東京高等裁判所 昭和62年(う)555号 判決 1991年4月23日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役六年に処する。
原審における未決勾留日数のうち、右刑期に満つるまでの分を右刑に算入する。
本件公訴事実中、昭和五〇年三月一二日付け起訴状にかかる強姦、殺人及び死体遺棄の各事実については、被告人は無罪。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人野崎研二、同早坂八郎、同松浦三郎、同丸山輝久、同石田省三郎、同鎮西俊一が連名で提出した控訴趣意書及び控訴趣意補充書並びに被告人が提出した控訴趣意書にそれぞれ記載されたとおりであり、また、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官検事川平悟が提出した答弁書に記載されたとおりであるから、これを引用する。
第一 控訴趣意の要旨
弁護人ら及び被告人の控訴趣意は、要するに、原判決は、昭和五〇年三月一二日付け起訴状にかかる強姦、殺人及び死体遺棄の各事実(原判示第四ないし第六の各事実、以下、宮田事件という。他の事件も同様に略称する。)につき有罪と認定しているが、その審理、判断には以下のような訴訟手続の法令違反、事実誤認、審理不尽の違法があるので破棄を免れない、というのである。
すなわち、
一 訴訟手続の法令違反の主張
被告人は、まず、I方における窃盗事件(原判示第一の一事実)により逮捕・勾留され(「第一期間」)、次いで、N子に対する強姦事件(原判示第二事実)によって逮捕・勾留され(「第二期間」)、いずれも、これら「別件」の逮捕・勾留中に、「本件」である宮田事件に関する取調べを受けた。そして、N事件の起訴後、余罪捜査として「本件」に対する取調べが本格的に開始され(「第三期間」)、その結果、宮田事件について自白したため調書等が作成され、更にその後、同事件により逮捕・勾留されて取調べを受け(「第四期間」)、その間も自白を続け調書等が作成された。原判決は、結局、同事件について起訴に至らず釈放した後(「第五期間」)の自白の証拠能力は否定しているが、「第三期間」及び「第四期間」の自白調書等の証拠能力を認めている。しかし、①まず。「第三期間」の本件に関する取調べは、その取調べの実態は執拗かつ強制的であり、供述拒否も退室も許されず、取調官のいいなりに長時間取調べが行われたものであって、本来任意捜査のみが許されるべき別件起訴勾留中の余罪取調べとして違法なものであり、②また、「第三期間」及び「第四期間」の自白も、「第二期間」以降は身柄を松戸警察署から印西警察署に移して単独で留置した上、二四時間監視の下に置き、食事制限、睡眠妨害等を行なって長期間・長時間にわたり、強制、脅迫、誘導などを用いた違法な取調べに基づいて得られたものである。したがって、被告人の自白調書等は、「第五期間」のものばかりか、「第三期間」及び「第四期間」のものも任意性を欠き、証拠能力がないのであって、これら自白の証拠能力を認めた原判決は、刑事訴訟法一九八条一項並びに同法三一九条一項等の解釈、適用を誤ったもので、右訴訟手続の法令違反は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから破棄を免れない。
二 事実誤認の主張
原判決は、宮田事件に関する「第三期間」及び「第四期間」における被告人の自白には信用性があるとしているが、
1 原判決は、右自白の信用性の根拠として、本件当時被害者が所持していたとされる「洋傘」、「定期券入れ等」、当時着けていた「着衣等」が被告人の自白によって初めて発見されたことを唯一の根拠として、その自白に信用性を認め有罪判決を導いている。しかし、これら証拠物が被告人の指示によって発見されたと判断するには数々の疑問があり、警察において既に発見していたもので、客観的証拠とするため後に被告人から指示供述を得たにすぎず、被告人の自白には、あらかじめ捜査官が知りえなかった事項で、捜査の結果、客観的事実と確認されたいわゆる秘密の暴露にあたるものは見当らず、この点で自白に高度の信用性を認めることはできない。
2 加えて、被告人の自白については、①被害者の死因は原判決の指摘するとおり絞頸によって窒息死したことはほぼ間違いないと思われるが、原審が採用した「第三、第四期間」の自白における殺害の基本的方法は「右腕を被害者の首に巻きつけてしめた」というものであり、また、原審が採用しなかった「第五期間」の自白における最終的な内容は、紐でしめたが「紐をはなして、右腕を首に巻きつけ二〜三分強くしめつけた」というもので、これらの殺害方法に関する自白内容は、木村康の鑑定をはじめ客観的証拠と一致しない。更に、死体の死斑等の状況は被告人自白の着衣を脱がせた状況と一致しない疑いがあり、その他、被害者を埋めるために用いたスコップあるいは被害者が所持していたとされる「手提げ袋」等に関する自白などを含め、客観的証拠の裏付けがなく、かえって客観的証拠と一致しない点が多くみられる。②殺害方法に関する自白内容は、時を経るにつれより詳細になるが、「第四期間」までは、捜査側から紐等の索状物によってしめられたことが示唆されているものの、「右腕を被害者の首に巻きつけてしめた」という点で基本的に一貫していて変わりなく、また、「第五期間」の自白も、木村鑑定の結果あるいは吊り紐の発見等の事情により捜査側に都合よく変更されていった内容であるばかりか、その最終形は「紐でしめたが、なおもわめくので紐をはなして、右腕を首に巻きつけ二〜三分強くしめることにより死亡した」というものであり、当時被告人が着用していた衣服に関する自白などを含め、捜査官の認識の変化に伴って、不自然、不都合な変遷がみられる。③サロペットスカートの胸当てがスカートから引きちぎられて発見された理由や、発見された下着が著しく損傷し、しかも雨用ズボンに包まれて発見されたなどの特異な事実など、真犯人であれば容易に説明ができ、あるいは言及するのが当然である事柄についての説明が欠落している。など、その信用性を否定すべき多くの問題点がある。
3 原判決は、宮田事件の当夜、被告人にアリバイが存在することを証明するに足りる証拠はないと断定しているが、右認定は誤っている。
三 審理不尽の違法の主張
1 印西警察署における看守体制に関する証拠調べは、自白の任意性判断に不可欠であり、捜索の範囲・内容についての証拠調べは、証拠物の発見の経緯の判断上必要である。
2 また、着衣の寸断・損傷の成因に関する鑑定等も、この点、原判決が「未だ解決されておらず不明な点」としており、解明上不可欠であった。
3 次に、被告人の血液型が何時O型と判定されたかは捜査の経緯、別件逮捕の不当性を明らかにする意味で重要であり、また、木村鑑定人のした毛髪鑑定の資料中被告人の毛髪には白髪が混じっており、これは単に任意提出ないし採取した毛髪の管理・保管の不備のみならず捜査本部の作為解明につながる可能性がある。
4 更には、被害者の頸部の索状痕が被害者着用のサロペットスカートの吊り紐で形成されるかは本件解明にとって重要である。
原審は、これらの点に関する証拠調べを弁護人の証拠申請があったのに行なわず、事実を誤認したもので、原審審理には審理不尽の違法があり、判決に影響を及ぼすことは明らかである。
というのである。
第二 当裁判所の判断
一 問題の所在
1 原審記録を精査し、当審における事実取調べの結果をも併せ検討すると、宮田事件に関して、その捜査及び起訴に至る経緯は、原判決の詳細に認定説示するところであるが、要約すると以下のとおりである。
すなわち、
(一) 宮田事件については、昭和四九年七月三日夜に帰宅途中の宮田春子が行方不明になったとの通報を受けて、翌四日から警察による捜査が開始されたが、同年八月八日になり、千葉県松戸市の国鉄馬橋駅西口土地区画整理事業地四〇街区(以下、単に事業地または街区のみを略称する。)の土中から、膣内等に人精液をとどめ、絞頸窒息死させられ、全裸で埋められている同女の死体が発見された。このころ、松戸市馬橋地区においては、O(同年七月一〇日、馬橋駅西口の北側のアパートで焼死体発見)及びT(同年六月二五日ころ行方不明、同年八月一〇日に事業地一四街区で埋没死体発見)が相次いで強姦され殺害される事件が発生したところ、警察は、これら三事件は、地域的・時間的に接近し、態様も似ていることから、同一犯人によるものとの心証を抱き、千葉県警察松戸警察署に「馬橋における女性連続殺人事件捜査本部」(以下、単に捜査本部という。)を設置し、千葉県警察本部刑事部長が総指揮をとって、大掛かりな捜査が開始されるに至った。
(二) 被告人は同四九年七月二七日未明、馬橋駅西口付近を徘徊中、警察官の職務質問を受け、前歴が調査された結果、捜査対象者とされ、捜査が進むうち、被告人のI方における窃盗事件(原判示第一の一事実)及びN子に対する住居侵入・強姦事件(原判示第二、第三事実)が発覚して、まず、右窃盗事件により同年九月一二日に逮捕され、引き続き勾留され、以降、宮田事件で起訴されるまで、次のように身柄を拘束された。
(1) I方窃盗事件
同年九月一二日午後二時一五分、右事件で逮捕され、同月一四日勾留と同時に接見が禁止され、代用監獄である松戸警察署留置場に留置された。同事件は、同年一〇月二日他の窃盗事件とともに常習累犯窃盗事件として起訴された(同事件逮捕から、同年九月三〇日午後にN事件によって逮捕されるまでを「第一期間」という。)。
