大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和58年(う)1520号 判決 1985年12月13日

目  次

被告人の表示等

主文

理由

第一部 ピース缶爆弾事件

第一 アメリカ文化センター事件

一 事件の発生及び爆弾の構造

二 自白の信用性

1 佐古の自白

イ 証拠物からみた疑問点

ロ 自白内容の変遷

ハ 関連供述の不自然性

ニ 自白に現われていない事項

ホ まとめ

2 前原の自白

イ 証拠物からみた疑問点

ロ その他の疑問点

ハ 自白に現われていない事項

ニ まとめ

3 村松の自白

4 増渕の自白

5 要約

三 結論

第二 第八、九機動隊事件

一 事件の発生及び犯人に対する目撃、追跡状況並びに爆弾の構造

二 情況証拠

三 自白等の信用性

1 前原及び内藤の自白等

イ 一般的問題点

ロ 客観的犯行状況からみた疑問点

ハ 自白内容の不自然性

(一) 導火線の燃焼実験

(二) 犯行直前の喫茶店集合

(三) 内藤の役割

(四) 爆弾投擲予定時刻における相互認識等

(五) 前原の現場における滞留時間

ニ 自白内容の変遷

(一) 内藤の自白

(二) 前原の自白

ホ 自白相互間のくい違い

ヘ フラツシユ等の目撃に関する前原の自白

ト まとめ

2 村松の自白

イ 客観的犯行状況からみた疑問

ロ 自白内容の不自然性

ハ 前原及び内藤の各自白とのくい違い

ニ まとめ

3 増渕の自白

イ 客観的状況等からみた疑問点

ロ 自白内容の変遷

ハ 他の者の自白とのくい違い

ニ まとめ

4 要約

四 結論

第三 ピース缶爆弾製造事件

一 事案の内容と情況証拠

二 自白等の信用性

1 佐古、前原及び内藤の各自白等

イ 一般的問題点

ロ 証拠物との不一致等

ハ 京都地方公安調査局事件との関係における製造日時に関する疑問

ニ 自白内容の不自然性

(一) 製造場所

(二) ピース缶蓋の穴あけ場所

(三) レポの方法

ホ 自白内容の変遷

(一) 佐古の自白

(二) 前原の自白

(三) 内藤の自白

ヘ 自白相互間のくい違い

ト その他

チ まとめ

2 村松、江口、石井(及び増渕)の各自白

イ 村松の自白

ロ 江口の自白

ハ 石井の自白

ニ 増渕の自白

ホ まとめ

3 菊井の証言

イ 一般的問題点

ロ 証言内容の不自然性

(一) 謀議及び製造の日時

(二) 供述の過度の詳細さ

(三) 謀議の場所

(四) 製造場所

(五) ピース缶の蓋の穴あけ作業

(六) レポの方法

(七) 白色薬品の目撃状況

(八) 包丁の購入

ハ 証言内容の変遷

(一) 謀議に江口が出席したことの有無

(二) 爆弾製造に平野が参加したことの有無

(三) 包装されたダイナマイトを見たことの有無

(四) 導火線と雷管の接続されたものを増渕がピース缶の蓋の穴に通すのを見たことの有無

(五) 爆弾製造現場における釘の有無

ニ 他の共犯者とされている者らの自白とのくい違い

ホ まとめ

4 要約

三 結論

第四 ピース缶爆弾事件についての総括

第二部 日石土田邸事件

第一 控訴趣意中事実誤認の主張に対する判断

一 事件の発生状況

二 被告人らと事件の結びつきに関する証拠

三 各証拠の信用性

1 原審被告人らの自白ないし不利益事実の供述

イ 中村(隆)の供述

(一) 一般

(二) 土田邸爆弾製造に関する供述

(1) 秘密の暴露の有無

(2) 特異な供述の有無―マイクロスイツチに関する供述の信用性

(3) 証拠物からみた供述の疑問点

(4) 誘導による自白である疑い

(5) 供述の信用性に疑問を抱かせるその他の事情

(6) ビデオテープの信用性

(7) 公判供述の信用性

(8) 評価

(三) 日石二高謀議に関する供述

(四) 日石総括に関する供述

(五) 土田邸二高謀議に関する供述

(六) まとめ

ロ 松村の初期公判供述

ハ 中村(泰)の捜査段階における供述

(一) 一般

(二) 土田邸爆弾八王子保管に関する供述

(三) まとめ

ニ 金本の捜査段階における供述

ホ 要約

2 筆跡に関する黒田鑑定

3 その他の証拠

イ いわゆる六月爆弾事件に関する佐古らの供述

ロ 増渕の爆弾闘争志向等に関する石田茂らの供述

ハ 日石土田邸事件に関する増渕及び江口との会話に関する鈴木茂の供述

ニ 喫茶店プランタンにおける江口発言に関する佐古の供述

ホ 日石土田邸事件等についての増渕の言動に関する檜谷啓二の供述

四 結論

第二 控訴趣意中訴訟手続の法令違反の主張に対する判断

一 増渕の検面の証拠能力

1 日石土田邸事件等による逮捕前に作成された検面の証拠能力

2 土田邸事件等による起訴後に作成された検面の証拠能力

二 堀の検面の証拠能力

1 日石土田邸事件の逮捕、勾留期間中に作成された検面の証拠能力

2 土田邸事件等の起訴後に作成された検面の証拠能力

三 松村の検面の証拠能力

四 結論

第三 職権判断

一 いわゆる六月爆弾の製造及び実験に関する増渕の供述

1 供述の要旨

2 供述の信用性

二 日石爆弾製造に関する増渕の供述

1 供述の要旨

2 供述の信用性

3 まとめ

三 日石爆弾保管に関する増渕及び堀の各供述

1 増渕の供述要旨

2 堀の供述要旨

3 供述の信用性

4 まとめ

四 日石爆弾搬送及びサン謀議に関する増渕及び堀の各供述

1 増渕の供述の要旨

2 堀の供述の要旨

3 供述の信用性

4 まとめ

五 土田邸爆弾製造に関する増渕及び堀の各供述

1 増渕の供述の要旨

2 堀の供述の要旨

3 供述の信用性

4 まとめ

六 土田邸爆弾八王子保管に関する増渕及び堀の各供述

1 増渕の供述の要旨

2 堀の供述の要旨

3 供述の信用性

4 まとめ

七 土田邸爆弾搬送に関する増渕の供述

1 供述の要旨

2 供述の信用性

3 まとめ

八 筆跡採取に関する増渕の供述

1 供述の要旨

2 供述の信用性

3 まとめ

九 下見関係に関する増渕の供述

1 供述の要旨

イ 日石下見について

ロ 神田、雑司が谷下見について

2 供述の信用性

一〇 日大二高の電話帳持出に関する松村、増渕及び堀の各供述

1 松村の供述の要旨

2 増渕の供述の要旨

3 堀の供述の要旨

4 供述の信用性

5 まとめ

一一 日大二高における謀議等に関する松村、増渕及び堀の各供述について

1 松村の供述の要旨

イ 日大二高謀議について

ロ 日石総括について

ハ 土田邸二高謀議について

2 増渕の供述の要旨

イ 日石二高謀議について

ロ 日石総括について

ハ 土田邸二高謀議について

3 堀の供述の要旨

イ 日石二高謀議について

ロ 日石総括について

4 供述の信用性

5 まとめ

一二 結論

第四 日石土田邸事件の総括

第三部 本件各控訴についての結論

被告人 増渕利行 ほか五人

主文

本件各控訴を棄却する。

理由

(注) この判決における凡例は、被告人中村則子につき「前林」、同西山良子につき「江口」の略称を用いるほかは、すべて原判決(六頁)記載のとおりである。

また、以下に記載する本件の各事実関係は、当審事実取調の結果をその旨明示して引用しているほかは、すべて原審において適法に取調べた証拠に基づく認定にかかるものである。したがつて、特に問題になる点に関するなど必要と思われる場合のほか該当証拠の掲記を省略し、これを掲記する場合であつても、例えば証人尋問中の特定の箇所を示す必要があるなどのときを除き、その記録中の所在を省略した。

本件各控訴の趣意は、検察官吉永祐介作成名義の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、弁護人丸山輝久、同田中健一郎、同遠藤昭、同森本宏一郎、同倉田哲治及び同芳永克彦外一五名共同作成名義の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

そこで、以下に、ピース缶爆弾事件と日石土田邸事件とに分けて検察官の控訴趣意に対する当裁判所の判断を示すこととする。

第一部ピース缶爆弾事件

所論は、原判決は、増渕、堀、江口及び前林に対し、ピース缶爆弾事件の関係公訴事実につきいずれも犯罪の証明がないとして無罪の判決を言い渡したが、原審で取調済の各証拠を総合すれば、右公訴事実は優にこれを認めることができるのであり、原判決は菊井証言、佐古及び前原の自白等重要証拠についてその信用性の有無及び証拠価値の判断を誤り、その結果事実を誤認し無罪としたものであつて、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであるというのである。

そこで、以下に、原判決の考察順序に従い、アメリカ文化センター事件、第八、九機動隊事件及びピース缶爆弾製造事件ごとに所論の各論点に即し、原判決の事実認定の当否につき検討を加えることとする。

なお、第八、九機動隊事件及びアメリカ文化センター事件と爆弾の基本的構造において共通の特徴を示す他の爆弾事件として、京都地方公安調査局事件、中野坂上の事件、大菩薩峠(福ちやん荘)事件、中央大学会館事件、松戸市岡崎アパートの事件があり、これらの事件の概要、特にその際合計一一個のピース缶爆弾が存在したことが認められ、これら並びに第八、九機動隊事件及びアメリカ文化センター事件の各ピース缶爆弾(後者については改造前のもの)の合計一三個の爆弾は、同一の構造と認められるかまたは同一の構造と推定されるものであつて、かつ共通の特徴を有するものであり(特に充填されていたパチンコ玉がいずれもSGCの刻印のあるもので入手先が同一と認められる点に著しい共通性がある)、したがつて、これらの爆弾は同一の者(ら)かまたは相互に密接な関係を有する者らの製造にかかるものと推認されることは、原判示(六一頁)のとおりと認められるので、以下においても、このことを前提として考察を進める。

第一アメリカ文化センター事件

一  事件の発生及び爆弾の構造

証拠により認められるアメリカ文化センター事件(以下、第一のなかで「本件」というときは、これを指す)の事件の発生及び爆弾の構造は、爆弾を納めたダンボール箱の構造の点を除き、おおむね原判示(四六頁)のとおりと認められる。

右ダンボール箱の構造につき、原判決(五九頁)が、既製のダンボール箱の一側面を切取り、他のダンボール箱を利用して同じ大きさに作成したダンボール紙を、切取つた場所にあてガムテープで固定して箱としたとの原審検察官の主張を排斥し、既製のダンボール箱そのもので右のような加工は加えられていないと認定しているのに対し、所論はこれを誤りであるとし原審検察官と同じ主張をなすものであるところ、右ダンボール箱(証八九号)を仔細に見ると、<1>所論が切断されたと主張する側面とこれに隣接する側面(二箇所)の両面にわたつて貼付されているガムテープの切断面はこれに対応するダンボールの切断面と一致しないことが明らかであり、このことは切断されたダンボールかガムテープでつながれておりそのガムテープが事件発生後警察官により切断されたことを示すものであること <2>所論が切断されたと主張する側面の底辺とこれに接する箱の底面との間隙から紙テープが箱の内側にまで入りこんでいるのであり、このことは右の底辺が切断されている状態ではじめて生じ得ると認められること <3>所論が切断されたと主張する側面については、他の側面に比べてより強固に外側がガムテープで補強されていること、などからすれば、この点に関する原判決の認定は誤りで、所論のいうように、右ダンボール箱の一側面は、一旦切り取られ、後に同じ大きさのダンボール紙(一旦切り取られたもの自体である可能性もある)が切取つた場所にあてられ、ガムテープにより固定されたものと認定するのが相当である。

二  自白の信用性

本件は、公訴事実及び原審における検察官の釈明によれば、増渕が、村松、前原及び佐古と共謀のうえなしたとされているところ、増渕らが右のとおり本件をなしたと認めるに足りる物的証拠は全くなく、かつ原判示(八五頁)のようなL研の活動状況は存するものの、これのみによつて増渕らを本件の犯人であると断定することは到底できず(当審証人峰孝一の供述によれば、当時L研が爆弾闘争を志向していたことは、一層明確になつたものというべきであるが、同人の供述も、少なくとも本件の関係では、被告人らの犯行を直接ないし具体的に裏付けるものではない)、結局、本件につき増渕らを有罪と認定できるか否かは、原判示のように、捜査当時作成された増渕(検面及び員面)及び佐古、前原、村松(いずれも検面のみ)の各自白調書の信用性が決め手になるといわなければならない。なお、所論は、菊井の証言中、前原から本件は増渕の指揮でL研メンバーがやつた旨のことを聞いたとする部分は十分信用し得るとするものであるが、聞いたとする相手方が本件の被告人ではない前原である以上、右菊井の証言は、本件の被告人である増渕に対しては本来は証拠能力を持たないものであり(刑訴法三二四条二項、三二一条一項三号参照)、右伝聞を証拠とすることにつき同意があつたと解するにしても(原審審理の経過からすれば、同意があつたと解することには疑問の余地がある―記録八五冊三二四七三丁以下参照)、原判示のように、それはいわば周辺的事情に関する供述であつて、前原の自白が信用できる場合にそれを補強する程度の意味を持つに過ぎないと解される。

そこで、以下に、前記各自白調書(必要に応じて、刑訴法三二八条により採用された員面を含むものとする)の信用性について慎重に検討を加えることとする。

1 佐古の自白

所論は、佐古の自白はそれがなされた経緯、その内容等からみてきわめて信用性が高いものであり、その一部に客観的事実と食違つた点や取調の進展に伴い供述を変更している点は見受けられるものの、それらは年月の経過等による記憶の稀薄化、混同あるいは記憶を次第に喚起したことによるものであつて、何ら特異なものではなく、自白の信用性に影響を及ぼすものではない旨主張する。

そこで検討するに、佐古の自白の概要は他の事件に関するものを含め原判決(九八頁)に摘記されているとおりであるところ、本件に関する部分はおおむね具体性に富みかつ詳細であるうえ、原判決も説示するように、自白全体につき<1>座禅を組んだり頭を坊主刈にして反省の態度を示した後、昭和四七年一二月一一日、他の者に先駆けて自白していること <2>右初自白の際の取調において、取調官が具体的な供述を押付けるような状況はなかつたこと <3>同四八年一月一六日ころ再び自白して以後、一貫して自白を維持していること <4>自白した理由について佐古が公判で種々弁解するところには、不合理かつ不自然で措信し難いものがあること、などの事実も認められ、これらによれば、佐古の自白は少なくともその大綱においては信用してよいようにも思われる。

しかしながら、右自白については、その信用性を高めるいわゆる秘密の暴露はなく、かえつて少なくとも以下述べるような疑問点の存在することを否定できない。

イ 証拠物からみた疑問点

まず、佐古の供述中には、おおむね原判示(二四二頁)のように、<1>本件時限装置付爆弾を収納したダンボール箱が既製のダンボール箱そのものであるのに、近所のパン屋から入手したダンボール箱の一角を利用し新たに手製のダンボール箱を製造し、かつ製造に当たつてはホチキスを使用したとしている点 <2>ダンボール箱の底面に割ばしを十字に組んだものが貼りつけられているが、その目的が直接には爆弾ないしその組成部分のダンボール箱内部での移動を防ぎ固定を十分にすることにあつたと認められるのに、箱自体の補強を目的としたものであるとしている点 <3>時限装置はぜんまい動力であると認められるのに、それが電気動力であることを前提としている供述をしている点 <4>爆弾の形状に関する当初の供述は証拠物とかなり異なり、最終供述においても不一致がみられる点 <5>本件ダンボール箱は、黄土色の紙袋を利用し一部を切断してきつちり包装されているのに、ダンボール箱が裸のままであつたとし、あるいは黄土色の包紙で包まれていたとするなど変遷している点、など証拠物の客観的形状に反する点が少なからず存在することが明らかである。所論は、右のうち<2>につき、箱自体を補強することも直接の目的であつたとするのであるが、割ばしは箱の内部の物体に合わせて変則的な十字に組合わされており、箱自体の補強を意図していたとは認められないこと及び箱自体の補強を目的にするならば、まず物体の重さによつて箱の底が抜けないということを考えるべきであると思われるが、割ばしを底面に貼りつけただけではこの目的のための用は何らなさないと認められることからみて、到底所論のように解することはできない。

所論は前記の諸点をおおむね記憶の不鮮明ないし稀薄化等によるものと主張するのである(<2>についても、割ばし貼付の目的が爆弾ないしその組成部分のダンボール箱内部での移動を防ぎ固定を十分にするにあつたと認められるならば、同様の主張をする趣旨と解される)。確かに、佐古の自白によつても、同人は爆弾のダンボール箱への収納作業を担当したに過ぎず、爆弾本体及び時限装置の製造には関与していないのであり、また機械や電気関係の知識に通暁していたわけでもないのであるから、取調時まで相当の年月を経過していることをも考慮すると、同人が実際にその場に居合わせたとしても、爆弾や時限装置の形状等に関する供述が実際のそれとくい違うということは当然あり得ると思われるのであり、右のうち<3>及<4>などはそのような性質のものとして理解できなくはない。しかし、少なくとも、<1><2>及び<5>についてはそのようにみることは困難であると思われ、特に<1>の点は、佐古の自白の信用性の評価に当たつて到底看過できないところである。すなわち、いかに年月の経過があるとはいえ、既製のダンボール箱を用いたのか新たにダンボール箱を製造したのかについてまで記憶の混同を来たすということは通常考えられないうえ、佐古の自白内容をみるに、「増渕の指示により、隣のパン屋の物置場からダンボール箱二つを盗み、増渕の持つてきた爆弾と時限装置の機械等をそのうち一個にあてがつて鉛筆か何かで線をひき、日本はさみ、大型ホチキス等を用い約一時間かかつて新たなダンボール箱を作つたが、外からはできるだけ小包のように見えるよう少し大きめに作つた」などときわめて具体的に製造の状況等を述べているのであつて、他の場面と記憶の混同を来たしているなどとは到底認められず、むしろ佐古としては意識的に虚偽の供述をしたと認めざるを得ないのである。そして、時限爆弾の製造過程という本件の重要な部分につき、このように明白な虚偽の自白をしているということは、同人の自白全体の信用性についても疑問を投げかけるものというべきである。

なお、<2>についても、行為の目的を取違えて記憶したとするのは若干不自然であるとの感を否み得ず、さらに<5>についても、記憶の稀薄化等に基づくと解する余地もないではないが、少なくとも、最終段階の「江口が何も書いていない黄土色の包装紙を折つてていねいに包んだ」と断定的に供述する部分は、意識的に虚偽を述べている可能性が大きいと認められる。

なお、所論は、<1>に関連して、佐古が捜査段階において本件ダンボール箱の呈示を受けた際、「その側面一枚に文字があつたのでその部分を切落し継足して作つた」と述べている点は前認定の本件ダンボール箱の形状に合致するもので、かつ当時捜査官は誰も気付かなかつたものであるから、佐古が本件の犯人であることを強く窺わせると主張する。しかし、この点に関する佐古の供述は、既製のダンボール箱を利用して本件ダンボール箱を製造したということが前提となつているところ、この前提が客観的事実に反することは前述したとおりであつて、この点を黙過して、側面一枚の切落し及び継足しに関する部分のみを取上げ自白の真実性を強調することは相当でないというべきであり、所論は俄かに採用し難いところである。

ロ 自白内容の変遷

次に、佐古の自白内容を通観すると、<1>爆弾を仕掛けた建物の名称ないし所在地 <2>目標建物付近で停車して待機した地点 <3>爆弾を仕掛けに行つた際の経路 <4>事件当日佐古運転の自動車に誰がどこから爆弾を持つて乗り込んだか <5>右当日中野から村松とともに合流した共犯者、などについて原判示(二七一頁)のような供述の変遷があることが明らかである。所論は、右のうち<1>ないし<3>及び<5>はおおむね記憶の不明確ないし稀薄化等に基因するものと主張するのであるが、少なくとも<1><2>及び<5>については供述事項等からみてそのように解することには疑問が残るといわなければならない。すなわち、<1>については、たとえ佐古の行為が目的地付近まで自動車を運転して行つたことにとどまるとしても、爆弾を仕掛けに行つた犯人がこれを仕掛けた建物の名称ないし所在地を忘却したり、あるいはその記憶が稀薄化するというようなことは通常はあり得ないのではないかと思われ、まして、佐古の供述によれば、同人は当時周到な下見を行い、かつ事後において事件を伝えるテレビや新聞を見たというのであるから、一層その感を深くするものであり、また<2>については、前後の供述は大きくくい違つており、特に目標であるアメリカ文化センターの建物を見渡すことができる位置に停車したかどうかについても供述が一致していないことからみて、単なる記憶の稀薄化等に基づくと解することには疑問がある。さらに<5>については、佐古は当初坂東国男と供述し、その後次第に供述を曖昧にしているのであるが、原判示(二八五頁)の佐古と坂東との交際状況等からすれば、当該共犯者が坂東でなかつたのに佐古がこれを坂東であると誤認して供述するというようなことは俄かに考え難いところである。また所論は、<4>につき、佐古が当初、中野の路上で村松らが爆弾を持つて車に乗つたと供述しながら、その後、右爆弾は渋谷の江口方から増渕が持出したと供述を改めているのは、当初江口を庇つて爆弾を持込んだ場所を同人には関係のない中野の路上であつた旨虚偽の供述をしたものの、その後罪の精算をしようという心境にいたつたことによるものと主張する。しかし、右の点に関する佐古の供述の経過は原判示(二八〇頁)のとおりであつて、爆弾持込の場所につき中野の路上から江口方に供述を変えた後も再び中野の路上を供述し、次いで再度江口方に訂正しているのであつて、この供述の変遷を所論のいうような説明で理解することは困難と思われるし、また右の点につき江口方を供述した後において、前述したように虚偽の可能性が大きい江口による爆弾包装状況を述べていることも、罪の精算をしようとする心理ということからは不自然であり、所論は採用し難い。

ハ 関連供述の不自然性

佐古は、捜査段階において、昭和四八年一月四日及び五日増渕及び江口と喫茶店シヤンネル及びプランタンでアメリカ文化センター事件について話合つた状況に関して供述しており、かつその内容は原判決(二八八頁)が摘記するとおりであつて、増渕に対し、佐古が自分らはアメリカ文化センターに爆弾を仕掛けたことがあるかなどと質問し、また増渕は平然と他の者が犯人だとして村松の名前を挙げ、さらに江口はアメリカ文化センターは全く関係がないことを強調したというものであるところ、右供述は、原判示(二九一頁)のように佐古の原審及び五部公判における供述とおおむね同趣旨であるとともに、増渕及び江口の原審及び五部公判における供述(一五〇冊五一一五九丁、証五五冊一四一七三丁、同五六冊一四三九四丁)とも大綱において符合し信用し得ると認められるが、もし、佐古、増渕及び江口が本件の犯人であつたり同事件に関係していたとするならば、右のような会話の状況は不自然というほかなく、これを必ずしも不自然ではないとする所論は十分な説得力を有するとは認め難い。

また佐古の自白によれば、本件に用いられた爆弾は、同人が昭和四四年一〇月二一日中野坂上付近で赤軍派の者から入手し、同日(二二日未明)河田町アジトに持帰つたピース缶爆弾二個のうち一個を改造したものであるとされており、前原もまた捜査段階の自白において、右日時に佐古がピース缶爆弾二個を河田町アジトに持帰つた旨供述しているところ、原判示(二九六頁)のように、佐古が赤軍派の者から右のピース缶爆弾二個を入手した事実は証拠上これを否定し難いところである。そこで、さらに佐古がこれを河田町アジトに持帰つた事実があつたかにつき考えるに、<1>この点に関する佐古及び前原の各自白には、原判示のように、必ずしも重大とまではいえないとしても、かなりの点において客観的証拠との矛盾、自白内容の変遷、自白相互間のくい違いが存在すること <2>佐古は、原審においては爆弾の河田町アジト持帰りの事実を否定し、当日は中野坂上から渋谷の喫茶店に立寄つたうえ実兄のアパートに泊つたと供述しているところ、佐古はすでに逮捕直後に作成された47・11・17員面においてこれと同趣旨の供述をしていること <3>佐古及び前原のこの点に関する自白の信用性の評価に当たつては他の点に関する自白内容を総合して検討することが必要と解されるところ、佐古の他の点に関する自白には種々の疑問点が存在することはすでに指摘したとおりであり、また前原の自白についても後述するように同様のことを指摘できる以上(ちなみに、前原は、虚偽自白と認めざるを得ないダンボール箱製造の事実を述べたのと同一機会に、佐古のピース缶爆弾持帰りの事実をも供述するにいたつたものである)、同人らの自白中佐古のピース缶爆弾持帰りの事実に関する部分のみを信用し得るとすることには躊躇を感ぜざるを得ないこと、などからすれば、右事実を認定することには証拠上疑問が残るものというべきである。結局本件においては、爆弾の入手経路についても十分な立証がなされているとはいい難い。

ニ 自白に現われていない事項

佐古の自白には、アメリカ文化センターを攻撃の対象に選定した思想的、政治的な理由や犯行日時を一一月一日(土曜)の午後一時過ぎとした理由など真犯人であれば当然言及して然るべき事項についての供述がみられず、また自らは直接爆弾を設置しなかつたにしても、近くまで同行した以上、直接これを行つた者にその状況を問い質すなどのことがあつて当然と思われるのに、その点の供述も欠けており、これらは佐古が本件の真犯人であるとするならばやや不自然であるといわなければならない。

ホ まとめ

以上みたとおり、佐古の自白については種々の疑問点が存在するのである。

ところで、原判決(三〇七頁)は、佐古はその供述態度等から取調官とはいわば良好な関係にあつたところ、取調官から本件等について重要な知識を有しているのではないかとか、佐古自身同事件に関係しているのではないかといつた取調を受け、自分は過去に爆弾闘争を志向し爆弾に関連する行動を含めいろいろな活動に参加してきたものであり、これらに対し相当程度の責任を負わざるを得ないので、本件を認めることによつて処罰を受けることになつても結果において必ずしも不本意ではないと考え、また村松らが同事件の犯人ではないかと疑つていたため村松らを犯人として述べても村松らに罪を着せることにはならないし、同事件がL研の活動の延長線上にあるならばL研の一員であつた自分にも責任の一端がないわけでもないと考えたうえ、その迎合的な性格から従前の取調官との良好な関係を維持するためには虚偽の自白をしてもよいと考えるにいたり、取調官の意を迎えるために自白するにいたつたものとみることも不可能とはいえない旨説示しているところ、所論はこれを佐古の公判供述とも乖離する不当なものと論難するのである。確かに、原判決の右説示にはやや憶測に過ぎる部分がないではないが(例えば、佐古が自己及びL研の過去の行動に対する責任感から処罰されても不本意ではないと考えたとする点など)、佐古が原審及び五部公判において、「捜査官を信頼していた」、「捜査官は自分に対し悪いことをするはずはないと思つていた」、「捜査官との人間関係をつぶさないようにした方がいいと思つた」などとくり返し述べていること(証二二冊七七三一丁、七七四二丁、一五二冊五一六七五丁等)や記録上窺われる同人の性格等を考慮すると、原判決が、佐古は結局捜査官に迎合して虚偽の自白をした可能性があるとする点は、その限りにおいては是認し得るものと考えられる。

以上説示したところによれば、佐古の自白の信用性を認めることは困難といわなければならない。

2 前原の自白

所論は、前原の自白がなされた経緯はきわめて自然であるうえ、捜査段階において一貫して自白が維持されており、自白内容もほとんど動揺・変遷はなく、具体的かつ詳細であつて十分に信用し得るものであり、その一部に客観的事実と相違する点は見受けられるものの、それは自己が直接関与していない事柄であつたため記憶が明瞭でなかつたことによるものであつて、自白の信用性に影響を及ぼすものではない旨主張する。

そこで検討するに、前原の自白の概要は他の事件に関するものも含め原判決(一一二頁)に摘記されているとおりであるところ、本件に関する部分はおおむね具体性に富みかつ詳細であるうえ、原判決(二三九頁)も説示するように、<1>本件に関して取調を受けたのは一月一六日が最初であり、同日比較的短時間の取調べにおいて自白したこと <2>前原は、菊井あての書信の中で「ボクはアメ文に使われたタイマーと乾電池を見たということを思い出した。これもマズかつた」と述べており、これは、本件に関して知識を有する者が、そのことを供述してしまつたことを反省する心理状態を表現するものとみるのが自然であること <3>捜査段階において一貫して自白を維持していること <4>同事件に比較すれば軽い罪である法大図書窃盗事件について否認しながら、本件について自白していること <5>昭和四四年当時使用していたアドレスブツクの所在を進んで明らかにするなど、捜査に協力的な態度をとつていたこと <6>乾電池と電気雷管の脚線のはんだ付けを自白した理由として前原が公判において弁解するところは、不合理で措信し難いこと、などの事実も認められ、これらによれば、前原の自白は少なくともその大綱においては信用してよいように思われる。

しかしながら、他方、前原の自白についても、その信用性を高めるいわゆる秘密の暴露はなく、かえつて、少なくとも以下述べるような疑問点の存在することを否定できない。

イ 証拠物からみた疑問点

まず、前原もまた、佐古と同様に、<1>本件時限装置付爆弾を収納したダンボール箱が既製のダンボール箱そのものであるのに、近所のパン屋から入手したダンボール箱を利用し新たに手製のダンボール箱を製造し、かつ製造に当たつてはホチキスを使用したとしている点 <2>割ばしを十字に組んだものをダンボール箱の底面に貼りつけた目的につき、直接には爆弾ないしその組成部分のダンボール箱内部での移動を防ぎ固定を十分にすることにあつたと認められるのに、箱自体の補強をも直接目的としたものであるとしている点において証拠物の客観的形状に反する供述をしていることが明らかである。所論は、これらにつき記憶が明瞭でなかつたことに基づくものと主張するとともに、<2>については箱自体を補強することをも直接の目的としたものと主張するのであるが、そのいずれもが理由のないことは、おおむね佐古の自白の信用性に関して述べたとおりである。特に、<1>については、前原もまた、「佐古が盗んできた二個のダンボール箱を解体し、爆弾をその上に置いて目測して大きさを決め、はさみで切断し大型ホチキスで四箇所とめ二時間(または一時間)位で完成した」などときわめて具体的に製造の状況等を述べているのであつて、佐古と同様に意識的に虚偽の供述をしたと認めざるを得ず、このように時限爆弾の製造過程という本件の重要な部分につき虚偽の供述をしているということは、前原の自白全体の信用性についても疑問を投げかけるものというべきである。

なお、原判決(二五九頁)は、爆弾の組立に関する前原の供述は、次の諸点、すなわち、<3>作業の手順としては、まずピース缶爆弾の工業用雷管を電気雷管に交換して爆弾内に埋め込み、その後に右電気雷管の脚線と乾電池との結線を行つたとするのが合理的と思われるのに、時限式爆弾を完成するより三日位前に乾電池を直列にしたうえピース缶爆弾に埋め込まれる前の電気雷管の一方の脚線をはんだ付により乾電池に接続して増渕に渡したとしている点 <4>使用した乾電池は二本であることが明白であるのに、当初これを四本であると述べている点 <5>本件時限装置のタイマー部分と乾電池の接続には電気雷管の脚線の一部を切断してこれを利用しているのに、当初これを供述せず、むしろこれと異なる供述をしている点等においても同様に証拠物の客観的形状に反する旨説示しているけれども、これらを疑問点として重視するのは必ずしも相当でないと考えられる。すなわち、まず、<3>につき、原判決は、前原の自白するように最初から乾電池と電気雷管の脚線を接続する必要は特になく、かえつて危険感を免れず、またその後の作業にやりにくさが加わり、乾電池の接続部分が断線しやすくなるなどを挙げているのであるが、前原の自白によれば、雷管の他の一方の脚線の先端はセロテープを巻いて絶縁したというのであるから危険性ないし危険感があつたとは考えられず、さらに結線に用いたシールド線は長さが数一〇センチメートルもあるのであるから(証七八号、八四号)、結線後の作業の困難性とか接続部分の断線ということも容易に考えられず(もし、断線したならばもう一度接続すればよいと思われる)、そうだとすれば、前原が二個の乾電池をシールド線ではんだ付けにより接続するに際しこれと同種の作業である乾電池と雷管の脚線との接続及び他方の乾電池と時限装置に連結するシールド線との接続(同人の供述する通電テストのためにもこの作業が必要であつたと考えられる)を行つたとしても、特に不自然、不合理であるとは認められない。また<4>及び<5>については比較的細部の事項であり、作業をなしたとされているときから約三年余を経過した後の供述であることをも考えると、記憶の混同、稀薄化等によるものと解して特に不自然ではないものというべきである。

ロ その他の疑問点

前原の自白内容には、右の点以外にも次のような疑問点が存在する。

(一) 前原が担当したとする乾電池と雷管の脚線との結線は、本件時限装置付爆弾の製造作業の中では最も簡単なものに属すると認められるが、増渕が何故にこの作業のみをわざわざ河田町アジトに赴いて前原にさせる必要があつたのかにつき納得し得る理由は見出し難い(爆弾製造の密行性ということからすれば、これに関与する者はできるだけ少数であることが望ましいと考えられる)。なお、増渕が乾電池と電気雷管(ないしはそれの接続したもの)や爆弾という危険物を持つて河田町アジトと自己の住居を一度ならず往来したとする点もその必要性などからみて不自然の感を禁じ得ない。

(二) 佐古が河田町アジトにピース缶爆弾二個を持帰つたとする前原の自白についても、これを認めることには証拠上疑問が残るというべきであり、結局、本件においては、爆弾の入手経路についても十分立証が尽くされているとはいい難いことは、佐古の自白の信用性の箇所で述べたとおりである。

なお、原判決(二六五頁)は、前原が自己においてはんだ付けの作業をした際増渕及び村松も別の作業をしていた旨述べるところは、両名の作業内容についての供述が抽象的過ぎて不自然とも思われる旨説示しているけれども、右作業は前原が直接担当したものではなく、自己の作業の合間に傍から様子を見たにすぎないとされているのであるから、印象がそれほど強くなかつたと思われ、供述時までの年月の経過をも考えると、この点を前原の自白の信用性に対する疑問点として重視するのは相当でないものと考えられる。

ハ 自白に現われていない事項

本件の時限装置に用いられた乾電池一個から手袋の指痕が発見されており、((員)44・11・3現場指紋等送付書(写)―証一二九冊)、右乾電池の接続作業は手袋を着用して行つたものと認められるのに、前原の供述はその点に何ら言及していない点は不自然であるといわざるを得ない。また佐古の自白と同様、アメリカ文化センターを攻撃目標とした思想的、政治的理由等について何らの言及もみられない点も、やや不自然さを感じさせる。

ニ まとめ

以上みたとおり、前原の自白に種々の疑問点が存在することは否定できないところである。そして、原判決(三一一頁)は、前原は比較的短時間の取調で自白するにいたつたものではあるが、佐古の自白に基づく厳しい追及がされた可能性があり、前原がこれに根負けし、または迎合して虚偽の自白をするにいたつた疑いがあるとするのに対し、所論はこれを論難するのであるが、前述したように、前原が佐古と符節を合致するかのように、本件爆弾を収納したダンボール箱が手製のものである旨及びその底面に割ばしを十字に組んだ目的につき箱の補強のためである旨事実に反する供述をしていることなどからすれば、この点に関する原判示が合理性を欠く不当なものとは認められない。

なお、所論は、以上で問題にした点以外にも種々の論拠を挙げ、前原の自白が信用できる旨を主張する。その主要なものは、<1>前原は昭和四八年六月三〇日に菊井良治に送つた書信(証一一九号)中で「ボクは、アメ文についてのごく一部、アメ文に使われたタイマーと乾電池を見たということを思い出した。これもマズかつた」と記載しており、これは真犯人でなければ到底記載できないものというほかはないこと <2>前原は、捜査段階において、「本件爆弾の時限装置製造作業を手伝つた際村松が釘か何かで『毛沢東万才』などと落書した」旨供述しているところ、右供述は具体的であり、かつ臨場感に富むとともに証拠物に「毛沢東、赤軍」などと落書されている事実に合致すること <3>また前原は、捜査段階において、「ダンボール箱に爆弾及び時限装置を収納した際、導線が長過ぎたがそのまま丸めて押し込んだ」旨供述しているところ、右供述も証拠物の状況と合致するものであること、などである。そこで考えるに、まず、<1>の所論は一応もつともであつて前原が本件に関与したことを推認させる有力な情況と思われるのである。しかし、他方、前記書信が全体として本件犯行を否認する内容のものであることを考えると、そのなかの表現のごく一部をとらえてこれに意味を持たせることには疑問の余地がないとはいえない。また<2>については、原判決(二六九頁)も指摘するように、前原を取調べた高橋警部補が、落書の内容等に関する知識を得たうえ前原に対し村松の名を挙げて追及し、その際落書の文言についても何らかのヒントを与えた結果、前原がこれに迎合して前記供述をなすにいたつた可能性を否定することができず、さらに<3>についても、同様原判決(二七一頁)が指摘するように、同警部補が導線の形状等に関する知識を得たうえ追及した結果、右同様の経緯により前記供述が得られた可能性を否定することができないから、所論はいずれも疑いのないものとしてこれを採用するには躊躇を感ぜざるを得ない。

以上説示したところによれば、前原の自白の信用性を認めることも困難であるといわなければならない。

3 村松の自白

所論は、村松の自白には虚偽の事実が混入されており、また全般的に抽象的かつ曖昧であるけれども、その自白の経過等からみて基本的には信用性を肯定できると主張する。

村松の自白の概要は、他の事件に関するものを含め、原判決(一五一頁)に摘記されているとおりであるところ、本件に関する部分は、所論も認めるように全体的に曖昧であつて、具体性ないし臨場感に欠けている。また、タイマーに落書したことは認めるものの肝心の時限装置の製造状況については具体的に供述せず、アメリカ文化センターへ爆弾を仕掛けに行つたのも事前の連絡がなく迎えにきた井上に同行したに過ぎない旨述べ、かつ直接爆弾を仕掛けたのも増渕と井上とである旨述べるなど、犯行に対する自己の関与の度合いをできる限り弱いものにしようとの態度が窺われる。なお、同人の供述中本件に加わつたメンバーとして井上の名前を挙げている点、本件当日目標建物付近で自動車を停車させた地点、爆弾を仕掛けた実行行為者に自分は含まれていないとしている点、犯行後佐古の運転する車から下車した地点を四谷三丁目であるとしている点などは佐古の自白と(二番目に挙げた点は増渕の自白とも)相違し、またアメリカ文化センターのあるビルの中に立入つて下見をした事実を否定する点は前原の自白とも相違しているのである。さらに、原判示(三一三頁)のように、村松は、佐古、前原及び増渕が自白し、その内容が村松において時限装置を作つたり直接爆弾を仕掛けたりするなど積極的な役割を果たしたというものであつたため、このまま否認を続けることは自分に不利になると考え、事件の関与を認めつつ自分は従属的地位にとどまるものであることを主張しようとして自白するにいたつたと認める余地が大きいと思われる。そして、このように考えるならば、所論の強調するタイマーの落書に関する自白についても、村松が証拠物や前原の自白に基づく捜査官の取調に安易に迎合したのではないかとの疑いを禁じ得ないものがある。

以上みた自白の内容及び動機に照らすと、村松の自白に十分な信用性を認めることは困難であるというのほかない。

4 増渕の自白

所論は、増渕の自白中、佐古、前原の自白と符合しない部分については、その信用性は十分でないと考えられるけれども、増渕が本件に関与しその指揮をとつたことを自認していること自体を重視すべきであり、かつ同人の自白には、佐古、前原の自白と符合する部分も多く存在し、その限りにおいては十分信用し得るものであると主張する。

増渕の自白の概要は原判決(一七〇頁)に摘記されているとおりであるが、最終段階のそれですら全体としてきわめて概括的で、具体性ないし臨場感に乏しく、さらに、おおむね原判決(三一五頁)が指摘しているように、その内容につき少なくとも以下述べるような疑問点が存在することを否定できない。

イ 前原に爆弾を入れる箱を製造するよう指示したとする点は、すでに検討したとおり、明らかに事実に反するものといわざるを得ない。

ロ ピース缶爆弾の改造の経緯、時限装置と爆弾本体の取付け場所、アメリカ文化センターの下見の有無等に関する供述がそれぞれ変遷を示し、かつ佐古及び前原らの自白と異なつており、裏付けが欠けている。

ハ アメリカ文化センターへ爆弾設置に赴いた際用いた自動車、その際の同行者、爆弾設置の実行々為者、爆弾設置後の村松らの状況等に関し述べるところは、いずれも佐古または村松の自白と異なつている。

ニ ピース缶爆弾改造作業の具体的状況及びその際用いた電気雷管等の入手先、タイマーをことさら分解して時限装置を具体的に製造した状況、アメリカ文化センターを攻撃の対象に選定した思想的、政治的な理由、犯行日時を一一月一日(土曜)午後一時過ぎとした理由、爆弾を設置した状況等は、増渕が真犯人であり、特に所論のいうように本件に関して指揮をとつたのであれば当然言及して然るべき事項であるのに、同人の供述は、これらについて全くまたはほとんど触れるところがない。もつとも、これらのもののうち爆弾の設置等は増渕の自白によれば同人自らは担当していないものとされているのであるが、増渕が本件の指揮者であつたとするならば、直接これを行つた者にその状況を問い質すなどのことがあつて当然と思われるのに、そのような供述も全く見受けられない。

以上の諸点に加えて、すでに述べたとおり、佐古の供述するシヤンネル・プランタン会談の際における増渕の態度に同人が本件の犯人であるとするには不自然なものがあることなどをも併せ考えると、増渕の自白にも十分な信用性を認めることは困難である。

5 要約

以上検討したとおり、佐古、前原、村松及び増渕の自白内容の信用性にはいずれも疑問があり、増渕らが本件の犯人であることを認定するには足りないものというべきである。個々の自白においてそうであるのみならず、それらを総合しても異なる心証には到達し得ないところである。

三  結論

以上によれば、増渕が本件に関与しその犯人であると断ずることはできないとして、同事件につき同被告人を無罪とした原判決に所論のいうような事実の誤認があるとは認められない。論旨は理由がない。

第二第八、九機動隊事件

一  事件の発生及び犯人に対する目撃、追跡状況並びに爆弾の構造について

証拠により認められる第八、九機動隊事件(以下、第二においては、「本件」という)の発生及び犯人に対する目撃、追跡状況並びに爆弾の構造については、爆弾投擲に関与した者の人数に関する点を除き、原判示(三五頁)のとおりと認められ、所論も特にこれを争わない。

右の爆弾投擲に関与した者の人数につき、原判決(三九頁)は、 <1>爆弾投擲の現場を目撃し、直ちに犯人を追跡した河村巡査が、第八、九機動隊正門前の「花寿司」横路地を南方向へ約一〇〇メートル走つた地点で出会つた年令二〇歳位のワンピースの女性から「三人が急いで駈けて行きましたよ」と聞いており、右三名は本件犯行に何らかの関与をした者であるとみるのが自然であるが、本件犯行に無関係の者である可能性も否定できないこと <2>他方、「花寿司」横の路地を約二一・六メートル南方に進んで余丁町方面へ向かつて右折する最初の路地に面した自宅の外にいた高杉早苗において、一人の男が同女方前路地を余丁町方面に向かつて大変な勢いで走つていくのを目撃しており、この者は犯人であるとみられること、からすれば、右爆弾投擲に関与した者は四人(又は一人)の可能性が高いと認定しているのに対し、所論は、河村巡査の目撃した男一名と高杉が現認した男一名が同一人物か否かは確定的には明確でないことなどを考えると、逃走者と思料される者の数は一名から五名までの可能性があると主張するものである。

そこで記録を検討するに、現判示中右の<2>の点は証拠上明確な事実であつて、所論も特にこれを争わないところである。しかし、<1>の点については、まず河村巡査が犯人の追跡途中に出会つた女性から「三人が急いで駈けて行きましたよ」と聞いた事実があつたこと自体に疑問を容れる余地があるといわなければならない。すなわち、確かに河村巡査はその作成にかかる現認及び検面中で右の事実につき供述しているところであるが、他方、また、

1 同巡査は、検面の僅か三日前に作成された員面においては、「追跡途中通行人の女性に尋ねたが、それらしい姿は見なかつたとのことであつた」と供述しており、また五部公判においては、投擲を目撃した際、投擲地点に二、三名の者を目撃した点を強調し、「三名が逃げていきましたよ」と女の人から聞いた記憶があるかについては、再三確かめられた後、「そう言われてみるとあるような気もする」と述べているに過ぎないこと

2 同巡査の検面中における供述は、女性から聞いた位置につき、余丁町方面へ向かつて右折する最初の路地か二番目の路地か、またそのいずれであるにしても曲がる前か曲がつて間もなくかはつきりしないという曖昧なものであること

3 原判示(三八頁)のように、高杉が目撃した犯人とみられる男のすぐ後を機動隊員が追跡して行つたことが認められるところ、当時機動隊員で、犯人逃走の直後といえるような時間的間隔で追跡行為を開始したのは河村巡査で、これに次いで谷本巡査及び仁科巡査が追跡を開始し、さらに若干時間的間隔を置いて加藤巡査及び檜山巡査が追跡に移つたものと認められる。ところが、河村巡査の五部公判及び検面における供述によれば、同巡査については右高杉方前路上を通過した可能性があるのに対し、谷本巡査及び仁科巡査は「花寿司」横路地を余丁町小学校横まで南下したため高杉方前路地は通過していないことが認められる。また加藤巡査及び檜山巡査については高杉方前路上を通過していることは認められるものの、右通過までの同巡査らの行動経過からみて同巡査らが犯人とみられる男の逃走直後に高杉方前路上を通過し得たかについては疑問がなくもないこと及び高杉は検面及び員面において、犯人とみられる男のすぐ後を追跡して行つた機動隊員が自分に言葉をかけたことはないと供述しているのに対し、加藤巡査は検面及び員面において、高杉方前路上付近で会つた女性に「誰か逃げて行かなかつたか」というような声をかけた記憶がある旨供述していることからすれば、犯人とみられる男の逃走直後にこれを追跡して高杉方前路上を通過した機動隊員が同巡査らであるとすることにも疑問が残るところであり、以上によれば、高杉方前路地を通過し犯人のすぐ後を追跡した機動隊員は河村巡査である可能性が高いものというべく、そうだとすると、同巡査が花寿司横路上を南へ約一〇〇メートル走つたこと自体も疑わしくなつてくること

