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東京高等裁判所 昭和63年(行ケ)290号 判決

一 請求の原因一ないし三は当事者間に争いがない。

審決は、本願は特許法三六条三項及び四項の要件を満たしていないとして、いわゆる記載不備を理由にこれを拒絶したので、以下にその当否を検討する。

二 成立に争いのない甲第二号証(本願の特許願書添付の明細書及び図面)、第三ないし第五号証(昭和六一年五月二三日付、同年一一月一五日付、昭和六三年八月二二日付各手続補正書)の本願明細書によれば、本願第一発明は、請求の原因四1(一)記載のような一般のレンズ、特に近距離撮影用のレンズの欠点を是正し、いわゆる間隔補正を採用し、正の二群からなるレンズ系の近距離撮影状態での新たな収差補正の手段により、大口径であつて、しかも無限遠から極めて近距離までの撮影領域において、優れた結像性能を有する近距離撮影用レンズを提供するものであること、正の二群からなる本願第一発明の構成(イ)ないし(ヘ)のレンズ構成では、近距離撮影時に両群の空気間隔、すなわち絞り間隔が大きくなるため、絞りが後群と一体に設けられる場合には、入射瞳(絞りの前方にあるレンズ群によつて作られた絞りの像)が物体より遠くへ移動し、レンズ系の入射する光束の光軸となす角度が小さくなるので収差(球面収差、コマ収差、非点収差、像面彎曲、色収差等、以下同じ。)補正が容易となり、また、絞りが前群と一体に設けられる場合には、射出瞳(絞りの後方にあるレンズ群によつて作られた絞りの像)が像から遠ざかり、レンズ系を射出する光束の角度が小さくなり、やはり収差補正が容易となること、このため本願の発明者は前後各群のパワー(屈折力)配分、すなわちみかけの明るさの配分を適当に均衡を保たせることにより、複雑なレンズ系とせずに至近距離時の収差悪化を少なくすることができることを見出したこと、しかし、従来の近距離撮影用レンズを大口径化しようとすると各レンズが厚くなり、無限遠の物体を撮影する際、十分なバツクフオーカスを得るための前後群のレンズの屈折力の適正な配分には各種の問題があつたが、本件記載(その記載内容は当事者間に争いがない。)は構成(ト)の条件式(1)、(2)の上限値及び下限値を設定することにより適正なパワー配分を示したもので、その技術的意義は請求の原因四2において原告が主張するとおりであることが認められる。

三 もつとも、本件記載は、前記のように、構成(ト)により設定された条件式(1)、(2)の上限値及び下限値とレンズの収差傾向との関係について、条件式(1)、(2)の数値が右上限値を越え又は下限値に達しない場合にはいずれも収差が悪化することを説明するものであるが、何故、右のような上限値及び下限値を採用すれば、その数値と収差との因果関係を確認できるかについての具体的な説明はなく、本願明細書に示された二つの実施例によるも、条件式(1)のf1/fの値については、二・〇八八と二・〇四〇が、条件式(2)のf1/f2の値については一・八〇三と一・八九四が示されるのみで、これらの数値から条件式(1)、(2)の上限値及び下限値を直接導くことはできない。

四 しかし、発明の詳細な説明に開示すべき構成は、当業者が発明の構成の有する技術的意義を理解し、それにより発明の内容を的確に把握し、その結果、その発明を容易に実施できる程度のものと認められれば足り、もとよりその技術的意義についての理論的根拠の説明までは必要なく、また、常に、すべてについて実施例による具体的な裏付が求められるものでもない。

かかる観点から、当業者が本件記載を本願明細書中の他の部分の記載をも併わせて読めば、本願の発明者が条件式(1)、(2)の上限値及び下限値を設定した理由又は意図を容易に理解することができ、そのうえ、右上限値及び下限値の範囲内にあるものとして開示された前記二つの実施例を参酌すれば、本願第一発明の技術的意義を把握することが困難であるとする理由を見出し得ないのであり、加えて、本願発明を追試した成立に争いのない甲第一一号証によれば、条件式(1)、(2)の数値がその上限値と下限値の範囲内にある場合と範囲外にある場合とでは収差傾向に差が生ずることが認められるから、右上限値及び下限値は、本願の発明者が既にその発明の過程において自らの経験により良好な収差を得ることができると認識した数値であると推認され、この推認を覆えし、この数値が全く根拠なく設定されたものであると断定すべき資料はない。

