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東京高等裁判所 昭和59年(う)263号 判決 1987年7月29日

目次

主文

理由

第一編 被告人田中角榮、同榎本敏夫関係

第一章 訴訟手続の法令違反の論旨について

第一節 嘱託証人尋問調書の証拠能力に関する訴訟手続の法令違反の論旨について

一 合衆国裁判所に対する証人尋問嘱託手続の適法性について

二 不起訴宣明によるいわゆる刑事免責の適法性について

三 嘱託証人尋問手続における違法性に関する主張について

四 刑訴法三二一条一項三号の「供述不能」及び「特信性」の要件について

五 結論

第二節 コーチャン及びクラッターに対する証人尋問請求却下に関する訴訟手続の法令違反の論旨について(なお、検察官面前調書等の証拠能力に関する訴訟手続の法令違反の論旨については第二章の関係部分でそれぞれ判断する。)

第二章 事実誤認の論旨について(検察官面前調書等の証拠能力に関する訴訟手続の法令違反の論旨に対する判断を含む。)

第一 ロッキード社の資金調達に関する事実誤認の論旨について

一 「外国送金受領証(写)」について

二 「収支控帳(摘要)(写)」について

第二 ロッキード社(クラッター)・丸紅(伊藤)間の金銭授受に関する事実誤認の論旨について

一 クラッター・伊藤間の金銭授受について

1 関係者の供述及び物的証拠の存在

2 松岡克浩の検察官面前調書の証拠能力について

3 野見山國光の検察官面前調書の証拠能力について

4 各証拠の信用性について

5 第一回目の授受について

6 第二回目の授受について

7 第三回目の授受について

8 第四回目の授受について

二 ロッキード社から丸紅に交付された五億円の趣旨について

1 P3C売込み工作資金等他の目的のための資金である疑いの存否について

2 昭和四八年六月のいわゆる榎本催促の存否に関する事実誤認の主張について

3 原判決の認定事実の内容がそれ自体不自然である旨の主張について(L一〇一一型機売込み成功後五億円の授受が遅れているのは不自然であるとの主張について)

4 コーチャン副証二五号ないし二八号について

第三 伊藤・榎本間の五億円授受に関する事実誤認の論旨について

一 伊藤の供述とその信用性について

二 榎本の供述とその信用性について

三 笠原政則作成の供述書の証拠能力について

四 現金授受に関する原判決の事実認定上の問題点について

1 第一回目(英国大使館裏)の授受について

2 第二回目(都立九段高校向いの電話ボックス付近)の授受について

3 第三回目(ホテルオークラ)の授受について

4 第四回目(伊藤の自宅マンション)の授受について

5 段ボール箱に関する主張について

6 伊藤の檜山に対する現金授受完了の報告及び榎本が段ボール箱を田中邸内に搬入したことについて

7 昭和五一年二月以降における被告人らの言動(いわゆる事後状況)について

第四 榎本アリバイに関する事実誤認の論旨について

一 清水ノートの証拠価値について

二 榎本アリバイの成否について

1 第一回目の授受に関するアリバイの成否について

2 第二回目の授受に関するアリバイの成否について

3 第三回目の授受に関するアリバイの成否について

4 第四回目の授受に関するアリバイの成否について

第五 請託に関する事実誤認の論旨について

一 請託の動機について(檜山らにはL一〇一一型機売込みについて田中に協力を依頼しなければならない理由も必要性もなかった旨の主張について)

1 全日空に対するL一〇一一型機売込みの情勢について

2 大久保ら丸紅売込担当者の情勢判断について

3 機種決定時期についての認識と請託について

4 檜山の情勢判断と請託を決意するに至った経緯について

二 檜山、伊藤、大久保、コーチャン間の共謀に関する事実誤認の主張について

1 昭和四七年八月上旬ないし中旬ころの檜山・大久保間の話合いについて(檜山の検察官面前調書の証拠能力に関する判断を含む。)

2 昭和四七年八月上旬ないし中旬ころの檜山・伊藤間の話合いについて

3 檜山・コーチャン間の共謀について(昭和四七年八月二一日の檜山・コーチャン会談について)

4 昭和四七年八月二二日の檜山の大久保に対する指示について

5 大久保・コーチャン間の共謀並びに大久保の檜山に対する報告について

三 昭和四七年八月二三日の田中・檜山会談における請託に関する事実誤認の主張について

四 檜山、伊藤、大久保及びコーチャンの内閣総理大臣の職務権限に関する認識について

1 伊藤の認識について

2 檜山の認識について

3 大久保の認識について

4 コーチャンの認識について

五 田中邸訪問後における檜山の伊藤、大久保に対する指示について

六 間接事実に関する事実誤認の主張について

1 昭和四七年八月二五日料亭「木の下」における伊藤の榎本に対する接待について(副島勲の検察官面前調書の証拠能力に関する判断を含む。)

2 昭和四七年八月二八日「千代新」における会合について

3 小佐野賢治を介した全日空副社長渡辺尚次に対する慫慂について(小佐野賢治の検察官面前調書、渡辺尚次の検察官面前調書の証拠能力に関する判断を含む。)

4 昭和四七年一〇月二四日内閣総理大臣官邸における全日空社長若狭得治に対する働きかけについて

5 昭和四七年一〇月上旬の伊藤の榎本に対する問合わせについて

6 昭和四七年一〇月一四日の田中・檜山会談について

7 五億円の支払いと小佐野賢治の関係について

8 昭和四七年一一月一六日料亭「木の下」における一、〇〇〇万円の授受について

第六 外為法違反に関する事実誤認の論旨について

第三章 内閣総理大臣の職務権限に関する法令適用の誤りの論旨について

一 問題の所在と論点の整理

1 基本的な問題点

2 刑法一九七条における公務員の職務に関するか否かの判断と行政法上の公務員の職務権限の有無

3 請託の内容になっている行為

4 論点の整理

二 全日空の機種選定に関する運輸大臣の職務権限について

1 新機種選定と運輸大臣の事業計画変更認可(権限)

2 運輸大臣の新機種選定に関する行政指導

三 内閣総理大臣の運輸大臣に対する指揮監督権限の行使について

四 閣議にかけて決定した方針の存在について

1 航空機のジェット化・大型化の推進に関する閣議了解について

2 八項目及び七項目の対外経済政策に関する閣議決定について

五 全日空に対する内閣総理大臣の「直接の働きかけ」について

六 この章の結論

第四章 この編の結論

第二編 被告人檜山廣関係<省略>

第三編 被告人大久保利春関係<省略>

第四編 被告人伊藤宏関係<省略>

(別紙) 現金授受一覧表

略語例

控訴人 被告人

被告人 田中角榮 外四名

弁護人 樋口俊二 外二五名

検察官 松田昇 外六名

主文

一  被告人田中角榮、同榎本敏夫の本件各控訴を棄却する。

当審における訴訟費用中、証人毛利英和に支給した分は被告人田中角榮、同榎本敏夫の連帯負担とする。

二  被告人檜山廣の本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用中、証人中山素平に支給した分は被告人檜山廣の負担とする。

三  被告人大久保利春の本件控訴を棄却する。

四  原判決中、被告人伊藤宏に関する部分を破棄する。

被告人伊藤宏を懲役二年に処する。

被告人伊藤宏に対し、この裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予する。

原審における訴訟費用中、証人若狭得治に対し原審第五五回公判期日における証人尋問の関係で支給した旅費・日当全部及び同証人に対し原審第五九回公判期日における証人尋問の関係で支給した旅費・日当のうち大久保利春の関係のみで行われた尋問手続にかかる分(以上合計四、二五〇円)を除くその余の分は、田中角榮、榎本敏夫、檜山廣、大久保利春と連帯して、被告人伊藤宏に負担させる。

理由

(以下の判示における略語の使用については本判決末尾の略語例による。)

第一編被告人田中角榮、同榎本敏夫関係

本件各控訴の趣意は、被告人田中角榮の弁護人草鹿浅之介、同新関勝芳、同原長栄、同本田正義、同石川芳雄、同真鍋薫、同渡部正郎、同富澤準二郎、同樋口俊二、同倉田哲治、同木村喜助、同松崎勝一、同稲見友之、同畑口絋、同外山興三、同石田省三郎、同淡谷まり子、同小野正典及び被告人榎本敏夫の弁護人原長栄、同石川芳雄、同真鍋薫、同木村喜助が連名で提出した控訴趣意書(ただし、被告人榎本敏夫の関係で第九章「内閣総理大臣の職務権限に関する法令違反、事実誤認」の論旨の部分を除く。)に、これに対する答弁は、検察官松田昇、同高野利雄、同宗像紀夫、同押切謙徳、同鶴田六郎、同大泉隆史が連名で提出した答弁書にそれぞれ記載されているとおりであるから、これらをここに引用する。

第一章訴訟手続の法令違反の論旨について

第一節  嘱託証人尋問調書の証拠能力に関する訴訟手続の法令違反の論旨について

所論は、要するに、原判決は、コーチャン及びクラッターに対する嘱託証人尋問調書(昭和五三年一二月二〇日付原審決定〔以下「原審決定」という〕により証拠として採用されたもの。)を刑訴法三二一条一項三号により証拠として採用し、事実認定の資料としているが、右証人尋問調書は、手続法上、明らかに憲法及び刑訴法に違反する手続によって獲得されたもので違法収集証拠として排除されるべきであり、また、刑訴法三二一条一項三号の書面としての要件を欠き証拠とすることができないものであるから、原判決には証拠能力のない右証人尋問調書を採用して事実認定の資料とした訴訟手続に関する法令違反があり、これが判決に影響を及ぼすことが明らかであるというにあり、その理由として、<1>わが国の刑事裁判手続上、外国の裁判所に対し証拠調べの嘱託をすることを認める法令上の根拠はなく、刑訴法二二六条に基づき証人尋問の請求を受けた裁判官が、アメリカ合衆国(以下「合衆国」という。)の裁判所に証人尋問の嘱託をした手続自体、違憲、違法である。<2>右嘱託証人尋問調書は、証人らに対し、不起訴確約をしていわゆる免責を付与し証言を強制して獲得されたものであるが、わが国の法制には、刑事免責を付与して証言を強制することを許容する制度はないのであるから、右措置は違憲、違法である。<3>右嘱託証人尋問実施の手続過程には、わが国の法令及び合衆国の法令に違反し被告人らの利益を不法に侵害した違法がある。<4>右嘱託証人尋問調書は、刑訴法三二一条一項三号所定の「供述者が国外にいるため公判期日において供述することができない場合」に該当せず、また右調書には特信情況も存在しない、というのである。そこで以下順次検討することとする。

一  合衆国裁判所に対する証人尋問嘱託手続の適法性について

1 原審決定は、「刑訴法には、裁判所が外国の裁判所に対し証拠調べの嘱託をすることができるとする明文の規定は存在しないが、公判裁判所は、刑事事件につき、実体的真実発見の使命を全うするため、本来の証拠収集方法を補うものとして、証拠所在地の外国の裁判所に対し証拠調べの嘱託をすることにより、強制的に証拠を収集することが当然に予定されていると考えなければならず、外国裁判所ノ嘱託ニ因ル共助法(以下「共助法」という。)一条及び一条の二第一項六号の規定は、わが国の裁判所が刑事事件に関し外国の裁判所に対し証拠調べの嘱託をすることがありうること、ひいては、わが国の裁判所がそのような権限を有することを間接に(当然の前提として)示しているということができること、刑訴法は、明文で規定した証拠収集方法によらない人証に関して作成された供述書又は供述録取書について、一定の要件のもとに証拠能力を認める刑訴法三二一条一項三号の規定を設け、外国裁判所に対し証人尋問の嘱託をして獲得された証人尋問調書についても公判の証拠として許容しうる途を認めていること、イタリア他四ケ国との間に刑事事件に関し司法共助の取決めがなされ、合衆国との間では、個別的外交折衝により、昭和三一年二月東京地方裁判所八王子支部が刑事被告事件につき合衆国の裁判所に証人尋問の嘱託をした事例があること等は、刑事事件につき、公判裁判所が外国の裁判所に対し証拠調べの嘱託をする権限を有していることを示すものであって、その刑訴法上の根拠は、刑事公判裁判所の訴訟指揮権に求められる。」旨判示したうえ、刑訴法二二六条により証人尋問の請求を受けた裁判官が外国の裁判所に右証人尋問の嘱託をする権限があるかどうかについて、「刑訴法二二六条の請求を受けた裁判官は、証人尋問に関し裁判所又は裁判長と同一の権限を有するから、当該裁判官は右法条の趣旨に反しない限り外国の裁判所に対し証人尋問の嘱託をすることができると解すべきところ、右法条は、裁判官が強制的権能に基づいて証拠の収集を行い捜査及び公判のために適正な証拠保全の機能を果たすことを目的とするものであり、右証拠保全が、捜査、公判の適正な運営に対して有する重要性、ひいては刑事裁判における実体的真実発見の目的にかんがみると、当該裁判官がその訴訟指揮権に基づき、右条項に準ずる証拠収集の方法として、外国裁判所に証人尋問の嘱託をして証拠保全をはかることは、刑訴法二二六条関係条項の趣旨に反するものではなく、むしろこれに合致するものと考えられるので、当該裁判官は右証人尋問の嘱託をすることができると解する。」旨判示し、更に、右証人尋問における被疑者、被告人側の反対尋問に関し、「刑訴法二二八条二項により、被疑者、被告人の弁護人を反対尋問のため右尋問に立会わせるかどうかは、裁判官が捜査に支障を生ずるおそれの有無を勘案して健全な裁量により決すべき事柄であり、本件において、東京地方裁判所裁判官が、被疑者らの弁護人の立会を禁止したうえ証人尋問を施行してほしいとの検察官の要請を適当と認めてその旨合衆国裁判所に伝達し、弁護人に立会の機会を与えなかった措置は、事案の性質を勘案すると、裁量の範囲を逸脱したとはいえず、このことは、証人らが公判等に出頭する機会を持ち得ない点を考慮しても同様である。」旨判示している。

2 これに対し、所論は、公判裁判所及び刑訴法二二六条による証人尋問の請求を受けた裁判官には、外国の裁判所に対し証人尋問の嘱託をする権限はない旨主張し、その理由として、<1>刑事裁判において実体的真実の発見は重要なことであるが、それは個人の基本的人権の保障を全うすることのうえになされるべきことで、適正手続の保障を定める憲法三一条の趣旨にかんがみると、刑事事件における証拠の収集は、法律に定める厳格な手続に従ってのみ許容されるべきであり、刑訴法には、民訴法二六四条一項のような外国の裁判所に対し証拠調べを嘱託し得る権限を認める明文の規定がないのであるから、法律に定める証拠収集方法を補うものとして、刑事公判裁判所ひいては刑訴法二二六条の請求を受けた裁判官に外国裁判所に対する嘱託権限を認め、法律に定める手続によらない強制的な証拠収集方法を許容する原審決定は憲法三一条に違反する誤った判断である。とりわけ、訴訟指揮権は、当事者に活発な訴訟活動を促し訴訟を正しい軌道に乗せることにあり、裁判所が証拠を収集し事案の真相を明らかにする責務を負うものではないとされている現行法のもとでは、釈明権を行使して立証活動を促す範囲に限られ証拠収集方法を創設する権限を含むものではないのであって、訴訟指揮権を右嘱託権限の根拠と解釈することは、明文の規定のない刑訴法に、民訴法二六四条一項と同様の規定を設けたのと同じ結果を創り出すことにほかならず、司法が国会の立法権を侵害することになり憲法四一条に違反する。<2>共助法の規定は、わが国の裁判所が外国の裁判所に対し証拠調べの嘱託をすることがあり得ることを想定していると言えるにしても、それは、いわゆる相互主義の原則をうたっているだけで、それ以上にいかなる場合に証拠調べの嘱託をすることができるのかなどその嘱託権限についての規定を欠いているのであるから、同法をもって刑事公判裁判所等の嘱託権限の根拠規定と解することはできないし、このことは、共助法の制定理由が、民訴法に権限が明文化されている民事事件における外国裁判所に対する証拠調べ等の嘱託を実効あらしめることにあったこと並びに共助法施行後に制定された司法事務共助法(明治四四年三月三〇日法律五二号)及び日満司法事務共助法(昭和一三年三月二五日法律二六号)において、それぞれ、わが国裁判所の(旧)満州国裁判所等に対する証拠調べ等の嘱託に関し明文の嘱託権限規定を設けていることに徴しても明らかであり、更に、刑訴法に比してより厳格な解釈を要求されない民訴法が、外国においてなすべき証拠調べの嘱託の方法に関する規定(二六四条一項)をおき、外国の手続法との相違によって生ずる問題についての解決方法を明示している(同条二項)うえ、民事訴訟手続に関する条約、同条約等の実施に伴う民事訴訟手続の特例等に関する法律及び同規則は、関係当事者に対する通知による立会機会の保障等当事者の権利、義務又は外国に対する嘱託に基づいて発生する問題に対処する規定を具備しているのであって、右民訴法関係法規の規定と、これらの諸問題についての対応を欠く刑訴法の規定(なお、刑訴法は送達に関する民訴法の規定を準用しているのに証拠調べに関する右民訴法の規定を準用していない。)とを対比して考えても、共助法が外国の裁判所に証拠調べの嘱託をすることができることを間接に示しているという理由で、本件の嘱託証人尋問を正当化することの誤りは明らかである。<3>刑訴法三二一条一項三号該当の書面は、適法な手続を経て作成された書面を意味し、刑訴法に明文で規定された証拠収集方法によらないで作成された書面、すなわち、明文上その権限が規定されていないのにこれに違反して行った違法な手続によって作成された書面を包含するものではなく、同法条が、かかる違法手続によって収集された書面に証拠能力を付与する可能性のあることを予定した規定でないことが明らかであるから、外国の裁判所に対する嘱託権限を肯定する適法根拠として右法条を掲げる原審決定の論理には誤りがある。<4>わが国とイタリア等外国との司法共助の取決めは、政府間の交換公文の往復によってなされているが、わが国と合衆国との間には司法共助の取決めに関する政府間の交換公文は存在しないのであるから、右イタリア等との間に司法共助の取決めが存在することは、前提を異にするわが国と合衆国との関係ひいては本件証人尋問の嘱託を正当化する根拠となるものではないばかりでなく、行政府のなした行為が憲法及び法律に適合するか否かの判断をすることなく、それを裁判所がなす行為の法的正当性の論拠とすること自体誤りであることが明らかであり、また、東京地方裁判所八王子支部の合衆国裁判所に対する嘱託の事例は、嘱託権限の存在(嘱託行為の適法性の存否)に関する先例となり得るものではない。<5>刑訴法二二六条は、同条に基づき証人尋問の請求を受けた裁判官が、自ら当該証人を尋問することにより証拠保全の機能を果たすことを定めた規定にすぎず、右裁判官が証拠保全のために必要な証拠収集の手段をとり得ることを一般的無制約に認める趣旨の規定ではないのであって、証拠保全の必要性が、そのための証拠収集の手段、方法をすべて正当化するものではない。また、仮に、刑事公判裁判所が実体的真実を発見するため訴訟指揮権に基づいて外国の裁判所に証人尋問の嘱託をすることができるとの原審決定の見解を是認するとしても、公判手続段階においては、被告人側からの尋問事項の提出及び反対尋問権の行使等により被告人の防禦権が実質的に守られると考える余地があるのに比し、第一回公判期日前の段階における証拠保全のための証人尋問は捜査の便宜のためのものであり、その手続において、反対尋問の機会が与えられる等被告人、被疑者の利益を守る実質的保障がなく、かつ、証人尋問の請求を受けた裁判官は、実体的真実の発見を使命とし被告事件につき最終判断を示さなければならない公判裁判所の立場とその性質を異にするものであるから(右裁判官は公判裁判所と同様の実体的真実の発見を使命とするものではない。)、右裁判官の訴訟指揮権の範囲は公判裁判所のそれと同一ではなく、当該証人尋問の施行に必要とされる範囲に限定されるというべきであり、外国の裁判所に右証人尋問の嘱託をする権限をも含むものと解すべきではない。<6>刑訴法二二八条二項は、同法二二六条の請求を受けた裁判官が自ら証人尋問を実施する場合にのみ適用される規定であり、また憲法三七条二項が被告人に対し十分な反対尋問権を保障している趣旨(それは、反対尋問が実体的真実の発見に寄与する機能を有していることを含む。)にかんがみると、仮に原審決定が言うように、刑訴法二二六条の請求を受けた裁判官が、「適正な証拠保全の機能を果たし実体的真実発見の使命を全うする」ため外国の裁判所に証人尋問の嘱託をすることができるとの見解に立っても、刑訴法二二八条二項の規定は、同法二二六条の規定に基づく証人尋問によって取得された調書が将来公判廷において証拠として採用される場合には、事前に右証人を公判廷において被告人側に反対尋問の機会を与えて証人尋問をすることを前提としているのであるから、本件のように、証人らがわが国の公判廷に出頭する意思がなく将来公判裁判所が証人らを喚問することが不可能であると予想される場合には、反対尋問権を行使することができないことが当初から明らかであるので、右裁判官が、外国の裁判所に嘱託するに当たり、被告人、被疑者の弁護人の立会を禁止すべく要請することは、これらの者の反対尋問の機会を完全に奪うとともに、実体的真実の発見とも矛盾することになり、したがって、かかる点に配慮せず「捜査に支障を生ずるおそれの有無」のみを勘案してかかる措置をとったことは憲法三七条二項及び刑訴法二二六条、二二八条二項に反し違憲、違法というべきであるというのである。

3 所論にかんがみ以下検討する。

刑訴法に、裁判所が外国の裁判所に対し証拠調べの嘱託をする権限を認める明文の規定がないことは所論のとおりであるが、同法上にかかる証拠調べの嘱託を禁止する規定が存在しないこと、及び後記のとおり共助法の規定が嘱託権限の根拠規定と解しえないまでも、右共助法が刑事事件においても外国の裁判所に対し証拠調べの嘱託をすることがありうることを当然の前提としていること等にかんがみると、右証拠調べの嘱託をすることができるかどうかについては、法の明文の規定が欠落し空白になっていると理解されるのであって、かかる法の空白部分については、明文の規定がないとの理由だけから直ちにかかる権限がないとの結論を導くのは早計にすぎ、刑事裁判ないし刑訴法の目的、構造等に照らし、右法の空白部分を適正、公正な訴訟手続に適合するよう解釈上埋める余地があるかどうかの検討を要するものと解すべきであり、このように解することは、その解釈により既存の法令に抵触する結果となる場合には権限の範囲を越えるものというべきであろうが、そうでないかぎり、司法権を担う裁判所の当然の責務であって、憲法三一条に違反しないばかりでなく国会の立法権を侵すものとも考えられない。

共助法は、外国の裁判所からの嘱託を受け証拠調べ等を実施する場合の要件等について規定した法律で、わが国裁判所から外国の裁判所に対し嘱託することについてはなんら規定するところがないことから、同法がわが国裁判所から外国の裁判所に対し証拠調べの嘱託をする権限を認める直接的な法律上の根拠を提供するものではないとしても、同法が、一条及び一条の二第一項六号において、外国裁判所からの民事及び刑事の訴訟事件に関する証拠調べの嘱託を受容するとともに、右嘱託に基づく証拠調べを実施するについては、嘱託裁判所所属国がわが国裁判所からの同様な嘱託を受け入れることの保証を条件とする旨相互主義の規定を設けていることに徴すると、同法は、民事事件のみでなく刑事事件についても、少なくとも、わが国裁判所から外国の裁判所に対し証拠調べの嘱託をすることがあり得ること、ひいては、かかる嘱託権限のあることを当然の前提として制定されているものと考えられ、かかる共助法の趣旨にかんがみると、刑訴法はわが国の裁判所が国際司法共助による証拠調べの嘱託をすることを禁止しているとは考えられないのである。なお、刑事事件の証拠調べに関する司法共助についても、わが国の外交機関と外国の外交機関との間において、右共助法の趣旨に基づく相互主義の原則のもとに各当事国との一般的取決めがなされ、また、具体的事件につき個別的な外交交渉がなされていることは原審決定が掲記しているとおりであり、かかる外交手続を踏まえて実務の運用がはかられていることは共助法についての前記見解を前提にしてのことと考えられる。所論は、共助法は民訴法に規定されている民事事件における司法共助による嘱託を実効あらしめるため制定されたものであるというのであるが、共助法は、わが国から外国に対し証拠調べ等の嘱託をすることを前提に、外国にかかる嘱託をしても、わが国において外国からの共助の嘱託を受容する法制を整備しておかなければ、相手国から国際司法共助に関する相互主義の原則を楯に拒否されるところから、これに対処しわが国からの共助の嘱託を実効あらしめるための必要な措置として立法化されたものであり、直接的には、私的取引の国際化に対応する側面が強かったことは否定できないにしても、同法は「民事及刑事ノ訴訟事件ニ関スル書類ノ送達及証拠調ニ付」と、刑事事件についての共助についても民事事件のそれと併記し全く同様に規定しているのであって、刑事事件についての配慮も立法の動機となっていたことは明らかであるといわなければならず、したがって、同法制定の理由を論拠に刑事事件に関する嘱託権限を否定する所論は失当である。また所論は、民訴法二六四条は、わが国民事裁判所が外国の裁判所に対し証拠調べの嘱託をすることができる権限等を定めた規定であるというのであるが、右条項は、その文言から明らかなとおり、裁判所にかかる嘱託権限があることを前提にしたうえ、外国における証拠調べの方法等について規定したものであり、右規定によって民事裁判所に右嘱託権限が創設されたものとは解することができず、法形式上は民訴法にもかかる嘱託権限を創設する直接的な明文の規定は存在しないのである。更に、民事事件に関する司法共助については、民事訴訟手続に関する条約(昭和四五年六月五日条約六号)が批准され、かつ、これに伴う関係国内法が整備され、これにより条約加盟国間における民事事件に関する司法共助の実効性が確保されているということができるが、民訴法及び共助法の制定過程と対比して考えると、民事裁判所の嘱託権限が右条約や国内関係法規によって創設されたものではないのであるから、刑事事件について、民事事件との対比において、司法共助に関する国際条約や国内法が整備されていないことを理由に、嘱託権限を否定する所論もまた失当といわなければならない。なお、刑事事件における証拠調べの嘱託について、司法共助に関する条約を締結した国はないが、わが国の外交機関と外国の外交機関との間において、前記共助法の趣旨に基づき相互主義の原則のもとに当事国との一般的取決めがなされ、また個別的な外交折衝を行うことにより、司法共助の実効性を確保する方策がとられていることは前記のとおりである。更に、所論は、日満司法事務共助法及び司法事務共助法に、裁判所の嘱託権限が明記されているのに共助法はかかる規定を欠いている旨指摘し、その立法形式の違いを理由として、共助法の規定から裁判所の嘱託権限を導き出すのは誤りである旨主張しているが、日満司法事務共助法の制定経過及びその規定に照らすと、同法は共助法の特別法として立法されたものであることが明らかであり(したがって日満間の司法共助については共助法の適用が排除される。)、刑事事件についても外国の裁判所に対し司法共助の嘱託をする権限のあることを前提としたうえ、立法当時のわが国と(旧)満州国との特殊な関係から両国間の司法事務の共助については、共助法が共助の対象とする民・刑事事件の訴訟書類の送達及び証拠調べだけでは十分でないとして、両国が相互に共助の対象となる司法事務の範囲を、右の外、犯罪の捜査、令状の発付又は執行、刑事判決の執行にまで広げ、共助の主体を裁判所のほか検事局を加えるとともに、共助の要請の受諾を義務づける等の立法措置を講じたものであって、嘱託権限を明記したのは、両国間で共助に関する条約を締結することなく、また共助法におけるような相互主義に関する規定を設ける立法形式をとらず、両国が相互に相対応するほとんど内容を同じくする国内法を発布する方法をとったことから、(旧)満州国との間においては右司法事務について裁判所及び検事局が嘱託できる旨を特に明記しなければならない事情があったことによるものと考えられるので、同法と共助法との嘱託権限に関する立法形式の違いがあることをもって、共助法が外国裁判所に対し証拠調べに関する共助の嘱託をすることができることを当然の前提として制定されていることを否定する理由となり得るとは考えられない。また、司法事務共助法は、当時のわが国の領土内における内地と外地又は領事裁判権を行う地域における司法事務の共助に関する法律であって、わが国の裁判所と外国の裁判所との間の司法共助に関するものではないから、嘱託権限に関する立法形式の違いがあったからといって、それが共助法に関する右の見解を否定する理由になるとは考えられない。

ところで、刑事訴訟は、刑罰法令を適正に適用実現するため事案の真相を明らかにすること(実体的真実の発見)を重要な目的としているのであって(刑訴法一条)、証拠裁判主義の法制のもとにおいては、右目的を達成するため、被疑者、被告人その他の関係者の基本的人権との調和をはかりつつ、証拠収集を可能とする法的手段を講ずることは不可欠の要件である。刑法は、二条ないし四条に国外犯に関する規定をおき同法の適用範囲を国外に及ぼしているのであり、また国際交流が緊密化し日常化した情況のもとにおいては、犯罪現象の国際化は必然的であり、これにともない、国外犯のみならず国内犯にかかる事件についても、重要な人的、物的証拠が外国に存在することはしばしば見られるところであり、かかる証拠についてもできるかぎりこれを収集し、実体的真実の発見の資料に供せしめる必要のあることも、国内に存する証拠の場合と本質的に異なるところはないのであって、そのためには刑事裁判及び犯罪捜査において国際的な活動が必要とされるが、裁判所や捜査機関が外国においてその権限を直接行使することは外国の主権を侵害することになるので許されず、右必要性を満たすためには、条約、取決めその他の合意に基づいて行われる国家間の協力としての司法共助等によるほかなく、世界各国は外国の司法機関等に証拠調べ等の嘱託をすることとしているのであり、わが国の刑訴法もかかる法的手段をとる途を閉ざしているとは考えられない。このように、証拠を適法に入手する訴訟手続的方法を容認することは刑訴法ないし刑事訴訟の目的に適合する合理性のある措置であるというべきであるとともに、手続法上かかる証拠収集方法を認める明文の規定がないという理由だけから合理的必要性のある措置をとらないことは、適正、公正な訴訟手続を確保する見地から考えてもとうてい看過しがたいことといわなければならない。もとより、実体的真実の発見のためには、いかなる手段、方法を講じてもよいというのではなく、かかる手段、方法が実質的に被疑者、被告人その他の関係者の基本的人権を侵害するものである場合には許容されないことはいうまでもないことである。しかして、裁判所は司法権に内在する固有の包括的権能として訴訟指揮権を有し、訴訟の主宰者として、訴訟の具体的情況に対応し、成文法規に明文の根拠規定がない場合でも、法規の明文の規定ないし訴訟の基本構造に違背しないかぎり、適切な裁量により公正な指揮を行い、訴訟の合目的的進行をはかるべき権限と職責を有するものであって(最二小決昭四四・四・二五刑集二三巻四号二四八頁参照)、その目的は手続の進行を迅速円滑ならしめるとともに実体的真実を発見しこれに適合した適正な判決に到達することにあり、その行使の範囲は判決宣告に至る訴訟行為、事実行為の全般にわたるもので、所論がいうように、当事者の証拠収集活動に関し釈明権等を通して立証活動を促す範囲に限られるものではない。請求又は職権により事案の真相を解明するため必要があるとして採用した証人尋問を円滑に実施することは裁判所の責務であり、このことは訴訟構造のいかんとかかわりない事柄である。ただ、その証人が外国に居住する外国人でわが国の裁判所に出頭しない場合には、裁判所は直接証人尋問を実施する方法がないので、国際司法共助によりこれを外国の裁判所に嘱託するほか方法がないところ、刑訴法一六三条一項によると、証人尋問の実施を国内の他の裁判所に嘱託することができるのであって、この場合と同一の要件のもとに外国の裁判所に嘱託して証人尋問を実施することを認めても(相手国が受託することが前提となるのはもちろんである。)、そのことによって、被告人の権利が侵害されるなど特段の支障ないし弊害が生ずるとは考えられず、かつ、わが国の刑事訴訟全体の目的や基本理念に反するものではないのであるから、かかる事柄は、訴訟の合目的的運営をはかる見地から裁判所の裁量により決してしかるべき事項というべく、実体的真実の発見を使命とする裁判所は、訴訟指揮権に基づく公正な措置として、外国裁判所に対し証人尋問の嘱託をする権限を有するものと解すべきである。

しかして、刑訴法二二六条による証人尋問の請求を受けた裁判官は、証人の尋問に関し、受訴裁判所と同一の権限を有する(同法二二八条一項)。右二二六条、二二八条一項の規定は、任意捜査において出頭又は供述を拒否した者に対し、検察官の請求に基づき、勾引あるいは証言拒否罪等の強制力を背景に証言を求める権能を裁判官に付与し、その尋問の結果を捜査に役立たしめるとともに、将来の公判に備えその結果を保全する機能を果たす目的をも有するもので、かかる制度は刑事訴訟の目的である実体的真実の発見の要請に適合しこれに資するものとして制定されたものであって、裁判官において右証人尋問を実施する職責を有することはいうまでもない(なお、右裁判官の権能は司法権に包含されその一態様として行使される。)。かかる第一回公判期日前の証人尋問は、国内に居住する者のみならず外国に居住する者に対しても必要なことに変りはないのであるから、外国に居住する証人が任意に出頭しないことが明らかな場合には、外国の裁判所に嘱託してその尋問を実施しなければならない合理的必要性のあることは受訴裁判所における場合と本質的に変りはなく、右制度の立法趣旨にかんがみると、裁判官が受訴裁判所と異なり当該事件につき終局的判断を下す立場にないということが、右合理的必要性を否定し当該裁判官の権能を自ら証人尋問を実施する範囲に限定しなければならない論拠となるとは考えられず(なお、右裁判官が刑訴法一六三条一項により国内の他の裁判所の裁判官に嘱託する権限があることを否定する合理的理由はない。)、右請求を受けた裁判官が、その付与された権能に基づく使命を果たすため、当該手続を主宰する立場において有する訴訟指揮権に基づき外国の裁判所に証人尋問の嘱託をする権限を有すると解すべきことは、受訴裁判所の場合と同様である。なお、刑訴法二二六条による証人尋問が捜査に資するための制度であり、その密行性の関係から、多くの場合、被疑者、弁護人の立会が捜査に重大な支障を生ぜしめるおそれがあるその特質にかんがみると、その尋問手続は受訴裁判所のそれと同一の方式に従う必要はなく、国内の他の裁判所の裁判官に嘱託する場合と同一の要件のもとに外国の裁判所に嘱託するものであるかぎり、被疑者あるいは被告人の権利が不当に侵害される等、特段の支障ないし弊害が生ずるとは考えられないところ、本件証人尋問の嘱託書によると刑訴法二二六条に則る証人尋問の嘱託がなされ、国内において実施される場合と対比し特に被告人らの権利を侵害する取扱いがなされた事実は認められないので嘱託したこと自体を違法視するいわれはない(証人らに対しいわゆる刑事免責を付与したことが被告人らの権利を侵害したことにならないことは後記のとおりである。)。

外国の裁判所に嘱託して実施される証人尋問は、原則として当該受託国の固有の手続に従ってなされるところから、その結果作成されわが国が入手する尋問調書の証拠法上の取扱いについては、改めてその作成手続に応じ、わが国の憲法及び刑訴法との適合性が検討されなければならないものであって、刑訴法二二六条による証人尋問は、証拠保全の機能を有するとはいえ、第一次的には捜査に役立たしめる資料を入手することにあり、証人尋問の嘱託をする段階においては未だ公判の証拠に供するか否か未確定の状態にあるので、将来公判において当該証人尋問調書に証拠能力が付与される可能性の有無は、嘱託自体の適法性判断とは関係がないものというべく、嘱託したことが適法であっても、その結果入手した尋問調書の証拠能力は、別途独自に刑訴法三二一条以下の伝聞証拠禁止の例外規定に該当するかどうかが検討されるべきことであるから、証拠能力付与の可能性の有無を前提として嘱託したこと自体の違法性を論難する所論は失当である。なお、刑訴法三二一条以下の規定をみると、伝聞証拠禁止の例外として、同法三二三条一号に、外国において作成され収集された証拠について証拠能力を認める規定が存するのであって、かかる規定にかんがみると、刑訴法は外国において作成される書証のあることをも含めて証拠関係法規を規定し、その証拠能力については裁判所が判断し決定しうることを容認していると考えられ、このことは、外国において証拠を収集する方法を刑訴法が否定している趣旨でないことの一証左と考えることができるのであるから、原審決定が、このことを外国の裁判所に対して証拠調べの嘱託権限を肯認する論拠の一つとして挙げていることを不当視するのは相当でなく、この点の所論も失当といわなければならない。

更に、所論は、刑訴法二二八条二項の規定は同法二二六条による請求を受けた裁判官が自ら証人尋問を実施する場合にのみ適用があり、また、右裁判官が、外国の裁判所に嘱託するに当たり、尋問手続に被疑者、被告人の弁護人の立会禁止の要請をした措置は違憲、違法であるというのであるが、右裁判官が外国の裁判所に証人尋問を嘱託できることは前記のとおりであり、そうであれば、刑訴法二二八条二項の規定の適用を所論のように限定しなければならない理由はなく、かつ同法二二六条の前記立法趣旨にかんがみると、右裁判官が、嘱託するに当たり、捜査に支障を生ずるおそれの有無を勘案したうえ同法二二八条二項の規定に基づく措置として所論のとおりの要請をしたことが同条項に違反するものでないことは明らかである。憲法三七条二項は、もともと受訴裁判所に喚問した証人に対する反対尋問の権利を保障した規定で、捜査手続における保障規定ではないのであるから、実質的に捜査に関する規定である刑訴法二二六条の証人尋問に適用はなく、捜査に支障を生ずるおそれの有無を勘案して裁量により被告人、被疑者及び弁護人の立会禁止を許容する同法二二八条二項の規定が憲法三七条二項に違反しないことは最高裁判所の判例の示すところである(最大判昭二七・六・一八刑集六巻六号八〇〇頁参照)。なお所論は、嘱託の時点で証人らが将来公判廷に証人として出頭する意思のないことが明らかな場合には被告人らの反対尋問の機会をすべて奪うことになるからこのような場合には裁判官がとった前記措置は憲法三七条二項違反となる旨主張するが、前記のとおり、刑訴法二二六条に基づく証人尋問によって作成される調書は、もともと証人尋問実施の時点においては公判において証拠として取調べ請求がなされるか否かも未確定の状態にあるとともに当然に証拠能力が付与されるものではなく、証拠能力については同法三二一条一項所定の要件を充足するかどうかが改めて審査され、所論指摘の点は、証拠能力に及ぼす影響の有無の観点からその審査において判断されるべき性質のものであるから、嘱託の時点において所論指摘の事情があったとしても、そのことから裁判官のとった前記措置が違憲となるものとは考えられず、この点の所論も失当である。

してみると、東京地方裁判所裁判官が、合衆国裁判所に本件証人尋問の嘱託をしたことになんらの違法はないとした原審決定の判断に誤りはなく、これを論難する所論は採用できない。

二  不起訴宣明によるいわゆる刑事免責の適法性について

1 所論の要旨は次のとおりである。

<1>証人に対して刑事免責を付与し自己負罪拒否の特権を消滅させて証言を強制する手続は、わが国の法制上これを認める法令がないばかりでなく、憲法三八条一項は、かかる場合を含め、例外なく自己に不利益な供述の強要を絶対的に禁止しているものと解せられるところ、本件嘱託証人尋問調書は、検察官の不起訴宣明により自己負罪拒否特権の行使の余地がなくなったものとして、証言を強制することにより獲得された自己に不利益な供述であるとともに、憲法三八条二項により証拠能力を付与することが絶対的に禁止されている強制による自白に該当し、かかる証言強制手続によって獲得された右証人尋問調書を有罪認定の証拠とすることを許容するのは、憲法三八条一項に違反しひいては同法三八条二項に違反することが明らかで、被告人らの権利を侵害するものであるから、被告人らは、右証人らの自己負罪拒否特権に対する違法な侵害を理由として、右証人尋問調書の証拠能力の欠如を主張する適格を有するというべきであり、原審決定が「右事象を証人らの自己負罪拒否特権の侵害の有無の問題として捉える限り、それはあくまでも証人らの権利に対する侵害の有無であるのに止まり、被告人らの権利の侵害の問題ではない。」として「被告人らは、証人らに対する自己負罪拒否特権の違法な侵害を理由として、本件調書の証拠能力の欠如を主張する適格を有しない。」と判示しているのは、問題の本質を認識しない誤った判断である。<2>事件関係者の一部の者にいわゆる刑事免責を付与して証言を強制する手続は、わが国の法制には存在せず、かかる手続を許容する立法措置を講ずることなく、証言を強制する意図のもとに証人の自己負罪拒否特権を消滅させるため刑事免責を付与することは、それ自体憲法三八条一項に反する違法な行為であり、この理に例外を認める法的根拠はなく、検察官が右意図のもとにとったいわゆる刑事免責の措置(起訴猶予に関する意思決定による不起訴確約)は、右法条に違反するばかりでなく、捜査を完結したうえ嫌疑が明らかになった被疑事件につき刑訴法二四八条所定の諸事情を斟酌して刑事政策上の見地からなされるべき本来の起訴猶予処分と性質を異にし、同法条の立法趣旨を逸脱し証人らを訴追側の証人にして被告人らを処罰するための取引としてなされた訴追裁量権の乱用による違法行為というべきであり、かかる違法な手続のもとに獲得された証人尋問調書に証拠能力を認めることは、法律に定める手続によらずに刑罰を科することを禁止している憲法三一条に違反することが明らかであり、原審決定が、検察官のとった右措置につき、「事件関係者の一部の者に対しいわゆる免責を付与して証言を強制することは、わが法制上これを予定した規定を見出し難く、…………一般的には違法の措置であるとの疑いを免れず、ひいてはこのようにして獲得された証拠に証拠能力を認めることにも疑問の余地があるというべきであろう。」としながら、「個々の事件の具体的事情の下で必要性があり、このようにして証言を強制しても特段不公正ないし虚偽誘発のおそれを生ぜしめない情況的保障のある例外的な場合には、かかる措置は適法なものとして許容し得ると考えることができる。」としたうえ、本件特有の具体的諸事情の下においては、検察官がとった措置には十分な合理的理由があると考えられ、憲法三一条、三八条一項、刑訴法二四八条等に反するなどの違法はない旨判示しているのは、法令上の根拠がないのに例外を認めている点において法令の解釈を誤った判断というべきである。加えて、原審決定は、本件不起訴確約の合法性を根拠づける具体的事情として、<ア>コーチャンら各証人に対して公訴権を行使しうる事実上の可能性がないに等しい状態にあったこと、<イ>本件嘱託証人尋問手続は、免責制度が確立しその健全な運用に努めてきたと考えられる合衆国において実施され、同国裁判所の手続による要請に基づいて本件免責が付与され、右手続において、利益誘導等による虚偽誘発の防止が制度的、情況的に保障されていたこと、<ウ>証人らは、起訴猶予の条件として、ある犯罪被疑事実に対するきめられた内容の証言をなすべく強制されていたわけでないことなどを挙げているが、右<ア>の点については、公訴権を行使しうる事実上の可能性がないことは処分の適法性を理由あらしめるものでないばかりでなく、コーチャンらにかかる事件の公訴時効は共犯者に対する公訴の提起ないし同人らが国外にいることにより進行せず、同人らが将来来日しさえすれば起訴することができるのであるから、免責と引換えに証言を求めることは、証言を獲得するかわりに証人らに対し将来わが国に入国して営業活動をする自由を付与する取引をしたことになり、不公正感を生ぜしめるものであるというべきであり、また<イ><ウ>の点については、合衆国における免責制度の歴史が一八五七年にさかのぼるとはいえ、その後免責の範囲について立法の変遷があり、かつ、その運用についても諸種の批判や是正措置についての問題提起がなされるなど、いまだ制度的に定着してもいないし育成もされていないこと、免責付与自体が証人に対する最大の利益誘導であり、本件証人尋問手続においては、証人らに対し偽証があれば日本の検察官が合衆国司法機関に告発することがありうる旨警告しているのであるから、証人らが検察官に有利な証言をした場合には、それが虚偽であったとしても検察官が告発する可能性はないのに比し、検察官に不利な証言をした場合には、検察官が告発し処罰の危険にさらされる可能性があると考えられるので、このような情況の下においては、証人らは偽証罪で告発される危険を回避するため、尋問事項から検察官の質問の意図を察知し、これに添う虚偽の供述をするおそれがあるというべきであり、このことは、免責付与の条件としてきめられた内容の供述をすべく強制されていなかったからといって変りはなく、また尋問手続に立会っていた証人らの弁護人の活動の目的は証人らの権利、利益の擁護のため、同人らに検察官の主張に添わない証言を差し控えさせ、偽証罪の告発を回避させることにあり、告発の危険をおかして真実を証言させる活動をするとは考えられないことにかんがみると、虚偽誘発の防止が制度的、情況的に保障されていたとは認められない。<3>原審決定は、本件不起訴確約の効力について、検察官がとった一連の措置は、公訴権を消滅させるものでも、法律上その後の起訴を不適法ならしめるような覊束的効力を有するものでもないから、証人らが将来起訴される可能性が法制度上全く考えられなくなったとは直ちにいえないが、証人らに対し公訴権を行使し得る事実上の可能性はなきに等しい状況にあったうえ、東京地方検察庁検事正の起訴猶予に関する意思表示は、各証人及び合衆国司法機関に対し公に約束したものであり、また、検事総長の宣明は、右検事正の意思表示を事実上動かしがたいものとして宣明し、かつ、最高裁判所に対して公に約束したものであるから、これらの公訴提起を妨げる事実上の要因が幾重にも累積したことにより、証人らが起訴される事実上の可能性の全く存在しない状況が保障されるに至ったと考えられ、かかる事情の下では法律上刑罰を科せられるおそれがなくなった場合と同様に評価するのが相当であり、その効果として同人らに自己負罪拒否特権行使の余地はなくなったものと解せられる旨判示しているが、起訴猶予処分に法的覊束力がなく、法的に将来公訴を提起することが可能であり、検事正及び検事総長の昭和五一年五月二〇日付の不起訴確約における「この意思決定は当職の後継者を拘束するものである。」旨の意思表示は刑訴法二四八条の立法趣旨並びに権限を逸脱した違法行為であって右意思表示どおりの効力を生じうるものではなく、また検事総長の同年七月二一日付宣明による最高裁判所に対する不起訴確約も法的効力のあるものでなく、更に、これらの起訴猶予処分ないし不起訴確約が証人らに伝達され合衆国司法機関によって確認されたからといって証人らに対し公訴を提起しないことを証人ら及び合衆国司法機関に公に約束したことにはなりえないことなどからすると、法的正当性に欠ける検察官の一連の措置が累積しても、法的に刑事訴追を受けるおそれが消滅した場合と同様に評価できるような、公訴が提起される事実上の可能性の全く存在しない状況が保障されるに至ったと言うことはできないから、原審決定の右判断は失当である。<4>原審決定は、最高裁判所の宣明書につき、同裁判所の宣明は、検事総長の昭和五一年七月二一日付の不起訴確約が遵守され、本件証人らはその証言及びこれに基づき入手される情報により起訴されることが事実上ないとの事実認識を表明したにすぎないものであり、また、本件証人尋問調書の証拠能力につきあらかじめ判断を示したものと解する余地もなく、したがってその宣明には、三権分立の精神に反するとか、受訴裁判所の裁判に影響を与える等の違法は存在せず、本件嘱託証人尋問手続の施行を円滑ならしめるため、またその限度においてのみ行われた司法行政作用として適法の範囲内の行為である旨判示しているが、右宣明は、事実上のものでなく法的免責の付与を求めるファーガソン決定に対応し、証人らに対する法的免責を付与する内容のものとして発したものと理解すべきところ、最高裁判所にわが国の法制上存在しない刑事免責を付与する権限はなく、右宣明の発出は違法な行為であり、また、右宣明が原審決定にいうとおりの事実認識の表明にすぎないものであるとするならば、右ファーガソン決定に対応するものとして右宣明を発出し合衆国裁判所に伝達した最高裁判所の措置は、合衆国裁判所を欺罔するもので、いずれにしても違法な行為であることに変りはない。また、右宣明を発出しこれを合衆国裁判所へ伝達した最高裁判所の措置は、<ア>本件嘱託証人尋問調書を捜査資料として入手すべく希求していた検察官の捜査に協力するためのものであるから、三権分立の原則に違反し、<イ>外国の裁判所に証拠調べの嘱託をすることが法的に不可能であると判断したならば、かかる措置をとる余地がないことにかんがみると、刑訴法二二六条の請求を受けた裁判官が外国の裁判所に対し証拠調べの嘱託をすることは適法であり、本件証人尋問の嘱託による証拠収集が法的に許容される(証拠能力の有無に関する判断の重要な前提条件となる。)旨の最高裁判所の判断を示したことを意味するとともにその証拠調べの結果としての尋問調書の入手を可能にしたもので、このことは、本件嘱託証人尋問調書の証拠能力の有無に関する公判裁判所の判断に影響を及ぼすものであるから、司法行政の範畴を逸脱した裁判所法一二条違反の行為というべきであり、ひいては憲法七六条三項に違反し、<ウ>本件嘱託裁判官の要請に基づくことなく本件嘱託証人尋問調書をわが国に伝達せしめたものであり、右裁判官が主宰すべき本件嘱託手続に介入したものであるから刑訴法二二六条に違反する。以上のとおり、最高裁判所がとった宣明発出等の措置は違法なものであって、これにより獲得された本件嘱託尋問調書は違法に収集された証拠として証拠能力を否定すべきである。

2 所論に対する判断を示す前提として、本件嘱託証人尋問調書が作成され伝達された事実経緯についてみるに、原審及び当審において取調べられた関係証拠によると、次のとおりであったことが認められる。

東京地方検察庁検察官は、昭和五一年五月二二日、東京地方裁判所裁判官に対し、コーチャン、クラッター及びエリオットに対する証人尋問を請求するとともに、右証人らに対する尋問は国際司法共助に基づきアメリカ合衆国の所轄裁判所に嘱託されたい旨要請したが、同人らに対し事前にわが国検察官の事情聴取に応ずる意向の有無について打診した結果に照らし、同人らが嘱託証人尋問の際も自己負罪拒否特権を行使して証言を拒否するであろうことが予想されたため、これに対処するため、検察当局において、あらかじめ、まず検事総長が、同月二〇日、「右各証人の証言内容及びこれに基づき将来入手する資料中に、仮に、日本国の法規に抵触するものがあるとしても、証言した事項については、右証人三名を日本国刑事訴訟法二四八条によって起訴を猶予するよう東京地方検察庁検事正に指示している。この意思決定は、当職の後継者を拘束するものである。」旨の宣明書を発し、同月二二日、これを受けて東京地方検察庁検事正が「右各証人の証言内容及びこれに基づき将来入手する資料中に、仮に、日本国の法規に抵触するものがあるとしても、証言した事項については、右証人三名を日本国刑事訴訟法二四八条によって起訴を猶予する。この意思決定は、当職の後継者を拘束するものである。」旨の宣明書を発し、これらの事情は、本件証人尋問請求に際し検察当局により東京地方裁判所裁判官に伝えられた。

右請求を受けた東京地方裁判所裁判官は、同日合衆国管轄司法機関に司法共助としての証人尋問を嘱託するにあたり、嘱託書に、「右証人尋問の実施に関しては、検察官において、右各証人の証言内容及びこれに基づき将来入手する資料中に、仮に、日本国の法規に抵触するものがあるとしても、日本国刑事訴訟法二四八条によって、起訴を猶予する意思がある旨を証人に告げた上尋問されたいと希望しているので、貴国国内法において許容される範囲内で右希望に添う措置をとるよう要請する。」旨付記し、これを外交経路を経て合衆国側に伝達した。

右嘱託を受けた合衆国の管轄裁判所(カリフォルニア州中央地区連邦地方裁判所)により本件証人尋問を主宰する執行官(コミッショナー)に任命されたケネス・N・チャントリーは、同年六月二五日、コーチャンを同裁判所に出頭させて証言を命じたが、同人は日本国において刑事訴追を受けるおそれがあることを理由に証言を拒否し、そのころ、クラッターほか一名も同様に証言を拒否する意向を右執行官に表明したので、前記各宣明書(謄本)がそのころ各証人に交付された。しかし、証人らの弁護人から、右宣明によって日本国の法規上適法に免責が得られたか否かにつき異議申立等がなされたため、証人尋問手続は一時停滞した。

同年七月六日、同裁判所の所長代行ウオーレン・J・ファーガソン判事は、右異議申立等につき、「当裁判所に提出されたすべての文書を精査したところによれば、証人が本件嘱託書の請求する証言をした結果、日本において起訴される可能性は事実上極めて小さいと思われる。しかしながら、当裁判所は、内閣総理大臣を含め日本政府の機関が、事実上ということではなく、法的に日本国憲法に基づいてイミュニティを付与できる権限を有するか否かにつき深刻に懸念している。そして日本の司法機関のみが日本国憲法三八条に基づいてイミュニティを付与する権利を有するというのが、私の熟慮した上での意見である。」旨表明したうえ、証人らの証言録取を直ちに開始すべきこと、すべての手続を非公開で行うべきことを命ずるとともに、「本件証人がその証言において明らかにしたあらゆる情報を理由として、また右証言した結果として入手されるあらゆる情報を理由として、日本国領土内において起訴されることがない旨を明確にした日本国最高裁判所のオーダー又はルールを日本国政府が当裁判所に提出するまで、本件嘱託書に基づく証言調書を伝達してはならない。」旨命令し、右命令によりコーチャンに対する証人尋問手続が開始された。

右のとおり、証言調書の伝達に条件が付されたので、わが国においてはこれに対応する措置として、検察当局が検事総長名義で、「既に、当職及び東京地方検察庁検事正は、当該証人尋問実施の際、右各証人の証言及びこれに基づき将来入手する資料中に、仮に、日本国の法規に抵触するものがあるとしても、当該証言をした事項については、右証人三名を日本国刑事訴訟法二四八条によって起訴を猶予する旨ならびに右意思決定は当職及び右検事正の後継者を拘束するものである旨を宣明している。」旨、先の宣明書の内容を再確認したうえ、「本件につき、捜査及び最終処理をする唯一の機関である東京地方検察庁の検事正が正式に右のような措置をとり、これが右各証人に伝達され、これにより当該証人尋問が実施された以上、かりそめにも、将来右の措置に反する公訴が提起されることは全くあり得ないものであり、当職は、ここに改めて、前記三名の証人に対しその証言及びその証言の結果として入手されるあらゆる情報を理由として日本国領土内で公訴を提起しないことを確約する。」旨記載した同年七月二一日付最高裁判所あての宣明書を発してこれを同裁判所に提出し、最高裁判所は、これに基づき同月二四日、「前記の諸事情にかんがみ、検事総長の右確約が将来にわたりわが国のいかなる検察官によっても遵守され、本件各証人らがその証言及びその結果として入手されるあらゆる情報を理由として公訴を提起されることはないことを宣明する。」との宣明書を発し、右各宣明書の内容は同日中に外交経路を経て前記合衆国の裁判所に伝達され、同裁判所長アルバート・L・スティーブンス判事は、右宣明書によって前記ファーガソン決定に定める条件が充足されたものと認め、同日、証人らの証言を直ちに反訳し、伝達すべきことを命じ、コーチャンについて同月六日ないし九日に行われていた四日分の証言調書は同年八月五日日本側に対して送付する手続がとられ、その後もコーチャンに対する証人尋問は、日本国における刑事免責が適法に行われたとの前提のもとに手続が進められ、その証言を録取した調書が作成されて日本側に送付された。

一方、クラッターは、同年七月九日チャントリー執行官から証言を命ぜられた際、日本国及び合衆国内の双方で刑事訴追を受けるおそれがあることを理由に証言を拒否したが、その後前記スティーブンス判事の命令が確定した結果、日本国で刑事訴追を受けるおそれがあることを理由として証言を拒否することができなくなり、次いで同年九月一三日、合衆国における刑事免責付与及び証言命令が発せられたため、証言を拒否する根拠をすべて失うに至り、爾後同人に対する証人尋問も日本国及び合衆国における刑事免責が適法に与えられたとの前提のもとに進められ、その証言を録取した調書が作成され、日本側に送付された。

なお、合衆国(連邦)法上、刑事免責を付与し証言命令を発する根拠となる法規は合衆国法典一八編六〇〇二条、六〇〇三条であり、六〇〇二条は、「証人が連邦の裁判所の手続において、自己負罪(拒否)の特権に基づき証言しまたはその他の情報を提出することを拒否した場合において、当該手続を統括する者が本節に基づく命令を告知したときは、当該証人は自己負罪(拒否)の特権に基づき当該命令に従うことを拒否することはできない。ただし、当該命令に基づき強制された証言あるいはその他の情報(右証言またはその他の情報から直接間接を問わず入手したいかなる情報をも含む。)は、偽証、虚偽供述その他当該命令に対する不服従により訴追する場合を除き、いかなる刑事事件においても、これを当該証人に対し不利に用いてはならない。」というものであり、六〇〇三条には、公益上の必要性があるなど一定の要件のもとになされる連邦地方検事(検事正)の請求に基づき、連邦地方裁判所は、証人に対し自己負罪拒否特権を根拠として拒んでいる証言等を求める命令を発することができる旨規定している。そして、連邦最高裁判所の判例によると、右規定に基づき裁判所が証言命令を発して証言を強制しても、合衆国憲法修正五条の「何人も刑事事件において自己に不利益な証人となることを強制されない。」(この規定はわが国の憲法三八条一項に相当する。)旨の規定に違反しないとされている〔Kastigar v. United States, 406 U.S.441(1972)〕。

3(一) そこで、所論<1>の主張適格に関する主張につき検討するに、憲法三八条二項は、任意性のない自白には証拠能力を認めないという証拠法上の原則を規定したもので、同条一項に規定されている個人の自由権の範疇に属する自己負罪(供述)拒否の特権を保障する制度とは沿革並びに法的性格を異にするものであり、強制、拷問、脅迫など供述内容に関する自由な意思決定を違法に阻害する方法で獲得された供述は、供述者の人権を侵害すると同時に虚偽が含まれている危険性が極めて大きく、このような任意性のない供述が証拠として使用された場合には、それが供述者に対して使用される場合のみならず第三者に対して使用される場合であっても有害であるところから、何人からも同条二項違反を理由として証拠として許容されない旨の主張をすることができると解されるが(最大判昭三三・五・二八刑集一二巻八号一七一八頁参照)、同条項に規定する強制とは、右規定の趣旨にかんがみると、供述内容に関する自由な意思決定を阻害する直接強制を意味し、証人に対し自己負罪拒否の特権が消滅したとして偽証罪及び証言拒否罪の制裁のもとに、記憶に基づき、誠実に真実のみ証言することを強制する法律的な間接強制を含むものではないと解すべきである。してみると、本件嘱託証人尋問手続においては、わが国検察当局がした不起訴宣明により自己負罪拒否の特権が消滅したとして証人らに対し偽証罪等の制裁のもと間接的に真実の証言が強制されただけで、拷問、脅迫等証言内容に関する自由な意思決定を違法に阻害する直接強制がなされたものではなく、その証言には任意性に欠けるところはないのであるから、憲法三八条二項違反の問題を生ずる余地はなく、自己負罪拒否特権侵害の問題は同条一項の問題として処理されるべき問題である。ところで、憲法三八条一項の法意は、何人も自己が刑事上の責任を問われるおそれのある事項について供述を強要されないことを保障したものと解され(最大判昭三二・二・二〇刑集一一巻二号八〇二頁参照)、刑訴法はこれを受けて、「何人も、自己が刑事訴追を受け、又は有罪判決を受ける虞のある証言を拒むことができる。」(一四六条)と規定しているが、これらの規定により保障されている証人の自己負罪拒否の特権は、一般的に証人に供述義務があることを前提としたうえ、供述をすることによって自己が刑事訴追を受け又は有罪判決を受けるおそれがある場合には個々的に右義務を免除するというものであって、当該証人に付与された個人的な特権であり、これを行使するか放棄するかは当該証人個人の意思にかからしめ、証人がこれを放棄して証言しても証人以外の第三者が放棄を不当であるとして非難できるものではなく、この理は右特権が法的に消滅し証言を強制される場合も同様であり、右特権侵害の問題は本来当該証人との関係のみで判断されるべきものであって、仮に、誤った判断のもとに、法律的に供述の強制がなされ証人の右特権が侵害されたとしても、それにより証人以外の者の権利が侵害されたわけではなく(証人が特権を行使し証言を拒否することによって第三者が受ける利益は反射的利益にすぎない。)、憲法三八条一項に違反して獲得された証言及びこれに由来して入手された証拠は、当該証人にとって不利益となる証拠に使用することが禁止される効果が生ずるにとどまり、第三者は、証人に対する右特権侵害を理由として証拠としての許容性がないことを主張する資格(主張適格)を有しないと解すべきであり、これと見解を同じくする原審決定の判断に誤りはない。右見解に立てば、本件不起訴宣明によりコーチャンらの自己負罪拒否特権を消滅せしめる効力が生じたか否かの問題に立入る必要はないことになるが、原審決定が、右の点について、特権消滅の効果が生じ証言を強制した手続に憲法三八条一項違反のかどはない旨詳細な判断を示し、これに対し、所論が主要な争点としてこれを論難している訴訟の経緯にかんがみ、以下右の問題についても当裁判所の見解を示すこととする。

(二) わが国の検察当局は、本件嘱託証人尋問手続に関連して、検事総長名(第一次及び第二次)及び東京地方検察庁検事正名の各不起訴宣明を発しているが、その法的性質並びに法的効果につき検討するに、右宣明中、わが国の実定法規に基づく処分性を有し証人らの自己負罪拒否特権に直接影響を及ぼすと考えられるものは、検事正の刑訴法二四八条による起訴猶予処分である。すなわち、検事正の不起訴宣明は、その文言に照らすと、本件(ロッキード・エアクラフト社及びその子会社又は関連会社の日本における販売活動に関連する非合法な疑いのある行為)につき捜査及び最終処理をする唯一の機関である東京地方検察庁検事正が、証人らにおいて尋問に応じて証言をすることを条件として、その証言内容及びこれに由来して将来入手することができる資料によって証人らがわが国の刑罰法令に触れる行為をしたことが明らかになったとしても、右行為につき、改めてその時点で公訴提起の必要性について判断することなく、右宣明の時点で事前にかつ確定的に将来にわたり公訴を提起しない旨の検察当局の意思決定を表明したものと考えられ、右意思決定が刑訴法二四八条を根拠としてなされたことが明らかである。これに対し、検事総長の第一次宣明は、検察庁法七条一項によりわが国のすべての検察庁の職員を指揮監督する権限を有する検事総長が、右権限に基づき東京地方検察庁検事正に対し、右検事正の宣明にあるとおりの刑訴法二四八条による起訴猶予処分をするよう指示したということを表明しているだけで、その中には刑訴法等わが国の実定法規上法的効果を生ぜしめる処分性を有する意思決定は含まれておらず、その意味は、右検事正の処分が検察官同一体の原則のもとにあるわが国検察当局の頂点にありこれを代表する検事総長の指示によりなされるものであることを表明することにより、それが検事正の独自の裁量により行われるものではなく、検察当局全体の意思に基づくもので将来にわたり変更されることのない確固不動のものであることを示し、検事正の宣明の趣旨を補強しているところにあると理解できる。なお、右各宣明には、いずれも「この意思決定は当職の後継者を拘束する。」との記載があるが、それは、検事正の右処分が将来にわたって変更されることはなく、したがって起訴猶予処分がなされたことにより将来にわたって刑事訴追をしないという意思を表明したものと理解されるが、かかる表明がなされたからといって、右処分の法的性格を変更せしめる法的根拠はなく、依然として刑訴法二四八条の処分たる性格に変りはないというべきである。右検事総長の第一次宣明及び東京地方検察庁検事正の宣明は、合衆国司法機関に伝達されるとともに、自己負罪拒否特権を行使して証言を拒否した証人らに対しても告知されたのであるが、わが国において合衆国の法制にあるような免責制度が立法化されていないことから、右不起訴宣明により証言拒否の理由となる証人らがわが国において刑事訴追を受けるおそれのある状態が消滅したかにつき疑義が生じて前記ファーガソン決定が発せられ、これに対応するため検事総長の第二次宣明が発せられたものである。そして、右第二次宣明は、既に検事総長の第一次宣明及び東京地方検察庁検事正の不起訴宣明が発せられていることを再確認したうえ、右検事正が「正式に右のような措置をとり、これが各証人に伝達され、これにより証人尋問が実施された以上、かりそめにも、将来右の措置に反する公訴が提起されることは全くあり得ないものである」旨右不起訴宣明による法的効果を明らかにしたうえ、「当職は、ここに改めて、証人らに対しその証言及びその証言の結果として入手されるあらゆる情報を理由として日本国領土内で公訴を提起しないことを確約する。」旨表明しているが、検事正の不起訴宣明と右第二次宣明を併せて考察すると、検事総長の指示のもとになされた検事正の不起訴宣明は、もともと、合衆国法制に存する刑事免責と同じ効果をわが国の刑訴法上とり得る法形式に則って付与するためになされたもので、その意味するところは、証言した事項について将来にわたり公訴を提起しないことを確約する趣意のものと理解され(なお、合衆国の免責制度と対応して考えると、いわゆる訴追免責トランザクショナル・イミュニティに該当するものと考えられるが、それは、わが国の刑訴法上、連邦法に規定する使用免責ユース・イミュニティに相応する措置をとり得る法形式が存在しないことによるものと考えられる。)、第二次宣明において改めてなされた不起訴確約と同趣旨のものであり、また、第二次宣明によって改めてなされた不起訴確約をする実定法上の根拠が、刑訴法二四八条以外に存するとは考えられないことをも併せて考えると、右第二次宣明において、先になされた検事正の起訴猶予処分と内容を異にする、わが国刑訴法上の別個独立した新たな処分をしたものとは理解されず、それは、ファーガソン決定の文言に相応させて、先になされた不起訴確約を再確認し、検察当局を代表して最高裁判所あてに不起訴確約を表明することにより、事実上、先の不起訴確約を補強したものと理解するのが相当である(なお、第二次宣明が最高裁判所あてになされているのは、ファーガソン決定が最高裁判所からの文書の提出を求めていることと形式的に対応させるためで、その実質は、公訴権を有する検察当局の不起訴意思が確固不動のものであることを、合衆国司法機関に表明することにある。)。このような理解が正しいことは、第二次宣明中の「ここに改めて確約する。」という文言が「and I guarantee once again 私はもう一度保障する。」と英訳されていることによっても裏付けられる。そして、第二次宣明を受けて発出された最高裁判所の宣明書は、その文言に照らすと、検察当局がとった一連の措置により、検察官同一体という組織法上の原則並びに検察運営の実態に照らし、検察当局の不起訴確約が将来にわたりわが国のすべての検察官により遵守され、証人らがその証言及びその結果として入手されるあらゆる情報を理由として公訴を提起されることはない旨の事実認識を表明しているにすぎず、これによりなんら法的効果が生ずるものでないことは明らかである。

以上のとおり、検察当局が公訴権の行使に関してなした各宣明のうち、刑訴法上意味のある処分が、東京地方検察庁検事正の刑訴法二四八条に基づく起訴猶予処分であると理解するかぎり、同法条の解釈としては、右意思決定は、当該事件に対する公訴権を法的に消滅させるものではなく、右処分後における起訴を当然に不適法ならしめる法律上の効力(覊束力)を有するものとは解されず(最二小判昭三二・五・二四刑集一一巻五号一五四〇頁、最大判昭二六・一二・五刑集五巻一三号二四七一頁参照)、したがって、その意味においては証人らが将来起訴される可能性が法制度上全く消滅したとはいえない。しかしながら、わが国の憲法及び刑訴法の解釈上も証人らがその証言内容及びこれに由来して入手される資料によって刑事訴追を受けるおそれがなければ、証言を拒否する理由はないと解されるのであるから、判決の確定、時効完成、恩赦などにより法的に刑罰を科せられるおそれがなくなった場合だけでなく、証人らが証言してもそれにより刑事訴追を受けるおそれがないことが保障されていると法的に評価できる状態があれば(それが合衆国の法制上いかなる免責に該当するかはわが国内法上は問題にならない。)、それが事実上の措置によってもたらされたものであっても、もはや証人らは証言を拒否する実質的理由はなく、証言を強制しても自己負罪拒否特権を侵害したことにはならないと考えられる。しかして、検事総長の指示によりなされた東京地方検察庁検事正の不起訴宣明は、わが国裁判所から合衆国司法機関に嘱託し国際司法共助としての証人尋問の実施にあたり、証人らに対しわが国憲法上保障されている自己負罪拒否特権を消滅させ証言を強制するための措置として、検察当局全体の将来にわたり変更されることのない確固不動の意思決定として証人らに対する不起訴処分をし、これにより証言した事項につき公訴を提起しない旨確約して証人らがわが国において刑事訴追を受けるおそれがないことを保障したものであり、これが嘱託裁判官の確認を経たうえ合衆国裁判所に正式に伝達されるとともに同裁判所において証人らに告知され、これに加え、ファーガソン決定に対応して第二次宣明が最高裁判所あてに発せられて右不起訴確約が再確認され、これらの不起訴確約は、単に検察当局内部のみならず国内外にわたり対外的にかつ公式に再三表明されているのであり、更には、最高裁判所の宣明書が外交経路を経て公式に合衆国裁判所に伝達され、同裁判所は、これを前提に、わが国において証人らに対し証言内容及びこれに由来して入手される資料に基づき刑事訴追がなされるおそれがないことが保障されたとして証人尋問手続を進めているのである。

ここで、ファーガソン決定を検事総長の第二次宣明及び最高裁判所の宣明との関係において検討してみるに、前記のとおり、検事総長の指示のもとになされた東京地方検察庁検事正の不起訴宣明は、証人らに対し証言した事項につき将来にわたり公訴を提起しないことを確約する趣旨で発せられたものと理解されるのであるが、合衆国の裁判所は、右措置により、法的に自己負罪拒否特権が消滅したか否かにつき疑義を抱きファーガソン決定を下したのであり、それは、あくまで証人尋問手続過程において示された司法判断であって、わが国の司法機関との間で、刑事訴追を受けるおそれの存否に関する法的状態の形成の合意を目的としてなされた一方当事国の意思表示であるとは考えられず、これに対応してなされた検事総長の第二次宣明の不起訴確約がわが国の国家意思の表明としてなされたものであるとしても、これにより両国間に右確約に従った合意が形成されたわけではなく、右第二次宣明等が証人らの自己負罪拒否特権を消滅させるに足るものであるか否かは改めて合衆国裁判所の司法判断の対象とされるものであり、このことは、右第二次宣明等に関する法的評価を前提としてなされたスチーブンス判事の決定に対し、更に異議申立権が認められていることからも明らかである。これはすなわち、国際司法共助に関する国際慣習ないし国際信義に照らし、わが国の検察当局が右不起訴確約を遵守すべき負担を負ったということができても、わが国内法上の効果として、右確約違反の公訴を直接的に違法とする条約ないしこれに準ずる国際法規が形成されたと解するのは相当でない。

しかしながら、前記一連の事実経緯にかんがみると、わが国の検察官が、右不起訴確約に反し証人らが証言した事項につき公訴を提起することは、証人らの権利保護の観点並びに国際司法共助上の国際慣習ないし国際信義に照らし、刑訴規則一条二項の「訴訟上の権利は誠実にこれを行使しなければならない」旨の規定の趣旨に違反し、その適法性を認めることはできず、右不起訴確約違反の公訴は刑訴法三三八条四号により棄却されるべきものと解せられる。してみると、刑訴法二四八条に基づいてなされた起訴猶予処分自体に覊束力が認められるわけではないが、かかる法形式による不起訴処分とともに対外的かつ公式に将来にわたる不起訴確約が宣明されることにより、証人らが証言した事項につき刑事訴追を受けるおそれがないことが保障されたと法的に評価することができるので、証人らの自己負罪拒否の特権は消滅したというべく、証言を強制してなされた本件嘱託証人尋問手続に憲法三八条一項違反はないと考えられる。

(三) ところで、本件嘱託証人尋問調書は、合衆国の法制が適用されて実施された証人尋問手続において、証人らに対し免責が付与されたことにより自己負罪拒否特権が消滅したとして、証言を強制することにより獲得されたものであり、かつ、右証言強制がなされたのは、わが国の検察当局が、証人らが右特権を行使して証言を拒否することを予想し、これに対処するため、あらかじめ、証人らが証言した事項につき刑事訴追を受けるおそれのある状態を消滅させる意図のもとに、前記不起訴宣明を発したこと等によるものである。しかるところ、わが国の法制上、証人が自己負罪拒否特権を行使して証言を拒否した場合、免責を付与して右特権を消滅させたうえ証言を強制する制度が立法化されていないことに照らして考えると、検察当局のとった右措置の適法性及び右手続によって獲得された証拠の許容性が、違法収集証拠排除の法理の観点から検討されなければならないものと考えられる。

わが国において、刑罰法令に触れる行為をした嫌疑のある事件関係者め一部の者に免責を付与しその代償として証言を獲得することを認めるかどうかは本来立法府が定めるべき事項であると考えられることに徴すると、現行法上刑事免責制度を認める立法措置が講じられていないので、わが国においては、証人尋問手続の過程で証人から自己負罪のおそれを理由として供述を拒否された場合に、検察官の申出により、裁判所が免責を付与して証言すべく命令することは、一般的には違法の措置であるとの疑いを免れないと言えることは原審決定が説示しているとおりである。しかしながら、本件証人尋問は国際司法共助に基づく嘱託により受託国たる合衆国の裁判所で実施されたものであり、国際司法共助は、受託国に協力を依頼し受託国の主権の行使のもとに証拠調べ等を実施する制度であるから、その手続の準拠法は原則として受託国の法令が適用されることを前提としている。したがって、証拠調べ等に適用される受託国の法令が嘱託国の法制と異なることは当然予測されることであり、国際司法共助はかかる法制の違いを当然の前提としたうえで成り立っている国際間の制度であるから、犯罪の国際化に対応する司法共助の必要性を認める以上、たとえわが国の法制と異なる手続によって行われた証拠調べの結果であっても、その手続がわが国の憲法ないし訴訟法の基本理念に照らし許容しがたい違法なものと認められない限り、これを受け容れる余地を認めることが必要かつ合理的な考え方であり、わが国の刑訴法はこれを否定しているものではないと解すべきである。同時に、嘱託の目的を達成するため、わが国において、合衆国の法制に対応する必要にして有効な措置を講ずるのは当然のことであり、その措置がわが国の国内法上許される範囲のものであるかぎり違法の問題は起こりえない。本件証人尋問手続に適用された合衆国の法制に存する免責制度は、日本国憲法三八条一項と同様の規定とされている合衆国憲法修正五条に付随して制定されたもので、共犯者等事件関係者の証言を得なければ事案の真相を解明できない性質の犯罪があり、自己負罪拒否特権の無制約な行使が事案の真相解明を妨げる作用をもたらし、適正妥当な刑罰権の実現を目ざす刑事裁判の目的が阻害されることにかんがみ、その弊害を除去して右刑事裁判の目的を達成するため、必要な証言を獲得すべく証言を強制する訴追側の適正な公益上の要請と、憲法上保障されている証人側の個人の自由との対立的利益の均衡調和を図りつつ刑事裁判手続における実体的真実の発見に資するため確立された合理的な法制であって、訴訟当事者間において、真実とかけ離れて相互の主張を譲り合い一定の取決めをするがごとき取引の性格を有するものではなく、法の執行の公正さを害したり真実の発見を犠牲にするものではない。しかも、連邦法の段階においては、一八五七年の免責法の制定以来今日まで、免責の範囲に関し若干の変遷はあったものの一貫して同制度を維持し、また州の段階においてもすべての州がこれを採用し、免責制度は、合衆国司法制度として確立し憲法組織の一部を構成するに至っているのであり〔Ullmann v. United States,350 U.S.422, 438(1956);Kastigar v. United States,406 U.S.441, 445~447(1972)〕、また、その運用については、連邦司法省において、現行の免責法についての考え方を明らかにするとともに運用の統一を図るため、一九七一年九月二日メモランダムを発し、その後数次にわたる補充を加え、一九七七年一月一四日右メモランダムに替わるガイドラインを発して適切妥当な免責付与の慣行の形成に努めており、制定法によらない非公式の免責付与(協力をうるかわりの非訴追合意の取決め)についても、その指針ないし基準として、連邦司法省は一九七二年一〇月四日及び一九七七年一月一八日にそれぞれメモランダムを発し、更に一九八〇年七月には連邦刑事訴追の原則を公表しているのであって、かかる実情にかんがみると、合衆国においては、免責制度が法制として確立しているばかりでなく、その健全かつ妥当な運用が図られ、同国国民もこれに慣熟しているものと認められる。かかる免責制度をわが国に導入することは、立法政策上の当否は別として憲法上問題がないばかりでなく、いかなる要件のもとにいかなる効果を認めるか等立法政策上配慮すべき問題はあるにしても、その基本的な理念自体は刑訴法の基本理念ないし基本構造に抵触するとは考えられない。検察当局は、国際司法共助としてなされた本件証人尋問手続に適用される合衆国の法制に対応し、嘱託の目的を達成するため公訴権行使の一態様として本件不起訴宣明を発しているのであるが、公訴権は、国家刑罰権の適正妥当な実現を図るため、公益の代表者である検察官に広範な裁量の余地を認めて与えられた権限であるから、検察官が、個別の被疑者について特別予防の観点から刑事政策的に刑罰権を発動しない起訴猶予処分をする場合だけでなく、合理的な理由と必要からより大きな公益を実現する観点に立って訴追裁量権を行使することも、それが公訴権の行使として著しく不公正なものとして許容しがたい特段の事情がないかぎりこれを違法視しなければならないいわれはない。

前記のとおり、検察当局は、免責制度が確立した合衆国法制が適用されて実施される本件証人尋問において、証人らが自己負罪拒否特権を行使して証言を拒否することを予想し、これに対処するため、刑訴法二四八条に基づき証人らに対し起訴猶予の意思決定をしたうえ不起訴確約をしたのであるが(わが国内において、刑訴法の適用のもとに証人尋問が実施される場合には、検察官がかかる措置を講じたとしても、証言強制をすることはできないものと考えられ、このことは先に示したとおりであるが、本件は、国際司法共助に基づき、免責付与による証言強制制度が確立している合衆国法制の適用のもとに実施された証人尋問手続である点に、わが国内法の適用の場合と取扱を異にする特別の事情がある。)、右措置は、証人らの証言拒否に備え、拒否の理由となる自己負罪のおそれのある状態を消滅させたうえ証言を獲得する手段としてなされていること、証人らに対する被疑事件の捜査の完結を待たずに、証人らが証言することを条件としてなされていること、及び右意思決定と合わせて将来にわたり公訴を提起しない旨の不起訴確約をしていることなどの点において、同法条の通常の運用と著しく異なるものである。しかしながら、コーチャン及びクラッターはいずれもアメリカ人で、検事正の不起訴宣明がなされた昭和五一年五月二二日当時、わが国の主権が及ばない合衆国に居住し、わが国の検察官の取調べを受けるため来日する意思も、また合衆国の領域においてわが国の検察官の取調べに応ずる意思もない旨表明し、同人らが近い将来自発的にわが国を訪れてわが国の裁判権を行使しうる領域内に入ることは全く期待し得ない状況にあり、当時の日本国亜米利加合衆国犯罪人引渡条約によると同人らに対する被疑事実と認められる贈賄罪並びに外国為替及び外国貿易管理法違反の罪はいずれも引渡の対象となる犯罪とされていなかったことに徴すると、同人らに対する公訴権の行使の可能性は実際上なきに等しい情況にあったことは明らかである。また、爾後わが国に在住する事件関係者の取調べ等により捜査が完結し、証人らに対する嫌疑が明白になったとしても、同人らがわが国領域内に入らないかぎり公訴権を行使することは事実上できないのであるから、捜査の完結を待ったとしても、同人らに対しては、終局的には、不起訴の措置をとるのと同一の結果を招来するほかとりうる手段はなかったと考えられる。なお、証人らにかかる事件の公訴時効が共犯者に対する公訴の提起ないし証人らが国外にいることにより進行せず、同人らが将来来日しさえすれば起訴することが法的に可能であると観念することができるとしても、そのことから、不起訴宣明がなされた段階において、将来を含め同人らに対して公訴権を行使し得る可能性が実際上なきに等しい状況にあったことを否定することはできない。他方、本件は、わが国において発生した事犯であり、事案の重大性にかんがみると、その真相を明らかにしたうえ適正な刑罰権を行使して侵害された法秩序の回復を求める国民的要請とその必要性は極めて大きなものがあり、証人らの共犯者ないし事件関係者に対する被疑事件のなかには、時効の完成を目前にしたものがあり、内容的にも重大な違反を含み、これらの事案の真相を解明するため、検察当局は、事件の核心に触れる捜査資料を入手する緊急の必要に迫られていた情況にあって、そのためには、本件嘱託証人尋問手続を早急に進行させ証人らから供述を得る以外に有効適切な方策はなかったと認められる。そして、証人らから供述を得るためには、合衆国の訴訟手続上の要請から、証言拒否の理由となる自己負罪のおそれのある状態を消滅させる措置をとることが不可欠であったのである。かかる情況のもとで、検察当局が、わが国に在住し捜査権及び裁判権を行使することができる事件関係者に対する重大な被疑事件の捜査を早急に促進して事案の真相を解明し、これらの者に適正妥当な刑罰権の行使を実現させる公益上の見地から、証人らの供述を獲得してこれを捜査の資料に役立たしめる必要やむをえない措置として、もともとわが国において訴追できる可能性がなきに等しい情況にあり、捜査の完結を待っても最終的には不起訴処分ないしこれと同一の結果を招来するほか処置のしようがなかった証人らに対し、捜査完結前に終局処分の時期を繰り上げ、訴追裁量権に基づき刑訴法二四八条により前記の起訴猶予の意思決定をしたうえ将来にわたり証言した事項について公訴を提起しない旨の不起訴確約をして同人らが刑事訴追を受けるおそれのある状態を消滅させる措置を講じたからといって、証人らの権利を侵害したりあるいは第三者の権利を侵害するなど特段の弊害があるとは考えられず、右措置により証人らに対する公訴権を行使し得なくなるとしても、それはもともと実際上なきに等しいもので、失われる公益は極めて小さく、これに対し、同人らの証言を得て事件関係者に対する被疑事実を明らかにし、刑罰法令の適正迅速な適用実現を図る公益の方が右失われる公益よりはるかに大きいとみられることを併せ考えると、右措置は、検察当局に課せられた使命、機能の観点からみて十分合理性のあるものと認められるとともに、検察当局と証人らとの間で処罰の断念と引換えに証言を取得する取引をしたと感ぜしめるがごとき法の執行に対する不公正感を抱かしめるものとは考えられず(なお、検察当局が不起訴確約の措置をとる過程において、証人らとの間で、処罰の断念と引換えに一定内容の供述を求めるがごとき虚偽供述を誘発する危険のある不公正な取引をした事実は記録上認められない。)、刑訴法の理念に適合しないものとはいえない。所論は、不起訴確約により証人らに対し将来わが国に入国し自由な営業等の諸活動をする不当な利益をもたらし不公正である旨主張するが、それは結果論にすぎず、不起訴確約をせざるをえなかった当時の情況は前記のとおりであって、右主張は前提に誤りがあり採用できない。なお、本件証人尋問嘱託書(特に尋問事項書)及び日米両国の司法当局によって取交わされた「ロッキード・エアクラフト社問題に関する法執行についての相互援助のための手続」により合衆国側からわが国に提供され本件公判に提出された関係証拠によると、検察当局は、当時、証人らに対する被疑事実について、基本的な事実を中心として事件の同一性を確認できる程度にその輪郭を把握し特定していたと認められ、それは証言内容及びこれによって入手される資料によって明らかとなる証人らのわが国の刑罰法令に触れる行為と同一内容のものと認められるから、これを対象として捜査の完結を待たずに終局処分をすることが可能な情況にあったというべきである。してみると、検察当局のとった措置が、刑訴法二四八条に違反し、また、刑訴法の基本理念ないし刑事訴訟の基本構造に反する違法な措置であるということはできない。

更に、前記のとおり、本件不起訴確約の内容及び右確約がなされる過程には証人らの虚偽供述を誘発する危険のある要素は一切含まれておらず、かつ、本件嘱託証人尋問手続は、免責制度が法制上確立し、免責を受けた証人が虚偽の証言をすることがないよう偽証の制裁等の手段を制度的に整備している合衆国の証拠調べの手続法の適用のもとに、右制度の運用に慣熟しているとみられる同国人を対象として、公正な第三者の立場にある執行官が主宰し、証人らの弁護人が立会い、宣誓し偽証の制裁が告知されたうえ、種々の尋問法則に則って適正に実施されているのであって、証人らは不起訴と引換えに訴追側にとって有利な証言を求められているわけではなく、求められているのは記憶に基づき誠実に真実を証言することであり、その証言内容に関する意思決定の自由を阻害する要因は何もなく、虚偽供述を排除するための措置が制度的にも情況的にもとられていたことが認められ、証人らの供述に任意性が欠けるところはない。所論は、これに関連し、偽証の制裁が告知されたとしても、証人らが検察官に有利な証言をすればそれが偽証であっても検察官が偽証罪による告発をすることはありえないとの前提に立って、偽証罪による告発を回避するため、証人らが副執行官(前記合衆国裁判所により任命されている。)の質問の意図を察知して迎合的な証言をするおそれがあるから、虚偽供述を排除する措置が制度的、情況的に保障されていたとはいえない旨主張しているが、右立論の前提の見解に誤りがあるばかりでなく、本件嘱託証人尋問調書を子細に検討しても、証人らがことさらに副執行官の質問に迎合し検察官に有利な証言をしたと認められる情況はない。

以上の説示のとおり、本件嘱託証人尋問をめぐる諸事情を総合すると、証人らに対し不起訴の確約をして免責を付与し証言拒否の理由となる自己負罪拒否特権を消滅させたうえ証言を強制したその手続過程並びに証人尋問手続過程に、わが国の憲法及び刑訴法に違反しあるいはこれらの法の基本理念ないし刑事訴訟の基本構造に照らし許容しがたい不公正及び虚偽供述を誘発する危険が高い情況が存するなどの違法事由はなく、これらの手続によって作成された本件嘱託証人尋問調書が違法に収集された証拠ということはできないので、これに証拠能力を付与したことが憲法三一条に違反するという所論は失当である。

(四) 最高裁判所の宣明は、同裁判所が、わが国における検察官同一体の原則、長年にわたる検察運営の実態及び司法慣行から認知しうるところに従って、証人らがその証言及びその結果として入手されるあらゆる情報を理由として公訴を提起されることがない旨の事実認識を明らかにしたにすぎないものと理解されることは前記のとおりであり、証人らに対する免責が法令に基づき付与されるものであるとの法的判断を示したものではなく、また、最高裁判所の決定に基づき免責を付与するものであることを示したものでもないことが明らかであるから、右宣明をもって同裁判所が法的な免責を付与したものであるとの見解を前提として原審決定の判断を論難する所論は失当である。しかして、右宣明がファーガソン決定に示された要件を充足するものであるか否かは、合衆国裁判所が独自に判断すべきものであることはいうまでもないところ、右宣明の文意は明確で、その趣意及び性質につき誤解を生ぜしめるおそれはないと認められるので、右宣明を合衆国裁判所に伝達したことが同裁判所を欺罔したことになる旨の所論も失当である。本件証人尋問の嘱託は下級裁判所の司法権の行使としてなされたものであるところ、右証人尋問手続に適用される合衆国の法制の制約のもとに、証人尋問調書が直ちにわが国に交付され得ないという事態が生じ、このような局面を打開するため、合衆国裁判所がとった措置に対応して右宣明が発出され同裁判所に伝達されたのであり、右経緯並びに宣明の形式及び内容に照らして考えると、最高裁判所は、裁判体として嘱託にかかわる事件について司法判断を示したものではなく、司法行政の主体として、下級裁判所の司法権の行使を適正、円滑ならしめる必要から、その目的をもって司法行政上の作用として右措置をとったことが明らかであって、裁判所法一二条による司法行政権の行使として許容される範疇の行為であるから、なんら違法性を有するものではない。本件証人尋問の嘱託は、検察官の刑訴法二二六条の請求に伴う要請によりなされ、最高裁判所の宣明が、事実上、捜査資料となる嘱託証人尋問調書の入手を可能ならしめる作用を果たしていることは明らかであり、その意味では最高裁判所が検察官の捜査に協力した観があるけれども、このことは、司法行政権の行使を逸脱したことを意味するものではなく、もともと刑訴法二二六条自体が捜査の目的を達成する手段として検察官に証人尋問を請求する権利を認めた規定で、これに関与する裁判官に捜査的機能を果たす側面を制度的に内在せしめていることによるものであって、右宣明は、かかる機能を果たす側面を有するとはいえ下級裁判所の司法権の行使の一態様である嘱託証人尋問手続を適正、円滑ならしめることを目的としてなされたものであり、かつその内容は、前記のとおり、単に事実認識を表明したに止まるもので検察官の捜査権、公訴権の行使に介入したものではないのであるから、その目的においても内容においても検察官に加担したということはできず、三権分立の原則に違反するものではない。また、右宣明が本件証人尋問の嘱託がなされていることを前提として発出されているところから、かかる措置をとる前提として嘱託手続の適法性について一応の判断がなされていると解する余地があるが、右判断は事件についての司法判断と性質を異にする司法行政上の判断であって裁判体に対する拘束性を有するものではないから、その適法性及び嘱託証人尋問調書の証拠能力に関する公判裁判所の判断に影響を及ぼすことはありえないし、また、前記のとおりの司法行政作用たる性質にかんがみると、最高裁判所が嘱託裁判官の権限に介入したものでもないから、憲法七六条三項及び刑訴法二二六条に違反するものではない。

三  嘱托証人尋問手続における違法性に関する主張について

1 所論は、要するに、本件嘱託証人尋問手続には多くの違法事由が存し、右手続によって取得された本件嘱託証人尋問調書は違法に収集された証拠というべきであるから証拠能力を否定すべきであるというのであり、その理由として次のとおり主張する。

<1>外国に証拠調べの嘱託をすることができるとしても、その嘱託先は外国の裁判所に対してなされるべきものであるところ、本件証人尋問の嘱託は、あて先を合衆国司法機関すなわち合衆国司法省とし、嘱託先を誤ってなされている。このため、嘱託書が外交経路を通じて合衆国司法省に伝達されたうえ、その送付を受けたカリフォルニア州中央地区連邦地方検察庁検事正らから同州中央地区連邦地方裁判所に右嘱託書に基づく証人尋問手続の実施を求める申立がなされているが、このような手続がとられたことは、後記のとおり、本件嘱託証人尋問手続から刑訴法二二六条に基づく証人尋問手続の主宰者である嘱託裁判官の関与を排除する違法をもたらす要因となっている。また、嘱託裁判官は、右嘱託書に、検察官の本件証人尋問請求の理由は、「証人尋問調書を被疑事件の捜査の資料としあるいは将来公判廷において証拠として用いる必要があるというのである。」旨記載しているが、検察官の請求書には証人尋問調書を将来公判廷で使用することについては一切触れていないのであって、請求されていない事項についてまで嘱託書に記載したことは、本件証人尋問の請求の範囲を逸脱し、本来公平であるべき裁判所が、検察官に加担したというべきであり、刑訴法の基本理念である基本的人権の保障に反し違法な措置である。<2>本来刑訴法二二六条に基づく証人尋問は、請求を受けた裁判官が主宰すべき手続であるから、この証拠調べの嘱託を受けた合衆国の裁判所で実施される嘱託証人尋問手続において生じた問題は嘱託裁判官の関与または授権のもとに処理さるべきものである。しかるところ、<ア>嘱託証人尋問手続において、自己負罪拒否特権を行使して証言することを拒否した証人らに対し、刑訴法二四八条に基づく起訴猶予処分を与えるか否かは嘱託裁判官が判断すべき事項であるのに、副執行官が、嘱託裁判官の関与なしに、検事総長の昭和五一年五月二〇日付宣明書及び東京地方検察庁検事正の宣明書(各謄本)を証人らに交付し刑事免責が付与されている旨告知していること、<イ>東京地方検察庁検事正の宣明(不起訴確約)が、いわゆる訴追免責を意味するのかあるいは証拠の使用及び派生的使用免責を意味するのか文言上明確ではなく、それがいかなる意味内容を有するかは嘱託裁判官の認識に従って定められるべきことであるのに、右尋問手続に立会ったわが国の検察官が右裁判官の認識を確かめることなく、何ら権限がないのに、それが訴追免責である旨断言して免責内容を定めたこと、これらの措置は刑訴法二二六条に違反し違法である。<ウ>嘱託裁判官は、嘱託書に「東京地方検察庁は、証人らの証言内容及びこれに基づき将来入手する資料中に、仮に、日本国の法規に抵触するものがあるとしても、刑訴法二四八条によって起訴を猶予する意思がある」旨記載しただけで、既に起訴猶予処分にしたとは伝達していないのに、検察官は、合衆国の裁判所に対し、既に起訴猶予処分があり、嘱託裁判官がそれを法的に承認したかのごとく偽りの証言をしているのであって、かかる検察官の行為は適正手続に反し違法である。<エ>外務大臣は、「昭和五一年五月二〇日付の検事総長の東京地方検察庁検事正に対する指示及び同月二二日付の同検事正の起訴猶予の決定の措置については、この措置の決定前、法務大臣において了承しており、検事総長、検事正の後継者を拘束することも確認している。また内閣総理大臣も同年六月三日ぞの措置について了解している。これは、起訴猶予処分についての日本国政府内において採られた手続である。」旨の法務省刑事局長のメッセージを合衆国司法省刑事局長に伝達するよう在ロスアンジェルス総領事あてに公電を打ち、これが合衆国の受託裁判所に提出されているが、嘱託裁判官の関与なしに、総理大臣及び法務大臣により免責特権が正当に付与されていることを是認されているごとき意思表明を外国の裁判所にすることは、行政権が嘱託裁判官の行うべき手続に介入するものであって憲法七六条に違反する。<3>原審決定は、本件嘱託証人尋問と合衆国の手続法との関係等について、「米国における手続過程の事象については、それがわが国の憲法上ないし刑事訴訟法上の価値基準に照らし受け入れ難い程度の違法性を帯有する場合に本件証人尋問調書の証拠能力に影響ありと解する。」としたうえ、結論として、本件嘱託証人尋問手続には証拠能力に影響を及ぼすような違法性はない旨判示しているが、右手続に合衆国の手続法上著しい違法がある場合には、必然的にわが国内法上も違法と評価されるべきであり、このような手続によって取得された本件嘱託証人尋問調書は違法収集証拠としてその証拠能力が否定されるべきであるところ、右手続には、合衆国の手続法上次のような著しい違法がある。すなわち、合衆国における国際司法共助に基づく証人調べ等は合衆国法典二八編一七八二条に則り実施され、同条項によると、連邦地方裁判所は、外国のトライビューナルtribunalによって発せられた嘱託書による要請又は利害関係人の申請に基づき、証言もしくは供述又は文書その他の物の提出を裁判所が指名した者の面前でするよう命じ、その際、その方法又は手続を指定することができるが(したがって、その全部又は一部を嘱託国の法令に定める方法又は手続によるべく指定することができる。)、命令により指定されないかぎり、証言もしくは供述又は文書その他の物の提出は連邦民事訴訟規則に従って実施されることになっている。しかるところ、<ア>刑訴法二二六条の請求を受けた裁判官あるいは右請求をした検察官は、いずれも右合衆国法上の外国のトライビューナルに当たらず、本件嘱託に基づきなされた証人尋問手続は合衆国の手続法上違法である。<イ>わが国の刑訴法二二八条によると、同法二二六条の証人尋問に際し、裁判官は被疑者、被告人及び弁護人の立会を裁量により禁止することが可能であり、本件嘱託書において、これらの者の立会を禁止するよう要請し、本件嘱託証人尋問手続においては、これを容れてわが国刑訴法の規定に従った方法で実施されているが、かかる方法で手続を実施するにはその旨の明示的な指定がなされる必要があるのに、右証人尋問の実施を命じた合衆国裁判所(スチーブンス判事)は、右手続においては連邦民事訴訟規則の適用を排除し嘱託裁判官が要請した方法により実施する旨の指定をしていないのであるから、右証人尋問手続は右民事訴訟規則等の合衆国の法令に基づいて施行されるべきであり、右規則三〇条(b)項一号及び(c)項によると、証人尋問に際しては訴訟の相手方に対し証人尋問の日時、場所、証人の氏名等を通知し、主尋問と反対尋問は連邦証拠規則に則り公判廷の審理(トライアル)と同様になされるべき旨規定しているのに、受託裁判所が、当時起訴されていた児玉誉士夫に右通知をせず、また、被告人らの起訴後に実施された証人らの尋問につき、被告人らに対し右通知をせず、被告人らに対し反対尋問の機会を与えなかったのは、右合衆国法典二八編一七八二条及び右民事訴訟規則の条項に違反し、ひいては反対尋問権を保障している合衆国憲法修正六条に違反し、また、右手続にわが国の検察官を立会させた措置も右法典及び規則の条項に違反するもので、本件嘱託尋問手続には合衆国法上著しい違法がある。<4>受託裁判所等合衆国の司法機関は、本件の証人尋問調書は捜査の資料としてのみ使用されると考えていたのであり、もし合衆国の司法機関が児玉誉士夫及び被告人らに対し公訴の提起がなされていることを知り、右調書が公判においても使用されることを知っていたならば、前記規則等によって要求される通知その他の必要な措置をとりえたはずである。しかるところ、嘱託裁判官は、嘱託書において、嘱託当時既に起訴されていた児玉を被疑者と表示し、また「尋問内容が伝聞事項にわたる場合にも、本件証人尋問は捜査のためのものであるからこれを許容されたい。」旨記載するなど、本件嘱託証人尋問が捜査のために行われるものであることを殊更に強調し、また右証人尋問に立会った検察官も、被告人らが起訴されたことを知らせず、右証人尋問施行上重要な事実を隠ぺいして合衆国司法機関を誤信せしめ前記のとおりの違法な措置をとらしめたのであって、かかる行為は著しく正義に反し刑訴法の基本理念である基本的人権の保障に反し違法というべきである。

