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東京高等裁判所 昭和61年(う)176号 判決 1986年5月29日

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人佐藤昇が差し出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官長山四郎が差し出した答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意一の1(事実誤認の主張)について

所論は、被告人は精神分裂病に罹患しているところ、精神分裂症に罹患している者は原則として心神喪失の状態にあると判断されるべきであつて、被告人をその例外とすべき格別の事情はうかがわれないから、被告人に限定責任能力を認めた原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、というのである。

そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果を合わせて検討すると、原判決挙示の関係証拠によれば、本件各犯行当時被告人は心神耗弱の状態にあつたとはいえるにしても、心神喪失の状態にまで至つていたとは認められないが、所論にかんがみ更に説明を加える。

精神分裂病に罹患している者がそのことから直ちに常に心神喪失の状態にあるということはできず、その責任能力は犯行当時の病状、犯行前の生活状態、犯行の動機・態様等を総合して判定すべきであるところ(最高裁昭和五九年七月三日第三小法廷決定・刑集三八巻八号二七八三頁参照)、鑑定人小口徹作成の鑑定書、同人の原審証書、被告人の原審第四回公判における供述、被告人作成の「控訴趣意書」と題する書面等によれば、被告人は昭和五五年ころから妄想型の精神分裂病に罹患していることが否定し難いが、他の関係証拠によれば、被告人は、時に幻聴や被害妄想にとらわれることがあるにしても、日頃は解体兼電気器具修理販売業を営んで格別破綻のない社会生活を送つてきていること、原判示第一の犯行は、被告人が廃品の原動機付自転車を回収に行つた帰途普通貨物自動車を無免許で運転したもの、同第二の犯行は、右の際、道路左側端に寄つて進行せず道路右側に自車をはみ出して進行するなどした過失により、自車を対向車に衝突させ、同車の運転者に傷害を負わせたもの、同第三の犯行は、行きつけの中華食堂で飲食した後、帰宅するため廃品を積んだ普通貨物自動車を無免許かつ酒気帯び状態で運転したものであること、被告人は、原判示第二の事故直後事故現場において、被害者から「今警察官を呼びましたから。」と告げられたのに対し、「やばいな。」といい、臨場した警察官から運転免許証の提示を求められると、忘れて来たと答え、警察署に同行されてようやく無免許であることを認め、引き続き、事故現場及び、自車等の実況見分に立ち合つて指示説明をするなどしていること、原判示第三の犯行に際しては、追跡して来た警察官の指示に従つていつたん停止しながら、警察官から運転免許証の提示を求められると、自車を急発進させて逃走にかかつたこと、被告人は、右犯行で現行犯人として逮捕され、以後原判決に至るまで身柄を拘束され続けたが、警察留置場及び拘置監において異常と目されるほどの言勤はみられなかつたことなどが認められ、これらの状況からすると、被告人は本件各犯行当時、是非を弁別しその弁別に従つて行動する能力がなかつたとまでは認められず、せいぜい右能力が著しく減退した程度の状態にあつたと認定できるにとどまるというべきである。

したがつて、本件当時被告人が心神耗弱の状態にあつた旨認定摘示する原判決には所論のような事実の誤認はなく、論旨は理由がない。

控訴趣意一の2(訴訟手続の法令違反の主張)について

所論は、被告人は原審公判中精神分裂病によつて心神喪失の状態にあつたのに、公判手続を停止しなかつた原審の訴訟手続には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反がある、というのである。

そこで、同様検討すると、原審が公判手続を停止することなく原判決を言い渡すに至つていることは明らかであるが、被告人の精神分裂病の病状等については前記のような諸事情がある上、被告人の原審における公判追行の状況をみても、争うべきところは争い、自己の言い分をそれなりに述べていることが認められるので、原審当時被告人が刑訴法三一四条一項所定の心神喪失の状態、すなわち、訴訟行為の意義を理解し自己の権利を守ることができないような状況にあつたとは到底いうことができない。

したがつて、被告人に対する公判手続を停止しなかつた原審の訴訟手続に何ら法令違反はなく、論旨は理由がない。

控訴趣意二(訴訟手続の法令違反及び事実誤認の主張)について

所論は、被告人は右翼等から攻撃を仕掛けられていると考え、やむなく自動車を運転していたものであり、(一)被告人が右事実により正当防衛を主張したのに対し、原判決は被告人の本件各犯行が正当防衛に当たらない旨の判断を示すにとどまるが、被告人の右主張は内容的には緊急避難の主張と解されるから、原判決が緊急避難について判断を示していないのは訴訟手続の法令に違反するものであり、(二)被告人が右翼等から攻撃を仕掛けられていると考えたのは、妄想であつたが、そのような現在の危難が存在すると誤信して本件各道路交通法違反の行為に及んでいる以上、右各行為はいずれも誤想避難として責任を阻却されるから、これを看過して被告人を有罪とした原判決には事実の誤認があり、いずれにしても原判決は破棄を免れない、というのである。

そこで、同様順次検討すると、(一)原判決は、「被告人の主張に対する判断」の項で被告人の正当防衛の主張が採用できない旨を摘示するにとどまるが、被告人が原審第八回公判の最終陳述において、右翼等から攻撃を仕掛けられていたなどとして述べているところは、その真意を補捉し難い上、刑訴法三三五条二項所定の主張を充足するような内容を含んでいるとは思われず、これについてことさら判断を示すまでもないものであつたが、被告人が「正当防衛」の語で右陳述を取りまとめていたため、原判決は念のため本件各犯行について正当防衛の要件がないことを摘示したにすぎないと解され、原判決が被告人のいうところを緊急避難の主張として、これに判断を示さなかつたことをとらえて違法であると非難することはできない。

(二)被告人が本件各道路交通法違反の行為に及んだ経緯は、既に認定したとおりであつて、右翼等からの攻撃があるとの妄想に基づくものとは認められないから、所論の誤想防衛の主張は前提を欠くというほかはない。

したがつて、原判決には所論のような訴訟手続の法令違反や事実の誤認はなく、論旨はいずれも理由がない。

控訴趣意三(量刑不当の主張)について

所論は、被告人を懲役一〇月に処した原判決の量刑が重過ぎて不当である、というのである。

そこで、同様検討すると、本件は、既に述べたような無免許運転とその際における業務上過失傷害、それから約一か月後の無免許運転と酒気帯び運転の事案であり、業務上過失傷害の点について、過失が初歩的基本的な注意義務を怠つたものであるとともに、被害回復のための努力が十分とはいえないことなどの事情もある上、被告人は、多数の前科を有し、最近のものだけをみても、昭和五三年二月無免許運転及び酒気帯び運転で懲役五月に、昭和五四年九月無免許運転三件等で懲役六月に、昭和五七年一二月無免許運転四件で懲役六月に処せられ、いずれも服役しながら、反省することなく本件に及んでおり、被告人の遵法精神の乏しさは顕著であることなどに照らすと、被告人の刑事責任を軽視することは許されない。なるほど、他方において、被告人が精神分裂病に罹患しており、本件当時心神耗弱の状態にあつたこと、前記被害者に対し治療費の支払いをしたこと、その他被告人の年齢、境遇等、被告人のため酌むべき情状もあるが、これらを考慮に入れてみても、被告人を前記の懲役刑に処した上、未決勾留日数をその刑期に満つるまで算入した原判決の量刑が重過ぎて不当であるとはいえない。論旨は理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項但書により被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官寺澤 榮 裁判官片岡聰 裁判官横田安弘)

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