東京高等裁判所 昭和62年(行ケ)108号 判決
第三 争点に対する判断
一 原告は審決の理由の要点1(本願発明の要旨)、2(引用例の記載)を認め、3(両発明の対比についての認定判断)のうち、(一)、(二)(イ)、(三)(ロ)を認め、(二)(ロ)、(三)(イ)、(四)、(五)を争うので、以下に右争点について、順次検討する。
(書証の成立はいずれも当事者間に争いがなく、甲第二号証の一ないし四を総称して「本願明細書」という。)
二 次の技術的事項は、弁論の全趣旨に照らし、当事者間に争いがない。
1 イオンプレーテイング法とは、二極放電管の陽極を蒸発源(金属)とし、基板を陰極として基板の被覆を行う方法で、具体的には、容器内を真空排気した後、アルゴンガスを導入して容器内を一定圧とし、右蒸発物質のフイラメントを通電加熱して蒸発させると蒸発物質はプラズマ中でイオン化し、運動エネルギーにより基板表面に衝突して、被覆膜が形成される。
2 活性化反応蒸着法(ARE法)とは、真空蒸着の一種で通常の電子ビーム溶解の真空蒸着装置において、一定の圧力の反応ガスを導入し、蒸発物質(金属例えばチタン)を電子ビームで加熱溶融し、イオン化電極において、反応ガスがイオン化されてプラズマを通過し両者が結合し、炭化物、窒化物等(例えば炭化チタン)となつて基板に付着し、被覆膜が形成される。
3 反応性イオンプレーテイング法とは、ARE法と同じ方法で基板に被覆膜を形成するものであるが、基板を陰極にする点で異なり、イオンプレーテイング法とは基板に電極を形成する点では同様であるが、容器に反応ガスが導入され、これと蒸発金属が反応する点で異なる。
4 X線回折法は、金属、化合物の結晶の状態を解明する手段であり、X線(本願発明ではCu―Kα線を使用)を金属、化合物の表面に照射すると、表面から散乱X線が発生し、被照射体の結晶構造、結晶粒度、結晶の乱れ等の結晶の状態に対応した回折曲線が得られ、これにより被照射体の結晶の状態を知ることができる。半価幅とは、右のX線曲線の強度を示す高さの半分の位置における曲線の幅を指し、具体的には右の位置における回折角度(2θ、別紙図面(一)の第2図の横軸)の差により表わす。
三 本願明細書によれば、高速度鋼母材(基板)の表面をⅣ―a族金属(チタン、ジルコニウム、ハフニウム)の炭化物、窒化物、炭化窒化物(いずれの場合も酸素を含んでよい)を数ミクロンの厚さに被覆すると、母材(基板)の靭性と、被覆膜の耐摩耗性を兼ね備え、切削工具として従来の未被覆の高速度鋼よりすぐれた特性を示すことは、本願出願前において広く知られていたが、本願発明の発明者は、被覆膜のX線回折曲線による半価幅の広いもの程デイスロケーシヨン(結晶格子における原子の配列のずれ目)密度が高いとの知見に基づき(但しこの知見が科学的に裏付けられていないことは後に述べるとおりである。)、高速度鋼の被覆膜中のデイスロケーシヨン密度が高いと切削時に工具切刃の被覆膜に発生する摩耗及び亀裂の進行による被覆膜の剥離及び基板の損傷が押えられるものと判断し、前記被覆された高速度鋼の特性を更に向上させる目的で、その発明の要旨に係る構成を採択し、本願発明をするに至つたものであり、その特徴は、被覆膜の形成を反応イオンプレーテイング法により行い、その際、被覆膜(二〇〇面)からのCu―Kα線による回折曲線の半価幅を2θで〇・四度以上としたことにあるものと認められる。
四 構成<1>に係る対比点(二)(ロ)の認定判断について
1 当事者間に争いのない引用例の(イ)の記載及び甲第四号証によれば、引用例の表2には、イオンプレーテイング法又はARE法による鋼材の被覆はその表面硬化用に応用されること、被覆膜と基板の組合せとして炭化チタン(Tic)と鋼材があること、その用途は工具、機械部品であることが記載されていることが認められる。ところで、甲第七号証には、工具の種類として最初に一切削を行うものを刃物(という。)」との記載があり、工具としては切削を行うものが代表的な使用態様として示されているので(また、同号証の「工具送り台」の項の「工具(特にバイト)を保持…」の記載からも、バイト、すなわち切削工具が工具として代表的なものであることが認められる。)、切削用の工具が典型的な工具のひとつであることが技術常識であると認めて差支えない。そうであれば、引用例に用途として単に「工具」とあり特定の工具を排除する記載がない以上、右の「工具」の中には、切削工具が含まれるものと解するのが相当である。また、甲第五号証によれば、切削工具としての鋼材の一種として高速度鋼が含まれることが技術常識であると認めることができる。したがつて、引用例記載の工具としての鋼材には、高速度鋼が含まれるものと認めるのが相当である。
しかして、対比点(二)(イ)について原告も争わない以上、本願発明の構成<1>は引用例に記載されているものと認めることができる。この点に関する審決の判断に誤りはない。