(2) N事件
同年九月三〇日午後一時一五分、右事件で逮捕され、同年一〇月二日勾留と同時に接見が禁止され、同月二一日起訴された(右逮捕から起訴までを「第二期間」という。)。なお、身柄は、同事件による逮捕と同時に新設の印西警察署留置場に移監して留置された。
(3) N事件起訴後
右N事件起訴後も引き続き印西警察署に勾留・留置された(N事件起訴の同年一〇月二一日から、宮田事件により逮捕された同年一二月九日夜までを「第三期間」という。)。
(4) 宮田事件
同年一二月九日午後八時五三分、右事件で逮捕され、同月一二日勾留と同時に接見が禁止され、同月三一日に同事件が処分保留となり釈放されるまで、やはり印西警察署留置場に留置された(右逮捕から釈放までを「第四期間」という。)。
(5) 宮田事件釈放後
右宮田事件については、同月三一日処分保留となり釈放されたが、常習累犯窃盗及びN事件による起訴後の勾留が続き、印西警察署における留置は、翌五〇年三月一二日宮田事件により起訴されるまで続いた(同年一月一日から同年三月一二日起訴されるまでを「第五期間」という。)。
(三) 昭和四九年九月三〇日、N事件により逮捕し、印西警察署に移監した後の、捜査本部の被告人に対する取調べは、主として同署取調室において行われたが、右N事件及び馬橋における女性連続殺人事件(以下、単に連続殺人事件という。)についての被告人の取調べに当たるため、同月二八日、千葉県警察本部捜査一課の大矢房治を中心とする四名の捜査官によるいわゆる大矢班が結成され、以降、被告人の取調べは、途中、「第五期間」のうち昭和五〇年一月から同年二月一〇日までの間、安藤正義を中心とする安藤班が替わって担当したが、残りの期間はすべて大矢班が担当した(以下、単に大矢班あるいは取調班と言う)。
(四) 連続殺人事件については、「第一期間」中にも他の首都圏で起きた連続女性殺人事件と併せ、窃盗事件取調べの担当捜査員により概括的な取調べがあったが、本格的には「第二期間」の途中、昭和四九年一〇月一五日ころから、大矢班により取調べが行なわれた。当初、主としてO事件について取調べをしたが、被告人は、途中から軟化し自供したものの、取調べは、はかばかしく進展せず、むしろ、同月三一日には、昭和四三年にO事件の現場近くで発生したU子に対する強姦事件について自白したりなどした。また、T事件についても取調べをしたが進捗しなかった。
(五) そこで、「第三期間」の半ばころの昭和四九年一一月二〇日ころ、大矢班は、捜査本部首脳と協議の上、全裸死体で発見され着衣や所持品等の物証の得やすい、本件宮田事件の取調べに切り換えることとした。そして、同月二二日に取調べたところ、被告人は、自白して、概要を説明する図面を作成し、その後、図面やメモ等を作成し、同年一二月八日からは供述調書も作成されるに至った。
この間、同年一一月三〇日に、二六街区一一号地西南角の側溝から、被害者が行方不明当時所持していたと認められる傘が発見され、次いで、同年一二月四日には、事業地の東側を流れる新坂川の富士見橋近くの東側土手から、同女が行方不明当時所持していたと認められる宮田春子名義の定期券、身分証明書及びメモ在中の定期券入れ並びに黒色エナメル製財布各一個が発見された。
(六) 捜査本部は、右各物品は、被告人の供述から発見された証拠物であるとして、被告人が宮田事件の犯人であるとの心証を固め、昭和四九年一二月九日夜、被告人を宮田事件で逮捕し、同月一二日から同月三一日まで、印西警察署に勾留・留置して(「第四期間」)取調べを行なった。その結果、被告人は、先の「第三期間」に続き右「第四期間」においても、宮田事件について、大矢班の司法警察員らに対してばかりか、検察官に対しても、その犯行を認める内容の供述をし、供述調書等が作成された。
しかし、千葉地方検察庁は、同年一二月三〇日、同事件の処理について検討した結果、公判維持上、それまで発見された証拠物のみでは物証が十分でなく、被害者の着衣あるいは凶器の発見を待って起訴すべきだとして、勾留満期の日の同月三一日、被告人を処分保留のまま釈放した。
(七) 警察側捜査本部は、右釈放後も引き続き宮田事件につき捜査することとし(以降「第五期間」)、捜査の重点を所持品等の発見、確認に置くこととした。そして、取調べ担当者も、大矢班から安藤班に替わり、同班は、昭和五〇年一月四日から被告人の取調べを行なった。この安藤班の取調べに対し、被告人は、当初、拒否的であったが、同月八日ころから、宮田事件を話す順序として、U事件の自白をすると言い出したため、同班は、同事件について取調べを行ない、その終了後、同月一〇日ころから宮田事件に関して、着衣や所持品のありかを追及した。
かくするうち、同年一月二一日、捜査本部が本件事業地の南側端を東から西に流れる排水溝を捜索したところ、被害者が行方不明当時着用していたサロペットスカートから脱落したと認められる吊り紐が、同年二月一〇日には、同女が行方不明当時着用または所持していたと認められる。サロペットスカート、パンティーストッキング及び靴等がビニール製雨用ズボンの腰部に入れられた状態で発見され、更に、近くから右サロペットスカートから脱落したとみられる胸当て部分が発見された。
(八) この「第五期間」の取調べにおいて、被告人は、昭和五〇年一月二三日までは、右安藤班及び検察官に対して、自己が犯行を犯したことを前提とする供述をしたが、同二三日夜、検察官の否認するよう仕向ける取調べを受け(検察官は、「ゆさぶり」のための取調べという。)、当初、躊躇する姿勢を見せながら、結局否認する供述をし、それを契機に否認に転じた。しかし、同年二月一七日ころから再び犯行を認める供述をするようになり、証拠物の発見以降再び取調べを担当するようになった大矢班の司法警察員ら及び検察官らによって供述調書が作成された。
右のような、新たな証拠物の発見と被告人取調べの進展の結果をみて、担当検察官は、同年三月一二日宮田事件について公訴を提起するに至ったが、被告人は、同事件の勾留質問に対し事実を否認し、爾来、原審及び当審公判を通して、宮田事件については、一貫して事実を否定している。
以上である。
2 ところで、宮田事件については、被告人と犯行を結び付ける証拠は、被害者の死体から検出された人精液の血液型(Se式血液型がOSe型(分泌型のO型)かSe型(非分泌型))であって被告人のそれと矛盾しないなどの数少ない証憑事実を除けば、直接的な証拠としては、捜査段階における被告人の司法警察員及び検察官に対する自白が唯一のものであるところ、原判決は、まず自白の証拠能力につき、「第五期間」の自白は、被告人が、宮田事件で釈放後も、印西警察署にそのまま留置され、より厳しい監視状況下に置かれ、時にはより厳しい取調べを受けた点を主たる根拠に自白の任意性に疑いがあるとして証拠能力を否定したものの、「第三期間」及び「第四期間」の自白については、任意性があるとして証拠能力を認めた。また、右自白の信用性については、自白の内容が犯行の概要において一貫性のあること、とりわけ、本件当時、被害者が所持していたとされる傘及び定期券入れ等や、当時着けていた着衣等が、被告人の自白によって初めて発見されており秘密の暴露があったと評価できること、他にも自白に符合する客観的事実の存在すること、を根拠に信用性を認め、更に、被告人にはアリバイの存在を証明するに足りる証拠もないとして、被告人は有罪である旨判示している。
3 しかしながら、右「第三期間」及び「第四期間」の自白については、次のような疑問がある。
(一) まず、自白の任意性については、「第三期間」及び「第四期間」における被告人に対する取調べも、「第五期間」と同様に新設の印西警察署に被告人一人だけ留置し、しかも、看守者は、捜査本部から要員を出してこれに当たらせ、四六時中被告人の動静を監視し、記録するといった、過度に厳しい監視状況下において、取調べを行なっており、その結果得られた自白は、こうした留置・取調べ状況に加え、その供述内容がたびたび変化して一貫性を著しく欠く供述状況・供述態度等に鑑みると、その任意性に疑問を差し挟まざるをえないところである。
(二) 次に、自白の信用性については、
(1) 被告人の自白内容は、一応、「宮田を強姦して殺害した上、その死体を全裸にして土中に埋没させて遺棄し、その着衣、所持品等を他に捨てた」という大筋で一貫している風であるが、具体性を欠くばかりか、原判決も認めるように、「犯行当日の被告人の服装」、「犯行に使用した凶器の種類やその入手先」、「被害者を発見した時の被告人の位置や追跡経路」、「脅迫や強姦場所への連行の仕方」、「殺害の方法」、「死体を埋める時に使ったスコップの入手先とその処理」、「死体を埋める順序」、「被害者の着衣等の遺棄場所やその方法」など、真犯人であれば容易に説明できる上、日時もさほど経過しているわけではないので記憶喪失、記憶違いとは考えにくい事項について、供述内容が不合理に変化し変遷している。したがって、供述の信用性に疑問を抱かせる状況があるといわざるをえない。
(2) また、原判決は、被告人の供述に基づき、四回にわたり被害者の所持品及び着衣等の証拠物が発見されたことを、被告人しか知らない秘密の暴露として、自白の信用性の判断のいわば決定的根拠としている。しかし、そもそも被告人のこの点に関する供述は多くの場所を指示していて一貫しないばかりか、発見された各証拠物の指示状況は必ずしも明確とはいえず、しかも、被告人は、いずれも立会・目撃しておらず、はたして、秘密の暴露と評価できるか種々の疑問がある。
