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松山地方裁判所 平成元年(行ウ)1号 判決 1992年9月25日

原告

トータスエンジニアリング株式会社

右代表者代表取締役

清水忠夫

右訴訟代理人弁護士

稲瀬道和

被告

愛媛県地方労働委員会

右代表者会長

木村五郎

右指定代理人弁護士

西健

右指定代理人

足立欽一

中根実

中田孝

藤原照仁

補助参加人

村上元秀

主文

一  被告が愛媛労委昭和六二年(不)第一〇号事件について昭和六三年一二月二三日付けで発した救済命令中、主文第一項の部分を取り消す。

二  訴訟費用は、被告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

主文と同じ

第二事案の概要

一  事実経過(証拠を付記した事実以外は、当事者間に争いがない。人証については、適宜人証調べの開廷回数と調書の丁数を付記する。)

1  原告は、鉄工業を営む会社である。その内容は、船舶用ボイラーの製造販売が主体であったが、昭和五七年以来、造船不況のため売上高は下がっていた。そこで、その他の分野を拡大しようと試みていた。しかし、その成果は思わしくなく、昭和六一年七月から一二月までの間、約五億二七〇五万円の売り上げがあったが、約二八七〇万円の赤字を出した。そして、昭和六一年秋ころ、原告の取引先であった片桐工業株式会社(以下「片桐工業」という。)が倒産し、昭和六二年一月ころ、大口得意先であった南日本造船が倒産した。原告は、片桐工業関係だけで約六億円の負債を抱え、危機的な状況にあった。(<証拠・人証略>)

昭和六二年初めころ、当時原告の社長であった一宮能和及び副社長であった清水は、いずれも非常勤であり、原告の経営実務の最高責任者は、徳田文豪常務であった。同人は、責任を問われ、同年三月一日に自宅待機となり経営実務から離れ、同時に、片桐工業などへの融資に関与した楠利文総務部長が退職した。代わりに、右同日、三石が、日泉化学工業株式会社(以下「日泉化学」という。)から、原告の支配人兼総務部長として出向してきた。また、このころ、清水が常勤副社長に就任した。なお、同年四月、病気で休みがちであった中村設計部長が退職し、入れ代わりに野田技師長が設計部長に就任した。その後、野田は、同年五月一日行われた組織改編で技術管理部長となった。同人は、設計及び製造部門の長であり、設計部門の運営は、中岡富繁部長代理にかなり任せていた。同年九月の定時株主総会において、前記徳田は、任期満了により取締役を退任し、同年一〇月一日、清水は、原告の代表取締役社長となった(<証拠・人証略>)。

原告は、一宮グループの一員である。一宮グループは、株式会社一宮運輸、株式会社一宮工務店、日泉化学、青木工業株式会社(後出)など、全約二〇社で構成され、多数の株式を、一宮亀久雄とその一族が所有している。原告の親会社は、株式会社一宮運輸と株式会社一宮工務店である(<証拠・人証略>)。

2  原告の従業員は、約六〇名であるが、労働組合を組織している。原告とこの労働組合(以下「組合」という。)との間には労働協約(<証拠略>)が結ばれていた。その中には、組合員が除名された場合又は脱退した場合、会社はその者を解雇する、との条項がある(以下「本件ユニオンショップ協定」という。)。なお、前記協約中には、課長以上の管理職や試傭期間中の者、見習、臨時雇、その他会社と組合が協議した者などは、最初から組合員とならない旨定めている。なお、原告には、後記永井など、他社からの出向社員がいるが、いずれも組合員とはされていない(<証拠・人証略>)。

組合の書記長は、昭和四五年七月から平成二年五月一日まで、藤田であった。藤田は、昭和三八年原告に入社し、昭和六二年四月末当時、業務部係長補佐であった。

3  昭和五八年頃、原告は、製造部に配属された者を除く課長代理及び係長について、残業手当を一時間分支払わないこととし、組合も大会を開いてこれを了承する決議をした(<証拠・人証略>)。同年当時、この不支給の対象者は六名おり、うち組合員は二名であった(<証拠・人証略>)。うち一名は昭和五九年一一月二〇日退職し、一名は昭和六〇年四月一日課長に昇進した(<証拠略>)。

