東京高等裁判所 昭和60年(う)562号 判決 1985年12月04日
被告人 宮内睦夫
昭一三・一〇・六生 会社役員(電子機器輸入販売業)
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人山川洋一郎、同喜田村洋一共同作成名義の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官大和谷毅作成名義の答弁書に記載されているとおりであるから、これらを引用する。
一 訴訟手続の法令違反の控訴趣意について
所論は、「本件の最初の謀議について、原判決は、三月上旬ころ、プロテツクの事務所又はECビル近くの寿司屋でなされたと認定しているのであるが、原審の冒頭手続において、弁護人らが、検察官に対し、その主張にかかる謀議について具体的な日時、場所、態様等の釈明を求めたところ、検察官が、「立証段階において明らかにする。」と述べ、次いで、冒頭陳述において「仲井は、同年〔昭和五七年〕三月一日ころ……新宿JECビル内のプロテツクに赴いて宮内及び中島に会い……」と陳述したのであり、右の「ころ」という文言は、検察官がすべての日時について機械的に付する無意味なものというべきであるから、検察官は右冒頭陳述により第一回の謀議が三月一日にプロテツク内でなされたと主張を限定したものであり、したがつて、弁護人らも、三月一日に照準を合わせて防禦活動を原審において展開したのである(現に検察官は論告においてもなお右主張を維持している。)がこうした原審の審理経過にかんがみるとき、原判決の右日時の認定は、原審における攻撃防禦の審理経過を無視した被告人に対する不意打ちであり、右の場所の認定も原審の審理経過を無視逸脱してECビル近くの寿司屋を加え、「プロテツクの事務所又はECビル近くの寿司店」という形で許されざる選択的認定をしているのであり、原判決にはこれらの点に判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反がある」というのである。
しかしながら、検察官の冒頭陳述は、起訴状一本主義の下において白紙の状態で公判期日に臨む裁判所に対して、検察官の立証計画の全貌と立証の重点を示すとともに、このことを通して個々の証拠調請求の必要性及び合理性ならびにその間の有機的関連性を明らかにするため、訴因たる事実を推知させる事実についての検察官の一応の見解を表明させるものに他ならず、所論のような経緯があつたとしても、審判の対象たる訴因をさらに限定する機能を有するものとはいえず、この点に関する所論は、刑事訴訟の流動的発展的性格を無視する見解と評するの外はない。仮に検察官の冒頭陳述に所論のような審判の対象を限定する機能を容認すべき場合がありうるとし本件がかかる場合に該当するとしても、第一次謀議に関する、検察官の冒頭陳述における「三月一日ころ」という日時の主張が、三月一日を中心として前後に二、三日の巾をもたせた表現であることは文理上明らかであり、右の「ころ」という表現が無意味な記載であり、右の「三月一日ころ」という表現が「三月一日」という表現と完全に同一であるとする所論はそもそも文理的に容認しえないところというべきであるのみならず、右の「三月一日ころ」という表現は、原審で取り調べられた関係各証拠との照合、関連において考察するかぎり、第一次的には、中島哲弘の検察官に対する昭和五八年二月一三日付供述調書の供述記載に依拠して第一次謀議の日を三月一日と主張するものの、第二次的には、中島の右日時の供述が容れられない場合を慮つて原審相被告人仲井久雄(検察官に対する昭和五八年二月一九・二〇日付供述調書)あるいは被告人(検察官に対する同年同月二二日付供述調書)の「三月初めころ」という巾のある供述による認定を裁判所に求めたものと解され、また、このことは、検察官の冒頭陳述当時すでにこれらの供述調書の開示を受けていた筈の弁護人らにおいても十分に看取、理解しえたところというべきであるから、原判決の認定が右冒頭陳述の主張の範囲を逸脱したものとは到底いえず、所論はその前提を欠くという他はない。
また、本件の原審における具体的審理経過に徴しても、弁護人の同意にかかる、原審相被告人仲井久雄及び被告人の検察官に対する右各供述調書に右のような各供述記載がある以上、弁護人らにおいて、防禦上「三月一日に第一次謀議がなされた」旨の中島哲弘の供述の信用性を弾劾するのみでは足りず、右の仲井久雄や被告人の供述の信用性をも弾劾する必要があることを容易に看取しえたところというべきであるから、原判決のこの点に関する認定にいわゆる不意打ちの違法があつたとは到底いえず、所論指摘の最高裁昭和五八年一二月一三日第三小法廷判決・刑集三七巻一〇号一五八一頁は事案を異にし本件には適切な判例ではないというべきである。
なお、原判決の第一次謀議に関する「プロテツクの事務所又はECビル近くの寿司屋」という形での択一的認定を論難する所論についていえば、かかる犯罪の構成要件に属しない謀議の場所の如きは、裁判所の管轄の有無に影響するなど特別の事情がある場合を除いて択一的な形で認定してもさしつかえないところというべきであり、所論は排斥を免れない。
要するに、原判決には所論のような訴訟手続の法令違反はなく、所論は採用できない。論旨は理由がない。
二 事実誤認の控訴趣意(一)について
所論は、「被告人は、昭和五七年三月上旬ころ、プロテツクの事務所又はECビルの近くの寿司屋で、仲井と会い、新潟鉄工が開発したコンピユーターシステムの資料等をコピーし、これを利用して右システムを手直し販売する意向を打ちあけられて、この方針を了承し、新会社設立への協力要請を応諾した旨の原判決の認定には事実の誤認がある」というのである。
しかしながら、所論指摘の原判示の事実は、原判決挙示の関係各証拠によつて優にこれを肯認することができる。
弁護人らは、「<1>原判決が依拠した中島哲弘の捜査段階における供述は、実質的には被疑者として深更にいたるまで取調べを受け、いつ逮捕されるかわからないという恐怖から取調検察官の圧力に屈して迎合的になされたものであつて、いわば取調検察官の作文というべきもので信用性を欠くものである、同人は、検察官に対する昭和五八年二月一三日付供述調書において、右謀議のなされた日を三月一日と特定し、このように日付けを特定して供述できる理由として、右謀議は宇部興産の社員が午前中にプロテツクの事務所にきた日の夜であつたと記憶しているところ、宇部興産の社員がプロテツクの事務所にきたのが三月一日であつたことが中島自身のノートによつて明らかであるからであると述べているが、宇部興産の人がプロテツクに来社したことと仲井がプロテツクに来社したこととは全く無関係な事柄であり、中島が両者を結びつけて記憶しているということ自体きわめて不自然というべきである、<2>仲井久雄及び被告人の捜査段階における各供述も中島の供述に合わせて供述しないかぎり釈放しないという形で押しつけられたものであつて、同じく信用性を欠くものである、<3>原判決は、被告人が検察官に対する昭和五八年二月二二日付供述調書において、