(3) 更に、原判決の挙げる、自白に符合する客観的事実というのは、事実自体が瑣末な事柄に関するものであるばかりか、取調官が当然知りえたことで、被告人も既知体験あるいは想像により述べることのできる程度のもので、信用性を担保にするに足りるものか疑問がある。
そこで、以下に各疑問点につき検討を加える。
二 自白の任意性について
1 原判決は、「第五期間」の自白については、被告人は、宮田事件で釈放後は速やかに拘置所に移監されるべきであったのに、印西警察署にそのまま留置され、合計六七日間のうち、休んだのは一日のみという連日の調べを受けたこと、午後一〇時を超えた調べも三五回を数えること、留置場では看守者に代えてテレビカメラで監視するなど、釈放前より厳しい監視下に置かれたこと、取調官が取調室に宮田等三事件の被害者らの写真や位牌を持込み、線香をたいて厳しい方法で取調べをしたことがあること、などの理由を挙げて、証拠能力を否定している。
他方、原判決は、「第三期間」及び「第四期間」の自白については、事案の重大性に鑑み、独居拘禁しても早期解決を図る緊急の社会的要請があり、また捜査員の通勤上の便宜などから印西警察署に留置する必要があったこと、捜査員が看守者になったのは同署に定員配置がなかったためであること、看守者に動静日誌を記載させたのは被告人に対する重大犯罪の嫌疑上その動静を知る必要があること、また、取調べが任意の取調べであることやその任意性に疑いを抱かせる事情の認められないこと、などの理由を挙げて、証拠能力を肯定している。
2 しかしながら、「第二期間」及び「第四期間」における取調べも、取調室に被害者らの写真や位牌を持込み線香をたくということはなかったとはいえ、「第五期間」と同様に印西警察署の留置場に被告人一人だけを留置し、厳しい監視状況下においてなされたものであるから、この両期間の自白の任意性が当然問題となる。
そこで、被告人がどのような身柄拘束の状態にあったか、どのような取調べを受け、どのような自白をしたか、などの実態について、原審記録を精査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討する。
(一) 印西警察署における留置の状況
(1) 宮田事件を含め女性連続殺人事件の捜査に当たっていた捜査本部は、昭和四九年九月三〇日、被告人をN事件の容疑で逮捕すると同時に、(以降、「第二期間」)、それまで身柄を留置していた代用監獄の松戸警察署留置場から、新しくできた印西警察署の留置場に身柄を移監し、以後、原判決によって自白の証拠能力が否定された「第五期間」と同じく、右「第三期間」及び「第四期間」も印西警察署の留置場に留置して、被告人の取調べを行なった。
(2) 右印西警察署は、小さな警察署であったため、同署の取り扱う被疑者は佐倉警察署に留置することとなっており、印西警察署に付設された留置場に留置されたのは被告人が初めてで、また、被告人が同署に留置されている間は、他の被疑者を留置することはなく、終始、被告人のみ一人が留置された。
(3) 右留置場は、鉄筋コンクリート三階建の印西警察署の二階にあり、留置房は中央の監視台に向かい合って一房から三房までの三つの房があり、被告人は中央の第二房に収容されていた。なお、留置場には運動場も付設されており、取調室も、同じ階の近い場所にある。
(4) 右の被告人の身柄移監は、捜査本部の強い希望から発したもので、当時、同警察署は新しくできたばかりで静かな環境下にあったこと、本件捜査はマスコミの注目をあびていたが、同署には報道関係者の常駐がなく対策に好都合であること、静穏な取調べの環境を確保できたこと、取調班として中核となった捜査員らが千葉市に在住していたため通勤の便がよかったこと、などの利点もあったが、大きな理由は、O事件について容疑の濃くなっていた被告人を静かな警察署に単独留置して連続殺人事件について取調べを行ない、自白を得ようとしたものである。
(5) 印西警察署留置場における看守者は、同署に配置定員がなかったため、捜査本部の捜査員の中から必要な要員を割いて出し、これを印西警察署長の指揮下に入れて被告の看守に当たらせた。
(6) そして、看守者に命じて、被告人の留置場内での言動を細かく記録した留置人動静日誌を記載させ、将来問題となる自白の任意性の立証に備えるとともに、これを毎朝、交替時にその写しを大矢ら取調班に提出させて、被告人の取調べなど、捜査の参考にした。命じられた担当の看守者は、忠実にこの職務を遂行し、四六時中、被告人の言動を監視し、分刻みで、言動は、被告人の一挙手一投足を、話した言葉は、看守者に話したことから独りごとまで記録して、取調班に提供していた。とりわけ、被告人の漏らす事件に関係あるとみられる言葉は、小型録音機で録音するなどして、懸命にこれを録取し、被告人の書くメモなども写し取って記録していた。
(7) これら看守者は、形式上は印西警察署長の指揮下に入っていたが、歯磨き粉の購入一つ、あるいは被告人が頭の毛を刈る、頭を洗うといった些細な事柄までも、取調班の意向を聞き、あるいは、被告人が取調べの際に頼むように仕向け、取調班の意向を重視して看守に当たっており、常に取調班と緊密な連携をとりあい、ときとしては、被告人に対し自白を進めるような言動もしていた。
(8) 留置場においては、被告人に対し、運動場における運動をする機会を全く与えず、途中一度、印西警察署刑事課長がその希望の有無を聞いたこともあったが(昭和四九年一一月二三日)、気が向かない素振りをみせるや、爾来、看守者らは、時折、運動不足を訴える被告人に対して、運動する機会を全く与えず、被告人は、一人房内で体操をしたり動き回るなど、身体を動かして運動不足を解消する工夫をしていた。
(9) 被告人に対しては、窃盗事件、N事件、宮田事件などと勾留がなされる都度、併せて接見禁止の決定がなされ、親族らの面会は皆無であった。この間、警察官、検察官等の捜査関係者以外で面接に訪れたのは、起訴事件について選任された国選弁護人のみであり、長く続いた留置期間中の留置場における話し相手は、時折、巡視に現われる印西警察署の署長や刑事課長などのほかは、取調班員と担当の看守者のみであった。
(二) 留置場での被告人の言動
この被告人の言動については、主として看守者の記載した右留置人の動静日誌の記載によってみたが、同動静日誌は、自白の任意性を立証しようとして意識的に作成され、また、例えば、昭和四九年一二月一二日午後の検察官の取調べに対し、被告人は黙秘して供述調書は作成されなかったのに、調書が作成され署名指印した旨誤った記載があるなど、問題はあるけれども、次の状況を認定するには妨げがないと認められる。
(1) 被告人は、印西警察署に移監されて間もなくから、田舎にあって静かな警察留置場にただ一人留置された寂しさを訴えており、移監後五〇日余を過ごした同年一一月中旬ころからは、時折、いらいらした様子をみせるようになり、次第にこれが高じて、自暴自棄な気分に襲われた言動を示したり、奇声を発したり、常軌を逸するような言動に出たりもしている。こうした傾向は時を経るにつれて大きくなってゆくようにみえ、自殺をほのめかす言動を繰り返したりし、とくに、同年一二月九日宮田事件によって逮捕されてからは、厳しい取調べも手伝ってか不安定な精神状態を示し、同年一二月一五日には、看守者の一人とトラブルを起こして暴れた上、自殺を図って、看守者に制止されたりなどしている。そのほか、前述のように盛んに運動不足を訴え、常に空腹を訴え、ひんぱんに看守者にパンなどの購入をせがんだり、また、寒さを訴えたりしている。
(2) 一方、こうした勾留が長引くうち、時を追うにつれ、被告人は、人恋しさからか看守者に対し、次第に話し掛けるようになり、真偽は別として、事件に関する事柄を口走っていて、その量も増加しているようにみえる。しかも、連続殺人事件については否認している段階である同年一一月中旬ころから、ときには、取調班による取調べを待ち望むような矛盾した言動すらみせている。
(三) 被告人に対する取調べの状況
(1) 右のような状態の中で、被告人は、連日、ほぼ休みなく取調べを受けた。連続殺人事件に関する取調べは、「第二期間」の昭和四九年一〇月一五日ころから行なわれ、当初はO事件などを中心に取調べがなされ、「第三期間」に入り約一月後の同年一一月二〇日ころから宮田事件についての追及が始められたが、宮田事件について取調べが開始されてから、「第四期間」の終わるまで同年末までの四二日間に取調べのなかったのは三日のみである。そして、その取調べ時間は、一〇時間以上に及ぶことは一回だけであったが、七ないし九時間に及んだことは一七回であり、午後九時過ぎまで取調べが行なわれたのは一四回であった。
(2) その結果、宮田事件に関して、「第三期間」には、昭和四九年一一月二二日、概要を自供し自ら説明する図面を作成するに至っている。もっとも、このときは調書の作成は拒否しているが、その後、同年一二月八日には最初の自白調書の作成に応ずるに至っており、翌九日付けで司法警察員に対する供述調書(以下、員面調書という。)が録取作成されたほか、この間に、自筆の図面、メモなどが作成されている。
