東京高等裁判所 昭和58年(行ケ)145号 判決 1986年5月27日
原告
矢崎総業株式会社
被告
特許庁長官
右当事者間の昭和58年(行ケ)第145号審決(特許出願拒絶査定不服審判の審決)取消請求事件について、当裁判所は、次のとおり判決する。
主文
特許庁が、昭和58年6月1日、同庁昭和55年審判第16574号事件についてした審決を取り消す。
訴訟費用は、被告の負担とする。
事実
第1当事者の求めた裁判
原告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、被告指定代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は、原告の負担とする。」との判決を求めた。
第2請求の原因
原告訴訟代理人は、本訴請求の原因として、次のとおり述べた。
1 特許庁における手続の経緯
原告は、昭和49年9月6日、名称を「太陽熱利用集熱器」とする発明(以下「本願発明」という。)について特許出願(昭和49年特許願第101955号)をし、昭和53年9月21日出願公告(特公昭53―34651号)されたところ、インコ・ヨーロツパ・リミテツド他5名から特許異議の申立てがあり、昭和55年8月19日右特許異議の申立ては理由がある旨の決定と同時に拒絶査定を受けたので、昭和55年9月17日、これを不服として審判の請求(昭和55年審判第16574号事件)をしたが、昭和58年6月1日、「本件審判の請求は、成り立たない。」旨の審決(以下「本件審決」という。)があり、その謄本は、同年7月27日原告に送達された。
2 本願発明の要旨
フエライト系あるいはオーステナイト系不銹鋼を酸性黒色酸化法あるいはアルカリ黒色酸化法により黒着色してなる選択却吸面を太陽熱利用集熱器の吸収面として使用することを特徴とする太陽熱利用集熱器。
3 本件審決理由の要点
本願発明の要旨は、前項記載のとおりと認められるところ、原査定の拒絶理由である特許異議の決定の理由で引用した本願発明の特許出願前に米国内で頒布された刊行物であるザ・アメリカン・バキユウム・ソサエテイ発行に係る「ジヤーナル・オブ・バキユウム・サイエンス・アンド・テクノロジイ」第11巻第4号(1974年7月、8月号)(以下「引用例」という。)には、(1)太陽エネルギーを効率よく集熱し、かつ、保存するためには、太陽集熱装置は2ミクロン以下の波長で強く吸収し、かつ、2ミクロン以上の波長でエネルギーを放射しないものでなければならないこと(第793頁左欄第12行ないし第15行)、(2)実験として、オーステナイト系不銹鋼304をエバノールSSにより化学処理して黒色化した。この表面の反射性を第4図に示す。この表面は主としFe3O4であり、かつ、反射性は空気中で熱処理しても、また、紫外線処理しても安定していること(第795頁右欄第29行ないし第33行)、(3)m=2に対する太陽光線吸収率値(αc)は、エバノールSS処理した不銹鋼304は0.91であること(第796頁右欄第3行及び第4行。なお、第4行中の「340」は、引用例全体の記載からみて「304」の誤記と認定した。)、という事項が記載されており、また、第794頁右欄の第4図には、エバノールSSで処理した前記不銹鋼の波長と反射率の表が記載されている。なお、引用例の記載のみでは、エバノールはEthone Inc.の登録商標(同第794頁右欄下から第9行目ないし下から第7行目)であつてその性質が必ずしも明らかでないが、エバノールCがアルカリ性を有すること及び同社の資料よりみて、エバノールSSがアルカリ酸化型であると認められる。以上を総合すると、引用例には、「オーステナイト系不銹鋼である304をアルカリ黒色酸化法により黒着色してなる選択吸収面を太陽熱利用集熱器の吸収面として使用することを特徴とする太陽熱利用集熱器。」が記載されていると認められる。そして、本願発明と引用例に記載されたものとを比べると、引用例に記載されたものが本願発明に包含されることは明らかであるから、本願発明は引用例に記載されたものと同一であると認められる。
