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松山地方裁判所 平成23年(ワ)1337号 判決 2016年1月20日

(略)

原告

(略)

原告兼原告A法定代理人親権者

(略)

原告兼原告A法定代理人親権者

上記3名訴訟代理人弁護士

(略)

(略)

被告

医療法人D

同代表者理事長

同訴訟代理人弁護士

(略)

(略)

主文

1  原告らの各請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第1請求の趣旨

1  被告は,原告A(以下「原告A」という。)に対し,2億1563万5455円及びこれに対する平成23年1月a日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  被告は,原告B(以下「原告B」という。)に対し,660万円及びこれに対する平成23年1月a日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

3  被告は,原告C(以下「原告C」という。)に対し,660万円及びこれに対する平成23年1月a日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

4  訴訟費用は被告の負担とする。

5  仮執行宣言

第2事案の概要等

1  事案の概要

本件は,被告の開設する病院において出生した原告Aが,いわゆるカンガルーケアの実施中に心肺停止に陥り,その後,重篤な脳性麻痺による後遺症が残存するに至ったことに関し,原告A並びにその父である原告B及び母である原告Cが,被告ないしその職員が,①カンガルーケアの開始に先立って適切な説明をせず,②原告Aの低血糖に対する適切な処置をせずに,いったん中断されていたカンガルーケアを再開させた上,③再開後のカンガルーケアについて適切な経過観察をしていなかったと主張して,被告に対し,診療契約上の債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償として,原告Aが2億1563万5455円及びこれに対する不法行為日である平成23年1月a日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を,原告B及び原告Cが各660万円及びこれに対する上記同様の遅延損害金の支払をそれぞれ求める事案である。

2  前提事実

以下の各事実は,当事者間に争いのない事実のほかは,後掲各証拠及び弁論の全趣旨により認められる。

⑴  当事者

原告B(男性)と原告C(女性)は夫婦であり,原告Aはその第2子(二男)である(甲C1)。

被告は,D’(以下「被告病院」という。)を開設する医療法人である。

⑵  カンガルーケアの意義等

カンガルーケアとは,母親が,新生児を,直接肌と肌が触れ合うように抱くことをいう。

カンガルーケアは,昭和53年頃にコロンビアのボゴダにおいて保育器不足への対策から生まれたものであるが,その後,母子相互関係の確立等に効果があるとして世界的に注目を集め,日本においても,当初は,NICU(新生児集中治療室)内において,母子間の接触の機会が少なくなりがちな早産児に対して行われるようになり,その後しだいに,一般産科の分娩室において正期産児に対しても行われるようになったものである(甲B1ないし3,5,10,乙B6)。

なお,「カンガルーケア」という語は,上記のNICU内での接触を指すのが当初の用法であったが,やがて,一般産科の分娩室での接触をも指す語としてもまま用いられるようになり,用語の混乱を避けるため,後者については,たとえば「早期母子接触」と呼ぶことなどが提案されている(乙B6。なお,原告Aについて実施された「カンガルーケア」はこの「早期母子接触」であるが,本件では,当事者の主張に照らし,原則として「カンガルーケア」という語を用いることとする。)。

⑶  原告Aの出生及びカンガルーケアの実施

ア 原告Cは,平成23年1月a日午前9時頃(以下,アないしウの各事実は,いずれも同日の出来事である。),被告病院のLDR(以下「本件LDR」という。なお,LDRとは,分娩室としての役割に加え,陣痛及び分娩後の回復のための部屋としての役割を兼ね備えた部屋という意味の語であり,分娩後のカンガルーケアが行われる部屋でもある。)において,自然分娩により原告Aを出産した。

原告Aは,本件LDRに隣接するLDR準備室のインファントウォーマーにおいて,体重等の計測や採血をされた後,担当助産師であるF(以下「F」という。)によって,本件LDRの分娩台に横たわる原告Cの胸の上に連れて来られ,午前9時15分頃からカンガルーケアが開始された。

イ Fは,原告Aの上記採血によって採取された血液の血糖値が28mg/dlと低値であることが判明したため,午前9時17分頃,原告Aを原告Cの胸から抱き上げてLDR準備室のインファントウォーマーに連れて行き,原告Aに5%ブドウ糖液10mlを哺飲させた。

その後,Fは,原告Aを再び原告Cの胸に抱かせ,午前9時25分頃,カンガルーケアが再開された。

ウ 原告Aは,午前9時55分頃,被告病院の助産師によって,原告Cに抱かれたまま,顔色不良,全身蒼白となっているところを発見され,心肺停止に陥っていることが確認された。

⑷  原告Aの脳性麻痺

原告Aは,その後,救命はされたものの,重篤な脳性麻痺による後遺症が残存することとなった(甲A4の1,2)。

3  争点及び当事者の主張

⑴  原告Aの脳性麻痺の機序

(原告らの主張)

原告Aは,カンガルーケア中の心肺停止のために低酸素性虚血性脳症を発症し,重篤な脳性麻痺による後遺症が残存することとなったものであり,上記心肺停止は,新生児低血糖症を原因とするものである。

すなわち,新生児の血糖値については,正常値は70mg/dl以上とされており,他方,30mg/dl以下になると意識レベルが著しく低下して死に至ることもあるとされ,25ないし35mg/dlである場合には早急な治療が必要であるとされている。原告Aは,出生直後の血糖値が28mg/dlと著しく低く,かつ,低血糖症の典型的な症状であるチアノーゼが四肢に見られたのであるから,低血糖症に陥っていたことは明らかである。そして,原告Aは,低血糖症によってその脳に十分な栄養が供給されなくなり,自律神経が機能不全に陥って筋弛緩が生じ,呼吸が抑制されたものであり,うつぶせの体勢で抱かれていたこともあって,気道や鼻腔の閉鎖が生じて心肺停止に至ったものである。

(被告の主張)

原告Aの急変は,原因不明の突発的な心肺停止による低酸素性虚血性脳症,又は特発性ALTEに当たる。産科医療補償制度の運営機関である公益財団法人日本医療機能評価機構が作成した「原因分析報告書」も,可能性があると考えられる複数の原因を全て検討した上で,原告Aの急変の原因は特定できず,予測不能であったとしている。

原告らは,原告Aの出生直後の28mg/dlという血糖値及び四肢末端のチアノーゼをもって低血糖症であったと主張するが,新生児の出生直後の低血糖はよく見られることであり,健康な正期産児では2ないし3時間のうちに血糖値は自然に上昇するし,四肢末端のチアノーゼも出生直後の新生児にはよく見られることである。加えて,原告Aの血糖値は後医において高値を記録していたことも踏まえると,原告Aが低血糖症に罹患していたとは考えられず,その急変は低血糖によるものではない。

⑵  説明義務違反

(原告らの主張)

ア 義務違反

原告Aが出生した平成23年1月頃までには,カンガルーケア中に児が死亡したり重篤な後遺症を負ったりする事故が全国的に発生しており,大々的に報道もされていた。こうしたことを踏まえると,被告ないしその職員は,原告B及び原告Cに対し,カンガルーケアの開始までの間に,カンガルーケアの目的や効果はもちろん,カンガルーケアのリスクや,児の抱き方といった実施方法,注意点について,十分に説明すべき義務があったというべきである。

それにもかかわらず,原告Cは,出産前の平成22年12月14日の助産師外来の際に「生まれてきた子が元気だったらやります。」と言われたのみであり,平成23年1月a日の出産直後にも「子供に何か異常があったら知らせてください。」と言われたのみであって,上記説明義務は全く尽くされていなかった。

なお,原告Aには保温のために帽子が被せられ,更にブランケットが掛けられていたのであって,事前に具体的な説明もないのに,「何か異常があったら知らせてください。」とだけ言われても,医学的知識の乏しい原告B及び原告Cには,原告Aの異変を察知することは不可能であった。

イ 自己決定権侵害

上記説明義務違反により十分な情報が提供されなかったため,原告B及び原告Cは,カンガルーケアを行うか否かについての自己決定の機会を奪われた。

ウ 脳性麻痺との因果関係

原告B及び原告Cは,被告ないしその職員からカンガルーケアのリスクや注意点について事前に十分な説明があれば,原告Aの心拍や呼吸等に十分に注意することができ,原告Aの異常を発見することも可能であった。

したがって,被告ないしその職員の上記説明義務違反は,原告Aの心肺停止及び脳性麻痺と因果関係を有するというべきである。

(被告の主張)

カンガルーケアは,世界的に普及し,日本国内でも広く実施されているものであって,それ自体に児の心身への危険はないから,被告ないしその職員には,原告B及び原告Cに対し,カンガルーケアのリスクについて説明すべき義務はなかった。