以上述べたところによれば、本願明細書の構成(ト)に示された条件式(1)、(2)に関する記載に審決指摘に係るような不備があるとまで認めることは困難である。

そして、成立に争いのない甲第九号証(共立出版株式会社昭和四七年二月五日発行「レンズ設計法」)によれば、一般的なレンズ設計手順として、レンズタイプの選定と性能の目標設定による設計構想を立て、次いでパワー配分を決定してから薄肉系の収差論を応用して概略の形状を決定すれば、その後は自動設計により設計に必要なデータを取得してレンズ系を作ることができることが認められ、このことが本出願前において当業者の技術常識であつたことは当事者間に争いがなく、前掲甲第二ないし第五号証の本願明細書によれば、本願明細書の発明の詳細な説明には、先ず、レンズタイプの選定と性能の目標設定による設計構想の決定として、正の屈折力を有する前群と、正の屈折力を有する後群とから構成し、両群の間に絞りを設け、無限遠物体から近距離物体への合焦に際して、両群の間隔を増大させつつ両群を共に物体側へ移動させることが記載されていること、次いでパワー配分の決定として前記のとおりパワー配分の上限値と下限値による適切な範囲とその意義、収差傾向が記載されていること、加えて薄肉系の概略を決定するについて参考となる二つの実施例が記載されていることが認められるから、構成(ト)が示す条件式(1)、(2)の上限値及び下限値の範囲内に具体的数値を設定した場合において、レンズの曲率半径、レンズ厚、空気間隔、ガラス屈折率など発明の詳細な説明に記載された収差傾向を得るための必要なその他の事項について、前記技術常識によつて自動設計により求めることができるものと認めるのが相当である。そして、このことは、当業者であれば、本願明細書の記載と技術常識により容易になし得るものというべきである。

そうであれば、本願明細書の発明の詳細な説明には、本願第一発明を容易に実施できる程度に構成が記載されており、また、特許請求の範囲には右記載に基づく構成が記載されているものと認めることができるから、その記載に特段の不備があるものとはいえない。

五 被告は本願第一発明の構成(ト)が示す条件式(1)、(2)の数値を設定しても、レンズ系の収差は一義的に定まらない旨主張する。右主張自体は肯認し得るとしても、本願第一発明は構成(イ)ないし(ヘ)が示す技術的事項のほか、構成(ト)が示す適正なパワー配分に関するもので、構成(ト)の条件式(1)、(2)からレンズ系の収差を一義的に定めようとするものではなく、前記四に説示したように、レンズ系の設計はパワー配分のほか、レンズタイプの選定、性能目標の設定、薄肉系の収差論応用による概略の形状の決定後従来技術常識とされているレンズ系の設計手順にしたがつてなされるものであり、本願第一発明もかような一般に採用されている技術を前提としているものであるから、被告の右主張は失当である。

また、被告は、甲第九号証により本願第一発明に係るレンズ系が得られるとは限らない旨主張する。しかし、甲第九号証は一般的なレンズ系の設計手順を示したものであり、これによつて一般のレンズ系の設計が支障なく行われていると推認されるのであつて、ひとり本願第一発明がその例外であることを示す特段の資料もない。被告の主張するように、本願第一発明に係るレンズの設計には時間をかけた各種検討を要する事項があるとしても、それは専門知識を有する当業者によりなされるところであるから、被告が主張するようにそのために気の遠くなるような時間を費やしたり、検討しても目的を達することができないなどということはあり得ないところというべきである。

六 以上によれば、本願明細書の発明の詳細な説明には、その発明の属する技術分野における通常の知識を有する者が容易にその実施をすることができる程度にその発明の構成が記載されており、かつ特許請求の範囲には発明の詳細な説明に記載された発明の構成に欠くことができない事項のみが記載されているものと認めることができる。

よつて、本願が特許法三六条三項及び四項に規定する要件を満たしていないとした審決の判断は誤りであり、その誤りは結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、これを取り消すべきである。そこで、本訴請求を正当なものとして認容する。