2 そこで所論につき順次検討する。

(一) まず、嘱託手続について検討するに、本件国際司法共助としての証人尋問の嘱託書には、嘱託のあて先が「アメリカ合衆国管轄司法機関」と記載され、かつ、合衆国法典二八編一七八一条及び一七八二条に基づき証人尋問を実施されたい旨の記載があるところ、右法条によると、右嘱託証人尋問を実施する管轄司法機関が証人の居住し又は現在する地区の連邦地方裁判所であることが明らかであり、右嘱託書の文言及び右法条並びに右嘱託書が連邦司法省等を通じて合衆国裁判所に伝達されていることに照らし、その嘱託先が合衆国の裁判所であることが明らかであるから、嘱託のあて先を右のとおり記載したことに誤りはない。なお、所論主張の手続を経てなされた証人尋問手続の実施命令の適法性は合衆国裁判所が判断する事柄であるとともに、右法条に照らし違法があるとは考えられない(右命令の申立はカリフォルニア州中央地区連邦検察官によりなされているが、右命令書には、「東京地方裁判所が連邦司法省及びカリフォルニア州中央地区連邦検事正を通じて当裁判所に対して行なった申立により嘱託書を実施するよう要請されている。」と記載されている。)。また、検察官が、本件嘱託証人尋問調書を捜査の資料とするとともに証拠能力が認められる場合には公判の証拠として用いるために本件嘱託証人尋問の請求をしたものであることは、その請求をした経緯及び刑訴法二二六条が捜査及び公判のために必要な適正証拠を保全する機能を果たすことをも目的とした規定であると解せられること、並びに右請求に際し嘱託書に記載すべく要請した要請書の中に「関係者に対し、尋問事項、証言事項及び提出に係る書類の内容については、将来これを日本国の司法機関において法令に従って用いる結果公表されることとなる場合を除いては、その秘密を保持せよとの命令を発せられたい。」旨将来公判において証言調書を証拠として使用する場合がある趣旨の記載があることに徴して明らかであるから、嘱託裁判官が、嘱託書に証人尋問請求の理由として「将来公判廷において証拠として用いる必要がある」と記載した措置に、所論主張のごとき検察官の請求を逸脱した等の違法はない。

(二) 本件嘱託証人尋問手続における嘱託裁判官の関与等に関する所論につき検討するに、国際司法共助は受託国に協力を依頼し受託国の主権の行使のもとに証拠調べ等が実施される制度であり、その手続は受託国の裁判権に基づき同国の法令に従って実施されることを原則としていること(外国裁判所ノ嘱託ニ因ル共助法三条参照)は前記のとおりであり、嘱託証人尋問手続上生じた諸問題は、その処理の方法を含め、専らこれを主宰する受託国裁判所が処理すべきことであって、嘱託裁判官がこれに関与することはありえず、この理は、右手続の一部が嘱託裁判官の要請に従いわが国の刑訴法に則り実施されていることによって変るものではなく、これと異なる見解を立論の前提として副執行官や検察官の措置を論難する所論は失当である。なお、嘱託裁判官が、嘱託書において、「証人尋問に際しては『ロッキード・エアクラフト社問題に関する法執行の相互援助のための手続』第七項に基づき合衆国司法省において日本国政府(東京地方検察庁)を代理する者として選任される予定の連邦検事をして合衆国の法令に関して意見を述べること、及び東京地方検察庁検事が日本国の法令に関して意見を述べたり、証言拒否権に関する告知その他の手続に関する申立を行うことを許容されたい。」旨要請しているのは、右の見解をもとにしてなしているものと理解できるし、また、本件不起訴確約が合衆国法上の概念に当てはめると訴追免責に該当することは前記のとおりであるとともに、訴追免責が合衆国の憲法に違反するものとは考えられない〔Brown v.Walker, 161 U.S.591(1896); Ullmann v. United States, 350 U.S.422(1956); Kastigar v. United States, 406 U.S.441(1972)〕ので、検察官が受託裁判所に対し右確約につき訴追免責に当たる旨述べた点に違法ないし不当はない。また、当審において取調べた一九七六年七月一日付副執行官(コ・コミッショナー)のメモランダムには、右手続において検察官が「最も重要な要素は、日本の免責同等のものの付与は、検察官の手続の申立を通して裁判官によって認識され、かつ承認されたということである。」旨及び「裁判所の免責付与の承認によって、免責付与は裁判所の決定となり、その決定に反するその後の起訴は、日本国刑事訴訟法三三八条に従って棄却される。」旨説明したと記載されているが、本件証人尋問の嘱託に際し、事前に、検事総長の昭和五一年五月二〇日付宣明書及び東京地方検察庁検事正の同月二二日付宣明書が発せられていることは前記のとおりであり、本件嘱託書及び最高裁判所の宣明書等関係証拠によると、右宣明書による不起訴確約がなされた事実は嘱託裁判官によって確認され、そのうえで右嘱託書に要請事項として「東京地方検察庁は、証人らの証言内容及びこれに基づき将来入手する資料中に、仮に、日本国の法規に抵触するものがあるとしても、日本国刑事訴訟法二四八条によって起訴を猶予する意思がある旨を証人に告げたうえ尋問されたい。」旨記載されていることが認められ、かつ、前記のとおり、右不起訴確約が訴追裁量権の行使として違法性がないこと、及び不起訴確約に反する証人らに対する公訴の提起が刑訴法三三八条四号により棄却されることになると解せられることにかんがみると、右メモランダムに記載されている検察官の説明内容が、その措辞の適否はともかく、誤りであるとは解せられないばかりでなく、右メモランダムの記載全体を検討してみると、検察官が偽りの説明をしたものでないことが明らかであるから、この点の所論も失当である。更に、当審で取調べた一九七六年七月一日付外務大臣発在ロスアンジェルス総領事あての「ロッキード問題、しょく託じん問」と題する書面によると、同大臣が右総領事あてに所論のとおりの内容の公電を打ったことが認められるが、右書面は、その文言に照らし、わが国の法務省刑事局長が、ロッキード社問題に関する前記日米間の司法取決めに基づき、合衆国司法省刑事局長に対し、証人らに対する不起訴確約については内閣総理大臣及び法務大臣において了承しているものであるとの事実を通知し、わが国法務省から合衆国司法省に対して本件嘱託証人尋問手続における援助の要請をしたものであることが明らかで、右書面が合衆国裁判所に提出されたとしても、このことにより、外務大臣が合衆国裁判所に対し意思表明をしたものでないことはもちろん、行政権が嘱託裁判官の行う手続に介入したものでもないことは明らかである。

(三) 本件嘱託証人尋問手続が合衆国の手続法に違反する旨の所論につき検討するに、国際司法共助の嘱託による証拠調べは、受託国の裁判権に基づき同国の法令に従って実施されるものであり、わが国の刑事裁判手続においては、受託国の裁判所が実施した手続に、わが国の裁判所が実施した手続としての法的効果が付与されるわけではなく、右証拠調べ手続上生じた問題は受託国裁判所の右手続(上訴を含む。)内で処理されるべき事柄であり、わが国の裁判所としては、受託国の裁判所が右手続においてとった措置の同国の法令上の適法性について改めて審査する立場にないと解される。したがって、本件嘱託証人尋問手続において合衆国裁判所がとった措置が同国の法令に違反した場合、わが国の法令解釈上も当然違法となる旨の見解を前提として、合衆国裁判所がとった措置に同国の法令違反がある旨論難する所論はその前提に誤りがあり採用できない。しかして、司法共助に基づき入手した証拠の許容性は、受託国の裁判所がとった措置の同国の法令上の適法性と関係なく、わが国の憲法及び刑訴法の基本理念ないし刑事訴訟の基本構造に照らして判断すべきものであり(したがって受託国の法令上は適法であってもわが国の法令上許容できない場合も考えられる。)、右証拠がわが国の刑訴法に定める要件を充足すれば証拠能力を認めるべきものと解される。わが国の刑訴法二二八条二項によると、同法二二六条の第一回公判期日前の証人尋問の請求を受けた裁判官は、捜査に支障が生ずるおそれがある場合には、被告人、被疑者又は弁護人を右尋問に立合わせないことができるのであって、かかる場合には、証人尋問の期日、場所、証人の氏名等を右の者らに通知する必要はなく、したがって反対尋問の機会を与えることも必要とされていないのであるから(最大判昭二七・六・一八刑集六巻六号八〇〇頁、最二小決昭二八・三・一八刑集七巻三号五六八頁参照)、合衆国裁判所が、本件嘱託証人尋問手続において、児玉誉士夫及び被告人ら並びにその弁護人らに証人尋問の期日等を通知せず、同人らに反対尋問の機会を与えなかったからといって、わが国の憲法及び刑訴法の基本理念ないし刑事訴訟の基本構造に反するものでないことが明らかであり、右措置の違法を前提に、本件嘱託証人尋問調書の許容性に関する原審決定の判断を論難する所論は失当である。なお、刑訴法二二六条の規定に基づく証人尋問に検察官の立会いが許されることは、同法条及び同法二二八条の規定から明らかであり、したがって本件嘱託証人尋問手続にわが国の検察官が立会ったことが、わが国の法の理念に反するものでないことはいうまでもない。

(四) 嘱託裁判官及び検察官が、児玉誉士夫及び被告人らに対する公訴提起の事実を隠ぺいし、合衆国の司法機関をして、本件嘱託尋問調書が捜査資料としてのみ使用されるものと誤信させた旨の所論は、右の者らに対する証人尋問に関する通知をせず反対尋問の機会を与えなかった合衆国裁判所の措置が同国の法令に違反する旨の前記所論の縁由として主張されているので、右通知及び反対尋問の機会を与えなかったことが、証人尋問調書の証拠としての許容性を否定する理由にならないことが明らかである以上、右所論につき立入って判断を示す必要性はないといえるが、嘱託書に「当該証人尋問調書を将来公判廷において証拠として用いる必要がある。」旨の記載があること、一九七六年六月二三日付合衆国第九巡回控訴裁判所(本件につき証人尋問手続の開始等を命じた連邦地方裁判所の命令に関連する不服申立につき審理をした上級審)の命令書には「証言調書は日本における犯罪捜査及び将来起こりうべき刑事裁判において用いられるものとされていた。」「嘱託書は、既に起訴された氏名の判明している一名及び未だ起訴されていない氏名不詳者複数名により犯された日本の所得税法ほかの法律違反の罪につき現在進行中の捜査を援助するために発付されたものである。」「証人尋問を通じて得られた情報は右捜査の遂行及び将来の公判における使用に供されるのである。」と記載されていることに徴すると、合衆国の裁判所は、当時児玉に対し公訴が提起されていたこと及び本件証人尋問調書がわが国の刑事裁判の証拠として使用される場合のあることを認識していたと認められるから、所論は失当である。

してみると、本件嘱託証人尋問手続に違法事由が存することを理由に本件嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定する所論は理由がなく採用できない。

四  刑訴法三二一条一項三号の「供述不能」及び「特信性」の要件について

1 所論は、要するに、原審決定が、本件嘱託証人尋問調書は刑訴法三二一条一項三号の要件を具備する旨判示して同調書の証拠能力を認めていることにつき、右要件のうち「供述不能」及び「特信性」の要件は充足されていないから、原審決定の右判示は誤りである旨主張し、その理由として次のような諸点を挙げている。すなわち、(一)「供述不能」の要件につき、所論は、<1>刑訴法三二一条一項三号のいわゆる「供述不能」の要件のうち「供述者が国外にいるため公判準備又は公判期日(以下「公判期日等」という。)において供述できないとき」との要件は、同項同号のその他の要件、すなわち、「死亡、精神若しくは身体の故障、所在不明」の各要件が、いずれも、その性質上、供述者が反対尋問可能な状態で原供述をした後、これらの事由が後発的に発生した場合であるから、これと同列に考えると「国外にいるため」という事由も、右同様、わが国内で原供述をしたあと国外に居住した場合に限定して解釈すべきであり、また、憲法三七条二項の証人審問権の保障の観点から実質的に考察してもこのように解するのが相当であって、コーチャンらのように、当初から国外にいてわが国裁判所の公判期日等に証人として出頭する意思のない者については、「国外にいる」との要件に当たらないと解すべきであり、<2>また、刑訴法三二一条一項三号の「公判期日等において供述することができないとき」というのは、供述することが絶対不可能な場合に限られると解すべきであり、供述者が国外にいても公判期日等に出頭して供述する意思があれば供述することが可能であることにかんがみると、反対尋問を経ていない供述録取書を証拠とするためには、裁判所において供述者を証人として採用したうえ同人に召喚状を発出してその出頭確保に努めることが必要であると解されるところ、本件においては右措置がとられていないので、いずれにしても本件嘱託証人尋問調書に証拠能力を付与した原審決定は刑訴法の右条項に違反しひいては憲法三七条二項に違反する。(二)更に、所論は、「特信性」の要件につき、原審決定は、「刑訴法三二一条一項三号但書の特信性がある場合とは、当該供述に虚偽性の介入する余地が乏しいと認められるような情況が存すること、すなわち、供述の信用性が情況的に保障されていることを要するものというべきであり、」「本件嘱託証人尋問調書には、その供述過程の全情況に照らし、信用性の情況的保障が高度に存在することを認めることができるから、特信性の要件を十分充足しているというべきである。」旨判示しているが、右解釈は、証拠能力の問題と証拠価値すなわち証拠の信用性の問題とを混同したものであるうえ、原審決定が特信性を肯認する事由として挙げている諸事情は右要件を充足するものではない。すなわち、免責付与のもとになされた証言は、本質的に取引的要素を包含し信用性に乏しいものであるところ、本件嘱託証人尋問において、コーチャンらは、わが国の検察官に有利な供述をしても将来にわたってその供述を理由として起訴されない旨の確約を与えられている反面、わが国の検察官にとって不利な供述をする場合には、同検察官から合衆国の捜査機関に偽証罪で告発されることがあることを警告されたうえで証言しているのであるから、右コーチャンらの証言はわが国の検察官の主張にとって利益となる虚偽の供述を誘発するおそれがある情況のもとでなされたものであるうえ、当時わが国に軍用飛行機等の販売を意図しその売込みに大きな利害関係を有していたロッキード社の利益を守るため虚構の事実を供述する可能性があるとともに、また当時コーチャンらは同社の株主から訴訟を提起されていたほか合衆国証券取引委員会等から責任を追及される可能性もあったので、民事、行政事件の分野に免責の効果が及ばないことにかんがみると、自己に不利益な供述を避ける可能性もあり、更に、本件嘱託証人尋問手続自体、右手続において被告人らに対し証人尋問の日時、場所等の通知がなされず、同人らの立会なしに連邦民事訴訟規則に違反してなされる等、対立当事者間の利害が公正かつ公平な立場で調整されたうえなされたものとはいえず、加えて、コーチャンらの弁護人が右手続に立会った主要な目的は、コーチャンらに真実を証言させることではなく、専ら前記立場にある同人らの利益を守るとともに、後日同人らが偽証罪に問われる事態を回避することにあった等の諸事情に照らすと、コーチャンらの証言は、特に信用すべき情況のもとでなされたものとはいえないから、本件嘱託尋問調書は特信性の要件に欠ける、というのである。

2(一) そこで、まず供述不能の要件につき検討するに、刑訴法三二一条一項三号が、「死亡、精神若しくは身体の故障、行方不明」等、それ自体、公判期日等における供述を不能ならしめる事由とともに、なんらの限定をおかずに「供述者が国外にいる」場合を供述不能の一事由に掲げているのは、供述者が国外にいるときは、わが国の裁判権を行使できる場所的限界の外にあって、供述者を強制的に公判期日等に出頭させ宣誓のうえ供述させることができないことによるもので、刑訴法は、「国外にいる」こと自体を供述不能の事由に該当するものとして原供述を録取した書面等を証拠として使用する必要性を認める立場をとっているものと解するのが相当であり、このことは原審決定が説示しているとおりである。憲法三七条二項は、裁判所が喚問したすべての証人に対して被告人に反対尋問の機会を十分に与えなければならないことを規定したものであって、被告人にかかる審問の機会を与えていない供述者の供述には絶対的に証拠能力を認めないとの意味を含むものではなく(最大判昭二四・五・一八刑集三巻六号七八九頁、最大判昭二七・四・九刑集六巻四号五八四頁等参照)、被告人に反対尋問の機会を与えていない者の供述又は供述を録取した書面であっても、現にやむをえない事由があってその供述者を裁判所において尋問することができず、これがため被告人に反対尋問の機会を与えることができない場合に、これを裁判上証拠とすることができると解したからといって必ずしも右憲法の規定に反するものではなく、刑訴法三二一条一項三号が、同号に掲げる書面(供述書又は供述録取書)に、一定の要件のもとに証拠能力を付与する規定をおき、原供述について被告人に反対尋問の機会が与えられたか否かを問わないこととしているのも、右と同一の見地に立った立法というべきである。所論は、供述者が当初から国外にいて原供述時に公判期日等に出頭する意思がなく、したがって被告人の反対尋問を受ける意思がない場合には、かかる原供述を録取した書面に証拠能力を認めるべきでないというのであるが、原供述時に公判期日等に出頭できないことが予想される事情は、供述者が国外にいる場合に限られるわけではなく、瀕死の病状にある者が死の直前に供述する場合、あるいは、原供述直後国外に移住することが確定している者が移住の直前に供述する場合等においても見られることであって、かかる者の供述を録取した書面につきすべて証拠能力を否定するがごとき解釈をすることは、刑訴法三二一条一項三号本文前段の必要性の要件に、法の規定しない原供述時の事情を要件として付加することになり、右法文の文理に反し相当とは考えられない。のみならず、反対尋問が供述の真偽を検討する唯一絶対の方法ではなく、反対尋問による吟味に代わるような供述の真実性を担保する情況的保障が存するかぎり、反対尋問の機会を与えないことが原供述ないしこれを録取した書面等に証拠能力を付与する妨げとなるものではないとする伝聞証拠禁止(刑訴法三二〇条)の例外を認める根拠に照らして考えると、実質的にも、所論がいうように、「供述不能」の要件について、公判期日等において証言することができない事態が原供述当時予想されずその後に生じた場合に限られ、供述者が当初から国外にいる場合には「国外にいる」との要件に該当しないと限定的に解しなければならない合理的理由はないというべきである。

もっとも、「供述者が国外にいるため」との要件は、そのために「公判期日等において供述することができない」ことの例示として掲げられている趣旨にかんがみると、供述者が国外にいる場合であっても、そのことが公判期日等における供述を不能ならしめる意味を有していないと考えられる場合、例えば国外にいる供述者が間もなくわが国に来ることが判明している場合、あるいは、求められれば任意わが国に来て証言する意思を有していることが明らかである場合のような特段の事情があるときは、供述者が国外にいるというだけで直ちに公判期日等において供述することができないとはいえないから、刑訴法三二一条一項三号所定の要件を充足しないと解する余地があり、したがって、右要件を具備するか否かの認定に当たっては、国外にいる供述者が任意に公判期日等に出頭して証言する意思があるか否かの確認が重要であり、その確認を必要とすると解せられる。しかしながら、右意思の確認に当たり、所論主張のように、常に、供述録取書等の取調べを請求する当事者において供述者の証人尋問を請求したうえ裁判所が供述者を証人として召喚する等の方法により自らその確認調査をしなければならないとするなんらの法律上の根拠はなく、要件の証明方法を法定していない同法三二一条一項三号の規定の仕方に照らして考えると、供述録取書等の申請者(本件においては検察官)が調査した資料によるなど適宜の方法で行えば足りると解するのが相当であることは、原審決定が説示するとおりである。しかして、関係証拠に基づき検討すると、本件において、コーチャン及びクラッターの両名は、東京地方検察庁検察官から、本件嘱託証人尋問前の昭和五一年四月及び五月に、二回にわたり取調べのため合衆国内の便宜な場所への出頭を求められながらこれを拒絶し、更に、昭和五二年一二月、公判裁判所から証人として出頭するよう要請があった場合に出廷して証言する意思があるか否かにつき、右検察官から照会を受けたのに対し、同五三年一月、コーチャンは、現在東京で訴訟が係属している事件に関連する事項について合衆国司法省による捜査が行われている限り出頭を拒否する旨回答し、クラッターの代理人であるエドワード・M・メドウィンは、クラッターには証人として証言するため任意に渡日する意思は現在ない旨回答し、右回答書の文面からみて、コーチャン及びクラッターが近い将来来日して証言する意思を読みとることができないだけでなく、右経緯及び同人らの本件における立場ないし利害関係を併せ考えると、実質的には終始変らぬ出頭拒否の態度と受けとめざるを得ないのであり、かつ、右検察官の調査結果に疑問を容れる余地はないので、結局本件においては、原審決定が右両名につき任意来日して証言する意思がある等の特段の事情がある場合には当らない旨認定判断しているところに誤りは認められない。

してみると、本件嘱託証人尋問調書が刑訴法三二一条一項三号本文前段所定の「供述者が国外にいるため公判期日等において供述することができないとき」との要件を充足するとした原審決定には、右法条及び憲法三七条二項に違反する違法はなく、所論は採用できない。

(二) 次に特信性の要件につき検討するに、所論は、特信性の意義に関する原審決定の判示は証拠能力と証拠価値とを混同するものである旨論難するが、原審決定の判文全体を考察すると所論指摘のごとき誤りがないことは明らかである。しかして、原審決定が、本件嘱託証人尋問におけるコーチャン及びクラッターの供述に虚偽が入る余地が乏しいと認められる情況(特信性を担保する事情)として挙示している事実、すなわち、<a>本件証人尋問手続は、合衆国の裁判所において同国の訴訟手続関係法規に則り施行されたものであり、執行官として右手続を主宰したチャントリーは、指名があれば同国カリフォルニア州裁判官として権限を行使する資格を有していた同州退任判事であって、総じて公正かつ公平な立場に立って手続を主宰しその実施に当たったこと、<b>チャントリーは、証言を求めるに際し、証人らに宣誓をさせ、かつ偽証罪の制裁があることを告知していること、<c>本件手続には、弁護士である証人らの代理人が立会い、尋問方法等に対する異議申立、証人に対する助言等を通じて証言の信用性の確保に寄与していること、<d>証人らの供述の態様をみても、記憶の有無や、記憶の存する事項と推測にわたる事項を明確に区別し、客観的資料を示され記憶の正確性を確認し、あるいは記憶を喚起して証言していること、<e>本件調書は、公認速記者により一問一答式で発言どおり正確に録取されたものであり、証人らは尋問終了後これを閲読し訂正したうえその正確性を承認して署名していること、<f>いわゆる刑事免責は偽証の制裁と相まって真実の証言を獲得する手段として米国法下で活用、育成された制度であり、本件証人らを含め証人尋問手続関係者らは、いずれも米国法上の刑事免責制度に慣熟している者であることにかんがみると、本件で免責の処置が講ぜられたことは本件調書の特信性を支える一事由と考えられること、などの諸点は本件各証人尋問調書等関係証拠を検討するとこれを認めることができるので、これらの諸点を総合考慮したうえ、本件調書には、その供述過程の全情況に照らし、特に信用すべき情況的保障が高度に存在することが認められるとした原審決定の判断は相当であってこれを是認することができる。

所論にかんがみ敷衍するに、所論は、免責付与のもとになされた証言は、本質的に取引的要素を包含し信用性に乏しい旨主張する。しかしながら、刑事免責制度は、米国において、自己負罪(供述)拒否特権の絶対性と公益上必要な証言を獲得するという訴追側(国家側)の要請との対立的利益の調整を図り、刑事裁判手続における実体的真実の発見等の目的に資するため確立され発展してきた合理的な制度であることは既に述べたとおりであり、本件尋問に際し付与された免責(不起訴確約)は、供述内容に応じて事後的に付与されるというものではなく(このような場合は取引的要素を含み虚偽供述の誘引となるであろう。)、いかなる証言であれ、証言した事項について公訴を提起しないということを内容とするものであり、それが証人らに対し、証言前に確定的に伝達されていることに徴すると、証人らはもはや証言した事項に関し訴追を受けるおそれはないので、自らの責任を軽減ないし回避するため真相を歪曲して供述しなければならない必要はなく、免責と証言内容との間に虚偽供述を誘発せしめる取引的要素は存在しないというべきであり、コーチャンらが免責制度に慣熟した米国人であり、現に自らの不利益となる事実についても真摯に供述していることをも併せ考えると、本件においていわゆる免責の措置が講ぜられたことは、虚偽供述をなすべき動機ないし必要性を除去し、証人らが宣誓し偽証罪の制裁のもとで真実を証言することを可能ならしめたものとして、その証言の信用性を担保する一事情と考えられ、この点に関する原審決定の前記判断に誤りはない。なお、関係証拠によると、コーチャンは合衆国憲法修正五条に基づく自己負罪(供述)拒否特権を行使せず、証言が同国内における民事ないし刑事等の手続で使用されうることを確認したうえ、同国において刑事上の訴追を受けるおそれのあること及び民事手続等において不利に作用するおそれがあること等を承知しこれを甘受する意思のもとに自己に不利益な供述をし、またロッキード社の信用等にかかわる不利益事実についても供述していることが認められ、これらのことは、あえて虚構してまで自己に不利益な供述等をすることは通常考えられないことに照らすと、同人の証言の真実性を高からしめる事情というべきである。また、所論は、コーチャンらは、わが国の検察官にとって不利な証言をする場合、偽証罪で告発されることがある旨警告されて証言しているので、検察官にとって利益となる虚偽供述を誘発するおそれがあった旨主張しているが、偽証罪の告発に関しては、検察官にとって有利、不利にかかわらず、偽証した場合に告発されることがある旨告知されていることが証拠上明らかであるから、所論は前提において誤りがあるばかりでなく、かかる警告は、宣誓及び偽証罪の制裁の告知と一体をなすもので、それらが虚偽供述を抑制する機能を有し、証言の信用性を担保する一事情となるものであることはいうまでもない。そして免責が付与されていることにかんがみると、ことさらに検察官に迎合し、虚構をねつ造して供述しなければならないいわれはなく、所論は独自の見解に基づくもので採用できない。更に、所論は、チャントリー執行官の措置を論難し本件嘱託証人尋問が公正に実施されていない旨主張しているのであるが、右尋問手続において、被告人らに対して証人尋問の日時、場所等の通知がなされず、立会いの機会が与えられていないのは、嘱託裁判官の要請に基づき、合衆国裁判所が同国法典二八編一七八二条(a)項により、証人尋問手続の一部を嘱託国たるわが国の法令に定める手続に従って実施したことによるものと考えられ、かつ、その措置は右尋問手続において何ら違法視されていない(なお、右措置の当否は合衆国裁判所においてその手続内で処理されるべきものであって、わが国の裁判所がその違法性の有無につき判断する立場にないことは前記のとおりである。)のであって、そのことが右手続を主宰した執行官の職務の執行、ひいては尋問手続の公正さを阻害するものでないし、また特信性を否定する事由になるものとは考えられない。また、所論は、証人らの弁護人が右尋問手続に立会ったことが特信情況を肯認する事由になるものではない旨主張する。確かに、右弁護人の活動は、依頼者たる証人らの利益を擁護するためのものであり、被告人らの利益擁護を直接の目的としているものではないが、証人らの利益を守るためなされる弁護人の立会い及び活動、すなわち、相当でない尋問に対する異議申立、尋問に使用された資料の内容等の確認、証人に対する証言内容についての注意、助言等は、尋問に当たった副執行官の一方的追及から証人を防禦し、かつ、虚偽供述の発生防止につとめ偽証を犯す危険から証人を守ることにより、結果的には手続の客観性、公正さを担保する作用をもたらしているのであって、証人の弁護人が右手続に立会したことは、証言の真実性を担保する外部的情況の一つということができるので、この点の所論も失当である。

してみると、本件嘱託証人尋問調書が刑訴法三二一条一項三号の書面に該当するとして、これに証拠能力を認めた原審決定の判断に誤りはなく、これを論難する所論は採用しない。

五  結論

結局論旨は理由がない。

第二節  コーチャン及びクラッターに対する証人尋問請求却下に関する訴訟手続の法令違反の論旨について

原裁判所は、弁護人が申立てた証人コーチャン及び同クラッターの尋問請求につき、「昭和五三年一二月二〇日付決定により証拠能力を肯定して採用した右両名に対する嘱託証人尋問調書の一部の内容の証明力に関する判断は、その立証事項にもかんがみ、その内容自体の検討及びその後本件において現われた全証拠と比較対照しての吟味によってすれば十分であり、また両名に対する証人尋問によって新たに立証を必要とする事情も認められないので、右両名に対する証人尋問をする必要性がない。」との理由を示しこれを却下している。

これに対し、所論は、右原裁判所の処置には、憲法三七条二項及び刑訴法三一七条に違反した訴訟手続の法令違背があり、それが判決に影響を及ぼすことが明らかである旨主張し、その理由として、<1>右証人尋問請求は、嘱託証人尋問においてなされたコーチャン及びクラッターの各証言に対する反対尋問のため申立てられたものであるところ、本来証人の証言に対する反対尋問は当然行うことができるものであるが、右嘱託証人尋問が反対尋問の機会を与えられない方法で施行されたため、改めてその証言につき反対尋問を行うためその尋問請求をしたのであるから、憲法三七条二項が被告人に十分な反対尋問をする機会を保障している趣旨に照らすと、実質的にその機会を与えるべきであって、これを却下したのは右法条に違反した措置というべきであること、<2>右各嘱託証人尋問調書の内容は、反対尋問がなされていないため、それ自体不明確な点や矛盾を多く含み極めてあいまい漠然としたものであってその信用性に疑問があり、事案の真相を解明するためには、コーチャンの証言については、<ア>金銭供与の相手方が誰であったのか、<イ>金銭供与の約束があったのか、その趣旨が何であったのか、<ウ>請託はなされたのか、そして請託に基づく行為はなされたのか、<エ>金銭供与があったとしても、その対象たる航空機はL一〇一一型機だけであったのか、<オ>金銭の授受はどのようにして行われたのか、<カ>資金はどのようにして日本に送金されたのか、<キ>日本で支払われたという金銭が、ロッキード社の会計上どのように処理されたのか、<ク>その他一九七三年以降コーチャンが来日した目的並びに右来日の際本件五億円の支払いについて協議がなされていないのか、本件五億円とP3Cとの関係、多くのコーチャン副証の作成経緯とその内容、嘱託証人尋問前の諸状況など、またクラッターの証言については、<ア>同人の日本における職責と販売活動の内容、<イ>檜山、伊藤、大久保との交渉内容、<ウ>コーチャンらロッキード・エアクラフト社その他系列会社との本件金銭の流れに関する指揮系統、連絡の方法と内容、<エ>受領されたという金銭の受領方法、<オ>引渡されたという金銭の支払指示、資金の蓄積、その引渡方法、<カ>クラッター摘要(RECAPITULATION)の作成経緯及びこれら会計書類と会計上の処理、<キ>その他クラッター日記の記載内容等、十分な尋問が行われず未解明のまま残されている重要な事項につき、弁護人において右両名に対し直接反対尋問を行うことが必要不可欠であったのに、原審裁判所がこれを許さず、その解明をなすことなく右漠然たる証拠を事実認定の用に供したのは刑訴法三一七条に違反したものというべきであることを挙げている。

しかしながら、憲法三七条二項の規定は、裁判所が必要と認めて喚問したすべての証人に対して被告人に反対尋問の機会を十分に与えなければならないことを規定したものであり、反対尋問の機会を与えない証人その他の者の供述を録取した書類は絶対に証拠とすることが許されないという意味までをも含むものではなく(最大判昭二四・五・一八刑集三巻六号七八九頁、最大判昭二五・九・二七刑集四巻九号一七七四頁、最大決昭二五・一〇・四刑集四巻一〇号一八六六頁参照)、被告人のため反対尋問の機会を与えていない証人その他の者の供述を録取した書面であっても、現に止むを得ない事由があってその供述者を裁判所において尋問することが妨げられ、これがため被告人に反対尋問の機会を与え得ないような場合にあっては、これを裁判上証拠となし得べきものと解しても憲法三七条二項の規定に違背しないというべきであり(最大判昭二七・四・九刑集六巻四号五八四頁参照)、かかる供述者の供述を録取した書面が刑訴法三二一条一項各号に該当するとして証拠能力が付与された以上、もはや右供述者に対する反対尋問はありようがない。そして、裁判所は、当該事件の裁判をなすにつき必要適切と認める証人を喚問すれば足り、健全な合理性に反しない限り一般に自由裁量の範囲で適当に申請証人の取捨選択をすることができるのであって、憲法三七条二項は被告人側からした申請に基づきすべての証人を喚問し不必要と思われる証人までをもことごとく尋問しなければならないとする趣旨を定めたものではないのであり(最大判昭二三・六・二三刑集二巻七号七三四頁、最大判昭三六・六・二八刑集一五巻六号一〇一五頁参照)、この理は、やむを得ない事由があって供述者を裁判所において尋問することができずそのため被告人に反対尋問の機会を与え得ないまま証拠に採用した右供述者の供述録取書面の内容につき、実質的な反対尋問をするため、改めて被告人側から申請された右供述者に対する証人尋問請求についても変りはないものと解すべきである。しかして、記録によると、コーチャン及びクラッターに対する証人尋問請求は、原裁判所が昭和五三年一二月二〇日右両名に対する嘱託証人尋問調書を刑訴法三二一条一項三号に該当する書面として証拠に採用し、その取調べをした後三年余経過した昭和五七年二月一〇日に至ってはじめて右調書の内容の一部の信用性につき尋問する必要があるとしてなされたものであるが、右請求の尋問事項並びに所論指摘の事項に照らして検討すると、本件における主要な争点と関連する事項についての右尋問調書の内容の信用性証拠価値の判断は、個々の争点に関する事実誤認の論旨に対しそれぞれ判示しているとおり、右尋問調書の内容自体を慎重に吟味し、取調べられた全証拠と対照して総合検討することにより十分可能であり コーチャン及びクラッターを証人として取調べなければ事案の真相の解明ができないとは認められないので、右両名の尋問が必要不可欠とは言いがたい。

してみると、右証人尋問請求を必要性がないとして却下した原裁判所の判断に誤りはなく、憲法三七条二項に違反しないことはもとより、右嘱託証人尋問調書を事実認定に供したことが刑訴法三一七条に違反するものでないことはいうまでもなく、この点の論旨は理由がない。

第二章事実誤認の論旨について

(検察官面前調書等の証拠能力に関する訴訟手続の法令違反の論旨に対する判断を含む。)

第一  ロッキード社の資金調達に関する事実誤認の論旨について

ロッキード社が、本件五億円の資金を調達した事実につき、原判決は、「コーチャンは、クラッターに対し本件五億円を交付することになった事情を説明してその実行を命じ、またロッキード社財務部副部長L・T・バロウに対してもその経緯を告げクラッターの指示によって資金を調達するように命じた。こうして、コーチャンの指示に基づき、昭和四八年七月一六日から同四九年二月二〇日まで六回にわたり、ロッキード社の関連会社であるロッキード・エアクラフト・インターナショナル・インコーポレーテッド(LAI)又はロッキード・エアクラフト・インターナショナル・AG(LAIAG)からロスアンジェルス・ディーク社に対し現金五億五、六〇〇万円のクラッター宛の送金依頼がなされ、右現金は、香港ディーク社により東京に搬入されて、同四八年七月二三日から同四九年二月二八日まで一九回にわたりクラッターが受領し、そのうち五億円が本件の授受に充てられた。」と認定している。

これに対し、所論は、ロッキード社のクラッターから丸紅に対して本件五億円が交付されたとするためには、その前提として、右資金が、ロッキード社においてどのようにして準備され、どのようにしてクラッターに届けられたのかなどの事実が証拠によって具体的に認定される必要があるところ、証拠上、クラッターが東京において判示のとおり現金合計五億円余を受領した事実を認定することはできないのであって、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある旨主張し、その理由として次のように主張している。すなわち、まず第一に、外国送金受領証写しの証拠能力及び信用性につき、原判決は、「外国送金受領証は、外国為替送金業者であるロスアンジェルス・ディーク社が、その業務の通常の過程で、外国送金依頼者に対して発行した領収証の正確な写しであり、送金の相手方、送金の日、方法等、送金伝票同様の取引内容を記載した書面であって、その正確性を疑わしめる事由はない。」と判示しているが、<1>本件の外国送金受領証写し六通に印刷されている「Received」の文字が抹消され、代りに「We Await Payment」と記入されており、このような外形上の記載から、右各外国送金受領証は外国送金資金を受領したことを証する領収証として作成されたものでないことが明らかであるところ、「待たれていた払込み」がなされた事実を認めるに足る証拠がないこと及び一九七五年六月まで右外国送金受領証がすべてロスアンジェルス・ディーク社に保管されていたことに徴すると、右払込みはなされなかったと認めるべきであるから、右外国送金受領証写しが存在することからそれが送金の事実を証する領収証であるとして資金調達の事実を認定することはできず、原判決は、右訂正された一見明白な外形上の記載を看過して事実を誤認したものである。<2>また、右外国送金受領証写しの記載によると、東京のクラッターに対し、各記載の金額を「電信で送金する」ことと指定されているところ、原判決は「本件五億円は、香港ディーク社により現金で東京に搬入され、クラッターがこれを受領した。」旨の事実を認定し、クラッターがこれと符合する供述をしていることから明らかなとおり、クラッターが受領した現金は、香港ディーク社の運び人が搬入した現金であって、右外国送金受領証写しに記載されている電信による送金でないことが明白であって、仮にクラッターが現金を受取った事実があったとしても、それは本件外国送金受領証に基づく送金取引とは全く関係のないものであることが明らかであるから、右外国送金受領証は、原判決が判示するような本件資金に関する送金伝票と同様の書面であるということはできない。<3>本件の外国送金受領証写しは、「顧客用領収証」「会計用控」「保存用控」と表示された三種類のものがあり、通常はこの三種類のものを一組として同時に作成し、「顧客用領収証」は送金委託者に、「会計用控」と「保存用控」はいずれも受託者(作成者)であるロスアンジェルス・ディーク社に保管されるべきものと認められるところ、昭和五二年一一月一五日付堀田検事作成の「ディーク社受領証の真正に関する調査書(その二)」(甲四9)に添付されている「一九七五年六月二七日付ロスアンジェルス・ディーク社ケリー副社長発LAIシャッテンバーグあて書面」の記載によると、本件の各外国送金受領証は、LAIの会計担当者シャッテンバーグの要請により、ロスアンジェルス・ディーク社から同人宛に同日付で送付された「一九七三年五月から一九七四年一二月までの作成日付の外国送金受領証合計一九通(合計四六四万九、二三二・八八米ドル)」の一部の六通(合計二〇八万六、〇〇九・三四米ドル)であることが明らかである。つまり、本件の外国送金受領証は、いずれも、それぞれの作成日付から半年ないし二年ほど経過した後になってロッキード社の要請で事後に一括して送付されたものであるところ、何故に事後に一括して多数の外国送金受領証の送付を求めたのかこれを明らかにする資料はないが、右送付方を要請した一九七五年六月末には、既に、米国証券取引委員会(SEC)によるロッキード社の不正支払に関する調査が開始されていたこと、及びコーチャンが、ロッキード社は同年七月にSECに報告書を提出し、それから間もなく全世界であらゆる種類の支払いを停止した旨供述していることなどから勘案すると、ロッキード社は、SECの調査に当たり、会計上の操作をするため、外国へ送金したかのように仮装した資料が必要となり、その資料を右ディーク社に求めたと推測される。右の推測は、「顧客用領収証」だけでなく、本来ロスアンジェルス・ディーク社において保管されるべき「会計用控」及び「保存用控」を含め、三種類の外国送金受領証の全部が一括してロッキード社に送付されていることによって裏付けられている。すなわち、米国上院外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)に提出されている外国送金受領証はすべて顧客用領収証であるが、SECに提出されている外国送金受領証は保存用控及び会計用控であり、これらの外国送金受領証はいずれもロッキード社が保有していた各原本から作成された写しであるとされているのであって、ロッキード社が三種類全部の原本を保有していたことは疑いの余地はなく、しかも、これらの原本は、前記のとおり、事後に一括してロスアンジェルス・ディーク社から送付されているのであるから、これらの外国送金受領証は外国送金依頼のつど作成しロッキード社に交付したものとは認められず、ロスアンジェルス・ディーク社の業務の通常の過程で正規に作成されたものではなく、真実の取引とは無関係に、専らロッキード社に交付するためにのみ作成されたものというべきであり、その他、本件外国送金受領証のうち、一九七四年一月四日付金額一億二、五〇〇万円(甲再一8)の分の登録済署名欄の筆跡がその余の五通の領収証に存する「T・ケリー」の署名と明らかに異なり、それが誰の署名であるのか、その署名者がロスアンジェルス・ディーク社とどのような関係にあるのかを解明する資料が存在しないことからも、右外国送金受領証が同社の業務の通常の過程で正規に作成されたものであるか疑念があり、したがって、本件の外国送金受領証に証拠能力を付与し、これを事実認定の用に供した原判決の判断には誤りがある。<4>本件の外国送金受領証記載の金銭がクラッターに送金されたとすれば、他の関係証拠との間に矛盾が生ずる。すなわち、クラッターの「摘要」中の収支控帳写し(甲一196)には、本件五億円の第一回目の支払いがなされたという昭和四八年八月一〇日の前に、同年七月二三日一億円、同月二四日から同年八月八日までの間に七回に分け合計一億円以上合計二億円が受取勘定として記載され、LAIからクラッターあての同年七月一六日付一億円の外国送金受領証(甲再一4)、LAIAGからクラッターあての同月一八日付一億円の外国送金受領証(甲再一5)と対比すると、右時期にLAI及びLAIAGからクラッターあてに各一億円が送金されているように見えるが、一九七四年一月九日付クラッター発シャッテンバーグあての書簡(クラッター副証七号)によると、クラッターは一九七三年六月一四日以降同年一一月まで、LAIから送金を受けていないことが明らかであり、クラッターは右書簡の中で「私の手許に他のロッキードの所有する円を持っていますが、これはLAIから提供されたものではありません。」と付記しているのであって、そうだとすれば、前記外国送金受領証によってLAIからクラッターに送金されたとされている一億円がどこに行ったのか不明となり、このことは、外国送金受領証の存在が実際にクラッターに送金されていることを裏付けるものでないことを示し、ひいては、他の外国送金受領証についても同様の疑念を抱かせるとともにこれらの外国送金受領証がロッキード社の資金操作のために作成されたことを裏付け、かつ、クラッターの収支控帳写しの二億円受領の記載が真実に反し、同記載の支払いが原資不足でなし得なかったはずであることを示している、と主張し、第二に、クラッターの収支控帳写しの証拠能力及び信用性につき、原判決は、クラッターの収支控帳写し(甲一196)を刑訴法三二三条二号に該当する書面として採用し、その記載が信用できることを前提として、「クラッター作成の摘要の特別勘定写しには、一九七三年七月二三日から一九七四年二月二八日まで一九回にわたり合計五億五、六〇〇万円の入金があった旨の記載があるところ、クラッターの供述、外国送金受領証写し等をもあわせ考慮すると、これらの記載は、本件授受に充てられるべき現金が、ロッキード社からクラッターのもとに送金されたことを裏付けるものと認められる。」旨判示し、かつ右収支控帳写しの信用性を認めた論拠として、<ア>クラッターが右記載の正確性を保証する供述をしていること、<イ>右記載は前記外国送金受領証及びクラッターに対する嘱託証人尋問調書六巻添付の副証一八号中のクラッター作成にかかる領収証写しのような客観的証拠とよく符合していること、<ウ>収支控帳写しの収支勘定の記載は、それ自体よく整っており、記入の継続性等にかんがみ記載内容に不自然な点が認められないこと、並びに、<エ>クラッターは、ディーク社から金銭を受領した場合、自らメモ領収証を発行し、また支払の相手方から徴した領収証はこれを米国のロッキード社の財務担当者に送付しているので、クラッターの経理処理に不正確な点があればこれらの領収証との不整合などにより不正が判明することが予想され得たから、クラッターとしては、その保管する資金の管理や勘定の記載に正確を期さなければならない立場にあったことを挙げているが、収支控帳写しの証拠能力及び信用性を認めロッキード社からクラッターに送金された事実を認定した原判決の判断には誤りがある。すなわち、<1>いわゆるクラッターの収支控帳は摘要と称され、その言葉RECAPITULATIONの意味に照らすと、クラッターが何かをもとにして適宜抽出し要約して作成したものというべきであるが、刑訴法三二三条二号が「業務の通常の過程で作成された書面」に特に証拠能力を認めているのは、この種書面は、いつ、誰が、何の目的で作成したのかが書面それ自体から明らかで、作成者による人為的操作が入り込む余地が極めて少ないことなど、作成手続に高度の信用性があることによるものであり、クラッター自身、収支控帳は「個人的な記録にしようとして作成した」旨述べて業務の通常の過程で作成されたものでないことを認め、かつ、書面自体から、いつ、何のために作られたものであるのか明らかでなく、抽出要約の根拠となるべき「もとになる記録」の存在さえ明らかでないため人為的操作が加えられているか否かも確認できないこと等にかんがみると、かかる文書に証拠能力を付与することはとうてい許されない。<2>また、問題は、収支控帳が提出されるに至った経緯の不明朗さにある。クラッターは、嘱託証人尋問に応ずる前、SECやチャーチ委員会など米国の公的機関から対日工作資金などについて調査を受けながら、その資金の出納記録であるという収支控帳を右いずれの機関にも提出せず、その後、昭和五一年九月二一日、本件嘱託証人尋問に際しはじめてそのコピーを提出したのであり、もし収支控帳が真実の資金の出納を正確に記録したものであるならば、その提出を躊躇する理由はなく、これを各委員会に提出しそれに基づき説明するのが当然であると考えられることにかんがみると、これをしなかったのは、もしクラッターが各委員会にこれを提出した場合には、これら委員会が保持しているロッキード社の記録とのそごが暴露され、収支控帳の記載内容が虚偽であることが明らかにされることをおそれたためであり、ロッキード社に対する調査権限のないわが国司法当局の嘱託証人尋問手続において、免責のうえ証言するに際しこれを提出したのは、それ以上米国の公的機関による徹底した調査が行われることはなく、その記載内容の虚偽性が暴露されるおそれがないと考えたことによるものと思われ、また、クラッターは、収支控帳をロッキード社にも提出しておらず、かつ、ニューマン委員会の事情聴取にも応じていないのであるが、このことは、収支控帳の虚偽内容が露見することをおそれたことによるもので、このような収支控帳が提出された経緯の不明朗さに照らすと、その記載内容に虚偽が含まれていることを十分うかがい知ることができる。<3>原判決は、収支控帳写しの記載と外国送金受領証及びクラッター作成の資金領収証とが符合する旨判示しているが真実に反する判断である。すなわち、収支控帳写しの記載の一部(一九七二年九月二一日三、〇〇〇万円受領、一九七三年一二月四日三、〇〇〇万円受領、一九七五年五月六日八、一三四万円受領)には、これに対応する外国送金受領証の裏付けを欠いており、これらの資料は、原判決がいうように、単に、「クラッターに対する嘱託証人尋問の際等に顕出されていないというだけで、それらの資料がおよそ存在しないと断定できるわけではない。」というようなものではなく、送金者とされているロッキード社側の記録中に全く含まれていないとされているものであって、たとえ全体の中のごく少数の記載の一部分にすぎないものであるとしても、合計一億四、一三四万円もの取引についての裏付けとなる送金資料を欠いているということは、収支控帳の記載の信用性を否定するに足る事情というべきであり、ニューマン報告書が「クラッターが保有していた円の在庫についても、ロッキード社の帳簿にはなんらの記録もなかったことは注目されなければならない。」と指摘していることは、収支控帳の記載と送金者であるロッキード社側の記録が全く食い違っていることを端的に示していると言っても過言でなく、単に収支控帳の記載と送金資料の不突合というにとどまらず、ニューマン委員会が外国送金受領証全体を含む対日送金資料の信用性を否定する決定的な証拠をつかんだことを示していると言わざるをえない。また、原判決が挙示する資金領収証は香港ディーク社からの送金を裏付ける資料とはいえない。すなわち、保世新宮の証言によると、同人が香港ディーク社の指示で日本円をクラッターに渡した際同人から受領した領収証は、「計算機によって金額が打ち出された紙片で、それに日付と特注のサインがあるもの」とされているのに、原判決が示すクラッターの領収証(クラッター副証一八号の一部)はメモ用紙に「ピーシズなどの符号で表示した金額を受領した旨を手書きし、日付と署名が記入されている」手書きのメモ領収証であり、両者は異なるものであって、右クラッターのメモ領収証が香港ディーク社からの送金を受領した際同人が作成交付したものでないことは明らかでこれがクラッターヘの送金事実を裏付ける資料となり得るものではない。なお、右メモ領収証は一九七三年五月及び六月の二ケ月間のものに限られ、この間に受領したとされている合計四億四、〇〇〇万円の資金は、収支控帳に穴埋め資金と記載されているものであるが、児玉誉士夫に渡された小切手が盗難にあいその穴埋めの資金が交付されたという話は、それ自体不自然な点が多くその真偽は立証されていないのであるから、極めて特殊かつ限定された時期の右領収証の存在をもって収支控帳写し全体の信用性を裏付ける客観的証拠ということはできない。<4>更に収支控帳の記載の受領欄の数字は、他の証拠すなわちシャッテンバーグの一九七二年一〇月一六日付クラッターあて書簡(クラッター副証二号)に添付されている算出表記載の数字と全く一致していない。例えば、<ア>一九七二年の送金状況について、シャッテンバーグの算出表には、同年二月三日から同年一〇月一七日までの間に合計八億四、五〇〇万円、同年一一月一五日ディーク社の小切手で一億七、五〇〇万円がクラッターの取得分として計上されているのに対し、クラッターの収支控帳には、同年度の受領分は、六億四、九六〇万円(同年一一月三日及び同月六日のスイスフラン、米ドルによる小切手分を除く。)しか計上されていない。<イ>シャッテンバーグの算出表によると、一九七二年一〇月一七日送り状が作成され同月二〇日ころ受領されたはずの一億七、五〇〇万円(五八万〇四三二ドル)について、クラッターの取得分として計上されているのに、クラッターの収支控帳には右金銭の受領をうかがわせる記載はない。このような違いがあることは、収支控帳が他の客観的証拠と符合する旨の原判決の判断が誤っていることを示している。<5>原判決は、収支控帳の記載には整合性継続性があるとしているが、それはもとになる記録から抽出要約して作成された書面であるから、もとになった記録の原本と対照することなくして記載の正確性や作成の無作為性を判断することはできないし、また、収支控帳の原本が顕出されずそのフォトコピーが提出されているにすぎない本件においては、どのような用紙に、どのような筆記用具を用いて、どのように記入したのか、記載の継続性を判断する手がかりとなる記載状態自体を確認することができず、クラッターが真実の出納のみを抽出して記入したのか、それとも真偽おりまぜて適当に記入したのか、いずれとも判定することができないのであるから、その整合性や継続性を検討すること自体、何の意味もない。それのみならず、収支控帳中の一九六九年一月六日の資金受入欄に、二、〇〇〇万円を受入れた記載があるが、これは、一九七二年一〇月一六日以降の時点において行われたシャッテンバーグとクラッターの打合わせに基づき、一九六九年八月六日から一九七〇年二月二八日までの収支に関し、最終的に発生している合計二、〇〇〇万円の原資不足を補うため、一九六九年一月六日に二、〇〇〇万円の資金の受入れがあったことにして、つじつまを合わせるために記載されたものであり、シャッテンバーグはクラッターあての書簡(クラッター副証二号)において、これらの資金の出所はディーク社以外のところに求めなければならず、そのように処理するよう通告し、クラッターはこれを受けて右のとおり受入れの処理をしたものである。この点について、原判決は、「シャッテンバーグは、右二、〇〇〇万円の取得に対応するディーク社の送金受領証が存在しない旨述べているにすぎず、右資金の受入れがおよそ架空であるとまで述べているのではない。」と判示しているが、シャッテンバーグは、「これらの資金の出所はディーク社以外のところから求めなければならない。」と指摘しているのであり、同人がこのような指摘をしたのは、原資不足のつじつまを合わせるため架空の資金受入れをすることを前提としていることに疑いを入れる余地はなく、もしそれが実際に受入れられた資金であるならば、それがどこからきたのか出所がわからないということはあり得ないことで、ましてその出所をディーク社以外に求めなければならないと指摘する必要はなかったはずであって、原判決の右判示はシャッテンバーグの書簡の趣旨を誤解したことに基づく誤った判断である。また、原判決は、「クラッターもシャッテンバーグに対する返書の中で、右二、〇〇〇万円の取得は真実なされたものであるとの趣旨を述べている。」と判示しているが、クラッターが、右返書に「私の記録には資金の供給者を示唆するものはない。」と記述し(クラッター副証三号)、もし、仮に、それが実際に受入れた資金であったとすれば、それがどこからきたのかわからないということはあり得ないことに徴すると、クラッターもそれが架空の資金受入れであることを明らかにしているというべきで、原判決の右判示も、クラッターの返書の趣旨を取違え、誤った判断をしていることは明らかである。なお、ニューマン報告書には、シャッテンバーグのクラッターあて書簡添付の算出表について、「クラッターによって報告された支払金と円購入の帳尻を合わせようとするシャッテンバーグの試みにおけるプラグ(くさび)を意味している。」との指摘がなされており、同委員会の調査結果も右書簡の趣旨が原資のつじつま合わせであることを明らかにしている、と主張し、更に第三に、仮に、ロッキード社からクラッターにあてなんらかの資金が送付され、同人がこれを保管していたとしても、ロッキード社は、L一〇一一型機の売込みだけでなく他の製品の売込みを含め多くの活動を日本で行い、東京事務所の一般経費、L一〇一一型機売込みの通常経費、L一〇一一型機以外の製品(例えば、F一〇四型機、P2・P3シリーズ等の製品、特に一九七三年以降はL一〇一一型機以外の製品の売込みに主眼が移り、とりわけP3C対潜哨戒機の売込みが活発化していた。)の売込経費等多種多様の費用を要していたのであるから、これらの所要経費がクラッターにあていろいろな形で送金されていたものと思われるところ、これらの資金の入金、管理保管、帳簿処理、支出等の状況が客観的資料によって明らかにされ、その中で本件の五億円の送金及び受領の状況が具体的に特定されないかぎり本件五億円の出所が明確にされたとは言えず、クラッターが本件の金銭の支出をなし得たと認定することはできないはずであるのに、原判決は、かかる検討をしないまま真偽の疑わしい資料に基づいて不合理な証拠判断をしている、と主張している。

そこで、記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果を加えて検討する。

一  「外国送金受領証(写)」について

原判決が、ロッキード社において本件の賄賂である五億円を調達し東京在住のクラッターに送金した事実を認定するに当たり、証拠に供した外国送金受領証写し六通(甲再一4ないし9)は、いずれもロスアンジェルス・ディーク社発行にかかるもので、送金先はいずれも東京のクラッター、送金依頼者、作成日付及び送金額は、<ア>LAI、一九七三年七月一六日、一億円、<イ>LAI及びLAIAG、同月一八日、一億円、<ウ>LAIAG、同年八月七日、一億円、<エ>LAIAG、同年九月二〇日、一億六〇〇万円、<オ>LAIAG、一九七四年一月四日、一億二、五〇〇万円、<カ>LAIAG、同年二月二〇日、二、五〇〇万円という内容のもので、かつ「顧客用領収証」(カストマーズ・レシート)と記載されているものである。右顧客用の外国送金受領証写しは、米国司法省からわが国に提供された資料の一部で(甲四5)、チャーチ委員会が、ロッキード社もしくは同社に雇われている独立の会計監査会社であるアーサー・ヤング会計事務所から入手し、一九七六年二月四日同委員会の公聴会の席上公表した外国送金受領証の写真複写であり(甲四8)、東京地方検察庁がこれと同一の写真複写を送付し国際刑事警察機構を通じて依頼した捜査に際し、送金受託者で右外国送金受領証の発行者であるロスアンジェルス・ディーク社の副社長兼支配人トーマス・F・ケリーは、その原本が同社の業務の通常の過程で作成されたことを確認している(甲四10及び11)。また、東京地方検察庁は、右顧客用領収証写しのほかに、米国司法省を介し、SECがロッキード社から押収した右受領証と同一形式、同一内容の「会計用控」(アカウンティング・コピー)又は「保存用控」(ファイル・コピー)と記載されている外国送金受領証の写真複写を入手しているが(甲四5)(なお、これらの顧客用領収証、会計用控、保存用控の三種類の書面は、それぞれ相応する写しを対照してみると、いずれも不動文字で印刷された書式、書類番号、タイプで打込まれた活字及び内容、活字の字くばり位置関係など記載内容がすべて完全に一致し、三枚一組となって同時にタイプで印字して作成されたものと認められる。)、右会計用控又は保存用控の受領証がロッキード社から押収されているのは、同社の系列会社であるLAIがロスアンジェルス・ディーク社にその送付方を依頼し、同社がこれに応じて送付し、ロッキード社がその原本を保持していたことによるものであり(甲四9)、その後、SECは押収した右原本をロッキード社に返還していたところから、東京地方検察庁は入手していた写真複写と同じ写真複写を米国司法省検事を通じてロッキード社に送付したうえ(ただし、甲再一9に相応するものは含まれていない。)同社保管の右原本との対照を求め、同社の首席法律顧問ジョン・H・マーチンにより右写しが原本の正確な写しであることの確認を得ている(甲四一<1><2><3>及び甲四5)。以上の事実に照らすと、本件外国送金受領証写しにはいずれもこれに相応する原本が存在し、かつその正確な写しであることが優に認められる(なお、甲再一9に相応する会計用控については、ロッキード社保管の原本と照合するに当たり、それが誤って送付されず、したがってその確認はなされていないのであるが、現に右会計用控の写真複写が存在すること並びに右の諸事実にかんがみると、他の五通と同様これに相応する原本が存在しかつ右写しがその原本の正確な写しであることが容易に推認できる。)とともに、右受領証に書類の一連番号、日付のほか送金者、金額(ドル)、送金額(円)、送金先、送金先に交付する際の注意事項、送金方法、通貨換算率などが委託に応じて記入され、問合わせにはこの受領証を必要とする旨の記載がなされているその形式内容に照らすと、本件の外国送金受領証は、単に領収証であるだけでなく、委託に際し作成される注文伝票ないし送金伝票の性質をも有するものであり、これに相応する会計用控や保存用控がディーク社に保存されていたこと及び後記のとおり右外国送金受領証の記載がこれに相応する送金事実を裏付ける関係証拠と符合すること、またこれと同種の外国送金受領証に基づきクラッターに送付された金銭の収支に関し、クラッターとLAIの経理担当者シャッテンバーグとの間で突合がなされていることを併せ考えると、本件外国送金受領証写しは、ロスアンジェルス・ディーク社の業務の必要からその通常の過程で、取引のつどその内容を記載して作成した商業上の書類の正確な写しで、その性質上一般的に虚偽の入り込むおそれは少ないというべきである。してみると、原審裁判所が、本件外国送金受領証写し六通を、刑訴法三二三条二号に該当する書面として、これに証拠能力を認めた点に誤りはない。ところで、コーチャンは、嘱託証人尋問において、本件五億円をクラッターに対しどのようにして引渡したかについて「当時、通常のやり方は、東京における支払いのため、ディーク・アンド・カンパニーから円を買っていた。」と述べており、また、クラッターは嘱託証人尋問において「一般的に言えば、私はカリフォルニアから合計いくらの円の買注文を出したので、何日ないし何週間後に届けられるはずであると知らされ、そしてディーク社の誰かから電話連絡がきた。多くの人がいるが、そのうちの誰かが札束を届けると連絡してくるので、私はそれを受取るため、いつ、どこで会うと決めるのが普通であった。」と述べている。また、当審で取調べたニューマン報告書(正式にはロッキード航空機株式会社取締役会調査特別委員会報告書と言い、ロッキード社が同社の海外における不正支払につき調査するため、同社内に調査委員会〔「ニューマン委員会」という〕を設置し、その調査結果を報告し公表したもの。)によると、L一〇一一型機の販売に関連する日本円の蓄積について、同報告書は「当委員会の調査結果では、ロッキード社の日本における第三者への支払いは、日本でのロッキード社の販売活動と関連して早くも一九五八年に始まっていた。受取人の強い希望で支払いのすべては円通貨で行われた。-中略-一九六九年に、ロッキード社は、日本の航空会社にL一〇一一型機販売キャンペーンを開始した。この計画に関連して日本の第三者に対する現金の意図的な支払いはその頻度及び金額ともに増大しはじめた。一度に必要な額の円を確保することが必ずしも可能ではなかったので円の在庫を常時つくっておくことになり、それは、ロッキード・アジア社社長J・W・クラッターの東京事務所に蓄えられた。クラッターは、バーバンクのLAIの財務担当E・H・シャッテンバーグに対し、指定された日までに東京で引渡しができるように必要額の円を購入するよう指示を与えていた。シャッテンバーグは、東京で引渡すためにディーク・ロスアンジェルス社から円を購入していた。この円の購入はロッキード・インターナショナル社(LAI)によって行われ、次いでLAIは会社相互間のチャージを通してロッキード・カリフォルニア社によって補填してもらっていた。一九七〇年にはその額が非常に多くなったので、シャッテンバーグはこれらの取扱いについて、クラッターより上席の役員の承認を求める必要があると感じてコーチャンに連絡した。コーチャンは円購入の継続を許可した。その時から以後は、コーチャン又はバローのいずれかがシャッテンバーグに円購入の許可を与えるのが普通の手続となった。一九七三年七月から、シャッテンバーグは、引続きディーク・ロスアンジェルス社を通して円購入の指示を行ったが、円購入の支払いの方はスイスのバーゼルにおいて、ロッキード・インターナショナル(ジュネーブ)社(LAIAG)からディーク極東社に対して行われた。スイスにおけるディーク社への支払いは、バローからの指示に基づいて、LAIAGの役員が許可した。日本では、円はエリオットかクラッターのいずれかに届けられていた。クラッターは当委員会のインタービューに応じなかったけれども、エリオットは東京における円の受取りの手続を説明した。誰であるかわからない人たちが、エリオットをホテルに訪ね、幾つかの「ピーシズ」又は「データ」を渡したいと告げた。これらの人々はついにその氏名を突止めることができなかったが、その時、新聞紙に包んだ円の一包みをエリオットに直接手渡した。正式な領収証は要求されなかったが、ときにはエリオットはその新聞紙の端をちぎって数字とイニシァルを書きつけたこともあった。エリオットが日本の航空会社の役員に直接手渡した二度の支払いを除いては、エリオットはその円をクラッターに渡し、クラッターはそれをロッキード社の東京事務所の鍵付きのファイルキャビネットに保管した。したがって、クラッターは東京事務所内に保管されている在庫からの円の支払いについての責任者であった。クラッターは合衆国を訪問している間に、円の支払いを証明する領収書を提出した。」と報告している。また、本件外国送金受領証写し(甲再一4ないし9)とクラッターの収支控帳写し(甲一196)(なお、その収支の記載は「LAC(ロッキード・エアクラフト・カリフォルニア社の意と解せられる)プログラム」として一九六九年六月一九日から記載が始められ、右ニューマン報告書と符合する。)とを対比して検討すると、一九七三年七月一六日付一億円の外国送金受領証(甲再一4はその写し)が発行される直前の収支控帳の記載は、同年六月一四日の時点で残高が八〇〇万円となっており、それ以降の記載を対比すると後記対照表のとおりであって、本件各外国送金受領証写し記載の送金額がクラッターに交付され収支控帳に受入れられていることがわかる。なお、保世新宮は原審公判廷において証人として、また同人の秘書であった佐敷多賀子は当審において取調べた同人の検察官に対する供述調書において、昭和四七年秋ころから、香港に事務所を有するディーク極東社の指示のもとに、同社が日本において行っていた非合法の為替業務に従事していたが、およそ二年ほどの間に保世は少なくとも四回多くて一〇回くらい、また佐敷は四回ほど、同社が派遣した者から受取った日本円の現金をクラッターの自宅又はロッキード社の東京事務所で同人に手渡した旨供述している。

<関係資料<省略>>

以上のとおり、本件外国送金受領証写しの内容は、これらの関係証拠と符合し、その信用性を十分肯認できるのであって、この点の原判決の証拠評価にも誤りは認められない。しかして証拠関係を総合して検討すると、本件外国送金受領証により、ロッキード社がロスアンジェルス・ディーク社に対してなしたクラッ夕ーあての合計五億五、六〇〇万円の送金委託は、同社の系列会社であるディーク極東社が日本円を調達したうえクラッターに交付することにより確実に履行されたことが明らかである。

所論は、本件外国送金受領証写しに印刷されている「受領した」(Received)の文字が抹消され、代りに「支払いを待つ」(We Await Payment)と記入されていることから、右受領証は領収証として作成されたものではなく、またその支払いがなされた事実を認めるに足る証拠はない旨主張する。なるほど、「受領した」旨の文字が抹消され、「支払いを待つ」旨記入されていることは所論のとおりであるが、チャーチ委員会の前記公表資料やロスアンジェルス・ディーク社からLAIのシャッテンバーグに送付した資料によると(甲四9及び10)、ロッキード社とロスアンジェルス・ディーク社との間の外国送金委託取引は、本件の六通分のみでなく、それ以前から長年にわたり多数回継続的に行われており、両社の信頼関係は深かったものと認められ、かつ、前記のとおり外国送金受領証が注文伝票ないし送金伝票の性格をも有していることにかんがみると、ディーク社はロッキード社からの注文を受けて直ちに右外国送金受領証を作成したが、その時点では送金資金の決済が未了であったため右文言の訂正が行われたものと推認されるのであって、前記のとおり右外国送金受領証に見合う送金がなされた事実を裏付ける証拠が多数存在し、前記ニューマン報告書も資金の決済を裏付ける報告をしていることに徴すると、右払込みを証する資料が提出されていないとしても、その決済は別途銀行振込み等の方法でなされていることが容易に推認できるのであって、所論指摘の文言の訂正があるからといって、右受領証が架空のものであるということができないばかりでなく、送金の事実を認定する妨げとなるものではなく、むしろその存在は、他の証拠と相まって、右受領証に記載されている日本円がロッキード社からクラッターヘ送金されたことの動かしがたい証拠となるものである。

また、所論は、本件外国送金受領証写しの記載によるとその送金方法はいずれも電信送金と指定されており、原判決が認定している香港ディーク社の運び人による現金送金と異なり、仮にクラッターが現金を受取った事実があるとしても、右外国送金受領証に基づく送金取引とは関係がない旨主張するが、外国送金受領証には、送金方法として「By□Air□Mail□Cable 」と印刷され、航空便による送金か電信送金かのいずれかを 内にチェックする方法で指定する方式がとられ、右各受領証にはいずれもバイ・ケーブルの欄の□内に「×」印を記入してその方法が指定されているところ、クラッターの嘱託証人尋問における供述により明らかなとおり、本件の外国送金受領証に基づき送金される金銭は、ロッキード社の東京事務所の正規の会計勘定に計上されるものではなく、わが国における為替管理をくぐり現金で極秘のうちに送金されなければならないものであったことから、事柄の性質上、書類上にその方法を具体的に記載することができなかったと考えられ、右の記載は航空便による方法以外の方法で送金を行う趣旨で記載されたものと解するのが相当であり、右記載と現実の送金方法との間に形式的に違いがあることの一事をもって右外国送金受領証の証拠価値を否定することはできない。

更に、所論は、本件の外国送金受領証写し六通は、ロッキード社のシャッテンバーグの要請により、ロスアンジェルス・ディーク社のケリーから同人あてに送付された「一九七三年五月から一九七四年一二月までの作成日付の外国送金受領証合計一九通」の一部であり、顧客用領収証、会計用控、保存用控、三種類全部の原本が一括して作成日付後半年ないし二年を経て送付され、ロッキード社において保管されていたものであって、同社がSECの調査を受けるに当たり、会計上の操作をするため外国へ送金したような資料を必要とし、これをディーク社に求めた仮装のものであるというのである。なるほど、外国送金受領証に三種類のものがあることは所論のとおりであり、外国送金受領証の記載の様式、内容及び形状等に照らすと、右三種のものはこれが一組を形成し、送金依頼者から注文があった場合、三枚一組にして同時に各所要事項をタイプで打込み印字し、各用紙の下欄に記載されている用途に従い、顧客用領収証は依頼者に交付し、会計用控と保存用控はロスアンジェルス・ディーク社に保管すべきものであるということができる。しかしながら、チャーチ委員会が召喚状によりロッキード社ないし同社から雇われている独立した会計監査会社であるアーサー・ヤング会計事務所から提出を受け公表した本件の外国送金受領証六通を含む二八通の外国送金受領証は、一九六九年六月一一日から一九七五年六月三〇日までの作成日付のあるもので、そのうち一九六九年六月一一日付、同年一一月二五日付、一九七〇年四月二三日付、一九七一年一月一九日付の四通が保存用控であるほか、一九七二年二月三日以降一九七五年六月三〇日までの作成日付の分はすべて顧客用領収証であり(甲四8及び10)(なお、右四通の保存用控が提出されているのは、発行後相当期間が経過していたため、ロッキード社で保管していた顧客用領収証を紛失し、改めてロスアンジェルス・ディーク社から保存用控の交付を受けたことによるものと考えられる。)、これに対し、一九七五年六月二七日付書簡とともに、ロスアンジェルス・ディーク社のケリーがシャッテンバーグに送付した所論指摘の一九通の外国送金受領証は、一九七三年五月一一日から一九七四年一二月五日までの日付のもので、ロスアンジェルス・ディーク社に保管していた会計用控又は保存用控であって、召喚状によりSECがロッキード社から提出を受けたものであり(甲四9、甲四1<2>。なお、甲四1<2>中には、一九七三年五月三一日付及び一九七四年七月一六日付の顧客用領収証各一通が含まれているが、右各領収証にSECが押収したことを示す同委員会の印が押捺されていないことに徴すると、右領収証はSECがロッキード社から提出を受けたものではなく、チャーチ委員会が入手し公表した顧客用領収証の一部であることが認められる。甲四1<1>、甲四5、甲四8ないし11参照。)、両者の間には作成日付、数量に差異があり、特にチャーチ委員会に提出されている一九七二年中の作成日付のある分七通及び一九七五年中の作成日付のある分二通、合計九通の各顧客用領収証に相応するものは、ケリーが送付した中に存在しないこと(なお、一九七五年六月三〇日付のものは、ケリーの送付後のものである。)、また、前記ニューマン報告書によると、一九七五年六月初、ロッキード社が不正な支払いをしているということが新聞紙上に報道され、その有無につき、ロッキード社と同社の会計監査を担当していたアーサー・ヤング会計事務所の共同調査が行われることになり、同じころロッキード社はSECの調査を受けることになったことが認められること等にかんがみると、これらの調査のために必要があるとして、ロッキード社(シャッテンバーグ)においてロスアンジェルス・ディーク社保管の「会計用控」「保存用控」の送付を求めたものと推認できる。してみると、ケリーが送付した外国送金受領証の中に顧客用領収証が含まれていたことを前提とする所論は立論の前提を欠くこととなり、右顧客用領収証は、いずれも、もともとそれが作成された時点に送金依頼者であるロッキード社に交付され、同社においてこれを保管中チャーチ委員会の調査を受け、同社ないしアーサー・ヤング会計事務所から同委員会に提出されたものと認められるのである。

所論は、また、本件外国送金受領証写しのうち、一九七四年一月四日付一億二、五〇〇万円の分については、他の領収証と異なり、ケリー以外の者が署名しているので、その作成経緯に疑念があるというのであるが、右外国送金受領証がロスアンジェルス・ディーク社発行のものであることはその書面自体の様式から明らかであり、書類番号、記載の形式、内容、状況などの点において他の外国送金受領証と異なるところはなく、所論指摘の署名がケリー以外の者によってなされているとしても、同社の業務が同人一人でなされているわけでなく、同人以外の者がその業務の処理に当たることは十分あり得ることであるから、同社の他の者が署名したからといってなんら異とするに足らず、前記のとおり、右外国送金受領証が同社の業務の通常の過程で作成されたものであることがケリーによって確認されていることに照らしても、その作成の経緯に疑念をさしはさむ余地はない。

所論は、一九七四年一月九日付クラッター発シャッテンバーグあて書簡(クラッターの嘱託証人尋問調書七巻添付の副証七号)の記載内容に照らすと、本件外国送金受領証が存在するからといって、同受領証記載の金銭が、実際に、クラッターに送金されていることを裏付けるものではないともいうのであるが、右クラッターの書簡には「この手紙は、一九七三年の円の取引及び一九七三年一二月三一日現在の私の手持ち残高に関する貴方の一九七三年一一月二六日付の手紙に対する返事です。」との記載に始まり、「貴方の手紙にある数字は正確です。つまり一九七二年一二月三一日現在で私は一五、〇〇〇、〇〇〇円を持っていました。一九七三年における取引は以下のとおりです。」との記載があって、一九七三年における受領分として、同年一一月三日五、三〇〇万円(二〇万ドル)、同年一二月四日三、〇〇〇万円を挙げているだけで本件外国送金受領証写しに相応する送金分を挙げていないのであるが、右冒頭の書出し部分や右記載の後に「もちろん、私は手許に他のロッキードの所有する円を持っていますが、これはロッキード・エアクラフト・インターナショナル・インコーポレイテッドから提供されたものではありませんし、これについては、L・T・バロウに計算を出します。」との記載があること、クラッターが挙げている二回の受領分には、関係証拠を検討すると、これに相応する外国送金受領証が存在せず、クラッターの嘱託証人尋問における供述及び収支控帳写しの記載(受領金額の横に交付者とみられる「EHS」「AHE」の記載がある。)によると、右受領分は、ディーク社を通さずE・H・シャッテンバーグ及びA・H・エリオットから直接受領したと認められ、他の受領分と受領の方法が違っていること、クラッターの収支控帳写しには、一九七三年中の受領分として本件外国送金受領証分を含むロスアンジェルス・ディーク社の外国送金受領証に相応する多数の受領の記載があることなどに照らして考えると、シャッテンバーグとクラッターとの右往復書簡によって照合された円取引の対象は、特定の一部に関するものに限られていたと推認されるから、副証七号のクラッターの書簡に本件外国送金受領証写しに相応する取引の記載がないからといって、所論の主張を肯定することはできないばかりでなく、むしろ右書簡の存在は、ロッキード社からクラッターにあて多くの送金がなされていた事実があるというクラッターの供述の真実性を裏付けるものというべきである。

二  「収支控帳(摘要)(写)」について

関係証拠によると、ジョン・ウイリアム・クラッターは、一九七二年以前においては、ロッキード・エアクラフト社の系列会社であるロッキード・エアクラフト・インターナショナル・インコーポレイテッド(LAI)の社員兼ロッキード・エアクラフト・インターナショナル・リミテッド香港会社社長の地位にあり、また一九七二年ころ以降は、そのころ設立されたロッキード・エアクラフト・アジア・リミテッド社長の地位にあり、その職責上、ロッキード社が製造する航空機等の製品を日本に向け販売するため、同社の日本における秘密代理人を雇い、これに支払う報酬等の収支の管理に関する業務をも取扱っていたのであるが、一九六九年六月から始まったL一〇一一型機の対日販売工作資金(主として秘密代理人児玉誉士夫に対する報酬の支払い)に関し、業務上、ロッキード社の系列会社から送金されてくる資金の受領、保管、並びにその支払いを行い、その収支関係を明確にするため、受領及び支払いのつど、特別の勘定として継続的に記帳し、自らこれを保管していたことが認められる。右特別勘定の収支を記録した書面が本件の収支控帳写し(甲一196)であるが、右特別勘定は、その資金が、対外的に公表することがはばかられる性質のものであったため、ロッキード社の東京事務所で取扱う正規の経費の出納を担当する経理係にその事務を委ねることができず、クラッターが自らこれを担当することにしたもので、右特別勘定の記帳の目的に照らすと、収支のつど継続的かつ正確に記載されなければならない性質のものであり、また、右の収支に関しては、LAIの経理担当者(シャッテンバーグはその一人)と連絡をとり、資金送金の連絡を受け、送金された資金を受領した後は、これを支出した場合その証拠資料(領収証)を右経理担当者に送付し、書簡による連絡やクラッターが帰米した際担当者と面会するなどの方法で随時収支の明細についてクラッターの収支控帳の記載とLAIの資料と照合し、その経理の監査を受けていたのであって(クラッター副証二号シャッテンバーグの書簡、同三号同七号クラッターの各書簡、同一八号クラッターが送付した領収証、甲再一41中一九七三年八月九日付伊藤宏のピーナツ領収証の「原本はE・H・シャッテンバーグヘ」という記載、クラッターが送付した領収証と特別勘定の支払いを照合し支払いに相応する領収証が存在することをチェックした印としての収支控帳上の「/」記号の記載、クラッターの嘱託証人尋問調書)、特別勘定の収支管理に不正がないことを証明するうえからもその記帳が正確に行われる必要があるとともに、右監査によってその正確性が組織的に担保されていたのであり、右収支に関する東京における会計帳簿は右収支控帳以外に存在せず、右収支控帳は常時使用されていたため古くなって折り目がすり切れている状態にあり、表題に「特別勘定」と記載され、かつ、収支の日付、受領、支出、残高、収支に関する記事の要点等が日を追って順次継続的に記載されている。以上のような諸事情に照らして考えると、クラッターの収支控帳は、L一〇一一型機の対日販売工作のための特別資金に関する収支につき、同人が職責上、業務の通常の過程で作成した経理帳簿でその記載の正確性が組織的に担保されていたものと認められ、その性質上、虚偽の記載がなされるおそれは一般的に少ないものというべきであるから、これに刑訴法三二三条二号に該当する書面として証拠能力を認めた原審裁判所の判断に誤りはない。また、その記載内容は、右作成の経緯並びに関係証拠とよく整合していることに照らして考えると、その信用性を十分肯認できるのであって、この点の原判決の証拠評価にも誤りは認められない。

所論は、右特別勘定の収支を記録した書面が摘要「RECAPITULATION」と称されているその語意にかんがみると、それは何かの記録からクラッターが適宜抽出して要約した記録であるとの見解を前提として、本件においては、その「もとになる記録」が、いかなるものであり、どのようにして作成されたものであるか明らかにされていないから、その要約にすぎない収支控帳写しに証拠能力を付与することは許されないと主張するのである。なるほど、クラッターが嘱託証人尋問において、右収支を記録した収支控帳を摘要「RECAP」と称していることは所論のとおりであるが、右嘱託証人尋問調書(三巻、四巻)、同調書四巻に添付されている副証二七-D号、検事堀田力作成の昭和五一年一〇月一二日付捜査報告書(甲四31)及びクラッターの収支控帳写しによると、「摘要」と称されているものは収支控帳のみでなく、副証二七-D号の書面全体であり、その中には伊藤や大久保が作成した本件のピーナツ・ピーシズ領収証四枚、ユニット領収証二枚のゼロックスコピーその他前記資金の収支関係書面が含まれており、これらの書面が包括して「摘要」と呼ばれているのは、これらの書面を一括して入れた封筒に「RECAP」と記載されていることに由来するもので、右収支控帳には「特別勘定」という表題が記載されているのであって、それ自体に「摘要」なる表示があるわけではない。のみならず、RECAPITULATIONなる言葉の意味を、所論のように一義的に解さなければならない理由のないことは、クラッターに対する嘱託証人尋問において、クラーク検事が、In lieu of taking it step by step by questinon, could I ask just to give a short recapitulation of your employment history with Lockheed. (三巻六九頁)と質問している中での用語例や、ウェブスターの辞書に示されている用語例に照らしても明らかであり、クラッターが使用している右言葉の意味は、物事や事象の要点をとりあげて記録したもの、本件の収支控帳に即して言えば、資金の受入、支払いについて、その発生の年月日、金額、支出原因の要点など収支の実態を明らかにする必要最少限度の最も重要な事項をとりあげて数字と記号で要約的に記録したものとの趣旨に理解できるのであり、本件記録を精査しても、前記資金の東京における収支勘定を記載した「もとになる帳簿」類の存在を疑わしめる資料はなく、クラッター自身、右摘要中の特別勘定、すなわち、本件収支控帳写しの原本がその収支に関する唯一の原始記録である旨供述している。してみると、所論は立論の前提を欠くことになり失当といわねばならない。また、クラッターが収支控帳について「個人的記録にしようとした。」と述べていることは所論のとおりであるが、同人は、右収支控帳作成のいきさつ及びその記載が何を表しているのかについての一般的な説明を求められ、「この摘要は、私が受取った金について、いつ私がそれを交付したのかという個人的な記録にしようとしたのです。もちろん、私は手持資金の残高をつけていましたし、また資金による支払いに対する領収証を受取ったことの確認もしようということでした。」と述べ、更に「特別勘定という言葉の意味は、それがロッキード・エアクラフト・アジアの銀行口座あるいはその保管にかかる資金ではないということであったと思う。」「その資金を当初ロッキード・インターナショナル、その後ロッキード・アジアのための職務の一つとして管理し、ロッキードのために保管していたもので、自分の金は混入していない。」と述べているのであって、資金の性質や収支控帳の記載の状況にかんがみると、同人が「個人的な記録」という表現をしているのは、LAIあるいはロッキード・エアクラフト・アジアの公表帳簿として作成したものではないとの趣旨を表したものと解せられ、それが同人の職責を果たす必要上、業務の通常の過程で作成したものであることを否定する趣旨で述べたものでないことが明らかであるから、「個人的な記録」という言葉だけから収支控帳の刑訴法三二三条二号の該当性を否定するのは相当でない。

所論は、本件収支控帳が提出されるに至ったいきさつが不明朗であると主張し、その作成の経緯及び記載内容の真実性について疑念を払拭することができないというのである。なるほど、クラッターはチャーチ委員会の聴問に際し、コーチャンとともに同委員会に出頭しているが、クラッターが、同委員会やその他の米国の公的機関から、いかなる形式においても、ロッキード社の対日販売工作資金に関連して、同人が現に保管している証拠資料を提出するよう命ぜられたり、あるいは、これらの資料の存否について証言を求められたりしたことをうかがわせる証拠は存在しないのであるから、クラッターが任意かつ積極的に収支控帳が存在することを証言したりこれを提出したりすることがなかったからといって特にあやしむべきこととは解せられず、これをもって、米国の公的機関に提出すれば、徹底的な調査を受け作成の経緯や内容の虚偽性が暴露されるので、これをおそれて提出しなかったものであると憶測するのは正しい見方とは思えない。これに対し、本件嘱託証人尋問手続においては、同人に対し、証拠物提出命令付召喚状が発せられ、証言をするに際し一定の書類を提出することを義務づけられており、同人は右命令に基づく法的義務として収支控帳を含む書類(副証二七-D号)を持参し法廷に提出したのであって、所論がいうように、虚偽が暴露されるおそれがなくなったから提出したというものでないことが明らかである。してみると、提出のいきさつに不明朗さがあるということはできず、これを立論の前提として収支控帳の虚偽性を主張する所論は前提を欠き採用できない。

所論は、本件収支控帳写しは、写しが証拠とされその原本が提出されていないので記載状態が明らかでなく、したがって、収支の記載の整合性や継続性を判断することはできないというが、クラッターに対する嘱託証人尋問調書によると、右証人尋問に際しては収支控帳の原本が提出されその原本を示して尋問されていることが明らかであるところ(なお原本はクラッターに返還されている。)、右尋問調書中のクラーク検事の発問やこれに対するクラッターの証言、前記堀田検事作成の捜査報告書(甲四31)添付の右原本の写真、右原本の写真複写である本件収支控帳写しの形状、記載状態を総合すると、収支控帳は、使い古され折り目がすり切れた状態にあってかなり以前から記録され常時使用されていた古い書面であることが認められ、かつ収支の記載の継続性整合性を優に肯認できる。

ところで、ロスアンジェルス・ディーク社発行の外国送金受領証の証拠価値については、既に説明したとおりであり、右受領証の存在は、ロッキード社からクラッターにあて対日販売工作資金が送金された事実を裏付けるものであり、クラッターの収支控帳の記載内容と対照し、外国送金受領証に記載されている送金額に相応する金銭の受領が右収支控帳に記載されておれば、このことは、外国送金受領証と収支控帳の各記載の正確性、信用性を相互に補強するものと評価できるところ、本件五億円にかかわる資金の送金を裏付ける六通の外国送金受領証写し(甲再一4ないし9)を含むチャーチ委員会が公表したロスアンジェルス・ディーク社発行の外国送金受領証の写し二八通のうち、送金先をエリオットとする二通を除くクラッターあての二六通の送金額に相応する金銭の受入れについては、後記の一部取消し分を除いて、クラッターの収支控帳写しにすべて記載されているのであって、両者はよく整合している。また、クラッターが、保管中の右資金を支出し相手方から領収証を徴した場合、これをロッキード社の担当者に送付していたことは前記のとおりであるが、クラッターの収支控帳写しの交付欄には、支払金額を示す数字のほかに、一部を除き、そのほとんどに「R」及び「/」の記号が記入されており、これにつき、クラッターは嘱託証人尋問調書(四巻二九三頁以下)において、支払いの相手方から領収証を徴した場合、収支控帳に「R」と表示し、また、帰米した際、右収支控帳の支払いに関する記載とロッキード社の会計帳簿及びクラッターが送付し同社が保管している領収証とを重ねて照合し、領収証が存在することを確認した印として収支控帳に「/」印を記入した旨供述しており、更にシャッテンバーグのクラッターあて一九七二年一〇月一六日付書簡添付の算出表(クラッター副証二号)に記載されている支払いに関する記載と、クラッターの収支控帳写しの交付欄の記載とを対照して検討すると、右支出に関する両者の記載も完全に符合しているほか、本件の伊藤及び大久保が作成しているピーナツ・ピーシズ領収証四通、ユニット領収証二通に符合する支出が右収支控帳写しに記載されている。以上のような事実に照らすと、収支控帳写しの収支に関する記載は極めて正確になされていることが認められるのであって、その信用性が高いことを示している。

所論は、クラッターの収支控帳写しに資金受入れの記載があるのに、これに相応する外国送金受領証等の送金資料の裏付けがないものがある旨指摘しその信用性を否定する。確かに、収支控帳写し中の一九七二年九月二一日三、〇〇〇万円、一九七三年一二月四日三、〇〇〇万円、一九七五年五月六日八、一三四万円の三回にわたる各受領欄の記載に相応する送金資料が証拠として提出されていないことは所論のとおりであるが、送金資料が欠けているのは、L一〇一一型機の売込みキャンペーンが開始され、そのための販売工作資金の収支について収支控帳が記載され始めた一九六九年六月一九日から最後の記載がなされた一九七五年七月二九日までの約六年間にわたる七三回分の受入れ記載の中のわずか三回分にすぎないのであって、前記の諸事情を勘案すると、その分の資料が見当たらないからといって、直ちに収支控帳の記載全般について虚偽架空であるということができないことはいうまでもない。クラッターは「ロッキード社における送金資金の調達や送金関係に一切かかわっていないから、そのいきさつはわからないが、ロッキード社から送られてきた資金は受領のつど収支控帳に受入れの記載をした。」旨供述しているところ、このような事実は嘱託証人尋問において初めて供述しているのではなく、既にクラッターのシャッテンバーグあて一九七二年一〇月二四日付書簡(クラッター副証三号)において述べられているのである。所論指摘の一九七二年九月二一日の三、〇〇〇万円について、クラッターは「この不突合が発見されたのがいつであったか確かでないが、ある時、自分の記録とバーバンクの会社の記録を照合したとき、三、〇〇〇万円を受領しているのにロッキード社の記録に残されていないことがわかった。それで私は『あなた方とディーク社との取引記録がどうなっているか知らないが、私は自分で三、〇〇〇万円をつくり出したものではない。私はそれをディーク社の運搬人から受取りそれを交付した。』と述べた。」旨具体的な記憶をもとにして供述していること、及び、前記のとおり、収支控帳の他の多くの受領についての記載がすべて正確であると認められることに照らして考えると、右三、〇〇〇万円の受領に相応する送金の物的資料が存在しない一事をもって右収支控帳の記載の正確性を否定するのは相当でなく、むしろロッキード社においてその資料を見失ったと考えられるのである。また、所論が指摘する一九七三年一二月四日の三、〇〇〇万円については、受領欄の右金額の横にその交付者と認められる「AHE」という記載があり、右金銭がエリオットからクラッターに交付されたことが認められ、かつ、クラッターのシャッテンバーグあて一九七四年一月九日付書簡(クラッター副証七号)に右三、〇〇〇万円を受領した旨の記載があることに徴すると、右金銭がディーク社を通して送金されたとは必ずしも考えられず、同社の外国送金受領証がないからといって別段不思議ではないのみならず、これを受領した旨のクラッターの供述は十分信用できるから、この点の送金資料が見当たらないからといって右記載の正確性を否定することはできない。更に所論が指摘する一九七五年五月六日の八、一三四万円の受領分については、収支控帳写しの同月七日欄にこれに対応する同額の支出の記載があること(右支出の注記から全日空に対するL一〇一一型機販売にともなう児玉への報酬を支払ったものと認められる。)及び、クラッターの一九七五年度デイリー・リマインダー版手帳の同年五月六日の欄に、「7.00 norman(81.34)」という記載が存することは、右金銭を受領した旨のクラッターの供述の信用性を裏付けているというべきである。右のとおり、所論指摘の三回分もロッキード社より右資金として受領した旨のクラッターの証言が信用できることに徴すると、右資料の欠如が、右収支控帳写しの正確性を否定するに足るものとは考えられず、この点の所論も失当である。

所論は、ニューマン報告書に基づき、ロッキード社からクラッターあてになされたという送金に関する資料の信用性は否定されるべきである旨主張し、右資料はクラッターの収支控帳の信用性を裏付けるものではないという。しかしながら、ニューマン報告書の添付資料八「通常の財務管理外の資金」の項のD項「日本円の蓄積及び支払い」の記述によると、ニューマン委員会は、前記のとおり、一九六九年に開始された日本におけるL一〇一一型機販売キャンペーン計画に関連し、ロッキード社は、増大した日本の第三者に対する現金の意図的な支払いに充てるため、円の在庫を常時つくっておくこととし、LAI及びLAIAGにおいてロスアンジェルス・ディーク社から円を購入し、ロッキード・アジア社長のJ・W・クラッターに送金して同人の東京事務所にこれを蓄えていた旨報告しているほか、LAI及びLAIAGの支出に対しては、会社相互のチャージを通してロッキード・カリフォルニア社(L一〇一一型機の製造会社)によって補填されていたとしたうえ「LAIとLAIAGによる円の購入は『L一〇一一型機販売事務費』としてロッキード・カリフォルニア社に請求され、ロッキード・カリフォルニア社はこれら請求代金を『前渡し手数料』として記録し、これらの金額は後に航空機が日本の航空会社に引渡された際に支出された。支払請求は普通は現実の円の購入の後しばらくしてからなされた。LAIからロッキード・カリフォルニア社あてのこの種の最初の送り状は、一九七二年一〇月二七日付で、その金額は三〇万一、三一二ドルであり、一九六九年一月九日から一九七一年一月一二日までの間に、LAIが購入した円に明らかに相応するものであった。一九六九年六月一一日から一九七五年三月四日までの間に一七億九、四〇六万五、〇〇〇円(約六四〇万ドル)がLAI又はLAIAGのいずれかによって購入され、その支払いは『L一〇一一型機阪売事務費』としてロッキード・カリフォルニア社に請求された。」と報告している。以上のような報告書の内容に照らすと、ニューマン委員会は、ロッキード社が系列会社であるLAI及びLAIAGを通じて円資金を調達しクラッターに送金した事実のあることを報告しているのであって、送金の事実を否定しているものでないことは明らかである。そして、クラッターは、ニューマン委員会の事情聴取を拒否しその調査に協力しなかったが、本件嘱託証人尋問において、右報告書の内容と矛盾抵触する供述を一切しておらず、これと同趣旨の供述をしているのであり、また、シャッテンバーグのクラッターあて書簡(クラッター副証二号)及びクラッターのシャッテンバーグあて返書(同副証三号)も、右報告書中に記述されているLAI、LAIAGからロッキード・カリフォルニア社に対してなされた費用請求並びにロッキード社からクラッターヘの送金の各事実を裏付けているのであって、これらの証拠とニューマン報告書は、送金の事実を証する証拠としての信用性が極めて高いことを相互に補強し合っていると評価すべきであり、送金資料としての前記外国送金受領証に基づく取引の真実性及びクラッターの収支控帳写しの信用性を裏付けているというべきである。

