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松山地方裁判所 平成12年(ワ)694号 判決 2002年9月05日

主文

1  被告らは原告に対し,連帯して720万円及びこれに対する平成8年7月17日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  被告西日本電信電話株式会社は原告に対し,1698万8400円及びこれに対する平成12年9月19日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

3  原告のその余の請求を棄却する。

4  訴訟費用はこれを8分し,その2を原告の,その1を被告Aの,その余を被告西日本電信電話株式会社の各負担とする。

5  この判決は,第1,2項に限り,仮に執行することができる。

事実及び理由

第1請求

1  被告らは原告に対し,連帯して1561万0779円及びこれに対する平成8年7月17日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  被告西日本電信電話株式会社は原告に対し,1698万8400円及びこれに対する平成12年9月19日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告らの負担とする。

4  仮執行宣言

第2事案の概要

1  本件は,平成8年7月17日,日本電信電話株式会社(後に被告西日本電信電話株式会社(以下「被告会社」という。)が分離独立した。)で実施された定期健康診断において,採血のため,同会社保健婦の被告Aが原告の右腕に注射針を刺したところ(以下「本件採血」という。),被告Aの過失によって原告の右腕正中神経が損傷し,障害等級7級3号に該当する障害を負ったとして,原告が,①被告A及び被告会社に対し,不法行為(被告会社については使用者責任)又は債務不履行(被告会社のみ。被告Aは履行補助者。)に基づく損害賠償として1561万0779円及びこれに対する不法行為の日である平成8年7月17日から支払済みまで民法所定の年5分の割合の遅延損害金の支払いを,また②被告会社に対して,その社員等業務災害付加補償規則に基づく障害付加補償金1698万8400円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成12年9月19日から支払済みまで民法所定の年5分の割合の遅延損害金の支払いをそれぞれ求めた事案である。

2  争いのない事実等

(1)  当事者について

ア 原告

原告(昭和29年11月17日生まれ)は,昭和48年4月,日本電信電話公社今治電報電話局に入社し,平成元年2月,日本電信電話株式会社四国支社(松山市a町b丁目c番地)に移籍した(同公社は,昭和60年に民営化した。)。本件採血当時は同支社の法人営業本部システムインテグレーション部門に所属し,システム設計を担当する業務に従事していた。被告会社設立後は同社愛媛支店法人営業部(名称のみの変更であり,業務内容に変更はない。)に所属し,現在に至っている。

イ 被告会社

被告会社は,平成11年7月1日,日本電信電話株式会社から分離,独立して設立された(日本電信電話株式会社は持株会社として存続し,東日本地域の営業部門を東日本電信電話株式会社が,西日本地域の営業部門を被告会社がそれぞれ受け持つ形で分離,独立した。)。

ウ 被告A

被告Aは,昭和49年4月,日本電信電話公社に入社して同公社松山逓信病院で助産婦業務に従事し,本件採血当時には,日本電信電話株式会社四国支社労働部の愛媛健康管理所に所属し,保健婦として稼働していた。現在は被告会社の一部門である医療・健康管理センタの愛媛健康管理センタに勤務している。医療関係の資格として,昭和48年に看護婦免許,翌年に保健婦及び助産婦の免許を取得している。

エ 雇用関係等の承継

本件採血は日本電信電話株式会社四国支社の当時に行われたが,同社と原告との雇用関係が被告会社に承継されるのと同時に,本件採血に関連する原告との権利義務関係も被告会社に承継された。

(2)  本件採血について

平成8年7月17日午前9時40分ころ,日本電信電話株式会社四国支社施設内において定期健康診断が実施され,被告Aが原告から,指定検診項目の1つである本件採血を行った。

その際,被告Aは尺側皮静脈から採血するため,原告の右腕肘窩部分に針を刺したが,血液の逆流は認められなかった。原告は針が刺された後で「痛い」と言ったため,被告Aは,針を抜き,針やスピッツ(血液が流れ込む容器)を新しいものに替えて,改めて原告の左腕に針を刺して採血した(原告,被告A)。