他の供述者と異なり、右の会合、謀議の場所を蒲田の寿司屋と供述していることは、右調書の供述記載が取調官の誘導にもとづくものではないことの証左であるとしているのであるが、被告人は前科前歴も全くない実直なビジネスマンであり、生まれてはじめて逮捕、勾留されて大きな衝撃を受け、会社のことや家族のことについて深刻に思い悩んでいた状況下において、やむなく検察官の圧力に屈して、謀議への参与を認め、実際には同年三月二五日に仲井と会つた蒲田の寿司屋を右謀議の場所として供述するにいたつたのであり、取調官においてはこのような他の関係者の供述とのささいなくいちがいは、かえつて後の公判段階において裁判所に対し供述の信用性を印象づけるために好都合であるとして意図的にそのままにされたか、あるいは取調官において看過したものである、また、被告人は、捜査段階において、右謀議につき仲井と二人だけで会つたと供述しており、中島を含む三人で会つたとする仲井の捜査段階における供述とくいちがつており、その日時について供述するところもきわめてあいまいであることを併せ考えると、信用性を欠くものであることは明らかである、」などと主張する。
しかしながら、先づ<1>の主張についてみると、中島哲弘の捜査段階における供述は、己れの心情や被告人の態度、反応などを交えつつ具体的かつ詳細に述べたごく自然なものであり、他の証拠によつて認められるところの客観的な事実関係の流れともよく符合しているところ、このうち所論のいう第一回謀議に関して供述するところは、取調官において他の証拠からあらかじめ知り、あるいは推測しうべくもない事柄であることにかんがみれば、取調官の圧力に対する中島の迎合にもとづく供述であるとか、取調官の作文ないし押しつけという疑いをさしはさむ余地は全くないものというべきであり、大筋において信用できるものといわざるをえない(なお、所論のうち第一回謀議の日時が三月一日である旨の昭和五八年二月一三日付検察官に対する供述調書中の中島の供述の信用性を論難する部分は、原判決が採用しなかつた供述部分についてその信用性を弾劾するものに他ならず、原判決に対する論難ではないから、判断のかぎりではない。)。これに反し、同人のこの点に関する原審公判廷における供述は、捜査段階における己れの供述との自己矛盾について、取調当時「何か怒られているみたいでもうワンワン怒られているみたいでこわくなつちやつて」とか、「頭が混乱しまして電話でいわれたことだとかいろんなことが混乱して間違つてしまつて」とか、およそ不合理な供述をし、あるいは答えに窮して尋問に対して答えていないところもあるなどきわめて不自然な供述態度に終始し、何ら納得のできる説明をしていないこと、四月二四日の第二回謀議について供述するところも、同人の捜査段階における供述とくいちがつているのみならず、被告人が仲井らと会つた時間や被告人が再びプロテツクの事務所に戻つてきて仲井らと会つたか否かの点について、被告人や仲井らの原審公判廷における各供述ともくいちがつていることなどにかんがみれば、立場上被告人を庇いことさらに事実関係を歪曲して供述しているものに他ならないと認められ、到底信を措きえないものといわざるをえない。
次に、<2>の主張についていえば、仲井久雄や被告人の捜査段階におけるこの点の供述は、第一回謀議の日時について三月一日とする中島の捜査段階における供述とは異なつており、また、第一回謀議の場所について被告人の捜査段階における供述は仲井の捜査段階における供述ともくいちがつていることに徴しても所論のような中島の供述に合わせるべく取調官によつて押しつけられたものではないことは明らかであつて疑いを容れず、右主張も採用できない。
さらに、<3>の主張についていえば、被告人が第一回謀議の場所について仲井や中島の供述と異なつた供述をしている点について、供述の任意性、信用性をことさら裁判所に印象づけんがための取調官の意図的な措置によるものであるとする所論にいたつては単なる臆測にもとづくものにすぎず、被告人が右供述調書において、「中島がプロテツクの事務所だつたと言つているなら、そうかとも思うが、私の現在の記憶では、最初にその話を聞いたのは被告人仲井に呼出されて蒲田の寿司屋で話合つた席だつたように覚えている。」と述べていることに徴しても、被告人のこの点に関する供述が当時の己れの記憶にしたがつて忠実になされたものであることは疑いをさしはさむ余地は全くない(取調官が看過したものであるとの主張も、右供述記載に照らして到底採用しえないものというべきである。)。また、第一回謀議においては仲井と二人だけで会つたとの被告人の捜査段階における供述が、第一回謀議が中島を含む三人でなされたとの仲井の捜査段階における供述とくいちがつている点も、むしろこれらの供述がいずれも供述者の記憶にしたがつてなされたものであることを窺わせる事情というべきであり、何らそれらの信用性を滅殺するものではないというべきである。被告人が捜査段階におけるこの点の供述において第一回謀議の日時につき特定しえなかつたことも、本件の取調べが第一回謀議のなされた時点から一年近くも経過していることにかんがみれば何ら異とするに足りないところといわなければならない。弁護人らの右主張も採用できない。
また弁護人らは、「被告人と仲井が会合した日を三月二五日とする被告人の原審公判廷における供述こそ、三月一日は思い違いであつたとする中島の原審公判廷における証言や仲井のタイムカードとも符合していることや、更に被告人の原審公判廷における供述中「二度目の木曜日に仲井に会つた際、仲井が同年四月からソフト要員として採用することに予定していた青木ら四名について、「彼等は使えます」と言つた」という極めて具体的な事実の供述が、三月一六日に青木ら四名を彼らが使える人物であるかどうかを判断してもらうべく被告人が面接によこした旨の仲井の原審公判廷における供述とも符合していることなどにかんがみ、信用できるものであるといわなければならない」と主張するが原審取調べの粟野浩司の昭和五八年二月一八日付及び青木雅美、渋谷孝、佐野千鶴男、伊藤忠男の各検察官に対する供述調書を総合すると、右四名が中島につれられ新潟鉄工におもむき、仲井に紹介されたのは、昭和五七年四月五日のことと認められ、従つて、彼等は使えますかといつた話が被告人宮内と仲井の間で出たのは、四月五日夜のいわゆる旗上式の折以降のことと認められ、三月一六日に仲井に四名を面接させた旨及びこれを前提として仲井・宮内会談が三月二五日であつたとする中島、宮内、仲井の原審供述は措信しえないものである。