などからすれば、河村巡査が犯人の追跡途中に出会つた女性から「三人が急いで駈けて行きましたよ」と聞いた事実は証拠上認定できないものというべきである。

ひるがえつて、河村巡査の目撃した投擲犯人と高杉が現認した男の同一性は明らかでないとの所論(河村巡査の供述に現われている三名の者を除いても、投擲に関与した者は二名の可能性があるとの趣旨と理解できる)につき考えるに、本件発生の直後に一人の男が自宅前を大変な勢いで走り去り、その直後を機動隊員(河村巡査である可能性のあることは前述したとおりである)が追跡していたという高杉の目撃状況に加え、河村巡査以外に投擲の現場を目撃した松浦英子の述べる投擲者の特徴と高杉が述べるその目撃した者の特徴との間には相違点もあるが共通点もあること、他方、爆弾投擲者が高杉方前路上以外の路地等を通つて逃走した形跡はないことなどからすれば、河村巡査が現認した投擲犯人と高杉が目撃した男は同一人物であつたと認定するのが相当である。

そして、投擲犯人以外にその一味と目される者が花寿司横路上や高杉方前路上等において高杉や追跡警察官によつて現認された形跡は全く存しない。

以上述べたところによれば、本件においては爆弾投擲者以外の関与者がなかつたとまでは断定できないにしても、これに直接関与した者(投擲者及びその直接的補助者)の人数は、原判決のように四人または一人の可能性が高いとみるよりは、一人の可能性が高いとみる方が事態に即していると考えられる。

二  情況証拠

本件は、公訴事実及び原審における検察官の釈明によれば、増渕及び堀が村松、前原、井上、内藤、赤軍派の氏名不詳者二名と共謀のうえなしたとされているところ、増渕らが右のとおり本件をなしたと認めるに足りる物的証拠はなく、かつ原判示(八五頁)のようなL研の活動状況は存するものの、これのみによつて増渕らを本件の犯人であると断定することは到底できない。ただ、当審証人峰孝一の供述は、本件当時のL研の活動状況及び本件の計画等につきかなり立入つて述べるものであるので、以下に、本件において右峰の供述の持つ意味等につき検討を加えることとする。

まず、右峰の供述の要旨は次のとおりである。

「自分は昭和四四年四月法政大学に入学し、同年五~六月L研に入つた。L研のリーダーは増渕で、メンバーとして他に村松、佐古、前原、井上、菊井、国井、それから東薬大から来ていた者として、江口、平野、内藤らがいた。

昭和四四年一〇月二〇日午後中野にある喫茶店クラシツクで、増渕、村松から八・九機に爆弾を投げるよう言われた。当時アルバイトをしていた馬込精機に村松か佐古から電話がかかつてきてクラシツクに出かけた。その場にいたのは、増渕、村松、江口、佐古ほかで、全部で七~八人であつた。増渕から、赤軍派と協力して大がかりな爆弾闘争を一〇月二〇日の夜から二一日にかけてやるという話があり、自分と前原、佐古で構成していた軍団は八・九機にピース缶爆弾を投げるということだつた。自分はやることは無意味だと反対し議論となり、増渕は途中でクラシツクを出ていつた。次いで村松から同じような話があつたが、主張が折り合わずけんか別れとなり、自分はクラシツクを出た。このことがきつかけとなつて自分はL研を離脱した。

同年九月から一〇月初めにかけて佐古と二人で、八・九機の下見をしたことがある。たまたま、佐古のうちに行つたとき、東京都内の地図上の主要官公庁等を丸で囲つたものがあり、国家権力の配置状況を住まいの近くから手始めに偵察するということになつた。その一~二日後の昼間に、機動隊の周りを一周し、逃走経路、機動隊員の配置状況等を一時間位かけて見た。そのときには、自己の属する軍団の全員が正門を第一目標として爆弾を投げるという程度の話はあり、また爆弾の種類としては、鉄パイプ爆弾とピース缶爆弾を予定していた。

立教大学で金庫窃盗をしたころ、友人の部屋にあつたピース缶を二~三個持つてきて、同大学の心理学教室でだつたと思うが、村松に渡したことがある。またそれとは別の機会に、九月終りから一〇月初めにかけ、大森のパチンコ屋で入手したパチンコ玉二〇個位を立教大学心理学教室等において村松(佐古についての記憶もある)に渡した。それらは、いずれもピース缶爆弾に使われると想像していた。

佐古からピース缶爆弾の製造への参加を誘われたことがある。二~三週間のうちに二~三回誘われたが、最後に言われたのは、一〇月中旬ころで、佐古の住んでいたフジテレビ近くの倉持方付近の喫茶店エイトにおいてである。赤軍派と協力して本格的な爆弾闘争に入るためピース缶爆弾を作るということで、ダイナマイト等の準備はすべて整つており、また作る場所は佐古の部屋で、承知した場合は地下に潜つて佐古と共同生活をするということであつた。自分は爆弾闘争を行う条件が熟していないということで断つた。なお、爆弾闘争ということは、L研内部では当初から言われていた。」

峰が昭和四四年五~六月以降L研に所属していたことは記録上明らかであり、かつ同人の供述はきわめて具体的であるとともに弁護人の反対尋問にもかかわらずおおむね首尾一貫しており、これを弁護人のいうように真実経験しないことを述べたものとは到底解し難い。そして、同人の供述によれば、少なくとも当時L研が爆弾闘争を志向していたことは一層明確になつたものというべきである。

しかし、同人の供述を採つて本件が増渕らの犯行であることの裏付けとするについては、次のような疑問が存するといわなければならない。

1 峰が佐古と二人で八・九機の下見をしたとする経緯は、たまたま佐古のうちに行つたとき国家権力の配置状況を住まいの近くから手始めに偵察するということが発端となつたというものであつて、いわば思付きに近く、八・九機襲撃の具体的計画があつてその一端としてなされたものとみることは困難であること、

2 峰の供述によれば、同人とともに一〇月二〇日、二一日に八・九機に対しピース缶爆弾を投入する役割であつたとされる佐古及び前原の捜査当時の各供述をみても、峰と同趣旨のものはなく、かえつて、同日の自己の役割につき、佐古は、「一〇月二〇日午後から立川市方面でトラツクを盗み、翌二一日は東薬大前まで右トラツクを運び、これにピース缶爆弾を積込んで出発し、赤軍派の者とともに警視庁新宿警察署を襲撃した」旨、また前原は、「一〇月二〇日は翌日の闘争のため赤軍派の者と連絡をとり、翌二一日は東薬大で火炎びんが製造された際同大周辺で赤軍派とのレポを担当した」旨述べていること。また峰の供述によれば、一〇月二〇日クラシツクにいたとされる増渕、村松及び江口の捜査当時の供述をみても、同日クラシツクにおいて峰のいうような話合いないし議論がなされた旨述べている者はいないこと、

3 所論によつても、本件八・九機の襲撃は、増渕において、佐古が一〇月二一日夜河田町アジトにピース缶爆弾二個を持帰つたことを聞くやこれを用いて行うことを計画し、同月二三日前原、井上、村松、内藤らに相謀つたとされており、前原らの捜査当時の自白もこれに符合しているのであつて、峰の供述を八・九機襲撃の具体的計画の存在としてとらえるならば、それは所論ないし前原らの自白とも相容れないものといわざるを得ないこと、

以上の諸点からすれば、峰の供述するところは、原判決(三八九頁)もその存在の可能性を認めている、一〇月頃L研の者らによつてしばしばなされたそれほど具体性を持たない機動隊や交番の攻撃に関する話合いの域を出るものとは認められず、同月二四日に発生した本件の具体的謀議ないし実行を裏付けるには足りないといわなければならない。

三  自白等の信用性

既にみたとおり、増渕らが本件をなしたと認めるに足りる物的証拠ないし客観的状況は存在しない以上、本件もアメリカ文化センター事件と同様、増渕らを有罪と認定できるか否かは捜査当時作成された増渕(検面及び員面)、前原、内藤、村松(いずれも検面のみ)の各自白調書並びに内藤の八部一回公判における自己に対する八・九機事件の公訴事実に対する陳述及び同三回公判における供述(以下、これらを「内藤初期公判供述」という)の信用性が決め手になるといわなければならない。なお、所論は、菊井の証言中、前原から本件は増渕の指示で自分達がやつた旨のことを聞いたとする部分は十分信用し得るとするものであるが、聞いたとする相手方が本件の被告人ではない前原である以上、菊井の右証言は、本件の被告人である増渕らに対しては本来は証拠能力を持たないものであることは、先にアメリカ文化センター事件について述べたとおりであり、右伝聞を証拠とすることにつき同意があつたと解するにしても、(そう解することに疑問の余地があることも同事件に関して指摘したとおりである)、それは、供述事項からみて、同事件の場合と同じく、前原の自白が信用できる場合にそれを補強する程度の意味を持つに過ぎないと解される。そこで以下に、前記各自白調書(必要に応じ刑訴法三二八条により採用された員面調書を含むものとする)等の信用性について、慎重に検討を加えることとする。

1 前原及び内藤の自白等

所論は、前原の自白はそのなされた経緯がきわめて自然であり、信用性の高い内藤初期公判供述とも種々の点で符合しており、供述内容も一貫していて大きな変遷がみられないなどの点から、その信用性は十分であり、また内藤の初期公判供述も、公開の法定で増渕ら共犯者が本件犯行を否定していることを知りながら自己及び共犯者にきわめて不利益な本件犯行への関与を認めたものであつて、基本的に信用性は十分と認められるとし、なお、原判決が、内藤初期公判供述が基本的に捜査段階における自白(以下、「内藤自白」という)の延長線上にあることを前提として、右公判供述の信用性に疑問を呈していることを非難し、両者の間には重要な事項について実質的にかなりの相違がみられることなどからして、内藤初期公判供述は内藤自白とは質的に異なるものと認められるから、右の原判示は失当であると主張する。

そこで検討するに、前原の自白の概要は、他の事件に関するものを含め原判決(一一二頁)に摘記されているとおりであり、内藤自白及び内藤初期公判供述の内容は、他の事件に関するものを含め、同様に原判決(一三一頁)に摘記されているとおりである。そして原判決(三二三頁)も説示するように、両者の自白については、それらがおおむね具体性に富み、かつ詳細であることのほか、前原のそれについては、<1>前原が本件に関して具体的な取調を受けたのは昭和四八年一月一七日が最初であるが、同日比較的短時間で八・九機を下見したことを供述し、その後順次具体的かつ詳細に自白するに至つたこと <2>捜査段階において一貫して自白が維持されていること <3>前原は捜査に協力的な態度をとつていたこと <4>前原は、原審公判廷において、取調中に八・九機前を都電で通つた時にその正門付近に機動隊員が二〇人ぐらいいてフラツシユがかなり焚かれていた情景が浮かんだ旨供述しており、これは前原が本件直後都電で八・九機正門前を通つたという体験を有していたことを窺わせるものとみるのが自然であること、などが認められ、また内藤のそれについては、<1>内藤は、任意出頭による取調中の昭和四八年二月六日及び八日に、昭和四四年一〇月二三日の出来事として河田町アジトにおいて八・九機襲撃の話があつたことなどを供述し、昭和四八年二月一七日に本件により逮捕された際も本件に参加したこともあるかも知れないなどと供述し、その後順次具体的に自白するに至つたこと <2>内藤は、原審公判廷においても、「昭和四四年一〇月二一日以降のある日河田町アジトに行つたとき、同アジトに村松、前原、井上らが集まり雑談的に四機が強いとか八機とかいう話が出て村松が紙に何か書いたという断片的な記憶がある」旨述べていること <3>内藤は、捜査段階において一貫して自白を維持し、公判段階にいたつても当初自白していたものであること、などが認められ、これらによれば、両名の自白及び内藤初期公判供述は、少なくともその大綱においてはこれを信用してよいようにも思われる。

しかし、右両名の自白等については、少なくとも以下述べるような問題点ないし疑問点の存在することを否定できない(なお、所論は、前記のように、内藤初期公判供述は内藤自白と質的に異なり信用性が高いと主張するのであるが、右初期公判供述は内藤が起訴後比較的早い段階で、しかも勾留が継続している状態でなされているのであるから、捜査当時の自白と完全に遮断されたものとは解し難く、捜査当時自白をしたことが一種の既成事実となつて公判段階においてもおおむねこれを維持したということも十分考えられるところであり、現に所論も内藤が初期公判において供述を曖昧にしている事項については、おおむね捜査当時の自白を信用すべきものとみていることは、控訴趣意中の「本件に関し認定し得る事実」に徴し明らかである。そうだとすると、内藤につき、捜査当時の自白ときり離して初期公判供述の信用性を独自に論ずることは必ずしも相当とは思われず、原判決の手法のように、初期公判供述は基本的には捜査当時の自白の延長線上にあるものとして、むしろ後者を中心として考察するのが相当である)。

イ 一般的問題点

まず、前原及び内藤の各自白については、次のような特徴の存することに留意しなければならない。すなわち、両者に共通するものとしては、<1>自白の信用性を高めるいわゆる秘密の暴露と目すべきものがないこと <2>両名及び共犯者とされている者の自白内容は、いずれもレポあるいは効果測定などの間接的役割に関するものであつて、爆弾投擲に直接関与したことに関する自白は得られていないこと、があげられる。次に、前原の自白のみに関するものとしては、アメリカ文化センター事件との関連で、<3>本件に関する前原の取調はアメリカ文化センター事件のそれと併行してなされ、昭和四八年一月一六日アメリカ文化センター事件につき初めて自白し、その翌日本件についても初めて供述し、同日両事件につき員面が作成されているが、右員面には八・九機を下見したとの供述のほか、アメリカ文化センター事件のダンボール箱を製造した旨の虚偽の自白が併せて録取されており、八・九機を下見したとの供述も、アメリカ文化センター事件の乾電池と電気雷管の接続をした後の一〇月二六日(本件発生の二日後になる)ころ下見をしたという不自然な内容のものであること <4>前原は、同月一七日佐古がアメリカ文化センター事件について供述するとともに、前原から、八・九機事件の犯行を打明けられた旨供述したことから同日同事件について追及を受けるにいたつたものであるが、佐古のアメリカ文化センター事件についての自白内容は前述したとおり全体的にその信用性に疑問があるものであり、また本件に関する供述内容も前原が花園、井上と爆弾を八・九機に投げ込んだと聞いたというもので、その後なされた前原の自白とも一致せず、このような佐古の自白に関する疑問点はそれを手がかりとして得られた前原の自白の信用性にも影響を及ぼすものであること、などを指摘することができる。そして、これらの諸点からすれば、前原及び内藤の自白については、その信用性につき十分慎重に検討する必要があると考えられる。

ロ 客観的犯行状況からみた疑問点

前述したように、本件爆弾の投擲に直接関与した者の人数は一名である可能性が高いと認められるが、前原の自白によれば、右の人数は、村松、井上及び堀の三名であるとされており、内藤の自白も、必ずしも明確ではないものの三名であることが基本となつており、いずれも客観的な犯行状況に反するといわざるを得ない。特に、前原の自白は、犯行後井上から「自分が八・九機の反対側の路地から道路に出て様子を見て村松と堀に合図をし、二人が電柱の陰に行つて爆弾を投げ込み、その後三人がばらばらになつて駈けて逃げた」と聞き、また村松から「堀が隠すように爆弾を持ち、自分が導火線に点火してから爆弾を受け取り、前に駈け出して投げたが、投げた後追いかけられてまくのに苦労した」と聞いたというものであるが、もし状況がそのようなものであつたとしたならば、複数の者が現場付近で警察官等により現認されて当然と思われるのであつて、右自白の信用性はすこぶる疑問である。また、前原及び内藤は、いずれも本件の謀議の際投擲班として三名ないし複数の者が指名されたと自白しているけれども、上述したところによれば、右自白もまた客観的犯行状況と合致しないというほかない。

そして、右にみた自白と客観的犯行状況との不一致ということは、前原及び内藤の自白全体の信用性の評価に当たつて到底看過し得ないところといわなければならない。

ハ 自白内容の不自然性

次に、前原及び内藤の自白中には、おおむね原判決が指摘するように、それ自体又は他の証拠との対比において、次のような不自然な点が存在する。

(一) 導火線の燃焼実験(原判決三六一頁)

前原及び内藤は、八・九機事件の前日である一〇月二三日河田町アジトで導火線の燃焼速度を測る実験をした旨述べており、これは特異な体験に関する供述であつて、両者の自白の信用性を高めるもののようにみえる。しかし、原判決も指摘するように、前原、佐古及び村松は、増渕らがピース缶爆弾製造の際にも導火線の燃焼実験を行つた旨を述べるのであり、そうだとすると、増渕らは再び同様の実験を行つたことになり、不自然さを免れ得ない。所論は、導火線の取扱いや性能等に不慣れな者らがそれを聞いて爆弾を製造するに当たり、果たして火がうまくつくか否かを試すのはごく自然な行為であり、さらに実際に自らこれに点火し投擲することになつた場合手元での爆発や投げ返されることのないよう念を入れて燃焼速度を正確に計測するのも必要不可欠の実験であつて右の供述は自然かつ合理的であると主張するのであるが、原判決もいうように、ピース缶爆弾は直ちに使用できる完成品として製造され、赤軍派の者にも交付されたというのであり、そうであれば、導火線の燃焼速度も入念に計測したうえ導火線の長さを決定したはずであると思われること、しかも本件の実験の場に居合わせたとする者のうち、増渕、前原、村松の三名までもが右製造の際の実験に参加したとされていることなどからみて、本件前日再度の導火線燃焼実験を試みる必要性のあることを十分に納得させるものではない。

(二) 犯行直前の喫茶店集合(前同三五八頁)

前原及び内藤は、犯行直前に現場付近の喫茶店に犯行に参加したメンバーが集合したと述べているのであるが、他方、同人らは喫茶店に行く前に河田町アジトで任務分担の確認を済ませていると供述しているのであるから、犯行直前に再び喫茶店に集まる必要はないと思われるし、犯行直前に現場付近の喫茶店に集つて順次出発して行くというのも(内藤の自白によれば、さらに犯行直後にも再び同じ喫茶店に順次集まつたというのである)、事件が公になつた後喫茶店の従業員らに怪しまれる形跡を残すことになり、不自然さを免れない。所論は、これを捜査当局の裏をかく行動ともとれるとするのであるが、そのような趣旨の供述は前原及び内藤の各自白中にもみられないところであつて、俄かに賛同し難い。

(三) 内藤の役割(前同三四五頁)

内藤は、本件当日の自己の役割につき、八・九機を中心にして河田町交差点から東大久保交差点までのレポをして、八・九機正門の警備状況と回りの警察の動きを見て途中で出会つた者に説明するようにとの指示を受け、赤軍派の者とともに八・九機前を往復し、途中で出会つた前原や井上に正門前の警備状況や人の流れについて報告したというのである。しかし、レポの重要性は、少なくとも爆弾投擲の直前においては、それが通行人等に発見されることのないよう投擲者の近くに在つて四囲の状況に注意し、かつ投擲後の投擲者の逃走の安全を確認し、これらを投擲者に伝えることにあると考えられるのであつて、内藤の供述するところは本件犯行にとつてそれほど必要であるとは思われず、反面、新宿警察署の襲撃等のあつた直後の時期に二人連れで八・九機正門前を往復するというようなことは警察官の注意を惹くことになりかねず、不自然である。また、レポの結果の伝達方法も場当たり的であるとの印象を禁じ得ず、確実な伝達を意図していたかにつき疑問を感じさせるものである。さらに、内藤は、レポの途中、路地の入口で路地の中に村松外一名が立つているのを見かけたが、意識的に無視して通り過ぎたと供述しているのであるが、内藤の自白によれば爆弾投擲班の一人とされており、八・九機付近の警備状況等の把握が最も必要な立場にある村松に対し、レポ役の内藤が何らの連絡もせず通り過ぎたということも不自然であるといわざるを得ない。

(四) 爆弾投擲予定時刻における相互認識等(前同三四〇頁)

前原は爆弾投擲予定時刻である午後七時の時点において河田町電停付近に立つていた旨述べ、一方、内藤はその時点には河田町電停から八・九機方向に向かい最初の路地の入口付近に立つていた旨述べているところ、原判示のように、両地点はきわめて接近しており、その間には商店が二軒あるだけである。そうすると、その時点では、河田町電停付近から八・九機方向に赤軍派の者を含め三人ないし四人が接近して立つて八・九機正門方面等の様子を窺つていたことになるが、このような人目につき易い光景を作り出すことは、右斜め向い側に警視庁牛込警察署若松町派出所があつたことをも考えると不自然といわざるを得ない。また、両名はこのような近接した位置にあつたはずの相手方の存在について何ら供述していないし、なお内藤は午後七時五分頃右地点を離れ喫茶店に戻つた旨述べ、その経路からすれば前原に出会うはずであるのに、両名ともそのような事実も供述しておらず、これらの点も不自然さを否めない。さらに、高杉早苗の員面によれば、本件直後、警察の緊急車両が八・九機正門から出動した事実を認め得るのであるが、効果測定役として八・九機前に注意を払つていたはずの前原がこの点についての供述を全くしていないのも疑問を感じさせる点である。

(五) 前原の現場における滞留時間(前同三四二頁)

前原は、午後七時一〇分ころになつても変わつた様子はなく、赤軍派の者から爆弾が投げ込まれたらしいが変化はないとの報告を受け午後七時三〇分ころ河田町電停から都電に乗り、八・九機前の様子を見たというのであるが、決行予定時刻から三〇分、赤軍派の者の報告を受けてから二〇分もの長時間状況がはつきりしないまま現場付近に留まるということは、警察官等の不審を招きかねず、やや納得しかねる行動といわなければならない。

ニ 自白内容の変遷

(一) 内藤の自白

まず、内藤の自白内容を通観すると、おおむね原判決が指摘するように、<1>本件前日における喫茶店エイトでの謀議の存否(原判決三七二頁) <2>本件前日の謀議に増渕が参加したことの有無(前同三七八頁)及び右謀議に参加した赤軍派の者の氏名(前同三八〇頁) <3>本件犯行時における自己の行動(前同三五〇頁)及び行動途中に前原と会つたことの有無(前同三三八頁) <4>本件犯行時レポ同行者として自己と行動を共にした者ないしその人数(前同三四八頁) <5>犯行の直前及び直後に喫茶店に入つたことの有無(前同三五六頁) <6>本件に菊井が参加したことの有無(前同三八三頁)、などについて供述の変遷があることは明らかである。所論はこれらをおおむね記憶の不正確ないし稀薄化等に基づくと主張するほか、<2>及び<4>については、参加した赤軍派の者の氏名をことさら秘匿したものであると主張する。確かに、本件についても事件の発生から内藤らの自白までには三年数箇月を経過しているのであり、日時の経過による記憶の喪失、混同、稀薄化等のあり得ることはいうまでもなく、また真犯人が自白する場合であつても、捜査の攪乱、自己の刑責軽減等の思惑から、ことさら真実と虚偽事実を混入して供述することのあることも、当然考慮しなければならないと思われる。しかし、まず、<1>については、内藤は、謀議の場所として当初河田町アジトのみを供述し、後にいたつてこれに先立つものとしてさらに喫茶店エイトを追加して述べるにいたつたものであるが、もし喫茶店において謀議、しかも最初のそれが行われたとするならば、内藤にとつて初めて爆弾を使おうということの経験であり、かつ喫茶店という場所の性質上周囲への注意も欠かせなかつたと思われるから、この点の記憶を喪失するというようなことは若干不自然と思われる。次に、<2>については、本件当時L研リーダーをしていた増渕が本件前日に八・九機襲撃の提案をしたものとすれば、印象的なこととして記憶に残りやすいことと思われるから、この点につき供述が変遷していることはいささか理解し難く、また謀議に参加した赤軍派の者の氏名に関する供述は、警察官に対しては梅内及び花園の名前を挙げるのと並行して検察官に対しては名前の知らない男であるとしているのであつて、相手によつて意識的に供述を変えているとの感を禁じ得ず、なお赤軍派の参加を供述した以上、所論のいうようにことさらその具体的氏名を秘匿したと断ずることにも、疑問が残るといわなければならない。次に、<3>の点は自らが果たした役割に関する重要な事柄で、もし真犯人であれば時日の経過の点を考慮しても行動の概要についてほぼ一貫した供述が得られると思われるが、内藤の当初における自白は余りにも漠然としており、その後原判決摘記のような具体的な供述をなすにいたつているものの、同人の供述の経過を次第に記憶が喚起されていく過程とみることは困難であり、またレポという行動の性質上仲間である前原と出会つたことを当初忘失していたとみるのも不自然である。また<4>について考えるに、レポの同行者が誰かは比較的記憶に残りやすい事柄と思われるのに、この点に関する内藤の自白は、原判示のように、自分のほかに同行者がいたのかどうか、いたとしてその者の赤軍派所属の有無及びその具体的氏名について著しい変遷を示しているのであり、これを記憶の混同等に基づくとみることは到底できず、また赤軍派との共闘を供述した以上、所論のいうように、ことさら赤軍派に所属する者の氏名を秘匿したと断ずることにも疑問が残るといわなければならない。また<5>については、内藤が述べるように、犯行の直前及び直後に同一の喫茶店に入つたとするならば、記憶に残りやすいと思われ、この点につき記憶の混同を来たすというようなことは不自然である。さらに<6>につき、内藤は当初はつきりしないなどの曖昧な供述をしていたのが犯行当日菊井がいた旨明白に述べるにいたつたものであるところ、爆弾投擲という重大な事件に参加したメンバーにつき記憶の混乱を来たしたとすることには疑問がないでもなく、また前原の自白や菊井証言に照らすと菊井が本件に参加したことは否定的にみるほかないのに、内藤が、後日菊井において「八機のときは大分焦つたなあ。恐ろしかつたろう」などと話した旨いかにもわざとらしい供述をしていること(48・4・5付員面)をも考えると、むしろ内藤としては、意識して、菊井が本件に参加した旨虚構の供述をした可能性が強いとみるべきである。

なお、原判決は、内藤の供述には、以上で問題にした点以外にも、<7>内藤がレポ中、村松らがそこに立つていたのを見かけたとする路地の位置(原判決三四五頁) <8>本件に使用された爆弾の入手経路(前同三六八頁)等についても変遷があるとし、これらをも内藤の自白を信用できないことの根拠として挙げている。しかし、<7>は、同じような路地のうちどれかという比較的細部の事柄であり、また<8>も、自らの体験ではなく他から聞いた内容に関するものであるから、いずれも記憶の稀薄化等に基づくものとしても特に不自然ではないと解される。

(二) 前原の自白

次に、前原の自白内容を通観すると、おおむね原判決の指摘するように、<1>本件前日喫茶店で謀議がなされたか(原判決三七六頁) <2>本件当時赤軍派の者が同行したことの有無(前同三四四頁) <3>本件当時自己の役割遂行中に内藤と会つたことの有無(前同三三八頁) <4>犯行の直前及び直後に喫茶店に入つたことの有無(前同三五六頁)、などの点について供述の変遷があることが明らかである。所論は、おおむねこれらを記憶の不明確ないし稀薄化に基づくものと主張するほか、<2>については赤軍派の者の氏名を秘匿する目的があつたと主張する。確かに前原についても、日時の経過による記憶の不明確ないし稀薄化、種々の思惑による虚偽供述の混入等は当然考慮に入れなければならないと思われる。しかし、<1>については、内藤の場合と同じく、もしまず喫茶店における謀議があつたとするならば、はじめて爆弾を使おうということの経験であり、かつ場所の性質上周囲への注意も欠かせなかつたと思われるから、その点の記憶を喪失するというようなことは不自然であるといわざるを得ない。次に、<2>ないし<4>は、事件当日の自らの行動ないし役割に関する重要な事柄であつて、これらにつき記憶の混同を来たしたなどと解することは不自然であり、<3>につき赤軍派の者の氏名を秘匿する目的があつたとする所論についても、前原は既に48・1・22員面において事件当日の午前中赤軍派の者と会い事件の計画を連絡した旨供述している点からみて疑問を持たざるを得ない。

なお、原判決は、前原の供述には、以上で問題にした以外にも、<5>本件当日増渕が最終的な打合わせに参加し指示をしたことの有無(原判決三七九頁) <6>本件に菊井が参加しなかつた経緯(前同三八四頁)等についても変遷があるとし、これらをも前原の自白を信用できないことの根拠として挙げている。しかし、<5>については、前原の供述によれば、増渕は本件の前日来種々の場面に登場し本件に関する指示等を行つたとされているのであるから、増渕が当時L研のリーダーであつたということを考慮しても、本件当日の同人の行動に関する前原の記憶が他の場面と混同して曖昧となつたと解しても特に不自然ではないし、また<6>については、自己の直接関与していない部分も含まれており、それほど重視するには値しないと認められる。

ホ 自白相互間のくい違い

前原及び内藤の本件に関する自白の間には、最終段階のそれに限つても、おおむね原判示のように、<1>前原は、本件前日の河田町における謀議の際、押入からピース缶爆弾二個を取出しその場に居た者に対し見せたと供述しているのに対し内藤はそのような事実につき何ら供述していない点(原判決三七一頁) <2>本件当日増渕が最終的な打合わせに参加し指示をしたことの有無につき、内藤は比較的早い段階から河田町アジトで増渕が各自の任務を決めた旨述べるのに対し、前原は、当初においては、本件当日は増渕に会つていない旨述べ、その後においても河田町アジトでの打合せ終了後増渕が来たと思う旨述べている点(前同三七九頁) <3>両者の供述は、本件犯行直前喫茶店に集合したとする点では一致しているが、その際のメンバーにつき、内藤は、河田町アジトにいた者全員が集まつたと述べているのに対し、前原は、投擲班の村松、堀、井上はいなかつたと述べている点(前同三五六頁) <4>内藤は、本件前喫茶店に集つた際、井上がピース缶を包んだくらいの大きさで普通の包装紙のようなもので、きちんと包んだ紙包みを持つており、かつ右包みは河田町アジトを出る際増渕が井上に手渡したものであると述べるのに対し、前原は、村松あたりが爆弾を紙袋に入れて河田町アジトを出発したような気がするがはつきりしない旨述べている点(前同三七一頁) <5>本件犯行直後の喫茶店集合について、内藤は、犯行直前に集合した喫茶店に再び集合し、菊井もいたと供述するのに対し、前原は、犯行直前に集合した喫茶店とは異なる喫茶店に集合し、また菊井は本件に参加しなかつたと供述している点(前同三五五頁) <6>両名とも、本件当時自己の役割を遂行中それぞれ相手方に出会つたとするのであるが、出会つたとする位置は八・九機正門を中心にして正反対であり、距離も相当離れている点(前同三三七頁) <7>八・九機に対する攻撃方法について、内藤は、横の方からの侵入ないし横からの攻撃に固執する傾向がみられ、八・九機正門攻撃にいつ変更になつたのか記憶にない旨供述するのに対し、前原は、横からの攻撃については一切述べず、一貫して正門前の道路端から正門に向かつて投擲するはずであつた旨述べている点(前同三六六頁)、などのくい違いがあることが明らかである。思うに、数名の者が同一の事項を体験記憶しこれを誠実に供述するにおいては、各供述の間に顕著な相違が存しないのが通常の事態であり、前述したように各人につき日時の経過による記憶の喪失、混同、稀薄化等があり得るとしても、なお重要な事項や特異性ある事項に関しては少なくとも大綱においては各人の供述が合致すべきものであろう。この観点からみると、右に列挙した<1>ないし<7>のなかには比較的細部の事項であつて、所論のいうように記憶の稀薄化等に基づくと解することができるものもあり、したがつて、原判決がそれらすべてを前原らの自白の信用性に疑問をさしはさむ根拠としていることには直ちには賛同し難い。しかし、右<1>ないし<7>のなかには、本件の経過ないし当日における内藤らの行動に関する重要部分であつて、必ずしも細部の事項とは即断し得ないものもあり(<5><7>等)、これらの点についてまで供述内容にくい違いがあるということは、各自白の真実性に疑問を投げかけるものといわざるを得ない。

ヘ フラツシユ等の目撃に関する前原の自白

なお、前原の自白の信用性に関する所論中、以上で取上げたもの以外で特に重要と思われるのは、本件直後同人が目撃したとする状況に関するもので、所論は、前原は捜査当時、「本件当日の午後七時三〇分ころ河田町から赤軍派の者と都電に乗つて八・九機前を通過し様子を見たところ、正門前に制服の警察官一〇数名外が集まつており、フラツシユが焚かれていた」旨供述し、また原審公判廷においても、「取調中、八・九機前を都電で通つたときにその正門付近に機動隊員が二〇人位いて、フラツシユがかなり焚かれていた情景が浮かんだ」旨供述しているが、同人は本件当日そのような経験をしたからこそ右の供述をなし得たもので、その信用性はきわめて高いと主張しており、右の所論は一応もつともであつて、前原が本件に関与したことを推認させる有力な情況と思われるのである。しかし、他方、前原は、右フラツシユを見た際赤軍派の者が同行していたかについては前述したように供述が一貫しておらず、またその後における行動についての供述もきわめて曖昧で、前述したように喫茶店に入つたかどうかについても供述を変遷させているのであり、このような曖昧な供述中にあつて、フラツシユ等の目撃状況に関するもののみ信を措けるとすることについてはやはり疑問を感ぜざるを得ず、前原の供述する時刻に実際にフラツシユが焚かれていた事実も証拠上明確でないこと(ちなみに、(員)蛭田昇伍44・11・4実見―増渕証一三冊によれば、警察官による現場の実況見分は一〇月二六日午前九時からなされていることが認められる)をも考慮すると、所論は結局採用し難いところである。

ト まとめ

以上みたとおり前原及び内藤の各自白に関する原判決の説示は、些細な点を問題にし過ぎている嫌いはあるけれども、右自白に種々の疑問点が存在することを否定できないところである。また内藤の初期公判供述も、右自白内容のうちのいくつかを撤回、変更するところもあるが、基本的には右自白の延長線上にあり、同様の疑問を免れないものである。

ところで原判決(三九〇頁)は、内藤について昭和四四年一〇月ころのある日、村松、前原らが河田町アジトか、あるいは他の場所に集まつた際に内藤も同席し、村松が八・九機を火炎ビン等で攻撃する計画を提案したものの横から侵入するといつた実現可能性の薄いものでともかく実行にはいたらなかつたというようなことがあつて、内藤がこの話合いについて断片的に記憶していたこと、及び内藤が河田町アジトか八・九機付近にある大学の友人の下宿へ遊びに行くような機会に八・九機付近を歩き、その時の状況を断片的に記憶していたことがあり、捜査官から「増渕、村松、前原らが八・九機事件の犯人で認めている。お前の名前も出ている。何か八・九機について思い出すことはないか」との追及を受けて、増渕らが八・九機事件の犯人である旨思込み、右断片的記憶に基づき供述したが、その後逮捕され取調が続くうちに捜査官の追及に根負けしたものか迎合したものかは不明であるが、追及に合わせた供述をしたとの疑いを否定し去ることはできないように思われると説示しているところ、原判決の右説示には自白した動機等に関しやや憶測に過ぎる部分がないではないが、内藤の自白中には原判示のように他の者の供述に対応させて自己のそれを変遷させて行つたと思われる部分が少なからずあることや記録上窺われる同人の迎合的性格等をも併せ考えると、原判決が、内藤は捜査官の追及に根負けし、または迎合して虚偽の自白をした疑いがあるとする結論的部分はこれを是認し得るものと考えられる。そして、内藤の初期公判供述についても、前述したように、それが起訴後比較的早い段階で、しかも勾留が継続している状態でなされていることを考えると、捜査当時の自白と完全に遮断されたものとは解し難く、捜査当時自白をしたことが一種の既成事実となり、一方では反省の態度を示すことが裁判上自己の有利になるとの思惑も働いて、事実に反して起訴事実を認める態度に出たのではないかとの疑いを否定し得ないところである。

次に、原判決は、前原の自白につき、同人は取調官の厳しい追及に根負けし、または迎合して虚偽の自白をするにいたつた疑いが残る旨説示しているところ、同人の自白中には、原判示のように他の者の供述に対応させて自己の供述を変遷させて行つたと思われる部分が少なからずあることをも考えると、所論にもかかわらず、右の原判示も合理性を欠く不当なものとは認められない。

以上検討したところによれば、本件に関する前原及び内藤の自白並びに内藤の初期公判供述に十分な信用性を認めることは困難といわなければならない。

2 村松の自白

所論は、村松の自白は、その活動歴等からみて、身に覚えのない犯罪への参加を供述したとは到底考えられず、したがつて、前原自白や内藤初期公判供述と符合しない部分はともかく、これと基本的に符合する部分については十分信用し得ると主張する。

村松の自白の概要は、他の事件に関するものを含め、原判決(一五一頁)に摘記されているとおりであるところ、本件に関する部分はかなり具体的であるとともに、所論のいうように前原自白や内藤自白と部分的に符合している点も認められるところである。

しかし、村松の自白についても、少なくとも以下に述べるような疑問点の存在することを否定できない。

イ 客観的犯行状況からみた疑問点

前述したように、本件爆弾の投擲に直接関与した者の人数は一名である可能性が高いと認められるが、村松の自白によれば、本件の謀議の際投擲班として三名が指名されたとなつており、右の客観的犯行状況と合致しないというほかはない。

ロ 自白内容の不自然性

村松は、当初、本件当日見張役を担当した旨述べていたところ、その後否認を経て再度自白してからは、河田町アジトから徒歩約五分のところにある木村コーヒー店で待機していた旨述べているのであるが、右木村コーヒー店での待機が本件の遂行にどのような意味を持つのかは同人の供述によつても判然とせず、不自然さを否定し得ない。

ハ 前原及び内藤の各自白とのくい違い

村松の自白と前原及び内藤の各自白とを比較すると、おおむね原判決(三九八頁)が指摘するように、<1>本件前日の喫茶店における謀議に参加したメンバーや謀議の内容 <2>同日の河田町アジトでの謀議内容<3>同日河田町アジトで導火線燃焼実験が行われたか <4>本件に赤軍派二名が参加したか <5>本件当日における村松の行動ないし役割等についてくい違いがあることが明らかである。もつとも、<1><2>については、村松の供述によつても本件前日から当日にかけ多数の者が出入りして謀議または謀議的なものを再三行つたというのであるから、当該場面に関する村松の記憶が日時の経過により曖昧となつたことなどに基づくと解する余地がないとはいえない。しかし<3>ないし<5>については、供述事項及び内容からみてそのように解することは困難であり、特に<5>については、村松が前記のように木村コーヒー店で待機していたと供述している点は、同人を投擲班の一人であると述べる前原及び内藤の自白と大きく相違しており、到底看過できないところである。

ニ まとめ

以上みたとおり、村松の自白にも種々の疑問点が存在することは否定できないところである。もともと、原判示(三九九頁)のように、村松は、アメリカ文化センター事件に関する自白と同様、否認することは自分に不利になると考え、事件への関与を認めつつ、自分は従属的地位にとどまるものであることを主張しようとの動機から自白するにいたつたと認める余地が大であり、このような村松自白の内容及び動機に照らすと、村松の自白に信用性を認めることは困難である。

3 増渕の自白

所論は、増渕の自白中、前原自白、内藤初期公判供述と符合しない部分については、その信用性は十分でないと思料されるものの、長期間左翼活動に従事し、強固な暴力革命思想、反権力思想を有し、取調に対する抵抗力も他の者に比し格段に強かつたと認められる増渕が、自ら本件に関与し犯行の指揮をとつたことを自認したことに留意すべきであると強調し、かつ同人の自白は、基本的には前原自白や内藤初期公判供述とほぼ符合しており、信用し得るものであると主張する。

増渕の自白の概要は、他の事件に関するものを含め原判決(一七〇頁)に摘記されているとおりであり、部分的に前原及び内藤の各自白に符合する点はあるものの、最終段階のそれですら全体としてきわめて概括的で具体性ないし臨場感に乏しく、さらにおおむね原判決が指摘しているように、その内容につき以下述べるような疑問を免れ得ないといわなければならない。

イ 客観的状況等からみた疑問点(原判決四〇三頁)

増渕は捜査段階において、本件当日八・九機の裏を回つて下見をした旨述べ、その略図も書いている(48・2・20員面)が、原裁判所の実施にかかる検証調書の記載によれば、八・九機の裏側を右図面のように通り抜けることはできないものであることが明らかで、右供述は体験しないことを供述したとみる余地が大きい。また前述したように、本件爆弾の投擲に直接関与した者の人数は一名である可能性が高いが、増渕の自白によれば、右の人数は菊井、村松の二名とされており、客観的に認められる犯行状況に反するうえ、前述したように菊井の本件への参加は否定的にみるほかないことに照らし、自白全体の真実性に多大の疑問を投げかけるところである。

さらに、増渕もまた前原及び内藤の各自白におけると同様に、アジトにおける導火線燃焼実験について述べるのであるが、その不自然性を否定し得ないことは、前原及び内藤の各自白につき述べたのと同様である。

ロ 自白内容の変遷(原判決四〇四頁)

増渕は、当初、昭和四四年一〇月一八日ころ八・九機の爆弾計画を計画したが中止し、同月二三日右計画を再確認して同月二四日実行した旨供述し、その後「同月二三日ピース缶爆弾が河田町アジトに持帰られていることを聞き、八・九機の攻撃を指示した」旨供述するにいたつたものであるが、八・九機攻撃の経過という重要な事項に関するこのような供述の変遷を正確な記憶が喚起されていつた過程とみることは困難であつて、同人がその体験したことをありのままに供述しようとしていたかにつき疑問を持たざるを得ない。

ハ 他の者の自白とのくい違い(原判決四〇〇頁)

増渕の自白内容を内藤ら他の者のそれと対比すると、<1>本件前日の喫茶店における謀議につき、喫茶店の名前を「ミナミ」とし、参加者を「増渕、菊井、前原、井上、国井」とする点で、内藤、村松の各自白あるいは菊井証言と異なり、<2>増渕は右謀議後直ちに八・九機を全員で下見したと供述している点において前原、内藤、村松の各自白と異なり、<3>本件前日のアジトにおける謀議につき、河田町アジトか村松のアパート(住吉町アジト)として、村松のアパートであつた可能性を残しており、また参加者が「ミナミ」に集つたのと同じであると供述する点において内藤、前原、村松の各自白と異なり、菊井の参加を認める点では菊井証言にも反しており、<4>本件爆弾投擲後の効果測定役について述べず、かつ赤軍派の者との連絡につき述べていない点で前原自白と相違し、<5>本件当日村松のアパートに待機し同所で村松に対し菊井と本件の実行をするように指示したとする点において内藤、前原、村松の各自白と大きく異なり、石井の供述とも相違し、<6>本件後、村松のアパートにおいて、菊井から八・九機事件について失敗したとの報告を受けたと供述する点において菊井証言と全く相反し、石井の供述とも異なり、<7>導火線燃焼実験の日時、場所を本件当日の昼間河田町アパートか村松のアパートでなしたとする点において内藤、前原らの各自白と相違する(もともと導火線燃焼実験をしたとする供述自体が不自然であることは、すでに述べたとおりである)などの諸点を指摘することができる。これらのなかには比較的細部の事柄であつて日時の経過による記憶の稀薄化等に基づくと解することができるものもあり(特に、増渕の自白自体あるいは内藤らの自白にあるように、本件前日から当日にかけ多数の者が再三謀議またはこれに類する話合いの席に出入りしたものとすれば、個々の場面に関し他の場面と記憶の混同等を来たすということは大いにあり得ると思われる)、したがつて、原判決がこれらすべてを増渕の自白の信用性を否定する根拠としている点は必ずしも相当でないと思われる。しかし、本件の経過に関する重要部分で必ずしもそのようにはいえないものもあり(<5><6>等)、このような事項についても他の共犯者とされている者との間に供述内容のくい違いが存するということは、右の者らがいずれも共通に体験した事実を誠実に供述しているとすることに疑問を抱かせるものといわなければならない。

ニ まとめ

以上みたとおり、増渕の自白には種々の疑問が存するところであるが、他方、増渕には、捜査を攪乱させ、あるいは将来公判段階で争う余地を残すなどの意図からことさら虚偽の自白をなした疑いも否定できないところであり、このような増渕の自白の内容及び考えられる動機に照らすと、その自白についても信用性を認めることは困難である。

4 要約

以上検討したとおり、内藤、前原、村松及び増渕の自白は、その内容の信用性につきいずれも疑問があり、増渕らが本件の犯人であると認定するには足りないものというべきである。個々の自白においてそうであるのみならず、それらを総合しても異なる心証には到達し得ないものである。

四  結論

以上によれば、増渕及び堀が本件に関与し、その犯人であると断ずることはできないとして、同事件につき右両被告人を無罪とした原判決に所論のいうような事実の誤認があるとは認められない。論旨は理由がない。

第三ピース缶爆弾製造事件

一  事案の内容と情況証拠

ピース缶爆弾製造事件(以下、第三において「本件」ともいう)は、公訴事実及び原審公判廷における検察官の釈明等によれば、増渕、堀及び江口がいずれもほか九名と共謀のうえ昭和四四年一〇月中旬ころ東京都新宿区河田町の佐古の居室においてピース缶爆弾一〇数個を製造したというものであり、かつ右爆弾が既に考察したアメリカ文化センター事件及び第八、九機動隊事件等の他の爆弾事件に用いられたとされているところ、増渕らが右のとおり本件をなしたと認めるに足りる物的証拠はなく、かつ原判示(八五頁)のようなL研の活動状況は存するものの、これのみによつて増渕らを本件の犯人であると断定することは到底できない。ただ、当審証人峰孝一の供述が、前述したように、村松にピース缶二~三個及びパチンコ玉二〇個位を渡し、かつ佐古からピース缶爆弾製造への参加を誘われたという内容をも含んでいることは、本件の関係でも注意を惹くところではある。しかし、当審検察官の釈明によつても、峰が村松に手渡したとするもののうち、パチンコ玉は本件ピース缶爆弾に用いられてはおらず、ピース缶も右爆弾に用いられたとは断定できないというのであり、また佐古からピース缶爆弾製造への参加を誘われたとする点も、峰の供述中には、その日時につき一〇月二〇日のクラシツクの会合の二~三日から五日くらい前、あるいは一〇月一四、五日ころとするものもあり、これを採れば、所論のいう本件爆弾の製造年月日である一〇月一二日よりむしろ後の期日の出来事ということになるし、またいずれにせよ、峰はこれを断り爆弾製造に参加することはしなかつたというのであるから、結局、同人の供述は、日時の点は別にしても、周辺的事情に関するもので、増渕ら犯人とされる者の自白を離れてそれ自体同人らが本件の犯人であることを間接的にも立証し得るような性質のものとは認められない。

