松山地方裁判所 平成20年(わ)70号 判決 2010年5月12日
主文
被告人は無罪。
理由
第1訴訟経過等
1 主位的訴因
「被告人は,平成18年2月12日午後1時(以下「本件日時」という。)ころ,愛媛県内のスキー場(以下「本件スキー場」という。)において,本件スキー場内のスノーボードコースに設置されたミニジャンプ台(以下「本件ジャンプ台」という。)を利用してスノーボードでフロントフリップ(前方宙返り)をするため滑走を開始するに当たり,同コースはジャンプ専用のコースではなく周囲にスキー客等がおり,本件ジャンプ台下方には人の進入を防止するような設備が施されておらず,かつ,滑走を開始する地点からは,本件ジャンプ台下方の着地点付近が見通せず,同着地点付近の人の有無が確認できなかったのであるから,直ちに滑走せず同着地点付近の人の有無を他者に確認してから滑走を開始すべき注意義務があるのにこれを怠り,同着地点付近には人がいないものと軽信し,同着地点付近の人の有無を確認することなく漫然と滑走を開始した重大な過失により,本件ジャンプ台でフロントフリップを行った後,本件ジャンプ台下方で仰向けに転倒していたスキー客A(当時9歳,以下「本件児童」という。)の頭部に自己のスノーボードを衝突させ,よって,同人に対し,完治不能な四肢運動障害を伴う脊髄損傷の傷害を負わせた」
2 予備的訴因
「被告人は,本件日時ころ,本件スキー場スノーボードコースにおいて,スノーボードを使用して滑走し,同コースに設置された本件ジャンプ台を利用してフロントフリップを行うに当たり,付近にはスキー客等が散見され,かつ,本件ジャンプ台下方には人の進入を防止するような設備が施されておらず,本件ジャンプ台下方にスキー客等が進入することが予測され,遅くとも本件ジャンプ台頂点(以下「リップ」という。)手前約6メートル地点付近においては,本件ジャンプ台下方の着地点付近のスキー客等の有無及びその安全を容易に確認できたのであるから,同地点までに,前方を注視し,姿勢及び速度を調節して,本件ジャンプ台下方の着地点付近のスキー客等の有無及びその安全を確認し,同着地点付近にスキー客等を認めた場合には直ちに方向転換措置等を講じて,フロントフリップを中止すべき注意義務があるのにこれを怠り,同着地点付近には人がいないものと軽信して,前方を注視せず,かつ,姿勢及び速度を調整しないまま,同着地点付近のスキー客等の有無及びその安全を確認することなく滑走を続けた上,本件ジャンプ台を利用してフロントフリップを行った重大な過失により,フロントフリップを終えて着地した後,本件ジャンプ台下方で仰向けに転倒していた本件児童を至近距離に迫ってようやく認め,急制動の措置を講じたが間に合わず,同人の頭部に自己のスノーボードを衝突させ,よって,同人に対し,完治不能な四肢運動障害を伴う脊髄損傷の傷害を負わせた」
3 本件の訴訟経過
本件は,事件後約2年を経過した平成20年3月17日に起訴がされたが,その際の公訴事実は,「被告人は,本件日時ころ,本件スキー場において,スノーボードでスノーボードコースを滑走し,同コースに設置された本件ジャンプ台を利用してフロントフリップをするに当たり,本件ジャンプ台下方の着地点付近の安全を確認し,他のスキー客等との衝突事故の発生を未然に防止すべき注意義務があるのにこれを怠り,本件ジャンプ台下方の着地点付近に人がいないものと軽信し,同着地点付近の安全を確認することなく漫然と滑走を続け,フロントフリップを行った重大な過失により,本件ジャンプ台下方で仰向けに転倒していた本件児童の頭部に自己のスノーボードを衝突させ,よって,同人に対し,完治不能な四肢運動障害を伴う脊髄損傷の傷害を負わせた」というものであった。
当初の訴因は,どの時点におけるいかなる行為を重過失と捉えているのかが必ずしも明確ではなかったところ,弁護人からの度重なる求釈明要求や,この点に関する裁判所からの事実上の求釈明を受け,公訴提起から約4か月余り経った同年7月31日に至り,滑走開始前において,第三者に着地点付近の人の有無を確認すべきであったのにこれを怠って滑走を開始した点を重過失と捉える主位的訴因への訴因変更が請求され,当裁判所は,同変更を許可し,以後,この点を直接の攻防の対象とする審理が行われた。
