松山地方裁判所 平成14年(タ)25号 判決 2003年11月12日
原告
X
同法定代理人親権者母
A
同訴訟代理人弁護士
村重慶一
同
水口晃
被告
○○地方検察庁検事正
Y
主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 原告
(1) 原告が本籍<略>,亡Bの子であることを認知する。
(2) 訴訟費用は被告の負担とする。
2 被告
主文と同旨の判決
第2 当事者の主張
原告の母親は,夫から生前に採取し,冷凍保存していた精子を使って体外受精し,原告を出産した。本件は,その母親が,原告を代理し,民法787条,人事訴訟手続法32条2項,2条3項の規定に基づいて,検察官を被告に,認知請求を求めた事案である。
1 原告の主張
(1) 体外受精と出産
ア B(以下「本件父」という。)は,平成9年5月8日,原告の母A(以下「本件母」という。また,本件父及び本件母を総称して,「本件父母」という。」)と婚姻したが,その後,本件父は白血病にかかり,その治療として,骨髄移植を行うことになった。
イ 本件父は,その骨髄移植によって,自らの生殖能力が失われると心配して,平成10年6月ころ,精子の冷凍保存を行った(以下,その際に保存した精子を「本件保存精子」という。)。
ウ しかし,本件父は,平成11年9月19日に死亡した。
エ 本件母は,本件父の両親などとも相談し,その賛成を得て,本件保存精子による体外受精(以下「本件体外受精」という。)を行い,平成13年5月10日,原告を出産した。
オ 本件母は,原告を出産した後,原告を本件父母の嫡出子として届け出たが,市役所に受理されなかった。
(2) 本件父,その両親らの希望
ア 本件父は,自らの意思で本件保存精子を冷凍保存しているから,原告の出生は,本件父の意思に合致する。そして,本件父の両親らも,また,原告の出生を望んでいた。
なるほど,精子の保存の際,本件父が病院に提出した依頼書(以下「本件依頼書」という。)には,「本件父の死亡後は保存精子を廃棄する」旨が記載されている。しかし,この文案は,あらかじめ,病院側で作ったもので,本件父母が,それを確認したり,訂正を求めたりできるものではない。また,当時は,精子の冷凍保存をする医療機関が少なく,本件依頼書に署名押印しないと冷凍保存ができなかった。そのため,本件父母は,病院から求められ,形式上,やむなく,本件依頼書に署名押印しただけのものである。
本件依頼書に上記の記載があることを理由にして,本件父が,原告の出生を望んでなかったとはいえない。
イ また,本件父は,骨髄移植をする前日,本件母に対し,「自分がこの手術によって死亡した場合,もし,本件母が再婚を望まないのであれば,本件保存精子を使って人工受精し,子供を産み,自分の両親らの老後の面倒をみてほしい」旨,要望した。
すなわち,本件父は,その死後に本件体外受精が行われ,原告が出生することに同意していた。
ウ さらに,本件父母は,婚姻当初のころから,配偶者間人工受精,いわゆるAIH(Artificial Insem-ination with Husband's semen)を実施してきたが,平成11年8月末ころにも,医師に対し,本件保存精子を使った人工受精をしたいとの希望を伝えた。そのころは,本件父の骨髄移植手術が成功し,順調に回復していた時期である。その意味で,本件は,AIHが実施されている途中で,夫が急死し,その後に行われた体外受精でもって成功した事案なのである。
ここでも,本件父は,原告の出生を望んでいた。
(3) 本件父死亡の事実の不告知
ところで,本件母は,病院から本件保存精子を受け取るに当たり,また,本件体外受精を行うに当たり,いずれも,医師や病院に対して,本件父が死亡した事実を伝えなかった。しかし,だからといって,本件母がそのことを隠していたわけではない。たまたま,医師や病院から,その事実について確認がなく,本件父の死亡の事実を知らせる機会がなかったというにすぎない。
(4) 本件認知請求の許容性
ア 原告は,本件保存精子を用いた体外受精により誕生しているので,本件父が,原告の生物学上の父親であることは明らかである。もちろん,さらに進んで,法律上の親子と認めることができるか否かについては,なお,検討しなければならないが,法律上の父子関係の有無を決定するには,その父親とされる者の意思,その両親などの親族の意見,生まれてきた子の福祉を尊重する観点などを考慮して,決定されるべきである。