〔編注1〕本願発明の特許請求の範囲第一項の記載(本願第一発明)は左のとおりである。

「(イ)正の屈折力を有する前群と、(ロ)同じく正の屈折力を有する後群と、(ハ)前記両群の間に設けられた絞りとを有し、(ニ)該前群はその物体側に配置された正レンズと、像側に配置された物体側に凸面を向けたメニスカスレンズとを有し、(ホ)前記後群はその最も物体側に凹面を向けたメニスカスレンズとその像側に配置された正レンズとを有し、(ヘ)前記絞りが配置された両群間の空気間隔を増大させつつ該両群を共に物体側に移動することによつて無限遠から近距離物体への合焦を可能とし、(ト)無限遠合焦状態における全系の合成焦点距離をf、前記前群の焦点距離をf1、前記後群の焦点距離をf2とするとき、

<省略>

<省略>

の各条件を満足することを特徴とする近距離撮影用レンズ系。」(別紙図面参照)((イ)ないし(ト)の符号は説明の便宜上付したものであり、以下構成(イ)、構成(ロ)‥‥という。)

〔編注2〕本件における別紙は左のとおりである。

別紙(本件記載)

<省略>

<省略>

ここでfは全系の合成焦点距離、f1、f2はそれぞれ前群と後群の焦点距離を表わす。

(1)式の条件は前群に対する屈折力の適切な配分を規定するものである。この条件の下限を超えると、前群の屈折力が強くなりすぎて無限遠撮影状態においてバツクフオーカスを十分長くすることが難しくなるとともに、無限遠物体の撮影状態と至近距離物体の撮影状態での球面収差の変動が著しくなる。具体的には、前群の過大な屈折力のために、無限遠物体の撮影状態において良好に補正されている球面収差に対して、至近距離物体の撮影状態において輪帯球面収差が著しく発生する。この補正のためには前群を複雑な構成とせざるを得ない。他方、上限を超えると後群への屈折力の負担が相対的に強くなりすぎるため、至近距離での球面収差が著しく発生し補正が難しくなる。具体的には、前群の屈折力が相対的に弱くなるために、至近距離撮影状態において、前群及び開口絞りを通過して後群に入射する軸上物点からの光束が著しい発散状態となるために、球面収差が負方向に著しく発生し、この補正不足の球面収差を良好に補正することが難しくなる。後群の屈折力を強めることは前述したごとく大口径比化するためには有効であるが、至近距離物体に対しては不利であり、本発明のごとき高い撮影倍率を得るレンズ系としては上記の範囲に定めることが望ましい。

(2)式の条件は、前群と後群それぞれの焦点距離の比、即ち屈折力の配分を定めるもので、(1)式の条件とともに、明るくしかも至近距離を短くし高い撮影倍率を得るためのものである。またこの条件は(1)式の条件とによつて、前後両群の間隔を規定するものである。下限を超えると前群の屈折力が強くなりすぎて前群での諸収差量が増大する。即ち、下限を超えると、前群の屈折力が強くなり過ぎ、無限遠から至近距離への撮影状態の変化に伴つて、輪帯球面収差及びサジツタルの非点収差が過大に負に発生し易くなる。この非点収差及び非点隔差を補正するためには負レンズ成分の屈折率を低くする必要が生じ、外方コマ収差が過大に発生し、更に輪帯球面収差の曲りも大きくなる。この補正のために前群のレンズ枚数を増加し厚レンズ化することができるが、前群の像側主点がレンズ内部にくい込むため前後両群が最も接近する無限遠物体の撮影時に両群のレンズが干渉することとなり、十分な絞り空間を設けることが難しくなつてしまう。上限を超えると無限遠の撮影状態ではかなり明るくしても良好に収差補正が可能であるが、至近距離の撮影状態では諸収差の発生が著しく良好な補正を維持できなくなる。即ち、至近距離撮影状態での球面収差が負に過大になると共に、倍率の色収差が短波長側(g線)で過大に負に発生し補正が困難になる。又、歪曲収差も負に過大となり良好な補正が難しくなる。

別紙図面

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