(3)  本件採血直後について

本件採血直後,原告は被告Aに対し右手にしびれがある旨訴えた。原告は,被告Aから医師の面接を受けるよう勧められ,被告Aの同僚のB医員に対し,右手第1,2指にしびれがあると訴えた。同日,原告はNTT松山病院で受診し,同月22日には,同病院のC医師(整形外科部長)が「右正中神経麻痺,反射性交感神経性萎縮症」と診断した(乙1)。

(4)  医師の診断について

その後原告の症状については,概要,以下のような診断がなされている。

ア NTT松山病院C医師による診断

C医師は,平成8年11月29日,(3)の診断とは異なり,「右手・右前腕知覚障害,運動時痛」と診断した(甲1)。なお,平成10年7月7日にも同様の診断書(甲3)を作成した。

また,平成9年2月4日,C医師は原告が労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)による療養費用請求をするにあたり,原告に「右手・前腕の痛み,シビレ,反射性交感性萎縮症」があることを証明した(甲5の1・2)。

イ 愛媛大学医学部附属病院(以下「愛大病院」という。)麻酔科蘇生科D医師による診断

原告はNTT松山病院以外の医師にも診断を求め,平成8年12月16日,紹介を受けた愛大病院D医師の診察を受けた。D医師は,同日原告に右上肢の知覚障害,痛み,浮腫,運動障害があることから「カウザルギー」と診断した(甲2)。

その後もD医師は原告の診察を行い,平成10年7月13日付診断書(甲4),同日付療養費用請求書(甲8の1・2),平成11年4月26日付診断書(甲35),同年10月4日付診断書2通(甲35)で,いずれも原告の症状を「(右上肢)カウザルギー」と診断している。

平成10年7月13日付診断書では,障害の詳細について,「右手の浮腫,右上腕遠位側3分の1くらいから知覚低下(ただし第5指は除く。),知覚低下は第1~第3指が特に強い。肘関節以下の関節部に運動障害を認める,感覚低下部にアロディニア(軽い触刺激で激痛が走る)を認める,アロディニアは肘関節部に手首で特に強い,右手の回外運動が著しく制限されている。」とされ,関節運動範囲について,右肘関節は屈曲可,伸展約80度まで可,右手首は屈曲約10度可,伸展約5度可,右指は屈曲何とか可,伸展不可とされている。平成11年10月4日付診断書では,障害の詳細は2通とも上記と同旨だが,関節運動範囲については,1通が上記と同旨であるのに対し,もう1通は,右前腕が回内45度,回外不可,右手が背屈5度,掌屈10度,橈屈不可,尺屈45度とされている。

ウ その他の愛大病院医師等による診断等

(ア) 平成9年1月27日,原告が労災保険法による療養費用請求をするにあたり,愛大病院E医師は,原告の症状が「カウザルギー」である と証明した(甲6の1・2)。

(イ) 平成11年6月14日,愛大病院F医師は,原告の症状を「RSD(反射性交感神経性ジストロフィ)」であると診断した(甲30,3 1)。これによると,関節運動範囲は,右肘関節が屈曲可,伸展20 度まで可,手関節が背屈約5度可,掌屈約10度可とされている。

(ウ) 平成12年1月26日には,D医師の依頼により愛大病院検査部でサーモグラフィー検査が実施された。原告の右手指・上肢体温は左手指・上肢体温よりも低く,判読医は有意な左右差を認めるとした(甲35)。

(エ) 平成12年10月2日及び同年11月6日,愛大病院麻酔科G医師が原告の右前腕に知覚低下,強い痛みを認め,「カウザルギー」と診 断した(甲35)。10月2日の診断書では,障害の程度の詳細及び 関節運動範囲は,甲4と同じである。また,11月6日の診断書では, 関節運動範囲は甲30と同じである。

(オ) 平成13年1月22日には,愛媛大学医学部整形外科H医師が原告の症状を「右上肢カウザルギー」による右上肢の運動障害,異常感覚 と診断した(甲36の1・2)。これによると,右上肢の疼痛,異常 感覚が強く,他動的可動域の評価は不可能とされている。

(5)  労働基準監督署長による労災認定

平成11年3月10日,松山労働基準監督署長は,原告には,①右上肢,特に手関節と肘関節の中心部より右手指にかけて,常時疼痛を中心とした異常感覚及び知覚低下があり,また②右上肢肘関節以下の神経症状による運動障害があるとして,これらを総合的に判断して障害等級第7級3号に該当すると認定し(平成10年9月1日症状が固定したものと判断),労災保険法による障害補償年金の支給を決定した(甲13,38)。