然るに,起訴から約1年3か月余り後,主位的訴因への訴因変更請求から約11か月後の時点に至り,予備的訴因への訴因変更が請求され,当裁判所は,迅速な裁判の実現,被告人の立場への配慮という観点からは,公訴権行使の在り方として妥当性を欠く面があるものの,権利濫用に当たるとまではいえないとして同訴因変更を許可し,以後,検察官の追加立証等が行われ,証拠調べが終結した。
そして,検察官は,論告において,上記審理経過を踏まえ,被告人には主位的訴因,予備的訴因に係る重大な過失が認められ,被告人に対する処罰としては禁錮10月が相当であるとの意見を述べた。
これに対し,弁護人は,被告人には本件事故に対する予見可能性も結果回避可能性もなく,過失はないから,主位的訴因及び予備的訴因のいずれについても無罪である旨主張している。
4 争点
本件日時ころ,本件スキー場スノーボードコース(なお,現在は「アミューズメントコース」に改称している。)において,被告人がスノーボードをし,本件ジャンプ台でフロントフリップをしたところ,本件ジャンプ台下方で転倒していた本件児童にスノーボードを衝突させ,同人に傷害を負わせたこと,被告人が本件ジャンプ台上方から滑走を開始する際には,ジャンプ台の着地点付近が見通せなかったことが関係証拠上優に認められる(詳細については,後記第2の1「前提となる事実」参照)。
したがって,本件の争点は,検察官が主張する主位的訴因である滑走開始前の注意義務違反,すなわち,被告人が,本件ジャンプ台上方から滑走を開始する前に,着地点付近に人がいないのを他の者に確認してから滑走を開始すべきであったのにこれを怠って滑走を開始した重過失(争点①),あるいは予備的訴因である滑走中の注意義務違反,すなわち,滑走開始後,遅くともリップの手前約6メートル付近では着地点付近の視認が容易であり,安全確認等をすべきであったのにこれを怠って滑走を続けた重過失(争点②)が認められるかにある。
5 「重過失」と「軽過失」との関係
検察官は,「重過失」の意義について,高裁判例を引用して,「注意義務に違反する程度が著しい場合,すなわち,わずかな注意を払うことにより,結果の発生を容易に回避し得たのに,これを怠って結果を発生させた場合」をいうとし,弁護人も同様に解している。「重過失」の意義をいかに解するかについては諸説あるところであるが,当裁判所も,上記意義に従うことが相当であると思料する。
ところで,重過失と軽過失の関係をめぐっては次のような困難な問題がある。
過失傷害についての法定刑は30万円以下の罰金又は科料であり(刑法209条1項),簡易裁判所に専属管轄がある。そこで,重過失傷害として地方裁判所に起訴された事案について,重過失までは認められないが,軽過失は認められると判断した場合にどのように対応すべきかについては,種々の見解が述べられているところ,管轄違いの裁判をすべきであるとの見解が有力であり,同旨の裁判例も見られる(なお,地裁において管轄外の過失傷害罪で有罪判決を下すことは許されないと解する。東高判昭和54年2月27日判時955号131頁同旨。)。このような処理を行う理由は,検察官の当初の訴因に,縮小認定に係る訴因も含まれていると解され,検察官がなお処罰意思を有しているのが通常であるから,被告人に対する適正な処罰を行うには,一事不再理効が生じるのを防ぎ,刑罰権発動の余地をなお確保することが相当であると考えるからである。しかしながら,本件の訴訟経過を踏まえると,このような処理を行うことは相当ではない。まず,本件では,検察官は,公訴提起から一貫して被告人の行為が重過失に当たると主張し,論告においても,重過失傷害罪が成立し,禁錮10月に処すべきである旨述べている。そして,既に現時点において,公訴提起後2年余りを経過しているところ,審理が長期化した最大の原因は,当初の訴因から2回にわたり訴因の変更,追加が行われたことに帰する。当初の訴因については,事故発生から公訴提起までに2年余り経過した後になされたものであるにもかかわらず,前記のとおり曖昧なものであり,手続が紛糾し,訴因変更の上,実質審理に入るまでに数か月を要している。また,2回目の訴因変更は,裁判所が検証後に当事者と事実上合意した審理計画が終盤に差し掛かった段階で請求されたため,審理計画を修正し,追加立証,反証の期間を設けざるを得なくなった。