東京高等裁判所 昭和63年(う)680号 判決 1991年6月18日
主文
本件控訴を棄却する。
当審における未決勾留日数中九〇〇日を原判決の刑に算入する。
当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人湯川二朗、同小野慶二、同濱田広道が連名で提出した控訴趣意書、弁護人湯川二朗、同小野慶二、同環直彌、同濱田広道が連名で提出した同補充書並びに被告人が提出した控訴趣意書にそれぞれ記載されたとおりであり、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官検事秋山富雄が提出した答弁書に記載されたとおりであるから、これらをいずれも引用する。
第一 弁護人ら及び被告人の各控訴趣意中原判示第一のA殺害事実に関する理由不備、理由齟齬の主張について
弁護人らの所論は、要するに、原判決は、(1)死体の状況からみて、被害者Aは昭和五五年五月一三日ころから同年七月二三日ころまでの間に死亡したと推定されるとしながら、他方、同人が同月二三日午後六時ころ生存していた確証があるから、同人は七月二四日又はその直後ころに死亡した可能性が最も高いと判示しているが、前記のような理由から右のような結論は出てこないから、その理由に齟齬がある。(2)被告人が同月二四日の午後には福岡に来ていたと認定するに際し、同日午後被告人を東京で見たという者は河西以外にいないから、その旨の被告人の弁解は措信できない旨判示するが、「同日午後河西以外に被告人を東京で見た者がいない」という事実を裏付ける証拠はないから理由に不備がある。(3)被告人において右二四日中に福岡でAと会ったと推定される旨判示するが、会ったという証拠はなく、同日中にAを捜し当てたと限らないから、理由に不備、食い違いがある。(4)被告人の捜査官に対する同一の供述について、ある場面では信用できるとしながら他の場面では信用できないとするなど明らかに矛盾し、理由に食い違いがある。(5)犯行当日に被告人が登山ナイフを所持していたとするのは不自然であるとしながら、被告人が被害者の陰部を死後鋭利な刃物で切り取ったかの如く認定し、ここに理由の不備、食い違いを来している。(6)被告人が午前九時にレンタカーを借り受けたとき被害者は既に死亡していたと推定しながら、その根拠を示していないのは理由不備である。(7)非計画的な犯行であると言いながら、外部からの凶器の持ち込みも否定し得ないとしているのは理由に齟齬がある。(8)原審における検証において、死体を詰めた段ボール箱の総重量が七〇キログラムのとき重過ぎて車に積み込めず63.5キログラムに減量してやっと積み込むことができたのに、七〇キログラムでも積み込むことができる旨判示しているのは理由不備である。(9)更に、原判決は、その他にも至るところで論理矛盾を犯しているというのである。
被告人の所論は、要するに、原判決は、確たる証拠がないのに、犯行日時、犯行場所を特定して認定する一方、凶器についてはその特定を断念し、単に鈍器とのみ判示し、更に段ボール箱の入手先、死体損壊の態様、死体に蛆が付着していない理由等についてその解明をせず、被害者の右上第二小臼歯が欠損している理由についても合理的な説明をしていないなど、理由に不備があるばかりでなく、事実認定に関する補足説明の項において本件を偶発的、非計画的犯行としながら、量刑事情の説示において本件が財産目当ての計画的犯行であるかのように判示し、また、被告人が刃物を所持していた事実に疑問を呈しておきながら他方において被告人が被害者の陰部を鋭利な刃物で切断したとするなど、犯行の動機、態様や犯行後の死体の緊縛方法、更に被告人と被害者との人間関係の問題に至るまで、多くの事柄について証拠を恣意的に評価したり或は前後一貫しない判示をしていて、理由に食い違いがあるというのである。
そこで、検討すると、刑訴法三七八条四号にいう理由不備、理由齟齬とは、判決の記載をもってしては判決のよって来る理由が明確でなく、法が裁判に理由を付することを要求している趣旨が実質的に満たされない場合を指称すると解すべきところ、原判決は、その罪となるべき事実の第一として、「被告人が、昭和五五年七月二四日又は二五日、福岡県福岡市<番地略>所在の博多○○ホテル四一四号室において、Aに対し、殺意をもって、鈍器で同人の後頭部を数回強打し、よってそのころ、同人を頭蓋骨骨折を伴う打撲傷に基づく頭蓋内損傷により死亡させて殺害した」という殺人の事実を認定し、右認定の基礎となった証拠の標目を掲記し、更に法令の適用を示し、もって判決主文のよって来る所以を明らかにしていることがその判文上明白であり、有罪判決の理由の摘示として間然するところがないと認められるから、理由不備、理由齟齬をいう論旨は理由がない。
なお、付言すると、原判決は、前記のとおり、ある程度幅をもたせて罪となるべき事実を認定する一方、本件の事案の特質やその証拠状況等に鑑み、特に項を設けて事実認定に関して詳細な補足説明を試み、複雑に絡み合い、ときには矛盾する多数の証拠を丹念に解きほぐし、錯綜した事実関係の中から幾つかの情況的事実を拾い上げ、それらを仔細に検討し、総合して、本件犯罪事実を認定するに至った経緯を明らかにしているのであって、このような情況証拠による総合認定の過程において、一見矛盾するような説示が見られたり、細部について解明できない点が残ったとしても、これらはいずれも大勢に影響しない些細な部分に止まるものと認められるから、これをもって理由不備、理由齟齬などということはできない。のみならず、所論指摘にかかる事項の多くは、原判決を正解しないか、或はその長大な補足説明中の一部分をことさら切り離しこれを比較してその食い違いを主張するか、さもなければ、理由不備、理由齟齬の名のもとに実質において事実誤認の主張をするに帰着するというべきであって、いずれにしても採るを得ない。
第二 弁護人ら及び被告人の各控訴趣意中原判示第一のA殺害事実に関する訴訟手続の法令違反、事実誤認の主張について
弁護人ら及び被告人の各所論(以下、単に「所論」という。)は、要するに、被告人において、原判示第一のAを殺害した事実などないのに、原判決が、右殺人の事実を肯認したのは、原裁判所が、被告人においてAを殺害しその財産を乗っ取ったとの予断にとらわれ、被告人の供述や情況証拠等を被告人の不利益にのみ解釈し、合理的な疑いを容れない程度の犯罪の証明がないのにこれを有罪としたものであって、審理不尽、証拠法則違背、事実誤認があるのを免れず、この誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるというのである。
しかしながら、原判決が挙示する関係各証拠によれば、原判決がA殺害事実を認定したのは相当であって、これに所論のいう審理不尽、証拠法則違背、事実誤認があるとは認められず、当審における事実取調べの結果、原判決が正当であることが一層明らかになったということができるから、この点をいう所論はいずれも理由がない。
以下、所論に鑑みその理由の要旨を説明する。
一 弁護人ら及び被告人の主張の骨子
所論は、多岐に亙るが、その骨子とするところは概ね次のとおりである。
すなわち、本件は、昭和五五年八月一三日午後四時五〇分ころ、福岡県筑紫野市<番地略>の杉林内で、行楽中の山下登がビニールシートに覆われた人間の腐乱死体を発見し、被害者の身元が判明しないまま五年の歳月が経過した後に本件が発覚し、原審において、前記死体が原判示のAであるか否か、これを殺害したのが被告人であるか否かが争われきた事案であるところ、原判決がそのいずれの点も肯定したのに対し、弁護人ら及び被告人において、右死体はAでなく別人であること、原判決は被告人が原判示のA殺害事実を自白したというけれども、そのような自白は存在しないこと、仮にそれが存在するとしても伝聞証拠であって、これを証拠に用いることは刑訴法の規定からして許されないこと、然らずとするも右自白には任意性なく、また、違法な別件逮捕、勾留中に得られた自白であって、いずれにしても証拠となし得ないものであること、のみならず、右自白は概括的に過ぎその内容もまことに不自然、不合理であって全く信用性のないものであること、更に、原判決が被告人を真犯人とする根拠となった情況的諸事実、すなわち、被告人がAの死体の遺棄場所を知っていたこと、被告人が犯行日時ころ犯行場所に近接して所在したこと、A失踪の直後から被告人がAの印鑑、小切手帳等を所持し多額の金銭を支出していること、被告人にA殺害の動機となりうるような状況があったこと、被告人が乗っ取りとも評価しうる態様でAの全財産を処分していること、Aが失踪したことに関し関係者に虚偽の説明をしたり不自然な態度をとっていたこと等は、いずれも根拠がないものであり、被告人の供述中にいわゆる秘密の暴露として評価できるようなものもないから、いずれにしても本件殺人の事実に関し被告人を有罪とすることはできないなどと主張し抗争しているものである。
そこで、以下、逐次これに検討を加えることにする。
二 本件死体と被害者Aとの同一性
所論は、まず、本件死体とAとの同一性を争い、原判決が挙示する鈴木和男及び河原英雄各作成の鑑定書並びに同人ら及び伊波侃の原審公判供述その他の関係各証拠からは、原判決がその同一性を肯定した根拠の一つである両者の歯牙や歯槽骨の同一性を必ずしも認めることができず、更に、死体の死後経過期間から推定されるその者の死亡時期と原判決が認定するAの死亡時期とが合致しないとみられることからしても、本件死体はAでなく別人であるというのである。
そこで、検討すると、所論が指摘する各証拠を含む原判決挙示の関係各証拠によれば、原判決が、本件死体の歯牙及び歯槽骨の状態がAのそれと矛盾なく、歯牙の欠損、病痕、補綴状況等から同一人のものと推定され、更に、両者の身体的特徴や推定年齢も合致する旨認定判示し、本件死体とAとの同一性を肯認したのは相当と認められ、当審における鑑定人山本勝一作成の鑑定書並びに同人の当審公判供述によって、そのことが一層明らかとなったということができるから、原判決に所論のいう誤りはない。
(1) 歯牙の状態について
所論は、法歯学においてはいまだ個別の歯の一致点あるいは相違点が人の同一性の判断に定量的にどの程度の意義を持つか明らかにされていないばかりか、伊波医師が左右を取り違えたというレントゲン写真には一部左右が正しく表示されている箇所があり、また、同医師の作成した歯科診療録には死体の左上第一、第二大臼歯にみられるアイバー・パーシャル・デンチャー装着の記載がないなど、その信用性に欠け、更に、死体とAの各エックス線写真を比較すると両者の上下歯の咬合状態が異なり、正中線を合わせてみると右奥歯がほぼ歯一本分ずれ、右下第二大臼歯の歯根の湾曲状況が異なり、変死体がAであれば左下の中切歯と側切歯がなければならず、死後脱落したのであれば死体の周辺から発見されていなければならないのにこれがないことからすれば生前脱落の可能性があるなどと主張する。
しかしながら、本件死体の歯と被害者Aの歯とは、個々の歯牙の形態、大きさ、全体の歯並び等に矛盾がないばかりか、特徴的な類似点があり、現存する歯の数の違いは時の経過に伴う抜歯或は脱落とみることができ、両者が同一人の歯牙であると認めることを妨げる点はどこにも見当たらないという原判決の認定判断は、その補足説明を含め、正当として是認できるところ、当審における前記山本勝一作成の鑑定書並びに同人の公判供述によれば、その事実が以下のとおり、より明らかに証明されたものというべきである。
