東京高等裁判所 昭和63年(う)565号 判決
検察官の諭旨は,本件は極刑もやむを得ない事案で,被告人を無期懲役に処した原審の量刑は軽過ぎて不当である,というのであり,弁護人の諭旨は,前記の量刑が重過ぎて不当である,というのである。
そこで検討するのに,本件は,被告人が妻と幼い長女,実父とその内妻の4名を順次殺害し,その証跡を滅失させる目的で自宅に放火し,これを焼燬して前記4名の死体を損壊したという,罪質,結果ともに極めて重大な事案である。
被告人が前記犯行に至った経緯には,後に述べるように同情すべき点があるけれども,家族4名を次々に殺害しなければならない程の事情があったとは到底認められず,特に,2歳になったばかりの長女や,被告人が中学生のころから実子同様に接してくれていた何の落度もない実父の内妻まで巻き添えにした点は,強い非難に値するといわなければならない。
そして証拠によると,本件殺人の態様は,妻の場合は,無警戒でベッドに横になっていた同女の頭を両手でつかんで壁に2回ぐらい打ちつけた上,頸を両手で強く絞めつけ,同女が動かなくなったのを確認した後,更にコードを頸に巻いて絞めつけたというものであり,長女の場合は,ベッドに寝ていた同児の頸を右手で強く絞めつけ,その心臓が止まったのを確認した後,更にコードを頸に巻いて絞めつけたというものであり,実父の場合は,いきなり刃体の長さ約13センチメートルの果物ナイフでその左胸を突き刺し,更に同人を押し倒してその腹に馬乗りになり,同人が着用していた浴衣の腰紐をその頸に巻いて強く絞めつけたというものであり,実父の内妻の場合は,探しものをしている同女の背後に忍び寄り,いきなり前記腰紐をその頸に巻いて強く絞めつけるなどしたというものであって,執拗かつ残虐というほかなく,また,放火,死体損壊の犯行は,4人の死体を自宅のあるⅠビル1階の実父の寝室に集め,あちらこちらに灯油を撒布した上,灯油をしみ込ませたタオルなどにライターで点火して前記撒布場所に投げ出したというものであるが,同ビルの2階の一部と3階が賃貸の共同住宅になっていたこと,同ビルが住宅街の一角にあり,その西方及び北方には人家が密集していたこと,放火したのが午前3時ごろという人の寝静まった時刻であることなどを考え合わせると,その犯行態様は甚だ危険なもであったといわざるを得ない。
以上のほか,被告人によって突然その生命を断たれた各被害者の無念な心情,各被害者の遺族に与えた精神的打撃,凶悪な本件犯行が社会に与えた影響などを考え併せると,被告人の刑責は極めて重大であって,検察官において極刑が相当と主張しているのもその立場上当然であり,その当否については慎重に検討する必要がある。
本件は,家庭内で発生した近親間の殺人等を中心とする犯行であり,縁もゆかりもない者を殺害したなどという事実とは趣きを異にし,被告人にとって有利な情状も存する。そのうち最も重要なのは,一連の犯行の出発点となった妻と長女の殺害について,犯行に至った経緯に以下述べるとおり同情すべき事情のあることである。
すなわち,被告人は,昭和59年3月28日ごろ妻から妊娠した旨告げられ,出産予定日は同年11月中旬であると知らされたが,妻と初めて肉体関係を結んだ日から数えて妻が被告人以外の男性の子を懐胎したのではないかという疑いを抱いた。しかし,妻の方から積極的に計算方法を説明され,書籍を調べてその説明に特段の矛盾を感じなかったので一応納得したが,その疑念は心の底にわだかまりとなって残っていた。
また,被告人は,同年6月ごろ,妻が実家に帰っていた折り,2日連続して,若い男性の声で,自らは名乗らないで同女の在宅の有無を尋ねる電話を受けたが,その翌日同女の実家に赴いてその旨伝えた際,居合わせた同女の実母が「S少年じゃない」と言いかけて妻から制止されるのを目のあたりにしたり,同日1人で帰宅した妻の持ち物などを調べてみると,差出人として「S少年」と記載したラブホテルへの誘いの手紙を発見したりしたばかりでなく,その後妻が外出する前に時間をかけて濃い化粧をし,小ざっぱりとした服装で外出するのに気づき,外で浮気をしているのではないかという疑惑を持ち,妻から聞いた外出先を何度も回ってみて密会する時間的余裕がないことを確かめその疑惑を押さえていたが,これを完全に捨て去ることはできなかった。
