東京高等裁判所 昭和58年(行コ)42号 判決 1986年5月28日
控訴人
西木富久
右訴訟代理人弁護士
松本昌道
同
尾崎正吾
同
佐藤義行
被控訴人
横浜南税務署長
木村一夫
右指定代理人
中西茂
外三名
主文
一 原判決を取消す。
二 本件を横浜地方裁判所に差し戻す。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 控訴の趣旨
主文同旨
二 控訴の趣旨に対する答弁
控訴棄却
第二 当事者の主張及び証拠
原判決事実摘示及び当審証拠目録記載のとおりである。
ただし、次のとおり付加訂正する。
一 原判決一〇枚目表四行目の次に、次を加える。
「被控訴人所部の伊藤孝事務官が、控訴人側に対し本件修正申告を勧奨した際、同事務官は、控訴人が本件更正処分に対し審査請求中であることを知つていたものである。つまり、同事務官はこれを前提として、本件更正前の所得金額(第一次修正申告額)に雑所得金額六〇〇〇円を加えた額を総所得金額として修正申告をさせる意図で、本件更正に係る総所得金額に六〇〇〇円を加算した額で修正申告をするよう控訴人側に対し指導勧奨したものである。従つて、同事務官は、右修正申告によつて、本件更正が独立の存在を失い、これに対する審査請求や取消訴訟の利益を失うとは考えていなかつたし、同事務官の指導に従つた石原税理士とて同様であつた。
このように、伊藤事務官は、
(一) 更正処分の不服申立中に、他の申告漏れ所得が発見された場合、更正前の申告額(本件においては、第一次修正申告)に申告漏れ所得を加算した額で修正申告することは法律上あり得ないのにかかる修正申告をなし得、かつ、このような修正申告を勧奨できるという誤つた判断のもとにそのような勧奨をしたこと
(二) 右のような修正申告をする方法として、更正に係る総所得金額に申告漏れの所得金額を加算する修正申告書を提出すること
(三) 右修正申告書の提出によつて、先になされた更正処分に何らの影響もないこと
等の誤つた判断のもとに、これを石原税理士に伝えて本件修正申告を勧奨したのである。
従つて、石原税理士は、右(一)ないし(三)を正当と誤信し、伊藤事務官の勧奨に従い、本件修正申告を作成し、控訴人をもこの旨誤信させて、右申告書に押印させるに至つたものである。
以上のとおり、被控訴人側の右のような誤解と、これに基づく石原税理士に対する被控訴人側の指導勧奨によって石原税理士に前記のような錯誤が生じ、その結果控訴人においても同様の錯誤が生じたものであつて、右一連の状況を併せ考えると、このような事情の下で控訴人側が前記錯誤におちいつたまま、本件修正申告をなすに至つたのは極めて当然というべく、そして、右錯誤は客観的に重大かつ明白といわなければならない。」
二 同一〇枚目裏末行の次に、次を加える。
「伊藤事務官が、控訴人の本件雑所得六〇〇〇円が申告漏れになつていることを捕捉したのは全く偶然によるものであつて、しかも右のような少額所得について被控訴人側から再更正をなすことは、右手続に要する費用が、控訴人から徴収する修正申告による増差納税額を上回ることになり、租税徴収における経済性の原則に反するとの立場から、控訴人の代理人石原税理士に対し、強力な修正申告の勧奨となり、同税理士においてもやむなくこれに応じたものである。
右の次第で、右に錯誤無効について述べた事情の下で、審査請求中の事案について修正申告の提出を強要し、かつ、現実に右提出を受けながら、これを奇貨として、不可抗争性を主張することは、本案前の抗弁権の濫用であることはもとよりのこと、著しく信義に反するものとして許されないところといわねばならない。
また、伊藤事務官が、仮に本件更正につき不服申立がなされていることを知らなかつたとすれば、そのことにつき被控訴人は上司として監督指導を怠つたものとして重大な過失があるというべきである。
課税庁自らは、右の注意監督を怠りながら、自らの非は棚にあげ、控訴人側の善意からなされた僅少額の本件修正申告書の提出をとらえて、訴えの利益を欠くと主張することは、まさに信義に反するとの謗りを免れない。