すなわち、本件死体には第三大臼歯が四本ともないほか、上顎の右側中切歯、上下顎の左側中切歯や左側側切歯、上顎の左側第一、第二大臼歯が各欠損し、それらの欠損部の歯槽骨には歯槽窩が認められず、上顎の前歯欠損部は右側側切歯及び左側犬歯を支台歯とする五本の架橋義歯により補綴されている。歯牙の特徴所見として、上顎は右側第二小臼歯が残根状態となり、右側第一大臼歯の歯槽骨が局所的に吸収された状態になっている。下顎は、左側第二小臼歯の歯冠は遠心方向に傾斜し、右側犬歯は歯軸を中心にして遠心部が舌側方向に約四五度捻転している。更にこの死体のパノラマエックス線写真と伊波医師から提出された昭和五二年六月ころに撮影されたと認められる左右が逆に表示されている前記Aの歯牙及び歯槽骨のパノラマエックス線写真を比較対照すると、不鮮明なものは別として、歯根形態は、上顎左右の第一・第二小臼歯及び下顎の左右の第二小臼歯が単根であり、下顎左右の第一大臼歯が二根で逆V字型を示し、下顎の左側第二小臼歯の歯根が歯根尖より三分の一のところから根尖を遠心に向けて湾曲し、下顎の右側第二大臼歯の歯根部に反応性骨効果と見られる不透過像がみられ、また、不鮮明ではあるが、上顎の右側側切歯から上顎の左側犬歯にかけて架橋義歯と思われる不透過像が認められる点で両者は共通している。なお、Aのパノラマエックス線写真の上顎の左側第一大臼歯の歯槽骨に抜歯窩が認められ、前記Aの歯科診療録の写しによると、同人は、昭和五二年六月六日に上顎左側第一大臼歯の抜歯窩に投薬を行い、また、同五二年一〇月三日に上顎左側第二大臼歯を抜歯していることが窺われ、変死体の上顎左側第一・第二大臼歯の欠損と符号し、また同人は昭和五三年一〇月三〇日に上顎左側犬歯、同第一・第二小臼歯に鉤歯調整を行っており、変死体の上顎の左側第一・第二小臼歯の咬合面の削合と一致する。このように、両者の歯牙には明らかな相違点、矛盾点が認められず、かえって極めて特異な点が符合していることが認められるうえ、前記山本証言によれば、前記各エックス線写真の映像が重ね合わせて必ずしも合致しないのは、死体の場合は歯茎の軟組織が失われ歯が動くことによって咬合状態が変化し、また、本件死体のパノラマエックス線写真とAのパノラマエックス線写真とは撮影方法(照射の角度)が違うため写真の映り方も違うためであることが認められること、原審証人伊波侃の証言によれば、歯科診療録の記載と死体の治療状態とが合致しないのは伊波医師が保険請求の都合上診療録に実際に施行した治療内容を書かず保険適合治療をしたように記載したためであることが認められること、更に、所論のいう二本の歯はその歯槽の状況からみて死亡の前後に脱落したものとみられるが、死体が遺棄された後に失われたとは限らないから、これらが死体の周辺から発見されなくても上記の結論を左右するものでないことなどの点に鑑みると、所論の採り得ないことは明白である。
(2) 本件死体の死後経過時間について
次に、所論は、原判決に従えば本件死体は死後一九日ないし二〇日経過している計算になるが、死体の頭部、上胸部が白骨化し組織の腐敗の進行が甚だしい状況や、死体の下に下草が生育していない状況、更に、死体に取り付けていたカツオブシムシやモモブトシデムシと思われる虫の生育段階からみて、本件死体は死後少なくとも一か月以上経過しているとみられるから、これがAでないことは明らかである旨主張する。
しかしながら、原審証人牧角三郎の供述によれば、本件死体の腐敗程度が著しく進行している一方、その軟部組織(特に下腹部の臓器)が奇麗に残っていることからすれば、死後三週間程度とみられなくはないというのであり、原審及び当審証人木村康も、蛆虫その他の昆虫による蚕食や高温、多湿等の環境条件の如何によっては三週間程度で本件死体のような状態にならないとはいえず、本件死体に腐敗し易い脾臓が残っていることはその可能性を示唆している趣旨の供述をし、死体発見直後の実況見分の際に撮影された写真によると、本件死体を除いた地表面に下草が押し潰され枯死しているのが認められることからすれば、死体が置かれたのが下草が生育する以前であったとは認められないことなどの点をも併せ考えると、本件死体が現場に放置されてから所論のいうような長期間が経過していると速断することはできない。もっとも、当審証人林長閑の供述によると、死体に取り付いているのはカツオブシムシやモモブトシデムシと思われる虫で、その大きさからみて終令幼虫と考えられ、これらの虫が産卵のときから終令期に達するのに二八日位から六〇日位かかり、この日数に更に死体が乾燥しこれらの虫が産卵するのに適する状態になるまでの期間を加えると、本件死体が死後二〇日程度しか経過していないなどということは到底考えられないというのであるが、虫の幼虫の生育速度は餌の多寡、気温、湿度その他の環境条件によって大きく左右されることが認められるうえ、死体写真に写っている幼虫の不鮮明な写真からその虫の種類や生育段階を一義的に確定できるとは限らないから、死体に取り付いている虫の写真から死体の死後経過日数を割り出してみても、その正確性には当然限界があり、林証言がこの程度の証明力しか有しない以上、これを以てAの推定死亡時期を昭和五五年七月二四日ないし二五日とした原判決の認定を動かすに足りず、右原判決の認定と本件死体の発見時の状態とが矛盾するとまでいえない。
(3) その他の身体的特徴の一致について
なお、所論は、その他の身体的特徴についても両者相違するところがあるというが、関係各証拠によれば、Aは、大正一二年生まれで昭和五五年七月当時五八歳、身長は関係者の供述に食い違いがあるものの、概ね約一五五ないし一六〇センチメートル、血液型はA型、白髪を黒く染めていたことが認められ、本件死体も、血液型がA型、頭髪を黒く染めており、前記山本鑑定による歯の組織中のアミノ酸のラセミ化反応を利用した年齢測定の結果は五九歳(上下の誤差各三歳)であって両者は概ね符合する。もっとも、実況見分に際し、死体の身長を計測した結果は約一五二ないし一五三センチメートルであったが、頭皮、頭髪が失われ脚部を屈曲して腐乱し一部白骨化した死体を計測した結果であるからその正確性に限界があることはいうまでもなく、上記のAの身長より若干低い値が出ても格別異とするに足りないから、右の計測値の差異を理由に両者が別人であるということはできない。
(4) 結び
以上の次第であるから、太宰府の山中に放置され、昭和五五年八月一三日に発見された死体がAであるとした原判決の認定は相当であって、これに所論のいう採証法則違背、事実誤認はない。
なお、被告人は、主として当審になってから、昭和五五年七月三〇日に九州旅行から帰ったAと被告人の経営する桜商興株式会社の事務所で会ったとか、その後にもAが約束手形等を振り出したり取立に回したりした事実があるとか、同年一二月二七日にAと伊豆で会って五〇〇万円の債務を返済してもらったとか、昭和五六年二月ころAの田園調布の家の売却代金の内金五〇〇万円を銀座の日航ホテルのレストランでAに渡したとか、Aが昭和五六年五月一日に北陸銀行渋谷支店の同人の貸金庫の契約更新手続きをし、更にそのころ貸金庫を開扉した事実があるなどと言って、その後もAが生存していたのは間違いない旨主張するに至っているけれども、当審における事実取調の結果によれば、北陸銀行渋谷支店のAの貸金庫の更新手数料はAが持参して支払ったのでなく自動振替で処理されており、また網谷幸雄の検察官に対する供述調書に添付されている貸金庫開扉記録によれば本件捜査のため捜査官によって開扉されるまで誰もこれを開扉していないことが認められ、そのほか被告人がA生存の証左としていろいろ述べるところもすべて根拠薄弱であって、既にみてきたとおり、Aが昭和五五年八月一三日に腐乱死体で発見され、死後経過期間からみてその三週間くらい前に既に死亡しているとみられることと対比してみても、被告人の前記供述が到底措信し得ないことは明らかである。
三 A殺害事実に関する被告人の自白の存在と証拠能力
所論は、要するに、原判決がA殺害事実を有罪と認定するに際し、最重要証拠とした被告人の自白、即ち被告人が昭和六〇年九月一日及び同月十二日の両日に取調検察官佐々木善三に対してした供述は、およそ「自白」の名に値しないものであるばかりか、伝聞供述であって証拠能力がなく、また任意性も欠いており、更に違法な別件逮捕勾留中に得られた自白でもあって、いずれにしても証拠とすることが許されないというべきであるのに、これを犯罪事実認定の重要な証拠とした原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があるというのである。
(1) 所論が指摘する「自白」の存在及びその内容について
そこで、検討すると、記録によれば、所論が指摘するA殺害事実に関する被告人の「自白」とは、概ね次のようなものであると認められる。
すなわち、原審証人佐々木善三の供述によれば、昭和六〇年九月一日に被告人が佐々木検事に対してした自白の内容は、概略次のとおりであったと認められる。
「昭和五五年七月二五日の朝、被告人は、羽田から飛行機で福岡に向かい、福岡空港から博多駅に行き、駅前でレンタカーを借りAと約束していた三井アーバンホテルに行ったが、そこにはAが泊まっていなかったので、Aに言われていたもう一つの中洲のホテルに電話したところ、六階の何号室かに居るということだった。そのホテルの教えられた部屋に入っていくと、Aは寝間着をはだけパンツが見えるような格好で出てきて、いきなり、俺のバッグを返せとつかみかかってきたので、ベッドの足もとの辺で揉み合いになり、たまたま部屋の台の上にあった花瓶様の物が目に止まったので、それで頭部を数回殴りつけたら、ベッドの上に仰向けに倒れた。怪我はしていたが血はほとんど出なかった。死んだと思い、外に出て近くの雑貨屋で段ボール箱、ガムテープ、ビニール紐、登山ナイフを買ってきて、Aの死体を立てた膝を両腕で抱えるような姿勢に出来るだけ小さく縛り、その際、頭の辺りというか、鼻の辺りから血が滴り落ちたのでシーツで頭部をぐるぐる巻きにし、死体を段ボール箱に押し入れ、ガムテープで梱包した。余った段ボール箱を下に敷き、その上に梱包した段ボール箱を置き、橇のように使って箱を玄関まで運び、レンタカーに積み太宰府の杉林の中に転がり落とし、箱から死体を出して縛っていた紐をライターで焼き切った。その後登山ナイフでAの陰茎を切ったがこれは頭が混乱していて何が何かわからないでそのようなことをしてしまった。死体の梱包に使用した段ボール箱とかAの所持品等は車で福岡に帰る途中少しずつ道端に捨てた。」
右佐々木証言によれば、ホテルで殺害したというのは、これまで警察官にも供述しておらなかったことであり、そのため、佐々木検事が殺人の動機とか、犯行態様等を細かく訊ねたのに対し、被告人は、細部については覚えていないとか、記憶がないなどといって供述せず、全体としてそれが真実かどうか判断しかねたので、更に追及したうえで調書化することにし、その日は逮捕、勾留の基礎となっていた財産犯関係事実に関し供述調書を作成するにとどめたというのである。
次に、前記佐々木証言によれば、同年九月一二日に被告人が佐々木検事にした自白の内容は、被告人が、九月一日に佐々木検事にした前記自白、つまり中洲のホテルにおいてAを殺害したことを前提に、そのとき使用した凶器について、「Aを殴ったのはガラス製の灰皿で、直径が二〇センチメートル位である。」旨を述べ、かつ、その灰皿の略図を描き佐々木検事に提出したというのである。
なお、前記佐々木証言によると、そのときの被告人の供述態度が投げやりだったので、当日は右供述内容を調書に作成せず、九月一四日にそれまでの調べの内容を集大成した詳細な調書を作成したが、これに対しては被告人が署名押印を拒否し、それ以降被告人はA殺害事実について否認に転じたというのである。
これに対し、所論は、被告人の前記各供述は、佐々木検事が太宰府の山中において殺害行為があったものと決めてかかり、被告人にそのことを供述させようと躍起になって追及するので、これをはぐらかす趣旨でホテルにおける殺人という架空の話を述べたもので、もとより犯罪事実を自白したものでなく、本件で自白は存在しないというが、たしかに、前記各供述の中には現実性や真摯さが乏しいふしも認められるけれども、Aを殺害した日時、場所、殺害方法、殺害後の処置等について概括的とはいえ供述し、自己の犯罪事実を認めている点において、殺人の犯罪事実に関する自白であることは否めないところというべきである。
(2) 伝聞証拠として証拠能力を有しないという主張について
所論は、要するに、前記自白は、佐々木検事が原審公判廷において証人として供述した際に、佐々木検事の取調べにおける被告人の供述内容として証言されたものであるから、いわゆる伝聞供述に属し、性質上当然のことながら原供述者である被告人の署名・指印を欠いていて、原供述者による当該供述の任意性、正確性、信用性の保証がないものであるうえ、そもそも、捜査官が被告人を取調べたときは、刑訴法一九八条三項、犯罪捜査規範一七四条一項により供述調書を作成する義務があるというべきであり、その場合に当該供述調書が刑訴法三二二条の規定により証拠として許容されることがあり得るとしても、本件自白のように、捜査官が調書を作成せず、公判廷において証人として自己が取調べたときの被告人の供述内容を証言したものである場合には、調書作成義務ないし供述保存義務を怠ったものとして、刑訴法三二四条一項の適用がないと解すべきであるから、当該自白を証拠に用いることは許されないというのである。
