は、目まぐるしく変る。
7・8<員>の要旨は、「岩田の右腕側に私、左腕側を永井が持って、同人を引きずって行く時、永井に『道の真中にぶん投げておくべ。』といって岩田を車道に置くことを話し、ダンプ屋の前で縁石の切れ目から車道に出て、少し行ったところで縁石と直角に車道に仰向けに寝かせた。縁石と岩田の頭の間は五~六〇センチで、岩田の右腕側に私、左腕側に永井が立ち、中腰になって、私は岩田の右腕で肩に近い部分を右手で持ち、左手は首の下辺りにやり、永井は反対に腕の所を左手で首の下辺りを右手で持ち、少し持ち上げるようにして車道側に面した縁石の側面の所にその持ち上げた状態で頭をぶちつけた。そして、私は、『もし車にあてられてはなんねえからはじに寄せておけ。』と永井に言いつけてその場を離れた。」というのである。
7・8<検>では、岩田の頭を縁石にぶつけた後、「その縁石に頭をのせるようにしておいて、私が一足先にその場から離れて店に戻り、永井も後から店に戻って来た。」ということになる。
7・9<員>では、「岩田は何回かウーウーとうなり声を出した後は気絶したかのように静かになりぐったりしてしまった。私は、その様子を見て『ここでは(意識を回復して)またうるさくなっては困るからあっちの方に持って行くべ。』と永井にいって二人で引きずって行った。」と変り、ダンプ屋の前で歩道から車道へ進路を変えた時の気持は、「ただ道の真中に置いては、もし意識を回復でもしては後でまた面倒になると思い、それなら交通量も多い街道だけに交通事故を装った方がいいと考え、その交通事故を装うには死亡事故がいい、そのためには気絶状態になっている岩田を殺して死なせなければと考えた。」と説明され、岩田の頭を縁石に「殺してやる気持で一気にぶちつけてやった。すると側面に岩田の頭のてっぺん辺りがゴツンと鈍い音をたて、岩田は一声も出さず、それまでぐったりしていた以上にぐったりとしてしまった。」ということになり、再び、「そこで手を離し、永井に『もう少し端に寄せておけ。』といってそのままその場を離れて店に戻った。」という供述に帰る。
7・15<検>では、殺意を抱いた理由は、「ダンプ屋の近くまで引きずって来た時このまま交通事故を装って殺してしまえば私達のやったことはわからないと思った。」からだとなり、「あとに残った永井が死体をどのように置いたのか判らなかったが、後日岩田は縁石の上に頭をのせるようにして死んでいたということで、永井に私が『もう少し端に寄せておけ』と言ったので、そのような格好に置いて交通事故のように見せかけたことがわかった。」との説明が付加される。
七月一七日の調書では、岩田が一旦息を吹き返すことになる。すなわち、7・17<員>では、「岩田を路上に一旦うつ伏せにしておいたところ、岩田は気がついたようだったので、岩田を仰向けにしたと思う。ウーンとかなんとか言って一寸動いたようだったので気がついたことがわかった。そこで『この野郎気がついてどこかに行ってしまうと困るから自動車にひかれたようにするから、頭をぶつけるから。』とかなんとか言った。」と述べ、そして、岩田の頭をぶつけた後、「頭を持って縁石の上に置いたのではないかと思うが、そのところははっきりしない。」、岩田の頭をぶつける時、「永井がどのように岩田を持って持ち上げたか良くわからない。」「そして、そのようにした後永井は私より先にその場を立ち去ったのがいいと思う。よく考えてみると、私が後にその場を離れたような気がする。」と、重要な部分がどんどん変り、塚本被告人は岩田の左腕をつかんで頭をぶつけたということになる。
最後の7・17<検>では、岩田の右腕を持って引きずって行き右腕のつけ根と首の下を持ってぶつけたことに帰るが、岩田を引きずって行った時の気持は、倒れた岩田に「重傷を負わせてしまったと思い、このまま放っておけば死んでしまうと思い、店の前に置いたのではまずいと思って」と変り、殺意については、「車道に置いたところ、岩田がウーンとうなって一寸体を動かしたので岩田が気がついたことがわかった。それでこのまま放っておいては私達のやったことがわかってしまうので交通事故を装って殺してしまえば私達のやったことはわからないと思い」と説明されることになる。そして、「永井が一足先に帰り、私は少し遅れて店に戻った。」ということになり、遂に岩田の頭を縁石にのせた人間は消えてしまうのである(このように言うためには少し説明を要する。7・8<検>では、塚本被告人が縁石に岩田の頭をのせたように言い、7・15<検>では「端に寄せておけ。」と永井被告人に言って一足先に帰ったので、後で永井被告人が岩田の頭を縁石にのせたことがわかったと言い、7・17<検>では、永井被告人が一足先に帰ったというだけで、この点について全く記載がないのでそのように解するほかないのである)。塚本被告人が岩田の右腕を持ったこと、永井被告人が一足先に帰ったことは、H供述に合わせられたのであろうか。
これは驚くべき供述の変転である。しかも、かかる供述が、「決して作り事や取調べから逃れようとして想像で申し上げるのではなく」(7・7<員>)、「正直に」、「事実に基づいて申し上げたこと」(7・9<員>)だというのである。最後の七月一七日の調書でさえ、塚本被告人が岩田のどちらの腕をもってぶつけたか、縁石の上に頭をのせたかどうかなどについて、両調書の間には食違いがあるのである。塚本被告人も永井被告人も岩田の頭を縁石にのせていないことになるような供述(同日付<検>)に信用性があるものであろうか。塚本被告人の自白が永井被告人の自白とも食い違うことは、後に見る通りである。
そもそも、午後一〇時半ごろ愛人のG子の所で泊るつもりで自宅を出たと思われる塚本被告人が、何故に、壁一重隣りの「津軽」までたどりつき、G子の終業を目前にしながら「花」へ寄らずに帰宅しなければならないか。その理由がわからない。7・9<員>は、店のことが心配だったというが、納得の行くような理由は示されていない。それに、飲食店のマスターが、酔った客(それも少年時からの友人)に前記のような乱暴をし、重傷を負わせたからといって、「意識を回復したら後が面倒になると思ったから」(7・9<員>)などというのは論外としても、犯跡隠ぺいのために(7・15<検>、7・17<検>)殺害を決意するものであろうか。
塚本被告人が、十指に余る粗暴犯(ただし殺人や傷害致死はない)の前科の持主であるとしても、この心理には飛躍があり過ぎるように思われる。そのうえ、ぐったりしている岩田の体を両側から持ち上げて、深夜とはいえ自動車の往来のある道路上で、高さ二五センチの縁石に頭頂部を激突させるという殺害方法も、たとえ不可能ではないとしても、まことに不自然に思われる。
塚本自白には、真犯人にしか語れないいわゆる秘密の暴露といわれるものが全くない。供述されたすべての事柄は捜査官が既に知っているか、もしくは容易に想像することのできるものであった。自白においては、犯行のあら筋ではなく、被告人にしか語れない細部が重要なのである。塚本自白については、暴行の態様や、犯行後岩田の頭を縁石の上にのせたかどうか、塚本被告人と永井被告人は一緒に「チェリー」へ帰ったか、あるいは塚本被告人が先か、永井被告人が先か、などという細部について供述がぐるぐる変っており、真実味が感じられない。「チェリー」店内に帰った時、小嶋に会わなかったことや、A子が何もきかず、塚本被告人からも話をしなかったことなどは一貫してそのように述べているが、これらはそのこと自体が納得し難い。殊に、先に店内へ入った小嶋から、「岩田が倒れて頭から血が出ている。」旨を知らされていたA子が、塚本被告人に何の質問もしなかったなどということは、考えにくいことである。