イ そして,本件では,まず,原告の出生が,本件父の意思に合致していることは前述したとおりである。このように,父である者の意思に合致している以上,父である者の死後に懐胎があったとしても,その子からの認知の訴えは許されるべきである。
ウ また,本件は,いわゆるAIHを施行中,その夫が急死して,死亡後の体外受精が成功した事案である。つまり,当初,本件父の生存中に体外受精がされる予定のところ,夫が急死したため,その時期が夫の死亡後にずれこんだにすぎない事案なのである。
そこで,もし,仮に,夫の死後の人工受精の場合には認知請求ができないといったことになると,結果的には,偶然の事由によって認知請求の可否が決せられることになってしまうが,そのような区別には合理性はない。
エ 現行法は,死者の精子を用いた人工受精で,子が出生するといった事態を想定していない。しかし,そうだからといって,認知請求が認められる要件の1つとして「子が父の生存中に懐胎されたこと」を加えることの根拠もないと考える。
オ 原告は,婚姻した夫婦である本件父と本件母の間の子として誕生した。それにもかかわらず,戸籍上,子の父親欄を空欄とすることは,子の福祉を妨げるものである。子にとって重要なことは,父親がだれかということであって,そのことが戸籍に明記されることは,自己の誕生という人間の尊厳にかかわる極めて重要な問題である。本件でも,原告は,戸籍に父が記載されることで,父が重大な病気に罹患している中,両親の意思で,子の出生が望まれ,原告が出生したことを知るであろう。そして,本件父母に感謝すると思われる。
そもそも,原告は,幸福追求権(憲法13条)に基づいて認知請求権を有している。法の不備を理由に,原告の認知請求を否定することは,憲法13条,国際人権条約,児童の権利に関する条約に反するし,法律関係を明確化する必要から,本件認知請求を否定して,生物学的な親子関係や子の福祉を無視することも許されない。
カ また,死後に懐胎された子からの認知請求を認めても,財産的な実益が享受できず,認知請求を認める実益がないとするのも誤りである。
なるほど,死後に懐胎された子は,父親による監護・教育及び扶養を受ける機会がなく,相続関係などの財産的実益に関しても重要な意味を持つことがないが,しかし,このような財産的な実益以外のことで,認知請求を認める実益が大きい。このことは前述したとおりである。
また,財産的実益が皆無というわけでもない。本件認知請求が認められると,子は,本件父の両親の相続について代襲相続権が認められるし,その他にも,扶養の権利義務・親族間の協力義務が生ずる。また,民法711条による慰謝料請求権も認められる。いわゆる出自の権利も認められることになる。
キ いずれにせよ,子の福祉の観点からは,原告からの認知請求権が認められるべきである。この点,最近になって,法制審議会の生殖補助医療関連親子法制部会が発表した中間試案でも,生殖補助医療に対する医療法制の在り方を踏まえ,夫の死後に凍結精子を用いるなどして生殖補助医療が行われ,懐胎した場合の父子関係について,「子の福祉,父母の意思への配慮」といった観点から慎重な検討が必要である旨指摘がある。
ク なお,生殖補助医療については,現在,立法作業が進行中であり,本件と同様の事例における生殖補助医療上の取扱いについての検討が行われている(なお,厚生科学審議会生殖補助医療部会は,精子提供者が死亡した場合,提供精子を破棄すべきであるとするが,精子提供者が死亡した場合,その提供者の相続人らは精子返還請求権を有する。相続人の意思に反して保存精子を廃棄することは許されない)。しかし,本件は,既に出生した原告の福祉の観点から決せられるべきことで,今後の立法動向などに左右されるべきものではない。
また,生殖補助医療に関して,婚姻解消後の体外受精を行うことを禁止すべきであるとの意見があるが,そのような規制をすべきか否かという問題と,そのような規制に違反して,懐胎し,出生した子に認知請求権を認めるべきか否かということは別個の問題である。そして,出生した子の福祉の観点からみると,出生した子に認知請求権が認められなければならない。
2 被告の反論
(1) 本件父の同意の不存在など