二  自白等の信用性

このように、増渕らが本件をなしたと認めるに足りる物的証拠ないし客観的状況は存在しない以上、本件もアメリカ文化センター事件及び第八、九機動隊事件と同じく増渕らを有罪と認定できるか否かは、増渕ら本件被告人らの自白調書(検面及び員面)及び共犯者とされている者中佐古らについては自白調書(いずれも検面のみ。内藤についてはこれに加えて初期公判供述)、菊井については公判ないし公判準備における証言の各信用性が決め手となるといわなければならない。なお、右の自白調書等がピース缶爆弾の製造の事実のみならず、これと密接に関係するものとして、アメリカ文化センター事件、第八、九機動隊事件及び冒頭で認定した中野坂上の事件等他の爆弾事件における証拠物たる爆弾の形状等をも良く説明するものでなければならないことは、前記の公訴事実及び原審公判廷における検察官の釈明、また前述したように、証拠上これらの爆弾が同一の者(ら)かまたは相互に密接な関係を有する者らの製造にかかるものと推認されることなどに照らし明らかである。

そこで、以下に、<1>所論がおおむね信用性が認められると主張する佐古、前原及び内藤の各自白 <2>所論が部分的に信用できるとする村松、江口及び石井の各自白 <3>所論が最も信用性が高いと主張する菊井の自白(証言)に分けて、その信用性(必要に応じ、刑訴法三二八条により、あるいは供述の経過を明らかにするため採用された各調書の信用性を含むものとする)について慎重に検討を加えることとする。

1 佐古、前原及び内藤の各自白等

佐古、前原及び内藤の各自白並びに内藤初期公判供述の内容は、他の事件に関する部分をも含め原判決(九八頁、一一二頁、一三一頁)に摘記されているとおりであるところ、所論は、既に考察したアメリカ文化センター事件及び第八、九機動隊事件の場合とほぼ同じ理由をもつてこれらの自白等の信用性は高いと主張する。

そこで、検討するに、原判決も説示するように、佐古、前原及び内藤の各自白は、具体的かつ詳細であり、佐古及び内藤についてはピース缶爆弾製造事件の取調を受けて間もなく(内藤についてははじめて同事件について取調を受けた当日)自白し、佐古及び前原は同事件について自白して以後捜査段階において一貫して自白を維持し、内藤も、一旦否認に転じたものの再自白した後は一貫して自白を維持し、公判段階にいたつても当初は自白を維持していたものであるから、これらの自白等は少なくともその大綱においてはこれを信用してよいようにも思われる。

しかしながら、右各自白等については、少なくとも以下述べるような問題点ないし疑問点が存するといわなければならない(なお、所論は、ここでも、内藤自白と区別して内藤初期公判供述の信用性を強調するのであるが、第八、九機動隊事件について述べたのと同じ理由によつて、内藤初期公判供述は基本的には捜査当時の自白の延長線上にあるものとして、むしろ後者を中心として考察するのが相当である)。

イ 一般的問題点

まず、他の共犯者とされている者の自白についても共通していえるところであるが、佐古、前原及び内藤の各自白については、自白の信用性を高めるいわゆる秘密の暴露と目すべきものはなく、また爆弾製造作業に関する各人の役割中、最も重要と思われるダイナマイトを切断してピース缶に充填する作業及びパチンコ玉をダイナマイト中に埋め込む作業については、互いに担当者の名前を挙げるものの結局自分が右作業を担当した旨述べる者は一人もおらず、したがつてその作業の具体的状況についても詳細な供述は得られていない。さらに、すでに検討したように、アメリカ文化センター事件に関する佐古及び前原の各自白、八・九機動隊事件に関する前原及び内藤の各自白の信用性には疑問があり、これら両事件に関する各自白はピース缶爆弾製造事件に関する各自白に先行するものであるから、同事件に関する佐古、前原及び内藤の各自白の信用性にも一応疑問を生じさせるものといわざるを得ない。

ロ 証拠物との不一致等

本件において、佐古らの自白の信用性が肯定されるためには、右自白がアメリカ文化センター事件、第八、九機動隊事件及び中野坂上の事件等他の爆弾事件における証拠物たる各爆弾(以下、「本件爆弾」または「本件ピース缶爆弾」というのはこの趣旨である)の形状等をも良く説明するものでなければならないことは前述したとおりであるところ、佐古らの自白には、おおむね原判決が指摘するように、右爆弾の客観的形状に反するか、あるいは真犯人であるならば当然その特徴に触れるべきであるのに触れていない点が少なからず存在する。すなわち、<1>本件爆弾における導火線と雷管の接着方法としては、雷管の管口部に導火線を差込んでいるのに、佐古においては、導火線の先をほぐしてその中に雷管の管口部を押込みボンドで接着したと供述している点(原判決五五四頁) <2>冒頭で認定した合計一三個の本件ピース缶爆弾中塩素酸カリウム及び砂糖の混合物の充填が確認または推認されるのは二個であるのに、佐古はその趣旨を述べておらず、かえつて、「砂糖は河田町アジトにあつたが、作業途中にさらに他から買つてきた」旨多量の砂糖を用いたと受取れる趣旨の供述をし、また前原は、製造した一〇数個のピース缶爆弾の少なくとも大多数にこの混合物を充填した旨述べている点(前同五五六頁) <3>右の塩素酸カリウムと砂糖の混合作業の方法は、両者を別々に乳鉢ですりつぶしたうえこれを混合したものと認められるのに、前原においては両者を新聞紙上に取出して混合しこれを乳鉢に入れてすつて混ぜ合わせたとしており、また内藤においては、二種類の薬品を混合する作業を四、五回繰返したとし、砂糖を混合したことについては述べていない点(前同五五九頁) <4>本件ピース缶爆弾に用いられた爆薬はダイナマイトであることが明らかであるのに、内藤においては、褐色のブヨブヨした糊様のもの、あるいはその中にダイナマイトを埋め込んだものなどと供述している点(前同五二五頁) <5>製造された爆弾の個数は前述したように少なくとも一三個あつたと認められるのに、内藤においては「七、八個と思う」旨、その半数程度を供述しているに過ぎない点(前同六三一頁) <6>佐古において「ピース缶爆弾に黒色火薬を入れたように思う」と述べるほか、「製造現場に濃硫酸があつた」と供述し、内藤において「製造当日平野がピクリン酸を持つて来、堀がニトロ系の薬品と思われるものを持つて来た」と供述するなど本件ピース缶爆弾の製造に客観的に無関係と認められる薬品の使用ないし存在について供述している点(前同五七八頁) <7>本件爆弾は一本のダイナマイトを約半分に切断したもの計四本をピース缶内に充填しているが、佐古においてはダイナマイト四本位がピース缶に詰め込まれたとするのみでダイナマイトを切断した状況については何ら供述していない点(前同五二九頁)、などがそれである。所論はこれらをおおむね記憶の不明確または日時の経過による記憶の稀薄化等に基づくと主張するのであり、確かに本件においても、事件の発生から佐古らの自白までには三年数箇月を経過しており、日時の経過による記憶の喪失、混同、稀薄化等のあり得ることは当然考慮しなければならないと思われる。しかし、右に挙げた諸点はいずれも供述事項等からみてそのように解することは困難である。すなわち、<1>については、雷管の管口部に導火線を挿入するということは接着作業の基本をなすもので、直接作業に関与した者がその点につき記憶を混同させるというようなことは不自然であり、特に佐古は図面まで作成しているだけに一層その感が強く、また<2>及び<5>については、前原らの供述する個数と実際のそれとの間に差があり過ぎ、記憶の稀薄化等で説明することは困難と思われる。次に、<3>については、前原の述べるような混合の方法は危険性の高いものであつて、直接作業を行つた者がこのような方法を述べるとはいささか考え難く、また内藤が混合作業を担当しながら砂糖と薬品とに関する記憶を混同したというのも不自然の感を免れない(なお、同人の供述内容等からみて、同人が薬品の概念に砂糖を含ませているとは認められない)。また<4>については、内藤の供述する褐色のブヨブヨした糊様のものはダイナマイトとは色・形状とも異なることが明らかであつて、もし内藤がその自白どおり爆弾製造の現場に居合わせたとするならば、このように爆弾の構造の基本をなす爆薬につき記憶が不正確であるとか記憶の稀薄化を来たすというようなことは通常はあり得ないのではないかと思われ、<6>の佐古及び内藤の供述についてもほぼ同様に考えられる。また<7>についても、本件ピース缶爆弾に関する重要な作業であるだけに、この点につき全く言及がないことについては疑問を感ぜざるを得ない。

なお、原判決は、このほか、<8>本件ピース缶爆弾のピース缶の蓋にあけられた穴には、バリを切断するなどして処理したものと未処理のものとがあるが、右穴あけ作業を担当した旨述べる佐古及び前原ともこのことについて全く説明していない点(前同五六三頁) <9>本件ピース缶爆弾の特徴として導火線と工業用雷管の境界部に巻かれたガムテープの色を確認できる四個につき、その色が当該ピース缶爆弾の缶体の外表面に巻かれたガムテープの色に一致することを指摘できるが、佐古も前原もこのことについて全く説明がないこと(前同五七一頁、六三〇頁)、をも佐古及び前原の自白の信用性を否定する根拠として挙げている。しかし、この点は比較的細部の事柄であり取調の際に当然供述するような性質のものとは認められないから、右の原判示には疑問がある。また原判決は、<10>爆弾に用いられたピース缶は、その缶番号に一致しているものがあることからみて、その調達に当たつてはある程度一括して缶入り煙草を購入したものと考えられるが、佐古、前原とも缶入り煙草を購入することなく、空き缶を手分けして集めたとしている点も容観的事実と相違する可能性が高いと指摘するのであるが(前同四八二頁、六二九頁)、両名とも自己らがピース缶を煙草屋でまとめて買つたとは述べていないものの、他の者がそのような方法で調達した可能性をも積極的に否定するものではないから、この点に関する原判示にも左袒できないところである。

ハ 京都地方公安調査局事件との関係における製造日時に関する疑問

佐古、前原及び内藤は、その各自白中において、いずれも本件ピース缶爆弾製造の日時を一〇月一五日か一六日ころ又は同月一六日か一七日ころと供述していることが明らかである。しかし、原判示(四二八頁)のように、京都地方公安調査局事件の犯人である大村が同事件に使用されたピース缶爆弾を所持していた日との関係で、本件ピース缶爆弾製造の日は同月一五日より前のこととみられるのであり、所論も、原審における検察官の主張と異なり、右製造の日を同月一二日と特定して主張するのである。右所論は、原判示(六九七頁)の石井アリバイ等との関係を考慮したものと思われるが、検察官が起訴状におけるピース缶爆弾製造の日が一〇月一六日ごろとされていたのを訴因変更し同月中旬ごろ(同月一七日以降を含まない)と主張するにいたつた原審訴訟の経過に照らし、いささか便宜的の感を禁じ得ず、厳格な証拠評価に耐え得るかにつき疑問を抱かせるものがあるが(もつとも、一〇月一二日は、佐古らにおいて本件爆弾製造日当日レポの連絡場所として利用したと自白している喫茶店エイトは休業していたから、同日もまた爆弾製造日であり得ないとする弁護人の所論は、五部一二一回証人斉藤コウ及び同川口祐司の各供述―証一二九冊等によれば、同日エイトが営業していた可能性があると認められることに照らし、採用することができない)、これによつても、前記佐古らの自白は客観的事実に反するといわざるを得ないのである。所論は、佐古の爆弾製造の日時に関する前記供述は曖昧な記憶に基づく早稲田大学正門前集結の日から割出したものであつて、同様に曖昧な記憶に基づくと主張する。しかし、所論も、右早稲田大学正門前集結の事実を述べていない前原及び内藤についてはこのような理由を付し得ず単なる記憶の稀薄化とせざるを得ないのである。ところが、前原及び内藤は、いずれも爆弾は一〇・二一闘争に備えて作つたものであるから、その日に近かつたころであると断定的に述べている(前原48・3・28検面、内藤48・3・28検面)ところからすれば、所論のようにみることにはかなりの疑問がある。なお、佐古ら三名がそろつて記憶の混同を来たしたとしても、それにとどまらず、さらにその結果ほぼ同一の日時を供述するにいたつたとすることはやや偶然に過ぎ、不自然といわざるを得ない。

右にみたところによれば、本件ピース缶爆弾の製造日時に関する佐古らの自白は、いずれも客観的事実に反し、かつそのことにつき合理的説明が困難なものといわざるを得ず、このことは、自白全体の信用性の評価に当たつて到底看過することができないところである。

ニ 自白内容の不自然性

次に、佐古、前原及び内藤の自白中には、おおむね原判決が指摘するように、次のような不自然な点が存在する。

(一) 製造場所(原判決六三二頁)

佐古、前原及び内藤の自白によれば、間借りで狭い(四畳半と二畳の二間)河田町アジトに一〇数名の者が次々に集まり、約一〇名の者が部屋の中で製造作業をし、他の者はレポをするなどし、また製造作業中にも同アジトにしばしば出入りがあつたということになるが、原判示のように、参加者の数が本件爆弾製造作業に必要とは思われないほど多数であり、アジト内で製造作業をするのが窮屈すぎるばかりでなく、家主らの不審も招きやすく、また参加者の一部の口から犯行が洩れる虞れもあり、不自然さが残るところである。所論は、できる限り短時間で作業を終わらせるためには、右程度の人数であつても一概に不自然とはいえないとするのであるが、製造作業自体は屋内で行われるのであるから、製造に要する時間は多少長くなるとしても、そのために出入りする人員は少数にとどめた方が外部の者の目につきにくいことは明白であり、所論は採用し難い。

(二) ピース缶蓋の穴あけ場所(前同五六四頁)

佐古及び前原の自白によれば、ピース缶蓋の穴あけ作業は河田町アジトの玄関前の庭で行つたというのであるが、原判示のように、右場所は路地から見通すことができることや作業に際しては相当大きな音を伴つたと考えられることからみて、人目を惹きやすく不自然と認められる。所論は、作業に伴う音は近隣の注意を惹くようなものではないうえ、作業を目撃されても特段怪しまれる態様のものでもないことなどを理由に原判示を争うのであるが、事柄が爆弾製造というきわめて密行性を有する作業に関するものであり、多少なりとも人目を惹くような行動をとることは、後日事件が公に報道された段階で、他の者により不審な光景として想起される原因になることを考えると、極力慎むべきことであつたと思われるのであつて、所論は俄かに採用し難い。

(三) レポの方法(前同五九七頁)

レポの方法に関する佐古の自白の内容は、原判示のように石井のそれとほぼ同じであつて、「石井がパン屋の角に立ち、国井がフジテレビ前通りの東京女子医大手前に、井上が都営アパート前に立つてそれぞれその通りを歩き、石井が国井及び井上の合図を受けて河田町アジトに連絡する。一時間に一回ぐらいはレポと連絡をとり合う」、「石井と国井らの連絡方法は異状のない場合は指で輪を作つて見せ、異状が発生した場合は片腕をぐるぐる回すことになつていた」などというのであり、長時間(数時間)にわたり右のような行動をとることは人目を惹きやすく不自然さが残り、所論もその不自然さを否定し得ないところである。

ホ 自白内容の変遷

次に、佐古らの自白については、重要な事項に関し変遷または動揺がみられる。

(一) 佐古の自白

佐古の自白については、原判示のように、<1>若松町アジトにおいても具体的な謀議がなされているか(原判決四六七頁) <2>パチンコ玉の入手の経緯(前同四九四頁) <3>爆弾製造の参加者及び人数(前同五一四頁) <4>爆弾に雷管を使用したことの有無(前同五五五頁)、などについて供述の変遷がみられることが明らかである。所論はこれらをもおおむね記憶の不明確ないしは日時の経過による稀薄化等に基づくと主張する。しかし、<1>については、当初における自白は、住吉町アジトにおける謀議に先立つものとして若松町アジトでの謀議が存在したとし、各人の役割の分担、爆弾材料の調達方法等に関し具体的に述べているのが、後においては、住吉町アジトにおける話合いと混同しているかもしれないなどと述べているのであつて、この供述の変遷を当初不明確だつた記憶が次第に喚起されていく過程とみることは困難である。次に、<2>については、爆弾製造のためパチンコ玉を入手するということは佐古にとつてかなり印象的な事柄であると思われるが、同人の供述は、その日時、場所及び同行者等につき大きく変遷していることからみて不自然の感を免れ得ない。また<3>については、爆弾製造という重大事件に参加したメンバーについては比較的記憶に残りやすいと思われるのに、当初の供述は、最終的に製造参加メンバーとして述べている一三名のうち五名ないし七名程度の名を挙げているにすぎず、しかも当初理由を付して不参加としていた者を後に参加したと述べ(平野、内藤)、あるいは当初理由を付して参加したとしている者につき後に参加したかどうかを曖昧にする(堀)などかなり不自然な趣を呈している。さらに<4>については、佐古は当初雷管の存在について述べていないのであるが、爆弾の重要部分たる雷管の存在について記憶を忘失するというようなことは、特にその後同人が自らの行為として雷管と導火線の接続を行つたと供述し図示までしているだけに容易に考え難く、不自然さを否定し得ないといわなければならない。

なお、原判決は(四六九頁)は、佐古の供述には爆弾製造の目的がL研独自の爆弾闘争か赤軍派に使用させるためについても供述の変遷があるとしてこれをも同人の供述の信用性を否定する根拠に挙げているけれども、当時L研と赤軍派は共闘関係にあつたのであるから、L研独自の爆弾闘争といおうと赤軍派に爆弾を使用させるためといおうとそれは重点の置き方の差ともみられ、L研のリーダーでもない佐古にとつてそれほど意味のあることではなかつたと考えられるから、この点に関する供述の相違を重視する必要はないと考えられる。

(二) 前原の自白

前原の自白についても、<1>パチンコ玉の入手店(原判決四九九頁) <2>ピース缶の蓋の穴あけに使用した道具(前同五六五頁) <3>完成した爆弾の処分(前同六二〇頁)、などについて供述が変遷しており、これらを所論のいうように記憶の不明確や稀薄化等に基づくとみることは困難である。すなわち、<1>についてはパチンコ玉の入手という印象的な事柄に関するものであることからみて当初の供述は余りにも曖昧であり、<2>についても変遷があるのみならず、最後まで確実に特定するにいたつていないのであるが、自分が使用した道具についてこのような供述の経緯は不自然というほかはない。また<3>についてみるに、当初は「製造した爆弾全部を河田町アジトに保管した」旨述べていたのが、その後「製造当日赤軍派と思われる男が来て増渕と一緒に完成した爆弾のうち何個かを持つて行つたように思う」などと供述しているのであつて、自己が居住していた部屋に保管したかどうかにつき記憶の混同等を生じたと解することには疑問が残るといわなければならない。

なお、原判決は、このほか、前原が当初、最終的に述べた製造メンバー(一一名)の半数近い者の氏名を述べなかつたことをも、同人の供述の信用性を否定する根拠の一つとして挙げているけれども、同人の当初の自白(3・9員面)においては、自己を含め増渕、村松、菊井、佐古、江口、石井の七名の名前を挙げ、さらに、「他に何がしかの人数がいたような気がし、そのなかに井上がいたような気もするが、はつきりしたことは思い出せない」旨右七名以外にも何名かの製造参加メンバーがいたことを供述しているのであるから、前原の当初の供述が不自然なほど曖昧であるとは認められず、この点に関する原判示は必ずしも適切でないと思われる。

(三) 内藤の自白

内藤の自白にも、<1>製造に参加した者及び人数(原判決五二〇頁) <2>爆弾の構造(前同五二六頁)<3>爆弾の製造途中外へ出たか(前同五六八頁)、などについて不自然な供述の変遷がある。すなわち、<1>については、特に、石井、元山及び富岡につき、当初は明確にあるいは役割の分担と関連させてその参加を断定していたのが、その後大きく供述を動揺させているのであつて、単なる記憶の混同等によるものと理解し難い面がある。また、<2>については、供述の変遷が著しく、特に当初は、爆弾製造作業の基本であるダイナマイトの充填につき全く述べていない点は到底無視できない。さらに<3>についても、外へ出たかどうかについてのみならず、外へ出た目的についても供述が変遷しているのであつて、不自然さを免れ得ないところである。

ヘ 自白相互間のくい違い

(一) まず、佐古の自白と前原のそれを比較すると、最終段階におけるそれに限つても、おおむね原判示のように、<1>佐古は、犯行にいたる経緯として、佐古、村松、前原、菊井らが早稲田大学正門前に集まつた事実があり、それとピース缶爆弾製造の謀議とは密接なつながりがあるとするのに対し、前原はそのような事実について全く述べるところがない点(原判決四五六頁) <2>佐古は、爆弾材料のダイナマイト等は謀議の際村松らが早稲田アジトに取りに行くことになつたとしているのに対し、前原は、住吉町アジトでの謀議の際村松が整理ダンスの抽出から出して見せたと述べている点(前同四七五頁) <3>佐古は、住吉町アジトでの謀議の後前原と東薬大に行きピース空缶一、二個を入手して河田町アジトへ運んだとするのに対し、前原は「住吉町アジトでの謀議の後ピース空缶を探してみたが一個も見つけられなかつた」と述べている点(前同四九〇頁) <4>パチンコ玉の入手日時に関し、佐古は、製造日当日の午前中とするのに対し、前原は、住吉町アジトにおける謀議の日かその翌日の午後七時ころとしている点 <5>塩素酸カリウム及び砂糖の入手先につき、佐古は、「塩素酸カリウムは製造日の四、五日前に村松がリユツクサツクに入れて河田町アジトに持込んだもので、砂糖は前から河田町アジトにあつたが、さらに製造途中に自分が近くの店で買つた」とするのに対し、前原は「塩素酸カリウムは製造開始後間もなく平野が持つて来たように思う。砂糖は江口が持つて来たように思う」と述べている点(前同五〇三頁) <6>ガムテープの種類につき、前原は茶色と青色の二種類があつたと述べているのに対し、佐古は茶色のものについてのみ供述している点(前同五〇五頁) <7>完成した爆弾の処分につき、佐古は、「製造後増渕が完成した爆弾を持帰つた」としているのに対し、前原は、「製造当日赤軍派と思われる男が来て増渕と一緒に完成した爆弾のうち何個かを持つて行つたように思う。残つた爆弾はダンボール箱に入れ、河田町アジトに保管し、昭和四四年一〇月二一日午前一〇時ごろ保管していた爆弾一〇個ぐらいをバツグに詰め、増渕及び堀とこれを持つて大久保駅まで行き、自分はそこで別れた。増渕と堀は爆弾を持つて東薬大の方へ歩いて行つた」としている点(前同六一八頁)、などのくい違いがあることが明らかである。これらのなかには比較的細部の事柄であつて、所論のいうように記憶の稀薄化等に基づくと解することができるものもあり、したがつて、原判決がこれらすべてを佐古らの自白の信用性に疑問を投げかける根拠としていることには直ちには賛同し難いが、右のうち少なくとも、<1><2><5>及び<7>については所論のように解することには疑問が残るところである。すなわち、<1>については、佐古の自白によればその事実が本件ピース缶爆弾製造の重要な契機となつたというのであるから、もしも前原もこの事実を経験したとするならばこれを忘失するというようなことは通常あり得ないのではないかと思われる。また、<2>についても、前原は住吉町アジトでのダイナマイト等の目撃状況をきわめて具体的に描写しているのに対し、佐古はこれからダイナマイト等を入手するものとしてその任務分担が決められたというのであり、この供述の相違が一方の記憶違い等によるとみることはきわめて困難である。また<5>のうち、塩素酸カリウムの入手に関する点も、両者の供述の具体性からみて同様に解される。さらに、<7>については、佐古及び前原がいずれも河田町アジトの居住者であるだけに、同アジトに完成した爆弾の一部を保管したことに関する供述がくい違うことに対しては、不自然の感を禁じ得ない。

なお所論は、<2>につき、前原もまた早稲田アジトに赴いたものであり、その際ダイナマイトを受取つた赤軍派のメンバーの氏名を秘匿するため虚偽の供述をしたものであり、また<7>についても、同人は、爆弾の全部が赤軍派に引渡された詳細を知悉していたところから、右引渡の相手方を秘匿する等の目的で故意に虚偽を述べたものと主張する。しかし、前述したように、前原は第八、九機動隊の事件に関する取調の当初の段階から赤軍派との接触を「藤田」という具体的名前を挙げつつ自白していることや、本件についても、赤軍派の者(「花園」のような気がするとも供述)が完成した爆弾のうち何個かを持つて行つたことは認めている点からみて、赤軍派の者の氏名だけを秘匿する目的等のため虚偽を述べたとすることには疑問があり、所論は俄かに採用し難い。

(二) 次に、内藤は製造作業当日現場に居合わせて作業をしただけである旨述べるのであるが、前述したように爆薬の種類ないし形状という爆弾製造の基本的事柄について客観的事実と相違する自白をしており、これに伴い爆弾製造の作業状況についても佐古及び前原の自白とかなりの相違がみられるのであつて、この点を所論のいうように記憶の不正確ないし日時の経過による記憶の稀薄化等で説明することは困難である。また原判示(五二二頁)のように、製造当日平野及び内藤が河田町アジトに来た状況について佐古の自白によれば、「製造開始一時間ぐらい後に外に出たところ、パン屋の横あたりで平野が内藤を連れて来るのに出会つた」というのであるが、内藤の自白によれば「平野と一緒に河田町アジトに行つたところ同アジトに入る路地(佐古が述べるパン屋の横あたりとおおむね同じ場所である。)で菊井らに会い、同アジトの玄関付近で佐古に会つた。部屋に入つてから増渕の説明があり、製造作業に着手した」というのであり、佐古と内藤が出会つたことについては一致しているが、出会つた時期及び場所については相違しており、かつ場所についてはともかくとして、時期についても記憶の混同によるものとみることには疑問がないではない。

(三) なお、佐古、前原及び内藤の各自白と菊井証言との間においても重要な点で相違が存することは後述するとおりである。

ト その他

所論は、前原の供述の信用性に関連して、檜谷啓二の検面中において、同人が前原から増渕に対し伝えることを依頼されたとする内容は前原が本件の真犯人であることを裏付けるものであると主張する。しかし、檜谷の検面は原審において刑訴法三二一条一項二号後段で採用されたものであり、かつ同検面の内容が本件の被告人ではない前原から聞いたことを内容とするものである以上、同検面は刑訴法三二四条二項の準用により本件の被告人らに対しては証拠能力を有しないものと解すべきであり、また原判示のように、内容的にも、前原がピース缶爆弾事件の犯人であることを窺わせる一つの情況ではあるがこれと断ずるまでにはいたらないものというべきであるから、所論は採るを得ない。

チ まとめ

以上みたとおり、佐古、前原及び内藤の自白の信用性に関する原判示には一部支持し難い部分もあるけれども、右自白に種々の疑問点が存在することは否定できないところである。そして、アメリカ文化センター事件及び第八、九機動隊事件について述べた、同人らが虚偽の自白をするについて考えられないではない理由は、おおむね本件の場合にもそのまま当てはまるものであること、及び原判示(六二二頁)のように、佐古については村松からピース缶爆弾を製造したことを聞いたのは事実である旨公判廷で述べるなど真犯人としては不自然と思われる言動がみられることをも考慮すると、本件に関する佐古らの自白の信用性を認めることは困難であるといわなければならない。

なお、内藤は、第八、九機動隊事件と同様本件についても初期公判において自白しているところ、右初期公判供述は、捜査当時の自白のうちのいくつかを撤回、変更するところもあるものの、基本的には右自白の延長線上にあり、同様の疑問を免れないものである。そして、第八、九機動隊事件について述べた、内藤が事実に反して起訴事実を認める態度に出たのではないかとの疑いを抱かせる諸点は本件についてもおおむねそのまま妥当することをも考慮すると、本件に関する内藤初期公判供述についても十分な信用性を認めることは困難である。

2 村松、江口、石井(及び増渕)の各自白について

村松、江口、石井及び増渕の本件に関する各自白(石井については、公判供述を含む)の内容は、他の事件に関するものをも含め、原判決(一五一頁、一八三頁、一六〇頁、一七〇頁)に摘記されているとおりであるところ、所論は村松の自白には虚偽の自白も混入されているけれども、基本線においては菊井証言等とほぼ合致していて十分に信用できるものであり、また江口の自白も、事案の真相のすべてを語つているとは認め難いものの、その大筋においては菊井証言等と符合しており信用し得るものであり、さらに石井の公判供述も、公開された法廷において弁護人の助言を受けながら自己に不利益な事実を認めたものであることや菊井証言等に照らすと、その大筋においては十分に信用し得ると主張する。

しかしながら、右各自白についても、自白の信用性を高めるいわゆる秘密の暴露と目すべきものはなく、また爆弾製造作業に関する各人の役割中、最も重要と思われるダイナマイトを切断してピース缶に充填する作業及びパチンコ玉をダイナマイト中に埋め込む作業については、互いに担当者の名前を挙げるものの、自己が右作業を担当した旨述べる者は一人もおらず、したがつて、その作業の具体的状況についても詳細な供述は得られていないうえ、各人ごとにみると、以下に述べるような疑問点が存在するといわなければならない(なお、所論は、石井につき、捜査段階の自白と区別して公判供述が信用できる旨を強調するのであるが、内藤の場合と同じく、石井についても捜査当時自白をしたことが一種の既成事実となつて公判段階においてもこれを維持したということも十分考えられるところであるから、捜査当時の自白ときり離して公判供述の信用性を独自に論ずることは必ずしも相当とは思われず、原判決のように、公判供述は基本的には捜査当時の自白の延長線上にあるものとして、むしろ後者を中心として考察するのが相当である)。

イ 村松の自白

村松の自白は、既に考察した佐古らの自白に比べ具体性において十分でないうえ、次のような疑問点を有するものである。

(一) 爆弾製造の際ピース缶内に紙火薬をほぐして入れたとする点は本件ピース缶爆弾の客観的形状に反するものと認められる。

なお、原判決(六四一頁)は、村松が塩素酸カリウムと砂糖の混合物を充填した爆弾の個数について述べるところも客観的事実と相違する可能性が強いと説示しているけれども、同人は、単に「途中で薬品がなくなり、薬品の入つた爆弾と入つていない爆弾ができた」と供述しているだけで(48・3・15員面)、薬品の入つた爆弾の個数についてまで触れているわけではないから、右の原判示は適切でない。また、原判決(六四二頁)は、村松の自白もまた、本件ピース缶爆弾のピース缶の蓋にあけられた穴にはバリを切断などするとして処理したものと未処理のものとがあること及び導火線と工業用雷管の境界部に巻かれたガムテープの色を確認できるピース缶爆弾につき、その色が当該爆弾の缶体の外表面に巻かれたガムテープの色に一致することにつき触れていないことをもつて同人の供述の信用性に疑問を投げかけているのであるが、前述したようにこれらは比較的細部の事柄であり、ピース缶の蓋の穴あけや缶体等へのガムテープの貼付作業を自らが行つたと述べているわけでもない村松がこの点に触れる供述をしていないからといつてそれほど不自然とは思われないところである。

(二) 村松はピース缶爆弾製造の日を一〇月一五日と供述しているのであるが、前述したように、この点は京都地方公安調査局事件との関係で客観的事実に反するといわざるを得ない。なお、同人が具体的な根拠まで示して一〇月一五日と断定していること(48・3・24検面、4・11検面)からみて、右の供述を村松の記憶違い等に基づくものと解することはきわめて困難である。

(三) 佐古らの自白の信用性に関して述べた、間借りで狭い河田町アジトに一〇数名の者が次々に集まり爆弾を製造したということの不自然性は、そのまま村松の自白についても当てはまる。

(四) 次に、村松の自白を通観すると、<1>製造したピース缶爆弾の個数を当初五個位と述べていたのがその後一二~三個と改めている点 <2>当初、自己の居住場所である風雅荘における特異な体験である導火線燃焼実験について全く述べていない点 <3>当初、爆弾製造に際しパチンコ玉を入念に拭いたことを強調しながら、後にはこれを否定している点 <4>完成した爆弾の処分につき、当初は、製造の日の翌日ころ藤田和夫方に車で運んだと供述したが、その後、製造日当日花園が取りに来て同人に渡したと述べている点、などにおいて供述の変遷がみられ、かつ供述事項及び供述内容からみて、それらが記憶の混同ないし稀薄化等によるものとみることは困難である。

(五) さらに、村松の自白は、原判決(六四二頁)が説示するように、<1>住吉町アジトにおいて謀議はなされなかつたとする点 <2>導火線燃焼実験の時間帯が夜であつたとする点 <3>パチンコ玉の調達担当につき増渕が井上に対し指示したとする点 <4>完成した爆弾の処分につき、花園が来て爆弾を全部持帰つたとする点などにおいて佐古及び前原の自白と相違する。もつとも、右のうち、<2>及び<3>は各人の記憶の混同等によるものと解されなくもないが、<1>及び<4>については、各人の供述内容等からみてそのように解することは困難である。

以上の諸点に加えて、既に検討したとおり、本件の自白に先行してなされたアメリカ文化センター事件及び第八、九機動隊事件に関する村松の各自白の信用性には疑問があり、これは本件の自白の信用性にも一応疑問を生じさせるものであること、またアメリカ文化センター事件等について述べた、同人が虚偽の自白をするについて考えられないではない理由は本件の場合にもおおむね妥当するものであることなどを考慮すると、村松の本件に関する自白にも十分な信用性を認めることは困難である。

ロ 江口の自白

江口は本件につき一応自白しているとはいうものの、その内容はきわめて具体性に乏しく、ダイナマイト及びパチンコ玉の充填についても述べておらず、また完成した爆弾の数は二~三個という記憶であるとする点は客観的事実に相反するものといわざるを得ない。さらに爆弾製造に参加した者の数を五~六名とする点などは他の共犯者とされている者の供述とも大きく相違しており、その信用性は低いものといわざるを得ない。

ハ 石井の自白

石井の自白の中心は、爆弾製造当日のレポに関するものであるが、右の自白についても以下のような疑問がある。

(一) 石井は、自白中で、レポの日を一〇月一七日か一八日(一六日かもしれない)と供述している。しかし、原判示のように、石井は一〇月一三日から一八日まで協同組合でアルバイトをしていたアリバイがあると認められ所論もこれを争わないのであり、他方、前述したように京都地方公安調査局事件の関係では本件爆弾製造の日は同月一五日より前のこととみられるから、石井の前記供述は事実に反し、かつ爆弾製造の日が一〇月一二日であるとする所論とも相容れないものである。所論は、これを記憶の稀薄化等に基づくと主張するのであるが、同人はこれを一〇・二一と結びつけ、これに近いころのこととして説明していること(48・3・31検面)からみても、一〇月一二日ころと記憶の混同等を来たしているものとは認められない。

(二) 石井の自白もまた、レポをしたことに関連して間借りで狭い河田町アジトに一〇数名の者が次々に集まり爆弾製造をしていたなどの不自然な内容をもつものである。またピース缶蓋の穴あけ作業に関する石井の供述は、原判示(五六六頁)のように作業の場所、担当者等において不自然に変遷し、かつ佐古及び前原の供述と大きく相違しており、単なる記憶の稀薄化等に基づくとは考え難い面がある。

(三) 石井が述べるレポの方法は、佐古の自白におけるそれとほぼ同じであつて、所論も認めるように、人目を惹きやすいなどの不合理かつ不自然な点が見受けられ、既に作成されていた佐古の自白調書の影響を顕著に感じさせるものがある。

(四) 石井は、レポに元山及び富岡が参加した旨述べるが、菊井及び内藤の曖昧な供述があるほかには同旨の供述はなく、その真実性には疑問がある。また石井の供述は、レポの経過、状況等に関し菊井の証言と大きく相違し、特に菊井のレポへの関与を否定する点は到底無視できないところであるが、この点につき納得し得る理由は見出し難いといわなければならない。所論は、石井にとつて菊井の存在はもともと印象が薄かつたうえ、本件レポにおいて石井が菊井ら他のレポ要員と顔を合わせる回数は少なかつたことなどからすれば、石井は菊井の参加を忘失した可能性を否定できないと主張するけれども、いかにそれ以前の印象が薄かつたとはいえ、爆弾製造という重大事に際して行をともにした同じL研の一員の存在を忘失するというようなことは容易に理解し難いところであり、特に菊井の供述によれば、同人は石井とともに河田町アジトを出てエイトに赴き同人から電話番号が書いてあるエイトのマッチを貰い、レポ途中にエイトに待機していた同人に対し少なくとも一回電話で連絡をとつたというのであるから、一層その感を深くするものであり、所論は俄かに採用し難い。

そして、原判決(六〇四頁)は、石井には昭和四四年一〇月二一日前ころ目的ははつきり覚えていないが富岡らと河田町アジト付近に立つてレポをしたことがあるという断片的な記憶があつたものとみる余地があり、石井は捜査官の追及を受けた際、右のような断片的記憶があつたため、増渕らが自分には知らせないで爆弾を製造し、自分にはレポをさせたかもしれないなどと思い、また被疑事実を認めて執行猶予の判決をもらつてこのような事件とのかかわりを断ちたいなどと考えて自白し、かつレポの方法等については佐古の自白及び自己の前記断片的な記憶を基に想像を織り混ぜて自白をするにいたつたと見ることも不可能とはいえない旨説示しているところ、右の原判示にはやや憶測に過ぎる部分がないではないが、石井が逮捕勾留後二週間以上を経て漸く詳細な自白をするにいたつたものであることや、前述したように同人の自白に佐古の自白調書の影響を顕著に感じさせる部分があることなどを考えると、石井が取調官の厳しい追及に根負けし、あるいは迎合して虚偽の自白をするにいたつた疑いを否定することができず、したがつて、右自白に十分な信用性を認めることは困難である。

ちなみに、石井の公判供述においては、レポの方法に関する右の不合理な部分は覚えていないとの趣旨になつてはいるものの、積極的にこれを変更するものではなく、かつ他の疑問点はなお解消されるにいたつていないから、やはり十分な信用性をもつものとは認められない。

ニ 増渕の自白

増渕の自白は、原審において供述の経過を明らかにするとの立証趣旨においてのみ取調べられているところであるが、同人が本件の首謀者とされていることに鑑み特にその信用性について簡単に触れると、右自白については、おおむね原判示(六四一頁)のように、<1>具体性において十分でなく、また本件ピース缶爆弾中塩素酸カリウムと砂糖の混合物を充填しないもののあることについては何ら述べるところがないこと <2>佐古、前原及び内藤の自白と同様に、爆弾製造の日時を一〇月一七日とする供述は京都地方公安調査局事件との関係で客観的事実に反すると認められ、また爆弾製造状況に関する供述は場所及び人数などの点で不自然であること <3>犯行にいたる経緯、謀議場所、導火線燃焼実験の有無、完成した爆弾の処分についての自白内容は佐古、前原及び村松のそれと(最後に挙げた点については内藤のそれとも)相違すること、などからみて、その信用性は乏しいものと認められる。

ホ まとめ

以上考察したところによれば、村松、江口、石井及び増渕の各自白の信用性に関する原判示には支持し難い部分もあるけれども、右各自白に種々の看過しかねる疑問点が存在することは否定できないところであり、結局これらに十分な信用性を認めることはできないといわなければならない。

3 菊井の証言

菊井については、原判示(一八四頁)のような経過で、本件に関し、昭和五四年七月一〇日付で検面(以下単に「検面」というのは、これを指す)が作成されており(ただ、それが作成されるまでには一箇月弱の期間を要したものである)、その後同年一〇月から数箇月間五部及び原審公判においてほぼ並行して証言がなされ(五部公判においては昭和五四年一〇月二三日から同五五年三月二四日まで八回、原審公判においては昭和五四年一一月八日から同五五年二月一九日まで七回)、さらにその約二年半後の昭和五七年九月二日原審公判準備期日においても証言がなされている。そして、右公判及び公判準備における証言の内容は、原判決(一八七頁)に摘記されているとおりであるところ、所論は、菊井は、ピース缶爆弾製造事件の背景であるL研の組織、活動状況及び赤軍派との共闘状況等とともに、同事件のほぼ全容を自己が直接体験した事実として詳細かつ具体的に被告人らの面前において、弁護人らの執拗な反対尋問を受けながら証言をしたもので、その証言態度も誠実で自己の記憶するところを正確に述べようと努めているのであつて、証言内容も実際に体験した者でなければ到底述べ得ないものが多々みられることなどからして、関係者の供述中最も信用できるものであると主張する。

所論にかんがみ、以下菊井証言の信用性について特に慎重に検討するに、菊井は、原判決も指摘するように被告人らの面前で、弁護人らの強力な反対尋問を受けながらも自己及び被告人らを含む者らにおいて本件ピース缶爆弾を製造した旨を一貫して証言しており、その証言内容は具体的かつ詳細で、迫真力に富む部分も少なからず存在し、また大筋において佐古らの自白と合致しているのである。原判決(四二六頁等)は、菊井が検察官の冒頭陳述の抜書の入手等によつて得た知識を基に証言をした疑いがあるとし、右冒頭陳述の抜書とは江口の菊井宛書簡(証一一三号)に添付されているそれを指すものと思われるが、右抜書は比較的簡単な内容であつて省略部分も多く、これによつて前述したような具体的かつ詳細な内容の証言をなし得るものとは到底認められず、なお菊井が他に何らかの手段によつて本件に関する検察官の主張の詳細や関係証拠の内容等を知り得たという形跡も見当たらず、菊井は自ら体験したればこそ前記のような証言をなしたのではないかとの感を否定し得ないところである。さらに、菊井がかつての同志に罪を負わせる内容の証言をあえてなすにいたつた理由として供述するところは、 <1>被告人らは昭和四八年当時捜査官の取調に対し自供して自分を裏切り権力に売渡そうとしたものであり、そのような被告人らがその後自分に対し公判協力を求めつつ陰でスパイ呼ばわりしていることに腹が立つていたものの我慢していたが、江口から屈辱に満ちた手紙を受取り堪忍袋の緒が切れたこと <2>被告人らの本件公判過程における態度は本当の革命家たるには全く似つかわしくないものであること <3>自らの過去における武装闘争などの反社会的行為に対し自己批判をしたこと、などであり、そのことから直ちに菊井が真実を語つたと断定することはできないにしても、それなりに納得できるものであつて、これに対する原判決の評価(六八三頁)にはやや穿ち過ぎの部分があるといわざるを得ない(例えば、菊井には、検察に協力することによつて行刑上有利な取扱いを受けられるのではないかとの期待感があつたとする点など)。

なお、菊井証言には、既に考察した佐古らの自白と異なり、証拠物の形状等の客観的事実に反し、かつそのことにつき合理的説明が不可能なものはないといつてよいと思われる。この点に関し、原判決は、菊井の証言は、<1>導火線の長さ、<2>ピース缶に充填されたダイナマイトの状態、<3>パチンコ玉がダイナマイトに埋め込まれた状態、<4>ピース缶に充填された塩素酸カリウムと砂糖の混合物の形状については必ずしも客観的事実と合致しないように思われ(原判決五四九頁、五四五頁、六五八頁)、また<5>謀議の際のミナミにおける座席の設定状況について述べるところも、ミナミの店内の構造等と必ずしも合致しない(前同四五二頁、六五九頁)、と判示している。そこで考えるに、まず<1>については、本件ピース缶爆弾に接着された導火線の長さは、最も長い中野坂上事件のものでも一二ないし一三センチメートルと認められるところ、菊井は原審公判準備においてこれを「長いものは三〇センチメートルくらい、短いものは一五センチメートルくらいであつた」と供述していることが明らかであるけれども、菊井は導火線に関する作業を担当したというのではなく、レポの合間の短時間内に目撃した状況を他の爆弾製造の材料の形状とともにおおよそのこととして供述しているに過ぎないのであるから、供述時までの日時の経過をも考えると、この程度のことは記憶の稀薄化に基づくと解して特に不自然ではないというべきである。また<2>及び<3>については、菊井の証言に特に証拠物の形状に客観的に反する点があるとは認められず、その細部につき正確には述べていない部分があつたとしても、それは<1>と同様の理由で記憶の稀薄化に基づくと解する余地のあるものである。次に、<4>の点は、塩素酸カリウムと砂糖の混合物の形状について、菊井が五部公判において、「パウダー状のものでなく、ギラギラした感じの結晶という記憶でザラメ状のもの」と供述している点が、アメリカ文化センター事件のピース缶爆弾の缶内の混合物につき「ベタベタするような感じで外見上は砂糖と見える状態であつた」とする五部一四回証人徳永勲の供述(証一三冊五八三三丁)に合致しない点を指すと思われるが、右ピース缶爆弾の内部を撮影した(巡)小室欽二郎外写撮(謄)(増渕証一四冊二六二六丁)の写真第二葉及び第四葉(特に後者)によれば、右混合物の形状はザラメ状とも見得るのであるから、この点に関する菊井の証言が客観的事実に相違するということはできない。さらに<5>については、(員)48・1・25検証(謄)(増渕証一三冊)によれば、ミナミ店内出入口左側に菊井の証言するように四人掛け用のテーブル二個または四人掛け用と二人掛け用のテーブル各一個を並べ、足りない椅子をよその席から持つて来て席を作るということは、多少狭隘とはなるけれども不可能ではなかつたことが窺われるから、この点の原判示も支持し難いところである。

右にみたところからすれば、菊井の証言はまさに本件の真実を語つているのではないかとの考えを容れる余地は相当大きいものといわなければならない。

しかし、菊井の証言内容を仔細に検討すると、なお以下に述べるような問題点ないし疑問点が存在することを否定できない。

イ 一般的問題点

まず菊井証言には、自白の信用性を高めるいわゆる秘密の暴露といえるような点は見当たらない。なお原判決(六四四頁)が被告人らの自白において説明されていないか説明が十分でない事項、例えば、京都地方公安調査局事件と本件ピース缶爆弾製造との関係、本件ダイナマイト、導火線及び雷管の入手先(早稲田アジトに保管されたという前の入手先)などについては菊井証言においても説明がなされていないとする点は、菊井の当時のL研内部における立場及びその供述する本件への参画状況等からすればそもそもこれを求めること自体難きを強いると思われるから、右の原判示は必ずしも相当とはいえないけれども、いずれにせよ、菊井の証言に有罪認定のいわゆる決め手と目すべき点のないことは、その信用性の評価に当たつて当然留意しなければならないところと思われる。

ロ 証言内容の不自然性

次に、菊井の証言内容中には、おおむね原判決が指摘するように、次のような不自然な点が存在する。

(一) 謀議及び製造の日時(原判決四二三頁)