(6)  現在の自覚症状等

原告は,平成13年11月9日に行われた本人尋問において,右手,特に親指の付け根付近から上肢にかけての約20センチメートルの部分に強い痛みがあると訴え,被告ら代理人が少し触れようとすると激しく痛がった。

(7)  既払いの公的年金

原告は,本件口頭弁論終結日までに,公的年金として以下の合計額731万2438円を受け取っている(松山労働基準監督署,社会保険庁年金保健課に対する各調査嘱託結果)。

ア 労災保険法による障害補償年金   566万3238円

イ 厚生年金保険法による障害厚生年金 164万9200円

第3争点

1  原告が本件採血により障害を負ったか否か。障害発生につき,被告Aに過失があったか否か。原告に後遺障害があるか否か。本件採血と後遺障害との間に因果関係があるか否か。

(1)  原告の主張

被告Aが本件採血を行った際,注射針の先が正中神経を傷つけたことにより,原告は右手第1,2指にしびれ,疼痛を生じる障害を負った。被告Aは,本件採血にあたり原告右腕の肘窩の静脈に針を刺す場合,正中神経を傷つけないように注射針を操作するべき注意義務があるのに,不用意に操作した過失によって正中神経を損傷した。具体的には,被告Aは注射針を原告の右腕肘窩に刺したが,血液の逆流がなく血管内に注射針を刺入できていないことがわかったのに,注射針をそのまま抜こうとせず,注射針の先を動かして血管を探すような動作をし,その間,原告が痛みを訴えたにもかかわらずこれを中止せずに同様の動作を続けた結果,原告の右腕正中神経を注射針の先で傷つけたものである。

このように原告は本件採血により正中神経の不完全損傷を負ったが,さらにRSDを併発し,後記3(1)ア記載の後遺障害が残った。これらは愛大病院医師らによる複数の診断結果や,松山労働基準監督署長による障害等級7級3号の認定などからも裏付けられている。

(2)  被告らの主張

被告Aは勤続20年のベテランの保健婦・看護婦であり,通算数千件もの採血を実施しているが,一度もミスなどしたことはなかった。本件採血の際にも,被告Aは皮膚から約15度の角度で針先カット面を上にして血管穿刺を行っており,かつ,血液の逆流が認められないため,スピッツを数ミリ手前に引いたのみであり,原告の主張するように注射針の先を動かして血管を探すなどした事実はない。このような態様で,皮膚の表面上を走る尺側皮静脈から遠く離れた深部にある正中神経を傷つけることはあり得ない。また,本件採血後,原告は,星状神経ブロック等の医師の勧める基本的治療を行わず,痛みの全くない軽度な治療を行うのみである。また,原告行動調査報告書(乙12の1・2)によれば,原告は右手を普通に用いて日常生活を送っていると認められ,原告本人尋問での言動は事実と異なる演技に過ぎない。各医師の診断結果や,これらに基づく労働基準監督署長の判断も,同様に原告が演技をし,またはその訴えたところに従って作成され,判断されたものに過ぎず,誤っている。

結局,原告は本件採血により何ら障害を負っていないし,何らかの障害を負ったとしても,後遺障害は残っていない。仮に原告に何らかの障害があるとしても,本件採血とは因果関係はない。

仮に原告が本件採血により障害を負い,後遺障害が残っているとしても,それは原告が医師から再三の治療上のアドバイスがあったにもかかわらずこれを拒否し,原告自身の特異な気質と体質により複雑な病態となったものと考えられ,原告自ら引き起こした症状というべきであり,本件採血と現在の障害との間に相当因果関係はない。

2  被告らの責任

(1)  原告の主張

ア 被告Aの責任

被告Aは,1(1)記載の過失により,原告に対し正中神経の不完全損傷の障害を負わせた。よって,同被告は,民法709条に基づき,原告が被った損害を賠償する責任がある。

