大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和63年(ラ)126号 決定 1988年11月22日

抗告人 松本隆子

相手方 松本浩二

主文

原審判を取消す。

相手方の審判前保全処分(金銭支払仮処分)(横浜家庭裁判所小田原支部昭和61年(家ロ)第1001号事件)取消の申立を棄却する。

理由

一  本件抗告の趣旨は、主文同旨の裁判を求めるというにあり、その理由は、別紙抗告の理由記載のとおりである。

二  当裁判所の判断

1  本件記録によれば、以下の事実を認めることができる。

(一)  抗告人と相手方は昭和54年2月7日婚姻届をした夫婦であり、両名の間に同年11月16日長男精一が、昭和59年12月13日次男隆二が出生したが、抗告人は昭和60年1月20日から実家へ戻つて別居し、程なく右二子を引取つた。

抗告人は相手方に対し昭和60年6月3日夫婦関係調整、同居、婚姻費用分担を求める調停を申立て(横浜家庭裁判所小田原支部(以下右裁判所名については省略する。)昭和60年(家イ)第290号、同年(家イ)第291号、同年(家イ)第292号事件)、相手方も抗告人に対し離婚を求めて夫婦関係調整の調停を申立てた(同年(家イ)第333号事件)が、昭和61年3月3日婚姻費用分担を求めた調停(前記昭和60年(家イ)第292号事件)は不成立となり、家事審判法26条1項により審判に移行し(昭和61年(家)第176号事件)、昭和62年2月2日同居を求めた調停(前記昭和60年(家イ)第291号事件)も不成立となり、審判に移行した(昭和62年(家)第95号事件)がこれは同年3月19日取下げられた。

抗告人は相手方からさきの婚姻費用分担を求める調停事件につき昭和60年12月24日調停前の措置として毎月6万円宛の婚姻費用の支払を受けることとなつたが、相手方は昭和61年2月下旬にいたつてようやく昭和60年12月分と昭和61年1月分の合計12万円を支払つたのみで、その後の支払をしないので、昭和61年3月10日相手方に対しさらに前記婚姻費用分担の申立事件につき審判前保全処分(金銭支払仮処分)の申立をし(昭和61年(家ロ)第1001号事件)、同年4月11日に相手方は抗告人に対し同年3月10日から前記昭和61年(家)第176号事件の審判の確定に至るまで婚姻費用として1か月12万円宛(但し、昭和61年3月分は8万5000円)を支払うべき旨の審判がなされ、相手方は同年5月8日即時抗告をし、同月17日これを取下げた。

相手方は、右婚姻費用につき、昭和61年4月19日6万円、昭和62年1月5日3万円、同月28日3万円合計12万円の支払をしたのみで、昭和61年3月から昭和62年10月まで合計224万5000円の婚姻費用の支払をせず、その後も一切の支払をしないまま今日にいたつている。なお、抗告人はこの間の昭和61年6月18日前記保全処分につき履行勧告の申立をし(昭和61年(家ロ)第22号事件)、同月25日相手方に履行勧告がなされたが、相手方からの支払は得られなかつた。

(二)  ところで、抗告人は前記昭和60年1月20日の別居時に約300万円の預貯金を持つて出て、右金員及び実家の父母の援助で生活し、同年10月から昭和61年3月までは家政婦として働き月収6万円程度を得たが、昭和60年11月勤務先で腰を打つて負傷し、昭和61年3月長男の小学校入学のこともあり勤務をやめた。実家は父が○○を退職した年金月額約16万円で父母が生活しており多くの援助を望めない。このため、抗告人は同年7月15日生活保護法による保護の申請をし、○○○市福祉事務所長より同月22日同法による保護の決定を受け、生活扶助、住宅扶助、教育扶助を含め同年7月分11万9630円、同年8月分15万4630円、その後漸次増額して昭和62年11月分は18万0730円の受給を受け(うち住宅扶助は月額約3万5000円)、昭和61年7月からアパートを借りて二子と共に生活をしている。

