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東京高等裁判所 昭和60年(行ケ)98号 判決

一 本件に関する特許庁における手続の経緯、本願発明の要旨及び本件審決理由の要点が原告主張のとおりであること、第一引用例及び第二引用例に本件審決認定のとおりの事項が記載されていること(第一引用例に、モノ―化合物とジ―化合物との混合物は少しも毒性的考慮を必要としないことが記載されているとの点は除く)、第一引用例記載のモノ―オクチル錫トリイソオクチルチオグリコレート、モノ―n―オクチル錫トリイソオクチルチオグリコレート及び第二引用例記載のイソ―オクチルチオグリコレートのモノオクチルスズ塩が本願発明のモノ―n―オクチル錫―s、s´、s´´―トリス(イソオクチルメルカプトアセテート)と同一化合物(モノ―化合物)であること、第一引用例記載のジ―n―オクチル錫ジイソオクチルチオグリコレート及び第二引用例記載のイソオクチルチオグリコレートのジオクチルスズ塩が本願明細書に好ましい補助安定剤として記載されているジ―n―オクチル錫―s、s´―ビス(イソオクチルメルカプトアセテート)と同一化合物(ジ―化合物)であること、及び本願発明と第二引用例の記載事項との間に本件審決認定のとおりの相違点が存することは、当事者間に争いがない。

二 取消事由に対する判断

1 取消事由(一)(一致点の認定の誤り)について

(一) 前記争いのない本願発明の要旨と第二引用例の実施例3に記載された塩化ビニル樹脂一〇〇重量部に対し、イソ―オクチルチオグリコレートのモノ―オクチルスズ塩を単独で二重量部含有させた塩化ビニル樹脂組成物とを対比すると、両者は、本件審決認定のとおり、塩化ビニル樹脂の安定剤としてモノ―n―オクチル錫―s、s´、s´´―トリス(イソオクチルメルカプトアセテート)を用いた塩化ビニル樹脂組成物である点で一致し、本願発明では右安定剤の含有量を「塩化ビニル含有重合体の重量に基づいて〇・一五重量%を越えかつ二重量%を越えない範囲」としたものであるところ、第二引用例記載の右組成物も塩化ビニル樹脂一〇〇重量部に対して右安定剤を二・〇重量部含有させたものであり、換算すると約一・九六重量%となるから、その含有割合についても共通の範囲を有するものであることが認められる。

(二) 成立に争いのない甲第一〇号証(第二引用例)によれば、第二引用例の特許請求の範囲に記載された発明は、ジ―化合物を主体とし、これに五重量%ないし四〇重量%のモノ―化合物を混合した塩化ビニル樹脂用の相乗的安定化を狙つた複合安定剤に関する発明であること、実施例3には、空気循環炉中において一八五℃という温度条件下で行つた老化試験(なお、実施例3に右試験の温度条件等は明記されていないが、実施例1には空気循環炉中で一八五℃で加熱する旨が明記され、実施例2及び4においては、実施例1と同じ方法で試験をした旨が明記されていることに照らし、実施例3も同じ温度条件等のもとで行われたものと推認される。)における結果が別表記載のとおりであることが認められるが、本件審決が第二引用例から引用した技術的事項は、このうち、塩化ビニル樹脂一〇〇重量部に対し、イソ―オクチルチオグリコレートのモノ―オクチルスズ塩を単独で二重量部含有させた組成物(別表5欄)という技術であり、右組成物が一八五℃という温度での老化試験において六〇分間で黒色化したということは、同時に、右組成物は、一八五℃という温度条件の下でも六〇分は黒色化しなかつたことを意味するのであつて、右の時間は、前認定のジ―化合物単独を二・〇重量%含有させた組成物やジ―化合物にモノ―化合物を加えた組成物の黒色化までの時間(前者は七〇分、後者は八〇分)(別表1ないし4欄)にくらべれば劣るものの、塩化ビニル樹脂の成形加工時においては、一般に、混練と成形加工工程とで一四〇℃ないし一六〇℃の温度で一〇分程度の熱経歴を経るのが普通であるとの技術常識(右の点が技術常識であることは、当事者間に争いがない事実である)に照らしてみると、右の時間は技術的に十分意味のある時間であるということができる。したがつて、第二引用例には、本願発明のモノ―化合物と同一化合物であるモノ―オクチルスズ塩単独を二・〇重量部含有したところの通常の成形加工工程に耐えられるだけの安定性を付与された塩化ビニル樹脂組成物が開示されているものと解するのが相当である。なお、本願明細書の実施例Ⅳの第1表(後記甲第二号証の二に添付)には、二〇四℃という温度条件下において、ジ―化合物単独を含有させた塩化ビニル樹脂は三五分で黒色となるのに対し、モノ―化合物単独を含有させた塩化ビニル樹脂は二五分で既に黒色となると記載されており、第二引用例の実施例3の記載とは、老化試験の温度条件が異なることから、その時間の長短(安定性の程度)を直ちに対比することはできないが、右記載によれば、本願明細書自体に、前記第二引用例の実施例3の記載と同様、モノ―化合物単独を含有させた塩化ビニル樹脂の方がジ―化合物単独を含有させた塩化ビニル樹脂よりも黒色化するに至るまでの時間が短いこと、すなわち、安定化が劣ることが記載されており、その点で第二引用例の実施例3の前認定の記載と変わるところはなく、本願発明はジ―化合物との関係において、その程度の安定化をもつて「安定化」が得られたものとしていることが認められるのであつて、そうしたことからしても、前記第二引用例の実施例3のモノ―化合物単独を二重量部含有させた組成物が本願発明におけると同様の安定性を有することを首肯することができるのであつて、「安定化」の意義を右のように解する以上、本件審決には原告主張のような一致点の誤認はない。この点に関する原告の主張は、本願発明との対比の関係において、本件審決が摘示した第二引用例の技術的意義を把握しなかつたことに基づくもので採用することはできず、取消事由(一)は理由がない。