そこで、検討すると、検察官が被告人の取調べをした際に供述調書を作成するか否かは刑訴法上その裁量に任されていると解するのが相当であるから、調書作成義務があることを前提とする所論はこの点において既に失当というべきのみならず、捜査官が被告人を取調べて聴取した内容を公判廷において証人として供述した場合に、その供述に刑訴法三二四条の適用がないと解すべき法令上、実質上の根拠は見当たらないというべきであるから、所論は理由がない。
刑訴法三二四条一項によれば、「被告人以外の者の公判準備又は公判期日における供述で被告人の供述を内容とするものについては第三二二条の規定を準用する」とし、刑訴法三二二条は、「被告人が作成した供述書又は被告人の供述を録取した書面で被告人の署名もしくは押印のあるものは、被告人に不利益な事実の承認を内容とするもの又は特に信用すべき情況の下にされたものであるときに限り証拠とすることができる」旨を規定していて、刑訴法三二四条一項が、「被告人以外の者」の範囲について法文上なんら限定を加えていないばかりでなく、証人がした供述は宣誓によってその信用性が担保され、一方、被告人としても、公判廷で証人に対し被告人が供述したとされる内容が正確に再現されているか否か十分に反対尋問をすることができ、更に、いつでも右証言内容に関する被告人自身の意見弁解を述べることができるのであるから、被告人の供述がその署名押印のある供述調書に記載されている場合とを比較して、証人の供述により公判廷に顕れた被告人の捜査官に対する供述内容のほうが、その信用性や証明力が劣るということはできない。
とりわけて、本件においては、被告人は、捜査官に対しその供述を目まぐるしく二転、三転させ、しかも、聞かれたことにまともに答えないとか、その場かぎりの言い逃れや作り話をするとか、投げやりな答えをしたり、録取した供述調書に署名、指印するのを拒むとかして、意図的にその供述内容が証拠化されるのを阻止しようとしていたことが窺われ(因に、被告人は、同房者から「調書に署名したらおしまいだよ。」と教えられた旨上申書で述べている。)、そのため、捜査官としては、A殺害の犯行場所や犯行方法の見極めもなかなかつかず、被告人の供述に振り回されているうちに調書作成の機会を逸してしまったというのが事実であると認められるところ、この間、捜査官は、調書作成を見合わせた場合や被告人の拒否的態度のため調書作成が出来なかった場合には、その供述内容をその都度逐一捜査報告書に纏めて上司に報告していたことから、原審においてはかかる捜査報告書が供述調書に代わる証拠として取調請求されたのであるが、被告人及び弁護人がこれらを被告人の供述内容を立証するための証拠とすることに同意しなかったため、佐々木検事が証人として前記のような証言をするに至った経緯が認められることを勘案すれば、論旨が理由のないことが更に明白になったというべきである。もっとも、本件における佐々木証言は、被告人を取調べてから五年以上経過した後になされたものであるから、その間同人の記憶が正確に保たれた保証はなく、信用性の程度に問題があることは事実であるが、当審における事実取調べの結果によれば、右証言は前記の捜査報告書によって喚起された記憶に基づいてなされたものと推認されるから、その正確性が希薄であるということはできない。原判決が、被告人の供述を内容とする証人佐々木善三の原審公判供述の証拠能力及び証明力を肯認したのは正当であって、これに所論のいう訴訟手続の法令違反はない。
(3) 自白の任意性を欠くとの主張について
所論は、要するに、被告人の自白は、長期間身柄拘束され、その間連日のように深夜に及ぶ暴行、脅迫、利益誘導等を伴う違法な取調をして得られたもので、その任意性に疑いがあって、これを証拠とすることは許されないというべきであるのに、これを証拠にして犯罪事実を認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があるというのである。
そこで、検討すると、被告人は、昭和六〇年七月一六日に逮捕され、同年一一月一四日の第五次追起訴に至るまでの間、身柄拘束下で取調べを受けたものであるが、もとより右取調べの際、被告人に対し、所論のいうような暴行脅迫等が加えられた証跡は窺われないうえ、その間、取調べがしばしば深夜にまで及んだこともあったことが認められるけれども、右期間中被告人の身柄の戒護に当った当審証人加藤栄三の供述によれば、被告人は、「夜の商売をしていたから夜は強い。心配しないでください。」と言って特にそれを苦にする様子がなく、これに対し取調官の側でも、調べが遅くまでかかったときには翌日の調べの開始時刻を遅らせるなどの配慮をしていたことが認められるから、取調べ方法の違法をいう論旨は採用できない。加えて、被告人が公判供述に代えて提出した上申書を含む被告人の当審公判供述によれば、被告人は、A殺害事実に関する捜査官の取調べの際、捜査官が把握している事実関係の範囲、程度に強い関心を寄せ、それを慎重に探りながら冷静かつ意図的に、周到に計算したうえで供述をしていることが認められるから、そのようにしてされた供述に任意性がないなどとは到底いえない。
(4) 別件逮捕、勾留中の自白であるとの主張について
所論は、要するに、被告人の本件自白は、被告人が、別件である原判示財産関係事実で逮捕、勾留されながら、その間、専らA殺害事実について取調べをうけ、その結果得られたものであるから、違法に収集されたものとして証拠に供することが許されないというべきであるのに、これを証拠として原判示の殺人の犯罪事実を認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があるというのである。
しかしながら、所論のいう別件の犯罪事実の内容は、被告人が、Aの所在不明に乗じて同人名義の委任状等を偽造し、その財産を恣に処分し、或は不正に同人に関する虚偽の住民登録や印鑑登録等をしたというものであって、これらの所為がAから授権されてしたものであるかどうかを確定しないと犯罪の成否を判断できず、被告人が果たしてAから授権されていたかどうかが別件の捜査のうえで重要なポイントとなっていたことが認められるから、授権行為があったとすればその時期や場所等を具体的、客観的に明らかにするため、捜査官がまずもってAの所在を確認することに捜査の焦点を置くのは当然であって、捜査官が被告人にAの所在について質すことは、所論のいう別件の捜査に名をかりて、本件に関する捜査をしたものでなく、まさしく逮捕、勾留の基礎となっている別件の犯罪事実に関する捜査の一環であるというべきであるから、捜査手続きに所論のいう違法はない。
四 A殺害事実に関する被告人の自白の信用性
所論は、要するに、A殺害事実に関する被告人の自白は、それを録取した供述調書もなく、佐々木証言中の被告人の自白なるものは、極めて概括的で犯行動機や犯行の具体的態様とか、また、真犯人であれば当然言及する筈の事項に関する説明を欠いているばかりでなく、その内容に客観的事実と矛盾する点が多々認められることに加えて、被告人の供述が変転極まりないこと自体、その供述が全体として虚構のものであることを示しているとみるべきことに徴しても、その信用性は全くない。すなわち、被告人の供述をもってしても、A殺害の動機、態様が明確でなく、とりわけ、本件犯行を特徴付けている被害者の男性器切除の動機や切除方法等についての明確な供述を欠いているのである。また、A殺害の犯行態様や犯行後の状況等に関する被告人の自白が客観的に実行不可能な内容であることは、例えば、A殺害後被害者の死体を入れる段ボール箱等を入手し、狭いホテルの室内で死体を緊縛し、段ボール箱に詰め、重い箱を外部に運び出してレンタカーの後部座席に乗せ、太宰府の山中に運んで遺棄するという一連の行為が、自白内容を前提とする限り、時間的にみても、作業自体の困難性からしても、一人で行うことは困難であり、レンタカーの後部座席に積み込むことは不可能ですらあることに照らしてみて明らかである。更に、被告人は灰皿で殴打したというが凶器に該当するような灰皿はホテルの室内になく、どのような姿勢で殴打したかも明らかでなく、自白のような殺害方法であれば出血量が一〇ミリリットル強であると思われるのに、原判決が客観的事実として認定するベッドマットの血痕の状況はそれより遙かに多量の出血態様を示しており、また、頭蓋骨骨折に至るほど頭部を何回も殴打すれば血痕が飛沫状に飛び散る筈なのに現場にその痕跡がなく、室内で格闘したというのに内部の乱れがないなど、多くの場面で自白内容と客観的事実とが食い違っている。しかるに、原判決が、それらの点についての検討を怠り、安易に被告人の自白の信用性を肯認し、A殺害事実を有罪としているのは、審理不尽、採証法則違背、事実誤認の謗りを免れないというのである。
そこで、検討すると、所論が指摘するとおり、被告人のA殺害事実に関する供述は、昭和六〇年七月一六日に被告人が逮捕されて以来目まぐるしく変転し、逮捕当初はAは所在不明でなく、住民登録をした場所に住んでいると弁解していたが、やがて昭和五五年七月二五日ころAと九州に旅行し太宰府の山中で別れてから消息がわからないとか、山中の河原でけんかになり、木に縛りつけるなどしてAを置いてきたなどと供述し、その後Aが太宰府の山中で死んでいると思うなどと述べて、Aの死体が同所にあることを匂わせる供述をしたうえ、昭和六〇年八月二三日、二四日の取調べで佐々木検事に対し太宰府の山中の小川でAが転倒し鼻と口から血を出しているのを、杉木立に引き上げ放置してきたので、その遺体は杉林の中にある旨を述べて死体遺棄の事実を認めて、その遺棄現場の図面を書いて提出したが、これが手掛かりとなってAの死体が発見されたことを被告人に初めて知らされた同月二九日の取調べにおいて(もっとも、それ以前に、九州出張から帰った加藤刑事が被告人にそのことを仄めかした事実があるようである。)、白石警部補に対し、太宰府の山中の河原でAを石で殴打し首をビニール紐で絞めて殺害した旨いったん供述したが、尋問がAの男性器切除の点に及びかけるや突如供述を翻し、中洲のホテルに行ったらAが死んでいたので、Aの死体を段ボール箱に詰めて太宰府の山中に捨てたという死体遺棄事実の供述に変わり、その際に死体の緊縛、梱包、運搬状況に関する詳細な供述をしていたが、九月一日の取調べで佐々木検事に対し、初めて中洲のホテルにおいて花瓶様のものでAを殴打して殺害した旨供述し、同月二日には一転して太宰府の河原における殺害の供述に変わり、同旨の供述がしばらく続いた後、同月一二日に再び中洲のホテルにおいて直径が二〇センチメートルくらいのガラスの灰皿で殴打して死亡させた旨の供述に転じ、これを最後にA殺害に関し絶対否認状態に転じ、その状態が現在に続いていることが認められる。
所論は、前記のような被告人の供述の変遷状況からみて、その全体が措信できないものである旨主張するが、そのような供述であっても、当該供述がなされた背景事情からみてそれが信用できると思われる場合や、供述の真実性を裏付ける他の証拠が存在する場合には、少なくともその部分は虚実織り混ぜた供述における実の部分として措信することが許されるというべきである。このような見地から見ると、取調べ開始後八月二九日に至るまでの間のAの死体遺棄場所に関する供述は、捜査官から太宰府山中の死体がAでないことを聞かされていた被告人が、捜査官の誤信に乗じ、後記のとおり当面のアリバイ証明を目論むと共に、その場所でAと別れたとかそこにAの死体があるなどと供述することで捜査を混乱させる一方、その付近から五年前に変死体が発見されていることが判明しても、同変死体は各種データの照合の結果既にAでないものとして確認ずみであることを捜査官から聞かされていたことから、自己の犯行に結びつくおそれはないものと判断したことによるものと考えられ、この被告人のシナリオによる場合には死体遺棄場所について真実を語らなければ有効にその目的を達成することができない関係にあるから、右期間の死体遺棄場所に関する被告人の供述は、信用すべき背景事情のもとでの供述ということができるばかりでなく、そこから出た死体が後日になってAであることが捜査官に判明して、皮肉にも被告人の供述が裏付けられ、その真実性が確認されるという結果を招来したものといえるのである。八月二九日及びその直後の被告人の自白は、妻との離婚やAの死体発見により自己の防御シナリオが崩れたショックが重なった時期のもので、佐々木証言によれば、同人が八月二八日に被告人を取調べたとき、被告人が、「弁護士に家族のことをお願いしたらすべて話す。二、三日中に全部を解決する。この期に及んで見苦しい態度をとらない。」と述べていたことが認められることに徴しても、その時点における供述には作為が少ないとみることができる。更に、後述のように、八月二九日の警察官の取調べにおいて、ホテルにメモと五〇〇〇円紙幣を遺留した旨の供述は、その裏付けがあって信用できるといってよい。