イ 被告会社の責任

① 使用者責任

被告Aの前記不法行為は,日本電信電話株式会社の事業の執行として全従業員に対する定期健康診断での採血実施中になされたものであるから,同会社は被告Aの使用者として,民法715条1項に基づく責任を負う。被告会社は,第2の2(1)エのとおり,上記責任を承継した。

② 債務不履行責任

定期健康診断の実施は,雇用主が被用者に対して負担する労働契約上の付随義務の1つである健康保持義務の履行の一環として実施するものであるところ,被告Aは日本電信電話株式会社の履行補助者として本件採血に当たったものであるから,同人の前記過失は履行補助者の過失となり,同会社は,原告に対し,民法415条に基づく責任を負うというべきである。被告会社は,第2の2(1)エのとおり,上記責任を承継した。

(2)  被告らの主張

原告の主張はいずれも争う。

3  原告の損害額(障害付加補償金請求権が発生しているか否かの問題も含む。)

(1)  原告の主張

ア 原告は右腕正中神経の不完全損傷の上,RSDに罹患したことにより,次のとおりの損害を被った。

(ア) 後遺障害による逸失利益 2641万1617円

原告には,①右腕は痛くて伸ばせない,②右手指も無理に伸ばそうとすると歯の神経にさわったような電撃的な痛みが出るし,不意に痛むこともある,③右手指から肘までの2分の1の範囲は,常時,火傷したようなきりきりとした痛みがある,④肘の内側にはじくじくとした鈍痛がある,⑤肩と肘の真ん中あたりから指先にかけていつもむくんでいる,⑥右手指のうち,小指以外は何かに触れただけで飛び上がるような痛みがある,指先から遠位指節間関節(指先に最も近い関節)までほとんど感覚がないため,物を握れない,⑦このため,右手はほとんど用をなさないし,寝るときは右手が下にならないように気をつける,手首を内側に向けて捻っている状態は楽だが,その反対はできないなどの障害が残っている。これらの症状は,現に労働基準監督署長も認定しているとおり,労災後遺障害等級表7級3号「神経系統の機能又は精神に障害を残し,軽易な労務以外の労務に服することができないもの」に該当し,これによる原告の労働能力喪失率は56パーセントである。

したがって原告は,女性労働者平均賃金(平成10年賃金センサス)341万7900円に労働能力喪失率56パーセントを乗じ,就労可能年数(症状固定時43歳から67歳までの24年間)に対応するライプニッツ係数13.799を乗じた2641万1617円の損害を被った。

なお,原告の収入は現時点では減少していないが,これは主に原告の努力によるものであるし,単独ではできない業務もあるため,業務達成度,能率の観点から人事考課上,不利益評価を受けることは避けられず,将来的な配置転換,減収等の可能性も否定できないのであるから,上記逸失利益は肯定されるべきである。

(イ) 慰謝料 1200万円

原告は本件採血以降,前記のとおりの耐え難い苦痛が続いており,将来も続いていくものと考えられる。この障害は就労や日常生活においてマイナスとなっており,原告は大きな不安を抱えている。さらに,被告らは,速やかな労災の適用のために誠実に協力しようとせず,被告会社は後記のとおり社員等業務災害付加補償規則に基づく支払いも行わないなど,不当な対応をして原告にさらなる苦痛を与えており,これらの事情を考慮すると,原告に対する慰謝料としては1200万円が相当である。

(ウ) 弁護士費用 150万円

イ 損害填補

(ア) 障害付加補償金請求権の発生

原告は,労働基準監督署長から障害等級7級3号に該当すると認定されたことにより,被告会社の「社員等業務災害付加補償規則」(乙3)21条に基づいて,被告会社に対し,原告の平均賃金日額1万4124円(甲13)に同規則所定の1360日を乗じ,ここから労災保険法により給付される初年度の年金額185万0200円及び特別年金年額37万0100円をそれぞれ控除した額から,100円未満の端数を切り上げた(同規則16条)額である1698万8400円の障害付加補償金請求権を取得した。

(イ) 消極損害のみへの填補

前記労災保険法による障害補償年金及び厚生年金保険法による障害厚生年金の各既払金合計731万2438円はもちろん,労災給付認定の等級に応じて支給される障害付加補償金についても,消極損害のみに填補され,慰謝料には填補されないものと解すべきである。

