東京高等裁判所 昭和57年(行ケ)65号 判決
一 請求の原因一ないし三の事実は当事者間に争いがなく、同三の1ないし3に摘示した審決の認定判断に係る事実も当事者間に争いがない。そこで、以下に引用例の記載から本願発明が容易になし得たか否かについて検討する。
二 取消事由(1)について
「鉄の浸透処理において浸漬が最も普通に採用される手段である」という審決の摘示は、措辞適切を欠くものがあることは明らかであるが、当該部分は、審決の理由全体の趣旨に照らし、浸漬法は鉄の表面処理手段として極めて普通の、換言すれば周知の技術手段であることを指摘したにすぎないものと解するのが相当である。原告の主張は字句の末に拘泥するものであるばかりでなく、浸漬法が周知であることは原告も争わぬ趣旨と解されるから、原告の主張するところは、それだけでは、本願発明の進歩性の判断に何の影響も及ぼさない無益なものといわざるをえない。
三 取消事由(2)について
当事者間に争いのない別紙(一)の記載、前掲甲第五、第七号証、成立に争いのない甲第六号証及び弁論の全趣旨によれば、浸漬法も電解法も鉄、ニツケル、コバルトなどの金属材料(被処理材)に各種元素を浸透被覆させて表面処理を行う技術であること、即ち、浸漬法は被処理材を溶融浴(例えばチタンと硼砂を溶融した溶融液)中に浸漬して溶融浴中の成分を被処理材の表面に浸透させる処理方法であり、一方電解法は被処理材を溶融浴中に浸漬し、被処理材を陰極にして直流電流を浴中に流して溶融浴中の成分を被処理材の表面に浸透させる処理法であると認められる。かように、両法は被処理材を溶融浴中に浸漬するだけか、更に電流を通ずるかの点で相違するものであるから、それに応じて、原告主張のように、別紙(二)に示すような両法の構成、効果の差異が生ずるのは当然のことである(別紙(二)の記載内容は当事者間に争いがない。)。しかし、別紙(一)の記載及び前掲甲第五号証によれば、鉄の表面処理法中金属拡散浸透法としては粉末パツク法、電解法、浸漬法、ガス法があるが、これらについて浸透させる金属の処理時の状態をみると、粉末パツク法では固体、ガス法では気体であるのに対し、浸漬法及び電解法ではいずれも液体で溶融浴中での処理であるから、この二法は、右のような構成、効果の面において差異があるとはいえ、金属浸透処理技術としては近接した技術であつて、格別異質な関係にあるものということはできず、その間に存する差異も、いずれも出願前周知と認められる両法の処理方法自体に由来するものであるにすぎないことは自ら明らかなところであるし、別紙(二)に示すところによれば、その構成、効果において両法とも一長一短であつて、浸漬法が電解法より格段の技術的優位にあるとは認めがたい。かつ、この両法の構成、効果の差異は、本願発明において「チタンを溶入させた溶融硼酸または硼酸塩の浴中」で「高炭素鋼」を処理するという構成要件における溶融浴と被処理材との相互関連において格別のものがあると解すべき根拠もない。
このように、浸透法も電解法も金属浸透処理技術としては近接したもので、その構成、効果の差も各処理方法の差に由来し予測可能なものであつて、本願発明における浸透処理にそのいずれを用いるかによつて格段のものがあるとは認められないから、原告主張の取消事由(2)は理由がない。
四 取消事由(3)について
1 成立に争いのない甲第二、第三号証によれば、引用例には前記争いのない記載のほか、別紙(四)の内容の記載があることが認められる。この記載によれば、引用例には、周期律表Ⅳa、Ⅴa、Ⅵa族の金属元素又は該元素を含む合金と、硼酸又は硼酸塩の溶融浴中に被処理材を浸漬して、被処理材の表面に該元素を浸透せしめ、耐摩耗性、耐酸化性或は耐食性の高い被覆層を形成することが開示され、更にその際被処理材中に含まれる炭素の量、処理方法により形成される被覆層が変化し、例えば炭素を〇・一パーセント以上含む被処理材表面には耐摩性のすぐれた炭化物層が形成されやすく、〇・一パーセント以下の炭素を含む被処理材を溶融浴中で電解処理すると硼化物層が形成されやすいことが開示されていることが認められる。
2 しかして、引用例には、本願発明における「チタンという炭化物形成用元素」を用い「浸漬法という処理手段」により、「高炭素鋼という被処理材」を処理するという三要件の組合わせについての具体的記載はないが、チタンは引用例中のⅣa族に属する金属であり、浸漬法は引用例に記載されているとともにそれ自体前記のとおり周知の処理手段であり、また、高炭素鋼も引用例に被処理材として記載されているのであるから、引用例中の前記1の包括的な記載は、本願発明における前記三要件の組合わせを着想するに至る手掛りを与えるものと認めて差支えない。前記争いのない事実及び甲第二、第三号証によれば、チタン以外の元素を用いるものではあるが、高炭素鋼を電解処理したり(タングステン、モリブデン、ニオブ)、浸漬処理して(クロム、バナジウム、ジルコン)炭化物層を形成させる実施例一ないし一〇が列挙され、チタンについては硼砂九〇パーセントとチタン一〇パーセントを溶解した溶融浴中に高炭素鋼(〇・九〇ないし一・〇〇パーセントの炭素含有)を電解処理してチタン炭化層を形成する実施例一一が記載されていることが認められる。