なお、被告人がほぼ一貫して、昭和五五年七月二五日の夜の最終列車で博多から広島に行き、下車するときAの衣類の入った鞄を列車内に置き忘れてきた旨供述していることが認められるが、その供述に基づく捜査の結果、当日の広島着こだま四四二列車の一三号車に衣類の入った手提鞄一個(ただし、背広のネームなどは付いてなくAの身元を示すものはない。)が遺留されていて、これが警察に届けられている事実が確認されており、右鞄遺失に関する供述は裏付けがあって信用することができるというべきであるうえ、被告人の供述するところによれば、被告人が遺失した鞄は放浪を好むAが着替えなどを入れていつも持ち歩いていたものであるというのであるが、その鞄を被告人が遺失したことに気付きながら、このことをAに連絡するとか駅に遺失物の問い合せをするなどのことを全然していないのは不自然であり、その鞄の入手がA殺害に関連しているか少なくとも被告人がAの死亡事実を知っていたからこそそのような態度に出たものと考えられ、A殺害の情況証拠のひとつになり得るということができる。
これらに対し、所論は、殺人の事実を認めながらその細部について話さないとか或はその供述内容が区々であるというのは不自然で、被告人が真犯人でないことの証左であるというが、犯人が事件の大筋を認めても、その動機とか、計画性の有無、或は犯行の一部(本件の場合、例えば被告人が特にこだわる男性器切除の事実)に隠しておきたいことがある場合には、その点に関して虚構のことを述べる事例は珍しくなく、この場合に嘘の供述の矛盾を追及され辻褄合わせのため更に別の嘘を述べ、そのようにして供述が変転することは普通みられる現象であるから、供述の変遷が顕著であるからその全体が虚構のものであるなどとはいえない。この点に関連し、所論は、被告人の自白からはAの死体の陰部が切除された原因や方法が判明せず、事件の最大の特異点に言及していない自白は信用性を欠いているというけれども、原審証人白石忠司の供述によれば、被告人が河原における殺害を認める供述をした際、ほかに何かしていないか訊ねたのに対し、被告人が非常に狼狽した態度を示しその点の供述を拒否した事実が認められ、これは暗黙に陰茎切除を認めた趣旨と解されるばかりでなく、被告人は他の機会に、自分の倫理感に反するようなことを認めるわけにいかない等と述べる一方で、憎しみから切ったとか、諸悪の根源であるから切ったとか、頭が混乱していたので切ってしまったとか供述していることも認められるのであって、被告人が男性器切除の動機、方法等について明確な供述をしていないからといって、自白が全体として信用性を失うということにはならない。
また、所論は、被告人のいうような方法で死体を緊縛、梱包、運搬することが不可能であるというが、捜査段階、原審及び当審においてそれぞれ実験が行われ、それが必ずしも不可能でないことが確認されている。もっともこれらの実験は、犯行現場におけるものでなく厳密な意味での犯行状況の再現実験といえないが、もともと被告人の自白によっても犯行時に使用した段ボール箱の大きさとか、箱詰梱包の仕方などがはっきりしておらず、Aの体重すら不明であるうえ、被告人の体力技能などといった最も重要な要素を考慮外にして、とりあえず死体の緊縛、箱詰め、積込、運搬がどの程度の困難性を伴うものか一応の目安をつけようとしたにすぎないから、実験方法が厳密性を欠いているなどという所論は実験の意義を正解しないものである。なお、当審でした段ボール箱詰め死体の普通乗用自動車後部座席積み込み実験は、ダミーを詰めた段ボール箱の総重量を64.6キログラム(鉄亜鈴を加えたダミーの重量は56.5キログラム)にして行ったが、Aの一五五ないし一五八センチメートルという身長や解剖結果による腹部の皮下脂肪厚1.5センチメートルというデータから予想される肥満度(所論がいうほど肥満体でない)に照らして右重量は妥当なものである。
そのほか、所論は、段ボール箱等の入手に関する被告人の供述が不自然であるというが、当審における検証の結果でも、被告人が述べているような方法で段ボール箱等の入手ができることが確かめられているし、また所論が、ホテルの血痕の状態が自白内容から推測される血の広がりや飛散状況と余りにも食い違うと主張する点は、後に述べるように、矢野の血痕の状況についての供述が必ずしも正確とはいい難いうえ、この点に関する被告人の自白自体も具体性に乏しいことに徴すると、矢野供述による血痕と被告人の自白から推認される血の状況とが、必ずしも符合しない点があるとしても、被告人の自白の信用性に影響を来すものでない。更に、所論は飛沫血痕が残されていないのは不自然であるというけれども、現場からシーツやベッドパッド、枕等が失くなっているから、これらの物に飛沫血痕が付着していたかも知れず、またシーツ等を被せて殴打したとすれば血が飛散しないこともあり得るのであって、いずれにしても室内に飛沫血痕がないのは不自然であるなどとばかりはいえない。なお、所論は、ホテル室内は緊縛、梱包作業をするのに狭すぎるというが、ベッドを片寄せれば足りることであるし、また、凶器となるような灰皿が室内になかったともいうが、原判決は凶器についてそれが鈍器であるとのみ認定し灰皿と特定していないから、論旨はその前提が誤っているというほかない。その他、所論は自白の信用性に関して、いろいろ言うけれども記録に照らしてすべて理由がない。
五 A殺害事実と被告人との結び付き
(1) Aの死体が遺棄されていた場所を被告人が知っていた事実について
所論は、要するに、原判決は、被告人において、捜査官がAの死体が遺棄されている場所について知る以前に、他のいかなる情報に基づくことなくしてその場所を知り、これを捜査官に説明したことをもっていわゆる秘密の暴露のひとつとし、被告人とA殺害とを結び付ける重要な情況証拠に当たると認定判示しているが、本件死体遺棄場所は新聞でも報道され、一方Aが行方不明になっている事実も警察で情報を入手していて、これらの事実は捜査関係者にとって容易に知り得た事柄であったから、Aの死体の遺棄場所はいわゆる「秘密」に当たらないばかりでなく、被告人が捜査官に対して述べた場所は同人の死体の所在場所でなくそれとは別の場所であり、そうでないとしても捜査官が先に情報を入手しそれに基づき被告人を誘導して供述させたものであって、いずれにしてもこれが秘密の「暴露」に当たらないというべきであるから、この点において原判決には採証法則違反、事実誤認があるのを免れないというのである。
そこで、検討すると、記録によれば、既に述べたとおり、昭和五五年八月一三日ころ福岡県筑紫野市大字柚須原の杉林の中から男の変死体が発見され、全裸で足を縛られ頭蓋骨が打ち割られ男性器が切除されていたことから他殺死体であることが一見して明白であったので、地元警察が殺人事件として捜査し被害者の身体的特徴等を公開してその身元確認に努めたが、身元が全く確認できずやがて事件は迷宮入りしてしまったこと、一方、Aに関しては、昭和五八年二月ころ、北陸銀行渋谷支店に情報収集に立ち寄った警察官が銀行係員からAが昭和五五年七月ころから姿を見せなくなり代理人と称する者が預金を下ろしに来たりして不審があると聞き込み、その翌年からAの所在調査やその財産の移動状況等の捜査に取り掛かり、同人が死亡している疑いが出てきたので、身元不明者写真便覧によって調べたり、Aが治療を受けた歯科医から資料の提供を受けて捜査したがその生死や所在を確認するに至らなかったこと、このように本件死体とAとの関連が判明しなかったのは、本件の内偵捜査が開始されたころは九州の殺人事件は被害者不明でとうに迷宮入りしていたうえ、Aの離婚した妻が供述するAの血液型がAB型なのに(後になってAの手帳の記載から同人がA型であることが判明した。)公開捜査の変死体の血液型がA型であったという事情等によるものであることが認められる。
被告人は、原判示第八、第九の私文書偽造、同行使、公正証書原本不実記載の容疑等(逮捕状の記載によれば、Aが昭和五五年七月一五日ころから所在不明になっているのを奇貸とし、恣に同人の住民登録及び印鑑登録等をし、更に同人所有の宇田川町のビルについて勝手に所有権移転登記手続きをしたなどというのである。)によって、昭和六〇年七月一六日に警視庁に逮捕され、逮捕直後の被告人の弁解は、Aは所在不明でなく住民登録をした場所に実際に住んでいるというのであったが、間もなく同人が昭和五五年七月中ころ台湾女性二人と羽田から台湾に向かいそれ以後連絡がつかなくなっている旨述べ、その後、同人と会った最後が昭和五九年であるとか昭和五七年であったとか供述を二転、三転させながらも、同人の所在不明を認める点では一貫した供述をしていた。昭和六〇年七月下旬になると、昭和五五年の七月二五日に博多のアーバンホテルでAと会い、レンタカーで太宰府方面に行き、そこの山中の小川のあるところで同人と別れたきり会ってないと具体的な供述をするに至り、博多のホテルの宿泊事実とかレンタカーの借り受け事実等について裏付け捜査をして貰えば、逮捕状にあるように同年七月一五日ころからAが所在不明になっているというのが間違いであることがはっきりするなどと申し述べた。しかし、捜査官が容易にその供述を信用しなかったため、被告人は、更に、昭和六〇年八月四日の取調べにおいて、Aと別れた場所であるという太宰府の山中の小川の辺りを描いた図面一葉及び被告人の七月二五日の行動内容を細かく記載した書面を作成し、これを捜査官に差し出した。
記録に編綴されている前記図面によってその内容を見ると、図面の下方に太宰府に至る舗装された広い道が描かれ、そこから上方(太宰府方面から来て左方)に分岐する砂利道があり、砂利道の両側は杉林で、右分岐点から一〇〇メートル程登った地点の左方に自動車が駐車できる程度の平坦な空地があり、右空き地の反対側は石ころ河原になっていてそこにブルドーザーが置いてある状況が描かれ、河原の向こうは杉林で、杉林と石ころ河原の間に幅三メートル位の小川が流れている様子が描かれている。更に、右小川の付近で休憩した旨の説明書きや、砂利道をさらに登ると道の右側に関係者以外立入禁止と書かれた立て札が立っている様子も記載されている。
前記図面が作成された直後、その図面を携え九州に派遣された捜査員は、結局、図面に描かれている場所も、被告人のいうホテルやレンタカー営業所の所在地も捜し当てることができずに帰京したのであるが、後になって、この図面に描かれている場所とAの死体が遺棄されていた場所とが、一見して同一場所であることが明らかなほど良く似ているうえ、この図面に描かれている石ころ河原で当時長谷積がブルドーザーを入れ採石事業をしていた事実も確認された。
そこで、被告人が死体遺棄現場に酷似した図面を描くことができた理由はなにか、またもし真実被告人がA殺害の真犯人であるならば、わざわざ捜査の焦点を太宰府の河原に向けさせるような供述をした理由は何故かが当然問われることになる。
前者の点に関し被告人が原審において説明するところによると、被告人が前記八月四日の図面に描いた場所は被告人がAと訪れた場所でなく、A失踪後間もなく新聞報道で太宰府で変死体が発見されたことを知り、Aの消息が判らず気になっていたので西日本新聞を現地から取り寄せ、昭和五五年の九月か一〇月ころその記事を頼りにその場所を訪れ、道路から現場と思われるところを望み見た際の情景を記憶にしたがって描いたものであるというのであったが、原判決において望見しただけでは小川の有無が判らないこと等を指摘されるや、更に当審に至って、そのとき描いた場所は昭和五五年七月二五日にAに連れられ土地の検分と値踏みに訪れた場所(この場所は、西日本新聞の記事を頼りにタクシーの運転手に案内された場所と全く違っていたという。)を描いたもので、Aの死体発見場所とは関係ない旨述べるに至った。このように、被告人は、右図面に描かれた場所がA殺害と関連性がないことを主張するのであるが、Aの死体が発見されたころ、地元の西日本新聞が写真、地図入りでそのことを報道した事実があり、被告人も当時その新聞記事を見たことがあるというけれども、その報道内容からは、山に登る道が砂利道であることとか、左方に空き地、右方に河原があって、そこにブルドーザーが置かれていることとか、石ころ河原の向こうに小川が流れていることなどを知り得ないことが当該新聞記事と比較対照して明らかであるから、新聞の報道内容に基づいて前記八月四日の図面を描いたものでないことは明確であり、右図面が作成された経緯が前記のとおりであるとすれば、捜査官においてその場所を知らず捜査官が被告人を誘導して書かせるということもあり得ないことであるから、被告人においてその場所に行ったことがある点は間違いないと思われ、しかも、右図面の内容がその場所(被告人のいう道路でなく、死体の遺棄されている付近の場所)に行ったことのある者でなければ到底描くことができないものであることや現実にその場所からAの他殺死体が出てきたことに徴すると、被告人がその場所をA殺害事実との関連において知っていたことは否定できないというべきである。被告人は、当審に至って前記のとおり右図面の場所はAと土地の下見に行った場所であるという新たな弁解をしているが、その内容が全く不自然であるうえ、当審に至って唐突に言い出された理由もはっきりせず、到底措信できるものではない。