(2)  被告らの主張

原告の主張はすべて否認する。

障害付加補償金については,当該規則が存在することは認めるが,障害付加補償金請求権が発生したことは争う。

なお,原告に後遺障害があり,本件採血と損害とに因果関係があるとしても,原告自身の特異な気質と体質により複雑な病態となったものと考えられ,原告自ら引き起こした症状というべきであるから,本件採血の寄与度はわずかである。

第4当裁判所の判断

1  争点1について

(1)  因果関係,障害の有無

前記第2の2の事実に加え,甲39,45,46,乙11の各医療文献の記載及び弁論の全趣旨からすると,本件採血においては,原告の右腕尺側皮静脈から採血するため,注射針が肘窩部分に刺されたが,血管内に針先が入ったならば通常認められる血液の逆流がなかったこと,原告は針が皮膚表面に刺された瞬間ではなく,針が刺された後で痛みを訴えていること,結局右腕からの採血はできず,あらためて原告の左腕から採血されたこと,肘窩の尺側皮静脈に針を刺す場合,深く刺すと正中神経を傷つけることがあること,本件採血直後,原告は正中神経支配域である右手第1,2指のしびれを訴えていること,本件採血の5日後である平成8年7月22日には,NTT松山病院のC医師が「右正中神経麻痺,反射性交感神経性萎縮症」と診断していること(乙1),以上の事実が認められる。

これらの事実に照らせば,本件採血の際,被告Aが刺した注射針は血管を外れて深く刺さってしまい,原告右腕の正中神経を傷つけたものと推認するのが相当である(被告A本人は,血管に刺入したものの,器具に欠陥があったため血液が逆流しなかった可能性もある旨述べるが,その可能性は極めて低いと考えられ,これを窺わせる事情もない。)。

そして前記第2の2のとおり,原告は本件採血直後から右手のしびれ等を訴えるようになったこと,原告は現在でも右手には触れられただけでも強い痛みがあるなどと訴え,愛媛大学病院医師らは,いずれも原告に知覚障害,運動障害等を認め,本件採血を原因とする「右上肢カウザルギー」ないし「RSD」の症状がある旨診断していること,さらに,甲40,41によれば,RSDないしカウザルギーは,四肢又はその他の神経の不完全損傷によって強度の疼痛が生ずるものであることなどが認められ,これらによれば,原告は本件採血によって正中神経が傷ついたことを原因として,カウザルギーないしRSDを発症し,疼痛を中心とする後遺障害が残ったものと認めるのが相当である。

(2)  被告Aの過失

甲45の医療文献には,肘窩の尺側皮静脈に針を刺す場合,深く刺すと正中神経を傷つけることがあるため,適切な深さに刺すよう心がけるべきことが記載されており,このことは採血に従事するものにとっては基本的な注意事項の一つであると認められ,ベテランの保健婦・看護婦であった被告Aも当然これを知っていたと認められる。

本件採血においては,原告右腕肘窩の尺側皮静脈から採血しようとするのであるから,被告Aには,注射針を深く刺して正中神経を傷つけないよう,注射針を適切に操作するべき注意義務があったというべきである。しかるに,(1)で認定したところによれば,被告Aは,上記注意義務に違反し,正中神経を傷つけた過失があるものといわざるを得ない。

なお,原告は本人尋問において,「被告Aが注射針を刺した後,針先を左右に動かして血管を探すような動作をしていた。その際痛いと言っても被告Aはやめようとせず,痛いのは血管か神経かが近くにあるからだなどと言われた。その後腕がはね上がるような状態になってはじめて被告Aが注射針を抜き,痛いと言ったときにやめておけばよかった,などと言っていた。」旨述べるが,針先を左右に動かして血管を探す必要があるとは通常考えにくく,被告Aが「血管の内壁に注射針の先が密着して血液の逆流がないとも考えられたことから,注射針をわずかに手前に引いただけである。」と合理的根拠も示して述べていることに照らすと,原告の上記供述はにわかに措信し難い。

(3)  被告らの主張について

ア 被告Aは「採血直後,原告は小指などのしびれを訴えており,B先生への訴えは場所が変わっておりおかしいと思った。」と述べ,原告にはしびれなどの障害は起こっていなかったのではないかとの疑念を示している。