さらに、弁護人らは、「被告人の原審公判廷における、この点に関する供述について、被告人が仲井の重要な話を聞きながら、その話の真偽を仲井に会つて確かめることを三月中旬まで遅らせたとする点において不自然であるとしている原判決の説示について、<1>原判決の右説示は、中島の捜査段階における供述に依拠して被告人が中島から仲井の独立の話を最初に聞いたのが二月二六日であることを前提とするものであるところ、被告人が中島からこの件について最初に話をきいたのは三月中旬以降であつて、二月二六日ころではない、中島の捜査段階における、この点に関する供述は、「二月二六日には当初栗田工業を接待した後にカラオケスナツクで仲井から独立の話を聞かされた。」というのであるが、中島は酒にきわめて弱く、飲むとすぐ泥酔してしまうのであり、また、中島は当時連日のように新潟鉄工に行つており、仲井とすれば中島にこの件について話そうとすれば話す機会はいくらでもあつたのであるから、かなり酒を飲んだ二次会のあとで泥酔していた中島に仲井がこのような重大な内容の話をする筈がなく、この点からしても中島の右供述は不自然で信用できないものであることは明らかである、<2>原判決は、被告人が仲井に会うのを三月中旬まで遅らせたのが不自然である理由として、被告人が仲井の話を真に受け、新潟鉄工の販売代理店になれるものと思つて資金を投入していたことをあげているが、プロテツクが新潟鉄工の販売代理店になるために求められていたのは、プロテツク自身がCADシステムのデモンストレーシヨン及び顧客のソフトの修正あるいはメインテナンスができるようになることであつたのであり、このためにはコンピユーターの導入も必要ではあつたが、三月上旬の時点ではこのコンピユーターについては導入に備えて機種の選定にとりかかつていただけで未だその導入のために資金を投入していなかつたのであり、ソフトの修正あるいはメインテナンスの要員として昭和五六年一二月に新潟鉄工に派遣していた飯倉や伊藤はもともとプロテツクの社員だつたのであり、このために新たに雇い入れた者ではなかつたのであるから、この関係でもプロテツクが特に資金を投入していたわけではなく、したがつて、被告人の立場として一刻も早く仲井に会つて中島から聞いた話の真偽を確認しなければならないような切迫した状況にはなかつたのである、このことは、被告人がそれほど重要視していたのであれば、自らが直接仲井に連絡をとつた筈であるのに、被告人が会談の日取りの設定を中島に委ねていたことによつても裏付けられているところというべく、原判決にはこの点に事実の誤認がある、<3>そもそもプロテツクにとつて、新潟鉄工の代理店になるということはその事業活動のうちの一つにすぎず、原判決が説示しているほど緊急を要する重要な事柄ではなかつた、<4>被告人も仲井も当時それぞれきわめて多忙であつて、両者にとつて都合のよい時間を作り出すことは相当に困難であつたのであるから、両者の会談の日取りが多少先に延びたとしても何ら異とするに足りないなど」と主張する。
しかしながら、まず<1>の点についていえば、中島のこの点に関する捜査段階の供述は仲井の捜査段階における供述とも符合しているのであり、中島の捜査段階における供述は大筋において信用しうるものであることは前述のとおりであり、所論に沿う仲井や中島の原審公判廷の供述は信用できず、仲井が中島に新会社設立につき打ちあけたのは、二月二六日と認められ、右主張は採用できない。
次に<2>、<4>の各主張についていえば、たしかに当時はまだプロテツクにおいてホストコンピユーターの導入のために現実に資金を投入する段階にいたつていなかつたことなどは所論指摘のとおりではあるけれども、原審で取り調べられた関係各証拠によれば、当時プロテツクの扱つていた輸入品の販売状況は、「国産の製品が技術の進歩に伴い次第に強くなり輸入製品を市場から駆逐するような情勢下にあり当社のように輸入製品の販売代行を主力としている企業にとつてはいずれ売上低下、頭打の状態になることは必至の状態であつた」(被告人の検察官に対する昭和五八年二月二二日付供述調書)のであり、例えば当時プロテツクの販売していたスマグラフイツク社のタブレツトにしても「従来は市場を独占していたのでありますが日立や第二精工舎の製品の進出がめざましく市場を食い荒しているような情勢下にあ」(被告人の検察官に対する右供述調書)り、したがつて、今後プロテツクが生きのび業績を伸ばしていくためには「システムセールス、システム分野への進出以外に取る道はない」(被告人の検察官に対する供述調書)という状況にあつたのであり、かかる状況の下において被告人が仲井から持ちこまれたCADシステムの話に強い魅力を感じ、何とかして新潟鉄工所の販売代理店となろうとし、そのため中島哲弘をしてCADシステムの販売先の開拓にあたらせ、EDPSグループに技術を習得させるべく研修のため飯倉らを派遣するとともに、ホストコンピユーター導入のための検討を重ね、新聞広告でコンピユータ技術者を募集したり、コンピユータのソフトウエアの会社である日本応用システムに人材の紹介を依頼するなど万全の準備態勢を敷いていたこと、このような経緯のもとにおいて、中島は、仲井から新潟鉄工所を退社して新会社を設立し、新会社においてCADシステムの販売をする意向をもらされるとともに、プロテツクに対し新会社の販売代理店とする見返りとして新会社のために各種の資金援助、新会社の事務所及びホストコンピユーターの設置を要請され、その旨を被告人に直ちに伝えるよう求められたこと、中島は、検察官に対する昭和五八年二月一三日付供述調書において、「私はプロテツクにおいてはたんなる使用人で実質的にはなにも権限がありませんし、また技術的なことも分かりませんので、たんなる伝達屋さんの仕事をしていたのです。」と述べているように、当時プロテツクにおいて、何ら経営に関する実質的権限を有しておらず、また、中島は仲井から右申入れを聞くや、「新潟鉄工所が、会社の方針としてCADシステムの外販をしないということを変える気持ちがないのを知り、それならば、仲井さんの新会社設立に賭けてみようという気持ちになつてきました。」「私としては新潟鉄工所が駄目ならば仲井さん達と組んで、仲井さん達の新会社の製品を売ることによつて売り上げをプロテツクへいれたいという気持ちになつ」(中島哲弘の検察官に対する昭和五八年二月一四日付供述調書)た旨供述しているように仲井の右申出に対し前向きの気持を持つたこと、中島から右の話を聞いた被告人も、検察官に対する昭和五八年二月二二日付供述調書において、「びつくりすると共に仲井氏の真意がどこにあるかはかりかねました。」とか、「仲井氏の勧めにより新潟鉄工の販売代理店としてCADシステムの販売に力を注いでいた私としてはここでCADシステムの販売が出来なくなるということは今までの苦労が水の泡になることであり、それよりは仲井氏が引続き新潟のCADを新会社でグレードアツプして販売するというのだからそれに協力して引続き販売を続ければプロテツクにとつて利益になるし、ここで仲井氏らの言うことを聞いて協力してやれば将来優秀な技術を持つ仲井氏らと組んでシステム分野に進出できる」云々などと供述しているように、早急に仲井の真意をたしかめようと考えたことなどの各事実が認められるのであり、これらの事実を総合するかぎり、当時被告人も仲井も多忙な毎日を過していたであろうことを考慮に入れても、被告人が二月二六日ころ中島から右の話を聞きながら仲井に会つて同人の真意をたしかめるのを三月中旬まで遅らせたとする点において、被告人及び中島の原審公判廷における各供述は不自然であるとした原判決の説示は十分に首肯しうるところというべきであり、また、被告人が仲井との会談の日取り設定を中島に委ねていたことをもつて、この件について被告人が中島に実質的な決定権を与えていたことを意味すると解する余地も全くないこともおのずから明らかであるといわなければならない。さらに、右各認定事実に徴すれば、当時プロテツクにとつて新潟鉄工のCADシステム販売の代理店になることができるかどうかということは経営上きわめて重要な事柄であつて、被告人もかなり重視していたことは明らかであるから、弁護人らの<3>の主張も採用のかぎりではない。