(3) また、更に同様の身柄拘束の続いた「第四期間」には、弁解録取書を除き、供述調書だけでも、同月一〇日付け員面調書、同月一一日付け員面調書、同月一六日付け員面調書、同月一七日付け検察官に対する供述調書(以下、検面調書という。)、同月一八日付け員面調書、同月二三日付け員面調書、同月二五日付け員面調書、同月二六日付け員面調書、同月二七日付け検面調書、同月二八日付け検面調書、同月二九日付け検面調書二通、同日付け員面調書、同月三〇日付け検面調書二通、同日付け員面調書が作成され、一部は録音テープに記録され、他に図面や手記などが作成された。
(4) 右にみられる被告人の供述調書などは、大部分、被告人が犯行を認め、それを前提とするものである。しかしながら、最初の自白があったときは、当初の窃盗での逮捕から七〇余日を過ぎており、また、調書が作成されるに至ったのは、その逮捕による身柄拘束後すでに三か月近くを経ていたばかりか、前記のような印西警察署での独居留置は約七〇日に及んでいる。
(四) 被告人の自白の内容
右供述調書などの内容は、後の「自白の信用性」の項でみるように、変転が甚だしい。しかも、警察の取調べに対し述べていたことを、直後の検察官の取調べにおいて変更したり、同じ取調班に対するものでも、捜査の進展や取調べる側の心証の変化に応じ、内容を変化させるなど、自己の記憶に基づき任意に述べたにしては著しく一貫性を欠いている。
3 右のような実態をもとに、「第三期間」及び「第四期間」の自白の任意性について考えると、
(一) まず、印西警察署における留置の状況が大きな問題であろう。
被勾留被疑者を警察署に付属する留置場に収容するいわゆる代用監獄は、自白の強要等の行なわれる危険の多い制度であるので、その運用に当たっては、慎重な配慮が必要である。とりわけ、宮田事件のように、目撃者はなく物証に乏しく、その立証が被疑者の自供に依拠せざるをえない場合は一層そうである。本来、被疑者の取調べという犯罪捜査と、代用監獄としての被疑者の身柄を留置場に収容する業務とは、同じ警察が行なうにしても、全く別個の業務であり、混同して運用されてはならず、それぞれ別個独立の立場で適正に行なわれることが必要不可欠であり、留置業務が捜査に不当に利用されることがあってはならないのである。
ところが、本件の場合、宮田事件を含む連続殺人事件について自白を得るため、代用監獄として、寂しい新設の印西警察署を選び、たった一人の状態で留置し、しかも、捜査本部の捜査員から看守者を選任して被告人の留置業務に当たらせ、被告人の留置場内での言動の逐一を捜査上の資料として提出させた上、取調べを行なったのである。これは、まさに、捜査員が留置業務に当たり、実質的にも留置業務が捜査の一貫として行なわれたもので、留置業務は、その独立性がなく、捜査に不当に利用されたといえる。
したがって、このような留置のあり方は、不当なものであり、代用監獄に身柄を拘束して、自白を強要したとのそしりを免れない。
(二) 次に、留置場内での被告人の言動をみると、被告人は、長期間にわたり、このような拘禁状態におかれた末、宮田事件について厳しい取調べを受けたもので、精神的にも肉体的にも厳しい状態に追い込まれていたといえる。
(三) しかも、被告人に対する取調べの状況をみると、右のような状態にある被告人に対する殆ど連日の取調べから、真摯な反省に基づいた、真実を語る自白を得ることが、果たして可能であったか大いに疑問である。
(四) 更に、被告人の自白の内容をみると、取調べの都度、あるいは取調べに当たる者により変転していて、まるで一貫性がなく、その供述状況・供述態度からも、その任意性には疑いが消し難いものがある。
以上のような諸点に鑑みると、宮田事件については、被告人の「第三期間」及び「第四期間」の自白も、その自白が任意にされたものでない疑いがあるといわざるをえない。
三 自白の信用性について
1 被告人の「第三期間」及び「第四期間」における宮田事件についての自白は、前記のように任意にされたものでない疑いがあるので、証拠能力がないというべきであるが、事件の重大性を考慮して、自白の信用性についても判断を示すことにする。
原判決は、その信用性について、
①宮田春子を強姦して殺害した上、全裸にして土中に埋没させて死体を遺棄し、同女の着衣及び所持品等を他に捨てたとの犯行の概要において一貫性があること。
②自白に基づき、被害者が行方不明当時着用ないし所持していた傘、定期入れ、着衣等が発見され、これは秘密の暴露と評価できること。
③犯行に至る経緯、犯行の場所、方法及び態様並びに犯行後の行動等については、あいまい、ないしは前の供述と異なる供述を繰り返し、殊に着衣等の捨て場所や捨て方についての供述は変転し、また、犯人であれば言及して当然と思われる事実についての説明が欠落している部分があるが、それらは、被告人の性格及び供述傾向ないし供述態度に由来するものであること
④自白内容に客観的事実に符合するものがあること
などを挙げて、信用性があると判断している。
2 そこで、以下、これらの点について、原審記録を精査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討を加える。
(一) 自白は、犯行の大筋において一貫性があるとはいえないこと
原判決は、被害者を強姦して殺害したこと、全裸にして土中に埋没させて死体を遺棄し、同女の着衣及び所持品等を他に捨てたこと、などの犯行の大筋において一貫性があるというが、本件の場合、被害者の死体は土中から全裸で発見されていること、死体から人精液が検出されており、また、死体の状況から死因は絞殺であると判断されることから、右原判決のいう犯行の大筋とされるものは、被告人の自白を待つまでもなく明らかなことであり、むしろ、その他の肉付けさるべき具体的行動についての供述が問題なのである。
(1) 被告人は、大矢班の取調べに対し、最初は昭和四九年一一月二二日、次に同年一二月一日と、いずれも供述調書の作成は拒んでいるものの、二回にわたり犯行の大筋を自供している。その内容は、①犯行当日夜、馬橋に来て駅をおり、事業地の杉浦マンション(三〇街区)近くを歩いているとき、大通りを駅の方から歩いてくる被害者をみつけたこと、②被害者をつかまえ果物ナイフを突き付けて脅かしたこと、③道路脇の樅の木畑(三五街区)に連れ込んでそこで二回強姦したこと、④終ってから声を出して逃げようとしたので、後方から右腕を首にまわして強くしめて殺害したこと、⑤死体を盛り土の所に運び、ビルの工事現場から持ち出したスコップで穴を掘り土中に埋めたこと、⑥スコップと着衣及び所持品は処分したこと、⑦終って馬橋駅から電車に乗って帰った、というものである。
しかし、この供述内容は、その後の取調べ過程で大きく変化してしまうが、既にこの二回の供述内容にさえも、相互に食い違いがみられる。例えば、①の被告人が馬橋に来た時刻は、当初、午後九時半といっていたのが、午後九時か一〇時ころとなり、②の被害者をつかまえ脅かした態様は、後方から被害者の左手をつかまえ、左手でナイフを突き付けたといっていたものが、前に立ちふさがりナイフを突き付けたと変わり、⑤のスコップも死体を盛り土に運んでから持ち出したことから、スコップを持ち出してから死体を運んだに変わり、また、スコップを持ち出した場所も工事中のビルの三階から、ビル脇の小屋に変わり、⑥のスコップ、所持品の処分法も、近くの草むらに埋めたことから、川の中や川のふち等に捨てたと変化し、⑦の帰った先についても、姉方から妹方に変わっている。
(2) その後、さらに自白があり、同年一二月八日からは多数の供述調書が作成されている。しかし、それらの内容は、①馬橋到着の時刻が度々変わっているばかりか、問題の被害者をみかけた場所が馬橋駅西口の歩道橋に変わってしまっている。また、その際の被告人の位置や追跡経路についても、変遷している。②被害者をつかまえ脅迫した態様も、刃物を持った手が右手だったり左手だったりするだけでなく、使用した凶器が果物ナイフから包丁に変わり、牛刀などともいうばかりか、その入手方法についての供述も一通りではない。③強姦場所への連行方法も、片手に刃物を持っているが、その手も左右一様でなく、他方の手で被害者の体をつかんだというが、それも肩をつかむ、腕をつかむなどといろいろと変わっている。しかも、特筆すべきは、強姦の場所が、当初の樅の木畑から、突如、二九街区に建築中の○○マンションの中に変わってしまっている。④殺害方法も、しばらくは被害者の首に右腕を巻きつけてしめたと述べていたが、後には、右腕を首にまわして引きずった後しめたなどと述べ、また、後にみるように衣類や紐でしめた可能性を認める供述もしている。⑤死体を埋めるのに使用したスコップについては、前記のように持ち出したともいうが、T事件で使用したものを使ったとも供述する。そして、埋めるにあたり被害者を全裸にしているが、その手順もあいまいで、殺害場所から埋没場所へ死体を運搬する状況もその都度変わる。⑥スコップの処理法、被害者の着衣、所持品の投棄場所や方法に至っては、後記のように実に千変万化である。⑦馬橋から帰って行った先も、姉方、妹方、あるいは、どちらかはっきりしない、などと、その都度述べることが変わっている。そのほか、前日までの警察の取調べに対しては、当日の服装は、ジャンパー、作業ズボンにゴム長靴姿といっていたものが、翌日の検察官の取調べでは、急に、背広に革靴姿で行った、と供述を変えたりなどしている。