このような状況下において,仮に軽過失該当性について検討し,これを認定して管轄違いの裁判をしたとすれば,今度は簡裁において,軽過失の有無をめぐり,審理が紛糾,長期化することは避けられず(当裁判所における被告人側の意見をみると,軽過失の有無についても激しく争うことが容易に想定される。),事案の終局確定を更に遅らせ,ひいては迅速裁判の要請に真っ向から反する結果にならざるを得ない。当裁判所は,以上の観点から,本件においては,検察官が明示的に主張している重過失傷害罪の成否について検討を加え,これが認められなかった場合には,直ちに上記両訴因に対する実体判断を行うこととする。
第2当裁判所の判断
1 前提となる事実(証拠上動かし難い事実)
(1) 事故現場付近の状況
本件スキー場のスノーボードコースは,別紙1(略)及び別紙2(略)のとおりである。コース上方から見て,右側部分がミニハーフパイプ,左側部分が幅約15ないし18.75メートルの滑走用コースで,コース上方左側にウエイブ(波型)レールが,中央付近に本件ジャンプ台が設置されていた。
本件ジャンプ台は,幅約2.5メートル,高さ約0.7メートル,ジャンプ台進入地点からリップまでが約1.5メートル,リップからジャンプ台終点までが約1.2メートルで,ジャンプ台下方には雪を盛り上げていなかった。
本件ジャンプ台上方の斜面の斜度は緩やかであり,ジャンプ台下方には人の進入を防止するためのネットは設置されておらず,常駐の監視員もいなかった。
本件当時,スキー客へのコース案内のためのパンフレットには,別紙1と同様に,スノーボードコースは,「全長300m。ストレートボックス、ミニハーフパイプ、レール等もありまさにスノボー専用。」と紹介されており,多くのスノーボーダーに利用されていた。他方で,同コースは特に上方の斜度が比較的緩やかであり,コース上方の第2リフト降り場付近に設置された古い立て看板には,右側に林を迂回した後,スノーボードコースと途中で合流する「ファミリーコース」が表示されていた(なお,ファミリーコースは,本件当時は既に廃止されていた。)。そのため,家族連れや初心者のスキーヤーも,スノーボードコースを利用していた。
同コースでは,少なくとも当日は,本件ジャンプ台を利用する者のほとんどがスノーボーダーであり,スノーボーダーは,別紙2の×印に向かう線のように,ジャンプ台までほぼ真っ直ぐに滑走し,ジャンプして着地した後,右側に流れるように滑走していた。ジャンプ台を利用しないスキーヤーやスノーボーダーは,ジャンプ台の右側のハーフパイプコースか,ジャンプ台左側のコースを滑走していた。
(2) 衝突事故の状況
被告人は,中学生のころからスノーボードを始め,19歳のころからスノーボード(フリースタイル)のプロを目指し,スキー場や,屋内スノーボード施設に通って練習を重ねており,本件当時は五,六年のスノーボード歴を有しており,当日も,スノーボード仲間のBらとともに本件スキー場を訪れた。被告人が本件スキー場を利用するのは今回が初めてであった。
当日は,被告人と同じように,本件ジャンプ台でジャンプをするスノーボーダーがリップから約50メートル上方付近に数名たむろしており,順番にジャンプを行っていた。
被告人は,本件ジャンプ台でフロントフリップ(ジャンプ台上方から滑走して助走を付け,ジャンプ台のリップで上向きに踏み切り,前方に一回転宙返りしてジャンプ台下の雪面に着地する技)を含め,三,四回ジャンプを行った後,本件日時ころ,フロントフリップをすることとし,Bに対し,フロントフリップが上手くできているかを見てくれるよう頼んだ。そこで,Bは,本件ジャンプ台下方が見渡せる位置(別紙2「林」という文字記載がある付近)まで移動し,被告人のジャンプを見ることとした。
被告人の滑走開始地点(リップから約51.6メートル上方のウエイブレール上端真横<別紙2④>又はその右斜め上方の,リップから同約57.6メートル上方付近)からは,本件ジャンプ台下方の着地点付近が全く見通せなかった。
被告人は,自分の直前に本件ジャンプ台を利用したスノーボーダーがジャンプした後,ミニハーフパイプ方向へ抜けて行く姿を確認した上で,滑走を開始し,少しかがむような姿勢で滑走し,本件ジャンプ台でフロントフリップを行った。