また,被告の助産師は,平成22年12月14日には,原告Cに対し,カンガルーケアとは分娩後に直接肌と肌が触れるように児を抱くことであり,これによって,母乳の出が良くなったり,母子の絆が深まったりするという効果があることを説明している。また,被告の助産師であるFは,平成23年1月a日のカンガルーケア開始前に,異常があれば知らせるように説明してカンガルーケアを実施しており,被告ないしその職員に説明義務違反はない。

⑶  低血糖に対する対応

(原告らの主張)

ア 治療義務違反

未熟児ではない正期産児の血糖値については,概ね40ないし50mg/dlを下回らないよう管理することが必要とされており,これが25ないし35mg/dlである場合には,直ちに静脈内へのブドウ糖液の点滴を開始する必要があるとされているのであって,被告職員には,原告Aの血糖値が28mg/dlであることが判明した時点で,原告Aに対し,直ちにブドウ糖液の静脈点滴を開始すべき義務があった。

それにもかかわらず,被告の助産師は,5%ブドウ糖液10mlを哺飲させたのみでブドウ糖の静脈点滴をせず,漫然とカンガルーケアを再開したのであり,上記義務を怠った過失がある。

なお,5%ブドウ糖液10mlはカロリー量にして2kcalにすぎず,原告Aの1日の必要カロリー量に照らして僅少であり,これを哺飲させただけでは上記義務を尽くしたことにはならない。

イ 再検査義務違反

仮に,被告ないしその職員に,直ちにブドウ糖液の静脈点滴を開始すべき義務がないとしても,原告Aの血糖値が28mg/dlと低く,被告の助産師もこれを危険因子と考えてカンガルーケアを中断していることからすると,被告ないしその職員は,原告Aに5%ブドウ糖液10mlを哺飲させた後,カンガルーケアを再開する前に,その危険因子が除去されたのかどうかを確認すべく,再検査をして血糖値が40ないし50mg/dlに回復したことを確認するべきであった。

それにもかかわらず,被告の助産師は,原告Aの血糖について再度の検査をしないまま,漫然とカンガルーケアを再開させており,この点で,被告ないしその職員には債務不履行ないし過失があるといえる。

ウ 脳性麻痺との因果関係

上記ア又はイの債務不履行ないし過失によって低血糖に対する適切な処置が取られなかったために,原告Aは,上記⑴において原告らが主張するとおり,低血糖による呼吸抑制に陥って心肺停止に至り,最終的に脳性麻痺に至ったものである。

(被告の主張)

分娩直後の新生児には,一過性の低血糖はしばしば見られることであり,低血糖のリスク因子のない正期産児であれば,血糖値は2,3時間のうちに自然に上昇するのが通常である。一過性の低血糖を治療した方が治療をしなかった場合に比べて予後が良いという研究は存在せず,低血糖による症状が見られない正期産児の血糖を2時間以内に測定したり,一過性の低血糖を治療したりすることは無意味である。

したがって,被告ないしその職員には,ブドウ糖の点滴などの治療をすべき義務はなかったし,ブドウ糖液哺飲後カンガルーケア再開前に血糖値の再検査をすべき義務もなかった。

また,前記⑴における被告の主張のとおり,原告Aの急変は低血糖を原因とするものではないから,低血糖によって心肺停止に至ったとして被告側の対応と原告Aの脳性麻痺との間に因果関係があるとする原告らの主張は失当である。

⑷  経過観察義務違反

(原告らの主張)

ア 義務違反

仮に上記⑶の被告側の対応が債務不履行ないし過失に当たらないとしても,「根拠と総意に基づくカンガルーケア・ガイドライン」(平成21年11月25日発行,平成22年3月25日改訂。甲B3。以下「カンガルーケア・ガイドライン」という。)は,正期産児に対する出生直後のカンガルーケアについて,機械を用いたモニタリングや新生児蘇生に熟練した医療者による観察の下に行うべきとしていることに加え,原告Aについては,血糖値が28mg/dlであって低血糖症であることが判明しており,通常の新生児よりも厳重な経過観察が必要であったことからすると,被告ないしその職員は,再開後のカンガルーケアにおいて,原告Aに対し,パルスオキシメータ(経皮的動脈血酸素飽和度(SpO2)測定装置)等の機械類を用いたモニタリングや職員による付添いをして経過観察をすべき義務があった。

それにもかかわらず,こうした措置を採らなかった被告ないしその職員には,上記義務を怠った債務不履行ないし過失がある。

なお,午前9時45分頃に担当助産師であるFが本件LDRを訪室したが,部屋の中にいた原告らの親族に対し,「Cさんは,産後で疲れているし,喉も渇いていると思うから,お茶でも飲ましてあげてね。」と告げて通り過ぎただけであって,原告Aの様子を観察してはいない。

イ 脳性麻痺との因果関係

原告Aについて,上記措置が採られていれば,原告Aの異変は直ちに発見することが可能であり,直ちに治療をしていれば脳性麻痺に陥ることもなかったのであるから,上記義務違反と原告Aの脳性麻痺との間には因果関係があるというべきである。

(被告の主張)

原告Aは,出生時の状態(アプガースコア9点,自発啼泣良好,四肢運動活発,四肢チアノーゼあり)も,出生5分後の状態(アプガースコア10点,臍帯血pH7.437,心肺雑音なし,肛門体温37.6℃,心拍数毎分150,呼吸数毎分60)もいずれも正常で全身状態は良好であって,パルスオキシメータや職員の付添い等による経過観察を要しない状態であった。

また,Fは,午前9時25分頃にカンガルーケアを再開した後,午前9時45分頃に本件LDRを訪れ,原告Aの顔色が良好で,何ら異常がないことを確認しているほか,午前9時55分頃には,血糖値の再検査を含む出生1時間後の検査のために本件LDRを訪室しているのであって,被告ないしその職員は,原告Aに対して充分な経過観察をしていた。

また,前記⑴及び⑶における被告の主張のとおり,原告Aの急変は低血糖を原因とするものではないから,低血糖によって心肺停止に至ったとして被告側の経過観察と原告Aの脳性麻痺との間に因果関係があるとする原告らの主張は失当である。

⑸  損害

(原告らの主張)

ア 原告Aの損害 2億1563万5455円

(ア) 後遺症逸失利益 3999万8760円

基礎収入を平成21年賃金センサス・男子・全年齢平均・学歴計に従って529万8200円とし,労働能力喪失率を100%として,18歳から67歳までの49年間の就労可能年数に対応するライプニッツ係数7.5495を乗じる(計算式:529万8200円×100%×7.5495=3999万8760円)。

(イ) 入通院慰謝料 500万円

(ウ) 後遺障害慰謝料 3500万円

(エ) 治療費 10万9090円

(オ) 交通費 16万8000円

原告らは,自動車を運転して,原告ら宅から40kmの距離にあるQ病院(以下「Q病院」という。)まで70日間往復したほか,原告ら宅から10kmの距離にあるO病院(以下「O病院」という。)まで200日間往復したところ,自動車は1リットルで8km走行するものとし,ガソリン代は1リットル当たり140円であるとすると,交通費として16万8000円の損害を被った(計算式:140円×(40km×2÷8km×70日+10km×2÷8km×200日)。

(カ) 付添費用 216万円

1日当たりの付添費用を8000円とし,これに通院日数である270日を乗じる。

(キ) 入院雑費 48万6000円

1日当たりの入院雑費を1500円とし,これに入院日数である324日を乗じる。

(ク) 器具装具代 5万7250円

(ケ) 将来治療費 587万2890円

原告Aの治療費を年間30万円とし,平均余命である79年間に対応するライプニッツ係数である19.5763を乗じる。

(コ) 将来介護費 1億0718万0242円

原告Aの1日当たりの介護費を1万5000円とし,これに365を乗じて年間の介護費用を算出した上,これに,平均余命である79年間に対応するライプニッツ係数である19.5763を乗じる。

(サ) 弁護士費用 1960万3223円

上記(ア)ないし(コ)の合計額の約1割に相当する上記金額が相当である。

イ 原告B及び原告Cの損害 各660万円

(ア) 原告Aの後遺障害による慰謝料 各500万円

(イ) 自己決定権侵害による慰謝料 各100万円

原告B及び原告Cは,被告側の上記⑵の説明義務違反により,充分な情報のないままに,カンガルーケアをすることとなったのであり,カンガルーケアをするかどうかについての自己決定権を侵害された。

(ウ) 弁護士費用 各60万円

上記(ア)及び(イ)の各合計額の約1割に相当する上記金額が相当である。

(被告の主張)

争う。

第3当裁判所の判断

1  認定事実

前記前提事実に加え,掲記各証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

⑴  カンガルーケアに関する一般的知見

ア カンガルーケアの効果

正期産児に対する出生直後のカンガルーケアには,生後1ないし4か月の母乳栄養率を向上させ,母乳期間を延長する効果があると報告されているほか,母親の児に対する愛着行動や母子相互関係の確立に対して良い効果がある(甲B3,乙B6)。