ところで、ニューマン報告書は、シャッテンバーグのクラッターあて一九七二年一〇月一六日付書簡及び添付の算出表(クラッター副証二号)に関連して「クラッターは合衆国を訪問している間に円の支払いを証明する領収証を提出した。右領収証は一九六九年より前はバローに、それ以後はシャッテンバーグに渡された。一九七〇年のはじめ、シャッテンバーグは手持ちの領収証を円の購入に合致させるような明細表を作っておくことをはじめた。シャッテンバーグは、明細表を備えておくよう特に指示されたわけではなかったが、こうした文書がロッキード社の一九六九年度の年次監査との関係で必要になると思ったと当委員会に語った。シャッテンバーグは一九七三年一一月まで円の追加購入が行われるごとにその明細表に記入し続けた。右明細表はロッキード社の財務担当役員によって保管されたが、当委員会はこの明細表をロッキード社の通常の財務記録の一部とは考えていない。それに加えてその真否も疑わしい。一九七二年一月一六日付のクラッターあてのシャッテンバーグの手書きの手紙には『私は、六九年一月九日付の一、〇〇〇万円の領収書及び六九年六月二四日の領収書の二〇〇万円の超過分の帳尻をあわせるために必要な資金を提供するため八〇〇万円だけ収入を増やした。』と書かれている。その手紙は更に続けて、次のように述べている。『一九七〇年二月二八日に領収された一、四〇〇万円をまかなうために〔明細表〕の九行目の訂正が必要である。一三行目で繰越残高が一、三三〇万円であることに気づかれたと思うが、一九七二年二月二八日付の貴方の手紙では繰越残高は一、一〇〇万円となっている。私が二三〇万円の差額分について領収書を紛失したのであろうか?』その手紙は更に『私は二億三、五〇〇万円にみあう領収書が必要だ』とある。当委員会は、一九七三年に円の購入がロッキード・インターナショナル社から、ロッキード・インターナショナル(ジュネーブ)社に移され、手続上の変更がなされた後に同じような明細表が保持されていたという証拠をつかむことができなかった。」と報告し、かつ右の「収入を増やした」という点について、「実際にはこれらの資金の出所は一度も確証されなかった。この明細表の記入は明らかにクラッターによって報告された支払金と円購入の帳尻をあわせようとするシャッテンバーグの試みにおける『栓』を意味している。」と注記し、「クラッターが保有していた円の在庫についても、ロッキード社の帳簿には何らの記録もなかったことは注目されなければならない。」「領収書のすべてについての信ぴょう性には疑問の余地があり、当委員会はクラッターとエリオットに供給した通貨が指示どおりに支払われたかどうかを確認することができなかった。」などと報告している。所論は、ニューマン報告書の右記述に基づき、シャッテンバーグの右書簡についての原判決の判断を論難し、収支控帳写しの信用性がない旨主張しているのである。しかしながら、右報告書は、クラッターがニューマン委員会の調査に協力しなかったこともあって、右シャッテンバーグの書簡の疑問点や右資金に関する経理の全体を詳細に解明することができず、そのことからクラッターやシャッテンバーグの経理処理について疑惑を示したものと推認されるが、資金の移動自体を否定している趣旨とは解せられない。そこで、右シャッテンバーグの書簡に対するクラッターの返書(副証三号)、収支控帳写しの記載内容及びクラッターに対する嘱託証人尋問調書を参酌して、右ニューマン報告書の疑惑の当否、収支控帳の記載内容とシャッテンバーグの算出表の記載内容とのそごについて検討を加えることとする。シャッテンバーグの書簡を検討するに当たり、まず注意しなければならない点は、クラッターに対する証人尋問調書に添付されている副証二号の右書簡はクラッターに送付された書簡そのものでなく、ロッキード社において保管されていたその控えであり(これがSECに提出されている。)、したがってその記載にはクラッターの手は一切加えられていないということである。これを念頭において書簡の内容を検討してみるに、書簡添付の算出表の番号一ないし五の収支を計算すると、一九六八年一二月末日の時点における残高は四〇〇万円になり収支控帳写しの同時点における繰越残高と一致する。シャッテンバーグが右書簡の中で「第六行目で、私は一九六九年一月九日の一、〇〇〇万円の領収証分及び同年六月二四日の領収証からくる二〇〇万円の超過分を穴埋めするに足る資金を捻出するため、取得分を八〇〇万円だけ増額しておいた。この金の出所はディーク以外のところに求めなければならない。」と記載していることに徴すると、クラッターに送付した分の算出表の六行目(番号六)の取得欄には八〇〇万円という記載があったことが明らかである。すなわち、算出表の一九六八年末の繰越残高が四〇〇万円しかないのに一九六九年一月九日一、〇〇〇万円の支払いがなされていることから、その不足分の源資六〇〇万円を取得分として補う必要があり、また一九六九年六月一一日ロスアンジェルス・ディーク社の外国送金受領証を資金源とする二、五〇〇万円の取得のあと、同月二四日二、七〇〇万円の支払いがなされ、その差額二〇〇万円の資金不足が生じ、その時点で合計八〇〇万円の支払資金の不足があるのに、シャッテンバーグの手許にはクラッターに送金した資料がなかったので(なお、ニューマン報告書によると、この時点における経理はシャッテンバーグの前任者によってなされていたと認められ、引継ぎを受けた資料の中に右送金に関する資料がなかったことがうかがわれるので、同人がその資金調達について知らなかったとしても別段不思議はない。)一九六九年一月九日の一、〇〇〇万円の支出の前の時点で八〇〇万円を送金したようにつじつまを合わせるため、算出表の六行目に取得分として八〇〇万円と記載したと認められるのである。更に、シャッテンバーグは、右書簡の中で「九行目の調整は、一九七〇年二月二八日に領収証が出された一、四〇〇万円をまかなうために必要だ。」と書いているが、それは、算出表の八行目(番号八)の取得欄に記載されているロスアンジェルス・ディーク社の外国送金受領証による一九六九年一一月二五日の四、〇〇〇万円の取得分だけでは、同年一二月一一日の三、八〇〇万円及び一九七〇年二月二八日の一、四〇〇万円の支払分を賄うことができず一、二〇〇万円の資金不足を生ずるので、そのつじつまを合わせるためクラッターに送付した算出表の九行目の取得欄に一、二〇〇万円と記載していたことが認められるのである。右のように、シャッテンバーグは合計二、〇〇〇万円の源資のつじつま合わせをした算出表をクラッターに送付したのであるが、クラッターはこれに対する返書(副証三号)において、「第六行目と第九行目の合計二、〇〇〇万円の取得は、実際には一九六九年一月六日に取得した一回の取引である。私の記録には資金の供給者を示唆するものはない。」とシャッテンバーグの算出表の右記載が誤りであることを指摘しているのであり(なお、源資金の調達及び送金事務それ自体に関与していないクラッターがどのようにしてその資金を調達したのか知るわけがなく、収支控帳や日記などの手持資料にも誰から受領したのかについての記載がないことから、「私の記録には資金の供給者を示唆するものはない。」と書いたものと考えられこの記載が不正をうかがわせるものでないことは明らかである。)、シャッテンバーグは、クラッターの右指摘に従い、後日手許の算出表の控(副証二号)の六行目と九行目の記載を抹消し、六行目の日付欄に一九六九年一月六日、取得欄に二、〇〇〇万円と記入訂正し、その資金源は不詳としたものであることが認められる。しかして、クラッターが、送金を受けていない資金を受領したとして収支控帳に記入したり、これに見合う領収証をねつ造してロッキード社に提出し、つじつまを合わせる支払いの記載をするなどのことをしなければならないなんらの利益も理由も見当たらず、また、クラッターの収支控帳とシャッテンバーグの算出表が、L一〇一一型機販売のため対日工作資金を送金した事実がないのになんらかの不正を隠ぺいする必要上かかる送金事実をねつ造するため工作された虚偽の資料というのであれば、わざわざ両者の記載をそごさせたうえ、書簡によって訂正するという手段を弄しなければならない理由も必要もないことにかんがみると、右のとおり、シャッテンバーグがクラッターの返書に従って算出表を訂正していることは、シャッテンバーグの書簡の存在がクラッターの収支控帳の信用性を否定するものではなく、むしろその信用性を裏付けるものというべきである。また、シャッテンバーグは、右書簡で、算出表の「第一三行目を見ると、持越残が一、三三〇万円となっていることに気づくだろう。君の一九七二年二月二八日付の手紙では、持越残は一、一〇〇万円だとなっていたがね。二三〇万円の差額について領収書を私が紛失することはあり得ることだろうか。」と書き送っているのであるが、これに対し、クラッターは前記返書で「君は、私が一九七〇年に送付した総額二三〇万円になる二つの領収書をどうも紛失しているようだ。」と答えており、この点につき、クラッターの収支控帳写しをみてみると、シャッテンバーグが指摘している一九七〇年末における繰越残高は同人指摘のとおり一、一〇〇万円と記載されており、同人指摘の不突合分二三〇万円は、収支控帳の一九七〇年八月八日の一三〇万円、同年一二月一八日の一〇〇万円の二回分の支払いに相応するものと認められるところ、支払欄には領収証の存在を示す「R」の記号及びクラッターがロッキード社に提出し同社が保管していた領収証と後日照合しその存在を確認した際記入したという「/」印が存在することに照らすとクラッターの返書の右記載は信用できるものというべきである。以上のように、右書簡の往復があった一九七二年一〇月の時点において(なお、ニューマン報告書によると、この時点において、対外不正支払の問題はまだ表面化していなかったと認められる。)、クラッターは、収支控帳の記載に基づいて、シャッテンバーグの疑問に対し、個別的具体的かつ明確に答えているのであって、前記認定の諸事情にかんがみると、シャッテンバーグの書簡において同人の算出表とクラッターの収支控帳との間の一部不突合が指摘されそのつじつまを合わせる記載があるからといって、L一〇一一型機の対日販売工作資金の送金が架空のものであると言えないことはもちろん、その収支を記載した収支控帳の記載が虚偽であるとは言えず、むしろ、その記載が正しかったが故にクラッターの回答に基づきロッキード社保管の算出表を訂正したと考えるのが正しい見方である。ニューマン報告書が、ロッキード社において、系列会社を通じて円資金をクラッターに送金し内部的に資金決済がなされている旨報告しながら、右シャッテンバーグの書簡、明細表をもとに右資金の収支の正確性に疑問がある旨表明しているのは、調査に当たり、クラッターの非協力から同人の供述や収支控帳を得られず、右資金の収支の全貌を解明できなかったことによるものであって、右報告書の存在がクラッターの収支控帳写しの正確性を肯認する妨げとなるものではない。所論は、シャッテンバーグの算出表に記載されている一九七二年中のクラッターの取得分の金額と、クラッターの収支控帳写しの同年中の受領分の記載がそごしていることからも右収支控帳写しの信用性は否定されるべきであるという。そこで検討するに、シャッテンバーグの算出表の一九七二年中の取得欄に記載されている金額を合算すると、同年二月三日から同年一〇月一七日までの分で八億四、五〇〇万円となり、これに同年一一月一五日の一億七、五〇〇万円(ただし、資金源はディーク社発行にかかる番号一〇四〇五号金額五八〇、四三二ドルの小切手)を加えると一〇億二、〇〇〇万円となる。これに対し、クラッターの収支控帳写しに受領分として記載されている(ただし、同年一一月三日、同月六日のスイスフラン小切手一億円分、米ドル小切手五億円分を除く。)同年中の金額を合算すると七億円となり(所論には計算違いがある。)、両者の差額が三億二、〇〇〇万円あるように見える。しかしながら、シャッテンバーグの算出表の同年一〇月一七日ロスアンジェルス・ディーク社発行の外国送金受領証番号〇〇七二六号に基づく三億五、〇〇〇万円の取得分について考察すると、クラッターに対する嘱託証人尋問調書(五巻三七六頁以下)によると、クラッターは、右調書に添付されている副証五号Aロスアンジェルス・ディーク社がLAIの依頼に基づき一九七二年一〇月一七日付で発行した三億五、〇〇〇万円の払込済の外国送金受領証(番号〇〇七二六号で記載内容から右算出表のそれと同一のものと認められる。)、副証五号のLAIからロッキード・カリフォルニア社に対し五八〇、四三二ドルを貸与した旨の一九七二年一一月二〇日付信用供与状、ロスアンジェルス・ディーク社振出のLAIあて同月一五日付額面五八〇、四三二ドルの小切手(番号一〇四〇五号で前記算出表記載の小切手と同一と認められる。)、LAIが同月一五日右小切手をディーク社から受取ったことを表している郵便受領通知書等に関連し、「私は、ロスアンジェルスに対し、彼らが支払いのために必要だと私が承知している額よりも多くの円を購入しているということを言い、それで彼らは購入したのを取消したと聞いたことがある。一九七二年一〇月一七日ないしその少し後にバーバンク又はディーク社から三億五、〇〇〇万円が届けられるということを聞き、その後その額が少ないものになったことがあり得る。」旨供述しており、このことからすると、LAIは、ロスアンジェルス・ディーク社に対し、前記算出表に記載されている一九七二年一〇月一七日付番号〇〇七二六号の外国送金受領証に基づいてクラッターあてに三億五、〇〇〇万円を送金するよう依頼しその代金を支払ったが、クラッターから必要以上の円を購入している旨注意され、同年一一月一五日ころ依頼した送金額のうち一億七、五〇〇万円(五八〇、四三二ドル)につき依頼を取消し、ロスアンジェルス・ディーク社振出しにかかる右小切手により返金を受け、これをロッキード・カリフォルニア社に渡した事実が認められ、したがって、右算出表中の取得分三億五、〇〇〇万円のうちの一億七、五〇〇万円についてはクラッターに送金されていないというべきであり、また、右算出表中の一九七二年一一月一五日資金源を右小切手とする取得分の記載が他の記載と異なり、ドル欄に<五八〇、四三二・〇〇>、円の欄に<一七五、〇〇〇、〇〇〇>といずれも<>書きされていることをも併せて考えると、この記載は取得の事実を表しているものではなく、先に取得分として記載したものの中から控除する趣旨を表していると認められる。してみると、算出表の取得分の合計額である一〇億二、〇〇〇万円から右控除すべき合計三億五、〇〇〇万円を差引いた六億七、〇〇〇万円が実際にクラッターに送金された金額となり、収支控帳の合計額七億円との差額三、〇〇〇万円をクラッターは多く受取っていることになるところ、この三、〇〇〇万円は、収支控帳写しに同年九月二一日受領した旨記載されている三、〇〇〇万円に該当するもので、この分については、既に判示したとおり、ロッキード社の記録と整合しないものの、クラッターが受領したものに間違いないことが合理的に説明できるのであるから、結局、シャッテンバーグの算出表とクラッターの収支控帳との間には実質的なそごは存在しないことになる。なお所論は、シャッテンバーグの算出表に、その書簡の作成日付より後の日付の収支が記載されていることを理由にして、その作成経緯に疑念を呈しているが、先に指摘したとおり、副証二号の右書簡は、同人の手許に残されていた控えであるから、クラッターの回答に基づいて訂正したり、書簡作成後の送金や支払いについて追記したからといって別段異とするに足りないことは多言を要しない。

更に、所論は、原判決が収支控帳写しの信用性を裏付ける資料として挙示しているクラッターのメモ領収証(副証一八号)は、短期間のものに限られかつ原審証人保世新宮の証言に照らしディーク社から現金を受領した証拠となるものではないから、右領収証の存在をもって収支控帳写しの信用性を裏付けるということはできないという。しかしながら、チャーチ委員会の公表資料中の一九七三年五月一一日付二億円、同月三一日付二億四、〇〇〇万円の各外国送金受領証及びクラッター副証一八号中のクラッターのメモ領収証(同証人尋問調書六巻添付)と収支控帳写しの記載との整合性を検討するに、LAIはロスアンジェルス・ディーク社に対し、一九七三年五月一一日二億円、同月三一日二億四、〇〇〇万円を東京のクラッターにあて送金するよう依頼し、これに基づき香港にある系列会社ディーク・アンド・カンパニー(極東)社は円を調達してクラッターに交付し、クラッターはそのつど手書きのメモ領収証を交付し、同社の支配人ダーク・M・ブリンクはその領収証一七通をLAIのF・ジョン・アンドリュー・ジュニアに送付しているところ(副証一八号のブリンクからアンドリュー・ジュニアあて書簡及び一七通の領収証)、クラッターは嘱託証人尋問において右領収証は自ら作成したものである旨供述している。そして、右領収証の金銭が右外国送金受領証二通に基づく送金にかかるものであることは、ブリンクの書簡から明らかであるとともに領収証記載の合計金額は四億四、〇〇〇万円で依頼金額と一致し、各領収証と収支控帳写しとを対照してみると、日付、金額がすべて一致し、右金銭が一九七三年五月一八日から同年六月一一日までの間にクラッターに届けられたことが確認できる。このように関係証拠が完全に整合することは、それが短期間のものであるにしても、クラッターが右資金の授受がなされたつど継続的かつ正確に右収支控帳に記載していたことを示す証左というべきである。なお、クラッターは嘱託証人尋問調書(六巻五三七頁以下)において、右四億四、〇〇〇万円は、児玉誉士夫に交付した収支控帳の一九七二年一一月六日五億円に相当する米ドルの自己宛小切手を同人が盗難にあったということから、その穴埋めとして同人に交付したもの(金額の差は為替換算率の差による。)である旨供述しているところ、所論は、右盗難話は不自然であるとして、右金銭の収支には疑いがあるというが、右調書添付の関係書類(副証六三号ないし六八号)に基づき記憶を喚起してなされている右供述は信用することができるし、また前記のとおり、ディーク極東社からLAIに右資金の支払通知とともにクラッターのメモ領収証が送付されているのは、右資金の特殊性によるものと考えられ、かつロッキード社に保管されていた右資料がSECに提出されるとともに嘱託証人尋問の資料に供されたと認められるその経緯にかんがみると、右メモ領収証以外のクラッターの領収証が提出されていないからといって別段不思議はなく、そのことが送金の事実に疑惑を生ぜしめるものとは考えられない。また、保世新宮が、クラッターに現金を交付した際同人から受取った領収証は、計算機によって金額が打ち出された紙片に日付とサインが記入されたものであった旨証言していることは所論のとおりであるが、クラッターのもとに現金を運んだのは保世だけではなく右手書きのメモ領収証に相応する現金を保世が運んだというわけではないこと、また保世がディーク社の運び人としてクラッターのほか多くの人に現金を届けていることに徴すると、同人はクラッター以外の者から受取った領収証とクラッターから受取った領収証とを混同して証言したとも考えられるので、右保世の証言をもって前記メモ領収証が自ら作成したものである旨のクラッターの供述の信用性を否定することはできない。

また、所論は、ロッキード社からクラッターに対しなんらかの資金が送付され同人がこれを保管していたとしても、同社の東京における諸活動費との関係が客観的に明らかにされない限り、クラッターが本件五億円の支出をなし得たと認定することはできないというが、既に判示しているところから明らかなとおり、クラッターは、L一〇一一型機販売のための特別経費については、ロッキード・エアクラフト・アジアの経理と区別して、現金の保管を含め自らその収支を管理し、「特別勘定」の表題のもとに収支控帳を作成していたのであるから、右特別経費の収支は右収支控帳により明確にされ、ロッキード社の東京事務所における諸経費の収支と混同するおそれはないというべきであり、したがって他の諸経費の収支を明確にしなければならない理由も必要も存しない。

以上のとおり、本件五億円の資金調達に関連し、外国送金受領証写しや収支控帳写しの証拠能力及び信用性についての原判決の判断を論難する所論はすべて理由がない。そして、コーチャン及びクラッターに対する嘱託証人尋問調書等を加えた関係証拠を総合すると、前記資金調達に関する原判示事実を優に肯認できるのであって、論旨は理由がない。

第二  ロッキード社(クラッター)・丸紅(伊藤)間の金銭授受に関する事実誤認の論旨について

所論は、要するに、原判決は、ロッキード社・丸紅間の授受につき、伊藤はクラッターから、<1>昭和四八年八月九日、丸紅社長室秘書課員野見山國光を介し、東京都千代田区大手町一丁目六番一号大手町ビルディング内のロッキード社の系列会社ロッキード・エアクラフト・(アジア)・リミテッド(LAAL)の日本における営業所において、大久保の指示に基づき予め用意していた一〇〇ピーナツ領収証を渡して現金一億円を受領しようとしたが、同日は受取ることができず、翌一〇日午前八時ころ、右同所において段ボール箱入りの現金一億円を受領し、<2>同年一〇月一二日、右野見山を介し、前同所において、前同様用意していた一五〇ピーシズ領収証と引換えに、段ボール箱入りの現金一億五、〇〇〇万円を受領し、<3>昭和四九年一月二一日、丸紅東京本社地下駐車場において、丸紅総務部総務課所属の伊藤専用車の運転手松岡克浩を介し、クラッターの自動車から右伊藤専用車に積み換える方法で、段ボール箱入りの現金一億二、五〇〇万円を受領し、前同様用意していた一二五ピーシズ領収証を右丸紅東京本社の応接室でクラッターに交付し、<4>同年二月二八日、前記野見山を介し、前記ロッキード・エアクラフト・(アジア)・リミテッドの営業所において、前同様用意していた一二五ピーシズ領収証と引換えに、段ボール箱入りの現金一億二、五〇〇万円を受領した旨判示しているところ、原判決が右事実認定に供した、伊藤、野見山の各公判廷における供述及び検面調書、松岡、榎本の各検面調書、大久保の公判廷における供述並びにクラッターの嘱託証人尋問調書は、いずれもその内容が不自然不合理であり、またクラッター作成の摘要中の収支控帳写し、ピーナツ・ピーシズ領収証写し等はその成立並びに記載内容に疑問があるうえ、各証拠相互間に矛盾する部分があるなど、その証拠の信用性は認められないのであって、原判決には、証拠の取捨選択並びにその評価を誤り事実を誤認するとともに、証拠に基づかずに不自然不合理な事実を認定した違法があり、また、原判決は、右五億円の趣旨について、それが田中に対する請託報酬の支払いにあてるべき金として、ロッキード社から丸紅に引渡された旨判示しているが、仮に、ロッキード社から丸紅に対しなんらかの金銭の引渡しが行われた事実があったとしても、代理店契約を結んでいた両者間で種々の金銭授受が行われる可能性は多く存し、本件五億円が、別の趣旨、目的のために授受されたものであるのに、なんらかの理由で外形上、田中に対する支払いのように仮装されているのではないかという合理的疑いがあるので、これを請託報酬の支払いにあてる金と断定することは許されず、結局、原判決はこの点においても事実を誤認しているというのである。そこで、所論にかんがみ、以下順次検討を加えることとする。

東京在住のクラッターのもとに、ロッキード社の系列会社から本件五億円の支払資金が逐次送付され(なお、ロッキード本社と系列会社との間で後日資金の決済がなされている。)、これをクラッターが保管していたことは前示のとおりであるところ、右資金がどのように支払われたかについて項を分けて判断を示すこととする。

一  クラッター・伊藤間の金銭授受について

原判決は、クラッター・伊藤間の五億円の授受に関し次のとおり事実認定をしている。   (1)  第一回目の現金授受について

昭和四八年八月九日ころ、大久保は、クラッターから約束にかかる金員のうち一億円の現金の準備ができた旨連絡を受けるとともに、右金員については一〇〇ピーナツとの符牒を用いることにするので、これを丸紅側に引渡す際、一〇〇ピーナツを領収した旨の領収証を交付するよう求められた。大久保は、同日丸紅東京本社で伊藤にその旨伝え、あわせて伊藤が右一億円をクラッターから受取るよう、そして受取る際一〇〇ピーナツ領収証を交付するよう要請した。伊藤は、同社社長室秘書課長中居篤也に指示して一〇〇ピーナツを領収した旨の領収証をタイプさせ、自らこれに署名し、封筒に入れて秘書課員野見山國光に手渡し、同人に対し、ロッキード東京支社のクラッターに右封筒を渡して書類を受取ってくるよう指示した。大久保は、伊藤から連絡を受け、野見山が取りに行くこと及びその予定時刻をクラッターに伝えた。野見山は、丸紅総務課員松岡克浩の運転する伊藤の専用自動車(以下「松岡運転車」という。)で、同日午後四時三〇分ころ、東京都千代田区大手町一丁目六番一号大手町ビルディングに赴き、同ビル四四一号室のロッキード社の系列会社ロッキード・エアクラフト・(アジア)・リミテッド(LAAL)の日本における営業所(以下「LAAL東京事務所」ともいう。)でクラッターに会い、前記領収証の入った封筒を手渡したが、クラッターは、その際には現金を引渡さず、翌日午前八時ころ再び来るように野見山に告げた。野見山は、丸紅東京本社に戻り、伊藤にその旨報告したところ、伊藤は、翌朝前記松岡運転車を野見山の自宅へ迎えに行かせるから、同車に乗ってLAAL東京事務所へ行き、受取った荷物は同車後部トランクに入れて保管しておくように指示し、その後、松岡に対しても、翌朝野見山方へ迎えに行くよう指示した。そのころ、クラッターは当時LAAL東京事務所で保管していた現金一億円を段ボール箱に詰めて密封し、引渡の準備をした。同月一〇日朝、野見山は、東京都中野区沼袋の自宅に迎えに来た松岡運転車に乗って大手町ビルヘ行き、午前八時ころ、LAAL東京事務所で、クラッターから現金一億円の入った段ボール箱を受取り(もっとも、野見山は段ボール箱の内容物が現金である旨の認識は有していなかった。)同ビル前路上に駐車中の松岡運転車の後部トランクにこれを収納したうえ同車に乗って丸紅東京本社に出社した。松岡は、その後、右段ボール箱を後部トランクに入れたまま、伊藤を迎えるため右自動車を運転して同人方に赴いたが、伊藤は、その際、同車後部トランクに段ボール箱が収納されていることを確認し、また、出社後、野見山から、指示どおり書類を受領してきた旨の報告を受けた。

(2)  第二回目の現金授受について

昭和四八年一〇月一二日ころ、クラッターは、大久保に対し、約束にかかる金員のうち一億五、〇〇〇万円の現金の用意ができた旨、及び右現金については一五〇ピーシズとの符牒を用いる旨連絡した。そして、クラッターは、そのころ、当時LAAL東京事務所で保管していた現金のうち一億五、〇〇〇万円を段ボール箱に収納してこれを密閉し、引渡の準備をした。同月一二日、大久保は、丸紅東京本社で、伊藤に対し、クラッターからの前記連絡事項を伝えるとともに、右現金をクラッターから受取るよう要請した。そこで、伊藤は、前記中居に指示して一五〇ピーシズを領収した旨の同日付領収証をタイプさせて自ら署名したうえこれを封筒に入れて前記野見山に手渡し、同人に対しLAAL東京事務所のクラッターに右封筒を渡して書類を受取ってくるよう指示した。他方、大久保は、伊藤から連絡を受け、野見山が取りに行くこと及びその予定時刻をクラッターに伝えた。野見山は、同日昼ころ、松岡運転車で大手町ビルに赴き、LAAL東京事務所でクラッターに前記領収証の入った封筒を手渡すとともに、同人から前記現金一億五、〇〇〇万円の入った段ボール箱を受取り(野見山は、右段ボール箱の内容物が現金である旨の認識を有していなかった。)、同ビル前道路に駐車中の松岡運転車の後部トランクに収納したうえ同車に乗って丸紅東京本社に戻り、伊藤にその旨報告した。

(3)  第三回目の現金の授受について

昭和四九年一月二一日ころ、クラッターは、大久保に対し、約束にかかる金員のうち一億二、五〇〇万円の現金の用意ができた旨連絡し、右現金については一二五ピーシズとの符牒を用いることにする旨伝えた。そしてクラッターは、そのころ、LAAL東京事務所で保管していた現金のうち一億二、五〇〇万円を段ボール箱に収納してこれを密封し、丸紅に対する右現金引渡の準備をした。同月二一日、大久保は、丸紅東京本社で伊藤に対し、クラッターからの前記連絡事項を伝えるとともに、右現金をクラッターから受取るよう要請した。そこで、伊藤は、前記中居に指示して一二五ピーシズを領収した旨の同日付領収証をタイプさせ、自らこれに署名して封筒に入れた。そして、クラッターから丸紅側に対する右現金引渡の方法としては、同日クラッターが丸紅東京本社に来た際、同社地下駐車場で、クラッターの専用自動車から伊藤の専用自動車に右現金入り段ボール箱を移し換える方法で行うことが取決められた。そこで、伊藤は、そのころ、松岡に対し右地下駐車場でクラッターの専用自動車から松岡運転車に段ボール箱を移し換えるよう指示した。同日午後一時ころ、クラッターは、福岡清治の運転する専用自動車(以下「福岡運転車」ともいう。)後部トランクに前記一億二、五〇〇万円の入った段ボール箱を入れて丸紅東京本社に赴き、同社応接室で、伊藤から前記の封筒に入った一二五ピーシズ領収証を受領した。そのころ、福岡は、あらかじめクラッターから与えられていた指示に基づき、同社地下駐車場で前記現金の入った段ボール箱を松岡に引渡し、松岡はこれを受取って松岡運転車の後部トランクの中に入れた(なお、松岡、福岡の両名は、右段ボール箱の内容物が現金である旨の認識を有していなかった。)。

(4)  第四回目の現金授受について

昭和四九年二月二八日ころ、クラッターは、大久保に対し残金一億二、五〇〇万円の用意ができた旨連絡し、また右金員については一二五ピーシズとの符牒を用いることにする旨伝えた。そして、クラッターは、そのころ、LAAL東京事務所で保管していた現金のうち一億二、五〇〇万円を段ボール箱に収納してこれを密封し、丸紅側に対する右現金引渡の準備をした。同月二八日、大久保は、丸紅東京本社で、伊藤に対し、クラッターからの前記連絡事項を伝えるとともに右現金をクラッターから受取るよう要請した。そこで、伊藤は、前記中居に指示して一二五ピーシズを領収した旨の同日付領収証をタイプさせて自ら署名し、これを封筒に入れて前記野見山に手渡し、同人に対しLAAL東京事務所のクラッターに右封筒を渡して書類を受取ってくるよう指示した。また、大久保は、伊藤から連絡を受け、野見山が取りに行くこと及びその予定時刻をクラッターに伝えた。野見山は、同日午後六時三〇分ころ、松岡運転車で大手町ビルに赴き、LAAL東京事務所でクラッターに前記領収証の入った封筒を渡すとともに、同人から前記現金一億二、五〇〇万円の人った段ボール箱を受取り(野見山は右段ボール箱の内容物が現金である旨の確認を有しなかった。)、同ビル地下駐車場に駐車中の松岡運転車後部トランクにこれを収納したうえ、同車に乗って丸紅東京本社に戻り、伊藤にその旨報告した。

1 関係者の供述及び物的証拠の存在

以上の事実認定に直接関連する証拠としては次のようなものがある。

(1)  クラッターの供述

クラッターに対する米国裁判所における嘱託証人尋問が実質的に開始されたのは昭和五一年九月二一日で、同日同人から提出された「摘要」及び翌二二日同人から提出された同人の手帳並びに副執行官提出にかかるヒロシ・イトーの署名のあるピーナツ・ピーシズ領収証四枚を示されたうえ、同人は次のとおり証言している。

伊藤の署名のあるピーナツ・ピーシズ領収証四枚を野見山から受取った。私が同人から受領した名刺によると、同人は丸紅の秘書課の人で私から円を受取るよう指示されていた。領収証は、その作成日付のころ、その原本を受取ったのであるが、一九七三年八月九日付領収証に私の手書きの「原本はEHSへ」という書き込みがあるように、私はこれらの領収証全部をロッキード・エアクラフト・インターナショナルの会計主任シャッテンバーグヘ送付した。この領収証はいずれも丸紅が用意したもので私が受取ったときこれらの領収証にはタイプ部分も署名部分もすべて記載されていた。私は、領収証に記載されている金額の金を引渡す準備ができたつど、大久保に対し、領収証を渡してくれれば金を渡す旨話をした。その際、丸紅に対しピーナツ、ピーシズといった形式の領収証を準備するよう言った記憶はないし、また、ピーナツという符牒をピーシズという符牒に代えると言った記憶もないが、言葉の選択が奇妙に思えたので何か言ってやったのかもしれない。一ピーナツ、一ピーシズは、それぞれ一〇〇万円を表すが、領収証に記載されている金額を実際に交付したことは間違いなく、その交付の日は、私の「摘要」によると、一九七三年八月九日という日付のある最初の領収証について食違いがあり、私の記録によると、私が実際に交付したのは一九七三年八月一〇日である。他の三通の領収証分についてはここで確認したところその作成日付の日に間違いがないようである。四枚の領収証の合計が五億円になるが私の記憶と一致する。私は、コーチャンから、五億円の支払いは現金で行うよう指示されていた。その支払いのための現金の蓄えは、一九七三年七月から始まり、前記の特別勘定(収支控帳)には同月二三日に一億円受入れの記載があるが、コーチャンから指示があったのはその直前である。支払いが四回にわたってなされたのは、膨大な現金を蓄えておく危険を冒したくなかったからで、適当な額になるとそれをまとめて支払うようにしたのである。このことは「摘要」(収支控帳を指す。)に出ていると思うが、この「摘要」は、私が受取った金について、いつ私がそれを交付したかという個人的な記録にしようとしたもので、手持残高をつけていたし、その資金による支払いに対する領収証を受取ったことの確認もしようとしたものである。私は、コーチャンから、この支払いについては、大久保を丸紅側の交渉相手として打合せをするよう指示されていたと思う。(クラッターは、自ら体験し認識したことを、体験認識と同時ないしその直後の記憶が鮮明な間に記録した同人の行動予定表ないし行動実績表と認められる同人作成の手帳、いわゆるクラッターダイアリーを記憶喚起のため示されたうえ、次のとおり証言しているが、右手帳には「一九七三年八月九日木曜日午前一〇時から一一時T・オークボ・デリバリー(MBCノミヤマ)四時三〇分ノミヤマ」「同月一〇日金曜日午前八時ノミヤマ(一〇〇)」という記載がある。)これをみて実に生き生きと思い出す。この日記帳によると、一九七三年八月九日木曜日の午前一〇時から一一時三〇分まで(なお、ダイアリーの記載内容は右のとおりであるところ、クラッターは、これを読み誤ったものと考えられる。)、私が交付について大久保と会っていたことは明らかであり、また同じ行に「野見山丸紅」という記載がある。つまり私と大久保は一億円の金が引取られるべく準備できていることを話し合い、大久保が私に野見山がその円を受取りに来る人だと話したことがわかる。同日午後四時三〇分野見山がロッキード東京支社の私の部屋に来て、名刺で身分を明らかにしたうえ箱を置いて帰り、更に翌一〇日午前八時一億円を取りに来たことがわかり、これらのことは私の記憶と一致する。そして、私の記憶によると、野見山に一億円を渡したとき一〇〇ピーナツ領収証を受取ったと思う。私は、領収証に記載されている伊藤が、丸紅の取締役であることは知っていたが同人と話合った記憶はなく、確かではないが、大久保が私に、伊藤が領収証に署名するようになると言ったように思う。一億円の現金は一万円札で一〇〇万円ずつの束にまとめられており、野見山が持って来た段ボール箱は確かビールの箱であった。次に、第二回目の一九七三年一〇月一二日付領収証に出てくる一億五、〇〇〇万円の現金の交付について、その事前の打合せは最初の場合と基本的なものに差異はなかったと思う。すなわち、私は、大久保に追加の支払いができるようになったことを知らせたと思う。そして大久保から、再び野見山が使いとして受取りに行くと知らせてきた。確か、野見山が大手町ビルの私の事務室に来て第二回目の分割金を受取った。その金額は、前記の特別勘定も見てみたが、一億五、〇〇〇万円である。私は、東京事務所で書類用の段ボール箱に、私自身で現金を箱詰めした。第二回目の場合も、事前に、大久保に領収証を用意するよう頼み、段ボール箱を渡したとき、野見山から領収証を受取ったのである。「摘要」の一九七三年一〇月一二日の一億五、〇〇〇万円交付の右にある注記は「丸紅に対する支払いは二分の一完了した。」ということで、この日の支払いは二番目の領収証のものを表し、八月一〇日の一億円と合わせ二億五、〇〇〇万円となり五億円の半分だということを書きとめたのである。一九七四年一月二一日付領収証に関する第三回目の交付について、確か、私の記憶によると、私はこの一億二、五〇〇万円の交付の準備を整えた後、大久保に連絡をとったところ、また野見山がロッキード日本支社の私の事務所に現金の入った段ボール箱を引取りに来た。私は、本件五億円の関係で、段ボール箱を私自身で直接丸紅に持って行ったという記憶はなく、お金の入った箱を私の車に積んで丸紅の駐車場まで運び、そこでその箱を他の車に積み換えたという記憶はない。もっとも、私が言えることは、そのようなことはなかったように思えるものの、そのようなことがあった可能性もあり、はっきりしたことは言えないということである。なお、私の専用車の運転手が運転日報をつけていたことは知らないし、一九七四年一月二一日丸紅を訪問したことが運転日報に記載されているということも知らない。私は、丸紅に関しある職務上の責任を有しており、現金交付以外の目的で丸紅を訪問することはあり得ることである。私は同日丸紅を訪問したこと自体覚えていないし、第三回目の領収証を伊藤から直接受取ったかどうか思い出せない。四回にわたる現金の交付は、第一回の場合のように段ボール箱に入れてなされ、いずれも私自身が勘定して現金を段ボール箱に詰め、封印したと思うし、記憶では、四回とも野見山に手渡したと思う。第四回目の交付については、私の大きな方の手帳の一九七四年二月二八日欄に「六-三〇・丸紅一二五」という記載があり、そのとき交付されたことがわかる。その時実際に手渡したものである。第四回目の分も、自分で勘定して現金を段ボール箱に詰めた。記憶によると、交付の場所はロッキードの東京の事務所で行われた。それ以外の場所は考えられないが、確信はない。野見山は、その箱を受取ったときやはり領収証を渡してくれた。一九七四年二月二八日の記載の右側に注記があるが、その注記は「丸紅」とあり括孤「最終」括孤とじるとなっているが、それはその五億円が完了したという私の注記である。

(2)  大久保の公判廷における供述

大久保は、ロッキード・丸紅間の五億円の金銭の授受に関し、原審公判廷において次のとおり供述している。

昭和四八年八月に入り、クラッターから金銭の授受について連絡が入り、打合せをしたと思っている。昭和四八年八月九日が、我々が出した領収証の日付であるが、クラッターからの第一回目の連絡があったのはその直前であったと思っている。その連絡が電話であったのか会って話をしたのか記憶がはっきりしないが、その内容は、金銭交付の準備ができたということであった。私は、そのことを伊藤に伝えた。伊藤に伝えたのは、金銭受取の日時等についてクラッターに伝えなければならなかったからである。クラッターに対する金銭受取の日時等の連絡は私からしている。なお、私が右連絡を受ける以前にクラッターから予備的な連絡はなかった。私の検察官に対する昭和五一年七月二三日付調書に「引渡しの担当は伊藤という意味のことをクラッターに伝えた。」となっているが、クラッターから第一回目の交付に関する連絡を受ける前にそのような話をした事はなく、クラッターから連絡を受けた後に、右のような趣旨のことを私が同人に伝えた記憶がある。金額については、クラッターから一〇〇ピーナツといってきた。同人から、ピーナツという符牒を使うこと、一つの単位が一〇〇万円で、一〇〇ピーナツが一億円を表すことの説明があり、かつ、その際、一度に支払えないので分割して支払う話も出ていたと記憶している。したがって、私はこれらのことについて伊藤に説明している。私は、伊藤と金銭の受取の日時等について打合せをした後、クラッターに授受の日時等を知らせたが、第一回目の時、誰が受取りに行くという話があったかどうかの確たる記憶はないが、野見山の名前を言ったと思っている。授受の日時等をクラッターに知らせることにより私の任務は終り、その後の受渡しが完了したかどうかについては知らされておらず、私は知らない。クラッターから、金銭交付の準備ができたという連絡は四回受けている。第二回以降の連絡はすべて電話であったという記憶であり、ピーナツ、ピーシズ何個ということは、連絡のつど、同人からあった。クラッターの連絡は、引渡しの用意ができたということであり、それを取りに来てくれということではなかった。何回目のときであったか覚えていないが、クラッターから、金を長くおけないので早く取りに来てほしいと言われ、伊藤に急いでほしいと伝えたと思う。私は、金額の単位と符牒をそのまま伊藤に伝え、伊藤から何時に取りに行くという連絡があるので、それをクラッターに伝えたが、一回毎に、何月何日の何時という具体的な記憶はないが、四回ともだいたい同じような連絡の仕方であった。第一回の場合を除く第二回以降は、誰が取りに行くということを連絡した記憶はない。領収証のことはクラッターから全く連絡を受けていない。私は、クラッターから領収証を書くよう言われていないので、伊藤に領収証を書くよう連絡したことはない。クラッターが、嘱託証人尋問調書で、大久保に領収証を用意するよう頼み、大久保から伊藤が領収証に署名することになっていると知らされた旨述べていることは、全く事実に反することである。本件のピーナツ・ピーシズ領収証は事件発覚前には見ていないが、その後は何回も見ており、その内容は、昭和四八年八月九日付一億円、同年一〇月一二日付一億五、〇〇〇万円、昭和四九年一月二一日付一億二、五〇〇万円、同年二月二八日付一億二、五〇〇万円である。これらの現金がいつ授受されたかを判断する基準は、私としては右領収証の作成日付しかなく、私がクラッターから連絡を受けたのは、おそらく、その前日ぐらいではなかったかと思う。クラッターから連絡を受けた金額は、領収証に記載されている金額に間違いないと思っている。第二回目と第三回目の授受の間に、檜山から、あとはどうなっているんだ、ということを言われ、クラッターに対し、手詰りだろうが促進して欲しいという言い方で催促したことがある。私は、昭和四八年八月から昭和四九年二月二八日までの間の時期に、クラッターから連絡されたとおり、ロッキード社側からピーナツ・ピーシズ領収証に相当する現金が引渡されたものと考えている。私は、昭和五一年二月五日、この事件が報道された直後、アメリカに行ったが、その時、五億円の授受に関するメモを持参していた。このメモは、手帳のミシンの目の入っていたものを切り取ったものに記載していたもので、パス入れに入れ、それを財布に入れていたのである。メモには、昭和四八年から四九年にかけ、クラッターから金の準備ができたという連絡があるつど、連絡のあった日付と金額をつけていたもので、昭和四八年八月九日一億円、同年一〇月一二日一億五、〇〇〇万円、昭和四九年一月二一日一億二、五〇〇万円、同年二月二八日一億二、五〇〇万円と書いてあったと思う。もっとも、それは日付とピーナツ・ピーシズの数字だけを記載していたのである。金額やピーナツ、ピーシズという符牒は書いていない。右メモは、アメリカ旅行の途中で焼却したため、この事件で勾留された時点では、右日付の点について記憶がなかったが、ピーナツ、ピーシズの単位の数字は私の記憶にあったと思う。取調べに際し、メモを再現したが、日付の点について記憶がなかったので、検事に伊藤の領収証の日付と同じであるから教えて下さいといって、結果的には領収証の日付と一致させて記入した記憶がある。もともとメモに書き込んでいた日付はクラッターから連絡を受けた時の日付であるが、(なお、私は現実の金銭の授受が行われた日は知らない。)右連絡を受けた日と領収証の日付が、必ずしも同じ日であるとは限らないということはあり得ることである。また右メモには、ロスアンジェルスのコーチャンの自宅の電話番号も書いていたと思う。私の記憶が正しければ、第三回目の金銭の授受のときだったと思うが、伊藤が領収証らしいものをクラッターに渡す場面に出会ったことがある。前記のメモの第三回目の授受の記載のところに「伊藤サイン?」と書いたと記憶しており、再現したメモの第三回目分のところに「伊藤サイン?」の記載があるのは、メモを再現する際にこの点の記憶が残っていたことによるものである。すなわち、昭和四九年一月二一日、私が呼ばれて丸紅東京本社一五階(一六階とも言っている。)の秘書課に近い応接室に行き、秘書課の人とクラッターの応接をしているとき、伊藤が領収証らしいものを持って来てクラッターに渡したのを見たので、その直後私の部屋に戻って前記のオリジナルのメモに書いたのである。「伊藤サイン」というのは領収証らしいものを意味するのであるが、クエスチョンマークはそうとは断定できないという趣旨を表しているのではないかと思う。私は、伊藤が領収証らしいものを渡しているのを見て不思議に思い、領収証ではないかというふうに考えて部屋に帰って右のような記載をしたのである。もともと、私がこのようなメモをしたのは、檜山から、いつ交付されたのか等と聞かれたとき即刻答えられるよう備忘のためにしたものである。このメモを、作成した当時から事件発覚時まで持っていたのは、何でもそうであるが、このようなメモをしまいこんでしまうと、古い不用になったものでも入ったままにしておくという私のくせによるものであって、特別の目的があったわけではない。

(3)  伊藤の原審公判廷における供述及び検察官に対する供述

大久保の公判廷における供述により、丸紅側の担当者としてロッキード社側から現金を受領した者とされている伊藤は、原審公判廷において次のとおり述べている。

私は、第一回公判期日において、ロッキード社の社内事情のために必要があるといわれ、ピーナツ一通、ピーシズ三通の受取りに署名し、これをクラッターに渡したことがあると述べているが、この事実は間違いない。英文の領収証写四通(甲再一41)にあるHiroshi Itoh のサインは私がしたサインに間違いない。これらの領収証のサインは別々の機会に行ったもので、いずれも各領収証の作成日付の日にサインしたものでその場所は丸紅東京本社一五階社長室の私の執務室であったと思う。これら四通の領収証は、私がサインをした日、すなわち領収証作成日付の日に、当時の秘書課長中居篤也に私が指示してタイプさせたものであるが、領収文言を私が具体的に指示したかどうかまでは覚えていないが、領収文言中の数字は私が言ったと思う。これらの領収証は大久保に言われて作成したもので、現金の入っているという段ボール箱を受取るについて、社長室秘書課員野見山をしてクラッターに交付させたのである。一九七四年一月二一日付の第三回分について、はっきりした覚えがないけれど、私がクラッターに直接渡したかもわからない。四通の領収証を野見山を介しあるいは私が直接クラッターに渡したのは、領収証に記載してある日付その日であったと思っている。第一回公判期日において、公訴事実に対し、昭和四八年から四九年三月までの間、四回にわたり、現金が入っているといわれる段ボール箱をクラッターから預り、これを榎本敏夫に渡したことはあるが、その中身は見ていないと述べているが、事実はそのとおり間違いなく、段ボール箱をクラッターから受取って榎本に渡すようになったいきさつは次のとおりである。領収証に記載されているそれぞれの日付の日だったと思うが、大久保から、ロッキードの方からそれぞれの金額がキャッシュで用意されているという連絡があったので、そのことを榎本に連絡した。第一回目のときは、榎本に直接ロッキード東京事務所の方に受取りに行ってもらおうと思い連絡したのであるが、同人がためらったのでやむなく野見山に取りに行かせたうえ、榎本の都合を聞いて渡したのである。大久保の話では、全額キャッシュで用意されているということであり、この点は、第二回、第三回、第四回のときも同じだったと思っている。授受に関する連絡が、予め大久保からあったことは間違いなく、クラッターと私との間では、直接事前の連絡や打合せはなく、大久保から連絡があっただけである。領収証文言中のピーナツ何個、ピーシズ何個という符牒や個数は大久保から言われたもので、それが現金でありピーナツ、ピーシズ一個が、それぞれ一〇〇万円を意味することは、大久保から説明されていた。第一回目の一〇〇ピーナツ一億円の領収証は、作成日付が昭和四八年八月九日付になっているので、その日に作成したと思っている。その日の午前であったか午後であったか時間は覚えていない(なお、この点に関し、捜査段階で検察官に対しては、その日野見山を取りに行かせたが、受取ることができないで帰って来たのが夕方だったことから、逆算して、その日の午後早々のころと思う旨述べたと思う。)が、大久保が私の部屋に来て、私の席の傍らの窓側に二人で立って大久保の話を聞いたと思う。大久保は、ロッキードの方から一〇〇ピーナツ一億円をキャッシュで用意し引渡すという連絡があったので、私の方でクラッターから受取ってくれという趣旨の依頼があり、ロッキードからの要請で一〇〇ピーナツを受取ったというメモみたいなものをこしらえてくれということだったので、私はやむを得ないと考え承知した。そして聞いた言葉のとおりだったと思うが、中居に伝え同人にタイプさせたのである。私は、これまで符号や暗号などこれに類する領収証を作成したことはなく、このときが始めてであったが、大久保に頼まれて引受けたのである。暗号による領収証にしたのは、そのときの大久保の説明によると、クラッターが上の方からあまり信用されていないようで、上の方に見せる必要というロッキード社の社内事情として使用するのであるから、丸紅には決して迷惑をかけるものではないということであり、かつ、クラッターが非常に強くそういうことを言っているということであったので、その説明を聞いて、なぜロッキードのためにしてやるのにそこまで丸紅がしなければならないのかという気もしたけれど、結局やむなく引受けることにしたのである。そして、なぜ私がサインをしなければならないと言ったとき、大久保は、確か、自分はロッキード社側との直接の窓口になっているので、自分でないほうがいいんじゃないかと言っていたと思う。ロッキード社側が言っているのは、同社の社内事情だけであり、田中側から領収証を取ってくれという要請を聞いたことはないし、また田中側から領収証を取ることができないので丸紅に要求してきたとも理解していなかった。私は、このような領収証を作るについて、心の抵抗を感じたし、決して好んでしたわけではない。大久保からの連絡の中に、クラッターから金を受取る時刻について、何時以降というような話があったと思うが、それがいつであったかは覚えていない。私は、中居に一〇〇ピーナツ領収証の作成を指示したとき、それがロッキードから田中へ贈る金の領収証であるという趣旨のことは一切話していない。私は、秘書課の野見山に封筒に入れた領収証を持参させ金を受取りに行かせた。その際野見山にどのように言って頼んだか具体的な言葉は覚えていないが、領収証の内容について説明しておらず、大手町のロッキードの東京事務所に行ってクラッターから書類を受取ってくるよう言ったと思う。なお、受取るものについて、それが書類であり、それがかなりの量の書類であると言ったかもしれないが、そのほかのことは一切話をしていない。また、受取りに行く際私の専用自動車を使うよう、そして、受取ったものは、確か、車に積んでおくよう言ったと思う。受領後報告することについては、いうまでもないことである。野見山を受取りに行かせることは、大久保に頼んでロッキードに連絡してもらったと思うが、野見山が一億円を入れる箱を用意して行ったということは全くない。野見山が出て行った時間は覚えていないが、帰って来たのは、確か、営業時間のおしまいのころだったという記憶がぼんやりとある。野見山から、書類を受取ることができなかったこと、明日の朝もう一度来てくれということであった旨の報告を受けた。私が持参させた領収証は先方へ渡してきたということであった。当日書類を受取れなかった理由については特に説明はなかったと思う。翌八月一〇日朝受取ることができるということであったので、野見山に行って受取ってくるよう頼んだが、その際、朝早い時間であったので、私の専用車を使うよう言ったと思う。当時、野見山は沼袋に住んでいた。すなわち、私が出勤する前に、松岡克浩の運転する私の専用車が野見山の家へ行き、それからロッキードの東京事務所に行って受取ってくるよう頼んだのである。そして受取ったものは車に入れたままにして、私に報告するよう話していたと思う。野見山から受取った旨の報告を受けたのは、私が会社へ出勤してからであったと思う。受取ったものは車に置いてあるということであった。松岡が自宅に迎えに来るのは通常八時から八時三〇分ぐらいであるから、八月一〇日もそのころ迎えに来たと思う。出社前に、車に受取った物が積んであるかどうかを確かめたか覚えていない。車に乗る前、トランクルームを確かめてみたことが、あるいはあったかもしれない。中身が段ボール箱であるという記憶があり、ビール箱くらいの大きさで、ガムテープみたいなもので厳重に封がしてあったような感じであった。私は、お金を預って届けるだけであるから、中身を開けて見る気はなく調べていない。第二回目の一五〇ピーシズ領収証に関する金を受領したのは、昭和四八年一〇月一二日である。このときも大久保から連絡があり、一五〇ピーシズの領収証を作り、野見山をロッキードの方に取りに行かせたのである。一五〇ピーシズが何を意味するのかについて中居に話をしていないし、また野見山に対しても、受取ってくるものが現金であることは知らせていない。この領収証も袋に入れて野見山に持参させた。このときも、松岡運転の私の専用車を使って取りに行かせたが、受取った荷物はやはりトランクルームに入れたままであった。野見山から受取った旨の報告を受けているが、受取ってきたのが午前であるか午後かは覚えていない。この受取った金は、松岡に頼んで榎本に交付したのであるが、私は、トランクルームに入っている段ボール箱を直接確認したと思う。それはその日自宅に戻ったとき、松岡にトランクルームを開けさせてそれを確認したのであったかもしれない。段ボール箱は、第一回目のときと同様、ガムテープで封がしてあったと思う。その中身の確認をしていないのも前回と同様である。第三回目の一二五ピーシズ領収証に関する金の授受は、領収証の日付がそうなっているので昭和四九年一月二一日じゃないかと思っている。第三回目の授受に関しては、いまだにもう一つはっきりしないのであるが、関係者がそれぞれ自分が関与した状況を述べているところを検討すると、そこに空白部分が生じ、そこは私がやったのであろうと思われる部分がいくつか出てきて、いろいろ考えてみると、あるいは、右の領収証は丸紅東京本社で私が直接クラッターに渡したのではないかな、と思うようになったし、今もそう思っている。しかし、私が丸紅東京本壮一五階の応接室でクラッターと会ったという記憶があるわけではない。第四回目の金の授受については、昭和四九年二月二八日、一二五ピーシズ領収証を作成し、これを野見山に持参させてロッキードの東京事務所に受取りに行かせたと思う。翌三月一日、自宅で榎本にこれを渡したが、それまでは二月二八日夜自宅に持ち帰り、松岡に運び込んでもらったうえ、玄関に近い部屋の隅に置いて保管していたのである。昭和五一年二月五日本件が表面化した後、私は、毛利総務課長と松岡運転手に指示して私の専用自動車の行動表(甲再二41、社有自動車行動表松岡分)を書き換えさせたことがある。これは、私自身が自動車行動表を点検したうえ改ざんすべき個所を具体的に指摘して書き換えさせたのである。私は、事件が表面化した以降、私がサインした領収証は金銭の授受とは関係のないものであると言っていた。ところが、たまたま持ってこられた自動車行動表を見ると、野見山がロッキードの東京事務所がある大手町に行っていることが記載されており、その記載は私の記憶とも合致し、これが取調べられてはまずいのではないかと思い改ざんさせたのである。私は、領収証や自動車行動表と関係なく、ピーナツ・ピーシズ領収証に関連し、野見山をロッキードの東京事務所に金の受取りに行かせたという点についてははっきり覚えていたのである。特に、野見山が、昭和四八年八月九日、ピーナツ領収証を持ってロッキードの方へ行ったが金を受取らずに戻り、そして受取が翌朝になったという報告を聞き、その際私の専用車を使うように言ったことについては比較的よく覚えていたので、自動車行動表を改ざんさせようと思ったとき、一番最初に見たのがこの日の記載であった。私は、野見山をロッキード社へ行かせるについて、松岡運転の私の専用車以外の車を使わせたという記憶はなかった。自動車行動表の書き換えを指示した中で、行先の場所について覚えているのは、ロッキードの東京事務所のある大手町という記載と、野見山の家のある沼袋という記載であり、また、野見山を受取りに行かせたことを覚えていたことから、同人の名前が出ておればまずいという気持から、同人の名前が出ている記載を消すよう指示したが、ほかにも秘書課の者の名前が出ているところは消した方がよいと指示したのである。現在改ざん後の自動車行動表を見ただけでは、どこを書き換えさせたかわからないが、昭和四八年八月一〇日に、確かに、朝野見山方に松岡が迎えに行ったうえロッキードの方に行っているのに右行動表にはその表示がないので書き換えさせたのかもしれない。野見山の家は沼袋と覚えているので、もともとの記載は沼袋まで迎えに行った記載があったのではないかと思っている。同年一〇月一二日にも野見山をロッキードの東京事務所に金を受取りに行かせているのに、同日分の自動車行動表にはその記載がないので、これは野見山の名前が出ていたので改ざんさせたという可能性がある。

また、伊藤は、昭和五一年八月一二日付検面調書において、第三回目の授受について、検察官に対し次のとおり供述している。

自動車行動表綴(松岡作成のもの)のうち、昭和四九年一月二一日分は書き換えておらず、松岡の車のその日の実際の動きを示している。私は、ピーナツ・ピーシズ領収証四枚の作成日付に該当する日の自動車行動表四枚のうち三枚は書き換えさせたが、一枚は大手町へこの車が行った記載がなかったので、書き直す指示は出していない。昭和四九年一月二一日分が書き直しをしていない分に該当することは間違いない。また、私の記憶に会社の一五階の応接室でピーシズ領収証をクラッターに渡したことが残っている。この点の記憶は非常に断片的であるが、クラッター及び大久保が座っている応接間に入って行き、ハウドウュードウと初対面の握手をしてすぐピーシズ領収証をクラッターに渡し、サンキュー、という言葉をきいてすぐ部屋を出た記憶がある。この時も、私が指示して一二五ピーシズの領収証をタイプさせたことは間違いない。昭和四九年一月二一日の自動車行動表には大手町へ行った記載がなく、私はこの五億円の件で松岡車以外を使った記憶は全くないので、今いったピーシズ領収証を私が直接クラッターに渡した記憶と考え合わせると、この第三回目についてはクラッターが金を直接丸紅まで運んでくれたのではないかと思う。そういえば、松岡に対してだったと思うが、この件の金の入った段ボール箱を地下二階の駐車場に入っているクラッターの車から私の専用車に積み換えるよう指示した記憶がうっすらある。それがこの第三回目だったのではないかと私は考えている。つまり、第三回目については、一二五ピーシズの連絡を大久保から前二回と同様私が受けた記憶ははっきりしているが、その時に、大久保からこの日クラッターがこの金を持って来てくれることになっていると言われたか、あるいは、私の方に取りに行けない事情があって、大久保か秘書課の者を通じて、私がその金を当社まで運んでくれとクラッターに頼んだかのいずれだったと思う。この回は、前回同様、ピーシズの符牒をロッキードが使っており、一二五ピーシズつまり一億二、五〇〇万円引渡されることになると、私は大久保から聞いている。

(4)  原審証人中居篤也の証言

伊藤の公判廷における供述により、本件ピーナツ・ピーシズ領収証の文言をタイプした者とされている当時の丸紅東京本社の社長室秘書課長中居篤也は、原審において次のとおり、伊藤供述を裏付ける供述をしている。

私は、ヒロシ・イトーあるいはH・イトーという署名のある領収証四枚の作成に関与した記憶がある。示されたピーナツ一枚ピーシズ三枚の領収証の写し(甲再一41)のようなかっこうのもの(形、大きさ、内容)であり、この領収証の写しのすべてを、私がタイプしたものであるかどうかというふうに聞かれるのであれば、それは定かな記憶はないと言う以外にないと思うが、確かに、このようなかっこうのものを複数枚タイプしたという記憶がある。そのピーナツ・ピーシズ領収証は当時の社長室長であった伊藤から頼まれてタイプしたのである。私は、執務中、伊藤に呼ばれ、このようなものをつくってくれと、あるときは伊藤自身が書いたメモを示されて受取り、あるときはピーナツ・ピーシズ領収証に記載されている単位と数字を言われてそれを私がメモ用紙に控えたと思う。メモを渡されたのは少なくとも一回はあったと思うし、口頭で言われたのを私自身がメモした回数も、少なくとも一回はあったと記憶しているが、回数について具体的に断言できる記憶はよみがえってこない。メモを渡されたときには、そのメモのとおりタイプしたと思う。数字と単位を口頭で言われてタイプした際の指示は、要するに受取ったという趣旨のものを作れということであったと思う。一九七三年八月九日付領収証の写しを見て、自分でやったかなあという感じはあるし、一九七四年一月二一日付、同年二月二八日付領収証も、そのようなかっこうのものをタイプした記憶がかすかにあり私が作成したのではないかと推測されるし、また一九七三年一〇月一二日付の領収証についても、私固有のやり方とは言えないが、私も同領収証記載の文言形態で作成する。各領収証の作成日付について、ポストデイトにしろとかバックデイトにしろというようなことは言われなかったと、かなり断定的に言えると思うし、特にどの日にしろという指示を受けた記憶はなく、当然のことながら、タイプしたその日付を入れていると思う。各領収証はタイプを打ち終ると、すぐ伊藤に渡した。なお、私が秘書課長をしている当時、このピーナツ・ピーシズ領収証以外に英文の領収証をタイプしたことは、まずないと思う。また、ピーナツ、ピーシズが何を意味するのか聞いて、指示されて気軽に機械的に処理した。昭和五一年二月五日の夕刊に掲載されたものを見たとき、かっこう、分量、文言そういったことを総合して、私がこういうものを作ったんじゃないかなという記憶がよみがえったのである。

(5)  野見山國光の原審公判廷における証言及び検察官に対する供述

伊藤の公判廷における供述により、伊藤の指示で、ロッキード社の東京事務所に赴き、クラッターから現金が入っている段ボール箱を受取った者と言われている、当時の丸紅の社長室秘書課員野見山國光は、原審公判廷において次のとおり証言している。

私は、昭和四八年夏ころから四九年春ころまでの間、ロッキード日本支社に行った記憶はあるが、私の記憶の範囲では、何回行ったかについて、具体的、かつ正確に述べることはできない。私が具体的にはっきり記憶していることは、私がロッキード日本支社の受付のソファーに座って読んだ本の中で見た言葉と、秘書課の仕事をしていたときに書いた言葉が一致していたということで、それが一番強い印象として残っており、また断片的な記憶になるが、私がロッキード日本支社の一番奥まった部屋にいたワイシャツ姿の大柄な白人と会ったこと、そして、その外国人の部屋に入ったとき、床の上に段ボール箱が置いてあったこと、更に、大手町ビルのロッキード支社のある階のエレベーターの前で段ボール箱を持って待っていたこと等である。これらのいくつかの記憶が、私がロッキード日本支社へ一回行った機会のものであるのか、数回行ったときの別々の機会のものであるのかはっきりしない。また、私は、白い封筒についても覚えており、これをロッキード日本支社に持参し渡した記憶がある。その渡した場面を覚えていないので断言できないが、推測すれば、昭和五一年二月五日本件が表面化した後の状況からクラッターと思われる前記ワイシャツ姿の白人に渡したものと思われる。私は、昭和五一年七月ころ、勤務先のニューヨークから日本に帰国し検察官の取調べを受けたが、その際、記憶喚起のため、丸紅の小山副社長の行動予定表(甲二86)を見せられた。その昭和四八年一〇月五日のページに、その日以前に私が書き入れた「一〇月五日から一〇月一一日、ロッキード入間基地」という記載があり、これはロッキード主催の行事が入間基地で行われるという意味になるのであるが、これを見た後で、私がロッキード日本支社の受付で待っている間に読んだ本の中に、入間基地という言葉があったのを思い出し、私が、そのころロッキード日本支社の受付にいたという記憶がよみがえったのである。その際なぜロッキード日本支社の受付に行ったのか、具体的な一連の記憶はないが、断片的な記憶をつなぎ合わせて推測すると、結局、封筒を渡して段ボール箱を受取りに行ったのであろうと思われる。ロッキードの日本支社に私自身の用件で行くということはあり得ないことであるし、上司に頼まれて行ったと思うが、中居課長から頼まれたのではないという記憶があるので、頼まれたときの状況やどういう言葉をいわれたか等具体的状況については覚えておらず確たる記憶があるわけではないが、いろんな状況から考えて、伊藤社長室長から頼まれたもので、封筒も同人から渡してこいということで持って行ったものと思っている。誰に渡すよういわれたか覚えていないが、結果から推測して私が後にクラッターと思った人物であると思う。封筒は横長の白い無地のもので何も書いてなかった気がするが、封がしてあり、薄いもので、何が入っているのかはわからないが、中に何枚も入っているというようなものではなかった。一般的に、伊藤に用件を命ぜられて出かけて行くとき、松岡運転手が運転する伊藤の専用自動車を使用したことは何回もある。段ボール箱が置いてあったのを見たのは、後にクラッターであろうと判断した人物の部屋においてである。大手町ビルのロッキード日本支社へ行き、受付には外国人の女性がいたと思うが、その受付で待たされ、この間日本語の雑誌を見たがそこに入間基地のことが書いてあったのである。そして一番奥の部屋に行きクラッターと思われる人物に封筒を渡して段ボール箱を受取ってきたんだと思う。その後、段ボール箱を持ってエレベーターの前で待っていた記憶があるが、段ボール箱の重さは両手で持ってまあまあ歩ける程度のものであった。そして他へ持って行くところもないので丸紅東京本社に持って帰ったと思う。段ボール箱の中身については知らない。それを誰かのところへ持って行ったり、上の方へ運び上げたりした記憶はなく、したがってそのようなことはしなかったと思うが、車の中に入れたままにしていた可能性が一番強い。伊藤に対し、封筒を渡し段ボール箱を受取って来たことを、おそらく報告したと思う。右のように、ロッキード日本支社に行ったその日を特定することはできないが、小山副社長の行動予定表に私がメモをしている時期から考えて、その記載されている時期とそう遠くない昭和四八年一〇月一〇日ころであろうと思うし、私の記憶に残っている感じでは、時間的には午後のことだったと思う。次に、私は、クラッターと思われる人物からフライデーモーニングと言われた記憶があるので、このことからロッキード日本支社に行ったことは間違いないと思われる。また、私は、ロッキード日本支社に行ったが、段ボール箱を受取ることができず、空振りで帰って来たことが一回あったような気がする。その日はフライデーモーニングではなかったはずであるから、結局フライデーモーニングということは、フライデーモーニングにもう一度来てくれということであったと思われる。昭和五一年二月五日事件が表面化して以降、ピーナツ・ピーシズ領収証四枚等が新聞等に公表され、領収証の日付についても公表されていたと思うが、私は、自分がロッキード日本支社に行って渡した封筒は領収証ではなかったのか、そして段ボール箱を運んだのは公表されている領収証の日付のころであったように推測し、箱の中身は見ていないのでわからないが、それは領収証に対応するものではなかったか等と考えていたこと等から、同年七月、検察官の取調べを受けたとき、これらの資料を示されて検討し、フライデーモーニングに結びつく領収証は第一回目の領収証であると考え、それは昭和四八年八月ころのことであると検察官に述べた。しかし、それは記憶に基づくものではなかった。私は、フライデーモーニングに、ロッキード日本支社に段ボール箱を受取りに行ったのであるが、それは受付で読んだ本の中に入間基地という言葉を見たときとは別の機会のことであった。そのときの状況を具体的に記憶しているわけではないが、おそらく伊藤から封筒を渡され段ボール箱を受取って来るよう指示されたのだろうと思われる。それ以外の可能性は思いつかない。その際、私が空箱を持っていった記憶はない。このときも松岡運転の伊藤専用車で行ったことは間違いないと思う。更に、私かロッキード日本支社に行って段ボール箱を受取った全体の回数については、フライデーモーニングといわれたことや、入間基地という言葉を見たことを記憶していたことから、二回分についてはおおむね記憶がはっきりしており間違いないが、その余の分については個別の具体的な記憶がなくはっきりしない。私は検察官の取調べに際し三回行ったように述べていると思う。もともとは四回行ったのではないかと聞かれていたのであるが、しかし、どうしても四回行ったことは思い出せなかったのでその記憶はないと述べたのである。それでは三回行ったことはないのかといわれれば、三回行ったことはないという自信はないと言わざるを得ないのであって、三回目のことについての具体的な記憶はなかったが、行ったとすればこういうことであったであろうというつもりで三回目のことについて供述したのである。三回目のことについて、検察官に対し「ロッキード支社に入りましたが、このときもソファーに座って待たされました。このときは一、二分か長くて五分以内しか待たされず、テーブルの上の全日空のパンフレットをパラパラとめくっていると間もなく部屋に通されました。」と述べたと思うが、それが当時の記憶に基づいて述べたのかどうかはっきりしない。どうして全日空のパンフレットといったのか覚えていないが、二回目の長く待たされたときと混同しているかもしれないし、右の供述をしたときの事情はわからない。また検察官に「第二回目のとき一〇分くらいも待たされていらいらしており、今回も長く待たされるのかなと思っていた矢先に意外に早く部屋に通されたのでそのことをはっきり覚えているのです。」と述べたと思うが、これも記憶に基づいて述べたのかはっきりわからない。更に、検察官に「そういうふうに早く部屋に通されてはっきり覚えている。二回目の際の待たされたときのことと混同していることは絶対にありません。」と供述している点については、二回目はとにかく待たされたという記憶があるが、三回目についてはうろ覚えですので、今はっきりした記憶はない。なお、私が、段ボール箱を受取る用件以外の用件でロッキード日本支社へ行ったことはないと思うし、クラッターと思われる人物に右用件以外のことで会ったこともないと思う。また伊藤の命令でロッキード日本支社以外の場所で前記のような段ボール箱を受取ったということはない。

また、野見山は検察官に対し次のとおり供述している。

昭和四八年八月の木曜日の夕方、伊藤社長室長に呼ばれて室長の机の前に行くと、伊藤室長から、これをロッキード日本支社のクラッターに渡してくれ、といって封筒を渡された。大手町ビルの四階に行きロッキード日本支社のドアを開けた。(その後の状況を判りやすくするため図面を作成し調書に添付。)中に入ると正面に受付があり外国人女性が座っていた。私は英語で、その女性に、私は丸紅コーポレーションの野見山である、ミスタークラッターに会いたい、と言った。その女性は電話でクラッターと連絡をとってくれ、右側の一番奥の部屋であると教えてくれた。右側というのは私の方から見て右側という意味である。私はノックしてその部屋に入った。すると大柄なクラッターが部屋の中に一人でいて椅子から立上ったので、私はクラッターの机の前に行き、私は丸紅コーポレーションの野見山である、伊藤のメッセンジャーとして来た、と言ってクラッターと握手し封筒を渡した。私がクラッターと会ったのはこの時が初めてである。クラッターは背広を着ていたがその色までは記憶していない。クラッターは封筒を開けて中を見た後、フライデーモーニングの何時に来てくれ、と英語で言った。指定された時間については明確に何時何分だったとは覚えていないが、午前八時前後だったと思う。というのは、丸紅の始業時間は午前九時一五分であるが、私はそのころ毎朝八時ごろ出勤しており、いつもよりそれほど早くこなくていい時間だったと記憶しているからである。丸紅社長室に戻り、伊藤室長に、封筒を渡してきたこと及び翌金曜日の朝何時に来いと言われたことを報告した。翌朝七時か七時半ごろ松岡運転手が沼袋の私の家に迎えに来てくれた。私は伊藤専用車の助手席に乗って大手町ビルに行き前日夕方と同じ出入口前に車を停めて松岡運転手に待ってもらい四階のロッキード日本支社に行った。朝早いため人影はまばらであった。私は指定された時間ピタリにロッキード日本支社に入った。この時は受付の女性がいなかったので真すぐ右側奥のクラッターの部屋に行った。クラッターが一人でワイシャツ姿でおり、部屋の真中辺りの床の上に段ボール箱が一つ置いてあり、これを持って行けという意味のことを英語で言った。その段ボール箱の大きさは調室においてある丸紅の書類保存箱と同じ位(三三×四二×二六センチメートル)かいく分大き目位だったように記憶している。それを持ってロッキード日本支社の外に出てエレベーターホールに行き段ボール箱を床に降ろしてエレベーターを待った。その段ボール箱を持って歩くとき、足もとがふらつくほどの重みはなかったが、持つたまますたすたとは歩けず、重いなと思いながらゆっくり歩きエレベーターが来るまで降ろして待っていた。このとき、四階のエレベーターホールの周りは時間が早かったため誰もいなかったように記憶している。エレベーターに乗って再び段ボール箱を降ろし、一階に着いたので段ボール箱を持って降り、伊藤専用車のところへ行くと、松岡運転手が後部トランクを開けてくれたので私がトランクの中にその段ボール箱を入れた(後部トランクに積込むときの状況を図に書いて調書に添付。)その後、その車に乗って丸紅東京本社に戻った。戻ったときにはまだあまり社員が出勤していなかったことは確かだが何時何分ごろであったかまでは覚えていない。社長室に上がったがまだ伊藤室長は出勤しておらず同人が出勤してから指示どおりしたことを報告した。私が運んだ段ボール箱は密封されていたので中味が何であるかは見ていない。ガムテープで密封されていたように思うがあるいは紐で縛られていたかもしれない。二回目に段ボール箱を運んだのは昭和四八年一〇月だったと思う。一〇月中の日中に伊藤室長から封筒を渡され、ロッキード日本支社のクラッターのところに行ってこの封筒を渡し荷物を受取って僕の車のトランクに積んでおいてくれ、と言われた。そこで松岡の運転する伊藤室長専用車に乗って大手町ビルに行き前回と同じ出入口横路上で車を止め松岡運転手にそこで待ってもらって封筒を持って四階のロッキード日本支社に行った。一〇分ほど待たされてから受付の外人女性がクラッターの部屋に入っていいという意味のことを言ったのでクラッターの部屋に入り預ってきた封筒を渡した。すると既に床の上に段ボール箱が置いてあったので、それを持って部屋を出た。このときの段ボール箱の形については丸紅の書類保存箱のような形ではなく、高さの高いもので、みかん箱のような一般的な段ボール箱の形とは異なった形であったように記憶している。それを持ってロッキード日本支社を出てエレベーターホールに行く間、大勢の人が廊下を歩いており、背広を着てこんな段ボール箱を運ばされて格好が悪いなあ、と思いながら、重いのを我慢しながら足もとがふらついたりしてみっともないようなことにならないように注意しながらエレベーターの前に行ったのを覚えている。このように、大手町ビルの廊下を大勢の人が動きまわっていたことからこれを運んだのが通常の勤務時間中の日中であったと言える。そして、エレベーターで一階まで降りて出入口付近路上で待っていた伊藤専用車の後部トランクにその段ボール箱を入れた。三回目に段ボール箱を運んだのはその三ケ月か四ケ月先であり、昭和四九年一月か二月か三月だったと思うが、それ以上細かい月日の断定がどうしてもできない。寒い時であったことは間違いない。この時も日中の普通の勤務時間中に伊藤社長室長から、これをクラッターに渡して荷物を受取って僕の車に積んでおいてくれ、と言われて封筒を渡された。そこで松岡の運転する伊藤専用車に乗って大手町ビルに行ったが、このときは地下駐車場に車を入れたように思う。この日も雨や雪は降っていなかったが、二回目のとき、ロッキード日本支社で一〇分間くらい待たされ松岡を路上で待たせてしまったことと、寒い季節であったことから地下駐車場に車を入れたように思う。そして地下一階の駐車場の出入口から中に入りエレベーターで四階に上がった。そして、ロッキード日本支社に入ったが、このときもソファーに座って待たされた。このときは一、二分か長くて五分以内しか待たされず、テーブルの上の全日空のパンフレットをパラパラめくっていると、まもなく部屋に通された。第二回目のとき一〇分間くらいも待たされていらいらしており今回も長く待たされるのかなあと思っていた矢先に意外に早く部屋に通されたのでそのことをはっきり覚えている。二回目の際、待たされた時のことと混同していることは絶対にない。部屋に入ると、クラッターが一人でいたので封筒を渡し床の上に置いてあった段ボール箱を受取ってロッキード日本支社を出た。このときの段ボール箱は第一回目のときと同じ形だったように記憶している。このときも、クラッターは、これを持って行ってくれ、という意味のことを英語で言った程度で、会話らしい会話は何もしなかった。私は、現在では外人と英会話ができるようになったが、このころは英会話に自信がなかったので、伊藤のメッセンジャーとして来た、と必要最小限のことだけを英語で話したあとは、話しかけられたら困ると思いながら、そそくさと段ボール箱を持って出てきたのである。クラッターの方も三回目だからといって私に対し親しく話しかけようとする素振りは全然見せなかった。他に私が話したといえば、持って行けと言われ、OK、と言っただけである。四階のエレベーターホールの前に歩いてきたとき、このときも廊下を大勢の人が歩いており、真昼間に背広を着てこんな不体裁な重いものを二回も運ばされて格好が悪いなあ、と思ったことをはっきり記憶している。このとき、私は地下二階まで降りるエレベーターの前に最初立っていて、地下一階までしか行かないエレベーターの方が人も少なくてはずかしい思いをしなくてすむし、エレベーターから大きな荷物を持って降りるのも簡単だと考えて反対側のエレベーターの前に変ったのを記憶している。エレベーターで地下一階まで行ったことに間違いないと思うが断言はできない。この段ボール箱も松岡に伊藤専用車の後部トランクを開けてもらってこの中に入れたことは間違いない。その後丸紅東京本社に帰り、社長室に戻り伊藤室長に指示どおりしたことを報告した。

(6)  松岡克浩の原審公判廷における証言及び検察官に対する供述

丸紅の自動車運転手で伊藤の専用自動車の運転を担当していた松岡克浩は、LAAL東京事務所へ段ボール箱を受取りに行ったという野見山秘書課員を、右自動車で送迎したこと、及びこれに関連し、右自動車の運行状況を毎日克明に記録した自動車行動表(以下「運転日報」ともいう。)を改ざんしたことについて、原審公判廷において次のように証言している。

丸紅東京本社が警視庁から捜索を受けた後の昭和五一年三月一六日ころ、私は警視庁に呼び出され、私が運転を担当していた伊藤専用車の運行状況を記載した運転日報について事情聴取を受けたが、その際、昭和五〇年以前の古い運転日報の所在について尋ねられた。取調べの担当官は、丸紅の毛利総務課長にも電話で古い運転日報の存否について尋ねていた。私は取調べが済んだ後、上司に当たる毛利総務課長に対し、取調べを受けた状況を報告した。その後、同月一八日か一九日ころ、伊藤社長室長の部屋に呼び出され毛利立会いのもとに、古い運転日報の改ざんを指示されたのである。伊藤は運転日報をめくって見ていたが、私にボールペンを持って来るよう指示した。私が運転日報を記載するため使用したボールペンは、当時会社で使われていたボールペンと異なっていたので、私は、神楽坂にある丸紅の宿舎若宮荘の自室にボールペンを取りに帰り、これを持って伊藤の部屋に戻ったが、その際、伊藤がしたと思われるブルーのボールペンによる書き込みが運転日報にされているのを見た。そして、私は、当日毛利から、右ボールペンで書いてある部分の秘書課の職員の名前(女性や野見山ら)の記載を抹消したり、社長室という記載を秘書課に書き換えるよう、また、四、五枚くらいあったと思うが、運行の記載全体を抹消し他の場所へ行ったようその運行全部を書き換えるよう指示された。私は翌日から一三階の総務課の会議室で書き換えの作業に入ったが、書き換え部分の追加指示があり、休日も出勤したりして、一日の作業時間が半日の場合や一~二時間という日もあったが、三日ないし四日かかってその作業を完了した。書き換えに使った運転日報の用紙は、毛利からその当時使用していた用紙の紙質が古い日報の用紙の紙質と違うことを指摘され、私が以前三軒茶屋の私所有のマンションに持ち帰り置いていた古い用紙を持って来て、改ざん作業に用いたのである。昭和五一年七月、検察官から取調べを受けるようになってわかったことであるが、本来の運転日報の用紙と改ざんに用いた用紙には違いがあり、昭和四八年八月一〇日分の日報は改ざんしたものであり、翌八月一一日分は改ざんしていないものであるが、両者の用紙を比較すると、紙の色の点において改ざんに供した用紙は、改ざん前の用紙に比べ色が黄色化しやや陽に焼けた感じになっており、また印刷の状況も、改ざんに供した用紙の左下の「運転時間」「始業時刻」「終了時刻」の文字の印刷が、改ざん前の用紙のそれに比べ濃くなっていることなどがわかる。私は、指示どおり、社長室とある記載を秘書課に書き換え、秘書課員の名前のある記載を単に「使い」と書き換え、改ざん指示のないその余の記載は従前の記載のまま移記する方法で日報の改ざんを行ったが、このようにして書き換えた運転日報の枚数は相当多かったことは覚えているが、正確な数は記憶になく、取調べの段階で検察官から八四枚あったと言われた。行先など運行全体を書き換えるよう指示されたのは四~五枚あったのであるが、その部分の指摘はあったが、どのように書き換えるのかその内容までの指示はなかった。行先を消した場合には、他の場所へ行ったように記載したり、書き換えにより走行距離数が合わなくなった場合には他の運行の走行距離をも書き換えて全体の距離合わせをした。行先や経路など全体にわたって書き換えた分で現在記憶にあものは次のようなものである。まず、車庫から新宿区若松町の三嘴(伊藤の秘書)方に行き、同女を乗せたうえ富士見町の伊藤方に行って同人を迎え、会社に到着した運行部分を改ざんした記憶がある。この運行部分を改ざんしたのは、三嘴の名前が出ていたのでこれを抹消するためであって、それ以外の目的があったわけではない。押収にかかる甲再二41社有自動車行動表(松岡分)一綴中の昭和四八年四月二七日分の運転日報は用紙の印刷の状況から改ざんしたものと思れれるが、改ざん前の記載がどのようになっていたかは覚えていない。三嘴を迎えに行ったのは地下鉄東西線がストライキで止まったためであるが、その日が四月二七日であったか日にちまでは覚えていない。検察官に取調べを受けたとき、このことは覚えていたのでその旨供述したが、ストライキの日を調べてもらった結果その日が四月二七日であることが判明し教えてもらったかもしれない。次に、一番よく覚えているのは沼袋に野見山を迎えに行った運行部分を抹消した点で、この部分は、行先など運行全体を書き換えるよう指示されていた部分であるが、改ざん後の距離合わせもあり、毛利課長と相談し、駒沢の会社の寮に私が総務課の使いで行ったように書き換えたことを覚えている。昭和四八年八月一〇日、この日中野区沼袋の野見山方に同人を迎えに行ったのであり、改ざん前の運転日報にその旨の記載があったことは間違いない。もっとも、その日が八月一〇日であると日にちまで記憶していたわけではなく、改ざん後の運転日報に「竹橋~駒沢」の記載があることを手がかりとして記憶を喚起し、運転日報の日付が八月一〇日となっているのでその日に間違いないと思うのである。この運行部分を書き換えるとき、毛利と距離合わせについて相談したが、最初は等々力の会社の寮へ行ったようにしようと話合ったが、等々力には児玉誉士夫の自宅があり都合がわるいということから、駒沢の寮だと距離的にも合うということで駒沢にしたのである。昭和四八年八月一〇日分の運転日報の元の記載は、多分、「車庫~沼袋~大手町~竹橋」という記載であったと思う。私が書き換え作業をしたとき使用者の氏名の記載が野見山であったことを確認しているわけではない。その余の運行部分の記載は書き換えていないと思う。その他、ロッキード日本支社のある大手町へ行った運行記載を抹消したかどうかの点については、改ざんに当たって機械的に作業し、運転日報の元の記載を一つ一つ確認しながら書き換えたわけではないので、元の記載についての記憶が薄く、竹橋~大手町間を往復したことは何度かあるものの、そのような運行を抹消したかどうか、一つ一つ覚えていない。しかし、車の使用者が野見山と記載されている部分の名前を消したこともあったと思うし、また野見山が使用した運行の記載について、その名前だけでなく行先や経路などの運行全体を完全に書き換えたものもあったような気がする。すなわち運行全体の改ざんを指示されたのが四、五枚あったのであるが、その中に野見山が使用した運行部分があったと思う。そして事実と異なる書き換えをした分で記憶にあるのは、前記の駒沢の寮へ行ったことにしたことや若松町へ迎えに行ったのを消したことのほか、書き換えによって別の場所へ行ったように記載する必要上、新富町へ行ったように記載したり、距離合わせの必要上本郷へ行った際の走行距離数を書き換えたりしたことである。伊藤がグランドパレスに行ったように飯田町と書き換えた分があるかもしれないが、この点ははっきり覚えていない。昭和四八年八月九日分の自動車行動表(甲再二41)には新富町という記載があるので書き換えたものであることを思い出したが、この記載は書き加えたものと思う。しかし改ざん前の元の記載内容は覚えていない。この日に野見山が竹橋~大手町を往復した記載があったかどうかはっきりしないし、今の時点でこれを肯定することはできない。私は、検察官から取調べを受けた際、改ざん前の元の記載を復元する作業をしているが、八月九日付の運転日報が改ざんされたものであることを確認したうえ、「竹橋~新富町」を書き加えていることや運転日報の下方に記載されている「本郷~竹橋」間の走行距離が二キロしかないことになっているが、そのように近い距離ではないということから、多分工作したのであろうということなどから、復元した日報には「竹橋~大手町」「大手町~竹橋」と記載していると思う。そしてこのような復元作業をしていることから、取調べを受けた当時、その日に、大手町ビルまで野見山を送り迎えしたことを思い出したのかもしれないが、現時点では改ざん前の元の日報に「竹橋~大手町」往復の記載があったかどうか、はっきりした記憶がない。昭和四八年一〇月一二日分の自動車行動表(甲再二41)の用紙は改ざん用の用紙であり、その記載内容は改ざんされたものである。この記載を見て気が付くことは、「紀尾井町~富士見町」二キロとなっているが、この間の距離は二キロ以上あると思われる点であり、距離合わせをしたため改ざんして二キロにしたものと思う。また、この日の伊藤の行動について思い出したことは、紀尾井町に行った記載があることから、おそらく結婚式にホテルニューオータニに行ったのだろうと思われる点であり、検察官が調べたところ、こり日右ホテルで結婚式があったとのことであった。したがって運転日報にある「一五時三〇分~一五時四五分、富士見町~紀尾井町」という記載はホテルニューオータニに行った運行と思われる。その前の「一四時一〇分~一四時二五分、竹橋~富士見町、伊藤使用」という記載がどういうことであったのかについては、現時点では覚えていない。もっとも、伊藤が結婚式に出るのにモーニングに着替えるため同人を富士見町の自宅まで送ったことが一度あったことを記憶しているので、紀尾井町という記載と相まって、モーニングに着替えるため自宅に帰ったのはこの日ではないかと想像して、検察官にはそのように供述したと思う。そして右供述をした当時、この日の運転日報を改ざんし距離合わせをしたことからその日にそのようなことがあったことを思い出したということがあったかもしれない。しかし現時点でこの日の運転日報の改ざん前の元の記載がどうなっていたか記憶にない。次に、甲再二41自動車行動表中の昭和四九年二月二八日分の運転日報の記載を見ただけでは、改ざん前の元の記載がどのようになっていたか、そしてそれをどのように書き換えたかについては思い出さない。伊藤は、河田町にある東京女子医大に定期的に健康診断に行っていた。二月二八日分の日報の河田町という記載から、当日、伊藤が東京女子医大に行っていると思う。しかし、このようなことを手がかりにしても、元のどのような記載を消すように言われたのか思い出せない。私は、検察官から取調べを受けたとき、改ざん前の元の記載を復元した運転日報を四、五枚作成した。昭和五一年七月二六・二七日付検面調書に添付されている私が復元した運転日報は、検察官に教えてもらったところもあるが、大体私の当時の記憶に基づいて書いたものである。昭和四八年八月九日分の復元した運転日報の「竹橋~大手町」往復、「使用者社長室野見山」「走行距離往一キロ復二キロ」という記載は、多分記憶に基づいて書いている。同月一〇日分の復元した運転日報の「車庫~沼袋」「沼袋~大手町」「大手町~竹橋」「使用者社長室野見山」という運行記載については、改ざん後の運転日報の駒沢という記載から多分この日の運行を思い出して書いたものであり、また「竹橋~富士見町」往復、「使用者伊藤常務」という記載も、当時思い出して復元したと思う。同年一〇月一二日分の復元した運転日報の「竹橋~大手町」往復、「使用者社長室野見山」という運行は、これが改ざん前の元の記載であっただろうと思う。それに、紀尾井町~竹橋の走行距離四キロが元の記載であったと思う。これらの復元記載は、当時、記憶に基づいてしたものである。更に、復元した昭和四九年二月二八日分の運転日報については、「竹橋~大手町」往復、「使用者社長室野見山」という運行や、「富士見町~河田町四キロ」「河田町~竹橋五キロ」という各走行距離を復元しているが、改ざん前の元の記載は多分このとおりであったと思う。なお、右の走行距離は運転日報を検討し他の記載例を見て書いたのである。改ざんした運転日報は毛利に点検してもらい、また、毛利はこれを伊藤のところへ持って行ってみようと言っていた。改ざん前の元の運転日報は毛利に渡したが、当時シュレッダーにかけて廃棄したと聞いているし、また改ざんした運転日報は警察に提出されたと聞いている。昭和五一年二月以降ロッキード事件が報道され、私は、テレビや新聞等で伊藤が署名しているピーナツ・ピーシズ領収証の写しを見ていたし、ピーナツ・ピーシズが金を意味するのではないかと国会で追及されていたことも知っていた。そして、運転日報の改ざんが、警視庁において押収した運転日報に基づいて伊藤の行動が調査され、更に古い運転日報の提出が求められている最中に行われるもので、かつ改ざんされた運転日報が警察に提出されるということもわかっていた。しかし、私は、当時、金がロッキード社から日本にきたことを知らなかったし、かつそのようなことを信じていなかったので、運転日報を改ざんすることについて特別気にしてはいなかった。私が改ざんしたのは、当時警察に呼び出され事情聴取された私自身の体験から、嫁入り前の女性たちが、警察に呼び出されて事情聴取をされるのは可愛想だと思って行ったことであり、ピーナツ・ピーシズ領収証に関連する証拠をいん滅するというようなことは全く考えていなかった。もっとも、私が運転日報に記載されている女性の名前だけでなく、男性の名前も抹消したことは間違いない。昭和四八年八月一〇日、私が沼袋の野見山方へ行ったのは、多分伊藤の指示であったと思う。どのように言われたか、その具体的状況は覚えていないが、指示は前の日であったと思うがはっきりしない。野見山方に行ったことは、以前にも以後にもなく、このとき一回だけ覚えている。野見山方は同人に住所を教えてもらい、地図を調べて行ったと思うが、同大方は角にある幼稚園の隣であるということを同人が言っていたのを覚えている。野見山方へ行ったのは朝早い時間で大体午前七時ころではなかったかと思う。野見山を乗せて大手町にある大手町ビルに行ったが、富士銀行や安田火災の建物のある側の出入口横に止めたかもしれないが、どこで降ろしたかは覚えていない。どれくらい待ったか覚えていないが、野見山は戻ってきた。そのとき、同人が何かを持っていたという印象はなく、特に変ったことは覚えていない。また、野見山を乗せて竹橋~大手町間を往復したのが、昭和四八年一〇月一二日及び昭和四九年二月二八日であったとしても、このとき、特に変ったことがあったかどうか記憶にない。丸紅東京本社地下二階の駐車場で、ロッキード日本支社に出向していた福岡運転手の車から伊藤専用車に何か荷物を積み換えたことが一度あったような気がするし、取調べを受けた際、検察官にその旨供述したことがある。しかし、それは、そのようなことがあった気がするだけではっきりせず、何を積み換えたかわからない。

ところで、原審証人松岡克浩は、押収にかかる自動車行動表中の昭和四八年八月一〇日分の運転日報の記載から同日、朝早く中野区沼袋の野見山方へ行き、同人を乗せて大手町ビルヘ行き、更に竹橋の丸紅東京本社に帰ったこと、したがって、改ざん前の元の運転日報に、「車庫~沼袋~大手町~竹橋」を示す運行の記載があったことを認めながら、元の運転日報にその車の使用者欄に野見山の氏名が書いてあったかどうかわからない旨証言し、更に、竹橋~大手町間を往復したことが何度かあり、また伊藤から運行全体の改ざんを指示された四、五枚の中に、野見山が使用した運行があったと思うが、竹橋~大手町往復の運行を抹消する改ざんをしたかどうかについては現時点においては一つ一つ覚えていない旨証言しているが、検察官に対しては次のとおり実質的に異なった供述をしているとともに、そのような供述をした事情について次のとおり証言している。すなわち、松岡は、検察官に対し(昭和五一年七月二六・二七日付検面調書一八項、五二九四丁以下)、昭和四八年八月九日付運転日報について、「この日の分には、午後社長室の野見山さんが大手町を往復した記載があり、これを消すよう指示されていたのです。この翌朝、私は野見山さんの家まで車で迎えに行っており、この日野見山さんを大手町ビルまで乗せて行ったことを覚えています。」と供述し、この点について、原審公判廷において、検察官にそういうことを言ったかもしれませんが、今そうであるとは言いきれません、と述べている。右に関連した距離合わせについて、検察官に対し「その分を消す代りとして、私が新富町へ使いに行ったことにしたのです。新富町までは片道三キロあり、走行キロ数が合わなくなったので、竹橋~本郷の往復片道四キロと書いてあったものを三キロ、二キロとして距離合わせをしたのです。」と供述し、この点について原審公判廷では、おそらくその運転日報を見たときにはそのようなことがいえるので、検察官に供述したかもしれませんし、そういう距離合わせをしたことは覚えている旨述べ、更に、検察官に対し「本郷のどこに行ったのかは具体的に思い出せませんが、東大正門近くに丸紅不動産が建築するファミリー本郷というマンションの建築予定地か建築現場を見に行ったのではないかと思います。竹橋~本郷間は片道四キロあり、二キロ、三キロではありません。」と供述し、かつ原審公判廷において、右の点はそのとおり間違いなく、それは記憶にある旨述べている。次に、松岡は、昭和四八年一〇月一二日分の運転日報について、検察官に対し(前同検面調書二〇項、五二九七丁以下)、「この分についても、伊藤さんが午前八時一〇分出社された後、午後二時一〇分自宅に戻られるまでの間に、野見山さんが大手町を往復した旨の記載があったのです。私の記憶では、この大手町往復は行きも帰りも走行距離一キロと記載してあったように思います。」と供述し、かつ検察官に対しこのように供述している点について、原審公判廷において、記憶は多少あったが、運転日報の元の記載について一つ一つ覚えていないので、とにかく検事に頼るほかないと考えていた、改ざんの経過、どこをどう直したか、時間、距離合わせをどうしたか等を検討した結果思い出したところもあるが、元の記載がどうなっていたか覚えておらず、野見山が大手町へ行った旨の記載を消してしまったのかどうかわからないし、この運転日報を見ても、距離がちょっと合わないという程度で、元の記載内容について、今思い出せない旨述べている。そしてまた、松岡は、検察官に対し、「一〇月一二日分について、大手町往復二キロを消すように指示されていたので、この分を除きその代り竹橋~紀尾井町の往復が、片道四キロとなっていたのを五キロと水増しして距離合せをしたのです。」と供述しているところ、この点について、原審公判廷において、検察官に供述した当時、たぶんそのように記憶していたと思うが、今ははっきり覚えていない旨述べている。更に、松岡は、昭和四九年二月二八日分の運転日報の改ざんについて、検察官に対し(前同検面調書一二項、五三〇〇丁以下)、「この日、伊藤さんは、河田町の東京女子医大で定期健康診断を受けてから出社していますが、その後、野見山さんが大手町を往復した記載があったのです。その分を消せという指示があったので、私はその分を消して代わりに伊藤さんが昼食時に飯田町のホテルグランドパレスに行われたことにして、その旨の運行をでっちあげました。」と供述し、検察官にこのように供述したことについて、原審公判廷において、その日にちについては覚えていないが、何かそのようなことがあったように思う、この日の分も改ざんしてあるんだと検察官に言われて検討すると、距離が合わず、河田町~竹橋間はおそらく三キロ以上あり、いつも四キロか五キロくらいに書いていたと思うのに、それが三キロと記載され距離が合わないので、検察官がこの日改ざんしたんだと言うので、たぶんそう書いてあったんじゃないかと供述したのである。なお、距離が短いという指摘は、検察官がしたのか自分から言い出したかわからない、と述べている。

更にまた、松岡は検察官に対し次めとおり供述している(昭和五一年七月二三日付検面調書、五二三六丁以下)。昭和四八年夏ころから昭和四九年にかけて、三回にわたり、丸紅秘書課員野見山が、重い段ボール箱を伊藤専用車に積み込んだことがある。そしてその段ボール箱を伊藤専用車の後部トランクに積んだままにしておいて、その日のうちに、伊藤と一緒に英国大使館裏などで他の車と落ち合い、伊藤の指示で私がその段ボール箱をその車に移し換えたことが三回くらいあった。また、私が段ボール箱を伊藤方自宅に運び上げたことも「回あった。このようなことが行われたのが何月何日のことであったか覚えていないが、私は、野見山斗乗車させて大手町ビルヘ行きそこで段ボール箱を積んで竹橋の丸紅東京本社へ運んだ自動車の運行状況を記載した自動車行動表を、警視庁に提出する前、伊藤室長や毛利総務課長の指示で書き換えたので、この自動車行動表を丹念に調べて書き換えた部分を見つけ出せば、その日がいつであったかわかると思う。例えば、私が朝早く中野区沼袋の野見山方に同人を迎えに行き、そこから同人を乗せて大手町に行き、段ボール箱を積んで丸紅東京本社に戻った運行については、自動車行動表上、その部分を全部消して代りに総務課の使いが丸紅東京本社から駒沢の会社の寮へ行ったことにして書き換えているので、その記載を見つけ出せばいいわけであり、また、野見山を乗せて丸紅東京本社と大手町ビルを往復し段ボール箱を運んだ運行については、その部分を消し、代りに伊藤や使いの者が飯田町や新富町へ行ったことにしたようにし、かつ自動車の走行距離数を調整して書き換えているので、その部分を見つけ出すことによって、それがいつの日であったかわかると思うのである。自動車行動表を検討してわかったが、第一回目に野見山が段ボール箱を大手町ビルから運んだのは昭和四八年八月一〇日のことであり、野見山はその前日八月九日にも大手町ビルに行っている。昭和四八年八月九日分の自動車行動表は書き換えた後のものであり、改ざん前の元の行動表の行先、走行距離欄には「竹橋~大手町一キロ」「大手町~竹橋二キロ」、課名、使用者氏名欄には「社長室野見山」という記載があったのである。それを伊藤の指示で秘書が新富町へ使いに行ったように調整して書き換えたのである。私の記憶では、この日の午後、野見山が地下二階の駐車場に来て、大手町ビルまでお願いします、と言ったので、伊藤専用車に乗せて大手町ビルまで運んだと思う。このとき、野見山は、しばらくして大手町ビルから出て来て丸紅に戻ったと記憶しているが、荷物などは積み込んでいない。その日の夜、伊藤を自宅へ送る途中、伊藤から、「明日の朝七時に野見山君の自宅に迎えに行ってくれ。用件は野見山君に話してあるから。僕のところはそれが済んでから迎えに来てくれればいいから。」と言われた。そこで、翌八月一〇日朝午前六時半ころ、若宮町の車庫を出て午前七時ころ中野区沼袋の野見山の家に迎へに行った。役員と社長室関係職員の住所録で野見山の住所を覚え、番地を探しながら行ったことを覚えており、野見山の家は幼稚園の隣であった。私が野見山の家に車で迎えに行ったのはこのとき一回だけだったと記憶している。野見山が、大手町ビルまでお願いします、と言ったので大手町ビルの富士銀行、安田火災の建物がある側の出入口横に車を止めた。着いたのは午前七時半ころで、野見山が、早く着きすぎた、と言いながら一階エレベーターホールあたりをぶらぶらしていたのを覚えている。そのうち、野見山は、それじゃぼつぼつ行ってくるわ、と言ってエレベーターで上がって行ったが、その時刻は午前八時前後ころだったと思う。しばらくすると、野見山が段ボール箱を持って戻って来たので、私が車の後部トランクを開けると、野見山が積み込んだ。私は、野見山を丸紅東京本社の社員通用口前まで送ったが、同人から、「荷物は積んだままでいいと伊藤さんから言われているから。」と言われたように記憶している。その後、富士見町の伊藤の家に行き、伊藤を乗せて丸紅に戻った。八月一〇日朝の運行経路は以上のとおりであったが、これを、車庫から伊藤を迎えに行って丸紅に戻った後総務課の使いが駒沢に行って戻ってきたように自動車行動表を書き換えたのである。なお、書き換えたのは、右の午前中の部分だけであり、午後の運行は改ざん後の自動車行動表に記載されているとおりである。第二回目に野見山が大手町ビルから段ボール箱を積み込んだのは、昭和四八年一〇月一二日であった。この日の分の自動車行動表も書き換えており、改ざん前の元の行動表には、午前八時一〇分伊藤が出社した際の運行と、一四時一〇分伊藤が自宅に戻った際の運行との間に、「竹橋~大手町」「大手町~竹橋」「使用者社長室野見山」の運行記載があったのである。右野見山の運行部分を抜いて、その代りに紀尾井町~竹橋を往復した運行の走行距離がそれぞれ四キロであったのを五キロに水増しして走行距離数のつじつまを合わせた。この日、時間ははっきり覚えていないが午前中か昼少し過ころ、野見山を乗せて大手町ビルヘ行き富士銀行、安田火災側の出入口付近に車を止め野見山を降ろしてそこで待っていた。第一回目のときに比べ駐車場入口に少し近い西寄りの道路脇で待っていた。一〇分か一五分くらいして野見山が段ボール箱を抱えて大手町ビルから出て来たので、私が後部トランクを開けその箱を積み込んだ。そして丸紅東京本社地下二階の駐車場に戻ったが、このときも野見山は段ボール箱を持って行かず車のトランクに積んだままにしていた。この日の自動車行動表は、野見山の大手町往復部分を消し走行距離を調整しただけで、その余の部分は改ざんせず、元の記載をそのまま移記したはずである。この日伊藤はモーニングに着替えるため午後二時二五分ころ自宅に帰り、その後奥さんと一緒に紀尾井町のホテルニューオータニで行われた結婚式に出席しているはずである。第三回目に野見山が大手町ビルから段ボール箱を積み込んだのは昭和四九年二月二八日のことであり、この日の自動車行動表を書き換えたことを覚えているのでこの日であると言うことができるのである。この日の朝、伊藤を迎えに行った。伊藤は、出勤の途中河田町の東京女子医大に寄って定期健康診断を受け、その後出社したのである。その後昼前後ころ、野見山が乗車して会社と大手町ビルの間を往復している。昼ころ、伊藤が飯田町に行った事実はなく、野見山の大手町往復の運行記載を取除き、代りに、伊藤が飯田町にあるグランドパレスに昼食を食べに行ったように、虚偽の運行記載に書き換え、他の走行距離を調整してつじつまを合わせたのである。この日野見山を乗せて大手町ビルの富士銀行、安田火災側の出入口の手前まで来たところ、月末のためか出入ロ付近の道路脇には車が一杯止まっていたので、その手前から地下駐車場に入った。なお、このとき、私が、「駐車場に入れましょうか。」と聞くと、野見山も「そうしようか。」と話して地下駐車場に入ったように記憶している。野見山は、地下のエレベーターホールから上がって行った。しばらくすると、野見山が段ボール箱を抱えて地下一階のフロントに来たので、私がフロントに車を寄せ、そこで後部トランクにその段ボール箱を積み込んだ。私はこの地下駐車場で積み込んだときの状況をはっきり記憶しており、右場所で積んだことに間違いないと断言できる。その後直ぐ丸紅に戻り、野見山は段ボール箱をそのま、まトランクの中に残して上に上がって行った。この段ボール箱は、その日伊藤を自宅に送ったとき、私が伊藤方の玄関口まで運び上げている。午後六時四〇分ころ、伊藤は丸紅東京本社を出て赤坂に向かっているが、会社を出るとき、私は、具体的な状況はどうしても思い出せないが、伊藤に、野見山が積んだ荷物を預っている、と報告していると思う。赤坂に行って待時間一五分間でそこから伊藤方に向かっているが、具体的記憶はないけれど待時間などからこの夜伊藤は赤坂の「原田」というスタンド割烹に寄って帰ったのではないかと推測される。午後七時三〇分ころ伊藤方前に着いたとき、伊藤が、今日積んだ荷物を降ろすように言って先にエレベーターで上がって行ったので、私は後部トランクから野見山が積み込んだ段ボール箱を持って運び上げたが、私の記憶では、このとき段ボール箱の上にウイスキー二本くらい入る程度の荷物を乗せて運んだように思う。