菊井の証言は、「自分は昭和四四年一〇月一〇日は羽田闘争記念のデモに参加しているが、その日以前に爆弾製造の話を聞いたことはなく、また同月二〇日は一〇・二一闘争のためのトラック窃盗に出かけているが、その前日に爆弾製造をしたという記憶もないので、その間の一一日から一八日までの間にミナミ謀議と爆弾製造が行われたと考えられる。一一日に近い日であつたか一八日に近い日であつたかについては記憶がない」というものである。しかし、事が爆弾の製造という、菊井にとつてはじめての重大な体験に関するものであり、しかも、菊井自身が述べるように、羽田闘争記念のデモ参加及び一〇・二一闘争のためのトラツク窃盗という記憶喚起のための手掛りとなるべき出来事があつたことに照らすと、この点に関する菊井の証言は、他の共犯者とされる者の自白と対比しても余りにも曖昧に過ぎ、不自然さを禁じ得ない。これに対し、所論は、菊井の証言は約一〇年前の出来事に関するものであるから、その日時につき前記程度の幅をもつた証言をすることはやむを得ないことであり、むしろ自然であると主張するのであり、確かに事件後約一〇年を経てなされた菊井の証言については、日時の経過による記憶の喪失、混同、稀薄化等のあり得ることは当然考慮しなければならないと思われる。しかし、反面、原判示(四二四頁)のように、菊井は、昭和四七年一一月ころ、あるいは一二月ころに、同四四年一〇月ころの行動状況について取調を受け、また昭和四八年三月一六日本件について逮捕、勾留されて取調を受け、さらにその後本件に関し前原らと文通をしている事実もあるのであるから、真実本件に関与しているならば右取調等によつてより具体的な記憶を喚起し得たはずであり、この点漫然と一〇年を経過し急に証言をするにいたつた場合と事情を異にするものであり、事実、菊井の証言中には、謀議及び製造以外の出来事については日を特定して証言している部分も存するのであるから、所論は俄かに採用できない。

(二) 供述の過度の詳細さ

ところで、菊井の証言中には、他面において細部の事項につき余りにも詳細に過ぎ作為を感じさせる部分があるといわなければならない。すなわち、原判決(五八四頁、六五七頁)も指摘するように、菊井は、爆弾製造の当日の状況に限つても、製造作業の際に目撃した導火線の長さ(長いもので約三〇センチメートル、短いもので約一五センチメートル)、レポに出る前に見たパンの木箱の上に積んであつた約三〇本の裸のダイナマイト中に切断したものもあつたこと、釘がビニール袋に入つていてその袋が破れていたこと、セメダインのような接着剤一個及び大さじ一本があつたこと、ピース缶内に充填されたダイナマイトの状態、パチンコ玉がダイナマイト中に一部頭を出すようにして埋め込まれていたこと、ピース缶に充填された塩素酸カリウムと砂糖の混合物の形状、完成した爆弾が河田町アジト内に置かれていた状況について具体的詳細に証言するのである。もとより、何らかの事情で、これらの事項の若干については細部の点まで記憶が保持されているということもないとはいえないであろう。しかし、いかに爆弾製造という重大な体験であるといつても、約一〇年も前の出来事で、しかも自らは製造作業自体を担当したものではなく、レポの途中に二回約五分間ずつ計約一〇分間河田町アジト内をのぞいていたにとどまるというのに、右のような多岐にわたる事項のすべてに関し詳細に記憶を喚起できるということについては、前述した菊井の証言にいたる経過を考慮しても不自然の感を否めないところであつて、これが不自然でないとする所論は俄かに採用できない。ちなみに、菊井は、村松らから、同人らに対する本件ピース缶爆弾事件の公判についての協力を求められたことがあり、その際右事件の日時、場所等の記憶が不鮮明である旨書送つたこともあると認められるのである(菊井の原審公判準備における証言―一五四冊五二四二三丁、同人の村松和行宛の昭和五一年八月六日付書簡の写―証六九冊一七一五三丁。なお、菊井の江口良子宛昭和五二年五月四日付書簡の写―証六九冊一七一四八丁参照)。

さらに、後に若干その例を見るように、菊井の供述中には特段の理由を付することなく後にいたるほど状況の描写が詳細になつていくところが見受けられるのであつて、この点も不自然さを感じさせるものがある。

(三) 謀議の場所(前同四五二頁)

菊井は、喫茶店「ミナミ」に一〇数名の者が集合して本件爆弾製造の謀議を行つたというのである。しかし、まず、喫茶店という、周囲の客あるいは従業員に話が聞える危険性のある場所で一〇数名の者が集まり爆弾製造に関する謀議をするということ自体やや不自然であるといわなければならない。また「ミナミ」における座席の状況についても、菊井の供述によれば、周囲からテーブル及びかなりの数の椅子を移動させて席を作る必要があつたというのであるが、それは一層人目を惹く行為である点からも不自然さを増大させるといわなければならない。所論は、必ずしもこれを不自然ではないとするのであるが、事柄が爆弾製造の謀議という最も秘密裡に行われなければならない性質のものであることを考えると、直ちに賛成することはできない。そして、菊井の証言以外に謀議の場所としてミナミを述べているものとしては、供述の経過を明らかにするため取調べた増渕の自白調書が存在するだけであることをも考えると、ミナミにおける謀議の存在自体についても疑問なしとしないのである。

(四) 製造場所(前同六五六頁)

菊井も、本件爆弾製造の場所が河田町アジトであり、同所に一〇数名の者が次々と集まり、約一〇名の者が部屋の中で製造作業をしたことなど前記佐古、前原、内藤らと同様の供述をするが、参加者の数が多数で窮屈であること、家主らの不審を抱きやすいなどの不自然さが残る点は、内藤らの供述の検討の際述べたとおりである。

(五) ピース缶の蓋の穴あけ作業(前同六五七頁)

ピース缶蓋の穴あけ作業を河田町アジトの玄関前の庭で行つたという佐古及び前原の自白は、その作業の性質上人目を惹きやすく不自然と認められることは前述したとおりであるが、菊井も、穴あけ作業を目撃していないと述べながら、一方において、内藤がピース缶の蓋のようなものを持つて玄関に立つていたから右作業をしていたかもしれないと述べ、佐古、前原らの自白に沿う供述をしており、それが不自然であることは佐古、前原らの自白について述べたのと同様である。

(六) レポの方法(前同六〇六頁)

本件爆弾製造時のレポの方法に関して菊井が述べるところは、「国井と組んで河田町アジトから東京女子医大を通り若松町交差点から八・九機方面をぐるつと歩きながらレポをするということを数時間にわたつてくり返し、その間連絡役として喫茶店エイトに常駐する石井に対し電話した」というものである。しかし、右レポの目的は、原判示(五九四頁)のように、被告人らの河田町アジトにおける行動に不審を抱いた家主や近隣の者らの通報等により警察官が同アジト周辺に急行して張込むなどの場合に備えるものと思われ、かつその場合でも当初から機動隊が出動するということは通常考えられないから、菊井の供述するように長時間をかけて広範囲に及ぶ機動隊周辺のコースを一周してみてもいかなる意味があるのか判然とせず、後述するように、石井も、菊井の右のような役割につき何ら供述していないところである。のみならず、菊井は、レポに出た当初は緊張感もあつたが、その後は緊張感もうすれ河田町アジトに一回目に戻る前から食堂で食事をするなどしてさぼり、適当にやつていたというのであつて、仲間達が爆弾を製造している間の行為としては余りにものんびりしており、このような緊張感の欠けたレポを数時間も継続したというのもやや不自然である。所論は、当日機動隊の出動は十分予測されたはずであり、かつ機動隊の動きを探るとして、機動隊の門前に長時間立つことは怪しまれるおそれがあり、その周辺を歩き回るのは自然の行動であるし、警察の動きを見るのにある程度広範囲にレポすることも意味のないことではないというが、十分な説得力を持つものとは認め難い。

(七) 白色薬品の目撃状況(前同五六〇頁)

菊井は、「本件当日レポ途中二回にわたり河田町アジトに戻り、各五分間くらいずつ室内の様子を見たが、一回目には誰かが白色粉末を乳鉢の中で乳棒を使つてかきまぜ、その際江口が手本を見せており、二回目には増渕が白色粉末が詰められたピース缶を持つているのを見た」旨証言している。ところで、本件全ピース缶爆弾中白色粉末(塩素酸カリウムと砂糖の混合物)が充填されていることが確認または推認できるのは二個であるから、製造作業中これに関連するものも時間的に少なかつたと認められるところ、菊井が数時間に及ぶ製造作業の間一〇分程度入室した機会に偶々塩素酸カリウムと砂糖との混合作業や右混合物が充填されたピース缶を現認したということは、余りにもタイミングが良過ぎ不自然といわざるを得ない。

(八) 包丁の購入

菊井は、河田町アジトにおいて新しい包丁を購入したという事実を一貫して供述しており、その理由として、「レポに出る前誰かが炊事用の包丁をダイナマイトの切断に使用して再び炊事用に使うのは気持が悪いので新しい包丁を買うようになつた」とか、「同アジトにあつた包丁を使つてダイナマイトを切断したために、誰かから異議が出て製造作業中に新しい包丁を購入した」などと供述している。しかし、河田町アジトに現に包丁がある以上、ダイナマイトの切断にはこれを用い、後になつてこれを炊事用に使うのに心理的抵抗があるならば、その段階で新しい包丁を別に購入すればよいと思われ、事実、菊井以外の者で、爆弾製造の現場において新しい包丁を購入した旨述べている者は皆無なのであつて、この点に関する菊井の証言の不自然性は否定できないところである。

なお、原判決は、以上で問題にした点以外にも、菊井の証言内容は、<1>レポに出る前パチンコ玉が河田町アジトの木箱の上に積上げられていたのを目撃したとしてこれを図示している状況は、合理的に推認される状況とかけ離れている点(原判決五四五頁) <2>同様の目撃状況として、約三〇本のダイナマイトが包装紙をはがしてパンの木箱の上に置かれていたとしているけれども、手順としては、製造作業に着手後一本ずつ包装紙をはがし切断してピース缶に詰めるというほうが通常のように思われる点(前同五三〇頁) <3>レポの間喫茶店エイトに常駐するはずの石井に対し何回か電話したところ最初の一回しか連絡がとれなかつたというのに、河田町アジトに戻つた際増渕に適宜の措置を求めるというようなことはせず、再びレポに出かけたとする点(前同六〇六頁)、などの諸点においても不自然であるとして、これを同人の供述の信用性を否定する根拠として挙げている。

そこで考えるに、まず、<1>については、確かに菊井の作成した図面は一見して不自然であるが、菊井があえて虚偽の供述をしたとするならば直ちに不審を持たれるこのような図面を作成するということはむしろ納得し難く、同人としては、同一図面に記載されているダイナマイトが積上げられている状態やパチンコ玉の周囲に壁となるような材料が存在したことの印象もあつて安易に右図面を作成したと解する余地が十分にあり、菊井も図面作成の当初から、書き方がまずかつたかもしれないと述べており(証七〇冊一七四二七丁)、後に、明白に、右図面は書き方がまずかつたとしてこれを訂正する証言をしているのである。また<2>については、手早く爆弾を製造するには先にひとまとめに包装紙をはがして切断作業をする方がよいともいえるのであつて、原判示のように製造作業に着手後一本ずつ包装紙をはがし切断するのが通常の手順であるとは一概に断じ得ないところである。また<3>については、レポの役割を完璧に遂行しようとするならば増渕に適宜の措置を求めるのが望ましいとはいえようが、菊井がそれまでレポをした間特に異常を認めず、自らも途中で食事をするようなことがあつたとすれば、あえてそのような挙に出ないということもあり得ないことではないと思われ、原判決の見解はいささか理に走り過ぎているといわざるを得ない。したがつて、これらの点に関する原判示は必ずしも適切とは思われない。

ハ 証言内容の変遷

次に、菊井の証言内容を同人の検面とも対比しつつ考察すると、原判示のように、多くの点で供述の変遷があることが明らかである。所論はこれをおおむね記憶の不明確ないし稀薄化等に基づくものと主張するのであるが、少なくとも以下述べるものについてはそのように認めることには疑問が残り、不自然さを否定し得ないところである。

(一) 謀議に江口が出席したことの有無(原判決四六〇頁)

まず、江口について、菊井は、検面及び五部公判において「出席していたかどうか思い出せない」としながら、原審公判においては「出席しており、かつ喫茶店ミナミで増渕の向かい側の席に座つていた」旨述べるにいたつている。ところで、菊井は江口から手紙でスパイ呼ばわりをされたことに反感を持ち、それが証言を決意する動機の一つにもなつたというのであるから、謀議出席メンバーの中で江口のことはもつと早く想起してよいのではないかと思われ、しかも、当初出席について記憶がなかつたのが、その後、菊井自身の供述によつても記憶喚起のきつかけになるような出来事は特になかつたと認められるのに、その着席位置という細部の事柄まで想起するということはやはり不自然であるといわざるを得ない。

(二) 爆弾製造に平野が参加したことの有無(前同五二一頁)

この点につき、菊井は原判示のように、検面においては、平野がいたとしているが、五部及び原審公判においては、一旦平野が参加したと述べながら、その後参加メンバーとして平野の名前を挙げず、あるいはその参加について曖昧な証言に変り、次いで、一転して、平野がいたことははつきりしており断定できるとの供述をするにいたつているのである。しかし、最後の証言のように明確に記憶に残つているのであれば、その前の段階で曖昧な供述をなしたことが理解し難く、菊井が真実自己の記憶どおりの証言をしているかどうかについても疑問を抱かざるを得ないのである。所論は、菊井の当初の証言は不明瞭であるものの、平野がいたことが記憶の片隅に残つていたことを窺い得るのであり、その後明確に証言するにいたつたのは菊井の証言するように記憶がより明確になつたものと思料され、右供述の変遷は、信用性の観点からとりたてて問題とするほどのものではないと主張するけれども、当初不明確であつた記憶が後にいたつて明確になつたことにつき特段の事情があるとも認められず、特に菊井は平野が爆弾製造の際どのような位置、姿勢、作業内容をしていたかについてはすべて記憶がないというのであるから(証七〇冊一七五七八丁)、なおさら右供述の変遷は理解し難いところである。

(三) 包装されたダイナマイトを見たことの有無(前同五三〇頁)

菊井は、原判示のように、検面添付の図面では、爆弾製造の際に見たダイナマイトに関し、「本体は紙で包装してあり、商標が印刷してあつたが詳細は忘れました」と自らの手で注記しているのに対し、原審公判では、「河田町アジトで本件爆弾製造についての増渕の指示がある前に包み紙がむかれた裸のダイナマイトを見た」と証言し、三〇数本の裸のダイナマイトが積まれている様子の図面の作成までしているのである。右相違につき、菊井は、原審公判準備において、「検面添付の図面は記憶が十分喚起されていない段階で作成したもので、その後ダイナマイトは裸であつたという記憶が喚起されたものの検面の作成の際訂正し忘れたものである」旨供述し、要するに単純なミスであるとの弁解をなし、所論もほぼ同趣旨の主張をする。しかし、本件ピース缶爆弾製造の時以外にダイナマイトを見たことはないと供述する菊井が、製造現場で見た裸のダイナマイトにつき、それが包装されており、かつ包装紙には商標が印刷してあつたと記憶違いするというようなことは不自然であるといわざるを得ないし、また前記検面添付の図面には菊井自身が同検面本文と同じ日付を記入し署名指印をしているのであるから、菊井が検面作成の際、右図面の誤りに気づかなかつたとすることにも疑問があり、所論は採用することができない。

(四) 導火線と雷管の接続されたものを増渕がピース缶の蓋の穴に通すのを見たことの有無(前同五五一頁)

菊井は、原判示のように検面及び原審一七八回公判においては、増渕が導火線と雷管の接続したものをピース缶の蓋の穴に通す作業を目撃したとは述べていないのに、原審一八四回公判において増渕が右作業をするのを見たと供述するにいたつたものであるが、原判決もいうように、一〇年前の光景が証言の途中で新たに想起されるということには不自然さを禁じ得ないところである。所論は、菊井が証言の途中で増渕において右作業をするのを見た旨述べたのは、詳細に質問を受けたので記憶を喚起したためで特段不自然とはいえない旨主張するけれども、このような比較的細部の、しかもやや特殊な情景についての記憶が途中から喚起された理由としては、必ずしも納得し得るものではないと考えられる。

(五) 爆弾製造現場における釘の有無(前同五七〇頁)

菊井は、原判示のように、検面においては、ピース缶の蓋に穴をあけるために使う釘やドライバーがあつたかどうか良く覚えていない旨の供述をしていたのに、原審公判においては、長さ約八センチメートルの釘が袋に入つていて、袋が破れているところまで目撃したと証言するにいたつたものであるが、検面作成の段階では曖昧だつた記憶がなぜその後原審公判において前記のような細部の点まで想起できたか若干理解し難いところである。所論は、菊井は検察官の取調時には記憶がおぼろげであつたが、公判廷において同趣旨の尋問を受けているうち、記憶を喚起したものと主張するけれども、検面の記載によれば、菊井は検察官の取調時においても記憶喚起のための発問を受けたことが窺われるから、所論には直ちには同調し得ない。

なお、原判決は、菊井の証言には、以上のほかにも、<1>謀議と製造が連続した日かどうか <2>謀議に堀、平野及び内藤が参加したことの有無 <3>製造当日河田町アジトにおいて煙草を吸つたことの有無及び置いてあつた煙草の本数 <4>レポに出る前に切断したダイナマイトを見たことの有無 <5>パチンコ玉がパンの木箱の上に置かれていた状態及びそのパチンコ玉の数 <6>レポに出る前に見た導火線の長さ <7>レポの途中における石井との連絡状況などについても供述の変遷があるとし、これを重視しているものと認められる(原判決六六一頁)。

しかし、以下に個別的にみるように、右の原判示は、日時の経過等を顧慮することなく余りにも細部の事柄を問題にするなど必ずしも相当と思われない。

<1>について(原判決四三四頁)

原判決は、この点に関する菊井の証言が当初においては連続した日である旨かなり明確に述べていたのが、途中から動揺し、最終的にはかなり幅のある供述をしていることをもつて不自然であるとするのである。しかし、菊井の検面の記載においても、同人は「製造の日は謀議当日ではなく、その翌日かそれ以降の日であつたように思う」と述べているのであるから、同人は当初から謀議と製造が連続した日であつたことの明確な記憶はなかつたものと認められ、その後の五部及び原審における証言も、若干表現のニユアンスの差はあるものの、この趣旨を特に変更しているとは認められない。確かに、菊井は、最終的には原審公判準備において、「証言を訂正することになるかもしれないが、翌日かどうかわからない。一日か二日か何日かずれていたかもしれない」と供述しているのであるが、他方「わりと接近していたと思う。翌日という可能性もある」とも述べているのであり、右公判準備における証言は、それ以前の五部及び原審公判における証言から約二年半を経過してなされたものであることをも考えると、右公判準備における証言に特に意味を持たせることは相当でないと思われる。

そして、原判決は、菊井にとつてはじめての、かつ重大な体験である爆弾の製造が謀議の日に連続して行われたかどうかは記憶に残りやすいと思われる旨説示するのであるが、長年月の経過により記憶が稀薄化し前記程度の供述しかなし得ないということは十分あり得るところと思われる。

<2>について(前同四六〇頁)

まず、堀について、菊井は五部公判において謀議に堀が出席した旨証言しているけれども、その後原審公判において、堀がいたかどうかは断言できず、右五部公判における証言は言い間違いである旨述べており、菊井の検面も、堀が謀議に出席したかどうか断言できないというものであることからすれば、右五部公判における証言は言い間違いである可能性が高いと認められる。

次に、平野及び内藤について、原判決は、菊井が五部公判において、平野か内藤のどちらかが出席した旨証言しながら、原審一七八回公判において、「内藤がいたと思う。平野がいたと思うがこれはちよつと断言できない」旨両名とも参加の可能性があることに変更になり、さらに同一八四回公判において「内藤か平野かどちらかがいた。私の感じとしては内藤であつた方が強い」旨また二者択一の参加の趣旨に戻つており、これを無視することはできない旨判示している。しかし、菊井の五部公判における証言中には、平野の出席については断定できないと述べている部分もあるから(証六五冊一六一〇三丁)、結局、菊井の証言は、内藤はいたかもしれないが平野については何ともいえないとの趣旨で一貫していると認められるのであつて、この点に関する原判示は失当と思われる、

<3>について(前同四八七頁)

原判決は、菊井の五部及び原審各公判における証言は爆弾製造の当日河田町アジト内での煙草を吸つた趣旨のものとみるのが自然であつて、その後原審公判準備における証言において煙草は吸つたとしながらそれが製造当日河田町アジトにおいてであつたかが曖昧になつていることには疑問があるとしている。確かに菊井の五部九四回公判における証言中には製造当日の室内の状況の説明として、「ピース缶の中身を出して置いてあつたから、自分らが煙草の積んであつたのを取つて吸つたことがある」とする部分があり(証六四冊一六〇八〇丁)、これは原判示のように当日室内で煙草を吸つた趣旨のものとみるのが自然であろう。しかし、この点に関する菊井の五部及び原審公判における供述中他の部分には必ずしも製造当日室内で吸つた趣旨とは断定できないものもあり(証六五冊一六一〇九丁、八五冊三二四二三丁)、同人の検面も「製造の前後ころ河田町アジトにピース煙草が何十本かばらのまま紙か何かに包まれて置いてあつたので、その中から何本か吸つた」という趣旨のものであり(証一八一冊三二八九四丁)、さらに、同人が原審公判準備において、「煙草をもらつて吸つたという以前の証言は製造当日という趣旨ではなかつたと思う」旨供述していること(一五四冊五二三五五丁)をも併せ考えると、同人の前記五部九四回公判における証言は言い間違いないし表現の不正確によるものと考える余地が大きく、これにことさら意味を持たせることは相当でないと思われる。

次に、原判決は、製造当日河田町アジトに置いてあつた煙草の本数につき、菊井が検面及び五部公判において何一〇本かである旨供述しながら、原審公判においては「せいぜい二〇〇本あるかないか、まあ一五〇本ぐらいかなという感じである」旨述べているのも無視し難く疑問が残るとしているけれども、いずれの場合においても、菊井は、バラの煙草が積まれているのを見ただけで本数を数えたというのではなく、おおよその本数を感じとして述べているのであるから、右程度の供述の差は、記憶の不明確ないし稀薄化に基づくと解して差支えないと考えられる。

<4>について(前同五三七頁)

原判決は、菊井は原審一八四回公判において、「レポに出る前パンの箱を裏返した上に紙を敷いて三〇本位の裸のダイナマイトが置いてあつた」旨述べて図面を作成し、かつ「全部同じ長さのものである(約一三センチメートル)」旨述べているが、五部九九回公判においては、「レポに出る前に見たときは、はつきりしないが切つたダイナマイトもあつたような気がする」と述べ、さらに原審公判準備においては、「レポに出る前に見たときはダイナマイトは切つたものもあつたし、長いものもあつた。全部切つてあつたのではない」と述べているが、右供述の変更には疑問が残るとするものである。

そこで考えるに、菊井は、原審一七八回公判において、「製造作業に着手するに先立つて増渕が役割分担を指示した際ダイナマイトの切断についても指示があつた」とか「河田町アジトにあつた炊事用の包丁をダイナマイトの切断に使用して再び炊事用に使うというのは気持が悪いので、新しい包丁を買おうという意見が出た。レポの途中で一度目に河田町アジトに戻つた時に新しい包丁を見た」など、最初レポに出る前にはダイナマイトの切断作業はまだ行われていなかつたということを窺わせる供述もしているから、右公判における菊井の証言がレポに出る前にはダイナマイトは切断されていなかつたとの趣旨に解されることは明らかである。しかし、菊井は、五部九九回公判においても、原審一八四回公判において作成した図面と同様に、ダイナマイトが全部同じ長さに見える図面を作成しつつ前記のような証言をなしたものであり、しかも、右証言は原審一八四回公判における翌日のものであることを考えると、原審一八四回公判における前記趣旨の供述が菊井の当時における確定的な認識内容を物語るとすることには疑問があり、したがつて、右の原審一八四回公判における供述を、五部九九回公判及び原審公判準備における供述と対比しことさら問題視する原判示には直ちには賛同し難いところである。

なお、原審公判準備における証言は五部九九回公判におけるそれと比し、ダイナマイトに切断されたものがあつた趣旨がより明確となつているけれども、両証言の間に約二年半の日時の経過があることをも考えると、この程度のことは記憶の混同、稀薄化によりあり得ると認められるから、あえて問題視する必要はないと考えられる。

<5>について(前同五四五頁)

原判決は、これらに関する菊井の五部及び原審各公判並びに原審公判準備における証言の変遷も不自然であり疑問が残るとしている。

そこで考えるに、まず、パチンコ玉がパンの木箱の上に置かれていた状態に関する菊井の証言の変遷は、前述したように明らかに不自然と認められる当初の証言(図面作成)を問い質され、これを自ら訂正する経過と理解できるのであつて、ことさら重視するような性質のものとは認められない。次に、右木箱の上に置いてあつたパチンコ玉の数につき、原判決は、菊井は当初確かではないが何百もなく何一〇個である旨述べていたところ、その後一〇〇ないし二〇〇個であると供述を変更しているが、供述変更の理由も付されていないと指摘しているけれども、明確でないとの前提を付してのこの程度の供述の変遷は、特に問題とするに値しないと考えられる。

<6>について(前同五四九頁)

菊井が原審公判準備において、レポに出る前に見た爆弾の長さについて、「長いのは三〇センチメートル、短いのは一五センチメートルくらいである」と供述しているところ、これは本件ピース缶爆弾の実際の導火線の長さが最も長いもので一二ないし一三センチメートルである事実と相違するけれども、そのこと自体は記憶の稀薄化に基づくと解して特に不自然でないことは前述したとおりである。ところが、原判決は、菊井がこの点につき、検面では「短く切つたもの一〇数本があつた」と供述し、五部及び原審公判における証言でも「短く切つた導火線が何本かあつた」とか「導火線の長さは一〇センチ程度ではなかつたかと思う」旨原審公判準備とは異なる供述をしている点においても菊井の供述には疑問が持たれるとするのである。しかし、いずれにせよそれほど長いものではない導火線の長さに関する右の程度の供述の変遷は、年月の経過に伴う記憶の稀薄化等に基づくと解し得るものであるから、この点に関する原判示も支持し難いところである。

<7>について(前同六〇八頁)

レポに従事中石井へ電話連絡した状況につき、菊井は、原判示のように検面並びに五部及び原審各公判においては、不十分ながら連絡がとれていたかのような供述をしていたのに、原審公判準備においては石井と連絡をとれたのは最初または最初のころの一回だけであると述べており、原判決はこの供述の変更につき疑問を投げかけている。しかし、この点は比較的細部の事項であつて、五部及び原審各公判における証言から原審公判準備におけるそれまで約二年半の年月が経過していることをも考えると、記憶の混同ないし稀薄化に基づくと解する余地が十分あるうえ、前記の各供述とも「石井に何度か連絡をとつた際、石井が電話口に出たこともあるし、出なかつたこともある」という点では共通しているのであるから、菊井の証言全体の信用性に影響を及ぼすものとは認められない。

ニ 他の共犯者とされている者らの自白とのくい違い

次に、菊井証言と佐古、前原ら本件の共犯者とされている者らの自白とを対比すると、おおむね原判決が指摘するように、最終段階におけるそれに限つても、<1>佐古においてピース缶爆弾製造の謀議と密接なつながりがあるものとして、自白及び菊井らが早稲田大学正門前に集合した事実を供述しているのに対し、菊井はそのような事実を否定している点(原判決四五六頁) <2>謀議の場所につき、菊井は増渕とともに喫茶店「ミナミ」を述べるのに対し、佐古及び前原は住吉町アジトを、村松は河田町アジトを述べる点(前同四三九頁) <3>「ミナミ」謀議を述べる増渕は参加者は三名であつたとし、また同所における待合せを供述する村松は五名が参集したとし、またいずれも菊井が出席したとは述べていないのに対し、菊井は「ミナミ」謀議においては自己を含む一〇数名が出席したとしている点(前同四五九頁) <4>菊井は、「河田町アジトで製造作業に着手する前増渕から説明を受けたときに平野及び内藤を見かけ、その後レポの途中で同アジトの玄関前の庭のようなところで内藤と会いしばらく立話をした」とするのに対し、内藤は、「平野と一緒に河田町アジトに入る路地の角あたりで国井とともに見張りをしていたと思われる菊井に会い、同アジトの部屋に入つてから増渕の説明があり製造作業に着手した」と供述し、互いに相手の姿は見かけたとしながらその状況は全く異なる点(前同五二三頁) <5>菊井は、爆弾製造現場にピース煙草一五〇本位が置かれており、また当日ダイナマイト切断のため新しい包丁を購入したと供述するのであるが、共犯者とされている者でこれらについて述べる者は他に誰もいない点(前同四八五頁、五四二頁)<6>菊井は、本件当日増渕から指示されレポの役割をし、その最中同じレポの役割を担当した石井とも連絡をとつたと供述しているのに対し、増渕及び石井とも本件当日の参加者として菊井の名前を挙げておらず、また佐古、前原も菊井の役割がレポ担当であるとは供述していない点(前同五八九頁) などの相違があることが明らかである。所論は、これらの大多数に共通する原因として記憶の稀薄化等を挙げるのであるが、右に列挙した諸点は、本件の経過ないし当日における参加者の行動に関する重要部分であつて、菊井及び共犯者とされる者らが実際にともに経験した事実を誠実に述べているものであるならば体験時から供述時までの年月の経過ということを考慮に入れても、このように多岐にわたる事項につき記憶の稀薄化等を生じ供述内容に差が生ずることはあり得ないのではないかと思われ、さりとてこれらの事項のすべてにつきひとり菊井の証言のみが事実に合致するとみることにも躊躇を感ぜざるを得ない。

なお、所論は、右の供述の相違点のいくつかについては、記憶の稀薄化等以外にもこれを説明し得る合理的理由が存する旨主張するので、以下にそのうち重要なものについて判断を示すこととする。

(一) まず、所論は、菊井の述べるミナミ以外に佐古らの述べる場所でも謀議がなされたとしても不自然ではないとする。すなわち、本件当時、L研、社研のメンバーは増渕の唱導する武装闘争暴力革命主義に同調しており、右メンバーにとつて爆弾製造は当然のように受取られていたものであり、しかも右メンバーは日常的に各アジトや喫茶店で集合していたものであるから、多数回にわたる謀議が場所やメンバーを異にして行われたとしても格別不自然、不合理ではなく、かつ三年半またはそれ以上の日時の経過をも考慮すると、右謀議の一部につき記憶の忘失、混同等を生ずることも十分あり得るというのである。しかし、菊井及び共犯者とされる者の間の前記のような顕著な供述の差異を所論のいうような理由によつて十分に説明できるかについては疑問を感ぜざるを得ない。すなわち、多数回にわたる謀議の可能性があるとする点については、原判決も指摘するように菊井が証言するミナミにおける謀議も、村松が述べる河田町アジトにおける謀議も、また前原が述べる住吉町アジトにおける謀議も、いずれも増渕がピース缶爆弾の製造を提案し、材料入手についての任務分担を指示したというのであつて、同じような内容の謀議を何回も場所を変えて行うということは不自然であるといわなければならない。さらに、所論のいうように多数回にわたる謀議が行われたとしても、菊井の供述する「ミナミ」の謀議は、製造メンバーの大多数が出席し、かつ周囲の者の眼を気にしなければならない喫茶店で、しかも机や椅子を移動して席を作つて行われ、さらに謀議の後村松、前原外一名くらいがダイナマイトを早稲田アジトに取りに行つたというのであるから記憶に残りやすいと思われるのに、前述したように、所論がおおむねその自白が信用できるとする佐古、内藤らをはじめ増渕以外の者がこの点につき全く供述していないことは、何といつても不自然さを免れ得ないところである。

なお、所論は、前原はミナミから村松に同行して早稲田アジトへ赴き赤軍派の者からダイナマイト等を入手したものであるが、入手した相手の赤軍派のメンバーの氏名を秘匿するため、故意にミナミ謀議を否定している可能性が強いと主張するけれども、その理由のないことは、前原の自白の信用性に関して述べたとおりである。

(二) 次に、所論は、<6>につき増渕が菊井の名前を挙げていないのは記憶の忘失の可能性のほか、故意に証拠の不一致を作出し、将来公判において争う余地を作ろうという意図があつたことによるものであり、また石井が同様に菊井の名前を挙げていないのは、石井にとつて菊井の存在はもともと印象が薄かつたと推認されるうえ、本件レポにおいて、石井が菊井ら外のレポ要員と顔を合わせる回数の少なかつたことなどから石井は菊井の参加を忘失した可能性を否定できないと主張する。確かに、増渕については所論のいうように考えることもできるであろう(ただ、菊井の参加自体についてもそのような意図があつたかについては疑問がなくはない)。しかし、石井について所論のいうような説明をすることの困難であることは、石井の自白の信用性に関し述べたとおりである、所論はまた、佐古、前原がレポ担当者として菊井の名前を挙げていないのは、多数の者が製造作業に加わつていたところから、誰がどのような作業をしたかについての記憶の稀薄化、混同を生じたこと、菊井がレポを行つていたため同人の行動に対する印象が薄かつたこと等によるものと思料されると主張する。しかし、佐古、前原は菊井が何をしていたか分らないと供述しているわけではなく、佐古は、本件爆弾製造現場でダイナマイトの油紙を剥いでピース缶に詰め、パチンコ玉を入れる作業をしていた者として菊井の名前を挙げ、前原は増渕の指示で導火線を一定の長さに切断し、江口と導火線と雷管の接続作業をしていた者として菊井の名前を挙げているのであつて、いずれも菊井につきレポとは異なる役割を積極的に供述し、しかも佐古、前原相互間で菊井の担当した役割についてかなり異つた供述をしているのであつて、これを目して単なる記憶の稀薄化等によるものと解することには大きな疑問があるといわざるを得ない。

なお、原判決は、前記<1>ないし<6>以外に、菊井は、爆弾製造の目的につき、赤軍派と共闘のためであつて、製造された爆弾は赤軍派に使用させるものでL研が使用するものではないと供述しており、これは所論が信用性に乏しいとする増渕及び村松の自白におおむね一致するけれども、所論が信用性が高いとしている佐古及び前原の自白においては、他のセクトからの武器に頼らずL研で爆弾を作るというL研独自の爆弾闘争であるとされている点をも菊井の供述に疑問が持たれる点として挙げている。しかし、本件当時、赤軍派とL研は既に共闘関係を結び、かつL研リーダーである増渕や菊井らは両方の組織に加盟していたので、被告人らの活動はL研としてのそれと赤軍派としてのそれとが重複していたのであり、このような情況からすれば本件ピース缶爆弾の製造の目的につき重要なのはこれを使用するのが赤軍かL研かということにあるのではなく、武器の入手製造を赤軍派に任せておけないためL研が製造することにあつたと認められるのであつて、右製造目的についての菊井と佐古らとの前記のような供述の差は重点の置き方の差ともみられ、それほど意味のあることとは思われないから、この点に関する原判示には左袒し難い。

ホ まとめ

以上考察したところによれば、菊井の証言は、既に考察した他の共犯者とされる者の自白に比べ比較的難点の少ないものであり、その信用性に関する原判示には支持し難い部分も多いけれども、同証言にはなお疑問点が存在することは否定できず、これのみによつて増渕らを有罪と認定するには不十分である。

4 要約

以上考察したところによれば、本件においては、被告人増渕、同江口及び共犯者とされている佐古、前原、内藤、村松の各自白のほか真実を語つているかのように思われる菊井の証言があるものの、菊井の証言にはなお疑問点の存在することを否定できず、また前記各自白についてもその内容の信用性につき種々の疑問があり、いずれも増渕らが本件の犯人であるとするには足りないものというべきである。個々の自白及び証言においてそうであるのみならず、それらを総合しても異なる心証には到達し得ないものである。

三  結論

以上によれば、増渕、堀、江口及び前林が本件に関与しその犯人であると断定することはできないとして、同事件につき右四名の被告人を無罪とした原判決に所論のいうような事実の誤認があるとは認められない。論旨は理由がない。

第四ピース缶爆弾事件についての総括

既に考察したアメリカ文化センター事件、第八、九機動隊事件、ピース缶爆弾製造事件を内容とするピース缶爆弾事件全体については、被告人らと各犯行とを直接結びつけるような物的証拠はないものの、被告人らが各犯行の犯人であつても格別不思議ではないような原判示のL研の活動等の情況が認められる(当審証人峰孝二の供述もこのことを裏付けるものである)うえ、増渕及び江口を含む多数の者が捜査段階において自白しており、しかもこれらの自白は大綱において一致し、かつその多くは具体的かつ詳細な内容のものである。そして、自白がなされた経緯をみても、多くの者が比較的短期間の取調後に自白し、かつその後はおおむね一貫してこれを維持したものであり、なかには内藤や石井のように公判廷においても自白を維持した者もいるのである。もつとも、自白をなした者のほとんどは公判段階においては公訴事実を否認するにいたつたのであるが、それらの者の公判廷内外の供述には同人らが本件の犯人であることを一応疑わせるような点が散見されるのである(例えば、前原の菊井宛の手紙の存在や同人が証人として「取調中に、八・九機前を通つた時にその正門付近に機動隊員が二〇人ぐらいいてフラツシユがかなり焚かれていた情景が浮かんだ」旨供述していることなど)。さらに、原審において証人として出廷した菊井の証言内容は、既にみたとおり自己及び増渕らにおいて本件ピース缶爆弾を製造したことを詳細に供述するものであつて、まさに本件の真相を物語つているのではないかとの感が深く、以上述べた諸点によれば、本件各犯行が増渕らによつてなされたのではないかとの疑いを払拭し難いものがあることを否定できない。

しかし、ひるがえつて考えるに、捜査当時得られた増渕らの自白には既にみたように重要な点において証拠物の形状等客観的情況との不一致、内容の不自然さ、供述の変遷、各供述相互間のくい違い等が少なからず見受けられるのであり、特に客観的情況との不一致(アメリカ文化センター事件において爆弾を収納したダンボール箱が既製のものでないとする点、第八、九機動隊事件において犯行に直接関与した者の数を三人とする点、ピース缶爆弾製造事件において犯行日を昭和四四年一〇月一五日以降とする点など)は到底看過し得ないところである。しかも、複数の者が符節を合するがごとく右の客観的情況に反する自白をしているということは、本件に関する捜査の方法についても疑念を抱かせるものである。また、菊井の証言は、既にみたように他の共犯者とされる者の自白に比べ難点の少ないものではあるが、なお疑問点の存在することを否定できず、これのみによつて増渕らを有罪と認定するには不十分である。

いうまでもなく、「疑わしきは被告人の利益に」ということは刑事裁判の鉄則である。かくして、当裁判所としては、これにしたがい、本件ピース缶爆弾事件の各公訴事実につき被告人らに対し犯罪の証明がないとして無罪を言渡した原判決を維持すべきものとの結論に到達した次第である。

第二部日石土田邸事件

第一控訴趣意中事実誤認の主張に対する判断

所論は、原判決は、増渕ら当審被告人六名(以下、「被告人ら」という)に対し日石土田邸事件の各公訴事実につきいずれも犯罪の証明がないとして無罪の判決を言渡したが、原審で取調済の各証拠を総合すれば、右各公訴事実は優にこれを認めることができるのであり、原判決は中村(隆)の自白調書、同人の公判供述等の重要証拠についてその信用性の有無及び証拠価値の判断を誤り、その結果事実を誤認し無罪としたものであつて、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであるというのである。

そこで、以下に所論の論点に即し、原判決の事実認定の当否につき検討を加えることとする。

一  事件の発生状況

証拠により認められる日石事件における郵便小包の爆発、爆発物の構造及び包装等並びに土田邸における郵便小包の爆発、爆発物の構造、包装等及び郵便小包の配送経路は、原判決(八四〇頁、八六三頁)が認定しているとおりと認められ、所論も特にこれを争わない。

二  被告人らと事件の結びつきに関する証拠

原審で取調べられた証拠中、日石土田邸事件の各犯行が被告人らによつて行われたとの検察官の主張に沿うものの存在については、原判決(八八二頁)が説示するとおりと認められ、これ以外に右の点に関する証拠は見当たらない。そして、右各証拠は、<1>原審被告人らの自白ないし不利益事実の供述 <2>本件各爆弾小包の荷札及び包装紙の宛名書の筆跡に関する黒田正典の鑑定(以下、「黒田鑑定」という) <3>その他の情況証拠、に大別されることも原判示のとおりと認められる。なお、当審証人鈴木茂の供述は、右の<3>の証拠に含めて考えられるべきである。

三  各証拠の信用性

1 原審被告人らの自白ないし不利益事実の供述(以下、これらを併せて「供述」ともいう)

イ 中村(隆)の供述

(一) 一般

所論は、中村(隆)は初期の公判段階においても、日石土田邸事件について自白していたことが明らかであるところ、公判廷でなされた右自白には高度の信用性が認められ、また同人の捜査段階における供述も、公判供述と同旨のものについてはもとより信用性が認められるし、また公判において明確な供述をしていない点に関する部分も十分信用できると主張する。

確かに、中村(隆)は、初期公判において被告人または証人として日石土田邸事件に関する重要な事項につき自白をしていることは所論のとおりであるところ、<1>自白が公判廷でなされていること自体重要な意味をもつと解されること <2>中村(隆)は右公判供述の当時自己の弁護人の弁護を受け十分に打合わせの機会を持つていたものであること <3>自白の内容は詳細かつ具体的であり、特に土田邸爆弾製造に関する部分についてはそれが顕著であること <4>中村(隆)は公判の途中から供述を次第に曖昧にし遂に完全否認に転ずるにいたつたのであるが、右の供述の変更の理由は必ずしも十分に納得できるものではないこと、などからみると、同人の初期公判における自白は少なくともその大綱においては真実を述べたのではないかとの考えを容れる余地は相当大きいといわざるを得ない。

しかし、他方、中村(隆)が公判廷の自白を最後まで維持することなく、次第に供述を曖昧にし、遂に完全否認に転ずるにいたつたことは前述したとおりである。また、同人が初期公判において自白をなした背景には次のような特異な事情があることを到底看過することができない。すなわち、原判決(一一八五頁)が説示するとおり、中村(隆)は、昭和四八年五月五日の起訴完了後同四九年三月四日東京拘置所に移監されるまでの約一〇箇月間引き続いて三田警察署に留置され、かつ日曜日以外のほとんど毎日警視庁に押送されたうえ取調室で取調担当官であつた坂本警部補と顔を合わせ、同警部補から説得ないし訓戒を受け、時にはいわゆる「面倒見」を受けた(家族の面会等の便宜を図るほか、正月には手作りのおせち料理を特に与え、また中村(隆)の家業の機械製作の仕事を取調室内でさせた事実もあつたと認められる)という事実である。確かに、所論のいうように、中村(隆)が起訴完了後も引き続き三田警察署に留置されたことについては同人の希望も介在したとは認められるけれども、この点を考慮しても前記のような措置は甚だ異例のものというほかはなく、かつこのような措置がとられたことが中村(隆)に対し取調官の意思に逆らい難い心情を醸成させ、明白なアリバイが現われた日石搬送以外の事実について捜査当時の供述を変更することを心情的に困難ならしめたものと推認するに難くなく(中村(隆)48・7・7付取報に添付された同人作成の「お断り」と題する書面―証七六冊参照)、このことは、同人が東京拘置所に移監されるや徐々に自白内容を後退させ、遂には全面否認に転ずるにいたつた経緯からも窮知できるところである。

右に述べた点からすれば、中村(隆)の初期公判における自白は、それが公判における自白なるが故に高度の信用性を持つとすることには躊躇を感ぜざるを得ない。また、右に述べたところからすれば、公判における自白とはいつても、それはおおむね捜査段階における自白を公判においても維持したと考える余地が大きいと思われるのであり、他方、所論も、中村(隆)の公判における供述中捜査段階における自白を後退させたものについては捜査段階の自白こそ信用するに足るとするのであるから、同人の捜査段階の自白ときり離してその公判における自白の信用性を独自に論ずるのは必ずしも相当とは思われず、むしろ原判決の手法のように、まず同人の捜査段階の自白の信用性をそれが得られた経緯等をも参酌しつつ考察し、これと関連させながらその公判における自白の信用性についても検討するのが相当と思われるのである。

ところで、原判決(一〇二二頁)は、捜査段階における中村(隆)に対する取調の特徴として、取調を担当した坂本警部補が独得の熱意溢れる口調での説得、説教等による取調方法を行い、他方、中村(隆)はもともと性格上受動的で感じやすい面を有し、取調官の期待する態度、言動に自己を合わせて行こうとする姿勢があり、そのような捜査官と被疑者との関係のもとでは供述の誘導等も容易になるものであることを指摘するとともに、中村(隆)の捜査段階の供述を通観した場合の特色として、<1>そのなかには、アリバイがあるのに日石搬送の第二搬送者が自分である旨具体的に供述している点など検察官も指摘し認めているものも含め、いくつかの明らかに虚偽と認められる事項が含まれていること <2>供述内容が変遷している部分が少なからず見受けられるうえ、その理由が明らかにされておらず、あるいは容易に理解し難い部分が少なくないこと <3>他の者の供述と相前後してなされた供述が少なくなく、また供述の変更も他の者の供述と相前後して行われている点も少なくないこと <4>厳密な意味で秘密の暴露に当たる供述は、検察官の主張にもかかわらず、存しないこと <5>自ら体験した場合に当然伴うはずの心理的な事実についての供述の録取が少ないこと <6>中村(隆)は、長期間の参考人としての取調の後に逮捕、勾留されて被疑者として取調べられるにいたつたが、重要な供述は身柄拘束後に得られ、かつ取調時間も相当長時間に及んでいること、などを指摘しており、右各指摘は関係証拠に照らしいずれも相当としてこれを是認し得る。そして、右の諸点からすれば、中村(隆)の供述の信用性は慎重に検討する必要があるといわなければならない。

以上のことを前提として、所論が問題とする事項ごとに、中村(隆)の供述の信用性について考察を加えることとする。

(二) 土田邸爆弾製造(所論にいう、これに関する技術・知識の提供を含む)に関する供述

土田邸爆弾製造に関する中村(隆)の捜査段階の自白の概要は、原判決(一〇五一頁)に摘記されているとおりである。なお、所論にいう、同人の土田邸爆弾製造に関する技術・知識の提供に関する供述の要旨は、同人が一人で秋葉原へ行き作動線方式のマイクロスイツチ二個を購入したうえ増渕のアパートへ届け、その際増渕に端子の選別方法等を図示して説明したところ、同人から「俺は電気に弱いから爆弾を作るとき実際にやつてくれ」と言われこれを引受けたというものであつて、土田邸爆弾製造に関する供述、特にマイクロスイツチを入手しこれを実際の爆弾製造に際して用いたとする部分と密接不可分の関係にあるので、以下に、両者を一体として(「土田邸爆弾製造」というときは、両者を含む趣旨である)、考察の対象とすることとする。