塚本自白は、全体として人間行動の心理が不自然であり、犯行及び犯行前後の細部において生き生きとした真実味を欠いており、塚本上申書類におけるアリバイ関係の供述や、自白強要、自白調書形成過程のこと細かな描写が、真に迫り、人に訴えかける迫力を持っているのと対照的である。
九 永井自白の任意性について
永井被告人と塚本被告人とは、塚本被告人が永井被告人の板金塗装業の顧客であり、永井被告人が「チェリー」の顧客であるという関係にある。
永井被告人は、事件発生直後の取調べから本件を否認し、六月二六日逮捕後七月一〇日に自白したが、再び否認に転じ、同月一五日再び自白し、同月一六日の最後の自白調書に至っている。録取された供述調書は次の通りである。
原審提出分
当審提出分
(ただし供述経過立証のためのもの)
6・25<員>海野(結城署)否認
6・27<員>小林(下館署)否認
7・5<検>井上(下館区検)〃
7・10<員>大山(〃)自白
7・15<検>井上(下館区検)〃
7・15<員>大山(下館署)自白
7・16<検>〃(〃)〃
7・16<員>〃(〃)〃
永井被告人は、第一回公判以後再び否認に転じた。
右否認供述の内容は終始一貫しており、「午後一〇時半ごろ自分の自動車(コロナ)で『チェリー』へ行った。小嶋が飲んでいた。午後一一時過ぎごろ初対面の岩田が来た。午前零時四〇分ごろA子が看板にしたいというので、小嶋及び岩田より先に店を出て、店の前に駐車しておいたコロナに乗って自宅のある岩井市方面へユーターンする時『チェリー』の反対側の縁石に乗り上げたため、『チェリー』に入って小嶋とA子の助けを求め、手伝ってもらったが動かないので、A子にサニーを借りて自宅へ帰り、妻I子にサニーを運転させ、自分がレッカー車を運転して戻った。この時岩田は『チェリー』の入口のドアのところに道路の方を向いて立っていたが、変った様子はなかった。その後、小嶋の助けを借りてレッカー車でコロナを引っ張り出し、これをI子が運転し、自分がレッカー車を運転して帰宅した。その夜塚本被告人には会っていないし、本件犯行は全く関知しない。」というのである。
これに反し、自白の内容には、後記のように変遷がある。
永井被告人は、警察官による取調べについて、連日連夜長時間の取調べを受け、否認供述を受け付けず、取調べ中片手錠をされ、否認したり黙っていたりすると、手錠のひもを引っ張って自白するよう求め、「手前の頭は腐っているから刺激を加えてやんなくちゃわかんねんだんべ。血の巡りが悪いんだんべ。やってないと言えば済むと思ってんだんべ。今まで教えたことがわかんねえんだんべ。」などと言って頭を殴ったり、足を蹴飛ばしたりされ、椎間板ヘルニヤで腰が痛いからと訴えても椅子に正座させて姿勢を崩すことを許されず、医者に見せてくれといっても相手にされないなどの強制拷問を加えられたほか、「警察がおっかないか、やくざ者がおっかないか思い知らせてやる。手足の凍る思いをさしてやる。」「お前のことはどんなことがあってもぶち込む。」「手前のおっかあ(妻)も共犯で逮捕する。」などといって脅迫され、「塚本が泣いてこのようにやったといっているので間違いない。お前も認めろ。」と言うなどの偽計を用いて、自白を強要されたため、精も根もつき果て、供述を押しつけられるままに認めてしまった。七月一〇日の最初の自白の時はくやしくて思わず泣いてしまった旨原審で供述し、当審で、「小嶋と塚本が一緒にやったと言っている。」「Hが見たと言っている。付近の人が見ている。」「お前とお前のかあちゃん(妻)だけがやってないだのなんだのて言ってるだけなんだぞ。あとの人は皆なやりました、見ましたと言ってんだよ。」「やらないと言うんじゃない。」などと言ってこちらの言うことを全く聞こうとせず、「てめえは人間か。」「認めないならてめえを主犯にしてやる。」「極刑にしてやる。」などと言って大声でどなられ、机を叩いて調べられた旨補充して供述している。
右取調べ状況及び自白調書成立過程は、永井被告人作成の上申書二通(原審で却下されて取り調べられなかったもの)、最終陳述に代る弁論要旨において、順を追って整理詳述されているが、その内容が細部にわたって迫真力をもって活写されていて(若干の記憶違いは免れないとしても)、到底虚偽のものとは思えないことは塚本被告人の場合と同様である。
七月四日から永井被告人を取り調べた警察官大山豊吉は、当然のことながら右のような自白強制過程を否定し、片手錠については、原審ではかけていたかも知れないがはっきりした記憶はないと証言しながら、当審では、一審の後で補助者に電話できき合わせたところ手錠は全部外したというので片手錠でないことは間違いないと証言する。しかし、右当審証言は信用できない。
そして、当審で取り調べた下館署の留置人出入簿によれば、連日連夜長時間にわたる取調べがなされた(午前は早い時で九時ごろ、午後は遅い時で一〇時二〇分ごろ)ことが認められる。また、永井被告人に腰椎々間板ヘルニヤの持病があることは関係証拠上明らかであり、後に述べるように、同被告人が七月一一日(最初の自白の翌日)検察官に対して警察での拷問を訴えていることも認められる。
以上によれば、少くとも、大山刑事らが、連日連夜長時間にわたり片手錠のまま取調べをし、この間永井被告人を頭から犯人扱いして否認供述を受け付けず、黙っていることも許さず、時に暴力を振うなどして自白を強要したことは明らかであるというべきであり、前記のような否認―自白―否認―自白という供述経過及び自白内容の変遷を併せ考えると、任意性に関する永井被告人の前記供述は信用し得ると考えられるところであって、警察官に対する自白調書に任意性を認めることはできないというべきである。
検察官調書について、永井被告人は、七月一〇日に初めて自白した翌日井上検事が下館署に来て調べられた時、「昨日の自白は嘘である、自分はやっていない。警察の取調べで拷問を受けた。」旨訴えたところ、何も聞いてくれず、気嫌を悪くして、「まだ時間も十分あるからよく考えて警察官に事実を申し述べよ。」と言われ、そのまま従前と同じような警察の調べが続けられた。七月一五日の取調べの際には、大山刑事が傍にいるので、後刻警察に帰って拷問を受けるのがこわくて、否認することもできず、また、七月一一日の際の検察官の対応の仕方から拷問のことを言ってもきいてもらえないだろうという気持も強く、警察の自白調書通り認めてしまった。七月一六日の取調べについては、七月一五日の検事調べの後、井上検事と大山刑事が何かひそひそ一〇分位相談していたが、下館署に帰って来て、大山刑事から、「帰りに検事と相談して来たんだが、お前は嘘を言っている。そうじゃなくてこうやったんだろう。」「被害者の傷はこういう風にやらなきゃできないんだ。」などと言って殺害方法について説明を受けながら夕食抜きで調べられ、調書(七月一六日付)を取られた。余りひどいやり方なので「事実はやってないんだからもう一度調べ直して欲しい。」と言ったところ、「今まで俺が言って来たのをなんだと思ってきいているんだ。唯じゃおかない。」と言われ、恐しくなって一応署名だけはした。しかし、なんとしても納得がいかないので「自分はやってないんだから、もう一度調べ直して欲しい。」と言ったところ、「今更何を言ってんだ。」と言って私の左手をつかんで墨をつけてその調書に指印を押してしまった。そして、「今言ったのも俺の前だからいいが、明日検事の前で否認したりしたら唯じゃおかない。この後判事とか検事の前でそんなことを言ってもしお前が釈放になるようなことがあれば、俺が退職してでも手前の始末をつけてやる。お前人間魚雷というの知っているか。俺は志願してそれに乗ろうとしたんだ。幸い敗戦になったが、そこで人殺しの仕方しか教わって来なかったんだ。手前これから下手なことを言って釈放にでもなったら俺が退職して始末してやるからそのつもりでいろ。」と言って脅かされていたし、その大山刑事が後ろのテーブルに坐っていたので、認めるほかなかった。くやしさと疲労に負けてしゃくりあげるような状態の下で、検察官の自問自答のような形で調書が作られた(永井被告人の原審供述)、検事調べの時検察事務官が立ち会ったことはない(当審供述)、というのである。