(三)  相手方は婚姻当初は○○○○○○株式会社に勤務し、その後○○○○株式会社に勤務し、昭和60年には年額355万円余の収入を得、税金、保険料を控除して手取り月額約26万円を得ており、父所有名義の土地上に自己名義の建物を所有して居住し、なお、同一敷地上に当初未登記でその後母所有名義に登記された貸家3棟が存在するが、右貸家から月額約8万4000円の賃料収入を得ている。相手方にはアルコール審癖があり、昭和61年には6月から10月中旬まで、昭和62年には7月3日から8月31日まで入院し、このため昭和61年の年収は169万円余に、昭和62年のそれは270万円余に低減された(若干の休業手当の支給は受けた。)が、その後は通常に勤務している。但し、相手方は歯が悪く、その治療費としてこれまでに相当額の出資をしている。

なお、相手方は抗告人と婚姻する以前の昭和50年4月7日別の女性と婚姻し、女児(昭和50年10月10日生)をもうけたが、昭和51年10月4月協議離婚し、右女児は前妻が引取つて養育している。

(四)  相手方と抗告人の実弟川辺豊との間には、200万円の貸借があり、それが相手方の承諾の下になされたのか、抗告人が相手方に無断で貸与したのかということ及びその返済方法をめぐつて争いがあり、相手方は昭和60年11月右川辺豊の居宅のガラス戸や雨戸を木刀で損壊し、川辺豊より○○地方裁判所○○○支部に損害賠償請求訴訟を提起され、昭和61年12月和解により27万円を支払つたが、次いで抗告人は川辺豊に対し貸金200万円の返済を求めて昭和62年5月12日同裁判所に貸金請求訴訟を提起し(同裁判所昭和○○年(ワ)第○○○号事件)、現在係属中である。

2  そこで、前記昭和61年(家ロ)第1001号審判前保全処分(金銭支払仮処分)申立事件につき昭和61年4月11日にされた審判を取消すべきか否かを検討するに、抗告人は前示のとおり右審判後に昭和61年7月から生活保護法による扶助として月額15万ないし18万円余(但し、同年7月分は11万円余)の給付を受けるようになったが、生活保護法4条1項によれば、生活困窮者はその利用し得る資産、能力その他あらゆるものをその最低限度の生活維持のため活用することを要するものとされ、同条2項によれば、民法に定める扶養義務者の扶養及び他の法律に定める扶助はすべて同法による保護に優先して行なわれるべきものとする旨定められており、夫婦間の婚姻費用の分担が右にいう扶助に当たることはいうまでもない。そうすると、右審判後に抗告人が生活保護法による扶助を受けたとしても、これによつて夫婦間の婚姻費用分担の義務及びその必要性が消滅したものということはできず、前示のとおり相手方には昭和61年、昭和62年に病気による減収がみられるものの、他方、貸家からの賃料収入もあることその他前示認定の諸般の事情を考慮すれば、依然として右審判に定められた婚姻費用を支払うべき義務を負うものというべく、右審判を取消すべき事情が生じた旨の相手方の主張は採用することができない。

3  以上により、相手方の本件審判前の保全処分取消の申立はその理由がないものとして棄却すべきであり、抗告人の本件抗告は理由があるから、これと結論を異にする原審判を取消したうえ、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 中村修三 裁判官 篠田省二 関野杜滋子)

抗告の理由

1 抗告人松本隆子と相手方松本浩二は昭和55年2月7日に婚姻しており、両者の間には現在8歳の小学生と3歳の学齢前児童が存在する。抗告人は同60年1月19日相手方母により婚家を単身で追い出され、その後長男及び次男も婚家を出されて抗告人の養育に委ねられ現在に至っている。相手方はその後抗告人に対して全く生活費を支給しようとしないので、抗告人は止むを得ず同年6月3日に横浜家庭裁判所小田原支部に対して緊急に婚姻費用分担、夫婦同居、婚姻関係円満調整等の調停申立を行った。

2 しかし前記小田原支部はその後半年余にわたり調停期日を開かないところ、抗告人はその間に所持する預金等を費い果たし、しかも実家の父は○○を退職した年金生活者で援助も得られないことから、自ら家事手伝の仕事を得て稼働中に誤って階段で転倒して骨盤にひびが入って重傷を負うという事態を生じた。そこで抗告人は前記小田原支部に対して再三にわたり調停期日の早期指定を督促するとともに、昭和60年12月6日に前記小田原支部に対して調停前の仮処分による金銭の仮払を求める申立を行った。