4  昭和五九年一一月一日、補助参加人(以下「参加人」という。)は、原告に臨時職員として雇用され、翌六〇年四月一日、正社員(設計部係長)となった。

5  参加人は、係長就任と同時に、前記不支給の対象となるはずであったが、現実にそれが始まったのは、昭和六一年一月二一日分からである。参加人は、これを不服とし、同年一〇月初めころ、書面(<証拠略>)により、松山労働基準監督署(以下「監督署」という。)に不支給の事実を通告して善処を求めた(以下「本件通告」という。)。同年一一月四日、監督署長から原告に対し、今後残業手当を全額支払うよう、是正勧告がされた。この時点での不支給対象者は、参加人を含めて三名であったが、組合員は、参加人のみであった。原告は、同年一〇月二一日分以後について、この勧告に従った。

6  原告は、参加人に対し、翌昭和六二年八月一八日、普通解雇の通知をした。

なお、昭和六一年一月二一日から同年一〇月二〇日までの残業手当は、この時点でも支払われていなかったが、昭和六二年八月二一日、参加人が監督署に対し、原告がこれを支払うようにしてほしいと求め、同月二四日、監督署から原告に対し、三か月分は遡って支払うよう勧告があり、原告は、二六日、参加人に、未払分全額である二四万九九八四円と利息一万四六四五円とを支払った(<証拠略>)。

7  参加人は、昭和六二年一一月四日、被告に対し、救済命令を申し立て、被告は、同六三年一二月二三日付けで、救済命令(<証拠略>)を発した。原告は、平成元年一月一九日、本訴を提起した。

二  争点(不当労働行為の成否)

1  原告が参加人を解雇したのは、本件通告を嫌悪したからか(不当労働行為意思)。

2  本件通告は、労働組合の行為といえるか。

第三争点に対する判断

一1  被告及び参加人は、参加人が残業手当の支払を強く主張し、本件通告以前に組合に善処を求めていたことから、原告が、右通告により監督署から是正勧告を受けた昭和六一年一一月ころから、参加人を排除しようと画策していた旨主張する。そして、次のとおり、それに沿うと考えられる証拠及び事実がある。

(一) 昭和六一年一一月、参加人は、藤田及び組合長久野守正(以下「久野」という。)と会談した。また、昭和六二年一月、参加人は、徳田、久野、藤田と会談した。(<証拠・人証略>)

参加人は、昭和六一年一一月の会談のとき、藤田から、徳田が藤田らに対し参加人を組合から除名するよう働きかけた旨聞いた、さらに、翌年一月の会談のしばらく前に藤田、久野と会談し、そのときも同じ話を聞いたと供述する。また、これらの会談で、藤田が、「除名はできんからな。」と言ったとも供述する(<証拠・人証略>)。

(二) 徳田は、昭和六二年二月一四日付けで経営改善計画書(<証拠略>)を作成した(<証拠略>)が、その中の機構図には、参加人の名が記載されていない。

(三) 参加人は、昭和六二年三月、中村設計部長、中岡設計部長代理らと会談し、そのとき、当時未払であった昭和六一年一〇月二〇日分以前の残業手当を支払うよう求めたと供述する。そして、昭和六二年四月一三日に清水、三石と会談した(後記)とき、清水から、残業代の請求などもってのほかと言われたと述べる。さらに、同年七月二五日、野田と会談し、設計作業表の提出を求められた(後記)ときも、前記残業手当の支払を請求したと供述する。(<証拠略>)

なお、参加人が、同年八月一三日に清水、三石と会談した(後記)とき、未払残業手当の支払を求めたことは、当事者間に争いがない。

2  しかしながら、原告は、右争いのない事実以外は否定し、次のとおり、被告ら主張に沿わない証拠及び事実が認められる。

(一) 徳田が、昭和六一年秋ころ、本件ユニオンショップ協定を利用して参加人を排除しようと、藤田に除名の話を持ちかけたかどうかについて、藤田は、徳田から話があったのは事実だが、その用件は、除名の依頼ではなかったと証言している(<証拠略>)。また、藤田は、昭和六二年一月に藤田と久野が参加人に会ったのは、参加人と徳田とが話をする直前で、三人で話をしたわけではないと証言する(<証拠略>)。

そして、徳田による除名依頼があったという参加人の前記供述は、伝聞にすぎない。しかも、参加人は、本件訴訟では、徳田から藤田にどのような話があったのかは明らかでないとも証言し(<証拠略>)、聞いていないとも証言する(<証拠略>)。