また、松岡は、右七月二三日付検面調書及び昭和五一年九月一九日付検面調書において次のように述べている。(ホテルオークラで積み換えた)この時の段ボール箱をどこで積み込んだかについては記憶がはっきりしない点があるので、もう少しよく思い出して改めて詳しく述べることにするが、現在覚えているのは、丸紅地下二階駐車場で、福岡運転手の車から段ボール箱のような物を伊藤専用車に積み換えたことである。福岡運転手は、丸紅からロッキード日本支社に出向し、ロッキード日本支社の専用運転手としてマーキュリーという外車を運転している。しかしながら、この時福岡の車から移し換えた段ボール箱とホテルオークラのフロントで積み換えた段ボール箱が、本当に間違いのない同一のものであるかと聞かれると、多少記憶がはっきりせず、自信のない部分もありますのでもう一度よく記憶を整理してみたい(以上七月二三日付)。丸紅ビル地下二階駐車場で、福岡運転手が担当していたロッキード日本支社の車から、段ボール箱を移し換えたことについて改めて記憶を整理した結果、こういうことが一回あったことは間違いないのです。この時の状況を図に書きます(図面調書添付)。正確な年月日については思い出しませんが、昭和四八年一一月以降のことであることは間違いない。というのは、同年一一月二日丸紅の市川忍会長が亡くなられる前は伊藤専用車の駐車スペースは図に書いたとおり、異なっていたからである。私が伊藤専用車を磨いていたとき、福岡のマーキュリーが入って来てフロントに止まった。この時その車から誰が降りたかは柱がじゃまになり見えなかった。その後、福岡が私に対し、「松ちゃん、伊藤さんの車にこの荷物を積んでおいてくれと言われたから。」と言ったので、私は福岡車のところへ行って後部トランクに積んであった段ボール箱を受取り伊藤専用車の後部トランクに積み換えた(以上九月一七日付)。

(7)  当審証人毛利英和の証言

伊藤及び松岡の供述で、松岡の自動車行動表の改ざんに関与したとされている毛利英和(昭和五一年三月当時、丸紅東京本社総務部総務課長であった。)は、当審公判廷において、次のように供述し、その事実を裏付けている。

昭和五一年三月ころ、警視庁から総務部関係書類の提出を求められたが、その中に運転日報があった。それは、伊藤が国会で証言した後警視庁からの強制捜索があり、丸紅東京本社社屋に保管していた新しい運転日報はその時押収されていたので、それより古い運転日報で当時品川の倉庫にあったと思う。私は、そのことを伊藤に知らせ、これらの書類に目を通すかどうか尋ねたところ、伊藤は運転日報を見てみようということであったので一四階の人事部の当時の伊藤の執務室(参与室)に松岡作成の運転日報一綴を私一人で持って行った。伊藤は、一枚一枚日報を見ていたが、いろいろ当時秘書課の人が松岡運転の車を使っているので、今後それらの人達に呼び出しがかかっては気の毒であるので、個人の名前が出ているところを消して秘書使いといった表現にするよう一部を書き換えることができるだろうかという趣旨の話があったと記憶している。私は、その時点から逆のぼった時点の日報を書き換えるというのであるから、運転日報の用紙や筆記用具のボールペンに違いがあるかどうかを確認してみなければならないと考え、その点を確認してみる旨答えたと思う。そして、松岡を総務課の部屋に呼んで聞いたと思うがはっきりしない。松岡は、当時、三軒茶屋に自宅を持ち、会社の寮若宮荘に住んでいたので、その両方を探すことにし、用紙は三軒茶屋にあるものが、またボールペンは若宮荘にあるものが同じものではないかということで持って来た。私は、その用紙をファイルさ,れている運転日報の用紙と比較検討し、それでよいと考えその旨を伊藤に報告したと記憶している。なお、私は用紙の大きさは全く同じだと思っていたし、その厚さも違いはなかったと思うし、印刷の状況の違いは見落として気がつかず最近そのような話を聞いて気がついたのである。伊藤は、私が報告した後、もう一度見たいと言ったので私が運転日報を持参すると、ブルーのボールペンで抹消して書き換える部分を線で引き具体的に書き込みをしたと記憶している。どのように書き換えるかについて何か言われたと思うが、どのように言われたか憶えていない。秘書課の個人名を消して秘書課使いというような表現にした記憶はあるが、伊藤が言ったからそうなったのか、松岡が言ったからかはっきり記憶していない。伊藤がこのような作業をしたのは二、三回あり、二回目ぐらいから松岡も立会っていた。最初の分は松岡は立会っておらず私から指示したが、その分は、書き換えの指示内容が書いてなければ指示することができないので、当然伊藤が書いていたと思うが、その内容については記憶がなく、私は伊藤が書いたようにそのまま書き換えるよう松岡に指示したと思う。私から、伊藤が消したところに松岡の判断で適当に補充するよう指示したことは絶対になく、また伊藤から松岡の判断で補充するよう指示された記憶もない。行先の運行区間の部分が改ざんされたかどうかについては、そのようなことがあったのではないか、という程度の記憶しかなく、具体的に一ケ所だけが記憶に残っている。それは、伊藤と松岡と私の三人で話をしたとき、私が行先を会社の独身寮がある等々力にしようと言ったら、伊藤か松岡のどちらかが、あそこは児玉邸があるのでまずいという話をしたことで、そのことだけを覚えている。その点について行先を駒沢にしたという記憶はなく、その改ざんの対象となった運行の日が昭和四八年八月一〇日であったかどうかは全くわからない。松岡の改ざん作業は一三階の総務部の中にある会議室で三、四日かけて実行され、私は松岡に付添ったり部屋から出て別の仕事をしたりしたが、私は、松岡が書き換えたものを読み直し、伊藤の指示どおりに正確に書き換えられているか、またその余の部分が元の記載のとおり移記されているかなどの点検をかなり神経をつかって行った。伊藤が改ざんを指示したその意図については、前記のほか思い当たるふしはなく、松岡とそのことを話したことはない。ピーナツ・ピーシズ領収証の日付と改ざんする運転日報の日付が一致するという意識は、当時、全くなく、伊藤が置かれていた状況と特に結びつけて考えてはいなかった。作業をする前、国会喚問があったと記憶しているが、伊藤が記憶していない部分があると不利になると思い、書類を警察に提出してしまうと二度と見られなくなるので提出前に目を通しておくと記憶の正確な確認ができるのでよいのではないかと考えて、目を通すよう進言したのである。改ざん後、元の運転日報はシュレツダーにかけて廃棄した。

(8)  いわゆるピーナツ・ピーシズ領収証四通の存在

クラッター・伊藤間の五億円の授受に関し、直接の当事者であるクラッター及び伊藤は、その受渡しを証するピーナツ、ピーシズという符牒を用いた領収証の授受がなされている旨供述し、大久保、中居、野見山らもこれを裏付ける供述をしているが、そのほかに、物的証拠として現にその領収証が存在し、右各供述の信用性を疑問の余地なく裏付けている。すなわち、原審で取調べられた領収証写し四通(甲再一41)は、米国上院多国籍企業小委員会が公表した同委員会が保管している領収証の写しを複写機器により科学的機械的正確さをもって転写再現した写しであるところ、同委員会は、右領収証の原本を、ロッキード・エアクラフト社から直接または同社から雇われている独立の会計監査会社アーサー・ヤング会計事務所を経由して入手し、これを複写機器により正写しその写しを保管するとともに公表したものであり、領収証の原本は、ロッキード・エアクラフト社の会計監査のため返還され、スイス所在のロッキード・エアクラフト・インターナショナル・AGに送付され、その原本自体を証拠として提出することができない事情にある。他方、嘱託証人尋問に際し、クラッターに示されているピーナツ・ピーシズ領収証の写しは、同人が複写機器により正確に転写再現したコピーで、控えとして同人の手許に保管されていたものである(なお嘱託証人尋問調書に副証として添付されているものは、その写しを更に複写機器で正写した写しである。また、クラッターは、領収証の原本はすべてロッキード社のシャッテンバーグに送付したと述べ、一九七三年八月九日付のピーナツ領収証にはその旨のメモ書がなされている。)。そして、前記小委員会公表資料の領収証写しと、クラッターが保管している領収証の写しとを対照すると、これらの写しは、その形状に照らし、同一の原本から科学的機械的正確さをもって複写再現されたものであることが明らかである。そして、右各領収証写しは、「一九七三年八月九日ピーナツ一〇〇個を受領した。」「一九七三年一〇月一二日一五〇ピーシズを受領した。」「一九七四年一月二一日一二五ピーシズを受領した。」「一九七四年二月二八日一二五ピーシズを受領した。」旨のヒロシ・イトーの署名のある(ただし、一〇月一二日付分はH・イトーとなっている。)領収証であるところ、伊藤が右署名について自ら署名したものであることを認め、中居が、右署名部分を除くタイプ印字の部分を、同人がタイプして作成したことを認める供述をしており、クラッターが、右領収証が四回にわたり合計五億円を丸紅に引渡すのと引換えに受領したものである旨述べていることは前記のとおりである。そして、ピーナツ、ピーシズの各一単位が一〇〇万円を意味するものであることは、クラッター、伊藤、大久保が一致して供述しているところであって、これら四通の領収証が合計五億円の受渡しを証する領収証であることに疑問をさしはさむ余地はない。

(9)  いわゆるクラッター摘要中の収支控帳(特別勘定)の存在

クラッター摘要中の収支控帳写し(甲一196)は、クラッターが嘱託証人尋問に際し命令に基づき持参したうえ執行官に提出したその原本を、副執行官において複写機器で正写したもので(原本はクラッターに返還されている。)、クラッター自身が作成し保管していた、L一〇一一型機対日販売工作(ロッキード・プログラム)資金の収支明細書であり、その記載内容が信用できることは既に説明したとおりである。そして、クラッターの説明を参酌して右収支控帳の記載を検討してみると、一九七三年八月一〇日の交付欄に「一〇〇R」という記載があり、これは同日一億円(一〇〇ピーナツ)が支払われその領収証(Rは領収証を意味する。)が存在することを表していること、次に一九七三年一〇月一二日の交付欄に「一五〇R」備考欄に「最初の二分の一MBC交付完了」という記載があり、これは、同日一億五、〇〇〇万円が支払われその領収証が存在し、この支払いによって丸紅(MBCは丸紅を表す。)に五億円の最初の二分の一の支払いが完了したことを表していること、また、一九七四年一月二一日の交付欄には「一二五R」という記載があり、これは同日一億二、五〇〇万円が支払われ、その領収証が存在することを表していること、更に、一九七四年二月二八日の交付欄には「一二五R」、備考欄に「MBC(最終)(IDC)」という記載があり、同日一億二、五〇〇万円が支払われ、その領収証が存在すること及び右支払いにより丸紅に対する五億円の支払いが完了したことを示していることがわかる。

(10) 自動車行動表(運転日報)の存在

松岡作成の運転日報の一部が伊藤の指示によって改ざんされたことは、これに関与した伊藤、毛利、松岡ら三名の一致した前記公判廷における供述により認めることができるが、その他に、この事実を裏付ける物的証拠として、改ざんされた松岡作成の運転日報(甲再二41社有自動車行動表一綴)が存在する。

すなわち、伊藤、毛利、松岡らは、運転日報を改ざんする際、松岡が自宅に保存していた古い運転日報の用紙を用いた旨述べている。また、右三名及び野見山の供述によると、右運転日報の改ざんに当たり、松岡が中野区沼袋の野見山方自宅に同人を迎えに行き、同人を乗せてLAAL東京事務所のある大手町ビルヘ行き、その後丸紅東京本社に戻った運行記載を、松岡が総務課の使いで竹橋~駒沢間を往復したように書き換えたことが明らかであり、この点を改ざん後の運転日報につき検討すると、総務課使いによる竹橋~駒沢間往復という運行の記載があることに徴し、それは昭和四八年八月一〇日金曜日のことであったことが明らかである。そして、八月一〇日分の右運転日報の用紙(改ざん用の用紙)と、松岡が改ざんしていない元のままの運転日報であるという翌八月一一日分の運転日報の用紙を対比し、その他押収にかかる右運転日報の用紙を精査してみると、改ざんの用に供された用紙は、運行を記載する欄全体を囲んだ外枠の上方左角部(「出発時刻」と印刷された文字の左側部分)の印刷が不鮮明で消えており、また印刷された文字の状況が、改ざん用の用紙では色が濃くかつ鮮明さに乏しいのに比べ、元のままの用紙の印字の状態は色が比較的薄くかつ鮮明で、この点の特徴は用紙の左側部分に顕著に表れていること、及び用紙の色の変化すなわち黄色化の度合が、改ざん用の用紙が強いことが認められ、松岡も、このような用紙の違い、特に印刷状態の違いから、改ざんしたものとそうでないものとを選別することができることを認め、昭和四八年八月九日分、同月一〇日分、同年一〇月一二日分、昭和四九年二月二八日分の各運転日報は改ざんしたものであることを認める供述をしており、かつこれらの運転日報用紙はすべて前記の改ざんの用に供された用紙の特徴を備えている。ところで、昭和四九年一月二一日付の一二五ピーシズ(一億二、五〇〇万円)の領収証に見合う金銭の授受に関する運転日報の改ざんは見当たらず、松岡は昭和四九年一月二一日分の運転日報は改ざんされたものではない旨述べているところ、同日分の用紙を精査してみても前記の改ざん用の用紙の特徴を備えていない。したがって、同日分の運転日報は元のままの記載であるとみるべきところ、その記載から、当日丸紅からLAAL東京事務所へ現金を受取りに行ったことがうかがわれる運行は存在しない。しかしながら、この点については、大久保が、第三回目の昭和四九年一月二一日付領収証の授受について、丸紅東京本社にクラッターが来て一五階の秘書課に近い応接室において、伊藤が領収証らしいものをクラッターに交付したので、自分のメモにそのことを記載していた旨供述し、また松岡も公判廷において、丸紅東京本社地下二階の駐車場で、LAAL東京事務所に出向していた福岡運転手の車から伊藤専用車に何か荷物を積み換えたようなことが一度あったような気がする旨証言し、この点について検察官に対し、その荷物が段ボール箱であった旨その時の状況を記憶に基づいて具体的に供述しているところ、LAAL東京事務所に出向していた福岡清治運転手が作成した自動車行動表一綴(運転日報甲二88)の昭和四九年一月二一日分の記載を検討してみると、クラッターを乗せて同日午後〇時五〇分大手町を出て午後一時会社(丸紅東京本社)に到着し、一時間待って午後二時再びクラッターを乗せて大手町に帰った旨の運行記載があり、このことから、当日、クラッターがおよそ午後一時から午後二時まで丸紅東京本社に赴いたことが推認できるのである。

クラッターが、ロッキード社の系列会社から逐次送金されてきた円資金を保管していたことは前記のとおりであり、伊藤がクラッターから、ピーナツ・ピーシズ領収証と引換えに、原判示の日に各判示の現金を受領したことは、伊藤及び大久保とも公判廷において認めているところであり、前示の物的証拠及び関係者の供述証拠等原判決挙示の関係証拠を総合して検討すると、前記原判示事実を優に肯認できるのであって、原判決には所論のような事実誤認は認められない。

所論にかんがみ、以下、補足して説明する。

2 松岡克浩の検察官面前調書め証拠能力について

所論は、松岡克浩の検察官に対する昭和五一年七月二三日付、同月二六・二七日付(一部)及び九月一七日付各供述調書は、いずれも違法に収集された証拠であるのみならず、任意性特信性を欠くものであって証拠能力を認めるべきものではないのに、これを刑訴法三二一条一項二号後段の書面として採用し、事実認定の用に供した原判決には、同法条等の解釈適用を誤った訴訟手続に関する法令違反があるというのである。しかして、右所論を理由あらしめる事由として主張するところ(松岡に対する逮捕勾留の違法性、松岡に対する取調べの違法性、取調べ期間中の松岡の病状とその供述の任意性、予断に基づく誘導的強制的取調べ、伊藤上申書と松岡供述の任意性、特信性など)は、原審において主張されたところと同一であり、これらの点について、原判決は極めて詳細な判断を示しているところ(原判決三七九頁ないし三九六頁)、関係証拠を精査してその当否を検討しても、原判決の認定説示に誤りは認められない。すなわち、松岡に対する逮捕状に記載されている被疑事実の内容は、同人がいかなる犯罪を犯した嫌疑で逮捕されたのか一応認識できる程度に具体的に特定され、逮捕状に要求される被疑事実の要旨の記載として欠けるところはないと解されるのであって、その欠缺を前提とする主張は理由がなく、また、伊藤は議院証言法違反の被疑罪名で逮捕されているが、その他にも、昭和五一年二月五日米国上院チャーチ委員会における公聴会の証言内容や伊藤の署名のあるピーナツ・ピーシズ領収証の写しが公表されて以来、ロッキード社から多額の金銭が日本国内に違法に流入し、伊藤ら丸紅関係者がこれに関与した疑惑が生じ、捜査官憲が伊藤に対する外為法違反の被疑事件についても捜査していたことは明らかであるから、伊藤に対する逮捕状の被疑罪名と松岡に対する逮捕状に記載されている伊藤の被疑罪名との間に違いがあるからといって、何ら矛盾や不整合があるわけではない。更に、検察官は、松岡に対し、自動車行動表の改ざん行為についてのみでなく、松岡が改ざんした自動車行動表の元の運行記載に関連し、その運行状況やその運行時に乗車していた伊藤、野見山あるいは松岡自身の行動(本件五億円が詰められていた段ボール箱の授受など)についても取調べをしているが、松岡に対する被疑事実が、伊藤の外為法違反被疑事件に関し伊藤にとって不利益な証憑を湮滅したというものであることにかんがみると、証憑湮滅の目的や伊藤に対する被疑事件についての認識状況を捜査する必要上、取調べの範囲が右取調べの事項に及ぶことは当然のことであって、その取調べが違法視されるいわれはない。また、松岡は勾留中の昭和五一年八月二日胃かいようと診断されて病舎に収容され、釈放後病院に入院しているが、検面調書が作成された同年七月二三日及び同月二六、二七日までの身体状況は取調べに耐えられない状況ではなく、また九月一七日付検面調書は釈放後の入院中に医師及び松岡の了解のもとに取調べがなされているもので取調べに耐えられる状況にあったことは明らかであるから、右病状が松岡の供述の任意性に影響を及ぼすものとはいえない。伊藤上申書の内容は、松岡が検察官の取調べを受けるに当たり、真実ありのままに述べるよう慫慂し、伊藤の立場に配慮して伊藤にとって不利なことを隠すなどして苦慮する必要がないことを知らせてその心理的負担をやわらげようとするものであり、事件にかかわる部分は概括的なもので虚偽供述を誘引する内容のものではないから、検察官が取調べに当たりこれを松岡に示したからといって松岡の供述に不当な影響を与えたものとは考えられない。

しかして、松岡は、原審公判廷において、クラッター・伊藤間及び伊藤・榎本間の現金の入った段ボール箱の授受については記憶がない旨これにかかわったことを否定し、これに関連する多くの事項について、前記検面調書に記載されている供述内容と実質的に異なる証言をするとともに、記憶に反する内容の検面調書が作成されたのは、検察官の誘導的、強制的で押しつけにわたる取調べや、供述内容をこれと異なることを述べたようにすりかえて録取したりしたことなどによるものである旨証言している。しかしながら、検面供述と公判廷における供述が食違うに至った原因の具体的事情に関する質問に対する松岡証言を検討すると、それがあいまいであったり、質問をはぐらかし回避的であったり、証言内容が転々と変遷し前後矛盾したり、供述内容が一貫性を欠き不自然不合理であったり、検面調書の記載内容を否定するのになぜそのようなことが調書に録取されるに至ったかについて具体的合理的な説明がなされていないなど、証言の信用性を低下せしめる情況が多く認められるのに対比し、検面調書記載の供述内容は、自己及び伊藤にとって不利益な事項について、具体的詳細にかつ理路整然と述べたもので、不自然な点が少なく、取調べ当時、松岡が供述しなければ検察官が知り得ない事柄を含み、かつ記憶していることについてはその濃淡に応じて供述し、また記憶していないこと、推測したことはそれぞれ区別し、慎重に供述していることが認められるとともに、伊藤ら関係者の供述や自動車行動表等の物的証拠など、信用できる他の関係証拠とよく符合するものである。そして、松岡は丸紅に運転手として勤務し、昭和四七年一一月伊藤が同社の常務取締役に就任し同五一年二月専務取締役を辞任するまで伊藤専用車の運転を担当し、本件五億円が入った段ボール箱の運搬、授受にかかわった者で、公判廷において検面調書と食違う証言をしたのは、自己の証言によって、本件五億円の授受を全面的に争いあるいは授受を認めながらもその状況について種々争うとともに刑責を否定している被告人らに刑事責任の及ぶことをおそれ、同人らの面前で同人らにとって不利益になることをありのままに供述しがたかったことによるものと考えられ、かつ、検面供述と異なる供述をした具体的事情について合理的な説明をすることができず、あいまい、回避的、前後矛盾、不自然不合理な証言をせざるを得なかったのは、記憶に基づきありのままに供述した検面調書の記載内容を否定する合理的理由がなかったことによるものと考えられる。以上のような諸事情にかんがみると、前記検面調書には任意性はもとより、公判期日における供述よりもより信用すべき特別の情況が存するというべきである。してみると、松岡の検面調書は違法に収集されたものではなく、任意性特信性を備えるもので、これを刑訴法三二一条一項二号後段に該当する書面として採用した原判決には違法の点はなく、所論は理由がない。

3 野見山國光の検察官面前調書の証拠能力について

所論は、野見山國光の検察官面前調書には特信性がなく、これを刑訴法三二一条一項二号後段の書面として採用した原判決には訴訟手続に関する法令違反がある旨主張する。

しかしながら、この点に関しても、既に原審において同一の主張がなされ、これに対し、原判決が詳細な判断を示しているところであって(原判決三九七頁ないし四〇四頁)、関係証拠を精査して検討しても、原判決の認定説示に誤りは認められない。しかして、野見山は、原審公判廷において、第一回目(昭和四八年八月一〇日分)と第二回目(同年一〇月一二日分)の段ボール箱の授受及び運搬については、伊藤の指示に基づき、LAAL東京事務所でクラッターからそれぞれ段ボール箱を受領しこれを松岡運転の自動車で運搬したことを認める趣旨の供述をしているが、昭和四九年二月二八日の授受については全く記憶がなく、検面調書にこれを認める記載があるのは自己の記憶に反するものであり、この点については検察官に対して仮にそのようなことがあったとしたらこういう状況であったであろうと想像したことを記憶にあるように述べたのかもしれない旨供述するほか、検面調書の記載内容の多くの点について、記憶にないことを想像し推測して述べたり検察官の誘導に合わせて供述したものと思う旨、これと実質的に異なる供述をしている。しかしながら、右証言内容を検討すると、証言内容と検面調書と食違うま要な点について、野見山は、調書記載にあるような事実がなかったと積極的に否定しているのではなく、そのような事実について記憶がない旨消極的に否定しているところ、野見山は「記憶がある」という範囲を自己流に極めて狭く限定したうえ、通常人ならば記憶にあるとして素直に述べるようなことでも意識的に記憶がない旨不自然で回避的な弁解に終始し、その供述内容も転々と変遷して一貫性明確性を欠き、前後矛盾する供述さえみられ、更に、検面調書に記載された内容が自己の記憶に反するという点について、検察官にそのように供述したことはある、あるいはそのような供述をしたか記憶にないなどと言いながら、なぜ記憶に反することが調書に記載されるに至ったのか、証言内容と検面調書の記載内容との間に実質的な食違いが生ずるに至った原因の具体的事情について他を納得せしめる合理的説明をしていない。仮定のうえに想像して述べたという点は、供述内容がロッキード事件に関連し上司である伊藤ら丸紅関係者の立場を不利にしその刑事責任に重大な悪影響を及ぼすおそれのある事柄で、安易かつ無責任に仮定的な想像で供述できるものではないその性質に照らして考えると、その弁解自体信じがたいのみならず、調書の記載内容は記憶にあることとないこと、記憶の濃淡の程度、記憶と推測などが区別して記載され、野見山がこれらの点について慎重に供述していることが推認されることからも右弁解は信用できない。また、検察官の誘導にのって供述したという弁明についても、検察官が知り得ようもなく誘導しようもない野見山特有の体験と印象を具体的明確に述べている部分につきなぜこのような供述をしているのか説明がなされていないことに徴してもにわかに措信できるものではない。そして、検察官が伊藤上申書を野見山に示しているところ、右文書の内容は伊藤自身偽証したことを認める供述をしているが、伊藤が野見山に指示し、命に基づいて野見山が行ったことを述べるよう願う旨のものであり、その趣意は、松岡にかかわる上申書の場合と同様、伊藤をかばう気持から事実を隠すなどの必要はない旨その心理的負担を除き、事実をありのままに述べるよう慫慂するものであるとともに、事件にかかわる記載部分は概括的で、虚偽供述を誘引するなど不当な影響を与えるものでないことに徴すると、右上申書を示したことが、検面調書の特信性を阻害する要因となるものとは解せられない。しかして、野見山は、丸紅の社員で、昭和四六年四月から五〇年六月まで社長室秘書課にあって社長室長であった伊藤の部下として勤務し、取調べを受けた当時、丸紅米国会社に勤務し一時帰国して取調べを受けたもので、昭和五一年二月以降報道され伊藤ら丸紅関係者が逮捕されるなど国民の関心のまとになっていたロッキード疑惑の捜査に関連し、伊藤から指示され実行した事柄について事情聴取を受け、ロッキード系列会社のクラッターから段ボール箱を受取った事実を認めることが、長年仕えていた伊藤の刑事責任について不利益に作用するであろうことを認識しながら、記憶の有無、記憶のあることについてはその濃淡の程度、また記憶していることと推測したこととを区別するなど慎重に配慮したうえ、LAAL東京事務所へ赴いた各回毎の特有の体験と印象をまじえて、理路整然と具体的に詳細かつ明確に供述し、その供述内容は検察官が知り得ようもない事柄を含み、多くの点で信用し得る他の関係者の供述や自動車行動表などの物的証拠とも符合している。そして、公判廷における証言に表れている前記諸事情は、自己の証言によって、本件五億円の授受を全面的に争いあるいは授受を認めながらもその状況について種々争うとともに刑責を否定している被告人らに刑事責任の及ぶのをおそれ、前記のごとき立場から同人らの面前においてありのままに供述することを遠慮し、また検面調書に記載されている内容が記憶のままに述べたところから法廷においてこれを否定することのできる合理的理由がなかったことによるものと考えられ、これらの点は、公判廷における証言の信用性を低下せしめる事情というべきであり、他方、検面調書にみられる前記の諸事情は、検察官の取調べには強制、押しつけなどがなく任意記憶のままに供述したことを推知せしめる情況というべきであって、これらを総合すると、野見山の検面調書には特に信用すべき情況的保障が存するということができる。してみると、これを刑訴法三二一条一項二号後段に該当する書面として採用した点に違法はない。

4 各証拠の信用性について

所論は、前記各証拠の信用性を争っているので検討する。前記のとおり、クラッターに対する米国裁判所における嘱託証人尋問が実質的に開始されたのは昭和五一年九月二一日(現地時間)以降のことであり、この時点において、既に田中、榎本、檜山、伊藤、大久保に対するすべての公訴提起が完了し(ただし、檜山に対する追起訴分を除く。)、かつ、保釈により身柄も釈放され、わが国における捜査は一応完了していたことが明らかである。しかして、前記クラッター摘要の収支控帳やクラッター日記は、右嘱託証人尋問手続の過程で初めて同人より提出されたものである(なお、クラッターはロッキード社の海外における不正支払いについて同社が独自に行ったニューマン委員会の調査を拒否し、同社が右資料を入手した形跡はない。)ことにかんがみると、わが国における関係者の取調べの時点で、検察官は、クラッター証言に基づく情報はもとより、クラッター摘要、同日記の情報についてもこれを入手することは不可能であったと同時に、他方、事柄の性質上、クラッターも、わが国における捜査の内容、特に事件関係者が捜査官憲に対しどのような供述をしているのかについて、これを知ることは不可能なことであり、したがって、わが国の関係者の供述を考慮して証言したり摘要や日記などの物的証拠を作出したり改ざんしたりするなどの工作をすることはあり得ないことが明らかである。しかるに、クラッターが第一回、第二回、第四回の授受のすべて及び第三回目の場所の点を除く授受の日、方法などについて述べていること並びに右摘要の収支控帳や日記の記載内容は、伊藤、大久保、野見山、松岡ら授受に関与した者らの各検面供述及び松岡の自動車行動表の改ざん状況とほぼ完全に一致するのであって、このように、時及び場所を異にし、相互に関係なく実施された証言と取調べの結果が一致するということは、これら証拠の信用性を互に補強しあい、その証明力を担保しあっているというべきで、供述内容や物的証拠の記載内容が真実であることを物語っている。更に、前記関係者の捜査段階における供述と一致する公判廷における供述は反対尋問に耐え、かつ関係証拠とも符合し信用性が高いものであるのはもちろん、公判廷における供述と実質的に異なる検面調書の記載部分のうち、松岡、野見山の分については、証拠能力の判断の項において説示したとおり、その供述の信用性を認め得る諸情況が存し、また、このことは伊藤の検面供述についても同様の情況が認められるのであって、これらの供述証拠の証明力は高いものというべきである。これらの諸点を考慮すると、右関係証拠の信用性を認めた原判決の判断に誤りは認められず、この点の所論は失当である。

5 第一回目の授受について

(一) 原判決は、一〇〇ピーナツ領収証が作成されるに至った経緯について、クラッターが大久保に対し、一億円の現金を丸紅に引渡す際受領の証憑として一〇〇ピーナツを領収した旨の領収証を交付するよう求め、大久保は伊藤に同領収証を作成しクラッターに交付するよう要請した旨判示しているところ、これに対し、所論は、かかる事実を肯認するに足る証拠はなく、右認定は証拠に基づかない旨論難する。

しかしながら、伊藤の署名のある一〇〇ピーナツ領収証が作成されていることはその存在自体から否定しようもないことであり、関係証拠によると、右領収証は、いずれも、伊藤の指示に基づき、各作成日付の日に中居秘書課長がタイプして作成し伊藤がこれに署名したもので、これを野見山が伊藤の命によりLAAL東京事務所のクラッターのもとに持参して交付し、更にクラッターがロッキード・エアクラフト・インターナショナル社のシャッテンバーグに送付し、ロッキード社において保管していたところ、その後、チャーチ委員会の調査に際し、同社ないし同社の会計監査を担当していたアーサー・ヤング会計事務所から同委員会に提出されたこと及び右領収証は丸紅が一億円の現金を受領した証憑として交付したものであることが明らかである。そして、クラッター、大久保、伊藤の各供述をはじめ多くの関係証拠により、右金銭がロッキード社から田中に供与すべき五億円の一部として丸紅に交付されたものであることが認められるのである(その詳細は後に判示する。)から、右領収証がクラッター、大久保、伊藤間においてどのような話合いがなされて作成されたかその経緯をつまびらかにする必要性はないということができる。もっとも、クラッターが、大久保に対し一億円の用意ができ領収証を渡してくれれば金を持って行けますよ、と話した記憶はあるが、「ピーナツ」という符牒を用いることは自分が指示したものではない旨供述し、大久保が、クラッターから領収証を要求されたことはなく、したがって伊藤に対し領収証の作成交付を要請したことはない旨供述していることは所論のとおりである。しかしながら、伊藤は、捜査公判を通じ、大久保から、ロッキード社より一億円を引渡す準備ができた旨の連絡があったので、これをクラッターから受取るよう要請されるとともに、右一億円については、同社の方で一〇〇ピーナツという符牒を用いると言っており、かつ、クラッターがこれを受領したエビデンスを交付するよう強く要求しているので、金を受取りに行くとき持たせてやってくれと言われたので、一〇〇ピーナツ領収証を作成したものであって、右授受に関する連絡は、大久保とクラッターとの間でなされ、自分はクラッターと直接話合ったことはない旨供述していること、またクラッターは前記供述のほか、本件五億円の引渡しに関しては大久保と交渉し伊藤と話合った記憶はなく、現金引渡しに際して領収証を用意するよう大久保に依頼し、大久保が領収証には伊藤が署名することになったと言ったように思う旨供述していること、更に、大久保は、クラッターから一億円引渡しの準備ができたこと及び右金銭については一〇〇ピーナツという符牒を用いる旨の連絡を受け、伊藤にその旨知らせ、かつ伊藤から連絡を受けて野見山が取りに行くこと及びその時間をクラッターに知らせ、本件授受についてクラッターと伊藤の間に立って連絡調整の役割を果たした旨供述していること、そして、他方において、関係証拠によると、全日空がL一〇一一型機購入を決定するに際し、ロッキード社から全日空に支払う旨約束された一億二、〇〇〇万円の授受に関連し、大久保の署名のある三〇ユニット、九〇ユニット領収証が作成されているところ、右領収証のユニットなる符牒が用いられていることについて、クラッターは、ディーク社の運び人からクラッターが金を受取った際、金銭授受を証するため、ユニットとかピーシズという符牒を用いたメモ領収証を発行しこれにクラッターが署名する慣行があったので、その例にならって大久保の署名のあるユニット領収証の交付を求めたものである旨供述していること、これらの供述と事柄の性質を総合して考察すると、ピーナツなる符牒を用いた領収証を発行するに至った経緯についての関係者の供述が完全に一致しているわけではないが、伊藤供述にあるように、クラッターが大久保に要請し、これを大久保が伊藤に連絡したことによるものと推認されるのであって、それが本件の経緯・情況に整合する最も自然な判断というべきである。すなわち、クラッターが、領収証を持ってくれば金を渡しますよ、と言っていることは、領収証がなければ金は受取れないことを意味し、かつクラッターの立場からすればなんらかの金銭交付のエビデンスを求めるのは事柄の性質上当然のなりゆきというべきであり、符牒を用いた点については、右領収証がクラッターの利益のために作成されるものであることから同人の同意なしに丸紅側が一方的にかかる符牒を用いることは考えられず、同人がディーク社との金銭授受に際し行っていた慣例に従い符牒を用いたメモ領収証の交付を求めたことは容易に推認できるのである。してみると、原判決は証拠に基づき正当な判断をしていることが明らかであり、この点の所論は採用できない。

(二) 所論は、右金銭の趣旨が請託にかかわる報酬であることを前提とするかぎり秘密裡に行われるべき性質のものであるのに、その授受に野見山を関与させたのは不自然であり、また、一旦引渡しの連絡をしながら約束の時間に取りに行ったのに受領できなかったというのも不自然であり、更に、その旨の報告を受けた伊藤が、領収証を渡しながら金銭を受取ることができなかった事態に何ら対応していないのも不可解なことであり、八月九日、一〇日の野見山のLAAL東京事務所訪問と一億円受領に関する原判決の認定は、不合理な証拠の採否によって事実を誤認したものである旨主張している。

しかしながら、前記証拠によると、伊藤が野見山に一〇〇ピーナツ領収証が入っている封筒を渡し(野見山は中に何が入っているか知らない。)、これをLAAL東京事務所のクラッターに渡すよう指示し、野見山は右指示に従い同事務所にクラッターを訪ねて右封筒を渡し、同人から翌朝(フライデーモーニング)再度来るよう言われ、翌朝八時ころ同所を訪れて同人から一億円の入った段ボール箱を受領したことは疑問の余地なく認定できる。しかして、野見山は伊藤のもとで勤務し、信頼できる人物として伊藤が使者に選んだものであるとともに、伊藤は密封された封筒を渡すよう指示したにすぎず、野見山において指示された用向きが何であるか容易に看破できる状況になかったことに照らすと、同人を授受に関与させたことが特段不自然であるとは言えない。また、当初の約束の日時に授受が行われず、これに伊藤が対応策を講じなかった点についても、金銭の準備はできたものの、それが多額であることから、現実の引渡しをするための荷造りが間に合わず(約束の時間までに間に合わせるつもりであったが何かの都合でできず)引渡しができない事態に至るということは世上ままあることで、約束違反があったからといってそれが不可解な出来事と言うことはできず、まして授受全体に疑念をさしはさむ理由とするのは相当でない(なお、クラッターは野見山が段ボール箱を持参したと述べているが、それは伊藤、野見山の供述に照らし思い違いと考えられるが、かかる思い違いの供述をしているからといって供述全体の信用性を否定する論拠となるものではない。)。そして、その際、領収証を受取ったまま授受について何も言わなかったというのであればともかく、翌朝もう一度来訪するよう指示していることにかんがみれば、翌朝には引渡されることが確実と思われるのであるから、伊藤がそれを待つことにして直ちに対応策を講じなかったからといって、それが不可解というほどのものではない。所論は独自の見解を前提に原判決の認定を非難するもので採用できず、原判決の認定に経験則違背の判断があるとは認められない。

6 第二回目の授受について

(一) 所論は、原判決が、領収証の符牒についてピーナツからピーシズに変った理由やその経緯を明らかにしていない旨論難する。

しかしながら、前記証拠によると、ピーナツ領収証作成の場合と同様、第二回目の場合もクラッターから大久保に、大久保から伊藤に順次ピーシズなる符牒を用いる旨の連絡がなされ、伊藤において中居に命じ一五〇ピーシズ領収証を作成したことが認められ、同領収証が現に存することからもこの点は動かしようのない事実である。そして、ピーナツにしろピーシズにしろ、その一単位が一〇〇万円を意味することに変りはなく、符牒の表現に特別の意味があるとは考えられず、符牒が変ったことをせんさくしなければならない特段の理由はないのであって、この点の経緯を明らかにする関係者の供述がないからといって不自然であるとは考えられず、まして、それが授受全体に不審をいだかせるべき合理的な理由となるものでないことは明らかであって、所論は独自の見解を前提に原判決の認定を非難するものにすぎず採用できない。

(二) また、所論は、原判決は、大久保が伊藤に対し、符牒の変更を通知し右符牒による領収証の作成を指示したか否かにつき判断を示しておらず、伊藤が領収証作成の指示を受けてもいないのにこれを作成したのは不可解であるという。

しかし、原判決は、第二回目の授受について、「クラッターが大久保に対し一億五、〇〇〇万円の現金の用意が出来た旨及び右現金については一五〇ピーシズとの符牒を用いる旨連絡した。」と認定し、更に大久保が「伊藤に対し、クラッターからの前記連絡事項を伝えるとともに右現金をクラッターから受取るよう要請した。」と認定しており、その判文に照らし、符牒の変更があったことを通知している点に判断を示していると解される。次に、原判決が、第二回目の場合、大久保が伊藤に対し、領収証を作成しクラッターに交付するよう要請したとは明示していないし、またこの点を明確にする証拠がないことは所論のとおりである。しかしながら、前記のとおり、第一回目にクラッターの要請に基づきピーナツ領収証が作成されているとともに、それがその後の授受に際しても領収証を作成して交付する機縁になっているのであって、ピーナツ領収証作成の経緯に照らすと、これと本質的に同じ事柄である第二回目以降の授受に際し、従前の例に従って各ピーシズ領収証が作成されたのは事柄の性質上自然のなりゆきというべきであって、それが不可解なこととは考えられない。所論は理由がない。

(三) また、所論は、第二回目の授受が昭和四八年一〇月一二日であることを確認する証拠はない旨主張し、これに関連して、原判決が、クラッターの収支控帳写しの一九七三年一〇月一二日欄に一億五、〇〇〇万円を支払った記載があり、これについて「最初の二分の一MBC」という注記があることをもって、右同日、丸紅に同額の交付があったことが明らかである旨判示しているところ、「最初の1/2MBC」なる注記は、同年一〇月一日欄の「一〇六引継ぎ」の文字の横にも存するので、右注記は信用することができずこれをもって右認定の根拠とすることはできないという。

しかしながら、一五〇ピーシズ領収証が作成されたのはその作成日付の日である昭和四八年一〇月一二日であることは伊藤、中居の供述から明らかであり、また右領収証作成の日に野見山をしてこれをクラッターに交付させたことも伊藤が供述しているところであり(それゆえに、伊藤は領収証作成日付の日が金銭授受の日である旨述べている。)、松岡のその日の自動車行動表も改ざんされているとともに、松岡は右改ざんされた行動表の日に野見山をLAAL東京事務所に送迎した旨述べているし、クラッターは領収証作成日付からその日に現実の授受があったと断言することはできないと言いながら、収支控帳の前記記載に基づき授受の日が一〇月一二日であることは間違いない旨供述し、「最初の1/2MBC」という注記は最初の一億円と右同日の一億五、〇〇〇万円を合わせ、五億円の1/2の支払いが済んだことを記載したものであると供述しているのであって、これらの証拠によると、第二回目の授受の日が一〇月一二日であることは明らかである。しかして、クラッターの収支控帳写し中には、右一〇月一二日の欄に「最初の1/2MBC」という注記がある以外にこのような記載は見当たらないのであって、一〇月一日欄にも同様の記載があるという所論は、収支控帳写しの記載を見誤ったことによるものとしか考えられない。この点の所論も理由がない。

7 第三回目の授受について

所論は、原判決の第三回目の授受の認定は証拠に基づくものではない旨主張する。

しかしながら、前記証拠の関係部分を総合すると、昭和四九年一月二一日午後一時ころクラッターが福岡清治運転の自動車で丸紅東京本社に赴き、同社一五階の応接室で大久保立会のもとに伊藤から同日付の伊藤の署名のある一二五ピーシズ領収証を受取るとともに、そのころ同社地下駐車場において、右福岡運転手が松岡克浩運転手に対し右クラッターの乗用自動車から伊藤専用車に一億二、五〇〇万円の現金が入っている段ボール箱を積み換える方法でこれを引渡したことが認められる。すなわち、大久保は、公判廷において、右同日呼ばれて丸紅東京本社一五階の秘書課に近い応接間に行き秘書課の職員とクラッターの応接をしている時、伊藤が領収証らしいものを持って来てクラッターに渡すのを見たので、その直後本件五億円の授受に関する備忘のため授受のつど記載していたメモに、日付と金額(符牒の単位の数字のみで三回目の場合は一二五ピーシズを表す一二五とのみ記載。)を記入するとともに「伊藤サイン?」と記載したことを記憶している旨具体的かつ明確に供述しており、段ボール箱の授受に当たった松岡は、検察官に対し七月二三日付検面調書で、丸紅東京本社地下二階駐車場において、丸紅からロッキード東京事務所に出向している福岡運転手の車(マーキュリー)から段ボール箱のようなものを伊藤専用車に積み換えた記憶がある旨供述し、更に身柄釈放後の入院中に取調べを受けた九月一七日付検面調書において、右の点について、改めて記憶を整理した結果、そのようなことが一回あったことは間違いない旨具体的状況を作図して説明していることは前記のとおりである(右調書が信用できることは後記のとおりである。)。また、伊藤は、原審公判廷で、本件ピーナツ・ピーシズ領収証四枚を各領収証の作成日付の日に野見山を介しあるいは自ら直接クラッターに交付し、現金が入っているという段ボール箱をクラッターから受取りこれを榎本に渡した事実を認めている。そして、伊藤は、第一回目、第二回目及び第四回目の各領収証は野見山を介して渡したが、第三回目の昭和四九年一月二一日付一二五ピーシズ領収証については、記憶としてはないけれど、関係者の供述等を考え合わせると私がクラッターに交付したとしか思えないのだがというようなことで、私もそう思うに至ったわけで、本件公判が始まって検討した結果も、多分そうではなかったかなと思うがよくわからない、私は全く記憶はないが、どうもクラッターがその日に丸紅に来ていること、そして私の運転手がそのクラッターの車から荷物をのせかえたことがあるようなことを供述していると言われ、また大久保とクラッターが話をしているところに私がレシートをこしらえて持って行ったんじゃないかと言われたりして、それならば、丸紅の駐車場で段ボール箱を私の運転手が受取ったのじゃないだろうかと思ったわけで、現在も、よくわからないが、そうとしか考えようがないという気がする旨述べている。しかしながら、伊藤はこの点に関し、昭和五一年八月一二日付検面調書において、前記のとおり、「記憶が断片的であるが、クラッター及び大久保が座っている丸紅一五階の応接間に入って行き初対面の握手をしてピーシズ領収証をクラッターに渡した記憶がある。」「四九年一月二一日の自動車行動表に大手町へ行った記載がなく、本件五億円の件で松岡車以外使った記憶がないので、領収証をクラッターに渡した記憶と合わせて考えると第三回目についてはクラッターが金を直接丸紅まで運んでくれたのではないかと思う。」「松岡に対してだったと思うが、地下駐車場に入っているクラッターの車から段ボール箱を私の専用車に積み換えるよう指示した記憶がうっすらある。」旨供述している。そして、伊藤は検面調書全般を通じ、記憶のあることとないこと、記憶のあることについてはその程度、記憶していることと推測していること等を区別して供述していることが認められ、前記供述調書にも推測にわたることが推測として記載されている反面、前記のとおり記憶していることについてはその程度に応じた供述記載がなされていること、そして伊藤が記憶に基づく供述と推測にわたる供述の意味の区別を理解する能力がないわけではなく、前記検面調書中の記憶があるとして述べている内容が、他の関係者の供述を参照して推測して述べる内容と異なる性質の内容になっていること等にかんがみると、前記検面調書の内容が記憶に基づくものではない旨の公判廷における供述には合理性がなく信用できず、検面調書の内容は記憶に基づいて供述したものと認められるのである。以上の供述証拠のほか、前記のとおり、昭和四九年一月二一日付一二五ピーシズ領収証の写しが現存し、クラッターからロッキード社に送付され同社において保管されていたこと、信用性の高い前記クラッターの収支控帳写しの昭和四九年一月二一日欄に一億二、五〇〇万円を支出した記載があり、この点についてクラッターがこれは一二五ピーシズ領収証と引換えに丸紅に交付したものである旨述べていること、福岡運転にかかるLAAL東京事務所使用の自動車(マーキュリー)の行動表の右同日分には、同日午後一時から午後二時まで丸紅東京本社に赴いた記載があること等を総合すると、前記原判示の認定事実を肯認することができるのである。したがって、右認定が証拠に基づかない認定であるという非難は当たらない。以下所論に即して補足する。<1>所論は、前記松岡の検面調書は信用性がないという。そこで検討するに、松岡は、原審第二三回公判期日において、丸紅地下二階駐車場でロッキードに出向していた福岡運転手の車から伊藤専用車に何かいっぺん荷物を積み換えたことがあったような気がする旨供述し、更に第二四回公判期日において、前記七月二三日付検面調書に「現在私が覚えているのは丸紅地下二階の駐車場で福岡運転手の車から段ボール箱のようなものを伊藤専用車に積み換えたことです。」とある点について尋ねられ、「それは検事さんがそういう福岡運転手からもらったことはないのかということをお尋ねになりました。そう言えば福岡運転手からもらったような気もするということは私申し上げました。」と答え、右検面調書の記載は大体そのようなことを述べたということになるか、と尋ねられ、「ええ、そういうことがあったように記憶しております。」と答えている。そして、前記九月一七日付検面調書に「丸紅ビル地下二階の駐車場で福岡運転手が担当していたLAAL東京事務所の車から段ボール箱を移し換えたことについても改めて記憶を整理した結果、こういうことが一回あったことは間違いないのです。」という記載がなされている点について尋ねられ、「それはそういう気がしているので、そういうふうにも思い込んでそういうふうに言った記憶はあります。」「そういう気がしている以上は間違いないだろうというふうに、おそらくそのときは思ってそのように申し上げたかもわかりません。」と答え、更に、右検面調書に図面に基づいて「私が図の<1>で伊藤専用車をみがいていたとき、図の黒色矢印どおり、福岡さん運転のマーキュリーがはいってきてフロントに止まりました。そのときその車からだれが降りたかについては柱がじゃまになり見えませんでした。その後福岡さんが私に対し、まっちゃん、伊藤さんの車に、この荷物を積んでおいてくれ、と言われたので図矢印のとおり福岡車のところに行って後部トランクに積んであった段ボール箱を受け取り、伊藤専用車の後部トランクに積み換えたのです。」と供述した旨の記載がある点について尋ねられ、「それはそのようなことがありました。検事さんと、いわゆる福岡運転手から受取ったことを覚えてないかというなんかそういうことが、そう言えばそういう気があるなというふうなことに基づいて検事さんとそういう会話を交わしたことありますね。」と答え、右調書で詳しい状況を説明したのは「その当時、仮に、それが、そういうことがあったとするならば、そういう行動をとっただろうということなんですよ。」と述べたことに対し、検察官から、「先程言ったことと違うんじゃありませんか、先程は、そういう記憶があったんでそのように述べたと言いましたよ。」と質問され、「まあ、その当時はその記憶という言葉、表現を使ったかもわかりませんけど、なんかそういうことがあったということに対して、ちょっとそれ供述書に対しても表現というものがちょっと、何というんですか、記憶がはっきりしたというふうなことはちょっと私あれなんですけれども。」と意味不明のしどろもどろのことを言ったうえ、「今でもそういうことがあったようには思っているんです。ですから、そのときの状況を、まあ、仮にそういうことがあったとして、私が受取りに行ったのか、福岡運転手が私のところに持ってきてくれたのかその点もはっきり知らないのですが、もしその場所でそういうことがあったとしたら、その供述書の先程読んでいただいたようなことをやっているかもわからないということです。」と供述している。以上の積み換えた荷物が段ボール箱であることを前提とした質問応答で明らかなように、松岡は公判廷においても、丸紅東京本社地下二階の駐車場で福岡運転の車から伊藤専用車に荷物を積み換えたことが一度あるのを記憶している旨供述しているのである。しかして、第二三回公判期日において、松岡は、右積み換えた荷物がどんな物であったか尋ねられ、「それはわからない。」と答え、更に「すぐわからないと言わないで、一応考えてください。」と言われて「もう最近は、いろいろ何というんですか、その、何か、そのときの様子が段ボールであるということを言われているもんですから、今そのことを考えろと言われましても、その段ボール箱につながってしまうわけです。だから、その当時のことを考えて証言すれば、何であったかということは、私はわかりませんです。」と答えている。また、前記七月二三日付検面調書ができる以前の同月二一日松岡は図面入りの供述書(甲四20)を作成しているが、右供述書に「石油18リットルカン位ノ荷物積ミ替ヘタ」と記載されているところ、松岡は第二四回公判期日で、「どうしてこのときにこういうふうなものを書いたかと言われると困るんですが、これもおそらく段ボール箱を想定して書いたように思います。」「(この荷物というのは段ボール箱を想定したのか)その点よくわかりません。」「(検察官から大きさについて)聞かれたように思いますけれどもよくわかりませんね。こういうことを書いたこと自体がどういうあれで書いたのか。」「そういう大きさになるんじゃないだろうかという想定で私は一八リットル罐とか一斗罐というふうに検事さんに申し上げたことを覚えている。」「(想定というのは)その一億円金が入っているんだというふうなことを検事さん、まあ金だとはっきりはいわれなかったかもしれませんけれども、そういうふうな会話を検事さんと交したと思うんですけれども、よくわかりませんけれども、これもそうじゃないかと思って書いた、そういうふうなあれがあったかどうかということについてはよくわかりませんね。」と述べ、第二七回公判期日においては「段ボール箱、まあとにかくそのときにそういうふうな段ボール箱に間違いないんだというふうなことをおっしゃったか、おっしゃらないかわかりませんけれども、とにかくそういう場所でやったということは段ボール箱に間違いなんだということをおっしゃるから、私もその段ボール箱だろうというふうな、既に想像をしておったかもわかりません。その時点では。」と供述している。しかるに、弁護人申請にかかる第一三一回公判期日における尋問に際し、昭和四九年一月二一日前記地下駐車場で福岡から段ボール箱を受取ったことはない旨明確に証言するに至り、弁護人の「二三回公判の一一三丁(一三三丁のあやまりと考えられる。)以下で年月日は不明だが丸紅地下の駐車場で福岡車から何かを積み換えたことがあったような気がするということを言っているんですよね、これは先ほど私がおききしたような中古でガムテープで密封されたような段ボール箱ではないんですね。」という質問に対し、「ええ、そういう大きなものはやり取りした覚えはありません。」と述べ、更に、やり取りしたというのは「お土産程度のもののやり取りのことを申し上げているんです。」と述べ、反対尋問において、第二三回公判期日で積み換えた荷物がどんなものであるかわからないと証言した点について、「それは、恐らくそういったお土産なんかと勘違いしていたんじゃないかと思いますが。」と述べるとともに、前回証言の際にお土産のことは忘れていたんですかという質問に対し、「いや、あくまでも段ボール箱ということが前提になっていますもんですから、果たして私の記憶違いもあり得るし、土産だと言っても恐らく段ボール箱じゃないかと言われる可能性もありますし、まあそういう表現になったんじゃないかと思います。」「果たしてお土産と言っていいのか悪いのかこういうふうな公の場所でそういうふうなことを言っていいのかどうかわかりませんし。」「きっぱりともらったものは何だと言われれば私は言ったかもわかりません。」と答えるに至っている。しかしながら、昭和五一年七月二一日に自ら供述書を作成し、同月二三日及び九月一七日にそれぞれ検面調書が作成されたその捜査の経緯内容並びに第二三回、第二四回、第二七回各公判期日における尋問の経緯に照らして考えると、松岡が捜査段階においてお土産と本件の段ボール箱とを取違えて供述したとはとうてい考えることはできず、第一三一回公判期日における証言は作為的で信用できず、図面まで作成して具体的に授受の情況を説明したことが想像に基づくもので実際にあったことではないとの弁解も事柄の性質に照らし不自然不合理で到底信用できず、記憶に基づくものでないのになぜ検面調書に記載されているような内容の供述をしたのか(供述した点は認めている。)その理由を合理的に説明しないでその供述記載の真実性を否定する松岡の公判廷における供述はにわかに信用できず、丸紅地下駐車場において福岡から受取った物が段ボール箱であったという松岡の前記検面供述は他の関係証拠とも整合し信用できるものといわなければならない。なお、所論は、松岡の九月一七日付検面調書(図面添付)によれば、福岡は駐車場フロント前に福岡運転車を止めたまま一〇メートル以上離れた場所で伊藤専用車の清掃をしていた松岡のところまできて、同人に対し「松ちゃん、伊藤さんの車にこの荷物を積んでおいてくれと言われたから。」と声をかけたことになる旨立論したうえ、福岡車の中にまだ荷物がある状態であれば、福岡は「あそこに荷物を持って来ている。」とか「車の中に荷物を預かっている。」という言いかたをしたはずであるのに、松岡は「この荷物を積んでおいてくれと言われた。」とあたかも福岡が松岡のところまで段ボール箱を運んで来たような内容となっているのに、他方において、松岡がフロント前に停車している福岡車のところまで取りに行き自分で段ボール箱を伊藤専用車のところまで運んだと供述しているのであって、右松岡供述には前後矛盾があり不可解で信用性がないという。しかしながら、右松岡の検面調書の内容は前記のとおりであり図面を含めこれを検討しても、福岡が自車を離れ伊藤専用車の駐車位置まで行き松岡に話しかけた趣旨の記載内容はなく、また、その記載内容の文脈からもそのような趣旨に理解しなければならないものとはとうてい解されない。むしろ、松岡に話した福岡の言葉及び図面に示されている松岡の行動からすれば、福岡は自車のそばから松岡に声をかけたと認めるのが相当であり、当審において取調べた弁護人作成の実況見分調書(弁64)によると両車両間の距離は一四・九メートルで、福岡が自車のそばから松岡に声をかけたことが自然であると理解できる範囲の距離である。してみると所論は立論の前提を欠く。また、所論は、地下駐車場フロントの間口は狭く福岡車(大型外車)を駐車したまま松岡が供述するような方法で段ボール箱の授受を行うことは他の車両の送迎や通行を妨げ不自然であるというが、前記実況見分調書によるとそれが他車の通行を妨げるものとは認められず、また当審において取調べた弁護人提出のビデオテープ(弁102)によると段ボール箱の積み換えに要する時間は極くわずかなもので、松岡の行動を考慮に入れても、右福岡車の駐車時間が他の車の送迎を妨げるほどのものであったとはとうてい認められず、この点からも松岡供述の信用性を否定することはできない。なお、福岡が検面調書において右地下駐車場における段ボール箱の授受については記憶がない旨述べその意味において松岡供述と符合しないことは所論のとおりであるが、松岡供述を積極的に否定する内容を含むものではなく、その信用性を覆すに足るものとは評価できない。<2>また、所論は、原判決が第三回目の授受方法の決定経緯として「クラッターから丸紅側に対する右現金の引渡の方法としては、同日クラッターが丸紅東京本社に来た際、同社地下駐車場で、クラッターの専用自動車から被告人伊藤の専用自動車に右現金入り段ボール箱を移しかえる方法により行うことが取決められた。」と判示している点につき、右取決めの当事者が誰であるか認定されておらず、この点の認定がないかぎりその後の具体的な授受の認定はなし得ないはずであり、もし原判決が認定したような方法で真実授受が行われたのであれば関係証拠上事前の打合せは伊藤とクラッターの間で行われたと考えるほかないが、このことは以前からクラッターと伊藤の間に連絡のパイプがあったことを意味するとともに、これを否定するクラッターや伊藤の供述が虚偽であることを意味し、ひいては本件金銭の性格や領収証作成の経緯の点を含め事実関係の評価が大きく変ってこざるを得ないはずであると主張する。確かに、原判決が、事前の打合せが誰と誰との間で行われたのかを認定していないし、かつこれを確認し得る証拠はないが、原判決が認定した取決めの主体が、ロッキード側と丸紅側であることは判文の文脈に照らし明らかであるとともに、原判決が認定した授受の前後の事実関係から、右両者間で事前の打合せ取決めの事実が推認されるのである。そして右打合せが誰と誰との間で直接的に協議されたのか、関係者が忘れてしまうなどして、これを明らかにすることができないからといって、確認できる前後の事実関係から、その協議取決めの事実を事実上推定することが許されないわけではない。また仮に伊藤が直接あるいは部下の秘書課の職員を介しクラッターとの間でその取決めをしたとしても、既に二回にわたり、伊藤の署名のあるピーナツ・ピーシズ領収証と引換えに現金の授受を無事済ませており、かつクラッターは伊藤が丸紅の役員で主要な地位にあることを知っていたのであるから、右の程度の打合わせを直接したからといって、直ちに従前から深い関係があったとは言えず、したがってこのような関係がそれ以前からあったことを否定するクラッターや伊藤の供述を虚偽であると断ずることはできないのであって、所論は立論の前提を欠き失当である。<3>更に、所論は、伊藤が松岡に対し、またクラッターが福岡に対し、丸紅東京本社地下駐車場において段ボール箱を移し換えるようそれぞれ指示した旨の原判決の認定は証拠に基づかないものであるという。しかしながら、この点に関しても、原判決が認定した授受に関する前後の事実関係から、右指示の存在を事実上推認することができるとともに、松岡は、福岡が「松ちゃん、伊藤さんの車にこの荷物を積んでおいてくれと言われたから。」と言った旨供述し、また、伊藤は「そういえば松岡に対してだったと思うが、この件の金の入った段ボール箱を地下二階の駐車場に入っているクラッターの車から私の専用車に積み換えるよう指示した記憶がうっすらある。」旨供述し、右推認を裏付ける証拠も存在するのであって、前記原判決の事実認定が証拠に基づかないとの非難は当たらない。そして、右各指示が具体的に、いつ、どのような方法でなされたか明らかにできないからといって、これらの点が授受全体に占める重要性の程度が大きいものでないことに徴すると、直ちに右指示の存在を否定する理由になるものとは考えられないし、まして現金授受の認定に影響を及ぼすとは考えられない。

8 第四回目の授受について

前記伊藤、大久保、野見山、松岡、中居及びクラッターの各供述、昭和四九年二月二八日付伊藤作成名義の一二五ピーシズ領収証写し、クラッターの収支控帳写しの右同日欄の一億二、五〇〇万円の支払記載及び丸紅(最終)という注記、右同日分の松岡の自動車行動表等を総合すると、昭和四九年二月二八日、伊藤の指示に基づき野見山が松岡運転車で大手町ビルに赴き、LAAL東京事務所でクラッターから一二五ピーシズ領収証と引換えに一億二、五〇〇万円の現金が入っている段ボール箱を受取ったことを優に認定できる。ところで、原判決は、右の授受の時間を午後六時半ごろと認定しているのであるが、証拠関係を検討すると、この点はクラッター手帳(パンディア版)の一九七四年二月二八日午後の欄の「六・三〇丸紅一二五」なる記載に基づいてなされたクラッターの「その時にその交付が行われたことが判ります。」という供述に依拠するものと考えられる。しかして、所論は、LAAL東京事務所に授受のため赴いたとされている野見山及び松岡の両名は、右授受の時間について、「日中の普通の勤務中」「人が大勢歩いている真昼間」「昼前後ころ」等と供述し、クラッターの右供述と大きく食違っているのであって、原判決の認定を前提とするかぎり原判決は右両名の供述の信用性を否定していることになるが、このことは同時に、昼間の出来事として特有の体験と印象をまじえて授受時の具体的状況を述べている各供述の信用性をも当然否定すべくつながらなければならないはずであり、ひいては第四回目の授受の認定の根拠を失う旨主張する。そこで検討するに、野見山は、検面調書において右授受に関し、「この時も日中の普通の勤務時間中に伊藤室長から、これをクラッターに渡して荷物を受取って僕の車に積んでおいてくれ、と言われ封筒を渡された。」段ボール箱を受取った後、「四階のエレベーターホールの前に歩いて来た時この時も廊下を大勢の人が歩いており、真昼間に背広を着てこんな不体裁な重いものを二回も運ばされて格好が悪いなあ、と思ったことをはっきり記憶しています。一回目は早朝で若い女の子も誰も見ていなかったので格好が悪いということを感ぜずに済んだのです。」等と昼間の出来事として供述しており、また、松岡も七月二三日付検面調書で、「時間ははっきりしませんが昼前後ごろだったと思います。野見山さんを乗せて大手町ビルの富士銀行、安田火災側出入口の手前まで来たところ、月末のためか出入口付近の通路脇には一杯車が止まっていたのでその手前の駐車場入口から地下駐車場に入りました。」と野見山同様昼間の出来事として供述しているとともに、右供述のほかに、野見山は、「第二回目の時一〇分間位も待たされていらいらしており今回も長く待たされるのかなあと思っていた矢先に意外に早く部屋に通されたのでそのことをはっきり覚えているのです。二回目の際、待たされた時のことと混同していることは絶対にありません。」「その時私は地下二階まで降りるエレベーターの前に最初立っていて、地下一階までしか行かないエレベーターの方が人も少なくてはずかしい思いをしなくても済むし、エレベーターから大きな荷物を持って降りるのも簡単だと考えて反対側のエレベーターに変ったのを記憶しています。」と、特有の体験と印象をまじえ供述している。そして、右同日分の松岡の自動車行動表中内容を改ざんすることなく元の記載がそのまま移記されたと認められる運行内容をみると、同日午後六時四〇分に伊藤が右専用車に乗って丸紅東京本社を出ていることが認められる。してみると、クラッター供述にあるように午後六時三〇分に野見山との間に授受が行われたとすると、右伊藤の出発までに一〇分間しかなく、この間に、野見山は、クラッターの部屋(大手町ビル四階)を出てエレベーターで地下一階駐車場に降りて松岡車に段ボール箱を積み込み、丸紅東京本社に戻り、エレベーターで一五階まで上がり伊藤に受領の報告をし、その後、伊藤が降りて松岡車に乗り込んだことになるのであるが、伊藤が野見山の報告を聞いて直ちに部屋を出たとしても、大手町から丸紅東京本社までの運行所要時間だけでも一〇分間を要し(松岡の自動車行動表の記載によるとすべて一〇分と記載されている。)、これにそれぞれの移動歩行時間やエレベーターの待時間等を考慮に入れると、前記行動を一〇分以内に行うことは不可能と考えられる。そして、クラッターに対する証人尋問調書の記載によると、同人が授受の日時に関し前記供述をしたのは前記クラッター手帳の記載に依拠したもので、記憶に基づくものとはうかがえないこと(ただし、前記一二五ピーシズ領収証と引換えに段ボール箱に入った現金一億二、五〇〇万円を野見山に渡したことは確たる記憶に基づく供述である。)に徴すると、時間の点に関する限り更にその記載の正確性の吟味を要するというべきところ、その記載が予定として書かれたものか実行したことを書いたものかその記載の経緯を明らかにするものがなくその正確性が担保されていないので、右記載に依拠したクラッターの授受の時間についての供述を認定の根拠とすることはできない(なお、この日に授受が行われた点についての供述部分は、右手帳の記載のみに基づくものではなく、収支控帳の記載や領収証の記載にも依拠しているのであるから、この点の信用性まで否定すべきものではない。)。以上の検討結果に基づき考えると、前記授受の時間は信用性の高い野見山、松岡の各供述及び前記自動車行動表に基づき認定するのが相当であり、その時間は正午以降午後五時以前の時間帯と認められる。してみると、原判決の判断とそごするが、かかる程度の認定の誤りが判決に影響を及ぼすものでないことは明らかである。また所論は、昭和四九年二月二八日付一二五ピーシズ領収証の作成経緯が明らかにされていない旨非難するが、この点については第二回目の授受について判断を示しているところと同様である。四回目の授受に関する原判決の事実認定を論難する所論もすべて失当である。

二  ロッキード社から丸紅に交付された五億円の趣旨について

前記のとおり、ロッキード社から丸紅に対し五億円の現金が交付された事実は疑う余地のないものであるところ、所論は、仮に、右金銭授受に関する原判決の事実認定に誤りがないとしても、右五億円が、全日空に対するL一〇一一型機売込みにかかる田中に対する請託の報酬として同人に支払われるべき趣旨のものであったと言うことはできず、かかる趣旨のもとに右五億円の授受がなされた旨の原判決の事実認定には誤りがある旨主張し、その理由として、<1>右五億円は、他の目的、例えば、日本におけるP3Cの売込みに関する工作資金である疑いが強いこと、<2>丸紅に対し、右五億円の引渡しが現実に実行される契機となったのは、昭和四八年六月ころ、榎本から伊藤に対し、田中への支払催促があったことによる旨の、いわゆる榎本催促の存在を認めた原判決の事実認定に誤りがあること、<3>本件が、内閣総理大臣に対して請託し、その報酬の支払いを約束した事案であるというのに、催促があるまでその支払いを放置し、かつ、催促後もコーチャンが支払いを拒否するなど、支払いに至る経緯についての原判決の事実認定の内容が不自然で首肯できるものではないこと、<4>コーチャンがL一〇一一型機売込みに要した経費を算出するにあたり作成した経費算出表(コーチャン副証)に本件五億円が計上されていないことは、右五億円が右売込みと無関係であることを示していること、などを挙げている。そこで以下順次判断する。

1 P3C売込み工作資金等他の目的のための資金である疑いの存否について

関係証拠によると、昭和四七年一〇月三〇日全日空がL一〇一一型機の購入を発表した以後においても、ロッキード社(系列会社を含む。以下同じ。)と丸紅との代理店契約関係は存続し、両社が、わが国において、ロッキード社の製品の販売活動を継続的に展開していたことが認められ、特に、クラッターの卓上日記(弁647)及びクラッター・ダイアリー(弁698)には、P3Cに関連し、コーチャンやクラッターが、大久保ら丸紅の関係者及び児玉誉士夫、小佐野賢治、福田太郎らとしばしば会合したことを推認せしめる記載が多数存在する。そして、この点について、コーチャンは、嘱託証人尋問(同調書三巻二六七頁以下)において、昭和四八年六月当時、日本において、L一〇一一型機のほか、P3C対潜哨戒機やC一三〇型航空機を含むロッキード社製品の販売活動をしていたことを認めており、また、丸紅において航空機等の販売を担当していた当審証人松岡博厚も、昭和四八年当時、P3Cを日本政府(防衛庁)に売込む活動をしていた旨供述している。しかしながら、右松岡供述、原審証人八木芳彦の供述及び押収にかかるロッキード社と丸紅間の代理店契約関係書類(甲二12、甲二14、甲二19等)によると、P3型対潜哨戒機は、昭和四〇年ころから契約の対象品目に挙げられ、同四八年五月に合意された(同四七年一一月一日に遡及した日付で締結されている。)改訂契約にも含まれ、丸紅は、右契約において、販売活動を有利に進めるために必要な情報を収集してこれをロッキード社に提供する義務を負担していたところ、P3C型対潜哨戒機の売込みを重点活動の一つとしてこれに取組み、実務担当者が、防衛庁関係者や同庁関係の報道記者らと接触し、日本国内における諸種の情報を収集してこれをロッキード社に伝える活動を日常的、継続的に行い、この間、クラッターを含む同社の担当者としばしば会合していたが、このような活動は、本件が表面化して両社の契約関係が破棄される昭和五一年三月まで続けられていたこと、P3C型機は米国海軍の機密に属する諸種のシステムを包含しているところから、丸紅の行う活動には自ら限度があり、前記情報収集にとどまっていた丸紅とは別個に、ロッキード社において独自の売込み活動を展開していたこと、右契約上、丸紅が行う売込み活動に要する経費は丸紅自身の負担とされ、丸紅が受取る報酬は、売込みが成功し、製品の引渡し及び代金の支払いが履行された後にその支払いがなされることとされ、P3C型機売込み成功前に、経費や報酬の支払いがなされることはないこと(なお、P3C型機がわが国において導入されることが決定したのは、右契約関係が破棄された後のことである。)、軍事機密の側面から、わが国におけるP3C型機の販売が認められるかどうかは確定的ではなかったが、昭和四八年一月、同型機の初公開飛行が行われ、その見とおしがたったこと、などの事実が認められる。以上の事実関係に照らして考えると、昭和四八年以降、ロッキード社及び丸紅のP3C型機売込み活動が活発に展開され、この時期以降クラッターの日記類に、P3C関連の会合と推認される記述がしばしばなされているからといって、そのこと自体、特段不思議なことではなく、かかることは、両社の右契約関係や売込み活動の情況の推移からすれば当然のことであり、そのことが、直ちに、右五億円がP3C型機売込みに関し交付されたと疑わしめる事情になると言うことはできない。所論は、クラッター卓上日記の昭和四八年七月二六日欄に、

10:15 Okubo-Delivery

P3 commission

という記載があること、及び、クラッター・ダイアリー中の一九七四年キャセイパシフィック版の一月二三日欄に、

T.OKUBO ACK/JWC(no P3C special comm.)

という記載があることから、ロッキード社が丸紅に対し、P3Cに関連して金銭を交付した疑いがある、というのであるが、前者については、デリバリー(引渡し)の記載とP3コミッションの記載が行を異にして二行に記載されており、二つを一体にして同一の事柄について記載したものとは読めないし、全く関係のない二つの事柄(例えば、デリバリーは本件五億円の引渡しに関する事柄で、P3コミッションは、P3Cの売込みにともなう手数料に関する事柄と考えることができる。)を表しているとも読めるのであり、また、後者については、大久保とコーチャン(ACK)及びクラッター(JWC)が何について話をしたのか、その記載自体からは明らかでないが、いかなる観点からも、それが、P3C型機売込みに関し本件五億円が支払われたことを意味する記述であると解することはできない。しかして、記録を精査しても、昭和四八年六月ころから同四九年初めころまでの間にP3C型機の売込みに関連して、ロッキード社から丸紅に多額の金銭を交付しなければならない事情があったことを疑わしめる資料は一切なく、ロッキード社の海外における不正支払を調査したニューマン委員会の調査報告書中にも、右五億円がL一〇一一型機売込み以外の目的ないし所論指摘の趣旨で支払われたことを疑わしめる記載は一切存しないのであって、所論は、単なる憶測に基づく主張であって採用できない。

2 昭和四八年六月のいわゆる榎本催促の存否に関する事実誤認の主張について

原判決は、ロッキード社から丸紅に対する五億円の支払いがなされる前の昭和四八年六月半ばころ、榎本が伊藤に対し、昭和四七年八月二三日の田中・檜山会談において約束された五億円を支払うよう催促した旨の事実を認定し、かつ、右催促の存在は、右会談において、檜山から田中に対し、全日空に対するL一〇一一型機売込みの協力要請(請託)がなされるとともにその協力に対し報酬を支払う旨の約束がなされたことの間接事実となる旨判示しているのであるが、右催促の存在は、請託に関する間接事実であるのみでなく、右五億円が右請託にかかわる報酬であるというその性格を規定づけるとともに、右催促を契機としてその時期にその支払いが実行されたことを裏付けるものであって、その存否は極めて重要な意味を有するものである。しかして、所論は、榎本催促に関する原判決の右認定はそれ自体内容が不自然で首肯できるものでなく、右認定の証拠として挙示されている檜山、伊藤、大久保及びコーチャンの各供述は、いずれも不自然不合理なもので信用性がなく、榎本が否定しているとおり、同人が五億円の支払いを催促した事実はないのであって、原判決には証拠の取捨選択を誤り事実を誤認した違法があるとともに、右五億円の趣旨についての判断を誤っているというのである。

そこで検討するに、原判決は、昭和四七年八月二三日の田中・檜山会談において、檜山から、ロッキード社及び丸紅が全日空に対しL一〇一一型機を売込むについて協力を要請(請託)するとともに、売込みが成功することを条件として、五億円の報酬を供与する旨申し込み、田中においてこれを承諾した旨の事実を認定した(この認定の当否は後に判断する。)ほか、右五億円供与の約束の実行に関連し、次のとおり榎本催促の事実を認定している。すなわち、昭和四八年六月半ば過ぎころ、榎本は、伊藤に対し、檜山から田中に対し申出のあった五億円の供与について、「一体例のロッキードのものはどうなっているのでしょうか。いつごろになるのでしょうかね。」との催促の電話をした。伊藤は、前年に聞いた話であったからまだであったかと非常にいぶかしく思い、早速檜山に榎本から催促の電話があったことを報告した。檜山は驚いて大久保に対し、「早くロッキードの方に履行してもらわなければぼくが困る。早くしてもらいなさい。」と指示した。大久保は、米国カリフォルニア州バーバンクにいるコーチャンに電話して、「昨年の約束を果たしてほしい。」と言ったところ、同人から「その予算は全部使い果たしてしまったので応じられない。」などと拒否された。大久保からその旨の報告を受けた檜山は、「一体コーチャンは何を考えているんだ。私は日本にいられなくなる。丸紅としてはこれ以上ロッキードの製品を日本で売るわけにはいかない。その辺のことをよく分ってもらえ。」と指示し、大久保は再びコーチャンに電話して右檜山の言葉を伝えて強く支払うよう要求した。コーチャンは結局五億円の支払いを履行することとし、その旨大久保に電話で伝えるとともに、金銭引渡しの時期・方法についてはクラッターに話しておく旨述べた。大久保はこれを檜山に報告した。以上のとおり判示している。

そこで証拠関係を検討するに、コーチャンは、昭和四七年八月二一日、檜山に対し内閣総理大臣と会いL一〇一一型機について話をするよう依頼してその承諾を得た後翌二二日、檜山が総理大臣と会う際の戦略を大久保と協議した際、大久保からL一〇一一型機の売込みの成功を望むならば五億円の献金を約束する必要があると言われ、結局、売込みが成功することを条件に五億円供与の約束をすることを承諾し、更に、翌二三日、大久保から、檜山と大久保が総理大臣に会ったこと及びその際五億円を供与する約束をしてきたとの報告を聞いた旨供述しているのであるが、右約束を現実に実行するに至った経緯について次のとおり述べている(嘱託証人尋問調書三巻二四六頁~二六七頁)。一九七二年八月に右の約束ができてから、私は大久保に二~三回、私が何をすべきか聞いたが、大久保はその時期がきたら知らせると言った。二~三回話した後、私はこれはすぐには起こらないと思い、この件をドロップした。販売が行われた後で、私はもう一度大久保にこの件について尋ねたとき、大久保は同様にその時期がきたら知らせると言った。私が米国に帰り、L一〇一一型機売込みの関係でどれだけの経費を日本で使ったかあるいは約束したかについて、ホートン会長と首席財務担当役員のアンダーソンに報告したとき、右五億円供与の約束が現実化するかどうか私の考えとしては不確実だったので、報告の中にこれを入れなかった。そしてそのことについて誰にも気づかせなかった。日がたつに従って私は多分この約束は消えたのだろうと思った。そうするうちに、一九七三年六月中旬から末の間、六月の後半だったと思うが、大久保からバーバンクにいる私のところに電話があり、今が貴方の義務を果たすときですよ、という話を受けたのである。私は注文は六ケ月も前に受けたのだし、私のこういうことの予算はずっと前に使ってしまったし、それに私はそれをすべきではない趣旨のことを彼に言った。大久保は、それではもう少し検討してみてまた連絡する、と言って電話を切った。私はホートン会長に右の経緯を報告したが、ホートンは、私が日本でした約束や義務について私が一番よく理解しているところから、この問題についてどう対処するか何も指示せず私自身の決断に任せた。大久保は、もう一度私に電話してきて、この件について檜山と話をした、そして、もし私が、私がした約束を果たさない場合には、ロッキード社は日本においてこれ以上ロッキード社の製品を販売することは決してできないことを知ってもらいたいだけだと言った。それは極めてストレートな言い方であった。我々は、全日空に対しL一〇一一型機追加八機のペンディングな注文、はるか先に追加注文されるL一〇一一型機七機があったし、その他日本においてわが社の他の製品の販売を考えていた。そこで、私は、大久保に、それについて考えねばならないので後で電話する旨話した。私は、この取引が大きいので、クラッターを合衆国に帰国させ、彼にこの件を説明したが、クラッターは一九七二年八月の最初の約束を知っていた。また私はこれに関連する金額の大きさから、クラッター一人ではこれを扱えないのでロッキード社の副経理担当の責任者バロウにもその経緯を説明し、彼にクラッターの指示で五億円の資金を作るよう指示し、更に、ホートンに対し、ロッキード社は五億円の支払いをすべきであるというのが私の決定であり、そのように行動している旨報告したが、ホートンはこの決定に反対しなかった。そして一九七三年六月末か七月初めころと思うが、東京の大久保に電話し(なお、私は調べてみて、七月二日に私が大久保に電話しているのを見つけたが、これが私の返事の電話だと思う。)、私はこの件について考えたが我々は応ずる旨回答し、その時であったかその後であったかはっきりしないが、私は大久保に、この種の金は一度にあなたへ送れない、我々は若干時間をかけざるを得ないので、これについてはクラッターからあなたに話してもらう旨話をした。私が、このように五億円の支払いを実行する旨の決定をしたのは、日本関係のペンディングの注文に基づくだけでなく、私がした約束に基づくものである。もし将来におけるロッキード社製品の販売がなかったならば、私の決定がどうなったかわからないが、私がした決定は二つの組合せによるものであった。最初大久保が電話してきたとき、合衆国における口頭の約束をした場合の状況に従い、私は義務を感じた。私は五億円の支払いに同意していたので、金額を理由として支払いに反対することはできなかった。私の唯一の反論は、時間が経ったこと、そしてもはや原因結果の関係がないことであり、その理由に基づいてそれに反対した。一九七二年八月における五億円支払いの約束は、我々が成功しない限りそれは支払われないし、支払いの義務はなかったのであるが、売込みに成功した場合には我々にはその支払いの義務があったのである。そして我々は成功したのである。大久保は、丸紅が既にこの五億円を支出し、その立替分に相当する分の償還を請求していることを示すようなことは何も言わなかった。

前記のとおり、コーチャンは、大久保から、田中に対する五億円献金の約束を実行するよう強く要請されたと供述しているところ、これについて大久保がどのように供述しているか検討する。大久保は、昭和四七年八月二三日檜山がL一〇一一型機の売込みについての協力を要請するため田中邸を訪問するに先立ち、同月二二日、檜山の指示に従い、コーチャンと協議し、全日空に対するL一〇一一型機の売込みが成功することを条件として田中に対し五億円を供与する約束をとりつけた旨供述しているが、右約束が実行されるに至った経緯について公判廷において次のとおり供述している。昭和四八年六月の終りごろであったと記憶しているが、右五億円について、檜山から、「一体あの金はどうなっているんだ。先方は待ち遠しくなっているよ。」と言われ、その後で伊藤からも同様催促の趣旨の話があった。私は田中の方から催促が来たのではないかと推測した。私はコーチャンの自宅に国際電話をして、コーチャンに昨年の約束を果たして欲しいと要請した。コーチャンは、その予算は全部使い果たしてしまったので応じられないという趣旨のことを言っていた。私は、電話で論争しても仕方がないと思い、それでは私の方でも考えてみるからということで電話を切り、コーチャンの話を即刻檜山に報告した。檜山は、「一体コーチャンは何を考えているんだ。丸紅としてはこれ以上ロッキードの製品を日本で売るわけにはいかない。その辺のところをよくわかってもらえ。」と言われたと記憶している。そこで再度コーチャンに電話し、コーチャンに対し同様のことをきつく言った。なお、私が檜山にコーチャンは予算を使い果たしてしまったと言っているので非常に出しにくい情勢だと報告したとき、檜山は、「自分が日本に居られなくなる。」とも言った。二度目に電話したとき、コーチャンには前のような拒否的態度は消えていたと思う。その時すぐ返事があったか、それからしばらくしてであったか記憶にないが、コーチャンから、電話で、日本語で言えばお引受けしますというはっきりした返事をもらった。引渡の時期や方法についてはクラッターによく話をしておくから、ということであったと思う。コーチャンの回答については当然檜山に間違いなく報告していると思うが、伊藤に話をしたかどうかは記憶にない。この後八月に入ってクラッターから連絡があり打合せをしたのではないかと思っているが、この点もはっきり記憶に残っていない。

檜山は、昭和四七年八月二一日、丸紅東京本社において、コーチャンから、田中総理に会ったときにロッキード社の名前を覚えておいてもらえるようにして欲しいという依頼を受け、更に、翌二二日、大久保から、コーチャンが、ロッキード社から五億円相当の献金をしたいということを総理と会った際に伝えて欲しいと言っているということを聞き、翌二三日田中邸を訪問した際その旨を取次いだと述べているのであるが、五億円の支払いが履行されるに至った経緯について、公判廷において次のように述べている。昭和四八年の五、六月ころ、私が総理邸を訪問したのが昭和四七年八月二三日だから、やや一年もたつんじゃないかと思われたころ、伊藤が私の部屋にきて、田中総理の秘書からあのお金はいただけるのかという連絡があったという報告をした。私は、それが昭和四七年八月二三日に取次いだ五億円相当の献金の話であることはわかった。私は、その催促の連絡があったとき、ロッキードともあろうものが、私に伝えておいてくれと言って今日まで履行していなかったのかと非常に驚き、大久保に対し、早くロッキードの方に履行してもらわなければぼくが困るということを言った覚えがあるが、具体的に何と言ったかははっきり覚えていない。

伊藤は、この点について、原審公判廷で次のように供述している。確か、昭和四八年六月に入ってからだったと思うが、ロッキード社の五億円の件について榎本秘書から電話があった。その内容は、確か、「檜山さんから総理へロッキードの献金の申し出があったがそれは御存知ですか。」と言うので聞いている旨答えると、どういう言葉であったかはっきり覚えていないが、「いつごろになるのでしょうかね。」という趣旨の話であったと思っている。私は、その話は前年に聞いたことがあったので、まだだったのかなというふうに非常にいぶかしく思った記憶がある。私は早速檜山に報告した。檜山は、まだだったのか、というようなことを言って非常にびっくりしていた。早速大久保を呼んだと思う。もちろん、ロッキードの方に連絡するよう指示したと思うが、そのときまで私が同席していたかどうかはっきり覚えていない。榎本に対しては、早速ロッキードの方に連絡をしている旨の返事をしたと思っている。

以上のほか、クラッターは、一九七三年中のことで後記の送金を受ける直前ころ、コーチャンから、同人がした約束に基づき丸紅に五億円の現金を引渡す旨決定したのでその実行に当たるよう指示され、同年七月二三日、ロッキード社から送金された現金一億円の受領を最初として逐次支払資金を蓄積し、四回にわたり合計五億円を丸紅側に交付した旨、コーチャン証言と符合する供述をしており、かつ右資金の流れが、外国送金受領証写し、クラッターの収支控帳写し、ピーナツ・ピーシズ領収証等の物的証拠によって裏付けられていることは前示のとおりである。

ところで、所論は、伊藤は公判廷において榎本催促の存在を実質的に否定する供述をしているし、また、この点に関する伊藤の検面調書の内容はそれ自体不自然であるとともに右公判廷における供述に徴しても信用性がないという。しかしながら、伊藤は、原審公判廷(第九二回公判)において、検察官から「昭和四八年に、ロッキード社の五億円の金の件について、榎本秘書から何か言ってきたことはありませんか。」という質問に対し、前記のとおり、昭和四八年六月に入ってから、榎本から右金銭の支払いを催促する電話があった旨明確に供述している。そして、この供述は、榎本の支払い催促に関する最初の質問に対し答えたもので、その供述中には、催促の存在を否定するような言辞は一切なく、あるいは、記憶がないなどと言いよどんだりすることもなく、また、誘導的な尋問によって引き出されたものでもなく、端的に率直に述べられているものである。しかして、伊藤は、昭和五一年八月五日付検面調書(甲再一90)第七項において、検察官に対し、「この五億円の件に関して次に榎本秘書と私が連絡をとったのは、四八年五、六月頃だったと記憶しています。会社に居た私に榎本秘書から電話がありました。榎本秘書は、一体例のロッキードのものはどうなっているのでしょうか、いつごろになるのでしょうかね、と私に聞きました。確かに四七年一〇月三〇日にトライスターに決定後半年以上過ぎておりましたから例の五億円を催促しているのだなと私は感じました。榎本秘書は、この五億円について私と電話などで話す際に、例のロッキードのものとか、ロッキードの件などと言っていましたから、この時も先程申しあげた言葉がでたことは間違いありません。この時、榎本秘書の口調がいくらか不満げでしたから田中総理側はこの時この五億円の引渡しを待っているのだろうと思いました。私が直ちに檜山社長に対してこの督促の件を報告したことは申すまでもありません。私はそのころ榎本秘書に電話を入れて、ロッキード側に連絡をとっています、と言っておきました。これからまもなくのころ第一回目の一〇〇ピーナツ分がロッキード社から届いてこれを私から榎本秘書に届け、五億円の実際の受渡しが始まったのです。」と述べており、右公判廷における供述と検面供述は、言葉の表現等細部について違いがあるものの、昭和四八年六月ころ榎本から五億円の支払い催促があったという基本的事実関係については完全に一致しているのである。もっとも、伊藤は、その後の公判廷において、検察官から取調べを受ける時点で、一〇〇ピーナツ領収証の一億円受渡しの二、三ケ月前ころ、榎本の方から、何か電話があったようなぼんやりした記憶があり、そのことを検察官に述べていたが、前年度に約束された金銭の支払いが遅れたのはなぜなのかと検察官に尋ねられていたときで、「なんかお電話をいただいたようなことがありますな。」「それがやっぱり催促の電話じゃなかったのか。」というふうにだんだん固まっていったような感じであった旨(第九四回公判三二五九丁以下)、検面供述の記載が必ずしも自己の明確な記憶によるとはいえない旨の供述をし、また、榎本からの催促の電話の件は、「もともとそのことをはっきり記憶していたわけではなく、何か漠然とそんなことであったかな、という程度であったが、取調べの過程でいろいろなことを言われたり、いろんなことが入ってくると、だんだんそういうことであったということに固まってきて、そして今日では結論として、確かそういうことである。あったに違いないというふうに思うに至った。そして、思うに至ったところを九二回公判で述べた。」旨供述するとともに、弁護人の「結局のところ、現時点で思うに至ったその部分には、推測、憶測というものにすぎない部分、あるいはそれに基づくものがかなり含まれているのではないか。」との質問に対し「確かに、そう言われればそういうことになろうかと思います。」と供述しているのであるが、他方弁護人から、「立場上やむを得ず関与した五億円受渡しのきっかけについてどう考えているのか。」と尋ねられ、「確かその受渡しの一、二ケ月ぐらい前に、社長室に呼ばれロッキードの金がくるということを聞いたことがあったことは覚えていたが、そういうことになった動機というのは榎本さんからの電話がその動機であったんじゃないかというふうに思っている。」旨、榎本から催促の電話があったことを是認する趣旨の供述をしている(第九六回公判三五二九丁以下)。しかして、供述内容が、時の内閣総理大臣に対する五億円もの大金を供与するという特殊な事柄であり、しかもこれを先方から催促されたという事柄の性質にかんがみると、当初はともかく、種々の関連する事柄について思いをめぐらし考察するうち、その記憶をよみがえらせたものと考えられ、第九二回公判期日における供述において、検察官から、「いつ頃になるのでしょうかねという意味は、支払いがいつ頃になるのかと、こういう趣旨に理解したのか。」という質問に対し「そこまではっきりすぐにぴんとはきませんでしたけれども、そのお話(ロッキード社の献金の話)は前年に聞いていたので、あれはまだだったのかな、というふうに非常にいぶかしく思った記憶がある。」旨催促を受けた当時の印象が記憶に残っていることを具体的に供述しているのであって(二八七六丁)、榎本催促を肯認する第九二回公判期日における供述やこれと同旨の五一年八月五日付の前記検面供述は、伊藤が体験した事柄を自己の記憶に基づいてそのまま供述したものと認められる。なお、所論は、大久保の昭和五一年七月二三日付検面調書(甲再一75、乙23)の信用性を争うところ、原判決は、同調書中の榎本催促に関する部分を大久保以外の被告人の関係で証拠に供していないことが明らかである(原審裁判所の昭和五七年二月一八日付決定及び原判決参照)。また、檜山の前記公判廷における供述は、伊藤供述及び大久保供述の信用性を補強する証拠であるとともに、榎本催促について伊藤から報告を受けた後、大久保にコーチャンとの折衝を指示したその経緯に関する直接証拠であって、その限度で証拠に供されていることは言うまでもない。以上のとおり、伊藤は、公判廷においても、昭和四八年六月、榎本から、本件五億円について支払いの催促があり、このことを檜山に報告した旨供述し、檜山及び大久保も、公判廷において、右伊藤の供述を裏付ける供述をしており、更に、コーチャン及びクラッターも、嘱託証人尋問調書において、この点に関する大久保の供述と符合する供述をしている。本件五億円の授受を全面的に争い榎本催促についてもこれを否定する田中、榎本の面前において、同人らの弁護人等の実質的反対尋問を受けながら、伊藤、檜山、大久保らは、榎本催促並びにこれに関連する一連の事実経緯について供述しているのであるが、右供述内容が、五億円授受の実行の直接のきっかけをなすもので、本件贈収賄及び外為法違反の罪の成否にかかわる重大な事柄であることにかんがみると、伊藤、檜山、大久保らが、自己にとって不利益事実であるとともに、前総理大臣田中及びその秘書官榎本を罪に陥れるおそれのあるこれらの事項について、特段の事情がないかぎり虚偽の事実を作りあげてまで真実に反する供述をするとはとうてい考えられず、記録を精査してもかかる特段の事情の存在をうかがわせるものは全くない。そして、前記関係者の各供述は、具体的で、その全体を通じ、榎本催促に基づき生じた一連の事実の流れが一貫し、相互に矛盾なく符合し、特に、檜山の指示によりコーチャンと折衝した大久保のその状況に関する供述と、これに対応するコーチャンの供述は、いずれも具体的かつ詳細で、二回電話したことやその内容など細部にわたり一致しており、その後間もなく、ロッキード社の系列会社から、その資金がクラッターに送金されたうえ丸紅に引渡されている一連の経緯ともよく整合することをも併せ考えると、これら関係者の供述の信用性は高いと言わなければならない。そして、これらの関係証拠を総合すると、前記榎本催促に関する原判示事実を優に肯認することができるのであって、これと抵触する榎本の公判廷における供述及び検察官に対する供述は、これら関係証拠と対比して措信できず、原判決に所論のごとき事実誤認があるとは認められない。

3 原判決の認定事実の内容がそれ自体不自然である旨の主張について(L一〇一一型機売込み成功後五億円の授受が遅れているのは不自然であるとの主張について)

(一) 所論は、本件が檜山らにおいてコーチャンと共謀し内閣総理大臣に対してL一〇一一型機売込みの協力方を請託したうえその報酬として五億円を供与する旨約束した事案であるというのに、コーチャンが、大久保から右約束の履行を催促された際当初これを拒否し、再度強い要請を受けてやむなく承諾するに至ったという原判決の認定事実はそれ自体不自然であり、このことは、丸紅側が強硬な要求をしなかったならば右金銭の支払いをしなかったであろうことを示しているとともに右請託や約束が存在していなかったことの証左であるという。

そこで検討するに、コーチャン及び大久保の前記各供述によると、大久保がコーチャンに対し最初電話して約束の履行を求めたとき、コーチャンがこれに応ずる態度を示さなかったことは所論のとおり認めることができる。この点につき、コーチャンは、時間が相当経過したこと、そしてもはや原因結果の関係がないことを理由として、その支払いに反対したと供述しているのであるが、同人は、他方において、L一〇一一型機の売込みに成功した場合五億円を支払う旨約束し、それが成功した場合その支払義務があり、かつ、その売込みに成功したので、最初大久保から電話を受けたとき、右約束による義務を感じ、それ故に直ちに、ホートン会長にその経緯を報告したうえ、再度大久保から電話で強い要請を受け、これに応じたのであり、五億円の支払いに応じたのは、その後におけるロッキード社製品の売込みについて考慮したことはさることながら、右約束がありその支払義務があったことによるものである旨断言しているのである。しかして、コーチャンが当初支払いを拒否した理由として挙げているところは、それ自体、合理的な理由となり得るものでないことは明らかであり、それ故に間もなくこれに応じたものと推認されるのであるが、このような理由を考えてまで一応拒否する態度を示したのは、当時、ロッキード社の一九七二年度の会計監査に際し、同社の社外監査機構であるアーサー・ヤング会計事務所が、日本における重大な現金の支払いがあったこと及び現金資金の保管があることを発見し(これは児玉誉士夫に対する秘密コンサルタント契約に基づく非公然の支払いに関するものである。)、その支出の合法性、道義性を含め調査が進められ、コーチャンはその釈明を求められるとともに、一九七三年三月四日の会計監査委員会定例会議でこの問題が取上げられた際、外国高官に対する支払いについてはできるだけ言わないのがよいとの考えのもとに、本件五億円の支払い約束について報告せず当面を糊塗していたところから(ニューマン報告書添付資料7及び9参照)、このような背景事情のもとにおいては、違法性のある五億円の不正支払いをした場合、後日問題が生ずることをおもんぱかり支払わずに済むことであればできるだけ支払わずに済まそうと考えたことによるものと推認できる。したがって、当初、コーチャンが支払いを拒否したことが、前記の認定の妨げとなるものとは考えられず、かつ、原判示の認定が不自然、不合理であるということはできない。そして、前記のとおり、ロッキード社が本件五億円を支払ったこと自体、その支払約束があったこと、ひいては本件請託があったことの証左と言うべきである。