次に、被告人が、捜査官が思ってもいなかったAとの九州旅行の話や太宰府山中のことを自分から言い出した理由について述べるところは、逮捕当初はAと九州に行ったことを忘れていたが、逮捕から一〇日程経過したある日突然九州旅行をしたことやその時期が昭和五五年七月二五日ころであったことを思い出し、逮捕状にAが所在不明になったのが七月一五日ころとあるので、その後にもAが生きている事実を証明したいために申し述べたというのであるが、当審証人加藤栄三の供述並びに同人作成の捜査メモの記載によれば、被告人は、逮捕直後の昭和六〇年七月一八日に行われた勾留質問の際、被告人の押送を担当した前記加藤に対し、雑談の中で、昭和五五年七月下旬ころAと九州に旅行しレンタカーでドライブしたことがあるなどと話した事実が認められるから、被告人がそのことを忘れていたという弁解が真実に反していることは明らかである。被告人が当審に提出した平成三年六月四日付上申書によれば、被告人は、捜査官にあれこれ質問して九州太宰府でAの死体が発見された事実がないかどうかを聞き出し、捜査官から、太宰府山中から出た死体は照合の結果Aでないことが確認されているという回答を得、そこで初めてAと太宰府の山中に行ったことがありその日が昭和五五年七月二五日であると具体的な日時や場所を言い出したことが認められるのであって、被告人が九州旅行のこととか、太宰府の山林のことなどを供述するに際し、慎重に機を窺い被告人なりに供述結果の安全性を確かめたうえで言い出した経緯が窺知できることからすれば、被告人は、捜査官が太宰府山中の変死体がAでないと誤信しているのを奇貸とし、敢えて太宰府の山中のことを持ち出し、捜査官が考えているA死亡の時期より遅い時期までAが生存していたことを主張して当面のアリバイを証明すると共に、Aが自己の行為と関係なしに死亡したことを印象づけ、もってA殺害事実を闇に埋もれさせようとしたものと考えられる。
更に、記録によれば、被告人は、昭和六〇年八月九日から被告人の取調べに当たった検察官佐々木善三に対しても、昭和五五年七月二五日にAと太宰府の山中で別れたこと、その後同人が家賃取立日や債権の返済を受ける期日に現れなかったことから死んでいるのではないかと思っていた旨供述し、昭和六〇年八月二三日の取調べにおいて、Aと車で嬉野温泉に向かう途中太宰府の山中の小川の辺で休息し水遊びをしていると、Aが自分の方に向ってこようとして川の中で転倒し川底の石に頭を打ち付け鼻と口から血を出して倒れたので、杉木立の中に引き上げ放置してきた旨を説明し、「Aさんは恐らくそのまま死んでしまったものと思う。」「しかし太宰府近辺で死体が見つかったと言うニュースや新聞報道もなかったので、どうなっているのかと思っていた。」「現在まで死体が発見されていないということは、大雨で流されたか土砂で埋まっている可能性がある。」等と供述し、Aの遺体のある場所について、日本分県地図地名総覧の福岡県の地図の筑紫野市の辺りの「岩本」とか「坂部」の辺を指で示し「大体場所はこの辺りだと思います。」「明日にでももっと詳しい地図を用意して貰えば更に具体的に特定します。いずれにしても、Aさんの遺体がある場所については良く記憶しているので、図面を書いてみます。」と言って図面一葉を作成し、右説明を受けた佐々木検事が筑紫野警察署に電話して裏付けを取ろうと試みたが、当直員しかいなくて要領を得なかったため、その日はそれ以上尋ねることを断念したこと、翌二四日、佐々木検事が被告人に太宰府の二万五千分の一地図を示して取調べたところ、被告人は、三郡山の「航空監視レーダー局」の記載を指示し、「これじゃないか、これに上がる道の途中に現場がある。」と言い、右地図のコピーにボールペンでそれらしい場所三箇所に丸印を付け、「この三つの内のどれかでしょう。」と述べ、佐々木検事の求めに応じて、Aを放置してきた場所について前日作成したよりも更に詳しい図面を作成したうえ昭和六〇年八月二四日と作成日を記載して署名指印し、更に佐々木検事に言われ前日作成した図面にも昭和六〇年八月二三日と作成日を記載し署名指印したことが認められる。
作成日が八月二三日と記載されている図面と前記八月四日の図面を比較すると、八月二三日の図面には太宰府に通じる広い舗装道路が書いてなく、またブルドーザーとあったのがパワーシャベルに変わり、立入禁止の立て看板がなくなった代わりにNHKの中継塔か送電施設があるようになったほかは、車を停めた場所(造成地)、石ころ河原、杉林(杉木立)、山に登る道、小川らしい記載など、八月四日の図面と同じ場所を描いたものであることが一見して明白であり、石ころ河原と杉林の境から若干杉林に入った地点に横たわっている人体が描かれ、「放置した場所(埋まっている可能性あり)」と注記されている点が大きく異なっている。八月二四日の図面は、前二葉の図面を総合した内容で、杉林には下草があるとか、広い舗装道路はバス通りであるとか、車を停めた平坦な造成地の広さについて、車が五台くらい駐車できるとか、横たわっている人がAであるとか、石ころ河原と杉林との間に七〇センチメートルから一メートル位の段差があって杉林のほうが低くなっているなどの説明の記載がある点が僅かに相違している。
更に、記録によれば、佐々木検事は、八月二四日の調べで、被告人に前記のとおりより詳しい図面を作成させた後、昭和五五年七月二五日の朝からの行動を思い出して書くように求め、被告人がそれを書いている間に今度は現場付近の筑紫野警察署御笠駐在所に電話し、同駐在所の警察官に対し、バス通りから三郡山のレーダー局に上がる道の途中の左手に空き地があり、右手に石ころ河原のようなものがある場所があるかどうか尋ねたところ、同警察官は、今は造成地になっているところがかつてそのようになっていた旨回答し、造成地の右奥に小川が流れているか重ねて尋ねると、記憶にないが近場なので見に行ってくると言って自転車で確認に赴き、その結果、被告人が書いた図面にあるように小川が流れていることが判明した旨の連絡をしてきた。そこで、佐々木検事と代わった白石警部補が筑紫野警察署に電話して右場所の近くで変死体が出なかったか尋ねたところ、柚須原というところで五年前に白骨死体が発見されており、被害者身元不明で迷宮入りしているが、その死体発見場所が被告人が描いた図面の場所と似ていることが判明したことがいずれも認められる。
これに対し、被告人は、原審公判廷において、前記八月二三日付け、同月二四日付け各図面は、佐々木検事の誘導するままに記載したものであり、特に八月二三日付けの図面はその日に作成したものでなく、後日作成し日付を遡って書かせられたものであると弁解し、当審においても当初ほぼ同様の弁解をしていたが、当審の最終段階になってから、この二葉の図面は被告人が実際に行って見た場所を描いたものではなく、専ら想像して架空の場所を描いたに過ぎないなどと述べるに至っている。
しかしながら、佐々木検事の原審公判廷における供述によれば、前記のとおり、佐々木検事が、八月二三日の取調べにおいて、被告人が被害者の死体の手掛りとなるような図面を書いたので、地元の筑紫野署に架電したら、当直員しかいなくて満足な答えが得られなかったので、その日はそれ以上尋ねることなく電話を切り、翌日、二万五千分の一の地図を示して取調べをしたら、被告人がより詳しい図面を書いたので、これをもとに電話を掛け直して確かめたところ、初めて五年前にその場所から変死体が出ていることが判明した。このようにして、その時点では既に前記二葉の図面は出来上っていたが、八月二三日に被告人が書いた図面の方は作成日付も署名指印もなかったので、翌二四日に被告人の了解を得て作成日付の記載と署名指印をさせたというもので、佐々木検事の右供述に不自然、不合理なところは認められない。これに対し、被告人の右弁解は、同じ日に書いた二葉の図面のうち一葉について、検察官が後日被告人を欺き実際の作成日よりも作成日を遡って記入させ、秘密の暴露に関する証拠をねつ造したというのであるが、検察官が同じ日の取調べで同じ現場の図面を被告人に二葉書かせること自体不自然であるうえ、これらの図面は現場調査の手掛かりにするために被告人に書かせたものであり、しかもその原型となる図面は既に八月四日に被告人によって作成されていることなどに照らし、被告人の右弁解は到底措信できない。また、いずれにしても佐々木検事は本件現場をそれまで全く見ていないから、被告人を誘導して現場に酷似した図面を書かせられるはずなく、図面作成の過程で佐々木検事が被告人に対し、より詳細かつ具体的に書くことを求めたり、形を描くだけでなくその説明も書き加えるよう求めたことがあったとしても、これをもって不当な誘導であるなどということができないのは勿論である。更に、所論は、被告人が八月二四日の図面に描いた段差は昭和五五年当時にはなく図面作成時の現況を示しており、この一事を以てしても佐々木検事が誘導して書かせた事実は明らかであるともいうが、原審証人大塚保美の供述及び死体発見当時の現場写真によると死体のあった杉林はそこに至る平地よりも一段と低くなっていたことが窺われ、図面に描かれた「段差」という場所付近に、昭和五五年当時段差と表現しても不自然でないような高低差のあったことが認められることに照らしても、右段差の記載を根拠に佐々木検事による誘導をいう所論も失当である。
このように、被告人が、Aの遺体が放置されていた場所について、そこに行ったことがない者では到底描けないような正確、詳細な図面を描くことができたという事実は否めないところというべきであるから、これをもって被告人とA殺害を結びつける有力な情況証拠のひとつであるとした原判決の判断は正当である。また、死体が発見された場所自体は当時既に知られていたが、その死体がAであるという事実は被告人以外の誰も知らず、被告人がその場所にAの死体を放置してきたと供述し、それに基づきそれまで身元不明とされてきた死体について再検討がされた結果、右の死体がAであることが確認されたというのであるから、この点こそ、もっとも重要な秘密の暴露に当たるということができるのであって、その旨の原審の判断に誤りはない。
のみならず、被告人の供述するところによれば、被告人は、昭和五五年の夏ころから九州太宰府に関する情報に特別の関心を寄せ、七月末に同地に大雨が降ったとか、八月に太宰府の山中から変死体が発見されたという報道があったとか、通常であれば看過するような事柄を五年も経過した本件取調べ時まで記憶し、また、事件から三週間程たった頃の変死体発見の新聞記事を当時現地から取り寄せたりしていることが認められるのであって、このような一連の行動も、一種の態度証拠として、被告人とA殺害とを結び付ける情況証拠のひとつとして評価できるというべきである。
(2) 被告人が犯行日時ころ犯行場所付近に所在し、本件犯行の機会があった事実について
所論は、要するに、原判決は、被告人が昭和五五年七月二五日午前九時ころ博多駅前のレンタカー会社でレンタカーを借り受けていることなどを理由に、被告人がその前日から福岡市に来ていたとみられるとし、そのころ原判示の博多○○ホテル四一四号室の窓際のベッドに多量の血が付着し、同室に「よごしてすみません。」という内容のメモと五〇〇〇円紙幣一枚が置かれていた事実や、その部屋のシーツ、毛布、ベッドパッド、枕等が失くなっていた事実等が確認されたことによって、被告人のその旨の供述が裏付けられ、これらの事実から被告人がAの死亡推定日ころその死体発見現場に近接して所在していたことが認められるとし、これをもって被告人と本件犯行とを結び付ける情況証拠のひとつである旨認定判示しているが、被告人は同月二四日にはまだ東京に居たから、原判決は、その日に被告人が福岡市に来ていたという点において既に誤っているばかりでなく、原判示の日時に同判示のホテルの四一四号室のベッドに多量の血が付着していたとか、メモや五〇〇〇円紙幣が置かれていたとか、寝具類が失くなっていたなどといった事実は、これに添う矢野トメ子、川畑千代子らの供述が曖昧漠然としていて到底措信できず客観的に証明されたとはいえないから、これをもって本件殺人の犯行が前記ホテルの四一四号室で行われ、被告人がその犯行に関わっている証左とすることは許されないのであって、この点において原判決には採証法則違背、事実誤認があるというのである。