なお、前記の昭和六一年一一月の会談以前に、本件通告が参加人によるものであったことを、徳田らが知っていたのかどうかについても、参加人の供述は要領を得ない(<証拠略>)。

(二) 昭和六二年一月に参加人が徳田、久野、藤田と会談したとき、徳田が参加人に対し、辞めないでほしいと要請した(<証拠略>)、藤田の証言(<証拠略>)。これは、少なくともこの時点において、原告が参加人を排除しようとしていたと認めることを妨げる事実である。

(三) (証拠略)には、人員計画表及び解雇予定人員の名簿もある。そして、人員計画表では、設計部の人員は一名減一名増とされ、解雇予定人員名簿の中には、参加人は記載されておらず、設計部課長伊野次郎が記載されている(<証拠略>)。また、(証拠略)中、人員計画と題された部分には、他の解雇予定者についても、出向者を元へ戻す、高齢者を勇退させるなど、組合活動とは関係ない理由が記載され、現に定年退職した者もいる(<証拠略>)。これらの記載は、徳田が作成当時、参加人を排除する意思を持っていたと推認することを妨げるものである。

また、(証拠略)が作成された当時、前記のとおり、原告は危機的な状況にあった。徳田は、(証拠略)の組織表に自分の名を記入しているが、前記のとおり、昭和六二年三月から自宅待機となった。このような経過に照らすと、(証拠略)が作成された昭和六二年二月ころは、徳田自身の進退も問題になっていたと推認できる(<証拠略>)。そうすると、原告の経営改善を目的として、組合活動の盛り上がりを妨げるため参加人を解雇する、などということを、徳田自身が実際に考えていたかどうか、疑問を差し挟む余地が大きい。

(四) 残業手当の請求の経緯に関する被告及び参加人の主張にも、採用できない部分がある。

まず、参加人が、昭和六一年六月ころ、藤田に対し、不支給の理由を聞いたことは認められる(<証拠略>)。しかしながら、組合としての善処を求めたかどうかについては、それに沿う証拠はあいまいであり、反対の証拠もある(<証拠略>)から、これは認められない。

また、本件通告以後の経緯についても、参加人の供述に反する証拠があり(<証拠略>)、昭和六二年八月一三日以外の未払分の支払要求は認めがたい。そもそも、八月一三日を除き、参加人が主張する要求行為が賃金関係の責任者に対するものではないこと(<証拠略>)、監督署は昭和六一年一一月に「今後」支払うよう勧告したことから、原告としては勧告に従い是正済みと考えていたこと(<証拠略>)、原告の経営が危機にあり、その立直しが急務であったこと(第二の一1項)から、仮に参加人のいうような支払要求があったとしても、それは別の話の機会に偶々話題にしたというのであるから、原告に強く意識されるものであったとは考えがたい。

3  原告が参加人を解雇した理由について、被告及び参加人は、ささいな過ちをことさらに取り上げたもので、解雇の真の理由ではないと主張し、原告はこれを争うので、この点について判断する。

(一) 参加人の仕事の様子など、解雇に至る経緯については、次の事実が認められる。

(1) 参加人が正社員となる昭和六〇年四月一日より前は、参加人の仕事に問題はなかった。但し、原告は、仕事に慣れさせるという趣旨で、いずれも比較的簡単な仕事を与えていたようである。(<証拠略>)

(2) 原告は、昭和六〇年夏ころ、丸三産業株式会社(以下「丸三産業」という。)から、特殊水洗一号機の設計、制作、納入を受注し、その設計を村上に命じた(当事者間に争いがない。)。

丸三産業は、紙や綿を加工し、生理用品用の不織布を製造している。その一つの方法は、強い圧力をかけた水を綿に打ち付けるものであり、特殊水洗機とは、それを行う機械である。(<証拠略>)

この機械に関し、同年六月一〇日には、水洗機に使われるポンプの資料がポンプメーカーから原告に届いており、同月には、原告としての設計業務が始められていた。納期は、遅くとも同年六月二八日の丸三産業との打合せまでに、八月三〇日と定められた。しかし、参加人の設計作業は進まなかった。原告は、やむなく相当数の図面を外注に出し、出来上がった図面に基づいて機械を製造し、同年九月二〇日に納入した。ところが、参加人は、その後設計者が行うべき試運転への立ち会いや修繕改良などを拒否したので、原告は、特殊水洗一号機の設計担当を、中村保利に変えた。(<証拠略>)。設計と納期との間隔など、これに反する参加人の供述は、前記証拠と対比して採用できない。)