2 取消事由(二)(相違点の判断の誤り)について

(一)(1) 本願発明は、前示のとおり、「食品包装材の形の低毒性」の塩化ビニル樹脂組成物についての発明であるところ、成立に争いのない甲第二号証の一、二(本願発明の特許願及び添付の明細書)、第三号証ないし第五号証(昭和五六年一〇月二日付、昭和五七年三月三一日付、昭和五九年七月三〇日付各手続補正書)によれば、本願明細書の発明の詳細な説明の欄には、本願発明の要旨中の「低毒性」の意義に関して、「経口急性半致死量(LD50)を下記の文献に記載される方法により計算した……本発明による安定剤のLD50値は体重一kg当り二・四八gであり、これは従来塩化ビニル重合体の無毒性安定剤として慣用されてきた慣用のオルガノ錫化合物のLD値より著しく大きい。」(甲第二号証の二第一六頁第一九行ないし第一七頁第一六行)との記載があることが認められるほか、右記載に続いて「白子ネズミの食物中に認め得る毒性作用を惹起することなく存在し得る本発明のモノ―n―オクチル錫メルカプト酢酸エステル安定剤の最大濃度を測定するために白子ネズミを用いて試験を行つた。この濃度は米国食品医薬品管理局により安全量(無作用量)と称されている。本発明の安定剤であるモノ―n―オクチル錫―s、s´、s´´―トリス(イソオクチルメルカプトアセテート)を白子ネズミの食物に零~一五〇〇PPMの量で添加したところ、安全量は約一〇〇〇PPMであることが認められた。この程度の毒性はオルガノ錫化合物については予想外に低いものであると考えられる。」(同号証第一七頁第一七行ないし第一八頁第九行)との記載があることが認められる。ところで、成立に争いのない甲第一三号証(米国特許第四、三七九、八七八号明細書)によれば、その第一一欄第六五行ないし第一二欄第五行にはモノ―化合物の慢性毒性の低いことを例証する「実施例Ⅲ」として、「第2の供餌試験をビーグル犬で一三週間の期間行い、全般の健康と内臓器官の状態に対する観察できる悪い作用を惹起することなく、動物の食餌中に存在させ得るこの本発明の好適な安定剤のモノ―n―オクチル錫化合物の最大濃度を測定した。このような濃度は米国食品医薬品管理局により「無作用量」(no effect level)と称される。」との記載が、また、その第一二欄第二三行ないし第三六行には、「食餌中に零・三〇、一〇〇及び一〇〇〇PPMの濃度で存在するモノ―n―オクチル錫―s、s´、s´´―トリス(イソオクチルメルカプトアセテート)の作用を調べるために、乳離れしたばかりの白子ラツトの雄五〇匹及び雌五〇匹を用いて一三週間の供試験を行つた。……一三週間にわたるラツトの食餌中のモノ―n―オクチル錫―s、s´s´´―トリス(イソオクチルメルカプトアセテート)の無作用量は一二〇〇PPMであり得ると結論された。」との記載が存することが認められ、右記載によれば、米国食品医薬品管理局により「無作用量」(no effect level)と称されるものは、一定期間、反復継続して投与試験された結果導き出される、毒性作用(全般の健康と内臓器官の状態に対する観察できる悪い作用)を惹起することなく存在し得る安定剤の最大濃度を指称するもので、一種の「慢性毒性」に関する基準を示すものと認めることができる。