(二) 所論は、檜山が、時の内閣総理大臣に対しロッキード社のL一〇一一型機を全日空に売込むにつき協力方を依頼し、それが成功した場合には五億円の報酬を支払う旨の約束をするとともに、その支払いの実行について伊藤、大久保に指示し、かつ、その後昭和四七年一〇月三〇日、全日空が右航空機の採用を公表し、翌四八年一月一二日ロッキード社との間で購入契約を締結し売込みが成功したというのに、以後同年六月半ばころ榎本から催促があるまでの間、檜山、伊藤、大久保らが右約束を実行するための行動を起こしていないのは全く不可解であり、かつ、全日空が右航空機の採用を決定した後、榎本は、伊藤と何度も会い、これらの機会に右約束の履行を求めることができたはずであるのにこれをせず、榎本が、昭和四八年六月になって突然催促するに至ったその理由やきっかけを明らかにしていない原判決の事実認定は不自然である旨論難する。そこで検討するに、なるほど、販売コンサルタント契約や代理店契約に基づく報酬ないし手数料のごとく、これを支払うことが法的に問題を生ずるものでなく、またその支払い時期が明確に定められていたのであれば、長期間その支払いがなされていないことは不自然、不合理なことと言うことができるであろう。しかしながら、原判決が認定している本件五億円は違法な賄賂であって、その支払いを契機に事が露見することは絶対避けねばならない事柄であり、したがって、支払いの時期や方法が慎重に選択されたとしても決して不思議ではない。すなわち、右五億円の支払いは、航空機の売込みが成功することを条件としているのであるが、昭和四七年八月二三日の田中・檜山会談において、支払いの時期や方法については具体的かつ明示的な約束がなされていたわけではないこと、右報酬の金額は、五億円という極めて多額なものであり、しかも、これをロッキード社が現金で集めて用意したうえその受渡しをしなければならず、かつ、これらのことは、その過程において絶対他に洩れないよう極秘のうちに進めなければならないとともに証拠を残さぬよう配慮しなければならず、そのためにはかなりの期間を要すること、また、わが国の民間航空企業に対するエアバスの売込みについては、米国の航空機製造会社が日本の商社等(秘密コンサルタントを含む。)とともに激しい商戦を展開し、特に全日空に対するロッキード社とマグダネル・ダグラス社の競争は激しいもので、その過程において、右ダグラス社の代理店三井物産株式会社も、DC一〇型機の売込みを有利にするため、田中に助力を依頼するなど、政治的な力を利用しようとしたことがあり、昭和四七年八月当時、マスコミが右売込み商戦に関し政治的圧力のうわさがある旨報道したほか、全日空の機種決定当時も、雑誌が同種の記事を掲載していたことがうかがわれることなどを併せ考えると、報酬の支払いをいかなる時期にするかの判断は慎重になされる必要があり、売込み商戦の決着がついた直後に実行するよりも、ほとぼりが冷めるまで受渡しを延ばす配慮がなされたとしても決しておかしいこととは考えられない。このような観点から考察すると、売込みが成功したからといって、直ちに確定的に報酬支払いの履行期が到来したと解しなければならない理由はなく、その時期と方法については、改めて協議することが予定されていたと考えるのが相当である。そして、田中側と丸紅側との間で、榎本催促までの間に、支払いに関する具体的な協議がなされたことをうかがわしめる証拠はないが、田中・檜山会談において、田中側の連絡役に榎本が指名されていたことが推認されること、また、右会談直後、五億円の支払いに関し檜山から伊藤と相談してその受渡しをするよう指示されていたことを認めている大久保が、他方において、具体的な支払いについては、追って檜山から指示があるものと考え、航空機売込み成功後即刻自己の判断で積極的に支払いについての具体的作業に入ることは同人の責任であるとは考えていなかった旨供述し、コーチャンから、いつ支払うべきか二、三回尋ねられたとき、必要になったときに知らせるとだけ答えていることは、前記考察が正しいことを裏付けているものと言える。このように考えると、所論のように、売込み成功後直ちに五億円の受渡しが行われるのが自然かつ合理的であると一義的に考えなければならない必然性はなく、全日空とロッキード社間の航空機購入契約が締結されたおよそ五ケ月後になって、榎本催促を契機として、関係者が五億円支払いの実行に向って動き出したことをもって、特に不可解なことであるとは言いがたく所論は失当である。そして、右榎本催促があるまで、丸紅関係者やコーチャンの方から支払い実行の行動を起こさなかった点については、原判決が詳細に判示しているとおりである(原判決二九九頁ないし三〇一頁)。しかして、榎本が昭和四八年六月になってなぜ支払いの催促をしたのか、その理由やきっかけは明らかにされていないが(榎本は催促の事実を否定しているので、同人の供述からこれを明らかにする余地はない。)、それは前記諸事情にかんがみると、売込み成功後相当期間が経過し、支払い約束が履行されてしかるべきであると考えられたからにほかならないのであって、この点を、ことさら、判文に明示しなかったからといって非難するのは失当である。

(三) 更に、所論は、原判決中、榎本が伊藤に対し「一体例のロッキードのものはどうなっているのでしょうか。いつごろになるのでしょうかね。」と催促した旨の認定及び榎本が昭和四七年一〇月上旬全日空の機種選定の状況に関する伊藤の問合せに対し「トライスターに決まる見込みがある。」とか「総理がトライスターに決まるよう努力中です。」と答えた旨の認定は、檜山において田中に対しいかなる請託をし田中がこれにどのように対応していたかにつき、榎本がこれを認識していたことを前提とする判断であるのに、他方において、原判決が、榎本が贈収賄の罪について賄賂性の認識がなく、同人を情を知らない使者と認定していることと矛盾する旨論難し、かつこのことは右認定された事実が存在しなかったことの証左である旨主張する。

しかしながら、検察官は犯罪を犯した嫌疑があるというだけで公訴を提起するのではなく、有罪判決を得る見込みのある客観的嫌疑がある場合にこれを提起するのが通例であるところ、本件において、榎本は、昭和四七年八月二三日の田中・檜山会談に立会っておらず、また田中から右会談についてどの程度の説明を受けたのか証拠上明らかでないところから、贈収賄の罪についての賄賂性の認識が明確に立証できないおそれがあり、五億円授受の関与については田中の使者として位置づけていることがうかがわれるのであって、同罪について同人を起訴しなかった点は特段異とするに足りない。そして、原判決が証拠に基づき訴因の範囲内において榎本を五億円授受に関する田中の使者と認定していることは判文上明らかである。しかして、かかる訴訟の経過の中で、原判決が榎本に賄賂性の認識がなく使者であると認定したからといって、同人が当然に、ロッキード社側及び丸紅が、田中にL一〇一一型機売込みの協力を依頼したことや五億円を供与する約束をしたことを知らなかったということにはならない。と同時にそのような協力要請や金銭供与の約束を知っていたというだけで、直ちに約束の金銭が職務に関し供与される賄賂であるとの認識があったということはできず、したがって、右の点について知っていたということが、榎本を使者と認定することの妨げとなるものではない。してみると、原判決には所論がいうような事実認定上の矛盾は存在せず、認定された事実が存在しないことの証左であるという所論は採用できない。

4 コーチャン副証二五号ないし二八号について

所論は、コーチャンの供述によると、同人に対する嘱託証人尋問調書に添付されている副証二六号、二七号、二八号は、いずれもL一〇一一型機の売込みに関し、丸紅、児玉誉士夫、小佐野賢治、福田太郎及び全日空に対して既に支払いあるいは将来支払うべき手数料、報酬、リベート等のすべての経費を計上し、売上に対する経費率を算出するため作成された計算メモであるとされているところ、右計算メモに本件五億円の記載がないことは、右金銭が右航空機の売込みと関係がないことを示しているというのである。すなわち、副証二六号は全日空に対する売込みの最終段階である昭和四七年一〇月ごろコーチャンとクラッターにより作成されたものであり、また副証二七号は全日空から最初の確定注文がなされた昭和四八年一月一二日以後それほど遅くない時期にコーチャンにより作成されたものであるところ、もし原判決が認定するように、ロッキード社と丸紅が田中に対し全日空に対する航空機の売込みについて協力方を依頼(請託)し成功報酬五億円の支払いを約束したというのであれば、右金銭は全日空の購入決定後時日をおかず支払うことが予定されているものであるから、右計算メモ作成の時点において当然経費として計上されるべきであり、また、副証二八号は一九七四年(昭和四九年)一月二六日という作成日付があること、及び、全日空の航空機追加注文一機当たり五万ドルの割合による追加リベートが計上されていることからみて同年一月以降クラッターによって作成されたものと認められ、右計算メモ作成当時既に本件五億円の支払いを実行する旨の決定がなされその一部が支払われていたことになるのであるから、当然その記載がなされていなければならないはずであるのに、各計算メモにいずれもその記載がないことは、右五億円がL一〇一一型機の売込みと関係がないことの証左である。そしてコーチャンが一九七五年(昭和五〇年)の夏か秋ごろ作成したという副証二五号には、本件五億円と全日空に対する支払いの状況のみが記載されているが、販売経費の支出状況を把握し売上げに対する経費率を検討するため第三者に見せることを予定せず必要のつど作成されたという前記三枚の計算メモに計上されていない五億円が、右の時点に至り突如として表れているのは不自然不合理であるというべきところ、その当時米国証券取引委員会においてロッキード社の支出について調査が実施されていたのであって、副証二五号のメモは明らかに右調査に関連し第三者に説明するため意図的、作為的に作成されたものであり、右メモに記載されている五億円がL一〇一一型機の売込みに関し支出された旨のコーチャンの供述は信用できないものであって、前記三枚の計算メモに基づく前記推論の妨げとなるものではない。以上のとおり主張するのである。

そこで記録に基づき検討するに、まず、副証二六号の計算メモは、コーチャンとクラッターが、全日空に対するL一〇一一型機売込みの最終段階で、昭和四七年一〇月ごろ作成したものであるが、コーチャンは、その作成のいきさつについて、「要求が次々と私にされるので、手数料の率がどのようになっているかを検討するため作成したものである。丸紅に対する手数料が極めて低く計上されているが、それは、この資料によって、他の若干の経費とともに、丸紅に対する手数料をどれだけ低く取決めるかを検討しようとしたためで、同時に、何か起きようとしていたことや、過ぎようとしていたことは正確に表しておらず、ある点では不正確なものになっている。」旨供述している。当時、丸紅とロッキード社との間で代理店契約の改訂交渉が進められ、丸紅から要求されていたL一〇一一型機売込みの手数料(改訂前の契約では一機当たり一一万五、〇〇〇ドルと定められ、昭和四八年五月ころ合意され同四七年一一月一日に遡及した日付で締結された改訂契約では一六万ドルに増額されている。)をどの程度増額するか協議されていたこと、また、コーチャンが、田中に対する五億円をいつ支払ったらよいか二、三回大久保に尋ねたとき、大久保が、そのつど、「必要になったとき知らせますよ。」とか、「そのうち知らせますよ。」と答えたのみで明確な対応をしていなかったことから、コーチャンは、それが直ちに実現しそうな状況でないと判断していたことに徴すると、右計算メモは、丸紅に対する手数料の額をどの程度増額するか検討するため作成するとともに、その際、右情況判断のもとに、本件五億円を計上しなかったものと推認できる。なお、右計算メモは、その基本をクラッターが作成し、コーチャンが補足的に書き入れて完成したものであるが、当時、クラッターが本件五億円の支払い約束につきどの程度まで知らされていたのか必ずしも明らかでなく(コーチャンは誰にも知らせていなかったと述べている。)、クラッターが供述しているように、右約束の事実を知っていたとしても、その実行の必要性についてまで判断できず記載しなかったとも考えられる。また副証二七号の計算メモは、昭和四八年一月一二日、全日空からL一〇一一型機の確定注文を受けた後、コーチャンが、ロッキード社のホートン会長やアンダーソン主席財務担当役員に対し、全日空に対する売込み関係で、どれだけの費用を使い、あるいは、支払い約束をしたかについて報告するため、クラッターが作成した資料を参考にしながら自らの判断で取捨選択し作成したもので、コーチャンは、本件の五億円については、前記の事情からそれが現実化するかどうか不確実であったので右計算メモには記載しなかったと述べている。ところで、右計算メモには丸紅に対する手数料として一機当たり二〇万ドルと過大に計上されているが、これは前記契約改訂交渉において、丸紅が二〇万ドルに増額するよう要求していたこと(コーチャンは二〇万ドルを超える額を要求され、最終的には二〇万ドルくらいのところで話をつけたと思う旨述べているが、改訂契約の内容は前記のとおりである。)から、その増加額を一応二〇万ドルと仮定して作成されたものと考えるのが相当である。(所論は、一九七三年二月二一日付のコーチャン副証六号中に「二つのタイプのコミッションを支払わなければならならない。丸紅に対し一機当たり一〇万ドルを支払う。丸紅は三〇万ドルを請求した。コダマヨシオ 二〇〇×二一=四、二〇〇、〇〇〇。丸紅に対し支払うべきものとして見せかけることになろう。」という記載があることから、副証二七号の前記過大計上と対比し、両者は整合するという。しかし、コーチャンの供述によると、副証六号は、ロッキード社の一九七二年度の会計監査に関連し、監査を担当したアーサー・アンド・カンパニーの会計士によって作成されたことがうかがえるが、その作成の経緯や内容の真実性は明らかでないのみならず、副証二七号には、児玉誉士夫、小佐野賢治、福田太郎に対する過去・現在・将来の支払いがすべて記載されているのみならず、丸紅に対する支払いは一機当たり三〇万ドルとは記載されていないことに徴しても、両者は全く整合しないのであって、両者の関連性は認められない。)ところで、作成日付と認められる一九七四年一月二六日という記載のある副証二八号の計算メモについて、コーチャンは、「それがクラッターによって作成されたものであり、われわれ(コーチャンとクラッターを指す。)は、何か、かなりの額の状況の変化があったときには、たえずこれらを作り上げていた。」と述べ、右計算メモに、前記副証二六号二七号の各計算メモに存在しない全日空の追加確定注文八機分及び将来追加注文が予定されていた七機分にかかるリベート(一機当たり五万ドル)の記載があることに徴すると、右副証二八号は、全日空に対する一機五万ドルの割合によるリベートが最初の確定注文六機分だけでなく、追加注文分に対しても支払われることが合意されたことを背景として作成されたのではないかと推測することができる。そして、コーチャンが、本件五億円もロッキード社の会計帳簿上L一〇一一型機の販売計画の手数料として請求されている旨述べていること(ただし、ID社に対する手数料として計上されていることは後記のとおりである。)にかんがみると、右五億円はロッキード社にとっては実質的に販売経費であり、それが「全日空L一〇一一コミッション支払義務」という標題のもとに作成されている副証二八号にいうコミッションに該当し、これに記載されてしかるべきであるという所論の指摘は一応理解できないわけではない。しかして、右計算メモには、丸紅、児玉、小佐野、福田及び全日空に対する過去・現在・将来にわたって支払われ、あるいは支払いが予想されるすべての手数料、報酬、リベート等の販売経費が計上され、総売上に対する経費率が算出されているのに、本件五億円は計上されておらず、かつ、コーチャン供述を検討しても、それが記載されていない理由を明らかにするものはない。しかしながら、右計算メモに記載がないことの一事をもって、直ちに、本件五億円が全日空に対するL一〇一一型機の売込みと無関係であると速断することはできない。すなわち、既に説示し、また後に贈賄に関する共謀、請託関係において判示するとおり、本件五億円がL一〇一一型機を全日空に売込むにつき、田中に協力方を依頼し、その報酬としてロッキード社が支出したものであることを証するコーチャン、クラッター、檜山、伊藤、大久保ら関係者の供述、ピーナツ・ピーシズ領収証、クラッターの収支控帳写し、外国送金受領証写し等の物的証拠など多くの証拠が存するとともに、本件五億円がロッキード社の会計帳簿上L一〇一一型機の販売経費として計上されていること(前記コーチャン供述。なお、クラッターの収支控帳写し中の一九七四年二月二八日一億二、五〇〇万円支払欄の注記に、丸紅に対する支払いが完了した旨の記載とともに、ID社発行の領収証によって経理上の処理がなされたことを示す、「IDC」という記載があること、ID社とロッキード・エアクラフト社間のマーケッティング・コンサルタント契約及び修正契約〔甲再一42~44〕が存し、一九七三年七月一日付修正契約書にはID社に対し報酬として合計五億円を支払う旨の記載があること、チャーチ委員会の公表資料中にID社のシグ・カタヤマのサインのある合計金額五億円の領収証五枚〔甲再一45~49〕があること、原審証人シグ・カタヤマが、右マーケッティング・コンサルタント契約書や右領収証は、ロッキード社のエリオットから、同社の経理処理上領収証が必要である旨依頼され、右契約関係が存しその報酬として五億円を受領したように仮装するため作成したもので、いずれも実体をともなわない架空のものである旨供述していること、及び右シグ・カタヤマの供述と符合するコーチャンの供述、並びに前記クラッターの収支控帳写しの注記に関するクラッターの供述参照。)からも、本件五億円がL一〇一一型機の売込みと無関係であるとはとうてい言えず、このことは、ニューマン報告書が、「一九六九年六月一一日から一九七五年三月四日までの間に一七億九、四〇六万五、〇〇〇円(約六四〇万ドル)が、ロッキード・インターナショナル社又はロッキード・インターナショナル(ジュネーブ)社のいずれかによって購入され、その支払いは『L一〇一一型機販売事務費』としてロッキード・カリフォルニア社に請求された。」(本件五億円は右金額に含まれる。)「エリオットは当委員会に支払いは偽領収証の発行と交換に行われたと述べた。」等と報告していることと符合するのである。しかして、代理店に対する手数料、コンサルタントに対する報酬、購入先に対するリベート等、商業ベースの支出と性質を異にし、賄賂性のある本件五億円の不正支出については、それが表に現れぬよう特別に配慮し、また、その支出が、シグ・カタヤマに対する支払いのごとく仮装することが予定されていたことにかんがみると、これを計算メモに計上しなかったものとも考えられるのであって、これに記載がないことの一事から、本件五億円がL一〇一一型機の売込みと関係がないという結論を導くことはできず、所論は採用できない。

以上のほか、所論は、ロッキード社から丸紅に交付された五億円の趣旨、目的が原判決の認定するようなものでない可能性が大きい旨種々論難するが、記録を精査しても原判決の認定に誤りは認められない。論旨は理由がない。

第三  伊藤・榎本間の五億円授受に関する事実誤認の論旨について

所論は、要するに、原判決は、伊藤・榎本間の金銭授受につき、伊藤が榎本に対し、<1>昭和四八年八月一〇日午後二時二〇分ころ、東京都千代田区一番町一番地英国大使館裏路上において、現金一億円を、<2>同年一〇月一二日午後二時二五分ころ、同区富士見一丁目一〇番付近路上において、現金一億五、〇〇〇万円を、<3>昭和四九年一月二一日午後四時一五分ころから午後四時四五分ころまでの間、同都港区赤坂葵町三番地ホテルオークラ駐車場において、現金一億二、五〇〇万円を、<4>同年三月一日午前八時ころから午前八時三〇分ころまでの間、同都千代田区富士見一丁目一一番二四号秀和富士見町レジデンス六〇一号伊藤宏方において、現金一億二、五〇〇万円を、それぞれ交付した旨の事実を認定しているが、右判示事実を肯認するに足る証拠はなく、原判決は、信用性のない伊藤の原審公判廷及び捜査段階における各供述、松岡克浩、笠原政則及び榎本らの捜査段階における各供述の証拠価値を安易に認め、かつ、榎本アリバイに関する立証の位置づけないしその評価を誤るなど、証拠の取捨選択及びその評価を誤った結果、事実を誤認したものである、というのである。

しかしながら、原判決挙示の関係証拠によると、原判示事実を優に肯認できるのであって、記録を精査しても、原判決が証拠の評価を誤ったとは認められない。以下、所論に即して順次検討する。

一  伊藤の供述とその信用性について

伊藤は、捜査及び公判を通じ、原判示のとおり、四回にわたり合計五億円の現金を榎本に交付した事実を認める供述をしている。

(1)  伊藤は、昭和五一年八月一二日付検面調書において、次のように供述している。

(第一回目の授受について)

昭和四八年八月一〇日、松岡の運転する私の専用車が自宅に迎えに来たとき、私は車に乗る前、後部トランクを開けさせ段ボール箱が入っているのを確認した(なお、前日、野見山に、早朝だから松岡の車を迎えにやるからそれを使ってクラッターのところに行き書類を受取ってくるよう、そして受取った書類はトランクに入れたままにして報告だけするよう指示していた。)。出社後野見山から報告を受けたと思う。午前九時か一〇時ころ榎本に電話し、「金は受取ってきました。どこでお渡ししましょうか。」と引渡し場所について相談し、「会社の近くまで取りに来てもらえますか。」と聞いた記憶がある。榎本は「あなたの会社の近くでは目立ちませんか。」と言って賛成しなかった記憶がある。ある場所を決めて双方車でそこへ行き金を受渡したらどうかという案は私が言い出したように覚えている。裸のままの現金を受渡すわけではなく、外見上は段ボール箱を渡すだけであるから路上でこの受渡しを行っても怪しまれる危険はまずないと思った。いずれにしてもあまり車の通らない所で人目につかないような場所がいいと考え、この時あれこれ考えた記憶が残っている。私は、「英国大使館の裏手の道で、ダイヤモンドホテル側で千鳥ケ淵から真直ぐ行った所の信号の手前に止っていてくれませんか。」というように私の方から場所を指定したと思う。私はこの場所をよく通っており、さほど人通りがないことを知っていたのでここが適当だと考えた記憶がある。この時榎本は田中事務所にいたと覚えているが、この場所は双方のほぼ中間点位で好都合だと思った。待合せの時間は午後二時か三時ころだったと記憶している。私が松岡の車に乗り、約束の時間に待合せの場所に行ったところ、既に榎本の車が来ており、信号の少し手前道路左側に止まっていた。私の車は榎本の車の後ろにピタッと付けて止まった。私が車から降り立つと、榎本も同様車から降りてきて、「やあ、どうも。」といった程度の挨拶を交わしてすぐ松岡にトランクの段ボール箱を榎本の車のトランクに移すよう指示し、松岡が移し換えたことは間違いない。榎本が「ありがとうございます。」と簡単に別れの挨拶をした程度で、私も榎本もそれぞれ車に乗り込み別れた。こうして第一回目の金の受渡しは無事終了した。

(第二回目の授受について)

一五〇ピーシズの領収証の作成日付が四八年一〇月一二日になっているのでこの日のことであったことは間違いないと思う。自動車行動表を見ると、「一五・三〇~一五・四五富士見町~紀尾井町」「二〇・四五~二一・〇〇紀尾井町~富士見町」という記載があり、それぞれ乗車人員が二名になっている。これを見て思い出したが、この日は確か人事部の滝の結婚式がホテルニューオータニで行われ私たち夫婦が仲人をした。こうした事実から記憶を整理してみると、この日の結婚式は午後四時ころからで、私はモーニングに着替えるため会社から自宅に戻り、しばらくして、また松岡に迎えに来てもらって妻と一緒にホテルニューオータニに行き、結婚式と披露宴を済ませてまた松岡の車で自宅に帰った記憶があり、この記憶を思い出すとともに榎本に金を引渡した経緯をはっきり思い出した。この日の自動車行動表の午後の分の記載については、書き換えを指示した記憶はなく、松岡車の実際の動きどおりになっていることは間違いないと思う。この日、昼ころ、私は、野見山からロッキード社で書類一箱を受取り車のトランクに積んでおいた旨の報告を受けた記憶がある。私はすぐ榎本に電話を入れ、金を受取ってきた旨伝え、「私は一度自宅に帰る用事があるから私の自宅付近に金を取りに来てくれませんか。」と頼んだ。榎本がこれを承諾したので、私は引渡し場所を自宅近くの電話ボックスの所に指定した。自動車行動表の記載から考えて、待合せ時間は午後二時半ころではなかったかと思う。私はこの金の引渡しを松岡にやらせることにした。というのは、指定した場所は私のマンションからかなり近いので、私が車に乗って人を待っていてはマンションの住人などに見られた場合おかしいと思われかねないと考えたからである。松岡は私の信頼している運転手で非常に真面目な男であり、これまで私がきちっと指示すればそのとおり実行してくれていたし、段ボール箱の中味は知らないうえ比較的簡単な受渡しであるので、同人に段ボール箱を渡させても間違いはないと思い、その点不安は感じなかった。そこで、榎本と引渡し場所を打合せた際、「私のマンションに入る前の九段高校の向い側の所に電話ボックスがあります。そこに私の車を止め運転手を待たせておきます。その運転手にあなたの名前を言って下さい。」と場所及び受渡し方法を説明した。念のため、私の車のナンバーや車種を話しておいたように思う。私は、自宅前で車から降りたとき、後ろのトランクを開けさせガムテープで密封してある段ボール箱が一個入っているのを確認した。そして、松岡に、「そこの角を左に曲った所に電話ボックスがある。君はこれからこの車をそこまで持って行って、電話ボックスの前に止めておいてくれ。すぐ榎本という人が来るから相手の名前を確認したうえでこの段ボール箱をその人に渡してくれ。」と指示した。この時、私は、「榎本という人は小太りで丸っこい顔をした人だ。」とその特徴を話したようにも思う。いずれにしても、松岡は、第一回目の受渡しの際榎本を見て、ある程度記憶していると思ったので、この程度の指示で人違いをするはずはないだろうと考えた。松岡はこれを了承し、その後また私を迎えに来たとき、先程の件は指示どおり済ませた旨報告した。

(第三回目の授受について)

昭和四九年一月二一日分の自動車行動表は書き換えておらず、松岡車のその日の実際の動きを示している。この回は、前回同様ピーシズの符牒をロッキードが使っており、一二五ピーシズ、つまり一億二、五〇〇万円引渡されることになると大久保から聞いている。私は、榎本に電話を入れ、引渡し場所をホテルオークラとした。ここに決めた理由は、場所を決める打合せの時、この日私かあるいは榎本のいずれかがホテルオークラに用事があるという話が出て、私はホテルの駐車場や入口であれば人目は多いにしても荷物の出し入れを頻繁にする所であるから、段ボール箱を積み換えても怪しまれることはないと考えた記憶が残っている。私が「ホテルサイドパーキング」といった記憶もあるので、この時の待合せ場所はホテルオークラのホテルサイドパーキングかその間近かのホテルサイド入口付近だったのではないかと思う。昭和四九年一月二一日の自動車行動表を見ると、「一六・〇〇~一六・一五、竹橋~葵町、待時間三〇分、一六・四五~一七・〇〇、葵町~竹橋」の記載がある。ホテルオークラは葵町にある。この日、榎本と多少雑談したような感じもありますので待時間はこの雑談の時間を示しているのではないかと思う。私は、ホテルオークラのホテルサイドパーキングかその間近かのホテルサイド入口付近で、松岡にトランクの中の段ボール箱を積み換えるよう指示し、同人は私の車のトランクから榎本の車のトランクにこれを移し換えた。

(第四回目の授受について)

最後の領収証の日付である昭和四九年二月二八日、野見山に指示し、同人が大手町のロッキード社から一億二、五〇〇万円入った段ボール箱を受取って帰社したことは間違いないが、私は、同人から指示どおり書類の入った箱を車のトランクに入れてある旨の報告を受けたことは覚えている。私は榎本に電話をしたが、どういう事情であったかはっきり思い出せないが、結局四回目の分は翌朝榎本が私の家に取りに来ることになった。二月二八日は車のトランクに金の入った段ボール箱を入れたままにして、午後七時三〇分ころ私が家に帰った際、松岡にトランクに入っている段ボール箱を家の玄関内まで運ぶよう指示した。私が一足先にマンションの玄関に入りすぐ松岡がこの段ボール箱を玄関内まで運んできた記憶がはっきり残っている。私はこの箱を玄関脇の小部屋に入れておいた。翌朝午前八時過ぎころ、榎本が一人で私の家に来た。どういう挨拶をしたかまでは記憶にないが、榎本は金の入った段ボール箱を大事そうに抱えて玄関から出て行った姿が記憶に残っている。私が重そうなので、「お手伝いしましょうか。」と言ったところ、榎本がにこにこしながら上気嫌で、「いや、いや結構です。」と答えていた印象が強く残っている。こうして、五億円全部の受渡しが終り、私は全くやれやれと荷が軽くなった気がした。

(2)  伊藤の原審公判廷における供述

伊藤・榎本間における五億円の授受に関する事実認定においてまず注目すべきことは、伊藤が捜査段階で原判示事実に添う供述をしているだけでなく、原審公判廷においても、細部にわたる言動についての記憶が明確でないとしながらも、原判示に添う供述を維持していることである。伊藤は、第一回公判期日における公訴事実に対する意見陳述に際し、昭和四八年八月ころから昭和四九年三月までの間、四回にわたり、現金が入っているといわれる段ボール箱をクラッターから預り、これを榎本に渡したことがあると述べ、更に第九一回、第九三回各公判期日においてもこれを確認するとともに、次のとおり供述している。

(第一回目の授受について)

第一回目のときは、榎本にロッキードから直接受取ってもらおうと思って連絡したが、同人が逡巡したのでやむなく野見山国光に取りに行かせたうえ榎本の都合を聞いて渡したのである(昭和四八年八月一〇日午前八時ころ、野見山が伊藤の指示に基づきLAAL東京事務所でクラッターから一億円の現金が入っている段ボール箱を受取ったことは前示認定のとおりである。)。領収証の日付が昭和四八年八月九日になっているので多分翌一〇日だったと思うが、松岡が運転する車で、予め榎本と連絡して引渡しの場所と指定した英国大使館の裏へ行き、車で来た榎本と落ち合い、同所路上で松岡に指示して松岡車のトランクに入れていた段ボール箱を榎本の車に積み換えたのである。八月一〇日、私が出社する前に松岡が私を自宅に迎えに来たとき、車のトランクに段ボール箱があることを確かめたかどうか覚えていないが、あるいは確かめたかもしれない。段ボール箱があった記憶があり、ビール箱くらいの大きさでガムテープみたいなもので厳重にとめてあったような感じである。出社後、野見山から受取って来たという報告を受けたが、その前に松岡からその旨の話があったかどうかはよく覚えていない。段ボール箱は、出社後も車の中に入れたままにしておいた。段ボール箱の中味を開けてみなかったのは人様のお金を預かって届けるだけであったからで、開けて見る気はもちろんなかった。出社後、時間は覚えていないが、榎本に確か電話したと思う。官邸か砂防会館内の田中事務所のどちらかだったと思う。私はできるだけ早く渡したいと思い、結局二人が一番早く落ち合える時間と場所を相談したと思う。私が会社の近くということを言ったかもしれないが、時間の都合であまり会社の近くまで行くのは、という話だったと思う。場所は英国大使館の裏側の信号のある四ツ角のところと言ったと思うが、双方とも車で行くということであるが、そこに場所を選んだのは特別に理由があったわけではなく、二人で出て行ける時間と都合から、同じ時間に出ると出合えるのがその辺りだと思って選んだのである。時間ははっきり覚えておらず、運転日報(自動車行動表)を見てこの時間だったのかなというぐあいになったのである。段ボール箱は車のトランクに入れて現場に行った。私の車が待合せの場所に着いたとき、榎本の車が既に来ていたかどうか全然覚えていないし、またどこに止まっていたかはっきり覚えておらず、榎本車の後ろにつけたかどうかも覚えていない。これらの点について、捜査段階では松岡の供述に合わせたのではないかと思う。待合せの場所に着いて、私は車から降りたと思うし、榎本も降りたと思う。そして松岡に積み換えさせたと思う。榎本車のどこに乗せたかはっきり覚えていないが、車のトランクだったかもしれない。榎本の方から来ていたのは、同人と運転手だけだったと思う。積み終り榎本から何か挨拶はあったと思うが、記憶に残る言葉はなかったと思う。

(第二回目の授受について)

第二回目の引渡しは、領収証の日付である昭和四八年一〇月一二日だったと思う(なお、同日、野見山がLAAL東京事務所でクラッターから現金一億五、〇〇〇万円が入っている段ボール箱を受取って来たことは前示認定のとおりである。)。この日に、私が媒酌人をした丸紅の社員の結婚式がホテルニューオータニで行われたことを松岡が思い出してくれ、そのことを取調べの検事に聞いたが、その時点で、私はこの日に榎本に現金が入っている段ボール箱を引渡したことをはっきり思い出している。野見山が受取って来た現金の入っている段ボール箱は、松岡車のトランクに入れたままにしていた。私は、自宅が会社に近いので、結婚式に出席する場合には着替えのため自宅に帰るのが通例であった。この日、榎本と引渡しの場所を打合わせるとき、榎本が来れる時間と私が着替えのため自宅に帰る時間を考えて、午後二時か二時半ころに自宅近くのわかりやすい場所として、九段高校横の電話ボックスのところに来てもらうことになったと思う。場所の詳しい説明や道順について連絡したと思う。松岡運転手に交付させるということを榎本に連絡したかどうか覚えていないが、電話ボックスの所に車を止めて運転手を待たせておくので運転手に名前を言うように連絡したかもしれない。松岡に引渡すよう指示したがそれが自宅に帰る前であったか後であったかは覚えていない。松岡には、榎本の名前と年配、格好などの特徴を説明したと思う。トランクの中の段ボール箱を確認したと思うが、やはりガムテープで封がしてあったと思う。中味は確認していないが、その理由は第一回目の場合と同様である。松岡は、私が自宅に入っている間に段ボール箱を榎本に引渡したのであるが、その後で自宅からホテルニューオータニに行くとき、松岡から引渡した旨の報告を聞いたと思う。

(第三回目の授受について)

第三回目の引渡しは、確か領収証の日付の日昭和四九年一月二一日であったと思う(なお、この日クラッターが丸紅東京本社を訪れ、地下駐車場において、福岡清治運転にかかるクラッターの車のトランクから現金一億二、五〇〇万円が入っている段ボール箱を松岡車のトランクに積み換えて受領したことは前示認定のとおりである。)。この関係の現金の引渡し場所はホテルオークラである。この日、確か榎本か私のどちらかがホテルオークラに行く用事があり、打合わせの結果そこで落ち合うことになり、榎本と私がホテルのロビーで話をしている間に、松岡と榎本車の運転手が段ボール箱の受渡しを行ったのではないかと思っている。その経緯については、はっきり記憶がなかったけれど、取調べの結果そういうことに落ち着いたが、現在の記憶でもそんなことじゃなかったかなと思っている。

(第四回目の授受について)

第四回目は自宅で榎本に渡したが、その日は領収証の日付の翌朝、昭和四九年三月一日の朝であったと思う(なお、同年二月二八日、野見山が、伊藤の指示に基づきLAAL東京事務所でクラッターから現金一億二、五〇〇万円が入っている段ボール箱を受け取ったことは前示認定のとおりである。)。昭和四九年二月二八日、ロッキードから受取った現金入りの段ボール箱は、その日のうちに松岡車で自宅に持ち帰り、マンション六階の自室に松岡が持って上がってくれたと思う。その日の夕方に榎本に渡したかったが、榎本に連絡した結果、何かの都合でその日はどうしても都合がつかなかったので翌日の朝自宅に来てもらうことになったと思っている。約束は確か朝早い時間であったと思う。榎本は、三月一日の朝八時ころ一人でやって来た。私は、前の晩段ボール箱を玄関に近い部屋の隅に置いていた。私はこれを玄関で榎本に手渡した。手伝いましょうと確か言ったと思うが、榎本は自分で持って降りた。私は玄関で別れ下まで送っていない。なお当日の運転日報を見ると、私は出社した形跡がなく、休んだのであろうと思っている。

以上のように、伊藤は、捜査公判を通じ、伊藤・榎本間の四回にわたる現金入り段ボール箱の授受について、その基本的な事実関係を認める供述をしているのであるが、更に、弁護人の反対尋問に対し次のように供述している。

(第一回目の授受について)

英国大使館裏での記憶が零であったと言うのではない。自動車行動表の「一番町」という記載が英国大使館の裏であるということがわかってくると、確かにそうだったな、というような気がして、そこで授受が行われたということになってきても、そんなことは全然なかったというようには思わなかった。記憶として確実にあったわけではないが、多分そうであったと思うに至ったのである。自動車行動表の一番町往復の運行の使用者欄に伊藤常務という記載はないが、私は、あの辺でやったなという感じが甦ってきたのである。松岡が、法廷で、英国大使館裏での授受については記憶がないと、その事実を否定しているが、私は英国大使館裏ということを聞いて、確かにそういうことがあったというふうに思うに至ったのであって、私が供述しその後自分で思っている点からいえば、私は確かにそういうことがあったということを思い出したわけで、自分の記憶というか、それから後に浮かんできた記憶に基づいて供述しているのである。以上のように、伊藤は検面調書に述べていることや原審公判廷で述べたことについて、微妙な言いまわしながら、甦った自己の記憶に基づいて供述した旨述べているのである。

(第二回目の授受について)

九段高校横の電話ボックス付近での授受については、当初明確な記憶はなかったが、私が仲人をした結婚式に出席するため自宅に着替えに帰ったということを松岡が思い出してくれて、その時確か電話ボックスのところで私がいないときに渡してもらったんじゃないかということを思い出したのである。すなわち、私は松岡の記憶を借りて私の明確な記憶が甦ったということになると思う。結論的に私自身そう思い出しているのである。その思い出した程度も、記憶がはっきりしないけれどもそうではないかなという程度のものではなく、私はもう少しはっきりした形で思い出したのであって理屈で述べているのではない。右のように記憶に基づく供述である旨述べるとともに、想像で述べたものではないと明確に否定している。

(第三回目の授受について)

ホテルオークラにおける授受についての記憶は非常にあいまいではっきりしておらず、零ではないが零に近い状態であった。自動車行動表の「葵町」という記載から、ホテルオークラに行ったということを自分が思い出したのではない。検面調書に、授受について詳しく記載されているのは、検事がいろいろな材料を集めそれを適当にまとめたというよりも、私にいろいろな材料を提示し、私が推測をしてこうであったのではないかと思うに至ったことが記載されていると言った方が正確だと思う。私の推測の中には当然理屈が含まれている。伊藤は前記のように、現在の記憶でもホテルオークラで受渡しをしたと思っていると述べながら、他面以上のように述べている。

(第四回目の授受について)

二月二八日帰宅したとき松岡が段ボール箱を自宅に運ひ上げてくれたということは、榎本が自宅に受取りに来たということを思い出したので、確かそういうことがあったのじゃないかと思ったのである。確実な記憶ではないが、ぼんやり松岡が運び上げたという記憶があるという程度である。松岡は、通常そうであったので、おそらく玄関に置いてくれたと思うが、私には、それを私が玄関を入って右手の小さな部屋に運び入れたというそういう記憶が若干ある。それが何回目のときであったかははっきりしていなかったが、榎本が金を受取りに一回自宅に来たことがあるということは思い出したのであり、そのときの情景はこんなことではなかったかなという記憶が甦ったというか、そういうこともあったなというふうに思うに至ったのである。思い出したのは自動車行動表を見ているときではなかったかなと思うけれど、記憶喚起に結びつくヒントがあったか、また何であったか覚えていない。二月二八日分の自動車行動表に適当なドッキング場所が見当たらなかったから、理屈として推測して翌日自宅で渡したようにしたということ、それはちょっと考えられない。以上のように、伊藤は弁護人の反対尋問による種々の追求を受けながら、前記四回にわたる榎本に対する金銭の受渡しについてかなり詳細に供述し、終始その事実を認めているのであって、その供述の信用性は高いと評価すべきである。

(3)  ところで、伊藤は、昭和五一年七月二日、議院証言法違反被疑事件で逮捕され、以後検察官の取調べを受けたのであるが、同月七日に至り、検察官に対し、偽証した事実を認めるとともに、昭和四八年八月ころから同四九年二月ころまでの間に四回にわたりロッキード社から伊藤が署名したピーナツ・ピーシズ領収証四通に見合う合計五億円をある政府高官に渡す金として受取った事実を認める供述をし、更に、当時いまだ検察官が知ることのできなかった事実、すなわち、右金銭は四回とも伊藤が丸紅の秘書課員野見山に直接口頭で指示して取りに行かせたものであること、受取った金銭は、田中の秘書官榎本と電話で打合わせて受渡しの日時場所を決め、ある場所で伊藤が金を積んで行った車と榎本が乗って来た車がドッキングして、伊藤の車から榎本の車に現金を梱包ごと移し換えるという方法で引渡したこと、四回ともクラッターから金銭を受取ったその日に榎本に引渡し、その際、伊藤と運転手だけが行き榎本も運転手と二人だけで来ていたこと、ピーナツ・ピーシズ領収証はいずれもそのつど伊藤が指示して秘書課長の中居篤也にタイプさせて作成したものであること等の事実を供述し、以後捜査段階において、逐次記憶を喚起して四回にわたる金銭授受の経緯、状況につき具体的かつ詳細な供述をしているのである。しかるに、伊藤は、公判廷においては、それが取調べを受けた当時、記憶に基づいて述べたものであるかどうか覚えがないとか、あるいは検察官の誘導に応じもしくは迎合的に記憶がないまま述べた部分がある旨供述している。しかしながら、前記伊藤の検面調書の記載内容(この供述調書のもとになるものは、伊藤の検察官に対する昭和五一年七月二二日付供述調書でその供述内容は八月一二日付調書と同じである。)、松岡克浩の同年七月二三日付検面調書、伊藤を取調べた検察官松尾邦弘の原審証言及び松岡が作成した伊藤専用車の自動車行動表などの関係証拠によると、伊藤は、松岡の取調べの結果に示唆されて、第一回目の英国大使館裏での授受について具体的な記憶を喚起し、また第二回目の授受は自分が媒酌をした丸紅の社員の結婚式の日であったことを思い出したことが認められるが(これらの示唆が伊藤の供述に不当な影響を与えていないことは、伊藤の公判供述に照らし明らかである。)、伊藤の検察官に対する供述には、四回にわたる金銭授受の場所を榎本と打合わせた経緯、状況、第四回目の自宅における授受の状況等、松岡がかかわり知らぬ部分についての具体的かつ詳細な供述部分が含まれており、これらを含む授受の経緯、状況に関する供述は、記憶の有無及びその程度に応じた内容が記載され、他の関係証拠と整合し自然なものであって、これらの事情にかんがみると、伊藤は検察官から取調べを受けた当時、記憶を喚起してその程度に従い、また自動車行動表を検討し自らの体験に基づいてこうであったに違いないと推測したことを、任意に供述したものと認められ、その信用性は高いと言わなければならない。なお、検面調書中、記憶に基づいて述べたように記載されている部分のうち、仮に推測により述べた部分があったとしても、その推測は、自動車行動表の記載や自己の記憶並びに自己の体験を根拠にしたもので、合理的なものであり、伊藤の原審公判廷における供述に照らしても、それらの供述が全く根拠のない虚偽のものであるとはとうてい考えられない。特に、伊藤は、公判廷において、弁護人の質問に対し、ホテルオークラにおける第三回目の授受については、領収証の日付、自動車行動表の記載や関係者の供述から、昭和四九年一月二一日に右ホテルで授受を行ったと思うに至り、現在もそうであったと思っているが、その時の経緯や状況についての記憶は非常にはっきりしておらず、零ではないが零に近い感じじゃなかったかと思う旨答えているのであるが、捜査段階において、なぜ同所を授受の場所と選定したかについて、「ここに決めた理由ですが、この日私かあるいは榎本秘書のいずれかがホテルオークラに用事があるという話が、場所の打合わせの時に出た。」(七月二二日検面調書)からである旨述べているのであり、ホテルオークラに何か用事があるということは右供述当時、伊藤以外誰も述べておらず検察官も知らなかった事実である。松尾証言(原審第一〇四回公判)によると、昭和五一年七月二〇日夜、取調中、伊藤は、昭和四九年一月二一日分の自動車行動表を見ながら、ホテルオークラで渡したことが一回あるのを思い出し、検察官に対し、当日そのオークラで開催された何かの会合に出席する用事が、伊藤か榎本のどちらかにあった旨供述するとともに、それがどのような会合であったか調べてほしい旨要請したこと、そこで松尾検事は、その旨を吉永副部長に連絡し、翌日、特捜部の事務官がホテルオークラの宴会リストを調べ、松尾検事において、その結果を聞いたうえ伊藤にどの宴会に出たのか尋ねたが、結局、伊藤はこれを思い出さなかったことが認められる。しかるところ、伊藤の原審第一〇八回公判期日における供述によると、丸紅の経費台帳が開示された後における調査によって、伊藤が、当日午後四時から六時までホテルオークラにおいて開催された「前尾繁三郎君を励ます会」に出席していたことが明らかになったことが認められる(なお、「前尾繁三郎君を励ます会」案内状(写)〔弁106〕、同御出席御予定者芳名簿(写)〔弁107〕、(株)丸紅経費台帳昭和四九年一月二一日分〔弁108〕参照。)。

以上のことから、伊藤は、一月二一日のホテルオークラにおける第三回目の授受を、いかなる会合であったか明確に思い出さなかったものの、自ら出席した右会合との関連において思い出しているのであり、かつその旨を検察官に供述したことが明らかであって、右会合の内容やこれに出席したことを忘れていたように、具体的な細部についての記憶喚起が十分でなく記憶違いの部分が含まれている可能性があるにしても、右当日、同ホテルにおいて第三回目の授受が行われた旨の供述内容は、検察官が知り得ようもない事実との関連において喚起された記憶に基づくものであるとともに、右前尾繁三郎君を励ます会の開催時間、松岡の自動車行動表の運行時刻、及びクラッターが丸紅東京本社で現金の受渡しをした時刻(福岡の自動車行動表)等関係証拠と矛盾なく整合し、その信用性は高く評価されるべきものである。

ところで、所論は、伊藤の検察官に対する自白には、その真実性を担保する犯人しか語り得ない「秘密の暴露」と評価できるものは含まれておらず、それは、検察官が、昭和五一年五月の時点までに収集できた、チャーチ委員会におけるコーチャン及びフィンドレーの各証言、日米司法取決めにより米国司法省から提供を受けた各種資料並びにLAAL東京事務所や丸紅等から押収した資料等により、丸紅から田中側に合計五億円の現金が四回に分割して交付されたという基本的ストーリーを組み立て、その予断に基づく誘導、押しつけ等によって十分録取することが可能なものであり、かつその供述の変遷過程及び内容には不自然で不可解なものが多く含まれ、とうてい体験した者の供述とは思えない迫真性を欠く内容のものであって、伊藤の右自白は、検察官の誘導、押しつけ並びに伊藤の迎合等によってもたらされた信用性のないものであると主張している。そこで所論に即して以下判断するに、犯人だけしか知らない秘密について自白がなされ、かつ自白によって発見された物的証拠によってその犯罪事実が裏付けられるような場合、その自白に高度の信用性が与えられることは言うまでもないことであるが、だからといって、すべての犯罪に物的証拠が存在するとはかぎらない(もともと存在しない場合や存在してもそれが滅失して存在しなくなる場合がある。)ことにかんがみると、物的証拠によって裏付けられない自白はすべてその信用性を否定しなければならないものであるとは言えないのであって、供述当時、いまだ他の関係者の誰もが供述せずその他の資料によっても明らかにされていない、それ故に検察官が知ることができず誘導や押しつけによって引き出すことができない性質を有する重要な事実について任意の供述がなされた場合には、虚言を述べる誘因が存在しない情況下の供述として、これを裏付ける他の証拠の存在とあいまって、その信用性を高く評価することができるというべきである。しかして、所論は、伊藤の前記七月七日付供述内容、すなわち、金の受渡しに際し、日時場所を打合わせ、車をドッキングさせて現金の受渡しをするということ、また、これに野見山や榎本が関与したということを想定することは、検察官において容易になし得ることであったというが、当時このような事実は誰も供述しておらず、また他にこのような事実を推測せしめる証拠は存在せず、なんらの根拠もないのに一般的に想定が可能であるというのは合理性がなく、それは単に空想が可能であるというにすぎないものであってとうてい採ることはできない。そして、伊藤が榎本と車で落ち合って現金の授受をしたことを直接裏付ける物的証拠がないことは所論のとおりであるが、もともとこのような事実を直接裏付ける物的証拠としては授受された現金及びその梱包材料以外に考えられないところ、約二年四ケ月ないし三年前に交付されたこれらの物がそのまま存在しているとは考えられず、性質上その物は消費されまた滅失しているものであって、かかる物によって裏付けを要求すること自体難きを強いるものである。そして、供述の信用性を裏付ける物的証拠が存在しない場合でも、他の関係者(現金授受に関与した松岡、榎本、笠原ら)の供述と一致し、他の関係証拠によって認められる間接事実(現金の交付を催促したこと、本件発覚後現金の授受がなかったように種々の工作をしたことなど。)と整合することにより、その供述の信用性が補強されるのであり、原判決はこのような観点から伊藤の前記供述の信用性を肯定しているのであって、その判断に誤りは認められない。

更に、所論は、伊藤が、真実、時の内閣総理大臣の秘書官と白昼街頭で落ち合い、あるいは自宅でその来訪を受け五億円もの現金を受渡したというのであれば、それは伊藤にとって極めて特異な体験であると言うべきであるとともに、このような特異な体験については当然記憶が鮮明に残り誤って供述するはずがないというのが一般の常識であると主張し、これを前提として次のとおり主張している。すなわち、原判決は、第一回目の受渡しの日に関し、昭和四八年八月九日午後、野見山がLAAL東京事務所のクラッターのもとに同日付のピーナツ領収証を持参して現金を受取りに行ったが、この日は受取ることができず、翌日これを受領し、したがって伊藤・榎本間の授受は八月一〇日に行われたと認定しているところ、伊藤の初期の自白調書(七月七日付及び同月八日付)には、四回にわたる現金の授受は、いずれも大久保から連絡のあった日、すなわち領収証の日付の日八月九日にクラッターから現金を受取り、その日のうちに榎本に引渡しを終らせた旨の記載がなされており、かつ、この点は七月一七日付調書においても明確に訂正されていないのであって、原判示の認定を前提とする限り誤った供述をしているのである。また、かかる特異な体験については、少なくとも、授受の場所については鮮明な記憶が残っているはずであり、しかも現金授受の事実を認めた以上、ことさらに場所の点を隠しておく必要はないのであって当然供述されてしかるべき事柄であるのに、当初の自白調書には、「金の受渡しはある場所で行った。」とのみ記載され具体的な場所については一切述べられていないのであり、翌七月八日付の調書には、第一回目の授受の場所は、「丸紅本社の周辺道路」、あと三回のうちの一回は伊藤方の「千代田区富士見町のマンション前の道路」であったと記憶している旨、およそ原判決が認定した場所と異なる場所が記載され、しかも、この点は、七月一七日付調書に至るまで維持されている。更に、原判決は、第四回目の受渡しの日時、場所について、伊藤は、昭和四九年二月二八日にクラッターから現金を受取った後、これを自宅に運び入れ、翌三月一日朝自宅において榎本に引渡した旨認定しているところ、伊藤の初期の自白調書には、四回の授受について、「私達が金を積んで行った車と榎本氏が乗って来た車がドッキングしてこちらの車から榎本氏の車に現金が梱包ごと移され、収受は終った。」「榎本氏への金の受渡日時ですが、いずれもクラッターから金を受取ったその日に行っています。」と、四回の授受のいずれもが、金を受取ったその日に街頭で行われた旨記載されているのであって、右判示認定事実とは異なる供述がなされている。以上のように、伊藤の初期の自白調書にはもし伊藤が真実原判示のように榎本に現金を引渡したのであれば、当然供述されてしかるべきことが供述されておらず、また誤って述べられるはずもないことが真実に反して述べられているのであって、不自然、不可解というほかないばかりでなく、その後およそ一〇日間に及ぶ取調べの中で、これらの具体的状況を追及されながら真実に反する右供述が維持されていることは異常と言うべきであって、このことは、伊藤が真実体験したこともない街頭における授受を認めさせられたため、苦しまぎれに適当に虚偽の供述をした証左と言うべきで、それ以外の事情は考えられない。以上のとおり主張しているのである。

そこで考えてみるに、所論は、五億円の現金を街頭等で渡したということは特異な体験として忘れることのできない事柄であるということを前提として立論されている。なるほど、五億円の現金を渡したということは忘れることのできないことかもしれないが、しかし、場所の点をも含め、その現金をいつ、どこで、どのようにして渡したかという個別具体的な状況まで記憶しているのが当然だとまでは言いがたい。けだし、授受の当事者間に現金の授受につき現に紛糾が生じ、後日、授受の存否が問題となるおそれがあるなど、授受の具体的状況を銘記しておかなければならない特段の事由があればともかく、そのような状況が存在しない場合においては、金銭の授受が無事完了し、その後約二年間以上も何事もなく経過し、かつ、わが国有数の商社の枢要なる地位を占め多忙な仕事に追われていた伊藤が、時の経過とともに授受の具体的状況についての記憶を喪失したのは十分あり得ることであり、時の内閣総理大臣の秘書官である榎本に現金五億円を分割支払いしたという授受の基本的事実やその大筋の状況については特異な体験として記憶していたのは当然であるとしても、記憶喚起の手がかりとなる自動車行動表などの記録を示される以前に、個別具体的な日時、場所及び授受の状況を思い出さなかったからといって、特にそれが経験則に反し不自然であるとは思えないからである。加えて、伊藤は、本件が発覚した後、対世間的に、ピーナツ・ピーシズ領収証は金品の授受を伴うものではないということで対応する方針を定め、国会、マスコミに対し一貫して右方針に従って対応するとともに、予測される捜査取調べに対しても、いかにして右の方針に従って対処するかにつき腐心し、右金銭授受をいつ、どこで、どのようにして行ったかその真相を調査確認して記憶を喚起しておくことはかえってマイナスであると考え、一切そのような措置を執らなかったばかりか、むしろ、証拠をいん滅し、かつ、そのことを忘れようとしたのであって、かかる状況のもとで、当初、個別具体的状況についての記憶喚起がなされなかったとしても特段あやしむべきこととは考えられない。そして、伊藤の七月七日付検面調書に表れている当初の自白は、逮捕事実である議院証言法違反の被疑事実について、国会において偽証した事実を認め、ピーナツ・ピーシズ領収証に見合うものは現金五億円であり、これを四回にわたりロッキード社から受取り榎本に交付した事実を概括的に述べている内容のもので、四回の授受について個別具体的に述べられているものではなく、記憶喚起の手がかりとなる資料の提示もなく、かつ、記憶喚起が不十分で整理されないまま述べられていることは、右調書の記載内容及び伊藤の公判廷における供述から明らかである。そして伊藤・榎本間の四回の授受のうち三回までは、右調書に記載されているとおり、クラッターから金銭を受取ったその日のうちに打合わせた場所に双方車で行って落ち合い、梱包されたままの現金を車から車へ移し換える方法で受渡しが行われているのであり、第四回目の授受については、クラッターから受領した翌日伊藤の自宅において引渡しがなされたもので他の三回の場合と情況を異にしているのであるが、この場合も、伊藤としてはそれまでの三回の例と同様にクラッターから受取ったその日のうちに場所を定めて車で落ち合い榎本に引渡すべくそのように手配したが、双方の都合が折り合わず翌朝早い時間に伊藤方で受渡すこととし、クラッターから受取った現金入りの段ボール箱は、丸紅で保管することなく松岡車のトランクに積んだまま自宅に持ち帰ったうえその受渡しをしたのであって、その事情に照らして考察すると、伊藤としては、基本的にクラッターから受取った金銭は、その日のうちに双方が定めた適当な場所に双方が車で赴いて落ち合い受渡す方針を定め、これに従い四回とも榎本と連絡をとってその措置を講じたが、取調べの当初の時点では記憶喚起が十分でなかったため、その方針どおり実行できなかったことが一度あったことを失念し、授受について基本的に考えていたところに従って概括的に供述したものと認められ、最初の自白をした時点で右の点を失念していたからといって、それが不自然であると断ずるのは相当でない。更に、第一回目の授受の場所について「丸紅本社周辺道路」、その他の三回のうちの一回は「伊藤方マンション前の道路」と述べている点については、その調書の記載自体を見ても明らかなように、それは必ずしも正確な記憶として確定的に述べられているものではなく、かつ、伊藤は、原審公判廷及び昭和五一年七月二二日付検面調書において、第一回目の授受の場所を英国大使館裏道路と決める前に、丸紅本社近くの道路で落ち合うよう提案した記憶がある旨述べており、また、第二回目の授受が行われた九段高校横電話ボックス付近は、伊藤方マンション前の道幅の狭い一方通行の道路から、電話ボックスのある広い道路に出て左折したところにあり、右マンションから一〇〇米程度の場所であることに徴すると、およそ二年九ケ月ないし三年前に行われた授受の場所についての漠然たる記憶に基づいて述べたにしては、全く見当はずれの供述であるとは言いがたく、その記憶にあいまいさがあるからといって全く虚偽のことを述べたとは言いがたい。また、伊藤が、榎本に対して金銭を引渡した日について、いずれの場合も、大久保から連絡のあったその日に授受を完了したように記憶している旨、領収証の作成日付の日にクラッターから現金を受取ったことを前提にして供述しているのは、昭和四八年八月九日、野見山をクラッターのもとに受取りに行かせたのに、その日受取ることができず、翌朝再度野見山を赴かせて受取ったことを失念していたことによるものであるが、伊藤は、根も葉もないことを述べているわけではなく、大久保から連絡を受けて領収証を作成したうえその日のうちに野見山をクラッターのもとに取りに行かせたというのがロッキード社から現金を受取るパターンであって、そのような基本的なパターンについての記憶があったからこそ、そのように述べているのであり、右供述は、記憶喚起の手がかりや記憶の正確性を吟味する資料の提示がない状況のもとで、そらで覚えていることのみに基づいてなされているのであって、このような場合、記憶の喚起が十分でなく、個々の具体的経緯について失念していることは往々あることで、特段あやしむべきことではなく、伊藤自身も、このような供述をしたのは、右供述当時、記憶喚起が十分でなかったことによるものである旨述べているのである。また、伊藤が、昭和五一年七月一七日付及び同月一八日付検面調書において、昭和四八年八月九日野見山が金銭を受取ることができず、クラッターから現金を受取ったのは翌一〇日であることを明確に供述していないことは所論のとおりであるが、右二通の検面調書は、いずれも、自動車行動表の改ざん等の証拠いん滅工作についての取調べ調書であり、クラッターからの金銭受領の経緯状況を直接の取調べ対象としているものではなく、右調書において、伊藤は、松岡克浩作成の自動車行動表の改ざんを指示したことについて、昭和四八年八月九日分及び同月一〇日分を見たが、そのいずれかに、早朝野見山が彼の自宅から大手町(LAAL東京事務所の所在地。)へ行くのに、松岡運転の自動車に乗ったと読み取れる記載があった旨供述しているほか、ピーナツ・ピーシズ領収証の日付と関連し、野見山が大手町のLAAL東京事務所に行ったことがわかる手がかりとなる自動車行動表のすべての記載を改ざんすることを企図し、領収証の作成日付の日及びその前後の自動車行動表を点検したうえ、野見山が大手町へ行った記載のすべてを改ざんするよう指示した情況について供述しているところ、右書き換え改ざんの作業は松岡が実行したこと、野見山がLAAL東京事務所において第一回目の現金を受取った日が八月一〇日であることは、既に判示したとおり関係証拠上明らかであって、このような明らかな事実につき伊藤が明確に供述しなかったのは、右金銭受領の詳細な経緯について正確な記憶喚起ができていなかったことによるとともに、右取調べ時の対象が金銭受領の経緯そのものでなかったことによること以外に考えられない。このように検討してみると、所論指摘の伊藤の右各検面調書の一部に原判示認定とそごする供述部分があるのは、記憶の喚起が十分でなかったことによるもので、それが、特に不自然不合理であると言うことはできず、また、そのことから、榎本に対し四回にわたりピーナツ・ピーシズ領収証に見合う五億円を交付した旨概括的に述べている当初の自白が、虚構の自白であると言うこともできないのであって、所論は失当であるとともに、まして、その後喚起された正確な記憶に基づき任意になされた前記捜査及び公判廷における各供述の信用性を認める妨げとなるものではない。

また、所論は、伊藤の前記七月一七日付検面調書に、「私がピーナツ・ピーシズの各領収証にある金額の金を榎本秘書に引渡した場所については、その頃(自動車行動表の改ざんを指示した頃を意味する。)、会社周辺道路と私の自宅前道路と記憶しておりましたが、このドッキングの場所については、この運転日報にこれと判るような気になる記載はありませんでした。ドッキングの場所についてその記憶と違うような場所の記載もありませんでした。」という記載があることから、その供述内容に照らし、伊藤は昭和五一年三月中旬当時、四回の授受の日時や場所を記憶していたはずであるのに、約四ケ月しか経っていない七月七日、八日の時点では授受の場所を全く忘れてしまっているとか、原判示認定と異なる記憶しかないというのは不可解であり、右は、そもそも右改ざんを指示した時点において、榎本に対する現金の交付など念頭になく、そのような事実がもともとなかったことの表れであり、はじめから記憶にないことをさもあったように供述させられたため前後矛盾の供述となったのである旨主張している。しかしながら、「ドッキングの場所についてそれと判るような気になる記載はなかった。」とか、「ドッキングの場所についてその記憶と違うような場所の記載がなかった。」というのは、その前の「金を引渡した場所については、その頃、会社周辺道路と私の自宅前道路と記憶しておりましたが」という文章を受けているのであり、右調書の記載から、伊藤は四回の授受の日時や場所を正確に記憶していたと読み取ることはできず、当時伊藤が授受の場所と考えていた(それは前記のとおり漠然とした記憶によるものであったが)その場所が自動車行動表上それとわかるような記載がなかったし、また右の記憶と違う場所の記載もなかったという事実認識を述べているにすぎず、それが前後矛盾の不可解な供述とは考えられないのであって、所論は立論の前提を誤っているもので採ることができない。

所論は、伊藤の昭和五一年七月二二日付検面調書の内容は、同月一八日段階までの供述と異なり、伊藤・榎本間の現金授受の日時、場所、方法などの点でほぼ検察官の主張に添う内容になっているところ、伊藤の供述がこのように大幅に変化したのは松岡の供述を契機としているのであって、検察官はまず自動車行動表の作成者である松岡から検察官の主張に添う供述を引き出したうえこれをもとに伊藤を誘導して右調書を作成したものであり、伊藤の右供述はその記憶に基づいてなされたものではなく、右誘導に迎合してなされたものであって、真実を語っているものではない旨主張する。

そこで検討するに、関係証拠によると、第一回目分の授受の場所が「英国大使館の裏」であることについては、検察官から「英国大使館」ということで何か思い出さないかという趣旨の誘導的質問がなされ、また、第二回目の授受に関連し、検察官から当日伊藤が丸紅社員の結婚式の媒酌をしたのではないかとの示唆を受け、これを契機に伊藤が第一回目及び第二回目分の授受に関する具体的状況について供述していることが認められる。しかしながら、捜査段階における取調べにおいて、供述者が記憶を喪失したりまた記憶があっても不明確である場合に、正しい記憶喚起のきっかけを与える質問をすることが許されないわけではない。しかして、伊藤は、第一回目の英国大使館裏路上の授受について、記憶喚起のきっかけが松岡供述に基づく検察官の示唆によるものであるとしながらも、細部の点についてはともかく自ら思い出した記憶に基づいて供述したことを認めており(記録三〇八〇~三〇九一丁、四三九五丁参照。)、また、第二回目の授受についても、松岡が結婚式の媒酌人をしたことを思い出してくれたということを聞いたその時点で、その日に榎本に金銭を引渡したことを思い出した旨明確に述べているのであって、伊藤の右検面供述は、松岡の供述に示唆されたものではあるが、それを契機に甦った独自の記憶と自ら体験したことに基づく推論をもとになされたものであることが明らかであり、かつ記憶喚起の契機となった検察官の質問が虚偽供述の誘因となるようなものでなかったことは伊藤の公判供述に照らし明らかである。また、第四回目の伊藤方自宅における授受については、関係証拠(特に、伊藤の原審公判廷における供述)によると、もともと伊藤方自宅において授受が行われたことが伊藤の潜在的記憶の中に漠然と存在していたところ、伊藤は、七月一八日午後の取調べの際、自動車行動表を見ているうちに、昭和四九年三月一日朝早く榎本が自宅に来て現金の授受が行われたことを明確に思い出したことが明らかであり、それまでは記憶喚起の手がかりとなる資料がなく宙で思い出すことができないでいたけれど、自動車行動表を示されるに至ってその検討分析を契機として記憶を喚起しているのであって、その過程が不自然であるとの非難は当たらない。更に、第三回目の授受について、原審証人松尾邦弘は、昭和五一年七月二〇日夜、伊藤が昭和四九年一月二一日分の自動車行動表の「葵町」という記載のあるところを見てホテルオークラにおける授受を思い出したと述べている。しかして、仮に、伊藤が言うように、もともと伊藤は「葵町」という記載がホテルオークラに行ったことを意味することを知らず、伊藤が当日ホテルオークラに行ったことを思い出したのは「葵町」なる記載がホテルオークラに行ったことを意味する旨の松岡の供述をもとにした検察官の示唆によるものであったとしても、伊藤はそれを契機に同ホテルにおける金銭の受渡しを思い出しているのである(ちなみに、松岡は検察官に対しその日に現金入り段ボール箱の授受があったことを認めてはいない。)。すなわち、伊藤は、右ホテルオークラにおける授受とあわせて、なぜ同所を授受の場所と定めたかその理由につき、伊藤か榎本のいずれかが同ホテルに行く用件があったのでその機会に同所で落ち合うことにした旨述べているのである。このことは、松岡ら関係者の誰も供述しておらず、検察官も知らなかったことであり、伊藤は検察官に対し当時誰も知ることのできなかった右場所の選定の経緯に関し自発的に供述するとともに伊藤または榎本の用件に見合う会合等が当日同ホテルで行われていないかどうかの調査方を求め、かつその後の調査において伊藤が当日出席した「前尾繁三郎君を励ます会」が同ホテルで開催されていることが確認されていることは既に判示したとおりである。これらの事実は、当日伊藤がホテルオークラに行ったことが松岡供述によって示唆されたとしても、伊藤がそれを契機にまさしく当日の状況につき記憶を喚起し、その記憶に従って供述したことの証左というべきであって、伊藤の供述が松岡供述によって誘導されかつこれに迎合してなされたもので同人の記憶に基づくものではない旨の所論は失当である。なお、所論は、伊藤の昭和五一年七月一九日付松尾検事宛上申書中に、「細かい日時などを含めて詳細な点を想い出すことが出来ず、検察当局に協力するにも記憶が明確でないので困っている。」旨の記載があるのは、当時、伊藤がほとんど具体的な供述をしていなかったことを示しており、検察官は、「英国大使館裏」や「九段高校向いの電話ボックス付近路上」の場合と同様、ホテルオークラにおける授受についてもまず松岡から供述を引き出し、これに基づく誘導により伊藤の自白を得たことが明らかであり、このことは、伊藤の七月二二日付調書及び松岡の七月二三日付調書にいずれも授受の場所がホテルオークラのホテルサイドのフロントと記載され、原判決が認定しているように一階宴会場入口付近駐車場が正しいとするならば、二人して誤った供述をしていることになることに徴しても明らかであるという。しかしながら、右上申書には、伊藤が「四回に分けてL社の金を受取りそれを渡したことなどについてすべて真相を述べてきたが、細かい日時などを含めて詳細な点を想い出すことが出来ず、検察当局に協力しようにも記憶が明確でなく困っている。」「君(松岡)の記憶に頼るより今は仕方がない。」「よく落着いて当時の事情を想い起し、少しでも多く、少しでも詳しく真相を担当の検事に説明し出来るかぎり協力してほしい。」旨記載されており、上申書作成時までに伊藤が供述していた内容については具体的に記載されておらず、かつ捜査の過程で作成された文書の性質上どの程度まで供述しているのかその具体的内容が関係者にわかるような記載はすべきものでないこと及び右上申書の文意並びに伊藤の公判廷における供述に照らすと、右文書が作成された趣意は、松岡に対し事件の真相をありのままに述べるよう勧奨する伊藤の心情を伝えるにとどまるものであることが明らかであり、したがって、右上申書に所論指摘のごとき記載があることから、直ちに伊藤がほとんど具体的な供述をしていなかったことの証左ということはできず、まして伊藤が自動車行動表を検討する過程で松岡供述と関係なく独自に記憶を喚起した部分があることを認定する妨げとなるものではない。また、ホテルオークラにおける授受の場所について、伊藤、松岡の両名がいずれもホテルサイドのフロントと供述し、原判決が認定した一階宴会場入口付近駐車場と異なる場所を指示していることは所論のとおりであるが、伊藤は松岡が運転する専用車に乗ってしばしばホテルオークラに赴き、五階ホテルサイドの駐車場やフロント寄りの入口及び一階宴会場入口やその付近駐車場を数多く利用していたことから、両名ともおよそ二年半前の出来事についてそのいずれの場所であったかについて記憶が混同していたものと推測され、かつ、伊藤は、ホテルオークラにおいて金銭の受渡しをしたことを思い出したものの、ホテルのどの場所であったか細部についてまで正確に思い出せず、松岡供述に示唆されて具体的場所について供述したとしても、前記のとおり伊藤の供述調書には松岡が述べていない事柄が記載され、両者の供述調書は細部にわたりすべて一致しているわけではないことにかんがみると、右場所の点など両者の供述に一致する点が多いことから伊藤供述のすべてが松岡供述に基づく誘導によるとはいいがたく、ホテルオークラを授受の場所と定め右ホテルにおいて金銭の受渡しをしたという基本的な事実について伊藤が独自に思い出し供述したという前記の判断を左右するものではない。

以上のとおり、伊藤供述の信用性を論難する所論はいずれも失当であり、伊藤の捜査段階における供述の変化は、記憶はあったが言い渋っていたことを述べたり、また、当初全く記憶がなかったり、あるいは多少の記憶はあっても漠然として明確でなかったため供述することをためらったり、誤って述べたり、不正確に述べたりしていたこと等について記憶喚起に努力し、自動車行動表を検討したり、更には松岡供述に基づく示唆を受けたりするなどして逐次記憶を喚起したうえ従前述べていなかったことを供述し、誤って述べていたことを訂正し、不正確に述べていたことについてより正確に供述したことによるのであって、体験上とうていあり得ようもない前後矛盾の供述が含まれているわけではなく、その供述の変遷は自然なもので異常性は認められない。しかも、前記のとおり、伊藤は公判廷においても捜査段階における供述の基本的部分を維持しているのであって、この点からも伊藤供述の信用性は高く評価されるべきものであり、その他記録を精査してもその信用性を否定すべき事情は見当たらず、この点の所論は採用できない。

二  榎本の供述とその信用性について

所論は、要するに、榎本の検面調書中には、榎本が伊藤から四回にわたり合計五億円の現金を受領したことを認める供述記載があるが、右供述は信用性がない旨主張し、その理由として、<1>榎本がこのような供述をしたのは、取調べに際し、検察官から、「田中五億円の受領を認める」と報じた新聞記事(それは誤報であった。)を意図的に見せられ、榎本において、田中が真実かかる供述をしていると思い込むと同時に、田中がこのような供述をしたのは、自由民主党に献金された五億円につき政治資金規正法上の届出がなされていなかったところから党を守るため田中が個人として責任を取ろうとしたためであり、かつ、田中は右授受に直接関与したのは榎本である旨供述しているに違いないので、右田中の供述と口裏を合わせる必要があると考えたことによるものである。<2>しかして、榎本の検面調書中の金銭授受の日時、場所に関する記載は、抽象的で具体性を欠くとともに現実味のないものであり、また、受領したと言う金銭の趣旨は、ロッキード社からのものでなく、丸紅からなされた政治献金であると言うのであり、およそ、検察官の主張とかけはなれた内容のものであるばかりでなく、真実と異なる(丸紅から自由民主党に対し五億円の政治献金がなされた事実はない。)ものであって、これらのことは、右検面調書の記載内容が、榎本の記憶に基づく供述ではなく虚偽であることを示し、その全体についての信用性を疑うべきであるのに、互に関連する供述中の有罪認定に都合のよい一部分のみを取り上げてその信用性を認め、その余の供述部分についてはその信用性を否定するがごとき評価をすることは、採証法則に反し許されない。<3>また、榎本の検面調書には、榎本しか知り得ない事項についての供述はなく、そこに記載されていることは、すべて検察官が当時の捜査の進展情況から把握し得た事項ないしこれから推測し得た事項ばかりであって、五億円授受に関する供述の大部分は、検察官が伊藤、松岡、笠原ら関係者の供述等によって知り得たことを真実として誘導したり押しつけたりしたうえ榎本がこれに迎合して供述したものであり、榎本が真実体験したことを記憶に基づいて供述したものではないのであるから、その信用性は否定されるべきであるなどというのである。

そこで判断するに、榎本の検面調書の内容は次のとおりである。

昭和四八年六月ころ、伊藤から政治献金として五億円を供与する話がありその旨田中に報告していたが、同年八月初旬から翌四九年二月末ころにかけ四回にわたり合計五億円をいずれも伊藤から直接受領した。毎回、受領する日の前日か当日、伊藤から目白の田中事務所なり砂防会館の私のところに電話で連絡があり、金銭授受の日時、場所を打合わせ指定の場所へ出向いて受取ったが、出かける前にそのつど田中にその旨の話をし、目白の田中事務所の笠原政則運転手が運転する自動車を使って出かけていた。伊藤は私が同人方自宅を訪ねたときを除き、ベージュがかったグリーンの外車を運転手に運転させて来ていた。金銭授受の具体的な日時、場所については、一回毎の日は記憶していないが、おぼろげな記憶をまじえて話できることは、九段の伊藤方自宅(マンション)で一回、伊藤方に近い靖国神社付近の道路上で一回、ダイヤモンドホテルと英国大使館の間の坂のある道路上で一回それぞれ受渡ししたことで、そこまでは思い出せるが、あとの一回はどうしても記憶がたどれない。ホテルオークラの駐車場で受渡しをしたことがあるかどうかについては確かな印象は残っていない。授受の時間は午前か午後か覚えていないが、日中の時間帯といった記憶である。金銭の授受は、伊藤の自宅から自分自身で持ち出した以外は、伊藤の自動車から笠原運転車のトランクなり後部座席にガムテープ等で密封されている現金入りの段ボール箱を積み換える方法で行った。その金額は合計五億円に間違いないが第一回目が一億円という記憶はあるもののあとの三回分がそれぞれいくらであったか憶えていない。丸紅からの献金は、自由民主党が来たるべき参議院議員選挙を有利に戦うための政治活動費すなわち党に対する政治献金として党の総裁としての田中が受けるものという認識にたっていた。受領した五億円は田中の政治団体である越山会、財政調査会、政治経済調査会等の会計には入金していない。第一回目の金銭を受領する際、田中から目白の私邸に運ぶよう指示されていたので、四回とも私邸の一階奥座敷に運び込み、その後田中にその旨の報告をしている。この五億円がロッキード社から支払われた金であるということは知らなかったし、また、全日空に対するトライスターの売込みを有利に運ぶため田中に賄賂として贈ったものであるとは考えていなかった。ロッキード事件が新聞等で報道された昭和五一年二月五日から伊藤が逮捕された同年七月までの間、伊藤と頻繁に電話連絡をとり、二回直接面談した。私は、丸紅からの五億円の政治献金をめぐり田中と丸紅の接点に立たされており、事件の実体が浮きぼりにされ世間が騒がしくなるにつれ、田中の政治生命に傷をつけないため、何としても田中が丸紅からの五億円の献金を受けたという事実を徹底して打ち消す以外に方法はないと考えた。そして、そのために、伊藤に電話で、五億円の授受はなかったことにして欲しい旨依頼し、伊藤から、それは絶対大丈夫です。決して迷惑をかけるようなことはないから心配しないようにと聞かされていた。そして、この点についての伊藤の態度はその後も終始一貫して変らず、田中に対して、丸紅は現金の授受がなかったことにしてくれることになっている旨報告していた。更に、いっそのこと、五億円を丸紅に返してしまえばよいのではないかと考え、目白の田中事務所で田中に対し、五億円を返した場合にはどうなるのでしょうか、とその返還方を提案し、田中から、そういうことができるのであれば金はつくってもよいから先方が何と言うか一ペん聞いてみるよう指示され、伊藤に電話で五億円を返還する相談をもちかけたがこれを断られ返すことはあきらめた。また、伊藤と私とでお膳立てして田中と檜山が面談する機会をつくろうと相談し、その前に田中と檜山が電話ででもよいから話ができればと思い伊藤にその旨伝えたが先方の都合で実現できず、田中から檜山によろしくと申している旨伝えたのみで終った。檜山、伊藤、大久保らに対する第一回目の国会喚問が行われるというころ、目白の田中事務所で田中から、檜山も苦労しているのに言葉ぐらいかけてやらなければ悪いから一度檜山に電話できないかと言われ、その場で伊藤に電話してその旨伝えたが、結局同人から、田中の意向はわかったのでその旨檜山に伝えておく旨のこれを断る丁重な返事があった。このほか、目白の田中事務所から伊藤に電話しているとき、傍にいた田中が受話器をとって国会喚問を前にした伊藤を激励したことがある(昭和五一年八月三日付二通〔甲再一80乙8、甲再一81乙10〕、同月九日付〔甲再一83乙56〕、同月一〇日付〔甲再一84乙9〕、同月一五日付〔甲再一88乙11〕各検面調書)。

榎本の検面調書の内容は以上のようなものであり、榎本が田中の使者として伊藤から合計五億円の現金を四回にわけて受領したという、自己及び田中にとって重大な不利益事実を認めるものであるが、反面、榎本は右五億円は丸紅から政治献金として受領したものでロッキード社から支払われたものであるとの認識はなかった旨供述し、右金銭の授受が収賄、外為法違反あるいは外国(法)人からの政治献金の受領を禁止した政治資金規正法違反の各罪に該当しないよう周到に配慮している。原判決は右検面調書を田中に対する受託収賄、外為法違反、榎本に対する外為法違反の各罪の有罪認定の証拠に供しているのであるが、罪となるべき事実及び理由説示の判文に照らすと、右検面調書中、事件発覚ののち田中及び榎本が金銭授受の事実を隠ぺいすべく伊藤らに働きかけた情況事実を含む金銭授受の事実を認める不利益供述部分を信用できるものとして右認定の証拠に供したことが明らかである。したがって、所論中に、原判決が榎本の検面調書のどの部分について信用性を認めたのか明確でない旨論難する部分があるが、これが失当であることはいうまでもない。ところで、所論は、密接に関連する供述の一部を信用しその余の部分の信用性を排斥することは許されないというのであるが、取調べを受けた者が事件の全般について真実のみを語るとは限らない(例えば、選挙違反事件において金銭の授受を認めながら趣旨を否認する場合、詐欺事件において財物の授受を認めながら犯意を否認する等。)のであって、供述中に犯罪の構成要件要素となる一部の事実を自認する供述がある場合、その供述の合理性や不自然性の有無、自己又は関係者にとっての不利益性や供述者と関係者の親疎の関係など供述内容の重要性、自認供述部分と否認供述部分との関連、他の関係証拠との整合性など供述の信用性判断の資料となるべき諸事情を検討したうえその信用性を認める判断をすることは十分可能なことであり、関連する供述中に否認ないし不明確な部分があるからといって、その供述全体の信用性を否定しなければならないいわれはない。しかして、榎本の検面調書中には金銭の授受を認める供述部分とその金銭の趣旨ないし性質を否認する供述部分が併存し、自認供述の一部に明確性を欠く部分が存するが、だからといって論理的に矛盾するわけでも供述の一貫性を欠くわけでもなく、そのことが自認供述の信用性を肯認することの妨げとなるものではない。

そこで、榎本の検察官に対する自認供述の信用性を認めた原判決の判断を論難する所論につき検討するに、榎本が検察官に対し田中の使者として伊藤から四回にわたり現金合計五億円を受取った事実を認める供述を最初にした日が逮捕された日の翌日昭和五一年七月二八日であることは、同日付検面調書が存することにより明らかであり、この点所論も争わない。そうであるところ、榎本は、右供述をするに至ったいきさつにつき、原審第一一七回公判期日において、右供述をしたのは検察官が「田中五億円受領を認める」という大見出しを掲載した新聞を意図的に示したことによるもので、これを見て真実田中がそのような供述をしていると思い込むと同時に、田中がこのような供述をしているのは、自由民主党に対してなされた政治献金につきなんらかの事情で党の方から政治資金規正法に基づく正式の届出がなされておらず、そうであれば同法に違反することになりこれが明らかになると政権与党の名誉を傷つけることになるので、そのような事態になることを避けるため田中個人が献金を受けたようにしてその責任をかぶったのではなかろうかと推測し、併せて、総理総裁が党に対する献金を直接受取るはずがないので、田中が金銭の授受に直接関与したのは榎本であると述べているのではないかと推測し、立場上これに符節を合わせて供述しなければならないと考えて検察官の誘導に乗ったり自分で架空の授受を想像して述べたにすぎない旨所論に添う供述をしている。しかして、榎本は、右新聞を見せられた日について、当初第一一七回公判期日においては、その日は昭和五一年七月三〇日であり、したがって自認供述をしたのもその日である旨供述していたのに、その後第一一八回公判期日において、新聞を見せられたのは七月二八日のことであり、したがって自認供述をしたのも七月二八日であって前回の公判期日においてこれを七月三〇日と述べたのは思い違いであった旨供述を変更しているのである。そして、所論は、榎本が当初新聞を示された日は七月三〇日であると供述したのは、右供述時に昭和五一年七月二八日付検面調書が開示されていなかったためであり、その後右供述調書が開示され、その日が七月二八日であったことを思い出したのでその後の公判期日において訂正する供述をしたのであって、この間に不自然なところはないというのである。なるほど、第一一七回公判当時、右七月二八日付検面調書が開示されていなかったことは所論のとおりであり、榎本は右調書の存在を忘れていたものと推認できる(なお、新聞は検察官が榎本に示したのではなく、取調室に持込んだものが榎本の目にとまったものと認められる。)。しかしながら、榎本は、昭和五一年七月二七日午前一一時一〇分に逮捕され、翌二八日午後には金銭の授受を認める供述をしているのであって、この間実質的に取調べを受けた時間は長くみても六時間足らずであり、七月三〇日までの時間的経過とは格段の差があり、この間に七月二九日には裁判所における勾留質問及び弁護人との接見が行われている。榎本は、第一一七回公判期日において、新聞を示されたという日と勾留質問や弁護人との接見の日との前後関係について質問されながら、いずれも新聞を示された日が後である旨供述し、金銭の授受を認める供述をしたのは逮捕された日の翌日七月二八日ではなかったかとまで質問されたのに対し、あくまで、そうではない旨答え、その日が七月三〇日である旨の供述を維持している。しかも、榎本は、右公判期日において、同年八月一七日保釈された後、右新聞がどこの新聞であったかにつき調査し、それが同年七月二八日付サンケイ新聞の朝刊であることを確認していたと供述しているのであるから、仮に七月二八日に示されたというのが正しくそれを契機に供述したというのが正しいのであれば、前記の誘導的質問により正しい記憶が喚起されてしかるべきものと考えられるのにそのような供述はなされていないのである。そのうえ、榎本は、新聞を示された後四、五時間くらいして(午前中示されたのであればその日の午後、午後に示されたのであればその日の夜に)金銭の授受を認めた旨供述しているが、その供述に関する調書はその日のうちに作成されたとは述べておらず(なお、七月三〇日付の調書は存在しない。)、この点の供述についてはその後の取調べの結果と合わせて同年八月三日付調書が作成された旨供述しているのであって、自認供述直後に七月二八日付調書が作成されている客観的事実と符合しないのである。更に、榎本は第一一七回公判期日において、「そういうもの(新聞を指す。)を見せられて、その前(新聞を見せられる前を意味する。)にさんざ、何十時間という間、そうなんだといわれておりましたから、私としては洗脳されているわけでございますから。」と、新聞を見せられるまでの間に相当長時間の取調べを受けていた趣旨の供述をしていたが、七月二八日付検面調書が開示された後の第一一八回公判期日において、第一一七回公判期日における供述は思い違いによるもので新聞を見せられたのは七月二八日の昼食後の取調べの際のことであった旨供述を変更するとともに、新聞を見せられるまでの取調べは十数時間くらいあったと思うが、第一一七回公判期日においてそれまでに何十時間も取調べられたと供述したのは非常に長い時間取調べを受けたという印象をそのように表現したものである旨供述している。この点につき、原判決は「同月二八日昼食後の取調べより前にはせいぜい五時間くらいの間取調べがされたにすぎないと認められ、この点に関する榎本の供述をいかに勘案してみても、このような比較的短時間の取調べ後の出来事を洗脳されてしまうほどの長時間の取調べの後のことと思い違いをしたというのはまことに不自然であるというべきである。」と判示し、新聞を見せられたのが七月二八日である旨の榎本の変更後の供述の信用性を否定する理由の一つとしている。これに対し、所論は、かかる判断は皮相的である旨非難し、重要なことはいかなる経緯で授受を認める供述をしたかの点にあり、すなわち新聞が示された後に右供述がなされたことが重要なことであって、新聞を示された日がいつであったかはそれほど問題ではない旨論難する。しかしながら、榎本が取調べのいかなる時点で新聞を見たと言うのかということは、右自認供述がなされた経緯ひいてはその信用性の判断に関連して重要な意味があることはいうまでもなく、所論は立論の前提において誤りがある。しかして、七月二八日に新聞を示されたと言う榎本の変更後の供述が第一一七回公判期日における同人の供述と対比して合理性を欠くとともに他の証拠により認められる客観的事実とも整合せず、かつ、逮捕後比較的短時間の取調べの後その翌日に起こった出来事を相当長時間の取調べを受け勾留質問や弁護人の接見後に起こった出来事と思い違いをして供述することは通常考えがたいことであって、第一一七回公判期日における供述が思い違いをして供述したとは認めがたく、第一一八回公判期日における変更供述は不自然というべきであり、榎本が新聞を見た時期がいつであるかを認定するに当たり、原判決が、取調べに当たった検察官である原審証人村田恒の、新聞を榎本が見たのは七月三〇日の午前である旨の証言とともに、榎本の第一一七回公判期日における供述をその認定資料に供し、第一一八回公判期日における変更供述の信用性を排斥したうえ、その日が七月三〇日である旨判断している点に誤りがあるとは認められない。してみると、榎本が新聞を見た時点においては、既に同人は検察官に対し五億円の授受を認めるとともにこれに関する大筋を供述していたことが明らかであるから、新聞を見たことと右供述をしたこととの間にはなんら因果の関係は存しない。榎本は、金銭の授受の事実を認める供述をしたのは新聞を見て田中が党に対してなされた政治献金を田中個人が受けたように供述していると思い込みこれに符節を合わせるためであった旨供述しているのであるが、もしそれが正しいのであれば、右自認供述において、田中個人が献金を受けた旨のことが強調されているはずであるのに、前記昭和五一年七月二八日付検面調書において、榎本は「この金は田中先生の政治団体である越山会、財政調査会、政治経済調査会等の会計には入金しておりません。私どもはこの五億円は目前に控えていた参議院選挙や自民党の政治活動のために用立てていただいた献金であるとの認識にたっていました。」「私がこの五億円を直接渡した先については後日記憶を整理して申し上げる所存ですが、記憶では自民党の総務局長に一部お渡しした分もありました。」と供述し(なお、榎本は、原審公判廷において、検察官に対し自民党総務局長に渡したのは一部でなく全部であると述べたとすら供述している。)、またその後の取調べにおいて、受領した五億円はすべて田中の私邸奥座敷に運び込んだと述べているのに、七月二八日の取調べの段階では、田中個人が現実に金銭を受取ったことを明らかにせず、むしろこの点を否定ないし伏せて、田中に対しては丸紅から政治献金の申し込みがあったこと及び榎本が丸紅から右献金を受領したことを報告したという点を供述したにとどまっているのであって、これらの供述を総合すると、榎本は、最初の供述段階においては、献金を受けた主体が田中個人であるというよりもむしろ自由民主党であった旨の供述をしていることが明らかであり、榎本が原審公判廷で自認供述をするに至った動機として述べていることは、現実に取調べの検察官に供述していることと符合しないのであって、この点からも榎本の右公判廷における弁解は信用しがたいのである。また、所論は、榎本が、伊藤から五億円を受取った事実がないのにこれを認める供述をしたとしても、他方において受領した金銭は丸紅からの政治献金であり、右五億円がロッキード社から支払われたものであることを一貫して否認し、逮捕状の被疑事実である外為法違反の事実を否定しており、また、右供述をした当時榎本は既に田中自らが五億円を受取った旨供述していると信じ込まされていたのであるから、あえてこれに合わせる供述をすることが田中にとって不利益になるとか同人を窮地に陥れることになるとも考えなかったのは無理からぬことである旨、右自認供述の意味の重要性を減殺する主張をして原判決のこの点に関する判断を論難している。確かに、榎本が受取った五億円の趣旨について所論のように供述し外為法違反の罪が成立することを否定していたことは先に説示したとおりである。しかしながら、榎本が「田中五億円受領を認める」という大見出しのある新聞を見たのは、前記のとおり右自認供述をした後のことであり、また、検察官が榎本に対し田中がどのような供述をしているのかについて何も説明しなかったことは榎本自身原審公判廷で認めているところであるから、榎本としては、当時、田中が五億円の授受を認める供述をしているのかあるいはこの点に関連してどのように供述しているのかについては全くわからなかったと認められるのであって、所論はその前提を欠くことになる。しかして、五億円の授受を認めることは、それが結論的には外為法違反の罪の成立を認める自白に当たらないとしても、嫌疑事実たる同法違反の罪の外形的事実を認めることを意味し、榎本にとっても田中にとっても極めて重大な不利益事実の承認になるのであって田中をして窮地に陥れることは極めて明白なことである。加えて、昭和五一年二月五日以降、わが国において、チャーチ委員会の公聴会におけるフィンドレー及びコーチャンの各証言が報道されてから、マスコミはこぞってロッキード事件に関する国内外における事件解明の状況を刻々と報道し続け、政界においては、国会が丸紅や全日空関係者等を次々と証人として喚問したり、政党が米国に調査団を派遣するなどしてその実体を調査し、捜査官憲も捜査に着手し、事件の解明が国民の注視の的となっていたのは周知の事実である。このような情況の中で、とりわけ政府高官が航空機売込みに関連してロッキード社から金銭を受取ったかどうか、それがいわゆる汚職につながるものであるかどうかが大きな関心事となっていたのであり、かかる疑惑の中で田中においてロッキード社の代理店で事件の中心的存在であった丸紅の伊藤からピーナツ・ピーシズ領収証の金額に見合う五億円の現金を受取った事実を認めることは、汚職の疑惑を深め、田中の政治生命に決定的なダメージを与えることになるということは誰が考えても解ることであり、それ故にこそ、田中は金銭の受領を否定するいわゆる潔白声明を公表していたのである。そして全日空や丸紅の関係者が次々と取調べを受けるとともに、大久保、伊藤、檜山らが順次逮捕され、七月二七日田中、榎本が外為法違反の罪で逮捕されるに至ったのであるが、嫌疑事実の核心をなす五億円の授受という客観的な外形事実を認めることが、汚職の疑惑を深め、これを否定する声明まで発表していた田中の政治的生命に決定的なダメージを与えるとともに外為法違反ひいては収賄の罪の成否にも決定的な影響を及ぼす重大事であることは明らかなことであり、長らく政界に身を置いて仕事をしてきた榎本がその事柄の重大性を認識していたことはたやすく推認できるところである。榎本は、原審公判廷において五億円の授受を認めることが田中の立場を不利にするとかしないとか考えたことはない旨述べているが、右に説示した状況に照らしとうてい措信できるものではない。榎本は、昭和二三年当時の民主自由党本部の職員に就職して田中を知るようになり、昭和三六年長年勤務していた政党(自由民主党)本部職員をやめて田中が経営する日本電建株式会社に入社し、以来同社の役職員として田中のもとで働き、昭和三七年田中が大蔵大臣に就任した当時大臣秘書官事務取扱を勤め、また右会社を退社した後は昭和四〇年ころから田中の秘書として政界において終始同人のもとで働き、この間田中が通商産業大臣に在任した当時は大臣秘書官として、内閣総理大臣当時は同大臣秘書官として同人を補佐し、逮捕された当時も秘書として田中のために勤務していたのであって、田中の政治的地位や立場を守り支える立場にあったというべきである。このような立場にあった榎本としては真実五億円を受取った事実がないのであれば当然これを否定すると考えられるのに、逮捕された翌日、比較的短かい取調べを受けたにすぎない段階で、真実に反してまで自己にとって不利益な事実であるとともに田中の政治的立場を傷つけ刑事責任まで負わせる危険のある犯罪の外形的事実を認めるということはとうてい考えられないことで、このような事実を認めたことは、真実そのような事実があったからにほかならないと考えられる。榎本は、前記の新聞を見て、田中が党の名誉を守るため個人の立場でその責任をかぶる決意で事実に反し五億円の授受を認める供述をしたものと考えた旨弁解しているが、国政の最高の地位たる内閣総理大臣の職にありかつ政権与党の総裁たる地位にあった者が疑惑の五億円を受領したことを認めることは、単に個人レベルの問題にとどまらず、与党総裁の地位と名誉を傷つけ榎本が考えたという党の名誉がそれによって守られないばかりでなく、内閣総理大臣の地位と名誉をも傷つけることになること及び田中が前記のとおり疑惑の中で潔白声明まで出して金銭の授受を否定していたことに思いを致せば、榎本が弁解するような理由で田中が事実に反して責任をかぶる決意をしたと考えること自体不自然不合理で理解しがたく、右榎本の弁解は信用できない。そして、榎本が言うように、もし田中が五億円の授受を認める供述をしたと思い込んでいたと仮定しても、その点について田中がどのように供述しているのかは全くわからないことで、前記のとおり田中が党をかばって事実に反して金銭受領を認める供述をしていると考えたとしても、それは榎本自身が認めているように単なる憶測以外のものではないのであるから、このような合理的根拠のない憶測は誤っている危険があり、まして金銭授受の事実は真実に反するというのであるから、自認供述の重大性にかんがみ、榎本は細心の注意を払いあらゆる機会をとらえて可及的すみやかに憶測した事実の真偽を特に田中が本当に事実を認める供述をしているのかどうかを確かめるのが当然であるというべきであって、翌七月二九日行われた弁護人との接見はこれを確かめるまたとない機会であったはずである。しかるに、榎本は第一一七回公判期日において検察官からこの点を弁護人に確かめたことはなかったかと質問されたのに対し、「家庭のことだけ心配していたのでそういう関係のことは今記憶に残っていない。」と答えただけであり、その後同年八月一七日釈放されるまでの間に五回弁護人と接見しているのに、これを確かめようとした形跡は見当たらない。このように、当然確かめるべき事柄を一切確かめようと努力していないことは、榎本が検察官に述べたことが真実であったからにほかならないと考えられる。榎本は、原弁護人の質問書に対する昭和五七年七月五日付回答書(弁659)の中で、「私が五億円の受領を認めたあと、原先生が拘置所に面会に来られていろいろ話をした中で、私が聞くより先に、原先生から、田中先生は何もしゃべっていないよという話がありました。しかし、私は、原先生は調べの内容をよくご存知ないのではないかと思ったので、私は田中先生も原先生に対して何らかの理由で検事に述べたことを言わないのではないかと思ったので、私はそれ以上何にも聞きませんでした。」と答えているが、田中が何もしゃべっていないよと言われながら何も聞かなかった理由として弁解しているところは合理性がなく前記の理由からとうてい信用することはできない。加えて、榎本は、釈放されるまでの間、終始五億円受領の事実を認め、これに関連する事実につき供述しているのであるが、昭和五一年八月一〇日付検面調書(乙55のもの。)において、「私の感じでは田中先生は取調べの検事に対して五億円の授受はもちろんこの件に関しては一切否認されると思います。」と田中が全面的に否認することを前提としたうえ、なおも真実は真実として述べた旨供述しているのである。以上、要するに、榎本が原審公判廷において伊藤から五億円を受取ったことを認める供述をした動機、経緯として述べているところは信用することができず、五億円受領の事実を認めている検面調書は、田中の供述とは関係なく、自らの意思で事実をありのままに述べたもので十分信用することができる。

所論は、五億円授受の日時、場所及びその情況に関する榎本の検面調書の記載内容は、あいまいかつ具体性や臨場感に欠けるもので、これらの供述記載は、榎本が、記憶にないことを検察官の誘導、押しつけにより真実に反して述べた結果にほかならない旨主張し、榎本も原審公判廷においてこれに添う供述をしている。ところで、先に指摘したとおり、榎本は、逮捕された日の翌日以降釈放されるまでの間、外為法違反の事実中金銭の授受という客観的外形事実及びこれに関連して、昭和五一年二月、事件が発覚した後、右受領した五億円を丸紅に返還する工作をしたり、丸紅関係者に対し右金銭授受を徹底して否定するよう依頼するなどその隠ぺい工作をしたことを終始認める供述を維持しながら、五億円の趣旨について認識していたことやこれを推測せしめる情況事実についてはこれを否認する態度を貫くことにより、同法違反の罪が成立しないよう周到に配慮して供述し、関係証拠に照らすと事件の真相をすべて明らかにする意思がなかったことが看取されるのであって、榎本の検面供述の信用性を判断するに当たっては、この榎本の基本的態度に留意しなければならない。しかして、榎本は、検察官に対し、田中から丸紅を通してロッキード社から五億円を受領することになっている旨の話は聞いたことがないし、伊藤からも当時五億円がロッキード社から支払われた金であると聞いた覚えはなく、田中・檜山間に五億円供与の約束がなされていることを知って伊藤にその支払いを催促したこともないなど、関係証拠によって認めることができる事項についてこれを否定する供述をしているのであって、右基本的な供述態度に照らし、否定すべき事項についてはこれを明確に否定していることを認めることができる。また、金銭授受の場所に関し、三回分についてはそれぞれの場所を述べながら、ホテルオークラの駐車場における授受については検察官の誘導にかかわらず記憶がない旨否定しており、各回毎の日時については記憶していないし、受領した金額は第一回目が一億円であったほかは覚えていないなどと、記憶にあることとないことを区別したうえ、記憶にないことはない旨明確に供述している。そして、伊藤、松岡、笠原ら関係者の供述と対比すると、右に例示した点のみでなくその余の点についても(例えば、第一回目受領した一億円の搬入先について笠原が三和銀行本店と述べているのに榎本は田中の私邸と述べているように)食違いがあり、すべての点で供述が一致しているわけではない。もし、榎本が言うように、検察官が不当に誘導し押しつける取調べをしたというのであれば、関係者の供述によって認められるこれらの事柄について誘導し押しつけることも可能であったと思われるのに、これらの点について積極的にまた消極的に否定する供述をしていることは、検察官が不当な誘導をしなかったかあるいは誘導があっても榎本がこれに迎合しなかったことの表れとみることができるのであって、関係証拠に基づき検討しても、原判決がこの点につき詳細に判示しているところに誤りは認められない。加えて榎本は金銭受領に関する田中・榎本間の報告、指示関係、現金搬入先、あるいは、事件報道後における金銭授受の隠ぺい工作に関する田中・榎本間の相談の情況など、他の誰も供述せず誘導すべき内容のなかった点についても、詳細かつ具体的にしかも自然に供述しているのであって、このことも検察官の取調べが許されない誘導や押しつけなど不当なものでなかったことを補強する事情ということができる。