請求人(原告)は、審判理由補充書において、引用例について、(1)エバノールSSによる処理が化学的黒色化と表現されることのほかは、その化学組成について何ら詳細な記載もないから、その化学組成は明らかでない。したがつて、太陽熱吸収面の分光特性に影響を与える因子である酸化被膜の組成は詳細には明らかではない。(2)引用例第796頁「SUM-MARY」において、エバノールで化学処理した酸化被膜は近赤外域において透過性でないため優れた選択吸収特性は期待できないとの記載があり、この記載からエバノールSSによる酸化は選択吸収面の製造には適当でないと思料される旨述べている。しかしながら、引用例の記載内容の認定において述べたように、エバノールSSがアルカリ酸化型であり、また、酸化被膜が主としてFe3O4であることは、引用例の記載から明らかである。また、引用例に請求人(原告)主張の記載があつても、本願発明はその要旨とする構成よりみてアルカリ黒色酸化法であればよいものであつて、具体的なアルカリ黒色酸化法を要旨としているものではない。そして、前述のように、エバノールSSによる化学処理はアルカリ黒色酸化法であると認められるから、右主張は本願発明は引用例に記載されたものと同一であるとの前認定を覆す根拠とはならない。
以上のとおり、本願発明は引用例に記載されたものと同一と認められるから、特許法第29条第1項第3号の規定によつて特許を受けることができない。
4 本件審決を取り消すべき事由
本件審決は、引用例に記載されているエバノールSSがアルカリ酸化型であると誤認した結果、引用例には、「オーステナイト系不銹鋼である304をアルカリ黒色酸化法により黒着色してなる選択吸収面を太陽熱利用集熱器の吸収面として使用することを特徴とする太陽熱利用集熱器。」が記載されており、本願発明は引用例に記載されたものと同一であるとの誤つた結論を導いたものであつて、この点において違法であり、かつ、本件審決には理由不備の違法があるから、いずれにしても取り消されるべきである。すなわち、
1 事実誤認について
引用例には、エバノールSSについて、わずかに「不銹鋼304をエバノールSSにより化学処理して黒色化した。この表面の反射性を第4図に示す。この表面は主としてFe3O4であり、かつ、反射性は空気中で熱処理してもまた紫外線処理しても安定している」という記載があるだけであつて、その化学組成について触れた記載やこれを示唆する記載はなく、右記載からエバノールSSがアルカリ酸化型であると断定することはできない。本件審決は、「引用例の記載のみでは、エバノールはEthone Inc.の登録商標であつてその性質が必ずしも明らかでない」と右事実を認めながら、「エバノールCがアルカリ性を有すること及び同社の資料よりみと、エバノールSSがアルカリ酸化型であると認められる。」と認定しているが、エバノールCがアルカリ性を有するからといつて、エバノールの共通組成の存否及びその内容が不明である以上、直ちにエバノールSSがアルカリ性を有するということはできないのであつて、本件審決の右認定判断は引用例の記載事実を誤認したものである。
被告は、引用例のエバノール(Ebanol)はエボノール(Ebonol)の誤記である旨主張しているが、引用例においてエバノールという語は7か所においてEbanolと明記されているものであり、引用例がザ・アメリカン・バキユウム・ソサエテイ編集発行の学術雑誌であることを考慮すると、これらがいずれも誤記であるとは直ちに断定することはできない。しかも、引用例と著者及び発行者を異にする乙第1号証にもEbanolと記載されているものであり、この2誌が偶然にも同じ誤記をしたとすることは不自然の感を免れない。一方、同一社がエボノールとエバノールという2系列の名称の商品を発売することも絶対にあり得ないことではない。したがつて、乙第2号証ないし第4号証の記載にもかかわらず、エバノールがエボノールの誤記であるとは直ちに断定できない。また、被告は、引用例のエバノール(Ebanol)はエボノール(Ebonol)の誤記であることを前提として、エボノール系試薬(エボノールC、エボノールS及びエボノールSS)は周知であり、その周知性を考慮するとき、当業者にとつては、エボノールSSという試薬の名称の表示があれば、直ちにその化学組成及びそれがエボノールCと同様にアルカリ酸化型のものであることが理解され、引用例に実質的にエボノールSSの化学組成と酸化機構が記載されていたと認めることができる旨主張するが、右主張は明らかに本件審決の理由とは相違するばかりでなく、何ら根拠のないものである。仮に、引用例のエバノールがエボノールの誤記であるとすれば、引用例や乙第1号証ばかりではなく、本件審決自体もエボノールをエバノールと誤記したことになり、また、特許異議申立人らもエボノールをエバノールと誤記している点について何ら疑問を抱かなかつたものと思われるのであつて(被告自身、昭和59年4月17日付準備書面の段階では右誤記について気付いていなかった。)、真実、被告の主張するとおりエボノール系試薬が周知であつたとすれば、このような誤記の累積は有り得ないのであつて、このような誤記の累積自体、エボノール系試薬なるものが必ずしも周知でないことを裏書きするものといえる。