(3) 特殊水洗二号機は、昭和六一年七月初めころに受注し、納期は一〇月二五日とされた。設計部長代理中岡富繁(以下「中岡」という。)は、参加人とも打合せ、同人に設計を指示した。なお、当時、中村設計部長が病気で休んでおり、設計部長は、小林製造部長が兼務していた。ところが、参加人の設計が遅れたため、図面の大半を外注せざるをえなかった。この機械も納期に遅れ、現実に丸三産業に据え付けたのは同年一一月一九日であった。参加人は、据付工事に立ち会いを求められたが、これも拒否した。(<証拠略>。これに反する参加人の供述は、前記証拠と対比して採用しない。)

(4) 原告において、丸三産業への応対を担当していたのは、営業部の永井良一(以下「永井」という。)であった。永井は、職業訓練校の電子機器科を卒業し、昭和五二年五月、日泉化学からの出向社員として原告に入社し、当初、設計部で電気関係の設計を担当していた。ところで、原告は、丸三産業に納入していた圧力釜の維持修理を担当していたが、これは、電気関係の知識、技術を要するものが多く、設計部にいた永井が営業部員とともに丸三産業に行き、この仕事を行うことが多かった。そこで、原告は、永井を営業部に移し、丸三産業関係の仕事を担当させることとした。永井は、昭和六一年三月まで係長であったが、同年四月、課長代理に昇進した(<証拠略>)。

参加人は、永井の仕事の仕方について批判的であった。水洗一号機の仕事に関し、永井に対し、「お前は学校も出ていない。訓練場へでも行って来い。」などと暴言を吐いたこともあった。また、参加人は、製造部門の担当者らが設計の進み具合について問い合わせなどに来たときにも、暴言を吐いた。(<証拠略>。これに反する参加人の供述は、前記証拠やこれまで認めた事実に照らして採用できない。)

(5) 昭和六一年一〇月ころ、圧力釜の使用前検査の申請を急ぐ必要があったため、中岡は、参加人に、急いで申請書を作るよう求めたが、参加人は、今の仕事が先だと言い、これに従わなかった(<証拠略>)。

(6) 昭和六一年九月に復職した中村設計部長が参加人の仕事に対する取組みについて注意した外、同年一一月にも同部長と中岡設計部長代理は、<1>仕事のより好みをしない、<2>関係者と協力、協調して仕事をする、<3>仕事を納期に間に合うよう努めるよう、参加人に再び注意した。また、右(2)から(5)項の事実、2(一)項及び後記証拠によれば、前記同年一一月及び昭和六二年一月の会談(一1(一)項)では、徳田から、藤田らを通じ、参加人が周囲の者ともっと協調し、参加人の都合や主張だけを通そうとしないで仕事するよう求めることが目的で、除名するかしないかの話はなかったものと認められる。(<証拠略>により録音テープから正確に反訳したものと認められる。)の冒頭部分、(<証拠略>)。なお、参加人も、昭和六一年一一月の会談の際、藤田からいい仕事ができるはずだ、会社のために働いてもらわないかんと言われた旨、昭和六二年一月には徳田から永井の質問によく分かるよう答えてやってほしいと言われた旨、それぞれ証言する(<証拠略>)が、そのような事実も認められる。これに反する証拠は、前記証拠に対比して採用しない。)(ママ)

(7) 丸三産業は、昭和六一年秋ころ、原告に、レイヤー装置の改造を依頼してきた。これは、水洗機の一部分である。中岡は、参加人に見積もり設計を命じたが、なかなかできなかった。丸三産業が急いだため、中岡は、参加人と打合せ、参加人が昭和六二年二月初めまでに図面を出すこととしたが、現実に図面が参加人から提出されたのは二月半ばであり、原告は結局受注できなかった。(<証拠略>。これに反する証拠は、前記証拠と対比して採用できない。)