3 前記小田原支部は昭和60年12月24日仮処分の当否のみを判断するという条件で調停期日を開いたが、全体の事情が判明しないという理由で同日取り敢えず家事手伝の収入分として毎月金6万円の仮払を命ずるに止まった。その後翌61年3月3日に調停期日が開かれたが、相手方は格福な家に育ち両親が居住家屋と貸家3軒を建築して家賃収入まで得ているのに抗告人に対して生活費を交付することを頑強に拒否し、そのため同日婚姻費用に関する調停は不調となり直ちに本件審判に移行することとなった。

4 ところで抗告人は毎月6万円の仮払による収入で2人の男児を抱えた生活を送ることが全く不可能でその生活の困窮は極めて深刻なものとなった。抗告人は昭和61年3月10日前記小田原支部に対して審判前の仮処分により婚姻費用の仮払を求め、その深刻な事態を充分説明した結果、漸く毎月金12万円の支払を命じる本件仮処分を得たものである。しかし相手方はこの仮処分に対して同年4月19日に金6万円を払ったのみでその後全く支払を行おうとしないので、抗告人の生活は更に深刻なものとなった。

5 抗告人は次々と借金を重ねるとともに骨盤のけがを無理して稼働したため遂に健康を害し病院に入院させられたが、そこで病院勤務のケースワーカ一が抗告人の生活困窮の事態に同情して民生委員に連絡し、○○○福祉事務所長は昭和61年7月22日抗告人に対して緊急の措置として生活保護法による保護を決定し、生活扶助、住宅扶助に教育扶助を含め7月分11万9,630円を決定し、更に8月分として15万4,630円を決定しており、その後も毎月これに準じた扶助額を決定して今日に至っている。

6 ○○○福祉事務所はこの生活保護の措置をとるに際して前記小田原支部の審判手続において充分相手方と話し合い事態の解決を図るよう指示しており、抗告人は自己の食事を切り詰めながら扶助額の不足分を補うよう努力するとともに、審判手続が早急に進行するよう努力して来た。本件婚姻費用審判は昭和62年末頃から漸く書証提出の段階に入り、抗告人は同63年2月3日現在置かれている状況を説明するため生活保護受給に関する書類等を提出し、相手方は貧困を理由に本件保全処分の取消を求めている。

7 この段階において前記小田原支部家事審判官は相手方の保全処分取消の申立に対して何ら申立人及び相手方から事情を聴取することなく、抗告人が昭和61年7月以降生活保護費の支給を受けていることの一事を理由に、「右事情の下においては、本案審判前の保全処分として申立人(本案相手方)松本浩二に対し昭和61年3月10日以後の婚姻費用の仮払を命ずる必要性は消滅しているものというべきであるから、上記審判前の保全処分は事情の変更により取り消されるべきである」と結論したものである。

8 前記原審判はすでに抗告人が昭和61年4月19日に受領した金6万円を含め仮払の必要性が消滅したと論じ、抗告人が相手方に前記6万円を返還すべきことすら窺わせるが、それはともかく抗告人が緊急の必要から止むなく生活保護を受けた事実が本来履行されるべき保全処分の取消事由に該当するという結論は常識的に全く妥当性を欠くのみならず、法令の解釈適用を著しく誤りしかも保全の必要性が消滅しておらず事情の変更も存在しないのに違法に保全処分の取消を命じたもので到底破棄取消を免れない。

9 原審判の取消理由は必ずしも明確ではないが、少なくともある程度の扶助金額により生活保護を受給している事実が存在すれば当事者間の個別的な事情を顧慮することなく夫婦間の生活保持義務に関する保全処分を取り消し得るという内容と認められ、これは明らかに生活保護の公的扶助を民法の私的扶養に優先させようとする前提に立つものと言うべきである。しかしこのような結論は生活保護の本質及び性格を見誤り、公的扶助の私的扶養に対する補完的役割を規定する実定法に明らかに違反するものである。