検察官調書作成の際、検察事務官の立会がなかったことは、井上検事が自ら調書を作成していることから推認される。大山刑事が立ち会っていたことも、井上検事がこのことについて原審公判廷で全く反対尋問をしていないことから肯定される。七月一一日に同検事に拷問を訴えたことは、同検事がこのことについてなんら反対尋問をせず、かえって、「一五日、一六日の調べの時こういうことがあるんです検事さんということを話してもよかったんじゃないんですか。」と反問していることによって明らかである。このような場合、検察官としてなすべきことは、取調べ警察官の立会を排し、検察事務官の立会いを求め、永井被告人に対して拷問の有無についてききただし、自白が真意に出たものであるかどうかを確かめることであろう。同検事のしたことは、警察の拷問を遮断することではなく、むしろ、それによって得られた自白を確保することであったといっても過言ではない。
検察官調書に任意性の認められないことは明らかである。
永井被告人の自白調書の任意性の否定されるべきことは所論の通りである。
次に、前同様永井自白の信用性について検討しておきたい。
一〇 永井自白の信用性について
岩田が倒れるまでの状況について、7・10<員>の要旨は、「『チェリー』で店の中から二階に行く入口を背にして飲んでいるうち、『小嶋連れ出せ。』という塚本の声がしたのでふり返ると二階への出入口の所に塚本が立っていた。小嶋が胸倉をつかんで岩田を表へ引き出した。表で大声で言い合い殴るような音がしていたので、喧嘩になってしまう止めてやらなければと思ったので、A子になんとかいって表に出た。ドアの前の所で二人が胸倉をつかみ合うようにしてどなり合っていたので、二人の間に割って入ったら、岩田が私の胸倉をつかんで来たので右足で太腿か腰の辺りを蹴とばした。又つかみかかって来たので右手で岩田の顔の辺りを突きとばした。この時塚本が横に立っていて、『この野郎いつまでふざけていんだ。』といって、岩田の腕の辺りをつかんで膝蹴りで下腹辺りを蹴ったので同人はうずくまった。今度は、塚本が胸倉をつかんで引き起こし、顔の辺りに頭突きをしたりした。そのうちに岩田は倒れる時大谷石塀に頭を打ちつけたらしく倒れて動かなくなってしまった。」というのである。
7・15<検>では、塚本被告人の岩田に対する言葉に、「ぶっ殺してやる。」という文句が加わり、「頭突きをした後、よろけるところを引き戻し拳骨で殴りつけ後の塀へ突きとばした。」と変る。
7・16<員>では、小嶋と岩田が表へ出た後、「表のどなり合う声や殴り合っているような物音を聞いて、私は生来喧嘩口論はできるだけ見ても見ないふりをするほうですので表で喧嘩になってしまったなとは思ったのでありますが、ウイスキーを飲んで知らんふりをしておりますと、ママが笑いながら『永井さんちょっと見て来てくれる。』と言うのでアルコールも入っていた関係か気軽に立って」表へ出たということになる。
7・16<検>で、岩田が倒れた後、「口から血を流しており、ぐったりしていた。」旨付加される。
岩田が倒れた時の姿勢については、7・10<員>では、うつ伏せになって動かなかったといい、7・15<検>では、右側を下にしてやや仰向けの状態で倒れぐったりしたといい、7・16<員>では、身体を斜め横になる形で結城方面に顔を向けるような形で倒れたという。
やはり、相当の変遷である。
塚本被告人の突然の登場を説明するために、カウンターを背にして飲んでいたとする点は、いかにも不自然である。塚本被告人が、「小嶋連れ出せ。」と言ったという点は、小嶋の<員><検>と異なっている。塚本自白にもない。永井被告人が塚本被告人より先に出たという点が塚本自白と逆になっている。小嶋が倒れた岩田にまたがって肩の辺りを持ってゆすぶったという小嶋・H各供述のくだりもない。塚本被告人が岩田の顔の辺りに「頭突き」をしたという特異な暴行方法が初めて登場する。「膝蹴り」というのも永井自白で初めて登場する(他では、前記の通り膝蹴りが小嶋7・17<検>に突如として出て来るだけである)。顔の辺りへの「頭突き」や「膝蹴り」というような特殊な暴行方法が用いられたとすれば、塚本被告人自身の自白や、小嶋やHの供述に出て来ないはずがないのである。
以上の点が注目される。
岩田の殺害については、7・10<員>の要旨は、「塚本に『そっち側を持て。』と言われてうつ伏せの岩田の右腕を後から抱えるように持ち、塚本が左腕を持って、岩田の上半身を引き上げて起こすようにして、歩道を人家の切れた辺りまで引きずって行った。その辺から車道側に出て、塚本が『酔払いが倒れたように見せべ。』と言って縁石の近くで私に『離せ。』と言うので腕を放すと、塚本は岩田の腕をつかんで遠心力を利用するようにして振り回して縁石の横側に頭をゴツンと打ちつけてから、私に『この野郎もし起き上って行かなかった時は困るから車にひかれたように見せっぺ。俺がやっておくからお前は行っちまえ。』というので、逃げるようにして車の所に戻りバックして車道に出してから道路上で方向を変えようとしたが、あわてていたので運転を間違えて縁石に乗り上げてしまった、云々。」というのである。
7・15<員>では、「前回言ったのは勘違いで私が岩田の左腕を持ち、塚本が岩田の右腕を持った。」となる。これはH供述に合わせたのであろうか。
7・15<検>では、殺害方法が、「縁石から一メートルないし二メートル位の位置に正対し、塚本は、それまで岩田の左腕の下へ差し込んで巻きつけていた左腕を抜き、そこへ右腕を差し込んで巻きつけ左手の平を後頭部にそえるように形を変え、『俺が声かけたら手放せ。』と言った。そして、塚本は、いきなり右腕の力を入れてぐいと引っ張ると同時に左手で前へつんのめさせた時『おお。』と声を出した。それが合図と思い私はその時岩田の左腕を抱えていた両腕を抜き放した。すると岩田の体は塚本に引っ張られ右回転するように左肩辺りから下に落ちて行き頭を縁石に叩きつけた。」ということになる。