以上要するに、所論はすべて採用できず、論旨は理由がない。
三 事実誤認の控訴趣意(二)について
所論は、「原判決は、「被告人仲井、同野田及び同宮内等の間の共謀の成立」として、「被告人仲井は、〔昭和五七年〕四月二四日ころ、東京都新宿区西新宿七丁目二二番四三号所在のプロテツクの事務所において、被告人野田、同宮内、粟野、藤田及び中島と共に新会社設立に向けての今後の計画等を打ち合わせた際……被告人野田、粟野及び藤田に対し、本件各システムの資料を分担してコピーするよう再び指示し、次いで、被告人宮内に対し、「量がおおいので一部はプロテツクの事務所でコピーさせて欲しい。」と依頼したところ、被告人宮内は、それを承諾した」として、被告人と仲井、野田らとの間に、本件各システムの資料をコピーするとの共謀が成立したと認定しているけれども、被告人はかかる謀議に加わつていない、被告人は当日プロテツクに技術部長として迎えることになつていた原武春の引越しの手伝いに調布市に赴いているのであり、右のような謀議に関与することは時間的に不可能であつたのであるから、原判決の右認定は事実を誤認したものである」というのである。
しかしながら、原判示の共謀の事実は、原審で取り調べられた関係各証拠により優にこれを肯認しうるところであり、当日被告人が原武春のアパートに赴いていることは証拠上ほぼ間違いない事実と認められるものの、右事実は、被告人が当日プロテツクの事務所において行なわれた仲井らとの打合せに出席していて原判示のいわゆる第二回謀議に加功した事実と時間的に両立しうるのであり、これと矛盾するものではないというべきである。その詳細は、原判決が詳細適切に説示しているとおりといわなければならない。
弁護人らは、「原判決が、被告人は当日午後三時三〇分ないし四時にプロテツクの事務所を出て、高速道路を使つて調布市に向かい午後四時ないし四時三〇分に杉本荘に着いたと認定しているけれども、被告人は当日午後二時半にプロテツクの事務所を出て甲州街道を使つて調布市に向かい午後三時三〇分に杉本荘に着いたものである、このことは、<1>当日正午頃かねてからの打合せにもとづき原が東名海老名サービスエリアからプロテツクに電話してきて、午後一時半か二時ころに杉本荘に着くと連絡しているのであり、このような事情の下で被告人が午後三時三〇分ないし四時にプロテツクの事務所を出るということはおよそありえないことであるし、仮に被告人がこのような時刻にプロテツクの事務所を出たのであれば、もはや引越しの手伝いはできないのであるから、被告人としては、杉本荘なり正司産業に電話をかけ原に対し引越しの手伝いに間に合わない旨の連絡をする筈であるのに、被告人がこのような電話を原にしていないことからしても、被告人が午後三時三〇分ないし四時にプロテツクの事務所を出たのではなく、被告人が原審公判廷で述べたようにもつと早い時刻にプロテツクの事務所を出たことが容易に推認されるところといわなければならないこと、<2>当日プロテツクの事務所で行なわれる予定となつていた本件会合は、新潟鉄工所の者が事業計画を検討するためにこれまでも定期的に行なつていたもので、当日の会合もあらかじめ一定の議題がきまつていたわけでもなかつたのであり、被告人としては中島にまかせておけばよく、自らがどうしても出席しなければならないような重要な会合ではなかつた(当日はたまたま仲井がわざわざくるというので、同人がくるまで被告人は待つていたにすぎない。)のであり、仮に原判決がいうように被告人がそれほど重要な会合と認識していたのであれば、原に引越しの手伝いをあらかじめ断わつていた筈であり、そもそも被告人が原の引越し手伝いのため朝からジヤンパーを着用してプロテツクの事務所に行くというようなこともありえなかつた筈であることなどに徴しても明らかである、また、<3>被告人が当日杉本荘に行くのに高速道路を利用せず甲州街道を利用した旨供述するところは、調布までの高速道路の利用は経費的に最も損であり、また、高速道路はいつたん渋滞すると通常の道路よりもはるかに遅くなる危険があり、当日は土曜日であつて、山中湖、河口湖方面へ向かう車の多いことが当然予想され、現に当日は高速道路への入口が混雑していたことに徴すれば決して不自然ではない、仮に被告人が当日杉本荘に行くのに高速道路を利用したとしても、プロテツクの事務所から約三〇分しか要しなかつたとの原判決の認定は、上り車線と下り車線の当日の込み工合のちがい、幹線道路を出て個人の住居を探し出すことと帰りに個人の家を出て幹線道路を探し出すこととの困難さのちがいなどを無視して当日の被告人の帰路に要した時間をもつてそのまま往路の所要時間と推認したものであり、独断という他はない、」などと主張する。
しかしながら、被告人の原審公判廷における所論に沿う供述部分は、被告人が捜査段階でこの点について全く供述しておらず、しかもその理由として捜査段階では「まるつきり忘れていました。」旨不自然という他ない弁解をしていること、中島、仲井、野田も捜査段階においてはこの点について全く供述していないこと、被告人は当日プロテツクの事務所において仲井らにコーヒーを出したかどうかという点について当初は出した記憶はないと明確に断言しながら、検察官から当日プロテツクの事務所において六人分のコーヒーを注文していることを証する領収証と出金伝票(押収番号略)を示されても記憶がもどらないと供述していたが、裁判官の質問に、「私と新潟鉄工の方が話をしたのは三〇分位ありましたので、その間にコーヒーをとつたかもしれない。」と供述を変更するにいたつていること、被告人は当日原武春のアパートから再びプロテツクの事務所にもどり、仲井らと再び顔を合わせたが、その時には自分が原武春のアパートに赴くべくプロテツクの事務所を出た時点では居なかつた粟野や藤田もいたと供述するのであるが、仲井らは、原審公判廷において、被告人が最初にプロテツクの事務所を出た時点で自分達も右事務所を出て被告人に新宿駅まで送つてもらつて帰つた旨供述しており、この間に重大な供述のくいちがいがあること、仲井らがプロテツクの事務所にきて話し合つた時間についても、被告人は三〇分位であつたと供述するのであるが、中島は原審公判廷において被告人は仲井らがきて五分か一〇分いただけであると供述しており、この点にも供述のくいちがいがあること、原武春のアパートに赴く際、被告人は一方で「気持はあせつていました。」と供述しながら、高速道路を使わず甲州街道を使つたというのであるが、被告人は高速道路の回数券を持つていながら、あえて渋滞していた甲州街道に入つたというのであり、しかもその理由として、調布インターまで回数券を使うのは不経済と考え、「ちよつとけちりました。」