そこで、まず、被告人が福岡に赴いた日について検討すると、被告人は、捜査、公判を通じ一貫してその日は昭和五五年七月二五日であると主張し、前日にAから嬉野温泉まで車の運転を頼まれていたので、同人にレンタカーを予約して確保しておくように言い、二五日の朝一番の飛行機で羽田から福岡に赴き、レンタカー営業所に行って予約してあった車を借り出した(単独で借りたとも、また、ホテルでAと落ち合い一緒に借りたともいう。)旨を述べている。これに対し、原判決は、被告人自身のサインのある日産観光サービス株式会社博多駅前営業所の売上伝票控に記載されているレンタカーの貸渡開始時刻が午前九時となっていて、実際に引き渡された時刻よりも前に遡って伝票に時刻を記入することは絶対にないから、同時刻までに被告人がレンタカー会社に現れているのは確実であるとし、当日羽田を飛行機で発つと最も早い便でも福岡空港着が午前九時八分以降になり、また夜行列車を利用しても午前九時までに福岡に着くことができないこと、銀座のクラブ「メイ」の河西智恵子が従業員の七月の給料を被告人から受け取ったのが二四日の午後一時過ぎから午後三時ころまでの間で、それ以降被告人と会っていないと述べていること、被告人が経営する桜商興株式会社の電話連絡簿に馬場良治から同日午後三時ころ被告人の車のキーを借りるとか返すとかいう電話がかかってきた記載があること、Aが被告人に言われてレンタカーの予約をするなどということが両者の関係からして考えられないこと、その他、同日の午後に被告人を東京で見掛けたと言うものが前記河西以外に見当らないこと等を理由に、被告人の上記弁解を排斥し、被告人が二四日には東京を発って既に福岡に到達していた旨認定判示していることが明らかである。
しかしながら、原審証人立石輝雄、同萬場友章の各供述によれば、予約してレンタカーを借り受ける場合に予め申し出た使用開始時刻を貸渡開始時刻として記載する扱いが全くないわけでないこと、レンタカーは専らAの必要から借りるというのであるからAが予約手続きをしておいたとしても不思議はないことからすれば、売上伝票の貸渡時刻の記載が午前九時となっていることから直ちに被告人がその時刻までに営業所の窓口に所在していたとは速断できないこと、原審証人河西智恵子の供述によれば、五年も前のことなので問題の七月二四日についての記憶は判然としないが、従業員の給料日は毎月二五日でそれに必要な金は前日に被告人から渡されていたし、午後三時ころからは店の準備に取り掛かるので出勤前に受け取ったとすれば午後三時以前だと思うというのであるが、当審で取調べた出勤簿によれば同女は当日には欠勤していることが認められるから、同女が午後三時までに給料の金を受け取ったとする根拠がなくなってその供述の正確性が動揺せざるを得ないこと、馬場の留守番電話の趣旨が必ずしも明確でないこと、一方、被告人が、この点に関して一貫して九州行きは七月二五日であったと述べ、実際、被告人の二四日における九州の行動内容が何一つ証拠から浮かんできていないことなどの点に徴すると、被告人が九州に行った日を七月二四日とするにはなお合理的疑いが残るというべきであるから、原判決はこの点に関し事実を誤認した疑いがあるというべきである。したがって、本件犯行の日を七月二四日又は二五日とした原判決の認定は、一部修正を免れないことになるが、被告人が福岡市に来たのが七月二五日であっても、被告人が段ボール箱等を入手するためにホテルを出た時刻が若干ずれるなどの影響が生じるだけで、犯行の大筋に影響を来すものでないから、右の誤りは判決に影響を及ぼすものでない。
次に、犯行場所について検討すると、原判決が挙示する関係各証拠によれば、被告人は、昭和六〇年八月二三日に佐々木検事の取調べを受けた際、Aが昭和五五年七月二四日に宿泊した場所として福岡市博多区中洲のホテルの図面を描き、昭和六〇年八月二九日の警察官の取調べにおいて、始めのうちは太宰府山中の小川で頭部を石で殴打し更にビニール紐で首を締めて殺害した旨供述していたが、調べが被害者の陰茎が切除されている点に及びかけるといきなり前言を翻し、被告人が前記ホテルの六階の部屋に行ってみたら既にAが頭から血を出してベッドの上で死んでいたというのが真相である旨供述し、Aが死亡しているのをみてとっさにAの財産に目がくらみ、死体を処分しAの財産を自己のものとしようと邪な考えを起こし、古い間口の非常に広い店で段ボール箱等を入手し、死体をビニール紐で縛り血で汚れた寝具類と一緒に箱に詰め、太宰府の山中に運んで遺棄した、その際、二台あるベッドのうち窓際のほうのベッドの枕元の左側に多量の血が付着していたので、部屋の中に「よごしてすみません。」と記載したメモと五〇〇〇円紙幣一枚を置いてきたことなどを説明し、そのホテルの外観やAが死んでいた部屋の様子、更にAの死体を緊縛して段ボール箱に詰めた様子等を白紙に書いて提出したこと、被告人の右供述や作成した図面に基づき裏付け捜査をした結果、福岡市博多区<番地略>の博多○○ホテルが被告人の供述に最も近い位置、外観を呈しており、その四一四号室において、被告人が供述したとおり、昭和五五年七月ころベッドが多量の血で汚れ、五〇〇〇円紙幣と謝罪の言葉を書いたメモが置かれ、同室からベッドのシーツ、毛布、ベッドパッド及び枕が紛失していた事実が存在したことが判明し、前記の被告人の供述が裏付けられたことが認められる。なお、当審における事実取調べの結果によれば、警視庁捜査第四課の岩間四郎ほか三名の捜査員が、被告人が昭和六〇年八月三〇日ころに作成した中洲のホテルと題する図面及びホテルの内部の様子を描いた図面(これらの図面は、被告人が同月二九日に作成したという前記の図面をやや詳しく書き直したものと認められる。)のコピーを渡され、福岡に出張してその図面に描かれているホテルの特定その他の裏付け捜査をしてくることを命じられ、その際、上司からホテルを特定するうえで参考となる事項として、被告人が、その部屋は六階の階段から一つか二つ目の部屋でツインベッドが置かれ、窓際のベッド上に血痕があり、入り口に近いベッド上にメモと五〇〇〇円紙幣を置いてきたと述べている旨、口頭で付加説明を受けたこと、福岡に着いた岩間らは中洲を中心に自動車で巡回し、博多○○ホテルが被告人が描いた図面に酷似し、他に該当するようなホテルが見当らなかったので、右博多○○ホテルにつき血痕等に関して聞き込みをしたが、ホテル職員は心当たりがないという答えだったこと、その次第を捜査本部に報告したところ、ホテルの清掃関係を調べてみるよう指示され、株式会社シンコーが同ホテルの清掃を請け負っていたところから、当時シンコーから同ホテルに派遣されていた掃除婦を集め事情を聴取したところ、矢野トメ子がそのころ四階のツインの部屋の窓際のベッドに付着していた多量の血の清拭に苦労し、同僚の川畑千代子にベッドの掃除を手伝って貰った事実が判明し、しかもそのとき、被告人が言うように窓際のベッドのシーツ等がなくなっていてベッドマットが剥き出しになっており、メモと五〇〇〇円紙幣がその隣のベッドに置かれていた事実まで判明したことがいずれも認められる。
もっとも、所論が指摘するように、前記矢野が血痕を見たのは昭和五五年七月ころというだけで日についての記憶はなく、しかも血痕が広い範囲にべっとりと付着しベッドマットに染み込んでいたという状況から吐血ではないかと思ったと述べていること、同女の見たという血痕はベッドの向かって左端上部にあり、被告人が供述する血痕はベッドの向かって右端上部にあってその位置が符合しないこと、Aの身体の損傷として頭部打撃による頭蓋骨骨折と男性器切除が確認されているが、そこからの出血量は前記木村証言から一〇ミリリットルないし一四ミリリットル程度と推定され、矢野が見たと供述するほど多量ではない疑いがあること、当審証人山崎マツコの供述によれば、同女も同年九月ころ右四一四号室の床上に三〇センチメートル×三〇センチメートル大の吐血と思われる血痕があるのを見たと言い、同ホテルのフロント主任今永幹雄の供述によってもホテルのベッドが血で汚れているのは珍しいことではないことが窺われること、原審証人川畑千代子が矢野に言われ四一四号室のベッドの血の清拭を手伝ったことがあるが、血がいっぱいついているという印象ではないと供述していることなどに徴すると、矢野が証言した血痕の状況が果たして本件の七月二五日のものか或は別の機会のものか必ずしも判然とせず、同女に記憶の混乱がある疑いがないとはいえないが、ベッドの上に謝罪のメモと五〇〇〇円紙幣が置かれていたという事例はかなり特異なことであるから、矢野がいう血痕の状況そのものはそのときのものでないとしても、血痕でベッドが汚され、謝罪のメモと五〇〇〇円紙幣が置かれていたというのは事実と思われるから、原判決が、これら一連の事実をもっていわゆる秘密の暴露に当たると判示したことに誤りはないというべきである。なお、被告人がいう博多のホテルの出来事というのは、いずれも六階の部屋でのことをいうものであるが、矢野の同僚の栗原和子が当時つけていたルーム別割当メモによると矢野が昭和五五年七月に担当していたのは四階であったことが確認され、また四階のツインベッドの部屋は階段の隣の四一四号室であることが認められるから、この点は被告人の単なる記憶違いと認められる。
(3) 被告人がAの失踪直後から同人の実印、印鑑登録証その他を所持しこれらを使用していた事実について
所論は、要するに、被告人は、Aから同人の事業や財産の一切の管理、運用を任され、そのため同人から印鑑、印鑑登録カッド、手形・小切手帳その他の物品を預かり保管していたというべきであるのに、原判決がその入手経緯に関する被告人の弁解を不自然、不合理であるとして排斥し、本件殺人に関連してこれを入手したとする以外に考えられないと断じ、右所持の事実をもって被告人と本件犯行との結び付きの一証左としたのは、Aの性格や思考傾向、被告人とAのそれまでの交際関係について正しい理解を欠き、経験法則、採証法則に反し事実を誤認したものであるというのである。
そこで、検討すると、被告人が上記の物品を入手した経緯について述べるところは必ずしも一貫せず、捜査官に対しては、Aと取っ組み合いの喧嘩をし負けた相手が呆然としている間に取り上げたとか、Aが寝ている間にこっそり持ち去ったとか、見知らぬ二人組から一〇〇〇万円で買い戻したなどと供述していたが、原審及び当審においては、Aが被告人に一〇〇〇万円を融資するという約束をしながらこれを守らなかったために被告人の経営する前記桜商興が不渡小切手を出す羽目に追い込まれたことから、昭和五五年七月二三日にAと話し合い、この際右桜商興を倒産させ、今後は被告人がAの資金提供のもとにAの会社の有限会社第二企画及び株式会社A企画の経営に専念すること、それに伴い右二社の社判、手形・小切手帳、定期預金通帳、代表者印等は被告人が預かり保管することで合意が成立し、翌二四日にこれらの引渡しを受け、更に、Aが資金提供約束を守らなかった場合に備え同人の白紙委任状と印鑑登録カードを預かった旨供述し、更に当審の最終段階において被告人はAの実印についてはこれを預かった覚えがないと主張するに至っている。