ア 原告の主張中,本件体外受精に用いられた精子が本件父のものであるか否か,また,本件父が,その死後において,本件保存精子による懐胎・出産を同意していたか否かについては,知らない。
イ しかし,本件父母は,精子を冷凍保存する際に,医師から,精子の保存期間を本件父の生存中とすること,本件父が死亡した後は,同精子を破棄することの説明を受けていた。また,「①本件父が死亡した場合は必ず連絡する,②精子は個人に帰するとの考えにより,死亡とともに精子を破棄する,③本件父の死亡後に保存精子を用いた生殖補助操作はしない」などと記載された本件依頼書にも署名押印した。
加えて,本件父母は,そのような内容について不満を述べたわけでもないし,医師がその依頼書に署名押印するように押しつけた事実もない。
ウ そこで,本件父の真意は,死亡後には保存精子を破棄し,保存精子を用いた人工受精をしないことにあると解される。また,そうだからこそ,本件母も,本件保存精子を受領した際に,医師に対し,本件父が死亡している事実を秘匿し,かえって,「地元の病院で不妊治療を受ける予定であり,本件父は元気である」旨説明したのである。
本件母は,また,本件体外受精を担当した医師に対しても,本件父が死亡している事実を告げなかった。
エ 仮に,父親の真摯な同意があれば死後認知請求が認められるとの見解によるとしても,本件では,本件父にそのような同意がなく,その意味でも,原告の本件認知請求は認めることができない。
(2) 認知請求の要件事実
ア 認知の訴えの要件事実は,これまで子と父親との間に生物学的な親子関係が存在することと説明されてきた。しかし,このような考え方は,請求権者である子が,自然懐胎により出生した子であることを当然の前提としたものである。
すなわち,まず,認知の訴えは,父の死後に,人工受精によって懐胎された子からの認知請求を想定していない。認知の訴えは,父が自発的に子の認知をしない場合のことをおもんばかって,訴訟という手段で,法的な父子関係の形成を行うためのものであるから,その請求権者というのも,父が自発的に認知をすることの余地がある子(すなわち,父の生存中に懐胎された子)に限られる。
また,死後認知の訴えも,子が父の死後に懐胎されることを想定したものではない。現行法上,死後認知の制度も,懐胎後に父が死亡したことを前提にして作られた制度である。
イ そこで,父の死後,人工受精によって懐胎された子からの認知請求については,別途,要件事実を考えることになる。そして,その場合には,生物学的な親子関係の存在することのほかに,子が父の生存中に懐胎されたことを要件事実とすべきである。
(3) 本件認知請求権の不存在
ア そもそも,死後に懐胎された子に認知請求権を認めてみても,その実益がない。原告は,生物学上の父がだれであるかが戸籍に明記されること自体に利益があるというが,しかし,戸籍は,民法上の親子関係を適正に記載するものである。戸籍上に自己の出自が記載される必要があるので,本件認知請求も認められなければならないという議論は,主従が転倒していると思われる。
イ ところで,法律上の父子関係を認めるべきか否かは,監護教育,扶養,相続など,親子関係から生じる実体法上の効果の有無を重視して,決せられるべきである。しかし,本件のように,死後に懐胎した子に認知請求を認めたとしても,その具体的な利益に乏しい。
まず,父の監護,教育及び扶養を受ける余地がない。この点は,父の生前に懐胎し,その死後に出生した子も同じことのようであるが,しかし,父の生前に懐胎した子は,胎児認知等で法的親子関係を発生させる余地があるという点で,本件の場合と同一に論じられないのである。
相続についても,法は,相続人と被相続人の同時存在を要求している。胎児についての例外規定(民法886条)も設けられている。しかし,死後に懐胎した子は,胎児ではないので,相続の可能性はない。原告は,代襲相続権が発生するとも主張するが,代襲制度も,死後に懐胎した子を想定したものではないから,その制度趣旨からみて,父の死後に懐胎した子について代襲相続権が発生することもない。
ウ 仮に,本件認知請求が認められると,戸籍上,父が記載され,子は,自分が,死後に懐胎した子であることを容易に知ることになる。しかし,子がそれを知ったとき,子に対する心理的な影響がどうなるのかは予測が困難なことである。原告が主張するように,生物学上の父を法的な父と認めることが,当然に,子の福祉にかなうともいうことはできない。