などとおよそ年商一一億円の企業の経営者の供述としては不自然不合理といわざるをえない供述をしていること、被告人が原武春のアパートに到着した時刻について供述するところも、原審証人角田幸子の証言とくいちがつていることなどにかんがみ、少なくとも原のアパートに行くに際し甲州街道を利用した旨供述する部分や当日の一連の行動の時刻や時間について供述する部分に関するかぎり到底信を措きえないものであることは原判決の指摘するとおりであつて、仮に所論のように原があらかじめ海老名サービスエリアからプロテツクに電話してきた事実があつたとしても、被告人の原審公判廷における供述中の右の各供述部分の信用性を何ら補強するものではないというべく、また、当日プロテツクの事務所において予定されていた打合せの重要性(その詳細は前判示のとおりである。)と被告人が当日原の引越しを手伝つてやる必要性の軽重を考えるとき、被告人が右打合せをさしおいて原の引越しを手伝うため出掛けたとは到底考えられず、被告人が原に対しおくれる旨をあらかじめ連絡しなかつたことも何ら異とするに足りず、右<1>の主張は採用のかぎりではない。次に、<2>の主張についていえば、昭和五七年四月五日京王プラザホテルで、いわゆる旗上式を行なつたのち、新潟鉄工の休日でない第二、第四土曜にプロテツク事務所で新会社設立打合せをすることになつたが、四月二四日が実質上第一回目の打合せであつたので、新潟鉄工側の仲井、粟野、野田らは同日プロテツクに行く前にプロテツク側の宮内らに説明する資料をもととのえて打合せにのぞんでおり、当日予定されていた仲井らとの会合がプロテツクにとつてもある意味では将来の命運を左右する重大な事項にかかるものであり、中島に一任するなどということはおよそ考えられない状況にあつたことは前述したプロテツク側の事情からも明認しうるところであり、仮に所論のように当日被告人が原の引越しの手伝いに赴くべく朝からジヤンパーを着用して出社していた事実があつたとしても、そのことが直ちに被告人において右会合を軽視し打合せを行なわず他出したことを意味することとなるべき筋合いは豪もないというべきであるから、右主張も採用できない。
次に<3>の主張についていえば、一方で「気持があせつていた。」旨供述しながら、他方で渋滞していることを知りながら甲州街道に入つた旨述べ、また、その理由として高速料金の出損を出し惜んだと言訳をしている被告人の供述や甲州街道に入つた理由についての当審供述が信を措きえないものであることは前述のとおりであり、もはやさして急ぐ必要のなかつた帰路においては高速道路を利用した旨被告人が供述していることと併せ考えるとき、往路においても同様に高速道路を利用したと推認すべきであるといわなければならない。そして、所論のように、当日上り車線と下り車線の込み工合に多少のちがいがあつたとしても、被告人が午後三時三〇分すぎにプロテツクの事務所を出たとすればおそくとも午後四時三〇分くらいまでには原のアパートに十分到着しえたと推認できるのであり(なお、往路は幹線道路を出て原のアパートを探し出さなければならなかつたのであるから、帰路よりは時間を要した筈であるとの所論についていえば、原審で取り調べられた関係各証拠によれば、被告人はすでに同月二二日にも原のアパートに赴いていたことが認められるのであり、右事実によれば、被告人は原のアパートの所在や道順をあらかじめ十分知悉していたことは明らかであるから、所論は採用できない。)、原判決の説示するところは大筋において十分に是認できるところといわなければならず、右主張も採用できない。
弁護人らは、「原判決は、一方では、「当時の被告人の宮内の立場を考慮しても、当日午後は偶々、同被告人が出席すべき新会社設立に関する重要な打合せと、同人が手伝いを約束していた原の引越しが重なつてしまつたところから、同被告人が、原との約束を気にしながら、右の打合せを終え、その後に自動車を駆り、高速道路を利用して大急ぎで前記アパートに赴いたということは、きわめて自然なことと考えられる」、「六名(新潟鉄工の四名と被告人及び中島)の検察官に対する各供述において、誰一人として、被告人宮内が打合せの席にいなかつたこと、又は同被告人が打合せの途中で中座したことを窺わせるような状況は述べていない」とか、「真実は同被告人が右打合せに欠席し、又は途中で中座したのに、六名が六名とも、検察官の取調べの際には、同被告人が終始打合せに出席していたと記憶違いをしていたとは認め難いところである」などと判示し、被告人が本件打合せに最後まで列席していたかの如く判示しながら、他方では、被告人が杉本荘からプロテツクの事務所にもどつた際の状況について、「打合せは既に終つていて……」と、これと矛盾する、被告人が杉本荘に赴くべくプロテックの事務所を出た後も本件打合せが継続していたかのように判示しており、打合せがどの時点まで継続していたのかという重要な事実について矛盾した説示をしているのであり、そもそもこのような重要な事実について明確に認定することなく、あえて意図的にぼかすという手法を用いていること自体原判決に事実誤認があることを窺わせるに十分な事情というべきである、仲井が本件打合せの際に作成した「予定表」には「PROTEC技部長H/N」という記載があり、これは仲井がプロテツクの技術部長になるという趣旨であるが、被告人はプロテツクの技術部長として原を考えていたのであるから、被告人が本件打合せに出席していたのであれば、打合せの結果仲井は技術部長ではなく技術本部長ということになつていた筈であり、右予定表の右記載は被告人が本件打合せに列席していなかつた事実のきめ手ともいうべきものである、また、被告人が本件打合せに最後まで出席していたのであれば、当日は土曜でもあり、杉本荘からそのまま自宅に帰つた筈でありわざわざプロテツクの事務所に戻る理由は全くなく、この点からしても、被告人が本件打合せに終始列席していなかつたことは明らかであるなど」と主張する。
しかしながら、原判決は、被告人の原審公判廷における供述として「打合せは既に終わつていて、顔を出すことはできなかつた。仲井がその席上で作成したという予定表のコピーを、翌週、中島からもらい、その際、表についての簡単な説明を受けたことはあるが、CADシステムの資料のコピーのことは聞いていない。」旨供述していると指摘しているにすぎず、被告人が右打合せを終えたうえ原のアパートに赴いた旨の認定と牴触する説示をしているわけではない。そして、原判決が右打合せの終了した時点を明確に認定していないことは所論指摘のとおりであるけれども、これは原審で取り調べられた関係証拠上時刻を明確に認定しうるだけの証拠資料が存しなかつたことによるのであつて、これを意識的にぼかしたものとする所論は、当を得ないものというべきである。