七月一六日の調書では、殺害時の状況と殺害方法は一変する。7・16<員>では、「岩田の頭を一旦縁石から三〇センチの所にしてうつ伏せに置いたところ、ウーンと言って動いた。塚本が、『この野郎気がついた。』と言ってから私に『おうこっちに来う。』と言うので、近寄ると、塚本はかすかに動いている岩田を結城側の方に肩の辺りを押してゴロンと仰向けにしてから『ぶつけんだから足と手を持って持ち上げろ。』と言われ、倒れている岩田の右側に行き、塚本は左側で両方から抱えてはずみをつけて縁石に頭を打ちつけたら、ゴクンというような音がした。」と変る。7・16<検>も、塚本が岩田の顔を仰向けにした時、「顔をのぞき込んだら鼻と口辺りから血を流しており目をつぶってだらんとしていた。」と付加され、殺害方法が整理されて、「永井が岩田の右側へ行って中腰になって右手を股の間から入れて内側から太腿あたりのズボンをつかみ左手で右腕の肘の上辺りのシャツをつかみ、塚本は岩田の体の左側でかがむような形で左手で太腿の辺りのズボンをつかみ右手を岩田の頭の下へ差し入れて頭を持ち上げて……反動をつけて岩田の頭を縁石目がけてぶつけた。」ということになる。岩田の左右どちら側にいたかの点で塚本自白とは逆になっている。原判決はこの殺害方法を採用した。
永井被告人のこの七月一六日の自白は、前日までの自白とまさに決定的に矛盾する。岩田のどちらの腕を持ったかなどは大したことではないと考えるとしても、殺害時の被害者の状況と殺害行為の態様は全く違う。一方は、塚本被告人の立ったまゝでの一人舞台とでもいうべき甚だ不自然かつ困難な方法であり、(もっとも7・15<検>の方法はよく理解できないが)他方は、気がついた被害者を仰向けにしたうえ二人が中腰になってのこれも困難な共同作業である。
永井被告人が、このような殺害行為に協力した動機として、「塚本に逆らえばどんな仕返しをされるかと思ってこわかったからだ。」(7・16<検>)と説明されているが、「生来喧嘩口論はできるだけ見て見ぬ振りをする」(前掲7・16<員>)という温和な性格の持主(当審証人永井酉次、同天野龍夫、同内山勲の各証言。永井被告人には交通関係の罰金前科三犯があるだけで他に前科前歴はない。)で、しかも「二人の喧嘩を止めなきゃいけないという気持で外へ出た。」(7・15<検>)という永井被告人が、酔払いが仲裁に入った自分の胸倉をつかんで来たからといって、恨みもない相手に殴る蹴るの乱暴をし、あげくの果てはその殺害に協力するというような行為に出るとは容易に考えられないところである。
永井被告人が一足先に帰ったために岩田の頭を縁石にのせた者もいなくなっている。
永井被告人は、何故にこのような困難な殺害方法を述べ、また、一晩のうちに殺害方法を変更するようなことになったのか。その理由は、恐らく、取調べ官が殺害方法について知るところがなく、また、岩田の頭を誰が何故に縁石の上にのせたかわからなかったからであり、更には、塚本被告人の自白と合わせる必要があったからである。そして、最大の理由は、永井被告人が殺害方法を知らなかったからではなかろうか。
いくら、「怖しさで気が動てんしており、こと細かなことまでの記憶は残っていないところもあるが、六月二四日の晩『チェリー』の前で私と塚本、小嶋の三人で岩田さんに殴る、蹴るの乱暴を加え、倒れてぐったりした岩田さんを私と塚本で引きずるように引っ張って行き車にひかれたようにしようということで岩田さんの頭を道路の縁石にぶつけたことは間違いないことなのです。」(7・15<検>)と言ってみても、そのようなことで、永井自白の信用性が増すわけではない。屈服した被疑者は、このような概括的自白を何回でも繰り返すであろう。本当の犯人であれば、犯人しか知らない細部にわたる明確な供述ができるはずである。永井自白は、このような供述に欠けるばかりでなく、記憶違いなどするはずのない重要な事項について変更があり、その変更について納得できる理由は示されていない。(7・16<検>は、「私が昨日あれだけ申し訳けないという気持で話しながらなおかつこの部分<岩田の頭を縁石にぶつけた状況>を隠し嘘を言ったのはその時の岩田さんの顔やその時の状況がまだ目の底に焼きついていて自分ながら本当に怖しいことをしてしまったと言う気持で自分自身が怖くて本当のことを言い出せなかったのです。ところが昨日の調べのあとまだ隠しごとをしていて申し訳けないという気持になり本当のことを今日申し上げる気になったのです。」というが、到底首肯できるものではない。)
永井被告人作成の上申書類では、逐一手に取るように、本件犯行の状況について個々的に詳細に強烈な誘導と暗示の内容を摘示し、同被告人が抵抗しようとしながらも、その都度それができずに認めさせられて自白が形成され、調書が作成されて行った経過が明らかにされており、十分納得できるのである。
永井被告人の自白に、自白を信用あるものとさせる自発性、確実性、合理性、具体性、完全性、堅固性の欠けていることは所論の通りであり、このことは塚本自白についても同様である。
一一 塚本・永井両自白の信用性について―まとめ
被告人両名の原審並びに当審における供述、上申書類における被告人両名の真摯な態度、率直で確信に満ちたよどみのない語り口、供述内容の一貫性、豊かさと自然さ、明確性、細部の個性等は、あいまいで、動揺が多く、不自然な塚本・永井両自白と際立った対照を感じさせる。このような両自白に信用性を認めることはできないというのが、当裁判所の結論である。
右両自白によっても、岩田の頭部から七〇センチないし二・二メートルの範囲に(主として歩道上に)被害者の頭髪に類似する毛髪八五本が四か所からかたまって発見された(当審取調べの6・26<捜>、七月四日付鑑定書)ことについては全く解明されず、岩田の頭部が縁石にのっていたことについても十分な解明はなかった(誰がのせたか不明のままであるし、交通事故死のように見せかけるためだという塚本被告人の説明も納得し難い。)縁石側面についていた痕跡等についても両自白で触れるところがない。
更に、両自白は、死体放置場所から結城市街方向に約四二・一メートルあった車道上のルミノール反応(七月一八日付実況見分調書、原審第一八回公判期日に至って漸く提出されたもの)についても言及するところがない。原審証人谷恒則、同大山豊吉は、発光状態が弱く、発光地点が等間隔であることから、車か何かから魚汁が落ちたものと判断し、試薬も切れたので、それ以上の試験をしなかったと証言する。しかし、実況見分調書には発光状態の違いについてなんの記載もなく、発光地点も必ずしも等間隔でなく、しかも歩道上の発光地点と連続しているように見えるので、右証言は信用し難い。もっとも、車道上のルミノール反応が血痕と証明されている訳ではないから、両自白は実況見分の結果と矛盾するものではない旨の原判決の判示が誤っている訳ではない。
以上述べたところから、塚本・永井両自白についての原判決の判断―「重要な内容についての供述の変転は、右供述の信用性を損なうものではなく、罪責をいくばくかでも軽減しようと図った結果であって、却って最終的に得られた供述の信用性を高めている」―が如何に的外れのものであるかは明らかであろう。原判決は、「(Hが、(1)の事実=岩田を引きずって行った時の状況、(3)の事実=殺害現場から『チェリー』に戻る時の状況を目撃した旨供述しており、(2)の事実=殺害の方法については目撃者がいなかったのであるから、)右被告人らの取調に当った捜査官が右(1)ないし(3)の事実につき自らの意のままに供述内容を押しつけ、全くの想像で被告人の自白調書を作成しようと思えば、(1)(3)の事実については前記Hの供述調書の記載内容((1)被告人塚本が岩田の右側で、被告人永井が左側に立って脇の下を持ち上げてひきずって行った(3)被告人永井が先に戻ったという事実)に一致させ、(2)の事実については客観的に不合理さのない事実を予め作出したうえ、右被告人らに対して共通の供述内容を得るのが当然である。」という。