エ また,父の死後に懐胎した子の認知請求が認められるとしても,民法の規定上,父の死亡から3年を経過したときは,死後認知の訴え自体が許されないことになる。
しかし,そうなると,父の死後に懐胎された子の中で,父の死後3年を経過して出生した子については,父に対する死後認知請求権を行使する機会が全く与えられない。民法787条ただし書は,非嫡出子には,すべての子に平等に認知の訴えが提起できることを定めるが,本件認知請求を認めることは,その平等性を失わせることになる。
(4) 法制審議会等における議論
ア 法制審議会の生殖補助医療関連親子法制部会は,生殖補助医療は法律上の夫婦間のみを対象とするとの前提に立って,夫が死亡した場合には,既に法律上の婚姻関係は解消しているため,生殖補助医療を認めるべきでなく,死後に懐胎された子からの認知の訴えを禁止する旨の規定を設ける方針を示している。
イ また,厚生科学審議会の先端医療技術評価部会生殖補助医療技術に関する専門委員会も,提供者が死亡した場合の精子・卵子・胚の取扱いにつき,提供者の死亡が確認されたときに,提供された精子・卵子・胚は廃棄することとの見解を示している。
実際,現在の医療実務でも,提供者が死亡した場合には精子等を廃棄することにしており,精子などの提供を受けて保存する際には,「提供者が死亡した場合には廃棄することに同意する」旨の書面を徴求しているが,制度上のものではないので,そのような制度整備も検討中である。
ウ さらに,法制審議会の生殖補助医療関連親子法制部会が発表した中間試案でも,父死亡後に保存精子を用いて体外受精し,それによって生まれた子からの認知請求の可否については,生殖補助医療に対する医療法制の在り方を踏まえた検討が必要であるとして,規定を設けていない。
そして,規定が設けられなかったのは,医療法制についての考え方が不明確なまま,親子法制に関して独自の規律を定めることは適当ではないと考えられたためである。同中間試案が,子の福祉や両親の意思の尊重のみを求めているものと速断してはならない。
エ 前述したとおり,本件父母は,現在の医療実務を前提にして作られている本件依頼書に署名押印した。すなわち,本件父母は,現在の医療実務の動向である「本件父の死亡後には本件保存精子を破棄し,人工受精を行わない」旨の取扱いを承諾し,実務動向を支持したのである。当然,死後に懐胎した原告からの認知請求は認められない。
第3 当裁判所の判断
1 事実経過について
証拠(<証拠略>)及び弁論の全趣旨によると,以下の事実が認められる。
(1) 本件父(昭和**年*月**日生まれ)と本件母(昭和**年**月**日生まれ)は,平成*年*月*日,婚姻届を提出した夫婦である。本件父は平成2年ころに白血病にかかり,抗がん剤の服用などによる治療を続けてきていたが,骨髄移植を行うためのドナーが見つかって,骨髄移植手術を受けることとなった。
(2) ところで,本件父母は,婚姻当初のころから不妊治療を受け,人工授精を受けてもいたのであるが,妊娠するには至っていなかった。本件父母は,本件父が,骨髄移植手術を受け,大量の放射線照射を受けると,無精子症になるかもしれないと危惧し,平成10年6月9日,12日,19日の3日間,<住所略>所在の医療法人財団C病院(以下「本件精子保存病院」という。)において,本件父の精子を冷凍保存してもらった。
(3) その際,同病院産婦人科医師のD(以下「D医師」という。)は,本件父母に対し,①精子保存の目的が,骨髄移植後の無精子症に備えるためのものであること,②精子は提供者本人に属するため,その保存期間は提供者の生存中に限られ,死亡とともに破棄されることなどを説明し,本件依頼書に署名押印することを求めた。そして,本件父母もこれに応じ,署名押印の上,本件精子保存病院に提出した。
(4) なお,本件依頼書には,不動文字で,次の内容の記載がされている。
「私は,骨髄移植前に精子を凍結する精子凍結保存法について下記の説明を受け充分納得しました。家族間において協議の上,この治療を受けることに意見が一致しましたので,ここに依頼致します。
① 精子の長期間の凍結後,融解をした場合に精子を回収できない可能性が充分あること。
② 法律等の施行により長期間の精子保存が不可能になった場合,破棄する可能性があること。