更に、被告は、エボノール系試薬(エボノールC、エボノールS及びエボノールSS)が周知であることを立証するために乙第1号証ないし第4号証、第6号証、第7号証の1・2を提出している。そして、乙第1号証には、「エバノールが濃水酸化ナリトウムと亜塩素酸ナトリウムを含む」という趣旨の記載があるが、右記載は、エバノール一般の共通組成を示したものということはできない。すなわち、乙第1号証には、右記載に先立つて、「SalamとDanielesは、銅、アルミニウム、鉄、ニツケルの円盤上に選択放射被膜を形成した。1連の実験で、上記金属は市販のエバノールと呼ばれる沸騰溶液中に浸漬した」との記載があり、右記載は、銅、アルミニウム、鉄、ニツケルの表面に化成処理を施すためにエバノールを使用したという実験に関するものであるところ、右にいう水酸化ナトリウムと亜塩素酸ナトリウムの混合液は専ら銅及び銅合金の黒色酸化に用いられるとするのが金属表面の化成処理技術の分野における常識であり(甲第4号証ないし第6号証)、右技術分野において、アルミニウム、鉄、ニツケルの化成処理浴又は着色浴に水酸化ナトリウムと亜塩素酸ナトリウムの混合液を用いることはない。特に、アルミニウムの化成処理には、水酸化ナトリウムと亜塩素酸ナトリウムの混合液を適用することはできないものであり、このこともまた右分野における技術常識である。けだし、水酸化ナトリウムのような強アルカリは極めて希薄でない限り、アルミニウムを侵蝕するからであり(甲第7号証)、現に我が国におけるアルミニウムの化成処理に水酸化ナトリウムを用いる例は全く存在しないものである(甲第8号証の表3・22及び表3・49)。以上によつて明らかなとおり、金属表面の化成処理の分野における技術常識からしても、乙第1号証において引用されているSalamとDanielesの実験において、濃水酸化ナトリウムと亜塩素酸ナトリウムを含むエバノールがアルミニウム、鉄、ニツケルの化成処理にも等しく一様に用いられたと考えることはできない。むしろ、ここにいう濃水酸化ナトリウム及び亜塩素酸ナトリウムを含むエバノールは専ら銅の化成処理に用いられたものであり、引用例に記載されているエバノールC(引用例にもエバノールCはNaoHとNaclo2の混合液であると記載されている。)を指すものと解するのが相当である。しかして、右実験において、アルミニウム、鉄、ニツケルの化成処理にエバノールが用いられたとしても、これらの金属の化成処理に用いられたエバノールは水酸化ナトリウム及び亜塩素酸ナトリウムとは別個の成分から成るものであり、乙第1号証にいう「金属の種類に応じて他の成分を含む」とはこのことを意味するものというべきである。なお、乙第1号証には「被膜は塩化物及び酸化物を含んでいる」とあるのに対し、乙第4号証には「酸化物と硫化物の混合黒色被膜を生ずる」との記載があり、このことは同じ「エバノール」又は「エボノール」であつても、組成を異にするものがあること、すなわち乙第1号証の「濃水酸化ナトリウムと亜塩素酸ナトリウムを含む」という記載は、「エバノール」又は「エボノール」の共通の組成を記載したものとはいえないことを示すものである。また、乙第2号証及び第3号証には、エボノールの組成は全く示されていない。更に、乙第4号証には、エボノールSS―52がアルカリ酸化型黒色化化合物である旨が記載されているが、乙第7号証の記載を参酌しても、引用例記載のエバノールSSと乙第4号証記載のエボノールSS―52とが同一物又は同一性質を有するものとはいい得ない。のみならず、乙第3号証には、鉄鋼用化成処理剤としてエボノールSとエボノールS―30とがそれぞれ存在していた事実が示されており、また、同号証の表9には、エボノールSにより得られた膜は選択性を有しないことが示されている。してみると、エボノールSSとエボノールSS―52とが別個のものである可能性も十分あり得るところであり、かつ、両者の組成が異なるものと推認し得る余地もあるというべきである。そして、乙第7号証のエボノールSSにはエボノールSS―52とエボノールSS―48との2種類しか存在しないという記載も、同号証にいうところのエントーン社のnumbering sistemの具体的内容が明らかにされない限り、直ちに措信することはできない。また、同号証には、エボノールSS―48がアルカリ酸化型であるとは記載されていないし、エボノールSS―52とエボノールSS―48が同一の性質を有するとも均等物であるとも記載されていない。してみると、乙第7号証は必ずしも引用例に記載されているエバノールSSがアルカリ酸化型であることを裏付ける証拠とはなり得ないというべきである。