ところで、土田邸爆弾製造に関する中村(隆)の自白は、同人の日石土田邸事件に関する自白全体のなかでもとりわけ重要な部分であることが明らかであり、また所論も指摘するように、捜査及び初期公判段階の自白の双方ともきわめて具体的かつ詳細な内容を有し、かつ公判における自白は他の点に関するそれに比しかなり遅くまで維持されており、所論は、これらの点から、その内容は十分信用するに値するというのである。

しかし、土田邸爆弾製造に関する中村(隆)の自白には、少なくとも以下に述べるような問題点ないし疑問点が存在することを否定できない。

(1) 秘密の暴露の有無

中村(隆)の捜査段階の自白全体を通じいわゆる秘密の暴露に当たるものがないことについては前述したが、そのことは土田邸爆弾製造に関する部分の自白についても当てはまるものである。すなわち、検察官が原審において秘密の暴露に当たると主張していた事項、すなわち、<1>赤色塗料をマイクロスイツチ端子に塗布したこと <2>その赤印が豆ラツカーによりつけられたこと <3>マイクロスイツチの作動線をクランク形に曲げたこと <4>種々のマイクロスイツチの形状の中で、証拠物と一致する形状のものを供述していること <5>マイクロスイツチの購入先が中村(隆)の供述により特定され、その所在位置に同じ型のマイクロスイツチを販売していた店が存在することが後から裏付けられたこと、などがいずれも厳密な意味では秘密の暴露に当たらないものと解すべきことは原判示のとおりと認められ、所論もおおむねこれを争わない。

(2) 特異な供述の有無―マイクロスイツチに関する供述の信用性

秘密の暴露に当たらない供述であつても、自ら経験した者でなければ述べ得ないような特異な事実を供述していることは自白の信用性を高めるものと理解できる。そして、所論はそのようなものとしてマイクロスイツチに関する種々の供述を挙げるので、以下にこの点につき検討を加えることとする。

(イ) スーパーセメダインの使用

所論は、中村(隆)は土田邸爆弾製造の際マイクロスイツチを二液性スーパーセメダインで木箱に接着した後ビニールテープで固定した旨供述しているところ、スーパーセメダインはマイクロスイツチ(プラスチツク)を木箱に接着するには適切なものであり、使用方法として、接着させたあと硬化するまでテープで固定することもその説明書に明記されていることなどからみて、右供述は十分信用できるとする。

しかし、マイクロスイツチの取付のためにスーパーセメダインが使用されたことが現場の遺留物等から明らかになつているわけではないことは所論も認めるところであるうえ、原判決(一〇七一頁)も説示するように、<1>中村(隆)の供述によると、スーパーセメダインによるマイクロスイツチの接着から爆弾の完成(包装前の段階)までの所要時間は約一、二時間、長くとも二時間であつたと認められるところ、スーパーセメダインは、その説明書によつても接着から硬化するまで常温で五、六時間かかるというのであるから、接着開始後短時間しか経過していないのに蓋をし結線をして作業を完成させるということは、万一硬化不十分でマイクロスイツチがずり落ちた場合には即時に通電、爆発するという重大な危険を伴う点からみて通常ならばあり得ないと考えられ、またマイクロスイツチが十分接着していない段階で他の作業を進めることには種々の支障を伴うと思われること(短時間内にマイクロスイツチを固定させようとするのであれば、取付ける対象が木箱である点からみて、まずそのためには木ねじの使用を考えると思われ、接着剤を使用するにしても硬化時間の短い他の接着剤を用意するのが安全と思われる。また、スーパーセメダインを使用したとするならば、少なくとも説明書に記載されている五、六時間の経過をまつて他の作業を進めるのでなければ無謀のそしりを免れないであろう) <2>スーパーセメダインの接着力は通常の接着剤よりもかなり強く、したがつてマイクロスイツチの取付にそれが用いられたとしたならば、爆発による影響を考慮に入れても、マイクロスイツチの破片に木面が付着している可能性が高いと認められるけれども、現場の綿密な調査によつてもそのような破片は発見されていないと認められること(なお、中村(隆)の自白によると、弁当箱や積層乾電池もすべてスーパーセメダインで接着したうえガムテープ等で木箱の底に取付けたと思うとされているのであるが、右弁当箱等の破片についても、木箱の破片と思われる木片が付着したものの存在は認められないのである)、などからみて、中村(隆)のこの点に関する自白が十分信用できるとは認められない。

(ロ) マイクロスイツチの端子等に塗布された赤色ラツカー

所論は、中村(隆)は、マイクロスイツチの端子三個のうち二個(真中と下)を配線のため選定し、間違いを防止するためマッチ棒の先でそこに赤色豆ラツカーを付けたと供述しているところ、慎重を期してこのような目印をつけることはごく自然であり、また原審段階での鑑定によつて、本件マイクロスイツチの端子等に付着している赤色付着物がラッカーであることが判明したことからみて、右中村(隆)の供述の信用性はきわめて高いと主張する。

しかし、捜査官が端子の一部にのみ赤色塗料が付されている事実を知つたならばそれが目印のためのものと考えるのはごく自然であるし、また、本件マイクロスイツチの端子に付着されている赤色塗料がラツカーであることについては、原判示(一〇五八頁)のように、その外観やこのような細かな部分に用いる塗料として豆ラツカーは普通に思いつくものであることからみて、捜査機関もその可能性は予測していたと推定されるのであり(捜査機関がその塗料が何であるかについての検討ないし見通しもないまま捜査に当たつていたとは思料し難い)、したがつて、中村(隆)に対し捜査官の考えを確認するかたちでこれらの点について発問をなすということは十分見込まれる事態であり、そのように考えるならば、中村(隆)の前記供述に所論のいうような高度の信用性を認めることはできないものと思われる。また、家業の関係でマイクロスイツチにも詳しい中村(隆)が自ら結線の作業をするのであれば必ずしも目印は必要ではなく、特に端子選択に引きつづいて結線をするのであればその必要は全くなかつたのではないかとの疑いを禁じ得ない。さらに、本件マイクロスイツチには端子のみならず、作動線、シヤフトの部分にも赤色ラツカーの付着が認められるが、中村(隆)の供述によつてもその理由は明白ではなく、以上の諸点からすれば、中村(隆)のこの点に関する自白も十分信用し得るものとはなし難い。

(ハ) 作動線のクランク曲げ

所論は、中村(隆)は木箱の蓋をかぶせたときに電流が切れた状態になるようにマイクロスイツチの作動線をクランク形に曲げたと供述しているところ、本件マイクロスイツチの形状、性能等からみて、土田邸爆弾製造の際に右マイクロスイツチの作動線をクランク形に曲げることはきわめて合理的かつ自然であり、中村(隆)の前記供述の真実性、信用性の高いことは明らかであると主張する。

しかし、所論も認めるように、マイクロスイツチの作動線が実際にクランク形に曲げられていたかは客観的に必ずしも明らかでなく、特に現場から発見された本件マイクロスイツチの作動線の押収直後の形状はクランク形とはいえないカーブ状を呈しているのである((員)46・12・21検証添付写真―増渕証七冊一二七三丁)。もとより、この点については所論のいうようにクランク形であつたものが爆発の衝撃で変形したとみることも可能であろうが、それはあくまで可能性にとどまるのであつて、中村(隆)の供述が証拠物に一致するとは俄かに断じ得ないのである。またMLVII型のマイクロスイツチを用いて蓋をあければ爆発する装置を考案する際にマイクロスイツチの作動線をクランク形にするということは、原判示のように当然に思いつくとはいえないとしても、比較的容易に思いつくと認められるから、この点の供述が特異な供述であるとすることには疑問が残る。さらに、中村(隆)は、木箱の蓋の深さを測ると約一五ミリあつたので、その深さに合わせて作動線を曲げたと供述しているところ、土田邸爆弾の外箱の蓋は印ろう型ではなくかぶせ蓋か置き蓋であつて((員)北村幸男47・2・28付捜報―増渕証一一冊等)、蓋の深さは作動線との関係では問題となり得ないと解されるのであり、この点も中村(隆)の供述の信用性に疑問を抱かせるものである。以上を要するに、作動線のクランク曲げに関する中村(隆)の自白も十分に信用し得るものとはなし難い。

(ニ) マイクロスイツチの形状及び購入先

所論は、中村(隆)は土田邸爆弾に使用したマイクロスイツチとしてMLVII型のものを用い、かつ右のMLVII型マイクロスイツチは秋葉原のラジオ会館内の第二パール無線で購入したと供述しているところ、土田邸爆弾に使用されたマイクロスイツチはまさしくサン電業製MLVII型と推定され、かつ中村(隆)の供述する場所に電気部品店「第二パール無線」が存在し、同店では昭和四六年当時からマイクロスイツチ、しかもMLVII型のものを販売していることが明らかであるから、中村(隆)の前記供述の真実性、信用性は高いものと主張する。

しかし、土田邸爆弾に使用されたマイクロスイツチがMLVII型であつたことが捜査機関に判明していたことは明らかであるとともに、原判示(一〇六二頁)のように捜査官がその旨を告知ないし示唆して中村(隆)を取調べた疑いは、所論にもかかわらず否定できないところであり、したがつて、この点に関する中村(隆)の供述を特異性あるものとすることには疑問が残るというべきである。また購入先の特定については、中村(隆)は土田邸事件以前にも仕事の関係等でスイツチ等の部品を買求めに行くことがあつたことが明らかであるから、MLVII型のマイクロスイツチを売つている店を特定し得たとしても、特にこれを信用性の高い供述とすることはできないと考えられる。

(3) 証拠物からみた供述の疑問点

すでに考察したとおり、中村(隆)の供述中マイクロスイツチに関する部分には証拠物から見て種々の疑問点が存するのであるが、このほかにも、原判示(一〇七五頁)のように、

(イ) 中村(隆)は、土田邸爆弾製造後前林及び金本が二人で小包包装紙及び荷札の宛名を書いたと供述しているが、証拠物の筆跡自体(証五二号、六〇号)及び黒田鑑定によつて、宛名書は一人の筆跡であり、かつ前林または金本の筆跡ではないと認められること

(ロ) 爆発現場から発見されたアルミ箔は総重量三二・九四グラムとかなり多量であるが((員)郡山正士捜報―証四九冊一三〇二〇丁)、中村(隆)の供述によるアルミ箔の用途は弁当箱内の爆薬の上にかぶせたとなつており、そのような用途に多量のアルミ箔を用いる必要性はないと思われること

など、他にも証拠物の形状と合致しない点が存在するのであり、これらも土田邸爆弾製造に関する中村(隆)供述の信用性を弱めるものである。

(4) 誘導による自白である疑い

中村(隆)の土田邸爆弾製造の自白は、昭和四八年四月一六日の坂本警部補の取調においてなされ供述調書が作成されたものであるところ、原判決(一〇七六頁)は、四月一五日に中村(隆)が作成した「想像図」から翌一六日の同人の爆弾製造の自白への供述の推移過程、及び四月一六日及び一七日の取調に関し立会の三沢巡査部長によつて本文が書かれ、これに中村(隆)が署名指印した供述書三通の体裁、内容等を詳細に検討したうえ、前記四月一六日の自白は取調官の誘導によつてなされた疑いがあると説示しており、右説示はやや微細な点を問題にしている嫌いはあるものの、おおむね相当としてこれを是認し得る。

(5) 供述の信用性に疑問を抱かせるその他の事情

原判決(一一七九頁)は、土田邸爆弾製造に関する中村(隆)の自白につき、以上のほかにも信用性に疑問を抱かせる事情として、<1>中村(隆)の供述によると、製造に参加した者は、増渕、前林、堀、江口、榎下、金本、中村(隆)のほかに、見張りに立つた坂本、松本を含めれば、合計九名にのぼるが、これほどの多人数で、しかも四畳半と三畳程度の狭いアパートの一室で、物音が聞こえやすい夜間に行うものであろうか、さらに、爆弾製造の秘密は厳重に保持された必要がある点からも、また、この程度の爆弾製造に要する人員の点からも、このような多人数で行うことは不必要であり、さらには危険ではないであろうか、という疑問があること <2>中村(隆)の供述によると、製造の日について、当初一二月一六日ごろと供述していたのに、後には一二月五日の日曜日であると変るのであるが、他の者らの供述のほとんどが一二月八日ごろとしていることに照らすときは、中村(隆)の供述する製造日が特異なものと思われないではないこと <3>製造状況の供述にしても、証拠物と一致するような部品や製造工程についての供述を得ることに取調の中心が置かれるのは当然であるが、その場合に製造行為をする者らの心理状態を生き生きと伝えるような付随的状況の供述が記載されていてもよいのに、そのような状況の記載はほとんどみられず、淡々として製造を行つたような印象を受けるのであつて、この点も、みずから体験した事実を進んで供述したのではないのではなかろうかとの疑問を抱かせるものであること <4>中村(隆)の供述は、材料、部品を一か所に集めたうえ、一気に爆弾を完成させ、そのうえ包装、宛名書まで、きわめて短時間のうちに完成させた内容のものであるけれども、その供述によれば、爆弾の製造日と発送日との間には結局一〇日以上の間があつたものであり(他の者らの供述によつても約九日の間がある)、製造時に発送の日が間近に予期されていたようには認められないところ、発送までの間に何らかの事情で発覚することもあり得ないわけではなく、もし発覚した場合には、宛名書があれば、それから言逃れが不可能となる虞れが多大であるから、真の爆弾犯人であるならば、少なくともそのような宛名書まですることの危険をあえて冒すことはしないのではないか、との疑問も抱かされること <5>製造犯人であるとすれば、指紋等の付着については、爆発しなかつた場合などをも考慮して、細心の注意を払うのではないかと思われるが、中村(隆)の供述によると、その点に関心を抱いていたことが窺われないのは、いささか不自然に思われること、などを指摘しており、右指摘はいずれも相当としてこれを是認し得る。

(6) ビデオテープの信用性

所論は、中村(隆)が昭和四八年五月一九日及び同月二六日警視庁内において土田邸爆弾の模型の製造を実演した状況を撮影したビデオテープ(証二一二号及び二一三号)につき、その際の同人の説明及び動作等からすれば、同人は実際に土田邸爆弾を自らの手で製造したときの体験、記憶に基づいて再演したものであるとみるべきであると主張する。

確かに、右ビデオテープに現われている中村(隆)の表情、動作、言語等からすれば、一見同人はそこで実演しているような方法で土田邸爆弾を製造したのではないかとの印象を受けることは否定し難いところである。しかし、中村(隆)は、その際自白の内容を自ら十分思い起こしそれに関する記憶を確実にしていたものと考えられ、現に同人が実演した作業の内容やこれに伴う説明は、所論のいうように若干新たな事項も加わつているけれども、少なくともその大綱においては既になした自白の域を出るものではないのである。さらに、前述したように、坂本警部補において起訴後もほとんど連日中村(隆)に面接して自白当時の心理状態が変らないように訓話等をした事情があることをも併せ考えると、右ビデオテープは、これに先立ち中村(隆)が捜査官に対してなした自白と性質上大差ないものであり、それ自体に高度の信用性を認めることは相当でないといわざるを得ない。

(7) 公判供述の信用性

土田邸爆弾製造に関する中村(隆)の公判供述の概要は、他の部分に関するものをも含め、原判決(一一五〇頁)に摘記されているとおりであるところ、所論は、右公判供述は同人の全体の公判供述のなかでも特に具体性及び合理性に富むばかりでなく、遺留証拠物から推定される多くの事実と合致し、その信用性はきわめて高いと主張する。

しかし、中村(隆)の公判供述は、それが公判における供述なるが故に高度の信用性を持つと言い難い事情の存することは前述したとおりであり、またその内容は確かに具体的かつ詳細ではあるけれども、既に捜査段階の自白に関して述べた証拠物の形状等からみた疑問点を解消するものとは認められず、それに高度の信用性を認めるにはなお躊躇を感ぜざるを得ない(なお、このことは、(二)以下で述べる日石二高謀議等に関する公判供述についてもおおむねそのまま妥当するところである)。

(8) 評価

以上のとおり、中村(隆)の土田邸爆弾製造に関する自白は、同人の自白の重要部分をなし、かつ詳細、具体的なものではあるけれども、その供述過程及び内容に種々疑問があつて信用性に乏しいものと認めざるを得ない。

(三) 日石二高謀議(所論にいう、日石爆弾製造に関する技術・知識及び材料の提供を含む)に関する供述日石二高謀議に関する中村(隆)の捜査段階における自白の概要は、原判決(一一三六頁)に摘記されているとおりであり(ただし、銅板及びアルミ板を渡した相手方を増渕とするのは、榎下の誤記と認められる)、かつそれは、所論にいう日石爆弾製造に関する技術・知識及び材料の提供に関する供述を含むものである。謀議それ自体とこれに基づく爆弾製造に関する技術・知識及び材料の提供とは密接不可分の関係にあるので、以下に両者を一体として(「日石二高謀議」というときは、両者を含む趣旨である)考察を加えることとする。

ところで、所論は、右捜査段階における自白内容は、中村(隆)が初期公判においても、供述を次第に曖昧にさせて行く面はあるものの、基本的にこれを維持している点からみて、その信用性は十分であると主張する。

しかし、この点に関する中村(隆)の自白には少なくとも以下に述べるような問題点の存在することを否定できない。

(1) 中村(隆)の日石事件に関する自白の中心部分をなす日石爆弾搬送に関する供述が虚偽であることは原判示(一〇三二頁)のとおりと認められ、所論もこれを争わないのであり、そうとすればこれと密接に関係する日石二高謀議の信用性についても疑問が持たれるのは避け難いこと(中村(隆)は昭和四八年四月一一日はじめて司法警察員に対し日石爆弾搬送を認めた際、併せて日大二高において任務分担の割当を伴う日石謀議がなされたことを供述している)

(2) 榎下等の供述との関係において中村(隆)の日石二高謀議に関する供述が得られた経過は原判示(一一三九頁)のとおりと認められ、右供述の経過からみても、中村(隆)の供述の信用性を高く評価することについては疑問が持たれること

(3) 後に詳論するように(第三の一一4参照)、昭和四六年当時日大二高は正門向い側にある警察派出所に対する警察官の巡回及び校内における用務員の宿直等から、増渕のような指名手配中の者をも含む多数の者が集まり謀議を行う場所としては不適切であると認められること

(4) 中村(隆)の供述によつても、日石二高謀議においては爆弾の製造に関する任務分担が決定されたとはいうものの、爆弾の具体的送付先、送付方法、送付担当者、爆弾製造のスケジユール等は決まつていないのであり、この程度の意思連絡のため日大二高に多くのメンバーが危険をも顧みず集まつたとすることは不自然の感を否めないこと

以上の諸点からすれば、所論のいうように中村(隆)が初期公判においても捜査当時の供述を維持していたことを考慮に入れても、なおこの点に関する同人の自白につき十分な信用性を認めることはできないというべきである。

(四) 日石総括に関する供述

日石総括に関する中村(隆)の捜査段階における自白の概要は原判決(一一三六頁)に摘記されているとおりであるところ、所論は、同人は、後には否認に転じたものの、公判の初期においてもこの点につき自白していたことからみても、その信用性は十分であると主張する。

しかし、この点に関する中村(隆)の自白にも以下に述べるような問題点の存在することを否定できない。

(1) 原判決(一一二九頁)も指摘するように、中村(隆)の捜査段階の供述は、日石爆弾の失敗の原因がスイツチにあり、その反省の上に立つて次の闘争を行うということが中心となつているところ、同人は、当初(48・4・14員面及び検面)日石爆弾のスイツチの種類を実際のものと異なるマイクロスイツチと供述し、後にそれを手製スイツチと改め、その改良のためにマイクロスイツチが提案されたと改めたのであり、このような重要な点についての供述が首尾一貫していないということ(所論のいうように、それが記憶の稀薄化等に基づくと解することは困難である)は、日石総括の存在自体に疑問を抱かせるものであることは否定できないこと

(2) 同様に原判決(一一三三頁)が説示するように、日石事件は爆弾が郵便局内で爆発し失敗に終わつているだけに、総括の席では、爆弾差出の状況、特に一旦差出した小包を取戻そうとした理由等が当然話題になつてよいと思われるのに、中村(隆)の供述にはこれらの点について触れた部分はほとんど見受けられないのであり、この点を所論のように、総括の際に最も重要なのは失敗の原因の解明と不備な点の改良であり、話題がそれに集中したとしても何ら不自然とはいえないという説明で割切ることには躊躇を覚えざるを得ないこと

(3) さらに、日石二高謀議に関する自白に関して述べたように、当時日大二高は多数の者が集まり謀議等を行う場所としては不適切であつたと認められるうえ、中村(隆)が供述する程度の意思連絡のため日大二高に多くのメンバーが危険をも顧みず集まつたとすることは不自然の感を否めないこと

以上の諸点からすれば、所論のいうように中村(隆)が初期公判においても捜査当時の自白を維持していたことを考慮に入れても、なおこの点に関する同人の供述につき十分な信用性を認めることはできないというべきである。

(五) 土田邸二高謀議に関する供述

土田邸二高謀議に関する中村(隆)の捜査段階における自白の概要は、原判決(一一三九頁)に摘記されているとおりであるところ、所論は、中村(隆)は公判においてはこの点につき明確な供述をしていないものの捜査段階における右自白は十分に信用できるというものである。

しかし、この点に関する中村(隆)の自白にも以下に述べるような問題点の存在することを否定し得ない。

(1) すでに述べたように、謀議の実行とみられる土田邸爆弾製造に関する中村(隆)の供述については十分な信用性を措き難いのであり、そうとすると謀議の存在についても疑問が残るのはやむを得ないところである。他方、日石総括に関する同人の供述についても疑問を免れないことは前述したとおりであるところ、同人の供述によれば、土田邸二高謀議は日石総括の発展としてなされこれと密接に関係するというのであるから、日石総括の存在が疑わしい以上、土田邸二高謀議の信用性についても疑問が持たれるのは避け難いこと

(2) 原判示(一一四五頁)のように、中村(隆)の供述する土田邸二高謀議の時期は他の共犯者とされている者の供述との間で齟齬が大きく、かつ爆弾製造年月日との関係で間隔があり過ぎると認められるとともに、その段階で土田国保を爆弾郵送の対象とすることが明らかにされたとすることも尚早の印象を免れないこと

なお、所論は、この点に関する中村(隆)の供述は日時の経過による記憶の稀薄化等に基づくと解されるうえ、同人の「昭和四六年一〇月下旬ないし一一月上旬。しかしもう少しあとかもしれない。少なくとも一一月一六日よりは前である」との4・27検面における供述は、土田邸二高謀議の日時を一一月一三日であるとする松村の供述と必ずしも矛盾するものではないと主張する。しかし、中村(隆)は、右の日時につき、4・27検面の以前に作成された4・16員面においては一〇月三〇日または三一日と供述し、また4・19検面においては一〇月三一日ころと供述する一方、その以降に作成された4・29検面及び5・3員面においてもいずれも一〇月三一日(ころ)と供述しているのであつて、右の供述の経過及び内容からすれば、中村(隆)の供述の基本は一〇月三〇日または三一日にあつたとみるのが相当であつて、それが松村の供述と必ずしも矛盾していないとは到底いえないとともに、同人が記憶の稀薄化等によつてこのような供述をしたと解することも困難であり、所論は採用し難い。

(3) 日石二高謀議等に関する自白について述べたのと同じく、当時日大二高は多数の者が集まり謀議等を行う場所としては不適切であると認められ、特に原判決(一一四五頁)も説示しているように、土田邸二高謀議については一〇月二四日に近くの四面道交番の爆破事件があり、そのころから当分の間日大二高正門前付近にある天沼派出所の警戒が厳重になり、正門付近の植込みに警察官が隠れて同派出所近辺の見張りをしていた事実もあつたことが認められるから、一そうこのことが妥当すると思われること

所論は、右の二高正門付近の植込み内からの警察官の見張りは正門前の天沼派出所に対するもので二高に目を向けたものではないことを強調するのであるが、そうであつたとしても、二高に出入りする者が右警察官によつて現認されることが当然予期される以上、それが松村らに心理的圧迫となることは否定できず、所論は当を得たものとはいい難い。

(4) 中村(隆)の供述によれば、土田邸二高謀議においては、攻撃目標、任務分担、マイクロスイツチの使用等若干具体的な話は出ているものの、なお爆弾製造とか搬送の具体的スケジユール等は煮つめられておらず、この程度の内容の意思連絡のため日大二高に多くのメンバーが危険をも顧みず集まる方法をとつたとすることも不自然の感を否めないこと

なお、原判決(一一四六頁)は、中村(隆)は自己の任務としてスイツチ及び配線関係を担当することが決められたと供述しているところ、その後製造当日にいたるまでの同人の行動に関しては、マイクロスイツチを購入してこれを増渕のアパートに届けたと供述するのみで、それ以上にさらに材料の準備をするとか打合せをするといつた行動についての供述はなく、このような行動がないままいきなり一二月五日の製造当日にいたつたとする点は、余りに間延びしている印象を免れないとしている。しかし、中村(隆)は、増渕らから材料の収集や事前調査等を指示されたと供述しているわけではないから、定められた自己の任務がスイツチの取付及び配線という製造当日の技術面に関する事項であつた以上、事前に打合わせ等をすることなく、マイクロスイツチを購入してこれを増渕に届けその使用方法を説明しただけで本件製造当日にいたつたとしても特に不自然とはいえず、この点に関する原判示には俄かに左袒し難い。

以上述べたところによれば、土田邸二高謀議に関する中村(隆)の自白の信用性に関する原判示には首肯し難い面もあるけれども、右自白にも種々の看過しかねる疑問点があることは否定できず、これに十分な信用性を認めることはできないというべきである。

(六) まとめ

以上の諸点を総合すると、日石土田邸事件が被告人らの犯行であることを内容とする中村(隆)の捜査段階及び初期公判における供述に十分な信用性を認めることはできないといわなければならない。

ロ 松村の初期公判供述

所論は、松村は自己に対する第一回公判において、土田邸事件の幇助を内容とする公訴事実に対し「増渕らの殺害の目的は知らなかつたがその他の事実はそのとおり間違いない」と供述しており、公判でなされた右自白は信用性に富む旨を強調する。

確かに、所論もいうように、松村の供述については、<1>それが公判廷でなされていること自体重要な意味をもつと解されること <2>松村は当時自己の弁護人の弁護を受け、十分に打合わせの機会を持つていたものであること <3>同人が事実に反して右供述をしたとする理由に関する弁解は必ずしも十分に納得できるものではないこと、などからみて、それが真実を述べたものではないかとの考えを入れる余地は相当大きいといわざるを得ない。

しかし、右供述は冒頭手続における公訴事実に対する認否の際になされた関係で、その内容は包括的であつて、被告人質問等による吟味を経たものではなく、また起訴後さほどの日時を経過しておらず、身柄もなお月島警察署にある段階でなされたものであるから、捜査当時の供述の影響が完全に遮断されているとはいい難い面もある。そして、松村の捜査段階の供述の信用性につき、原判決(一三六三頁)は、秘密の暴露またはこれに類する事実が含まれていないうえ、日大二高の当直日誌、用務員日誌や他の者の供述内容等を基にして謀議等があつたとすればこの日ではないかとの捜査官の見込の下で取調が行われ、その見込による誘導とそれに対する迎合が相俟つて供述が積重ねられていつた疑いを否定できないこと、供述の経過をみても自白と否認を繰返すなどの動揺がみられること、さらに供述の内容には、日石総括の際小包用包装紙、荷札等を日大二高付近の文房具店で購入したとするなど原審検察官ですら採用していない信用性に乏しいものが含まれていること、などを指摘しており、右指摘は所論にもかかわらず、おおむね相当としてこれを是認し得るところである(なお、後記第三職権判断中、松村の捜査当時の供述の信用性に関する項参照)。

以上述べたところによれば、松村の初期公判における供述も、その信用性については疑問が持たれるといわざるを得ないのである。

ハ 中村(泰)の捜査段階における供述

所論は、中村(泰)は捜査段階において、増渕、堀から土田邸爆弾を預り、これを自己の勤務先である八王子保健所に保管した事実について自白しているところ、右自白は具体的かつ詳細であるうえ、少なくともその外形的事実は在宅取調中に自発的に述べられていることなどからみて十分に信用することができるというのである。

(一) 一般

そこで検討するに、中村(泰)の捜査段階における自白ないし不利益供述は、所論が信用性ありと主張する土田邸爆弾八王子保管の事実以外に筆跡採取及び宛名書の練習、日石爆弾の宛名書等種々の内容を含むものであるが、原判決(一一三九頁)は同人の供述全般に通ずる特徴として、<1>取調官の追及しない事項について自ら供述したものはないこと <2>不自然な印象を受ける供述が散見されること <3>全体的に現実感、臨場感に乏しいこと <4>否認と自白の繰返しがみられること <5>明らかに虚偽と思われる事項も含まれていること <6>供述事項のなかに時期等の関係で不合理なものがみられること <7>供述事項のなかには変遷がみられるものがあり、それにつき理由の説明がないか不合理の説明にとどまつていること <8>取調状況も連日長時間の取調と執拗な追及を受けたものであり、信用性の判断には消極的な要素とならざるを得ないこと、などを挙げており、右説示中の具体的例示のなかには必ずしも相当でないものもあると認められるけれども(例えば、<1>につき、中村(泰)の3・23、3・24各員面において、昭和四七年一二月一五日夜堀から「増渕が保釈で出てきたが、俺も危いので品物の処分を手伝つてくれ」と言われ、堀とともに書物、機関紙、ビラ等を焼却したと述べる部分等は、取調官の側で当時まで堀らからそのような情報は得ていなかつたと認められるから、原判決が中村(泰)の自白には自ら供述したものはないとまでいい切つているのは相当でない。また<7>の供述の変遷に関する原判示の例示のなかには、記憶の稀薄化によるものと理解可能なものもあると考えられる)、中村(泰)の供述の一般的特徴として右のような傾向のあることは否定できないところと考えられる。そして、このことは、中村(泰)の供述の信用性の判断に当たつて十分留意しなければならないところと思われる。

(二) 土田邸爆弾八王子保管に関する供述

そこで進んで、中村(泰)の土田邸爆弾八王子保管に関する供述の信用性につき検討するに、右供述の概要は原判決(一二〇三頁)に摘記されているとおりであるところ、これについては少なくとも以下に述べるような問題点があることを指摘することができる。

(1) 前述したように土田邸爆弾製造に関する中村(隆)の供述は信用できず、他に右事実を裏付けるに足る証拠は見当たらず、このことは土田邸爆弾八王子保管の事実の存在をも疑わせるものであること

(2) 土田邸爆弾は都内神田神保町の郵便局に差出されていることが明らかなところ、何故に同爆弾の製造場所とされている高橋荘から同爆弾を距離的に神田神保町から遠くなる八王子まで誤爆や発覚の危険を犯して移動させなければならなかつたかにつき納得し得る理由は見出し難いこと

この点につき所論は、指名手配中の増渕の住居である高橋荘よりも八王子の方が安全であつたとするのであるが、もしそうであるとするなら爆弾の製造自体につき高橋荘以外の場所が選ばれるべきであつたと思われるのであり、また当時高橋荘が警察に目をつけられていたというような状況も見当たらないから、所論は俄かに採用できない。

(3) 中村(泰)が供述する同人と増渕との交際関係等からすれば、中村(泰)は増渕が爆弾を預けるなど同人と思想的に緊密であつたとは認められないこと

この点につき所論は保健所が公務所であり安全であつたというのであるが、広く公務所といえば増渕と同志的に緊密な堀が多摩市役所、同じく江口が衛生研にそれぞれ勤務していたのであり、しかもこれらの場所はいずれも高橋荘ないし神田神保町に対し八王子保健所よりは近くて便利なのであるから、所論は採用し難い。

(4) 八王子保健所は公務所といつても人の出入りは自由で、また中村(泰)のロツカーは平素鍵もかけず、同僚などの接近も自由であつたと認められ、保管場所としては必ずしも適切であつたとは思われないこと

(5) 中村(泰)の供述によつても、同人は事前に爆弾保管の了解を求められることなく当日突然爆弾保管の依頼を受けたというのであるが、爆弾を預けるについては保健所内に人から発見されることが困難な適当な隠し場所があるか、もしロツカーに保管するとするならばそれに鍵がかかるかなど保管場所の安全性を事前に確認し、さらに発送日時との関係で次の中村(泰)の宿直予定等の都合を聞き、差出日までの間に適当な宿直日があり持帰りも他人の目に触れずにできることを確認するなどしなければ不合理ではないかと思われ、中村(泰)の供述するところは周到さを欠くとの印象を免れないこと

(6) 中村(泰)の供述によると、増渕と堀は爆弾を預けた日の午後二時頃一旦中村(泰)を保健所外に呼出したがその際には爆弾の受渡しをせず、当夜改めて八王子保健所を訪れこれを預けたというのであり、この経過はいかにも迂遠であつて不自然といわざるを得ないこと

(7) 爆弾の受渡しの際の状況に関する中村(泰)の供述は、きわめて印象深い出来事と思われるのに、具体性ないし臨場感にやや欠けるとの印象を否み得ず、また当然あつて然るべきと思われる増渕らからの爆弾保管に関する注意、警告等が述べられておらず、また保管中の人目に触れさせないための苦労にも触れていないなどの不自然な点も存在すること

(三) まとめ

以上の諸点からすれば、土田邸爆弾八王子保管に関する中村(泰)の供述も信用性に乏しいものといわざるを得ない。

ニ 金本の捜査段階における供述

所論は、金本は捜査段階において土田邸事件の爆弾製造に参加して爆弾を包装したことを自白しているところ、その自白するところは、一般にはほとんど行われないような特殊な包装の方法であるうえ、二重包装の内側の内部包装の止め方という点において証拠物の状況とも符合するものであり、これは犯人でなければ到底供述し得ない事柄であつて、その信用性はきわめて高いと主張する。

しかし、金本の捜査段階における自白には、次のような問題点のあることを指摘できる。

(一) 前述したように土田邸爆弾製造に関する中村(隆)の供述は信用できず、他に右事実を裏付けるに足る証拠は見当たらず、このことは土田邸爆弾包装の事実の存在をも疑わせるものであること

(二) 金本の自白は包装紙を二分の一に切断したというものであるところ、ここにいう二分の一は半分ずつの意味に理解されなければならない。所論はこれを、一方の長さを爆弾の木箱の長辺に合わせて二つに切つた趣旨に理解するのであるが、金本は「一枚の包装紙を真半分に折りハサミで真半分に切り取り……」(5・5付員面)、「私は、最初一枚の包装紙を二つに折つてハサミで折つたところから切つて半分になつた包装紙を使いました。半分に切つた包装紙の上に前林が爆弾をのせて私が木箱の長さに合せて折目をつけてその折目の部分をはさみで切り取つたのです」、「(外包装の)時に使つた包装紙は、先程私がハサミで市販の包装紙を真二ツに切つておりその残りの包装紙を使いました」(5・6検面)と述べているのであるから、同人の供述の趣旨がまず包装紙を二分の一ずつに切断したということにあることは明らかというべきである。ところで、土田邸爆弾の包装紙による包装方法は原判示(一二三七頁)のとおり、内包装及び外包装による二重包装と認められ所論もこれを争わないところ、右包装を行つた者には、まず内包装に使用する包装紙を木箱の底の長辺に合わせた長さにするというはつきりした目的があつたと認められるのであり、したがつて、包装紙を二分の一ずつに切断するということはこの目的からみて不自然であり、そのようなことはなされなかつた可能性が強いと認められる。またもし、金本の自白どおり包装紙を二分の一ずつに切断したとするならば、それが短辺に平行して二分の一に切断した趣旨であろうと、長辺に平行して二分の一に切断した趣旨であろうと、原判示の内包装及び外包装の二重包装をするのは非常に困難となると思われ、なお、金本がまず内包装に使用する包装紙を包装紙の長辺に平行に切り取り、その後残余の包装紙をその短辺に平行に二分の一に切断し、その一方を外包装に使用したと仮定するならば、土田邸事件現場から採取された包装紙の量に足りないこととなることは、いずれも原判決(一二五一頁)指摘のとおりと認められ結局、金本の自白は二重包装の客観的形状と合致しないといわなければならない。

(三) 次に、内包装の段階における最初のガムテープによる固定状況について、金本の自白によれば二本の短いガムテープにより固定したというのであるが、原判示(一二四一頁)のように実物は比較的長い一辺のガムテープにより固定したものと推定されるから、この点の金本の自白も証拠の客観的形状と一致しないといわなければならない。所論は、木箱の長辺の長さが約二八・五センチメートルと推定されるのに対し遺留物のガムテープ片の長さが約一五センチメートルであるところから、遺留物のガムテープより短いもう一片のガムテープを使用した可能性あるいは遺留物のガムテープ片とはほぼ同じ長さのもう一片のガムテープを使用し木箱の長辺の長さ一ぱいに貼付した可能性をいずれも否定できないとするが、二片のガムテープを用いるならばこれをほぼ同じ長さにし、また木箱の長さ一ぱいに貼付するとするならば一片のガムテープによりこれを行うのが多くとられる方法と思われるから、所論は俄かに採用し難いところである。

(四) 金本から二重包装の自白が得られるまでの供述の経過は原判示(一二五九頁)のとおりであると認められるが、当初の自白(4・20員面)の内容はきわめてあいまいで、二重包装の事実については供述しておらず、かつ包装した物も缶か木箱という曖昧なものであり、さらに包装者は自分一人であつたとしているのである。これらはその後の自白において改められているのであるが、右供述の変遷を記憶の不正確ないし稀薄化等で説明することは困難と思われる(なお、四月三〇日以降全面否認に転じた時期もあつたと認められる)。

(五) 金本の二重包装に関する最初の自白は五月五日(取報によれば五月四日)に得られたものであるところ、原判決(一二六七頁)は、右自白は金本の取調官である平塚健治警部補らにおいて供述を誘導した疑いがあるとし、所論はこれを争うものである。この点に関する原判決の説示は微細な点を問題にし過ぎている嫌いがあり、必ずしも全面的に首肯し得るものではない。しかし、捜査当局が金本(及び中村(隆))の自白以前に現場遺留証拠物の分析により二重包装であることなどの土田邸爆弾の包装の具体的特徴を把握していたことが明らかであるところ、日石土田邸事件の捜査においては、被疑者の取調に際して取調担当官には証拠物についての知識を与えないようにし、かつ他の共犯者の供述内容を知らせないようにするいわゆる情報遮断の方針がとられてはいたものの、実際には必ずしもこの方針が徹底されていなかつたことは原判決が随所に指摘しているところであり、土田邸爆弾の包装状況に関しても右方針が守られなかつた疑いは否定し得ない。特に、中村(隆)の取調を担当した坂本警部補において、五月三日に中村(隆)から二重包装を窺わせる供述を引出しており、その坂本警部補が五月四日に単独で金本を取調べ、また翌五日に平塚警部補とともに金本に包装の実演をさせていることをも考慮すると、右の疑いは一層強まるといわざるを得ず、結局、この点に関する原判決の認定に誤りがあるとは認められない。

(六) 金本の捜査段階における自白ないし不利益供述は、土田邸爆弾包装以外にこれと密接に関係する同爆弾の製造状況及び宛名書等の内容を含むものであるところ、これらの点に関する供述にも次のような疑問点が存在する。

(1) 原判示(一三二三頁)のように、土田邸爆弾の製造状況に関する供述は、緊張した場面の連続であつたと思われるのに、具体性ないし臨場感に乏しいと認められる。

(2) 右土田邸爆弾の製造状況に関する供述については、それが爆弾の包装と同じ機会に行われたか、参加メンバー、爆弾小包に紐をかけたのは自分であつたか及びその形状等につき供述の変遷があり、かつ供述事項及び供述内容からみて、これらが金本の記憶の稀薄化等に基づくと理解することは困難である。

(3) 金本は包装紙の宛名書等は自分及び前林がしたと供述しているところ、原判示(一三二二頁)のように、黒田鑑定によれば、右の宛名書等は同一人の筆跡で、かつ増渕のものであつて金本のものではないというのであつて、黒田鑑定を全面的には信用しないとしても、金本の供述が虚偽であることを疑わせるのには足りるものである。

(4) その他、金本は、その真実性に疑問が持たれ、原審検察官においても主張していない事実について供述したことがあることも認められる。例えば、爆弾小包に紐をかけた形状は十字用であつた(4・20員面)、爆弾製造又は包装の場に中村(泰)も参加した(4・20員面、4・21検面)、堀に頼まれて塩素酸ナトリウムのびん二本を調達した(5・12検面)、日石土田邸爆弾製造に参画した(5・21検面、5・31員面各参照)、などである。

以上の諸点に加え、原判決(一三一八頁)も説示するように、捜査段階における金本の行動には土田邸事件の犯人であり爆弾小包の包装をしたとするならば不自然ではないかと思われるものがいくつか見受けられることをも考慮すると、土田邸爆弾包装に関する金本の自白も十分に信用できるものとはなし難い。

ホ 要約

以上検討したとおり、中村(隆)、松村、中村(泰)、金本の捜査及び公判段階における各供述内容の信用性にはいずれも疑問があり、被告人らが日石土田邸事件の犯人であることを認定するには足りないものというべきである。個々の供述においてそうであるのみならず、それらを総合しても異なる心証には到達し得ないところである。

2 筆跡に関する黒田鑑定

所論は、原判決は、黒田第一次及び第二次鑑定を拠り所にして、日石爆弾遺留筆跡(原始筆跡)及び土田邸爆弾遺留筆跡の執筆者が増渕であると認定すること並びに日石爆弾遺留筆跡について特定の加筆者を認定することはいずれもできないとしているが、黒田第一次鑑定の証明力にはやや難点があるものの、同第二次鑑定は、黒田鑑定人の知識、経験、鑑定の内容等からみて十分に信用できると主張するものである。

そこで検討するに、黒田第二次鑑定の要旨は、原判決(九〇六頁)に摘記されているとおりであつて、鑑定資料(土田邸爆弾遺留筆跡)と対照資料(原裁判所の検証の際の増渕筆跡)の特徴、特に線質特徴の合致点が多数あることを根拠に両資料は同一人の筆跡であるとするものである。

しかし、黒田第二次鑑定には、少なくとも次のような疑問の存することを否定できない。

イ 一般に、筆跡鑑定のなかには、鑑定資料の執筆者が特定多数人(二人以上)の中に存在することが前提とされている場合(「限定的鑑定」)とそのように前提されていない場合(「無限定的鑑定」)とがあるとされているが、原審被告人らのすべてが日石土田邸事件の公訴事実を否認していた本件においては無限定的鑑定の方法がとられるべきであつたといい得るのである。そして、黒田鑑定も、もともとは無限定的鑑定を意図していたと思われるけれども、結果として現われているところの実質は、少なくとも第一次鑑定に関する限り限定的鑑定であると認めざるを得ない。すなわち、原判決(九七一頁)が指摘するように、黒田第一次鑑定は、「増渕筆跡から検討を始めたところ、増渕筆跡の類似度がきわめて高いことがわかつた」ので「増渕は鑑定資料の執筆者であるという仮説を設定し、この仮説が他の対照者の筆跡の検討によつて覆るか、それともますます確実にされるかを見ることにする。」としているのであるが、このような仮説の設定とその検証は一一名の中に本件鑑定資料の執筆者が存在することを前提にしてはじめて成り立つ手法であり、これを所論のいうように単に鑑定の一手法に過ぎないとみなすことには疑問が残るといわなければならない。また、黒田鑑定人が証人として、「本件鑑定依頼を受けた際右一一名については犯人であるというか容疑者であるというような気持で受けとめた。右の者らが公判でどのような主張をしているかは聞かなかつた。」旨供述していること及び日石爆弾遺留筆跡の加筆者を右一一名の者の中に求めていることからもこのように考え得るのである。そして、黒田鑑定人が第一次鑑定に際しこのような前提を置いていたことが第二次鑑定の結論に影響を及ぼさなかつたとは断じ得ないものがある。

ロ 黒田第二次鑑定は、鑑定資料の特徴が対照資料に全部吸収されてしまうならば両資料の筆跡は同一と判定できるとしているが、このような鑑定資料の特徴という方向からのみの検討で両資料中の筆跡が同一と判定することは疑問であり(鑑定資料の字数が非常に少なく対照資料の字数がきわめて多ければ、ほとんどの場合鑑定資料の特徴は対照資料に吸収されることになると思われる)、逆の方向は、すなわち、対照資料のなかに認められる特徴が鑑定資料の中にどの程度出現しているかという検討もなさなければ鑑定結果の正確性は担保できないと思われる。そして、黒田鑑定においてはこの後者の方向からの検討は加えられていないのである。

ハ 黒田第二次鑑定が線質特徴の一致が認められるとする点につき検討するに(なお、同鑑定における鑑定資料と対照資料の線形態上の共通点に関する説明は、同鑑定の結論を導くにつき重要とは思われないので、この点に関する原判示ないしこれに対する所論の当否については立入らない)、そもそも同鑑定が取上げている線質特徴が稀少性を有するものであることについての論証は全くされていないのであり、確かにそれらの中には稀少性のある特徴を示すと考られるものもあるが、常識的にみて稀少性のある特徴を示すとは思われないか、またはその点が判然としないものもあると認められるのである。また、後記ホと関連するところであるが、同鑑定においては、右の稀少性のある特徴が常に現われているかという常同性の観点からの分析はされていないのである。

ニ 次いで、黒田第二次鑑定が線質特徴の一致が認められるとする箇所につき個別的にそのように認められるか否かを拡大鏡で観察すると、原判決が説示しているように、果たして一致が認められると判断してよいのか疑問のあるものもあり(原判決が個別的に挙げている合計五一箇所は、所論にもかかわらずおおむねそのようにいつてよいと思われる)、また一応類似していると認められてもそれぞれ類似程度に差があり、一致するとまで断ずることができるかについては見る人の主観によつて相違があると思われるところも全体にかなりあると認められる(若干の例を挙げると、黒田第二次鑑定の筆跡鑑定説明書の二三丁の番号1、4、二四丁の番号5、二六丁の番号6等についてはそのようにいつてよいと思われる)。

ホ 鑑定資料と対象資料の筆跡間において線質特徴が一致しない箇所もかなり見られるが、これを所論のいうように、各人の筆跡には変動があり、同一人が同一の字画を書いても同じ線質特徴が常に出現するとは限らないことなどによつて十分説明できるかについては疑問が持たれるといわざるを得ない。

以上の諸点に原判決(九八四頁)がその内容を掲げる鳩山鑑定の結果をも併せ考えれば、黒田第二次鑑定によつて土田邸爆弾遺留筆跡の執筆者が増渕であると認定することはできないというべきである(もつとも、黒田第一次及び第二次鑑定が、日石爆弾及び土田邸爆弾の各遺留筆跡が増渕以外の金本及び前林らのものではないとしている限度では意味を持つことについては、若干の箇所で指摘するとおりである)。