(8) 昭和六二年四月、原告の経営陣の交代を受け、原告の経営態勢のありかたについて打合せが行われたが、このとき参加人の勤務態度が問題となったが上司の野田部長から、「参加人が悪いという先入観で見ているのではないか。新規赴任の清水、三石、野田の三人で特別に指導してはどうか。学歴、年令からみても立派な社員になれると思う。」との参加人をかばう提案もあり、清水らとしても分別盛りの参加人に対して、むしろ将来の中枢社員としての期待もあり、右提案に同調して、参加人を注意指導することになった。そこで、清水は、三石とともに、同月一三日、参加人を呼び、原告会社の由来、住友化学との関連などについて体験談を交えながら話を進め、前記の仕事の納期を守らねばならないことや周囲と協力して仕事を進めるように説諭するとともに、将来の幹部社員としての期待をもこめて激励した。参加人は、素直にこれを受け止めたようであり、特に反論などしなかった。また、同年五月、野田が参加人と会い、会社には改善すべき点がたくさんあるから、協力してほしいと述べた。(<証拠略>)

(9) そのころ、野田は、設計部門の充実が喫緊の課題であると考え、設計部の業務について把握し、設計コスト意識の高揚、原価管理指標の確立を計るとともに、業務改善の資料とするため、設計業務の内容を記録した報告書(設計作業表)の作成提出方を、設計課のミーティングで提案して了承を得た。このとき、参加人は、反対しなかった。そこで、野田は、同年六月下旬の同ミーティングで具体的な様式・名称を説明したうえ、同年七月一日からこれを実施した。しかし、提出すべき設計課員六名のうち、長期病欠であった中村保利のほか、参加人のみが、これを提出せず、参加人は、同月上旬に野田から提出を促されたときにも、これに応じなかった。(<証拠略>)

(10) 丸三産業は、昭和六二年七月九日ころ、永井に対し、エンボスローラーの改良をしてもらうよう打診し、永井は、この話を中岡に伝えた。丸三産業は、カード状の紙を、接着剤を間に入れて挟み、これをローラーにかけて加熱しながら不織布に仕上げる機械も使っており、エンボスローラーは、その一部分を構成する。中岡は、永井と参加人が現地に行くよう命じた。永井と参加人は、同月一一日、丸三産業の工場に行き、打合せを行ったが、参加人は、機械を見ただけで、誰とも話をしなかった。同月一三日、参加人は、永井に対し、この仕事は原告の受けるべきものではないと言った。永井は、これを三石及び中岡に伝えた。三石は、営業部と設計部の見解を調整するため、中岡、永井、参加人を加え、同日午後に打合せを行うこととした。そして、三石、中岡、永井が集まったが、参加人は、他の仕事があるから三〇分待つように求め、三〇分たった後も、二時間ほど待たせたうえ、結局会議への出席を拒否した。三石は、丸三産業が工事を急ぐというので、当日右工事の受注を断念し青木工業を丸三産業に紹介することとし、結局この工事は青木工業が行った。(<証拠略>、弁論の全趣旨。右認定に反する証拠は、前記証拠に照らし、採用しない。)

(11) 野田は、会議欠席の問題があった後である昭和六二年七月二五日、参加人を呼び、事情を聞いた。参加人は、エンボスローラーの改造はつまらん仕事だから原告でやるべきではないと述べ、技術的な問題点には触れなかった。野田は、周囲の意見も聞くこと、営業政策として得意先の依頼は有利な仕事でなくとも受けることがあるし、受注するかどうかは会社が決めることであり、参加人の意見だけが通るものでもないと述べた。また、野田は、設計作業表を提出することをも求めたが、参加人は、その提出を頑なに拒否したばかりか、野田の指示や命令には応じられない、仕事をしなくて困るのはあなたではないかなどと暴言を吐いた。(<証拠略>。これに反する証拠は、前記証拠と対比して採用しない。)

(12) 昭和六二年八月一三日、清水と三石は、参加人に勤務態度を改めるよう求め、どうしても改めなければ退職勧告もやむなしとして、参加人との会談に臨んだ。清水は、参加人に対し、前記七月一三日の会議の不出席の件について尋ねたところ、同人はこれに答えることなく、一方的にこの件と関係のない話を続け、清水らの制止、質問、説得にも耳を傾けず、これまでの勤務態度を改めなかった。そこで、清水は、「君は時間を定めず、自分の得意な設計を自営してはどうかね。何が得意か。」と話題を変え、右自営についての参加人の考え方も質したうえ、参加人に原告からの退社を勧告した。なお、参加人が残業手当の未払分を要求した(前記)のは、このときである。(<証拠略>)

(二) 解雇の理由に関する双方の主張について、検討する。

(1) 丸三産業から注文がとれなかったレイヤー装置やエンボスローラー改造工事の売上見込額は、第二の一1項で認めた原告の売り上げ額からみれば、少ないものと認められる(<証拠略>)。

