東京高等裁判所 昭和59年(ネ)355号 判決 1984年5月29日
控訴人 松本正俊
右訴訟代理人弁護士 稲葉泰彦
被控訴人 松本公男
右訴訟代理人弁護士 大平弘忠
主文
原判決中控訴人敗訴部分を取り消す。
被控訴人の請求を棄却する。
訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 控訴人
主文と同旨の判決を求める。
二 被控訴人
「本件控訴を棄却する。」との判決を求める。
第二当事者の主張
一 被控訴人の請求の原因
1 被控訴人は、昭和五三年一〇月三〇日、控訴人との間において、被控訴人を注文者、控訴人を請負人として、埼玉県足立郡吹上町大字新宿の木造瓦葺二階建居宅の新築工事を代金一、二四二万二、一八〇円で請負わせる契約(以下「本件請負契約」という。)を締結し、控訴人に対して、右請負代金の一部として右同日四二〇万円を、同年一一月二三日四三〇万円を支払った。
2 ところが、埼玉県大宮土木事務所長は、同年一二月一五日、被控訴人に対して、右居宅の建築が建築基準法関係法規に違反しているとして、工事禁止の処分をしたため、被控訴人は、右工事途上においてこれを中止せざるを得なくなった。
3 そこで、被控訴人は、昭和五四年二月初旬頃、控訴人との間において、本件請負契約を合意解約した。
そして、被控訴人は、同年五月下旬、控訴人に対して、右合意解約によって生じた控訴人の前記請負代金八五〇万円の返還債務中三〇〇万円の債務を免除するとともに、昭和五六年二月四日控訴人に到達した書面により、残金五五〇万円を同月九日までに返還すべき旨の催告をした。
4 よって、被控訴人は、控訴人に対して、右請負代金五五〇万円の返還(原審における請求を減縮)とこれに対する右催告期限の経過した翌日の昭和五六年二月一〇日から支払い済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
二 請求原因事実に対する控訴人の認否
1 請求原因1の事実中、本件請負契約を締結した請負人及び請負代金八五〇万円の支払いを受けた者が控訴人であることは否認し、その余の事実は認める。
本件請負契約の請負人及び請負代金の支払いを受けた者は、控訴人が代表取締役を務める訴外松本建設工業株式会社であって、控訴人ではない。
2 同2の事実は、認める。
3 同3の事実中、被控訴人が昭和五六年二月四日控訴人に到達した書面により控訴人に対して支払い済みの請負代金を同月九日までに返還すべき旨催告したことは認めるが、その余の事実は否認する。
第三証拠関係《省略》
理由
一 請求原因1の事実中、本件請負契約を締結した請負人及び請負代金八五〇万円の支払いを受けた者が控訴人であることを除くその余の事実は、当事者間に争いがない。
二 そこで、本件請負契約の当事者の如何について検討すると、《証拠省略》を総合すると、次のような事実を認めることができる。
1 控訴人は、昭和五三年一〇月当時、土木建築の請負を業とすることを目的とする株式会社である訴外会社の代表取締役を務め、自宅車庫二階をその事務所に充てて、その経営に当たる一方、土地家屋調査士、測量士、二級建築士の資格を有し、埼玉県行田市本丸三番三六号に事務所を設けて、個人でこれらの業務に携わっていたものである。
もっとも、訴外会社としては、女子事務員一名及び工事現場従事者一名の従業員を擁するに過ぎず、また、その業務内容も受注した請負工事を専ら業者に下請けさせるというものであって、訴外会社は、控訴人がすべてを支配するその個人会社であるということができる。
そして、訴外会社は、昭和五三年前後においては、不動産業を営む訴外小沼幸男、小沼壮太郎父子の仲介等によって宅地を買い入れた者を同人らから紹介を受けるなどして、数件の居宅建築工事を請負った実績があった。
2 被控訴人は、自宅を建築するべく、その敷地を訴外小沼壮太郎から買い受け、訴外小沼幸男から控訴人又は訴外会社の紹介を受けて、本件請負契約を締結することになったものであって、控訴人が訴外会社の代表取締役であること及び訴外会社の業務内容を知っていた。
そして、本件請負契約の締結に際し当事者間において授受された工事請負契約書の表紙には、「松本建設工業 松本正俊」と記載され、控訴人の個人印が押捺されたうえ、住所として「行田市本丸三番三六号」と付記されており、同契約書末尾には「工事請負者 松本正俊」と記載されて控訴人の個人印が押捺され、また、同契約書に添付された見積書には、訴外会社名、事務所所在地等が印刷された用紙が使用されている。さらに、当事者間において授受された前記請負代金の領収書には、領収者として控訴人の氏名が記載され、その個人印が押捺されている。