榎本は、原審公判廷(法廷供述の内容について後日弁護人が書面で榎本に質問しこれに答えた回答書を含む。)において、田中が五億円の受領を認める供述をしているものと思い込みこれに合わせる供述をしなければならないと決意し、検察官の誘導に乗ったり、架空の事実を想像しながら五億円の授受を認める供述をした旨述べる一方、他方においては検察官から個々の授受に関する具体的情況について尋ねられたときには、授受の事実がなかったことを前提として、質問された具体的事項についてそのようなことはなかったとか、知らないとか、記憶がないなどと否定する趣旨の供述をした旨、そしてこのように否定する趣旨の供述をしたのに検察官がその内容を記憶し肯定した内容のものにすりかえたりわい曲したりして調書が作成された旨供述し、更に、伊藤ら関係者の供述と一致する部分の検面調書の記載については、右のとおり否定する趣旨の供述をしたのにすりかえたりわい曲されたりしてこれら関係者の供述と一致するよう肯定する趣旨の供述調書が作成されたと述べる一方、他方において逆に関係者の供述と一致しない部分の供述記載については、検察官の誘導に迎合して関係者の供述と一致するようこれを認める供述をしたのに、検察官があえてあいまいな供述ないし否定する趣旨の供述をしたように録取したものである旨不自然な供述に終始しているのであって、榎本の公判廷における供述自体を全体的に精査し考察すると、前後矛盾し首尾一貫しない不合理で不自然な部分が多く、これらの供述は検面供述の信用性を否定するために作為的になされていると認められるのであって、取調べの状況に関する村田検察官の証言と対比し措信できない。しかして、榎本の検面調書中の原判示認定に添う供述記載は、基本的部分において具体性を欠くものではなく、特に金銭授受の事実を推認せしめる昭和五一年二月以降の隠ぺい工作に関する情況について具体的かつ詳細に供述していることにかんがみると、検面調書中に個々の授受の情況についての細部にわたる詳細な供述がないのは、当時、榎本が内閣総理大臣の秘書官として重要事項処理のため多忙な日々を送っていた中で処理した事柄で、かつ、とどこおりなく金銭を受取って以来およそ二年ないし二年半もの間何事もなく経過していた古い出来事であったため、その細部についてまで記憶していなかったことによるものと考えられ、詳細な供述がないことをもって不自然であるとはいいがたく、かつ右供述は大筋において関係者の供述と符合する。

そして、以上説示の諸事情を総合すると、検察官の取調べに違法、不当のかどはなく、榎本は真実に反してまで自己及び田中にとって不利益な事実を認めなければならない特段の事由がなかったのに五億円を受領した事実及びこれを推認すべき情況事実を認める供述をしているのであって、その真実性を否定する公判廷における供述は、被告事件を全面的に否認して争う田中の立場を考え、両者の身分上の特別の利害関係や田中に対する気がね、遠慮から田中の面前では事実をありのままに述べることができなかったことによるものと認められ、このような影響力が比較的乏しかった情況のもとでなされた前記検察官に対する供述は、十分その信用性を認めることができる。この点に関する原判決の判断に誤りは認められず、所論は理由がない。

三  笠原政則作成の供述書の証拠能力について

所論は、笠原政則作成の供述書(甲再一10~13、以下「笠原供述書」という。)には任意性も特に信用すべき情況的保障もなく、これを証拠として採用し事実認定の用に供した原判決には、刑訴法三二一条一項三号の解釈、適用を誤った訴訟手続に関する法令違反があり、これが判決に影響を及ぼすことが明らかであると主張する。

そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果を加えて検討するに、右笠原供述書は、いずれも笠原が昭和五一年七月三一日及び翌八月一日の二日間にわたり、検察官坪内利彦から参考人として取調べを受けた際、その過程においてその作成日付である同年八月一日、自ら筆記しこれに署名押印して作成したものである。所論は、右供述書が笠原の自筆のものであるか否か明らかでないというが、笠原の妻である当審証人笠原佐代子は、右供述書中の笠原の署名押印が同人のそれであることを認めているところ、右署名部分の筆跡とその余の供述部分の筆跡が別人の手になるものとは見えないし、また同証言により笠原の筆跡によるものであることが明らかな弁護人提出にかかる笠原の履歴書及びアドレスブック中の文字と笠原供述書中の同一の文字を比較対照すると、それが酷似し同一人の筆跡であることが容易に看取できる。笠原佐代子は笠原供述書中の供述部分の筆跡は笠原のそれではないかのごとく供述しているが、右供述自体合理性に乏しくあいまいであるばかりでなく、前記アドレスブック等との対照検討の結果に照らしても措信できるものではない。また、所論は各供述書中の作図が素人ばなれし捜査官の手になる疑いがある旨主張するが、右作図が特に素人ばなれしているとは認められず、通常の能力を有するものであれば作成可能と思われる程度のものであり、前記履歴書記載の図面と対比しても、笠原が右供述書記載程度の作図能力を有していたことは明らかで、坪内検察官の原審証言に徴しても笠原が自ら作成したものであることを肯認できる。また、所論は笠原が右供述書を作成しこれと同趣旨の供述をしたとしても、それは、笠原が、伊藤、榎本の各検面調書及び野見山國光、松岡克浩らの供述により構築された四回にわたる金銭授受の筋書に基づきなされた検察官の誘導と激しい追及的取調べに耐えきれず、精神の中枢作用に錯乱が生じ虚に走ったことによるもので、任意性のある供述とは言えない旨主張する。しかしながら、坪内証言及び関係証拠により認められる後記諸事情を併せて検討すると検察官が暴行、脅迫その他強制的な取調べをしたり、あるいは虚偽を誘発するおそれのある不当な誘導的取調べをした疑いはなく、検察官がホテルオークラや九段高校向い電話ボックス付近における授受についての記憶喚起のため、また伊藤方マンションにおける授受に関し喚起された記憶の正確性を確認するため示唆的質問をしたことはうかがわれるが、それは虚偽を誘発するおそれのあるものではなく、許される限度内のものと認められる。そして、右各供述書の記載内容を他の関係証拠と対比して検討すると、右供述書中に、いわゆる秘密の暴露に当たる事項を含んでいないにしても、「銭高組のビルの前当たりに車が止って居た。」「其後私は車を運転して大手町のサンワ銀行に行った様に思う。其の際段ボールは同銀行に降した様に思う。」(甲再一10、原文のまま。以下同じ。)、「私がすぐ車に乗り榎本さんも乗込んで発車点線の通り早セ田通りに入り神楽坂通って目白に帰ったと思う。早セ田通りが左折出来たので午後だったと思ふ。」(甲再一11)、「榎本さんを乗せてミドリ色セドリックをさがしながら大蔵の屋外駐車場をゆっくり廻りながら『これだ。』と云って車の前に止った。」(甲再一12)、「前に二台車が止っていたので『1』か『2』の当たりに車を止めた。榎本さんは矢じるし通り前の車の横を通ってそのマンション入口まで歩いて行った。私は運転席で週間誌をよんで待って居た。榎本さんに『コツ、コツ』とドアをたたかれて気がついた。」(甲再一13)などと、他の関係者の供述中に表れておらず検察官としては知り得べくもないことが、なかには他の関係者の供述と食違うまま、具体的に記載されているのであって、他の関係者の供述に符合させるというよりも笠原のその時点における記憶をそのまま供述書に記載させるよう配慮されていることがうかがわれる。してみると、右各供述書は、笠原が検察官の求めに応じ、任意に、記憶(思い違いの点も含め。)のままに自書して作成したものというべきであって、右供述書に任意性がない旨主張する所論は採用できない。

笠原は、昭和四一年ころから目白の田中事務所に雇われ、自動車運転の業務その他の雑務に従事していた者であり、またその以前から、田中に子供の名付親になってもらうほど同人と親交があり、多年にわたり田中の恩顧を受け同人に対し恩義と畏敬の念を抱いていたことが認められるとともに、笠原が虚偽のことを作り上げてまで田中にとって不利になるようなことを述べなければならない特段の事情をうかがわせる資料は全くない。このような笠原と田中の関係からすれば、笠原が、田中にとって不利益になることを隠しこそすれ、あえて、田中にとって不利益となることについて、かつ、それを述べれば田中や田中の立場を守ろうとしている周囲の人々との関係において窮地に立たされるおそれのあることについて、虚構を作り上げてまで供述書を作成するとはとうてい考えることはできない。笠原供述書の記載内容は、笠原が、榎本を自己の運転する自動車に乗せて本件五億円授受の場所とされている四ケ所に赴き、同所で落合った自動車から、あるいは、伊藤方マンションから受取った各段ボール箱を自車に積み込み、一回分は三和銀行本店に、三回分は目白の田中の私邸に運び込んだというもので、田中が五億円を受取った嫌疑に関し、同人にとって不利益となる重大な事実を肯認する内容のものである。すなわち、昭和五一年二月五日ロッキード事件が表面化して以来、右事件に関しては新聞、テレビ等で詳しく報道され、日本政府高官に対し多額の献金をした旨のコーチャン証言及びロッキード社の代理店丸紅の伊藤のサインのあるピーナツ・ピーシズ領収証に関する疑惑等から、田中がロッキード社から五億円を受取ったのではないかという疑いが生じ、同年四月、田中は右受領を否定するいわゆる潔白声明を出さざるを得ない状況に追い込まれていたのであり、更に、その後右疑惑解明の捜査が進展し、大久保、伊藤、檜山らが順次逮捕、勾留され、同年七月二七日には、榎本と田中が、ロッキード社からの五億円の支払いを受領したという外為法違反の嫌疑で逮捕されるに至ったのであって、かかる情況の中で田中、榎本の逮捕直後参考人として喚問され、榎本を自己の運転する自動車に乗せたことの有無及びその時の情況について事情聴取を受けた笠原としては、それが右嫌疑事実の中核をなす五億円の授受に関するものであって、事柄の重大性を容易に理解し認識できたものと推認されるとともに、前記供述書記載の事実を認めることが、五億円の受領を否定していた田中を苦境に追い込むものであると同時に自らをも窮地に立たしめるおそれのあることを承知していたと推認できる。しかして、笠原供述書は、同人に対する取調べが開始された後、短時日のうちに作成されている。すなわち、笠原に対する取調べは、同年七月三一日午後一時ころから夕食をはさんで午後七時四〇分ころまで、及び翌八月一日午前一〇時過ぎころから午後七時一八分ころまで(この間昼食、夕食等のため約三時間休けいがとられている。)行われているところ、同人は、初日に、英国大使館裏路上及び伊藤方マンションにおける二回分の段ボール箱の授受について供述し、翌日検察庁に出頭する前に右二ケ所の現場を見分し、出頭後右二回分について供述書を作成し、次いで、九段高校向い電話ボックス付近及びホテルオークラにおける二回分の授受について取調べを受け、その記憶を喚起したうえ、その日のうちにこれに関する各供述書を作成している。所論は、供述が短時日のうちになされたということは、自白の任意性、信用性の判断について言うことで、参考人の供述に当てはまるものではなく、仮にそうでないとしても、笠原の供述書が短時日のうちに作成されたとは言えないというのであるが、笠原供述書は、その内容が恩義のある田中にとって不利となる事項を認めるものであるとともに笠原自身をも窮地に立たせるおそれのあることであるから、広い意味で笠原にとって不利益な事実についての供述というべきであり、このような供述が取調べのどの段階でなされたかということは供述の任意性、信用性を判断するうえでの重要な要素であり、短時日のうちに不利益事実についての供述がなされたということは取調べに無理がなかったことを推認せしめるもので、供述の任意性、信用性を担保する一つの情況的事実であることは明らかである。そして、前記取調べ並びに供述書の作成経緯に照らすと、極めて短時日のうちに作成されたものと評価することができる。また、笠原は参考人として取調べを受けたものであり、検察官から事情を聞かれ笠原が供述した笠原の行為自体はなんら犯罪を構成するものではないから、仮に同人が笠原供述書にあるような田中にとって不利な事実を供述しなかったとしても、笠原自身が身柄拘束を受けるなどの不利益をこうむるおそれは客観的に存在しなかったというベきである。田中の秘書で目白の田中事務所の責任者であった原審証人山田泰司は第三四回公判期日において、笠原が七月三一日取調べを受けた後田中事務所に立寄った際、同人が疲れたと言うので取調べがどうだったか尋ねたところ、同人が「誰にもしゃべってはいけないんだと、こう言われておりますし、もししゃべったことが判明すれば徹底的に調べるとこういうことを検察側から言われたと、ですから私はしゃべれないんです。それから尾行がついているんでここへ寄ることさえ困るんです。」というようなことを話したと証言し、また同夜、電話で笠原と話をしたという田中の秘書である原審証人早坂茂三も第三四回公判期日において、笠原が「検察からとにかく話を田中事務所の関係者や弁護士の先生に絶対してはいけない。あるいは何日でも呼んで徹底的に究明してやると、電話も盗聴する、それに尾行もつける、それと泊めてもやるということを言われている。」ということを話した旨証言している。また、右早坂証言から、笠原は原長榮弁護士に対し、取調べに当たり何も知らないと述べてきた旨答えたことがうかがえる。しかしながら、右証言中の「徹底的に調べる。」ということが何を調べるのかその趣旨が必ずしも明らかでなく、また「泊めてやる。」ということは山田証言にはないことにかんがみると、果たして、笠原が右各証言にあるようなことを述べたのかいささか疑念がないわけではないが、仮に同人がそのようなことを述べたとしても、同人が、当日既に、検察官に対し英国大使館裏路上及び伊藤方マンションにおける授受について供述し、かつ翌日検察庁に出頭する前に右二ケ所を見分してくる旨約束していること(この点は、甲再一12の供述書裏面の榎本を乗せて運行した状況を列記したメモ書きや、右二ケ所の作図が詳細で、伊藤方マンションの分の供述書中に「今日出頭前に見て来たら」という記載があること、及び坪内証言等から明らかである。)に徴すると、山田、早坂の両秘書から取調べの状況を尋ねられ、右二回分について供述していることをありのままに説明することができず、これを避ける方便として述べたものと考えるのが相当であり、このことは、原弁護士に対し取調べ状況につき前記のとおり説明していることがうかがわれることによっても裏付けられるのである。所論がいうように、もし笠原が無理な取調べを受け真実に反し虚偽のことを述べたというのであれば、その供述内容の性質に照らし、恩義のある田中の立場を守るため、田中の弁護人らにその実情を説明して対応等を相談するのが当然と考えられるところ、山田、早坂両秘書や原弁護士と話をしその機会があったのにかかわらず、なんらそのような対応策をとらなかったことは、取調べにおいて供述した内容を同人らに知られたくなかったからにほかならないと考えられる。また、七月三一日、八月一日の二日とも、取調べののち田中事務所に立寄りながら、同事務所の者と接触することを避け、顔を出しただけで早々に同事務所から退出していることは、田中にとって不利なことを述べた取調べの状況を聞かれることを避けるためであったと考えられる。笠原は、八月一日午後七時一八分ころまで取調べを受け、同日午後八時少し前ころ目白の田中事務所に立寄ったが、出された水割りにも手をつけず、取調べの状況を聞かれ、検察官が読み上げたのを書かされてそれに署名捺印してきたと言っただけでそれ以上の説明をせず、疲れたから早く帰らして欲しいと頼んで二、三分事務所にいただけで退去し、そのまま帰宅することなく同夜自殺している。所論がいうように、もし笠原が、検察官の違法、不当な取調べを受けやむなく虚偽の供述をし、その自責の念にかられて自殺したのであれば、死に臨んで、かかる虚偽供述をするに至った経緯及び供述内容が真実に反することを明らかにし、自責の念なり検察当局に対する抗議の意思を表するものと考えられるところ、同人はかかる措置をなんらとっていない。このことは、事件の捜査に対しては真相を述べねばならず、良心に従って真実と思うところを供述書にしたためたが、他面そのことが田中らの立場を不利にし、田中らの立場を守る周囲の人々から取調べの状況を尋ねられ、当面は供述内容を明らかにすることなく切り抜けたものの、いつまでもこれを避けて通ることはできず、供述内容が明らかになった場合の自己の窮地を思い悩んだあげく死を選んだと考えるのが素直な見方と考えられる。しかして、笠原供述書の内容は、榎本を自己の運転する自動車に乗せて授受の場所に赴き、段ボール箱を受け取ったというその大筋において、信用性のある他の関係者の供述と符合するものであり、かつ、笠原車に乗車して段ボール箱を受取った点を否定する榎本の公判廷における供述が不自然不合理で信用性がないことは別途説示したとおりである。

以上判示した諸事情は、笠原が自ら体験したことについて記憶に基づきありのままに供述し虚偽が入る余地が少ないことを担保するもので、これらを総合すると、笠原供述書に任意性、特信性のあることは明らかで、これに証拠能力を認めた原判決の判断に誤りはなく、所論は採用できない。

四  現金授受に関する原判決の事実認定上の問題点について

所論は、本件五億円が請託に基づく賄賂であるならば、それはお礼の性格を有するものであるから、その授受は請託の相手方に届ける方法で行われるのが社会通念に照らし当然のことであるとの見解を前提として、原判決が、いずれの場合も、伊藤が榎本に電話で連絡したうえ、内閣総理大臣首席秘書官として多忙な毎日を送っている同人を指定の場所(三回は白昼街頭)に呼び出して交付した(しかも一度は伊藤自ら立会わず面識のない松岡運転手をして引渡させた。)旨認定しているのは、その事実認定の内容自体不自然で経験則に反する旨論難する。しかしながら、賄賂がお礼の性質を有するとはいえ、それは犯罪性のある違法なものであるから、人目をはばかることなくその授受を行うことができるものでないこともみやすい道理であり、授受の当事者が相談して場所や方法を定めることは十分あり得ることで、したがって、相手方に持参して届けるのが唯一の方法であるとの見解が正しい理解であるとはとうてい言えない。そして、原判決が伊藤において一方的に場所を指定して榎本を呼び出した旨認定しているものでないことは判文上明らかであり、関係証拠によると、授受の場所は、丸紅がロッキード社から現金を受取ったつど、伊藤がその旨を榎本に電話で連絡し、その授受の方法を打合わせるなかで決定され、かつ、原判示の場所で授受が行われたことも優に肯認できるのであり、また、第二回目の授受に際し伊藤の指示のもとに松岡が榎本に交付した点も、伊藤・榎本間の相談のなかでそのような方法をとる旨定められたことが明らかである。してみると、右のとおり、原判示の授受の方法が、いずれも、伊藤・榎本間の話合いのなかで決定されたものであることを前提として考えるかぎり、それが常識に反し全くあり得ないことであるとは言いがたく、所論は独自の見解を前提として証拠上認め得る原判決の事実認定を論難するもので採用できない。

所論はまた、原判決が、田中側が受取ったとされている五億円の使途について何も判断を示さず、かつ、この点を解明する証拠が存在しないことは、田中側に右金銭が交付されていないことを推測せしめるものであるという。しかしながら、受取った金銭がどのように使われたかということは、収賄罪や外為法違反の罪の構成要件要素たる事実ではなく、この点についての判示がないからといって判決の理由説示として十分でないとは言えないし、証拠により金銭授受の事実が認められる以上、その使途の点まで解明して授受の事実を裏付けなければならないものでないことはいうまでもない。

1 第一回目(英国大使館裏)の授受について

所論は、原判決には、この点に関する証拠の取捨選択並びにその評価を誤り事実を誤認した違法がある旨主張し、その理由として<1>第一回目の授受が英国大使館裏路上において行われた旨の供述が最初に表れるのは松岡の検面供述においてであるが、この場所は、原判決が言うように、松岡供述によらなければ検察官が知り得ない事柄であったわけではない。検察官は松岡車の昭和四八年八月一〇日分の自動車行動表を検討し、「竹橋~一番町」往復の記載があるところから、当日の授受は一番町で行われたという筋書を作り上げたうえ、松岡に対しその場所は同町内の英国大使館裏であると誘導し押しつけて右供述を得たのであり、かつ、これに基づき同趣旨の伊藤供述を引き出したのである。<2>そして、授受に立会ったとされている松岡及び笠原の各供述を対比すると、双方の車が落合った場所、その際の情況、榎本が乗って来た車についての両者の供述には大きな食違いがあり、同一事実を体験した者の供述と評価することができない内容のものであるし、また、笠原が車から降りたかどうかについての松岡の供述には変遷があって不自然であり、更に、笠原供述書には受取った段ボール箱を三和銀行本店に運び込んだ旨原判決の認定と異なる記載があるなど、右各供述の信用性を否定する事情が種々存するのに、有罪認定に都合のよい部分のみ信用性を認め、都合の悪い部分の信用性を排斥しているのは恣意的判断と言うべきである。また、伊藤が榎本に対し待合わせ場所として交差点の直前で止めるよう指示したというのも他の交通の妨げとなり不自然である。<3>伊藤が、右自動車行動表にあるとおり、その日時に、松岡車に乗って「竹橋~一番町」(丸紅東京本社~英国大使館裏路上)間を往復したのであれば、右日報の使用者氏名欄に「伊藤常務」と、また往復欄には「竹橋~一番町」の運行の「往」欄に「1」「一番町~竹橋」の運行の「復」欄に「1」と各記載されているはずである。しかるに右各運行の課名・使用者氏名欄がいずれも空欄で、また往復欄にも右のような記載がないことは、伊藤が右運行に際し乗車していなかったことを示すもので、右自動車行動表の記載と原判示の事実認定との間には整合性がなく明らかに抵触するものであって、右自動車行動表の記載は、右金銭授受がなかったことを示している。この点につき、右は、松岡が右行動表を改ざんした後新しい用紙に転記するに際し書き誤ったものである旨判示している原判決の証拠判断は誤っている、というのである。

そこで以下順次検討する。

(一) 松岡克浩は、捜査段階において、昭和四八年八月一〇日、伊藤が乗車した松岡運転の自動車と榎本が乗車した笠原運転の自動車が英国大使館裏路上において落合い、段ボール箱を積み換えた事実を認める供述をしているのに、原審公判廷においては、「英国大使館付近で他の自動車と待合せをするということは、検察官から取調べを受けた当時全くわからなかった。今はそういうことがあったとされているから何かそういうことがあったような気もするし、ないと言われればそうかなとも思う。英国大使館裏付近へ伊藤を乗せて行って他の車へ伊藤の車から荷物を積み換えたということは記憶としてはなくわからない。」旨証言し、右同所における授受を消極的に否定している。ところで、英国大使館裏路上で段ボール箱の授受が行われたことが証拠上最初に表れるのは、昭和五一年七月二〇日付の松岡供述書においてであり、更に、同人の同月二三日付検面調書には、その授受の状況が具体的かつ詳細に記載されている。しかして、関係証拠によって認められる右取調べの時点までの捜査の進展状況に照らして考えると、検察官は、本件五億円の授受が、いつ、どこで行われたか解明する手がかりを松岡車の昭和四八年八月一〇日分の自動車行動表に求め、これを検討したうえ松岡の取調べに当たったことを認めることができる。所論は、検察官が、右自動車行動表の記載から、授受の場所を一番町の英国大使館裏に想定したうえこれに基づき誘導したり押しつけたりして取調べをしたという。しかしながら、右自動車行動表には、ロッキード社から現金入りの段ボール箱を受領した後の運行として、所論が指摘する「竹橋~一番町」往復のほか、「竹橋~向島」「向島~富士見町」という記載があり、「竹橋~一番町」往復については車の使用者の記載がなく、「竹橋~向島」「向島~富士見町」の使用者は伊藤と記載されており、右記載から考察すると、伊藤の検面調書にあるとおり、双方の車が指定の場所で落合い車から車へ段ボール箱を積み換えたというのが正しいのであれば、授受の場所を「一番町」と想定することは一応可能であろうが、一番町への運行には伊藤が乗車した記載がなく、また、所論が言うように、内閣総理大臣に対するお礼の金を渡す方法として、多忙な首席秘書官榎本を白昼街頭に呼び出すというのは非礼であり不自然であるというのであれば、むしろ「向島」への運行が授受の場所と関連があるとも言えるのであって、右記載のみからはそのいずれとも断定することはできないのである。まして「一番町」という広い地域を表す記載のみから英国大使館裏という特定の場所を想定し得るはずはなく、当時の捜査の進展状況からも、そのように特定の地点を想定する手がかりとなる資料は全く見当たらない。すなわち、検察官は二つある可能性の中の一つとして「一番町」を想定することができたとしても、英国大使館裏とまで想定することはできないのであって、英国大使館が一番町内にあるからといってその想定ができるというのは無理な理屈であり、それが可能であることを前提になされている所論は失当である。原審証人坪内利彦(検事)は、松岡に対し、右自動車行動表の「一番町」「向島」なる記載がどこの場所を表しているのかその意味を問い質すとともに、一番町や向島に行った際段ボール箱の授受が行われなかったか尋ね、松岡が英国大使館裏路上で授受が行われたことを思い出して供述した旨証言しているのであるが、右証言内容は自然で合理性があり十分信用することができる。松岡は公判廷において、坪内検事から英国大使館裏路上で授受が行われたと教えられ、そうであったかなという気持ちにさせられて迎合したりあるいはそうであると押しつけられて供述した旨及び授受の状況については一〇〇パーセント想像して供述したなどと証言しているが、その証言内容を検討すると、質問に対する答えは回避的で単刀直入明確に答えるところが少なく、右証言中には、「八月一〇日英国大使館裏路上で段ボール箱を受渡したという記憶はなかった。しかるに、右場所で受渡しをしたように供述しているのは、検察官から英国大使館裏という地名が出てきたからにほかならないと思う。」旨、検察官から授受の場所を教えられたと証言しているのは、体験及び記憶に基づくというより理屈と想像で述べている趣旨に解せられる供述部分があるとともに、検察官から教えられたと言うそのときの取調べの状況やどのように教えられたのかその内容についての証言は極めてあいまいであって具体性を欠き、これらの点に関する松岡の証言は不明確かつ首尾一貫しない点が多く、その供述自体から、果たして体験したことを記憶に基づいて証言しているのか疑念を生ぜしめ、また、検察官が知り得ようもないのに、検察官が場所の点や授受に関する細かい点までよく知っていたと証言するなど、関係証拠に照らし、証言の合理性を裏付ける根拠が薄弱であるとともに、その証言全体を通じ作為的であって、坪内証言と対比して措信できるものではない。加えて、伊藤は、公判廷においても、英国大使館裏で授受を行ったことは、松岡が思い出してくれたことを契機に自分もその記憶を喚起したのであって、松岡が公判廷において記憶がない旨否定していることによっても自己の右記憶に変りはなく、同所において現金の入った段ボール箱を榎本に引渡したことは間違いない旨供述しており、また、榎本や笠原も捜査段階においてこれを認めている。以上の諸点にかんがみると、松岡の公判廷における供述はそれ自体信用性が乏しいのに比し、捜査段階における供述は、検察官が知り得ようもない事柄について具体的かつ詳細に供述し、関係証拠とも整合し、同人が記憶に基づき任意供述したものとして信用できるのであって、この点についての原判決の証拠評価に誤りは認められない。

(二) 所論は、松岡と笠原の供述を対比すると、双方の車が待合せした場所として指示する地点や双方の車が落合った状況等に食違いがある旨指摘する。なるほど、両名の供述がすべての点において一致しているわけではなく、両名が停車地点を示すため作成した図面の内容(建物や道路の配置状況、目印となる建物の表示など。)に違いがあり、また、双方の車が落合った状況について、松岡は笠原運転の車が先に到着し同車の後方に自車を停車させたと述べ、笠原供述書にはこれと逆のことが記載されているなど、両者に違いがあるが、このことは、坪内検事が証言しているように、取調べに当たって、検察官が他の関係者の供述等によって得た情報に基づき誘導することなく、供述者にできる限り記憶を喚起させるとともにその記憶に従って供述書を作成させるなどした証左とみることができるのであり、したがって、松岡や笠原の当初の供述(書)には、その記憶の正確性がテストされることなく他の関係者の供述との間の食違いがそのまま残されているのであって、そこには記憶違いによる供述部分が含まれていることは十分考えられるのである。しかして、松岡及び笠原が停車地点(授受の場所)を示すため作成した図面はいずれも略図であるところ、右略図上の各指示点を検察事務官作成の昭和五一年七月二三日付捜査報告書(甲再一17)添付の図面と対比して考察すると、両者の指示点の差異は作図上のもので全く異なる別の地点を指示しているとは認められず、およそ三年前の出来事があった場所として指示するにしてはほぼ同じ地点を示しているものと認められ、前記のとおり、相互に関係なく独自の記憶と判断に基づいて作成されたものとして、むしろ右同所における授受を認める供述の真実性を互に裏付けるものと評価できる。また、落合ったときの状況の食違いについては、笠原が供述書作成直後死亡したため、その記憶の正確性がテストされていないこと及び捜査段階を通じ一貫して維持する松岡の前記供述に照らすと、この点に関する笠原の供述は記憶違いによるものと認められる。更に、松岡が、当初、榎本が乗って来た車はハイヤーであったとか、その車の運転手は降りなかったなどと述べた点については、松岡自身その後の取調べで記憶違いであった旨述べて訂正し、かつ、その訂正供述が不自然と認められる特段の事由はない。その他、笠原は、英国大使館裏で段ボール箱を受取った後、三和銀行本店に行って右段ボール箱を同銀行に運び込んだ趣旨の供述書を作成しているが(甲再一10、弁13)、三和銀行関係者(原審証人天野七郎)の証言や同銀行から提出された関係証拠によると、右事実を裏付ける資料はなくむしろかかる事実があったことは否定されるのであって、仮に、笠原供述書にあるように、榎本が段ボール箱を同銀行に持ち込んだ事実があったとしても、田中の事務所や関係政治団体が同銀行と取引関係を有していたことに徴すると、それは別の機会のものと考えられ、笠原の右供述は記憶違いによると考えるのが正しい認定というべきである。この笠原供述の記憶の正確性について、原判決が、取調べ時における笠原の供述状況に関する坪内検事の証言により、笠原の右供述は不確かな記憶に基づくものであったと認定している点になんら不合理は見当たらない。なお、双方の車が待合せた地点は英国大使館裏交差点に近い路上であるが、松岡や笠原が図示している地点が他の交通の妨げとなるほど交差点に近接した地点とは認められず、道路幅も広く、待合せ場所として不自然なところとは考えられない。

(三) 原判決は、昭和四八年八月一〇日分の自動車行動表中の「竹橋~一番町」往復の記載は、右日時に一番町所在の英国大使館裏路上で第一回目の授受が行われたという伊藤、松岡、笠原らの供述の信用性を裏付けるとともに、右授受の事実を認定する直接証拠たり得る旨判示している。ところで、関係証拠によると、自動車行動表中には、伊藤の指示により松岡が改ざんしたものが多数含まれているところ、その改ざんは、別の用紙を用い、伊藤から指示された対象部分はその趣旨に従って記載内容を改変してこれに記入し、改ざんの対象として指示されなかった部分は、元の記載をそのまま転記する方法で行われていることが認められる。第一回目の授受の当日である昭和四八年八月一〇日の行動表は改ざんされたものの一部であるが、伊藤や松岡の捜査、公判を通ずる供述によると、右行動表中の「竹橋~一番町」往復の運行部分は改ざんの対象となっていないというのであるから、右記載部分は元の行動表の記載がそのまま転記されたことになるところ、所論は、右の転記が正確に行われたことを前提として、右運行の使用者氏名欄に伊藤の氏名が記載されていないことなどから、伊藤が英国大使館裏路上(一番町)に行かなかったことが明らかであるというのである。確かに、他の自動車行動表の記載例に照らして考察すると、伊藤が右運行に際し乗車していたのであれば、「使用者氏名」欄に伊藤が使用したことを表す記載がなされているはずであり、また乗車人員を表す「往復」欄に、「竹橋~一番町」運行については「往」欄に「1」と、「一番町~竹橋」運行について「復」欄に「1」と記載されていなければならないと考えられる。しかるに右行動表にそのような記載がないことは、改ざんに際し元の記載の転記が正確に行われたことを前提にすると、伊藤が松岡車を使用して英国大使館裏路上に行かなかった可能性があることになり、ひいては同所で金銭の授受が行われたとすることと抵触する可能性があることになる。要は、元の運行記載が正確に転記されたか否かにかかるところ、松岡は捜査、公判を通じ「竹橋~一番町」往復については内容を改変しておらず、改ざん前の記載をそのまま新しい用紙に転記したと述べ、また、改ざんに関与した当時の丸紅東京本社総務部総務課長であった当審証人毛利英和は、伊藤から指示された部分について松岡が指示どおり改ざんしているかどうか、また、その余の部分について改ざん前の記載が正しく書き写されているかチェックしたと思う旨所論に添う証言をしている。しかしながら、右八月一〇日の行動表を見ると、丸紅東京本社を出発し一番町へ赴いた「竹橋~一番町」なる往路の運行に乗車した人員を表す「1」なる記載が「往復」欄の「復」の欄に記入され、その記載自体から実体を表していないと考えられるとともに、その記載が正確でないことは松岡自身公判廷において認めているところであり、また、他の記載例に照らすと、「往復」欄に乗員の記載があるものについては「使用者氏名」欄にその使用者名が記載されていなければならないはずであるのに、その記載がなされていない例のあることは、元の記載の書き落しを疑わしめるものである。そして、その改ざん作業は、警察から自動車行動表の提出を要求され、数日の間にあわただしく行われているのであり、証拠上、その改ざんは八二枚にも及んでいることが認められるのであって、この間松岡が一人でその作業に従事し、毛利は、改ざん後の記載内容をどうするかにつき一部松岡の相談相手になったことはあったが、常時松岡につきっきりでその作業内容を点検していたわけではないこと、また、自動車行動表用紙の印刷の状況、紙質、大きさ等から改ざんされた行動表と認められる八二枚の記載内容を点検すると、個々の「待時間」欄、「待時間集計」欄の記載もれ、これらの記載間の不突合、「乗用人員計」欄の記載もれ、「往復」欄記載人員数と「乗用人員計」欄の数の不一致、個々の走行距離数とその集計欄の各記載の不突合など、元の記載の転記がすべて正確に行われているとは認められない記載が随所に存することなどに徴すると、毛利が、松岡から改ざんした行動表を受取り、その記載を点検したとしても、改ざん指示の対象となっていない部分について、転記が元の記載のとおり正確に行われているかどうかまで確実にチェックしたとは認めがたく、また、松岡が捜査段階において自己の意思に基づいて作成復元した八月一〇日分の自動車行動表において、「竹橋~一番町」往復の運行の使用者氏名欄に「伊藤常務」、「竹橋~一番町」運行の往欄に「1」、「一番町~竹橋」運行の復欄に「1」と記載していることは、同人自身、前記の転記に際し細部まですべて間違いなく正確に書き写したとまでは考えていなかったことによるものと認められる。また、前記のとおり、他の自動車行動表の記載例に徴すると、往復欄に乗車した人員の記載がある場合の運行については、使用者氏名欄に必ずその使用者の氏名等が記載されていたと認められるところ、このような事例について使用者氏名等が記載されていない例が右八月一〇日分のほかに改ざんされた行動表中に二例存する。すなわち、昭和四八年四月一〇日分の行動表中、上から五段目と六段目に「竹橋~大手町」「大手町~竹橋」の往復の運行記載があり、往路の「竹橋~大手町」運行の使用者氏名欄に「伊藤常務」往欄に「1」と記載され、復路の「大手町~竹橋」運行については復欄に「1」という記載があるのに使用者氏名欄にはその記載がなく空欄になっているが、その記載状況に照らすと、元の行動表には復路の運行の使用者欄にも伊藤が使用したことを表す記載があったものと推認され、それが空欄になったのは転記の際の記載もれと考えられる。昭和四九年八月一五日分の行動表の一三段目には、出発時刻「二四時五〇分」到着時刻「一時一〇分」行先欄に「青山~富士見町」復欄に「1」という記載があり、使用者氏名欄は空欄となっているが、右記載の前後の運行記載や「富士見町」が伊藤の自宅を表すものであることからすると、右運行の使用者氏名欄には伊藤が乗車していたことを示す記載があったものと推認できるのであって、それが空欄となっていることはやはり転記の際の記載もれと考えられるのである。以上のとおり、松岡は改ざんに際し、改ざんの対象としなかった運行の元の記載を転記したのであるところ、その際、書き落しや書き間違いをしたと認められる部分が随所に存することに徴すると、所論が指摘する部分も転記の際の書き落し及び書き誤りであって、同行動表の元の記載は、松岡が捜査段階で作成した前記復元表のとおり(昭和五一年七月二六・二七日付検面調書添付。)であると認められ、前記八月一〇日分の行動表中の「竹橋~一番町」往復の運行記載は、伊藤、松岡、笠原ら関係者の供述の信用性を裏付けるとともに、これら関係者の供述等と相まって、伊藤が右日時に英国大使館裏路上で授受を行った事実を証明する重要な証拠と言うべきであり、この点に関する原判決の証拠評価に誤りはない。

2 第二回目(都立九段高校向いの電話ボックス付近)の授受について

原判決は、昭和四八年一〇月一二日の第二回目の授受につき、伊藤は、同日夕刻から行われる丸紅社員の結婚式に夫妻で出席することになっていたので、着替えのため一旦自宅に帰る予定であったところから、榎本に電話して受渡しの方法について相談し、同日午後二時三〇分ころ都立九段高校向いの電話ボックス付近路上で引渡すことを取決め、かつ、その際、右引渡しに伊藤自身は立会わず松岡運転手をして引渡しに当たらせることとし、榎本もこれを了承したこと、伊藤は、同日午後二時二五分ころ松岡運転車で帰宅したが、その際松岡に対し、榎本の特徴等を教えたうえ、右電話ボックス付近路上で榎本と名乗る者に段ボール箱を引渡すよう指示したこと、松岡は、伊藤を降ろした後直ちに自車を右電話ボックス付近路上に回送して榎本を待ち、他方榎本は笠原運転車で同時刻ころ同所に赴き、両者落合ったうえ現金の入った段ボール箱の受渡しを完了し、榎本が、これを田中の私邸に搬入したこと等の事実を認定している。これに対し、所論は、<1>伊藤が、授受に立会えない特段の事由がなく、授受の現場近くの自宅にいながら、一億五、〇〇〇万円ものお礼の金を榎本と面識のない松岡に託し、これを榎本に引渡すよう指示し実行させたということは、それ自体常識に反し不自然な認定である。松岡は、昭和四八年一〇月一二日分の自動車行動表を示され、検察官の「富士見町」で授受が行われたに違いないとの予断のもとに取調べを受け、かつて、右電話ボックス付近で丸紅社員に何か荷物を渡したことがあるというかすかな記憶があったので、これを本件の授受と結びつけて誤った供述をしたのであり、また、伊藤は、松岡に判示認定のような指示をした事実がなかったのに、松岡の右供述に合わせる供述をしたにすぎず、右各供述はいずれも信用できるものではない。<2>原判決は、笠原供述書に高度の信用性を認めこれを事実認定の有力な資料としている。しかし、右場所における授受に関する笠原供述書には、「進んで来た方向から考えて目白から榎本を乗せたと思う。」旨の記載があるのに、原判決は、榎本アリバイに関する清水ノートの記載をもとに、榎本が笠原車に乗った場所は千代田区平河町二丁目所在の砂防会館である旨認定している。しかして、砂防会館を出発地点として右授受の現場に至るためには、内堀通りを北上し、靖国通りを右折したうえ、更に靖国神社前を左折して早稲田通りに入り、九段高校と日本私学会館の間を左折するルートをとることになり、このルートをとると笠原供述書や松岡供述とは正反対の方向から授受の現場に到着することになるのであって、このことは、松岡や笠原が、時を同じくして虚偽の供述をしていることの証左と言うべきであって、検察官が同人らを不当に誘導し強制して取調べたことを物語るものである。加えて、授受後笠原車が早稲田通りを左折した(笠原供述)のか右折した(松岡供述)かの点について両者は反対の供述をしているし、また、松岡が相手の車はハイヤーであった旨述べているなど、両者の供述に食違いが存することは、いずれの供述にも信用性がないことを示しているのであって、その一方だけを信用し他の信用性を否定することは許されない。<3>また、判示のとおりの経緯で授受が行われたというのであれば、松岡は、伊藤方マンション前で同人を降ろした後電話ボックス付近路上に到着して榎本が来るのを待ち、笠原車が到着して相手の人が榎本であることを確認したうえ段ボール箱を積み換え、その後先に同所を出発した笠原車が早稲田通りを右折したのを見届けて自車も出発したと述べているのであるから、この間少なくとも五分間以上経過していることが容易に推認できると言うべきであって、自動車行動表上、「竹橋~富士見町」と「富士見町~竹橋」の各運行の間の待時間欄にその時間が記載されていなければならないはずである。しかるに、右行動表上にその記載がなく、富士見町到着後直ちに丸紅東京本社に帰ったように記載されているのは、授受があったとされている電話ボックス付近路上での待合わせの事実がなかったこと、ひいては授受がなかったことを示すものである。原判決が、この点について、松岡が授受の現場に到着して榎本と落合うまでさして時間はかからなかったと考えても無理はなく、段ボール箱の引渡し自体も極めて短時間で可能である旨判示しているのは、右行動表の記載の評価を誤り事実を誤認したものであることが明らかである。以上のように主張し、原判決の事実認定を論難する。そこで以下検討する。

(一) 関係証拠によると、第二回目の授受に際し、伊藤が直接立会うことなく、松岡をして引渡させたのは、伊藤・榎本間の事前の打合わせにおいて十分相談のうえ取決められたことであり、榎本もこれを了承していたことであるし、また、授受の現場における作業は段ボール箱の積み換えのみであって伊藤がその場にいなければできないことではないこと、伊藤において松岡に対し、引渡す相手は榎本という人であり、その人物の年齢、人相その他の身体的特徴を教え、電話ボックスのところにその人が取りに来るのでその人を確かめて引渡すよう指示するなど、誤った授受が行われないよう配慮する措置がとられていること、既に、第一回目の英国大使館裏路上における授受には松岡も榎本も直接関与し、二人は全く面識がない関係にあるとは言いがたいことが認められ、これらの点を併せ考慮すると、原判示の授受の仕方が常識に反し不自然、不合理であるとは言えない。そして、松岡が取調べを受けた時点において、昭和四八年一〇月一二日付ピーシズ領収証や伊藤の供述などから、第二回目の授受が同日中に行われたことを推測することができたとしても、同日分の自動車行動表の記載自体や伊藤の供述などから、右行動表中のどの運行が右授受と関係があるのかについてはこれを明,確にできる状況にはなく、まして、九段高校向いの電話ボックス付近という具体的に特定された場所において授受が行われたことをうかがわしめる資料は全く存在しないのであって、判示の時刻に右場所で授受が行われたことは、検察官としては知ることができなかった事柄で、かかることを想定し得べくもないことである。このような情況のもとで、松岡は、同日の自動車行動表を検討するうち、当日ホテルニューオータニで丸紅の社員の結婚式が行われこれに伊藤が妻と出席したことを思い起こし、これを糸口として、その前に着替えのため伊藤が一旦自宅に帰ったこと、そして、その際伊藤の指示で伊藤方近くの右電話ボックス付近路上で段ボール箱の受渡しをしたことを思い出してその旨供述したのであって、これらの供述内容は、関係証拠によって認められる当時の捜査の進展状況からは、検察官としては全く知ることができなかった事柄であることにかんがみると、予断をもって誘導し強制することのできるものでないことが明らかであり、松岡が自ら記憶を喚起し任意に供述したものであることが認められる。そして、右松岡供述を契機として、伊藤も記憶を喚起し、検察官に対し松岡供述と一致する供述をしているが、伊藤の右供述が単に松岡の供述に合わせたものでないことは、松岡が原審公判廷においてあいまいな供述をしたりこれを否定する供述をしたのにかかわらず、伊藤が終始原判示の認定に添う供述をしていることに徴し明らかである。右供述の真偽を確かめるためなされたホテルニューオータニにおける調査の結果は、当日、丸紅社員の結婚式が同ホテルで開催されたこと、及び、伊藤夫妻がその媒酌人をつとめたことを客観的に裏付けており、また、受取った側の榎本や笠原も、日時の点はともかく、右電話ボックス付近路上における授受を認めているのであって、これら関係者の供述が一致することは相互に供述の信用性を補強しあうものであり、かつ、これらの供述は自動車行動表、ピーシズ領収証等客観的証拠とも整合するものであって、その信用性は高いと言うべきである。なお、松岡は、原審第一三一回公判期日において、右電話ボックス付近路上における物の授受は、当時丸紅東京本社の総務課か文書課に勤務していた佐藤と思われる人物から書類の入った茶封筒を渡されるか又は同人に渡すかしたことがあり、この点の記憶が本件の授受に結びつけられたかのごとく所論に添う供述をしているのであるが、その供述内容は、榎本に対する本件段ボール箱の引渡しとは実態を異にするものであって、両者を混合して結びつけようもない事柄であり、かつ、松岡自身の原審第二三回公判期日におけるこの点に関する証言と大きく異なるものであって、松岡の原審における証言自体から、その供述の変更が不自然であり信用できないことは原判決が指摘するとおりである。加えて、当時丸紅東京本社社長室総務課に勤務していた原審証人佐藤来の、右松岡供述を否定する証言に照らしても信用できるものではない。

(二) 昭和五一年八月一日付笠原供述書(甲再一11)中に「進んで来た方向から考えて目白から榎本さんを乗せたと思う。」(原文のまま。)という記載があることは所論のとおりであるが、右供述部分は、内閣総理大臣首席秘書官榎本の専用車の運行状況を記録した清水ノートの記載及び原審証人清水孝士の証言から推認される榎本の当日の行動と抵触するもので措信できず、これら関係証拠によると、榎本は、第二回目の授受に際し、砂防会館から笠原車に乗車して授受の現場に赴いたことが認められ、この点の原判決の証拠評価並びに事実認定に誤りは認められない。すなわち、右笠原供述書は、検察官の取調べ直後、笠原が思っていたことをそのまま書面に記述したもので、その時点で供述の基礎になる笠原の記憶の正確性についてテストされた形跡はなく、右笠原の供述部分は「進んで来た方向から考えて」という文脈に照らすと、確たる記憶によるものとは考えられず、清水ノートの記載や清水証言によると、榎本が笠原車に乗車したのは砂防会館であると推認されることにかんがみると、右供述書中の「目白から榎本さんを乗せたと思う。」という部分は、同人の記憶違いないし誤った推測によるものと考えられる。しかしながら、右供述部分は、供述全体から考察すると、榎本をどこで乗せたかという枝葉の部分に関するもので、この点について記憶違いないし推測の誤りがあったからといって、授受の基本的部分において他の関係証拠と整合するその供述全体の信用性をそこなうものでないことは明らかである。所論は、砂防会館を出発点とするかぎり、笠原供述書や松岡供述にあるように、笠原車が議員会館方面から電話ボックス付近に進行することはあり得ず、反対側の早稲田通りの方面から到着するはずであるというのであるが、関係証拠によると、砂防会館を出発点とした場合でも、所論の進行経路をたどる以外他に経路がないわけではなく、笠原供述書の記載や松岡供述のとおりの方向から授受の現場に到着できることが明らかであり、所論は独自の見解に基づくもので、これを前提として検察官の取調べ方法を論難し笠原や松岡の供述の信用性を否定する所論は採用できない。なお、松岡が当初相手方の車がハイヤーであった旨述べている点については、それが記憶違いによるものであり、その後なされた取調べにおいて、同人により訂正されていることは、第一回目の授受の場合と同様である。

(三) 松岡が、丸紅東京本社から着替えのため自宅に戻る伊藤を送り届け、その後電話ボックス付近路上で榎本が来るのを待ち、到着した榎本に段ボール箱を引渡し、しかる後丸紅東京本社に引き返した一連の運行、すなわち、自動車行動表上の「竹橋~富士見町」「富士見町~竹橋」往復の運行に関し、待時間の記載がないのは所論指摘のとおりである。しかし、伊藤方自宅のあるマンション前から電話ボックスまでの距離は一〇〇米程度にすぎないし、また当審において取調べたビデオテープ(第二回目の授受の状況につき原判示の事実認定に従って再現実演した状況を録画したもの。)によると、授受の現場で落合い段ボール箱を積み換えて双方の自動車が出発するまでの所要時間は一分足らずのもので、段ボール箱の授受はごくわずかの時間で行い得るものであり、更に電話ボックスから早稲田通りまでの距離はごく近距離であることにかんがみると、電話ボックス付近路上で榎本を待った時間が短かければ、松岡が伊藤方に到着した後電話ボックス付近路上から出発するまでの所要時間は五分以内で十分と考えられる。そして、伊藤・榎本間の事前の打合わせにおいて、伊藤が自宅に帰る機会に受渡しを行う旨相談されていることに徴すると、榎本も伊藤が帰宅した時間よりそれほど遅くない時間に授受の現場に到着していることが推認できるので、松岡が右現場で待合わせた時間はごく短時間であったと考えても決して無理な推測とは言えない。一方、松岡車の自動車行動表の記載を検討してみると、待時間欄に記載されている最も短い時間は五分間であり、五分以内の待時間は右行動表に記載されていないのであって、一〇月一二日分の行動表に右待時間が記載されていないことは、松岡が現場で待合わせた時間が短かく、伊藤方に到着した後、授受を済ませて出発するまでの所要時間が五分以内であったことを推測せしめるもので、かつ、右推測は前記の情況から合理性があると言うべきである。そうであれば、その所要時間が五分以上かかることを前提に、待時間の記載がないことをもって授受の事実がなかったことの証左であると評価することはできない。

(四) その他関係証拠を精査しても、第二回目の授受に関する原判決の証拠評価並びに事実認定に誤りは認められず、この点の所論は理由がない。

3 第三回目(ホテルオークラ)の授受について

<1>原判決は、榎本の昭和五一年八月三日付検面調書(乙8、甲再一80)に依拠し、榎本供述は、四回にわたる授受の日時が特定されておらず、第三回目の授受について、ホテルオークラで授受を行ったかどうか明らかでないとするなど相当漠然とした内容を含み、また伊藤が乗ってきた自動車が外車であった旨明らかに誤った事実を含むものであるが、伊藤から受取った金額の総計、受取の回数、おおよその時期や状況、四回のうち三回の授受の場所が英国大使館裏路上、九段高校向いの電話ボックス付近路上、伊藤方自宅であったとするなど重要な点において他の関係者の供述と符合し十分信用できるとしたうえ、榎本が場所の記憶はないけれど授受自体を認めているものがまさにホテルオークラにおける授受に相応するので、右榎本供述も、四回の授受のうちの一回である昭和四九年一月二一日の授受の存在を認定するための重要な根拠たり得る旨判示している。この点につき、所論は、ホテルオークラにおける授受について、榎本が原審公判廷においてその存在を明確に否定し、捜査段階でも実質的にこれを否定する供述をしているのに、右榎本の検面調書を第三回目のホテルオークラにおける授受の認定証拠たり得るとした原判決は明らかに右証拠の評価を誤っている旨主張する。<2>また、所論は、昭和四九年一月二一日の天候は、午前一一時五〇分からみぞれが降り始め、一二時二五分これが雪にかわり三時間以上降り続いたうえ一五時四〇分にみぞれにかわり、一五時の観測時点で積雪二糎を記録しているのであって、この日都内は大雪であったことが明らかであるところ、このような大雪の日に屋外で重い荷物の受渡しをしたというのであれば、当然印象深い出来事としてこの雪の記憶が残っていなければならないはずであるのに、伊藤、松岡、榎本、笠原ら関与者とされている者の誰もがこの大雪について何も述べていないことは、この日金銭の授受があったとするこれら関係者の供述が虚偽であることを示すとともに、また、かかる悪天候の日にあえて屋外で金銭の授受を行わなければならない合理的理由が明らかにされないかぎり、ホテルオークラ駐車場における金銭の授受は不自然な行動と言うべきであって、このような観点からも、右関係者の供述の信用性は否定されるべきであり、原判決はこの点に関する証拠評価を誤っているというのである。<3>更に、所論は、授受の場所につき、ホテルサイド入口とする伊藤、松岡の各供述とアーケード入口前駐車場とする笠原供述の間には大きな食違いがあり、このような場合にはいずれの供述に対してもその信用性に疑問をさしはさむべきであるのに、原判決が、信用性を裏付けるものは何も存しない笠原供述に依拠して、人目につきやすい一階宴会場入口付近駐車場を授受の場所と認定しているのは、証拠の評価を誤ったことによるもので不当である旨論難する。そして、<4>所論は、原判決が、昭和四八年末か同四九年初めころ、榎本が伊藤に対し、電話で「例のもの、このつぎはいつになるのですか。」と言って残金の支払いを督促した旨認定している点につき、伊藤と榎本の検察官に対する各供述は、残金の支払いを督促したという点について一致しているものの、榎本は、どのような機会にその督促をしたのか記憶がない旨供述し、かつ督促に対する回答については何も供述していないのであって、このことは榎本が記憶にないことを無理に押しつけられて述べたことの証左と言うべきであり、また、伊藤、大久保の検察官に対する各供述に表れている対応状況は、榎本からの督促があったにしては悠長なもので、真実督促がなされておればその後の支払状況がどのようになるか把握して回答がなされているはずであるのに、そのような手段が講じられていないのはかかる督促事実がなかったことを示していると主張している。

(一) そこでまず、原判決が榎本の検面調書を事実認定の用に供したことの当否について検討するに、原判決の判文に即して考察すると、榎本が、四回の授受のうち三回までは他の関係者の供述と一致する場所を明示して現金の授受を認める供述をしたほか、場所がどこであったか記憶していないがもう一回現金を受領したことがある旨供述しているところから、原判決は、これを伊藤、松岡、笠原らの各供述(いずれも四回の授受の場所を具体的に明示している。)及び昭和四九年一月二一日付自動車行動表などの関係証拠と対比して検討すると、右榎本が認めている、場所の明確でない残り一回の授受というのは、右関係証拠上認めることのできるホテルオークラにおける授受に相応すると認められるので、右榎本の検面供述は、場所の点はともかく授受の事実を認める限度で、ホテルオークラにおける授受の事実を認定する証拠たり得ると判示しているにすぎないことが明らかであり、かつ、このような証拠の評価に誤りはなく所論の非難は当たらない。

(二) 次に、昭和四九年一月二一日東京管区気象台(東京都千代田区大手町所在)において、所論のような降雪が観測されたことが認められる(甲一178)。しかしながら、午後三時の時点で右観測地点において積雪量二糎が観測されたからといって、都内中心部の道路に常にそれだけの積雪が残り交通を阻害するなど授受の妨げとなる情況があったとは認められない。すなわち、昭和四九年一月二一日分の松岡車の自動車行動表によると、丸紅東京本社(竹橋)とホテルオークラ(葵町)の間の運転所要時間は往復とも各一五分と記載されているところ、改ざんされていない右自動車行動表の右区間の所要時間がどのように記載されているか検討してみると、昭和四八年一二月及び同四九年一月の二ケ月間に表れている五例(四八年一二月一三日分、同月一七日分、四九年一月一八日分、同月一九日分、同月二九日分)においても、いずれも所要時間は一五分と記載されているのであり(なお、その余の例においては二〇分を要したものもある。)、これらの運行状況に照らすと、一月二一日の降雪によって自動車の運行になんら支障を生じていないことが明らかであるとともに、右の程度の降雪が屋外における授受の妨げとなるとは認めがたい。しかして、降雪によって円滑なる金銭の受渡しが現実に阻害された特段の事由があればともかく、そのような事由が認められない情況のもとで、二年半前に起こった出来事について供述するに当たり、その時の気象状況に関する記憶と関連づけて供述がなされなかったからといって、その供述が架空のものであると断ずることはできない。また、ロッキード社から受取った現金をできるだけ早くその日のうちに田中側に引渡そうと考えていた伊藤が、当日ホテルオークラにおいて開催された「前尾繁三郎君を励ます会」に出席する機会に右ホテルで受渡すべく榎本と相談し、同人の了承のもとに同ホテル駐車場で授受を行うことは、右気象状況を考慮に入れても不自然であるとは言えず、むしろ自然な成行きと考えられる。

(三) ところで、ホテルオークラにおける金銭授受の場所が同ホテルの駐車場であるという点において一致するものの、どの駐車場であるかについて伊藤及び松岡の各供述と笠原の供述との間に食違いがあることは所論指摘のとおりであり、そのいずれの供述が正しいかこれを明確にする客観的証拠は存しない。しかしながら、二年半前に行われた授受の場所について、授受に関与した関係者がホテルオークラの駐車場であると一致して認識していることは、これら関係者の供述の信用性を判断するに当たり重視すべきことである。しかも、関係者の供述は、同ホテルの駐車場で双方の車が落合い段ボール箱を車のトランクからトランクヘ積み換えたという授受の方法などの点においても一致している。これらの事実のほか、笠原が相手方の自動車は緑色のセドリックであった旨客観的事実に符合する供述をしていること、この日同ホテルにおいて授受が行われたことが明らかになったのは、伊藤が同日同ホテルで開催された何かの会合に伊藤か榎本のいずれかが出席することからその機会に同ホテルを引渡しの場所と定めて授受を行ったというその経緯を思い出して供述したことを端緒とするもので、右供述は検察官が知らなかった会合との関連において喚起された記憶に基づくものであるとともに、その後の捜査により同日午後四時から午後六時までの間同ホテル一階平安の間において「前尾繁三郎君を励ます会」が開催されたことが判明し、かつ、公判段階における証拠調べの結果により伊藤がこれに出席していることが明らかになり、しかも右会合の時間帯と自動車行動表上伊藤が同ホテルに赴いた時間が重なっていること、また、松岡も、日にちはこの日であると断定しがたいとしながらも、勾留中の取調べに際し示された写真及び釈放後新聞に出ていた写真により榎本と確認できた第一回目と第二回目の授受の相手と同じ人物にホテルオークラにおいて段ボール箱を車のトランクからトランクヘ積み換えて引渡したことがある旨伊藤の供述と整合する供述をしていること等を併せ考えると、同日同ホテル駐車場において金銭の授受が行われたことは明らかであり、かかる点を考慮すると、授受が行われた特定の駐車場に関し供述の食違いがあるからといってすべての供述の信用性を否定するのは正当な証拠評価であるとはいえない。しかして、具体的に特定された駐車場についてのいずれの供述が正しいかが問題となるが、前記自動車行動表によると、松岡は伊藤を乗せて同ホテルに何度も赴いていることが認められるところから、二年半前の昭和四九年一月二一日の授受の際、どの駐車場(同ホテルには五階のホテルサイドの駐車場、一階宴会場入口前の駐車場、地下駐車場がある。)を使用したかについて他の日の場合と混同する可能性は大きいと考えられ、この点は伊藤についても同様である。これに比べ、笠原が、坪内検事の取調べの冒頭に、榎本を笠原車に乗せて運行した事例として列記したところ(甲再一12の笠原供述書の裏面の記載。)によると榎本を乗せてホテルオークラに行ったのは一回だけであることが認められ、これに徴すると記憶の混同をもたらす可能性は比較的に小さいと考えられ、また同ホテルにおける授受の状況について記述している笠原供述書には「私、セビロを着ていたので。榎本さんを乗せてミドリ色セドリックをさがしながら大蔵の屋外駐車場をゆっくり廻り『これだ。』と云って車の前に止った。セドリックの客もおりて来た。二言三言話した後、荷物を積み換えて私の車が榎本さんを乗せて先に出た。(私がおりて段ボール箱を後部トランクに入れた。)」(原文のまま。)と、その情況が具体的に記述されているほか一階宴会場のアーケード入口横の屋外駐車場に停車した情況が明確に図示されていること、及び当日の伊藤の用件が前記のとおり一階宴会場において開催される会合に出席することにあったこと、並びに松岡のこの点の供述は他の三回の授受の情況説明と対比し、いま一つ明確性を欠いていること等を総合すると、笠原供述がより信用できるとした原判決の判断が恣意的で不合理であるとは言えず、右判断は正当として是認できる。なお、所論は人目をはばかる現金の授受の場所としては、右宴会場入口は不適当で不自然であるともいうのであるが、原判決は宴会場の入口と判示しているのではなく同入口付近駐車場と判示しているのであって所論はその前提に誤りがあるとともに、笠原供述書に図示されている授受の場所は一階宴会場の正面入口(前記会合に出席する政財官界の人達はここから入ると思われる。)付近ではなく、同所から離れたアーケード入口から更に少し離れた付近の駐車場であって、特段人目を引く場所とは考えられず、現金の授受とはいえ外見上は段ボール箱の積み換えであり、その作業は前記ビデオテープによると三〇秒程度で行うことができるものであって必ずしも人目をはばからねばならないものとも考えられないことに徴すると、右場所での授受が不自然であるとは認めがたい。

(四) 第三回目の授受の前における榎本の再度の督促について検討するに、右督促の事実が証拠上最初に表れるのは伊藤の昭和五一年七月二二日付検面調書においてである(同年八月一二日付検面調書〔甲再一94〕も同旨。)。右調書において、伊藤は、「四八年の年末か四九年の年始頃と覚えているのですが、この五億円の件に関して私は榎本秘書から電話を貰いました。確かに第一回目の約二ケ月後に一億五、〇〇〇万円が第二回目として引渡されましたが、その後、二ケ月以上過ぎるのに大久保氏から第三回目の連絡がありませんでしたから私も次はいつ頃になるのかなと感じていた矢先のことでした。その電話は、会社に居る私にかかってきたと記憶しています。榎本秘書は、例のものこの次はいつになるのですか、と私に言いました。やわらかい感じの言い方でしたが、次を催促しているのだなと私は受取りました。例のものと言えば、ここでお話しているロッキード社の五億円の残り二億五、〇〇〇万円を指していることは言うまでもありません。私は、先方の都合もありますんでしょう、いずれご連絡します、と答えておいたように記憶してます。私はすぐ大久保氏に電話か直接会うかして、婉曲な督促が榎本秘書からありましたよ、と伝えておきました。檜山社長にも同様に報告した記憶があります。大久保氏は、それじゃ向うへまた連絡してみるか、などと言っていたように思いますが、その結果どうなったか、また私がどう榎本秘書に連絡をとったか思い出せません。」と述べている。しかるに、伊藤は原審第九三回公判期日において、榎本から右検面調書にあるような督促を受けた記憶はなく、検察官に督促があったように述べたのは、検察官からいかにも確信あり気に督促があったと言われ、あるいは榎本がそういうことを述べているのかなと思い、それならばそうなのかなということで、右のような調書になったのであるが、それは記憶に基づいて述べたのではなく、検察官がいろいろ考え作文したものである旨供述している。しかしながら、七月二二日の取調べの時点で榎本は未だ取調べを受けておらず、関係者の供述としては翌七月二三日付の大久保の検面調書があるだけで、同人は、「二回目と三回目の引渡しの間にも催促を受けたような記憶があります。それは最初の催促ほど強い調子ではなく、檜山社長から、どうだ、あとの分については順調にいくんだろうな、といった趣旨のもので私からクラッターに対しても、窮屈だろうが少し促進して欲しい、と要請したことがあったようにも思います。」と述べているにすぎず、督促がいつあったのかその時期は明確でなく、また、榎本から催促があったことも、伊藤からその旨の話があったとも述べられてはいないのであって、仮に大久保の供述が伊藤の取調べより実質的に先に行われたと仮定しても、検察官が右の程度の大久保供述をもって前記伊藤の検面調書にあるような具体的内容の供述を誘導によって引き出すことはできないものと考えられ、まして検察官が自ら考え作文できるものでないことは明らかである。そして伊藤の前記検面供述は、第二回目の授受後二ケ月以上経過し伊藤自身次がいつころになるのか気にしていた矢先に榎本から電話があったと述べ、その時期についての根拠を明らかにし、また、榎本との電話のやりとりの内容も具体的で、かつ、その時受けた感じをも含むものであって、自ら体験した者でなければ供述しがたい内容のものであるとともに、記憶にない点は記憶にない旨述べており、それ自体から記憶に基づきありのままに供述したものであることが認められ、その信用性は高いと評価できる。そして右伊藤の供述は前記大久保の検面供述及びこれを確認した同人の原審公判廷における供述によってその真実性が裏付けられ、榎本もまた検察官に対し右伊藤供述に符合する供述をしているのであり、これら関係証拠によると、右榎本の督促の事実は優に肯認できるのであって、原判決の認定に誤りがあるとは認められない。なお、右榎本の督促に対し回答したかどうかにらいて伊藤に記憶がなく、また、大久保がクラッターに対し支払いの促進方を要請したが、事前に支払いの予定を至急明らかにするよう求めていないことに徴すると、伊藤は榎本に対し事前の回答をしていないと推認される。しかしながら、榎本の電話の趣旨は、支払いの予定を事前に聞きたいというよりも残余の支払いを促進することにあり、伊藤もその趣旨で「先方の都合もありますんでしょう。いずれご連絡します。」と答えたものと解せられるとともに、そのために必要な措置をとっているのであり、事柄は、外国法人が多額の金銭を現金で用意しなければならないもので、その支払い予定を明らかにするには多少の時間を要する性質のものであることにかんがみると、およそ二〇日ぐらいの後になされた支払通知に先立ち急ぎ支払予定に関する回答をしなかったからといって、これを不自然であるとは断じがたく、まして関係者が一致して供述している督促の事実が架空のものであると言うことはできない。

(五) してみると、第三回目の授受に関する原判決の事実認定を論難する所論はいずれも理由がなく採用できない。

4 第四回目(伊藤の自宅マンション)の授受について

(一) 所論は、原判示のとおり、伊藤の自宅マンションで授受が行われたのであれば、それは伊藤にとって印象に残るべき出来事で、取調べの当初から記憶が喚起されていなければならないのにそれがなされていないのは伊藤自身このような体験をしていないことを示しており、その後の取調べで原判示認定に添う自白をしているのは、その自白過程に照らし不自然で信用できず、また、右自白は、伊藤が取調べの当初「こうした後ろ暗い金」は一晩でも手もとに置くのは嫌であったと述べていることと矛盾し信用できないというのである。しかしながら、右伊藤の自白に信用性があることについては、既に説示したとおりであって、右所論は理由がない。

(二) また、所論は、笠原の昭和五一年八月一日付供述書(甲再一13)には、伊藤の自宅マンションに榎本の案内で赴いた旨の記載があるが、その日がいつであったのか、またどのような機会に赴いたのかなどの記載が全くないので、これをもって、三月一日早朝の授受の証拠とはなり得ない、というのである。そこで検討するに、なるほど右供述書に、伊藤の自宅マンションに行った日時やどのような機会に赴いたかについて記載がないのは所論のとおりであるが、右供述書に「榎本さんの路案内で富士見町の青い屋根瓦のマンションに行った。」との記載があることに照らすと、笠原が右マンションに行ったのは初めてのことと認められ、前記甲再一12の笠原供述書の裏面の記載(榎本を乗せて運行した記憶のあるものを列挙したもの。)によっても、他の機会に笠原が伊藤方に行った形跡がないこと、また、伊藤の自宅マンションに行った際の状況について、右供述書には、「榎本が車を降りマンションの入口まで歩いて行った。運転席で週刊誌を読んで待っていた。榎本にコツコツとドアをたたかれて気付いた。車から降りて榎本が持っていた段ボール箱を後部座席か後部のトランクに入れた。目白から出て段ボール箱を積んで目白に帰ったように思う。段ボール箱はみかん箱で重かった。」旨の具体的な記載があり、伊藤の捜査段階及び公判廷における供述と符合するものであり、また榎本の検面調書とも整合すること等に照らして考えると、右笠原供述書は、昭和四九年三月一日の伊藤の自宅マンションにおける授受について述べていることが明らかであるから、これを右の事実認定に供した原判決の証拠判断に誤りはなく、この点の所論も理由がない。

5 段ボール箱に関する主張について

所論は、本件五億円が段ボール箱に詰められていたとされているのに、丸紅側でその中味を確認することなく榎本に引渡したというのは非常識で、この点からも伊藤の供述は信用しがたいという。しかし、檜山、伊藤、大久保らが右金銭供与の共謀者としてかかわりをもっているとはいえ、その供与の主体はロッキード社で、同社においてこれを支出するものであり、かつ、このことは檜山が田中に伝えていたことである。そして、その授受に当たり、伊藤は、当初、榎本にロッキード社に取りに行くよう要請したが、榎本がこれを嫌がったため、やむなくその受渡しに直接関与することとなったのであり、伊藤としては、榎本に代ってこれをロッキード社から受取り直ちにこれを榎本に引渡しているのである。すなわち、伊藤としては、これを他からの預り物として扱ったのであり、かかる事情を勘案すると、中味を確認しなかったからといってそれが不自然であるとは言えない。また、所論は、段ボール箱の形態に関する伊藤及び松岡の供述には食違いや不自然な変遷があり、このことは同人らが原判示の段ボール箱の授受にかかわっていない端的な表れであるともいう。しかしながら、授受の対象物は現金が詰めこまれガムテープで密封梱包された大・小必ずしも一定しないビール箱様の段ボール箱と認められるところ、一見して他と区別のつくような色彩や形態をしたきわだって特徴のあるものであればともかく、そのようなものと思われない右段ボール箱について、明確な記憶が残っていないからといって別段不自然とは考えられず、これを「梱包」と表現したり、「背の高い長方形」、「長方形の段ボール箱」、「荷物」、「石油一八リットル位いの荷物」などと表現したからといってそれが全く別異の物を表現しているとは考えがたいのであって、これらの供述表現から所論のごとき結論を導き出すことはできない。所論は失当である。

6 伊藤の檜山に対する現金授受完了の報告及び榎本が段ボール箱を田中邸内に搬入したことについて

所論は、伊藤が捜査段階において、現金の引渡しを済ませたつど、授受の日かその日から間もないころに檜山にその旨報告している旨供述しているところは信用できず、特に第一回目と第二回目分については、檜山の行動記録に照らし不可能な内容を含み、虚偽であることが明らかであるから、この点に関する原判決の判断には誤りがある旨、また、榎本が受取った段ボール箱を四回とも田中の私邸内に搬入したとする原判決の認定事実を裏付ける客観的証拠はなく、これを否定する田中私邸の書生らの原審における各証言の信用性を否定し、信用性のない榎本の検面調書のみでこれを認定した原判決の判断は誤りである旨主張する。しかしながら、この点は原審において同じ主張がなされ、原判決が詳細に判断しているところであり(原判決四八三頁ないし四八五頁、四九九頁、五〇〇頁)、関係証拠を検討してみると、そこに判示されている認定判断はすべて正当として是認することができる。所論は理由がない。

7 昭和五一年二月以降における被告人らの言動(いわゆる事後状況)について

原判決は、田中が丸紅側被告人から本件五億円を受領した事実を裏付ける情況事実として、チャーチ委員会におけるロッキード社関係者の証言の模様が公表され、わが国においても連日報道されるようになった昭和五一年二月以降、次のような関係者の言動があったことを認定している。すなわち、<1>伊藤は、同年二月五日午前五時ころ、中居秘書課長から、電話で、アメリカにおけるロッキード問題の公聴会でID社のヒロシ・イトーという名前が出た旨知らされ、田中に対する本件五億円交付の件が問題になっているのではないかと考え、そのころ、榎本の自宅に電話して、同人に対し、ロッキード問題の公聴会で五億円献金の件が問題になっているかも知れない旨知らせ、これに対し榎本は、早速田中に報告する旨答えた。<2>榎本は、二月五日午前中、五億円の受領を隠すためには五億円を返還してしまえばよいと考え、田中に相談したところ、同人もこれに賛同したので伊藤にその旨電話した。伊藤は檜山にこのことを報告したうえ、返還の事実が発覚することを危惧した檜山の指示に従い、電話で、榎本に対し右申し入れを拒絶する回答をした。そこで榎本は、「こちらに迷惑が及ばないよう丸紅側で頑張ってくれ。」と金銭授受の秘匿方を要請し、伊藤もこれに同意し、その旨檜山に報告した。<3>二月一〇日ころ、榎本が伊藤と電話で話をしていた際、田中が途中で替わり、伊藤に対し、「いろいろご苦労をかけているな、しっかり頑張ってくれよ、檜山君にもよろしく。」と声をかけ、丸紅関係者が従来どおり現金交付の事実を否定する態度を貫くよう暗にうながした。<4>二月一七日行われた丸紅関係者に対する国会喚問の前後ころ、田中は、激励と現金授受否認の方針を確認するため檜山と面談することを考え、榎本に連絡させたが、連絡を受けた伊藤及びその報告を受けた檜山は相談のうえ面談すれば疑惑を深めるとしてこれを断ることとし、伊藤から榎本に対し、右申し入れを断る電話をした。<5>榎本と伊藤は、二月以降伊藤が逮捕されるまでの間、電話で話したり面談するなどして相互に連絡し、榎本は、丸紅関係者が現金交付の事実を秘匿する方針を貫くよう求めるとともに、証拠になるようなものが残っていないでしょうなと何度も念を押し、伊藤もそのつど右方針に変りはない旨返答し、その情況については榎本から田中に報告された。以上の事実を認定している。

これに対し、所論は、原判決の右事実認定は誤りである旨主張し、<1>原判決は、右情況事実を認定するに当たり、判示認定に添う檜山、伊藤の各検面調書は「内容が詳細、具体的であり、自らの体験によって初めて知り得る事項を多く含み、他の関係者の供述や本件の情況とも符合し、本件の経緯等に照らしても自然な内容のものと評することができ十分信用することができる。」旨、また、榎本の検面調書について、「内容が詳細かつ具体的であり、他の関係者の供述や本件の情況ともよく符合し、また榎本が自ら供述しなければ取調べ検察官が知り得ないはずの多くの事柄を包含し、特にいわゆるロッキード事件の発覚が社会の耳目を集める当時の情況の中で、田中の立場を憂慮し真相の隠ぺいのため、田中と話合ったり伊藤に働きかけたことなど、榎本の本件における立場にかんがみ、首肯し得る内容のものと評価できるものであって、十分信用するに値する。」旨判示するとともに、檜山、伊藤、榎本の公判廷における各供述中右検面調書の記載に反する部分は信用できないとしているが、檜山、伊藤、榎本の各検面調書の記載内容及びこれと同趣旨の檜山、伊藤の公判廷における各供述の内容は、別段詳細でも具体的なものでもなく、自ら体験したものでなくても作出し得る内容のものであって、供述の内容自体から信用性を担保することができるものではない。<2>伊藤ら丸紅関係者は、昭和五一年二月五日早朝チャーチ委員会においてヒロシ・イトーの名前が出た旨伝えられたのが、いわゆるロッキード問題について知らされた最初であったごとく供述している。しかしながら、ロッキード社の世界各地における不正支払が問題になり、米国証券取引委員会で調査が行われたのは昭和五〇年七月ごろのことであり、また同年八月五日開催されたプロキシマイヤー委員会の公聴会においてロッキード社の航空機売込みにからむ不正支払先として他の外国名のほか日本もあげられており、わが国においても、同年一〇月二三日、衆議院予算委員会において、ロッキード社がトライスターを売込むに当たり、日本その他の外国の政府高官や政党役員らに多額の賄賂が送られた疑惑がある旨プロキシマイヤー委員会で追及されているとの指摘がなされており、このような流れの中でチャーチ委員会の調査が昭和五〇年の夏ごろから開始され、ロッキード社の外国における不正支払は米国において大きな社会問題になっていたのであるから、丸紅はロッキード社の日本における代理店として、米国の支店等を通じ、また、コーチャン、クラッターらロッキード社の関係者と緊密な連絡をとり、どのような資料がロッキード社からこれらの委員会に提出されているか等の情報を得ていたはずであるし、チャーチ委員会の調査が開始された時点で、何がどのような形で取り上げられ、ロッキード社の関係者がどのような証言をするかも予め知っていたと考えなければならない。そして、クラッターが昭和五一年一月一五日来日しチャーチ委員会の公聴会開始直前に帰米していること、それと入れ替わるようにエリオットが同年二月三日来日し同月五日離日していることは、同人らが、チャーチ委員会の調査に関連し、丸紅その他の関係者と予め打合わせや協議をするため来日したとしか考えられないのであって、同月二日、既に、同委員会の秘密聴問会にフィンドレーが喚問され、関係資料のいくつかについて新聞報道がされていたことからみて、エリオットは、その後予定されていたコーチャン、クラッーの証言の内容や、その際明らかにされる資料等について相当詳細な情報を丸紅に与えていたと思われる。このような状況にかんがみると、二月五日、初めてロッキード問題を知ったとする前記丸紅関係者の供述は明らかに虚偽であり、それは事前に知っていたことを隠さねばならない事情があったからにほかならず、かかる虚偽供述を前提に述べられている事後状況に関する関係者の供述は、すべて作出されたもので全体として信用することのできないものである。<3>伊藤は、検面調書(昭和五一年七月二三日付)において、同年二月五日、榎本に対し、「アメリカのロッキード問題公聴会で私の名前が出たと、今会社から連絡がありました。おそらく例の件が向うで問題になっていると思われます。」と電話連絡したと述べ、榎本が「例の件」というだけの表現でその意味するところを解したことを前提としているが、榎本は、捜査、公判を通じ一貫して丸紅がロッキード社の代理店であることも、本件五億円がロッキード社が支出した金であることも知らなかったと述べており、また原判決自身、榎本が本件金銭の趣旨についてその情を知らない使者と認定しているのであるから、「例の件」が問題になっていると告げられただけで、その意味する内容を理解することはとうていあり得ないのであって、右伊藤の供述は措信できないものである。<4>榎本が伊藤に五億円返還申入れの電話をしたこと、及び金銭授受を秘匿するよう口止めしたこと等の事実は、伊藤の検面調書に基づいて認定されているところ、伊藤は当初(昭和五一年七月一一日付、同月一三日付)の取調べにおいて、これらの点について全く触れておらず、また同年七月二三日付、同年八月一四日付各調書においても不明確な供述しかしておらず、その供述過程並びに供述内容に照らすと不自然と言うべきであって、金銭授受を秘匿するよう口止めされたことを否定する同人の公判廷における供述とあいまって、右検面調書の信用性は否定さるべきである。また、五億円返還申入れの話があった点についての檜山の検察官に対する供述には、同年七月二三日付調書と同年八月一三日付調書の間に日時の点に違いがあり、また、同人の公判廷における供述は漠然としたもので伊藤の検察官に対する供述と符合するものではなく、檜山の検面調書は伊藤のそれに合わせるよう供述させられたものにすぎず、八月一三日付調書の記載内容は、フィンドレーの証言であるのにコーチャンの証言であることを前提として客観的事実に反することや檜山が認識していたはずのないことが記載されているのであって、信用性のないものである。更に、榎本の検面調書は、検察官が伊藤の検面調書等に基づいて誘導したり理詰めで押しつけたり、あるいは榎本の供述の真意を歪曲して作成されたもので、信用できないものである。<5>田中が電話で伊藤を激励したという点は、伊藤の七月一一日付、同月二三日付、榎本の八月一五日付各検面調書によって認定されているが、電話の内容については覚えていない旨の伊藤の公判廷における供述、検察官から誘導され合づちをうったにすぎずかかる事実はない旨の榎本の公判廷における供述に照らすと、右検面調書の信用性は乏しいものであり、また、右各調書の内容は、田中が伊藤に対し現金交付の否定を貫くよう暗にうながした事実を認定できるようなものではない。<6>原判決は、田中が檜山へ面談したい旨申し入れたのは、激励と現金授受否認の方針を確認するためであるとしているが、かかる事実を肯認するに足る証拠はない。榎本の同年八月三日付検面調書中に、伊藤と榎本がお膳立てして田中・檜山の面談の機会をつくろうと相談したが先方の都合で実現しなかった旨の記載があるが、榎本は五億円授受に至る経緯を知らず、まして、田中と檜山が以前面談したことも、またどのようなことが話されたのかも知らないのであるから、榎本が右検面調書にあるようなお膳立てをするはずがなく、伊藤の検面調書にはかかる記載は存在しないのであって、右のごとき榎本の検面調書が作成されたのは、榎本が公判廷で述べているように、検察官が榎本の供述を歪曲してこれを押しつけたことによるものである。<7>原判決は、昭和五一年二月以降伊藤が逮捕されるまでの間、電話したり面談したりして、榎本が、丸紅関係者が現金交付の事実を秘匿する方針を貫くよう要請したり、証拠になるようなものは残ってないでしょうなと何度か念を押したと認定しているが、伊藤と榎本の個人的関係からすれば二人が連絡を取り合ったこと自体は別段不思議なことではない。もし、五億円授受の真相が伊藤の供述するとおりであるならば、榎本はそのすべてを承知しているはずであるのに、伊藤・榎本間においてその真相なるものが話題となり、伊藤が榎本に対し、雑誌「選択」に「丸紅シロ説の周辺」という記事(その内容は伊藤の捜査、公判における供述内容と全く異なるものである。)が掲載されていることを知らせたということは、とりもなおさず、榎本が二月以降問題となったいわゆるロッキード事件の真相なるものを知らなかったからにほかならず、そのような榎本が、丸紅側に対し、金銭授受否認の方針を貫くよう要求するということはあり得ないことである。榎本が伊藤に対し、「証拠となるような書類は残っておらんでしょうな。」と念を押したという事実は、伊藤の七月二三日付検面調書に基づいて認定されている。しかしながら、右伊藤の調書中には、榎本から念を押されたことに対し伊藤がどのように答えたかについては一切記載されていないところ、自動車行動表の改ざんに関する伊藤供述によると、最も重大な伊藤・榎本間の金銭授受に関連する運行部分は改ざんされていないと言うのであるから、「証拠になるような書類」は残っていることになり、榎本から念を押されたこととの間に生ずる矛盾について説明ができないまま、右行動表に基づいて授受の場所を押しつけた検察官としては、それ以上、右部分を残した理由についての説明を求めることができず、伊藤の答えを記載しない調書を作成せざるを得なかったものと解せられるのであって、右調書はそれ自体から不自然なものと言うべきである。そして、右のほか、伊藤が公判廷においてこれを否定する供述をしていることや、榎本の捜査段階における供述にも、この点に触れるものが存在しないこと等に徴すると、前記認定の証拠となっている伊藤供述の信用性は否定さるべきである。以上のように論難している。そこで以下順次検討する。

(一) まず、所論は、丸紅関係者が、昭和五一年二月五日以前に、いわゆるロッキード社の不正支払についての米国における調査に関し詳細な情報を得ていたはずであるというのであるが、大久保の原審第九四回公判期日における供述や伊藤の同年八月一四日付検面調書によると、大久保が、LAAL東京事務所のデビッドソンから、同年二月三日か四日ころ、米国における公聴会において児玉の名前が出るかも知れないという話を聞いていたことはうかがえるものの、それ以上に、丸紅関係者が右問題についての情報を得ていたことをうかがわせる証拠はなく、また、クラッターやエリオットが所論のとおり来日した事実から、直ちに、その情報を得ていた事実を推認することはできないのであって、かかる情報を得ていたことを前提に立論されている所論は採用できない。

(二) 昭和五一年二月五日午前五時ころ、伊藤が榎本にロッキード事件発覚の状況を知らせたことは、判示認定に添う伊藤の公判廷における供述(第九二回公判)により認定されているところ、右供述の信用性を疑わしめる資料は何も存せず、これにより判示事実を優に肯認できる。所論は、右公判廷における供述と同趣旨の供述をしている伊藤の検面調書(七月一一日付、同月二三日付)の証明力を否定しひいては右公判廷における供述の信用性を争うものと解せられるところ、記録を精査しても、右取調べの時点において、検察官が事件発覚後の伊藤・榎本間の連絡状況を探知していたことをうかがわせる証拠はなく、右事実は検察官が知り得ない事柄であったこと、事件発覚の情報を得た伊藤が榎本に取急ぎ知らせるということは事柄の性質上自然な行為であること、右検面調書には、伊藤の心理状態や言動が具体的に記述され、これに不自然な点が認められないこと等にかんがみると、右調書の記載内容自体から信用性に疑念をさしはさまなければならない点はなく、検面調書と同趣旨の事実を認めている右伊藤の公判廷における供述の信用性に疑念はない。ところで、本件五億円が田中に供与するためロッキード社から支出されたものである事実を榎本が知っていたことは、既に、昭和四八年六月ころなされた榎本の支払催促の項において判示したとおりであり、更に、右五億円の供与が、昭和四七年八月二三日、田中と檜山が面談した結果約束されたものである事実についても榎本が知っていたことは、伊藤の昭和五一年八月五日付検面調書(甲再一90)及び副島勲の同月六日付検面調書(甲再一52)により認めることができる。してみると、昭和五一年二月五日午前五時ころ、伊藤が榎本に、ロッキード事件発覚の状況を電話で知らせた際、五億円の授受を指して「例の件」という表現を用いたからといって、榎本においてその意味を理解できないわけではなく、また、原判決が、榎本について、五億円の趣旨についてその情を知らない(すなわち賄賂性の認識がない。)使者と判示しているからといって、右金銭がロッキード社から支出されたものであることの認識まで否定している趣旨でないことは、外為法違反の罪の成立を認めていることから明らかであって、原判決の認定に矛盾はなく、この点の所論は理由がない。

(三) そこで榎本が伊藤に五億円返還申入れの電話をしたこと、及び金銭授受を秘匿するよう口止めしたことの有無につき検討する。この点につき伊藤は七月二三日付検面調書において、「二月五日午前中会社に居た私に榎本秘書から電話がかかってきました。丸紅には報道陣がわんさと押しかけてきており、騒然とした状況で私も檜山会長、松尾社長などにピーナツ等の領収証の作成経過を報告したりして事件に対する対応にいとまがない時でした。この電話で、榎本秘書は、目白へ行ったらうちの先生は先に知っていました。この件についてはうちの先生は金を貰わなかったことにしてくれないか、と私に言いました。彼の言い方は、五億円位の金は用意できるので、できるなら金は返してもいいんだよというニュアンスを含んでおり、また、そうした趣旨のことをこの後微妙な言い回しの言葉で私に言っていました。私は、もう大分時が経っているのにいまさら金を返してもらうというようなことはできることではないでしょう、という趣旨の反問をした記憶があります。更にいくらかやりとりがありましたが、結局、榎本秘書は、こちらの方に迷惑が及ばないように丸紅側で頑張ってくれ、と言っておりました。要するに、榎本秘書が言わんとしたことは、真相を喋ってくれるな、田中先生はロッキードの金には関係ないということにしておいてくれと私達に押しつけてきたことになります。私は、本当に困りました。我々は頑張らざるを得ないということですね、と答え、田中先生の側の意向に同意せざるを得ませんでした。私は、檜山会長、松尾社長に社長室か会長室のいずれかで榎本氏のこの電話の内容を前述のとおり具体的に報告しました。会長、社長のいずれかだったと思いますが、とにかく先方の言うような方向でやらざるを得ないな、とつぶやくように言いました。田中先生の名前は決して口に出せないことですから、丸紅のとり得る方向はロッキード社の金に丸紅は一切関与しておらず、関知もしていないと嘘をつきとおす以外にありませんでした。二月五日の記者会見で事実を隠ぺいした嘘の路線が公表され私もこれ以降この路線に乗って走らざるを得ませんでした。」以上のように述べている(なお、伊藤は八月一四日付検面調書において、「二月五日の午前中、榎本秘書から私に電話がかかり、この事件が田中先生に波及しないようにしてくれと事実上口止めされた件は既に別調書で申しあげております。」と述べ、右調書の内容を追認している。)。しかして、事件発覚直後の田中側との接触状況や丸紅内部の対応状況について供述している伊藤の七月一一日付、同月一三日付各検面調書に右の点が触れられていないのは所論のとおりであるが、伊藤は、原審公判廷においても榎本から五億円を返還したい趣旨の電話があったことを認めているし、また後記のとおり、檜山も捜査、公判を通じ、伊藤からその旨の報告があった旨供述し、榎本も検察官に返金を申し入れた旨供述していることにかんがみると、当初の取調べにおいて右の点が触れられていないことをもって右伊藤供述の信用性を否定する理由とはなし得ないし、また、前記検面供述の内容が、不明確であったり不自然であるとも言いがたく、その信用性を疑わしめる事情は認められない。ところで、伊藤は、原審公判廷において、金の返還を申し入れてきた榎本の電話の中で、「うちの先生は金を貰わなかったことにしてくれないか。」とか「こちらの方に迷惑が及ばないように丸紅側で頑張ってくれ。」というようなことは言われていない旨前記検面調書の記載内容を否定する供述をしている。しかしながら、チャーチ委員会における公聴会の模様が報道され五億円に関連するヒロシ・イトーの署名のあるピーナツ領収証が公表されるなどロッキード問題が世間の耳目をひき、丸紅が報道関係者からその真相を明らかにするよう求められている中で、榎本が伊藤に電話をかけ五億円の返金を申し入れたのは、五億円の受領という田中にとって致命的ともいえる事実を秘匿するよう要請するとともにこれを確実にするための一手段にほかならないものであるところ、右申し入れが丸紅側から断られた以上、少なくとも丸紅側に対し、田中に対し五億円を引渡した事実を否定するよう働きかけることは自然のなりゆきと言うべきで、返金申し入れが拒否されたままそれ以上授受の問題についていかに対処するかについて何も話し合われなかったとはとうてい考えることはできない。伊藤は公判廷において、「金はもらわなかったことにしてくれ。」という意味のことを言われたかどうかについて、「そんなはっきりした言葉ではなかったと思う。」「検察官に対しはっきりした言葉は覚えていないと言ったので、そういう記述になったと思うが、私は調書にあるような趣旨で述べたものではないと思う。」などと供述し、その挙句「榎本がそういうことを言ったというのはどうも事実でないと思う。」旨供述しているのであるが、これらの公判廷における供述はそれ自体不明確であるばかりでなく、はっきりした言葉は覚えていないにしてもどのような趣旨の話をしたかについて供述することを避けるとともに、何故前記のような供述調書が作成されたのかにつき納得せしめる合理的説明をしようとしないのであって、とうてい信用できない。また、伊藤は、原審公判廷において、「田中先生に迷惑が及ばないように丸紅で頑張ってくれ。」という趣旨のことは、榎本が言ったというよりも、あのあらしのようなときに五億円の金が田中のところに行ったということが表に出ればどういうことになるか考え、田中に迷惑をかけてはいけないと伊藤自身が思ったことであって、検察官に対しては伊藤の気持を述べただけで榎本からそのように言われたとは述べていないかのごとく供述している。しかしながら取調べの中心は榎本が電話でどのようなことを言ったかであり、そのことと伊藤がどう考えたかの区別ができないわけではなく、供述の趣旨と明らかに異なる調書の内容であればその訂正を求めるべきであるのに、それができなかった特段の理由についてはなんら説明をしていないのであって、この点に関する右伊藤の公判廷における供述も信を置きがたい。なお、伊藤は、返金申し入れ等の電話があった日時につき、検面調書においては二月五日午前中と述べ、公判廷における供述においては、同日午前中榎本から電話があったがその際は、「うちの先生は知っておりましたけどよろしく頼みます。」という程度のもので、返金の話はその数日の間にあったことである旨供述しているところ、この点に関する後記の檜山供述や榎本供述と総合して検討すると、返金申し入れ等の電話があったのは、二月五日ではなくその数日後の出来事であったと認定できる余地がある。しかし、仮にそれが数日後のことであったとしても、事件発覚直後に返金申し入れや授受秘匿の口止め工作が行われた事実に変りはなく、この点の誤認が判決に影響を及ぼすものでないことは明らかである。次にこの点に関する檜山の供述について検討するに、檜山は、検察官に対し昭和五一年八月一三日付(甲再一78)検面調書において「二月五日早朝、米国上院多国籍企業小委員会の公聴会において、ロッキード社のL一〇一一トライスターの売込みに絡んで多額の献金がなされた旨の証言がなされ、これに関連してヒロシ・イトーのサインがあるピーナツ領収証の存在が明らかにされた情報が入り、その日出社後、伊藤から右領収証作成の経緯についての説明があり、二、三日後に行われる同公聴会を傍聴するなど実情調査のため大久保を米国に派遣することを決め、更に、同日夕方予定された伊藤の記者会見にのぞむ方針について報告を受けた。」旨の供述に続いて、「たぶんそのころではなかったかと思いますが、伊藤君が会長室へきて、実は田中先生の方から例のロッキードからの金を返しておこうか(返してもいいよと言ったかもしれない。)と榎本秘書から電話があったがどう言ったらよろしいでしょうか、と言いました。私はその金というのは、例の五億円を指していることはわかりましたが、新聞に出て騒ぎになっている今、その金を返して前から貰わなかったように工作したところでそれがわかったらかえって具合がわるいと思い、今ごろになって返すとか何とかいってもかえって具合が悪くなるし、うちで受取るべきものでもないから、うまく断っておきなさい、と話しました。」と述べている。すなわち、右返金の話は二月五日の出来事として述べているのであるが、他方檜山の七月二三日付検面調書においては、ロッキード問題がわが国の新聞に出た二月五日から一週間前後経ったころの出来事として同旨の供述がなされている。しかして、檜山は公判廷においても、事件発覚当時、伊藤から、田中の秘書から返金の申出があった旨の報告を受けたことがある旨供述し、細部についてはともかく、大筋において右検面供述並びに伊藤の検面供述と同趣旨の供述をしているのであって、田中側からの返金申出に関する檜山の右検面調書は信用することができるとともに、前記伊藤供述の信用性を裏付けるものと言わなければならない。なお、檜山の右検面調書には、二月五日報道されたチャーチ委員会におけるフィンドレー証言をコーチャンの証言として記載されているが、それは単に思い違いをして述べているにすぎず、その証言内容はフィンドレーの証言内容と一致するものであって、事件発覚後の情況説明に誤りは認められず、また関係証拠に照らし考察しても、前記検面調書に、客観的事実に反することや檜山が認識していたはずのないことが記載されているとは認められない。更に、榎本供述について検討するに、同人は、昭和五一年八月一五日付検面調書において、「事件発生後で、第一次国会喚問以前のことですが、五億円を丸紅から受領したことに関し、私は伊藤さんに電話で、この事実はなかったことにしてくれといった趣旨のことをお願いし、伊藤からは、『それは絶対大丈夫です、決して御迷惑をかけるようなことはありませんから御心配なく。』と聞かされていました。伊藤さんのこの態度は最後まで終始一貫変わらなかったところでした。ところが、伊藤さんからはどういう方法でなかったことにしてくれるのか何ら具体的に明確な説明はいただけず、一方私としても伊藤さんに対して絶対大丈夫だとどうして言い切れるのか、どういう方法でなかったことにしていただけるのか、といった失礼な質問をぶつけることもできませんし、何となく本当に大丈夫かなという不安な気持がただよっていたのです。マスコミで報道されるように、私が伊藤さんから受領し田中先生のもとに運んだ五億円がロッキード社から渡ったものであれば、外為法違反といった罪は免れず、それでは田中先生の政治生活にも大変痛手をこうむることになり、私はこれらの不安やおそれから、まことに浅はかな考えではありますが、完全にこの五億円受領の事実を消すにはいっそのこと丸紅に五億円を返してしまったらどんなものか、そうすれば伊藤さんが言う心配はがけない絶対大丈夫という言葉も返金したという事実によって裏付けられるのではないかと考え、その頃目白台の事務所で田中先生に、先生たとえばの話ですが五億円を返した場合にはどうなるんでしょうね、と切り出してみたのです。すると先生は、そういうことが出来るのであれば金はつくっても良いんだよ、先方が何と言うか一ペん聞いてみろ、と言われたので私は早々に伊藤さんに電話し、たとえばお金をつくってお返しする方法はどうでしょうか、と打診してみたことがありました。しかし伊藤さんからは、いまさらそんなことはできないことですよ、と断わられてしまい、田中先生にも私から、そうはいかないようですよ、と申し上げたところ、そうか、どういうふうになっているんだろうな、と申されていました。これで五億円を丸紅に返還するという話はあきらめてしまったのでした。」と具体的、詳細で他の関係者の供述と符合する供述をしており、かつ、その供述中には他の関係者が誰も述べていない田中との相談という事項をも含み、他の関係証拠上認められる事件発覚後の情勢の流れと矛盾するところもなく自然なものであって、右検面調書は十分信用できる。なお、榎本の同年八月三日付検面調書(乙10、甲再一81)には、右返金の申し入れは自分一人の判断で行った旨の供述記載があるが、この段階での供述には、事後工作に田中が積極的にかかわったこと(後記の伊藤との電話、檜山との面談申し入れ。)は触れられていないのであって、右調書中に田中と相談した点が記載されていないからといって、それは真相のすべてを述べていなかったからにほかならず、前記供述の信用性否定の論拠とすることはできない。所論は、榎本の供述は、伊藤供述に合わせるよう押しつけられたものにすぎないというが、前記検面調書には伊藤の検面調書に記載されていない榎本しか供述し得ないことが具体的かつ詳細に記載されており、また、五億円がロッキード社から支出された点の認識がなかったことを前提に供述されていることは伊藤供述と基本的に異なるところであり、榎本としては否定すべき点は否定の態度を貫いていることが認められるのであって、右榎本供述が単に伊藤供述に符合するよう述べられたというものでないことは明らかである。以上検討したごとく、所論はいずれも理由がなく、信用性のある前記供述を総合して検討すると、榎本が田中と相談のうえ伊藤に五億円返金の申し入れをしたり、あるいは、五億円授受を秘匿するように口止めしたことは優に肯認できるのであって、原判決の事実認定に誤りは認められない。