次に、仲井が右打合せの際に作成した「予定表」に「PROTEC技部長H/N」という記載があることと被告人が原審公判廷において技術部長には原を予定していた旨供述していることとの関係について言及している所論についていえば、原は以前にプロテツクに勤めていた際には輸入業務と販売業務を担当しており、コンピユーターそのものにはあまり技術も有しておらず、現に原審証言時においては営業部長であつたことは同人の原審証言により明らかである。右事実に、被告人が捜査段階において、右打合せの際仲井が「自分は退社してプロテツクに技術部長として入る」旨述べたところ、宮内が暫定的に就任する件結構であると了承した旨供述していて、原を技術部長として迎えるつもりであつたなどとは一言も供述しておらず(被告人の検察官に対する昭和五八年二月二二日付供述調書)、仲井、野田、粟野もほぼ被告人の右供述に沿う供述をしていること、中島が原審公判廷において、原が技術部長になる話は当時知らなかつた旨供述していること、仲井が技術部長となるのは七月のことと予定表には記載があり、四月に原を技術部長にしたとしても、七月には他の担当部長とすることも可能であり、現に原は昭和五八年一一月には営業部長に転じていることを併せ考えると、当日原がプロテツクに技術部長として入社することとなつていたから仲井を技術部長にするというはずがない旨の被告人の供述は到底信用できないところというべきであるから、この点に関する所論も前提を欠き採用できないといわざるをえない。また、被告人が当日、原のアパートからわざわざプロテツクの事務所に戻つたことをもつて被告人が右打合せに最後まで出席していなかつたことの証左であるとの所論についていえば、被告人及び中島の原審公判廷における、被告人が原のアパートからプロテツクの事務所に戻つた旨の各供述が仲井や野田の原審公判廷における供述とくいちがつていて到底信用できないものであることは前判示のとおりであるから、所論はその前提を欠くといわなければならず、採用のかぎりではない。
弁護人らは、「<1>原判決は、原武春の原審公判廷における「午後一時過ぎころ杉本宅を訪ね、一時間半から二時間位杉本とよもやま話をしてから引越し荷物を運び込み始め、約一時間かかつて荷物を運び終えた後に宮内が来たので、同人が来たのは午後三時三〇分ころだつたと思う」旨の証言中時刻に関する部分は信用できないとして排斥しながら、右証言中「引越し荷物の搬入に約一時間を要した」旨の部分のみをつまみぐい的に採用しているのであり、このような証拠評価は恣意的という他はない、当日の原の引越し荷物は、普通のダンボール箱にして九ないし一〇箱の衣料品、書籍、炊事道具、一人分の布団袋、一四インチのテレビ程度であつたというのであるから、この程度の荷物をアパートの前に停めた車から二階へ運び入れるだけであれば、せいぜい三〇分を要するにすぎず、原の約一時間を要したとの供述部分こそ信用性を欠くものである、<2>被告人が杉本荘に着いた直後に原が杉本にトイレの修理を依頼しているのであるが、被告人が杉本荘に着いたのが原判決の認定するように午後四時ないし四時三〇分であつたとすれば、この時間帯は農業に従事している杉本は畑に出てしまつていて原は杉本に右のような依頼をすることはできなかつた筈であり、原から杉本にこの件について連絡ができたということ自体、被告人が杉本荘に着いたのが午後三時三〇分すぎであり、原が杉本に連絡をとつた際同人がお茶を飲むべく自宅に帰つていたことを意味するというべきである」と主張する。
しかしながら、原武春の原審証言をつぶさに検討すると、同人は被告人のアリバイの主張に沿うべく時刻、時間等については事実関係を歪曲して供述し、そのため杉本繁俊や角田幸子の原審各証言とのくいちがいを露呈するにいたつていることは原判決の指摘するとおりであるが、かかる原がことさら被告人に不利益に引越し荷物の搬入に要した時間について供述するとはそもそも考えられないうえ、所論の指摘する同人の引越し荷物の量からしてもこれを自動車から二階の部屋まで運び上げ梱包をといてこれらの荷物を整理するのに約一時間を要した旨の同人の証言は経験則上も十分に首肯しうるところというべきであるから、<1>の主張は採用のかぎりではない。次に<2>の主張についていえば、杉本繁俊は、原審証言において、お茶の時間として自宅に帰つているのは通常午後三時から四時ころまでの間なのであるが、当日原がきたのは午後三時ころで自分がお茶の時間で自宅に帰つていたときであつた旨、及びその後間もなくまだ自分が自宅にいた時点で原からトイレの修理の依頼があり、アパートに赴きその際被告人に会つたが、そのときはまだ原の荷物は片付いていなかつた旨供述しているのであるから、杉本の原審証言は原判決の認定と何ら矛盾するものではなく、右主張も採用できない。
弁護人らは、「<1>四月二四日の出来事についての被告人の原審公判廷における供述こそ、具体的かつ詳細なもので不自然な点がいささかもないことに照らして信用性を十分に肯認しうるものであるというべきである、<2>タイムカードの記載からして仲井らが蒲田の新潟鉄工の事務所を出たのが午後零時一三分ころであることは明らかであるところ、新潟鉄工の右事務所から西新宿のプロテツクまで優に一時間以上かかることやこの間に同人らが昼食をとりそのために三〇分程度を要したであろうことに徴すれば、同人らがプロテツクの事務所に着いたのは午後二時ころ、早くとも午後一時三〇分より後であつたと思料されるのであり、本件打合せが午後一時三〇分から開始されたとの原判決の認定は合理性を欠くものである、<3>原判決は、「六名〔新潟鉄工の四名と被告人及び中島〕の検察官に対する各供述において、誰一人として、被告人宮内が打合せの席にいなかつたこと、又は同被告人が打合せの途中で中座したことを窺わせるような状況は述べていない」と判示しているが、藤田秀満は、四月二四日の会合について、「プロテツクの中島営業部長も居りましたが、宮内社長が居たかどうかについてはちよつと記憶が定かでありません」(昭和58年2月17日付調書)と述べ、さらに「宮内社長は居たようにも思いますがはつきりしません」(昭和58年2月21日付調書)とも述べているのであり、原判決の右認定は藤田秀満のこれらの供述を無視するものである、<4>原判決は、仲井が本件打合せの際に作成した予定表に「コピー準準」と記載されている点について、関係者の捜査段階における各供述に依拠して新潟鉄工の資料をコピーするという意味であると解し四月二四日にコピーの話があつたと認定しているが、右記載は仲井が原審公判廷で述べたように、ハードウエアの一部たるオペレーシヨンソフトをインストールするという意味であり、原判決の右認定は事実の誤認である、<5>被告人の検察官に対する昭和五八年二月一〇日付供述調書には、「私は仲井氏が新会社発足まで暫定的に当社の技術部長に就任することについては結構なことであり異論はなかつたので「結構です」と了承しました」との供述記載があるが、被告人は前述のように原を技術部長として迎えるつもりでいたのであり、このような被告人の意に反する供述記載があること自体、原が技術部長に就任することになつていたという事情を知らなかつた取調官がその予断を被告人に押しつけ、被告人がこれに迎合して供述調書が作成されたことを物語るに十分な事情というべきであるなど」と主張する。