以上によれば、「エバノールCがアルカリ性を有すること、及び同社の資料よりみて、エバノールSSがアルカリ酸化型であると認められる」という本件審決の認定が誤つていることは明らかである。
2 理由不備について
本件審決は「エバノールCがアルカリ性を有すること及び同社の資料よりみて、エバノールSSがアルカリ酸化型であると認められる」旨認定判断しているが、「同社の資料」とはどのような資料を指すのか、また、それにはどのような内容が記載されているのかという点について理由中には何も示されていない。被告は、右の「同社の資料よりみて」という記載について、単に、右に列挙した各刊行物(乙第1号証ないし第4号証)及び引用例に記載のエバノールに関する事項を確認する意味で言及したものにすぎない旨主張するが、何ゆえそのようにいえるのか不可解というほかはない。本件審決には、明白に「エバノールCがアルカリ性を有すること及び同社の資料よりみて、エバノールSSがアルカリ酸化型であると認められる」と記載されており、「同社の資料」は「エバノールCがアルカリ性を有すること」と並列的に「エバノールSSがアルカリ酸化型であること」と認定した根拠とされているものである。そして、特許法第157条第2項第4号が審決をする場合には審決書に理由を記載すべき旨定めている趣旨は、審判官の判断の慎重、合理性を担保し、その恣意を抑制して審決の公正を保障すること、当事者が審決に対する取消訴訟を提起するかどうかを考慮するのに便宜を与えること、及び審決の適否に関する裁判所の審査の対象を明確にすることにあるというべきであり、したがつて、審決書に記載すべき理由としては、当該発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者の技術上の常識又は技術水準とされる事実などこれらの者にとつて顕著な事実について判断を示す場合であるなど特段の事由がない限り、審判における最終的な判断として、その判断の根拠を証拠による認定事実に基づき具体的に明示することを要するものと解するのが相当であるから、本件審決の前記記載は明らかに理由不備である。
第3被告の答弁
被告指定代理人は、請求の原因に対する答弁として、次のとおり述べた。
1 請求の原因1ないし3の事実は、認める。
2 同4の主張は争う。本件審決の認定判断は正当であり、原告主張のような違法の点はない。
1 事実誤認の主張について
(1) 引用例の記載中のエバノール(Ebanol)はエボノール(Ebonol)の誤記であり、このことは以下の事実から明らかである。すなわち、乙第4号証(Enth-one Inc.が1971年1月29日に発行したエボノールSS―52についてのデータシート)は、Enthone Inc.が、その製品であるエボノールSS―52とそれを使用した金属表面の黒色酸化処理について、自らが発行し、頒布した資料であるから、この中に記載された製品名(試薬名)Ebonol、会社名Enthone Incorpo-rated、会社の私書箱番号、住所地等に誤記はないものと推定できる。一方、引用例、乙第2号証(新エネルギー源に関する国連会議の会報、第4巻、太陽エネルギー・1、第545頁)及び第3号証(「太陽エネルギー」ザ・ジヤーナル・オブ・ソーラー・エネルギー・サイエンス・アンド・エンジニアリング第6巻第1号(1962年1月~3月号)第5頁及び第7頁)には、それぞれ、乙第4号証に記載の技術内容(エボノール試薬及びそれを使用した金属表面の黒色酸化処理)を引用したものと見られる記載があつて、乙第2号証、第3号証のものは、試薬名がエボノール(Ebonol)と記載されていて乙第4号証の記載と一致しているが、引用例ではエバノール(Ebanol)と記載されていて、乙第4号証との間に、aとoとの相違が見られる。また、製造会社名は、引用例ではエトーン・インコーポレーテツド(Ethone Incorporated)となつており、これも乙第4号証のエントーン・インコーポレーテツド(Enth-one Incorporated)とnが脱落しているか否かで相違する。ところで、会社の私書箱番号と住所地を検討すると、この点は引用例でも乙第4号証の記載と一致している。そうすると、引用例における会社名エトーン・インコーポレーテツド(Ethone Incorpo-rated)は、エントーン・インコーポレーテツド(Enthone Incorporated)の単純な誤記であることは明らかであり、同社の製造販売しているエバノールもエボノールの誤記であるといわざるを得ない。