3 その他の証拠

イ いわゆる六月爆弾事件に関する佐古らの供述

所論は、原判決は、増渕らが昭和四五年六月に行つた一連のいわゆる「六月爆弾」事件について、佐古の検面等関係諸証拠を総合し <1>同年五月ころ、増渕は、東京都世田谷区烏山所在のアパートにおいて、爆弾製造方法が書かれた「世界革命運動情報」などにより、爆弾の製造方法を研究し、かつ当時同居していた佐古に対しても研究するよう促していたこと <2>同年六月ころ、増渕、江口、村松、坂東国男らは、同区桜上水所在の梅津方において、江口の指導の下に、水銀、硝酸等を材料として雷汞を製造する実験をし、これを製造したこと <3>その数日後、増渕、前林、佐古、村松、坂東らは、右梅津方において、江口の指導の下に、脱脂綿、硝酸液等を材料として硝化綿を製造する実験をし、これを製造したこと <4>右硝化綿が出来たころ、増渕、佐古、村松、坂東らは、右梅津方において、鉛筆キヤツプ、ガスヒーター、電池、ニクロム線、硝化綿、雷汞等を材料として、手製電管を製造しようして発火実験をしたこと、を認定しているけれども、原判決の掲げる右証拠によれば、右事実以外に <5>実験の後、増渕らが実際に、日石・土田邸事件に使用されたと認められるものと同種の手製雷管を製造したこと <6>増渕は、トリツク装置付き爆弾を政府要人等に郵送する爆弾闘争を企図し、佐古に対し、右トリツク装置の研究を命じ、佐古は日石爆弾のスイツチと同種のスイツチを考案したこと <7>増渕、江口、佐古、村松、梅津、森恒夫、坂東らは、千葉県の興津海岸において、実験用爆弾の爆発実験を行いこれに成功したこと、を認め得るのであつて、このことは後述する喫茶店プランタンの会合において、江口が増渕、佐古に対し「六月爆弾がばれていないか」、「六月の爆弾ができ上つたことがわかつていないでしようね」と話している事実からも窺えるのに、原判決が「そのころ増渕らが中心となつて興津海岸において爆弾の爆発実験をした可能性も強い」とするにとどめ、右<5><6><7>の各事実を否定したのは、事実認定に誤りがあるというものである。

しかし、いわゆる六月爆弾事件に関しては物証が全くなく、佐古らの供述の真偽を客観的に裏付けることは困難であるといわなければならない。もつとも、所論が主張する<5>の事実については、原判示の前記<1>ないし<4>の事実によれば、昭和四五年六月当時、増渕らにおいて手製雷管に必要な材料等はすべて準備していたことが明らかであり、そのような状況において<4>の発火実験をなしている以上、増渕らとしてそのころ手製雷管の製造をもなしたと認定するのが相当であり、原判決もこの事実をあえて否定しているとまでは認められない。しかし、所論が主張する<6>の事実については、原判示(一〇〇一頁)のように、その事実を述べる佐古の供述は、スイツチの構造、使用材料等が実用的なものであるかにつき種々の疑問を免れないのであつて、結局これを認めることは困難であるといわなければならない。さらに、所論が主張する<7>の事実について考えるに、

(一) この点に関する証拠の中心をなす佐古の供述及びこれを基にして得られた村松及び梅津の各供述については、おおむね原判示(九九四頁)のように、爆発実験の日時、参加者、実験に使用された爆弾の構造及び実験の態様等に関し供述の変遷ないし相互のくい違いが少なからず見受けられるうえ、内容的にも不合理とみられる部分があることを否定できないこと

(二) 佐古らの自白は右興津実験に引きつづき偽装爆弾を製造したという内容を含むものであるところ、この点の自白は具体性ないし臨場感に欠け俄かに信用し難く、所論もこれを真実とは主張していないところ、このことは興津実験に関する自白の信用性に影響せざるを得ないこと

(三) 所論のいう喫茶店プランタンの会合における江口発言については、後述するようにそのような発言があつたこと自体は否定できないにしても、そのような簡単な発言から所論の主張するような事実があつたことを認定することは困難であること(「六月爆弾」というだけでは、興津実験に用いたとされている爆弾を指すのか、その後製造された爆弾を指すのかすら分明でない)

などを考慮すると、右<7>の事実を認めるについても疑問が残るといわなければならない。

次に、所論は原判決が前記<1>ないし<4>の事実を認定しながら、「この事実が増渕らの本件各犯行の関与を肯定する方向に働く情況とはいえるもののこれを重視すべきものとするには至らない」と判示している点を非難し、これらの事実は増渕らが日石・土田邸事件を敢行したことを強く推認させる重要な情況証拠といわなければならないと主張する。

しかし、六月爆弾事件が日石事件よりも一年以上も前の事実であることや、当時増渕らが製造を意図していた爆弾の構造が必ずしも判然としないことなどを考慮すると、この点に関する原判示は相当であつて所論は採用することができない。

ロ 増渕の爆弾闘争志向等に関する石田茂らの供述

所論は、石田茂が検察官に対し、<1>増渕から、昭和四六年一〇月ころ、自分は爆弾を作つたことがある。革命のためには人を殺してもやむをえないと聞かされた <2>増渕は、当時各所で発生した爆弾事件について、「よくやつた」という意味合いのことを言つていた <3>同年一一月ころ、増渕から焦げ跡のあるカーペツトをもらつた際、「この上で爆弾を作つた」と聞かされた <4>そのころ、増渕から、「自分には特別のことをやつている秘密のグループがある」と聞かされた <5>同年一二月二八日ころ、増渕が秋葉原で電気掃除機を購入した際、「火薬等をこぼした時に吸取るのに必要なんだ」と聞かされた <6>同年九月か一〇月ころ、増渕から、「一〇名くらいで山へ訓練に行つた」と聞かされた、旨供述していることに関し、原判決はそのような事実があつたにしても具体性に乏しく、日石土田邸事件との関連性を窺わせるものとしてはその証明力が十分でないとしているけれども、これらの事実は増渕が同事件の犯人であることを推認させる有力な情況証拠であると主張する。

しかし、石田において同人が供述するような事項を増渕から聞かされた事実があつたとしても、そのことと増渕が日石土田邸事件の犯人であることを結びつけて考えることは、聞かされたとする時期が日石土田邸事件のそれとおおむね同じであることを考慮しても到底困難であるというのほかなく、この点に関する原判示は相当である。

次に所論は、森口信隆が原審公判廷において、「増渕は、昭和四四年九月以後時々自分の下宿に来るようになつたが、『今までの運動のやり方、つまり、デモなんかをしているだけでは駄目だ。革命を起こすためには、これからは爆弾を使う闘争でなければならない』という話をしたり、鉄パイプ爆弾の作り方やその他爆弾の材料などの話をしてくれた。自分は、増渕が爆弾を作る時に役立つのではないかと思い、大学から実験に用いた残りの硝酸と苛性ソーダを持ち帰り、昭和四六年の夏休み前ころ、硝酸を自分の下宿で増渕に渡した。渡した硝酸は五〇〇グラム入りの瓶に約三分の一入つていた」旨供述し、また、金沢盛雄が、原審公判廷及び捜査段階において、昭和四六年一二月ころ、横山荘の石田茂の居室に増渕が来て、自分、石田及び中村勉がいる前で、カバンの中から紙袋に入つた薬品瓶を取り出し、『これを預かつてくれ。危険なので取扱いには気をつけてくれ』と言つて、中村に渡した。右薬品瓶は、同四七年三月下旬まで中村が、その後は自分が預かつて保管していた。紙袋を開けてみたところ、ガラス瓶で、透明な液が瓶の六分目くらいまで入つており、ラベルに『硝酸』と書いてあつた。同年八月二八日ころ、石田が逮捕されたことを知り、自分は、増渕から預かつた硝酸を持つていたのではやばいと思い、当時住んでいたアパートの共同便所に硝酸を捨て、びんと紙袋も捨てた」旨述べていることに関して、原判決は、「増渕が昭和四六年当時においても爆弾闘争志向を有していたものであることを窺わせるものであり、増渕の日石土田邸事件への関与を肯定する方向に働く一つの情況証拠とはなるが、間接的なものにとどまり重視すべきものとするには至らない」旨判示していることを非難し、右各供述は増渕が日石土田邸事件に関与していることを強く推認させる有力な情況証拠と評価すべきであると主張する。

確かに右各供述において増渕が硝酸を入手または所持していたとされるのは日石土田邸事件の前後の時期であり、かつ硝酸は手製雷管の材料となる雷汞及び硝化綿の製造には欠かせないものではあるけれども、既に考察したところによれば、増渕が日石土田邸爆弾を製造した事実自体についても明確な証拠はないというほかなく、右各供述に現われている硝酸が、いつどこで誰によつて使用され、またそれが増渕のいかなる行動と結びついているかも全く想像の域を出ないのである。したがつて、この点に関する所論も到底採用できない。

ハ 日石土田邸事件に関する増渕及び江口との会話に関する鈴木茂の供述

所論は、鈴木茂は原審公判廷において、増渕及び江口から両名らが日石土田邸事件に関与した状況につき聞いた内容を種々供述しているところ、原判決はこれを信用できないとしているのであるが、右鈴木の供述には十分な信用性が認められるというものである。

鈴木の原審公判廷における供述の要旨は、原判決(一四四八頁)に摘記されているとおりであるところ、鈴木は、当審において、証人として、原審公判廷における供述内容は当時自分の記憶にあつたとおりのことを正直に話したことに間違いない旨述べるとともに、「土田邸事件の後、江口が『今度は神田の郵便局から送つた。あそこは本屋が多いからちよつと重い物を送つても怪しまれない』と打明けた」とか「飯岡で、増渕か江口のどちらかが『今後暫くは何も(爆弾闘争を)しない』と言つた」などの新たな事実をも供述している。

ところで、鈴木の原審及び当審公判廷における供述はきわめて詳細かつ具体的であるとともにおおむね首尾一貫しており、かつ客観的事実と明らかに相違するなど不自然、不合理と思われる点はなく、また同人がことさら事実に反して増渕及び江口に不利な事実を述べなければならないような事情も見当たらず、同人はまさに真実を述べているのではないかとの感はかなり強いものがある。

しかし、鈴木の供述には、反面、以下述べるような問題点ないし疑問点が存在することを否定できない。

(一) 鈴木は、昭和四六年一一月末か一二月の初め伊豆の妻良の民宿に増渕、江口と一泊した際日石事件の犯行状況につき相当具体的かつ詳細に説明を受けたというのであるが、説明を受けたとする内容には秘密の暴露ないしは捜査上未解明な事実に関するものは含まれていない。

(二) 増渕及び江口が妻良の民宿で鈴木の面前において日石事件のような重大な爆弾事件の犯行を自認するような話をすることは、秘密が露見する危険性の高い行為であるから、鈴木が十分信頼に値する人物であると信ずる状況がなければならないと思われる。ところが、鈴木は増渕、江口と長年の同志というような関係にはなく、特に増渕とは一月ほど前に知合つたばかりであり、また妻良の民宿においてもお互いの信頼を高めるような会話がなされたとも思えない。

(三) 鈴木は妻良での増渕らとの会話は爆弾闘争についての自分に対するオルグと思つたというのであるが、原審検察官の主張によれば、当時はすでに土田邸二高謀議が成立し、大まかな各自の任務分担が決定され準備が進められていたというのであり、このような時点で他のメンバーと面識もなく特別の技術を有していたわけでもない鈴木ひとりを新たに誘わなければならない理由があつたとは認められない。検察官は、当審弁論において、当時鈴木は勤務先である東京都地方労働委員会事務局を拔出して時間を作ることが容易であり、かつ爆弾闘争には、特別な技術を有する者のみならず、準備、調査、連絡などの雑用を担当する者も不可欠であることを思うと、増渕らにおいて鈴木をオルグする理由は十分にあつたと主張するのであるが、鈴木がともかくも勤務先を有する以上その行動に制約が存することは避け難いのであつて、増渕らとしては、どうしてももう一人を爆弾製造に誘う必要があつたとするならば、例えば六月爆弾の関係者として名前を挙げられている者のなかから選んだ方が、気心を知つているという面からも、相手の時間的余裕という面からも好都合であつたと思われるのであつて、右の検察官の主張は必ずしも納得し得るものではない。

(四) 鈴木の供述によれば、同人はその後昭和四七年一月二八日から千葉県飯岡町の国民宿舎に増渕、江口と二泊したが、その際増渕は土田邸事件を同人らが行つたことを前提とするような発言をしたというのであるが、妻良での会合によつて同志的結合を強めたわけでもない鈴木に対して、増渕がこのように事件の発覚につながりかねない無警戒な態度をとつたとするのは不自然の感を否めない。

以上の諸点に加え、原判決が説示するように、鈴木が証言をするにいたつた動機ないし心理的経過に関する説明にはやや釈然としない点もあることなどを考え併せると、同人の供述についてはかなりの真実性が窺われるものの、これを全面的に信用して増渕及び江口の日石土田邸事件への関与を肯認することにはなお疑問が残るというべきである。

ニ 喫茶店プランタンにおける江口発言に関する佐古の供述

所論は、佐古は、捜査段階において、昭和四八年一月五日喫茶店プランタンで増渕、江口と会つた際、江口が日石土田邸事件の真犯人であることを認める発言をしたとの供述をしているところ、原判決はこれを信用できないとしているのであるが、右供述はその内容が、具体的かつ詳細で会話の展開もごく自然であることなどからみて信用性に富むものであるというのである。

そこで検討するに、佐古の供述する喫茶店プランタンにおける江口の発言の経緯は、まず江口がアメリカ文化センター事件を佐古が捜査官に自白してしまつたことを知つてその詳細を同人に問い詰め、今後予想される取調で黙秘することを同人に約束させ、その後江口から六月爆弾についての話が出て、それが捜査当局に発覚すると日石土田邸事件も発覚するおそれがあるという発言につながつていつたというものである。

ところで、アメリカ文化センター事件に関し喫茶店プランタンにおいてなされた佐古と増渕または江口との会話に関する佐古の供述がおおむね信用できることは既に同事件に関して説示したとおりである(第一部第一の二1ハ参照)うえ、同店で江口が六月爆弾に関する発言をしていることは佐古が原審公判廷でも認めているところであり、また他の点に関する佐古の供述も具体性に富み、それが得られた経過に関し取調官たる親崎検事が原審一四六回公判において供述しているところ(六七冊二五七八七丁)をも考え併せると、右佐古の供述が真実ではないかと考える余地はかなりあるといわなければならない。

しかし、佐古は、右プランタンの会合以前にアメリカ文化センター事件について捜査官に自白をし、江口が右会合においてその詳細を問い詰めるなどしたのであるから、江口としては佐古は口の軽い十分信頼するに値しない人物と思つていたものと考えられるのであつて、そのような人物の面前で、江口が多少興奮していたからといつて、単に不用意に一言口走るというのではなく、かなりの時間にわたり具体的な内容をもつ種々の発言をしたということについては不自然の感を免れないのである。これに加えて、佐古が供述する江口の発言が秘密の暴露的な内容を含むものではなく、かえつて、原判示(一三九七頁)のように日石事件の爆弾小包の宛名書を前林がしたという、黒田鑑定に照らし疑問とされる内容を含んでいること(所論はこの宛名書になぞり書をも含めて解しようとするのであるが、発言自体を素直にみるならばそのように解することには無理がある)、佐古の供述はピース缶爆弾事件の自白の過程において現われたものであるが、右自白に種々疑問点があることは前述したとおりであり、このことはプランタンの会合に関する供述の信用性にも影響を及ぼさざるを得ないと考えられることなどをも考慮すると、喫茶店プランタンの会合に関する佐古の供述は具体性及び臨場感に富み、かなりの真実性を感じさせるものではあるが、これを全面的に信用し得るとすることにはなお躊躇を感ぜざるを得ない。

ホ 日石土田邸事件等についての増渕の言動に関する檜谷啓二の供述

所論は、檜谷は捜査段階及び公判において昭和四八年二月一二日以降、窃盗、詐欺事件で警視庁麹町警察署に留置されていた際、増渕から爆弾製造方法について話を聞かされたり土田邸事件について口止めをされたことなどがあつたと供述しているところ、右供述はその内容からみて十分信用でき、かつ増渕が土田邸事件の犯人であることを強く推認させるものであるのに、原判決がこれを信用できない旨判示したのは誤りである旨主張する。

しかし、増渕らがかつて爆弾闘争を志向し爆弾を製造しようとしたことがあつたことは原判決も認めているところであり、したがつて、増渕が檜谷に対し爆弾製造方法の知識などを披露するようなことがあつたとしても、そのことから直ちに同人が日石土田邸事件に関わつていたと推認することは許されないと思われる。また同人が檜谷に対し土田邸事件に口止めをしたとする点も、その内容は「土田のことは言うな。死活問題だから頑張つてくれよな」という程度のものであり、増渕が檜谷に対し自分が土田邸事件の犯人であるなどと具体的に話したというようなものではなく、檜谷も直ちにはその意味を把握し得なかつたというのであるから、やはり増渕と土田邸事件とを直接結びつける性質のものとみることは困難である。また檜谷の供述内容について考えても、増渕は檜谷とは房内で知り合つたばかりで同人がどの程度信頼に値する人物か適切な判断を下せなかつたはずであり、したがつて特に必要もないのに同人に対し爆弾の製造方法や特徴について話をし、あるいは自己が土田邸事件の犯人であることを疑われかねない発言をなしたとすることには不自然さを感ぜざるを得ない。さらに原判決(一四二八頁)も指摘するように、檜谷は増渕から口止めを受けたという同年三月一〇日はその後午後になつてから岩城巡査部長の取調を受けているところ、同巡査部長に対して前日の三月九日午前一一時ころ煙草の吸殻を捨てる際増渕から「頑張れ」と言われたことについては供述しているけれども、三月一〇日の「土田のことは言うな」などという、その直前に行われた口止めについて全く述べていないのであつて、この点も不自然であるといわざるを得ず(所論のように、檜谷が三月一〇日の増渕の口止めの意味を良く理解できなかつたため、同日の取調の際に述べなかつたとすることには疑問が残る)、以上の諸点からすれば、檜谷供述に関する所論も、俄かに採り得ないところである。

四  結論

以上詳細に検討したところによれば、原審で取調べた証拠によつては被告人らが日石土田邸事件の犯人であるとは断定できないとした原判決の認定に所論のいうような事実の誤認があるとは認められない。論旨は理由がない。

第二控訴趣意中訴訟手続の法令違反の主張に対する判断

所論は、原審は、二四六回及び二五八回公判において、検察官が取調請求をしていた日石土田邸事件に関する増渕、堀、松村の検面合計四八通につき、「右各調書は、任意性に疑いがあるもの、起訴後の違法な取調によつて得られたもの、あるいは違法な別件逮捕・勾留中ないしはその影響下に得られたものである」とし、いずれもその証拠能力を否定して証拠調請求を却下し、かつ、中村(隆)公判において同意取調済みであつた右増渕、堀、松村の検面を排除する旨の決定を下したが、右各検面は、すべて証拠能力を有することが明らかなものであつて、これを否定して検察官の証拠調請求を却下し、あるいは証拠排除した原決定には訴訟手続の法令違反があり、かつ、右却下ないし排除された検面中、次表記載の増渕、堀、松村の検面合計一五通については、その内容が特に重要であり、少なくともこれらが採用、取調べられれば、原審で採用、取調べられた証拠とあいまつて、なお一層明確に各公訴事実を認定することができたはずであるから、右訴訟手続の法令違反が判決に影響を及ぼすことは明らかである、というものである。

A  増渕利行の検面

番号

調書作成年月日

(昭和四八年)

取調請求( )内は公判期日

原決定(却下理由の要旨)

1

三月一三日

犯行の動機、日石爆弾の差出し郵便局及び日石土田邸事件の爆弾製造状況など(日石土田邸事件初自白)

刑訴法三二二条一項書面(五五回)

任意性に疑いあり。別件起訴勾留中の違法な取調によつて得られた供述。

同法三二一条一項二号書面(七五回)

2

四月九日

日石爆弾郵便局差出し、八王子保健所土田邸爆弾預け、土田邸爆弾郵便局差出しなど(初の本格的自白)

右同

任意性に疑いあり。起訴後の違法な取調によつて得られた供述。

3

四月二四日

日石爆弾製造、日石総括、土田邸二高謀議、土田邸爆弾製造など

右同

右同

4

四月二五日

犯行の動機、小包爆弾闘争の方針決定、日石二高謀議、日石爆弾製造、日石爆弾郵便局差出し、日石総括など

右同

右同

5

四月二六日

土田邸事件の動機、日石総括、土田邸二高謀議、土田邸爆弾製造、八王子保健所土田邸爆弾預けなど

右同

右同

6

五月三日

土田邸爆弾製造など

右同

右同

(注) 4・26検面は、中村(隆)の関係では既に同意取調済みであつたが、原審は、二四六回公判においてこれを職権で排除したものであり、その理由は却下理由と同旨である。

B  堀秀夫の検面

番号

調書作成年月日

(昭和四八年)

供述事項等

取調請求( )内は公判期日

原決定(却下理由の要旨)

1

四月六日

八王子保健所土田邸爆弾預け、同爆弾回収など

刑訴法三二二条一項書面(五五回)同法三二一条一項二号書面(五五回)

任意性に疑いあり。起訴後の違法な取調によつて得られた供述。

2

四月一八日

日石二高謀議

右同

右同

3

四月二七日

日石二高謀議、日石総括、土田邸爆弾製造など

右同

右同

4

五月八日

土田邸爆弾製造

右同

右同

(注) 4・27検面は、中村(隆)の関係では既に同意取調済みであつたが、原審は、二四六回公判においてこれを職権で排除したものであり、その理由は却下理由と同旨である。

C  松村弘一の検面

番号

調書作成年月日

(昭和四八年)

供述事項等

取調請求( )内は公判期日

原決定(却下理由の要旨)

1

四月一九日(本文紙数四枚のもの)

謀議場所としての日大二高職員室等の提供

刑訴法三二一条一項二号書面(五五回)

違法な別件逮捕・勾留と一体をなす違法な捜査方法による取調によつて得られた供述。

2

四月一九日(本文紙数四二枚のもの)

日大二高謀議、日石総括など

右同

右同

3

四月二四日(本文紙数一五枚のもの)

土田邸二高謀議

右同

右同

4

四月二七日(本文紙数九枚のもの)

日大二高貸与謀議

右同

右同

5

五月二日

二高貸与謀議、日石二高謀議、日石総括、土田邸二高謀議など

右同

右同

(注) 4・19(本文紙数四二枚のもの)、4・24、5・2各検面は、中村(隆)の関係では既に同意取調済みであつたが、原審は、二五八回公判においてこれを職権で排除したものであり、その理由は却下理由と同旨である。

そこで検討するに、所論が却下決定等の違法と取調の必要性を主張する証拠は増渕、堀、松村の各検面のみであるが、右各検面の証拠能力、特に任意性の有無を判断するに当たつては、増渕、堀、松村各調書決定がそうしているように同人らが検察官の面前で取調を受けた情況にとどまらず、司法警察員の面前で取調を受け員面が作成された経過を含め、捜査段階全般にわたる情況まで立入つて考察する必要があると考えられるので、以下、各人ごとにこのような観点から検討を加えることとする。

一 増渕の検面の証拠能力

記録を検討するに、まず、増渕のピース缶爆弾関係事件を含めての逮捕、勾留及び起訴の経過は、次のとおりである。

昭和四八年一月二二日 アメリカ文化センター事件により逮捕

同月二四日 同事件により勾留(同年二月一二日まで)

同   年二月一二日 同事件により起訴。第八、九機動隊事件により逮捕

同月一五日 同事件により勾留(同年三月六日まで)

同   年三月 六日 同事件により起訴

同月一四日 日石事件、土田邸事件、ピース缶爆弾製造事件により逮捕

同月一六日 右各事件により勾留(同年四月四日まで)

同   年四月 四日 土田邸事件、ピース缶爆弾製造事件により起訴

同   年五月 五日 日石事件により起訴(求令状、勾留)

そして、所論が取調の必要性を主張する同人の日石土田邸事件に関する検面は、作成時期の点から、三月一四日の日石土田邸事件等による逮捕前に作成されたものと右両事件の逮捕、勾留を経て四月四日の土田邸事件等の起訴の後に作成されたものとに大別されるので、以下に右各検面ごとにその証拠能力の有無について検討を加えることとする。

1 日石土田邸事件等による逮捕前に作成された検面の証拠能力

この間に作成されたものは、前記A1の三月一三日付検面であり、増渕が日石土田邸事件について最初に自白をしたものであるが、関係証拠によると、右検面作成の経過として、以下の事実を認めることができる。

イ 増渕は、前記のとおり、昭和四八年一月二二日アメリカ文化センター事件により逮捕されて以降同年三月八日第八、九機動隊事件により起訴されるまでの約四五日間の身柄拘束中、右両事件についておおむね連日夜間に及ぶ長時間の取調を受け、肉体的、精神的にかなり疲労した状態にあつたことが窺われるが、その翌日である三月七日から日石土田邸事件についていわゆる別件起訴勾留中における余罪捜査としての取調が司法警察員により本格的に開始され、自白当日の三月一三日にいたつたものであり、しかも三月七日から自白前日の三月一二日にいたる期間の取調も夕食、休憩等の時間をはさんでいるとはいえ、午後一時ないし二時ころから夜間の九時ないし一〇時三〇分ころに及ぶ長時間のもので、事件の重大性や当時の増渕の年令、健康状態等からみて許容できないほどのものであつたとは認められないにしても、増渕の肉体的、精神的疲労を一層蓄積増加させるものであつたと推認できる。

ロ 次に、右期間内の司法警察員の面前での取調の経過をみるに、まず三月七日においては、増渕調書決定挙示の同日付取報に記載されているとおり、午後一時半から同一〇時一五分頃まで取調をなし、かつ取調に際し取調室に在室していた警察官の数は取調補助者を含めておおむね三名であつたが、夕食後においてはそれが四名になつたものと認められる。また同日における取調の状況も、おおむね右取報に記載されているとおりと認められる。

ちなみに、右取報の取調の状況に関する部分は次のとおりである。

「1 八機、文化センターの関係において嘘を言つていたことを強力に衝いて、今後は中途半端な態度で対処できない旨を強調し、弁解を聞かない姿勢で被疑者の口を閉じさせた上すべてを清算しろと向け、午後二時三〇分『土田邸と日石を清算しろ』と切り出したところ、態度としては平静を装い、『え、僕が土田邸をやつているというんですか。僕はやつてませんよ』と声を荒げるわけではなく、やや弱くキヨトンとしたような状態で若干しどろもどろに弁解する。

2 右時点における表情は、顔面色は普通なるも、顎から下頬にかけて若干鳥肌が立つた。

3 この後、総べて清算して綺麗な人間となつて再出発を誓えるよう十分反省することを説得すると、力強い言葉に対しては、『やつてませんよ。そのころ闘争をやつてませんよ』と声強く反撥し、耳元に近く静かに『次元の低いことをいうんじやない。われわれはこれだけの重大事件をぶつけて調べるにはプロの捜査官として相手の人権を尊重しながらやつているんだ。あやふやなことでなく確たる証拠、資料を積み重ねて、君にやつているのかどうかと聞いているのじやなく、君がやつたこの事件を清算する決断を下すように話しているんだ』と説得すると、何の反論もできず、うつろな目を視点の定めなきところに向けている。

4 午後五時一五分から同六時一五分まで夕食休憩とし、その後説得を続け、午後八時、土田邸被害者の写真を顔前につきつけ、語気強くあらゆる言葉をぶつけて反省、清算を迫ると、『爆弾闘争そのものは間違つていました。十分反省して清算します』と申し立て、八機、文化センターの隠していた点を申し立てたので、そんなことを聞いているんじやないとはねつけると、しばらくして『紙と鉛筆を下さい。自分の気持を書く』と申し立てたので、『心の底から反省できるまで何も聞かん』とはねつける。こちらが並々ならぬ心構えでやるという言葉を察し、『自分も頑とした態度で立ち向います。それはやつていないといい張るのでなく、白黒をつけてもらうためにやります』と申し立てる。

5 この後しばらく説得してから午後九時一五分再び写真をつきつけ、『人間の血が流れているなら被害者、仏様の前に線香でもあげる、あるいは申しわけないと涙の一つも流してみろ』というと、『爆弾事件は申しわけない。でもこれはやつていない』と主張した。その際言いわけは聞かんと説得すると、うつろな瞳で捜査官をにらみつけるような態度をとつていたが、入房に際しよく考えておけと申し渡すと『はい』と答えていた。」

すなわち、取調開始後約一時間にわたりアメリカ文化センター事件及び第八、九機動隊事件で増渕が嘘を述べていたことを厳しく咎め、弁解を聞かない強い姿勢で同人の言葉を封じたうえ、午後二時半頃日石土田邸事件を清算するよう求め、同人が犯人であることの確実な証拠、資料が集積されている旨告げて夕食休憩をはさんで午後八時頃まで厳しい説得と追及を繰返し、午後八時頃になるや、土田邸事件の被害者土田民子の生々しい死体写真を含む現場写真を示しつつ、強い調子で増渕に対する非難の言葉を間断なく浴びせて自白を迫り、かつ自白以外の供述は聞かない旨の強い態度をとり続け、さらに午後九時を過ぎた時点で再び前記被害者の写真を示し強く謝罪を求めるなどして自白を迫つたが、否認のまま前記の午後一〇時一五分頃にいたつて取調を終つたこと、ほぼ以上のとおりと認められる。

ところで、右三月七日当日において、増渕が、日石土田邸事件に関わつていることを示す証拠としては、喫茶店プランタンにおける増渕及び江口との会話に関する佐古の捜査官に対する供述が存在するに過ぎず、かつその内容は、既にみたとおり増渕が日石土田邸事件の犯人であることの確実な証拠というほどの内容を有するものではなかつた(第一の三3ニ参照)。

ハ 次に、三月八日から一二日までの司法警察員による取調の状況は、被害現場の写真を見せたか否かは必ずしも明らかでないけれども、原則として警察官四名が取調室に在室し、かつ増渕に対し三月七日の取調とほぼ同様の厳しい説得、追及によつて自白を迫つたことを推認できる。

なお、この間、捜査機関には、増渕から爆弾製造方法について話を聞かされたこと等に関する檜谷啓二の供述が得られたが、その内容も、増渕が日石土田邸事件の犯人であることを直接立証するようなものではなかつた(第一の三3ホ参照)。

ニ このような取調を経て、増渕は、三月一二日夜の司法警察員の取調が終る前に「今後爆弾事件に関し総て清算する覚悟です。記憶にないことがありましたら思い出してお話しいたします。深く反省しておりますのでよろしくお願いいたします」と記載した「誓約書」と題する書面を作成し取調警察官に差出している。

ホ このような経過の後、翌三月一三日増渕は、まず検察官に、次いで司法警察員に、それぞれ自白し、検面(Aの1)及び員面がそれぞれ作成されている。

ヘ なお、二月二五日から三月一三日にいたるまでの間、同人と弁護人との接見は一度も行われていない。

以上認定の諸事実によれば、警察官は三月七日から一二日までの間、取調補助者を含め常に数名が在室する状況で、増渕が日石土田邸事件の犯人であることの確実な証拠がないにもかかわらず、同人に対しこれがある旨告げるとともに、その弁解を聴こうとせず、同人が犯人である旨きめつけるに近い取調を、連日夜間に及ぶまでの長時間執拗に行い自白を迫つたものというほかなく、その結果増渕は、同月一二日夜には自白せざるを得ない心理状態に追込まれて前記誓約書を記載したものと推認できる。

そして、右のような取調は、増渕の人権、なかんずく黙秘権を侵害する違法なものであるとともに、同人が右三月七日から一二日までの取調にいたる前に約四五日間身柄を拘束され、連日夜間に及ぶ相当長時間の厳しい取調を受けて肉体的にも精神的にも相当疲労していたと認められることや、右三月七日から一二日までの間弁護人から助言を得る機会のなかつたことなどをも併せ考えると、虚偽の供述を誘発するおそれをも持つものといわざるを得ない。そして、後にも述べるように増渕の前記三月一三日付検面中の自白は、検察官に対してなされてはいるけれども、その前日まで司法警察員によつてなされた右のような取調と無関係になされたとは到底認められず、同日作成された同人の員面における自白とともに、人権擁護及び虚偽排除の観点から、その任意性に疑いがあるものとして、同人に対する関係においてばかりでなく、他の被告人に対する関係においてもその証拠能力を否定すべきものである。

なお、増渕調書決定は、三月七日から一二日までの増渕に対する取調は、起訴勾留中の余罪取調につき要求される「任意の取調」の要件を欠くという点からも違法であるとし、所論はこれを種々の観点から争うのであるが、すでに述べたとおり、任意性の欠如により同人の自白の証拠能力を否定すべきものである以上、もはや右の点についての判断に立入る必要はないものと考える。

ところで、所論は、種々の論拠を挙げ、増渕の前記自白には任意性が認められるべきであるとするので、以下右のうち主要なものについて判断を加えることとする。

所論は、まず、増渕の三月一三日付検面中の自白は津村検事に対してなされているのであり、このことは、右自白が前日までの警察官の取調と関係なく、同人が検察官に信頼感を抱き、その取調が同人の心の琴線に触れたからである旨主張する。

しかし、原審証人津村節藏の供述によつても、津村検事の取調の内容に特段心の琴線に触れるような人間的な会話や説得があつたとは認められないとともに、三月一三日付検面の内容もきわめて簡単なものであつて、そこに増渕の人間性や真情が現われているとみることは困難である。他方、右津村供述によれば、三月一三日の増渕の自白は同検事の取調開始後約二時間という比較的短時間内になされているものと認められるが、増渕が初対面の検察官に対しこのような短時間内に極刑すら予想される犯行を自白したということは、前日までの警察官による厳しい取調によつて同人が自白せざるを得ない心理状態に追い込まれていたことを前提としなければ理解できないといわざるを得ないのであり、同人がまず自白する相手として検察官を選んだことの理由は必ずしも明白でなく、また右検面と同日付員面とでは内容的に若干相違のあることも認められるところではあるけれども、同日の津村検事に対する自白と前日までの警察官による取調との間に因果関係のあることは否定できず、所論は採用し難い。

所論はまた、前記三月七日付取報は部内の報告文書であつて、取調官が自己の努力を上司に訴えるためその表現等が誇張されることは往々にしてあることであるから、その記載が三月七日の増渕の取調の全容を伝えているものとは到底認められず、このことは同人が同日からの警察官の取調の態度が一変して厳しいものとなり、それが自白の原因となつたという趣旨を特に強調していないことからも明らかであると主張する。しかし、原審証人高橋正一の供述によつても、同日における取調状況が右取報記載のようなものであつたことは否定し得べくもないし、他方、増渕は、すでに右取報の開示前において、証人として、日石土田邸事件の取調に入つてから取調方法が一変し犯人と断定されるような取調を受けたと供述していることが明らかである(中村(泰)記録四冊八八五丁以下、九三〇丁以下)。もつとも、増渕の供述には、江口も認めていると言われいずれ分ると思つて自白したなど、自白の動機として取調の厳しさとは関わりない事項を挙げる部分もあるが(榎下記録一二冊二四〇一丁)、警察官が江口の自白がないのにことさらあつたと述べた事実が存したとは証拠上認め難いから、右供述部分は俄かに措信し得ず、増渕が前記のような厳しい取調が原因となつて自白したと認定することの妨げとなるものではない。

所論は、さらに、増渕の前記三月一二日付誓約書につき、同人自身その作成の際の心理状況に関し、原審公判廷において、やつたという記憶はないという趣旨で書いたと供述していることからみて、当時同人が自白せざるを得ないような心理状態に追い込まれていたとみるのは相当でないと主張する。

そこで検討するに、確かに増渕は、原審公判廷において、右誓約書の作成につき、「やつていないということの表明でしかないし、そんなに抵抗はありませんでした」などと供述しているところである(六六回及び七〇回増渕の供述―二七冊九八九一丁、三〇冊一〇八四一丁)。

しかし、<1>右誓約書の全体的な内容からすれば、それが事件をやつていないとの趣旨のものであるとみることは困難であること <2>増渕は、原審公判廷において、前記のような供述に引きつづき、「当時右誓約書の持つ意味を論理立てて正常に考えるような状況には肉体的にも精神的にもなかつた」とか「取調官としては、右誓約書を楯に取つて自分に対し『やつたといわなければ本当のことじやない』と追及すると考え、これを返して欲しいと申入れた」などとも供述しているのであるから、この点に関する増渕の原審公判廷における供述を所論のいうような趣旨であると即断することには疑問があること <3>自白をした理由に関する増渕の原審公判廷における供述をみるに、共犯者とされる者のなかで最初に自白をし他の者を巻込んだことについての後ろめたさからか、自己の行為を他の者にやむを得なかつたものとして理解させるべく言訳け的な弁解をあえてなしているのが目を惹くのであつて(前述した、警察官から江口も認めていると告げられたとする点や、増渕調書決定も事実に反すると認めている、警察官に「弁護人にも見捨てられてしまつた」旨告げられるなどしたとする点、あるいは、警察官から江口、堀らはすべて自白しているといわれたとする点―二七冊九八二二丁―など)、前述した「やつていないということの表明でしかない」云々の供述もこの種のものと理解できなくはないこと、などの諸点に、既に認定した増渕に対する取調の経過をも併せ考えるならば、前記誓約書の文言は増渕調書決定説示のように、爆弾事件について覚えがあるならば供述するとの趣旨に理解するのが相当であつて、所論は採り得ない。

2 土田邸事件等による起訴後に作成された検面の証拠能力

増渕は、前記のとおり三月一四日、日石土田邸事件及びピース缶爆弾製造事件により逮捕され、同月一六日から四月四日まで二〇日間勾留を受け、その間日石土田邸事件に関する自白を内容とする多数の員面及び検面並びに同人作成の供述書が作成されている。次いで、同人は、四月四日に土田邸事件及びピース缶爆弾製造事件について起訴されたが、その後も日石土田邸事件につき取調を受け、五月五日日石事件について起訴されるにいたるまでの間日石土田邸事件に関する自白を内容とする多数の員面及び検面が作成されており、所論が取調の必要性を主張する前記Aの2ないし6の検面は右土田邸事件等の起訴後に作成されたものであることが認められる。

そこで、右Aの2ないし6の検面の証拠能力の判断の前提として、まず日石土田邸事件等の逮捕、勾留期間に作成された員面及び検面並びに供述書の証拠能力について考えることとする。

ところで、被疑者が一旦任意性に疑いのある自白をなし、その後も身柄拘束の状態のまま取調を受け、引続き同一事項につき自白をなした場合においては、その後の取調の際、取調官において既になされた自白が任意性に疑いがあることを知悉し、供述の任意性を回復すべく、取調の時間、方法等につき特段の配慮をなしたというような事情の認められない限り、引続きなされた自白もまた任意性に疑いがあるとの推定を受けることはやむを得ないものというべきであろう。しかるところ、前記期間における増渕の取調の時間、情況、事項等はおおむね増渕調書決定に説示されているとおりと認められ、増渕の供述の任意性を回復するに足る特段の事情があつたとは認められず、同被告人はすでに自白をなしたということの心理的影響もあつて、三月一三日の自白を維持するとともに新たな内容の自白をし、各供述調書及び供述書が作成されたものと認められる。したがつて、これらの自白は前記三月一三日の自白と一体視しいずれも任意性に疑いがあり、同人に対する関係においてのみならず、他の被告人に対する関係においてもその証拠能力を否定すべきものである。

次いで、前記Aの2ないし6の検面を含む土田邸事件等の起訴後に作成された供述調書の証拠能力につき考えるに、この期間における増渕の取調時間、情況、事項等はおおむね増渕調書決定説示のとおりと認められ、同様に増渕の供述の任意性を回復するに足る特段の事情があつたとは認められず、既に自白をなしたという同人の心理的影響も依然維持継続された結果、同人はほぼ全面的な自白をし前記各供述調書が作成されたものと認められる。したがつて、これらの自白もそれまでの自白と同様いずれも任意性に疑いがあり、同被告人に対する関係においてのみならず、他の被告人に対する関係においてもその証拠能力を否定すべきものである。

なお、増渕調書決定は、右期間の増渕に対する取調は起訴後の取調及び別件起訴勾留中の取調であるところ、いずれも許容される取調の限度を超え違法であるから、右各供述調書はその面からも証拠能力がないとし、所論はこれを争うのであるが、すでに述べたとおり任意性の欠如により同人の自白の証拠能力を否定すべきものである以上もはやこの点に対する判断には立入らない。

二 堀の検面の証拠能力

記録を検討するに、まず、堀の日石土田邸事件以外の事件を含めての逮捕、勾留及び起訴の経過は、次のとおりである。

昭和四八年一月二二日 火薬類取締法違反事件(本件起訴外)により逮捕

同月二四日 同事件により勾留(同年二月一二日まで)

同   年二月一二日 同事件につき釈放のうえ、第八、九機動隊事件により逮捕

同月一五日 同事件により勾留(同年三月六日まで)

同   年三月 六日 同事件により勾留中起訴

同月一三日 ピース缶爆弾製造事件により逮捕

同月一四日 日石土田邸事件により逮捕

同月一六日 ピース缶爆弾製造事件、日石土田邸事件により勾留(同年四月四日まで)

同   年四月 四日 ピース缶爆弾製造事件及び土田邸事件により勾留中起訴

同   年五月 五日 日石事件により起訴(求令状起訴により勾留)

1 日石土田邸事件の逮捕、勾留期間中に作成された検面の証拠能力

ところで、堀の日石土田邸事件に関する供述調書は作成時期の点から同事件の逮捕、勾留期間中に作成されたもの及び四月四日の土田邸事件等の起訴の後に作成されたものに大別され、所論が取調の必要性を主張する前記Bの1ないし4の各検面は後者の供述調書に含まれるものであるが、右各検面の証拠能力についての判断の前提として、まず、日石土田邸事件の逮捕、勾留期間中に作成された各供述調書(ただし、堀調書決定が証拠として採用した三月一四日付員面及び同月一五日付検面はおのずから除かれ、三月二六日付員面並びにそれ以降に作成された員面及び検面に限られることになる)の証拠能力につき考察するに、その作成の経過として、以下の事実を認めることができる。

イ 堀は、前記のように一月二二日火薬類取締法違反事件による逮捕以来身柄を拘束され、前記の三月二六日付員面作成時には身柄拘束期間が六〇日を超えその間及びその後も連日取調を受け、かつその間の取調時間は、夕食、休憩等の時間をはさんでいるとはいえ、堀調書決定説示のように、二月末ごろまでの期間は平均して一日およそ七時間ないし八時間程度と認められるのに対し、三月に入つてから三月一四日の日石土田邸事件等による逮捕にいたるまでの間においては一〇時間を超えることが多くなり、三月一四日以降は当初は一〇時間前後の日もあつたが三月一九日以降は連日一二時間を超え一四時間に及ぶことがあり、これに伴い帰房時刻も三月初めからはほぼ午後一〇時以降となり、さらに日石土田邸事件等の逮捕後はほぼ連日午後一一時を過ぎる状態が続き、しかもほぼ二日の割合で午後一一時半以降となり、三月二四日及び四月三日は午前零時を過ぎているものと認められる。そしてこのような取調の時間は事件の重大性及び堀の年令、健康状態等からみて許容できないほどのものではないにしても、右長時間の取調により堀は前記各供述調書作成当時、肉体的、精神的にかなり疲労した状態にあつたと推認できる。

ロ 次に、右期間の警察における取調の状況をみるに、取報の記載等によれば、取調補助者を含め、おおむね三名ないし四名の警察官が在室して時には強く抵抗し、時には涙ぐむなど気弱な言動を示す堀に対して、説得ないし追及によつて執拗に自白を迫つたことが明らかであり、しかも、取報の記載によれば、右の説得ないし追及に当たつては、違法であるか少なくとも妥当性を疑わせる以下のような事実があつたことを推認ないし窺知することができる。

(一) 取報によれば、取調中の堀の発言として、「どつちが殺し屋かわかりやしない」(三月一七日の取調に関するもの。以下、日付のみを示す)、「お前達こそ鬼だ」(三月一八日)ということが記載されていることからすれば、堀に対して、「殺し屋」とか「鬼」とかいう言葉が投げかけられたことが窺われ、また、同じく「いくら怒鳴つても真実は曲がらない」(三月一八日)との記載のあることからすれば、警察官が取調に当たつて相当大声を出したことも窺われる。

(二) また取報には、堀の発言として、「江口さんまで僕と一緒にやつたと言うなら間違いない」(三月二四日)、「増渕と江口が話しているのなら俺は極刑だよ」(三月二五日)などの記載があるが、江口がそのころまで日石土田邸事件等について自白ないし堀の関与を認める供述をしていないことは明らかであり、そうだとすると、警察官は、事実に反して、江口が自白している旨告げあるいはそのように装つて取調べたか、そうでないにしても、堀において江口が自白していると誤信しているのに乗じ、その誤信を解かずに取調をした疑いがある。

(三) さらに、取報には、警察官が堀に対し、「現状のままでは共犯者の供述によつて堀は主犯とされ重刑を科せられ死刑となることもあるから、早く事実を明らかにすることにより重刑を免れるように考えた方が得策だ」との趣旨の発言をしたと推認できる記載が多く存する。すなわち、「(過去の増渕とのつき合い等を)君自身が明らかにしていかなければ大きな流れのなかに入つてしまい、測り知れない範囲にまでも君の責任が及ぼうとしているのだ。君自身でそれに早く気がついて自らの責任範囲を明らかにしていくのだ」(三月一九日)、「君の将来はどうなるのか。君の意思で自分を表現できないのか。自分を犠牲にしてまでも納得がいくか。この世の中に未練がないのか」「君がこのままでいつたら共犯者の言つているように全部の責任を負わされるぞ。どうして自分の意思を明らかにしないのか」(三月二四日)、「君のやつたことの全てを話すのだ。全てをはなすのだ。君は助かりたくないのか」「自分の生きる道を切り開くのだ。責任範囲を明らかにするんだ」(三月三一日)、「自分の不利のことでも正直話すのだ。そうすれば人間性が出て来るのだ。君は本当は助かりたいのだ。君はそれを表明するだけで助かるのだ」(四月一日)などの警察官の発言の記載は、他方では堀がその頃「助かりたいよ」などと述べた旨の記載もあること(三月三一日)をも併せ考えると、前記のような推認を可能とするものである。