2 原告は、引用例の表2に記載された工具とは機械部品を意味する旨主張するが、甲第四号証によれば、右の表2には用途として「工具、機械部品」と併記されており、そうである以上、引用例においても両者を別異の概念として扱つていると認めるのが相当であるから、原告の右主張は理由がない。また、引用例の第2表には被覆される鋼材として、材質、用途の示されたもの(例えば、軟鋼ボルト)も記載されているのに、炭化チタンの被覆される基板が単に「鋼材」と記載されていることは、原告主張のとおりであるが、それは、その用途として、「工具、機械部品」と広範囲に記載されており、かかる用途に供される鋼材は各種あることが予想されるため、基板を「鋼材」という上位の概念で記載したものと認めるのが相当であるから、右の記載から直ちに鋼材の用途、材質が不明であると断ずることはできない。更に、原告は、引用例の六九頁に記載されたイオンプレーテイング法、ARE法による被覆膜の応用の可能性に関する(1)ないし(6)の事項と表2の記載と整合しない旨主張するが、前記のとおり表2から引用例には切削工具としての高速度鋼の記載を認め得るのであり、右主張がこの認定を覆えすに足りるものではない。
五 構成<2>に係る対比点三(イ)の認定判断について
当事者間に争いのない引用例の(ロ)の記載によれば、これに基づいて、反応性イオンプレーテイング法を、構成<1>によつて金属の炭化物、窒化物、酸化物により被覆される高速度鋼のイオンプレーテイング法に適用することは当業者が容易になし得るところと認めることができ、この点に関する審決の判断に誤りはない。
六 構成<3>に係る対比点(四)の認定判断について
1 甲第四号証によれば、ARE法に関し引用例に審決摘示に係る反応のガスの分圧に関する記載があることが認められ、前記二2及び3によれば、ARE法も反応イオンプレーテイング法も、容器内に一定の圧力の反応ガスを導入し、イオン化した蒸発金属と反応ガスが結合し、炭化物、窒化物等となつて基板に付着し被覆膜が形成される点では共通しているから、引用例の10-4Torrの反応ガスの分圧に関する記載により構成<5>の1×10-4~9×10-4Torrの分圧とすることは、その上限、下限に特段の臨界的意義も認め得ない以上、当業者が必要に応じ適宜なし得る反応条件の設定にすぎない。この点に関する審決の判断に誤りはない。
2 原告は、基板を陰極にする点で、反応性イオンプレーテイング法とARE法の違いを主張するが、構成<3>は反応ガスの分圧に関する事項であるから、両法の右のような相違を理由に審決の判断を否定するのは誤りである。
七 構成<5>に係る対比点5の認定判断について
1 構成<5>が引用例に記載のないことは被告も争わないところである。
甲第二号証の四によれば、本願明細書の実施例3では、被覆鋼の被覆膜の組成をチタン、ジルコニウム、ハフニウムとし、雰囲気(反応ガス)をアセチレン、窒素、酸素とし、これにイオン化電圧、基板の加速電圧等を種々組合わせ、反応性イオンプレーテイング法(加速電圧を印加、別表(1)の1、2、6、7、8、10)及びARE法(加速電圧を印加せず、別表(1)の3、4、5、9、11)により形成された各種の半価幅の被覆膜による高速度鋼の摩耗実験を行い、別表(1)の結果を得たことが認められる。これによれば、蒸発物質をチタンとする反応性イオンプレーテイング法による実験例において、被覆膜の半価幅が本願発明所定の〇・四度以上の要件をみたす1、6とこれをみたさない2を対比すると、別表(2)のとおり逃面摩耗、クレータ摩耗のいずれの点においても、前者(本願発明の被覆鋼)の数値が後者に比し低いことが認められる。併わせて、右実験例において、同じイオン化電圧下における本願発明所定の半価幅〇・四度以上の被覆膜を形成する反応性イオンプレーテイング法による事例と、ARE法による事例を蒸発物質ごとに対比すると、別表(3)のとおりとなり、逃面摩耗、クレータ摩耗のいずれの点においても、前者(本願発明の被覆鋼)の数値が後者に比して低いことが認められる(但し、10、11に関してのみは同じである。)。そして、摩耗実験において対比される被覆鋼が切削工具である高速度鋼であることに鑑みれば、本願発明の被覆鋼の摩耗数値の低さは、他の被覆鋼に比し耐摩耗性がすぐれていることを示すものと認めて差支えなく、かように、耐摩耗性の点において本願発明がすぐれた効果を奏し得たのは、本願発明において、被覆を反応性イオンプレーテイング法で行うに際し、被覆膜の半価幅を〇・四度以上とした構成を採択したことに由来するものということができる。
しかして、前記二4によれば、半価幅は、金属、化合物の結晶構造、結晶粒度、結晶の乱れ等広く結晶の状態を示すものであるから、これを〇・四度以上と定めることは、物の発明において欠くことのできない構成要件のひとつとされている構造を示すものということができるのである。