しかしながら、記録によれば、Aは躁鬱病のため入院治療を受けたこともあって、もともとその性格、言動に破格のところがあり、対人不信感が強く極端な守銭欲を有し同人が他人に財産を任せるなどということはおよそ考えられないところであり、その中にあって、ひとり被告人がAの知遇を得て漸次同人の財産管理の相談に預かるようになっていたことが認められるものの、たかだか家賃の取立や銀行資金の出し入れ等の代行を任される程度に止まり、それ以上に、被告人がAの財産の管理処分を一切任されたとか、Aの共同事業者として、Aの会社を事実上自由に切り回すことができるような地位を取得したという客観的証跡はなく、被告人が、Aとの事業、財産管理、運用約束に基づいて印鑑、手形・小切手帳、その他の物品を預かったという弁解は到底措信することができない。また、被告人が、小切手金の支払いができなくて昭和五五年七月二八日に銀行取引停止処分を受けながら、その後新たな収入源が見付かった形跡もないのに、本件犯行直後から俄に金廻りが潤沢になり、Aの会社とは関係のない被告人自身の債務のために、同月三一日に大蔵屋に対し不動産購入代金の内金三〇〇万円を支出し(なお、当審の最終段階において被告人はこの三〇〇万円は前日福岡から戻ってきたAから預かった三〇〇万円の小切手で支払ったと主張するが、これが虚偽であることは明らかであるし、仮に被告人の弁解するように実母から一七二万円借り受けたことが事実だとしても、その分を除いても約一三〇万円を自己が支出したことになる。)、更にそのころ大和ハウス工業に工費一〇五三万円の住宅の建築を依頼し、同月三〇日に前金として一〇万円、翌月九日に内金七三万円を支出し、その他、妻子の生活費とか右桜商興の運営資金或は銀座のクラブ・メイの営業費等を支出するなどしていた事跡が窺われ、かかる金銭支出の原資としてはAの財産しか考えられないことからすれば、原判決が、その挙示する関係各証拠に照らして、被告人がAの死に関係してこれらを入手し利用していた旨認定判示したことに合理性がないといえないから、これに所論のいう誤りがあるとは認められない。
(4) A殺害の動機となりうる状況が存在していた事実について
所論は、要するに、原判決は、被告人において、Aのために小切手不渡りを余儀なくされ、もはや不動産関係の仕事を続けることができず自己の事業計画が頓挫したと考えて大層落胆するとともに、このような状況に至った原因は、ほとんど無報酬で使い走りのような事までして献身的に尽くしてきた被告人に対するAの裏切りにあると考え、同人に対し強い憤懣の情を抱くに至り、このとき、一挙に高まったであろうAとの感情的な軋轢や、両者の交際についての思惑の相違、Aの財産に対する乗っ取りの誘惑など、被告人がA殺害を企図するに至ったとしてもおかしくないような状況が揃っていたといえる旨判示しているが、このような判示は、なんら証拠に基づかない仮説であって理由不備であるというのである。
しかしながら、原判決は、その判決理由の冒頭において、Aが失踪する直前の同人と被告人との金銭的軋轢や感情面での対立について詳しく認定し、そこから合理的に推認することができるものとして所論が指摘するような諸状況を摘示しているのであって、原判決が、その挙示する関係各証拠から原判示のように推認したことに格別不合理なところはないから、これが証拠に基づかない単なる仮説であるとか、原判決が理由不備であるなどということはできない。
(5) ホテルのロビーで大きな段ボール箱を重そうに運んでいた不審な人物の存否について
所論は、要するに、原判決は、博多○○ホテルにおけるA殺害事実を裏付ける重要な情況証拠のひとつとして、昭和五五年七月下旬ころの昼ころ、同ホテルのフロントの前あたりで重そうな段ボール箱を台車を使わず引張って運び出そうとしている男がいて、フロント係が手助けを申し出たのに対し、怯えた様子で手を震わせながら頭も上げずに「結構です。」と断ったという事実を摘示しているが、右認定の根拠となっている原審証人今永幹雄及び同砥綿幸代の各供述は作為に満ちていて到底信用できず、原判示のような事実を認定することは到底許されないから、上記事実を認定しこれをもってA殺害の情況証拠のひとつとした原判決には採証法則違背、事実誤認の違法があるというのである。
そこで、検討すると、前記今永が上記のような光景を見たというのが昭和五五年四月から翌年一〇月迄のある日の正午ころという漠然としたものであるうえ、同ホテルでは呉服の展示会などでフロントの前を段ボール箱を運んで通る人も格別珍しいものでなかったこと、前記砥綿が今永から段ボール箱を運んでいた人の話を聞いたのが四一四号室の床のカーペットが血で汚された日であったというが、同室の床が血で汚れていた日は七月二五日ばかりでなかったことが前記山崎供述から認められること、右砥綿が七月下旬ころと供述したのは同僚の梶原が有給休暇を取った時期であったからであるというが、当時の梶原は休暇を取った時期は判然としない旨述べていることなどの点に徴すると、前記今永がその供述するような光景を現認したことに偽りはなくても、その時期についてなお曖昧さが残るというべきであるから、右現認事実を被告人の本件犯行と結び付けるのには合理的な疑問が払拭しきれないというべきである。しかしながら、この点を除外してもA殺害事実を肯認した原判決の結論が左右されるものでないから、右事実誤認が判決に影響を及ぼすとはいえない。
(6) 被告人がAの死後その財産を乗っ取りともいうべき態様で処分していた事実について
所論は、要するに、原判決は、被告人がAの死後その財産を乗っ取りともいうべき態様で恣に処分したとし、かかる事実は被告人がAを殺害したかその死亡した事実を知ってこれを隠蔽し、更にはその機会を積極的に利用していたことを意味すると判示しているが、被告人は、これらの行為をAの依頼に基づいてしたか、若しくはAの不在中にその財産を保全するため事務管理として行ったものであって、これをA殺害の情況証拠のひとつとみるのは誤っているというのである。
そこで、検討すると、原判決は、被告人が、株式会社A企画が有限会社宗建に対し有していた貸付金債権一五〇〇万円の弁済として額面六五〇万円の小切手二通の交付を受けてこれを領得したこと(原判示第二)、Aが所有する田園調布の邸宅に自己を権利者として所有権及び賃借権の仮登記をし、更にこれを他に売却処分したこと(原判示第三、第六、第七)、Aの定期預金を下ろし、又は差押えたりして費消したこと(原判示第四、第五)、Aが所有する宇田川町のビルを譲渡担保名下に被告人に所有権移転登記したこと(原判示第九)等の各事実を指摘し、これらの事実は、被告人がAの財産を乗っ取りともいうべき態様で処分したことを示し、被告人において、Aを殺害したか、その死亡しているのを知ってこれを隠蔽し、この機会を積極的に利用したことを意味するとして、A殺害の情況証拠のひとつに数えていることが明らかであるが、記録によれば、原判決が認定判示するとおりの被告人によるAの財産処分行為をすべて認め得るばかりでなく、その他にも、例えば、Aが代表取締役、同人の親戚、知人が役員をしていた有限会社キャピタル興業について、旧役員を全員辞任させ、被告人が代表取締役、被告人と深い関係にあった河西智恵子を取締役に就任させるなどの役員変更登記手続きをし、Aが株式会社東京ビルから賃借し他に転貸していた東京ビル三階フロアーの転貸料や、Aが所有していた渋谷の宇田川町ビルの賃貸料を被告人が収受し、東京ビルの家主と交渉し同ビル三階フロアーの賃借名義人をAから被告人に変更し、田園調布のAの邸宅を売却処分するまでの間そこに前記河西を住み込ませたりするなどの行為をしていたことが認められる。このように被告人がAの財産の処分行為ないし収益行為を日常的にしていたことに加えて、必要に応じAの委任状その他の書類を偽造し、Aの印鑑証明書を不正取得し、また、収受した金員等は恰も自己のものであるかのようにして費消していたことが認められるのであって、これら一連の行為態様をみても大胆、公然というほかなく、このように他人の財産の使用、収益、処分をする以上、後日Aが現れた場合に備え計算関係を明確にしておくなど何らかの措置を講じておくのが当然なのにそれをしてないところからして、Aが将来出現することなど全く念頭にない行為であり、同人が死亡していることを前提とした行動としか思われないことからすれば、原判決が、被告人の一連の財産処分行為等をもって、被告人が、Aを殺害したか、若しくは同人が死亡していることを知っていた一証左であるとしたのは相当であって、これに所論のいうような誤りはないというべきである。
(7) 被告人がAの消息に関し虚偽の説明をしたり不自然な態度をとっていた事実について
所論は、要するに、被告人は、Aの消息に関しことさら他人に虚偽の説明をしたり不自然な態度をとったりしていないのに、原判決が、被告人において、Aの失踪原因を隠蔽する目的で周囲の人に対しことさら虚偽の説明をしたり不自然な態度に出たものと認定し、これをもって被告人がAを殺害した情況証拠のひとつとしたのは間違っているというのである。
そこで、検討すると、原判決は、被告人が九州旅行から帰った後周囲の者に対し、Aが湯河原あたりに旅行に行ってるとか、アメリカに永住することになったとか、台湾に行ってしまったなど種々の不自然な説明をする一方、被告人と九州に行って以来所在不明の事実をAの肉親等にも告げなかった点を指摘し、これらの事実は被告人がAの失踪原因を知ってこれを隠蔽しようとしたものとして始めて理解できる旨判示していることが明らかであるが、記録によれば、原判決が指摘するような被告人の言動がすべて認められることに加えて、被告人は、昭和五五年七月二六日に帰京し、その二、三日後に河西智恵子に対し、Aは湯河原に旅行しているから留守番に田園調布のA宅に泊りに行かなければならないと話し、その後も同女に対し、Aはフランスに行って当分帰らないとか、国税局に追われ逃げてるとか、精神病院に入っている等と説明をしていたこと、同年七月末ころ原判示第二の金平一敏に対し、Aさんが権利証を貸金庫に入れたまま台湾に旅行に行ってしまって二、三週間帰ってこないので、登記は保証書でやって欲しいなどと申し向けていること、同年八月ころ株式会社東京ビル社長の斎藤勲に対し、Aは体調をこわし病院に通っており銀座の店は自分が任されたと申し向け、やがて同ビル三階フロアーの賃借名義をAから被告人に変更していること、同年九月ころ被告人の妹の夫であった肥田龍彦に対し、Aはアメリカに永住し事業一切を自分が譲り受けた、Aの田園調布の家も売りたいので買手を世話してくれ、Aの背広や靴も大部分置いていったので使えるものがあれば使ってくれなどと申し向けていること、そのころAの行きつけのホテルの客室係の渡部フサ子に対し、Aは田園調布の家を処分し伊東のマンションに移った、何というマンションか判らないと述べていること、同じくそのころ北陸銀行渋谷支店の網谷幸雄に対し、Aは一〇月まで外国旅行に行っているとか、帰国が遅れたが一二月末には帰るなどと説明していること、同年九月二七日に東京都大田都税事務所係員に対し、Aは二年くらいの予定でフランスに滞在中と話していること、同年一一月ころ前記桜商興の事務員の中村麻須江に対し、Aがノイローゼになりやたらに手形や小切手を乱発し、その尻拭いを全部俺がしなければならないと説明しながら、その後間もなく被告人がその小切手帳や印鑑等を所持しているのを同女に現認されていること、昭和五六年二月ころ原判示第六の山根夫妻に対し、Aが伊豆にいたので田園調布の土地建物の売買契約書に押す印鑑を預かってきた、Aには五〇〇万円渡しておいたなどと述べていること、同年三月ころ知人の岩田修一に対し、A社長は九州の実家に帰り山林を買うためにAに頼まれ田園調布の家を売ってやったなどと説明していること等の各事実が認められるのであって、このような諸事実を併せ考えれば、原判決の前記判断が正当であることが、ますます明らかであるということができる。
六 殺意の存在
なおここで被告人の殺意について一言すると、被告人が明確に殺意を認めたのは、太宰府の河原でAの頭部を石で叩き首をロープで締めて殺したという供述においてだけであり、佐々木検事に対しホテルにおける殺害を供述したときも「殺した」という表現をしているけれども、その内容は掴み掛かってきたので揉み合っているうち、花瓶ないし灰皿で殴ったら死んだというものであって、殺意に関する明確な供述といえない。しかしながら、被害者の致命傷は、頭蓋冠の頭頂後半から後頭に亘り中央から右方にかけて手掌面大の複雑骨折、後頭部に不整円状骨折及び亀裂骨折、大孔の後縁後方に孤状の陥凹骨折が存在することから推測される脳挫傷であると認められ、これらの傷は、細長い部分及び円形か円形に近い平面部分の攻撃面を備えた鈍体、例えば野球のバッド、中身の入ったコーラ瓶、ある程度の重量のある石や灰皿などで強打して生じうるとされ、打撃回数は少なくとも三回以上、打撃の強さは「成人が力一杯やらないとここまでいかない」(原審証人牧角三郎)とか、「後頭骨の大後頭孔の後縁の近くの亀裂骨折は間接骨折で外力が非常に強いとき、ひずみが寄って生じたと推定される」(当審証人木村康)ということからみて、極めて強力かつ執拗であったことが推認され、しかも、被害者の後頭部に打撃が集中していることからして、同人は、下を向いていたときか或は俯伏せになっていた状態かさもなければ背後から強打されていると思われ、このような攻撃の状況や強力かつ執拗な攻撃態様等からみて、被告人が、自己の行為によって被害者が死に至るであろうことを十分認識予見しながら犯行に及んだと認めるのが相当であるというべきことに加えて、その後、被告人が、被害者の男性器を切除するなど更に高度の侵害行為に及んでいるなどの点をも総合勘案すれば、被告人において、A殺害の犯意があったとすることに合理性がないといえないから、殺人罪の成立を認めた原判決に審理不尽、経験則違背、事実誤認の誤りはない。