(四) さらに、取報には、堀に対し警察官が自分の意思で精算しなければ周囲の多くの人に迷惑がかかる旨説得したところ、同人が「親や兄弟までも逮捕するのですか」と答えるので、警察官が警務要鑑中の爆発物取締罰則の条文(八条と思われる)を示したところ、同人は「ああ本当だ。しかし、僕には非がないし困つてしまう」と答えた旨の記載があるが(三月一九日)、当時堀の家族に同条違反の嫌疑があつたとは認められず、それにもかかわらず、警察官は同人に対し、自白しないとその家族に累が及ぶ旨示唆したと認めざるを得ないのである。

(五) また取報に、堀の発言として、「あと一年間か。罪となるのは二つだけと思つていたのに」と答えたとあること(四月一日)からすれば、警察官は、同人に対しその供述態度いかんでは、さらに一年位異なる被疑事実につき次々と逮捕状をとつて取調を続ける旨述べたとの疑いも持たれる。

(六) さらに、取報に、警察官が法定刑の説明、情状酌量、仮釈放、情状意見等について法文の条項を呈示して説明すると、堀が「無期でも情状によつては十年位で出されるのですね」と答えたとの記載(三月一九日)からすれば、警察官が堀に対し、その供述態度、事件送致に際し警察官が付する情状に関する意見等によつて処分が軽くなる旨告げた事実もあつたと推認できる。

ハ なお、この期間においては堀の日石土田邸事件への関与を認める増渕の自白が存し、かつその内容においても若干の進展があつたことが認められるものの、警察官において堀が同事件の犯人に間違いないと決めつけるほどの有力な証拠は得られていなかつたと認められる。

以上認定の諸事実によれば、前記各供述調書の作成にいたるまでの間、警察官は、取調補助者を含め数名が在室している状況で堀が日石土田邸事件の犯人である旨きめつけるに近い取調を連日夜間に及ぶまでの長時間執拗に行つて自白を迫り、しかもその間前述したように違法であるか少くとも妥当性を疑わせる各種の発言をなしていることを推認ないし窺知できる。そして、右のような取調は、堀の人権なかんずく黙秘権を侵害する違法なものであるとともに、同人がそれ以前においてもかなりの期間身柄を拘束され、連日夜間に及ぶ相当長時間の厳しい取調を受けて肉体的にも精神的にも相当疲労していたと推認できることなどをも併せ考えると、虚偽の自白をも誘発するおそれをも持つものといわざるを得ず、その結果得られたと認められる前記各供述調書中の自白ないし不利益事実の承認は、人権擁護ないし虚偽排除の観点から、その任意性に疑いがあるものとして、同人に対する関係においてばかりでなく、他の被告人に対する関係においても証拠能力を否定するのが相当である。なお、この間における検察官の取調においては、既にみた警察官のそれについてみられるような厳しい追及があつたとは認められないけれども、両者の取調が併行してなされている以上、堀が検察官の取調に際して警察官の取調の影響を受けたことは推測に難くないから、検面についても特に別異に取扱うべき理由はないといわなければならない。

2 土田邸事件等の起訴後に作成された検面の証拠能力

堀は、四月四日に土田邸事件及びピース缶爆弾製造事件について起訴されたが、その後も日石土田邸事件について取調を受け、五月五日日石事件について起訴されるにいたるまでの間及びその後にわたつて日石土田邸事件に関する自白を内容とする多数の員面及び検面が作成されており、所論が取調の必要性を主張する前記Bの1ないし4の各検面は、いずれもこの期間に作成されているものと認められる。

そこで、右各検面の証拠能力について考えるに、この期間における堀の取調の時間、状況、事項等は堀調書決定説示のとおりと認められ、同人の供述の任意性を回復するに足る特段の事情があつたとは認められず、すでに自白をなしたという同人の心理的影響も維持継続された結果、同人はそれまでの自白を維持し、かつ新たな事項についても供述するにいたつたものと認められる。したがつて、前記Bの1ないし4の各検面を含むこの期間における自白調書もそれまでの自白と同様いずれも任意性に疑いがあり、同人に対する関係においてのみならず、他の被告人に対する関係においてもその証拠能力を否定すべきものである。

所論は、これに対して、検察官の取調の独自性、堀が自白したといつても必ずしも全面的に自白しているわけではないこと、また同人が日石土田邸事件により逮捕されて以降多数回にわたり弁護人と接見していることなどを理由に堀の前記Bの1ないし4の各検面に任意性があることは明らかであると主張する。しかし、検察官が堀の取調に当たつて自発的な供述を引出すよう配慮していた跡は窺えるものの、それによつて先行ないし併行する司法警察員の取調の影響が完全に遮断されたとは認められず、また堀の自白の内容が全面的な自白でないことや堀が弁護人と多数回にわたつて接見していることからすれば、堀は自白はなしつつもそれなりにその内容につき思惑を働かせていたことは窺えるものの、前述した諸事情と対比するならば、このことはなお同人につき供述の任意性を認め、あるいはこれを回復させる事情とはなり得ないものというべく、かえつて不完全な自白ながらもそれが最後まで維持されているということは、前記のような警察官の取調が堀の心理に及ぼした影響が遂に除去されるにいたらなかつたことを物語るものとも考えられるのであつて、所論は採用することができない。

なお、堀調書決定は、右期間の堀に対する取調は任意捜査としての取調の原則に従わなければならず、なお、土田邸事件及び五月六日以降の日石事件の取調は起訴後の当該事件の取調として、取調べ得る事項にも限界があつたのであり、右各供述調書はその面からも証拠能力がないとし、所論はこれを争うのであるが、すでに述べたとおり任意性の欠如により同人の自白の証拠能力を否定すべきものである以上、もはや右の点に対する判断に立入る必要はないものと考える。

三 松村の検面調書の証拠能力

記録によれば、まず、松村の逮捕、勾留、起訴の経過は、次のとおりである。

昭和四八年三月三〇日 増渕に関する犯人隠避で逮捕

昭和四八年四月 二日 同事件で勾留(同月二一日まで)

同月一六日 爆発物取締罰則違反及び日石土田邸事件により逮捕

同月一八日 日石土田邸事件により勾留(同年五月五日まで)

同   年五月 五日 土田邸事件幇助により起訴

ところで、松村に対する犯人隠避の被疑事実は、松村調書決定が摘示するとおり、同人は、「増渕利行が罰金以上の刑に該る罪を犯し逃走中のものであることを知りながら、昭和四六年一〇月ころから同四七年四月ころまでの間、約一〇回位同人に対して自己が勤務する東京都杉並区天沼一の四五の三三所在日本大学第二高等学校の職員室等の学校施設を連絡場所として使用させ、もつて右増渕の逃走を容易ならしめ犯人を隠避した」というものであり、なお、右の増渕に関する「罰金以上の刑に該る罪」とは、いわゆる東京薬科大学事件であつて、同人が「法定の除外事由がないのに、昭和四四年一〇月二〇日ころ、東京都新宿区北新宿三丁目二〇番一号所在の東京薬科大学において、平野博之に対し瓶入りの劇物である塩素酸カリウム及び硫酸各一本を手渡して授与した」という毒物及び劇物取締法違反及び増渕がそのころ右東京薬科大学において犯したものとされる兇器準備結集事件を内容とするものである。

ところで、松村調書決定は、「捜査官において甲が被疑者乙に対する重大事件Aに関する重要な知識を有しており又は同事件に関与している可能性があるものと認めたが、A事件の被疑者として甲を逮捕するには嫌疑も十分ではないため、甲に軽微な被疑事件Bの嫌疑をかけ、B事件について必要な取調をする意思はほとんどなく、ほとんどもつぱらA事件に関する取調をする意図であるのに、これを秘し、裁判官に対し甲に対するB事件の逮捕状の発付を請求し、これを得て甲を逮捕し、つづいてB事件についての勾留の請求をし、これが認められて甲を勾留することは、A事件の捜査についての法的制約(参考人取調についての身柄拘束の禁止、ないし被疑者の身柄拘束についての令状主義)に実質的に違反し、これを潜脱するものであり、捜査方法として違法(いわゆる違法な別件逮捕及び勾留)であつて、その違法の程度も右のような法的制約を潜脱するものとして相当重大であり、このような違法な逮捕及び勾留下における甲に対する取調の結果得られた甲の供述はA事件の立証のための証拠として証拠能力がないものと解すべきである」と説示しており、右説示は一般的見解に従つたものであつて、これを正当として是認すべきものである。そして、松村調書決定は、松村に対する犯人隠避による逮捕、勾留は右の違法な別件逮捕、勾留であるとするものであるところ、所論はこれを争うので考えるに、記録によれば以下の事実を認めることができる。

1 本犯である増渕に対する東京薬科大学事件は、松村の逮捕時からみると約四年前の事件であり、しかも、増渕は、同事件のうち毒物及び劇物取締法違反につき昭和四七年一二月一八日東京地方裁判所において懲役一年三年間執行猶予の判決を受け、同判決は自然確定しており、また同事件のうち兇器準備結集については不起訴処分がなされていたものである。

2 捜査当局は、昭和四七年九月以降右東京薬科大学事件の犯人である増渕を隠避させたとの容疑で佐藤安雄、江口、蒔田和雄、長倉悟、森谷義弘らを逮捕、勾留して取調べ、佐藤、蒔田につき略式命令請求を、森谷につき公判請求をし、いずれも罰金刑の裁判があり(佐藤につき一万円、蒔田、森谷につき各八、〇〇〇円)、他の長倉らは不起訴とした。なお、松村とほぼ同じ時期に榎下、金本、中村(泰)及び松本博も逮捕され勾留請求がなされたところ、榎下及び松本については認容されたが、金本及び中村(泰)については却下されている。そして、右却下決定に対して検察官から準抗告はなされていない。

ちなみに、罰金の裁判を受けた佐藤、蒔田、森谷及び勾留請求が却下された金本及び中村(泰)の被疑事実は次表のとおりで、松村の被疑事実がこれらに比べて格段に重いものとは認められない。

佐藤

四七年一月七日ころ自室において逃走用資金として一万円を手交した。

蒔田

四五年一二月二五日ころ増渕が世田谷区上祖師谷から居所をくらますため高橋荘に転居するに際し引越荷物を運搬するなどした。

森谷

右の転居に際し引越荷物の運搬、引越のあと片付けをした。

中村(泰)

四六年六月ころから四七年九月上旬ころまでの間、中村(泰)のアパートを昼間、増渕の潜伏場所として自由に使用させた。

金本

四七年六月ころから同年九月ころまでの間、金本のアパートを自由に使用させた。

3 松村は、昭和四八年三月三〇日最初に司法警察員の取調を受けたときから、増渕が本犯であることの知情の点及び日大二高の施設を連絡場所として使用させた点を認めていたものであり、かつ松村が警察の呼出に応じなかつたとか取調に応じないなどの態度を示したこともなかつたと認められる。

4 松村に対する犯人隠避による逮捕及び勾留中の取調の実際について考察するに、まず、「隠避」とは、「蔵匿以外の方法により官憲の逮捕、発見を妨げる一切の行為」をいい、しかも、同一本犯について複数の隠避行為があつても一罪として取扱うべきものであるから、逮捕・勾留の被疑事実として列挙されている行為以外にも隠避と目すべき行為があればそれもが捜査の対象となり得るということは一応は肯定してよいであろう。しかし、まず、逮捕、勾留の被疑事実として列挙されている隠避行為に関して取調がなされるべきことが捜査の常道というべきであろう。他方、隠避罪の捜査に当たつては、隠避行為の内容を概括的に明らかにするだけでは足りず、本犯の行為との関係でその具体的な状況、その行為が官憲による本犯の発見、逮捕を妨げるものであつたことないしその程度並びにその点に関する犯人の認識内容等が犯罪の成否ないしその犯情の軽重という観点から取調の対象とされなければならないこともまた当然である。

ところが、本件において、松村についての取調がこれらの点に主眼を置いてなされたと認めることは困難である。すなわち、

イ 松村に対する被疑事実は、前記のとおり昭和四六年一〇月ころから同四七年四月ころまでの間約一〇回位増渕に対して連絡場所を提供したというものであるが、逮捕状請求の資料となつた同人の昭和四八年一〇月三〇日付員面には「昭和四五年一〇月ころから昭和四七年四月ころまでの間に約一〇回くらい被告人増渕が日大二高を訪れた」とあり、何故に被疑事実において犯行の始期が昭和四六年一〇月ころになつたかは不明といわざるを得ず(ちなみに、その後作成された昭和四八年四月五日付、同月九日付各検面においては、犯行の始期が昭和四六年四月ころであるかのような記載がある)、それとの関係で昭和四六年一〇月ころ以降の連絡場所の提供の回数が約一〇回あつたかも明確でないといわざるを得ないのである。しかるに、捜査官が捜査の出発点をなすともいえるこのような基本的な事項につき、具体的事実を確かめるなどして松村を取調べた形跡はなく、右の点は結局捜査の終局にいたるまで明らかになつていない。

ロ 次に、逮捕、勾留直後の松村の供述には、「増渕が指名手配されている犯人と知つた後も昭和四七年四月ころまでの職員の宿直がなくなるまで一〇回位増渕と堀が一緒に宿直中の私を訪ねており、ソフトボールをやつたりテレビを見たりして私も一緒になつて遊んだのです」(3・31員面)とか、「増渕は学校に来る時は必ず堀と一緒で職員室で新聞紙の綴りを取つて読んだり、校庭で私達とソフトボールをしたり職員室でテレビを観たりしていました」(4・5検面)とかの供述をしていたのであり、右供述によれば、増渕はたまたま遊ぶため日大二高を訪れたものであつて同校を連絡場所とする意図などなかつたようにも思えるのであり、それだけに犯人隠避罪の成否を明らかにするためには、前述したような観点から、増渕が日大二高を訪れた際の増渕の行為の具体的内容及びそれとの関連で松村の行為が官憲による増渕の発見、逮捕を妨げるものであつたか否かないしその程度並びにこれらの点に関する松村の認識内容等につき同人を取調べるべきものであつたと思われるが、同人の多数の調書中、このような観点からの取調がなされたことを窺わせるものは見当たらない。

ハ 松村調書決定も説示するように、松村の犯人隠避による逮捕、勾留中作成された供述調書中、犯人隠避の被疑事実に関する取調結果を記載したとみられるものは一部に過ぎないのであり(もつとも、松村調書決定は、隠避行為の始期が昭和四六年一〇月ころであることを前提としていると思われるが、このように認定できる資料が見当たらないことは前述したとおりであり、この時期が当初の松村の員面に現われている同四五年一〇月ころであるとすると、犯人隠避の被疑事実に関して作成された調書はより多くなると認められる)、その内容も、犯人隠避の被疑事実という観点からみるときは、同人が当初した供述の範囲を多く出るものとは認められず、調書の大部分は日石土田邸事件の取調の結果を記載したものと認められる。

もつとも、日石土田邸事件の取調が犯人隠避の被疑事実の取調としても意義を有することがある。すなわち、松村調書決定も説示するように、松村において増渕が東京薬科大学事件の犯人であるばかりでなく日石土田邸事件の犯人であることをも知つて隠避行為をしたとするならば、全体として一個の隠避罪を構成するものと考えられるから、右の点を明らかにするため日石土田邸事件についてもある程度取調べることは被疑事実と関連する取調といい得べく、また、例えば日大二高の施設を使用させることにより日石土田邸事件の謀議の場所を提供したものであるとか松村が右事件の共犯者であるとかの事実があれば犯意等の面で東京薬科大学事件に関する犯人隠避罪の成立が危くなるのであるから、これらの事実を取調べることも被疑事実と関連する取調といい得よう。さらに、隠避の期間全体につき本犯たる増渕との交際状況全般につき取調が及び、その一端として日石土田邸事件の事実関係が入つてくるということも許容されるといつてよいであろう。しかし、これらはいずれも被疑事実の存否ないしその範囲の確定という観点からなされるべきものであつて、例えば、日石土田邸事件の謀議場所提供とみられる事実の取調に当たつては、松村としては同事件の計画等に没頭し、もはや東京薬科大学事件の犯人としての増渕の発見、逮捕を困難ならしめるというようなことは念頭になかつたのかなどについても取調をなすべきものであると思われるが、各調書上このような観点からの取調がなされているものとは認め難く、また、本件においては、そもそも隠避の期間、隠避行為の回数等の被疑事実に関する基本的な事柄についてさえ取調が尽くされていないことは前述したとおりである。

二 松村の逮捕、勾留直後における同人の取調状況を記載した取報等によれば、取調警察官は、同人に対し、逮捕、勾留の直後から、犯人隠避の被疑事実はさしおき日石土田邸事件に関し増渕、堀らに犯人と思われるような言動はないかを聞き出そうとしていたものと認めざるを得ない。

以上認定の諸事実によれば、松村に対する犯人隠避罪による逮捕、勾留は違法な別件逮捕、勾留であるとした松村調書決定の判断が違法であるとは認められず、したがつて、同罪の逮捕、勾留期間中に作成された各供述調書は松村に対する関係においてばかりでなく、その余の被告人に対する関係においても証拠能力がないものといわざるを得ない。

次に、松村は前記のとおり、犯人隠避による逮捕、勾留の後四月一六日爆発物取締罰則違反及び日石土田邸事件により逮捕され、次いで同月一八日日石土田邸事件により勾留されたものであるところ、右一六日以降日石土田邸事件に関し多数の供述調書が作成されており、所論が取調の必要性を主張するCの1ないし5の各検面もこの期間内に作成されていることが認められる。

ところで、右のように違法な別件逮捕、勾留に引続きいわゆる本件の逮捕、勾留がなされ、本件の逮捕、勾留期間中にも同一事項についての供述調書が作成されている場合において、本件の逮捕、勾留期間における捜査官の取調は、別件の逮捕、勾留当時の取調結果を前提として、実質的に前後継続するものとして行われ、被疑者としても、別件の逮捕、勾留期間中の取調において供述したことの心理的影響ないし拘束力を本件の逮捕、勾留期間においても持続し、いわばその延長として供述するのが通常と認められるから、これと異なり、本件の逮捕、勾留期間中の供述が別件の逮捕勾留期間中のそれがなくとも得られたであろうという特段の事情の認められない限り、前記供述調書は別件の逮捕、勾留期間中に作成された供述調書と一体をなすものとして、その証拠能力を否定するのが相当である。しかるところ、本件において所論が取調の必要性を主張するものをも含め、日石土田邸事件の逮捕、勾留中に作成された各供述調書につき右の特段の事情が存在したとは認められないから、右各供述調書は、松村に対する関係においてのみならず、他の被告人に対する関係においても、その証拠能力を否定するのが相当である。松村調書決定は理由は異なるけれども、結論においてこれと同一判断に到達しているのであるから、同決定に違法があるとは認められないところである。

四 結論

以上検討したところによれば、増渕、堀、松村の前記各検面につきその取調請求を却下し、あるいはこれを証拠排除した原裁判所の訴訟手続に違法があるとは認められない。論旨は理由がない。

第三職権判断

第二で述べたとおり、自白ないし不利益供述を内容とする増渕、堀、松村の各検面の取調請求を却下しあるいはこれを証拠排除した原審の訴訟手続に違法があるとは認められないが、右各検面は、いずれも、原審において供述の経過を明らかにするとの立証趣旨の下に改めて職権で証拠調がなされ公判記録に編綴されていることが明らかであり、かつ右の証拠調に際し訴訟関係人からは何らの異議も申立てられていない。そして、このことからすれば事後審たる当審において、容易に参酌し得る状況にある右各検面を念のために原審の事実認定の審査の資料として、そしてその限度で用いるということは、必ずしも訴訟関係人の意思に反するものとは認められず、また本件においては起訴にかかる事実の重大性や審理の全経過等に照らし可能な限り事案の真相を明らかにすることが望ましいとも思われることからみて、本件は特にそのような取扱をすることを相当とする場合と考える。そこで、以下に右各検面の内容に立入りその信用性に関する主な点について、当裁判所の判断を示すこととする。

なお、検討の対象とするものとしては、所論が原審における取調請求却下決定等を違法とし取調の必要性を主張する各検面を主としつつも、その信用性の判断に必要な限りにおいてその前後に作成された同一人の検面、さらには同一人の員面(これらもまた、原審において供述の経過を明らかにするとの立証趣旨の下に職権で証拠調がなされ公判記録に編綴されている)をも含むものである。また当裁判所が右の判断をするに際しては、原審における右各調書の採否の過程において検察官及び弁護人から開陳された意見(それは右各調書の内容の真実性に関するものをも多く含むものである)をも十分に参酌したことを付言しておく。

一  いわゆる六月爆弾の製造及び実験に関する増渕の供述

1 供述の要旨(供述に変遷がある場合は、原則として、最終段階のそれを示す。以下も同じ)

昭和四五年六月中旬ころ桜上水の梅津宣民の下宿で、坂東国男が中心となり、蓋を取ると爆発する爆弾を作つた。そのトリツク装置は、容器の蓋に穴をあけ絶縁物をたらして蓋に結合し、二枚の金属板にはさみ、蓋を取上げるとその絶縁物が上に上がつて金属板が接触し電流が流れるというものだつた。そのころ、その爆弾実験をするため梅津、坂東、赤城こと金某、佐古、村松、江口、自分らが、二名の車に同乗し千葉県の興津海岸に行つた。梅津方を午後八時ころ出発し、興津海岸に午後一一時ころ着いた。爆弾を岩の間に固定し蓋の上に石を乗せ、蓋にひもをしばり、そのひもを離れたところから引張ると、爆弾は爆発し成功した(3・30検面)。

2 供述の信用性

ところで、増渕は、そのころ爆弾製造に先立つて梅津方で雷汞及び雷管を製造したとしてその状況を詳細に述べているのであるが、爆弾製造及び実験に関する同人の前記供述は、これと対比し具体性ないし臨場感を欠くことが明白であり、また爆弾を爆発させた方法として述べるところも、それ自体不合理さを感じさせるうえ、佐古48・3・20検面(なお、同人の3・12メモ―証二五三号の一部―参照)の「岩陰に爆弾を置きコードを引張つて離れた岩のうしろにかくれ、そのコードに電池を接続させて爆破させた」との記載とも一致しない点などからみて、十分な信用性を持つとは認められない。いわゆる六月爆弾事件に関し、増渕の供述調書以外の証拠によれば、同人らによる雷汞及び雷管製造の事実は認められるものの、さらに進んで、同人らの興津海岸における爆発実験(それに必要な爆弾の製造を含む)及びその後の爆弾製造の事実までをも認め難いことは前述したとおりであるところ(第一の三3イ参照)、増渕の供述調書(前記3・30検面のほか、3・18、3・26各員面)を併せ考察しても、右以上の事実は認定できないものというべきである。また、いずれにせよ、六月爆弾事件は日石事件より一年以上も前の事実であるから、この事実が増渕らの本件各犯行の関与を肯定する方向に働く情況とはいえるものの、これを重視すべきものとするにはいたらないと考えられる。

二  日石爆弾製造に関する増渕の供述

1 供述の要旨

昭和四六年一〇月上旬ころの夜高橋荘で、自分、堀、江口、中村(隆)、榎下、前林の六名が集まり、爆弾二個を作つた。トリツク装置は、二枚の金属板の間に絶縁体をはさんで入れ、絶縁体の上部を容器の蓋に固定させ、蓋を開けるとその絶縁体が上がつて二枚の金属板からはずれて接触し、二枚の金属板が通電してガス点火用ヒーターが熱せられ雷管が爆発するというものであつた。絶縁体は洋裁用のメジヤーを使つた。爆薬を入れる容器はアルミの弁当箱を使い、弁当箱二個は榎下に準備させた。電池は普通の乾電池一・五ボルトのもの一個または二個で、それを固定させるため電池ホルダーを使つた。爆弾に使つた雷管もその日同時に作り、雷管に使つた雷汞は二、三日前から作つておいた。爆薬の混合及び弁当箱に爆薬を詰める作業は江口が行つた。爆弾は三時間位で完成した(4・24、4・25各検面)。

2 供述の信用性

イ 日石爆弾の構造及び包装等に関する証拠及びこれにより認定し得る事実はおおむね原判示(八四五頁)のとおりと認められるところ、増渕の供述内容には <1>二個の爆弾とも絶縁体にメジヤーを使つたとしている点 <2>スイツチの形状を洗濯挟み式のものとしていない点 <3>外箱の蓋に絶縁体を固定したとしている点、などにおいて、実際の爆弾の形状と一致していない。

ロ 爆弾製造の場面に関する増渕の供述は、いわば筋書だけを述べるに等しく、江口以外の者の行為の分担とか、爆弾製造に当然伴うと思われる緊張感、さらには犯人であれば当然注意を払うと思われる指紋の付着防止などについては何ら触れる点がない。また、前掲各証拠によれば、二個の爆弾については <1>いずれも雷管の存在が確認されておらず、その爆発力の程度、特に爆発物Aについては爆燃状態を起こしたにとどまつたことからすれば、むしろ雷管は存在しなかつた可能性も大きいこと <2>外箱として、一つは木箱、一つはユーハイム缶が用いられること <3>スイツチの寸法及び弁当箱に巻かれた針金の太さがそれぞれ異なつていること <4>スイツチの絶縁体として、一つは黄色布地、一つは布製メジヤーが用いられていること <5>外箱と弁当箱との間にそれぞれ芯付き黒ビニールテープ及びハナヒサゴ印のおかず入れが用いられており、しかも、それらはいずれも爆発後も原形をとどめやすく捜査の手がかりとなりかねないものであること <6>爆発物Aの弁当箱の蓋には不要と思われる穴一個が開けられており、また右弁当箱はユーハイム缶の底に蓋を下にし、上下逆に取付けられていることなど、その理由に不審を抱かせる点が多く、またこれらのうち<2>ないし<6>は、二個の爆弾製造が別の機会に行われた可能性すら推定させるものであるが、増渕の供述はこれらの点についても全く触れるところがないのである。

ハ 増渕の供述において爆弾製造の場に居合わせこれに参加したとされている堀は、後に検討するとおり土田邸爆弾製造に参加した事実は自白しながら、日石爆弾製造に参加した事実は終始否認している。

3 まとめ

以上の諸点からすれば、この点に関する増渕の供述には十分な信用性を認め難い。

三  日石爆弾保管に関する増渕及び堀の各供述

1 増渕の供述の要旨

日石爆弾二個は手提紙袋に入れ、製造の翌日の午後石田茂の部屋に持つて行き、押入れの角に入れて預けた。その一、二日後、堀が高橋荘に来て、「宛名書等郵送の準備をするから爆弾をくれ」というので、自分は堀の運転する車に乗り祖師ヶ谷団地に行き、そこで車を止め、堀を喫茶店ウイーンに待たせて石田方に行き、預けていた爆弾二個を同人から受け取つてウイーンでこれを堀に渡し、堀はそれを車で持つて帰つた。一〇月一三日ころ堀が高橋荘に来て日石爆弾リレー搬送の話が出たとき、爆弾は堀が榎下のところに預けておくということになつた。一〇月一八日の日石搬送当日、自分は榎下から爆弾二個入りの手提紙袋を受取つた(4・24、4・25各検面)。

2 堀の供述の要旨

日石事件の前の週に、増渕に言われて白山自動車に行き、喫茶店サンの外で榎下に対して、翌週の月曜日に増渕を新橋まで乗せて行つてくれるよう頼んだ。何日か後の夜、祖師ヶ谷の喫茶店ウイーンで増渕と中大の堀と会い、三人で近くの赤ちようちんへ行つて三時間位酒を飲み、増渕と二人で高橋荘に行つたところ、増渕が「お前の車の中に爆弾を入れてあるから一日預つてくれ。開けさえしなければあぶなくない」と言つた。自分はスプリンターにこの爆弾を積んだまま、方南町の自分の家に帰つた。翌日は爆弾をシートの間に積んだままスプリンターを運転して多摩町役場に出勤し、その日は仕事の途中で爆弾のことが気になり何度か確かめてみた。その日帰りに高橋荘に寄り、増渕に爆弾を榎下に預けるように言われ、近くの電話ボツクスで榎下に電話し、スプリンターで白山自動車に行き、榎下に日石爆弾を渡した。榎下はこれをトヨエースの中にかくした(4・18検面)。

3 供述の信用性

イ まず、増渕の日石爆弾石田方保管に関する供述は、増渕が同爆弾を高橋荘で製造したと供述する以前の、同人が江口と堀との間の爆弾の受渡しの仲介をしたという不自然な供述と一連のものとして現われたものであり(4・8員面等)また増渕及び堀の同爆弾榎下方保管も、後に考察するとおり真実性に多分に疑問のある日石リレー搬送と密接に結びついてなされているのであるから、いずれもその信用性については慎重な検討が必要であるといわなければならない。

ロ ところで、増渕と堀の供述の内容をみると、いずれについても単なる記憶違い等では説明できないような供述の変遷が存する。例えば、増渕は、当初は爆弾を江口から受取り、すぐ堀に渡したと述べ(3・23検面等)、爆弾製造後これを堀に渡すまでの間第三者に保管させたという事実は全く述べておらず、それが若干の曲折を経て石田方保管を供述するにいたつたものである。また堀も、当初は、榎下に爆弾を預けに行つたとき増渕と一緒であり、かつ爆弾を預けたときに榎下に新橋に行つてくれるよう頼んだと述べていた(4・12員面等)のを、前記のように、榎下に爆弾を預けに行つたときはひとりで、かつそれは榎下に新橋に行つてくれるよう頼んだのとは異なる機会である旨供述を変更したものである。

ハ 増渕と堀の供述内容に顕著な差があることは、すでに摘記した両者の供述内容を対比すればおのずから明らかであつて、両者が共通に体験したところをともに真摯に供述しているとは到底認められない。

ニ また、増渕及び堀の供述内容には、それ自体または他の証拠との対比において不自然、不合理といわざるを得ない点が少なからず存在する。すなわち、

(一) 増渕が石田に爆弾の保管を依頼する十分な理由が見当たらず、むしろ秘密が露見する危険を高めるような行為と思われ不自然である。また増渕は何の予告もなく石田方を訪れたとされており、爆弾の保管を依頼するにしては周到さに欠けるといわざるを得ない。また、指名手配中の増渕が日石爆弾を手にしてまちなかを歩いたとするのも、余りにも無警戒な行為であつて不自然である。

(二) 堀が爆弾を乗せたままの車で通勤したとする点も、誤爆の危険と発覚の危険を増大させるという点で、きわめて不自然である。

(三) 堀が榎下方における爆弾の保管場所として供述するトヨエースは、白山自動車の工場の外の環状八号線に面した場所に置かれており、後部の扉は閉じられるようになつているとはいえ、施錠はなく、白山自動車の者あるいは、通りがかりの者の目に触れる可能性があつたと認められるから((員)大家睦美検証―増渕証三冊)、爆弾の保管場所としてはきわめて不適切なところというほかない。

ホ なお、増渕の供述に符合する石田茂の捜査当時における供述の信用性に疑問があることは、おおむね原判決(一四四〇頁)の説示するとおりと認められ、これをもつて増渕の供述の裏付けとすることはできない。

4 まとめ

以上の諸点からすれば、日石爆弾保管に関する増渕及び堀の供述にも十分な信用性を認め難い。

四  日石爆弾搬送及びサン謀議に関する増渕及び堀の各供述

日石爆弾搬送及びサン謀議の存否ということは原審における重要な争点であつたところ、原判決(一〇二八頁)は、中村(隆)の供述の信用性に関する説示中でこの事実を認め難いとした。そして、所論は、日石爆弾が日石内郵便局に差出される経緯について特に主張していないので、右の原判示を争つていないものと解される。したがつて、日石爆弾搬送及びサン謀議の有無ということは当審の争点となつていないけれども、この点に関する増渕及び堀の各供述は日石土田邸事件に関する同人らの全供述の重要部分をなし、その信用性をどうみるかが他の部分の供述の信用性の評価にも影響を及ぼすところが大と認められるので、以下に判断を加える。

1 増渕の供述の要旨

一〇月一三日ころ堀が高橋荘に来て、日石爆弾の郵送者として予定していた女がだめになつてしまつたと言つた。自分は、堀が金本らをオルグしていたのを知つていたので、金本がひよつたものと思い腹が立つた。自分は、一〇・二一闘争の位置づけをしていたため、その日までに相手方に小包爆弾が到着するように送らなければならないので、自分の方で郵便局に出しに行く女を頼もうと思い、堀に、「それではこつちでやるから車だけ頼む」と言つた。自分は前林と江口に頼み、小包爆弾を日石内郵便局に出しに行かせようと思つた。自分は一〇月一八日に江口が大阪の学会に行くことを聞いていたので、その出発前に郵便局に行かせアリバイを作つてやり、前林には松戸の実家に帰らせておき、当日松戸の市役所から車の登録に必要な住民票を取らせて新橋に来させ、日石内郵便局に小包爆弾を持つて行かせたあと、すぐに習志野へ車の登録に行かせてアリバイを作ろうと思つた。自分は、一人の自動車で出発から習志野まで行かせることはアリバイ上困るし、それだけ長い時間運転することを運転者に頼むことはむずかしいと思つた。そして、自分は堀にそのことを話し相談した結果、榎下の白山自動車に爆弾を預けておき、当日の一八日午前九時ころ榎下のところに自分と江口が行きそこで榎下から爆弾を受取り、自分と江口が榎下運転の車に乗り出発し、新宿付近で中村(隆)の車に乗り換えて新橋まで行き、郵便局近くで前林と落合い、前林と江口に爆弾小包を出させてから、前林が坂本の車に乗換えて習志野に行くことを決めた。それで自分は、榎下、中村(隆)、坂本を集めて当日の詳しい打合わせをする必要があると考え、堀に一〇月一六日ころの午後八時ころ喫茶店サンに中村(隆)、榎下、坂本を集めるよう指示した。堀が帰つた後、自分は前林に一〇月一六日に松戸の実家に帰り同月一八日午前一〇時半ころまでに新橋の日石ビル付近で待つていて、日石内郵便局に郵便物を出してから自動車登録に行くよう話して了解をとつた。江口には、堀から話があつた翌日ころの夜了解を得、なお江口が乗るのは東京駅午前一一時ころ発の新幹線ひかり号と決めた。これは日石内郵便局に一〇時半ころ着いて出せば間に合うと思つたからで、江口には一〇月一八日午前九時ころまでに榎下のところに来てくれるよう話しておいた。

一〇月一六日ころの午後八時ころ、自分は白山自動車の二階の応接室に行き、そこから荻窪駅付近の喫茶店サンに行つた。サンに集まつたのは、自分、堀、中村(隆)、榎下、松本の五名であつた。自分は皆に一〇月一八日に新橋の日石内郵便局から小包爆弾を送ることを話して協力を求めたうえ、自分と堀から三段階の乗りつぎのことを話した。榎下に対しては一八日午前九時ころ白山自動車から新宿の高速道路の入口付近まで自分と江口を送つてもらいたいこと、中村(隆)に対しては午前九時半ころその公園のところから新橋まで自分と江口を送つてもらいたいこと、坂本に対しては午前一〇時半ころ新橋から習志野まで前林を送つてもらいたいことを頼むと、榎下、中村(隆)、坂本とも了解して引受けてくれた。

一〇月一七日夜長倉悟の下宿に行つた。そこは白山自動車まで歩いて四・五分のところであり、翌日の白山自動車での江口との待合わせのことを考えて泊めてもらうこととし、長倉と二人で深夜まで酒を飲んだり将棋を指して寝た。一〇月一八日午前八時ころ長倉が会社へ行くと言つて出て行つたが、そのあとしばらく寝て午前八時五五分ころ下宿を出た。そして自分は歩いて午前九時ころ白山自動車に行くと、江口もそのころ白山自動車に来た。榎下から爆弾二個入りの手提紙袋を受取つたが、その中に紺色事務服二着が入つていた。白山自動車付近から榎下運転のスバルサンバーで新宿の高速道路入口付近に行き、そこで中村(隆)運転の自動車に乗換え、日石ビル付近で前林と落合い、自動車の中で江口と前林が事務服を着た。そして午前一〇時半ころ前林と江口が爆弾を持つて日石内郵便局に行き、一五分位して戻つて来た。前林、江口が郵便局に小包爆弾を出して戻つて来てから前林、江口とも中村(隆)の車に乗り、中村(隆)はすぐ車を新橋方向に走らせた。前林と江口は事務服を車の中でぬぎ、それを車の中に置いた。新橋付近で車が止められ、待つていた坂本運転の車に自分と前林が乗換え、習志野に行き陸運局まで送つてもらつた。坂本は陸運局からすぐ引返し、帰りは総武線で新宿に来て京王線を利用して前林と二人で高橋荘に午後四時か五時ころ帰つてきた(4・25、4・29各検面等)。

2 堀の供述の要旨

増渕に言われて榎下に爆弾を預けたころ、増渕、榎下、中村(隆)、坂本、自分の五人が喫茶店サンの斜め前辺りにある喫茶店で新橋へ爆弾を運ぶ手はずを確認した。増渕が手帳のようなものを見ながら、榎下、中村(隆)、坂本の三人に一八日の月曜日の午前中に新橋まで爆弾を運ぶ車の運転について指示をしていたが、指示の細かい内容については記憶していない。誰かが断つたという記憶もない(4・27検面)。

3 供述の信用性

イ まず、増渕の供述には明白な虚偽が含まれている。すなわち、原判示のように、中村(隆)は、日石事件当日府中市の運転免許試験場で普通免許の取得のため受験しておりアリバイがあることは明らかであり、したがつて、増渕の供述中、中村(隆)が日石爆弾搬送行為の一部を担当したとする部分は虚偽であるというほかなく、このことは増渕の右搬送行為に関する供述の他の部分及び右搬送行為と表裏一体の関係にあると認められるサン謀議等に関する増渕及び堀の各供述の信用性に重大な影響を及ぼすものといわざるを得ない。また増渕は、前記のとおり、当日前林とともに坂本の車に同乗して千葉陸運事務所習志野支所まで行き、帰りは前林とともに電車を利用して午後四~五時ころ高橋荘に帰つたと述べているのであるが、このうち少なくとも帰りの行動に関する部分も虚偽であると認められる。すなわち、関係証拠上、前林は一〇月一八日右陸運習志野支所に自動車の登録手続に赴いている事実が明らかであるが、証人村越スミの原審二二六回公判における供述及び同人の検面(証九九冊)によれば、前林はその帰途、夕刻市川駅付近の喫茶店で友人村越スミと会つており、かつその際村越は増渕の姿を見かけていない事実が認められるからである(もつとも、右村越の供述においては、同人において前林と会つた日が一〇月一八日であるかは必ずしも明確でないけれども、前林が陸運習志野支所へ自動車の登録手続に赴いたのが同日であることは証拠上間違いのない事実であるとともに、同女がそのころ他にも同支所に赴いている形跡は全くなく、他方において、村越の供述する前林との会話内容等からすれば、前林が村越に会つたのは同支所からの帰りであつたことが推認できることからすれば、両名が会つた日は一〇月一八日と認定するのが相当である)。

また、堀は、前林らが爆弾差出しに際し着用した事務服は自分が多摩町役場で相沢れい子の事務服を窃取したと述べているのであるが(4・27検面等)、相沢れい子はこの事実を明確に否定しているから(三部一四回証人相沢れい子の供述―証六九冊)、この点の堀の供述も虚偽というほかない。

ロ 増渕の供述は、実際にあつた出来事を述べるものとしてはきわめて簡単で、いわば筋書きだけを述べるに等しく、具体的場面に当面した者が当然記憶に残してよいはずの事柄やその際の内心の動きなどについてもほとんど触れるところがない。例えば、江口及び前林が真に日石内郵便局から爆弾小包を差出したとするならば、原判示(八四〇頁)のように、小包を差出した女性が一旦その返還を求め、次いで別の女性が現われたという経緯があつただけに、同女らがその後車中に戻つた後差出しの際の状況等に関し同女ら及び増渕との間に何らかの会話が交わされるのが当然と思われるが、増渕の供述は、この点について何の言及もない。また、堀の日石搬送謀議に関する供述も、先にその内容を摘記したとおり、謀議の内容についてはきわめて曖昧なものにとどまつている。

ハ 増渕、堀の各供述の内容を検討すると、いずれについてもかなり重要な点において単なる記憶違いや不確かさ等に起因するものとはいい難い供述の変遷、動揺が認められ、特に増渕の供述についてその傾向が著しい。

すなわち、増渕の最終的な供述内容は前記のとおりであるが、そこにいたる間に作成された検面及び員面においては、搬送担当者の数及び具体的人物、自己が習志野市まで同行したかなど、およそ記憶違いがあり得ないと思われる事項について供述の変遷がみられ(特に4・9検面において堀がその車を利用して日石搬送を行つたとする点は、堀の勤務状況簿写―証一冊によれば同人には当日勤務先に出勤していたアリバイがあると認められることから明らかに虚偽である)、その他日石事件当日の自己の出発地点、江口との合流地点、前林との合流地点、江口の下車地点、日石搬送の謀議の場所・態様・参加者等についても顕著な供述の変遷を示している。また、堀についても、謀議の参加者として当初は坂本を挙げていなかつたところ、その後同人が参加したとするにとどまらず、爆弾搬送の指示をも受けたとするなどの変遷がみられるところである。

ニ また、増渕、堀、さらに原審で取調べられた中村(隆)の各供述調書の間には、その最終的な供述内容に限つても看過し得ないくい違いが存する。その代表的なものは日石搬送の謀議の場所に関するものであつて、増渕、中村(隆)がサンを供述するのに対し、堀はサンと明確に区別しつつ、他の喫茶店(ボサノバなる店を指すことは関係証拠上明白である)を供述しているのである。

ホ また、増渕、堀の供述の内容には中村(隆)が搬送を担当したという虚偽部分を除いても、それ自体または他の証拠との対比において不自然、不合理といわざるを得ない点が多数存在する。すなわち、

(一) 爆弾のリレー搬送ということは、確かに各運転担当者の犯行関与時間を短かくし、アリバイ主張を容易にするという面も持つものの、外部に対して極秘であるべき事柄を知る者の数を増やし犯行が他に漏れる可能性を増大させるものであるから、犯行の方法としてはむしろかなり危険なものとみられるのである。また原判決(一〇三八頁)も中村(隆)の自白の信用性の判断に当たつて説示しているように、リレー搬送をするに当たつては、いうまでもなく、待合わせる時刻と場所が正確に指示され、確実に引継ぎができないと、計画どおりに実行できなくなるのであるから、このような方法による以上は、これらの点についての指示が詳細になされるはずであり、また、待呆けを食つたり、相手の車両を捜し回るような結果にならないような配慮がされるはずであるが、増渕らの供述内容からはそのような状況が窺われず、引継場所も新宿の高速道路入口付近の公園等と指示したというにとどまり、また時間も、それぞれ九時半ごろと指定したというのである。のみならず、ドツキングの失敗の危険がかなりあることも否定できず、例えば道路の混雑による大幅な遅延の虞れや、急な事情のために搬送のメンバーのうちのある者が参加できなくなるといつたことも考えられ、これがアリバイ工作の一環となると、その影響するところも大きいのであるから、リレー搬送の方法で行うこと自体合理的といえるかどうかにも問題があると考えられ、少なくともそのような不測の事態に対しどのように対処すべきかについての指示等もあつて然るべきであると思われるのに、そのような供述にはなつていないのである。

(二) 同様に、原判決(一〇四一頁)が中村(隆)自白の信用性に関して判示しているように、増渕らのサン謀議供述の内容がもし正しいとすると、中村(隆)は搬送当日は府中の運転免許試験場に受験に赴いていたのであるから、同人はサン謀議において一旦搬送関与を引受けながらその後犯行前にこれを断り、搬送担当の予定から脱落したことになる。しかし、運転免許試験は搬送当日に限らず常時行われているものであるから、中村(隆)が一旦引受けた搬送を断るということは、犯行関与に尻込みをしたということになるが、そういうことはあり得ないことではないけれども、増渕らの了解を得ることはむずかしいことではないかと思われる。

(三) 原審六一回及び六三回長倉悟供述によれば、増渕の供述調書にあるように、増渕は一〇月一七日夜長倉悟方を訪れ、同人と二人で深夜まで酒を飲んだり将棋を指した後同所で宿泊した事実を認め得るとともに、増渕が就寝したのは翌一八日午前四時ころであつたこと、長倉は神田神保町の有精堂へ出勤するためその朝午前八時一〇分ないし一五分ころに出かけたが、そのときまだ増渕は横になつたままで、半分身体を起こして「もうちよつと休んでいく」と言つたこと、また増渕は長倉に対し一八日朝に起こしてくれと頼んだようなことはなかつたなどの事実が認められる。

ところで、このような増渕の行動は、当日朝政府権力機関の要人に小包爆弾を郵送するという大事を決行するためかなり綿密な時間的計画を立てていて、寝過し、遅参等は万一にもあつてはならない立場にあつた者のそれとしてはいかにも不自然であるといわざるを得ない。

(四) 増渕の供述によると、日石爆弾は江口、前林がそれぞれ差出すことになつており、また実際にも当日二人がそれぞれ一個を持つて日石内郵便局に行つたとされている。ところが、原判示のように、現実には二個の爆弾が一人の女性によつて郵便局窓口に差出されたことが明らかであり、増渕の供述する事前の計画と実際の犯人の行動は矛盾しているというほかはない。

(五) 増渕の供述によれば、同人は爆弾差出し後前林とともに坂本の車に同乗して陸運習志野支所まで行き、帰りは坂本と別れて高橋荘に帰つたとされているが、当時指名手配中であつて公衆の前に顔を出すことはできるだけ避けるべきであつたと思われる増渕が危険を顧みずあえて習志野まで同行しなければならなかつた理由は何らなかつたと思われる。

4 まとめ

以上検討した諸点、特に中村(隆)のアリバイが存在することによれば、日石爆弾搬送及びサン謀議の事実に関する増渕及び堀の各供述の信用性がきわめて低いものであることはおのずから明らかである。そして、右の日石爆弾搬送等の事実が増渕及び堀の各供述において日石事件の犯行に密接する重要な事柄とされているだけに、このことは同人らの日石事件に関する供述全体の信用性についても重大な疑問を投げかけるものというべきである。

五  土田邸爆弾製造に関する増渕及び堀の各供述

1 増渕の供述の要旨

昭和四六年一二月上旬ころの夜高橋荘で、自分、堀、江口、榎下、中村(隆)、前林の六名が土田宅に郵送するトリツク装置付爆弾を作つた。トリツクにはマイクロスイツチを使い、中村(隆)に命じ買つて来させた。爆薬を入れる容器にはドカ弁と呼ばれる大きい弁当箱を使い榎下に準備させた。爆薬の混合と弁当箱にこれを詰める作業は江口がやつた。結線は包装の段階で行うようにするため、容器の底に穴を開けて二本の線を出しておいた。雷管はアルミホイルを円筒にしたのを使つた。二時間位で爆弾は完成した(4・26検面等)