さらに,正期産児に対する出生直後のカンガルーケアを実施した群は,コントロール群に比べて,心拍数,呼吸数,血糖値及び体温の安定化が認められたと報告されている(乙B6)。

このほか,生後早期に母子分離をすると,児の啼泣が強まり,卵円孔を通しての右左シャントが増加し,肺血流が減少するため動脈血の酸素化が妨げられるのであって,出生直後のカンガルーケアは,児の動脈血の酸素化にも寄与するものである(乙B6)。

イ カンガルーケアの実情

(ア) 平成20年及び平成21年の実情について

平成20年及び平成21年に発生した新生児の急変例及び分娩施設の管理体制についての全国調査(回答施設数277,出生児総数31万8476人。以下「平成20・21年全国調査」という。)によると,出生直後のカンガルーケアを取り入れている施設は78%,取り入れていない施設は19%,以前は行っていたが取り止めた施設が3%であり,分娩数で見た割合ではそれぞれ82%,15%,3%であった(乙B1。もっとも,一口に「カンガルーケア」といっても,出生直後に数分だけ母親に抱かせる施設から数時間実施する施設まで様々であった。)。

また,出生直後のカンガルーケアを実施している施設のうち,カンガルーケア実施中に安全管理のためにスタッフが必ず同席していると回答した施設は58%,時に離席していると回答した施設は35%,原則離席していると回答した施設は4%であり,また,時に離席している施設及び原則離席している施設のうち51%の施設ではモニターを装着していなかった(乙B1)。

(イ) 平成22年の実情について

財団法人こども未来財団が平成22年に実施した「分娩室・新生児室における母子の安全性についての全国調査」(回答施設数585。以下「平成22年全国調査」という。)によると,正期産児に対する出生直後のカンガルーケアを取り入れている施設は65.4%であった(乙B6)。

また,平成22年全国調査によると,正期産児に対する出生直後のカンガルーケアを取り入れている施設のうち,実施前の妊婦への十分な説明と同意取得をしている施設は48.2%,実施基準を整備している施設は30.7%,分娩台の角度基準が設定されている施設は13.0%,中断・中止の基準が設定されている施設は39.9%,医療従事者が常駐している施設は74.8%,各種モニタリングを実施している施設は49.9%(パルスオキシメータの装着については42.4%),児の全身状態の記録をしている施設は28.3%であった(乙B6)。

なお,上記の平成22年全国調査の結果をまとめた報告書が公表されたのは,平成24年3月であった(乙B6)。

ウ カンガルーケアの安全性に関する報道及び研究報告

カンガルーケアについては,平成23年頃までに,その実施中に心肺停止に陥り死亡又は重篤な後遺症に至った例が報道され,その安全性に警鐘を鳴らす産科医もあった(甲B1,13ないし16)。

たとえば,原告らが書証として提出するG医師の『お産と予防医学』(甲B1)は,「KC中にケイレン,筋緊張低下,呼吸障害,心肺停止(脳性麻痺)の医療事故が繰り返されている事がこども未来財団の調査(平成20年)で分った。」とし(なお,「KC」とは,カンガルーケアの略である。),また「生後30分以内のカンガルーケアのどこに問題があるのか」と題する見出し下に,「空調機が整備された日本の分娩室は,生まれてくる裸の赤ちゃんの為ではなく,衣服を着た大人に快適な環境温度(24~26℃)に設定されている。NHKニュースが報じたカンガルーケア中のケイレン・呼吸停止(脳性麻痺)などの事例は,日本の分娩室が赤ちゃんにとって寒すぎるにもかかわらず,出生直後の体温管理(保温)を怠った所に問題がある。日本の分娩室で体温管理(保温)を怠ると,赤ちゃんの体温下降は著しく,低体温から恒温状態への回復時間が遅れ,糖代謝に悪影響(低血糖)を及ぼす。」とし,さらに,「カンガルーケア中の事故は,“低体温症”が引き金!」と題する見出しの下に,「近年,日本では生後30分以内のカンガルーケア中の医療事故(ケイレン・呼吸停止・脳性麻痺など)が多発している。事故原因は不明と報道されているが,真相は日本の寒い分娩室で出生直後の体温管理(保温)を怠り,低体温症を予防しなかった所に問題がある。」と指摘し,「出生直後からの低体温症が長引くと,熱産生に余計なグルコースが消費され低血糖が進み,「低体温⇔低血糖」の悪循環が生じる。中等度の低血糖が持続すると,脳神経の発達に永久的な障害を残す危険性があると報告されている。重度の低血糖症では自律神経が機能しなくなり心肺停止が発生する。KC中の事故は出生直後の低体温症・低血糖症の予防を怠った所に問題がある。」としている。

エ カンガルーケア・ガイドライン(甲B3)

(ア) カンガルーケア・ガイドライン(平成21年11月25日発行,平成22年3月25日改訂。甲B3)は,複数の医師によって構成されるカンガルーケア・ガイドラインワーキンググループによって作成され,改訂されたものである。

カンガルーケア・ガイドラインワーキンググループは,既に効果・安全性の面で問題のないことが明らかであった「全身状態が安定した時期の正期産児に対するカンガルーケア」以外の場合のカンガルーケアについて,3つのクリニカル・クエスチョン(トピック1:全身状態のある程度落ち着いた低出生体重児に対して24時間継続して実施するカンガルーケアは安全かつ有効か,トピック2:集中治療下の,状態のまだ安定していない早産児・低出生体重児に対するカンガルーケアは安全かつ有効か,トピック3:健康な正期産児に出生直後に実施するカンガルーケアは安全かつ有効か)を設定した上で,平成17年1月25日以降,医療系データベース及びガイドライン作成メンバーの人的ネットワークを通じて得られた科学的根拠を基に仮推奨を策定し,さらに,12名の評価メンバーから上記仮推奨に対する意見を求めるなどして修正を繰り返して,各クリニカル・クエスチョンに対する回答を作成した。

カンガルーケア・ガイドラインワーキンググループは,カンガルーケアの実施方法について統一的な見解がなく,カンガルーケア実施中の危急事象発生の報告が少なくないという認識の下に,カンガルーケア・ガイドラインを作成することとしたものであり,カンガルーケア・ガイドラインについて,「決して守らなければならない規則ではありません。安全で有効なカンガルーケアを行うために皆様に利用していただきながら使いやすいように育て上げていく道具です。今後も皆様からのフィードバックをいただきながら,適宜内容が変化していくものであることをご理解ください。」と位置づけている。

(イ) 上記のような過程を経て作成されてその後改訂されたカンガルーケア・ガイドラインには,正期産児に出生直後に行うカンガルーケアに関する上記トピック3について,「健康な正期産児には,ご家族に対する十分な事前説明と,機械を用いたモニタリングおよび新生児蘇生に熟練した医療者による観察など安全性を確保した上で,出生後できるだけ早期にできるだけ長く,ご家族(特に母親)とカンガルーケアを実施することが薦められる。」とし,その推奨グレードを「B」としている。

カンガルーケア・ガイドラインは,上記の「安全性を確保」という部分について,「今後さらなる研究,基準の策定が必要です。」と注記し,「出生後できるだけ早期にできるだけ長く」という部分について,「出生後30分以内から,出生後少なくとも最初の2時間,または最初の授乳が終わるまで,カンガルーケアを続ける支援をすることが望まれます。」と注記している。

なお,カンガルーケア・ガイドラインにおける推奨グレードについては,「根拠になる情報の確かさや強さに基づいて付けられたものであり,その推奨の重要度を示すものではありません。」と注記されており,「推奨グレードB」には,「科学的根拠はランダム化比較試験またはランダム化比較試験のシステマティック・レビューを元にしているが,その研究の利用には少し注意が必要でした。」との注記が付されている。

(ウ) さらに,カンガルーケア・ガイドラインには,上記トピック3に関し,「健康な正期産児に実施する生後早期のカンガルーケアは,その有効性に関しては比較的質の高い科学的根拠が示されていますが,研究間のばらつきがあり,対象,実施のタイミング,実施時間などに一致した見解はありません。」との記載があり,安全性に関しては,「わが国の新生児集中治療室におけるアンケート調査から,出生直後のカンガルーケアにより重大な急変が生じた例は決してまれではなく,医療訴訟係争中の例も少なくないことが分かりました。また,健康な正期産児においても,カンガルーケア中に酸素飽和度が低下することが報告されています。」との記載がある。

その上で,カンガルーケア・ガイドラインは,「科学的根拠から推奨へ」との題の下に,「健康な正期産児に出生後,できるだけ早期にできるだけ長く,カンガルーケアを実施することで,その後の母乳育児,体温保持,母子相互関係に好影響を来し得ることが期待されます。しかし,実施中の呼吸,酸素飽和度モニタリングは可能な限り厳重に行い,安全性に対して最大限配慮する必要があると考えます。」としている。

