東京高等裁判所 昭和61年(う)1349号 判決 1987年1月20日
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人佐藤安俊が提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官氏家弘美が提出した答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。
控訴趣意第三点について
所論は、要するに、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書は、捜査官の利益誘導等による任意性のない供述が録取されたもので、証拠能力がないのに、これらを採証した原審の訴訟手続には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反がある、というのである。
しかし、記録を精査して検討するに、被告人を取り調べた捜査官である司法警察員椎名秀行及び検察官宮前義司の原審各証言等によると、その取調べに当たつて、被告人に対する利益誘導等が行われた事実はなく、その他、被告人の供述の任意性に疑いを生じさせるような事情が存したとも認められないから、所論の各供述調書の証拠能力を認めて、これらを採証した原審の訴訟手続に、何らの法令違反はない。論旨は理由がない。
控訴趣意第一点及び第二点の第一について
所論は、要するに、原判決は、被告人が甲野太郎に両肩を強く押すなどの暴行を加えて、同人を転倒させ、よつて同人に対し、治療約二週間を要する左肘関節捻挫、左肘関節内血腫の傷害を負わせたとの事実を認定したうえ、被告人の右所為が過剰防衛に当たると認定判断したが、(一)被告人の本件における暴行と甲野の転倒受傷との間には因果関係がないのに、これを肯定した点、及び同人の傷害は、一〇日間で全治したものであるのに、約二週間の治療を要するものであつたと認定した点において、原判決には事実を誤認した違法があり(控訴趣意第一点)、更に、(二)被告人の本件所為は正当防衛に当たるのに、過剰防衛にしか当たらないと認定判断した点において、原判決には事実を誤認し、ひいては法令の適用を誤つた違法があり(控訴趣意第二点の第一)、これらの違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄を免れない、というのである。
よつて、記録を精査し、当審における事実取調べの結果も参酌して検討するに、前記被告人の各供述調書をも含む関係証拠を総合すると、被告人が原判示の日時、場所で甲野の両肩付近を押した結果、同人が転倒して、原判示のとおり、約二週間の治療を要する傷害を負つた事実を優に肯認することができるから、右(一)の論旨は理由がない。
そこで、更に、同(二)の論旨に関して、被告人が右暴行に及んだ事情及びその暴行の状況、態様等について考察するに、右関係証拠を総合すると、原判示のとおり、甲野は当日被告人の母丙山はなから、離婚した妻の件で電話があつたことにつき話合いをするため、午後一〇時ころ、全く面識がない被告人及びその両親が居住する被告人方を訪れたが、母に危害が及ぶことを恐れ、同女と甲野とを会わせたくないと考えた被告人から、屋外の被告人方敷地内において、数回にわたり、帰るように求められたこと、しかし、甲野はこれに応じなかつたばかりか、被告人方居宅と一体となつている事務室に、何の断りもなく入つたうえ、被告人及びその父丙山一夫から、再三にわたつて、帰るように言われ、退去を求められたのに、これに応じようとしなかつたため、午後一〇時一五分ころになつて、被告人がやむを得ず、甲野の体に手を添えるようにして、同人を室外の被告人方敷地内まで連れ出したこと、そこで、甲野はいつたんは帰りかけたが、突然、向き直つて、再び右事務室内に入るべく、歩を進めて被告人と三〇センチメートル程の距離に迫つてきたため、被告人がとつさに、右の入室を阻止すべく、「帰れ。」と言いながら、甲野の両肩付近を押したところ、同人はそのはずみで、原判示の資材置場に体の左を下にして転倒し、その資材で左肘を打つて、前記の傷害を負うに至つたこと、以上の各事実を認定するに十分である。
右認定によれば、被告人の本件暴行の所為は、被告人及びその両親らの住居の平穏という法益に対する甲野の急迫不正の侵害に対し、その法益を防衛するため、反撃行為としてなされたものであることが明らかである。
そこで、その反撃行為が右侵害に対する防衛手段として相当性を有し、刑法三六条一項にいう「已ムコトヲ得サルニ出テタル行為」に当たるか否かについて検討するに、前記認定によつて肯定し得る諸般の事情、すなわち、原判決が説示しているように、当時甲野に被告人らの生命、身体、財産に危険を及ぼすような具体的言動がなかつたとはいえ、甲野の右侵害は、深夜に一面識もない被告人方を訪れ、被告人らからの再三にわたる退去の要求に応じようとせず、重ねて被告人方事務室に入ろうとするという極めて非常識かつ不穏当なもので、その違法の度合いも高いものであつたといえること、被告人の反撃行為は一種の反射的行動であつたともみられ、そこに至るいきさつ等からみても、甲野が当審証言において供述しているような、同人を被告人が突き飛ばすといつた過激なものであつたとは認められないこと、原判決が説示しているように、甲野に凶器を所持している様子がなかつたとはいえ、被告人の反撃行為も素手によるものであつたこと、右反撃行為のはずみで、甲野は転倒し受傷したが、その転倒受傷は、もとより被告人が意図したものではなく、同受傷は、甲野の転倒した場所が、たまたま資材置場であつたことによる偶然の結果にすぎないこと、などを総合すると、被告人の反撃行為としての本件暴行は、甲野の前記侵害に対する防衛手段として相当性を有し、右の「已ムコトヲ得サルニ出テタル行為」に当たるものと認めるのが相当である。
そうすると、被告人の本件所為については、正当防衛が成立するのに、過剰防衛の成立しか認めなかつた原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令適用の誤りがあるといわねばならない。本論旨は理由がある。
よつて、その余の論旨につき判断するまでもなく、原判決は破棄を免れないから、刑訴法三九七条一項、三八〇条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書に従い、当裁判所において更に判決する。
本件公訴事実は、「被告人は、昭和五九年八月二四日午後一〇時一五分ころ、茨城県稲敷郡<住所省略>の自宅資材置場において、甲野太郎(当時二九年)に対し、両肩を強く押すなどの暴行を加えて転倒させ、よつて、同人に加療約二週間を要する左肘関節捻挫等の傷害を負わせたものである。」というものであるが、前記のとおり、被告人の所為は刑法三六条一項の正当防衛に該当し、本件は罪とならないから、刑訴法三三六条前段により、被告人に対して無罪の言渡をすることとして、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官坂本武志 裁判官田村承三 裁判官本郷 元)