(四) 丸紅関係者に対する第一次国会喚問(昭和五一年二月一七日)の数日前ころ、田中が伊藤に電話した点について、伊藤は同年七月二三日付検面調書において、「二月一〇日頃と思います。いずれにしても二月一七日の国会証言の日から数日前頃であったことは間違いありません。榎本秘書から会社に居る私に電話がかかってきました。榎本秘書が、その後どうですか、などと簡単な挨拶程度のことを言った後、ちょっと待って下さい先生に替わりますから、と私に言い、殆んど間をおかずに、いろいろご苦労をかけているな、とテレビなどで聞き覚えのある田中先生の特徴あるしわがれ声が聞こえてきました。更に、しっかり頑張ってくれよ、と私に念を押すようにそのしわがれ声は言いました。丸紅が嘘の路線を走り出していることを充分承知のうえ、田中先生がこうした言葉を言っているわけですから、しっかり頑張ってくれという言葉は真実を隠ぺいし、しっかり嘘をつき通してくれという趣旨以外にはとりようがありませんでした。私は、はあ、承知しました、と緊張して答えました。田中先生は、更に、檜山君にもよろしく、と言いました。私が判りました伝えておきます、と答えた後すぐ電話はガチャリと切れました。この電話の後、すぐ私は檜山会長に報告しました。」と述べている。右電話の件は、検察官の右取調べの時点において誰も供述しておらず、これをうかがわしめる証拠は一切なく、検察官としては知り得ようのない事柄であって、伊藤の自発的な供述による以外明らかにすることのできなかった事実である。そして、伊藤は原審公判廷においてもこれを認める供述をし、また、榎本も検察官に対し右伊藤供述と符合する供述をしている(田中を守るべき立場にあった者の供述としてその信用性があることは、五億円授受を認める供述の信用性判断において説示したのと同様である。)のであって、田中が伊藤に対し、電話で、伊藤供述のとおり話したことは疑いようのない事実と言うべきである。伊藤は、この点につき、公判廷において、右電話で田中から激励のような言葉をかけられたが、その言葉の一つ一つを具体的に覚えておらず、何を激励する趣旨かまでわからなかったと述べるとともに、検面調書中の「いろいろご苦労をかけているな。」とある点は、検察官といろいろやってみたうえで、そんな言葉であったかなということで調書化されたものであり、「しっかりやってくれ。」という点も、検察官と二人で考えた言葉であるなどとも述べているが、事柄は、自ら体験したことを自発的に述べたその内容にかかわり、検察官が理屈で具体的中身を想定し誘導できる性質のものではなく、また、国会喚問を前にし苦境に立だされていた中で虚偽の弁明をしながら田中の立場を守ろうとしていた当の田中本人からただ一回直接声をかけられたことに関するものであり、しかも逮捕取調べを受けるまで脳裏から離れなかったと思われる事件に関連する重要な事柄であること等に徴すると、たやすく記憶を失ってしまうとは考えがたいのであって、伊藤の公判廷における右弁解は措信できず、前記検面調書の記載内容は伊藤が自己の記憶に基づいて供述したものと認めることができる。そして、その内容は、当時の事件にかかわる情況や伊藤が置かれていた立場と整合するもので不自然な点は見当たらず、具体性を有するもので十分信用することができる。しかして関係証拠によると、丸紅関係者は、事件発覚直後、田中に五億円を渡したことが表に、出れば、田中の政治生命にはかり知れぬ悪影響を及ぼすとともに丸紅の社会的信用が失墜されるおそれが大きいので、右五億円の授受は絶対に認めてはならないとの方針を立てたことが認められ、伊藤も右方針のもとに、記者会見等において、コーチャンが証言したロッキードからの日本政府高官に対する金銭の授受については、丸紅は全く関与も関知もしておらず、クラッターから頼まれてピーナツ・ピーシズ領収証に署名はしたが、金銭の授受を全く伴わないものである旨虚偽の発言を繰り返し、その模様が新聞等で報道されていたのであり、このような情況の中で、国会喚問を前にして、田中自らかかる電話を伊藤にしたことは、伊藤が発言している右のごとき虚偽の方針を今後とも貫き、田中へ五億円が渡ったことを秘匿するよう、同人に圧力をかける以外の目的は考えられない。以七のとおり、この点に関する判示認定に添う伊藤の捜査、公判を通ずる供述及び榎本の検察官に対する供述は十分信用できるのであって、これらの証拠に基づいてした原判決の認定には誤りは認められず、所論は理由がない。

(五) 丸紅関係者に対する第一次国会喚問の前後ころ、榎本が伊藤に電話して、田中と檜山との面談を求めた事実は、伊藤の七月二三日付、檜山の八月一三日付(甲再一78)及び榎本の八月三日付、八月一五日付各検面調書並びに伊藤、檜山の原審公判廷における各供述によって認めることができる。この点に関しては、右各証拠のほか、伊藤の七月一一日付、檜山の七月二三日付各検面調書が存するが(内容はそれぞれ前記調書と同趣旨のものである。)、これらの各検面調書の内容は具体的かつ詳細で、当時の事件をめぐみ情況の流れと整合し不自然と思われる点は見当たらない。そして、伊藤が取調べを受けた当時、この点についてはいまだ誰も供述しておらず、検察官としてはこれを知る手がかりは何もなく、右事実は伊藤の供述によって初めて明らかになった事柄であり、また、檜山の検面調書には伊藤の供述中に存在しない伊藤・檜山間の問答(面談を求めている主体が榎本ではなく田中本人であることの経緯について。)が具体的かつ詳細に述べられており、更に、榎本の供述調書には右両名の調書に存在しない面談申し入れに関する榎本と田中とのやりとりについての記載があるなど、これら関係者の供述が任意自発的になされたことをうかがわしめる情況が存し、かつ、これらの供述は大筋において符合し、伊藤と檜山は公判廷においてもその基本的事実を認めているのであって、これらの事情に照らして考察すると、右各供述証拠は十分措信できる。所論は、榎本の八月三日付検面調書中に、伊藤と二人で田中、檜山の面談をお膳立てしようとした旨の記載があることに関連し、榎本は五億円授受の経緯や田中と檜山が面談して右五億円のことについて話したということを知らないのであるから、榎本が田中と檜山の面談をお膳立てをするはずがないというのであるが、榎本がこれらの点を承知していたことは前記のとおりであるから、所論は立論の前提を欠く(なお、榎本の前記二通の検面調書を対比して検討すると、八月三日の取調べの時点では、榎本は右申し入れに田中がかかわっていることを伏せて供述しているが、八月一五日の取調べにおいて、これが田中の希望によるものと訂正していると解せられる。)。また、所論は、前記証拠から面談を求めた趣旨が激励と金銭授受否認の方針を確認するためであるとの原判示事実を認定することはできない旨主張するが、その趣旨が本件とかかわりのない他の用件であったことをうかがわせる資料は何もなく、前記のとおりの情況の中で、榎本をして伊藤に電話させ檜山との面談を求めることは、当時檜山ら丸紅関係者が虚偽の見解を表明して五億円の授受を秘匿すべく努力しているのをみて、その労をねぎらうとともに、さらに今後ともその方針を貫くよう圧力をかけようとしたものというほか考えようがないのであって、この点の所論も理由がない。

(六) その他、事件発覚後伊藤が逮捕されるまでの間、榎本と伊藤が相互に電話しあるいは二回面談して情報交換や情況の進展を確認するなどした点については、伊藤(七月二三日付検面調書、原審第九四回公判期日における供述)も榎本(八月三日付〔乙10、甲再一81〕、八月一五日付検面調書)もこれを認めているところである。そして伊藤は、右検面調書において、この間榎本から「うちの先生の意向は充分檜山さんに伝えてもらってありますね。」「あなた方が頑張っている限り大丈夫ですよ。」「証拠となるような書類は残っておらんでしょうな。」などという趣旨のことを言われ、金銭授受の事実を秘匿するよう念を押された旨供述し、原判決もこれを証拠として前記のとおりその旨の事実を認定している。しかるところ、所論は、右伊藤供述の信用性を争い、伊藤も原審公判廷においては榎本が右のようなことは言っておらず、右調書は検察官が伊藤の供述によらず勝手に作文したものであると供述しているが、右検面調書は、伊藤が、その余の点(五億円の返金申し入れ、田中からの伊藤への電話、檜山との面談要請等。これらの点についての供述が信用できることは前記のとおりである。)を含むその記載内容を承知し、かつ、それが間違いないことを認めて署名指印しているものであり、右弁解はそれ自体不自然不合理なものでにわかに措信できないばかりでなく、前記の供述内容は他の証拠上認められる事件をとりまく客観的情況と矛盾するなどの不自然な点を含むものでなく、檜山の八月一三日付検面調書や榎本の前記検面調書には右伊藤供述と符合する部分があり、これによってもその真実性が補強されているのであって、その信用性を肯認できる。伊藤が、雑誌「選択」に「丸紅シロ説の周辺」という記事が掲載されていることを榎本に知らせた事実は認められるものの、それは所論がいうように、事件の真相との関連においてのものではなく、ただこういう記事がありますよという趣旨で知らせたにすぎないものであることは伊藤の原審第一〇九回公判期日における供述によって明らかである。また、関係証拠によると、原判示のとおり、事件発覚後、伊藤が、松岡運転車に関する自動車行動表中のロッキード・丸紅間の五億円授受に関する運行部分の改ざんを含め、多くの証拠をいん滅したことが明らかであるところ、右自動車行動表中、榎本に対する五億円の引渡しに関する部分を改ざんしなかったのは、右行動表を見てみてもそれとわかる状況がなかったからにほかならず、この点について伊藤は捜査、公判を通じ一貫してその旨供述しており、伊藤が右部分を改ざんせず残した理由を説明していないという所論の事実認識は誤っている。そして、改ざんしなかった理由が右のとおりであれば、榎本から「証拠となるような書類は残っておらんでしょうな。」と念を押されながら右部分を改ざんしなかったことが矛盾を含み不自然であるとは言えないのであって、所論は独自の見解を前提とするもので採用できない。

(七) 以上説示したところを総合すると、原判決が、事件発覚後の事後状況に関する檜山、伊藤、榎本の各検面調書及び公判廷における各供述の信用性につき、所論<1>指摘のとおり判示しているその判断に誤りがないことは明らかであり、右事後状況に関する原判決の事実認定に誤りはなく、これを論難する所論はすべて理由がない。

第四  榎本アリバイに関する事実誤認の論旨について

所論は、要するに、榎本は、昭和四八年八月一〇日午後二時二〇分ころは衆議院内に、同年一〇月一二日午後二時二五分ころは内閣総理大臣官邸(以下、単に「官邸」ともいう。)に、同四九年一月二一日午後四時一五分ころから同四時四五分ころまでの間は砂防会館内の田中事務所に(以下、単に「砂防会館」という。)、同年三月一日午前八時ころから同八時三〇分ころまでの間は自宅から目白の田中事務所に赴く途中の清水孝士運転の内閣総理大臣秘書官専用車(以下、単に「清水車」という。)に乗車し、右事務所に到着後は同所に居たのであって、原判決が五億円の授受の日時と認定した各時間帯には授受の場所と認定した場所に居なかった旨主張し、右アリバイについては十分立証が尽くされているのに原判決がその成立を認めなかったのは立証責任に関する解釈を誤りかつ証拠の取捨選択並びにその評価を誤った結果事実を誤認したことによるもので、これが判決に影響を及ぼすことが明らかであるというのであり、かつ、各アリバイについて以下のとおり主張している。すなわち、<1>〔第一回目の授受に関するアリバイについて〕榎本が内閣総理大臣秘書官として在任していた間同秘書官専用車の運転手として同車の運転に従事していた総理府技官清水孝士は、右自動車の運行先や首相官邸出入時刻等を大学ノートに記帳していたところ(以下、これを「清水ノート」という。)、右清水ノートの昭和四八年八月一〇日欄には、「一二時〇五分(官邸を出発した時刻を表す。以下同じ。)~砂防会館~院内~ホテルオータニ~院内~二時四〇分(官邸に帰着した時刻を表す。以下同じ。)」という記載があり、榎本は右運行のすべてに乗車していた。当時、国会が混乱し審議がストップしていたが、当日午後二時ごろ前尾衆議院議長の収拾案が各党に提示される予定であったところから、榎本は政務担当の秘書官としてその状況を把握し必要とあれば関係者に伝える必要上、情報収集のため午後一時五〇分ころ院内(清水ノートの二度目の院内の記載に当たる。)に到着した。榎本は、自民党幹事長室、平河クラブ、官房長官室、内閣総理大臣秘書官室、官邸記者室等に赴き、収拾案に対する与・野党の対応につき情報を収集し、各党とも右収拾案を受入れ国会審議が軌道にのる見通しを得たので、午後二時三五分ごろ院内を出て午後二時四〇分官邸に戻ったが、この間院内で毛利松平議員(自民党副幹事長)及び山下元利議員(内閣官房副長官)と会い、また、官邸に戻った後後藤田正晴内閣官房副長官に右の情況を報告した。そして、右榎本の行動については、院内に赴く前ホテルニューオータニにおいて内閣総理大臣と名古屋財界人との懇談会につき打合わせをした点を含め、原審証人清水孝士、同毛利松平、同山下元利、同後藤田正晴、同斎藤清志らの各証言及び榎本の公判廷における供述その他の関係証拠によって十分に立証が尽くされている。しかして、これらの立証により、榎本のアリバイは証明され、少なくとも昭和四八年八月一〇日午後二時二〇分ころ英国大使館裏路上で現金授受が行われたと言う伊藤、松岡、笠原、榎本ら関係者の供述の信用性及び松岡の自動車行動表の証明力に疑念を抱かせるとともに右授受の真実性に合理的疑いを生ぜしめ、したがって犯罪事実の証明がなされていないと判断されるべきであるのに、アリバイ立証に関する各証拠の証明力ないし信用性をことごとく排斥し、授受の真実性に合理的疑いを生ぜしめないとした原判決の判断には、証拠の取拾選択並びにその評価を誤り事実を誤認した違法がある。<2>〔第二回目の授受に関するアリバイについて〕清水ノートの昭和四八年一〇月一二日欄には、「午後二時一〇分官邸発~砂防会館~官邸着同二時二五分、同三時三五分官邸発~砂防会館~官邸着同三時五〇分」という記載があり、榎本は右運行のすべてに乗車していた。榎本が砂防会館に行ったのは、一回目は竹内青森県知事、小畑秋田県知事が日本海新幹線の建設につき陳情するため同日午後官邸に来訪することになっていたので、これに備え資料を取りに行ったのであり、二回目は翌日行われる田中総理の山形県遊説の日程案を取りに行ったもので、この間の午後二時二五分から同三時三五分まで榎本は内閣総理大臣行動日程一覧表にあるとおり官邸を訪れた植村経団連会長、竹内知事、岸元総理大臣、鈴本九平、小畑知事らの接遇に当たったのである。そして、右榎本の行動については、原審証人清水孝士、同松平悌二郎、同小畑伸一、同小安英峯らの各証言及び榎本の公判廷における供述のほか関係証拠によって十分に立証が尽くされている。しかして、これらの立証により榎本のアリバイは証明され、少なくとも昭和四八年一〇月一二日午後二時二五分ころ、富士見一丁目一〇番付近路上(九段高校向いの電話ボックス付近路上)で第二回目の現金授受が行われたと言う伊藤、松岡、笠原、榎本ら関係者の供述の信用性及び松岡の自動車行動表の証明力に疑念を抱かせるとともに右授受の真実性に合理的疑いを生ぜしめ、したがって、犯罪事実の証明がなされていないと判断されるべきであるのに、右アリバイ立証に関する各証拠の証明力ないし信用性をことごとく排斥し、右授受の真実性に合理的疑いを生ぜしめないとした原判決の判断には前同様の事実誤認がある。<3>〔第三回目の授受に関するアリバイについて〕清水ノートの昭和四九年一月二一日欄には、「午後四時〇五分官邸発~砂防会館~官邸着同四時四〇分、同四時四五分官邸発~参議員会館~官邸着同六時一〇分」という記載があり、榎本は右運行のすべてに乗車していた。榎本は午後四時五分官邸を出て砂防会館に赴き、同所で自民党本部の兼田喜夫選挙部長から翌日予定されていた田中の参議院議員香川地方区補欠選挙応援遊説に関するレクチャーを受け、同四時四〇分官邸に戻った。また、榎本が午後四時四五分官邸を出て参議院議員会館に行ったのは、その日が国会の召集日で地方在住の参議院議員が上京していたので、この機会に関係議員と選挙情勢につき打合わせをするためであり、午後六時一〇分官邸に戻るまでの間、右議員会館において新谷寅三郎、園田清充、高田浩運、塩見俊二の各議員と面会していたのである。これらの榎本の行動は清水孝士、小安英峯の各証言及び榎本の公判廷における供述その他新谷寅三郎の日程表等の関係証拠により十分立証が尽くされている。しかして、これらの立証により榎本のアリバイは証明され、少なくとも昭和四九年一月二一日午後四時一五分ころから同四時四五分ころまでの間の時刻にホテルオークラの駐事場で現金授受が行われたと言う伊藤、松岡、笠原、榎本ら関係者の供述の信用性及び松岡の自動車行動表の証明力に疑念を抱かせるとともに右授受の真実性に合理的疑いを生ぜしめ、したがって犯罪事実の証明がないと判断されるべきであるのに、アリバイ立証に関する各証拠の証明力ないし信用性をことごとく排斥し、右授受の真実性に合理的疑いを生ぜしめないとした原判決の判断には、前同様の事実誤認がある。<4>〔第四回目の授受に関するアリバイについて〕清水ノートの昭和四九年三月一日欄には、「午前七時一五分官邸発~上中里~総理私邸~官邸着同九時四五分」という記載があり、また清水運転手が榎本から指定された迎えの時刻を記帳していた手帳(以下「清水手帳」という。)の同日欄に「午前七時四五分」という記載があるところ、榎本は、自宅に迎えに来た清水車を少し待たせたうえ午前七時五五分ころ同車で自宅を出発し、目白の田中事務所に着いたのは同八時一五分ころであり、その後同九時五分ないし一〇分ころ同事務所を出発するまでの間、同事務所において竹中修一議員や山崎竜男議員らと面談していたのである。そして右榎本の行動については、原審証人清水孝士、同山崎竜男、同竹中修一、同千葉元江の各証言及び榎本の公判廷における供述のほか、山崎竜男の参議院手帳の記載、竹中修一の手帳、渡辺医師の治療記録等の関係証拠によって十分に立証が尽くされている。しかして、これらの立証により、榎本のアリバイは証明され、少なくとも昭和四九年三月一日午前八時から同八時三〇分までの間に伊藤の自宅で第四回目の現金授受が行われたと言う伊藤、笠原、榎本ら関係者の供述の信用性及びこれに関連する松岡供述の信用性並びに松岡の自動車行動表の証明力に疑念を抱かせるとともに右授受の真実性に合理的疑いを生ぜしめ、したがって犯罪事実の証明がないと判断されるべきであるのに、アリバイ立証に関する各証拠の証明力ないし信用性をことごとく排斥し、右授受の真実性に合理的疑いを生ぜしめないとした原判決の判断には前同様の事実誤認がある。以上のとおり主張している。

一  清水ノートの証拠価値について

榎本アリバイは、榎本が内閣総理大臣秘書官在任中使用していた専用車の運転手清水孝士が、同車を運転したつど、官邸を出発した時刻(五分毎の単位で記載されている。以下同じ。)、官邸に帰着した時刻、運行先等を丹念に記帳していた清水ノートを基礎資料とし、榎本が清水ノートに記載されているとおりそのすべての運行に順次乗車し、その運行どおり行動していたことを立論の前提として主張されている。すなわち、清水ノートに記録されている各運行に際し、榎本は、その全運行過程を通して乗車し、官邸出発後各運行先でそれぞれ所用を済ませたうえ再び清水車に乗り官邸に帰ったのであり、各運行先で清水車に乗込む前はいずれもその運行先に居て所用の処理等に当たっていたというのである。しかして、原判決は、右清水ノートには清水車の運行状況が正確に記載されていることを認めたうえ、さまざまの角度から検討を加え、同ノートに記載されている運行中には榎本が乗車していない場合が多数存し、清水ノートはあくまで、車の運行状況を表しているだけでそれがすべて榎本の行動と一致するものではないから、同ノートは榎本のアリバイを証明する証拠価値としては十分でなく、その記載は伊藤・榎本間の五億円授受に関する前記の事実認定と抵触するものではない旨判示して右アリバイの成立を否定している。所論は、これに関する原判決の証拠判断を論難しているところ、榎本アリバイの成否に関する判断には清水ノートの証拠価値についての検討が不可欠と考えられるのでまずこの点を検討する。関係証拠によると、清水ノートに記載されている終業時刻(それはおおむね最終運行の官邸帰着時刻として記載されていることが多い。)が、実際に勤務した終業時刻に午前八時四五分より早く出勤した時間を加算した時刻を表している(ただし、通常勤務の終了時刻平日午後四時四五分、土曜日午後〇時三〇分を超えて勤務した場合に限られている。)点その他一部書き誤りがある点を除き、清水ノートは清水車の運行状況を正確に記録していることが認められ、清水車の運行状況が右記載と異なることをうかがわしめる証拠は存しない。したがって、清水車の運行状況に関する限り右ノートはその正確な記録というべきである。しかしながら、関係証拠によると、右ノートに記載されている運行のすべてに榎本が乗車していたとは認められないので以下榎本が乗車していなかった事例について検討する。

(一) 清水ノートと清水手帳を対照し、同ノートに記載されている運行中榎本が乗車していないことが判明する事例

清水孝士は、清水ノートのほかに榎本から指示された毎日の迎えの時刻、自宅以外の迎えの場所、最終運行に際し榎本を最後に車から降ろし同人と別れた場所、その他自己又は榎本の休暇、欠勤の状況等清水車の運行に関連する事項を清水手帳に記録しているところ、榎本が休んだ日に清水車が運行している場合、榎本が清水車から降りたのち更に清水車が官邸以外の場所に運行したり一旦官邸に帰ったのち更に運行している場合、あるいは榎本から指定された迎えの時間より前に清水車が運行している場合等には、これらの運行に際し榎本が乗車していなかったことになるのはみやすい道理である。かかる観点からノートと手帳を対照し原審における清水孝士の証言及び榎本の供述を加えて考察すると、清水ノートに記載されている運行中榎本が乗車していないと認められる運行が二〇例(<1>昭和四七年八月二五日<2>同年九月九日<3>同月二七日<4>同年一一月二一日<5>同四八年一月二〇日<6>同年二月二二日<7>同月二三日<8>同年七月三一日<9>同年一〇月二五日<10>同年一二月二一日<11>同月二五日<12>同四九年一月一一日<13>同月一七日<14>同年三月一日<15>同月二七日<16>同年六月七日<17>同月一八日<18>同月二一日<19>同月二六日<20>同年一一月二八日)あることが認められ、その詳細は原判決が判示しているとおりである(原判決五二一頁から五三二頁参照)。右事例中<1>、<2>、<3>、<4>、<12>、<13>、<16>、<20>の八例は、いずれも榎本が清水車から降りた後同人から荷物を同人宅に届けるよう指示され、ノート上、降車場所から上中里の榎本方へ運行したうえ官邸へ帰着したように記載されているか、一旦官邸へ帰ったのち更に官邸と榎本方を往復したように記載されているものであるが、<5>、<6>、<7>、<9>、<11>、<14>、<15>、<17>、<18>の九例は、いずれも榎本が降車した後、他の場所へ榎本以外の者を乗せ又は空車のまま運行している事例、<8>、<10>の二例は榎本が欠勤し清水車を使用していないのに清水車が運行している事例、そして<19>は旅行先から帰京する榎本を羽田空港に迎えに行く前に榎本以外の者を乗せて運行した事例である。これらの運行事例には榎本以外の者が乗車した場合であっても清水ノートにはその旨の記載がなく(したがって榎本以外の者を乗せた場合には常にノートにその旨の記載をしていたと言う清水の証言が信用できないことは明らかである。)、外観上、記載されている運行に榎本が乗車していたのかいなかったのか判別できず、清水手帳の記載と対照することによってはじめて同人が乗車していないことが明らかになったものであり、このことは、清水ノートに記載されている運行中には、右事例以外にも榎本が乗車していない事例が存することをうかがわしめるものというべきである。

(二) 運行先で榎本を降ろし一旦空車で官邸に帰って待機したうえ榎本の指示で再び同人を迎えに行った事例、あるいは、運行先で榎本を降ろし一旦空車で官邸に帰って待機中迎えが不要となって待機流れになった事例

清水ノート中には、最終運行(出邸の時刻及び帰邸の時刻の記載がある。)の後に更に「待機」という記載と終業時刻が記載されている事例(例えば、昭和四七年七月八日土曜日の分について、最終運行として「官邸発午後二時三〇分~第一議員会館~砂防会館~同三時官邸帰着」という記載があり、その後に「待機」という記載と終業時刻を表す「午後六時三〇分」という記載がある。)があり、このような事例においては、清水手帳には榎本を最後に降ろして同人と別れた場所の記載がなく単に待機という記載がなされている。この清水ノートに記載されている待機の意味について、清水は、榎本が出張等で旅行するようなとき同人を羽田空港や東京駅等に送り、官邸に帰ったのち車を動かさず官邸に詰めていた場合に最終運行の後に待機と記載し、おおむね通常の勤務時間終了時に退庁していた(この場合清水手帳には榎本を降ろした最後の場所羽田、東京駅などと記載し待機とは書いていない。勤務時間を超えて待機している事例は官邸の秘書官室からの指示に従って待機していたと思われる。)が、そのほかに、ノートに記載されている最終運行ののち榎本から命ぜられて待機した場合も同様待機と記載しており、この場合、待機していたものの結局不要となり車を動かさないまま待機が解除される(待機流れ)ことがあり、このような場合には待機解除の時間まで勤務したことになるから、通常の勤務時間を超えて勤務したときは朝早出した分の時間を加算して終業の時刻をノートに記録し、かつ手帳には榎本を降ろした最終の場所は記載せず待機と記載した旨、そして待機中に榎本から指示され更に運行した場合にはその運行をノートに記載し待機という記載はしていない(この場合手帳には榎本を最後に降ろし別れた場所を記載している。)と述べている。ところで、榎本は、官邸から自宅に帰る場合や官邸を出てどこかの宴会場に出かけそのまま官邸に戻らない場合に、清水車があるときは通常同車を使用し、清水車があるのにタクシーを使うとか歩いて帰るとかまた官邸の他の自動車に同乗するというようなことはなかったと述べており、清水は、榎本から命ぜられ勤務時間を超えて待機しているうちに待機解除となった記載例の場合は、榎本を最終運行の最後の行先で降ろし清水車だけ官邸に戻り(したがって最後の行先から官邸に戻る運行には榎本を乗せていないことになる。)榎本の指示があるまで待機していた可能性が強いと述べている。これを清水ノートの記載例に即して検討してみるに、昭和四八年七月四日水曜日の最終運行として、「午後五時一〇分官邸発~永田町~官邸帰着同五時二五分」という記載があるほか、その後に「待キ」、そして終業時刻「同八時三〇分」と記載されている(なお右ノートの記載から朝早出分は一時間三〇分であるからこれを差し引くと実際に清水が勤務を終えた時刻は午後七時ということになる。)。そして清水手帳の同日分に「ヒョウテイ(待キ)」と記載されていることと対比すると、この日清水は榎本を乗せて午後五時一〇分官邸を出発し、同人を永田町の瓢亭に送り同所で降ろしたのち同五時二五分官邸に戻り榎本の指示で待機していたが、その後待機不要となり同七時退庁したことが認められるのである。右の例にみられるとおり、清水ノートの記載自体からは永田町~官邸間の運行に榎本が乗車していないことがわからないが、同ノートの待機という記載を手がかりにして清水手帳と対照すると、同ノートに待機と記載されている事例の右運行部分に同人が乗車していないことが明らかになるのである。そして、このような事実に、前記榎本及び清水の供述のほか榎本が清水に待機を命じたのち榎本が官邸に残っているのに右待機を解除して清水を先に退庁せしめたことをうかがわせる証拠がないこと(そのようなことがあれば当然同人らがその旨の供述をすると考えられるのにかかる供述はない。)を併せ考えると、休暇、出張等榎本不在の場合の待機の例を除き、最終運行の後に待機及び終業時刻の記載がある事例においては最終運行の最後の行先で榎本を降ろし同所から官邸に戻る運行には同人が乗車していなかったと推認できる。かかる観点から清水ノートと清水手帳の各記載を清水及び榎本の各供述を参酌して検討すると、右類型に該当し榎本が乗車していないと認められる運行が二五例(昭和四七年七月八日、昭和四八年二月一〇日、同年三月一七日、同年四月一四日、同年五月一九日、同年六月一八日、同年七月四日、同月二三日、同年一〇月一一日、同年一一月九日、同年一二月一〇日、同月二〇日、昭和四九年一月一九日、同年二月二三日、同年四月一八日、同年五月二五日、同年七月二日、同月一八日、同月一九日、同月二四日、同年八月一二日、同月一五日、同年一一月一日、同月一六日、同年一二月五日)認められ、その最後の運行先は砂防会館(一〇例)、第一議員会館(一例)、銀座(一例)、自民党本部(三例)、永田町(一例)、上中里(榎本の自宅一例)、渋谷(一例)、市ケ谷(一例)、総理私邸(一例)、有楽町(二例)、丸の内(一例)、ホテルオータニ(二例)等となっている。右のほか、清水ノートに待機の記載がないけれども、清水手帳に待機の記載があり清水及び榎本の供述などの関係証拠から右と同様待機流れとなった類似の事例として、昭和四八年二月三日(清水ノートの最後の運行先が青山と記載され、清水手帳に待機と記載されている事例で、右は森山欽司議員の子供の葬儀のため青山まで送り、清水車のみ官邸に戻り待機中解除となったもの。)、昭和四九年二月四日(清水ノートの最後の運行先が青山と記載され清水手帳に待機と記載されている事例で、右は青山の料理屋に榎本を送り一旦清水車のみ官邸に戻り再度同所に迎えに行ったが榎本が乗車せず再び官邸に戻って待機中待機流れになったもの。)がある。ところで、清水は、原審第一二七回公判期日において、榎本を運行先で降ろし一旦清水車だけ官邸に戻り電話連絡を受けてまた迎えに行くということが全くなかったわけではないが、榎本は駐車場等車を止める場所がないときを除き車を離すことはなく、砂防会館や院内など駐車場があるところではそのままそこで待っていたのであって、砂防会館に送った場合に時間が長くなるから帰ってくれとか、帰る時間を連絡するから一旦官邸に帰るよう言われたことはなかったと思う旨供述し、また榎本も、原審第一五〇回公判期日において、砂防会館内の田中事務所における執務は同人にとっては官邸における執務と同じであって、同所で執務しているときは用事があるときいつでもすぐ動けるよう清水車をいつも同所に待機させ車のみ官邸に帰したことはなかった旨供述している。しかして、清水は、その後第一四二回公判期日において、前記清水ノートや清水手帳に待機という記載があることに関連し、前記のとおり、最終運行の最後の行先で榎本を降ろし一旦車のみ官邸に戻って待機し、その後迎えに来る必要がないとの連絡があり待機流れになって退庁した場合に待機と記載した旨供述しながら、清水ノートの昭和四七年七月八日の最終運行「午後二時三〇分官邸発~第一議員会館~砂防会館~官邸帰着同三時」の後に「待機」終業時刻「午後六時三〇分」と記載され、そして清水手帳にも「待機」と記載されていることについて、右記載から榎本を砂防会館に送って同所で降ろし車のみ官邸に戻って待機したのかあるいは榎本を乗せて官邸に戻ったのかどちらの可能性もあり、榎本が官邸に戻っていたとするならば、同人は官邸からハイヤーか何かで帰ったのではないかと思う旨供述している。しかしながら、清水が同時に榎本が官邸からハイヤーか何かで帰るということはちょいちょいはなかったと思うとも述べていることや、清水の都合で榎本がハイヤーを使用しなければならなくなった場合には清水手帳に「車庫旅行の為一一時より公和」(昭和四八年四月七日、なお「公和」というのは官邸指定のハイヤー会社の名称である。)、「公和トコウタイ待キ」(同年四月一四日)、「麹町(公和)」(同年七月七日)、「用有り公和」(昭和四九年三月一八日)などと記載していることに徴すると(なお右四月一四日分の記載は待機中清水の所用のため公和のハイヤーと交代したことを示しているものと解される。)、右記載以外に清水の都合で榎本がハイヤーを使用したとは認めがたく、また榎本も、原審第一五二回公判期日において、前記のとおり、官邸から自宅に帰ったりあるいは官邸を出て宴会場等に行きそのまま官邸に戻らない場合に、清水車があるのに同車を使用せず、タクシーを使って帰ったり歩いて帰ったりあるいは官邸の他の車に同乗したりしたことはなかった旨供述していること並びに最後の運行先が砂防会館以外の場所になっている前記の待機事例をも併せて検討すると、榎本が官邸に戻り清水車を待機させていたのにこれを使用しなかったとは考えられず、前記事例中最後の行先が砂防会館になっている運行の場合に榎本が同車に乗って官邸に戻っていた可能性もある旨の前記清水供述は信用しがたい。そして、清水は前記昭和四七年七月八日、昭和四八年五月一九日、同年一一月九日、同年一二月一〇日、昭和四九年四月一八日、同年八月一五日、同年一二月五日分の清水ノート及び清水手帳の記載を検討し、結局これらの事例は榎本を砂防会館に送って同所で降ろし清水車だけが官邸に戻って待機していた可能性が強いことを認めており、榎本もまた昭和四九年一月一九日(最後の行先は渋谷)、同年七月一八日(同有楽町)、同年一一月一六日(同ホテルオータニ)分の清水ノート、清水手帳の記載を検討し、これらの事例は具体的な記憶はないがいずれも右各運行先に行き清水車のみを官邸に戻して待機させそののち待機不要として解除した事例と推測され、これらの行先から榎本が清水車で官邸に帰ったうえノート記載の清水の終業時刻(ただし、朝早出分を差し引いた時刻)まで官邸にいながら清水車を使わず徒歩なりタクシーを使って帰ったという推測はむずかしい旨述べるとともに、昭和四八年七月二三日月曜日の最終運行「午後六時五分官邸発~砂防会館~官邸帰着同六時二〇分」「待機」終業時刻「同一一時」(朝早出分差し引き同九時三〇分となる。)という清水ノートの記載及び清水手帳の待機という記載を検討し、右事例も結論的に右の事例と同様の待機流れにしたものと推測される旨供述しているのである。これらの検討結果にかんがみると、前記の事例のうち最後の運行先が砂防会館と記載されている事例も、他の事例と同様、榎本が砂防会館で降車し清水車のみ官邸に戻って待機していた事例ということができるのである。次に、清水及び榎本の供述その他関係証拠によると、以上説示した清水ノート及び清水手帳に待機と記載されている前記事例のほかにも、最終運行に限らず運行全般について、榎本を運行先に送り届け一旦清水車のみ官邸に戻って待機し、連絡を受けて榎本を迎えに行った運行事例がかなり存し、このような事例の場合にはノートや手帳に待機という記載はなされていないことが認められる。そして清水の供述によると、前記のような待機流れになる事例よりも待機中再び榎本を迎えに行き同人を乗せて更に運行した事例の方がむしろ多いことがうかがわれることに徴すると、清水ノートに記載されている運行中榎本が乗車していない事例は更に多くなる。このような事例として榎本は小料理屋等に行った場合、榎本が通っていた渋谷南平台の真向法修錬道場に行った場合(真向法修錬日誌によると秘書官在任中一一回ある。)有楽町の床屋に行った場合など運行先に駐車場がない場合の運行事例、駐車場があっても有料であったり駐車場に入れるより官邸に戻った方が早い場合(例えば赤坂東急ホテル)、その他公用車を駐車するのが適当でないと思われる場合(例えば東雲カントリークラブ)の運行事例等を自ら挙げているが、関係証拠によると、右事例の外にも昭和四八年三月一七日の「午前一〇時一五分官邸発~市ケ谷~グランドパレス~官邸帰着同一一時一五分」、「午後一時二〇分官邸発~グランドパレス~銀座~官邸帰着同二時三五分」という記載に表われているホテルグランドパレスの例があり清水ノートの記載を検討するとこの類型に属する運行事例も少なからず存するものと推認できるのであって、このことは行先が砂防会館となっている運行についても例外であり得ない。

(三) 官邸職員が使用した事例

清水ノートを検討すると、清水車に榎本以外の人を乗車させこれをノートに記載した事例としては、昭和四七年一〇月二六日(銀座及び赤坂に運行した二例でいずれも客と表示。)、昭和四八年一一月一九日(官邸職員桜川博三、同大塚和子を乗車させて運行した二例でいずれも桜川、大塚と表示。)、同年一二月一九日(官邸職員松平悌二郎を乗車させて運行した二例でいずれも松平と表示。)、昭和四九年六月三日(銀座に運行した一例で客と表示。)、同年八月六日(砂防会館田中事務所の工藤秘書を乗車させて運行した一例で工藤と表示。)の五日分がある。しかしながら、右事例のほかにも榎本以外の人を乗車させて運行した事例があることは先に指摘したとおりであるが、関係証拠によるとそのほかにも官邸職員を乗車させて運行しながら清水ノートや清水手帳にその旨の記載をしなかった事例のあることが認められる。すなわち、内閣総理大臣官邸事務所秘書担当所長補佐であった松平悌二郎は、榎本が内閣総理大臣秘書官在任中清水車に乗せてもらったことがある旨供述し、右松平のもとで勤務していた桜川博三は、田中が内閣総理大臣在任中その日程を砂防会館の田中事務所の田中利男秘書に届けるのを日課とし、右日程を届ける際は常に秘書官専用車を使用していたが、清水運転手と親しくなり清水本人であると識別することができるようになった昭和四八年一〇月ころから同四九年三月ころまでの約半年間に清水車を四、五回使用した確かな記憶があり、それ以前の昭和四七年七月から同四八年九月までの間は清水運転手であるとの識別がつかず、したがって同人運転の車に乗ったという具体的な記憶はないもののこの間においても清水車を使用したことがあったと思う旨供述し、更に、官邸の車庫長であった金田治平は、清水と金田の両名が共に所用があったとき、月一回程度の割合で合計約三〇回位、秘書官室から五分程度使いに行くことの承諾を得て総理府内の売店、食堂、床屋、医務室、参議院内のそば屋等に行く際清水車に乗せてもらったことがある旨供述しているのであって、これらの供述によると、清水ノートに使用者の名前等が記載されている事例のほかにも官邸職員を乗せて運行した事例のあることが認められ(もっとも、金田の供述に相応する官邸と総理府間を短時間内に往復した運行記載が清水ノート上に見当たらないことに徴すると清水は右のような目的の短時間の運行はノートに記載していなかったものと認められる。)、このような事実に照らして考えると官邸職員を乗車させて運行しそれを清水ノートに記載しながら使用者の氏名等を明記しなかった事例の存することがうかがわれ、これらの運行事例は榎本が乗車していなかった事例となる。

(四) その他、榎本が乗車していなかったと認められる事例

関係証拠によると、以上のほか、<1>昭和四八年一月一六日上中里の榎本方に迎えに行った際、同人が当日文京区湯島所在の東京医科歯科大学付属病院で出産した妻のもとに赴いていたので同所に回送した「上中里~御茶ノ水」なる清水ノート記載の運行、<2>昭和四八年一月一七日清水運転手が運転免許証更新のため鮫洲に赴いた「官邸~鮫洲」間往復の清水ノート記載の運行、<3>昭和四九年六月一一日「官邸~麹町」間往復の清水ノート記載の運行(同月一〇日榎本を羽田に送り、翌一一日の清水手帳には単に待機と記載されているだけで榎本を迎えに行く時刻の記載がなく、また清水ノートにも一一日に榎本を迎えに行ったことをうかがわしめる記載がないので右運行には榎本は乗車していなかったと認められる。)、<4>日時は不明であるが、清水車が田中の私邸から官邸に戻る途中スピード違反で検挙された際の「総理私邸~官邸」間の運行(その際榎本は他の車に乗っていた。)には榎本が乗車していなかったことが認められ、これらの運行は清水ノートに記載されていながら榎本が乗車していなかった事例である。

(五) 以上の検討結果から明らかなとおり、清水ノートに記載されている運行中には、榎本が乗車せず榎本以外の人を乗車させて運行した事例や誰も乗せずに空車で運行したと認められる事例が多数存するのであって、同ノートは清水車の運行状況に関する限りにおいては正確な記録であっても榎本の行動をすべて正確に表示していると言うことはできない。したがって、清水が当初証言しているように、清水ノートに記載があるからその運行に榎本が乗っていたと断定することはできないのである。もっとも、清水車は榎本の専用車であったのであるから、前記検討の結果榎本が乗車していないことが明らかになった事例を除くその余の運行については榎本が乗車していた可能性が強く、一応同人が乗車していたと推定すべきものと考えられるが、右推定は榎本が乗車していない運行事例が多数存する前記諸事情にかんがみるとそれほど強いものと評価することはできず、関係証拠から同人が同車に乗車していたことと抵触する事実が証明された場合には容易に覆る程度のものといわなければならない。なお、所論は、榎本が清水車に乗車していなかった事例として原判決が列挙しているのはそのほとんどが最終運行であり、榎本が料亭、空港、駅などで車から降りたのち清水車が空車で走行するのは当然のことで、これをとりあげてあげつらうほどのものではなく、これらの事例があるからといって清水ノートが榎本の行動を裏付ける有力な証拠であるその価値にいささかも影響を及ぼすものではない旨論難しているのであるが、原判決を精読すると明らかなとおり、原判決が指摘している事例は、清水ノートと清水手帳の対照により榎本が乗車していないことが明白となった所論指摘の最終運行の事例に限られているわけではなく、右ノートと手帳の対照分析を中心に、清水や榎本の供述及びその他の関係証拠を加えて検討した結果、より広い範囲にわたって榎本が乗車していない事例のあることが明らかになった旨認定説示しているのであって、その判断に誤りがないことは、前記の当裁判所の検討結果からも認められ、右所論は立論の前提に誤りがあるといわなければならない。そして重要なことは、清水ノート記載の運行中には榎本が乗車していない事例が多数含まれていることが証明されたことにより、榎本の行動を証明する清水ノートの証拠価値には自ら限界があることが明らかにされたことにあり、同ノートに立脚して主張されている榎本アリバイの成否を判断するに当たってはその証明力の限界に留意しなければならないのである。

二  榎本アリバイの成否について

所論は、榎本アリバイに関する立証により、少なくとも伊藤・榎本間の各金銭授受の事実の存在に合理的疑いを生ぜしめる程度の証明がなされているのに、原判決がこれを容認しなかったのは右立証に関する評価を誤ったことによるなどと主張する。そこで以下それぞれのアリバイ立証について検討を加えその成否につき判断することとする。

1 第一回目の授受に関するアリバイの成否について

清水ノートの昭和四八年八月一〇日の欄に「一二時〇五分(官邸発)~砂防会館~院内~ホテルオータニ~院内~二時四〇分(官邸帰着)」という清水車の一連の運行に関する記載があり、榎本は、公判廷において、右記載及び当日の自己の行動について、「同日午後零時五分清水車に乗り官邸を出発して砂防会館に赴き、田中事務所の者と当時の社会党書記長江田三郎らに対する見舞の件について相談した。次いで院内のそば屋に立寄って食事を済ませ、零時四〇分か四五分ころ同所を出発してホテルニューオータニに行き、同ホテルの斎藤清志と会っておよそ四、五〇分間名古屋財界人と田中内閣総理大臣らとの懇談会の宴会について打合わせを行い、同一時五〇分ころ衆議院内に戻った。当時国会は紛糾状態にあり審議が中断していたが、当日午後二時前尾衆議院議長から国会正常化に関する収拾案が各党に提示される予定であったので、これに対する各党の対応や国会運営の見通し状況に関する情報を収集する目的で院内に戻ったのである。院内において自民党幹事長室や官房長官室等で党の幹部や新聞記者等から情報を集め、衆議院議長から提示された収拾案を各党が受諾し国会が正常化するであろうとの見通しがついたので、午後二時三五分ころ院内を出て同二時四〇分清水車で官邸に戻り、その後右情報収集の結果を後藤田官房副長官に報告した。そして、右院内で情報収集活動をした際、自民党幹事長室で毛利松平議員と話をした記憶があるほか山下元利官房副長官とも会った記憶がかすかにある。以上のとおり、午後一時五〇分ころから同二時三五分ころまでの間院内で右情報収集活動に当たっていたのであるから、第一回目の金銭授受があったとされている同日午後二時二〇分ころ英国大使館裏に行くことは不可能であるし行ってもいない。また総理大臣秘書官在任中目白の田中事務所にある笠原政則運転の自動車に乗ったことはない。」と供述している。しかして、清水ノートが清水車の運行状況に関する正確な記録であるとともに、榎本の行動を推認せしめる資料であること、及び右ノートの記載にあるとおり、右同日午後、榎本が清水車でホテルニューオータニから院内に移動したことを否定する資料がないことにかんがみると、榎本は英国大使館裏路上に赴く直前ころは右院内に居たものと認められる。そして、もし榎本が供述するとおり、同人が官邸に戻るまでの間、終始院内に居たことが、前記英国大使館裏路上において金銭授受が行われた事実の真実性につき合理的疑いを生ぜしめる程度に立証されればアリバイの成立を容認することになるが、そうでない限り、右授受の事実につき高度の証明がなされていることに照らして考えると、榎本は院内を出て笠原車を使用し現金を受領したと認めるべきである。かかる観点から検討するに、検察事務官作成の昭和五六年一〇月一日付実況見分調書(甲一247)によると、国会正面から英国大使館裏路上までの自動車による所要時間は四分程度であるから、院内を出て笠原車に乗るまでの所要時間を考慮に入れても、午後二時一〇分ころまでに院内を出れば同二時二〇分ころ右大使館裏路上に到着し現金を受領することができるので、榎本の右供述中、現金授受の事実と相容れないアリバイ事実は、午後一時五〇分ころから同二時三五分ころまでの間にしたという院内における情報収集活動のうちの午後二時一〇分以降の部分であるから、同時刻以降の時間帯に榎本が院内に居たことをうかがわせる証拠があるか否かが問題となる。しかるところ、清水ノートには、ホテルニューオータニから院内に赴いた後、清水車が官邸に戻るため院内を出発するまでの間、榎本が終始院内に居たことが明記されているわけでないことはもとより、清水ノートの運行記載、特に、官邸を出発し官邸に戻るまでの一連の運行中の最後の運行部分については、送り先で榎本を降ろした後、清水車のみ空車で官邸に戻った事例がかなりの数あること、及び、砂防会館その他駐車場のある場所で榎本を降ろした後、清水車のみ官邸に戻った事例もかなりあることが、前記清水ノートの検討の結果明らかになっているのであるから、右清水ノートの「院内~(官邸帰着)二時四〇分」なる記載から、榎本が院内到着後同所に終始とどまり清水車で右時刻に官邸に帰ったという事実を推認することはできない。原審証人清水孝士は、右の最終運行を含め、清水ノート記載の前記運行のすべてに榎本が乗車していた旨証言しているのであるが、清水が右のように証言しているのは右運行の状況について具体的な記憶があるからというのではなく、右ノートに記載があり、かつ、砂防会館や院内のように駐車場のあるところでは榎本は清水車を身近において離したことはなく榎本が降車した後清水車だけ官邸に戻ることはなかったということをその理由として挙げている。しかしながら、既に説示した清水ノートの検討結果に照らすと、右理由として挙げているところは、その論拠を欠くことが明らかであるから右証言はにわかに信用しがたく、したがって、右証言も、榎本が終始院内にとどまっていたことを裏付ける証拠ということはできない。また、当時自由民主党副幹事長であった原審証人毛利松平は、「前尾衆議院議長の収拾案が提示された昭和四八年八月一〇日院内の幹事長室で榎本と会った。右収拾案が提示されたのは午後二時過ぎであるが、榎本と会ったのはその前後ころである。榎本とは池袋にある岡部という鍼医の治療所で二、三度会ったことがあったので、その際同人に、『まだ通っているのか。』と聞いたら同人は『通っている。』と答えた。そういう話をしたことを非常に明確に記憶している。」旨榎本の供述に添う証言をするとともに、同日榎本に会ったことを記憶している根拠として、右鍼治療所に通っているかどうかについて話をしたことを明確に記憶している点を強調している。しかしながら、榎本は、公判廷において、池袋の右鍼治療所に通ったのは昭和四五年後半から昭和四七年いっぱいまでで、同年一一月ころから野口という人のもとで高血圧の治療を受けるようになってからは右鍼治療所に通うのが遠のいた旨、そして、池袋に鍼治療に行くときは清水車を使用していた旨供述しているところ、清水ノートには、榎本が総理大臣秘書官に就任した昭和四七年七月以降同年末までの間に池袋に運行した日が七回(八月一日、同月八日、同月一二日、同月二九日、九月二二日、一一月一六日、一二月二八日)記載されているのに昭和四八年に入ってからは八月一〇日までの間に一度も池袋へ行った記載がないことに徴すると、当時榎本は右鍼治療所に通っていなかったことが明らかであって、毛利が「まだ通っているのか。」と尋ねたのに対し「通っている。」と答えるはずはなく、かかる話をしたと言う毛利証言はにわかに措信しがたく当日榎本と会ったという記憶の合理的根拠を失うことになる。なお、榎本は、その後この点について、毛利と会った際岡部の話が出たことははっきり覚えているが、その時やめていたことを言わなかったので毛利がまだ通っていると解釈したのだと思う旨供述しているのであるが、つじつまあわせの供述としか考えられない(仮に、毛利と榎本との間で右のような会話をしたことがあったとしても、それは別の機会であったと考えるのが相当である。)。また、毛利証人は、八月一〇日の衆議院議長の収拾案提示に至る国会収拾の経緯について質問を受けながら、これらの点についての具体的な記憶はない旨述べ、更に、パーティー等で榎本と会ったことが四、五回あり、その際同人と交わした雑談の内容も右鍼治療に関することであったと言いながら、それがいつ、どのようなところでなされたのかについては具体的な供述をすることができなかったこと、清水ノートによると榎本が院内に行ったと認められる回数は極めて多く、八月一〇日前後の三ケ月間だけでも昼食の時間帯を除き合計二八日間にも及び、同人の職務柄院内に行った際には幹事長室(次室を含む。)や官房長官室(秘書官室を含む。)等に出入りし、このような場合に党の役員や議員らと顔を合わせることがしばしばあったであろうことは容易に推測できることであるが、その際たまたま会って個人的な雑談をしたことは特異な現象とは言えず、日時を特定した時点での出来事として記憶に残っているというのは事柄の性質上不自然と考えられること等を併せ考えると、右証言時のおよそ八年前の特別に記憶に残るような出来事でもないことについて日時を特定して明確な記憶があるという右証言はにわかに信用することができないのである。更に、当時政務担当の内閣官房副長官であった原審証人山下元利は、「昭和四八年八月一〇日、院内の秘書官室や自民党国会対策委員会の部屋の前の廊下辺りで榎本と会った。当日午後三時三〇分砂防会館で田中総理に前尾収拾案について報告しているが(この点は当時の新聞で確認している。)、榎本に会ったのはその前のことであり、前尾収拾案が午後二時から三時までの間に提示されこれを見届けているので、榎本に会ったのは右収拾案が提示されたころかその直後ころであったと思う。榎本と会った際どんな話をしたかはっきりしないが、当然前尾収拾案に対する各党の態度等について情報を交換したと思う。」旨榎本の供述に添う証言をしている。そして「昭和四八年八月一〇日国会紛糾に対する前尾衆議院議長の収拾案提示に関する衆議院事務総長の回答書」によると、前尾議長は同日午後二時五分各党の国会対策委員長を招集して収拾案を提示し同二時二五分散会のうえ各委員長はこれを各党に持ち帰って協議し、同三時三〇分自由民主党国会対策委員長が、同四時野党の国会対策委員長がそれぞれ議長と会見した後同四時三〇分再度議長が各党の国会対策委員長を招集し最終的に各党が右収拾案を受諾したことが認められ、このことを参酌すると、右山下証言において同人が榎本と会ったと言う時刻は同二時二五分ころとなる。しかして、同証人はかかる八年前の出来事について記憶している特段の事由については何も示していない。そして証言するに当たり記憶喚起のため予め検討した資料として挙げているのは、右衆議院事務総長の回答書と前尾収拾案が提示されるに至った経緯状況を報道した当時の新聞であるところ、証言中具体性のあるものはいずれも右資料に基づくものであって、その余の証言内容は一般的概括的で具体性に乏しいものであるとともに、右前尾収拾案提示に至る以前の八日(この日議長見解が出されている。)、九日の段階における状況についてはほとんど記憶がなく、一〇日当日は前尾収拾案が提示されるのでこれに関する情報の収集活動に当たったと言いながら、誰とどこで会ってどのような情報を収集したのかについては、榎本と会ったという以外は具体的な証言をしておらず、これらの状況についての記憶があるとは認めがたい。また、同証人は榎本と会った場所の点について、山下と榎本はそれぞれの立場で情報の収集、交換、連絡のため動き回り、この間に通常秘書官室やその前にある内閣記者会室辺りで情報を収集することが多かったところから秘書官室で会ったと思うし、また幹事長室や国会対策委員長室の間を絶えず動き回り国会対策委員会の部屋の前の廊下辺りがよく会う場所であったので、長い前の話でどこで会ったということは言えないがこの辺りで会ったと思うと述べているのであって、その証言内容は推測に基づく一般的な範疇の域を出るものとは考えがたく、当日の具体的状況を記憶して述べているかは疑わしい。加えて、山下と榎本は平素それぞれの立場で情報収集に当たり、絶えず会って連絡をとり合っていたと言うのであるから、それがそのとおりであるとすれば、院内で榎本と会って情報交換をするということは極めて日常的な出来事で特段の事由がないかぎり記憶にとどまりにくい性質のものといわなければならない。しかして、山下証人が記憶喚起のため事前に検討した資料の中に当日榎本と会って情報交換をしたことを思い起こさせる記載があったとは考えられず、また国会正常化に関する議長の収拾案提示が特異な出来事であっても、その際特に印象に残る情報の交換をしたり対策協議をしたとかあるいは特別の指示をしたとかいうのであれば格別、そのような事情の認められない情況のもとでただその日が特異な日であったという一事から、八年後になって記憶喚起ができるとは事柄の性質上考えにくい。以上の諸点を総合すると、山下証言は不自然不合理な点が多く信用することはできない。また、当時の事務担当の内閣官房副長官であった原審証人後藤田正晴は、昭和四八年八月一〇日、官邸の執務室において、榎本から前尾裁定が出て国会がどうやらおさまりそうであるという趣旨の話を聞いた記憶があり、その時刻については記憶がないが、当日の自分の行動記録(議会がおさまりそうだと書いてある。)のスケジュール実績に照らすと午後四時前後が考えられる旨証言している。しかしながら関係証拠によると、右証言のとおりの事実があったとしても、そのことが前記伊藤・榎本間の金銭授受の事実を不可能にするものでないのはもとより、榎本が受取った現金入り段ボール箱を笠原車で田中の私邸に運び込んだのち同車で官邸に帰ったのち後藤田に右報告をすることが時間的に可能であるから、右後藤田証言は榎本アリバイの成立を裏付けるものではないといわなければならない。そこで、榎本の前記公判廷における供述の信用性につき検討するに、榎本は、捜査段階において、検察官に対し、日時の記憶はないが、笠原運転の自動車を使用して英国大使館裏路上に赴き、同所において、伊藤から現金が入っている段ボール箱を受取った旨、現金受領の事実を認める供述をしており、このことは既に判示しているとおりである。しかるところ、榎本は、公判廷においては右事実を全面的に否認し、前記アリバイに関する供述は、捜査段階における供述と抵触するいわゆる自己矛盾供述たる右否認供述との関連においてなされているのであって、かかる供述は、他の関係証拠によってその真実性が裏付けられないかぎり、一般的には信用性の乏しいものといわなければならないところ、前記のとおり、榎本が八月一〇日午後二時一〇分以降も衆議院内で情報収集活動をしていたというアリバイ事実を裏付ける直接証拠(毛利及び山下の各証言)はいずれも信用できず、他にこれを裏付ける証拠は存しない。しかして、榎本は、検察官に対し、現金授受の事実のほか、事件発覚後伊藤に対し現金授受の事実はなかったことにして欲しい旨要請するとともに受領した五億円の返還を画策するなど罪証いん滅工作をしたことを具体的かつ詳細に供述し、その供述が信用できることは既に判示したとおりである。そして、榎本は公判廷において、総理大臣秘書官に就任してからは専用車である清水車を使用し笠原車を使用したことは一度もないと供述しているのであるが、この点につき検察官に対しては、「当時、田中先生は内閣総理大臣で私は官制上の秘書官をしていました。私にも清水君が運転する秘書官用の専用車が貸与されていましたが、あえて清水君を使わなかったのは、公私にけじめをつけ、この丸紅からの献金は自民党が来たるべき参議院選挙を有利に戦うため党の政治活動費として党の総裁としての田中先生が献金を受けるものだという認識にたっていたことから、役所関係の仕事ではないし、一方では私にとっても重大な任務であるという潜在的意識から清水君を避けさせた方が良いと判断したからでした。」(昭和五一年八月三日付検面調書乙8、甲再一80)と述べているのであって、右供述中、笠原車を使用した理由として述べている部分は自己の自然な心情及び認識を表明した内容のものであるとともに笠原供述書とも符合し十分信用することができる。これに比し、検面調書に右の供述記載があることについて榎本が公判廷において弁疏するところは不自然不合理なもので他を納得せしめるものでないばかりでなく、笠原車を使用したことがない旨の榎本の前記公判廷における供述は、坪内利彦の証言及び笠原供述書(甲再一12)の裏面の記載(笠原が榎本を乗せた事例を思い出しながら列記したもの。)によって認められる笠原の供述と符合しないものであって信用できない。そして、榎本のアリバイに関する供述は、その供述内容に照らすと、清水ノート、田中角榮前内閣総理大臣行動日程(実績)一覧表写し及び現金授受の日ころの新聞記事を検討したうえ、当時の出来事に関連づけて作為的に供述しているにすぎず、金銭授受の認定に供した伊藤、松岡の各供述、笠原供述書、松岡作成の自動車行動表等関係証拠に照らし信用することができない。してみると、右アリバイ事実を認めるに足る証拠はなく、この点の立証により前記金銭授受に関する事実認定になんら影響を及ぼすものでないことは明らかである。

ところで、清水ノートの記載に照らし榎本が金銭授受のため英国大使館裏路上に赴く直前、院内に居たと認められることは前記のとおりであり、したがって、笠原が金銭授受に際し榎本を笠原車に乗せた場所は院内と認めることになるが、笠原供述書(甲再一10)には、榎本を乗せたのは「昼食後砂防」と記載されているので、同供述書中の右部分は信用できないことになる。しかしながら、前記坪内利彦の証言によると、笠原供述(書)中には他の関係者の供述と食違う部分があったが、事情聴取開始直後のことであったので、その真偽については後日関係者に確認したうえ改めて取調べることとし、その際は特に記憶の正確性に関するテストをすることもなく、取りあえず同人が思い出したというところをそのまま供述書に記述させたことが認められ、右供述書の作成経緯及び事柄が右取調べの三年前の出来事であって細部の具体的情況について思い違いが入るのもやむを得ないものと考えられることに徴すると、砂防会館で榎本を乗せたという右記述部分は同人の思い違いによるものと考えられるとともにかかる思い違いの部分があるからといって笠原供述書の基本的部分の信用性をそこなうものとは考えられない。

清水ノートが存在することにかんがみ、榎本アリバイが成立するかどうかを判断するに当たり留意しなければならない要点の一つは、榎本が伊藤から現金入り段ボール箱を受取った後、これを、いつ、どこに、どのような経緯で運び込んだかの点であるが、原判決は第一回目の分について、榎本の検面調書により、田中の私邸内居室部分一階奥座敷に搬入した旨認定しているのみで、いつ、どのような経緯で搬入したかの点については具体的に判示していない。この点、榎本の検察官に対する供述でも明らかでないし、笠原供述書中に三和銀行本店に搬入したとある部分が思い違いによるものと考えられることは既に判示したとおりであり、その他記録を検討してもこれを明らかにする証拠は存しない。しかして、犯罪の成否に関する事実は伊藤・榎本間の授受の事実であって、榎本の事後の行動自体はその成否にかかわりのないものであるから、これを確定的に認定する必要のないことはいうまでもない。ただ、事案に即して想定し得る榎本の事後行動が、清水ノートの記載からうかがわれる榎本の行動と矛盾抵触する場合には、右授受の事実の存在に疑いが生ずることになる。この場合清水ノートによって認められる事実、すなわち、清水車が院内を出発して午後二時四〇分官邸に戻ったという事実(この場合榎本が乗車していた場合と乗車していなかった場合が考えられる。)及びその後清水車が午後四時三〇分官邸を出発している事実(関係証拠上、右運行に榎本が乗車していたことが認められ、榎本は右運行の最終行先「向島」〔料亭桜茶屋を意味する〕で降車し以後清水車を使用していない。)と金銭授受の事実が矛盾抵触するかどうかが問題となる。しかしながら、関係証拠によると、原判決が判示しているように、榎本が笠原車を使用し、英国大使館裏路上から直接田中私邸に赴き現金入り段ボール箱を搬入した場合、午後三時一〇分ころ官邸に戻ることが十分可能であるし、この場合、院内から官邸に戻った清水車に榎本が乗っていなかったことになるが、前記のとおり、官邸に戻る同車に榎本が乗っていない事例が少なからず認められることに徴すると、右想定は十分合理性がある。また、前記のとおり、国会(正面)から英国大使館裏路上までの所要時間は車で四分であるから、午後二時二〇分ころ現金を受取るためには、午後二時一六分までに同所を出発すれば足りるので、榎本が笠原車で同時刻に同所を出発して右大使館裏路上に赴き、同所で現金入り段ボール箱を受取り(当審で取調べた弁護人提出のビデオテープによると、右授受に要する時間は三〇秒程度のごく短い時間で足りることが明らかである。)、その後一旦国会に戻ったとすると午後二時二五分ころ戻ることが可能であり、国会と官邸間の所要時間は車で一分であることが認められるので(弁護士木村喜助作成の昭和五五年七月二六日付報告書〔弁432)、院内に戻った後、一〇分余り同所に居たうえ清水車で午後二時四〇分に官邸に戻ることも十分可能となる(なお、この場合、院内に戻った後清水車で同所を出発するまでの間に、前尾収拾案に対する各党の対応についての情報を収集することも時間的にできないわけではない。)。この場合、その後清水車で官邸を出発した午後四時三〇分までの間に(一時間五〇分の余裕があることになる。)、予め笠原車を官邸の近くに回送させたうえ田中私邸に現金入り段ボール箱を搬入して官邸に戻ることになるが、官邸と田中私邸間往復の所要時間は、前記検察事務官作成の実況見分調書によると約五二分、後記のとおり、清水ノートに基づき検討した結果によると五〇分以内であることが認められ、また、前記ビデオテープによると田中私邸居宅一階奥座敷に運び込むのに要する時間は約三分であることが認められることに徴すると、右段ボール箱を田中私邸に搬入したうえ午後三時四〇分ころまでに官邸に戻ることが可能となる。なお、金銭授受に際し笠原車を使用したことから、同車と清水車の乗換えにつき手数をかけた点が見受けられるが、これは、伊藤に、ロッキード社側から現金を受取ったその日のうちにこれを引渡したいという強い希望があり、榎本としては、これを受取る必要上多忙な日程の合い間に授受の時間と場所の約束をしたこと、及び、前記のとおり、授受には官邸の運転手を関与させない配慮をして清水車を排除したことに基因するものと考えられ、したがって、これをもって特に不自然な行動とみるのは当たらない。してみると、授受後の行動の面から検討しても、前記金銭授受の認定につき合理的疑いを生ぜしめるものはなく、第一回目の授受に関しアリバイの成立を否定した原判決の事実認定を論難する所論は失当である。

2 第二回目の授受に関するアリバイの成否について

清水ノートの昭和四八年一〇月一二日の欄に、「午後二時一〇分(官邸発)~砂防会館~同二時二五分(官邸帰着)」「同三時三五分(官邸発)~砂防会館~同三時五〇分(官邸帰着)」という記載があり、榎本は、公判廷において、右清水ノートの記載と関連する自己の行動について、「同日午後二時一〇分清水車で官邸を出発して砂防会館に行ったのは、当日官邸の田中のもとに日本海新幹線建設に関する陳情のため竹内青森県知事と小畑秋田県知事が訪問することになっていたのでその資料を取りに行ったのであって、午後二時二五分官邸に戻った清水車にも右資料を持って乗車していた。官邸に戻った後午後三時三五分までの間、官邸において植村甲子郎経団連会長、竹内青森県知事、岸信介元総理大臣、小畑秋田県知事らの接遇に当たった。その後、午後三時三五分清水車で官邸を出発して砂防会館に行ったのは、自民党本部から届けられていた田中の山形県遊説日程を取りに行ったのである。したがって、第二回目の授受があったとされている同日午後二時二五分ころは官邸において来訪者の接遇に当たり、授受の現場とされている九段高校向いの電話ボックス付近に行くことはできないし行ってもいない。」旨所論に添う供述をしている。しかしながら、先に説示したとおり、清水ノートの記戦中に、榎本を砂防会館に送った後、清水車のみ空車で官邸に戻って待機していた事例がかなりの回数認められることに照らして考えると、第二回目の金銭授受の事実が高度に証明されている情況のもとにおいては、これと抵触する右ノートの「砂防会館~午後二時二五分(官邸帰着)」の記載から、右運行に際し榎本が乗車していた事実を推認することはできない。清水孝士は、右運行に際し榎本が乗車していたと証言しているのであるが、清水がそのように証言するのは、右運行に際し榎本が乗車していたという具体的な記憶に基づくというのではなく、右ノートに運行の記載があり砂防会館に同人を送った場合通常車だけ官邸に戻ることはなかったというにある。しかしながら、清水ノートの記載中に榎本を砂防会館に送ったのち車のみ官邸に戻って待機していた事例のあることは前記のとおりであり、また待機中に連絡を受けて運行先に迎えに行った事例のあること(この場合ノートに待機という記載はなされていない。)も前記のとおりであって、砂防会館に関する運行の場合、ノートに記載があるから榎本がそのすべてに乗車していたという清水の証言はその論拠を欠きにわかに信用することはできない。また、一〇月一二日の前記「官邸~砂防会館」往復の各所要時間は、その記載によると、いずれも一五分間であるところ、この点につき、清水は、現在(昭和五六年の証言時。)は片道約七分を要するが、当時は三、四分程度であったので、右ノート記載の所要時間からみても榎本を砂防会館に送り同人が同所で所用を済ませた後同人を乗車させて官邸に戻ったと考えられる旨供述している。しかしながら、先に説示したとおり、榎本を砂防会館に送り清水車のみ空車で官邸に戻って待機中そのまま待機流れになったことが明らかになった事例中、昭和四八年四月一八日の「午後四時(官邸発)~砂防会館~同四時一五分(官邸帰着)」同年七月二三日の「午後六時〇五分(官邸発)~砂防会館~同六時二〇分(官邸帰着)」の運行事例にみられるように、昭和四八年当時もその所要時間が一五分であること、前記検察事務官作成の実況見分調書によると、昭和五六年四月、官邸と砂防会館の間の片道所要時間を測定したところ七分間であったこと、清水ノートの時刻の記載は五分単位で切上げ又は切下げして記入したと言うのであるから、その切上げ又は切下げの仕方いかんによっては往復に四分間の誤差を含むことになり、往復の所要時間が一一分である場合もあり得ること等を併せ考慮すると、前記清水ノート記載の所要時間から、榎本が所用を済ませて帰りの運行にも乗車していたと言う清水証言は、その論拠を欠くことになりにわかに信用しがたい。むしろ、右ノート記載の所要時間が一五分という短時間であり、前記待機流れの事例を併せ考えると、午後二時一〇分官邸を出発し同二時二五分官邸に戻った運行の帰りの運行には、榎本が乗車していなかった蓋然性があるのであって、これに乗車していたことを前提にして、関係証拠に基づき高度に証明されている、同日午後二時二五分ころ九段高校向いの電話ボックス付近路上における金銭授受の事実を否定することはできない。

田中前総理大臣行動日程(実績)一覧表写しその他関係証拠によると、昭和四八年一〇月一二日午後二時二〇分から同二時四〇分まで植村経団連会長が、同二時四五分竹内青森県知事が、同二時五〇分から同三時まで岸信介元総理大臣が、同三時から同三時一五分まで鈴木九平(北方領土問題対策協議会長)が、同三時一五分小畑秋田県知事が、同三時二〇分福永健司議員がそれぞれ官邸に来訪して田中と面談していることが認められる。そして原審証人松平悌二郎は、官邸に来訪者がある場合には、例外はあるが担当の秘書官が官邸に居て来訪者の送迎等の接遇に当たり、榎本は政務担当秘書官として国会議員、地方議会議員、都道府県知事その他の政治家等の接遇に当たっていた旨証言し(同証人は当初一〇月一二日榎本が官邸に居た旨証言していたが、後になって同日榎本が官邸に居たという具体的な記憶があったわけではない旨訂正の証言をしている。)、当時内閣総理大臣秘書官であった杉原正、木内昭胤、吉本宏、小長啓一らは榎本の質問書に対する回答書において、いずれも前記の訪問者中竹内青森県知事、岸元総理大臣、小畑秋田県知事の接遇は榎本の担当であって右秘書官らがその送迎に関与していない旨述べており、右来訪者三名の接遇担当が原則として榎本であったことが認められる。しかしながら、前記総理大臣行動(実績)一覧表写しに記載されている政務関係来訪者の来邸時間と清水ノートからうかがえる榎本の官邸における執務時間とを対比してみると、政務関係の来訪者があった時、榎本が官邸に居なかったと認められる事例は枚挙にいとまがなく(例えば昭和四八年中に道府県知事及び政令指定都市の市長が官邸を訪れた事例四〇例余のうち榎本が官邸に居なかったと認められる事例は1/3にものぼる。)、政務関係の来訪者があった時間帯に榎本が官邸に居たとは限らないことが明らかであるので、同日午後二時二五分ころから同三時三五分までの間に前記来訪者があったことを論拠として、右時間帯に榎本が官邸に居たと推認することはできず、その時間帯に他の場所、すなわち金銭授受の現場である九段高校向いの電話ボックス付近路上に居たことが証明されることにより、榎本が官邸に居た可能性を容易に否定し得るのである。榎本の質問書に対する岸信介、竹内俊吉の各回答書はその記載内容に照らし同人らの官邸訪問時に榎本が在邸していたことを裏付けるものでないことは明らかである。また小畑秋田県知事(昭和五七年一〇月五日死亡。)の長男である原審証人小畑伸一は、同証人の依頼により、榎本がたて込んだ総理の日程に無理して小畑知事の面会を割り込ませてくれた旨、そして、同知事が官邸を訪問した日の翌々日ころ榎本に電話でお礼を述べた際、榎本が「大丈夫お引合わせいたしましたから、あなたのおっしゃることだから大丈夫ですよ。」と言った旨、そして同知事が生存中、榎本から質問書がきたときや証人に出るよう依頼があったときなどに、「総理に会ったことは間違いないが、ただその場で直接榎本さんに案内していただいたかどうかについては、自分としてはなんか秘書官執務室の扉を開けて知事さんどうぞと言って榎本さんが案内したような気もするけれど、本当にそれが確かにそうかと言われると一〇年も前のことだからはっきりそうだというふうな記憶があるとも言いかねる。一〇年前のことだからな、そんな気もするんだがな。」という話をしていた旨証言し、更に同証言によると、榎本からの質問書中の「総理秘書官室で暫時お待ち願っていた際私が(当時総理大臣秘書官)挨拶を交わしたり総理執務室へのご案内を申し上げたのをご記憶がありますか。」という質問事項に対し、書面(昭和五六年四月一五日付)で「田中総理大臣との面会は、いつも小生の長男小畑伸一がサンケイ新聞の政治部記者時代交友のあった榎本秘書官を通して総理のお時間をとって頂いておったので、当然その時も榎本秘書官から総理の執務室にご案内いただいたものと思います。」と回答していることが認められる。しかしながら、右証言中の榎本の言葉に榎本が自ら送迎に当たり引合わせた趣旨を含むものとは解せられないし、また右回答書には「記憶がありますか。」という質問に対し記憶があると答えているのではなく「……と思います。」と推測したことが記載されており、右証言中の生前の言葉も、右榎本の質問事項に照らして考えると、榎本が在邸していたかどうかの点については極めて漠然としたものであって榎本が官邸に居たことを裏付ける証拠となり得るものではない。更に、前記証人松平悌二郎は、原審第一三二回公判期日において、右同日小畑知事が来訪した際随行した職員から田中への色紙揮毫の依頼がありその直後榎本にその依頼をした旨証言しているが、同証人は原審第一四五回公判期日において右証言を訂正し、右色紙揮毫の依頼は秋田県東京事務所総務課長鎌田光男からなされたものであるが、昭和四八年一〇月一二日に同人が揮毫の依頼をした事実はなく、また同人が同日小畑知事に随行して官邸に来たかどうか、また、その際先に依頼した揮毫の催促をしたかどうかについては具体的な記憶がない旨述べており、また、「内閣総理大臣揮毫依頼秘書官室分(五月~八月)」と題するメモ(甲二179)及び右松平の証言によると鎌田光男の揮毫依頼は昭和四八年五月から八月までの間になされているのであって、小畑知事の右官邸訪問より前であることが明らかである。してみると、松平の前記証言もまた榎本が官邸に居たことの裏付けとなるものではない。その他記録を検討しても前記榎本の公判廷における供述を裏付ける証拠は存しないところ、榎本の右供述は、清水ノートと田中角榮前内閣総理大臣行動日程(実績)一覧表写し及び当時の新聞記事等を検討し、当時の出来事に自己の行動を関連づけて作為的に供述し得る内容のものである。しかして、榎本は、清水車で官邸と砂防会館を往復したうえ当時官邸に居たことの根拠として、前記竹内、小畑両知事の官邸来訪に関連づけ、砂防会館に置いていた日本海新幹線建設に関する資料を取りに行った旨述べているのであるが、その資料というのは市販されている青森県や秋田県の地図及び陳情書など(なおその詳細については供述することができない。)と言うのである。しかしながら、前記総理大臣行動日程一覧表によると当日田中と面談した訪問客は多く、竹内知事の場合、植村経団連会長が午後二時四〇分まで面会した後、同二時五〇分から岸元総理大臣が面会するまでの間に面談しているが、その時間は同二時四五分とのみ記載されているだけで、その記載に照らすとごく短い時間であったことが認められ、小畑秋田県知事の場合も、同三時一五分鈴木九平の面会終了後同三時二〇分福永健司議員が面会するまでの間に面談したのであって、その時間は同三時一五分と記載されているにすぎないことに徴するとこれもごく短い時間であったことが認められる(小畑知事の場合、榎本が無理に日程に割り込ませたと言うのであるから面談の時間が極めて短いものになることは当初からわかっていたはずである。)。かかる短時間の面会に際し、事前に資料を検討する時間もまた資料を検討しながら具体的内容に立ち入って話す余裕があるかも疑問の存するところであり、関係証拠によると当時田中は日本海新幹線建設問題についての知識を十分有していたことが認められるとともに必要とあれば来訪者において前記程度の資料を持参するであろうことは見やすい道理であること、そして、特に田中から資料を取り寄せるよう指示されたわけでもなく、かつ、榎本自身取りに行ったというその資料を田中に渡したとは述べていないこと、新幹線建設に関する陳情があったその余の事例について資料を準備したという具体的記憶がないこと等にかんがみると、かかる資料をわざわざ取りに行く必要性はなかったと認められるのであって、榎本の供述はそれ自体不自然で信用しがたい。しかして、第二回目の金銭授受に関する証明が十分尽くされていることにかんがみると、榎本が前記砂防会館から官邸に戻る清水車に乗車していたとは認められず、したがって、金銭授受の時間帯に官邸で執務していたことも認めることはできないのであって、榎本は、同日午後二時一〇分清水車で官邸を出発して砂防会館で降車し、清水車を官邸に戻し、予め砂防会館に呼んでいた笠原車に乗って金銭授受の現場たる九段高校向いの電話ボックス付近路上に至り、現金入り段ボール箱を受取った後田中私邸に運び込んだうえ笠原車で砂防会館に戻り、清水車を呼び寄せ(同車は午後三時三五分官邸を出発して砂防会館に来ている。)同車に乗って午後三時五〇分官邸に戻ったと推認できる。この点の時間的経過を関係証拠により検討してみると、官邸~砂防会館約七分、砂防会館~九段高校向いの電話ボックス付近路上約九分、右電話ボックス付近路上~田中私邸約二〇分、田中私邸~砂防会館約二九分、現金入り段ボール箱の積み換え所要時間約三〇秒、田中私邸居宅一階奥座敷への搬入所要時間約三分であるから、官邸と砂防会館を一五分で往復した清水車の運行状況、笠原車が九段高校向いの電話ボックス付近に到着した時刻と現金授受の時刻がよく整合し、また、田中私邸に搬入後清水車が砂防会館に迎えに来る前に同所に戻ることが十分可能と認められる。してみると、右のとおり砂防会館に戻り、同所の榎本の執務室から、自由民主党本部から届けられたと言う遊説日程を持ち出すことは十分可能なことであるから、この点に関する榎本の供述の真偽はともかく、仮に右遊説日程を持ち帰ったということが正しいとしても、アリバイの成否には関係がない。以上の検討によれば、アリバイに関する全立証をもってしても、第二回目の金銭授受の事実認定に合理的疑いを生ぜしめる余地はないので、この点の所論は失当である。

3 第三回目の授受に関するアリバイの成否について

清水ノートの昭和四九年一月二一日の欄に「午後二時三五分(官邸発)~参議員会館~同二時四五分(官邸帰着)」「同四時〇五分(官邸発)~砂防会館~同四時四〇分(官邸帰着)」「同四時四五分(官邸発)~参議員会館~同六時一〇分(官邸帰着)」という記載があり、清水孝士は右各運行に榎本がすべて乗車していた旨証言している。そして、榎本は、公判廷において、右運行と関連する自己の行動について、「この日第七二回国会が開会され地方在住の国会議員が上京していたので、この機会に昭和四九年に施行される参議院議員通常選挙に立候補を予定している議員と面会し選挙に関する打合わせをしようと考えていた。同日午後二時三五分清水車で官邸を出発し、参議院議員会館に行って初村滝一郎議員と面会し、約七~八分程度と思うが右選挙に関して打合わせ、同二時四五分同車で官邸に帰った。その後同四時五分清水車で砂防会館に行ったのは、翌日田中が予定していた参議院香川地方区補欠選挙応援遊説に関し自由民主党選挙部長兼田喜夫からレクチャーを受けるためで、同四時四〇分同車で官邸に戻るまでの間、砂防会館で兼田から話を聞いていたのである。更に、同四時四五分清水車で官邸を出発して参議院議員会館に赴き、新谷寅三郎、園田清充、高田浩運、塩見俊二各議員とそれぞれ面会し前記参議院議員通常選挙に関して打合わせを行い、同車で同午後六時一〇分官邸に帰ったのである。したがって、金銭授受が行われたという午後四時一五分から同四時四五分ころまでの間は砂防会館及び官邸に居て同日ホテルオークラに行ったことはない。」旨供述している。そこで右榎本供述を裏付ける証拠の有無について検討するに、榎本の質問書に対する初村滝一郎の回答書(弁130)及び同人の秘書小泉京子が記載したと認められるビジネスダイアリー抄本(弁104、昭和四九年一月二一日欄に「一五・〇〇江ノ本面会」という記載がある。)によると、榎本が供述するとおり同人が初村議員と面会した事実が認められる(なお面会した時刻は、榎本が述べるように同議員が当日午後三時から予定されていた参議院本会議に出席するのに差し支えないようその前の時刻であったと認められる。)。しかして、榎本が同日午後四時五分清水車で官邸を出発し砂防会館に赴いたことは前記清水ノートの記載から認めることができるが、同車で同四時四〇分官邸に戻るまでの間右同所で兼田から参議院香川地方区補欠選挙に関しレクチャーを受けたという事実についてはこれを裏付ける証拠はない。もっとも、前記田中角榮前総理大臣行動日程(実績)」一覧表写しによると、翌一月二二日、田中が右選挙のため香川県下を遊説したことを認めることができるが、そのことから、直ちに、榎本が兼田から右レクチャーを受けた事実を推認することはできない。また、自由民主党全国組織委員会遊説局の職員であった原審証人小安英峯は、「田中自由民主党総裁の地方遊説を実施することが決まったときには、遊説局の担当職員である小安と政務担当秘書官である榎本がその日程や実施細目について打合わせを行っていたが、右打合わせに同党選挙対策委員会事務部長であった兼田喜夫が加わる場合があった。このような場合、兼田が選挙に精通していたので遊説先の県連の状況、支部の状況、前回の選挙の状況、勝因敗因等選挙情勢について榎本にレクチャーしていたが、右選挙情勢についてのレクチャーや打合せは榎本と兼田の二人で行う場合もあったと思う。」旨証言している。しかしながら、右小安の証言は自由民主党総裁の遊説についての一般論を述べているにすぎず、右香川地方区の補欠選挙に関して述べているものではないのであるから、一月二一日に榎本と兼田が打合わせをしたということの裏付けにならないことはいうまでもない。次に、榎本が同日参議院議員会館で新谷寅三郎議員と面会したことは、榎本の質問書に対する新谷寅三郎の回答書(弁131)及び同人の秘書植木妙子が記入した新谷寅三郎の日程表(ノート)抄本(弁105、一月二一日欄に「五・一〇<来>総理秘書官榎本」という記載がある。)により裏付けられ、その面会時刻は、右証拠によると午後五時一〇分ころと認められる。しかしながら、榎本が同四時四五分過ぎころから同六時一〇分少し前ころまでの間に参議院議員会館で園田清充、高田浩運、塩見俊二各議員と面会したという事実を裏付ける確証はない。そこで、ホテルオークラの駐車場(なお、所論は、原判決が授受の場所として判示している駐車場がどの位置を指すのか明確でないというが、原判決の「事実認定上の補足説明等」の判文〔四四三頁ないし四四五頁〕に徴すると一階宴会場入口付近〔アーケード入口付近〕の駐車場を指していることが明らかである。)において金銭の授受が行われたと認定されている同日午後四時一五分から同四時四五分までの間における榎本の行動に関する同人の前記供述の信用性につき検討するに、右時間帯は同人が砂防会館において兼田から選挙に関するレクチャーを受けていたという時間に該当するところ、これを裏付ける証拠がないことは前記のとおりである。ところで、榎本は、捜査段階において検察官の取調べに際し、伊藤から四回にわたり合計五億円を受取った事実を認め、第三回目の分については日時、場所等具体的な状況は思い出せないとしながらも「ホテルオークラの駐車場で受渡しをしたことはなかったか。」という検察官の質問に対し、「そう言われればあったかも知れませんが、ホテルオークラには数知れず出かけているばかりに確とした印象が残っていない。」旨答え、同所における授受そのものを否定することなくましてこれを積極的に否認するアリバイの主張をしていなかったのに、公判段階に至って授受そのものを全面的に否認し、その後アリバイ主張をするとともに、原審第一二九回公判期日において、清水ノートと田中角榮前総理大臣行動日程(実績)一覧表とを突き合わせ当時の関係資料を検討してアリバイ事実に関する記憶を喚起したとして前記のとおり供述しているのである。しかしながら、田中が内閣総理大臣在任中選挙等に関連し自由民主党総裁として地方遊説に出かけた回数は四七回にも及んでいることが明らかであり(右総理大臣行動日程一覧表参照)、前記小安証言及び榎本の供述によると田中の遊説に関し榎本が兼田と打合わせをしたということは稀な出来事であったとは考られず、また、榎本が砂防会館内の田中事務所に自己の執務室を持ち、清水ノートに表れているとおり常時砂防会館に赴き、一日に二度行くことは日常的なことで、時には三、四度に及ぶこともあったこと、そして、榎本の記憶喚起の手がかりとなったという物的資料は右総理大臣行動日程一覧表と清水ノートだけであって、兼田との打合わせの日時を特定するに足る資料はなく、かつ、同人との打合わせの内容に関する榎本の供述は、どの打合わせにおいても行われる一般的な事項を述べているだけでその事例特有の具体的情況を含んでいないことなどに徴して考えると、榎本が述べているように、保釈後の時点で、清水ノートと右総理大臣行動日程一覧表を対比して記憶喚起につとめたとしても、右資料のみから二年半以上も経過した出来事について、多数ある砂防会館への清水車の運行の中の特定の運行を取りあげ、その際兼田と打合わせをした記憶がよみがえったというのはあまりにも不自然というべきであって、右各資料の記載や選挙対策、遊説一般の打合わせ状況に自己の行動を関連づけ作為的に右日時を特定した疑いが払拭できず、右供述を信用することはできない。

しかして、既に説示したとおり、ホテルオークラにおける金銭授受の事実が高度に証明されている情況のもとにおいては、前記清水ノートの記載からは、清水車の運行及び榎本が同車に乗車したことを肯認することができるにしても、清水車の待時間中、榎本が砂防会館に終始留まっていた事実まで推認することはできず、関係証拠を総合すると、榎本は、同日午後四時五分官邸を出発した清水車で同四時一二分ころまでに砂防会館に赴き(官邸と砂防会館の間の所要時間に関する前記説示参照)、同車を同所に待機させたうえ、そのころ同所に呼び寄せていた笠原車で同四時二〇分ころホテルオークラ一階宴会場入口付近(アーケード入口付近)の駐車場に赴き(右実況見分調書によると、砂防会館とホテルオークラの間の所要時間は七分であるから、乗り換えの時間を考慮に入れても同四時二〇分ころには右駐車場に到着することができる。)、同所で伊藤から現金入り段ボール箱を受取り(積み換えだけの所要時間は三〇秒程度であることは前記のとおりである。)、同四時三二分ころまでには砂防会館に戻り、同四時四〇分官邸に帰着した清水車に乗り換えて官邸に戻ることが十分可能であるとともに、そのような行動をとったと推認できる。このように考えると、前記清水ノートの記載は右金銭授受の事実を認定する妨げとなるものではない。この場合、ホテルオークラにおける金銭授受の時刻は、午後四時二〇分から同四時二五分ころまでの間ということになり(松岡作成の自動車行動表によって認められる伊藤がホテルオークラに赴いた時間帯と符合し、伊藤は、右授受後「前尾繁三郎君を励ます会」に出席したうえ、同四時四五分同所を出発して、丸紅東京本社に帰っているのであって、関連する事実が矛盾なく合理的に説明できる。)、原判決の認定範囲と完全に一致するわけではないが、原判決の認定した時間帯の範囲内であるから、右の違いをもって判決に影響を及ぼす事実誤認があると言えないことは明らかである。

官邸に戻った後、同日午後五時一〇分ころ、榎本が参議院議員会館において新谷寅三郎議員と面談した事実があることは前記のとおりである。他方、榎本は、検察官に対し、受取った現金入り段ボール箱を田中の私邸に笠原車で搬入したと述べているので、右議員との面談及び同日の清水ノートの前記記載との関係上、榎本が右段ボール箱を搬入することができたかどうかその可能性について検討する。前記新谷寅三郎の日程表の記載によると、榎本は同人と同日午後五時一〇分に面談する約束をしていたので、金銭授受後直ちに田中の私邸にこれを搬入せずこれに先だち右面談を済ませたものと推認できる。清水ノートによると、榎本は同日午後四時四五分清水車を使用して官邸を出発し参議院議員会館に赴いているが、弁護士木村喜助の昭和五五年七月二六日付報告書(弁432)によると官邸と右議員会館の間の所要時間は一分間と認められるので、同四時四六分ころ右議員会館に到着したことになる。この点から、所論は、右到着後新谷議員と面会するまでに時間があることを指摘しているところ、前記のとおり、榎本の供述中、同人が園田清充、高田浩運、塩見俊二の各議員と面談したという点についてはこれを裏付ける確証がないのであるが、関係証拠によると、この日は第七二国会が開会された日で地方に在住している国会議員が上京していたところから、榎本は、この機会に昭和四九年に施行される参議院議員通常選挙に立候補を予定していた議員と面会し選挙に関する打合わせをしようと考え、前記のとおり、同日午後三時前ころ初村議員と面談し、また、新谷議員とも同趣旨の目的で面談していることが認められることに徴すると、榎本が供述するように、同趣旨の面談を他の議員と行ったと推認できないわけではなく、榎本の供述や清水車の運行時刻から推認できる初村議員との面会時間が短時間(せいぜい七分程度)であると認められることにかんがみると、議員会館到着後新谷議員と面談するまでの約二四分間に、これら三名の議員と面談したと考えられるし、かつ、それが可能であったと考えられる。ところで、当裁判所は、榎本は新谷議員らとの面談を済ませた後、右議員会館近くに回送させていた笠原車に乗車し田中私邸に段ボール箱を搬入したうえ同車で右議員会館に戻り、再び同所に待機していた清水車に乗り換えて官邸に帰ったと想定するのであるが、清水車が右議員会館を出発して官邸に帰着した時刻が午後六時一〇分であるから、議員会館~官邸間の所要時間一分を差し引くと、右清水車に乗るためには、榎本は同六時九分までに右議員会館に戻らなければならないことになる。そこで検討するに、前記検察事務官作成の実況見分調書によると官邸~田中私邸間の所要時間は二六分と測定されている(測定は昭和五六年四月二〇日。)ので官邸~右議員会館の所要時間一分を加える(経路の選択の仕方によっては、逆に差し引くことになる。以下同じ。)と議員会館~田中私邸間は片道二七分、往復で五四分間を要する計算になる。しかしながら、清水ノートに基づき、総理大臣車に随走する場合でなく(前記総理大臣行動日程一覧表と対比することにより明らかになる。)清水車が単独で走行したと認められる「官邸~総理私邸~官邸」と記載されている官邸~田中私邸間往復の運行事例二一例(ただし、昭和四九年五月四日「官邸~、院内~総理私邸~官邸」の事例を含む。)の所要時間を検討してみると(右運行はいずれも榎本が田中の私邸あるいは同邸内の事務所に所用があって出かけたものと考えられるので、その所要時間には同人が用件を処理するに必要な時間を含み、走行のみに要する時間はより短かくなる。)、その時間が三〇分である事例が二例(昭和四七年七月二一日、同年九月一六日)、三五分である事例が三例(同年七月二一日〔昭和四七年度分裏表紙の記載〕、同年九月二一日、同四八年四月一九日)、四〇分である事例が四例(同四七年九月六日、同月一四日、同月二五日、同四九年五月四日)、五〇分である事例が四例(同四七年七月一〇日、同四八年七月一八日、同年一〇月一二日、同四九年四月二三日)(なおその余の事例は用件処浬のため待機時間が長かったことによるものと考えられる。)あることが認められ、かかる運行事例に徴すると、官邸~田中私邸間往復に要する時間は、本件金銭授受当時に近い右清水ノートに記載されている所要時間に従うのが当を得た処理と考えられる。してみると、笠原車が参議院議員会館~田中私邸間を往復するに要した走行時間は、右議員会館~官邸間の往復分を考慮に入れても、三〇分余ないし長くても五〇分以内の時間で可能であったと認められるので、これに田中私邸到着後居宅一階奥座敷に搬入するために要する時間約三分を加えると、三三分余ないし五三分以内の時間で右搬入行為を完了することが可能となる。したがって、午後六時九分までに右議員会館に戻るためには、同所を同五時一六分ないし同五時三六分までに出発すれば足りるところ、新谷議員と同五時一〇分ころ面談し、その所要時間は前記のとおり短時間であったと推認できるので、右時刻までに同所を出発することは十分可能であったと考えられる。このように考えると、笠原車を使用して金銭授受を行い、一旦砂防会館に戻って清水車に乗り換えて官邸に帰り、再び清水車で参議院議員会館に赴いて所用を済ませ、この間に笠原車を同所付近に回送させて同車に乗り込み、田中私邸に受取った現金入り段ボール箱を搬入したうえ右議員会館に戻り、清水車に乗車して官邸に帰るという複雑な車の乗り換えをするとともに、清水車を右搬入に要する時間同所に待機させたことになるが、このような乗り換えをしたのは、前記のとおり、ロッキード社側から現金入り段ボール箱の引渡しを受けた伊藤よりその日のうちに授受を済ませたいという要請を受け、榎本においてこれを受け入れ多忙な日程の合間にこれを受取るべく約束したこと、並びに、右授受や搬入に清水の関与を排除したことによるものと認められるので、これをもって特に不自然不合理であると考えるのは相当でなく、また、清水車をかなりの時間待機させた点は、清水ノートの記載によると、運行先で同車を長時間待機させることは通常のことであったと認められるので特に異とするに足りない。(なお、原判決は、榎本がホテルオークラにおける金銭授受を終えた後、笠原車で直接参議院議員会館に赴き新谷議員との面会を済ませたうえ同車で田中の私邸に搬入し、更に同車で右議員会館に戻り清水車に乗り換えて官邸に帰ったと考えることも可能であり、この場合砂防会館から官邸に帰る清水車に乗っていなかったことになる旨判示している。しかしながら、右のように考えた場合には、清水車は砂防会館で二一分ないし二七分待機したうえ空車で官邸に帰ったことになるところ、笠原車を使用することにより清水車は不要となったのになぜ清水車が右の時間待機したのか、あるいは、榎本はいつ空車で官邸に戻るよう指示したのか等の点につき理解できなくなるし、更に、榎本が搬入後官邸に戻るに際し清水車を参議院議員会館まで迎えに来させる時刻は榎本が同所に戻る時刻に合わせれば足りるのになぜ一時間二〇分余も同所で待機させたのかの点も理解できなくなる。したがって、このような想定は可能ではあっても不自然不合理なものとして採ることはできない。)以上の検討で明らかなとおり、清水ノートの記載や新谷議員との面会を裏付ける証拠は前記金銭授受の事実を認定する妨げとなるものではなく、その他のアリバイに関する全立証をもってしても、金銭授受の事実があったことについて合理的疑いを生ぜしめるものはなく、したがってこの点の所論も失当である。