しかし、自白の強要とは、捜査官の想定した事実をそのまま押しつけることに尽きるものではないし、「全くの想像」である以上、犯行の経過や細部についてはイメージが変化し得るのである。それに、自白を強要する取調官も真実の自白が欲しいのであって、そのためには、誤りの可能性のある目撃供述や、ただの想像を単純に押しつけるだけでは済まないであろう。ある程度までは「自由」な供述を許すほかないのである。本件取調官らもできるだけ真実の自白を得るように努力をしたであろうし、それが供述記載内容の相異と変転を生んだのであろう。そして、この点については、検察官が二人関与したり、県警本部からの応援があったり(例えば安克博)で、捜査が必ずしも組織的統制的に行なわれなかったことも関係していると思われる。しかし、それにしても、結局のところは、右(1)(3)の事実はH供述に、右(2)の事実も「客観的に不合理さのない事実」(永井最終自白の殺害方法を原判決はそう評価しているのであろう。)に、おおよそのところは合わせられていることは、先に見たところから明らかである。もっとも、先に見たように、岩田殺害時の被告人らの位置が左右逆になったり、岩田の頭を縁石にのせた者がいなくなってしまったことなどは、一種のミスというべきであろうが、これらが本件捜査の救いになっているのである。
一二 ポリグラフ検査について
当審における証拠調べの結果により、本件について、七月三日仁瓶康(茨城県警察本部刑事部科学捜査研究所技術吏員)が、塚本・永井両被告人に対してポリグラフ検査を実施し、その結果は、被告人らの否認供述は虚偽である旨判定されたことが明らかとなった。しかしながら、ポリグラフ検査結果の判定は困難であり、当日までに被告人らは本件の内容について相当な知識を得ていたと認められるので、被告人らに現出した反応が虚偽を述べたことによるものか、いわゆる連想反応に過ぎないものかについてこれを的確に区別することができないから、右判定は、必ずしも信用できず、前記両自白の信用性判断に影響を及ぼすものではない。
一三 塚本被告人のアリバイについて
塚本被告人は、取調べの当初から、アリバイを主張し、「午後一〇時半ごろ『チェリー』を出て、自分の日産セドリックで下館市川島の『利喜ホルモン』へ行って生ビールを飲み、午前零時一寸前ごろそこを出て、同じく川島にある飲食店『津軽』に行き、ビールを飲んだ。ここで飲んでいる時冨山信昭が来て一緒になり、午前一時一寸過ぎ位に二人で『津軽』を出て、一人で愛人G子の経営する隣りの飲食店『花』へ入った。店内に永田晴美とその連れの飯岡香がウイスキーを飲んでいた。永田にすすめられて一緒にウイスキーを飲んだ。G子の友達のホステス『さつき』から電話がかかって来て、自分も飯岡も同女と電話で話をした。また、永田にすすめられて自動車を下取りに出して新車を買うことにし、翌日永田方で水戸日産のセールスと会う約束をして、午前二時前後ごろ店を閉めて四人一緒に『花』を出た。雨が降っていたので永田に、『車だから送って行こうか。』と言ったが、『そこにトラックがあるから。』ということだったので、そこで別れた。そのまゝ車で下館市伊讃山のG子のアパートに行ってそこで泊り、翌日昼前に永田の経営するガソリンスタンドへ行き水戸日産のセールスマンと新車購入の契約をした。」と供述し、その内容は一貫しているのみか、次のように関係者の証言によって裏付けられている。
ところで、もし、塚本被告人が午前一時ごろ「津軽」を出て「花」へ入り、そこで永田らと飲酒していたというアリバイが成立すれば、捜査官側の本件全構図は一挙に崩壊してしまう。捜査官側がアリバイ崩しのため関係者に相当の圧力をかけたことは容易に想像されるところである。従って、アリバイ関係者の供述は、これらの圧力との相関関係で吟味される必要がある。
(一) 丸山健次の証言
同人は「津軽」の経営者であり、「当夜一一時半ごろ塚本が来店し、ビールを飲んだ。冨山信昭が一二時半過ぎごろ来店し、午前一時一寸過ぎ位に二人一緒に店を出た。」と証言する。もっとも、当審で提出された同人の7・4<員>によれば、「塚本らが店を出たのは午前零時一寸過ぎごろだった。」というのであるが、同人の原審及び当審証言によれば、警察官から「お前の言う時間は一時間ずれている。」「頼まれたんだろう。」などといって言うことをきいてくれず、そのような調書ができたというのであって、以下の関係証人の供述に照らして、同人の証言は信用できる。
(二) 冨山信昭の証言
同人は「冨寿司」の経営者であって、「前日『津軽』の客から預った借金払いの金二万円を届けに午前零時三五分ごろ同店に寄った。知合いの塚本がいてビールを飲んでいた。午前一時一〇分前ころ塚本と一緒に店を出て、表で別れ、塚本は隣りの『花』へ入って行った。」旨証言する。もっとも、同人の7・5<員>には「午前一時前ごろ塚本と『津軽』を出て店の前で別れた。」との記載があるのみで、「花」へ入ったとの記載はない。しかし、同人の証言によれば、「いくら『花』に入って行くのを見たと言っても、『そんなことはないんだ。入ったというのは絶対でたらめなんだ。』と何回も言われて取り上げてくれなかった。」と言うのであり、別れてからの塚本被告人の行動に全くふれていないことからすると、右調書は、塚本被告人のアリバイを成立させるような右供述部分を削って記載したと見るのが相当である。
アリバイ工作との疑いのもとに、「被告人塚本も六月二五日午後一一時三〇分ころ現実に『津軽』にいたことが認められるため、比較的多数の証人を作出しえたと考えられる」として、たやすく冨山証言の信用性をも看過した原判決の誤りは大きい。
(三) 永田晴美の証言
同人は、ガソリンスタンドの経営者であるが、「その晩自宅で従業員の斎藤と酒を飲んでいるところへ午後八時半ごろ飯岡香が一人従業員に使ってくれないかという話で来、共に飲酒し、飯岡と二人で自転車に乗って『花』へ行った。行ったのは午後一一時五〇分ごろである。私のボトルを二人で飲んでいるうち午前零時三〇分ごろ塚本が来た。一緒に飲み、塚本が車を取り換えたいと言っていたので翌朝永田方で水戸日産のセールスを紹介することにした。塚本が来てから二〇分程して四人で店を出た。店を出る時雨が降っており、G子と塚本から家まで送ると言われたが、『小学校跡に自転車があるから結構です。』と言って断った。翌朝私方へ塚本が来て、水戸日産古河営業所の青山とセドリックの契約をした。」旨原審で証言し、当審で、更に、「『花』で三人で飲んでいる時『さつき』という人から電話があり、塚本も飯岡もその電話に出ている。」旨証言している。