(3) 右は、「第四期間」までの自白についてみたのであるが、「第五期間」の自白を加えて比較してみると更に変転は激しく、その他、多くある細かな食い違いを含めると、被告人の自白内容は、変転極まりないといわざるをえない。
以上のように、被告人の自白は、肉付けされるべき具体的行動についての供述が変転しているのであって、一貫性があるとは到底いうことができない。
(二) 自白には、自白それ自体あるいは客観的証拠に照らして、不自然・不合理な点があり、また、真犯人であれば言及しているはずの事柄について供述がないこと
被告人の自白は、右のように重要な内容を含め変化しているが、その結論的な骨子は、①犯行当夜、馬橋へやって来て、馬橋駅付近で被害者をみつけ後をつけたこと、②三五街区付近の中央大通りでつかまえ、刃物で脅かして二九街区の建築中の○○マンションの三階に連行し、そこで床にセメント袋を敷き、同女をそこに座らせた上押し倒して強姦し、終った後三〇分くらい話をし、再度強姦したこと、③泣いている被害者を送って行く途中、人が来るのをみて逃げようとしたので、口を押えて樅の木畑に連れ込み、首に腕をまわしてしめて殺害したこと、④続いて、死体を全裸にして、四〇街区まで運び、スコップで穴を掘り土中に埋めたこと、⑤同女の着衣及び所持品等を他に捨て、夜遅く現場から立ち去った、というものである。
しかしながら、これについては、次のような不自然・不合理な点があるとともに、言及していない事柄がある。
(1) まず、強姦の状況について、被告人は、ビルの建築途中の粗コンクリート床にセメント袋を敷き、そこに被害者を押し倒して強姦したというが、刃物で脅迫したため、嫌がってはいたものの、行動としてさしたる抵抗を受けた状況は述べていない。また、殺害の状況も、腕で首をしめたという程度で強い抵抗を排除した状況はほとんど窺えない。
しかし、証拠によると、被害者の死体には、左後頭部、右後頭部前界、左口角、上口唇、右腋窩前面及び後縁、左右肩胛部より左右肩胛下部、左臀部、左内肘部、左前腕部、右前腕部、右手背部、左大腿部、左前膝部、左下腿部等に、生前に鈍器の打撲あるいは圧迫等により形成されたとみられる大小の皮下出血が多数みられ、被害者は、生前、相当に抵抗したとみられる。被告人の供述に、こうした重大な傷害を発生させるような状況がほとんど出てこないのは不自然である。
(2) 被告人の述べる被害者殺害方法は、昭和四九年一二月二一日に担当検察官が被害者の死体解剖に当たった鑑定人木村康に対する事情聴取を行うまで、一貫して被害者の首を腕でしめたというものである。また、右事情聴取の結果、紐状のものによる絞殺である可能性が高いことが確認されてからは、「道路からモミの木畑にあがるとき右腕に力を入れたのでそのところで女がぐったりし死んだと思いました。……引きずり込んでから女の着ていた衣類をつかんでそれで首をしめました。」(同月二三日付け員面調書)、「紐が……女の首に巻きついて引っぱった気がいたしますが、私が気が付いたときには女の首に私の右腕が巻いて絞めていた。」(同月三〇日同)と、絞殺の可能性を肯定する供述もするが、基本的には首を腕でしめて扼殺したというのである。
しかし、右木村鑑定及び当審において鑑定人石山昱に命じて行なった鑑定結果等によると、死体には、頸部に幅の広い紐状物が強く絞圧した痕跡が存在し、頸部の軟部組織内に出血が存し、舌骨の大角部には骨折が認められ、肺臓には鬱血、眼瞼結膜に鬱血点がみとめられるところから、死因は、絞頸絞圧による急性窒息死であると認められ、殺害方法は、頸部に残る痕跡の状況等から推して幅三センチメートル前後の索状物によって緊縛あるいは絞扼されたものと推認される。もっとも、木村鑑定では、被害者の右頸部に二条の蒼白帯が認められ、これが索条痕であるとし、これを絞頸の根拠であるとして、絞頸の交差部は右頸部としているのに対し、石山鑑定では、右頸部の蒼白帯は索条痕とは断定できないとし、右頸部の損傷を吉川線であるとし、また、左後頸部の茶褐色の変色部に注目して、左後頸部が交差部であるとして見解が対立しているが、いずれにせよ、紐状のものによる絞殺である可能性が高い。したがって、右被告人の供述とは齟齬が甚だしく不合理といわざるをえない。
ちなみに、「第五期間」における自白においては、スカートの吊り紐でしめたとの供述もあるが、その最終形では、先ず右腕で首をしめ、ひるんだところを吊り紐を首に巻いてしめつけて引っぱり、なおもわめくので、紐を離して右腕をまた首に巻きつけ二〜三分くらい強くしめつけたというもので、いかにも妥協的供述の感じが拭えないばかりか、結局は、扼頸により殺害したというもので、客観的証拠と整合性を欠くことに変わりがない。
(3) 次に、犯行の経過と犯行後の所要時間については、被告人の述べるところを昭和四九年一二月三〇日行なわれた現場検証の結果(昭和五〇年二月二〇日付け検証調書)と照合してまとめると、被告人は、右被害者を馬橋駅付近で発見し、駅から約五〇〇メートルある現場付近まで被害者とは経路を変えて追跡した上、捕捉し、脅迫して二〇〇メートル近く連行して強姦現場の○○マンション三階に連れ込み、そこで二回にわたり強姦をし、その間三〇分ほど被害者に話しかけたりし、その後、被害者についてマンションを出て歩いていたところ、途中、被害者が人の来るのをみて逃げようとしたため口を押えて樅の木畑に連れ込み、首に腕を回してしめて殺害し、その死体を全裸にした上、一〇〇メートル以上も死体を運び、スコップで死体が埋るほどの穴を掘ってこれを埋め、近くに傘を隠し、遠く離れた事業地の北東端の新坂川の土手に定期券入れ等を捨ててから、終電車の電車(当審における事実取調べの結果によると、終電は午前零時一三分である。)で馬橋から北千住に帰った、というのである。
また、「第五期間」に入ってから、被害者の着衣等が事業地南端を東から西に流れる排水溝において発見されたが、サロペットスカート、パンティーストッキング及び靴等がビニール製雨用ズボンの腰部に入れられ、しかも、サロペットスカートは、胸当てと吊り紐一本が強い力で引っ張られて分断され、また、Tシャツ、スリップ、ブラジャー、ナプロンなども小さく引きちぎられているので、右の行動に加えて、こうした処理や処分行為もしたことになるはずである。
ところで、被害者は、馬橋駅西口造成地内のマンションに同僚らと居住し、同駅から国鉄常磐線などを利用して通勤していたが、昭和四九年七月三日は、勤務後、都内浅草で行なわれた職場のボーリング大会に参加した後帰途につき、途中、国鉄北松戸駅で下車して同僚の住むマンションに立ち寄り、午後九時四五分ころ、同僚と別れて一人で北松戸駅に向かったあと行方不明となった。しかし、同女の性格や日頃の行動から推して、右駅から直ちに電車に乗り、同日午後一〇時七分過ぎころ、馬橋駅に下車したものと推測される。
右によると、被告人は、この時刻以後に犯行を開始したことになるが、かなりの距離を移動した上、二回にわたり強姦行為に及び、しかもこのとき三〇分以上話し掛けて時間を費やしている。また、死体を全裸にし、スコップをさがした上、穴を掘ってこれを埋めているが、そう簡単な手順や作業とは思えず、多少の時間では間に合わず、相当の時間を要したはずである。しかも、着衣などを引き裂くなど手を掛けた上で包み、更に、着衣等は全体で六一街区もある広い事業地の南側に捨て、定期券入れ等は逆方向の北東端へ投棄するなど、わざわざ遠く離れた場所に別々に処分しているので、更に時間を要したはずである。それでいて終電に間に合い、しかも、その前の電車に乗ったというのであるが、物理的・時間的に、このようなことが可能か疑問があり、不自然・不合理である。なお、その故か、「第五期間」の供述ではタクシーで帰ったことに変わっている。
(4) 証拠上、被告人と被害者との間には全く接点がなく、被告人が犯人であるとすれば、被害者を発見してから犯行を決意した、行きずりの偶発的犯行ということになるが、かような犯行において、なぜ、被告人が証拠の隠滅にこのように時間と手数をかけ、危険を冒したか、被告人の供述からはその理由が全く不明である。
(5) 自白では、被告人は、被害者を連れて歩いたり、被害者の死体を抱えたり、あるいは単身で、事業地内をかなり広く動きまわっているところ、本件事業地は造成途中の人家のまばらな土地造成地とはいえ、被害者の住むマンションがあったように、人通りはあったと考えられる。現に、当夜、先に帰宅した同室の同僚らは、被害者がなかなか帰宅しないため、午後一〇時二〇分ころ馬橋駅まで迎えに出て、更に、同僚間で連絡を取った上、駆けつけた勤務先上司とともに、午後一一時過ぎから翌四日午前五時ころまで、馬橋駅西口の造成地一帯や四一街区の工事中の国分マンションなどを熱心に探しまわっているのである。
被告人は、○○マンションに連れ込む際や、殺害のきっかけとして、人が通りかかった状況を述べているが、それ以上のことは述べておらず、人の気配に気をくばり、気づかれるのを恐れた状況はまるで感じ取れない。確かに、当時は、暗く、しかも曇りで霧がかかっていたが、それにしても、被告人の述べる行動状況は、大胆かつ不用心すぎて現実味に乏しく、不自然・不合理である。