3 以上述べたところによれば、本願発明に係る前記三要件の組合わせは、前記1の引用例の包括的記載及び右組合わせに近似した前記2の引用例中の実施例一ないし一〇の記載からみて、引用例中に示唆されているものということができる。そして、引用例中の実施例一一における電解処理に代えこれに近似する周知の浸漬処理を選択することによつて、前記三要件を組合わせ高炭素鋼へのチタン炭化物層の形成を試み、その効果を確認することは当業者にとつて容易に着想できることであるというべきである。
4 原告は、引用例中のチタンと同族元素であるジルコニウムについての浸漬法の実施例が二工程処理(二段法)であるのに対し、本願発明が一工程処理(一段法)である点において本願発明の進歩性を主張する。しかし、本願発明の要旨によれば、本願発明においては一段法による浸漬法に限定されたものと解せられないだけでなく、原告の主張する一段法というも二段法というも、浸漬法そのものの技術に属することにおいて変りはないのであり、前記1のとおり、引用例には、周期律表Ⅳa、Ⅴa、Ⅵa族の金属元素又は該元素を含む合金についての浸漬法が開示されていると認められる以上、原告の右主張は本願発明の進歩性を肯認する根拠とはなり得ないものというべきである。
五 本件における浸漬法選択の難易について付言すると、原告が別紙(三)記載の各元素と溶融硼砂を用いた浸漬法及び電解法による炭化物被覆法を研究、実験した結果、同別紙中空欄の組合わせは炭化物層形成が困難であり、その余の組合わせではその形成がみられたので、右組合わせにつき特許出願をして特許を得たことは当事者間に争いがない。この事実によれば、原告は、Ⅴa族に属するバナジウム、ニオブ、タンタルにつき、昭和四四年に同時に浸漬法、次いで昭和四七年に同時に電解法の各特許を出願し、更にⅥa族に属するクロムにつき、昭和四五年に浸漬法、昭和四七年に電解法の各特許を出願し、また、昭和四七年から昭和四九年にかけて、Ⅳa族に属するジルコニウム、Ⅶa族に属するマンガンにつき電解法を、Ⅵa族に属するモリブデン、タングステンにつき浸漬法を実験したが炭化物層の形成に至らなかつたのであるから、原告が昭和四七年に電解法の成功をみたチタンについて浸漬法による炭化物層形成を試みるのは、以上の経緯に照らしてむしろ当然のことといえるのである。
六 以上述べたところによれば、引用例記載の発明から本願発明を容易になし得たとの審決の判断に誤りはない。
よつて、本件審決の違法を理由にその取消を求める原告の本訴請求を失当として棄却することとする。
〔編註その一〕 本願発明の要旨は左のとおりである。
チタンを溶入させた溶融硼酸または硼酸塩の浴中に基質中に〇・七重量パーセント以上の炭素を含有する鉄合金材料を浸漬保持することを特徴とする炭素を含む鉄合金材料の表面にチタンの炭化物層を形成させる方法。
〔編註その二〕 本件に関する別紙は左のとおりである。
別紙(一)
表1 浸透被覆による主な表面処理法
分類 処理法 処理の状態
固体 液体 気体
金属拡散浸透法 (1)クロマイジング(Cr) 〇(粉末パツク法) 〇
(2) ボロナイジング(B) 〇 〇(電解法、溶融塩法) 〇
(3) シリコナイジング(si) 〇 〇
(4) 複合拡散法 〇 〇
(5) 炭化物被覆法 〇 〇
溶射法 (1)プラズマ溶射法 〇
(2) その他
CVD (1) 超硬被覆 〇
(2) 超耐熱被覆 〇
(3) 超耐食被覆 〇
PVD (1) イオンプレーテング 〇
(2) ARE法 〇
(3) スパツターリング 〇
イオン衝撃熱処理 (1) イオン窒化 〇
(2) イオン浸炭 〇
(3) イオン金属拡散浸透法 〇
(4) その他 〇
別紙(二)
第一表
浸漬法 電解法
装置関係 浴剤を入れるポツトと、ポツト加熱用のヒーターと、浴剤とから成る。 上記の外、
電解用直流電流、直流生成用整流器、陽極用極板を要する。
プロセス関係 被理材を溶融した浴剤中に一~数時間、浸漬する。 上記の外、
被処理材を陰極として、直流電流を浴剤中に流す必要がある。
第二表
浸漬法 電解法
装置関係 (イ) ポツト、加熱用ヒータ、浴剤から成る、非常に簡単な装置である。
(ロ) 電解法における、下記(a)~(c)デメリツトがない。 (a) 陽極をポツト中に配設するため、ポツト内が狭くなり、被処理剤を入れるスペースが少なくなる。
(b) 陽極板が腐食する。
(c) 電解用の電気代を必要とする。
操作関係 (イ) 溶融浴剤中に浸漬するのみで、被覆層が形成される。
(ロ) 電解法における下記(a)~(c)のデメリツトがない。 (a) 電流を通じなければ、被覆層が形成されない。
(b) 所望する形成層を得るために、電流密度をコントロールする必要がある。
(c) 電解用の電気を用いるので危険である。
形成層関係 (イ) 被処理材が複雑形状の場合でも、その全表面に均質、均一厚みの被覆層が形成できる。
(ロ) 電解法における下記(b)のメリツトはない。 (a) 被処理材が複雑形状の場合、均質、均一厚みの被覆層を形成することが困難。(被処理材の場所によつて電流密度が異なるため)
(b) 同一浴であつても、電流密度を変えることによつて、ボロン炭化物、硼化チタン、チタン炭化物等の所望の組成の被覆層を形成することができる。
別紙(三)
溶融硼砂を用いた炭化物被覆法
<省略>
<省略>