かように、半価幅を定める構成<5>により、本願発明の被覆鋼がこの構成を具備しない反応性イオンプレーテイング法及びARE法により被覆された被覆鋼に比しすぐれた耐摩耗性がもたらされ、他方引用例に全く構成<5>を示唆する記載がない以上(この点は被告も争わないところである。)、引用例より構成<5>を想到することが容易であるとはいえない。
2 この点に関する審決の判断は、結晶の状態とは関わりのない被覆膜形成の条件について論ずるものであつて、引用例より構成<5>の容易推考性を肯定する論拠とはなり得るものではないし、また、「実用上有効な切削機能を示す」との本願明細書の記載も、明細書全体からみて、半価幅〇・四度以上という構成を採択することによつて右のような効果(具体的には耐摩耗性の向上)をもたらす趣旨を記述したものと解すべきであり、半価幅の定めが単なる目安にすぎないとか、後に被告も主張のように発明ではなく発見にすぎないとすることは相当ではない(もつとも、本願明細書に記載されているように、半価幅の大きさがデイスロケーシヨンに起因するものであることについてはこれを認めるに足りる証拠はないが、この点はすぐれた耐摩耗性を奏する半価幅の定めが発明であることを否定する理由とはなり得ない。)。
3 この点に関し、被告は次のように、主張する。
(イ)引用例には、反応性イオンプレーテイング法による被覆についてその切削工具の寿命が著しく向上する旨の記載はないが、究極の目的は反応性イオンプレーテイングの場合もARE法の場合と異なるものではないから、本願発明の反応性イオンプレーテイングの場合も引用例のARE法の場合と同様な結果を示すと推測され、被覆条件において審決の理由の要点3(一)ないし(四)に詳述したように両者に格別差異がない以上、切削性能においても同等であるものが得られるのであろうことは容易に予測しうるところであり、この点にも認定の誤りはない。(ロ)また、反応性イオンプレーテイングによる被覆の特性を表現する尺度として、従来例のない回折X線の半価幅によつて行なうことは、勿論引用例に開示のない事項であるが、このこと自体は単なる発見にすぎず、この点に発明は存在しない。(ハ)さらに、引用例に記載のものも切削性能の向上等その意図するところは本願発明と共通しており、その被覆の生成条件に格別差異がないことは前述したとおりであるから、本願発明においてとくに限定されるような被覆を形成することは、当業者にとつて格別困難とするに当たらないものであり、この点でも審決の認定判断は妥当である。
しかし、引用例の反応性イオンプレーテイング法と被覆条件に差がないとしても、それは引用例に記載された限りにおいてであり、引用例には、半価幅や切削性能に関する具体的記載はなく、現に前記のように本願発明の被覆鋼が耐摩耗性の点ですぐれた効果を示している以上、右(イ)の主張は理由がない。また、引用例記載のものと本願発明もともに切削性能向上を意図していることを勘案しても、両者の被覆膜の生成条件に格別差異のないことを根拠に本願発明におけるような被覆膜を形成することが容易になし得るものといい得ないことは既に述べたところから明らかであるから、右主張(ハ)も理由がない。主張(ロ)が理由がないことは既に述べたとおりである。
八 以上述べたところによれば、審決の対比点(五)(審決の理由の要点3(五))の認定判断は誤りであり、この誤りは審決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、審決は取消を免れない。
第四 よつて、原告の本訴請求を正当として認容する。
〔編注1〕本願発明の要旨は左のとおりである。
<1> 高速度鋼の表面をイオンプレーテイング法によつて被覆した高速度鋼において、
<2> イオンプレーテイング法が反応性イオンプレーテイング法であつて、
<2>´ 蒸着物質中の金属元素成分のイオン化が主として金属元素蒸着自身の放電によつてなされ、
<3> 反応ガスの分圧が1×10-4~9×10-4Torrの範囲内で生成されたものであり、
<4> 被覆鋼の組成が主としてM(Cu. Nv. Ow)z(但し、MはⅣ―a族金属(チタン、ジルコニウム、ハフニウム)C、N、Oは夫々炭素、窒素、酸素を示し、u、v、wは夫々C、N、Oの原子比を示し、かつu+v+w=1´、u. v. w≧0であり、zは金属成分に対する非金属成分の化学量論比を示しz≦1である。)なるBI型固溶体の被覆膜の
<5> (二〇〇)面からのCu―Kα線による回折曲線の半価幅が2θで〇・四度以上である事を特徴とする
被覆鋼(別紙図面参照)。
(説明の便宜上構成を五つにわけ<1>ないし<5>の番号を付して改行した。以下、番号ごとに「構成<1>」「構成<2>」……という。)
〔編注2〕本件における図面は左のとおりである。
別紙図面
<省略>
<省略>
<省略>
(以下省略)