爆弾の材料として四角な小型の電池一個を使い、その他電池の電極を結び合わせるのに使用するキヤツプ一個、リード線、接着剤、箱などを使つた。爆弾の容器としては木箱を使つている。ビニールテープ、ガムテープも用意されていた。爆薬の混合は江口がやつたので、どのような薬品を使つたかは判らない。江口が薬品を混合し細かくすり潰しており、色は白色でサラサラした感じの薬品であつた(5・3検面)。

2 堀の供述の要旨

昭和四六年一二月初旬ころ増渕の連絡で金本を連れて高橋荘に行つたが、そこに増渕、江口、前林、榎下、中村(隆)、坂本、松本が集まり爆弾を作つた。作業で印象に残つているのは、誰かが金属性と思われる箱に白色の粉を入れ、棒のようなもので上をならしている状況である。その他乾電池が二個並列に何かの板にセツトされていたのを見た記憶がある。外の見張りには松本と坂本とがあたり、「何かあつたら懐中電灯で合図をする。その合図を自分か前林が部屋の中の窓際に置いてある椅子に座り注意して見ている」と指示された。実際に合図しあつたことはない。自分は爆弾を作つている部屋の中の異常な雰囲気から息拔きをするために見張り中の松本・坂本の車の所に行つた。高橋荘を出て横の道幅六メートル位の道路を西の方へ向かつて約七、八〇メートルの公道から少しひつこんだ私道のような場所に駐車中のローレルの中の運転席に松本、助手席に坂本が乗つており、自分は車の後のドアから中に入り、彼らに爆弾作りの状況を簡単に話し、その後三人でカーステレオ(カセツト)かラジオを聞いてしばらく休み、彼らにもう少しかかるからなどと言残して部屋に戻つた。爆弾作りは二時間位で午後一一時ころ終わり全員で車に分乗して環状八号線沿いのドライブインで食事をして別れた(4・27、5・18各検面、4・29員面)。

3 供述の信用性

イ まず、増渕供述は、ここにおいてもきわめて具体性に乏しく、江口以外の者の行為の分担とか爆弾製造に当然伴うと思われる緊張感等については何ら触れるところがない。そして、このことは程度の差こそあれ、堀供述にも当てはまるものである。また土田邸爆弾が日石爆弾に比しその爆力がはるかに高度であることは、両爆発現場の状況自体から明らかであるが、その原因は必ずしも科学的に解明されておらず、その後に行われた爆発物実験結果((員)松岡忠雄47・2・23爆発物実験結果見分捜査報告書(謄)―増渕証一二冊等、(員)関春雄47・5・9第二回爆発物実験結果見分報告書(謄)―松村証六冊等参照)等に徴すると、土田邸爆弾については日石爆弾と異なる高級爆薬が用いられた可能性も否定できないと思われるけれども((員)古賀照章48・5・10捜報謄本―増渕証一二冊等参照)、増渕の供述はこの点について何らの手がかりをも提供するものではない。また、爆発現場での発見されたアルミ箔は総重量三二・九四グラムとかなり多量であつて単に雷管の管体として使用されたということで理解できるものではないが((員)郡山正士捜報―証四九冊)、この点についても増渕の供述は何ら触れていない。また、増渕及び堀の供述によると、六名ないし九名の者が高橋荘に集まつたことになるが、参集者とされる者は当時増渕を除き仕事を持つていたのであり、これらの者がいかなる連絡によつて日時を調整し一堂に会することができたかは、増渕らの供述によつても明確でないのである。

ロ 増渕、堀及び原審で取調べられた中村(隆)の各供述調書を対比すると、その間に看過し得ないくい違いが存在する。その代表的なものは、製造参加者の数を増渕が六名とするのに対し、堀、中村(隆)は九名とする点であるが、その他製造日が平日か休日か、各人の行為の分担等についても供述が一致していない。

ハ さらに、増渕、堀の供述内容には、それ自体不自然、不合理といわざるを得ない点が少なからず見受けられる。すなわち、

(一) 原判決(一一二〇頁)も中村(隆)の供述の信用性の判断に際して説示しているように、製造に参加した者は九名、少なくとも六名にのぼるが、これほどの多人数で、しかも四畳半と三畳程度の狭いアパートの一室で、物音が聞こえやすい夜間に爆弾製造を行うものであろうか、さらに爆弾製造の秘密は厳重に保持される必要がある点からも、またこの程度の爆弾製造に要する人員の点からも、このような多人数で行うことは不必要であり、さらには危険ではないであろうかという疑問がある。

(二) 原判決(一一二二頁)が同様に説示しているように、指紋等の付着については、爆発しなかつた場合などをも考慮して細心の注意を払うのではないかと思われるが、増渕らの供述によると、その点に関心を抱いていたことが窺われないのはいささか不自然に思われる。

(三) 堀の供述中、同人が爆弾作りの異常な雰囲気から息拔きをするため外に出てカーステレオを聞いたとする部分は、同人が増渕に次ぐ首謀者であつたとするならばややのんびりした話であつて不自然である。また、同人は、ある時期には、「自分が増渕の部屋の窓側に座つて窓を開けては松本らと連絡をとり合つた。多分、車のライトやクラクシヨンで連絡したのではないかと思う」と述べているのであるが(4・27検面)、夜ふけの静かな住宅地域でこのような人の注意を惹く方法をとつたとすることは俄かに信じ難く、取調官も不審を抱いたため前記の内容の供述に変更されたのではないかと思われる。

ニ なお、原審において取調済の中村(隆)の捜査段階及び初期公判における供述並びに金本の捜査段階における供述中には、増渕及び堀の各供述に符合する部分もあるが、前述したようにそれらの信用性には疑問があるから(第一の三1イ及びホ参照)、これをもつて増渕及び堀の各供述を裏付けるものとすることはできない。

4 まとめ

以上の諸点からすれば、この点に関する増渕及び堀の各供述にも十分な信用性を認め難い。

六  土田邸爆弾八王子保管に関する増渕及び堀の各供述

1 増渕の供述の要旨

昭和四六年一二月一一日ころの午後五時半ころ、堀に土田邸爆弾を渡して郵送の準備をさせるため聖蹟桜ヶ丘駅付近の喫茶店に行き、堀にこれを渡したところ、同人から「郵送の準備をするまで土田邸爆弾を中村(泰)の居る八王子保健所に預かつて貰おう」と言われた。堀は、「中村(泰)が今夜宿直なのですぐ預けに行こう」と言い、堀のカローラスプリンターに乗り、同人が運転して八王子保健所に午後七時ころ着き、自分が爆弾を持つて堀とともに保健所の中に入つた。畳三帖位の宿直室と思われる部屋で、中村(泰)に「これやばい物だが、しばらく預つてくれ。さわるんじやあないぞ」と頼み、中村(泰)のロツカーに保管してもらつた。一時間位いて午後八時ころ保健所を出て、堀に車で高橋荘まで送つてもらい別れた。

一二月一五、六日ころの午後八時ころ高橋荘に堀と金本が訪ねて来、堀は「出来たから持つてきた」と言つて手提紙袋に入つた爆弾を渡した。宛名書等の郵送の準備を終えて持つてきたものである(4・26、4・29各検面)。

2 堀の供述の要旨

昭和四六年一二月の確か土曜日の天気の良い午後、八王子保健所の中村(泰)の所へ車で増渕を連れて行つた。聖蹟桜ヶ丘の喫茶店ニユーエコーで待合わせ出発した。車の中で増渕が荷物を持つていたかどうかは思い出せない。八王子へ着いてからすぐ保健所へ行つたかどうかははつきりしない。保健所へ着いたのは夜だつたと思うが、明るいうちに行つて帰るときに暗くなつていたのかもしれない。中村(泰)が当直だつたが、それは前もつて知らなかつた。多分増渕が中村(泰)に電話しておいたと思う。一度中に入つてから後部座席の上に置いてあつた箱型の新聞包みを取りに行つた。それを保健所の事務室で中村(泰)に預けた。同人はそれを一度自分の机に入れようとして結局入れるのをやめて別の所へしまつたが、どこへしまつたのか分らない。その時増渕がその事務室にいたか当直室の方にいたのかも覚えていない。帰りは、自分が増渕を給田まで送つたと思う。その数日後増渕に言われて、前述した新聞包みを八王子保健所へ受取りにいつた。その夜中村(泰)が当直であることを確かめた記憶はなく、増渕が中村(泰)と連絡をとつておいたのではないかと思う。保健所で中村(泰)にロツカーの傍まで連れて行かれ、そこで箱型の新聞包みを受取つた。東京都の大封筒を中村(泰)からもらつたが、新聞包みをその封筒に入れたかどうかは憶えていない。これらの荷物を高橋荘に運んだが、車のどこへ乗せたかは憶えていない。高橋荘には増渕、前林がいて、自分は受取つて来た新聞包みを増渕に渡しすぐ帰つた(4・6、5・18各検面)。

3 供述の信用性

イ まず増渕の供述によれば、土田邸爆弾の八王子保管はこれに先立つ同爆弾の製造と一体をなすものであることが明らかなところ右製造の事実を認定することが証拠上困難なことは前述したとおりであり、したがつて、土田邸爆弾八王子保管についてもこれを認定するについては疑問をさしはさむ余地がある。また、増渕のこの点に関する供述も、日石爆弾と同じく、同人が爆弾を高橋荘で製造したと供述する以前の、同人が江口において製造した爆弾を堀に対し受渡しの仲介をしたという不自然な供述と一連のものとして現われたものであること(4・8員面)にも留意する必要がある。

ロ 増渕及び堀の供述とも具体性ないし臨場感に乏しく、例えば、当然印象に残るはずと思われる爆弾授受の際の中村(泰)の反応等についても触れるところがない。また堀の供述には、憶えていないとかはつきりしないとする趣旨の部分がかなり多い。

ハ 増渕及び堀の各供述の間には、土田邸爆弾八王子保管の発案者が誰か、その後増渕が堀に命じてこれを取戻させ高橋荘に運ばせた事実があつたかなど重要な点において相違がある。また、両名の供述と原審で取調済の中村(泰)の供述調書の間にも、爆弾を保管した日の午後に両名から八王子駅前に呼び出され、一旦別れた後再び両名が夜になつてから八王子保健所に訪ねて来たものであるかなどの点において差がみられる。

ニ 増渕及び堀の供述内容には、それ自体または他の証拠との対比において不自然、不合理といわざるを得ない点が少なからず存在する。すなわち、

(一) 増渕及び堀の供述に符合する中村(泰)の捜査当時における供述の信用性につき疑問があることは前述したとおりであるが(第一の三1ハ(二)参照)、その根拠として挙げた<1>土田邸爆弾は都内神田神保町の郵便局に差出されていることが明らかなところ、何故に同爆弾の製造場所とされている高橋荘から同爆弾を距離的に神田神保町から遠くなる八王子まで誤爆や発覚の危険をおかして移動させなければならなかつたかにつき納得し得る理由は見出し難いこと <2>中村(泰)と増渕との交際関係等からすれば、中村(泰)は増渕が爆弾を預けるほど同人と思想的に緊密であつたとは認められないこと <3>八王子保健所は公務所といつても人の出入りは自由で、また中村(泰)のロツカーも同僚などの接近も自由であつたと認められることなどから、保管場所としては必ずしも適切であつたとは思われないこと、などは、増渕、堀に対する供述の疑問点としてもおおむねそのまま妥当すると思われる。

(二) 増渕、堀の供述によつても、同人らが爆弾保管につき事前に中村(泰)の了解をとりつけた形跡はなく、せいぜい事前に当直であることを聞いたに過ぎないと認められるが、爆弾を預けるについては、保健所内に人から発見されることが困難な適当な隠し場所があるか、もしロツカーに保管するとするならば鍵がかかるなど保管場所の安全性を事前に確認し、さらに発送日時との関係で次の中村(泰)の宿直予定等の都合を聞き、差出日までの間に適当な宿直日があり持帰りも他人の目に触れずにできることを確認するなどをしてはじめてこれを行うのでなければ不合理ではないかと思われ、増渕らの供述するところは周到さに欠けるものといわざるを得ない。

(三) 指名手配中の増渕が爆弾を手にして聖蹟桜ヶ丘駅付近まで出かけていくのも不自然である。なぜ、他の多くの場合のように、堀を車で高橋荘まで来させることをしなかつたのであろうか。

4 まとめ

以上の諸点からすれば、土田邸爆弾八王子保管に関する増渕及び堀の各供述にも十分な信用性を認め難い。

七  土田邸爆弾搬送に関する増渕の供述

1 供述の要旨

昭和四六年一二月一五、六日ころの午後八時ころ高橋荘に堀と金本が訪ねて来て手提袋に入つた爆弾を渡されたとき、自分は、松本に頼んでその運転する車で自分と前林が南神保町郵便局に出しに行こうと思つていたので、松本のところに爆弾を預けておき、当日同人の家に行つてこれを受取り、そこから車に乗せて行つてもらおうと思つた。そこで、堀の車に乗せてもらつて松本の店に行き、自分だけが爆弾を持つて降り店の中に入ると、松本がいたので、店の裏に呼出し、「一七日にこれを神保町の郵便局から発送するから当日自動車で送つてくれないか」と頼むと、松本は引受けてくれた。自分は、「これを預つておいてくれ、一七日午前一一時ころ来るから」と言つて紙手提袋に入つた爆弾を渡して松本と別れ、堀の車で高橋荘まで送つてもらつた。戻つてから前林に、「一七日に出すので行つてくれ。一旦出勤しタイムレコーダーを押してからエスケープして午前一一時ころ阿佐ヶ谷の喫茶店華厳に来い。俺も一緒に行く。会社には一時ころまでには帰れる」と言つて頼むと、前林は引受けた。一二月一七日の午前八時ころ前林が高橋荘から出勤し、自分は午前九時ころ土田爆弾を持つてバスを乗換え阿佐ヶ谷駅に行き、そこから徒歩で華厳に着いた。午前一一時ころ華厳に前林が来たのですぐ松本方に行き、自分は助手席、前林は後部座席に乗り、松本がニツサンローレルを運転して神田に向かつた。爆弾は松本から受取り自分のひざの上に置いた。青梅街道を通つて神保町に出て、三省堂の交差点付近で停車させ、自分が爆弾を前林に渡して同女に南神保町局に出しに行かせた。この時間は正午前後ころと思う。自分は松本とともに車の中で待つていると、一五分位で前林が戻つて来たので松本の車で阿佐ヶ谷駅まで送つてもらい、前林はそこから国電で勤務先の岡田香料へ行き、自分はバスで高橋荘に戻つた。前林はいつものとおり午後六時半ころから七時過ぎころまでの間に帰つて来た(4・29検面)

2 供述の信用性

イ 増渕の供述によれば、土田邸爆弾搬送はこれに先立つ同爆弾の製造及びその八王子保管と一体をなすものであることが明らかなところ、右製造及び八王子保管の事実を認定することが証拠上困難なことは前述したとおりであり、したがつて、土田邸爆弾搬送もこれを認定するには証拠上疑問をさしはさむ余地がある。

ロ 原判決も説示するように、松本の車に同乗し爆弾を郵便局へ差出したとされる前林については、一二月一七日の昼休みである午前一二時少し過ぎころ富士銀行吉祥寺支店において自己名義の普通預金口座から六、〇〇〇円の払戻手続をしたアリバイが成立する可能性が強い。そして、この事実は被告人増渕の供述を前提とする限り、日石事件爆弾搬送における中村(隆)アリバイとほぼ同様の意味を持ち、その信用性につき大きな疑問を投げかけるものである。

ハ 増渕の供述によると、一二月一七日の前林の出勤はアリバイ工作のためであつて、同女は昼休みをはさみ会社関係者に気づかれぬようエスケープしてきたというのであるから、同女としては、会社から離れる時間ができるだけ短くなることを考えるべきであつたと思われる。ところで、同女の当時勤務していた国電吉祥寺駅に近い岡田香料と南神保町郵便局との往復には吉祥寺駅とお茶の水駅間の国電の利用が最も短時間ですむことが明らかであり、同女が何故に国電を利用して、爆弾を持つた増渕と南神保町郵便局付近で合流し、かつ帰路も国電を利用して会社に帰らなかつたのかは容易に理解し難い。

ニ 次に、増渕の供述は、ここでもいわば筋書だけを述べるに近く、当然述べて然るべき内心の動き等について触れるところがない。例えば、爆弾を出し終つて戻つて来た後または会社から帰宅した後において、前林との間には爆弾を出した際の状況(日石爆弾が失敗した後のことであつてみればことさら増渕にとつて関心のあることと思われる)とか会社において無断外出を咎められなかつたかなどについて会話がなされるべきものと思われるのに、増渕の供述はこれらの点についてほとんど触れるところがない。

ホ また増渕の最終的な供述内容は前記のとおりであるが、これと当初の段階の4・9付検面等における自白とを対比すると、かなり重要な点において単なる記憶違いとはいい難い供述の変遷が認められる。例えば、爆弾の差出日について最終的には前記のとおり一二月一七日と供述し、かつその理由として、「堀が実際に小包を送つてみて都内なら一日で着くことを確かめたので、上赤塚事件の記念日である一二月一八日に着くようその前日に発送することにした」と述べているのであるが、(4・28員面)、このような経過があつたとするならば印象深いものとして記憶に残りやすいと思われるのに、当初の段階の供述ではこのような経過は何ら述べておらず、爆弾発送の日は一二月一六日ころであるとしているのである(4・9、4・19各検面)。また最初概括的に郵送は堀が担当したと述べていた段階の供述はひとまず措くとしても、その後南神保町郵便局からの郵送を具体的に供述するにいたつた後においても、当初は、堀に郵送を担当させることとしていたと述べていたのを(4・9検面等)、その後自分と前林で郵送するつもりであつたと訂正し(4・29検面)、さらに爆弾の保管についても、当初は、堀らが持つて来たものを一七日当日まで高橋荘に置き自分自身がこれを持つて行つた旨述べていたのを(4・9検面等)、前記のように堀らが持つて来た当日松本方に預けに行き一七日まで預かつてもらつた旨訂正している点などである。また南神保町郵便局付近における停車地点が「三省堂の裏付近の道路」(4・9検面等)から特段の理由もなく前記のように「三省堂前の交差点付近」と変つているのも、これを単なる記憶違いとみることは困難である。

ヘ なお、日石爆弾搬送については増渕の供述(それは既に考察したように信用し難いものではあるが)を裏付ける供述をしている堀は、土田邸爆弾の松本方保管等については、これと異なり、「土田邸爆弾を八王子保健所の中村(泰)に預けた後増渕に言われてこれを取りに行き高橋荘に運んだが、その夜私が増渕を車に乗せ松本方に行かなかつたかと聞かれても、そのような記憶はない。高橋荘で爆弾を渡してそのまま帰つたように思う」旨、最後まで増渕供述を否定する趣旨の供述をしていたものと認められる(5・18検面)。

3 まとめ

以上検討した諸点、特に前林アリバイの存在の可能性が強いことによれば、土田邸爆弾搬送に関する増渕の供述の信用性はきわめて低いものというべきである(ちなみに、所論も、土田邸爆弾を神田南神保町郵便局に差出したと主張するのみで、同爆弾を同郵便局まで持参する経過については何ら具体的な主張をしていないのである)。そして、右の土田邸爆弾搬送の事実が増渕の供述において土田邸事件の犯行に密接する重要な事柄とされているだけに、このことは同人の同事件に関する供述全体の信用性についても重大な疑問を投げかけるものというべきである。

八  筆跡採取に関する増渕の供述

1 供述の要旨

昭和四六年一〇月上旬ころ(高橋荘で筆跡集めをした。メンバーは自分、前林、堀、榎下、中村(泰)、松本であつた。書いた内容は堀がメモしてきた警察庁長官と成田国際空港総裁の宛名、住所等でワラ半紙を八つ折り位にした大きさの紙にマジツクや万年筆を使つて書いた。この筆跡集めは、爆弾郵送の際の筆跡を隠すためにやつたことで、集めた筆跡は堀が持つて帰つた(4・25検面)。

2 供述の信用性

右の増渕の供述に符合するものとしては、原審で取調べられた中村(泰)の供述調書があるが、これと増渕の供述を対比すると、筆跡採取の時期及びメンバーに榎下も含まれているかなどの点で差異が存するところである。さらに、原判決(一二二二頁)が中村(泰)の供述の信用性に関して指摘してるように、日石爆弾の荷札の記載にはいくつかの誤りないし訂正が存在することが明らかであるところ、もし筆跡隠しを考えて筆跡集めまでしたうえでの用意周到な犯行であれば、犯人はそれを利用した写し字の方法による犯行に及ぶのがむしろ普通であろうし、ましてそれをすつかり忘れたかのように誤りの多い宛名書をすることは考え難いことであつて、このことは筆跡集めを行つたこと自体について疑問を抱かせるものである。

3 まとめ

右にみたとおり、筆跡採取に関する増渕の供述の信用性も、疑問を免れないところである。

九  下見関係に関する増渕の供述

1 供述の要旨

イ 日石下見について

昭和四六年一〇月初めころ榎下と二人で、同人の運転する自動車で日石ビル付近を下見し、日石ビルの周りを見てまわつた。時刻は午後八時か九時ころだつたと思う(4・25検面)。

ロ 神田、雑司ヶ谷下見について

一二月初めころの夜榎下に頼み、榎下運転の車で神田の南神保町郵便局付近を下見した。またそのころの夜松本に頼んで、松本の運転する車で豊島区雑司ヶ谷の土田邸付近を下見した(4・26検面)。

2 供述の信用性

右の増渕の供述は、いわば骨と皮のみといつても過言でなく、下見の状況をほうふつとさせるところは全くない。特に雑司ヶ谷下見については、事故後の実況見分の結果等によれば、一二月初めにおいても土田邸は改築中であつたことが外見上明白であつたのであるから、もし増渕が実際にそのころ土田邸を下見したのであれば、目指す土田警務部長が同所に住んでいるかどうかにつき不審を抱き、引きつづきさらに下見をするか、他の手段により同部長の入居の有無を確認するかしたと思われるのに、増渕の供述はこれらにつき何ら触れるところがないのである。したがつて、増渕の供述するとおりの下見があつたとすることは、証拠上疑問であるといわざるを得ない。

一〇  日大二高の電話帳持出に関する松村、増渕及び堀の各供述

1 松村の供述の要旨

昭和四六年九月一一日ころ堀に学校の電話帳を貸したことがある。午後七時ころ堀が一人で職員室を覗き、自分一人でいるのを確かめてから増渕と一緒に入つてきた。職員室で三人でテレビを見たり雑談したりし、八時半か九時ころになつて二人が帰ろうとしたとき、堀が自分にテレビの横に積んである電話帳を貸してくれと言い、職員室には電話帳が二揃い置いてあつたので承諾した。何に使うかは聞かなかつたが、警察の首脳部に対する攻撃の目標にする人の住所などを調べるつもりだろうと思つた。二人で手分けして昭和四六年版の職業別二冊、人名別三冊合計五冊一組のものを持つて出た(4・19、5・2各検面)。

2 増渕の供述の要旨

昭和四六年九月中旬ころ堀が自分の爆弾を郵送する先の住所や名前等を調べるのに電話帳が必要だと言うので、松村の宿直の晩の午後八時ころ堀とともに日大二高に行き松村から職員室にあつた職業別二冊、五〇音別三冊の合計五冊の電話帳をもらつた。その電話帳は乗つて来た堀の車の後部座席に乗せ、堀は自分を高橋荘に送つてくれたが、その電話帳はそのまま持つて帰つた。その電話帳が今どこにあるかは分らない(4・25検面)。

3 堀の供述の要旨

日大二高で小包郵送爆弾の話が出た夜かその後か日は忘れたが、増渕と二人で日大二高から電話帳を持つてきたことがある。松村が宿直の夜日大二高へ増渕と二人で車で遊びに行き、増渕が職員室の棚にあつた電話帳(冊数ははつきりしないが、二冊か三冊で五十音順のもの一揃だつたと思う)を見つけ、松村にこれを貰つて行つても良いかと言い、自分も口添えをしたところ、松村は承知した。電話帳を職員室外のカウンターの上に出しておいてしばらく遊んでから、これを自分の車に乗せ給田の増渕の部屋へ運んだ(4・27検面)。

その夜ではなかつたかと思うが、増渕の部屋で闘争に使うからという意味のことを言われ、増渕の指示でその示した名前によつて電話帳をめくり、言われた名前や住所を調べた。増渕は手帳か紙かに書いた名前を一〇人分以内位示した。個人名もあり、会社名もあつた。警察の幹部で後藤田という人の名前が出ていたような気がする。個人名より会社名の方が多かつたように思う。会社としては警備保障会社、貿易会社、商事会社を言われ、○○警備保障会社と言われ、電話帳でその住所を調べたのを記憶している。自分が住所を調べては読み上げ、増渕がメモしていた。電話帳で住所を調べる理由につき、増渕は闘争に必要だからという意味のことを言つていた(5・3検面)。

4 供述の信用性

イ 電話帳持出に関する供述は、松村が最初になしたものと認められるが、原判決(一三六三頁)が松村の四月六日付員面を例に挙げ指摘しているように、同人の捜査段階における供述は、日大二高の当直日誌、用務員日誌に記載された松村の宿直の日及びその際の来客の人数等を基にして謀議等があつたとすればこの日ではないかとの捜査官の見込の下に取調が行われ、その見込による誘導とそれに対する迎合とが相俟つて供述が積み重ねられて行つた疑いを否定できず、その信用性については疑問があり、したがつてまた、増渕、堀の前記供述もこのような問題性を帯びた松村供述に基づく取調によつて得られたものであると推認される以上、その内容については、十分な信用性を措き難い。

ロ 増渕及び堀の供述の間には、持出した電話帳に基づき、爆弾郵送先の調査を行つたかどうかという重要な点について相違がある。また、調査をしたという堀の供述はその内容がきわめて曖昧であるし(当初4・27検面等における供述では、調査の事実については記憶がないとしていた)、他方、自分は調査に関与したことはないとしている増渕の供述については、それならば何故に電話帳を持出したかの疑問が持たれるのである。

ハ 日石、土田邸事件に関与したとされる者の中には自宅等に電話帳がある者が多いと思われ、わざわざ日大二高のものを持出す必要があつたとは思われない。

ニ 増渕らが持出したとされる東京都二三区の電話帳の記載においては、四六年版以降の五〇音別で後藤田正晴の住所が「新、下落合一―四一八」となつているが(佐藤裕基回答―証一一三冊)、日石事件の弾発物Aの荷札には、右住所として「目白パークマンション」が付加されており、より詳しくなつている。また日石事件の弾発物Bについては、送り先とされた今井栄文の住所は横浜市であつて、東京都二三区の電話帳に登載されていないことは明らかである。そして、これらは日石爆弾の郵送先の調査が電話帳に基づきなされたことに疑問を抱かせ、少なくともそれ以外の調査方法が併せ用いられたと考えるほかないものであるが、増渕らの供述はこの点について何ら触れるところがない。

ホ 松村の供述によると、電話帳持出の日は最終的には自己の当直日である九月一一日ころとされているが、日大二高の当直日誌(証六四号)によれば、同日の来校者欄には「なし」と記載されている。

5 まとめ

以上の諸点によれば、二高電話帳持出に関する松村、増渕及び堀の各供述にも十分な信用性を措き難いといわなければならない。

一一  日大二高における謀議等に関する松村、増渕及び堀の各供述

1 松村の供述の要旨

イ 日大二高謀議について

昭和四六年九月一八日だつたと思える晩に最初の爆弾闘争の話合いがあつた。まず、榎下、中村(隆)の二人が来て自分に三人で校庭で遊んでいるところへ増渕を乗せて堀がカローラを運転して来た。それから職員室に入り、受付けのところで堀が持つてきたビール、つまみを口にしながら雑談しているうち、増渕が「これからの革命闘争は地下からの爆弾攻撃で社会の不安を招くようにしなければだめだ」と言い出し、堀はこれに調子を合わせる言い方をした。増渕は、「トリック爆弾を地下から送り込み爆発させれば証拠が残らない。爆弾は我々が造るが、この闘争は我々だけではできないから皆も協力してくれ」と言い、自分達もすつかり増渕に引き込まれ協力する気持になつていた。この協力については、榎下に対して車関係、中村に対して容器だか部品関係が言渡され、自分には塩素酸カリウム一びんの調達を言いつけたが断つたところ、増渕も承諾し、ただ場所を使わせることを念を押したように思う。堀が攻撃目標を探し爆弾作りを増渕と江口とでするという話も出た。江口はその晩は来ていなかつたように思う。九時一寸過ぎにこうした話が終り、増渕が「今日の話は絶対に誰にも言うな」と言つて、皆な一緒に出て行つた(5・2検面)。

ロ 日石総括について

一〇月二三日夜七時半ころまず榎下が、少し遅れて増渕、堀、江口の三人がやつて来た。中村(隆)は来ていなかつたように思う。職員室の受付けのところに座り打合わせが始まつた。最初に増渕が「実はこの間の日石ビル郵便局の爆弾事件は俺達がやつたんだが失敗だつた」と述べ、続けて、「失敗の原因はスイツチだつた。改良が必要だ。包装の仕方も悪い。大きさも大き過ぎる」などと次々と失敗の原因を並べたて、江口、堀の二人も増渕に同調していた。増渕は、「郵便局に小包みを届けた人のアリバイ工作をした点は良かつた」とうまくいつた点も話し、「今度の失敗を改良して新しいビツクリ爆弾を造り権力に対する闘争を続けて行く。だから皆な協力してくれ」と言つて話を終つた。堀、江口の二人は増渕の話に相づちを打つたり同調したりしており、榎下も別に反対する様子もなかつた。自分はこれまでどおり日大二高の職員室で人に知られないよう相談をさせてやればいいと思つていた(5・2検面)。

ハ 土田邸二高謀議について

一一月一三日だつたと思うが、八時ころ榎下、中村(隆)があらわれ、そのうち増渕、堀、江口、前林の四人が揃つてあらわれ、皆なで職員室受付けの所に座つた。松本、坂本が居たかどうかは分らない。少し雑談をしてから、増渕が「この前は火薬の量が少な過ぎたし電気系統が悪かつた。スイツチ類も良くなかつた」などと前の事件の反省をした後「今新しい爆弾を考えている。郵便局はもつと人の多いところを使つた方がいい。今後の攻撃目標は防衛庁の首脳部や土田警務部長にする」と言つた。防衛庁首脳の方は具体的な名前は出なかつたと思う。増渕は話を続け、皆なに任務の分担を言いつけた。もつとも、堀、江口、前林の三人は打合わせが済んでいて、その席で確認しているような様子だつた。江口と増渕とで爆弾を作るということで、爆弾の個数も話に出た。堀は爆弾の輸送、榎下は点火装置、中村(隆)は爆弾の容器だか部品、前林は小包の包装ということで役目が割当てられ、皆なそれぞれ引受けていた。自分には硝酸と水銀の調達が割当てられたが断わつたところ、増渕は「それでは江口と俺の方で何とかする」と言つていた。一時間位打合わせをして皆なが帰つて行つた(5・2検面)。

2 増渕の供述の要旨

イ 日石二高謀議について

昭和四六年九月中旬ころの午後八時ころ日大二高の職員室に自分、堀、中村(隆)、榎下、松村の五名が集まつた。自分は、榎下、中村(隆)、松村に対し、「これからの闘争は爆弾による武装闘争でなければならず、爆弾によつて権力を倒さなければならない。爆弾闘争を行いたいが一緒にやろうではないか。堀の下についてやつてくれないか」と言つてオルグし、これに対し三名は協力することを約束してくれた。それで、自分は開ければ爆発するトリツク装置付の小包爆弾を権力機関に郵送することを話し、三名はこれに協力することを約束してくれた。オルグの時間は一時間位で終つた(4・25検面)。

ロ 日石総括について

一〇月下旬ころの午後八時ころ日大二高に自分、堀、江口、中村(隆)、榎下、松村が集まり、日石事件の総括を行つた。失敗の原因はトリツク装置が十分でなかつたことと包装が十分行われていなかつたものであると総括した。自分は皆なに、完全なトリツク装置をつけた小包爆弾を作り、さらに権力機関に郵送したいから協力してくれるよう頼むと、全員これに賛成した。この総括会議は一時間位で終つた(4・25検面)。

ハ 土田邸二高謀議について

一一月下旬ころの夜日大二高に堀、江口、中村(隆)、榎下、松村、前林を集めた。自分は集まつた者に対し、京浜安保共闘の上赤塚交番襲撃一周年記念に当時警察官が行つた射殺を正当防衛であると発表した警視庁幹部の土田宅にトリツク装置付小包爆弾を郵送したいので協力してくれるよう話すと、全員協力を約束してくれた。自分は、堀、榎下、中村(隆)に土田宅及び南神保町郵便局等を下見して確認しておくよう指示すると、これを了解してくれた。郵送に使う郵便局は南神保町郵便局を考えていることを話しておいた。トリツク装置について話合つたが、マイクロスイツチを使えばよいということになり、中村(隆)にマイクロスイツチを準備するよう指示した。この会議は一時間位で終つた(4・26検面)。

3 堀の供述の要旨

イ 日石二高謀議について

昭和四六年九月中旬ころ役所の仕事が終つてから車で高橋荘に行き、増渕を乗せ日大二高へ行つた。日大二高へ行つたのは午後八時ころで、宿直の松村と職員室で話をしているところへ榎下と中村(隆)が来た。寿司か何かをとつてビールかウイスキーを飲みながら職員室で話をしているとき、増渕が小包郵送爆弾について話をした。増渕は、この小包爆弾は破壊力は少なくむしろ郵送する相手に精神的なシヨツクを与えることを狙いとするものだと言つており、また直接投げたりするよりも犯人が捕まる可能性が少ないと話していた。そして、増渕はその郵送爆弾の技術的なことについて説明し、その計画について協力を求めたが、皆な了解をした模様だつた。増渕は皆なに役割を指示し、自分には連絡役として榎下、中村(隆)、松村らを監督するよう言つた。また自分には資料収集も指示した。他の三人がどんなことを指示されたかは具体的な記憶はない。帰りには増渕を車に乗せ高橋荘に送つた(4・18、4・27各検面)。

ロ 日石総括について

日石事件の一週間位経つた夜日大二高の職員室に増渕、榎下、中村(隆)、松村、江口が集まつて、日石事件の検討と今後の活動の進め方について話合つたことがある。この日自分は増渕の所へ行つて同人を車に乗せ、また途中で江口も乗せて二高へ行つた。榎下は既に来ており、一時間位たつたころ中村(隆)も来て、松村も含め六人で職員室の丸いテーブルを囲んで話をした。増渕が中心になつて、爆弾が郵便局で破裂してしまつたことについて話合いをした。なぜ郵便局員が投げただけで爆発したかについて技術的な話があつた。詳細は覚えていないが、点火装置やその他爆弾の構造について話題になり、技術的な検討をしてもう一度やることになり、任務分担も指示されたが、今度は皆なの役割は具体的には言われず、従来どおりということだつたと思う。江口の話は特に記憶していない。話は二時間位で終り、帰りは増渕を乗せて帰つた(4・27検面)。

4 供述の信用性

イ まず、松村の供述については、原判決(一三六一頁)が同人の公判供述の信用性に関連して説示しているように、秘密の暴露またはこれに類する事実が含まれていないうえ、日大二高の当直日誌、用務員日誌や他の者の供述内容等を基にして謀議等があつたとすればこの日ではないかとの捜査官の見込の下で取調が行われ、その見込による誘導とそれに対する迎合が相俟つて供述が積み重ねられて行つた疑いを否定できないこと、供述の経過をみても自白と否認を繰返すなどの動揺、変転がみられること、さらにその間の供述の内容には原審検察官ですら採用していない信用性に乏しいものが含まれていることなどからみて、その信用性は一般的に低いものといわざるを得ない。そして、増渕、堀の前記供述もこのような問題性を帯びた松村供述等に基づく取調によつて得られたものと推認される以上、やはり一般的には十分な信用性を措き難いのである。また、増渕、堀の前記供述については、これと密接に関連する日石及び土田邸両爆弾の製造ないし搬送に関する供述に十分な信用性を認め難い以上、その面からも信用性に疑問が持たれるといわなければならない。

ロ 増渕の供述は、いずれの場面についても、具体性、臨場感に乏しく、程度の差こそあれ、この傾向は松村及び堀の各供述にも見受けられるところである。例えば、日石総括に関する増渕らの供述をみると、日石爆弾の差出が失敗に終つているだけに、爆弾差出の状況、特に一旦差出した小包を取戻そうとした理由等が当然話題になつてよいと思われ、また中村(隆)が日石サン謀議で決められた日石リレー搬送から脱落したとするならばその原因の追及も行われたと考えられるが、増渕らの供述にはこれらの点について触れた部分が全く見受けられないのである。さらに、堀の供述は、ここでもはつきりしないとする部分が多く、特に土田邸二高謀議については何らの言及もしていないのである。

ハ 松村ら三名及び原審で取調べられた中村(隆)の供述調書中のこの点に関する記載を対比すると、その間看過し得ないくい違いが存在する。その一、二を列挙すると、次のとおりである。

(一) 中村(隆)の供述によると、日石総括の際の主たる反省点の一つはスイツチの不備ということであり、同人はその際または土田邸二高謀議の席上マイクロスイツチの使用を提案したとされている。ところが、松村及び堀の供述をみても、このような重要な点であるマイクロスイツチの使用の提案がなされたということは出ておらず、松村においては中村(隆)は日石総括の場には来ていなかつたように思うとも述べているのである。

(二) 土田邸二高謀議の日時につき、中村(隆)は一〇月三〇日か三一日または一一月上旬と述べるのに対し、増渕は一一月下旬、松村は一一月一三日と述べており、単なる記憶の不明確では説明できないほどくい違いが大きい。

(三) 日石二高謀議は、謀議的なものとしては最初のものであるから、その内容は比較的記憶に残りやすいと思われる。ところが、この点につき中村(隆)は爆弾の構造のかなり細かな点についてまで話が及んだとするのに対し、松村は各自の任務分担の話が出たという程度の供述をするにとどまり、他方、増渕は爆弾闘争の基本的方針につきオルグをしたと述べ、また堀はこういうことをやつたら面白いという調子の一般論として理解したと供述しているときもあり(4・18検面)、各人の言うところはまちまちである。

ニ さらに、日大二高における謀議等に関する松村らの供述内容には、他の証拠との対比上次のような不自然、不合理な点が存在する。

(一) まず、四六年当時も日大二高正門の向かい側には荻窪署天沼派出所があり警察官が巡回していたこと、及び日大二高への出入りは正門及び南門(裏口)の二か所であるが夜間は正門からしか出入りできなかつたことが明らかであり((員)青木由太郎48・4・1実見及び検証―松村証一冊、松村五回証人斉藤富夫の供述―松村五冊等)、したがつて、夜間日大二高に出入りする者は、警察官に見咎められる危険を覚悟しなければならなかつたと認められる。他方、松村の供述によれば、校内においては宿直員のほかに用務員も宿直しており、宿直でなくても夜職員室に見える教員もあり、同校卒業生もかなり出入りしていたことが認められ(5・2検面)、これらの点からすれば日大二高で増渕のような指名手配中の者をも含む謀議を行うことは、その場所柄からみて不自然であるといわざるを得ない。特に、原判決(一一四五頁)も中村(隆)供述の信用性に関連して説示しているように、土田邸二高謀議については、一〇月二四日に二高近くの四面道交番の爆破事件があり、そのころから当分の間日大二高正門前付近にある天沼派出所の警戒も厳重になり、正門付近の植込みに警察官が隠れて同派出所近辺の見張をしていた事実もあつたことが認められることに照らしても、一そう右に述べたことが妥当するといわなければならない。

(二) 松村らの供述内容によつても、日石二高謀議においては、小包爆弾の郵送という方針は打出されているものの、爆弾の製造及び郵便局への差出しに関する具体的スケジユールや爆弾送付の具体的相手方については話が及んでいないのであるから、謀議とはいうものの、増渕から他の者に対する爆弾闘争への協力要請という色彩が濃く(増渕は、前記のようにオルグと称している)、日石総括についても、失敗の原因に関する若干の反省と今後の方針の大綱を話題にするにとどまつており、右の程度のことの意思連絡のため、日大二高に多くのメンバーが危険をも顧みず集まる方法をとつたとすることも、不自然の感を否めない。また土田邸二高謀議についても、爆弾の具体的送付先、差出郵便局、マイクロスイツチの使用等の具体的な話も出ているものの、なお爆弾の製造及び郵便局への差出しに関する具体的スケジユール等は煮つめられていないのであり、前述したように、この時期における日大二高正門前付近の警察官による警戒状況をも考慮するならば、なお多数の者が日大二高へ危険を冒して参集したことの必要性を十分に納得させるものではない。

(三) 松村らの供述においては、謀議により決定された実行計画と現実の犯行との間にはかなりくい違いが見受けられる。例えば、松村供述によると、土田邸二高謀議において、「郵便局はもつと人の多い混んでいる所を使つた方がいい」とされているけれども、実際に爆弾が差出された南神保町郵便局が日石内郵便局よりも特に大きいとは認められず((員)北田稔46・10・30実見(謄)―増渕証一・二冊等及び(員)講武総明48・5・4検証(謄)―増渕証一〇冊等)、また日石爆弾において爆弾の大きさが大き過ぎると反省したとされていながら、土田邸爆弾は日石爆弾よりも大きいことが明らかである。

5 まとめ

以上の諸点からすれば、日大二高における謀議等に関する松村、増渕及び堀の各供述にも十分な信用性を措き難いといわなければならない。

一二  結論

以上、所論が原審における取調請求却下決定等を違法とし取調の必要性を主張する増渕、堀及び松村の各検面の内容に立入り、その重要部分につき信用性の有無を検討したが、その結果、いずれの部分についても信用性を肯認することは困難というべきである。特に、日石爆弾及び土田邸爆弾とも、その郵便局への搬送という、犯行に密接する重要経過に関する自白が前者については搬送者とされている中村(隆)、後者については差出人とされている前林につきアリバイないしその可能性が認められることにより、虚偽もしくはその可能性が大きいと断ぜざるを得なくなり、所論ですら右経過に関する具体的事実関係を主張し得ないということは、右各検面の信用性を著しく低下させるものというほかない。したがつて、右各検面を採用したとしても、被告人らが日石、土田邸事件の犯人であることにつき合理的な疑いを容れる余地があるとする原判示認定を誤りとすることはできないということに帰する。

第四日石土田邸事件の総括

日石土田邸事件についても、捜査段階において多くの者が詳細な自白をしており、かつ公判廷の初期においてもこれを維持している者(中村(隆)、松村、坂本)も見受けられるところである。これらの自白は、原審で取調べられたものに限つても、見方によつては被告人らが日石土田邸事件に関わつていたことを窺わせるものといえなくもなく、特にこのうち公判廷における自白は、所論の強調するようにたやすく看過することのできない意味合いをもつといわなければならない。さらに、とりわけ増渕及び江口については、いわゆる六月爆弾事件当時爆弾闘争を指向していた事実が認められるうえ、いわゆるプランタン会談に関する佐古の検面の内容並びに原審及び当審証人鈴木茂の供述中日石土田邸事件後増渕及び江口が同事件の犯人であることを述べあるいは示唆するような言動をしていたとする点にはかなりの真実性が感じられるのであつて、同人らが何らかのかたちで同事件に関係していた疑いは払拭し難いものがある。

しかし、他方、日石土田邸事件においては、まず警察捜査の性急さ、強引さが目を惹くのであつて、特にそれが被疑者に対する取調方法に顕著に現われていると認められるのである。すなわち、同事件においては、被疑者らと犯行を結びつけるに足る客観的証拠は存在しなかつたのであるから、捜査官としては被疑者らのいうところにも一応耳を傾け、その真偽を慎重に検討するという態度が必要であつたと思われるが、実際の捜査は、これと異なり、増渕に対する3・7取報にみられるように、被疑者を犯人と断定し、その弁解を聴こうとすることなく自白を迫り、あるいは虚偽性が明らかになつた日石爆弾搬送に関する自白にみられるように、ある者から自白が得られるや安易に他の者の供述をもこれに合わせようとしたことなどが窺えるのである。そのような経過で得られた自白調書が、原審で取調べられたもの及び当審において検察官が取調を請求するものの双方につき、内容的に種々の面で不自然ないし不合理さを免れず、事案の全貌を解明することのできないものであることは既に詳述したとおりである。なお、公判廷における自白についてみても、松村及び坂本は第一回公判においてのみ自白しているのであり、比較的後の段階まで自白を維持している中村(隆)については、前述したような異例の「面倒見」等の事情があるうえ、内容的にもおおむね捜査当時の自白に対するのと同様の疑問を免れない以上、いずれもこれに絶対的な価値を認めることはできないと思われる。

そして、このように公判廷内外の自白に絶対的な信を措けず、かつ本件の長期かつ慎重な審理の過程を通じ被告人らと犯行とを結びつけるに足る他の証拠は遂に見出し得なかつたと認められる限り、本件を証明不十分として終局させることはいまや避け難いところといわなければならない。

かくして日石土田邸事件についても、「疑わしきは被告人の利益に」の鉄則にしたがい、本件につき被告人らに犯罪の証明がないものとして無罪を言渡した原判決の結論を維持すべきものである。

第三部本件各控訴についての結語

被告人増渕に対する検察官の控訴は原判決が有罪と認定した窃盗についてもなされているが、これについては控訴趣意としてなんらの主張がなく、したがつて、その理由がないことに帰する。

なお、弁護人らは、本件被告人らはいずれも無罪であることが明白であつて、検察官の本件各控訴は著しい控訴権の濫用であつて違法といわざるを得ず、これに対しては刑訴法三八六条三号により、決定による控訴棄却がなされるべきであると主張する。

しかし、検察官が具体的事件について控訴をなすことは、原判決の過誤の是正のため国家機関たる検察官に対し与えられた訴訟上の権利に基づくものであるから、明白な冤罪事件につきことさら何らかの意図でなすなど当該控訴が明らかに訴訟上の権利の濫用と認められない限り、右控訴は適法であつて、裁判所はこれに対し実体的判断をしなければならないものである。しかるところ、本件においては、ピース缶爆弾事件、日石土田邸事件とも、その最終的な証拠能力及び証明力の判断は裁判所に委ねられるとはいえ、被告人らまたは共犯者とされている者の多数の捜査段階における自白が存在し、しかもそれらの者のなかには公判廷においても自白を維持していた者もあつたことなどからみて、検察官の控訴が前述した訴訟上の権利の濫用と認められる場合には該当しないというべきである。したがつて、検察官の本件各控訴は適法であるから、弁護人の前記主張は採用しない。

よつて、検察官の本件控訴はいずれもその理由がないから、刑訴法三九六条によりこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 萩原太郎 小林充 奥田保)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例