東京高等裁判所 昭和58年(う)1505号 判決 1984年8月29日
被告人 岩口義且
昭三三・一・一〇生 飲食店店員
主文
本件控訴を棄却する。
当審における訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人松本昭幸作成名義の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官濱邦久作成名義の答弁書に記載されているとおりであるから、これらを引用する。
論旨第一点訴訟手続の法令違反の論旨について
所論は、原判決が警視庁科学捜査研究所第二化学科主事青山喬作成の鑑定書の証拠能力を肯定しこれを事実認定の用に供したのは刑訴法三二一条四項の解釈を誤つて証拠能力のない証拠を採用した訴訟手続の法令違反であり、ひいては憲法三一条の適正手続の保障を侵したものであるという。
しかしながら、原審は、右鑑定書の作成者青山喬を証人として喚問し、その真正に作成されたものであることを供述させた(原審記録によれば、同証人については、同証人が被告人の尿在中のポリ容器を亀有警察署員から受け取つた時点以降の被告人の尿の取扱状況とこれについての鑑定の経緯についても十分に弁護人に反対尋問の機会を与えていることは明らかである。)うえ右鑑定書を採用しているのであつて、右鑑定書を採用した原審の措置は何ら刑訴法三二一条四項に違背するものではない(このことは、原審の第二回公判期日において、右鑑定書の採否を決定するにあたり、原裁判所が弁護人の意見を徴した際に、弁護人が右鑑定書の採用について「異議がない」旨述べていることに徴しても、弁護人自身すでに自認しているところというべきである。)。
所論は、追試が可能なるよう検体の尿の一部を保存するてだてがなされていないことを理由に鑑定書の証拠能力を否定する主張をしているが、鑑定の実施者が必要な技術と経験を有する適格者であり、鑑定による検査結果の確実性が科学的に承認されており、かつ鑑定に使用した器具の性能、作動も正確であると認められる場合には、その検査の経過及び結果についての忠実な報告には、証拠能力が認められて然るべきであり、追試が可能となるよう検体の一部を保存するてだてがなされていないことをもつて、証拠能力を否定する理由とすることはできない。
従つて、この点の論旨は理由がない。
論旨第二点事実誤認の論旨について
所論は、被告人は覚せい剤を使用したことがないのに、被告人が原判示の日時、場所において覚せい剤を使用したと原判決が認定したのは審理不尽にもとづく事実誤認であるという。しかしながら、原判決挙示の各証拠によれば、原判示の事実は優にこれを肯認することができるといわなければならない。以下、詳論する。
所論は、被告人の尿の任意提出を受けた亀有警察署の警察官又はその尿検査を実施した警視庁科学捜査研究所第二化学科主事青山喬等において、第三者の尿と取り違えた可能性が否定できないと主張するけれども、被告人が昭和五八年三月一日に尿を亀有警察署員に任意提出をした過程、右尿を同月七日まで同署保安係室の冷蔵庫に保管していた過程及び同月七日に同署員が右尿を警視庁科学捜査研究所に持参し同研究所に引き渡す過程において、被告人の尿と第三者の尿とが取り違えられる可能性が全くなかつたことは原審証人浅野忠の証言にもとづき原判決が詳細に説示しているとおりであるし、警視庁科学捜査研究所における被告人の尿の保管状況と検査過程については、原審ならびに当審における証人青山喬の証言により、亀有警察署員から受け取つた被告人の尿は同年三月七日当日しばらくは原判示のように厳重に封印された状態で保管された後、同証人が同日補助者を使うことなく、他の二七の尿とともに検査に着手し、翌八日にこれを了したこと、同証人はこれらの尿検査に着手するにあたり、これらの尿の入つていたポリ容器の封印状況に不審な点がないかどうかを点検したが不審な点はなかつたこと、同証人は被告人の尿について薄層クロマトグラフイーによる検査、シモン試薬及びホルマリン硫酸試薬による呈色検査及びガスクロマトグラフイー質量分析検査を実施したが、これらの検査に用いたビーカー、薄層板、シヤーレ、蒸発皿等の容器、器具にいずれも被告人の尿に付した番号二三を書きこみ、大学ノートにメモをとりながら、他の尿と混同することのないように慎重に作業を進めたこと、及び被告人の尿の検査に用いたこれらの容器、器具は水と洗剤とで三回洗滌したものを使用したことがそれぞれ認められるのであつて、所論のような他の尿との取り違えとか他の尿による汚染の影響とかは全くなかつたことは明らかである(被告人の尿の検査に使用された分液ロートは、1から4の番号をふつた備付の四本のうちの一本で番号3のもので、被告人の尿検査の直前に一九番の尿の検査に使用されており、その一九番の尿からも覚せい剤が顕出されていることが認められるが、いずれも当審で証拠調をした、被告人の尿のガスクロマトグラフのチヤートと一九番の尿のそれとを比較すると両者のグラフに差異が存することが認められるのであるから、一九番の尿の検査の際の汚れが被告人の尿の検査の際に顕出されたとみる余地は全くないというべきである。)。
また、所論は、被告人が当時北口耳鼻咽喉科医院から渡されていた薬品の服用等によつて、被告人の尿からフエニルメチルアミノプロパンが検出された可能性が否定できないと主張するが、被告人が当時常用していたクロレラなる健康食品や被告人が当時通院していた北口医院から受け取り服用していたジアノイナミン、セルカムII(ジアゼパム)、キシロカイン、コールタイジンに覚せい剤が含まれておらず、また、これらの物質が体内で化学変化を起こして覚せい剤となつたり、あるいは前記尿検査において覚せい剤と同様の反応を示す物質に変化することがありえないことは原判決挙示の証拠によつて明らかである(なお、所論は、司法警察員作成の電話聴取報告書によれば、当時被告人が北口医院から受け取り服用していたのはアリナミンとセルシンであるとされているのに対し、検察官作成の電話聴取書((発信者が北口耳鼻咽喉科医院院長鈴木孝尚とするもの))では、ジアノイナミンとジアゼパムとされ、投与されていたとされる薬品にくいちがいがあるので被告人が当時どのような薬品を服用していたのか不明であると主張するが、検察官作成の電話聴取書((発信者を鶴原製薬株式会社研究室百瀬とするもの))によれば、ジアノイナミンはビタミンB1の誘導体であるとされ、前記電話聴取報告書によれば、アリナミンはビタミンB1であるとされていてその間にくいちがいがないことは明らかであるし、また、右電話聴取報告書によれば、セルシンの成分はジアゼパムであるとされていて、この点においても所論のようなくいちがいは認められないのであつて、所論は誤解にもとづく主張といわざるをえない。)。
なお、被告人は、当審公判廷において、当時かなりの量のキムチを食べていた旨供述し、弁護人は、その供述をふまえて、被告人の尿から顕出された覚せい剤は被告人のこのキムチ摂取の結果である疑いがあると主張するが、たしかに当審証人青山喬の証言によれば、東大石山教授の実験結果によつて、ある種のキムチを大量に摂取した場合、その者の尿中から覚せい剤が顕出されることがあることが判明していることは所論指摘のとおりであるが、同証人の証言によれば、右実験により顕出された覚せい剤は尿一〇〇グラム中にわずか〇・二ないし〇・三マイクログラムというきわめて微量なものにすぎず、他方前記呈色検査により覚せい剤反応が出るためには、検体中に少なくとも五マイクログラムの覚せい剤が存在しなくてはならないことが認められるのであるから、仮に被告人が本件当時大量のキムチを摂取していたとしても、それによつて右呈色検査により顕出されるほどの覚せい剤が被告人の体内に生成されることはありえなかつたことは明らかであり、右主張は採用できない。そうすると、本件鑑定結果検出されたフエニルメチルアミノプロパンは被告人の体中に摂取されたものと認められ、これに対応した使用の事実があつたと認定しうるから、弁護人の論旨第二点におけるその余の主張につき判断するまでもなく、原判決には、所論のような審理不尽も事実誤認もないといわざるをえない。論旨はすべて理由がない。
よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用を負担させることにつき刑訴法一八一条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 時國康夫 礒邊衛 日比幹夫)