(2) そうだとすれば、前記本願明細書中の「安全量(無作用量)」も慢性毒性に関する基準を示すものとして本願明細書中において使用されているものと解するのが相当であつて、本願発明の「食品包装材の形の低毒性」の塩化ビニル樹脂組成物とは、食品包装材に用いる、急性毒性のみならず慢性毒性も低い塩化ビニル樹脂組成物を意味するものと解するのが相当であり、右の「低毒性」とは急性毒性のみを意味する旨の被告の主張は妥当でない。

(二)(1) 一方、前示のとおり、第一引用例に、食品包装材用の塩化ビニル樹脂に用いる安定剤の毒性に関して、「LD50値(mg/kgラツト)について、ジ―n―オクチル錫ジイソオクチルチオグリコレートが一二〇〇であるのに対し、モノ―n―オクチル錫トリイソオクチルチオグリコレートが四〇〇〇以上であり、著しく低毒性を示すこと」(甲第九号証第三九九頁)、「モノ―オクチル錫トリイソオクチルチオグリコレートは……ジ―化合物よりもかなり毒性が少ないから、この種の混合物の使用に反対する毒物学的逡巡を必要としないかもしれない」(同号証第三九六頁第二九行ないし第三一行。なお、本件審決は、この点について、「この種の混合物は少しも毒性的考慮を必要としない」との記載が存する旨認定しており、右認定は誤りと認められるが、右認定の誤りは、後記認定の事実に照らして、本件審決の結論に影響を与えるものとは認められない。)との記載が存することは当事者間に争いがなく、前者の記載によれば、モノ―化合物はジ―化合物より急性毒性が低いことが認められる。また、後者の記載における「モノ―オクチル錫トリイソオクチルチオグリコレートは……ジ―化合物よりもかなり毒性が少ないから」との記載における「毒性」が、急性毒性を指すのか慢性毒性を指すのか、あるいはその両者を指すのかは必ずしも明らかではないが、本願発明のアメリカ合衆国における優先権主張日である一九七三年三月二二日前において、食品包装材の形の塩化ビニル樹脂の安定剤で、低抽出性であつて、急性及び慢性毒性が低いという食品包装材用の塩化ビニル樹脂の安定剤に要求される三つの必要条件を満たすものとしてその安全性が同国食品医薬品管理局により確認され(一九六八年一月二〇日発行官報第三三巻第一四号)、使用を実際に認可されたものはジ―n―オクチル錫―s、s´―ビス(イソオクチルメルカプトアセテート)とジ―(n―オクチル)マレエート重合体の二つだけであつたことは当事者間に争いがない事実であるところ、後者の記載における「この種の混合物」のうち、ジ―化合物は右のように急性毒性及び慢性毒性が低いことが公に確認されているジ―化合物を指すものと解されるからこれにモノー化合物を混合したもの(原告の主張するとおり、ジ―化合物を主体とし、これに少量のモノ―化合物を混合したものであつても)が「毒物学的逡巡を必要としないかもしれない」ということは、モノ―化合物は急性毒性ばかりでなく、慢性毒性も低いと推測されて初めていえることであつて、右記載はモノ―化合物が急性毒性ばかりでなく、慢性毒性も低いことを推測させるに足りる記載と解することができる。