しかし,本件採血直後における原告のB医員に対する右手第1,2指のしびれの訴えは,正中神経支配域に属する医学的・客観的に根拠のある症状と認められること,原告が当時正中神経支配域等に関する知識を持ち合わせていたとは考えにくいことなどからすると,原告には真実右手第1,2指のしびれの症状があったものと認められる。

イ 被告らは,原告が正中神経領域のみならず,後に橈骨神経領域にも症状がある旨訴えていることが不可解であると主張する(C医師が原告傷病名を「右正中神経麻痺,反射性交感神経性萎縮症」から「右手・右前腕知覚障害,運動時痛」へ変更したのは,このような不可解な点があったからであるとも主張する。)。

しかし,乙4(「疼痛コントロールのABC」)によると,RSDやカウザルギーにおいては,「疼痛は受傷から約3か月間は灼けるような刺すような疼痛で,アロディニア(痛み刺激でない刺激を痛みとして感じる)や痛覚過敏がある。これが次第に憎悪し,範囲も拡大して,ついにはあらゆる治療に抵抗性の痛みとなる。」とされており,疼痛範囲の拡大がみられる例もあることが認められるから,原告の上記訴えが不自然であるとすることはできない。

ウ 被告らは,愛大病院医師らによる診断は,関節可動域表示の方法などに関して基本的な誤りがあり,またいずれも原告の自覚症状の訴えを鵜呑みにしたもので客観性に乏しい等と論難する。

まず,関節の可動域について,愛大病院医師らによる診断書等への表示は,日本整形外科学会及び日本リハビリテーション学会の定めた方法による表示・測定法(乙2)とは異なる基準で記載されているものと認められるが,このような表示方法等は直接原告の症状の有無には関連しないところである。また,確かに関節可動域の測定や痛みの有無の判定については主に原告の自覚症状を基にした判断がなされており,その意味で客観性には劣るといわなければならないが,もともと上記の測定・判定は患者の愁訴によるところが大きい性格をもつものであるし,原告の訴える痛みの状況や,本訴において原告の主張する症状が,関節の器質的損傷に起因するものでないことを前提とすると,不適切な診断方法であるとはいえない。他方,愛大病院においては,右手・指の浮腫,冷感・発汗異常等の確認,サーモグラフィ検査による右腕と左腕の温度差の確認など,客観性のある診察も試みたうえで,総合的な診断を行っているものであり,その診断内容に大きな問題があるとは考えられない。

エ 被告らは,平成13年6月ないし8月ころに実施した原告の行動調査の結果(乙12の1・2。原告行動調査報告書。)をもとに,原告は右手を普通に用いて日常生活を送っており,障害はない旨主張する。

そこで,原告行動調査報告書のうち,原告の日常生活状況を撮影したビデオテープ(乙12の2)の内容を検討すると,原告が右腕を用いる場面も時折見受けられるが,これらは髪をかきあげたり,花束を持ち上げたり,駐車場設置のボタンを操作したりといった,比較的腕に負担の少ない動作に過ぎない。他方,原告は終始荷物のほとんどを左手のみで持ち運んでおり,雨天時にも,左手で傘をさしたうえ,同じ左腕肘部分に買い物袋をかけて移動し,右腕には何も持たない状態にしているのであって,右腕に負担をかけないようにしているのを窺うことができる。上記ビデオテープが隠し撮りされたものであり(弁論の全趣旨),原告が撮影されていることを意識していないにもかかわらず,前記のように右腕をかばう様子が窺えることに照らせば,原告には右腕に障害が残っており,日常生活でも影響があると認めるのが自然である。確かに,原告行動調査報告書に照らすと,原告本人尋問での痛みに関する供述にはやや誇張された面があると感じられるが,上記説示したところによれば,同調査結果をもって,およそ障害がない,あるいはその障害が軽微であるとの根拠とすることはできないというべきである。

2  争点2について

(1)  被告Aの責任

前記説示のとおり,被告Aは,注射針を深く刺して正中神経を傷つけないよう,注射針を適切に操作するべき注意義務があったのに,これに違反し,原告の正中神経を傷つけたものである。よって,同被告は,民法709条により,原告が被った損害を賠償する責任がある。