なお,妻は婚約前から性的にふしだらであったが,その後も長女を出産する約2ヵ月前まで妻子のある会社社長と実家に帰った折りに逢うなどして不倫な関係を続けていた。また,本件犯行の約1週間前には,被告人が社員旅行で留守中の午前零時過ぎごろ,かつて肉体関係のあったライブハウスの店長に電話をかけ,「このごろあなたの夢ばかり見るわ‥‥」などと話し,その日の午後同人と逢って共に数時間を過ごし,その夜も同人が店長をしている店に出かけているほか,自らが犠牲となった本件犯行の当日午後1時ごろにも同人に特別の好意を示すような電話をかけているのであって,被告人の前記疑念や疑惑も決して道理に合わないものではなかった。
しかし,被告人は妻を愛する余り,夫婦関係が破綻することを恐れて前記の疑念や疑惑について直接本人に問い質すこともせず,1人で悩んでいる状態であったところ,妻から,夫婦喧嘩の挙句とはいえ,長女について,「この子はあなたの血なんか入っていない。私の子なんだから,連れて実家に帰る」「わかっているでしょ。S君の子よ」などと言われたため,妻が長女を被告人の子であるように騙し続けて来たと思い込み,同女を深く愛していただけに激しい怒りと憎悪の念にかられてこれを殺害し,長女に対しても,騙されて今まで可愛がって来たと思うと憎しみの気持ちが生じ,遂にこれを殺害するに至ったもので,その結果を招いたことについて妻にも非難すべき点が多々あることは明らかである。
また,実父とその内妻を殺害したのは,被告人が妻子を殺して絶望的な心理状態に陥った後のことであるが,新たに前記両名を殺害するに至った経緯にも同情の余地がないとは言い切れない。すなわち,妻子を殺し途方に暮れてこれから自首すると詫びている被告人に対し,実父が,被告人の実母が他の男性と一緒に写っているような古い写真と,同女の素行などを自ら記録した書面を見せた上,「お前は俺の子ではない。どうなったって俺の知ったことではない」などと言い放ったため,被告人は自分が実父の実の子ではなく,従って同人には愛されていないものと思い込み,それに気づかずひたすら同人に従順に従って来た自分の人生を空しく感ずるとともに,同人がこれまで父親であるかのように装って自分を騙し,自分の生活を縛りつけて来たものと考え,憤激,憎悪の余り同人及び同人と一体として見ていた内妻を順次殺害するに至ったもので,実父の気性,日ごろの態度に加え,前記のような配慮を欠いた思いやりのない言動がその犯行を誘発した一面のあることも否定できない。
ところで,福島鑑定は,本件犯行当時,被告人の是非善悪の弁識に従って行動する能力がかなりの程度低下していたものといわざるを得ないとしている。すなわち,被告人は,脳障害の影響による特異な性格の故に,通常の情性による抑制を働かせたり,人間的な感覚による配慮をしたりすることができず,妻や父の不用意な言葉に過敏に反応し,憎悪と憤激の情にかられて衝動的に本件殺人の罪を犯したものであり,また,被告人が本件犯行の約8ヵ月前に2回にわたって竣工直前の家屋に放火していることを考え合わせると,本件放火,死体損壊の犯行には,脳器質性精神障害者にしばしば認められる行動の保続傾向が関与しているというのであるが,その鑑定結果は証拠上否定できない。そして,前記鑑定によると,その脳障害は胎児期後期の脳に加わった侵襲の後遺症であるというのであるから,そのことについて被告人を非難できないことも被告人の刑責を量る上で重視しなければならない。
以上の諸点のほか,放火も近隣に延焼するほどの大事には至らなかったこと,被告人なりに反省悔悟の情を示していること,このような事態がまた起こる可能性が高いとは認められないこと,前科,前歴がないこと,示談が成立し,遺族の被害感情も若干和らいでいること,寛大な刑を望む被告人の実母や親族の心情などを併せて考慮すると,検察官が主張するように被告人を無期懲役に処した原審の量刑を覆し,極刑をもって臨むにはいささか躊躇せざるを得ない。しかしながら,弁護人の主張するように有期の懲役刑が相当であるなどとは到底いえないのであって,結局検察官及び弁護人の論旨はいずれも理由がない。