五の二 被控訴人の五の主張に対する反論
1 本件修正申告書提出の経緯について
被控訴人所部職員が、石原税理士に対して控訴人の昭和四二年分所得税につき雑所得六〇〇〇円の申告漏れがある旨を指摘し修正申告をするよう慫慂したところ、石原税理士はこれを了承して被告備付けの修正申告用紙を受領し、部下に指図して右用紙に所要の事項を記載し、控訴人の捺印を得たうえ、これを被控訴人に提出するに至つたものである。
2 錯誤による無効の主張について
控訴人が本件修正申告書を提出するに至つた経緯は前記のとおりであり、控訴人の代理人石原税理士は、控訴人の昭和四二年分所得について六〇〇〇円の申告漏れがあることを自認して任意に、本件修正申告書を提出したものである。
しかして、申告書自体に、誤記、誤算等の外形的誤りが認められず、国税通則法一九条四項所定の事項を漏れなく記載した適式な体裁を整えたものであるうえ、被控訴人所部職員が、本件修正申告書の提出方を指導するに際し、控訴人が主張するような趣旨の説明をした事実は全く存しないのであるから本件修正申告には客観的に重大かつ明白な錯誤が存するとは到底認められないのである。
3 信義則違反の主張について
本件修正申告は、税の専門家である石原税理士により、任意になされたものであるから、被控訴人が本訴において、本件修正申告がなされたことを理由として本件更正の取消しを求める訴えの利益を欠くものと主張することは相当であり、何ら信義則に反するところはないのである。」
三 同二一枚目表三行目の「加少」を「過少」と訂正する。
理由
一原判決理由一及び二1ないし5を引用する。ただし、次のように付加訂正する。
1 原判決一四丁裏八行目の「石原光義」の次に「、同伊藤孝」を加える。
2 同一四枚目裏一〇行目から一五枚目表八行目の「これを了承して、」までを次のとおり改める。
「控訴人が本件更正につき審査請求中の昭和四四年六月中旬ころ、被控訴人所部事務官伊藤孝は、控訴人の昭和四三年分の所得税についての調査のため、控訴人に対し来署依頼状を発送したところ、控訴人の代理人として石原光義税理士が、同月二四日ころ、被控訴人署に来訪した。そこで同事務官は、同税理士との間で昭和四三年分の所得税に関し資料等を検討したところ、右年分については問題はなかつたが、偶々京浜急行電鉄株式会社から収集した資料中に控訴人の昭和四二年分の雑所得六〇〇〇円分の資料が混入していることを発見したため、同事務官が同税理士に対し、右雑所得について申告が漏れている旨指摘し、修正申告を示唆(もつとも、右示唆は諸般の事情にかんがみ勧奨と同視しうるものと解される。)した。同税理士は、右雑所得の申告漏れを認めたうえ、修正申告をすることを了承して、」
3 同一五枚目裏末行の「修正申告をされたい旨の慫慂」に代え、「修正申告の示唆」と改める。
4 同一七枚目表一行目の「修正申告」の次に、「が有効である限りこれ」を加える。
5 同一七枚目表三行目の「から、」から一八枚目表一行目までを削る。
二しかしながら、控訴人が本件修正申告を提出をしたことによつて、ただちに本件訴が利益を欠くに至つたものとして不適法と解すべきかどうかについては、更に検討を要するところである。
1 すなわち、本件のように更正に対する審査請求手続中に、所得の脱漏が発見され、修正申告をする必要が生じた場合、納税者側において右更正を確定させることなしに修正申告をする方法を、そもそも法律がこれを認めているかどうかについては必らずしも判然としないところである。
蓋し、国税通則法一九条二項によると、更正を受けた者が脱漏所得について修正納税申告書を提出する場合、当該申告書に記載すべき事項として同条四項所定の各事項を記載することが必要とされているところ、納税者において同条四項1号所定の「その申告前の課税標準等及び税額等」につき更正にかかる課税標準等ではなく、右更正に対する審査請求にかかる課税標準等(すなわち、納税者が主張する課税標準等)を記載した場合にも右修正申告として適法と解せられ得るとの解釈上の余地がないわけではないからである(若し右のような解釈の余地がないとすれば、――現に課税庁において納税者に利用させている修正申告用紙は右解釈を排除しているように見受けられる(甲第一号証、乙第一号証)――更正に対し審査請求中の者は修正申告をする方法がないこととなり、法律の不備ということになろう。)。