③ 精子保存年齢は生殖年齢(40才)までとする。
④ 1年に1回,来院もしくは電話連絡をして健康状態を連絡すること。連絡なき場合は破棄することがあること。連絡先の変更があったとき必ず連絡すること。
⑤ 死亡した場合は必ず連絡すること。精子は個人に帰する考えより,死亡とともに精子を破棄すること。
⑥ 死亡後の精子を用いた生殖補助操作はしないこと。
⑦ 精子凍結保存料金として料金を納入すること。更新料金が必要になった場合は必ず納入すること。
⑧ 精子凍結保存についての血液内科主治医の同意を得ること。」
(5) 本件父は,平成10年夏ころに骨髄移植手術を受け,同手術は成功した。
そして,本件父は,平成11年5月ころ,いったん,職場に復帰することができた。そこで,本件父母は,不妊治療を再開することにし,同年8月末ころには,E病院(以下「体外受精実施病院」という。)で不妊治療を受けることにした。
(6) ところが,他方,本件父は,平成11年夏ころから微熱が続くようになり,再度,入院することにした。そして,入院中の同年9月14日ころに発疹があり,同月18日には水疱瘡と診断され,翌19日に死亡した。
(7) 本件母は,本件父が死亡した後,本件父の両親らにも相談して,本件体外受精を行うことと決め,D医師に対し,地元の病院で不妊治療を行う予定であることを告げた上で,同年11月12日,本件父の母とともに,本件精子保存病院を訪れ,本件精子保存病院から,本件保存精子及び同精子が本件父のものであることの証明書を受け取った。なお,本件母は,その際,本件精子保存病院に対し,本件父が死亡しているとの事実を伝えなかった。
(8) そして,本件母は,事前に人工受精について相談していた体外受精実施病院に本件保存精子と上記証明書を持ち込んで,人工受精の治療をしてほしいと申し出た。本件母は,以前に,同病院のF医師(以下「F医師」という。)に対し,本件父は,現在,病気治療中であり,病院との打合せには参加できないなどと説明していたが,本件父死亡後,その死亡の事実について,同病院に伝えず,同病院でも,それ以上に,本件父の生死及び同意の有無を確認しなかった。
(9) 本件母は,平成11年11月ころから,体外受精実施病院において体外受精を試み,その後,妊娠して,平成13年*月**日に原告を出産した。
本件母は,原告の出生後,本件精子保存病院のD医師に対し,本件保存精子が本件父の精子であることの証明書を作成してほしいと頼み,同医師は平成13年6月4日にその旨の証明書を作成して,これを交付した。しかし,その際にも,本件母は,本件父の死亡日を伝えていない。本件母は,D医師に対し,「本件父が亡くなった後で子供が生まれたので,本件父の精子であることを証明して欲しい」と説明したにすぎない。
(10) 本件母は,平成13年5月23日,□□県△△市長に対し,原告の嫡出子出生届を提出したが,届出が受理されなかった。そこで,本件母は,◇◇家庭裁判所△△支部に対し,同処分に対する不服申立てを行ったが,同申立ては却下され,その即時抗告も平成14年1月29日に却下された。
(11) 本件母は,平成14年5月23日,□□県△△市長に対し,原告の出生を届け出て,受理された。原告は,本件父を筆頭者とする戸籍に登載されているが,その父親欄は空欄のままである。また,原告は,現在,本件父の両親及び祖母により監護・養育されている。
2 立法の動向など
証拠(<証拠略>)によると,次の事実も認められる。
(1) 日本産科婦人科学会では,会告をもって,体外受精などは,法律上の夫婦の間でのみ行うべきであるとしている。
(2) 厚生科学審議会の生殖補助医療部会は,平成15年4月28日,「精子・卵子・胚の提供等による生殖補助医療制度の整備に関する報告書」を発表し,①生まれてくる子の福祉を優先する,②人を専ら生殖の手段として扱ってはならない,③安全性に十分配慮する,④優生思想を排除する,⑤商業主義を排除する,⑥人間の尊重を守ることを基本的理念とした。
そして,同報告書は,「精子・卵子・胚の提供等」(以下「提供精子等」という。)による生殖補助医療に関するものであり,自己の精子を用いて体外受精する場合を直接の対象とするものではないとしながらも,同報告書中の結論中には,生殖補助医療一般についても適用可能なものがあり,他の形態の生殖補助医療も,適用が可能な範囲で,この結論に沿った適切な対応がされることが望ましいとする。