本件児童は,当日,父親のC(以下「父親」という。)ら家族とともに本件スキー場を訪れ,第2リフトを利用して,ファミリーコースの表示に従って父親とともにコース内を滑走していたところ,本件ジャンプ台の左横(本件ジャンプ台上方から見た場合。以下同じ。)付近でしりもちを付き,その後,下方にずり落ち,被告人がフロントフリップを行う時点では,本件ジャンプ台下方約10メートルの付近で仰向けになって倒れていた。
被告人は,フロントフリップを行って着地した後に初めて本件児童とその側にいた父親を発見し,スノーボードを斜面に対し真横にしてブレーキをかけたが間に合わず,本件児童の頭部にヘルメット越しにスノーボードを衝突させ,前記傷害を負わせた。
2 争点①(滑走開始前の注意義務違反)について
前記のとおり,スノーボードのフロントフリップは,ジャンプ台から前方に宙返りして着地するというもので,その着地点付近に人がいた場合,ジャンプを開始してから衝突を回避しようとしても困難である上,スノーボードの形状や重量に照らすと,滑走中にスノーボードを人と衝突させれば,相手方に重傷を負わせる危険性が高いことは明らかであり,スノーボードを行うに当たっては,ジャンプする前の段階で,衝突事故を避けるような適切な措置を講じるべきであることはいうまでもない。そして,利用者の中には本件ジャンプ台を使わないスキーヤー等も混在していたことや,本件ジャンプ台は,着地点付近への進入が比較的容易な構造であり,防護ネットその他の進入防止設備も設置されていなかったことからすれば,着地点付近にスキーヤー等が進入してくる可能性は否定できず,被告人も,上記事実関係を認識していたものと認められる。そうであれば,被告人において,本件ジャンプ台でジャンプを行う際には,下方に人がいないかについて注意を払った上でジャンプを行う義務を負っていたというべきである。
そして,被告人は,直前のスノーボーダーがジャンプした後,ミニハーフパイプの方に抜け,特に後ろを振り返ってジャンプを中止するよう合図するなどしていないのを確認した上で,本件ジャンプ台までにスキーヤー等がいないことも確認し,滑走を開始したのである。前記認定のとおり,被告人以外にも数名のスノーボーダーが本件ジャンプ台を順番に利用しており,あまり間隔を空けずに次々とジャンプを行っていたと認められるところ,先行のスノーボーダーが問題なくジャンプを終えたことや,コース上に人の姿が見えなかったことから,自分もジャンプをしても問題ないものと判断しても無理からぬ面もある。被告人は状況に応じた一応の注意を払っており,通常であれば,被告人がした程度の注意でも,十分事故が防げたと考えられ,本件事故が発生したのは,前のスノーボーダーがジャンプした後,本件児童が本件ジャンプ台下で仰向けの状態で止まったという,被告人側からすると予測外の事態が発生したことによるのであって,被告人が,第三者に下方の安全を確認させなかったことを著しい注意義務違反とみるのは相当ではない。
この点,検察官は,第三者に本件ジャンプ台下方の人の有無を確認させた上でなければ,滑走を開始すべきではなかったと主張する。
しかしながら,当時,スノーボーダー同士がお互いがジャンプする際に着地点付近に人がいないことを確認する慣行が確立していたことを認めるに足りる証拠はない。一般に,スキーヤーやスノーボーダー同士の衝突事故においては,上方から滑走する者に,下方を滑走する者の動静に対する注意をすべき義務を負わせる一連の民事判例<最判平成7年3月10日判タ876号142頁等>があり,全国スキー安全対策協議会が作成している国内スキー等安全基準(甲55)にも,前方を滑るスキーヤーを優先する旨や,地形や障害物で進路の前方が見えにくい時は徐行する旨記載されているが,これらから,直ちに本件事案で検察官が主張するような刑法上の重過失を基礎付ける行為準則が導かれるわけではない。
次に,被告人が,仮に第三者,例えば被告人のジャンプを見ていたBに下方の安全確認を依頼した場合に,衝突結果の回避が可能であったかについて検討する。