オ 「早期母子接触」実施の留意点(乙B6)

(ア) 複数の医師によって構成される日本周産期・新生児医学会理事会内「早期母子接触」ワーキンググループは,平成24年10月17日,「早期母子接触」実施の留意点(乙B6。以下「実施留意点」という。)を作成し,正期産児に対して出生直後に分娩室で行われる母子の接触については「早期母子接触」との語を用いることを提案し,この早期母子接触の実施に当たっての留意点を示した。

実施留意点には,平成22年全国調査によって,十分な説明及び同意の取得や実施方法の整備がされていないにもかかわらず,既に約6割の分娩施設で早期母子接触が導入されていることが判明しており,早急な対策が必要であるとする旨の記載がある。

(イ) 実施留意点においては,経膣分娩を対象とした早期母子接触の適応基準として,児について,「胎児機能不全がなかった」,「新生児仮死がない(1分・5分Apgarスコアが8点以上)」,「正期産新生児」,「低出生体重児でない」,「医師,助産師,看護師が不適切と認めていない」という基準を示している。

さらに,実施留意点は,早期母子接触の中止基準として,児について,「呼吸障害(無呼吸,あえぎ呼吸を含む)がある」,「SpO2:90%未満となる」,「ぐったりし活気に乏しい」,「睡眠状態となる」,「医師,助産師,看護師が不適切と判断する」という基準を示している。

(ウ) このほか,実施留意点は,「昨今,早期母子接触中の呼吸停止などの重篤な事象およびその訴訟に関する報道が多く認められる。報道のなかには,明らかに原因が早期母子接触とは異なる事例が,早期母子接触が原因であり早期母子接触自体が危険であるかのような取り上げ方が目立つ。しかしながら,こうした危急事態は早期母子接触を行わなくとも生じ得るものである。」とし,「出生後早期は,胎児から新生児へと呼吸・循環の適応が為される不安定な時期でもある」と指摘し,「出生直後の新生児は,胎内生活から胎外生活への急激な変化に適応する時期であり,呼吸・循環機能は破綻し,呼吸循環不全を起こし得る。したがって,「早期母子接触」の実施に関わらず,この時期は新生児の全身状態が急変する可能性があるため,注意深い観察と十分な管理が必要である」とする。

(エ) その上で,実施留意点は,早期母子接触の実施方法に関し,「バースプラン作成時に「早期母子接触」についての説明を行う。」とし,さらに,「早期母子接触を実施する時は,母親に児のケアを任せてしまうのではなく,スタッフも児の観察を怠らないように注意する必要がある。」とする。

そして,実施留意点には,早期母子接触の実施に当たっては,母親に対する措置として,箇条書きで,「「早期母子接触」希望の意思を確認する」,「上体挙上する(30度前後が望ましい)」,「胸腹部の汗を拭う」,「裸の赤ちゃんを抱っこする」,「母子の胸と胸を合わせ両手でしっかり児を支える」と記載されており,他方,児に対する措置として,同じく箇条書きで,「ドライアップする」,「児の顔を横に向け鼻腔閉塞を起こさせず,呼吸が楽にできるようにする」,「温めたバスタオルで児を覆う」,「パルスオキシメータのプローブを下肢に装着するか,担当者が実施中付き添い,母子だけにはしない」,「以下の事項を観察,チェックし記録する」(「以下の事項」とは,「呼吸状態:努力呼吸,陥没呼吸,多呼吸,呻吟,無呼吸に注意する」,「冷感,チアノーゼ」,「バイタルサイン(心拍数,呼吸数,体温など)」,「実施中の母子行動」である。),「終了時にはバイタルサイン,児の状態を記録する」と記載されている。

なお,実施留意点は,施設の物理的,人的条件等によっては,上記の実施方法を一部変更せざるを得ない場合があるが,その場合にも,早期母子接触の効果と安全性に充分に吟味して実施方法を決定すべきであるとしている。

⑵  ALTEないし新生児の急変に関する一般的知見

ア ALTEの定義

ALTE(乳幼児突発性危急事態。Apparent Life-Threatening Events)とは,「呼吸の異常,皮膚色の変化,筋緊張の異常,意識状態の変化のうちの1つ以上が突然発症し,児が死亡するのではないかと観察者に思わしめるエピソードで,回復のための刺激の手段の有無・強弱及び原因の有無を問わない徴候」と定義される(乙B7。なお,従前,日本においては,諸外国と異なって「疾患」概念として通用していたが,その後,諸外国と同様に「徴候」概念として定義され直されたものである。)。

イ ALTEないし新生児の急変の実態

(ア) 平成元年から平成5年にかけての日本における出生児を対象とした全国調査では,ALTEの発生頻度は,10万出生に対して約4.8と報告されている(乙B1)。

(イ) 平成20年・21年全国調査においては,「急変」ないし「急変児」につき,「出生時(生後1分まで)医学上問題なしと判断されたにもかかわらず,その後退院までに予期せず状態が変化し死亡もしくは蘇生が必要であった例で,SIDS:sudden infant death syndrome,ALTE:apparent life threatening eventの他,軽快例でも状況によっては生命の危険が予測されたケース」と定義された上で,「急変」は出生1000当たり0.176であり,「SIDS他・ALTE」は出生1000当たり0.041(10万出生当たり4.1)であったと報告されている(乙B1)。

(ウ) 平成20・21年全国調査における「急変」例の転帰の発生時期は,出生後2時間以内のものが32%,出生後24時間以内のものが74%であり,その転帰は,死亡が13%,後遺症が24%(なお,後遺症が残存した後の遠隔死亡の例も「後遺症」に分類された。),軽快が62%であった(乙B1)。

また,平成20・21年全国調査における「急変」例の第一発見者は,母親やその他の親族に比して病院スタッフが大きな割合を占めており,分娩室や新生児室での「急変」についてだけでなく,病室での「急変」についても,その約41%が,児と一緒にいる母親ではなく病院スタッフによって発見されていた(乙B1)。

さらに,平成20・21年全国調査における「急変」例のうち,死亡又は重篤後遺症の事例が発生した施設とそれ以外の施設の管理体制を比較したところ,NCPR(日本版新生児心肺蘇生法)修得者の配置状況(常時いる,時にいる,いない)及び新生児専従看護スタッフの配置状況(常時いる,時にいる,いない)については,両者の間に有意な差異は認めなかったが,新生児科又は小児科の医師の回診の有無(あり,産科医のみ)については,死亡例又は後遺症例を経験していない施設の方が有意に「あり」の割合が高かった(乙B1)。

ウ 新生児の急変とカンガルーケア

(ア) 平成20・21年全国調査における生後1時間以内の急変例のうち,カンガルーケア実施中のものは23.8%であるところ,平成20・21年全国調査の報告においては,各施設からのカンガルーケアの実施時間についての回答及び各施設における正常新生児数を基に,任意の児が生後1時間以内の任意の時間にカンガルーケアを受けている確率を計算したところ38.8%であり,上記回答をした施設における院内出生についての生後1時間までの急変例のうちカンガルーケア実施中のものが33.3%に止まっていることからすると,生後1時間以内の急変がカンガルーケア中に起こりやすいとはいえないと考察している(乙B1)。

(イ) また,平成22年に行われた調査において,正期産児に対する出生後早期のカンガルーケアを実施している30施設におけるSID(乳幼児突然死)ないしALTEの該当例は1例であって,その発症率は10万出生当たり1.1であり,同一対象施設におけるカンガルーケア導入前の該当例は5例であって,その発症率は10万出生当たり5.5であり,カンガルーケアの導入によってSIDないしALTEの発症率に増加は見られないとする報告がある(乙B6)。

(ウ) さらに,海外においては,カンガルーケアの有無と急変発生頻度との比較対照試験の結果,カンガルーケアによるNICU入院率の増加はないとする報告がされている(乙B1)。

⑶  新生児の低血糖について

ア 新生児の血糖値の推移

(ア) 新生児の血糖値は,胎児期に母体を通じて得られていたブドウ糖の供給が途絶えるために,出生後から急速に低下し,概ね出生後1時間程度(出生後2ないし4時間程度とする文献もある。)で最低となる(甲B4,6ないし9,17,18,乙B4,5,15)。

もっとも,上記血糖値の低下を契機としてインスリンの分泌が抑制されることで,①グルカゴンの分泌が亢進して肝臓や骨格筋に貯蔵されたグリコーゲンが分解されてブドウ糖が産出される,②生後約2時間以内に糖新生が開始される,③生後10時間以内に,脂質が分解されて脳のエネルギー源ともなるケトン体が生成されて,ブドウ糖の消費量が抑制されるといった生理的なメカニズムが働き,外部からの糖の供給がなくとも,血糖値は自然に上昇して70ないし100mg/dl程度に安定するのが通常である(甲B4,6ないし9,17,18,乙B4,5,15)。