(2)  被告会社の責任

第2の2の事実及び弁論の全趣旨によれば,被告Aの前記不法行為は,日本電信電話株式会社の事業の執行として全従業員に対する定期健康診断での採血を実施中になされたものであるから,同会社は被告Aの使用者として,民法715条1項に基づく責任を負うというべきである。また,被告会社が本件採血に関連する原告との権利義務関係を承継したことは,当事者間に争いがない。

3  争点3について

(1)  後遺障害による逸失利益について

原告の後遺障害の程度について,原告の右腕にはカウザルギーないしRSDの障害があると認められること,原告は現在でも酷い疼痛がある旨繰り返し訴えていること,原告の右腕には浮腫があり,左腕に比べて右腕の体温が明らかに低いなどの症状があること,日常生活でも右腕をかばって行動する必要があることなどの前記認定事実に鑑みると,原告には軽易な労働以外の労働に常に差し支える程度の疼痛があるものというべきであり,労災後遺障害等級表7級3号「神経系統の機能又は精神に障害を残し,軽易な労務以外の労務に服することができないもの」に該当すると認めるのが相当である。

なお,前記第2の2の事実,乙13によれば,労働基準監督署長は主にNTT松山病院のC医師の意見に基づいて,平成10年9月1日に原告の症状が固定したものと判断したことが明らかであるところ,被告らは症状固定時期に異を唱えている。そこで検討すると,被告らも指摘するとおり,甲35によると,平成11年4月26日,愛大病院D医師が原告に対して「治療を受ければ今より良くなる可能性は十分ある」旨を説明したと認められ,これによれば,平成10年9月1日で原告の症状が固定したと断定することには疑問の余地がないではない。しかし他方,この段階で既に本件採血から2年以上を経過していること,甲40,乙4によれば,RSDは難治性疼痛であり,発症早期に治療を開始すれば治療に反応しやすい反面,慢性期に入ると治療に強い抵抗性を示す傾向があるとされるところ,甲35,乙1のカルテ記載の治療経過に照らせば,原告の症状も慢性期に入っていたものと認められ,今後の治癒の見通しは必ずしも明らかではなかったと考えられること,C医師及び労働基準監督署の局医等の専門医師の判断も経ていることなどからすると,平成10年9月1日をもって原告の症状が固定したものと判断することには十分合理性があるというべきである。

進んで,原告の労働能力喪失率につき検討するに,証拠(原告)及び弁論の全趣旨によれば,原告は,本件採血当時,システム設計を担当する部署で主にコンピューターを操作していたこと,本件採血後右手が思うように動かせないため一時異動になったものの,再度従前の職場に復帰していること,原告には現在減収が生じていないことが認められる。しかし,他方において,原告は訓練によりコンピューターのキーボードを左手だけで操作することができるようになったものであり(原告),同人が現在の職場で減収もなく稼働できることについては,このような努力も寄与していると考えられること,将来においては,減収・転職の可能性も否定できないことなどを総合考慮すると,労働能力喪失率は30パーセントとするのが相当である。

そうすると,原告は,女性労働者平均賃金(平成10年賃金センサス)341万7900円に労働能力喪失率30パーセントを乗じ,就労可能年数(症状固定時43歳から67歳までの24年間)に対応するライプニッツ係数13.7986を乗じた1414万8670円(小数点以下切り捨て)の損害を被ったものと認められる。

(2)  慰謝料について

前記のとおり,本件で原告が被った結果は重大というべきであり,これにより原告は相当の精神的苦痛を受けたものと認められる。他方,本件採血における行為態様に照らすと,被告Aの過失の程度は重大とまでは言い難い。また,証拠(甲43,44,乙8,原告,被告A)によれば,本件採血後における原告と被告らとの間に緊張関係が生じたことは明らかであるが,被告らが一方的に不当な対応をしたものとまでは言い難く,慰謝料額算定にあたってこの点を重視することは相当でない。