もっとも、同人の7・15<検>によれば、「午前零時五分か一〇分ごろから一時一五分か二〇分ごろまで『花』で飯岡と飲んだが、その間客は一人もいなかった。」というのであり、「初めの調べのうち塚本と会ったように言っていたのは、G子から嘘を言うように頼まれたからだ。」と供述している。また、当審で提出された6・30<員>、7・1<員>、7・8<員>も同旨である。これらの供述調書について、同人は、原審及び当審で、「警察で何度も長時間調べられ、『いた。』と言っても『いない。』と言って受け付けてくれず、『早く本当のことを言って帰った方がいい。』『本人も飯岡も会ってないと言っているのに、なんでかばうんだ。』などと大声で机を叩かれてきつい調べを受け、やむを得ずそのように述べたことになってしまった。」と証言する。右各調書によれば、同人が、六月二八日、七月六日、七月八日の三回にわたって「塚本がいた。」旨供述したことが明らかであり、当審の最後に提出された6・28<員>によれば、六月二八日には、同人が公判証言と全く同旨の供述をしていたことが認められる。アリバイ工作に加担して虚偽の供述をしたことを警察に告白した人間が、その後一度ならず、二度までも、それは嘘で前に言ったことが本当だと言ったりするものであろうか。永田に「いた。」と言われれば、塚本被告人のアリバイが成立してしまうから、警察も必死であったであろう。その圧力をはね返して、三度「いた。」と供述したのである。そして、圧力のとれた公判で、再び「いた。」と供述するのである。「塚本は元暴力団員でもあり、後日出所した時『花』のママの頼みもきかず本当のことを話したことがわかったら仕返しに何をされるかわからないとこわかったので、嘘のことを申しました。」(永田7・15<検>)という説明は、果して右のような供述変転の理由付けとして納得できるものであろうか。原審は、永田のアリバイ工作加担告白に心を動かされたようであり、「関係者の間で活発なアリバイ工作がなされていた節もある」として永田のみならず、飯岡を除くアリバイ証人全員の証言を信用しなかった。しかし、一体、肝腎の飯岡を抜きにしたアリバイ工作などあり得るものであろうか。G子は、そのような馬鹿なことをする愚かな女性とは思われない。G子からは、「塚本がいたことだけははっきり言ってくれ。」と言われただけだという永田証言の方が真実ではなかろうか。永田は、六月二八日同人方で警察官の調べを受け、「塚本はいた。」と供述し、その旨の調書が作成されているのであるが、その際飯岡を呼んで立ち会ってもらっている(当審証言)。このことについて、永田7・1<員>は、「警察の人に塚本が来ていたように話すことをきいてもらって、暗黙のうちに飯岡にもわかってもらって話を合わせてもらいたいと思った」からだと述べている。しかし、飯岡に「それは違う。」と言われてしまえばそれまでである。話を合わせてもらいたいのであれば電話でそう言えばよいのである(実際、二人が当夜自転車で「花」へ行ったことにしようと話し合い、永田が、ずっと自転車で行ったと述べていることは後に述べる通りである)。永田が飯岡を呼んだのは、まさに同人の供述の真実性を担保する証人としてであったと認められる。「塚本がいた。」という供述こそ、同人の経験に基づいた真実の供述である。
(四) 工藤加代子の証言
同人は、当時下館市の「炎」で「さつき」という名でホステスをしていた女性であるが、原審で、「友達のG子に毎晩電話をしていたので、その晩も店が終って午前一時半一寸前ごろ『花』へ電話したところ、知った人がいるというので電話を替ってもらい飯岡と少し話をし、塚本もいるというので塚本とも喋った。その後新聞を見て塚本の事件が出ていたので私と話をしたのにおかしいと思った。」旨証言している。飯岡とは昭和五〇年夏下館市のレストランシアター「六本木」で知り合ったというのである。同証言に疑問の点は見当らない。
(五) G子の証言
同女は、塚本供述及び以上の証人の証言に基本的に符合する証言をしている。なじみ客の永田と初めての客の飯岡が入って来たのが午前零時一〇分前か一五分前位で、約一時間後に塚本が入って来、工藤から電話がかかって来たのが午前一時ごろで、それまでの話で飯岡が工藤を知っていることがわかったので、工藤の電話を飯岡に替った、四人で店を出たのが午前一時四〇分か四五分ごろ、帰宅したのが午前二時五分前ごろであると言う。
同女は塚本被告人の愛人であるが、警察官に対しても終始右供述を貫いている。塚本被告人の自供後は嘘のアリバイ供述を続ける必要はないのであるが、塚本被告人の自供後も、そして、その後、新しい愛人ができて、塚本被告人とは喧嘩別れの状態にあるのに、原審でも、当審でも、右アリバイ証言を繰り返しているのである。同女の証言に疑問とすべき点はない。
(六) 青山吉男の証言
同人は、当時水戸日産モーター株式会社古河営業所の販売課係長であり、現在右所長である。同人の当審証言によれば、「六月二五日午前中に永田からの電話連絡で永田ガソリンスタンドへ行き、初対面の塚本に会い、同人の車を下取りしてセドリックハードトップを売ることになり、注文書(契約書)を作成した。日付は所長決裁と車の引当てを早くするため前日の二四日付にした。」というのである。原判決は、注文書の日付などから右購入契約が作為であったかのように言うが、当らない。青山証言に疑問はない。
(七) A子の証言
同女は塚本被告人の妻であるが、当時塚本被告人がG子のもとに入り浸っていたため、離婚話も出るなど両人の間は不和の状態にあった。
同女は、警察官による連日の追及にもかかわらず、一貫して、塚本被告人は同夜午後一〇時三〇分ごろ出たまま「チェリー」へは帰って来なかったと述べて来たものである。警察官による追及がきびしかったであろうことは容易に想像されるが、当審で提出された結城署における同女の取調べについての捜査報告書(7・9付、7・12付、7・13付)によれば、七月九日の取調べは、午前一〇時から午後七時までなされたが、「A子は、『前に申し上げた通りでその他については答えられません。』と申し立て、かつ説得に対しては何を言われても聞こえないようにと、両手掌で両耳部をふさぎ、顔面を下方に向けて答えようとせず、この姿勢を二時間位続けていた。」というのであり、七月一二日の取調べは、午後三時から午後七時までであったが、「A子は、出署当初から興奮しておる様子であり、質問に対しては顔をうつ向き目を閉じて何ら答えようとはしなく、ただ『前に申し上げたとおりです。』と申すだけである。」と、七月一三日の取調べは午後一時一〇分から午後五時五〇分までであったが、「A子は、『前に申し上げたとおりです。』と答えるだけで事実の内容については黙秘を続け特別な供述を得られなかった。」というのである。同女の証言は、実に、このようなきびしい試練に堪えて来たものなのである。このように、塚本被告人の自供後も、同女がかたくなに同一の供述を固執したのは、それが真実の供述であったからであろう。
以上の考察によれば、塚本被告人は本件犯行時刻の午前一時三〇分ころには、「花」にいたことが認められることになる(なお、当審で取り調べた7・2<捜>によれば、同夜下館市小川地内で交通事故が発生し、事故処理車が現場に到着したのが午前一時三〇分だとされているところ、永田・飯岡の両名は「花」からの帰途右事故処理に出会ったと証言しているので、塚本被告人が「花」を出たのは、午前一時三〇分より前ではあり得ない)。
(八) 飯岡香の証言について
しかし、飯岡香は、原審で、「当夜午前零時ごろ永田と共に『花』に行ったが、それから約一時間たって帰るまで新たな客は入って来なかったし、勿論塚本にも会っていない。塚本とは公判廷が初対面である。」旨証言している。そして、原判決は、「同証人は本件及びその関係人に関しいかなる意味においても利害関係のない第三者であ」り、「被告人塚本にアリバイがあることを証言する関係人が多いなかで、敢て虚偽の証言をするとは考えられないから、飯岡の証言は真実であると解するのが相当である。」という。