そして,上記のような生理的メカニズムが働くために,健康な正期産児は,哺乳開始が遅れても,そのことのみによって症候性低血糖を起こすことはない(甲B4,乙B4)。

なお,血糖値は,血中のブドウ糖濃度を数値化したものである(mg/dl)が,血漿について測定された血糖値(以下「血漿血糖値」という。)は,全血について測定された血糖値(以下「全血血糖値」という。)よりも,10ないし15%程度高く算出される傾向がある(乙B4)。

(イ) 健康成熟新生児約50例の血漿血糖値について調べた結果,その平均値は,出生直後が約100mg/dl,1時間後が約50mg/dl,2時間後が約60mg/dl,3時間後が約70mg/dlであり,2.5パーセンタイル値は,出生直後が約60mg/dl,1時間後が約25mg/dl,2時間後が約40mg/dl,3時間後が約45mg/dlであったとする報告がある(甲B6)。

イ 低血糖の症状及び予後

(ア) 低血糖の臨床症状

新生児の低血糖の臨床症状には,哺乳障害,活動性低下,筋緊張低下,無呼吸,嗜眠傾向,異常啼泣(甲高い泣き声),易刺激性,痙攣,皮膚蒼白,多汗,多呼吸,頻脈,チアノーゼなどが挙げられる(甲B4,6ないし9,17,18,乙B4,5)。

もっとも,低血糖の臨床症状は,いずれも低血糖に特異的なものではないから,低血糖の診断には血糖値の測定が必須である(甲B4,6ないし9,17,18,乙B4,5)。

また,低血糖の場合に常に上記のような臨床症状が現れるわけでなく,低血糖であっても臨床症状が現れないこともままあり,臨床症状が現れる場合を「症候性低血糖」,臨床症状が現れない場合を「無症候性低血糖」という(甲B4,6ないし9,17,18,乙B4,5,証人L)。

(イ) 低血糖による後遺症

a 低血糖は中枢神経障害を引き起こし得るものであり,ある研究では,症候性低血糖症については158例中79例(50%)に,無症候性低血糖については38例中6例(16%)に神経学的後遺症が残存したとする報告がある(甲B18)。もっとも,別の研究報告では,症候性低血糖を経験した児の12%に,特に痙攣を経験した児について50%に神経学的異常が出現した一方,無症候性低血糖については,血糖値が正常なコントロール群と比較して1ないし4歳までフォローアップしたところ,前者については94%が,後者については95%が正常に発達しており,両者の間に神経発達上の差はなかったとするものもあった(乙B4)。このように,症候性低血糖が中枢神経障害をもたらすことや,症候性低血糖が無症候性低血糖に比して予後が悪いことについては,研究者間で概ね見解は一致しているものの,無症候性低血糖が中枢神経障害をもたらす可能性については,書証として提出された複数の文献の間で異なる評価がされている(甲B4,6,18,乙B4)。

b また,一時的な1回のみの短期間の低血糖は,永久的な神経損傷の原因とはなりにくく,出生直後の一過性の低血糖を治療した群が,治療しなかった群と比べて予後が良いとする研究はないとされている(乙B4)。

c さらに,低血糖の予後はその原因や持続時間によって左右されるため,血糖値と予後の間には明確な相関関係はないとされているものの,未熟児について,血漿血糖値45mg/dl以下であった場合に,脳性麻痺や発達障害の頻度が有意に高かったとする報告もある(甲B6,乙B4)。

ウ 低血糖のリスク因子

新生児の血糖値は,上記のとおり,一過性に低下した後,生理的なメカニズムにより自然に上昇するのが通常であるが,血糖値の上昇を阻害する要因がある場合には持続的な低血糖に陥るため,こうした要因を示唆するリスク因子がある場合には注意を要するとされている(甲B4,6ないし9,17,18,乙B4,5)。

具体的には,体内のグルコースの貯蔵が不十分である場合には,血糖値の上昇は阻害されるため,たとえば,グルコースの貯蔵が乏しいSGA児(在胎週数に比べて小さい児であり,胎児発育曲線の10パーセンタイル未満の児),低出生体重児ないし早産児であることは,低血糖のリスク因子とされている。また,血中インスリンが高濃度の場合には,前記の血糖値上昇の生理的メカニズムが機能しないため,たとえば,血中インスリン濃度の高くなりやすい母体糖尿病児やLGA児(在胎週数に比べて大きい児であり,胎児発育曲線の90パーセンタイル以上の児)であることは,低血糖のリスク因子とされている。さらに,仮死状態で出生した場合,寒冷ストレスがある場合や低体温である場合,呼吸障害がある場合,感染症がある場合については,糖の利用が亢進するため,低血糖のリスク因子とされているほか,稀ではあるがホルモン異常による低血糖も見られる。(甲B4,6ないし9,17,18,乙B4,5)

エ 新生児の低血糖の定義等

新生児の「低血糖」ないし「低血糖症」の定義に関しては,低血糖の予後が血糖値のみによって定まるものではないこともあって,基準となる数値等について様々な見解があるものの,低血糖の定義にとらわれず,低血糖のリスク因子がある場合などには,治療介入をすべき目安となる血糖値はどの程度かという考え方で臨床に当たるべきことが広く提唱されている(甲B4,6,7,乙B4,5,15)。

たとえば,新生児医療連絡会編集の『NICUマニュアル』第4版(平成19年発行)は,低血糖症の定義にとらわれず,「治療を要する目安としての血糖値」という考え方で対応すべきと指摘し,生後3時間は全血血糖値30mg/dl,それ以降は全血血糖値40mg/dlを目安とすべきとする(乙B5)。

また,『標準小児科学』第7版(平成21年3月15日第7版第1刷発行,平成23年9月1日同第4刷発行)においては,新生児の血糖値は,出生後1ないし2時間後に一過性に低下した後,自然に上昇するのが通常であるが,何らかの要因で血糖値が正常範囲内に達しない場合があり,これが「低血糖症」と定義される旨の記載があるほか,臨床的には,全血血糖値が40mg/dl未満(血漿血糖値では45mg/dl未満)の場合に低血糖としての対処を開始すべきこと,近時は,低血糖としての対処を開始すべき血糖値を60mg/dl未満に設定する医療機関もあることが記載されている(乙B15)。

このほか,Academy of Breastfeeding Meadicineの『母乳で育てられている新生児の血糖値モニターと低血糖治療のためのガイドライン』(平成18年6月改訂版。以下「血糖ガイドライン」という。)では,「有意の低血糖は,全ての児それぞれに例外なくあてはまるようなひとつの数値として定義されないし,定義は不可能である。むしろ,ひとりひとりに特異的な値として特徴付けられ,児の生理的成熟度や病状によって変動するものである。」とする研究者の見解を引用した上,健常な正期産児(主に混合栄養(人工乳と母乳)又は人工乳で育てられているもの)についての研究のメタアナリシスにおける血漿血糖値の5パーセンタイル値を「推奨される血糖値の下限」とした報告を紹介しており,出生後1ないし2時間(最低値)については28mg/dl,出生後3ないし47時間後については40mg/dlが推奨される下限値とされている(乙B4)。

オ 低血糖の検査及び治療

(ア) 血糖ガイドライン(乙B4)

血糖ガイドラインは,新生児の低血糖の検査及び治療に関し,「推奨される一般的な取り扱い」として,「早期から母乳だけで育てることは,健康な正期産児の栄養と代謝の必要量を満たす。健康な正期産児は,単に栄養摂取量が少ないというだけでは症候性の低血糖になることはない」とした上で,「血糖のスクリーニングは,リスク因子のある場合か,低血糖に合致する臨床症状がある場合にのみ行うべきである。」とし,「症状のない正期産児に対してルーチンに血糖をモニターすることは不必要であり,かつ有害になる可能性もある」,「健康な正期産児に,ルーチンで水や糖水,人工乳を補足することは不必要であり,正常な母乳育児の確立と代謝の正常な代償機構を阻害することがある」とする。

また,血糖ガイドラインは,「低血糖が証明された場合の取り扱い」として,「無症状の児」と「症状のある児,または血糖値が20~25mg/dl(1.1~1.4mmol/L)未満の児」とに区分した上(なお,ここでの血糖値は,血漿血糖値である。),前者については,「直接授乳を(およそ1-2時間ごとに)続ける。あるいは搾母乳か母乳に代わる栄養をおよそ3-10mL/kg飲ませる。」,「血糖値が正常範囲内に安定するまで,その後の授乳前の血糖を再検する。」,「経口授乳にもかかわらず血糖値が低いままだったら,グルコースの経静脈投与を開始する。」などとしており,他方,後者については,「10%グルコースの経静脈投与を開始する。」,「症状のある児では血糖値を45mg/dL(2.5mmol/L).以上に保つ。」などとしている。