しかしながら、被告人の原審公判廷における、この点に関する供述が信用できないものであることは、すでにるる説示したとおりであるし、仲井らが新潟鉄工の事務所を出てプロテツクの事務所に赴く途中同人らが食事をとつた筈であるから、同人らがプロテツクの事務所に着いたのは午後二時近くの筈である旨の主張についていえば、関係証拠によれば仲井らは零時一三分に新潟鉄工の事務所を退社しているのであるが、仲井が野田と粟野らにメモ書にもとづいて指示をしたのは、午前中右事務所、または終業時間直後その付近の喫茶店もしくは食堂においてであり、この打合せ後退社をした可能性と、退社後打合せをした可能性はあるものの、いずれにしても軽食をとつた後プロテツクに向かつているのであり、加えてプロテツク側の宮内、中島を含めての打合せ会は午後一時に予定されていたのであるから、原認定の午後一時三〇分頃には打合せをはじめることのできる時刻にプロテツク事務所に仲井らは到着していると認められるのであり、右主張は採用できない。また、藤田秀満の供述に関する弁護人らの主張についていえば、同人は所論指摘の各供述調書において所論のように供述していることが認められるのであるが、同人は検察官に対する昭和五八年二月一七日付供述調書において、「プロテツクの事務所でコピーをとることについて了解が得られたので、宮内がいた可能性が強いと思」う旨供述しているのであり、同人のこれらの供述が所論指摘の原判決の説示と何ら矛盾、牴触するものではないことは明らかであるから、右主張も採用できない。次に、<4>の主張についていえば、「コピー準準」なる予定表の記載が関係者らの捜査段階における各供述のとおりの意味で説明されたものであることは、コピー作業が、オペレーシヨン・ソフトにとどまらず、純然たるソフトウエアであるプログラムやロードモジユールの磁気テープによる吸上げ、その基礎資料たるドキユメントのゼロツクスコピー作成にあつたことに鑑み疑いをさしはさむ余地はなく、量が多いので一部はプロテツクの事務所でコピーさせて欲しい旨の仲井の依頼に応じ宮内がプロテツク社でのゼロツクス器使用を応諾し、更には磁気テープも提供していることが認められ、更に、三月上旬のいわゆる第一回謀議の折仲井が宮内に「ブツをもつてくる、コピーだから問題ない」旨の説明をし、宮内もこの方針を了承の上新会社計画に援助を約していることを併せ考慮すれば、原認定に所論の事実誤認はなく、右主張も採用できない。<5>の主張が理由のないものであることはすでに前判示より明らかであるといわなければならず、右主張も採用するに由ないところというべきである。
なお、当審において四月二四日の状況について仲井や野田が供述しているところについて付言すれば、同人らの当審における各供述は、同人らの捜査段階における各供述のみならず、同人らの原審公判廷における各供述ともくいちがつており、しかもそのくいちがいについて何ら納得のできる説明を含んでおらず、被告人の罪責を免れしめんがためことさらに事実関係を歪曲しているものと認めるの他はないものであつて、到底採用しえない。
更に弁護人らは、「アリバイの立証責任は検察官にあるのであり、検察官において「合理的な疑いを容れない」程度にまでアリバイの不存在を立証すべき責任があると解すべきところ、原判決は現実に被告人が何時にプロテツクの事務所を出て杉本荘に向かつたかを吟味することなく、被告人が何時にプロテツクの事務所を出発しえたかという観点から検討しているにすぎず、このことは、いいかえると、原判決が検討したのは謀議の可能性のみであつてアリバイ成立の不能性ではないことを意味するのであり、結局においてアリバイの立証責任を被告人に転嫁していることに帰する、原判決は被告人が午後三時三〇分ないし四時までプロテツクにいた可能性があるというだけで、被告人が午後二時三〇分ころまでにプロテツクを出発した可能性はないことを論証していない」などと主張する。
しかしながら、アリバイとは、時間的場所的にみて被告人の犯行関与と両立しえない事実を指称するものであり、被告人の犯行関与と両立しうる事実はアリバイではないのであるから、本件の場合被告人が現実に何時にプロテツクの事務所を出たかを証拠上確定しえなくても、被告人が何時までプロテツクの事務所にいることができたかを吟味すれば、被告人の主張がアリバイにあたらないことを論証しえたことになるのであり、これをもつて、アリバイの立証責任を被告人に転嫁するものとする所論は、被告人の犯行関与と両立しうる事実をもアリバイの概念に含まれるとする背理をおかすものといわなければならず、原判決のこの点に関する説示に所論のような立証責任の所在をあやまつた違法はない。そして、原判決は、被告人にアリバイがないことから直ちに被告人の第二回謀議の関与を認定しているわけではなく、被告人を含む関係者の捜査段階における各供述に依拠して被告人の右謀議への加功を認定しているのであるから、原判決が謀議の可能性のみを検討しているにすぎないとする所論も原判決の説示を正解しない論難というべきである。弁護人らの右主張も採用できない。
以上要するに、弁護人らのその余の主張につき按ずるまでもなく、所論は採用できず、論旨はすべて理由がない。
四 法令適用の誤りの控訴趣意について
所論は、「原審相被告人仲井らが開発した本件資料は、創作的に表現された著作物であり、著作権の対象となるべきものであるが、新潟鉄工が法人名義で公表することを予定していなかつたものであるから、著作権法一五条の法人著作に該当せず、したがつて、同人らに著作権があるというべきであり、本件所為は著作権者の複製権の行使として正当な権限の行使にあたるのであり、また、被告人らには本件資料について不法領得の意思はなく、これを肯認した原判決は法令の適用を誤つたものである」というのである。
しかしながら、本件資料について原審相被告人仲井らに著作権がないこと、及び被告人らに本件資料についての不法領得の意思を肯認しうることは、いずれも原判決が説示するとおりであるといわなければならない。
弁護人らは原判決が、特許権と著作権の関係につき判示する部分に誤りがあるという。所論のように単一の客体について特許権と併列的に著作権が成立するということが法律上考えられるけれども、原判決が別表に掲げるすべてのものにつき、原判決が本件資料中のいわゆるワーキング・ペーパーについて説示するところがそのままあてはまるというべく、したがつて、その著作権は仲井らにあるのではなく、新潟鉄工にあるといわなければならない。したがつて、所論指摘の法律判断部分に誤りがあるとしても、判決に影響を及ぼすものではない。