しかし、利害関係のない第三者であるからといって真実の供述をするとは限らないし、その者の供述が他の多くの者の供述と異なるときには、その供述の信用性には特に慎重な吟味が必要であろう。人はさまざまな理由や原因で虚偽の供述をするものであり、われわれが虚偽の供述の理由や原因を常に知ることができるとは限らない。われわれは、ただ信用できる証拠と対比して、それが虚偽ではないかを疑うだけである。そして、前記アリバイ証言の検討の結果は、むしろ、飯岡の証言の虚偽性をこそ指示しているのである。そこで、当裁判所は、最後に、同人を職権で尋問することとした。
同人は、右供述を再度確認したが、同人の証人尋問の結果は、同人は確かに第三者証人ではあるが、必ずしも誠実な証人でないことが明らかになった。
同人は、原審では、「警察では永田と二人で調べられた時、永田は『塚本がいた。』とは言わなかった、私は『誰も来なかった。』と言った。」と証言していたが、当審では、「永田と二人で調べられたことがあるのは、六月二八日永田方においてであり、同人から電話で呼ばれた。その時は同人が調べられ、同人は『塚本がいた。』と言った。私はおかしいと思ったが、何も言わなかった。」と変更し、また、原審では、自転車で永田方、「花」へ行ったと証言していたのが、当審で、初めは、「永田方へはトラックで行き、同人方から『花』へ、『花』から永田方までは自転車で、同人方からはトラックで帰った。」と変更し、更に、検察官から尋問されると、「『花』までの行き帰りはすべてトラックを使った。旧川島小学校の跡地へトラックを置いた。酔払い運転になるので永田と話し合って自転車で往来したことにした。」と変更したのである。
また、原審では、自分の友達を従業員に使ってもらうよう永田に頼みに行ったと証言していたのに、当審では、何の目的もなく永田方へ行ったと証言するなど、場当りの無責任な供述をする傾向のある証人であることも判明した。
六月二八日、永田方に警察官が来て、同人が飯岡の立会いを求めたことはさきに述べた。永田は当審において、飯岡は、その際塚本被告人が「花」にいたことを認めていたと証言している。永田6・28<員>が塚本被告人がいたということで成立していることからすると、飯岡は、ただ異議を述べなかっただけではなく、永田の言うことに同意したのではないかと思われる。永田の方も同意を求めるのが自然であり、警察官としても、一言その通りか位はきくはずだからである。飯岡には、塚本被告人のいた記憶があったか、少なくとも、塚本被告人がいなかったという確かな記憶はなかったと考えてよい。飯岡は、翌二九日同人方で事情聴取を受けた時、「塚本はいなかった。」と供述し、その旨の供述調書があるようであるが、その際、警察官から、「塚本がいたか、いなかったか。」ということを主にし、「自動車で行ったのではないか。」ということもきかれ、また、その晩塚本が『チェリー』前で殺人をやったことは間違いない。本人もそう言っている。」などとも言われたと証言していること、「その時警察官から酔払い運転のことは目をつむるから協力してくれと言われたのではないか。」との弁護人の質問に対し、しばらく答をためらった後「記憶ないです。」と答え、更に、「記憶がないんですか。」と問われて、「おぼえてないです。」と答えた供述態度などから、飯岡は、飲酒運転による検挙を免れようとして、保身のために、塚本被告人が来なかったという迎合的供述をしたのではないかという疑問を感じざるを得ない。今や、われわれは、飲酒運転を伏せたことと塚本被告人のアリバイを否定した供述とは何らかの関連があるのではないか、当時自己所有の二トントラックで運送業に従事していたこの証人は、警察の望むアリバイ否定供述をすることに利益があり、警察官から同被告人が殺人をしたことに間違いはない旨きかされたため、時間等の記憶のあいまいさもあって、「塚本は『花』へ来なかった。」と供述し、その供述を固執しているのではないか、を疑うのである。
ところで、飯岡は、自分の記憶が正確であることを示そうとして、うっかり、「自動車を運転することができたから」と証言してしまい、結局、当夜トラックで往復したこと、原審でこの点を偽証したことを認めるに至ったのであるが、このことは、皮肉にも、塚本被告人のアリバイ供述を強力に裏付けることになった。塚本被告人は、「花」を出た後永田らは車で帰ったようだ(6・27<員>)とか、「そこにトラックがあるから。」と言って自動車で送ろうという申出を断られた(原審第二四回公判、飯岡証人尋問前の当審第六回公判各供述)と一貫して述べていたが、永田が飯岡との約束を守って、自転車で「花」へ行ったと述べ、「そこに自転車があるから。」と言って断ったと警察でも原審でも当審でも供述するので(なお、G子は、原審では、二人は歩いて行くということで店の前で別れたと、当審で、自転車があるから帰りますということで別れたと証言している)、この点で塚本被告人の供述は十分な裏付けを得られなかったのである。しかし、今回の飯岡証言は、はしなくも、塚本被告人の供述を完全に裏付けることになったと言うことができる。
「塚本は『花』にいなかった。」という飯岡証言こそ虚偽の供述である。
塚本被告人のアリバイの認められるべきことは所論の通りである。
一四 永井被告人のアリバイについて
永井被告人のアリバイ供述の内容は既に任意性の項で述べた通りである。
永井被告人はレッカー車で帰宅した時間について、原審で、六月二五日に結城署の交通係で事情聴取された際、時間の点がよく分らなかったので女房に聞いたら知っているかも知れないと言ったらきいてくれと言うので結城署内から電話をかけて妻に確認したが、その時間は忘れた旨供述していたが、当審で提出された同被告人6・25<員>に、「車を出した時間や、スナックを出た時間については、自分ではっきりしないので私の妻にきいたところ、車を出して家に帰ったのが午前一時三五分ごろと言っていました。これは、妻が時計を見たというので間違いないと思いますが、家の時計は約五分進んでいます。」との記載があり、被告人の右原審供述が裏付けられた。この点は後記のI子の証言とも合致し、レッカー車で帰宅したのは午前一時半ごろと認められる。
午前零時四〇分ころ、小嶋及び岩田より先に「チェリー」を出て、自動車を縁石に乗り上げたため、小嶋とA子の助けを求めたが、動かなかったためA子のサニーを借りるまでのことについては、A子の証言がこれを裏付けている(たゞし、永井被告人の出た時刻は午前一時ごろという)。縁石乗上げについては、永井被告人は左眼が殆ど見えないことと関連があるようである。
もっとも、A子は、6・25<員>では、「午前一時ごろ小嶋と岩田が先に出て、表で喧嘩している声が聞こえたが、五分位してからおさまり、それから又五分位たって永井が『今日持合せがないから。』と挨拶をして店から出た。その後に乗上げ騒ぎがあった。」と述べている。同女は、これは、警察官から、同日朝七時半ごろから夜一〇時半ごろまで取調べを受け、「夫は事件当時『チェリー』にいたろう。永井が乗り上げたのは喧嘩の後だろう。永井も認めている。」と言ってきつく責められたため、永井被告人については右のような調書になってしまったと証言している(もっとも、右調書において述べられている状況は、小嶋らの述べる喧嘩の際の状況とは全く異なっている)。そして、同女は、その後永井被告人が帰ったのは喧嘩の前であると、この点の供述をはっきり変更し、詳しい訂正調書も作成されたと証言するのであるが、A子について右6・25員面調書同様の検察官調書が作成されていないことは、右A子証言の真実性をうかがわせるものである。永井被告人が喧嘩の後で出たという供述を維持しているのであれば、その点の検察官調書を作成しないはずがないからである。A子の右供述の推移につき、「殺人事件につき被告人塚本と同永井とが共犯として起訴され、A子自身夫をかばうためには永井のアリバイを完ぺきなものにする必要があることが意識されるようになったため証言内容も変ったと解するのが自然である。」とする原判決の見方は、事の真相からほど遠いように思われる。