3 そして、被控訴人としては、本件請負契約の締結に際し、請負人が控訴人個人であるのか控訴人が代表取締役を務める訴外会社であるのかを特に問題としたり意識していた訳ではないし、もとよりその点が当事者間で話し合われたようなこともない。しかし、控訴人は、従前、個人の資格で土木建築請負契約を締結したようなことはなく、前記契約書の一部及び領収書に単に控訴人の個人名を記載し又は個人印を押捺するなどしたのは、格別の意味があってのことではなく、いわば不用意にそうしたものに過ぎない。
三 以上のような事実関係のもとにおいて、本件請負契約の請負人が控訴人と訴外会社のいずれであると解すべきかについてみると、訴外会社は控訴人がすべてを支配していたその個人会社であり、その業務内容も先に説示したようなものであったのであるから、表面的、現象的には控訴人個人の業務と訴外会社の業務とを判然と区別することは困難であるし、本件請負契約による建築工事も、結局業者に下請けさせて施行することが予定されていたのであるから、設備、従業員等の関係から控訴人個人としては締結し履行することのできないような性質のものではないことは確かである。
しかしながら、訴外会社は専ら土木建築の請負を業とすることを目的とする株式会社であり、本件請負契約の締結は正しくその業務内容に適合するものであって、控訴人が訴外会社の代表取締役としてこれを経営している趣旨は、本件請負契約の締結のような業務をこそ訴外会社の業務として処理することによって営業上の収支、責任とそれ以外の個人の収支、責任とを分離しあるいはそれによって税法上の特典等を受けようとすることにあることは、一般にこの種の個人会社が設立される趣旨、目的に照らして明らかである。
したがって、本件請負契約の締結に際し、訴外会社の経営状態等に鑑みてその履行又は不履行の責任を控訴人個人に負担させることが特に考慮されたとか、控訴人が個人の資格において本件請負契約を締結し履行するものであることを明示したなど、特段の事情がない限り、控訴人としては、訴外会社の代表取締役としてする意思で本件請負契約を締結したものと推定すべきであり、他方、被控訴人としても、控訴人が訴外会社の代表取締役であること及び訴外会社の業務内容を知っていたのであるから、右と同様の特段の事情がない限り、相手方が訴外会社の代表取締役としての控訴人であって、個人としての控訴人ではないことを認識して本件請負契約を締結したものと推定すべきものと解するのが相当である。
そして、先に認定したとおり、本件請負契約締結に際してその履行又は不履行の責任を特に控訴人個人に負担させることが考慮されたような事実はなく、また、前記契約書の一部及び領収書に控訴人の個人名が記載され又は個人印が押捺されていることも、右各書面を全体的に観察すれば、未だそれによって控訴人が個人の資格において本件請負契約を締結し履行するものであることを明示したものというには足りず、他には右に述べたような特段の事情の存在することを認めるに足りる証拠はないから、本件請負契約は、訴外会社と被控訴人との間において締結されたものと認めるべきである(なお、被控訴人は、原審における本人尋問において、本件請負契約は控訴人個人と締結したものであると供述するけれども、単なる抽象的な判断を述べるものであるに止どまり、他方では、訴外会社が本件請負契約を締結するのであっても格別の不都合はなかったとも供述するなど、被控訴人は、いずれにしてもこの点について明確な認識を持っていなかったことが窺われ、前記供述も、右の認定を妨げるものではない。)。
四 以上のとおりであるから控訴人個人が本件請負契約の当事者であることを前提とする被控訴人の本訴請求は、その余の争点について判断するまでもなく、理由がなく、原判決は、これを認容した限度において失当である。
よって、原判決中控訴人敗訴部分を取り消し、被控訴人の請求を棄却することとして、訴訟費用の負担については、民事訴訟法第九六条及び第八九条の各規定を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 香川保一 裁判官 越山安久 村上敬一)