(2) 引用例には、「ステンレス鋼(304)をエバノールSSにより化学処理して黒色化した。……この表面はFe3O4を主体としており空気中での加熱及び紫外線処理においても安定である。」(第795頁左欄第29行ないし第33行)との記載があり、エバノールSSが不銹鋼表面を黒色酸化する作用をもつものであることは明白である。ただ、引用例にはエバノールSSの化学組成とエバノールSSがアルカリ酸化型のものであることについての具体的な記載がないために、この点については、原告指摘のとおり、本件審決でも、引用例の記載のみでは「エバノールはEthone Inc.の登録商標であつて、その性質が必ずしも明らかでない」旨述べている。しかしながら、本件審決の右記載は、単に引用例にエバノールSSの化学組成とそれがアルカリ酸化型であることの文言がないことを指摘したにとどまり、実質上もこれらの事項に関する記載がないという意味ではない。エボノール系試薬(エボノールC、エボノールS及びエボノールSS)は、引用例をはじめ乙第1号証(1964年エール大学出版局発行のフアーリントン・ダニエル著「太陽エネルギーの直接利用」第212頁第12行ないし第27行)、前記乙第2号証ないし第4号証等多くの刊行物に引用、記載されており、かつ、当業者と認められる複数の異議申立人がこれら刊行物の存在を熟知していた事実(引用例及び乙第1号証ないし第3号証は、いずれも特許異議申立人が提出したものである。)から明らかなとおり周知であり、そうした周知性を考慮するとき、当業者にとつては、エバノールSSという試薬の名称の表示があれば、直ちにこれの化学組成及びこれがエボノールCと同様にアルカリ酸化型のものであることが理解され、引用例に実質的にエボノールSSの化学組成と酸化機構が記載されていたと認めることができるるものである。
原告は、引用例のエバノールがエボノールの誤記であるとすれば、引用例や乙第1号証ばかりではなく、本件審決自体もエボノールをエバノールと誤記したことになり、また、特許異議申立人らもエボノールをエバノールと誤記している点について何ら疑問を抱かなかつたものと思われるのであつて、真実、被告の主張するとおりエボノール系試薬が周知であつたとすれば、このような誤記の累積は有り得ないのであつて、このような誤記の累積自体、エボノール系試薬なるものが必ずしも周知でないことを裏書きするものといえる旨主張している。しかしながら、引用例も文字、記号を用いた印刷物である以上、誤記が生じないとすることはできず、米国真空学会が権威ある学会であることと、その会誌の論文中に誤記が生じたこととの間に因果関係はなく、乙第1号証にも同一用語についての誤記が生じたことは、偶発的な現象であるというほかなく、特別な原因はないものと考えられる。そして、エバノールがエボノールの誤記であることは、被告にとつても、当業者にとつても明白な事項であつて、あえて誤記として摘示し、訂正する必要のないものである。すなわち、引用例及び乙第1号証ないし第3号証は、いずれも特許異議申立人が提出した資料であつて、これらの資料にはEbanol、Ebonolと2通りの記載があるものの、被告は既に早くから乙第4号証のエントーン社のエボノールSS―52のデータシートを入手して、EbanolがEbonolの誤記であることを熟知していたものであり、また、当業者である特許異議申立人らもこの誤記の事実を知つていたであろうことは疑う余地がない。したがつて、原告のいう誤記の重複は、毫もエボノールの周知性を否定する根拠となるものではない。また、原告は、エボノール系試薬が周知であるとしても、エボノールSSという試薬名の表示があれば直ちにこれの化学組成及びそれがアルカリ酸化型のものであると当業者に理解されるとはいえない旨主張し、その理由として、引用例及び乙第1号証ないし第3号証には、エボノールの化学組成は記載されていないし、乙第4号証にさえ、エボノールSS―52の化学組成は記載されていない点を挙げている。しかしながら、乙第1号証には、「銅、アルミニウム、鉄、ニツケルの円盤上に選択放射被膜を形成した。1連の実験で、上記金属を市販のエバノールと呼ばれる沸騰溶液中に浸漬した。このエバノールは、濃縮した水酸化ナトリウムと亜塩素酸ナトリウムとを含み、金属に応じて他の成分をも含んでいる。」という記載があり、エボノール系試薬の基本成分が明示されており、右成分からエボノールがアルカリ酸化型のものであることは明らかである。