(イ) 『母子保健情報』平成22年11月号(甲B4)

専門誌である『母子保健情報』第62号(平成22年11月号)に掲載されたH医師執筆の記事「低血糖による脳障害の予防」には,新生児の低血糖に関し,「出生直後の一過性低血糖は日常よく見られることで,殆どすべての哺乳類に起こる。よって,これを治療する必要は無いのでしょうか?」との問いに答える形で,「健常な正期産児に限れば「正しい」ということになる。一方,早産児,SGA(small forgestational age:在胎週数の割に小さく産まれた)児・呼吸障害・感染症などを有する病的新生児・インスリン過剰症・ある種のホルモン産出異常症・糖原病など種々の病態を有する児にとっては「間違い」となる。」とし,また,「出生後の一過性低血糖は誰にでも起こるのに,出生後の赤ちゃんにルーチンに血糖値を測定する意義はあるんですか?」との問いに答える形で,「健常な正期産児に限れば,血糖値をルーチンに測る意味はない。たとえ,血糖値を測定して,それが低値であったとしても,生理的に上昇するのを確認するのみで良いわけである。しかし,重要なことは,健常でない児および正期産児ではない児では,たとえ低血糖を疑わせる症状はなくとも血糖値をルーチンに測定することは重要である。」とし,「もしリスクとなる因子があるならば,血糖値を積極的にチェックすべきであるが,リスク因子がなければ,少なくとも血糖値を疑わせる症状がない限り,ルーチンに血糖値を測定する必要は無いということになる。」としている。

上記記事は,これらの問いと答えを踏まえて,「新生児期の低血糖の管理指針(案)は以下のようにするのが良いと思う。」として,「すべての元気な正期産児の出生児の血糖値をルーチンに測定する意義はない。むしろ,不要な医療介入の機会を増やすことになるだけかもしれない。」とする一方,「リスク因子のある児はルーチンの血糖チェックが必要である」とし,「低血糖のリスク因子のある児における低血糖は速やかに治療介入し,血糖値を上昇させるべきである」とした上で,「治療介入すべき血糖値の基準は定まっていないが,脳障害を予防するという観点からは高めに設定し(たとえば50mg/dl),早期から介入するのが安全と思われる。」としている。

さらに,上記記事は,血中インスリンが高濃度である「高インスリン血症」に関し,「母体糖尿病で一過性に生じる」ほか,「仮死・子宮内発育不全に伴う一過性高インスリン血症」及び「遺伝性持続性高インスリン血症」が重要であるとし,「「高インスリン血症」の場合,大量のブドウ糖を投与しないと血糖値が維持できず,低血糖を繰り返すことになり,脳障害の大きな原因となりうる。」とする。

(ウ) 『Neonatal Care』平成8年3月号(甲B6)

新生児医療と看護の専門誌である『Neonatal Care』VOL.9,NO.3(平成8年3月号)に掲載されたI医師執筆の記事「新生児低血糖症と臨床」には,新生児の低血糖に関し,血漿血糖値35ないし45mg/dlを軽度低血糖と,血漿血糖値25ないし35mg/dlを中等度低血糖と,血漿血糖値20ないし25mg/dlを重症低血糖とする分類を紹介した上で,中等度低血糖の場合にも,中枢神経系に障害を及ぼすことが報告されており,早急な治療が必要であるとして,新生児については血糖値を40mg/dlに保つことが重要であるとする記載がある一方,「健康成熟新生児でも分娩後,1時間で血糖値が急速に減少,30mg/dl以下となることもあるが,一般には無症状であり,その後1時間ほどで再び増加し次第に上昇するのが一般的である。」との記載がある。

また,上記記事は,低血糖のリスク因子のある新生児を「ハイリスク新生児」とし,ハイリスク新生児について血糖値のスクリーニングを行うことが大切であるとした上,治療法の概略として,「ハイリスク児における血糖のスクリーニング,低血糖値の確認,低血糖値にともなう症状やサインが治療により速やかに改善することを観察することが大切である。」とした上,新生児低血糖症の取扱いの概略をまとめたフローチャートにおいては,「新生児低血糖症のハイリスク児では生後0,2時間,哺乳開始までの24時間,または4~6,12,18,24時間,あるいは臨床症状があれば,いつでも血糖値をベッドサイドでグルコースオキシダーゼ法で測定する」との欄からスタートし,仮に「臨床的に無症状の場合」には「正確な血糖値測定」をし(ベッドサイドの簡易な測定は,必ずしも正確な値でないとされる。),その結果,「低血糖ならミルクかブドウ糖液を経口投与」し,「1時間後,血糖値チェック」をし,この時点で「低血糖があれば,5~10%ブドウ糖液を静脈内投与」するとされている。

(エ) 『Neonatal Care』平成24年4月号(甲B7)

『Neonatal Care』VOL.25,NO.4(平成24年3月号)に掲載されたJ師執筆の記事「ケースで学んでヒントをつかめ!ハイリスク新生児の安定化ここがポイント!」は,リスク因子のある新生児の低血糖の仮想事例を3つ設定し,「どのような児に低血糖のリスクが高い?」,「低血糖の症状は?」などの問いに答える形で,低血糖リスク因子のある新生児に対する対処方法を解説するものである。

上記記事は,記事の締めくくりに,「安定化のポイント」と題して,「低血糖を起こすリスクが高い児については,症状が見られなくとも生後早期の血糖チェックを行い,低血糖が遷延しないよう補正する。血糖値が著しく低い場合や呼吸障害や低体温などその他の病態が重複して見られる場合には静脈路確保を行い,適切な糖投与速度でブドウ糖輸液を行う。輸液を開始した後も血糖値がきちんと上昇しているかどうか,こまめにチェックを行う。」としている。

(オ) WHO(世界保健機構)の提言(甲B8の1,2)

WHOが平成9年に作成した『Hypoglycaemia ofthe Newborn』には,授乳されている健康な正期産児については,ルーティンに血糖値を測定する必要はなく,かつ,補足的な栄養は必要がない旨の記載がある。

また,上記文献には,リスクのある無症候性低血糖の児については,血糖値は2.6mmol/l以上(47mg/dl)に保たれるのが望ましい旨の記載があるほか,症候性低血糖の児については,血糖値を緊急に測定すべきであり,その値が2.6mmol/l未満であれば直ちにブドウ糖の経静脈投与をすべき旨の記載がある。

(カ) その他の文献

K医師編集の『産科スタッフのための新生児学―出生から退院までの医療とリスク管理』改訂2版(平成19年7月25日第2版第1刷発行)は,低血糖は,低出生体重児では30mg/dl以下が2回記録された場合,成熟児では40mg/dlが2回記録された場合と定義されているとしつつも,「一時的であれ,40mg/dL以下の低血糖値にあることは,児にとって脳障害のリスク因子であるところから,糖を投与することで予防しなければならない。すなわち低血糖のリスクのあるハイリスク児は血糖をルチーンにチェックし,40mg/dL以下とならないように管理する。」と述べ,さらに,低血糖のハイリスク児として,「未熟児(早産児)」,「子宮内発育遅滞(IUGR)児」,「仮死で出生した児」,「多血症を伴う児」,「低体温の児」,「母体糖尿病児(IDM)」,「heavy-for-dates児」,「ベックウィズ・ウィードマン症候群」を挙げ,これらのうち産科施設で管理され得る「早産児,IUGR児,仮死で出生した児,IDMおよび多血症の児」について,「血糖値の経時的な計測を必ず行わなければならない。もし40mg/dL以下の値になったときは,10%グルコース液10~20mLを経口投与し,30分後にもう一度血糖値を測定する。2回目の血糖値が再び40mg/dL以下の場合,および1回目でも低血糖に伴う症状が認められた場合は,10%グルコース液80mL/kg/dの点滴を開始し,小児科医のコンサルトを依頼する。」としている(甲B17)。

また,K医師著の『新生児学入門』第4版(平成24年3月1日第4版第1刷発行,平成25年1月15日同第2刷発行。甲18)は,低血糖について上記同様の定義を紹介した上,「低血糖」が2回の血糖値をもって定義されている理由について,「出生後の血糖値の変動はきわめて大きく,1点のみ低血糖であっても自己回復することがあり,それのみでは病的とはいえないという理由からである。」と説明しつつ,「2度測定するまで診断を待つことが,臨床的に適切とは考えられなくなったことから,新生児低血糖の定義が見直されている。」としている。また,上記文献は,低血糖の病因及び病態につき,「糖そのものが不足するために起こる群と,高インスリン血症によって起こる群に大別される。前者は一般に糖投与に反応する一過性の良性の低血糖であるが,後者は投与する糖も急速に消費されてしまう治療抵抗性の低血糖で,一般的に前者よりも治療が長引き,かつ重篤となる。その他にまれながらグルコース代謝に関与する酵素やホルモンの先天性の異常による低血糖が知られている。」とするほか,低血糖の予防及び治療につき,「症候性低血糖が中枢神経障害をもたらすことは事実であるが,無症候性の低血糖でも障害を起こす可能性があるところから,低血糖と診断された児は,グルコース投与を開始すべきであろう。」とし,「低血糖が検査上で診断された症例では,グルコース輸液4~6mg/kg/分を開始し,血糖値が正常範囲になるまで2mg/kg/分ずつ投与量を増加させる。」などとしている(甲B18)。