衝突が回避可能であったというためには,被告人が滑走を開始する時点において,本件児童らが本件ジャンプ台下方にいることが必要であるところ,検察官は,本件児童が本件ジャンプ台下方にいた時間が30秒間以上であるのに対し,被告人が滑走を開始してから衝突までの時間は約12ないし15秒間であることからすれば,被告人の滑走開始前に本件ジャンプ台下方には本件児童がいたはずであると主張する。
この点,父親は,公判廷において,本件ジャンプ台左横上方で本件児童がしりもちを付いて転び(A地点),真下に六,七メートルほどずり落ちて止まった後(B地点),さらに右斜め下のほうへずり落ち,ジャンプ台下方約10メートルのところに止まった(C地点),B地点からC地点までは10秒か15秒程度であったと思う,本件児童が少し疲れた様子だったので少し待ち,スキー板を脱いで,本件児童の右側へ回り込み,「何しよんな。早よ立てようぜ。」などと声を掛けたがそれでも動かないので,本件児童の右側に膝立ちになり,本件児童を抱きかかえようと手を伸ばそうとした瞬間に事故が起きた,C地点に至ってから事故までは二,三十秒であったと思う旨供述する。その供述自体は具体的かつ自然であり,基本的には信用できるが,時間に関する供述はあくまでも感覚的なものであり,被告人のジャンプとの先後関係を厳密に確定する際に用いる数値としては正確性に欠けるといわざるを得ない。
また,検察官が依拠する科学捜査研究所主席研究員Dが行った鑑定(甲33)によれば,被告人の滑走開始から衝突までの時間は,12.91秒ないし14.56秒とのことである。しかしながら,鑑定の前提とされた事実関係,すなわち,被告人がジャンプした位置,着地した位置,雪面の摩擦係数,本件ジャンプ台やその前後の斜面の斜度などについて,推測やある程度幅のある数値を用いている上,自然落下ではなく人為的に速度調整のできるスノーボードの走行速度や時間を正確に算定することは困難であり,同数値を厳密なものとして見ることはできない。この点,被告人は,スタート後,二,三十秒かかった旨述べていて,これが明らかに不合理であると認めるに足りる証拠はない。
以上のとおりであって,検察官指摘の事実からは,被告人の滑走開始前に本件児童が本件ジャンプ台下方にいたとの断定はできない。
Bは,公判廷において,下方の安全確認という趣旨ではなく,被告人のジャンプを観察するために下方が見える位置に移動して被告人のジャンプの状況を見ていたところ,被告人の滑走開始前に着地点付近を確認したが,人はおらず,スタートしてもよい旨被告人に合図を送った旨述べている。
検察官は,B供述は,捜査段階の供述から重要な部分で変遷しており,友人である被告人をかばおうとしていることは明らかであり信用できない旨主張する。まず,供述の変遷についてみると,Bの警察官調書には,直前のスノーボーダーがジャンプした後,本件ジャンプ台の前を女の子が横切った,その場所が着地点20メートルくらいのところであるとの記載があるが,その供述内容を見ても,本件児童がどの時点で,どの場所で,どのような行動をしているのを目撃したのかについてはなはだ曖昧なものとなっており,公判供述の信用性を的確に弾劾し得るものではない。次に,Bの証言態度には,確かに,被告人をかばう意識も顕れており,そのまま信用できない面もあるが,だからといって,その供述から直ちに滑走開始前に本件児童らが本件ジャンプ台下にいたのを見たとの事実を認定することはできず(なお,前記警察官調書は弾劾証拠として提出されているので,同調書から同事実を認定できないことは当然である。),他にこれを認めるに足りる証拠はない。
そうすると,被告人の滑走開始前に本件児童が着地点付近に到達し,被告人に対し,第三者からジャンプを止めるよう知らせるなどして本件事故を回避することができたというには合理的疑いが残る。
以上のとおり,被告人においても,滑走開始時点における一応の注意義務は果たしていることに加え,検察官が述べるような措置を講じていたとしても,本件衝突事故を容易に回避できたとは断定できず,重過失は認められない。結局,検察官の上記主張は採用できない。
3 争点②(滑走中の注意義務違反)について