なお,同報告書の内容には,要旨,次のものが含まれている。
ア 提供精子等による生殖補助医療を受けることができる者は,法律上の夫婦に限られる。これは,法律上の夫婦以外の独身者や事実婚のカップルの場合には,生まれてくる子の親の一方が最初から存在しない,生まれてくる子の法的な地位が不安定であるなど,生まれてくる子の福祉の観点から,問題が生じやすいという点に配慮したものである。
イ 提供精子等の保存期間は,精子・卵子については2年間,胚及び提供された精子・卵子より得られた胚は10年間であり,提供者の死亡が確認されたときには,提供精子等は破棄する。提供精子等は凍結することで半永久的に保存することも可能となるが,提供者の死亡後に提供精子等を使用すると,死亡した者の提供精子等により子供が生まれることとなり,倫理上大きな問題となる。また,提供者が生存している間は,提供の意思の翻意によって提供の同意を撤回できるが,死亡のときは,その後,意思を撤回することが不可能となり,提供者の意思を確認できない。生まれた子にとっても,遺伝上の親である提供者が出生時から存在しないので,子の福祉という観点からも問題があるという考慮に基づくものである。
ウ 提供精子等による生殖補助医療を行う医療施設は,当該生殖補助医療を受ける夫婦が,当該生殖補助医療を受けることを同意する前に,当該夫婦に対し,当該生殖補助医療に関して,十分な説明をしなければならないものとする。
エ 実施医療機関は,提供精子等による生殖補助医療の実施の度ごとに,夫婦それぞれの書面による同意を得なければならないものとする。これは,同医療が,夫婦の一方又は両方の遺伝的要素をもたない新たな生命を人為的に誕生させるものであること,当事者に身体的危険性を与えることもあり得ることからして,夫婦双方の書面による明確な同意に基づいて行われるべきであるとの配慮に基づく。なお,実施医療機関が,当該医療に関する説明を行った後,3か月の熟慮期間を置いた上で同意を得ることが必要であり,同一の施術を繰り返す場合であっても,改めて同意を必要とする。また,同意するに当たり,実施医療機関は,夫婦が共に同意していることを担保するため,原則として同時にそろって同意を得ることとし,同意の内容は,説明する項目と同じであって,説明する医師の面前で,同意する項目ごとに一つずつ確認し,その上で,同意書に記名押印又は自署による署名を得ることとする。本人確認も,パスポートなど,本人の顔写真付き身分証明証によるものとし,戸籍謄本による確認などによって,法的な夫婦であることも確認する。
(3) 法制審議会の生殖補助医療関連親子法制部会は,平成15年7月15日,精子・卵子・胚の提供等による生殖補助医療により出生した子の親子関係に関する民法の特例に関する要綱中間試案(以下「中間試案」という。)を公表した。この作成過程でも,夫の死亡後に冷凍保存精子を用いた生殖補助医療が行われて,子が出生した場合についての議論があったが,中間試案においては具体的な規定は設けられなかった。
この点について,同部会は,中間試案は,商業主義や親子関係の確定等の観点から問題が生じやすい配偶者等の提供による生殖補助医療の枠組みが検討項目とされたものであって,配偶者等の提供によるもの以外の生殖補助医療一般の法的規制の在り方については,生殖補助医療をどのように規制するかといった医療法制の在り方を踏まえ,子の福祉,父母の意思への配慮といった観点から慎重な検討が必要となると指摘し,医療法制の考え方が不明確なまま,親子法制に関して独自の規律を定めることは適当ではないと考えたので,更なる検討をしなかったと説明した。
2 裁判所の判断
(1) 民法787条に定める認知の訴えは,嫡出でない子と血縁上の父との間において法律上の父子関係を形成することを求める訴えである。民法制定の当時には,体外受精などの生殖補助医療技術が存在しなかったから,ここでいう「血縁上の父」は,性交渉によって子の母を懐胎させた者を指しており,その概念は明確であったということができる。