⑷  被告病院におけるカンガルーケアの実施体制等

ア 被告病院のカンガルーケア

被告病院は,被告の代表者であり被告病院の院長であるE及びその妻であり被告病院の副院長であるL(以下「L医師」という。)の2名の常勤医師がいる産婦人科医院であり,年間に取り扱う分娩数は400ないし500件程度であった(乙A3,証人L)。

被告病院においては,平成20年頃からカンガルーケアを実施するようになり,平成22年頃には,特に不適合と判断した場合や家族の同意が得られなかった場合を除いては,ほぼ全てのケースで行うようになっていた(証人L)。

イ 被告病院のLDR及びLDR準備室

被告病院には,本件LDRのほかにもう1つLDRがあり,その間にあるLDR準備室には,児を保温しながら各種処置を行うことができるインファントウォーマーが配置されていた(乙A5,証人F)。

原告Cが原告Aを出産した本件LDRは,そのほぼ中央に分娩台が置かれ,この分娩台に仰向けに横たわった場合を基準とすると,頭の方向に廊下への出入口が,左手の方向にLDR準備室への出入口があった(乙A5,6,証人F)。

ウ 被告病院のマニュアルの記載及びその運用

(ア) 平成23年当時の被告病院における内部マニュアル(乙B2,3。以下「被告マニュアル」という。)には,新生児の血糖値やカンガルーケアについて,大要,以下のような記載があった(乙B2,3)。

すなわち,新生児の血糖については,「生後2~4時間に最低値となる。」,「低血糖が予測される場合(低出生体重児,巨大児,母体が糖尿病を有する場合など)は,早期授乳により低血糖出現を予防する。」,「低血糖の主な症状には,振戦,易刺激性無呼吸発作,活気低下,痙攣などがある。」との記載があり,さらに,「※BS40以下の場合は,夜中でもいつでもLDr報告する!」との記載があった。また,被告マニュアルにおいては,出生直後の血糖値を測定することとされており,出生直後の血糖値の値に応じて,45mg/dl以下の場合については「インファント上ですぐTZ哺水させ,1時間後再検」,46ないし50mg/dlの場合については「飲ませず,1時間後再検」などとされていた。(乙B2。なお,「BS」とは血糖値を,「TZ」とはブドウ糖液をそれぞれ意味する略称であり,「インファント」とは「インファントウォーマー」のことを指す。)

また,被告マニュアルには,カンガルーケアの適応について,「正常分娩であること。正期産である。新生児仮死でない」などと記載されており,また,カンガルーケアの準備として,「インファントは温まっているか?」,「分娩室の温度は25~26℃になっているか?」などを確認することとともに,児に対しては「足背動脈にSpo2装着」することが記載されていたほか,ベッドの上体は30ないし45度程度挙上すること,30分後には,SpO2や心拍数を確認するとともに,体温の測定,手足の皮膚温や皮膚色の確認をすることとされ,1時間後には,児を預かって服を着せ,バイタルサインをチェックし,カンガルーケア続行について母親の希望を確認することとされていた(乙B3。なお,「Spo2装着」との記載は,パルスオキシメータを装着することを意味するものである。)。

なお,カンガルーケアの実施に先立って妊婦に説明すべき事項について,被告病院においてマニュアルは作成していなかった(証人L)。

(イ) 新生児の血糖値については,被告マニュアル上は,上記のとおり,出生直後の血糖値が40mg/dl以下であった場合にはL医師に知らせることとされているが,平成23年1月a日当時,誰が医師に知らせるかについては明確に定められておらず,看護師が医師に知らせることが多かったものの,助産師が知らせることもあり,また,看護師が連絡する場合も,分娩担当の看護師がすることもあれば,新生児担当の看護師がすることもあり,一定していなかった(証人L)。

また,パルスオキシメータの装着については,被告マニュアル上は,上記のとおり,全ての場合に装着すべきとされていたが,被告病院の実際の運用では,人手の少ない夜間に限って装着されており,昼間は装着されていなかった(乙A3,証人L)。

⑸  原告Cの妊娠及び助産師外来

ア 原告Cは,原告Aを出産する前に,平成20年3月17日に原告Bとの間の長男を経膣分娩により出産した経験があったが,その際には,カンガルーケアはしなかった(甲A20,甲C1,原告C本人)。

イ 原告Cは,原告Aを妊娠した後,継続的に被告病院に通院し,妊娠34週5日目に当たる平成22年12月○日には,助産師から出産についての説明等を受ける「助産師外来」のために,被告病院を訪れた(甲A2,20,乙A4の1,原告C本人)。

原告Cは,上記助産師外来において,助産師であるMから,食事のことなどについて説明を受けるとともに,カンガルーケアについて,「赤ちゃんをお腹の上に載せるカンガルーケアというのがあるんだけど,やりますか。」と尋ねられ,「はい。」と答えたところ,Mは,「生まれてきた子が元気だったらやります。」と告げた。その際,Mは,原告Cに対し,カンガルーケア中に発生し得るリスクや注意点についての説明はしなかったほか,どれぐらいの時間行うのかについても説明はなかった(甲A2,20,乙A4の1,原告C本人)。

また,原告Cが提出した問診票の「母児同室について」と題する欄については,「希望する・体調をみてできればしてみたい・希望しない」という記載のうちの「体調をみてできればしてみたい」に丸印が付けられていた(甲A2)。

⑹  原告Aの出生及びカンガルーケア

ア 原告Cは,平成23年1月a日(以下,⑹及び⑺の各事実は,いずれも同日の出来事である。),陣痛のために被告病院に来院し,午前9時頃,本件LDRにおいて,原告Bの立会いの下,原告Aを自然分娩により出産した。なお,妊娠・分娩の経過で,新生児に呼吸障害を来すような薬剤が投与されたことはなかった。(甲A1,2,20,乙A4の1,原告C本人)Fは,原告B及び原告Cに原告Aを見せた後,臍帯を切断して,原告AをLDR準備室に連れて行き,予め温めておいたインファントウォーマーにおいて,担当看護師とともに,体重等の計測をするとともに,血糖及びヘマトクリット値を調べるために足底から採血をした(乙A1,証人F)。

原告Aは,在胎週数38週5日の正期産児であり,上記計測等の結果,体重は2685g,肛門体温は37.3℃であり,呼吸状態及び啼泣は良好であった。また,原告Aのアプガースコア(10点満点)は,出生1分後には,皮膚色に関して四肢末端にチアノーゼがあったものの,心拍数,呼吸,筋緊張,反射はいずれも良好であったことから,9点であり,出生5分後には,皮膚色も良好となり,10点となった(甲A1,2,乙A1)。

なお,原告Aは,上記のとおり正期産児で出生体重も正常であったほか,原告Cには糖尿病の既往はなく,代謝異常も見られず,低血糖のリスク因子はなかった(甲A1,2,甲B19,乙A4の1,乙B15)。

イ Fは,原告Aにオムツを穿かせて帽子を被せ,更に温めておいたタオル及び毛布で包んだ上で,午前9時15分頃,上体を挙上した分娩台の原告Cの胸の上に置き,原告Cに直接肌が触れ合うようにして原告Aを抱かせ,毛布を掛けてカンガルーケアを開始させた(乙A1,証人F)。

この際,Fは,原告Cに対して,「温かいですか。」,「赤ちゃんの呼吸は感じますか。」などと声を掛け,これに対し,原告Cは「はい。」などと短い返事をしたが,Fからは,カンガルーケアの意義,目的,リスクや抱き方についての説明はなかった(甲A20,乙A1,証人F,原告C本人)。

ウ 原告Cは,カンガルーケアを開始した後,原告Aが2回ほど咳き込んだことから,足下方向にいたFに対し,「大丈夫ですか。」と尋ねたところ,Fは,新生児は羊水を吐き出すこともあるが問題はない旨の発言をした(甲A20,原告C本人)。