一方、乙第4号証には、「エボノールSS―52は、通常黒色化困難なステンレス鋼や高合金鋼上に黒色被覆を形成するアルカリ酸化型黒色化化合物である。エボノールSS―52溶液は、単に浸漬するだけで混合酸化物―硫化物黒色被膜を形成する。」、「廃棄物処理、エボノールSS―52は、中和により処理できる。黒色化溶液は、高濃度でしかもそのアルカリ度は極めて高いので、中和には相当量の酸を必要とする。高濃度の酸の使用は、反応の激烈なことや浴の爆発の可能性のために、好ましくない。……3~4倍の水で希釈された溶液を、25~30%硫酸で中和して、pH7.0~9.0にする。」という記載があつて、右記載からエボノールSS―52がアルカリ酸化型のものであることは明白である。したがつて、エボノールSSの組成及び性質、機能が記載されていないとの原告の主張は事実に反するものである。更に、原告は、エボノールSSと乙第4号証記載のエボノールSS―52と同一物又は同一性質を有するものであることを認めるに足りる証拠はない旨主張している。しかしながら、薬品や材料などの名称を表示するに当たり、そのフルネームを表示しなくても必要な薬品又は材料が特定できるときは、その名称の1部のみを表示することはよく行われるところである1例を挙げれば、引用例の795頁左欄第29行及び第30行に「ステンレス鋼(304)はエバノールSSを使つて化学的に黒色化された。」という記載があるが、右「304」は「AISI 304」がそのフルネームであつて、304は省略形である。また、「AISI 304」の亜種に「AISI 304L」があり、通常「AISI 304」と表示すると「AISI 304」だけでなく「AISI 304L」をも包含するものとして認識されるのである。したがつて、エボノールSSとエボノールSS―52の同一性を認めることができないとする原告の主張も失当である。
2 理由不備の主張について
原告は、本件審決中の「同社の資料よりみて」という記載について、「同社の資料」とはどのような資料を指すのか、またそれにはどのような内容が記載されているのかという点について理由中には何も示されておらず、右資料をもつて「エボノールSSがアルカリ酸化型である」との認定の根拠としたのは理由不備である旨主張している。しかしながら、本件審決がエボノールSSがアルカリ酸化型のものであるとする理由の1つとして「同社の資料」の存在に言及したのは、単に、引用例及び乙第1号証ないし第4号証に記載のエボノールに関する事項(化学組成及びアルカリ酸化型のものであること)を確認する意味で言及したものにすぎず、しかも、エボノールSSがアルカリ酸化型であることは、前記のとおり周知であるので、本件審決中の「同社の資料よりみて」という記載は、単にその確認の意味しかもたず、同社の資料を拒絶理由としているものではない。
第3証拠関係
本件記録中の書証目録記載のとおりであるから、これを引用する。
理由
(争いのない事実)
1 本件に関する特許庁における手続の経緯、本願発明の要旨及び本件審決理由の要点が原告主張のとおりであることは、当事者間に争いがないところである。
(本件審決を取り消すべき事由の有無について)
2 本件審決は、引用例に記載されているエバノールSSがアルカリ酸化型であるものと誤認した結果、引用例には「オーステナイト系不銹鋼である304をアルカリ黒色酸化法により黒着色してなる選択吸収面を太陽熱利用集熱器の吸収面として使用することを特徴とする太陽熱利用集熱器。」が記載されているものと誤つた認定をし、ひいて、本願発明をもつて引用例に記載されたものと同一であるとの誤つた結論を導いたものであるから、違法として取り消されるべきである。すなわち、
1 成立に争いのない甲第3号証(引用例)によれば、引用例は、本願発明の特許出願前に米国内で頒布された刊行物であるザ・アメリカン・バキユウム・ソサエテイ発行に係る「ジヤーナル・オブ・バキユウム・サイエンス・アンド・テクノロジイ」第11巻第4号(1974年7月、8月号)であつて、同号証には、「ステンレス鋼(304)をエバノールSSで化学処理して黒色化した。……この表面はFe3O4を主体としており、反射特性は空気中での加熱及び紫外線処理においても安定である。」(第795頁左欄第29行ないし第33行)との記載があることが認められ、右記載によれば、「エバノールSS」は、不銹鋼表面に対して黒色酸化作用をもつものであることを認めることができる。しかしながら、引用例には、エバノールSSの不銹鋼表面に対する酸化機構やエバノールSS自体の化学組成及びその性質について直接触れた記載はない(この点は、当事者間に争いがない。)。