しかし,生殖補助医療の発達により,性交渉を経ない受精,懐胎が可能となった結果として,「血縁上の父」という概念にも変化を生じさせかねないこととなった。例えば,法律上の婚姻関係にある夫婦が,両者の合意に基づいて,その精子・卵子を用いた体外受精を行い,これを妻の胎内に戻して懐胎・出産がされたという場合には,性交渉を経ていない懐胎であっても,それによって出産した子の「父」は,精子を提供した夫であるとすることに問題はない。しかし,AID(Artificial Insemination with Donor's semen)における精子ドナーについてはどうか。生物学的ないし遺伝的見地からは,前記夫とドナーとの間に何らの違いがないにもかかわらず,精子ドナーを「父」と呼ぶことに,大方の者は,強い抵抗感を覚えるであろう。この違いはどこからくるのであろうか。前者は,夫と妻が,共に,夫と子との間に父子関係を生じさせる意思を有しているのに対し,精子ドナーの場合は,ドナー自身はもとより,夫も妻も,精子ドナーを父とする意思を有していないことによるのである。
従来,血縁上の父という場合,意思的要素は考慮されず,生物学的ないし遺伝的見地から客観的に父子関係を確定すれば足りるかのように思われていた向きもあったが,これでは両者の違いを十分に説明することができない。ひるがえって考えてみると,自然的生殖の場合でも,父については,性交渉自体に意思的要素が含まれているものといえる。このようなことからすると,認知の前提となる「血縁上の父」は,純粋に生物学的ないし遺伝的見地から決定されるものではなく,社会通念に照らし,法律上の「父」とは何かということから判断されることになる。もとより,父子関係は,人にとっての基本的な観念であるから,概念のややあいまいな社会通念によって決するということは望ましいわけではなく,早急に,何らかの立法的手当が行われることが望ましい。しかし,性交渉によっては妊娠する可能性がない,もしくはその可能性の乏しい男女からの子を持ちたいという要望にこたえ(AIH,AIDなど),子を生む時期についての選択を許し(受精卵の凍結・保存など),その他,生殖をめぐる多くの要望にこたえていくために発達してきた生殖補助医療を,法律上,全く否定することもできない。これまでにも,かかる生殖補助医療によって多くの子が出生し,法律上,父がいるものとして認知され,生活してきている実情にあり,法の予定しない方法による受精・懐胎・出産であるということだけで,一律に父子関係を否定することは適当でないからである。立法的手当がされるまでの間は,社会通念に照らして個別に判断していくほかはない。
(2) そこで,法律上の父子関係が認められるか否かは,子の福祉を確保し,親族・相続法秩序との調和を図る観点のみならず,用いられた生殖補助医療と自然的な生殖との類似性や,その生殖補助医療が社会一般的に受容されているか否かなどを,いわば総合的に検討し,判断していくほかはないのである。本件でも,このような見地から,事案に即して,検討していくことにする。
ア まず,夫婦の同意によるAIHについては,性的交渉による妊娠が著しく困難であることを補うためのもので,かつ,懐胎後の経過も自然的生殖のそれと大きく違わない。また,子の出生後は,父母による養育・扶養が期待できるし,万が一,父母が死亡した場合でも,相続による財産の承継も予定することが可能であるから,子の福祉の観点からみても,問題はさほど大きくないと思われる。
ところが,本件の場合のごとく,精子提供者が死亡した後に,保存精子を用いて人工受精がされ,懐胎があり,子が出生したという場合には,上記の場合と同視できない。まず,死者について性的交渉による受精はありえないから,このような人工受精の方法は,自然的な受精・懐胎という過程からの乖離が著しい。そして,そのことが原因かどうかはともかくとして,社会的な通念という点からみても,このような人工受精の方法により生まれた子の父を,当然に,精子提供者(死者)とするといった社会的な認識は,なお,乏しいものと認められる。
その意味で,精子提供者が死亡した後,保存精子を用いて人工受精がされて,懐胎し,子の出生があったという場合において,精子提供者(死者)をもって,当然に,法律上の父と認めることには,なお,躊躇を感じざるを得ない。
イ 原告は,この点で,精子提供者である本件父が生前に同意していたと述べて,本件認知請求が認められることの有力な根拠としており,わが国でも,同様な見解が主張されているところである。