しかし、いずれにもせよ、納税者が右更正の確定を欲せず、これに対する審査請求手続の続行を希望するのであれば、当該修正申告書の提出を見合わせることとするのが、不服審査手続の余地を残しておくうえで安全であるといえよう。しかし、納税者が右意図に反し誤つて修正申告書を提出したならば課税庁は右提出の趣旨を知る限り申告書の受理を差し控えるのが筋合というべきであろう。他方、右のような状況下において、納税者は課税庁から修正申告の勧奨を受けるいわれは全くないわけであるし、課税庁においてもそのような勧奨をするのは筋違いというべきである。課税庁が納税者に対し新たな脱漏所得につき課税の必要があると判断するならば、再更正をすれば足りるのであり、また右の方法以外に新たに課税すべき手段はないのである。
2 しかるに、証人石原光義の証言によれば、控訴人は本件更正について一貫して不服審査の申立を維持する意思を保持していたことが明らかであるのにもかかわらず、本件修正申告をしたことはすでにみたとおりであるところ、右は、控訴人の代理人石原光義が租税会計事務の専門家(公認会計士・税理士)でありながら、訴えの利益喪失につながるような本件修正申告をしたことにつき後記の事情をしんしやくしてもなおたやすく看過することのできない程度の過失を犯したことによるものといわざるを得ないものである。
しかしながら、石原税理士の右過失もさることながら、被控訴人課税庁が、本件修正申告を勧奨し、右申告書を受理した経緯についてみると、納税者側の過誤ばかりを一方的に責めることのできない以下の事情のあることも見逃されてはならないのである。すなわち、
(一) 控訴人の昭和四二年分の雑所得六〇〇〇円が申告漏れであることが判明したのは、前記認定のとおり、被控訴人所部係官から控訴人の昭和四三年分の所得調査について同人に対する来署依頼があつた際、石原税理士が控訴人の代理人として来署し、右調査に協力中、伊藤事務官が偶然これを発見したものであること
(二) 石原税理士は、同人の証言によれば、伊藤事務官から申告漏れがあると指摘された昭和四二年分の雑所得が、当時係争中の同年分の譲渡所得とは異質の所得であつて、金額も六〇〇〇円という僅少額であり、納税額にしても約三〇〇〇円程度であり、依頼者である控訴人に無断で右脱漏所得を申告することにしても控訴人にさしたる金銭的負担をかけるわけのものではないと判断し、即時同事務官の修正申告の勧奨に応ずることにしたこと
(三) 証人伊藤孝、同石原光義の各証言によれば、伊藤事務官は石原税理士が来署した際、控訴人の昭和四二年、四三年分の所得につき調査中、同税理士から控訴人の不動産譲渡所得について目下国税局においても調査に着手していることを聞き及んでおり、しかも、同署備え付けの申告課税台帳によつて被控訴人の控訴人に対する昭和四二年分所得税に関する更正通知書の控えを現認していたことが認められるのであるから、同事務官としては、控訴人の昭和四二年分の所得につき被控訴人により更正がなされたこと並びに目下国税局において右更正について不服審査が行なわれているのではないかとの疑念を抱くことが極めて容易である状況にあつたこと
(四) 従つて、伊藤事務官は、申告脱漏にかかる雑所得につき控訴人が修正申告をすれば、進行中の不服審査手続申立の利益が一挙に喪失せしめられることが必定である以上、右雑所得については被控訴人側において再更正することもあり得る旨示唆するにとどめるか、そうでなければ、控訴人において右不服審査中の国税局当該係官に対し、審査請求の趣旨に掲げた取消しを求める数額を減額する旨の申立をなすよう示唆するかいずれかの措置をとるのが相当であつたと解せられる。しかるに、伊藤事務官はこの点につき全く考慮を払うことなく、漫然と、前記認定のとおり石原税理士に本件修正申告をするよう勧奨したものであること