(6) 被告人は、右のように犯行の全容の大筋を述べているのであるが、着衣等を寸断して雨用ズボンに入れて投棄した事実とその理由については全く供述していない。この事実は、すでに自供した重大な犯行事実に比較して、特に秘すべきほどの事柄ではないように思われる。また、被害者は、行方不明当時、手提げ袋等を所持していたはずであるが、その処分についての供述は変遷があり、発見に結びつく供述をしていない。これらは実に不可解である。
(三) 自白は、変転が甚だしいが、捜査の進展、それに伴う取調官の認識や心証の変化に応じて内容が変わっていること
原判決は、被告人が供述を変転させ、犯人なら言及してよい事実について供述していないのは、U事件について捜査と公判初期の段階では認めていながら理由なく否認に転じたこと、公判で認めているI方の窃盗事件について、窃取後の退路や賍品の処分先及び処分方法について供述を渋ったり変転させていること、基本的に争っていないN事件についても捜査当初は否認しており公判でも不可解な弁解をすること、等を根拠に被告人の性格及び供述傾向ないし供述態度に由来するとしている。
しかしながら、被告人の供述の変転をよく検討してみると、むしろ捜査の進展に関係しているとみられるものが多い。
その一部を挙げてみると、
(1) 強姦の場所について、被告人は、警察の取調べに対し、昭和四九年一一月二二日の最初の自白から同年一二月一〇日付けの員面調書までは、ほぼ一貫して、三五街区の樅の木畑内に連れ込み、そこで強姦したと供述していた。ところが、同月一六日付け員面調書からは、突如、その場所が二九街区の建築中の○○マンションの中に変更され、以降は、検察官に対する供述を含めてここが強姦場所とされている(ちなみに、「第五期間」の供述も同じである。)。そして、記録を精査すると、同月一〇日付けで「七月三日の松戸市内の気象状況の捜査」と題する司法警察員作成の捜査報告書が作成され、また、同月一六日付けで気象庁予報部長からの気象照会についての回答があったことが認められる。そして、これら資料の内容は、犯行当日、現場付近では午後から夕方にかけて雨が降っていた事実を証明するもので、捜査官らに対し、当時、樅の木畑は土が濡れており、こうした場所で強姦するのはいかにも不適当であるとの認識を抱かせたとみられ、被告人の供述の変化は、右捜査の進展と時期的に対応している。
(2) 被害者殺害の方法について、当初、被告人は、ほぼ一貫して、腕でしめて殺した、扼殺と供述していた。ところが、突如、昭和四九年一二月二三日付け員面調書において、「腕でしめて死んだと思ったが、更に、女の着ていた衣類をつかんで首をしめた。」旨の絞殺の可能性を否定しない供述がなされ、同月二八日付け検面調書では、検察官の「スカートの紐かなにかで女の首を絞めた記憶はないか。」との問いに対して否定したものの、同月三〇日付け員面調書では、「紐が女の首に巻きついて引っぱった気がする。」旨を述べている。更に、「第五期間」に入り取調べが大矢班から安藤班に替わると、スカートの吊り紐でしめたことが供述の基調に変わっている(もっとも、再び大矢班の取調べに戻ると、「紐でしめたが、なおわめくので、紐を離して右腕を巻きつけて二〜三分強くしめつけた。」と逆戻りしてしまう。)。
ところで、担当検察官は、昭和四九年一二月二一日午後に、被害者の死体解剖に当たった鑑定人木村康を訪ねて事情聴取し、その結果、殺害の方法は、紐とかバンドで絞めた可能性が一番強いことを聴きとり、それまでの被告人の自白と齟齬することを知り、翌日、わざわざ千葉地検次席検事に対して自白と矛盾する旨の報告までしている(なお、木村鑑定人の鑑定書の作成は遅くなり、昭和五一年七月六日付けで作成されている。)。
したがって、被告人の右供述の変化は、検察官の事情聴取と時期的に相対応する。
もっとも、解剖の際は警察側係官が立ち会い、昭和四九年八月一二日付けで「死体解剖鑑定立会結果について」と題する報告書を作成している。しかし、その内容は、主として解剖所見を記録したもので、死因については、「絞死」とし、その理由として、前頸部より右側頸部に幅二センチないし三センチの索溝様痕跡があり、舌骨左(右の誤り)大角骨折があるなどと記しているにすぎず、取調べの捜査官らは、殺害方法につき、検察官の事情聴取までは十分な認識を持ちえなかった可能性がある。
(3) 被害者の着衣の投棄方法については、「第四期間」までは、「セメント袋につめて番線でしばり埋めた。」、「茶色紙袋につめて埋めた。」などと述べていた。ところが、「第五期間」に入って昭和五〇年二月一〇日に、事業地南側の排水溝から、着衣等がビニール製雨用ズボンに包まれて発見されるや、以降は、「国分マンションから持ってきた雨合羽ズボンにつめ、マンホールに捨てた。」と、雨合羽ズボンに言及する供述をしている。
(4) また、「第五期間」に入り、取調班は安藤班に替わったが、同班は、事業地南側の排水溝の再捜索を強く進言するなど、着衣の投棄場所は同所であるとの心証を抱いていたと認められるところ、被告人は、安藤班の取調べに対し、「衣類はストッキングでしばり紙袋に入れて、樅の木畑から南の方にいった下水溝の中に捨てた。」と供述するに至っている(昭和五〇年一月二〇日付け員面調書)。
(5) 被告人は、「第四期間」までは、一貫して、犯行後は終電前の電車で馬橋を立ち去ったと述べ、昭和四九年一二月一七日付け検面調書にあっては午後一一時四〇分か五〇分ころの代々木公園行きとまで具体的に述べていた(当審における事実取調べによると、午後一一時三六分発の右電車が存在すること、また、北千住へ行く上りの終電車は、午前零時一三分であることが認められる。)。それが、「第五期間」の供述になると、唐突に、電車ではなくタクシーを拾って帰ったことに変わっている(昭和五〇年一月二〇日付け員面調書)。
ところで、被告人の自白と発見された証拠物等を総合すると、前記(三2(二)(3))のように、犯行の経過と犯行後の所要時間については、相当の時間を要し、被告人の述べる電車はもとより、終電にも間に合わないのではないかとの心証を抱かせるものである。右のタクシーの突然の登場は、こうした取調官の心証に対応するとみることができる。
(6) 被告人の当夜の帰宅先は、当初は、姉方、妹方と揺れていたが、昭和四九年一二月二九日以降は姉方になり落着している。これは、同月二〇日前後にこれら関係者に対する事情聴取が行われているので、こうした捜査結果が反映した結果とみることができる。
(7) その他、被害者が下りた歩道橋の階段、追跡コース、被害者の財布から抜き取った金額などが、大矢班の取調べと安藤班の取調べとでは露骨に変わっている。これは、両者の心証の差異が反映しているとみることができる。
以上のように、被告人の自白は変転が甚だしく、警察の取調べでも、取調班が変わると供述内容が変わったり、同じ取調班に対するものでも変わっているが、捜査の進展、それに伴う取調官の認識、心証の変化、対立との絡みで供述の変転を眺めると、被告人の供述の変転は、被告人が殊更虚言をろうしたというよりも、取調官から強く示唆を受け誘導された結果とみるのが素直な見方であると思われる。
(四) 検察官の取調べでは、警察での取調べと供述内容に違いのあるものがあるが、これは、検察官側の態度を反映するとともに警察での取調べの厳しさを示していること
被告人の供述状況には、警察における取調べと、検察官に対するものとでは、次のような違いがみられる。
(1) 被告人は、昭和四九年一二月一六日付け員面調書では、事件の大筋について述べ、①凶器として果物ナイフを持って行ったこと、②被害者に対し、これを左手にもって突き付けて脅したこと、③後ろにまわり右手を女の右肩にかけ刃物を背中に突き付け押すように連行したこと、④死体を埋めるのに使ったスコップは一〇街区の草むらに埋めたこと、などを供述していた。ところが、翌一七日、宮田事件について、検察官から初めて本格的な取調べを受けるや、同じく大筋を述べながら、①凶器は果物ナイフではなく包丁を二八〇〇円くらいで買って持って行ったこと、②刃物は右手に持ち顎の下辺に突き付けて脅したこと、③相手の左手を自分の左手でつかみ包丁を突き付けながら連行したこと、④スコップは新坂川に捨てたこと、など、所持した刃物の種類、脅迫の態様、連行方法、スコップの処理法などについて、全く違う内容の供述をしている。
(2) また、被告人は、警察の同月二六日までの取調べに対して、犯行当日の服装は、ジャンパー、作業ズボンにゴム長姿であることを前提に供述していたが、翌日の同月二七日に千葉地方検察庁松戸支部において検察官の取調べを受けるや、急に、新品の背広を着て革靴を履いて行ったと供述を変え、また、検察官の尋問に答えて包丁を所持して行ったことを否定する供述をしている。
(3) 被告人は、同年一一月二二日宮田事件について自供してからは、警察の調べに対しては供述を変転させることはあっても否認はしていないが、同年一二月三〇日の検察官の取調べに対して、同年一一月三〇日に被告人の指示により傘が発見されたことや同年一二月四日に被告人が定期券入れ等を捨てた場所を指示したことを否定し、「俺はコウモリを捨てた覚えがないのです。だけど捨てないというと又帰って警察の人に怒られるかもしれないし、困ってしまうなあ。」などといい、「女の持ち物の中にガマ口や定期入れのあるのを知りませんでした。」と、これらを否定する供述をしている。
(4) 被告人は、「第五期間」の昭和五〇年に入っても警察の取調べに自白を続けていたが、同年一月二三日に別の検察官から否認に仕向ける取調べを受けた際(前記「ゆさぶり」のための取調べ。)、「お通夜やらなきゃならんもん。」とか「身体が持たない。」などといい、警察の扱いを気にして自白をひるがえすのを躊躇していたが、警察へは内緒にするといわれ、ようやく否認に転じている。