(3) そして、一般に、食品包装材用の塩化ビニル樹脂組成物が急性毒性だけでなく、慢性毒性の点においても低毒性でなければならないことは、その用途から当然要求される自明な事項であつて、前示のとおり、第一引用例には、モノ―オクチル錫トリイソオクチルチオグリコレート、すなわち、本願発明におけるモノ―n―オクチル錫―s、s´s´´―トリス(イソオクチルメルカプトアセテート)が食品包装用硬質塩化ビニル樹脂の安定剤として用いられているジ―n―オクチル錫ジイソオクチルチオグリコレート、すなわちジ―n―オクチル錫―s、s´―ビス(イソオクチルメルカプトアセテート)よりもかなり急性毒性が少なく、この種の混合物の使用に反対する毒物学的逡巡を必要としないかもしれないと記載されていることから、モノ―化合物について、その慢性毒性の低いことを推測し、モノ―化合物単独で安定剤として使用することに着目し、慢性毒性の有無、程度を調べること、及び右モノ―化合物を二重量部含有する第二引用例の実施例3記載の塩化ビニル組成物を食品包装材として用いるようにすることは、当業者ならば容易に想到し得るものと解するのが相当である。

(三) 原告は、慢性毒性は急性毒性の強弱とは直接関係がないことは良く知られていることであり、第一引用例には、急性毒性について記載されているだけで慢性毒性については何も記載されていないから、本件審決が、この急性毒性を比較しただけでモノ―化合物の低毒性を認定したことは誤りである旨主張するところ、急性毒性が低いことをもつて直ちに慢性毒性も低いとはいえないが、前認定の第一引用例の記載事項や本願発明の技術的背景を考慮すれば、前記のとおり、モノ―化合物の慢性毒性も低いものと推測し得るのであつて、原告の右主張を採用することはできない。また、原告が主張するように第一引用例にはモノ―化合物の抽出性について具体的な記載はない。しかしながら、塩化ビニル樹脂含有の安定剤の急性毒性及び慢性毒性の有無、程度は安定剤の移動性(すなわち、抽出性)の有無、程度に強く依存するものであることは自明の事項であるばかりか、第一引用例には、前示のとおり、モノ―化合物については急性毒性が低いことが示されており、また、前掲甲第九号証(第一引用例)によれば、第一引用例の第四〇〇頁下段には、モノ―化合物と類似の化合物であるジ―化合物やモノブチル錫化合物が実質上無害で、しかも、塩化ビニル樹脂からの抽出性が非常に少ない旨記載されていることが認められるのであつて、これらの記載によれば、モノ―化合物についても抽出性が少ないであろうことは予測し得ることであり、また、少なくとも、ジ―化合物と同様に塩化ビニル樹脂用安定剤として知られているモノ―化合物の抽出性について追試する程度のことは容易というほかなく、このようにして確認された低抽出性という効果を原告が主張するように格別のものとすることはできず、したがつて、原告の右主張も採用することができない。更に、原本の存在と成立に争いがない甲第一四、第一五号証によれば、原告主張のように、本願発明の優先権主張日前及び一九八三年までは、モノ―化合物を食品包装材用の塩化ビニル樹脂の安定剤として使用することは公には、特に米国で禁止されていた特別の事情があつたことは認められるが、そのことと第一引用例及び第二引用例に開示された技術的事項から本願発明を容易に想到することができたか否かは別個の問題であつて、原告のこの点に関する主張は採用することはできない。

したがつて、本件審決の相違点に対する判断には、その結論において誤りがあるとはいえず、したがつて、原告の取消事由(二)の主張は理由がない。

3 そうであるとすれば、本件審決には原告主張の違法の点はなく、本件審決の認定判断は、その結論において正当というべきである。

三 以上のとおりであるから、その主張の点に判断を誤つた違法があることを理由に本件審決の取消しを求める原告の本訴請求は、理由がないものというほかない。よつてこれを棄却することとする。

〔編注〕本願発明の要旨は左のとおりとする。

モノ―n―オクチル錫―s、s´、s´´―トリス(イソオクチルメルカプトアセテート)を塩化ビニル含有重合体の重量に基づいて〇・一五重量%を超えかつ二重量%を超えない範囲の量で含有してなる食品包装材の形の低毒性の安定化された塩化ビニル含有重合体組成物。

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