ところで、前掲甲第3号証、成立に争いのない乙第6号証(特許庁審判部訟務室長からエントーン社宛てのエボノールSS試薬に関する照会状)並びに右乙第6号証の記載及び弁輪の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第7号証の1・2(エントーン社より特許庁審判部訟務室長に宛てた封書及び右封書在中の回答書)によれば、乙第6号証及び第7号証の1・2に記載されているエントーン(Enthone)社の郵便私書箱番号及び同社の住所地は、引用例記載のエトーン(Ethone)社の郵便私書箱番号及び同社の所在地と一致すること、並びに右エントーン社宛に送付した特許庁審判部訟務室長からのエボノールSS試薬に関する照会状に対し同社より同室長宛に寄せられた回答書には、「登録商標エボノールは、非常に長年にわたつてのエントーン社の登録商標であります。……Cは銅、Sは鋼、SSはステンレス鋼……を意味しており……エバノールが誤引用であることは極めて明瞭であり、エトーンについても同様であります。当社は未だかつてこういう綴り字の合法的な商標を見たことはありません。……上記の誤引用による誤記に加えて、エボノールSSも誤引用であります。当社が今までに所有したステンレス鋼黒色化用製品は、エボノールSS―48とエボノールSS―52だけであります。」旨の記載があることが認められ、以上の事実によると、引用例にエトーン社とあるのはエントーン社の誤記であり、また、エバノールとあるのはエボノールの誤記であるものと認めるのが相当である。原告は、エバノールがエボノールの誤記であるとは断定できない旨主張するが、右主張は、前認定の事実に照らして、採用することができない。
2 被告はエボノール系試薬(エボノールC、エボノールS及びエボノールSS)が周知であり、その周知性を考慮するとき、当業者にとつては、エボノールSSという試薬の名称の表示があれば、直ちにこれの化学組成及びこれがエボノールCと同様にアルカリ酸化型のものであることを理解することができ、引用例に実質的にエボノールSSの化学組成と酸化機構が記載されているものと認めることができる旨主張するから、エボノール系試薬(エボノールC、エボノールS及びエボノールSS)が周知であるか否かを検討するに、前掲甲第3号証によると、引用例には、エボノールCに関して、「Ebanol-C(Ethone社P. O. Box 1900, New Haven, Conn. 06508の商品名「Ethone data sheets for applications参照」)、すなわち、NaOHとNaClO2の混合液で化学処理した銅は優れた選択吸収性を示した。」(第794頁右欄の「実験結果」と題する項の第1行ないし第6行)旨の記載があることが、また、成立の争いのない乙第1号証には、「銅、アルミニウム、鉄、ニツケルの円盤上に選択放射被膜を形成した。1連の実験で、上記金属は市販のエバノール(「Ebanol」)と呼ばれる沸騰溶液中に浸漬した。このエバノール(「Ebanol」)は濃縮した水酸化ナトリウムと亜塩素酸ナトリウムとを含み、金属の種類に応じて他の成分をも含んでいる。」(第212頁第12行ないし第19行)旨の記載があることが認められ(右に「エバノール」とあるのは、前記1で認定説示したのと同様の理由で「エボノール」の誤記と認められる。)、これらの記載によると、エボノール系試薬は共通する成分として水酸化ナトリウム(NaOH)と亜塩素酸ナトリウム(NaClO2)を含むアルカリ酸化型の試薬であると解することができなくもないが、一方、成立に争いのない甲第4号証(1970年12月日刊工業新聞社発行に係る「金属材料」第12号第19頁ないし第22頁)、第5号証(昭和44年8月30日産業図書株式会社発行に係る「表面処理ハンドブツク」第465頁ないし第501頁)及び第7号証(昭和47年7月10日株式会社内田老鶴圃新社発行に係る「アルミニウム表面処理」第20頁ないし第27頁)によれば、金属表面の化成処理技術において、水酸化ナトリウムと亜塩素酸ナトリウムの混合液は、銅及び銅合金の黒色酸化に通常用いられるもので、アルミニウム、鉄、ニツケルの化成処理浴又は着色浴には用いられていないこと、及びアルミニウムはアルカリに侵蝕され易く、カセイソーダ(水酸化ナトリウム)のような強アルカリ成分のものは、非常に稀薄(0.01%以下)でない限り侵蝕されるおそれがあるとの事実が認められ、叙上認定の事実に徴すれば、引用例及び乙第1号証の前認定の記載から、銅及び銅合金の黒色酸化に用いられるエボノールCがアルカリ酸化型の試薬であることは認め得るけれども、これらの記載からエボノールSSを含むその他のエボノール系試薬に共通する基本的な化学組成やエボノールSSの性質が直ちに特定し得るものとすることはできない。