こうした供述態度の差異は、検察官側が、宮田事件による逮捕の際に警察に再考を求め、被害者の傘や定期券入れなどの証拠物が発見されたのに、一旦は起訴を見送って釈放し、その後、警察による証拠物発見現場への工作を恐れて事務官を巡回させるなどしたことを考慮すると、警察の捜査に懐疑的な態度をとる検察官側の事情を反映したともみられる。また、被告人は、警察の取調べに対しては、供述内容を変遷させることがあっても否認の供述まではしていないのに、検察官に対しては、右のように、警察での供述を簡単に変えるばかりか否認に転じたこともあり、被告人の自白は、警察での厳しい身柄拘束と取調べの結果なされたものであるとの疑いが消し難く、本人の記憶とは無関係に、取調べる側の意向ないし心証に応え、無原則に迎合した結果とも考えられる。この点からも、自白の変転を、被告人の性格などに帰せられるものか疑わしい。
(五) 被害者の傘、定期券入れ、着衣等が発見されたことは、秘密の暴露と評価することができないこと
原判決は、被告人の自白に基づき、被害者が行方不明当時着用ないし所持していた傘、定期券入れ、着衣等が発見されたとして、これを秘密の暴露と評価できるとし、自白の信用性の決め手としている。
しかしながら、次のように秘密の暴露と評価することはできない。
(1) 傘の発見について
被害者は、行方不明当時オレンジ色の洋傘を所持していたと認められるところ、同一物とみられる傘が、昭和四九年一一月三〇日午後、取調班からの連絡を受け、場所を指示されて探すよう依頼を受けた警察官らによって、二六街区南西角の有蓋側溝の中から発見されたとされている。
大矢房治をはじめ捜査関係者の証言によると、右傘発見の経緯は、同日午後、被告人が看守者を通じてメモを差し出し取調べを求めたので取調べたところ、図面を作成した上、場所を指示し、「赤いこうもりだよ。」とまで述べたことなどから信憑性を感じ、現場近くにいた捜査員に指示して二度にわたり探させた結果ようやく発見したというのである。
しかしながら、被告人は、その図面につき、公判廷においてのみならず、すでに捜査中から検察官に対し、取調官に誘導されて書いたもので、傘が発見されたのは被告人の指示によるものでないと弁解している(昭和四九年一二月二九日付け検面調書等)ばかりか、右図面には被告人の署名・指印もなく、供述調書も作成されていない。また、発見されたとき、被告人は、その場に立会いの機会を与えられなかったのみでなく、翌日の検証の際にも、すでに発見された事実を知らされないまま現場に同行され、指示させられている。
また、捜査本部は、発見の翌日、同年一二月一日午前に、発見現場において検証を実施しているが、その際、事前に、担当検察官に対し、県警捜査一課長を通じて、被告人が重大事項を指示するからとその立会い方を要請しながら、その傘発見という重大事項の内容には具体的に言及せず、しかも、作成された検証調書には、検証当日に初めて発見されたように虚偽の記載がなされ、立会した検察官は、前日に発見されていた事実については、かなりときが経って関係者の取調べから初めて知った有様であり、発見の経緯には理解しがたい不明朗な事実が多すぎる。
しかも、右傘発見の場所は、死体発見の場所からは直線で約205.6メートルの場所で、本件事業地においては、昭和四九年八月八日に四〇街区で本件宮田春子の殺害死体が発見され、同月一〇日には一四街区でTの埋没死体が発見されており、捜査関係者の証言及び捜査の常識からみて、被害者が行方不明になった直後(昭和四九年一一月二六日付け「自供に基づく宮田春子の着衣の捜査について」と題する書面によれば、同年七月八日に死体発見現場付近のマンホールは捜索済となっている。)、遅くとも死体発見以来、現場付近についてしらみつぶしに捜索が行われたはずの場所である。
以上の事情に鑑みると、警察が事前に発見していて、被告人の指示に基づいて発見したかのように作為したとまでは断定できないにしても、少なくとも、被告人の指示に基づいて初めて本件傘が発見されたと認めることはできないのである。
(2) 定期券入れ、財布の発見について
昭和四九年一二月四日に、松戸市馬橋一四六三番地の一先の新坂川の富士見橋近くの東側土手において、被害者の所持していたと認められる定期券入れ(期限切れの定期券、身分証明書、メモ紙片在中)及び黒色エナメル製財布(在中品なし)が発見されている。
その発見の経緯は、捜査関係者の証言によると、被告人が前日にスコップや被害者及び被告人の着衣を一二街区ないし一三街区に埋めたと供述し説明図面を作成したため、当日早朝から、被告人を同行して捜索を行なったものの、発見されなかったので、捜査員が被告人をなじったところ、被告人は、新坂川の堤防にT事件やO事件のものと一緒に宮田事件の身分証明書、定期券、財布などを捨てたといったため、一二街区の捜索と同時に新坂川の土手を捜索したら、午前一〇時二二分ころ定期券入れが、同一一時五〇分ころ財布が発見されたというのである。
しかしながら、右発見の際は、被告人は、すでに印西警察署に戻されていて立会っておらず、また、当日待機していた検察庁関係者も立会っておらず、担当検察官も事後に報告を受けただけである。その上、立会いのため臨場を求めていた松戸市職員も帰してしまっていて、いたのは捜査員と、捜査員が騒いだのを現認した新聞記者のみであった。
しかも、被告人は、公判においてのみならず、捜査段階から、検察官に対し、指示したこと自体を否定する供述をしている経緯も認められる(同年一二月三〇日付け検面調書)。そして、現場付近は、O事件の現場に近いこともあってすでに捜索がなされたとみられる場所である。
右のようなことを考えると、傘の発見の場合と同様、少なくとも、被告人の真摯な指示に基づき発見されたと認めるのは躊躇されるところである。
(3) 着衣等の発見について
「第五期間」に入り、当時、被告人の取調べに当たっていた安藤班の申入れにより、事業地南側を東から西に流れる排水溝について大掛かりな捜索をした結果、昭和五〇年一月二一日午後三時三〇分ころ、被害者が着用していたとみられるサロペットスカートの吊り紐が発見され、次いで、同年二月八日から再開された捜索の結果、同月一〇日午後一時三一分ころ、右サロペットスカートのほか、パンティーストッキング及び靴などがビニール製雨用ズボンの腰部にいれられた状態で発見され、続いて、同日午後三時二〇分ころ、その近くでサロペットスカートの胸当て部分が発見された。
原判決は、右発見は、「第五期間」の昭和五〇年一月一一日以降の指示供述がその直接的契機となっているが、それに先立って「第四期間」の昭和四九年一二月二〇日と翌二一日に、それぞれ図面を書き、同月二〇日には手配まで作成した上で現場に案内したことがある点を指摘し、着衣等の発見は右指示の結果と評価できるという。
しかしながら、これら着衣等の捨て場所についての被告人の供述は、「死体を埋めた場所近くの草むらを掘って埋めた(三四、三五街区辺り)」(同年一一月二二日付け捜査報告書、同日付け被告人作成見取図、同月二三日付け捜査報告書)、「手賀沼に捨てた」、「小菅の川に捨てた」、「造成地内のマンホールとどぶ川に捨てた」(同月二五日付け同)、「二一街区の造成地に隠した」(同月二六日付け同)、「馬橋の陸橋の下のどぶ川(新坂川)沿いの道を東京の方に一〇〇メートルくらい行った泥の中に捨てた」(同月三〇日付け同)、「新坂川下流の川ぶちの水の中へ埋めた」(同年一二月一日付け同)、「一二街区に埋めた」(同月三日付被告人作成の図)、「新坂川の東側土手に捨てた」(同月四日付け引当り報告書)、「新坂川の富士見橋上流の東岸に捨てた」(大矢証言中の同月八日の取調べ)、「どぶ川の淵に埋めてある」(同月九日付け員面調書)、「新坂川の西側土手」(同月一〇日付け員面調書添付図面)、「一〇街区の草むらに埋めた」(同月一六日付け員面調書)、「広い道の道路脇(一〇街区)の草の生えていた所」(同月一七日付け検面調書)、「三三街区に×印」(同月一八日付け員面調書添付図面)、「四四街区南側排水溝×印」(同月二〇日付け被告人作成図面。なお、同月二一日付け被告人作成の図面だけでは同排水溝かは明らかでない。)、「国分マンション東側の草むら内」、「三三街区西側道路にあるマンホール」、「同街区南方を東西に流れる下水溝で、板を蓋してあるところ」、「都内の綾瀬の川へ捨てた」(同月二二日付け「甲の供述内容からみた性格について」と題する報告書、ただし前記のものと重複)、「栄町の盛土のよしの木の中に埋めてある」、「板張りの下水溝の板二枚はずれるところ」(同日付け「宮田春子事件の被害者の着衣の捨て場所について」と題する同)、「五街区の下水溝につながるヒューム管の中に投げ込んだ」(同月二六日付け員面調書)、「どぶ川の土手に一緒に捨てたのが本当」(同月三〇日付け員面調書)などと、実に多彩な場所を指示している。
原判決は、昭和四九年一二月二一日当時の指示が、被告人の態度等から真情あふれるものと評価しているが、右にみるように、その後も、別の場所の指示すらしているのである。