次に、弁護人らは、「<1>原判決は、原審証人中山信弘の証言を無視し、例外規定である著作権法一五条の法人著作権の成立要件を不当に拡大して解釈する誤りをおかすものである、<2>原判決の引用する文化庁著作権審議会第六小委員会中間報告三九頁の記載は、最終産物であるプログラムについて述べたものであり、本来的に試行錯誤の過程を示す内部文書にすぎない本件ワーキング・ペーパーの如きものについて言及したものではないのであるから、原判決が右中間報告を引用して本件ワーキング・ペーパーを法人の著作名義で公表を予定しているものであるとしているのは右中間報告の誤解にもとづくものである、<3>昭和六〇年五月二四日に衆議院を通過した著作権法改正案一五条は、プログラムについては公表を予定していなくても、法人等の使用者に著作権があることとし、また、プログラム以外の物については、従前どおり、その法人らが自己の著作名義の下に公表するものにかぎり、法人等の使用者に著作権があるとしているのであるが、この法改正は、現行法上はプログラムについても、公表しないものについては従業員に著作権があることを前提とするものであり、このことは前記中間報告書第三章「現行著作権法におけるコンピユーターソフトウエアの保護に関する問題点に対する対応策(提言)」二項に「ソフトウエアに第一五条の規定(法人著作)を適用した場合に「自己の著作の名義の下に公表するもの」という法人著作になるための要件が、解釈によつてのみでは合理的に対応しきれない面があるので、法律上の取扱いを明確にするため法人著作の規定を整備する必要があると考えられる。」とあることによつても裏付けられているところというべきである、<4>新潟鉄工の就業規則及び「企業秘密に関する秘密保持規定」は、著作権者の公表権や展示権を制約するものではありえても、著作権者たる従業員の複製権の行使を制約するものではない」などと主張する。
まず、<1>の主張についていえば、たしかに原審証人中山信弘は、原審公判廷において、著作権法一五条は従来から例外規定として厳格に解釈すべきであると一般に理解されてきていると述べるとともに、同条の「その法人等が自己の著作の名義の下に公表するもの」には、法人名義で公表が予定されているものは含まれるが、部外秘の扱いをして公表しないことを予定しているものは含まれないと自分は解釈する旨所論に沿う供述をしているのであるが、かかる解釈をとるにおいては、企業が多くの人材と多額の開発費を多年にわたり投入してその企業活動の一環として開発してきたところの本件資料の如きコンピユーター関係のプログラムやワーキング・ペーパーが、企業においてまさに企業防衛のために機密とされるということにより、かえつて右開発作業に従事した従業員にこれについての著作権が付与されその内容を公表する権利を同人に認めることになるという、およそ企業の秘密の防衛に根本的に背馳する不合理、非常識な結論を招来することは、原判決の指摘するとおりである。同証人は著作権法一五条に関する自己の解釈としては右のように述べるものの、他方では、著作権審議会第六小委員会において、現行法の解釈についてつきつめた検討がなされたわけではない旨、及び法人等において公表をする具体的な予定はないが将来事態の推移によつては法人等が公表するかもしれないものが同条の「その法人等が自己の著作の名義の下に公表するもの」に含まれるか否かについてまでは学説はふれておらず、右小委員会で一応この点について検討したものの結論は出なかつた旨それぞれ供述しているのであり、同証人が、現行の著作権法制定当時コンピユーター・プログラムのようなものについてまで対象として考えられていたわけではない旨、また、同証人自身としてはコンピユーター・プログラムについてはその経済財としての性格にかんがみ著作権法で処理するよりはプログラム権法で処理するのが相当と考える旨供述していることを併せ考えると、同証人の著作権法一五条に関する所論指摘の見解は、従来絵画、音楽、文学作品等の一般文化財につき一般に説かれていたところを本件のようなコンピユーター・プログラムにそのままあてはめればそのようなことになるというにすぎず、同条の「その法人等が自己の著作の名義の下に公表するもの」には、公表は予定されていないが、仮に公表されるとすれば法人等の名義で公表されるものも含まれると解するのが、少なくともコンピユーター・プログラムやその作成過程におけるワーキング・ペーパーに関するかぎりワーキング・ペーパーの後述の性格上やはり相当といわなければならない。
次に<2>の主張についていえば、原判決の指摘する文化庁著作権審議会第六小委員会中間報告三九頁の記載が直接的には最終産物たるコンピユーター・プログラムについて言及したものであることは所論指摘のとおりであるけれども、同じく著作権の対象とされる最終産物たるコンピユーター・プログラム(ソースプログラム)とその作成過程において作成され最終的にはプログラムとなつて結実するものである結果、プログラム修正の必要が生じた場合、さかのぼつて検索、参照される性質のものであるワーキング・ペーパーとで同条の解釈を異にしなければならない合理的な理由は全くないというべきであつて、最終産物たるコンピユーター・プログラムについての右中間報告の見解は、いわゆるワーキング・ペーパーにもそのまま妥当するところというべきであるから、右主張も採用できない。
さらに、<3>の主張についていえば、現行著作権法一五条の「著作物で、その法人等が自己の著作の名義の下に公表するもの」との表現が改正案においては「著作物(当該従事する者の著作の名義の下に公表されるものを除く。)」となつていることは所論指摘のとおりであるけれどもこのことからして、現行法においては、公表を予定されていないが、仮に公表されるとすれば法人等の名義で公表されるものは含まれないとの解釈を必然的なものとし、あるいは有力ならしめるものとは到底いえない。所論指摘の「ソフトウエアに第一五条の規定(法人著作)を適用した場合に「自己の著作の名義の下に公表するもの」という法人著作になるための要件が、解釈によつてのみでは合理的には対応しきれない面があるので、法律上の取扱いを明確にするため法人著作の規定を整備する必要があると考えられる。」との記載は、例えば無名で公表されたもの、あるいは無名で公表することが予定されているもの(このようなものについては、現行法では従業員等に著作権があると解されるのに対し、改正法案では、法人等に著作権があることとなることは明らかである。)などを念頭においたものとして理解すれば足りるのであり、公表を予定していないが公表されるとすれば法人等の名義でなされるであろうところのものが現行法一五条に含まれるかどうかという問題については右小委員会において結論が出なかつたことは前述のとおりであるから、所論指摘の右提言が、この問題についての消極説を必ずしも前提とするものではないことは明らかであるといわなければならない。そして、本件ワーキング・ペーパーについての著作権が仲井らにではなく新潟鉄工にある以上、<4>の主張もその前提を欠くというべきである。
以上、要するに、弁護人らのその余の主張につき按ずるまでもなく、仲井らに本件各資料についての著作権はないことは明らかである。また、被告人らに不法領得の意思を肯認しうることも原判決が説示するとおりであつて、疑いをさしはさむ余地は全くない。以上要するに、原判決には所論のような各法令適用の誤りはない。論旨は理由がない。
よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、主文のとおり判決する。
(裁判官 時國康夫 坂井智 日比幹夫)