滑走中における注意義務違反に関する検察官の主張は,滑走中,遅くともリップの手前約6メートルの地点に至った時点では,本件児童の横で膝立ちになった父親の姿を発見することが可能であり,それにより,直ちに方向転換するなどしてフロントフリップが中止できたとするものであり,その根拠として,前記D研究員が行った視認状況に関する鑑定結果(甲52)を挙げる。
同鑑定は,関係証拠上認められる本件ジャンプ台の角度,ジャンプ台前後の斜面の傾斜,父親の位置及び姿勢,被告人の滑走時の姿勢を前提とすると,本件ジャンプ台リップ手前約6メートル地点で,着地点付近に膝立ちしている父親の頭頂部から下方約33センチメートルの部分までを見ることができたというのである。
ところで,検察官は,本件ジャンプ台上方の斜度について,警察官が計測した数値(約5.7度)ではなく,本件スキー場関係者Eが計測した数値(10度)を用いている。E証言によると,計測は,事件後すぐに行ったというのであるが,この点に関する証拠は,予備的訴因が追加され,滑走中の視認可能性が問題となった時点で初めて請求されたものであり,本件児童側から本件事故に関し,スキー場の管理責任を問う損害賠償請求訴訟を提起されていることからしても,立場の中立性に問題がある。警察官の計測とEの計測のどちらが正確かという点も,必ずしも明らかではない。このような事情に照らすと,視認可能性を検討する上で,警察官が行った上記測定値を排斥し,明らかに被告人に不利になるEの主張する計測値を用いるのは相当ではない。また,被告人がリップの約6メートル手前の地点に達した時にどのような姿勢であったのか,その時点で父親の姿勢がどうであったのかについては少しの姿勢の違いで数値に誤差が出るところであり,特に父親の姿勢を写真で確認すると,雪面から真っ直ぐに膝を伸ばした姿勢を取って計測していると認められるところ,実際の条件下においては,雪面への沈み込みの可能性,姿勢が前屈みになる可能性など,被告人に有利な方向での誤差(いわゆるマイナス誤差)も生じ得るものである。以上の事実からすると,同鑑定からリップの約6メートル手前の地点までに父親の頭部付近を確認できたとは断定できないというべきである。
加えて,被告人は,スノーボード歴は長く,大会で入賞するなどそれなりの技量も備えていたと認められるにもかかわらず,現に,ジャンプするまでには本件児童や父親の存在に気付いていなかったのである。被告人としても,それなりの緊張感でジャンプに臨んでいたはずであるのに,当然視界に入るはずの位置にいる父親らの姿を見ていないとすれば,客観的に見えなかったか,あるいは多少は見えたとしても,気付くのが困難な状況にあったとみるのが自然である。関係者の供述によると,フロントフリップを行う際,リップの手前付近であれば,通常はリップ付近を注視しているとのことであり,その時点で既に相当の速度も出ていると認められるのであるから,客観的には体の一部が確認し得たとしても,上記状況下では,前方着地点付近の人の有無を確認することが容易だと認めるにはなお合理的疑いが残る。
(検察官は,仮に,本件事実関係の下で,衝突回避が不可能であったのであれば,衝突回避が可能な姿勢,速度で滑走すべきであり,本件ジャンプ台下方の安全確認が不可能な姿勢,速度によらなければならないジャンプを本件ジャンプ台を利用して行うこと自体が,本件ジャンプ台下方の人への衝突を回避すべき注意義務に違反する旨主張する。その意味するところが,フロントフリップをするべきではなかったとの主張であれば,当時の状況を踏まえると,そのような高度の注意義務まで課すことはできないし,前記滑走開始前の過失において検討したとおり,滑走を開始したことに重大な過失はない。)
以上のとおり,被告人が滑走中,検察官が主張する本件ジャンプ台リップの約6メートル手前の地点では,父親らの発見が容易であったとは認められないのであるから,検察官の主張は採用できない。
4 結論
以上のとおり,主位的訴因及び予備的訴因のいずれについても,検察官の主張する重過失は認められない。したがって,本件公訴事実については犯罪の証明がないことになるから,刑事訴訟法336条により被告人に対し無罪の言渡しをする。
(求刑・禁錮10月)
(裁判長裁判官 村越一浩 裁判官 藤原未知)
裁判官西前征志は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 村越一浩