しかも、昭和五〇年一月二一日、吊り紐が発見された際は、被告人は、同日午後三時五分ころ現場に同行されていたが、約一〇分くらい捜索に立会させられた後には印西警察署に帰されており、直後の同三時三〇分ころに紐が発見されたときは立会っていなかった(担当検察官も現場に来ていなかった。)。また、同年二月一〇日、雨用ズボンに包まれた着衣等が発見されたときも、被告人及び担当検察官らは一旦現場に来ていたが、かんじんの発見された際には、被告人は、捜査一課長の指示で被告人がかつて着衣等の捨て場所として指示したことのある新坂川へ連行されており、検察官も警察の要請でこれに同行していたため、両者とも立会しておらず、もとより目撃していなかった。そして、被告人は、発見直後の検証の際、はっきりと確認の意思表示はせず、その後、同月一七日に検察官が取調べを行なった際には、これら品物を投棄した事実を否認した経緯がある。のみならず、本件事業地については、被害者の行方不明直後から捜索がなされ、とりわけ、昭和四九年一一月二九日には、吊り紐の発見された場所を含む本件排水溝とこれに続く暗渠下水溝について、かなり念入りな捜査が行なわれた事実があり、その後も付近について捜索がなされている。
右のようなことを考えると、着衣等も被告人の真摯な指示に基づき発見されたと認めるのは躊躇されるところである。
なお、被告人は、被害者の着衣等はセメント袋に入れて処分したと述べていたところ、昭和五〇年二月一〇日に発見されたサロペットスカート、パンティーストッキング及び靴等は、ビニール製雨用ズボンの腰部に入れられた状態で発見された。しかも、右着衣のうち、サロペットスカートは、胸当て部分と吊り紐一本が強い力で引っ張られ分断されており、また、Tシャツ、スリップ、ブラジャー、ぶどう絵入りナプロンなどは、外力によりばらばらに分断され喪失した部分もあったが、こうした状況は、被告人の供述から窺うことのできなかったものである。
以上のように、被害者の所持品や着衣等が被告人の指示により発見されたというにしては、いずれもその指示状況が確たる供述調書などで裏付けられていないのみならず、四回も機会のあったいずれの場合も、現に発見されたときには、被告人が立会・目撃していないという事実は、単に偶然の一致だとして看過できないと思われる。しかも、発見された着衣等の状況が、被告人の供述から窺えないような特異な状態であったこと等の事実に鑑みると、これら証拠物が被告人の指示に基づいて発見され、したがって秘密の暴露に該当するとは、到底評価することができないというべきである。
(六) 自白の内容に客観的事実に符合するものがあるとしても、自白の信用性を担保するとはいえないこと
原判決は、被告人の自白内容には客観的事実に符合するものがあるとして、被害者を追跡中に通りかかった小さい家に電気がついていて人影が見えたことや被害者を連れ込んだ○○マンション三階の床の様子及び窓からの景観等が客観的証拠で裏付けられ合致したこと、被害者を初めて発見したとき、被害者が歩道橋上で三分くらい見回していた情景などが、被害者の行方不明の状況や被害者の性格等に照らし臨場感があることなどを挙げている。
しかしながら、これらのことは、既に検討した事項に比較すれば瑣末すぎる事柄である上、取調官は捜査によって当然知りうるとともに、被告人も既知体験あるいは想像により述べることのできる程度のもので、これが信用性を担保するに足りるものでないことは明らかである。
以上検討したところを総合すると、被告人の宮田事件に関する「第三期間」及び「第四期間」における自白の信用性には多大の疑問があるといわざるをえない。
四 アリバイについて
弁護人は、被告人には、宮田事件についてアリバイが成立するとしてるる主張するが、原審記録を精査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討しても、被告人及び関係者の供述の信憑性には疑問があり、弁護人のいうところを十分勘案しても、被告人につき、アリバイの存在を証明するに足りる証拠はないとする原判決の判断に誤りはなく、論旨は理由がない。
五 結論
当裁判所は、当時の捜査・取調べ状況を明らかにするため、当審においてあらためて捜査関係者の証人尋問を行ない、また、原判決が「未だ解明されておらず不明な点」としている、発見された被害者の着衣の寸断・損傷の成因を明らかにするため鑑定をし、また、殺害方法に関して新たに鑑定を命じ証人尋問を行なった。しかし、その結果は、新しい知見を加えるものはほとんどなく、その意味で、原審の審理には審理不尽のかどはないといえる。
しかしながら、右に検討したように、宮田事件に関する被告人の自白は、原審判決が排除した「第五期間」のものだけでなく、「第三期間」及び「第四期間」のものも、その任意性に疑いがあるばかりか、その信用性にも多大な疑問があると判断される。
したがって、宮田事件につき、被告人の自白に任意性、信用性を認め、判示第四ないし第六の各事実を認定している原判決には、訴訟手続の法令違反があり、また、同事件に関しては、多くの証拠が存在しているものの、被告人の自白を除くと、被告人と犯行とを結びつける証拠は皆無に近く、宮田事件を被告人の犯行と断定した原判決には事実誤認があり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。
弁護人の論旨はこの点で理由がある。
第三 破棄・自判
以上のとおり、原判示第四ないし第六の各事実(昭和五〇年三月一二日付け起訴状にかかるもの)に関しては、判決に影響を及ぼすべき訴訟手続の法令違反及び事実誤認があるとの控訴趣意には理由があるところ、原判決は、判示第一ないし第六の各事実を刑法四五条前段の併合罪であるとして、これに一個の刑を科しているから、原判決は、結局、全部の破棄を免れない。
よって、刑事訴訟法三七九条、三八二条、三九七条一項により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により更に被告事件について判決する。
(罪となるべき事実)
第一 原判示第一の事実と同一である。
第二 原判示第二の事実と同一である。
第三 原判示第三の事実と同一である。
(累犯前科)
原判決認定の累犯前科①②記載のとおりである。
(法令の適用)
被告人の判示第一の所為は、盗犯等の防止及び処分に関する法律三条、二条前段(刑法二三五条)に、判示第二及び第三の各所為中、各住居侵入の点は刑法一三〇条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に、各強姦の点は刑法一七七条前段に、各該当するところ、各住居侵入と各強姦との間にはそれぞれ手段結果の関係があるので、同法五四条一項後段、一〇条により、それぞれ一罪として重い各強姦罪の刑で処断することとし、前記の各前科があるので同法五九条、五六条一項、五七条により同法一四条の制限内で三犯の加重をし、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により最も重い判示第一の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をし、その刑期の範囲内で被告人を懲役六年に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数のうち、右刑期に満つるまでの分を右刑に算入し、原審及び当審における訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。
(一部無罪の理由)
本件公訴事実中、昭和五〇年三月一二日付け起訴状にかかるものは、
「被告人は
第一 昭和四九年七月三日午後一〇時ころ、松戸市馬橋国鉄馬橋駅西口土地区画整理地三五街区五号先路上を歩行中の宮田春子(当一九才)を強いて姦淫しようと決意し、所携の刃物を同女に突きつけて『騒ぐな。騒ぐと殺すぞ。』などと申し向け、右刃物を突きつけながら同所から同区画整理地内二九街区二号の建築中の○○マンション三階に連行して、同所において同女に対して『やらせろ、騒ぐと殺すぞ。』と申し向けて脅迫し、同女を仰向けに押し倒し、その反抗を抑圧したうえ、強いて同女を姦淫し、
第二 前記犯行後の同日午後一〇時四五分ころ、右宮田春子とともに前記三五街区五号付近路上にいたるや、同女が助けを求めて駆けだそうとしたので自己の前記犯行の発覚をおそれ、とっさに同女を殺害しようと決意し、後方から右腕で同女の頸部を絞めたり同女の着用していたサロペットスカートの吊り紐を同女の頸部に回して絞めつけたりしながら同整理地三五街区四号の雑草地内に引きずり込み、よって、そのころ同所で同女を頸部絞扼により窒息死させ、もって、同女を殺害し
第三 同日午後一一時過ぎころ、宮田春子の死体の発覚をおそれ、同死体を造成地内に埋没させようと決意し、同死体を裸にしたうえ前記雑草地内から同区画整理地内四〇街区五号地内の造成地内に運搬し、同所にスコップで穴を堀り、その中に右宮田春子の死体を埋没させてその上から土壌をかけ、もって、死体を遺棄したものである。
というのであるが、取調べた証拠中、被告人の自白以外には被告人と右犯行を結びつける直接的証拠はなく、右自白は証拠能力がないので、結局、その犯罪の証明がないこととなる。
そこで、刑事訴訟法三三六条により主文末項のとおり被告人に対して無罪の言渡しをする。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官竪山眞一 裁判官小田健司 裁判官荒木友雄)