4 第四回目の授受に関するアリバイの成否について

清水ノートの昭和四九年三月一日の欄に、「午前七時一五分(官邸発)~上中里~総理私邸~同九時四五分(官邸帰着)」という記載があり(「上中里」は榎本の自宅である。)、また、清水手帳の同日欄には、榎本を迎えに行く指定時刻として、午前七時四五分という記載があり、これに清水証言を加えて検討すると、清水は、当日、清水車を運転して午前七時一五分官邸を出発し、上中里の榎本方に同人を迎えに行き、同所から同人を乗せて目白の田中私邸に赴き、その後、更に同所から榎本を乗せ同九時四五分官邸に戻ったことが認められる。榎本は、公判廷において、右清水ノートの記載に関連し同日朝の自己の行動について、「清水車が午前七時一五分に官邸を出発しているので自宅に到着したのは同七時三五分から同七時四〇分の間と思う。清水車が到着して通常二〇分くらい待たせて出発していたので自宅を出たのは同七時五五分ないし同八時ちょっと前くらいの見当で、それから田中の私邸に向ったが同私邸内の事務所に着いたのは同八時一五分見当である。右事務所に着いたとき、竹中修一衆議院議員と山崎竜男参議院議員が居たので両名に『もう総理と会ったのですか。』と聞いたら『まだだ。』と言っていた。竹中は青森県の市長選挙があり自民党の候補者が負けたのでお詫びに来たと言い、山崎は右市長選挙のことのほか下北汽船のことで陳情に来たということであった。事務所に着いてわかったところによると、田中は東京逓信病院の渡辺正毅医師から顔面神経炎の低周波治療を受けているということであったが、両議員と右のような話をしているとき治療を終った田中が、大きな声で『いや、待たせたな。』と言って入って来た。田中は両議員らと各別に合計一〇分ほど面談した後すぐ出邸したと思うが自分はそれを見送った。竹中は先に話をして直ぐ帰りその場に居なかったが、山崎は田中の出邸を見送っている。その後で山崎と約二〇分ほど話をした。同人が、忙しいのにずいぶんゆっくり話を聞いて貰ったとか父親の話が出て感激したということを話していたことが印象に残っている。山崎は午前八時五〇分ころ帰ったがその後で新潟県の来客と同県知事選挙に関する遊説のことについて話をし、午前九時五分か一〇分ころ清水車で右私邸を出発し同九時四五分官邸に到着した。したがって右の時間帯に伊藤方に行ったことはないし、この日同人から現金入り段ボール箱を受取ったということはない。」と供述している。そこで、右榎本の公判廷における供述の信用性に関連し、右供述を裏付ける証拠の存否並びに榎本が同日午前八時ころから同八時三〇分過ぎころまでの時間帯に右田中事務所に居たかどうかについて検討する。清水手帳の記載によると、同日朝榎本を同人宅に迎えに行く時刻が午前七時四五分と指定されていたことが認められる。そして、榎本は清水車が迎えの指定時刻に遅れたことはない旨供述し、かつ清水も、官邸と榎本方間の所要時間は二〇分で通常途中上中里駅でスポーツ新聞を買っていたが指定時刻の五分前までには同人方に到着していた旨証言していること、及び、前記のとおり清水車が官邸を出発したのが午前七時一五分であること等を総合すると、当日、清水車は遅くとも同七時四〇分までには榎本方に到着したと認められる。ところで、榎本が自宅を出た時刻について午前七時五五分から同八時少し前ころと供述しているのは具体的な記憶に基づくものではなく、それが清水ノートと清水手帳の各記載及び清水車到着後家を出るまで約二〇分待たせるのが普通であったという通常の習慣をもとにした推測によるものであることはその旨の榎本の供述(原審第一五一回公判)自体から明らかであり、また、清水も平素迎えに行った際二〇分から三〇分近く待たされるのが普通であった旨榎本供述に添う証言をしているが、同人は他方において当日の状況については具体的な記憶がないと述べるとともに、迎えに行った際榎本がすぐ乗車することもあった旨供述しているのである。しかして、関係証拠によると、前日の昭和四九年二月二八日、伊藤はロッキード社から受取った現金入り段ボール箱をその日のうちに榎本に引渡すべく同人に連絡したが、両者の都合が調整できず、結局両者間において翌三月一日伊藤が出社する前に伊藤の自宅で引渡す約束をしたことが認められる。しかして、前記松岡作成の自動車行動表によると、通常伊藤が出社のため自宅を出る時刻はおおむね午前八時であるところ、三月一日松岡が迎えのため伊藤方に到着したのは午前八時三〇分であることが認められ、平素より三〇分遅らせているのは右金銭授受のためと考えられると同時に右時刻以前に授受を済ませることが予定されていたというべきである(もっとも、右自動車行動表等によると、伊藤は当日欠勤したことが認められる。)。このような事実に照らして考えると、榎本は伊藤の出社に支障を生ぜしめないようにするため予定された時刻までに伊藤方に赴くべく、清水が「迎えに行ってすぐ乗車したこともあった。」と述べているように、午前七時四〇分までに到着した清水車を待たせることなく、同時刻ころ同車に乗り込み田中私邸に向ったと考えるのが自然かつ合理的であって、そのように推認できる。そうすると、清水証言(原審第一二七回公判)によれば、榎本方から田中私邸までの所要時間は一五分ないし一七~八分というのであるから、榎本は午前八時少し前に田中私邸に到着したと認められる。そして、竹中修一の昭和四九年度衆議院手帳(弁156)の三月一日欄に「総理宅(山崎、千葉元江)」、山崎竜男の昭和四九年度参議院手帳(弁132)の三月一日欄に「七・三〇総理宅mit千葉先生」とそれぞれ記載されていること、並びに原審証人竹中修一、同山崎竜男の各証言及び同千葉元江の尋問調書を総合すると、同日、竹中修一衆議院議員、山崎竜男参議院議員及び千葉元江下北汽船株式会社代表取締役が田中の私邸を訪れ田中と面談した事実を認めることができるところ、竹中は、同日田中の私邸に行った時刻について、具体的な記憶はないが、「田中の私邸に行くときは一貫して八時前に行くようにしているので八時前に行っていると思う。」旨証言し、また、山崎が「千葉元江を同行し同日午前七時四〇分ころ田中の私邸に着き応接間で待っているとき、午前八時前後ころ榎本がやって来て、『どうしたんですか。今日先生が来るのをおやじさん知っておりますか。』と話しかけ『きのうお約束しました。』等と話し、榎本は事務所の方へ行った。」旨、また、「竹中がやって来て、『お前も来ているのか。』という程度の挨拶をしただけですぐ隣りの事務室の方へ行ったので、その後竹中が田中と会うまでの間に竹中と話をしたことはなかった。」旨、そして、「竹中がやって来たのは榎本と前後したころであるが榎本が来たのが早かった記憶がある。」等と証言していることを総合すると、榎本が田中私邸の事務所に到着したのは竹中が来る前の時刻、すなわち、午前八時前であったと認められるのであって前記認定と符合する。なお、榎本は右事務所に着いたとき山崎と竹中の両名が既に居て両名と話をした旨供述するのであるが、右山崎の証言に照らして措信できない。また、竹中は右事務所で榎本と会い来訪目的すなわち青森市長選挙敗北のお詫びに来た等の話をした旨証言しているのであるが、同人は前記手帳の記載で明らかな昭和四九年度中の一一回にわたる田中私邸訪問時の状況について質問を受けながら、三月一日以外の日の分については手帳に記載されていること以外は何も具体的な記憶がない旨述べており、かつ、三月一日の状況についても榎本と会ったのが田中と会う前であったのか後であったのか、またどのような状況で会ったのか具体的な状況については記憶がない旨供述しているのであって、その供述自体から、三月一日に限って榎本に会ったことを手帳に書いてもいないのに記憶しているというのは不自然と言うべきであり信用しがたく、仮に、竹中が榎本と会って話をしたことが真実であったとしても、右証言によると、ごくわずかの時間で声をかけた程度のものと考えられる。右のとおり、榎本が田中の私邸に着いたのは午前八時前であり、山崎や竹中と話をしたのが前記の程度であればごく短時間のことと認められるので、同八時ころ笠原車に乗って同所を出発することは可能なことであり、田中私邸と伊藤の自宅の間を往復するに要する時間は、榎本作成の昭和五三年五月一日付報告書(弁431)によると二七分間、前記検察事務官作成の実況見分調書によると三〇分間であるから、伊藤が居住するマンションの居室に上がり現金入り段ボール箱を受取るための所要時間(前記ビデオテープによると三分以内で可能と認められる。)を考慮に入れても、右段ボール箱を受領し、同八時三〇分ないし八時三三分までに田中私邸に戻ることが可能となる。そして、前記山崎及び千葉元江は、田中と面談後玄関から出る田中を見送り(山崎は田中が居宅に帰ったと思う旨述べ、千葉は自動車で出邸するのを見送ったと述べ、両者の証言には違いがある。)、その後、一旦応接室に戻っていたとき榎本が来たので話をしたと証言しているのであるが、田中が右面談後直接出邸したとしても、前記総理大臣行動日程一覧表写しによると、私邸を出たのは午前八時三二分であるから、榎本が右私邸に戻った直後ころ、応接室に残っていた山崎らと話をすることが可能であるとともに、時間的に符合する。なお、榎本は、田中の出邸を見送ったと言うのであるが、山崎も千葉も榎本が田中の出邸を見送ったとは証言していないことに照らし信用できない。榎本が、伊藤方から戻った後、いつ段ボール箱を田中の居宅に搬入したかさだかではないが、右搬入は、清水車で官邸に向け出発するまでの間に行うことができることは言うまでもなく、搬入の所要時間が三分程度であることに徴すると、戻った直後搬入し、その後山崎らと面談することができなかったとは考えられない。

してみると、榎本供述を除くその余のアリバイ立証に関する証拠は、伊藤方における第四回目の金銭授受の事実を認定する妨げとなるものではなく、また榎本が右金銭授受の事実と抵触する時間帯に田中私邸の事務所に居た旨の榎本供述の真実性を裏付ける証拠はないことに帰する。そして榎本の供述は、当日朝田中の私邸に行った際竹中と山崎が居て両名と話をしたと述べている点や田中の出邸を見送ったと述べている点において山崎の証言と符合せず、また、田中の日ごろの行動態様につき、田中が事務所に出て来客と応待したのち居宅に戻ったことはない旨供述している点は田中自身の公判廷における供述やその他の関係証拠と符合しないなどアリバイ立証関係証拠自体と抵触する内容を含み、総じて記憶にないことをあたかも記憶に基づくものである旨述べるとともに、これに関連し、当時田中が顔面神経炎の治療を受けた後事務所に現われ私邸を出発するまでの間に来客と会うのが通例であったとするならば、面会できるのはわずかの時間にすぎないのに、この間に、約束の時間に合わせ午前七時三〇分ころ訪問し、右治療終了時までには四~五〇分も待たせることになる多くの来客とほとんど面談することができる旨(それが事実に反することにつき、閣議開催日における日本経済新聞縮刷版首相官邸欄の記載及び渡辺医師作成の田中総理顔面神経炎治療記録日誌〔甲二181〕に表れている右治療時間並びに田中角榮前総理大臣行動日程〔実績〕一覧表写し記載の田中の私邸出発時刻を対比した検察事務官作成の昭和五六年一〇月一九日付捜査報告書参照)述べるなど強引かつ不自然不合理な内容を含み、それ自体信用性に乏しいものがある。そして右榎本供述は公判廷における金銭授受否認の供述に対応するもので、伊藤から同人方で現金入り段ボール箱を受取ったことを認めている榎本の検察官に対する自認供述と自己矛盾し、かつ、伊藤の捜査公判を通ずる供述及び笠原供述書並びに右証拠の真実性を裏付ける前記関係証拠と対比して措信できず、榎本は前示同様、清水ノート等の関係証拠を手がかりに自己の行動をこれに関連づけて作為的に供述したものと考えられる。

原判決は、山崎が証言するように、同人が田中私邸の事務所で同日午前八時及び八時三〇分過ぎころ榎本と会ったとしても、その間に榎本が笠原車で伊藤方に赴き現金を受取り戻ってくることが可能である旨判示しているほか、山崎の右供述の信用性には重大な疑問があるとし、補足して判断を加えている。すなわち、原判決は、田中が、昭和五二年一月二七日原審第一回公判期日において、同日付「被告事件に関する陳述の要旨」と題する書面に基づいて陳述した中で、「自宅における来訪者との面接は朝のごく短い限られた時間に行われます。官邸などで会えない選挙区からの来客などが主でありますが、官邸日程に時間的に組み入れられなかったものなども一部組み込まれてくることもあります。」「朝自宅で七時のNHKニュースを見てから、別棟の事務所へ出かけ、それから来客と面談する習慣になっていましたので、応接室で来客との面談が始まるのは七時半ころからであったと思います。また国会等へ出勤の前に朝食をとることが例になっておりましたので、出勤の三〇分前位までには面談は終ることになります……。」と述べていることを基本的な根拠とし、関係証拠に基づき、田中は「内閣総理大臣在任中、通例午前七時三〇分ころから私邸内事務所で来客と面談していたと認められること、他方、渡辺医師作成の治療記録(甲二181)によれば、同医師の治療は毎回ほとんど午前八時以降に行われたと認められること、昭和四九年三月一日も午前七時四〇分ころには山崎らが私邸を訪問し、他方、渡辺医師の治療はその約三〇分も後の午前八時九分ころに開始されたのであり、なお、その間田中が来客に会えない特段の事情があったともうかがわれないこと等に照らすと、田中としては、渡辺医師の治療開始より前に来客と面談するのが通例であり、また同日もそうしたと認めるのが自然である。」「同日山崎、竹中らが田中と面談したのは、同人が顔面神経炎の治療を受けるより前(すなわち午前八時九分ころよりもかなり前)であって、田中は、山崎、千葉との面談後、直ちに私邸を出発したのではなく、右治療を受けまた朝食をとるため、私邸内事務所から居宅部分へ移動したと認められる。」「そうすると、山崎らは同日田中の私邸で田中が午前八時九分ころから居宅部分で治療を受けられるだけの時間的余裕をおいて田中と面接したことになるからその面談の前後、榎本と会ったことがあるとしても、それは山崎が供述するような時間帯(午前八時ころ及び八時三〇分ころ)のことではなく、午前八時過ぎから若干時間後までのことと考えられ、その後において、榎本が笠原車で伊藤の自宅に赴き、午前八時三〇分より前にそこで現金を受取ることは十分可能であったと認められる。」と判示し、右判断と抵触する山崎の供述、榎本の供述、田中の供述並びに原審証人山田泰司(第一三四回公判)、同片岡憲男の各証言がいずれも信用できない理由を詳細に判示している。しかして、関係証拠を検討すると、原判決の右判示は首肯できないわけではない。田中は原審第一八三回公判期日において、第一回公判期日において述べた来客との面談の時間及び朝食の時間について、「朝食を人に会ってから食べると言ったのは、七月、八月の暑い時の問題を頭においていたわけである。総理大臣就任直後は来客が非常に多く、来客との応接後食事をとるようにすると、閣議の日などは朝食がとれないこともあるので、だんだん落ち着いてきてからは起きがけに食事をとり、官邸等へ出るのが遅くてもいいような場合には応接後食べるということもあり、そういう意味で閣議の日は原則として起きがけに朝食をとるようにしていた。」「顔面神経炎の治療を受けていた時期においては起きがけに朝食をとり治療を受けた後来客と面接していた。もっとも治療前に来客と会うことが全くなかったというわけではなく、来客が多い場合事務所から連絡があるので早く出ることがある。ただ閣議の日は食いっぱぐれがあるので絶対起きてすぐ食事をしている。」などと供述しているところ、前記検察事務官作成の捜査報告書(甲一282)に添付されている日本経済新聞の首相官邸欄に記載されている私邸への来客状況、渡辺医師作成の田中総理顔面神経炎治療記録日誌(甲二181)に記載されている治療時間、及び前記総理大臣行動日程一覧表に記載されている田中が私邸を出発した時刻を対比してみると、右治療前に来客と面談したと認められる日がむしろ多いこと、また原判決が判示しているように第一回公判期日における供述は榎本アリバイに関する争点和生ずる前、これを意識せず来客との面会の多忙さに力点を置いて当時の習慣を説明したものであるから信用に値すると認められるのに対し、第一八三回公判期日における供述はアリバイ主張における争点を意識しこれに符節を合わせてなされた疑いが濃いことにかんがみると変更した後者の供述をたやすく信用することはできがたい。しかしながら、田中の第一回公判期日における供述は、総理大臣在任中の習慣について時期を限定することなくなされているとはいえ昭和四七年八月二三日檜山が田中の私邸を訪れ請託したとの公訴事実に関連しこれを意識してなされたものとうかがえること、昭和四九年三月一日の来客は、竹内、山崎、千葉のほか新潟から来た二名があるのみであるところ新潟からの来客とは特に面談した形跡がなく、治療終了(午前八時一五分)後出邸するまでの間に竹内、山崎、千葉らと面談ができないとは考えられないこと、山崎は田中の私邸を訪れた際通常あまり待たされることなく面会できていたのに右当日に限って長時間(同人の供述するところによると四〇分間くらいになる。)待たされたので特に印象に残っている旨述べていること、千葉は山崎に伴われて田中の私邸を訪れたことが二度あるが、右当日面談終了後自動車で出邸する田中を見送った旨断言していること、田中の朝食時間が原則的には面談後であったとしても例外的に面談前に食事をとることがなかったとは断定しがたいこと等を併せ考えると、三月一日当日田中が治療前に朝食をとり、治療後面談してそのまま出邸したことを確定的には否定しがたい。したがってアリバイ主張につき判断するに当たっては、当日田中が治療前に食事し、かつ、治療後山崎らと面談したものとしてその成否の判断をするほかなく、このような前提にたち山崎供述が一応信用できるものとして検討しても、アリバイが成立しないことは前記のとおりである。してみると、アリバイに関する全立証をもってしても、第四回目の金銭授受の事実があったことにつき合理的な疑いを生ぜしめるものはなく、この点の所論も失当である。

以上の次第で、四回にわたる各金銭授受につき、榎本のアリバイが成立しないとしてその主張を排斥した原判決の判断に誤りはなく、論旨は理由がない。

第五  請託に関する事実誤認の論旨について

コーチャン及びクラッターが関与しロッキード社から出損された現金五億円が、丸紅の檜山、伊藤、大久保の関与のもとに、榎本を介し田中に交付されたことは明らかであるところ、右現金授受がなされた理由について、原判決は、罪となるべき事実において「被告人檜山、同伊藤及び同大久保は、コーチャンを加えた四名で、昭和四七年八月上旬から同月二二日までの間に、順次、内閣総理大臣たる被告人田中に対し、運輸大臣(等関係大臣)を指揮して全日空にL一〇一一型機を選定購入するよう働きかけるべきこと、ないし、同被告人が直接全日空へその旨働きかけるべきことを依頼し、その働きかけ等協力に対する報酬として、同被告人に対し五億円を供与する趣旨の共謀を遂げたうえ、これに基づき、被告人檜山が、同月二三日、東京都文京区目白台一丁目一九番一二号の田中方において、全日空に対しL一〇一一型機の選定購入を勧める行政指導をなすべく運輸大臣を指揮監督する権限を有する内閣総理大臣たる同人に対し、丸紅反びロッキード社の利益のため、全日空がL一〇一一型機を選定購入するよう同社に行政指導をなすべく運輸大臣(その他機種選定に関し同社に働きかける権限を有する国務大臣)を指揮し、ないし田中自ら直接働きかけるなどの協力方を依頼して請託するとともに、同社に対する同型機の売込みが成功した場合、右協力に対する報酬の趣旨で現金五億円を供与することを約束し、」「被告人田中は、右職務権限を有する内閣総理大臣在任中の昭和四七年八月二三日、右自宅において、檜山から丸紅及びロッキード社の利益のため、右のとおりの協力方を依頼されて承諾し請託を受け、その協力に対する報酬の趣旨で現金五億円の供与を受ける約束をした。」旨の事実を認定している。これに対し、所論は、檜山、伊藤、大久保らには、田中に対し、全日空がL一〇一一型機を選定購入するよう働きかけるなどの協力を依頼して請託をしなければならない動機(その理由と必要性)はなく、同人らが判示のような共謀をした事実及び檜山が田中に対し右のような協力を依頼して請託したり、五億円供与の申出をした事実はなく、また、田中が右請託を受けて五億円の供与を受ける約束をした事実もなく、更に、原判決が、右請託の存在を裏付ける諸事実として認定している事実は存在しないのであって、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認があるというのである。そこで、所論にかんがみ、記録並びに証拠物を調査し当審における事実取調べの結果をも加えて以下順次検討することとする。

一  請託の動機について(檜山らにはL一〇一一型機売込みについて田中に協力を依頼しなければならない理由も必要性もなかった旨の主張について)

1 全日空に対するL一〇一一型機売込みの情勢について

所論は、<1>昭和四七年七月当時、L一〇一一型機売込みの情況は極めて有利に展開していたことが明らかであり、それは全日空が同年一〇月三〇日右航空機を選定するまで続き、売込みの阻害要因となる不安要素はなかったのであって、請託の共謀がなされたという同年八月上旬から同月二二日までの時点において請託を必要とする客観的情況は存在しなかった。<2>原判決は、請託の共謀がなされた原因を、檜山が右航空機売込みについて焦慮していたという点に求めているが、丸紅のような事業本部制を採っている巨大商社において社長自ら行動を起こすには下部からの強い要請が不可欠であり、檜山が焦慮するについては、当然丸紅の売込担当者らが売込みについて焦慮したうえこれを成功させるため大久保や檜山になんらかの働きかけを要請した事実がなければならないはずである。しかるに、丸紅の売込担当者らは有利に展開している客観的情況を認識し明るい見通しをもっていたのであって、かかる働きかけをしなければならない情況もまたかかる働きかけをした事実もなく、したがって、檜山が焦慮しなければならない理由は存在しなかった、というのである。そこで以下検討する。

(一) 原判決は、昭和四七年七月ないし八月の時点における全日空に対するL一〇一一型機の売込み情況について、<1>英国ロールス・ロイス社製造にかかる右航空機用のエンジンの開発が遅れたため同航空機の開発製造が遅れたこと、武装へりコプターシャイアンが試験飛行中に墜落事故を起こし、そのため米国国防省から同機の購入契約を破棄されたこと、同国防省から大型輸送機ギャラクシーの購入契約の一部を破棄されたこと等によりロッキード社は著しい財政状態の悪化に陥り、また、右ロールス・ロイス社が昭和四六年二月倒産したため右L一〇一一型機の生産自体が可能かどうか危ぶまれる情況となっていたが、同年八月ロッキード社に対する民間融資二億五、〇〇〇万ドルにつき米国政府が保証することを同国議会が承認し、これを受けて、英国政府がロールス・ロイス社の航空機エンジン部門を引継いで生産を継続することとなったことにより、右航空機生産自体に対する不安、懸念は一応解消されていたこと、<2>L一〇一一型機は、その製造に当たり、性能要件が厳しく高度の技術が要求される軍用機を開発製造してきたロッキード社の経験と技術が生かされ、全体として競争機種であるダグラス社のDC一〇型機と同一水準にあるとの評価を受けるべき航空機であって、米国における測定によりDC一〇型機よりも二~三ホーン低いという結果を得た騒音値の低さを特色とするほか、効率のよい三軸構造でコンパクトなエンジン、自動着陸装置など未来を指向する設計思想に支えられた高度の技術が売り物であって、売込み活動により全日空関係者の間にこの点の認識が次第に浸透していったこと、<3>昭和四七年七月下旬行われたL一〇一一型機とDC一〇型機のデモフライトの結果、L一〇一一型機は騒音値が低く、自動着陸装置がすぐれていることなどが証明され、騒音測定の際、ロッキードは沢山の予備品を積んで機体を重くして飛んだのに、ダグラスの方は非常に軽機体でしかも急上昇して騒音値が低く出るような飛び方をしたことや、ダグラス社の態度がやや官僚的であったのに比して、ロッキード社の方はコーチャン社長自らデモフライト機に搭乗して説明するなど好評を博したことから、全日空関係者の間でL一〇一一型機の評価が非常に高くなったこと、<4>DC一〇型機は、昭和四七年五月二日、同年六月一二日、同年七月二七日相次いで事故を起こし、そのいずれもがエンジンあるいは機体の欠陥より生じたものと指摘され、同型機の評価が低下する一方で相対的にL一〇一一型機が有利な立場に立つに至ったこと、<5>昭和四七年七月当時には、ボーイング社のB七四七型機はあまりにも大きすぎて全日空の有する路線には不適合と考えられ、事実上売込み競争から脱落していたこと、以上の事実を認定しているところ、関係証拠を総合するとこれらの事実を肯認できるとともに、これらのことは、L一〇一一型機売込みにとって有利な事情というべきであり、大久保が、当時の情勢は同人が本部長に就任して以来一番よい情況にあったと述べているのも首肯できるし、所論もまた右認定を有利に援用したうえ、当時の情況はロッキード社、丸紅側に極めて有利に展開し、それ故に檜山らから田中に対し請託をしなければならない事態は全くなかったというのである。

(二) しかしながら、請託の必要性は、全日空に対するL一〇一一型機の売込みの見通しが悲観的であるとの危機意識を持った場合にのみ生ずるものではなく、また、売込みをめぐる情況が従前に比し有利に展開し、売込み開始後最良の状態にあったというだけで消滅するものではないのであって、本件において、その必要性、すなわち、動機事情の存否を判断するに当たって留意すべきことは、檜山や大久保が、請託をするまでもなく売込みの成功が間違いないとの確信を持ち得たと認められるか否かにある。ロッキード社の社運をかけ、売込みを成功させるためには丸紅との代理店契約を破棄することさえあえて辞さない態度を示したロッキード社の熱意に応えてその契約関係を維持し、かつ、長年多くの費用と労力をかけた売込みの努力を実らせ、他社との競争に勝利を収めて丸紅の業績と企業イメージを高めるうえから、売込みの成功を至上命題とするかぎり、ただ劣勢にあった売込み情況が好転し、丸紅の売込み過程において最良の状態にあったとしても、それが、客観的に、売込みの成功は間違いないとの確信に結びつかない限り、なお不安が残り、最後の切札として、政治的働きかけを必要とした情況はなくならないものと解せられるのである。かかる観点から全日空に対するL一〇一一型機の売込みをめぐる情況を検討するに、<1>まず騒音の点についてみるに、L一〇一一型機の騒音は米国連邦航空局(FAA)から世界で最も低いとの評価を受けていたのであるが、前記デモフライトの際の測定結果では、ある地点においてはL一〇一一型機が低くDC一〇型機が高く観測されたのに、他の地点においては逆の結果が観測され、その平均値において両機に大差がなく、DC一〇型機も意外に騒音が低いことが判明し、両機とも在来機と比較して著しく低いとの好評価を得たのであって、飛行方法等の違いや米国における測定値に二~三ホーンの違いがあったことを考慮に入れても、騒音量の点でL一〇一一型機が決定的な優位に立っていたとは考えられない。また、航空機の構造上の欠陥による事故が、安全性の見地から、機種選定上大きなマイナス要因になるであろうことはいうまでもないが、この点については、事故原因の究明による機体の改善命令ないし改善勧告がなされるとともに、航空機製造企業において最善の技術的対応策を講じ航空運送企業に対しその説明をするなどしてマイナス要因を除去するための努力をするであろうことはみやすい道理であり(全日空の新機種選定準備委員会の委員長であった同社副社長渡辺尚次は、原審公判廷〔第四七回〕において、飛行機というものは、統計的にみても相当事故が起こるものであり、事故が起こったとしても、国の改善命令、指示に基づく技術的対応によって安心できる場合があるから、一概に事故があったからこの飛行機は駄目だという簡単な結論が出るわけのものではないと証言している。)、現にダグラス社は全日空に対しそのための説明をするとともに売込み工作を継続しているのであって、同年八月三〇日の全日空の同委員会において候補三機種間には決定的な優劣がなく一機種にしぼることは困難であるとしてDC一〇型機不採用の意見を出していないこと及びその後日本航空において、長距離用ではあるが、DC一〇型機を購入していることに徴しても、ダグラス社において前記事故による劣勢を挽回する余地がなかったとは考えがたい。L一〇一一型機が未来を指向する設計思想に支えられた高度の技術を特色とする新しい時代の航空機であるということは、その優秀性を示す反面、民間旅客航空会社である全日空の運航、整備関係者にとっては不慣れなことを意味し、同社の能力をもって同機を円滑に運航することができるか懸念される事柄でもある。それ故に全日空においては運航、整備の両面にわたるロッキード社の強力な支援の保証を求めていたのであり、この点の対応のよさが全日空関係者の好評を博する一要因となったものであるが、これらのことは、L一〇一一型機を採用した場合における運航、整備面の不安要素が解消されることを意味するにとどまり、既に運航経験のあるDC八型機等DC型シリーズの延長線上にあるDC一〇型機を採用した場合これに比較的なじみやすいのと対比し、運航、整備面において決定的優位性をもたらすものとは必ずしも考えられない。<2>ところで、L一〇一一型機売込みの中核として働いていた丸紅の機械第一本部輸送機械部長代理松井直及び同航空機課長坂篁一は、デモフライト後の時点における諸情勢を検討し、L一〇一一型機売込み上の問題点を整理したうえ、坂において、昭和四七年八月七日付コーチャン宛書簡の草稿「L-1011 Sale for Japan 」という表題の書面(甲再二7)を作成しているが、この中でロッキード社に勧告すべき点として、<ア>全日空の今後の機種体系としては、エアバス基本型-同機の長距離型-胴体延長型が望ましいという意見が一番有力であり、L一〇一一-二型のGo aheadの正式発表がないことはダグラスに比し弱く、L一〇一一支持者はこの点をつかれると反対者を説得できないこと、<イ>日本の航空会社の幹部の考え方では、両機の総受注機数の大小というのは非常に大きな決定要因となることは事実であり、競争相手はL一〇一一の外国からの受注数が少ないことを指摘して盛んに吹き込んでいるので、BEA(ブリティシュ・ヨーロピアン・エァウェイズ)から注文内示書(レター・オブ・インテント)程度のものでも八月末日以前に取付け、これを大々的に発表すること、<ウ>一九七二年七月四日付の「ロッキード社依然として財政危機」というシアトル・ポスト紙の記事が日本語訳をつけて全日空の幹部にばらまかれているが、ロッキードもPRを上手にしてこのようなことがないようにすること、必要があればなんらかの対抗措置をとるのが望ましいことを挙げ、以上の三点がL一〇一一に残された放置できない弱点であり、この点の適切な解決があれば我々は勝利を確信するとしている。<ア>〔L一〇一一-二型機の問題〕L一〇一一型機は同型機の基本型で中距離用の機材であるが、全日空は近距離国際線への進出を考えていたところから、若狭社長はじめ全日空関係者は、右草稿が作成される以前はもちろんその後においても、機種選定に当たり、近距離国際線の就航に耐えるL一〇一一型長距離用機材の開発問題を極めて重要視し、その構想の有無、航続距離などについて説明を求め、ロッキード社側も一応その開発構想のあることを表明して説明していたのである。しかしながら、右開発構想なるものは公表されず結局実現されなかったのであって、この点について、大久保は、長距離型の開発は難事業でロッキード社にはそれができるような準備態勢はできておらず、財政的にも非常に負担過重であったと思う旨及びこの点についてのコーチャンの対応をみてそのように思った旨述べており、また若狭社長が、昭和四七年九月二六日、伊藤忠商事株式会社(ロールス・ロイス社の代理店)の越後社長に会った際、「東京・ホノルル間はL一〇一一-二型ならば問題ないというが理論的にそうであっても実際はどうか。」と尋ねたことが丸紅の売込担当者に伝えられていることに徴すると、同年八月当時、長距離型開発の具体的なめどがついていたのかまたその実現の可能性があったのかは極めて疑わしく、丸紅の売込担当者ら自身疑念を抱くとともにこの点につき全日空関係者を説得できたかどうかについて不安を抱いていたことが認められる。これに比し、ダグラス社においては、当時既に長距離用機材としてDC一〇-二〇型機、DC一〇-三〇型機を製造し一部飛行しはじめていたのであって、全日空は近い将来進出する国際線に使用できる長距離用機材を念頭において機種の選定を行うであろうから、この点の遅れはL一〇一一型機の売込み上不利な要因として作用することが予想されていたのである。それ故に松井や坂は危惧を感じ、少なくともL一〇一一-二型機の製造に取りかかることを正式に公表してもらわないことには、ダグラス支持者から国際線問題を持ち出された場合、L一〇一一型機に好意を持っている人も反論できないであろうことをおもんぱかって前記の勧告をする必要があると考えたのである。<イ>〔L一〇一一型機受注機数の問題〕ロッキード社は、もともと軍用機の製造に従事し、民間旅客機の分野においてはプロペラ機時代とエアバス開発までの間に空白の時代があり、この間にダグラス社はDC八型までのシリーズ、またボーイング社はB七〇七型等民間旅客機を開発製造し、世界の民間航空企業に使用されるとともに信頼を博し、わが国においても全日空や日本航空がこれらの航空機を就航させ運航、整備面において慣れ親しみ信頼していたのである。ロッキード社は民間旅客機を手がけた実績がなく、また、L一〇一一型機の開発自体競争機種に遅れたことは同機に対する一般的社会的信頼性の面でマイナス要因として作用し、丸紅の売込担当者もこの信頼性の低さから売込みに苦労した旨述べている。もっとも、ロッキード社や丸紅の売込担当者がL一〇一一型機の性能面での優秀性について説明し、運航、整備面での強力な支援につき誠意ある態度を示したこととあいまって全日空関係者の理解と好評を得たことは前記のとおりであるが、実績のあるダグラス社製航空機に対する民間航空関係者の性能面を含む一般的な信頼性はあなどりがたいものがあり、両社の受注機数は原判決が判示しているとおり、昭和四七年二月一五日現在においてL一〇一一型機一五四機に対し、ダグラスの場合競争機種のDC一〇-一〇型機は九七機であるが長距離型を含むDC一〇型機全体では二二四機であってダグラス社製航空機に対する信頼の高いことを示している。全日空関係者も、この面からDC一〇型機との比較においてL一〇一一型機の世界的な総受注機数について関心をもちその説明を求め、またダグラス社やその代理店三井物産株式会社の売込担当者は、売込みに際しこの点を強調していた向きがあり、丸紅の売込担当者もL一〇一一型機に対する一般的な信頼性をより高める必要性があると考えていたことは、前記草稿中の記載から明らかであり、昭和四七年八月当時、DC一〇型機の前記事故があったにかかわらず、なおダグラス社製航空機に対する一般的な信頼性はあなどりがたく、L一〇一一型機売込み上の一つの問題点として認識されていたことは明らかである。なお、全日空の若狭社長は、英国政府が関与するロールス・ロイス社製のエンジンを搭載しているL一〇一一型機を同国の国営企業であるBEAにおいて購入しないのはなぜなのか疑問を抱きしばしばこの点を問題にしていたところ、丸紅の売込担当者はこの点の不信感を取り除くため前記コーチャンあての書簡(草稿)においてBEAをしてL一〇一一型機の購入を公表させる必要性のあることを勧告しようとしたものと考えられる。もっとも、この問題は、昭和四七年八月七日英国政府がL一〇一一型機の購入を発表し翌八日付の日本経済新聞がこれを報道したことにより一応解消しているのであるが(右購入には同型機の長距離型が生産されることを条件としていることがうかがわれ、この点は留意されるべきことである。)、このことが、ダグラス社製航空機に対する一般的な信頼性があなどりがたくL一〇一一型機売込み上の一つの問題点として認識されていた旨の前記判断の妨げとなるものでないことは右書簡草稿の記載に照らし明らかである。<ウ>〔ロッキード社の財政問題〕ロッキード社の財政的危機が一応解消されたことは前記のとおりであるが、だからといって同社が財政的に安定したというものではなく、L一〇一一型機売込みの成否が同社の存亡にかかわる重大事であったことはコーチャン自身述べているところである。しかして、L一〇一一型機の長距離用機材を開発するには多額の資金を要し、同社の財政上、負担過重であってその実現が疑わしかったこと、同時に長距離用機材の生産計画が公表されずこの点の遅れが同機売込みのマイナス要因として挙げられていたことを併せ考えると、競争他社や新聞等からその点をロッキード社の弱点として指摘されることは、やはり売込み上のマイナス要因と考えられる。それ故に丸紅の担当者らが前記シアトル・ポストの記事に心配し、対応策を考えるよう勧告しようとしたものである。以上の諸点を考えあわせると、民間旅客機の製造経験のないロッキード社製の航空機L一〇一一型機は、多年にわたり実績を示してきたダグラス社製の航空機に比べ一般的な信頼性に遅れをとるところがあり、更に、長距離用機材の開発の遅れとその開発能力(財政面を含む。)に懸念があるなどの弱点を抱えていたことにかんがみると、DC一〇型機が相次いで事故を起こしたことから優位に立ったとはいえ、そのことからL一〇一一型機の売込みが成功するとの確信を持ち得る客観的情勢にあったとは必ずしも断定しがたい。そして、松井及び坂の両名がデモフライト後の情勢を総括したうえロッキード社に勧告すべく書簡の草稿を起案したことは前記のとおりであり(この草稿は大久保の採用するところとはならなかったのであるが、大久保は、その理由について、右草稿に指摘されていることはそれまでに問題とされてきた事柄であってロッキード社側も十分承知し、いまさら勧告してみても仕様のないことであると考えたからである旨述べており、大久保の右不採用が右書簡草稿の信用性を否定するものではない。)、また、大久保は、DC一〇型機の事故で激烈な競争から鼻一つ有利な位置に立ったとの感じを持った旨述べているのであって、丸紅の関係者が右の時点で優位性を意識したとしても売込みの成功を確信したと言う者はいない。しかして、全日空の新機種選定準備委員会が八月三〇日の委員会で候補三機種には決定的な優劣がなく一機種にしぼることは困難であるとの結論を出していることは前記のとおりである(事実上脱落したといわれるB七四七型SR機についても、将来の旅客輸送需要の増大を見込んで、当面のマイナス要因はあっても同機を採用するのが得策であるとの意見を述べている委員もある。)。してみると、昭和四七年八月初旬当時におけるL一〇一一型機の売込み情況が、ロッキード社及び丸紅にとって極めて有利に展開し請託を必要とする情況はなかったという所論は理由がない。

2 大久保ら丸紅売込担当者の情勢判断について

大久保が、公判廷において、昭和四七年七月末から八月初めにかけての売込みをめぐる情勢は本部長就任以来一番よい情況にあったと述べていることは前記のとおりである。そして、そのように考えた理由として、<1>ロッキード社やロールス・ロイス社の財政危機が解消され両社の生産が軌道に乗ったこと、<2>ダグラス社のDC一〇型機が同年五月、六月、七月に相次いで事故を起こしたこと、<3>L一〇一一型機が高度の新技術を取り入れたもので、このことが漸次専門家の間で評価され、全日空航務本部長江島専務を中心とする技術部門の人がL一〇一一型機に対する技術上の問題等について好意的な発言をしていた(例えば、第二エンジンの位置が低く整備がやりやすい、騒音が少ない、自動着陸装置を備えている、ドアが大型で左右合計六個所あり乗客の乗り込み時間が短縮できるなど。)こと、<4>デモフライトの結果、L一〇一一型機の優秀性についての認識が浸透し、かつ、デモフライトに取り組むロッキード社の対応が高く評価されたこと、<5>BEAのL一〇一一型機購入問題が解消したこと、<6>全日空の社長が大庭社長から若狭社長に代わり、若狭社長のL一〇一一型機に対する態度がよかったこと等を挙げ、更に若狭社長の対応の点について、大庭前社長との比較において非常に公平であったこと、問題があればすぐ指摘するのでその解決が速やかにできたこと、三井物産がDC一〇型機を仮押えした問題に中立的立場を守っていたこと、L一〇一一型機について地上の折返しが非常によい、ロッキード社のサポートが非常によい、騒音が低いと評していたことを挙げている。しかしながら、ロッキード社等の財政危機の解消やBEAの問題はL一〇一一型機売込みの阻害事由が除去されただけのことであり、L一〇一一型機に対する評価の点にしても、民間旅客機の分野における実績がなく信頼性の点で不利な立場にあった同機について、売込みの努力によって正しい評価と信頼が得られ選定対象たる候補機種の地位が確保されたと評すべきであり、機種選定が安全性、経済性、社会性(騒音量)を中心に企業の将来にわたる経営政策や体質と整合するよう広範囲かつ多角的な検討を経たうえ総合的に判断されるべき性質のものであることにかんがみると、L一〇一一型機について多少の好評を得たからといって、他の候補機が選定対象からはずされたというのであればともかく、そのようなことがない情況のもとでは、L一〇一一型機の決定的優位性が確立したと考えることはできない。騒音量の点にしてもデモフライトの結果優位性を決定づけるものでなかったことは前記のとおりである。若狭社長の対応にしても、L一〇一一型機を候補機種として検討している以上、同機を導入する場合解決しておかなければならない問題点を指摘するのは当然のことであり、問題指摘があったから同機を導入する意思があったと考えるべきでないことは明らかであり、大久保が挙げている事柄は、いわゆる大庭オプションにより三井物産をしてDC一〇型機を仮押えさせていた大庭前社長と対比し、若狭社長が公平な立場で客観的にL一〇一一型機を評価しようとしている態度に好感を持ったという以上のものとは考えられない。なお、若狭社長は、L一〇一一-二型長距離用機材の問題を極めて重要視し、しばしばこの点について説明を求めていたのであるが、昭和四七年五月二三日、大久保が同人と会った際にもこの点を取りあげ、L一〇一一-二型機の改良範囲やその開発が現在どの程度進んでいるか質問し(これに対してはただ改善計画をスタートしている旨答えたとあるだけである。)、L一〇一一-二型機の問題は次期旅客機(YX)よりずっと重要であると述べており、その際、全日空のエンジニア達はL一〇一一型機に皆好意的であるが、エンジニア達がこのような進歩した飛行機を整備し維持できるかどうかに関心をもっているとも述べている(甲再二67参照)。確かに、L一〇一一型機売込みの経緯に照らすと、ロッキード社や丸紅にとって、昭和四七年七月末から八月初めにかけての時期が一番よい情況にあったと認められるのであるが、大久保がそのように考えた理由を検討してみると、DC一〇型機の事故以外の諸点はDC一〇型機に対し優位性を決定づけるものでないことが明らかであり、また右事故の点についての評価は前記のとおりである。それ故に、大久保は、楽観できるほど有利に感じたかとの質問に対し、いっときも楽観できないのが航空機商売の本質であり楽観したということはないが、よい情況であるというふうに感じた旨答え、捜査段階において、DC一〇型機の事故で激烈な競争から鼻一つ有利な立場に立ったという感じをもつに至ったと述べているのである。なお、若狭社長が、公判廷において、「誰に会っても飛行機をこれにすると言うはずがない。」旨証言しているように、機種選定作業の段階で、売手側に候補機の優劣についての評価を明かすとは考えられず、昭和四七年九月二五日、コーチャンと大久保が全日空の渡辺副社長と会った際にも、渡辺副社長は、「現在我々の考えは白紙である。調査が終った段階なので結論を出すべく検討中である。現状では各機種につき一長一短がある。」などと述べ、現に同年九月以降若狭社長が各部門から意見を聴取して最終的な選定作業を行っていることにかんがみても、丸紅の担当者が同年八月初めころまでの時期において、L一〇一一型機導入を決定づけ売込みの成功を確信せしめる情報を得ていたとは考えられない。加えて、大久保は、公判廷(第七三回)において、「航空機の商売というものは本来不安定要素が非常に多いもので、いつどういう問題が起きるかわからない。したがって、ほんとうの最後の契約がまとまるまでは、どんなに商売がつまっていてもこれで大丈夫だということがないというのが航空機商売の本質だと思っている。その不安定要素の第一は機械構造上の問題で、たとえて言えば一番大きいのは墜落で決定的に不利になる。それ以外に政治的な要素もある。実際面において大庭氏がDC一〇型機を六~七機押えたという問題、それからM資金問題が頭にあり具体的なことはわからないが何か政治的なものがあったととった。競争相手の三井物産やダグラスがどういう動きをしたかわからないが、昭和四七年八月当時、競争相手のダグラス社と組む三井物産が政財界の実力者に依頼して全日空にDC一〇型機の売込みを働きかけていることも予想されないわけではなかった。」旨供述している(なお大久保は第七九回公判期日において昭和四七年八月当時政治的圧力は不安材料と考えておらず、三井物産関係の政治的働きかけというのは考えていなかった旨供述を変更しているが、そのように供述を変更した理由について合理性のある説明はなく、右供述に照らし信用できない。)。以上の説示で明らかなとおり、大久保は昭和四七年七月末から八月初めの時期において、L一〇一一型機売込みの成功が間違いないと確信し楽観していたとは認めがたいのである。また松井直及び坂篁一がデモフライト後の情勢を総括して前記草稿を起案していることに照らしても、同人らが売込み成功を確信していなかったことは明らかである。なお、大久保は、昭和四七年八月一九日から四日間休暇をとって家族旅行に出かけているが、同人が供述しているように、それは、全日空の機種決定がさし迫っていたとか状況が緊迫しているという感じではなかったことによるもので、売込み活動の結果を楽観していたからでないことは明らかである。しかして、大久保はじめ丸紅の売込担当者らが、檜山に対しL一〇一一型機の売込みを成功させるため、なんらかの働きかけ、特に、政治的な働きかけをするよう要請した事実は認められないが、大久保としては、売込みを担当する営業現場の最高責任者として、とり得る手段を十分尽くしたと考えていたのであり、内閣総理大臣その他の有力政治家に働きかけるということは(とりわけ、本件のように犯罪を構成する場合はなおさらである。)、高度の政策的判断を要することであることにかんがみると、かかる提言をしなかったからといって、そのことが、売込担当者らにおいて情勢を楽観していたことの証左となるものではない。また、大久保は、後記のとおり、檜山から、売込みの協力を要請すべく田中に働きかける意向を明かされて相談を受けた際、これに賛同しているのであるが、大久保において、かかる働きかけをするまでもなく売込みの成功が間違いないとの確信を持ち得ていたのであれば、檜山の右意向を拒否し得たであろうが、右確信がない以上、売込みが成功しなかった場合における自己の責任を考えるとこれに賛同せざるを得なかったと考えられるのであって、大久保がこれに賛同しながら、直ちに、自ら積極的な行動に出ることなく、この点に関する檜山の具体的指示がない時点において、休暇をとって旅行に出たからといって、それが、売込みの情勢につき楽観していたことの証左にならないことはもちろん不自然な行動であるとも言えない。してみると、昭和四七年八月当時のL一〇一一型機の売込み情況に関する丸紅の売込担当者の認識に関する原判決の認定を論難し、右売込担当者らが情勢を楽観していたことを前提として、この点からも檜山が請託を決意する動機(契機)がない旨主張する所論は、その前提を欠き失当である。

3 機種決定時期についての認識と請託について

所論は、およそ、政治家に対し機種選定に影響力を与える政治的な働きかけを請託するには、当然、これに応じた政治家が政治的影響力を行使し得るために必要な相当な期間を考慮したうえこれをしなければならないはずであるところ、丸紅やロッキード社の関係者は昭和四七年五月二三日の段階で早ければ同年六月中に機種決定がなされるとの認識を有していたのに、この時期にかかる働きかけをした形跡はなく、また、同年六月一四日ないし同年八月七日までの時期に、六月中になされる予定の決定が遅れ、同年八月末までにその決定がなされるものと認識し、かつ、同月一八日の時点で若狭社長が同月一六日から七日ないし一〇日間中国に旅行し帰国後の八月二六日中に内部的な決定がなされるとの情報を得ていたのであって、この段階で田中に対する請託を図ったとしても若狭に対し直接働きかけることはできず、原判決が認定するように同月二三日に至って田中に請託しても、もはや遅きに過ぎることが明らかであるから檜山が本件請託に及ぶことはあり得ないというのである。そこで検討するに、確かに、昭和四七年五月二三日付ブラックウェルら発ミングロンら宛テレックス(甲再二67)には、「若狭は、全日空は一九七四年四月に大型機を運航し始めるが運輸省も既にこの計画を認めたと言っていた。彼は少なくとも一八ケ月の準備期間を必要とすると言っていた。大久保は、これは若狭が早ければこの六月遅くとも八月までに決定しなければならないことを意味すると説明した。」「また若狭は彼の計画の担当者が六月に決定をするように彼に迫っている……」「若狭は最後にいずれにせよ現在の国会の開会中に彼が決定しなければならないと言っていた(我々としては現国会が七月まで延期されることは可能であると信じている。このことは現在調査中)。」などの記載があり、機種決定時期のめどが一応同年六月中と出ていることが認められる。しかしながら、右テレックス中には「若狭はもし彼が八月に決定したとしてロッキード・エアクラフト・コーポレーションが一九七四年四月に引渡しができるか疑問であると言っていた。」と八月決定の記述もあり、かつ、「若狭は、また、もしL一〇一一がなんらかの理由で日本に来ることができるならばその時は全日空としては、調査団をロッキード・エアクラフト・コーポレーションに送るよりもっとL一〇一一をassessing するのによい仕事ができるという意見を述べている。」旨デモフライトを示唆する記述が存することに徴すると、ブラックウェルらは右時期が流動的なものであると考えていたことがうかがい知れるのである。また、一九七二年六月一四日付ウイントリンガー発スティルマン宛のテレックス(甲再二70)には、コーチャン及び大久保が同日若狭と会った際、若狭が、「六月中の決定が可能とは思えないが、一九七四年二月に運航を開始するためには全日空としては八月末までに決定しなければならない。」旨述べたと記載されていると同時に「私(ウイントリンガーのこと。)は、これは後二ケ月は決定がないことを意味していると解する。」旨の記述があることに徴すると、ロッキード社の関係者が、八月末までに間違いなく機種決定がなされると、必ずしも考えていこものでないことがうかがわれるのである。しかして、関係証拠によると、若狭社長の諮問機関として候補三機種につき整備、運航、営業、契約、コスト資金等の角度から調査し機種決定の判断資料の収集に当たっていた全日空の新機種選定準備委員会は、昭和四七年三月二三日の総括部会において、大型機選定に関する検討結果をとりまとめ同年四月三日の本委員会に提出した(甲二66、甲二38)が、その後も各種調査団から提出された調査報告書(五月一五日付ロッキード社出張報告、七月四日付ワイドボデージェット調査報告、七月八日付次期大型機調査報告)や同年七月下旬ロッキード社及びダグラス社が実施したL一〇一一型機及びDC一〇型機のデモフライトの資料等を加えて検討を重ね、同年八月二一日からロッキード、ダグラス、ボーイング各社のほかエンジン製造各社と契約条件の交渉を行う予定をたてていたこと、並びに丸紅及びロッキード社の売込担当者は、同年八月一八日ころに至り、ダグラス社のマックゴーエン社長が同社の副社長や契約担当重役らを伴い同月一九日来日し新しいプロポーザルの呈示と各種条件の交渉を一挙に行うとの情報を入手したことが認められる。そして、コーチャンの供述(嘱託証人尋問調書二巻)及び一九七二年八月一八日付クラッター発コーチャン宛テレックスによると、クラッターがコーチャンに契約交渉のため来日することを勧めるに当たり、「全日空と、そして多分日航が、ニクソン・田中ホノルル会談の後で、エアバスの決定を正式に公表するものと思われるため、九月一日ころ貴方が当地に出張されることは極めて適切であると思われます。しかしながら、全日空も日航もその事務レベルでは最終契約の条件や条項の協定についての要求を最終値段の線を含めて来週には終了すべく詰めを急いでおり、また若狭は、ついに、八月一六日から七日ないし一〇日間の中国旅行から帰国した後、エアバスについての彼の決定をして取締役会にかける旨報告しており、これは全日空、日航の内部決定ないし選択が若狭と朝田の帰国後来週になされるであろうことを明瞭に表しています。」「日航と全日空のスケジュールでは八月二一日月曜日、八月二二日火曜日、八月二三日水曜日に六社すなわち、ロッキード、ダグラス、ボーイング、ヂーイー、プラット・フィトニー及びロールス・ロイスと同時に契約交渉をすることを考えています。」旨知らせている。そしてコーチャンは八月二〇日来日したのであるが、同人は来日したことについて「旅行の理由は、全日空と日航が早期に決定するだろうと明らかにしたからである。」と供述している。他方、大久保は、「昭和四五年以来L一〇一一型機の売込みに際し若狭社長と何回も会い機種選定の大体の月を教えてもらっていたが、その時期が来ると次々に延期され、昭和四七年八月ころまでに十数回もそのようなことが繰り返され(なお十数回という点に多少の誇張はあるにしても機種決定のめどが繰り返し延期されたことは檜山も同旨の供述をしているほか関係証拠上明らかである。)、前記デモフライト後においても、全日空機の中国乗り入れ問題があって機種決定は同月末より多少遅れるのではないかとの情報が入っていたことや若狭社長が臨時国会(同年一〇月に開かれている。)の開会前までには決めなければならないと話していたこと(なお、甲再二7前記書簡の草稿参照。)並びに昭和四五年以来の経験に照らし、昭和四七年八月一八日の時点では機種決定の時期は一応形式的には同月末ということではあったがまた延びるものと考えていたし、その時期が切迫しているとか情勢が緊迫しているという情況には感じられなかったので翌一九日から家族旅行に出かけた。」旨供述している(原審第七二回、七三回、七七回公判)。以上の諸点を総合すると、ロッキード社及び丸紅の売込担当者らは、八月中旬ころの段階までは、全日空が同月末までに機種を決定するとは必ずしも考えておらず多少遅れるものと考えていたが、同月一八日ころの時点で、全日空の新機種選定準備委員会が近く結論を出し同社の機種決定の時期がいよいよ到来したとの感を抱いたことが認められる(大久保はその情報を得ないまま旅行に出発したものと認められる。)。そして、檜山の情勢判断は後記のとおりであるが、大久保の公判廷における供述によると、同人は檜山に対し、全日空の機種決定のおおよその時期などを含む売込みの情勢について、折りにふれ報告していたことが認められ、このことから、機種決定の時期に関する檜山の認識は、大久保のそれとほぼ同様で、全日空が八月末までに機種を決定するとは必ずしも考えておらず、その時期は多少遅れるものと考え、その決定が切迫しているとの認識は持っていなかったと推認できる。しかも新機種選定準備委員会は社長の諮問機関で機種決定の判断資料を提供するのがその主たる任務であり、同委員会が出す判断が直ちに全日空の決定となるものではなく、内部的な意見は、更に検討のうえ、同社の役員会(常務取締役以上で構成。)及び取締役会の議を経て決定されるべき性質のものであることに徴すると、最終決定までにはなお相当の時間を要するものと予測されるのである。そして、全日空の機種決定を有利にするため政治的影響力を行使しようとする場合、これを効果的に行うためには、時機を失しないよう、機種決定前、相当の期間をおいてその働きかけ(請託)をする必要があるという所論の主張は理解できないわけではないが、だからといって、そのために長い期間を必要とするとは考えられず、前記の諸事情にかんがみると、檜山において、同人が田中に請託した同年八月二三日が遅きに過ぎ請託しても効果がないと考えていたとはとうてい認められず、かつ、客観的にも、いまだ新機種選定準備委員会の作業段階にあった右時点における請託が、その作業が最終段階にあったことを考慮に入れても、時機を失し遅きに過ぎるとは考えられない。してみると、八月二三日の時点が請託をするには時機を失し遅きに過ぎるとの独自の見解を前提としてかかる時期に請託をすることはあり得ないという所論は、その前提を欠き採用できない。

4 檜山の情勢判断と請託を決意するに至った経緯について

原判決は、檜山が請託を決意するに至った経緯につき、<1>丸紅にとってL一〇一一型機の販売によって直接得られる金銭上の利益はさほど大きいものではなかったが、常日頃業績を競い合っている他の商社をしのいで大型航空機の売込みに成功することは、商社の実力及び信用に対する評価を高め、後々まで丸紅の大きな成果、社長の功績として残るものと考えられていたので、檜山は一流商社の面子にかけ売込みを成功させようと考えていたこと、<2>檜山は、国内幹線への大型ジェット機の投入を昭和四九年度以降認める旨の運輸大臣示達が発せられたこと及びデモフライトが挙行されたことなどの動きから、昭和四七年八月に入って、全日空の機種選定はここ一、二ケ月が山場であろうと考えたこと、<3>檜山は、他社も売込みに関して政治的に動いていると推測し、これまでの全日空に対する直接的な売込み活動だけでは競争に負けてしまうのではないかという強い危惧の念を抱き焦慮するに至ったこと、<4>折から、航空機等の緊急輸入及びハワイにおける日米首脳会談について報道されたことから、檜山は、ハワイ会談で航空機購入の件が田中・ニクソン両首脳間で話題にのぼるであろうと考え、かつ、ニクソン大統領がその出身州の大企業であるロッキード社と深い関係にあるとも考えたうえ、田中に対し、全日空がL一〇一一型機を選定購入するよう同社に働きかけて欲しい旨売込みの協力方を依頼しておけば、両首脳の話はいきおい同型機の導入に及ぶであろうと思案したこと、<5>内閣の最高責任者であり、各大臣を指揮監督する強大な権力を有する田中は、航空企業の航空機導入に関し許認可権限を有する運輸大臣(その他の大臣)を指揮し、ないし同人自ら全日空に働きかけて同機を導入させることができるであろうから、この際、同人に右のような指揮ないし働きかけによる協力方を依頼し、かかる協力に対する報酬として同人に金銭を供与しようと決意するに至ったこと等の事実を認定している。これに対し、所論は、<1>L一〇一一型機の売込みによって得られる丸紅の利益は微々たるもので、同機が丸紅の取扱い商品の花形として扱われたり、あるいはその売込みが全社的なプロジェクトとして考えられたことはなく、その売込みの成功は、他の商品の場合と同様会社の業容の拡大につながるメリットがあるにすぎず、それが会社の実力評価や社長の手腕力量の評価にかかわるものではなく、他の商社との競争に勝利を収める特別の要素となるものではない、<2>営業本部制をとる巨大商社の社長は、各営業本部が行う個別の取引に関心を抱くことはできず、これに介入することは不可能であるところ、檜山は個別取引の情勢に関心を示したことはなく、L一〇一一型機の売込みについても特別の関心を抱いたり意欲をもやしたことはなく、ロッキード社の代理店の社長として全日空の若狭社長を昭和四七年三月一四日表敬訪問した以外なんらの働きかけもしておらず、また運輸大臣の示達について認識を有していたか疑わしく、デモフライトにもかかわっていないのであって、同年八月に入って全日空の機種選定がここ一、二ケ月が山場であると考えたことはもちろんその時期がいつになるかについても認識がなかった、<3>そして檜山が、他の商社が航空機売込みについて政治的な動きをしているとの情報を得ていたなど、かかる政治的動きがある旨推測したとするその根拠は全くないのであって、同人がそのような推測をするはずがない、<4>また、ハワイにおける日米首脳会談において特定航空機の購入問題が話題にのぼるということは常識的に考えてあり得ない事柄であり、檜山が、田中に対し、全日空をしてL一〇一一型機を購入せしめるよう協力方を依頼しておけば、田中・ニクソン両首脳間において同機導入の話に及ぶであろうと思案したなどということはとうてい考えられないことである、<5>更に、檜山には内閣総理大臣の職務権限についての認識がなかったなどと主張し、L一〇一一型機の売込みにつき関心も意欲もなかった檜山が、田中に対し、かかる請託をしようと決意することはあり得ず、この点に関する原判決の事実認定には誤りがあるというのである。そこで所論にかんがみ記録並びに証拠物を調査し当審における事実取調べの結果をも加えて以下順次検討する。

(一) 関係証拠によると、丸紅が三井物産、三菱商事、伊藤忠商事、住友商事、日商岩井等の大手総合商社との間で成約高、売上高、利益等その業績を競い、役員会で経営分析を行い六大商社の決算比較をするとともにこれらの資料を社報「まるべに」に掲載するなどして社員の競争意識の昂揚をはかり、業界第三位の地位に甘んずることなく三菱商事、三井物産の上位二社に追いつくよう、また抜きつ抜かれつの状況にあった伊藤忠商事に遅れをとらぬようあらゆる分野での業容の拡大に努力すべく督励していたことは明らかである。特に、昭和四七年一〇月一七日付第四七期幹部会社長方針示達において貿易面で輸入に力を注ぐよう指示していることは、当時の貿易収支を反映しわが国の輸入の拡大をはかる必要があるとの判断のもとに、これを重視していたことの表れというべきである。しかして、公認会計士大村孝永作成の「丸紅株式会社のL一〇一一型航空機に付いての関係記録について」と題する書面(弁284)にあるように、丸紅の総売上高に対するロッキード社関係分の占める割合が、昭和四八年度〇・四一パーセント、同四九年度〇・七二パーセント、同五〇年度〇・五九パーセント、また、丸紅の純利益に対するロッキード社関係分の損益比率が同四一年度から同四七年度まではいずれもマイナスであり、同四八年度〇・四五パーセント、同四九年度一・〇九パーセント、同五〇年度〇・九一パーセント(なお同四八年度以降のL一〇一一型機のみの損益比率は〇・二九、一・六四、一・一八パーセントである。)であるにしても、総売上高や総純利益は、総合商社として各営業本部、国内外支店等が輸出、輸入、国内、三国間のあらゆる分野で取扱う個々の取引の集積であり、L一〇一一型機の値段が一機当たり五七億円とも六〇億円ともいわれ巨額なものであることにかんがみると、航空機の売込みが売上高や採算性の見地からメリットの薄い面があることを考慮に入れても、右の比率が、檜山が言うように、「航空機の売上は全体的にみて全くネグリジブルな問題である。」とは必ずしもいいがたい。そして本件請託がなされた前年の昭和四六年度上期(四月ないし九月)における六大商社の輸入成約高は<1>三菱商事四、四〇三億円<2>三井物産四、一二七億円<3>伊藤忠商事二、七六三億円<4>日商岩井二、二九二億円<5>丸紅二、二八一億円<6>住友商事一、四一二億円の順であり(当審弁11会社要覧一九七二年九月版)、また昭和四七年七月一〇日の丸紅役員会に提出された昭和四六年度下期(同四六年一〇月ないし同四七年三月)の六大商社経営分析資料(甲二155)によると当期の輸入成約高は<1>三菱商事六、五四八億円<2>三井物産三、三四〇億円<3>伊藤忠商事二、二九九億円<4>丸紅二、二二二億円<5>日商岩井一、九六四億円<6>住友商事一、三九〇億円であり、丸紅の成約高二、二二二億円のうち航空機が含まれる機械建設部門のそれは二一三億円で全体の九・六パーセントを占め、L一〇一一型機の売込みが成功すれば(当初の発注が六機であったので三四〇億円程度の成約が見込まれる。)輸入成約高の増加に貢献する度合が大きくなることが当然予測され、輸入実績の向上ひいて商社間の競争に好影響を及ぼす面を無視できるものでないことは明らかである。ところで、機械第一本部においては、L一〇一一型機の売込みを全社的な大型プロジェクトの一つとして位置づけ、担当の輸送機械部の社員はもちろん本部長である大久保自らも全日空の大庭前社長(昭和四五年五月まで。)や若狭社長、渡辺副社長(新機種選定準備委員会の委員長でもある。)らとしばしば面会し、全日空最高幹部に直接売込みをはかるなど精力的な活動を繰り返していたのである。そして、売込みの当初、社報「まるべに」昭和四四年三月号、四月号に写真入りでL一〇一一型機を紹介するとともにロッキード社の代理店としてその売込みに当たっている状況をPRし、またマルベニ・アニュアル・レポート一九七三年版(英文)で機械第一本部の業績についてL一〇一一型機一四機の受注、一号機の引渡し並びに今後の追加注文が期待されるなどの点を同機の写真入りで記述し、社報「まるべに」昭和四九年二月号で全日空に対する同機の引渡しを報じているのであるが、これらのことは、右広報誌が全社的な性質をもつものであることに徴すると、同機の売込みが機械第一本部によって遂行されることはいうまでもないが、それが単に一営業本部だけの問題ではなく全社的な関心事として認識されていたことを示すとともに、その売込みの成功が丸紅の誇るべき業績として認識されていたことを物語るものということができる。また、関係証拠によると、昭和四七年七月一四日丸紅東京本社の朝会において、前記L一〇一一型機売込みのためのデモフライト計画について営業企画助成制度を適用するか否かが審議され、翌一五日のりん議決裁を経て右計画に対する助成金として総額一、二〇〇万円の支出が決定されたことが認められるところ、右助成金を支出し得る対象事業は「大型プロジェクト案件で短期的採算に乗り得ない<1>大口の商談<2>資源開発<3>海外への企業進出並びに国内における外資との合弁事業<4>新規分野に対する進出<5>その他重要と判断される案件」に限定されているのであって(甲二151丸紅規程集)、L一〇一一型機売込みに関連し全社的な検討のうえ右助成金の支出決定がなされていることは、右売込みが丸紅における大型プロジェクトの一つとして取扱われていることを明確に示している。そして、昭和四七年八月当時社長室秘書課長であった原審証人副島勲は、L一〇一一型機の売込みは丸紅のビッグプロジェクトの一つであると認識していた旨証言している。このように見てくると、L一〇一一型機の売込みは機械第一本部の業務にとどまるものではなく、丸紅全体からも関心をもたれた事業の一つであったと言うべきである。

(二) 原審証人豊田恭三の証言等関係証拠によると、丸紅は、昭和三三年八月一日ロッキード社(系列会社を含む。)と代理店契約を結び、その後その内容に修正を加えながら同社が製造する各種航空機やその部品の売込み輸入等に当たっていたのであるが、その契約内容は、両社の力関係を反映し、代理店の業務内容が市場開拓、情報の提供、ロッキード社が行う販売への協力などのサービス提供に限定され、ロッキード社の商品以外の航空機の取扱いは禁ぜられ、口銭は低く押えられ、またロッキード社に対し日本における事務所と運転手付き乗用車を無償で提供する義務を負わされ、ロッキード社が右代理店業務に従事する丸紅の担当職員に関する人事に介入することができるなど、不平等かつ屈辱的ともいうべき条項を含むものであったこと、そして当時各商社は総合商社として質的にも量的にも取扱い商品の拡大をはかる見地から近代産業の生産物である航空機をこれに加えることを強く希望し、既に他の商社においては航空機の販売に従事し、丸紅はこの分野においてやや遅れをとっていた感があったが、ロッキード社と代理店契約を締結することは当時の業務担当部内からの発意によるものではなく、社長、副社長ら経営最高幹部の決断によるものであったことが認められる。L一〇一一型機が取扱商品に加えられたのは昭和四三年一〇月一日付修正契約以降のことであるが、当時既成約分の主要部分の納入が大方完了し、航空機関係の売上は少なく、ロッキード社関係の損益は昭和四一年度二、七七七万円余、同四二年度二、九七七万円余、同四三年度二三八万円余の赤字で、この赤字状態は前記のとおりL一〇一一型機の売込みが成功する昭和四七年度まで続いていたのである(弁284)。しかも、L一〇一一型機一機当たりの口銭は六万七、五〇〇ドルで低く押えられていたのにかかわらず、昭和四四年三月上旬には、同機の開発費や納入先企業のための仕様変更に要する経費の一部を負担するよう要求され、発注機数三機以内の場合には一三万五、〇〇〇ドル、四機以上の場合には二五万ドルを限度に口銭を放棄する約束までさせられているのであるが、当時の担当営業本部長であった豊田恭三は、クラッターがその以前から丸紅(当時丸紅飯田)、特に、豊田本部長の情報収集活動に不満を抱き、もう少ししっかりしないと代理店契約を取消すかもしれない旨婉曲ながら再三口にしていた旨証言しており、航空機の取扱いを望んでいた丸紅としては、代理店契約を取消されることによる現在及び将来の売上の喪失、あるいは、総合商社としてのイメージの低下など有形無形の損失を考慮しやむを得ず右権利放棄を承諾するとともにL一〇一一型機の売込みに従事していたことが認められる。すなわち、短期的に見るならば、赤字関係にあるロッキード社との代理店関係を清算するのが得策であるのに、なお前記不平等かつ屈辱的ともいえる契約関係を維持しようとしたのは、世界的な大企業であるロッキード社の代理店として近代産業の花形商品と目される航空機の売込みに当たることが総合商社としての丸紅のイメージアップにつながり長期的観点からは他商社との競争上メリットが大きいと考えられたからにほかならない。コーチャンは、L一〇一一型機(民間旅客機)の売込みに関連し、ロッキード社と丸紅の代理店契約関係につき檜山と折衝した状況について次のように述べている。「丸紅は一〇四(軍用機)の競争の時に日本におけるわが社の代理店として選ばれ、我々や私がその意見を評価している人達にとって、商事会社としての丸紅は軍との関係での専門家と考えられていた。私が一〇一一のためキャンペーンを始めるため六八年と六九年に日本に行った際、私が状況を話合った人達の大半は、もし我々が民間航空会社に販売しようとするならば、間違った商事会社を持ったと感じていた。私は既に、私が児玉氏との関係を持っていることがわかっており、同時にそれを反省して私の商事会社の関係を丸紅とそれ以外の商事会社に分けようかと迷っていた。私はこれについて大層考えた。というのは、日本の市場に対する一〇一一の販売は、一〇一一の計画の成功にとって、そしてロッキード・エアクラフト・コーポレーションの存在そのものと未来にとって決定的に重要だったからである。一九六八年か六九年に、私はこの問題を精査して決着をつける必要があるという結論に達し、日付を明らかにすると大久保氏が丸紅の重機械部の取締役部長になった直後で、丸紅が新しいビルディングを買う前の大手町ビルディングで私は檜山氏と会合し、檜山氏に多分ロッキードは丸紅との関係をただ軍用機に限定し私としては商業用販売製品については別の商事会社を使うべきではないかとほのめかした。私は世界中で沢山の人々に沢山のびっくりするような話をしてきたが、この話がもたらしたほどの物凄い反応をこれまで得たことはなかった。それは丁度あたかも私の商事会社の下から私が絨毯を引張り出したようなもので、檜山氏は私がそれをほのめかした時、私がそんなことを考えただけでさえ極めてみじめだったものですから文字どおりまっさおになった。そして私は、その反応や彼がロッキード社との関係をいかに高く評価しているかを見て、私は素早く彼に私としては彼の可能性を確かめたかっただけだと言った。私は、また、丸紅が本当に一〇一一の販売を助けようと望むのか、それの政府との関係がどうなっているか、それの航空会社との関係がどうなっているかを調べるについて、彼等がそのトップレベルの努力をそれに傾注しているのかを私は確かめているのであり、もし我々が日本で一〇一一航空機を販売するなら必要であると私が話をした皆から聞いて理解したあらゆる援助を我々に貰いたいと言った。その会合で、彼は私に彼のトップの人間の中の一人の大久保氏をそのキャンペーンを率いるために私の方に配置しようと保証してくれた。これは、我々が通常一つのキャンペーンで持つ場合よりも一レベルか二レベルほど上の者であった。そしてその時以来、大久保氏と私は非常に密接に共に交渉し、非常に密接に共に働き、そして私は檜山氏に極めて簡単に会うことができるようになった。これは丸紅が世界でも極めて大きな会社の一つであってどちらかというと異例なことであった。しかし、私は檜山氏に対して、私が我々は別の商事会社を使おうかとほのめかした際、このことは私にとってそれほど重大なことであり、私はこの航空機の販売を達成するためには異常なこともする、異常な事業手段にも訴える、そしてもしそれが商事会社を変えることを意味するならそうもすると言った。それで、彼も私に対し、私を支持するため、彼らはそのベストを尽くそうと約束した。同時に、私はやはり私の児玉との約束を考慮して丸紅に対する金銭的約束を極めて低く保つこととしていた。」と以上のように述べている(嘱託証人尋問調書三巻二八一頁~二八三頁)。このように、コーチャンは、経営危機に当面していたロッキード社の再建をL一〇一一型機の売込みにかけていることを強調し、そのために必要であれば代理店を変えることをもあえてする旨強い態度を示すとともに、丸紅が民間航空機についての代理店契約関係の存続を望むのであれば、より一層の、特に丸紅上層部が積極的な売込み活動をするよう要求したのであって、これに対し、檜山は、大商社丸紅の面子にかけても右契約関係の存続を希望するとともに、コーチャンの意とするところを理解したうえ最大限の努力を約したことが認められるのであり、このことは、もし日本におけるエアバス商戦にL一〇一一型機が敗北した場合、右代理店契約関係の存続に影響しかねないことをもうかがわしめるものである。なお、檜山は、公判廷において、右コーチャン供述にあるようなことはなかった旨述べているのであるが、コーチャンの右供述はそれ自体具体的かつ自然なものであり、関係証拠によって認められる、ロッキード社がL一〇一一型機に社運をかけていた状況(ニューマン報告書参照)、豊田の活動につきロッキード社が不満を抱き契約関係の破棄をほのめかしていた旨の前記豊田証言の内容、大久保が本部長就任後自らL一〇一一型機の売込みに積極的に活躍していることなどと符合し、十分信用することができる。また、右コーチャン証言につき、所論は、大久保と豊田はいずれも機械第一本部長として同格の地位にあったのであるから、大久保が一レベルか二レベル上位にあることを前提としてなされている右証言は信用性がないというのであるが、コーチャンは、大久保が豊田の後任として本部長に就任していることを前提としたうえ、檜山が、豊田の場合と異なり、L一〇一一型機の売込みに、大久保自らを積極的に関与させ活躍せしめた旨、丸紅上層部のL一〇一一型機売込みにかかわる関与の実質的側面から証言しているのであって、所論は、証言の趣旨についての誤った理解を前提としてこれを論難するもので、失当である。そうであれば、檜山がL一〇一一型機の売込みについて無関心であり得たとはとうてい考えられない。大久保は、公判廷において(第七〇回、第一二五回)、檜山のL一〇一一型機売込みに対する関心について、「トライスターの売込みは時代を画する大型航空機を国内に投入するものであるから、これに成功することは丸紅の社会的信用を博するために重要な事柄であると思っていたし、成功すればその成約高は巨額にのぼり、商社として将来の売上をトする意味でも重要なものであった。役員の中で売込みに関心を寄せていたのは社長であり、この点時代を画する航空機であったので、丸紅にかぎらずどこの社長でも大きな関心を持っていたのではないかと思う。」「既に航空機が売れた後の昭和四八年五月から八月ころの間、日本航空が長距離用大型機を選定購入するに際し、ロッキードが圏外になったという問題があったが、檜山社長からその真偽はどうなんだという問い合わせがあったことは、同社長の関心の表れの一つである。」旨、また「売込みに関する情報を、社長や副社長に大きく時期を限ってまとめて報告しているが、重要な進展について報告することもあるし、私の個人的観察を話したこともある。社長に呼ばれて報告することもあるし、私が社長室に行ったついでに話が出ることもあった。」などと供述している。そして、檜山が公判廷において(第八一回)、大久保から全日空の機種選定の時期が何回ものびのびになったことを聞いているし、飛行機の取引は、他の商取引のように取引条件が合い非常に必要だということになればすぐまとまるのと異なり、話がよく変りあまり当てにならないというのが特色である旨述べていることは、大久保の右供述の真実性を裏付けている。更に、<1>大久保の公判廷(第一八三回)における供述、ブラックウェル発クラッター宛一九六九年一二月五日付テレックス(甲再二64<2>、弁364)、(昭和四五年)三月三日付機械第一本部長作成社長、副社長宛「L一〇一一ファイナンスに就いて」と題する書面(甲再二57)によると、昭和四四年一二月一一日ころロッキード社と丸紅間において全日空がL一〇一一型機を購入した場合における頭金融資の保証について協議が行われているが、その際、檜山はロッキード社の財務担当役員フレインと面談したうえ大久保に対しアベイラブルな道(利用可能な方策)を探すよう、そのうえで檜山が動く旨の指示をしたこと、<2>ブラックウェル発ミングロン宛一九七〇年四月二二日付テレックス(甲再二60<3>)に、「ウイントと私は、檜山及びその他の丸紅の一〇一一関係スタッフと四月二三日に協力会議を開いた。これは大久保の協力及び承認によりなされた。……」との記載があり(日にちの前後は日米の時差の関係によるものと考えられる。)、檜山の一九七〇年ダイアリーの四月二三日欄に、一一時三〇分から一三時までロッキード関係説明会と記載された後棒線で消され映写会と記載されていることに徴すると、売込みの当初の段階で檜山がロッキード社の売込担当者らとL一〇一一型機の売込みに関し面会していること、<3>ミングロン発クライン宛一九七二年三月一四日付テレックス(甲再二69)及び大久保、檜山の公判廷における各供述によると、全日空においてはいまだ新機種選定準備委員会の調査段階でL一〇一一型機売込みの見通しがたっていない状況の中で、昭和四七年三月一四日、檜山自ら大久保を伴い全日空本社に若狭社長を訪ね、同機の売込みについて話をしていること、<4>檜山の公判廷(第八五回)における供述、大久保の前記供述並びに昭和四八年九月一一日付日本工業新聞の切抜き(甲再二58)によると、同紙が日本航空におけるDC八型機の後継機種の選定に際しL一〇一一型機が圏外になった旨報道したことにつき、檜山が右切抜きに「大久保殿真偽の程度?ヒヤマ」と記入して大久保に回付したこと等の事実が認められるところ、これらの事実は檜山のL一〇一一型機売込みについての関心を表しているということができる。しかして、大久保は、昭和五一年七月二三日付検面調書において、「航空機の商売は、これを取扱う商社にとって、何といっても社史の一コマを飾る大きな事象であり、」「檜山社長は他の役員が無関心を装う中で、ダグラス社との空中戦に打ち勝ち全日空にトライスター導入を実現させたいとする闘志と熱意はなみなみならぬものがうかがえた。」「利潤追求を至上とする商社にとって、航空機の売込み自体は、その売上高、採算性の見地からとらえるかぎり、そのメリットが薄いことは事実であるが、とかく派手好みの商社にとって、」「航空機売込みの成功に伴う附加価値ないし名目メリットは大なるものがあると考えられ、」「ダグラス社とのエアバス商戦に勝利をおさめることは、金銭上の利益を度外視しても丸紅の歴史に一大金字塔を樹立し後世に残る業績として社史の一コマを飾るばかりか、檜山社長個人の実業界における名声を高め実業家としての地位をますます固めることにもつながったのである。ここに他の役員とは異なり檜山社長が個人としてもトライスター導入に高い関心となみなみならぬ意欲を示された背景が存在するものと考えていた。」旨供述し、公判廷においても、一般的にそのように考えている旨供述しているのであって、檜山のL一〇一一型機売込みにかける意気込みが強かったことが認められるのである。ところで、檜山は公判廷において、営業本部制をとる巨大商社丸紅の社長としては、各営業本部が行う個々の取引に関心を抱くことはできず、これに介入することは不可能であって、L一〇一一型機の売込みに特別の関心を抱いたり意欲をもやしたことはない旨るる供述しているのであるが、前記判示の諸事情に照らして措信できない。しかして檜山は昭和五一年八月一〇日付検面調書において、L一〇一一型機の売込みに関し、「全日空に対する売込みに当たり最も強敵であったのは、航空機製造メーカーとしての歴史も古く航空輸送の将来を展望したプランの中で多くの機種開発を着々と進めていたダグラス社のDC一〇型機であったが、ボーイング社の七四七SR型機もまたゆるがせにできない強敵であるとみていた。というのは、ロッキード社と比較して旅客機製造の経験も豊富で会社の財政状態に格別の問題がなく将来性のある会社であり、また全日空に対し七二七型機を売込んでいる実績があったからである。これにひきかえ、ロッキード社は、もともと軍用機の専門メーカーで米ソのデタント政策への転換に伴う軍用機の受注減からやむを得ず旅客機をも製造しなければならない立場に追いやられた会社で、旅客機製造の経験も浅く、そのためかエアバス開発の出足が遅れていたうえ財政状態が悪く、ニクソン大統領のてこ入れで倒産は免れたものの、依然として今後の経営が楽観できない情勢下にあった。トライスター売込みのキャッチフレーズとなったのは第三エンジン(正確には第二エンジンを指す。以下同じ。)の地上整備がしやすいとか、騒音が少ないとか、ロールス・ロイスの画期的といわれた新型エンジンを持っていることなどであったが、大久保の説明によるとその騒音もDC一〇型機との比較においてそれほど大差がないということであったし、エンジンはそれぞれの会社の好みや評価の違いがあるほか未知数の要素もあって、必ずしも抜群であるとの評価は定着していなかったことから他社との売込み競争に優位を保つ材料としては不足の感があった。このような条件下において、丸紅はライバル社の代理店である三井物産及び日商岩井を敵にまわし苦しい売込み競争を余儀なくされていた。一流総合商社間の売込み競争には想像を超えるような熾烈さがあり、今回のような巨額にのぼる航空機の売込みということになると、宿命的な対決ともいえる生死をかけた戦いを繰り広げるわけで、そのためには陰に陽にあらゆる手段を駆使するのが現状である。特に、今回のように、各社の航空機に種々の特性があるといっても、航空機それ自体の総合的評価において明確に甲乙つけがたい場合には、買手側が優先するだけに売込み側が競争を余儀なくされるのであった。私が特に心配したのは、航空機はその機種によって操縦、整備等の技術関係のみならず、使用部品などを異にする関係から、製造会社の技術的優秀性と将来性を強く要求されるところ、ロッキード社の場合前記のように経験が浅く財政状態も好ましくない状態であるということであった。今回のトライスター売込み競争では、当社がやや悪条件下におかれているのではないかと懸念していたのであるが、昭和四七年春ごろからDC一〇の航空機事故が相次いで発生し、その安全性が取沙汰されるようになったことから同年七月ごろには丸紅にとってやや有利な情勢に転じたのではないかと思い全日空の機種選定態度に注目していた。」「ざっくばらんにいって、目先の採算性という点からはあまり歩のいい仕事ではないが、三井物産、日商岩井との売込み競争は商談の成立によって当面どれだけの利益を上げ得るかというだけでなく、しのぎをけずり合った一流商社の面子にかけてもその競争に勝つということ自体が極めて重要で、会社の実力、信用の評価にかかわる問題であった。だから私は当初からこの売込み競争には絶対に負けてはならない、負けてたまるかという気持で臨んでおりそれだけに力を傾注していた。もちろん、この競争に勝つことは社長としての手腕、力量の評価にも影響するところが大であり、丸紅の大きな成果として後々まで名の残ることでもあった。更に、この競争に勝つことによる名目上のメリットも多々あり、それは会社の売上高に大きく影響するからである。商社間には売上高を競う傾向があり、当時総合商社間における売上高の番付は、三菱商事、三井物産、丸紅の順であり、これに次いで伊藤忠商事、日商岩井、住友商事がいてそれぞれ上位進出を競っていた。上位三者をビッグスリー、三菱、三井、丸紅をスリーエムとも呼んでおり、丸紅としてはスリーエムの維持についても力を注いでいた。そのような利害関係の多い競争であったので、是が非でもその競争には勝たなければならなかった。ところが、前記のようなトライスターの売込み上のいろいろな隘路があったうえ、全日空がはっきりした態度を見せないばかりか、トライスターに関心を寄せているふうすら示さなかったし、機種選定の時期も迫っていたのでこのままでは競争に負けるかもしれない、何か強力な攻勢をかけざるをえないと考えた。」以上のとおり供述している。檜山の検察官に対する右供述は、前記L一〇一一型機売込みにかかる檜山の関心や関係証拠によって認められる前記L一〇一一型機売込みに関する客観情勢等と符合し十分信用することができるのであって、檜山がL一〇一一型機売込みにつき特別の関心と意欲を有していたことが認められるのである。

(三) 関係証拠によると、<1>昭和四五年一一月二〇日の閣議において、政府は、「航空企業の運営体制について」と題する閣議了解を行い、「航空の大量高速輸送の進展に即応しつつ、利用者の利便の増進と安全性の確保を期する観点から、航空企業の運営体制については下記の方針により、施策を推進するものとする。」として、国内線の運営体制について、従前の日本航空、全日空の二社体制から、右二社及び日本国内航空株式会社と東亜航空株式会社の合併による第三の会社との三社体制による運営方針への転換を図るとともに、更に右施策を推進する方策の一つとして、国内幹線について「航空企業内容の充実強化を図り、航空の安全性の基礎のうえに、航空機のジェット化・大型化を推進する。」との政府の方針が定められ、その後昭和四六年二月、運輸大臣(同省航空局)により、日本航空と全日空に対し、大型ジェット機の導入を昭和四九年度まで延期するよう行政指導がなされていたが、昭和四七年七月一日に至り、運輸大臣の日本航空、全日空等に対する「航空企業の運営体制について」と題する示達の中で、「国内幹線への大型ジェット機の投入は昭和四九年度以降これを認める。……共同運航等の方法により共存共栄を図ることが可能な場合には、各社協議の上、投入時期の繰上げを図ることを妨げない。」との方針が示されたこと、<2>昭和四七年七月下旬、ダグラス社とロッキード社が大型ジェット機の売込みに関し、DC一〇型機及びL一〇一一型機をそれぞれわが国に飛来させ、東京、大阪等でデモフライトを実施し、当時新聞紙上で各機の騒音測定や評価などその状況が詳しく報道されたこと、<3>また、当時、昭和四七年七月二五日から二八日まで箱根で日米通商会議が開かれ、その後東京において引続き交渉が行われ、日米間の貿易収支不均衡改善のための具体策などが協議され、その前後の時期に、これにのぞむ政府の態度、右協議の内容、及び右協議をふまえ九月に予定されていたハワイにおける日米首脳会談にのぞむ政府の対応策などについて新聞各紙が逐次報道していたのであるが、その中で、右通商会議等に際し、わが国が米国に対し、貿易収支不均衡改善の短期的具体策として米国から緊急輸入を行う用意のあることを表明するとともに、輸入品目として民間航空会社が米国からエアバスを輸入する計画のあることを明らかにしたこと、あるいは政府が日米首脳会談において緊急輸入を具体的な品目と金額を明示して約束する方針を固め、その輸入品目中にエアバスが含まれていることなどを報道していたことが認められる。そして、全日空は、前記運輸大臣の示達に対応し、昭和四九年四月から大型ジェット機の運航を開始する方針のもとに機種選定作業を進めていたが(一九七二年五月二三日付ブラックウェルら発ミングロンら宛テレックス〔甲再二67〕によると、右同日、大久保が若狭社長と会った際、同社長から全日空の右方針及びそれが運輸省も承認した計画であることを明らかにしていることが認められる。)、檜山がL一〇一一型機の売込みに関心を抱き、重要な事態の進展について大久保から報告を受けていたことにかんがみると、檜山は前記運輸大臣の示達について認識していたものと推認される(なお、檜山が検察官に対しその点の認識があった旨述べていることは後記のとおりである。)。また、檜山、大久保の公判廷における各供述や原審証人川崎立太の証言から明らかなように、檜山は一般紙はもちろん業界紙等にも広く目を通し、そこから丸紅の業務にかかわる情報を得た場合、メモを回したり電話で質問するなどして関心のあることを示していたことに徴すると、前記デモフライトの状況や日米通商会議、日米首脳会談で協議の対象となりまた協議の対象となるであろうと予測された日米貿易収支不均衡改善のためのエアバスを含む緊急輸入問題についても十分認識していたものと推認できる。加えて、昭和四七年八月三日朝日新聞朝刊(甲再一71)は経済面にDC一〇型機及びL一〇一一型機の写真を掲載したうえ九段抜きで「大詰の〝熱い空中戦〝エアバスの機種選定問題」と題し、「大量、高速輸送時代の花形といわれるエアバスの機種選定問題は、マグダネル・ダグラス社のDC一〇とロッキード社のL一〇一一が東京、大阪などで派手なデモ飛行をする一方、箱根で開かれた日米通商協議でも外貨減らしの一環として、その買入れが話題になるなど、いよいよ大詰を迎えた。両社の売込みに合わせて、ダグラス-三井物産、ロッキード-丸紅の、それぞれの代理店の動きもあわただしさを加えている。両商社は、今月中にも機種決定をするといわれる全日空に対し、最後の食込みを図っているが、『陰で政財界の大物が動いている』とのウワサまで飛びかうほど、合戦のエンジンは過熱ぎみだ。」「つけがたい優劣」「尾部に第三エンジンをつけたその形から、性能、一機六十億円程度という値段まで、ほぼ同じといわれる両機、騒音についても『在来機よりは低い』という大方の評価を得たものの、客観的優劣はつけがたいようだ。このため選ぶ方も、売込む方も、いま一つ決め手を欠いているのが実情。それでもダグラス-三井物産、ロッキード-丸紅の両陣営は『わが機こそ優秀』と、こと細かにその理由を並べ立てる。丸紅側は<1>L一〇一一のロールスロイスのエンジンは、初めから純民間用に製作されたもので、エアバスに適している<2>第三エンジンの取付け方に無理がなく、横ゆれも少ない<3>同機には最新の自動離着陸装置がついているなどの利点を挙げ、『純粋に技術的判断を下してくれれば、優劣ははっきりするはず』という。これに対し三井物産側も負けていない。<1>DC一〇はL一〇一一よりたくさん米国の会社に使われておりそれだけ信頼度が高い<2>ハワイまで無着陸で飛べるなど足が長い<3>ダグラス社の機体は、これまでわが国で多数使われているので、修理や整備などでもなにかと便利といって対抗している。しかし、こうした主張も、しょせんは相対的なもの。両機に試乗したある航空評論家は『結局、好き好きの問題ですね』と感想を述べたという。そして、この決め手のなさが、あれこれウワサを招く背景にもなる。第三者的な立場にある別の大手商社の役員によると、この問題にからんで代議士、一匹オオカミで名の通る実業人、はては政界の黒幕的人物の名前、などが浮き沈みしているとか。これに対し、三井物産、丸紅とも、政治的なからみを強く否定、『ウワサは迷惑』と口をそろえる。」「予断を許さぬ情勢」「しかし、当事者がいくら否定しても『〇〇は××派』『全日空の幹部にもヒモがついている』といったたぐいのウワサは跡を断たない。当の全日空は、いよいよ大詰だけに、極端に口が重い。『早く決めろ、などと圧力をかけてくる向きもあるようだが、企業が独自に判断すること、と一切はねつけている』とある役員。運輸省の担当者も『どんな形であれ、選定に介入しないのを建前にしている』と、危うきに近よらず、の態度である。商社筋によると全日空はすでにすべての技術的調査をすませ、今月中に主な担当者の合議で最終決定、来月にも六機程度の第一次発注を発表する段取りだという。しかし同社内には、有力OBを含め、新機種導入に消極的な意見も根強く、従来のボーイングヘの機種統一論も消えていないという。こうした消極論が今後とも出れば、機種選定はさらに遅れる公算もある。″熱い空中戦″の行方はまだまだ予断を許さない情勢だ。」と大きく報道しているところ、檜山はこの記事は読んでいると思う旨述べている(原審第九〇回公判)。もっとも、檜山は、右朝日新聞の記事について、このような記事は日常茶飯事に出ていることで、これを見たからといって、「ああ、そうか。」という程度ですぐ忘れてしまっていると思う旨述べているのであるが、右記事は前示売込みの客観的情勢とおおむね符合するものであるとともに、その後ほどなく、後記のとおり、檜山が大久保に対し、L一〇一一型機売込みについて田中に協力を求めるべく働きかける話をもちかけていることに照らして考えると、右記事につき特別の注意を払わなかった趣旨の右檜山の弁疏は信用しがたい。以上のような、昭和四七年七月から同年八月上旬にかけての諸事情に照らすと、ロッキード社もダグラス社もデモフライトまで実施して売込み工作のためにとるべき手段をとり尽くし、残るのは詰めの商談のみと考えられ、また全日空が昭和四九年四月から大型ジェット機を国内路線に就航させるには、最低一八ケ月を要するといわれる準備期間を考慮すると、機種選定のタイムリミットが迫り、多少の猶予はあっても、従前のように漫然と先のばしすることはなく、日米貿易収支不均衡是正のための緊急輸入品目の中にエアバスが取上げられたことや、エアバス商戦に関する新聞報道を見るにつけても、エアバス商戦がいよいよ大詰にさしかかったと考えるのは当然と思われるのであって、檜山が、昭和五一年八月一〇日付検面調書において、「昭和四七年の七月に入って、運輸省は国内線への大型ジェット機の投入時期を昭和四九年度以降に認める旨発表し、またロッキード社とダグラス社は同月下旬から全日空を対象に航空機の売込み活動の一環として、DC一〇型機とトライスターのデモフライトを大々的に実施した。そしてそのころには、日米間における貿易収支の不均衡是正策として、日本がアメリカから緊急輸入をする方針が打出され、輸入対象品目の一つとしてエアバスの導入が取上げられていた。私はそれらの諸情勢から、全日空が導入機種を選定するのはここ一、二ケ月がやま場であろうと判断し、また、トライスター売込みのチャンスはこの機会を逃してはできないと考え、最後の決戦の段階にきたものと感じとると同時に、この競争には是が非でも勝たなければならないと意欲を燃やした。」旨述べているのは、その間の情況を的確に認識していたことを物語っているものであって、その供述の信用性は十分肯認することができる。

(四) 航空機の売込みと政治的な働きかけの問題についての檜山の認識について検討するに、まず、売込みに直接かかわっていた大久保は、昭和五一年七月二三日付、同年八月八日付(ただし、甲再一76のもの。)検面調書において、「私は航空機の商売は本質的に、その是非は別にして、ある程度政治勢力による影響は免れないし、また政界筋の力に依存することも避けられない面を持っているのではないかと思っている。」「事実の有無はともかく、ダグラス社とその代理店三井物産とて政界筋に働きかけて全日空へのDC一〇売込みをプッシュしてもらっているぐらいは容易に推測された。」旨供述し、公判廷(第七三回)においても、右検面供述に関連し、三井物産が政財界の実力者に依頼して全日空にDC一〇型機の売込みを働きかけていることが予想されなかったわけではない旨供述している。そして、原審証人灘波清一、同若狭得治の各証言、同石黒規一の尋問調書、若狭得治の検面調書その他関係証拠によると、昭和四四年七月ころ、全日空の社長であった大庭哲夫は、昭和四七年をめどにエアバスを導入就航させようと考え、その機種は日本航空と同一機種にすべく、当時日本航空が導入するであろうと予想されていたDC一〇型機とし、社内における正規の手続きは後日その時期が到来したときにとることとし、その手続をとることなく、三井物産に対し、将来全日空に導入するエアバスとして、三井物産の名義でDC一〇型機を先行発注するよう依頼し、そのころ、三井物産がダグラス社に対し同型機七機(確定三機、オプション四機)を発注し、その後その発注機数は一〇機(確定四機、オプション六機)に増機されたこと(以下これを「大庭オプション」という。)、昭和四五年六月大庭社長が退任し若狭得治が社長に就任するに及び、同年夏ころ、若狭社長と三井物産の若杉社長との間で大庭オプション問題について話合いがなされ、その結果全日空は右問題について責任がないとの立場をとり白紙の状態で機種選定を進めることとなったが、三井物産の売込担当者らは、もし全日空がDC一〇型機を導入しない場合には、既にダグラス社に発注した航空機の引取り先がないまま宙に浮きその処理に多大の損失を被ることが見込まれたところから、あくまで全日空への売込みを図るべく右の経緯を背景に売込み工作を展開し、大庭前社長の前記約束を蒸し返し全日空に対し強い態度でのぞむこともあったこと、丸紅及びロッキード社がL一〇一一型機を全日空に売込む過程において、若狭社長は全日空が大庭オプション問題について法律的にも道義的にも責任はなく白紙状態で機種選定を進めている旨表明し、丸紅としてもこの点は一応解決した問題であるとしていたものの、昭和四七年に入ってからも、大久保が若狭社長と面会したり、前記のとおり檜山が大久保とともに同社長と面談した際にも右問題が話題となるなど、この問題は、L一〇一一型機売込み上、気になる要素の一つとなっていたこと、三井物産は、前記のとおり、全日空がDC一〇型機を導入しない場合多大の損失を被るおそれのあるところから、昭和四五年夏ころ、三井物産の売込担当責任者であった石黒規一は、砂防会館の田中事務所に当時自民党幹事長であった田中を訪ね、大庭オプションの経緯等を説明したうえ、全日空に対しDC一〇型機を購入するよう働きかけて欲しい旨依頼し、そのころ、田中は、若狭社長に「三井物産からDC一〇を買うよう口添えしてくれと言って来ているから検討してくれ。」と電話し、その後再三訪ねて来た石黒に「この間話をしておいた。即答できる問題じゃないから検討しているだろう。」と話したこと、また、石黒は、昭和四七年九月二一日、首相官邸に田中を訪ね、「前にお願いしてそのままのびのびになっているが、ロッキードに内定したようなうわさ話もあり、そろそろ本格的な注文が決まる時期になりつつある。前にお願いしたような趣旨でお力添えなりお口添えを願いたい。」旨依頼し、田中において、「航空機問題の担当は、運輸大臣と通産大臣であるから、自分の方からもし必要があるなら両大臣のところで行政指導をするようにということで通知しておく。」旨答えたこと、更に、同年一〇月二〇日前後ころ、石黒は三井物産の植村取締役と共に若狭社長の自宅を訪れ、田中と会ったことや有力政治家の名前を出すなどしてDC一〇型機の購入方を要請したことが認められる。このような三井物産の動きは、たとえその背景に大庭オプションによるDC一〇型機の先行発注があったことを考慮に入れても、航空機の売込みに政治的要素、すなわち政界有力者による働きかけの余地があり、三井物産がこのような働きかけをしているのではないかと予想されたという大久保の前記供述が単なる憶測ではないことを裏付けるものということができる。このことは、檜山が前記検面調書において、「他社は全日空に対して影響力の強い政財界の実力者など航空行政にかかわりのある閣僚や国会議員などに頼んで、いろいろな角度から全日空に働きかけているだろうと思った。」と述べている点も同様であり、また、檜山が新聞等から業務の進展情勢に関する情報を得ていた前記事情に徴すると、目を通した前記朝日新聞の「第三者的な立場にある別の大手商社の役員によると、この問題にからんで代議士、一匹オオカミで名の通る実業人、はては政界の黒幕的人物の名前などが浮き沈みしているとか。」などといったうわさに関する記事にも留意し、三井物産が政財界の有力者に働きかけをしているのではないかと推測したとしても別段不思議はなく、檜山が請託を決意した動機の一つとして前記のように供述していることは十分信用することができるのであって、そのように認識していたことを認めることができるし、また後記のとおり、証拠上檜山が田中に対しL一〇一一型機の売込みにつき協力を依頼した事実が認められることは、檜山において航空機の売込みについて政治的な働きかけをすることが有効な方法であると考えるとともに他社が全日空に対し影響力の強い政財界の実力者に頼んで全日空に働きかけているだろうと思った旨の検察官に対する供述の信用性を裏付けていると考えられる。

(五) エアバス緊急輸入問題と請託の動機の関連について検討するに、関係証拠によると、昭和四七年七月、八月当時、わが国の貿易収支不均衡の拡大、特に日米貿易収支不均衡是正の問題は、両国間の当面する懸案事項として、同年七月下旬箱根において開催された日米通商会議において協議され、更にその後同年八月三一日及び九月一日の両日ハワイにおいて開催された日米首脳会談においても取上げられ、その機会に行われた鶴見外務審議官とインガソル大使との会談の結果として、わが国が短期的具体的な措置として計画している一〇億ドルを超える米国からの緊急輸入の内容が公表されたが、その中で「日本の民間航空会社は、米国から約三億二、〇〇〇万ドル相当の大型機を含む民間航空機の購入を計画中である。これらの発注は四七及び四八会計年度になされることとなろう。日本政府は購入契約が締結され次第、これら航空機の購入を容易ならしめる意向である。」とされている。しかして、当時、右日米通商協議において日米貿易収支不均衡是正に関し米国側から出された要望やこれに対しわが国側が提示することを決めた方針、並びにその協議の経緯等が広く報道されたが、その中において、貿易収支不均衡改善のための緊急輸入の問題が協議され、その輸入品目中に農産物、ウラン等とともに大型航空機が取上げられたこと、及びその後も東京で協議が続けられ、来るべき日米首脳会談において、右貿易収支不均衡是正に関連し、具体的品目と金額を明示して緊急輸入の約束がなされることとなったが、その品目中に大型航空機(エアバス)が含まれることなどを数字を挙げて具体的に報道されていたのであって、檜山はこれらの情報を新聞によって知っていた趣旨の供述をしている(原審第八二回公判)ことは既に説示しているとおりである。そして、当審で取調べた一九七二年八月一五日付クラッター発コーチャン宛テレックス(弁12)によると、クラッターは、同日、経済、商務担当の米国公使レスター・エドモンドから得た情報として、「彼は、ある情報筋が資金借入保証問題のため合衆国がL一〇一一を推すのではないかと心配していると指摘した。」しかし「まだ確実に決まってはいないが、合衆国は、ホノルルにおいて、日本側に特定の購入機のタイプ名をあげて要求するということはなく、購入総額及びワイドボディー機の具体的な購入機数について確約を求めることになるであろう。」との情報をコーチャンに伝えていること、そして同月一八日付クラッター発コーチャン宛テレックス(甲再二37)に、日本政府は、ホノルル会談で、緊急輸入の一部として大型機を購入することを明らかにするばかりでなく、タイプ、数量、引渡しスケジュール等を彼らの詳細な計画や誠実さを米国側に印象づけるため、明確にするものと思われる旨の記載があることに徴すると、ロッキード社側としては、日本政府が右日米首脳会談に際し、購入する航空機のタイプ、数量、引渡しスケジュールなどの具体的事項をも明確にするであろうという情報を、この時点で得ていたことをうかがうことができる。しかしてコーチャンは、このような情報を背景に、「私は、檜山氏に対しできるならば総理大臣ができるかぎりの援助をしてくれるよう強く勧めていた。というのは、私はロッキードとエアバスという言葉をボーイングやマグダネル・ダグラスと同じように総理大臣の心の中にとめておいて貰いたかったからである。」「私が求めていたことは、もし支払(日米貿易収支のこと)の不均衡の是正の話の中で、準備会議のスタッフのレベルか、あるいは、おそらく田中氏