なお、この点に関し、被告の挙示する乙第2号証(その成立に争いがない。)には、「第7図から第9図に示される銅と鋼の方向性スペクトル反射率は……エントーン社のエボノール処理による商用の化学的浸漬処理による。エボノールCによる商用の処理では、銅上に大変接着力があり、そして大気中で400度Fの温度に耐える黒色酸化第2銅が形成された。エボノールSによる商用の処理では、鋼上に黒色又は暗青色の酸化被膜が形成された。」(545頁左欄下から5行ないし右欄第5行)旨の記載が、また、乙第3号証(その成立に争いがない。)には、「第8図―銅上のエボノールCの標準化方向の反射率」(第5頁第8図の下第1行及び第2行)、「第9図―鋼上のエボノールS及びS30の近一標準スペクトルの反射率」(同頁第9図の下第1行及び第2行)、「エボノールS商用方法は鋼上に黒色又は暗青色の酸化被膜を生ぜしめる。」(同頁左欄下から第18行ないし同第16行)等エボノールC、エボノールS及びエボノールS30についての記載があることが認められるが、右乙第2号証及び第3号証を精査するも、エボノール試薬の基本的な化学組成についての記載は見当たらない。更に、前掲乙第7号証の記載に徴しその成立の認められる乙第4号証には、「エボノールSS―52溶液は、通常黒色化困難なステンレス鋼や高合金鋼上に黒色被覆を形成するアルカリ酸化型黒色化化合物である。」(第1頁左欄第1行ないし第4行)旨及び「エボノールSS―52は、中和により処理できる。黒色化溶液は、高濃度で、しかもそのアルカリ度は極めて高いので、中和には相当量の酸を必要とする。」(第4頁左欄「廃棄物処理」の項第1行ないし第5行)旨の記載があることが、また、前掲乙第7号証の2には、「上記の誤引用による誤記に加えて、エボノールSSも誤引用であり」、「当社が今までに所有したステンレス鋼黒色化用製品は、エボノールSS―48とエボノールSS―52だけであり」、「数字の表示は、エントーン社製品の番号付与方式に従つたもので」、「48と52という数字には、他に何も意味は」ない旨の記載があることが認められるところ、右の各記載によれば、エントーン社のステンレス鋼黒色化用製品は、エボノールSS―48とエボノールSS―52だけであり、エボノールSS―52はアルカリ酸化型の試薬であることを認め得るけれども、引用例記載のエボノールSSについては、その記載態様から、エボノールSS―48かエボノールSS―52のどちらかを指称するものと解されるものの、そのいずれを指称するものかを特定することはできず、また、エボノールSS―48がアルカリ酸化型のものであること、及びエボノール系試薬がすべてアルカリ酸化型の試薬であることを認めるに足りる証拠もない。なお、前認定のとおり前掲乙第7号証の2には、エボノールSS―48及びエボノールSS―52の「数字の表示は、エントーン社製品の番号付与方式に従つたものであり……48と52という数字には、他に何も意味は」ないとの記載があり、右の記載によれば、エボノールSSの48と52とは、エントーン社製品の番号付与方式に従つて付与されたものであることが認められるが、同号証には、右番号付与方式については何らの説明もなく、明らかにされていないから、この48と52とが同一の物質であるか否か、あるいはまた同一の性質を有する物質であるか否かを断定することもできない。
以上認定説示したところによれば、引用例の記載事項及び乙第1号証ないし第4号証、第7号証の2の記載事項から、引用例記載のエボノールSSが周知であり、かつ、アルカリ酸化型試薬であると断定することはできないものというべきである。そうであるとすれば、本件審決が「エボノールSSがアルカリ酸化型であると認められる。」と認定判断したのは事実を誤認したものであり、その結果、本件審決は、右誤認した事実に基づいて、引用例の記載内容を誤認し、ひいて、本願発明は引用例に記載されたものと同一であるとの誤つた結論を導いたものというべきである。
(結語)
3 以上のとおりであるから、その主張の点に判断を誤つた違法があることを理由に、本件審決の取消しを求める原告の本訴請求は、その余の点について判断をするまでなく理由があるものということができる。よつて、これを認容することとし、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法第7条及び民事訴訟法第89条の規定を適用して、主文のとおり判決する。
(武居二郎 清永利亮 川島貴志郎)