10 生活保護法はその重要な目的として第1条に「自立の助長」を規定しており、しかも第4条第2項に「民法に定める扶養義務者の扶養及び他の法律に定める扶助は、すべてこの法律に優先して行われるものとする」と規定して私的扶養の優先乃至保護の補足性の基本原理を宣明している。この補足性の原則は生活保護が最終的な扶助として無差別平等になされることの当然の論理的帰結であり、原審判のように生活保護を優先するとすればこれに劣後する民法の親族的扶養が法的義務として存在し得るはずがない。

11 この私的扶養優先の原則は生活保護法の保護の実施に際し充分に配慮されているものであり、例えば昭和36年4月1日厚生次官通達「生活保護法による保護の実施要領について」は第四の扶養義務の取扱において「要保護者に民法上の扶養義務の履行を期待できる扶養義務者のあるときは、その扶養を保護に優先させること」等と規定して私的扶養優先の原則の具体的実施乃至運用を命じており、更に第七の収入の認定においても要保護者の扶養義務者に対する調査等に関して綿密な調査要領等を指示している。

12 判例もこの私的扶養優先の原則を宣明しあるいはこの原則を前提として結論を下しているものが多く、例えば最判昭和46年6月29日民集25.4.650は生活保護法第4条第3項の「急迫した事情がある場合は、必要な保護を行うことを妨げるものではない」という規定の解釈に関して「例外的に保護を受けることができるのであり、必ずしも本来的な保護受給資格を有するものではない」と判断し、私的扶養優先が本来的な原則で本件のように同条項による緊急保護が例外的措置である点を強調している。

13 また本件のように生活保護を受けて未成熟子と同居中の妻が別居中の夫に対して婚姻費用分担を申し立てた事例で、大阪家堺支審昭和39年6月11日家裁月報16.11.156は「公的扶助を受けていることは相手方の扶養責任を免除乃至減少せしめるに値する事項ではない」と述べ、秋田家審昭和49年1月31日家裁月報26.9.73も「生活保護を受けて生活しているとはいえ、夫である相手方と著しく劣る生活をしているかぎり昭手方の婚姻費用分担義務が免除される道理はない」と判断している。

14 以上から明らかなとおり原審判がその判断の前提において生活保護を優先させた点は法令の解釈適用を誤った重大な違法が存在し到底破棄取消を免れない。もしこの原審判を是認するようなことがあれば、本件のように裕福な相手方が全く法的義務を無視して抗告人の困窮を招来させた上、生活保護を得させて法的義務の免責を得るという経過を是認することともなり、夫婦間の生活保持義務はもとよりその他の親族的扶養は形骸化し、家事審判の基本的構造も崩壊する重大な危険が生ずるものと言うべきである。

参照 原審(横浜家小田原支 昭63(家ロ)1002号 昭63.2.10審判)

主文

申立人松本隆子、相手方松本浩二間の昭和61年(家)第176号婚姻費用分担審判事件について当裁判所が同事件申立人松本隆子の申立(昭和61年(家ロ)第1001号)により昭和61年4月11日にした審判前の保全処分(金銭支払仮処分)は、これを取り消す。

理由

当裁判所は、昭和61年4月11日、本件本案事件である申立人松本隆子、相手方松本浩二間の昭和61年(家)第176号婚姻費用分担審判事件について、同事件申立人松本隆子の申立(昭和61年(家ロ)第1001号)により、同事件相手方松本浩二に対し昭和61年3月10日から本案審判確定までの婚姻費用として1か月金12万円ずつ(但し、昭和61年3月分は金8万5000円)の仮払を命ずる旨の審判前の保全処分をしたが、昭和62年(家ロ)第1003号審判前の保全処分申立事件記録によると、被申立人(本案申立人)松本隆子は、被申立人、当事者間の長男精一(昭和54年11月16日生)及び2男隆二(昭和59年12月13日生)の生活保護費として昭和61年7月に同月分金9万2885円、同年8月以後毎月当月分金15万円以上の支給を受けていることが認められ、右事情の下においては、本案審判前の保全処分として申立人(本案相手方)松本浩二に対し昭和61年3月10日以後の婚姻費用の仮払を命ずる必要性は消滅しているものというべきであるから、上記審判前の保全処分は、事情の変更により取り消されるべきである。

よつて、上記審判前の保全処分を取り消すこととし、主文のとおり審判する。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例