永井被告人が帰宅して後のことについては、I子証言の裏付けがある。
同女の証言によれば、永井被告人が午前一時ごろサニーで自宅に帰って来た。この時同女が柱時計を見たら午前一時五、六分であったが、その時計は七、八分進んでいた。間もなく永井被告人はレッカー車に、I子はサニーに乗って自宅から「チェリー」前に行った。I子はサニーを「チェリー」前に停車して降りた際、同店出入口南側に建物に接して立っていた背は普通でやせた人で黒っぽいような背広を着ていたように見える男(岩田徳次)に、乗上げ車の処理について世話になった人かと思って「どうも済みませんでした。」と挨拶したら、同人は、なんかパクパクとうなづいてくれるような格好で酔っているようであった。同女は乗り上げたコロナに乗り込み、永井被告人がレッカー車でコロナを引っ張り、小嶋の誘導で車を出し、永井被告人がレッカー車を、I子がコロナを運転して自宅へ帰った。帰宅したのは、午前一時半ごろであった(柱時計は、午前一時三〇分と三五分の間で、七、八分進んでいたから。)というのである。(前述の六月二五日に結城署へ行った永井被告人から帰宅時間の確認の電話があり、右の通り答えたということも証言している。なお、当審取調べの7・7<捜>によれば、「チェリー」から永井被告人方まで自動車で約六分かかる。)
同女の右供述は、捜査の頭初以来連日のようなきつい取調べに堪え、永井被告人の自供後も一貫して堅持されて来たものであって、永井供述とも符合し、そこに疑問を容れる余地はない。原判決は、「被告人永井の妻である右証人が時刻を確認した時計の正確さをいかに強調しようとも、右証言の真実性を担保するものではない」というが、主婦として、時計の正確さに絶えず関心を持ち、深夜の帰宅について一々時間を確かめるのも極めて自然のことであろう。それに、同女の証言で重要なのは、時刻の点の正確さもさることながら、事柄の推移であり、同女の見聞した事柄の内容である。当審では、同女を再尋問したが、供述内容に変りはなく、時にこみ上げる激情を抑えながらできる限り淡々と語ろうとする同女の供述態度には誠実さが感じられた。
「チェリー」の前で米屋をしている広江滋保は、当審において、「当夜門の前でガリガリという大きな音がしたので目がさめて一寸掛時計を見ると午前二時ごろだった。時計が一五分から二〇分進んでいたので、午前一時四〇分から四五分ごろということになる。」と証言している。同証言によると、永井被告人の縁石乗上げは午前一時四〇分から四五分ごろということになるわけであるが、縁石に乗り上げてからレッカー車が来て現場から引きあげるまで少なくとも半時間は必要であったと考えられるところ、午前二時一〇分か一五分ごろといえば、岩田の死体発見の第一報が入り(午前一時五三分)、倉持栄芳が第二報を入れた(午前二時二分)後であって、そのころ死体現場から百二、三十メートルしか離れていない「チェリー」前に右のような状況がなかったことは明らかである(倉持栄芳の当審証言など)から、広江証言は、時計の見違いか記憶違いと考えてよい。一時間の間違いと見れば、永井被告人の供述、I子証言とほぼ合致することになる。
塚本被告人の側からの検討により既に同被告人のアリバイが認められる以上、同被告人との共同犯行とされる永井被告人の犯行関与も問題にならないものであった。
そして、今、永井被告人の側からの検討によっても、同被告人の犯行関与は問題にならないことは、所論の通りである。
岩田は永井被告人の帰宅する午前一時半ごろまでは生きていたのである(この点について永井7・10<員>には、六月二五日の朝警察官が来て「昨夜飲んでいた人が死んでしまったのだが聞きたいことがあるから警察に来てくれ。」と言われた際、I子に、「車をあげに行った時は店の前にやせた人が立っていたと警察官に聞かれたら言え。」と言っておいたとの記載があり、岩田が立っていたという供述が二人しめし合わせての虚偽の申立であるかのように述べられているのであるが、もしかりにそうだとすれば、永井被告人の自供後はI子の方で右供述を固執する必要はないのである。永井被告人は、当審で、右員面調書の記載は、「お前が犯行を認めるということはそういうことなんだ。」と言って書かれてしまった旨述べているが、その通りであろうと考えられる)。
兇行は、その後に行なわれたのである。そして、塚本・永井両被告人がこれに関与していなかったことは確実であり、両被告人の無実は明らかである。
一五 結論
以上の次第で、被告人両名の自白調書には任意性がないから、これらを採用して有罪の証拠とした点で、原審の訴訟手続は法令に違反しており、被告人両名の岩田徳次に対する傷害及び殺人の公訴事実を認めるに足りる証拠はなく、かえって被告人両名にはアリバイが認められるから、これらを有罪と認定した原判決は事実を誤認したものである。論旨は理由がある。
従って、原判決には訴訟手続の法令違反と事実の誤認があり、これらが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、その余の点について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。
よって、刑訴法三九七条一項、三七九条、三八二条により原判決中被告人両名に関する部分を破棄し、同法四〇〇条但書に従い、被告事件につき更に次のとおり判決する。(罪となるべき事実)
原判決第三、一、二、第四、一、二の通りであるから、これを引用する。
(証拠の標目)《省略》
(累犯前科)
原判決の通りであるから、これを引用する。
(法令の適用)
被告人塚本育五郎の判示傷害の各所為は、刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号に、判示脅迫の所為は刑法二二二条一項、罰金等臨時措置法三条一項一号に、判示切出しナイフ所持の所為は昭和五二年法律第五七号による改正前の銃砲刀剣類所持等取締法三二条二号、二二条に、それぞれ該当するところ、所定刑中いずれも懲役刑を選択し、前記前科があるので刑法五六条一項、五七条により再犯の加重をし、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により最も重い飯田正子に対する傷害罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で同被告人を懲役一年二月に処し、なお、原審における未決勾留日数の算入につき同法二一条を、押収してある切出しナイフの没収につき同法一九条一項一号、二項本文を適用して、主文二ないし四項のとおり判決する。
(被告人塚本育五郎の一部無罪及び被告人永井喜世の無罪の理由)
被告人両名に対する岩田徳次に対する傷害及び殺人の前記公訴事実について、犯罪の証明がないことは先に判断した通りであるから、刑訴法三三六条後段により、被告人塚本に対し右各公訴事実につき無罪の言渡しをすることとし、主文五項の通り、被告人永井に対し無罪の言渡しをすることとし、主文六項の通り判決する。
(裁判長裁判官 新関雅夫 裁判官 下村幸雄 裁判官 中野久利)