(五) 他方、石原税理士としては、伊藤事務官が本件更正をなした被控訴人の部下であり、しかも同事務官と面談中、昭和四二年分の確定申告については第一次修正申告を含め更正がなされたこと、控訴人の所得については国税局においても調査中であること等につき説明を現に行つたばかりなのであるから、同事務官が右修正申告を勧奨する以上、控訴人において本件更正に対し審査請求中であることを当然認識しており、かつこれを前提として右勧奨をなしたものであると了解したことは速断のきらいがあるにしても、同事務官が控訴人の審査請求申立の利益を敢て無視するような勧奨をするなどと想い到らなかつたのは無理からぬ点があるということができ、一方的に控訴人側の過誤を責めるのは酷であると認められること
(六) 控訴人が、本件更正により認定された昭和四二年分の総所得金額二九三四万一九〇一円を第一次修正申告による金額一七七二万五二二一円として争い、審査請求中であつたことは当事者間に争いがないところ、もし、本件修正申告により、右審査請求が不適法に帰することになれば、控訴人は、右審査請求により抗争している税額六八三万一一〇〇円の当否を争う手続的利益を一挙に喪失することになるのであつて、右は納税義務者である控訴人の利益を著しく害することは明らかであること
3 前記認定の諸事情からすれば、伊藤事務官が石原税理士に対し本件修正申告を示唆ないし勧奨した際、控訴人が本件更正に対し審査請求中であることの明確な認識はなかつたもののようであるが、同事務官において僅かの注意を払えば、これを知り得た状況にあつたものであり、そして、もしこれを知つたとすれば、本件修正申告の示唆ないし勧奨は行われなかつたであろう(伊藤自身同旨の証言をしている。)から、伊藤事務官の右不注意による勧奨は、控訴人の不服申立手続上の利益を喪失せしめるに至つた重大な原因を形成したものといえるのである。
加うるに、控訴人に対する本件更正は外ならぬ被控訴人のなした行政処分であり、これに対する不服申立のなされたことは当然これを知悉している立場にある被控訴人としては、部下である伊藤事務官が本件修正申告を示唆ないし勧奨した際、同事務官において本件更正に対し控訴人から審査請求の申立がなされていたことを偶々認識していなかつたからといつて、被控訴人が本訴においてこれを有利に援用し主張するのは信義に反し相当ではないといわざるを得ない。
もつとも、行政庁が組織体として活動する以上、被控訴人とても当該納税者に関する事項を独りですべてを認識することは所詮不可能事であることはもちろんであるが、当該課税庁としては職員全体が有機的に業務執行をなしているものと納税者は認識し、期待をしているのであつて、課税庁としてもできる限り納税者の右期待ないし信頼に応えるべき職責を有するものと解せられる。
従つて、本件のように、修正申告がたとえ納税者側の過失に基づくものであるにせよ、その申告をなすに至つた主たる要因(発端)が被控訴人所部係官の誤れる示唆ないし勧奨により誘発されたと認め得るような事情のもとにおいては、右申告によつてもたらされる控訴人の不服申立手続上の不利益、即ち本件訴えの利益の喪失につき被控訴人は信義則上これを主張し得ないと解するのが相当である。
三なお、控訴人は本訴において、係争年分の所得税並びに加算税双方の本件更正につき、いずれもその取消を求めていることが明らかであるところ、右加算税についての更正に対する取消請求は、所得税のそれとは独立にその訴えの利益が存すると解すべきであるから、この点において右請求を却下すべきものとした原審判断は失当である。
四以上の次第で、本件修正申告のなされたことをとらえて本件訴えを不適法として却下した原判決は、その余の点につき判断するまでもなく失当であるからこれを取消し、かつ、本件を原審裁判所に差戻すこととし、民訴法三八八条に則り主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官武藤春光 裁判官山下薫 裁判官秋山賢三)