七 結び
以上みてきたとおり、被告人が、昭和五五年七月二五日に博多○○ホテルの客室においてAの頭部を鈍器で殴打し死亡させた事実を認める供述をしていること、被告人の供述から、それまで捜査官が知らなかったAの遺体の所在場所や犯行場所と推認されるホテル、犯行が行われたという部屋の内部の状態やベッドに五〇〇〇円紙幣やメモが残されていた状況等が判明したこと(いわゆる秘密の暴露)、更に、広島駅におけるAの鞄の遺失事実を被告人が供述し、これに見合う事実の存在が裏付け捜査によって確認されたこと、その他、既に述べたように、被告人には本件犯行の機会があったこと、被告人が、Aがいなくなった直後から同人の印鑑、手形・小手形帳、預貯金証書等を所持し、多額の金銭を支出していた形跡があること、被告人にA殺害の動機となりうるような状況が存在すること、被告人がAの全財産を乗っ取りともいうべき態様で処分していること、Aがいなくなったことに関して周囲の者に虚偽の説明をするなど不自然な行動をしてきたことなど、被告人とA殺害とを結び付ける幾つかの情況的事実の存在が認められることに加えて、被告人が自白するような方法で犯行を行うことが必ずしも不可能でないこと等の諸事情を総合して、原判決が認定した日時の範囲内において、被告人が、原判示の場所において、同判示のような方法でAを殺害したという殺人の事実を認定した原判決に、合理的な疑いがあるということはできず、また、これに所論のいうような訴訟手続の法令違反(被告人の憲法三七条違反の主張は実質において単なる訴訟手続の法令違反の主張と認める。)も認められないから、弁護人ら及び被告人のこれらの点に関する論旨はすべて理由がないというべきである。
第三 弁護人ら及び被告人の各控訴趣意中原判示第二ないし同第九のいわゆる財産犯関係事実に関する訴訟手続の法令違反、事実誤認の主張について
所論は、要するに、原判示第二ないし同第九の各所為は、被告人とAとの間の共同事業契約によりAから与えられた代理権ないし処分権に基づくものであり、仮にそうでないとしても推定的承諾により適法に行われたものであり、委任状等も偽造といえず、公正証書原本に記載された内容も真実の権利関係に合致していて不実記載でないというべきであるのに、原判決が、これを認めず被告人を有罪としたのは、採証法則違背、事実誤認であるというのである。
更に、被告人本人は、Aの財産を保全するためした行為であるから緊急避難として違法性が阻却されるとも主張している。
そこで、検討すると、いわゆる財産犯関係事実の内容は、被告人が、A殺害後に、①株式会社A企画代表取締役Aが有限会社宗建に貸付けてあった一五〇〇万円の貸金の返済として同社から額面六五〇万円の小切手二通を受け取って騙取し、②Aの委任状を偽造し同人所有の田園調布の邸宅に被告人を権利者とする所有権及び賃借権の各仮登記をして公正証書原本に不実記載をさせて行使し、③AやA文高名義の定期預金支払請求書を偽造し金額五〇〇万円及び一〇〇〇万円を各一口、金額三〇〇万円二口の銀行定期預金を不正に払戻し、④Aの銀行定期預金一二四〇万円を取得する目的で、知人と共謀し、公証人役場において被告人が同人に対し金六〇〇万円の貸金債権があるような金銭消費貸借契約公正証書を作成行使し、⑤A所有の前記田園調布の邸宅につきこれを被告人が担保に取得していて自由に処分できるなどと申し欺き他人に一億四〇〇〇万円で売却処分して代価を騙取し、⑥Aの委任状を偽造して右買主に対し田園調布の邸宅の所有権移転登記を経由し公正証書原本に不実記載をさせて行使し、⑦知人を身代わりに仕立て区役所にAの虚偽の住所設定届と印鑑登録届をし住民基本台帳に不実記載をさせて行使し、⑧Aの委任状を偽造し同人所有の渋谷区宇田川町のビルを被告人名義に所有権移転登記し登記簿に不実記載をさせて行使したというものである。
被告人は、捜査、原審公判の各段階において、上記各事実につき、被告人がAの授権や許諾なくして行ったものであることを認める供述をしていたが、当審においてこれを覆し、前記のように主張しだしたもので、供述変更の理由として被告人が述べるところは、いままでは昭和五五年七月ころにAが死亡していると捜査官に思い込まされていたため、財産犯関係事実についてこれを認める供述をしてきたけれども、現在ではAが生きていると確信するに至ったので自白を撤回したというのである。しかして、被告人が供述するところによれば、昭和五五年五月ころ、Aがその経営する有限会社キャピタル興業の経営権を被告人に委譲し、更に、同年七月二三日及び同二四日のAとの話し合いで、被告人がAの事業の経営管理を全面的に引受け、Aが資金面の責任を持つことで合意が成立したというのである。なるほど記録によれば、Aが周囲の者に被告人を「うちの従業員だから頼むよ」と紹介したり、「これから一緒に事業をやっていく人」として紹介した事実が認められ、また、Aの税務申告手続を扱っていた依田に対し、「今後キャピタル興業の経理のことは被告人に任せるから聞いてくれ」といった事実も認められ、更に、昭和五五年八月五日付けのキャピタル興業役員変更登記申請書にはA以下旧役員全員の辞任届が添付され、被告人や被告人と親しい女性が新役員に選任されたようになっていることも認めらるけれども、前記キャピタル興業の出資者兼監査役でAの法律顧問であった佐藤正三弁護士が、キャピタル興業の経営者交替の話などAから聞いたことはなく役員変更登記申請書に添付されている同人の監査役辞任届は偽造されていると述べ、同様にキャピタル興業の出資者兼役員でAの経理顧問をしていた小林邦久も同人の役員辞任届は偽造であると述べ、Aの代表取締役辞任届が本人の筆跡でなく前記両名の辞任届とおなじ筆跡で書かれていることからすればこれも前同様偽造の疑いがあること、キャピタル興業がA所有の宇田川町のビルを一億五〇〇万円でAから買収したという昭和五五年五月二〇日付け契約書が存在するが、契約書中のAの署名が写真コピーであって不自然であること、被告人はキャピタル興業を譲り受けクラブ・メイを経営していたというが、メイはAが社長をしていた有限会社第二企画が許可をとって営業していたものであり、キャピタル興業はA死亡後の昭和五五年一一月にその営業許可をとっていること等に徴すると、被告人がキャピタル興業の経営をAから委任された程度のことはあったとしても、経営権ごと会社を譲り受けたという被告人の供述の信用性は極めて疑わしい。また、被告人が、株式会社宗建に対する一五〇〇万円の貸付とか、小平市天神町の一戸建家屋の購入や北陸銀行に対するA名義の一二四〇万円の定期預金の預入れ事実等を挙示して、これらが共同事業契約に基づいてされたものである旨主張する点は、関係者の供述によれば、株式会社宗建に対する貸付は株式会社A企画が行ったものであり、天神町の一戸建て家屋の購入は被告人の不動産事業の一環としてAと無関係になされ、北陸銀行の定期預金はA個人のものであることが明らかであるから、原判決が、被告人とAの間に共同事業契約の存在を否定し、被告人がAの秘書ないし鞄持ち的存在に止まっていた旨認定したことに所論のいう採証法則違背、事実誤認の違法はない。
のみならず、仮に、所論のいうように、被告人とAとの間に共同して事業を行うという契約があったとしても、それは、前記のような両者の関係からみて、Aは資金を提供する事実上のオーナーであり、被告人がAのために会社の経営面を担当するという複合的な委任契約と解され、かかる契約はAの死亡により法律上当然に終了するものであり、いわんや、被告人がAを殺害したのであれば、その信頼関係破壊の程度は甚だしく、委任関係は勿論存続し得ないものといわざるをえないから、このような事情の下において、被告人にAの代理権限が残存するとか、推定的承諾があるなどという余地はなく、また、緊急避難として違法性が阻却されることもないというべきである。
なお、被告人は、Aが所有する田園調布の邸宅に関して、昭和五四年ころAから売却処分斡旋方を依頼されていたもので、原判示の山根に売却した後その売却代金を昭和五六年二月ころ銀座の日航ホテルでA本人に渡している等と主張し、それ以外の原判示の行為についても、正当権限に基づくものであるか、又は被告人において権限がないことの認識を欠き犯意がなかったなどと主張するが、それらがすべて理由がないことは前記説示から明らかというべきである。
第四 被告人の控訴趣意中量刑不当の主張について
被告人の所論は、要するに、被告人がAの財産を入手する目的で同人を殺害したものでないことは原判決自体が認めているところであり、原判示第六の詐欺の被害者の山根夫妻が強制執行手続きによって被告人の銀行預金や不動産から合計金六六二四万円の配当を得、更に同人らが田園調布の邸宅に居住することで得た使用料相当額の利益をも考慮すると、同人等に関しては既にその被害の大半が回復されているというべきこと、加えて、原判決はAの死体の遺棄、損壊という起訴されていない余罪を犯罪事実として認定し、これを実質的に処罰する趣旨で被告人を懲役二〇年に処したとみられることからすれば、原判決の量刑は重過ぎて不当であるというのである。
そこで、検討すると、本件は、原判示のとおり、被告人が、不動産の売買斡旋を依頼されたことから知り合った原判示のAを殺害したうえ、同人の預金を引き下ろして費消し、同人所有の不動産を売却処分し、或は自己の名義に所有権移転登記をし、更に、Aの賃料債権等を恣に領得したうえ、これらの犯行に関連して不動産登記簿、住民基本台帳、印鑑登録原簿、金銭消費貸借公正証書原本等の公正証書原本類に不実の記載をさせ、或は私文書を偽造するなどしていたものであって、収得した財産的利益の総額が優に一億円を超えていること、これら一連の犯行態様はまことに大胆、巧妙、悪質というべきこと、A殺害の犯行に至る動機、経緯は必ずしも明らかでないけれども、頭部を強打して殴殺するという殺害態様や、身体の一部を切除し杉林の中に放置し腐乱するに任せたという殺害後の状況をみても、甚だ残忍、陰惨であって、非情、非道な犯行といわざるを得ないこと、被害者Aは、精神病による奇矯な言動のため妻と離婚し子ども達からも見離され、孤独な暮らしのなかで被告人と知り合い、被告人を重宝な雑用係として利用してるうちやがて事業の相談相手として重用するようになり、被告人の事業展開に資金提供面で協力するような態度まで示していたにもかかわらず、被告人の苦況を知りながらAが一〇〇〇万円を出さなかったため、被告人の経営する会社が銀行取引停止に追い込まれ、このことから生じた両者の軋轢が原因でA殺害にまで発展したものと考えられ、A違約の実態が被告人のいうとおりであれば被害者の側にも一半の責任がないといえないけれども、そのことが必然的に本件犯行に結び付くわけでなく、このことがいささかも犯行を正当化するものでないことは当然であって、犯情は極めて悪質であるといわなければならない。加えて、被告人において、本件で被害を被った者達に対し積極的に慰謝弁償の措置を講じた形跡がないこと、捜査、裁判の過程を通じ被告人に反省の態度が殆ど見られないことなどの点に鑑みると、被告人の責任は甚だ重いものがあるといわなければならない。
してみると、本件殺人が予め周到に計画されたものとは認められず、したがってAの財産処分も、殺害前から目論んでいたとまでいえないこと、被告人に特筆すべき前科がないこと、その他、記録から認められる被告人のために有利又は斟酌すべき諸般の情状を十分勘案しても、被告人を懲役二〇年に処した原判決の量刑(原判決が公訴提起されていない余罪を犯罪事実として認定し、処罰しているものでないことはその判文から明白である。)は、まことにやむを得ないところであって、これが重過ぎて不当であるとは認められない。量刑不当をいう論旨は理由がない。
よって、刑訴法三九六条、刑法二一条、刑訴法一八一条一項本文により、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官栗原平八郎 裁判官泉山禎治、同神作良二はいずれも転補のため署名押印をすることはできない。裁判長裁判官栗原平八郎)