しかし,かかる見解を支持するか否かにかかわらず,本件では,精子提供者である本件父が,死後,人工受精が行われることに同意していたとは認めることができない。なるほど,本件証拠を検討すると,原告法定代理人(本件母)が作成した陳述書の中に,「原告の父は,手術が失敗したときでも子供を望んでいた」旨の記述があるが,しかし,その部分に関して裏付けとなるべき証拠はなく,なお,採用することができないものである。前認定のとおり,本件父は,本件精子保存病院に本件依頼書を提出しているが,そこでの同意も,本件父が生存中での人工受精に関するものであって(もっとも,それですら,平成10年6月当時のものであり,本件母が原告を受胎した時期の2年以上も前のものである。),本件父の死亡後について同意されたものではない。
そこで,本件父が生前に同意していたことを理由にして,本件認知請求が許されるとする原告の主張は,なお,認められない。
ウ さらに,原告は,子の福祉の観点を強調し,本件認知請求が認められるべきことを主張する。なるほど,生まれてくる子の福祉については,両様の考え方があり得るところではあるが,原告が主張するように,法律上の父がないことによる社会的な不利益は少なからず認められ,しかも,それが必ずしも小さなものともいうことはできない。したがって,死後に冷凍保存精子を使った場合でも,生物学的ないし遺伝的見地からの父が判明している以上,社会的に父として認めることが子の福祉にかなうものであるという主張も,根拠がないわけではない。子の出自を知る権利の保護や,戸籍の父親欄が空欄であることに伴う社会的な不利益に対する配慮などは,当然に,考えられるべきことである。
しかし,監護,養育,扶養を受けることが考えられない者との間で,法律上の父子関係を認めることが,当然に,子の福祉にかなうことであるとも言い切れない。被告が指摘するとおり,法律上の父子関係が認められたことで,かえって,子に負担をかけることも,場合によっては考えられないわけではない。
原告は,また,法律上の父子関係を認めた場合において,具体的な実益もあると主張する。しかし,その実益としてあげられたところをみても,それは,法律上の父子関係を認めるか否かの根拠というよりも,法律上の父子関係が認められた場合において生ずるであろう法律上の効果を述べたものにすぎない。本件で,法律上の父子関係が認められるとか,認められないとかを判断することの根拠とはならない。
エ 生殖補助医療の進展は,日進月歩であり,現時点において,明確な社会的な合意が形成されてはいない。むしろ,専門家による検討,国民的な議論を経て,今後,社会的な合意が形成されていくものと思われる。
しかし,日本産科婦人科学会の会告や,立法の動向などの内容は,前に述べたとおりであって,内容的には,本件のように,死者の冷凍保存精子を使って,懐胎し,子を出生することにつき,消極的な意見が多数のようである。もちろん,死後の体外受精は,これを抑制・禁止すべきであるという問題と,その結果,生まれてきた子の地位をどのように考えるかといったことは,全く別の問題である。しかし,これらの会告や立法動向として伝えられているところを一読しても,生まれてきた子を精子提供者(死者)の子と認めることについて,肯定的に考える意見が多くみられるといった状況にはない。本件認知請求を認めるだけの社会的な理解は,いまだ,十分に広がっていないと思われる。
オ また,いったん,精子提供者が死亡した後の精子使用を認めてしまうと,精子提供者の死後,精子をいつまで使うことができるのか,どのような条件の下に認めていくのかなどの困難な問題も派生することになる。
もっとも,死後認知請求は,父又は母の死後3年間に限られるのであるから,この間において出生した子については,親族法秩序を乱すことはないとの解釈もないわけではない。しかし,3年間という期間制限は,「血縁上の父子関係」を解明する科学的手段が発達していなかった時期において,父の死後の親族関係の早期確定を目的として定められた技術的期間にすぎず,かかる技術的要請により定められた期間を,生殖補助医療の制限期間と解することにも問題があると解される。
(3) 以上のとおりであるから,原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし,よって,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・上原裕之,裁判官・森實将人,裁判官・荒井章光)