以上の事情を総合考慮すると,原告の精神的苦痛を慰謝するには,600万円をもってするのが相当である。

(3)  過失相殺について

被告らは,後遺障害は主に原告自ら引き起こしたものというべきであり,被告らの寄与度はわずかである旨主張する。

そこで検討すると,確かに,前記RSDの特徴からすれば慢性期に入る以前の早期治療が特に重要と解されるところ,甲35,43によると,平成8年12月16日,D医師の勧める星状神経節ブロックによる治療に原告が難色を示し,結局経過観察とされたことが認められるところである。しかし,原告の主張によれば,同人が星状神経節ブロックの治療を避けたのは,神経に針を刺すことを恐れてのことだというのであり,注射により障害を負った原告にしてみればそれもやむを得ないものというべきである。なお,甲35によると,原告は,平成11年4月にもD医師の治療の勧めを断っていることが認められるが,これは症状固定時期である平成10年9月1日より後のことであるから,この点を重視することはできない。

また,被告らは原告の症状につき精神的・心因的要因に基づく部分がある旨主張し,甲40によればRSD自体,交感神経系の異常な緊張が関与している場合が多いと推測されていることが認められるものの,前記説示したところによれば,原告の場合,本件採血という明確な原因に基づく症状と認められるうえ,本件採血後の精神的影響があるとしても,その程度・割合は不明といわなければならない(乙13参照)。

以上の事情を総合考慮すると,被告らに前記損害全部の賠償をさせることが公平を失するとまでは認められない。

(4)  障害付加補償金請求権

被告会社の「社員等業務災害付加補償規則」(乙3)21条によると,被告会社は社員が業務上負傷し,身体に障害が存するときは,労災保険給付の際認定された障害の程度(障害等級第1級~第14級)に応じて補償を行うこととされている。本件では,前記のとおり,被告会社の社員である原告が業務上負傷し,労災保険給付の際,障害等級第7級3号に認定されたから,当該規定に基づき,原告は被告会社に対して,原告平均日額1万4124円(甲13)に1360日を乗じ,ここから労災保険法により給付される初年度の年金額185万0200円及び特別年金年額37万0100円をそれぞれ控除した額から,100円未満の端数を切り上げた(同規則16条)額である1698万8400円の障害付加補償金請求権を取得したものと認められる(なお,計算方法につき被告会社はこれを明らかに争わないから,自白したものとみなす。)。

(5)  損害填補

ア 既払いの公的年金(合計額731万2438円)

いずれも既払いの①労災保険法による障害補償年金566万3238円及び②厚生年金保険法による障害厚生年金164万9200円については,原告の財産上の損害の填補ないし所得保障を目的とするものであるから,これらの支払いにより損害が填補されたとして控除の対象となるのは消極損害に限られるべきである。

イ 未払いの障害付加補償金1698万8400円

被告会社の社員等業務災害付加補償規則は,本来,労災保険法等の法定補償制度と同様,生存権の確保を目的としたものと解されること,実際にも同規則における障害付加補償金は,労災保険法における障害認定結果に対応する形で発生すると規定されていることなどからすれば,障害付加補償金については労災保険法による障害補償と同様,消極損害のみが控除対象となると解すべきである。

なお,本件障害付加補償金についてはいまだ現実の給付がなされていないから,損害填補はされないものの,原告は,将来損害填補されることを見越した上で,当該填補相当部分については請求の対象としなかったものと解される。

ウ 消極損害についての認容額

以上からすると,前記後遺障害による逸失利益1414万8670円から,公的年金既払額合計731万2438円を控除した残額は683万6232円となる。このうち障害付加補償金1698万8400円が支払われたならば損害填補されると見込まれる部分については原告は請求していないものと解され,結局消極損害については認容相当額はないことになる。

(6)  弁護士費用

本件事案の内容,難易度,認容額,その他諸般の事情を総合考慮すると,損害とみることができる弁護士費用は120万円と認める。

3  結論

以上によると,原告の請求は,①被告らに対する不法行為(被告会社については使用者責任)による損害賠償請求のうち,連帯して720万円(慰謝料600万円及び弁護士費用120万円の合計額)及びこれに対する不法行為の日である平成8年7月17日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払いを求める部分,②被告会社に対する障害付加補償金請求の全部(1698万8400円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成12年9月19日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金)について理由があるから認容し,その余は失当であるから棄却することとし,訴訟費用の負担につき民事訴訟法61条,64条を,仮執行宣言につき同法259条を適用して,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 坂倉充信 裁判官 中山雅之 裁判官 大嶺崇)

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