しかしながら、同社は、原告にとって、昭和三六年からの取り引きがあり、特に、原告が危機に瀕した昭和六〇年から昭和六二年には、丸三産業の工場の移転に伴う工事を受注した関係もあって、同社に対する売り上げが少なくない。ことに、昭和六〇年は、八八九三万円の売り上げがあり、原告の総売上高の一割に迫っている(第二の一1項、<証拠略>)。そして、原告が、船舶ボイラー依存態勢から脱却して、陸上部門も充実することを考えていた事実(第二の一1項、<証拠略>)を併せて考慮すれば、重要な得意先であるということができる。したがって、額や種類の多寡を問わず、丸三産業の注文に応じることは、得意先を維持するために重要な問題であると考えられる(<証拠略>)。

(2) 被告は、参加人が昭和六二年七月一三日の会議に出席しなかったことについて、責任者と考えられる野田が不在であること、困難な機械の設計が問題となっているのに機械関係を理解する者が出席していないこと、そのような状況下において仕事を押し付けられれば自分に不当に不利益な評価がされうることを理由としている。また、参加人は、設計命令書を正式に出せば従うつもりであったとも述べる。

しかしながら、前記の会議は、まさに右設計の受注に対する意見を聞くために開かれたものである。責任者に充分に意思が伝わらない可能性があれば、会議の場で改めてその者が出席する会議を提案するなど、原告の業務の進行を止めないように配慮しながら取り得た手段が、他にもあったといわざるをえない。

(3) 参加人が正社員に就任してから、参加人の仕事は、殆どの場合十分余裕があったと思われるのに期限に遅れたり、期限を守るためわずかな努力をしなかったり、関係者に対して何度も暴言を吐くなど、問題がすこぶる多い。参加人は、上司のいうことに従わなかった点につき、さまざまな弁解を試みる。しかしながら、その多くは、エンボスローラー関係の会議への欠席の経過にみられるように、周囲の意見や都合はおよそ受け付けず、参加人の独自の意見のみを主張するものといわざるをえず、通常容認されるとは考え難い。

以上の経緯に照らし、かつ、原告の規模が従業員約六〇名と比較的小規模であり、財政的にも危機的な状況にあったことなどから、技術管理部はもとより、他の関係部署と相互に協力し、緊密なチームワークをとる必要性が大きいと認められることをも考えれば、参加人の仕事がすべて問題であったとまでは断定できないにしても、原告において、参加人が非協調的で原告において円滑に仕事ができないと判断することにも充分合理性がある。原告が、ことさらに参加人の問題点のみを拾い出して解雇に持ち込んだものとは到底認められない。

4  さらに、次のとおり、不当労働行為意思の認定を妨げる事情がある。

(一) 参加人には、目立った組合活動歴がなく、本件で問題となっている残業手当関係の行為を別とすれば、組合大会に参加する程度であった(<証拠略>)。そうすると、参加人を解雇することによって、組合活動を封じる効果があるのかどうか、疑問がある。

(二) 少なくとも昭和六一年から六二年ころにかけて、労使間には深刻な対立はなかった。

これは、清水の供述(<証拠略>)のほか、以下の点からも裏付けられる。

(1) 当時書記長であった藤田は、原告の経営困難に配慮するような証言をしている(<証拠略>)。

(2) 昭和六一年五月一日の時点でみれば、組合員は三四名いたが、うち前記不支給の対象となっていたのは、参加人だけである(<証拠略>)。このように、前記不支給は、組合員の大半にとっては無関係であったから、組合が原告と対立する原因にはなりにくいと考えられる。

二  以上検討したとおり、原告による参加人の解雇は、参加人が賃金(残業手当)の正当な支払を要求したからだと認める余地がなくはない。しかしながら、仮に前記通告が組合の行為と言える場合であっても、被告及び参加人の主張に沿わない証拠も多いこと、原告が主張する解雇理由に合理性が認められることから、本件通告を理由として解雇したものとは認めがたい。そして、労使の対立、参加人自体の組合活動ともにほとんど認められないなど、不当労働意(ママ)思の推認を妨げる事情が存在する。よって、不当労働行為意思を認めることはできない。

そうすると、そのほかの点について判断するまでもなく、これと判断を異にする救済命令は相当でないといえるから、原告の請求は理由がある。

(裁判長裁判官 八束和廣 裁判官 細井正弘 裁判官 久留島群一)

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