エ Fは,原告Aの出生直後に採取した血液の全血血糖値が28mg/dlであるとの報告を受けたことから,午前9時17分頃,原告Cの胸から原告Aを抱き上げてLDR準備室のインファントウォーマーへと連れて行き,哺乳瓶に入れた5%ブドウ糖液10mlを,5ないし7分程度掛けて哺飲させたところ,原告Aの哺飲力は良好で,吐出はなかった(甲A1,乙A1,証人F)。

なお,Fは,原告AをLDR準備室に連れ行く理由について,原告B及び原告Cに何も説明しなかった(甲A20,原告C本人)。

また,原告Aの血糖値は被告マニュアルによれば医師への報告が必要とされる低値であったものの,Fは,担当の看護師が医師に報告をしたものと考えて自らは報告しなかったところ,実際には,看護師からも医師への報告はされていなかった(証人F,証人L)。

オ Fは,上記エのとおりブドウ糖液を哺飲させた後,原告Aを抱き上げてげっぷをさせた上で,皮膚色は良好で,呼吸状態は良く,体温低下もなく,四肢の運動も活発であったため,正常と判断し,午前9時25分頃,温めたタオルと毛布で包んで帽子を被せた原告Aを再び原告Cの胸の上に置いて抱かせ,毛布を掛けてカンガルーケアを再開させ,何か異常があったら知らせるように告げて,本件LDRを後にした(甲A20,乙A1,証人F,原告C本人)

カ カンガルーケアの再開後,原告Cの母,姉及び長男が本件LDRに入室して,写真を撮影したり,歓談をしたりして,親族のみでの時間を過ごしていたところ,原告Cの母が,原告Aが原告Cと向かい合うように抱かれていることが気になって,通りがかった助産師に「うつぶせだけど,大丈夫ですか。」と尋ねたところ,上記助産師は,「片方の鼻が開いていれば大丈夫ですよ。」と答えた(甲A14,20,原告C本人)。

また,午前9時45分頃,Fが,本件LDRに入室し,「お母さんも,お産後で疲れているし,喉も渇いていると思うので,お茶を飲ませてあげてください。」などと声を掛け,すぐに出て行った(甲A20,原告C本人。なお,Fは,この時,カンガルーケアの開始後30分にすべきチェックを早めに行うために入室し,原告Aの様子を観察した旨供述するが,原告Aを抱き上げたり,原告Cを取り囲む親族の間に分け入って原告Aの様子を観察したりはしておらず,被告マニュアルに「30分後」に実施すべき事項として記載されていた体温測定や手足の皮膚温の確認を行っていないことを自認しており,少なくとも仔細な観察はしていないものと認められる。)。

⑺  原告Aの心肺停止

ア 被告病院の助産師であるN(以下「N」という。)は,午前9時55分頃,被告職員間の連絡のためのホワイトボードに,原告Aについて午前10時に出産1時間後の観察をする予定である旨の記載がされているのを確認し,担当助産師であるFに代わって処置をしようと考え,廊下側から本件LDRに入室した(乙A2,証人N)。

Nの入室の後すぐに,Fも血糖値測定のために本件LDRに入室したところ,原告Aの顔色が不良で全身が蒼白となっており,呼吸をしていなかったことから,Nに対して「先生呼んで。」と告げるとともに,原告Aの背中を刺激しつつ,LDR準備室のインファントウォーマーへと連れて行き,アンビューバッグによる蘇生措置を開始した(乙A1,2,証人F,証人N)。

イ Nからの連絡を受けたL医師は,午前10時頃,LDR準備室に到着するや,Fに代わって自ら蘇生措置を開始するとともに,Fに心音聴取を命じたが,心音は聴取されなかった(甲A1,乙A1,3,証人F,証人L)。

原告Aの心拍は数分後には回復し心音聴取が可能となったが,自発呼吸は回復しなかった(甲A1,乙A1,3,証人F,証人L)。

ウ 被告病院からの連絡を受けたO病院の小児科医であるP(以下「P医師」という。)は,午前10時10分頃,被告病院に到着し,原告Aに対して気管内挿管及び人工呼吸を行った上,午前10時26分頃,原告Aの搬送のため,被告病院からO病院に向けて出発した(甲A18,19,乙A4の3,調査嘱託の結果)。

エ P医師は,被告病院において原告Aの出生直後の血糖値が低値であったとの報告を受けて「低血糖」であった旨を診療録に記載したが,被告病院における処置中及びO病院への搬送中にブドウ糖液の投与は行っておらず,午前10時35分頃,O病院のNICUに到着した後,原告Aに対し,血液ガス分析のために採血をするとともに,10%ブドウ糖液の静脈点滴を開始した(甲A18,乙A4の3,調査嘱託の結果)。

O病院における原告Aの血糖値は,上記採血の際に採取された血液に対するガス分析の結果が122mg/dlであったほか,Q病院への搬送のために午前11時05分頃にO病院を出発するまでの間に行われた3回の血液ガス分析では,それぞれ,186mg/dl,204mg/dl,198mg/dlという結果であった(甲A18,乙A4の3)。

さらに,O病院において,一般細菌・真菌検査が行われたが,結果は陰性であり,また,低体温,電解質・代謝異常や心血管系の奇形等は指摘されなかった(甲A18,乙A4の3)。

オ 原告Aは,正午頃にQ病院に搬送された後,午後1時56分,午後4時41分,午後11時17分に採血をされており,検査の結果,それぞれの血糖値は229mg/dl,179mg/dl,118mg/dlであった(甲A4の1,2)。

Q病院では,脳への損傷を防ぐための低体温療法が行われ,併行して各種検査が行われたが,電解質・代謝異常や心血管系の奇形等が指摘されることはなかった(甲A4の1,2,甲B19)。

⑻  原告Aの後遺症

原告Aは,心肺停止によって酸素の供給が途絶えたことにより,低酸素性虚血性脳症を発症し,重篤な脳性麻痺による後遺症が残存して,常時介護を要する状態となった(甲A4の1,2,甲B19,21,22,乙B15)。

2  争点⑴(原告Aの脳性麻痺)について

⑴  前記認定のとおり,原告Aの脳性麻痺の原因は,心肺停止による低酸素性虚血性脳症を発症したことであると認められる。そこで,以下,心肺停止の原因について検討する。

⑵  出生後間もない新生児の呼吸停止・抑制の原因としては,①感染,②低血糖,③低体温,④電解質・代謝異常,⑤心血管系の奇形・伝導障害,⑥母体への薬物投与,⑦虐待,⑧羊水,気道分泌物,嘔吐物,誤飲,誤嚥,母乳などによる気道の閉塞,⑨母親の乳房,胸部などによる鼻口部の圧迫,⑩呼吸中枢が未熟であることによる無呼吸発作等が考えられる(甲B19)。

まず,上記①については,原告Cに感染徴候や子宮内感染に関連する因子が認められず,原告Aにも発熱,白血球増多,CPRの上昇がなく,細菌培養検査も陰性であることから,これが原因であるとは認められない。次に,出生後の経過並びに搬送先のO病院及びQ病院で実施された検査から,低体温,電解質・代謝異常や心血管系の奇形は指摘されておらず,妊娠・分娩経過で,新生児が呼吸障害を来すような薬剤が原告Cに投与されていないことからすると,上記③ないし⑥が原因であるとは認められない。上記⑦については,これを窺わせるような証拠は全くない。そして,原告Cが状態を少し起こした状態で,その胸の上に原告Aが抱かれていたことからすると,呼吸停止となるほどの鼻口部の圧迫があったとは考えにくいから,上記⑨が原因であるとは認められない。

⑶  上記⑧については,生後約17分にされた5%ブドウ糖液の経口投与の際,哺飲力が良好で吐出がなかった一方で,カンガルーケア開始直後に原告Aが2回咳き込んでおり,羊水の吐出があった可能性も考えられることから,直ちにこれを否定できない(甲B19)。

上記⑩については,原告Aのような正期産新生児であっても,呼吸中枢が未熟であることもあり,出生後の環境に適応する過程において,無呼吸発作の出現等により呼吸が停止した可能性は否定できない(甲B19)。

⑷  上記②(低血糖)については,新生児の血糖値は,出生後に一過性に低下した後,特に阻害要因がない限りは上昇して安定するとされる(前記1⑶ア(ア)。原告Aは,正常体重で出生した正期産児であり,母体糖尿病児でないほか,出生児仮死や感染症への罹患,代謝異常等の上記阻害要因を示唆するリスク因子があったとは認められない(前記1⑹ア)。そして,現に,原告Aの血糖値は,出生直後(平成23年1月a日午前9時頃)には28mg/dlとかなり低い値であったものの,同日午前9時17分頃から同25分頃の間に与えられた5%ブドウ糖液10mlのほかにはブドウ糖の供給を受けていない(前記1⑺エ)にもかかわらず,同日午前10時35分頃には122mg/dlまで上昇しており,その後も,O病院において186mg/dl,204mg/dl,198mg/dl,Q病院において229mg/dl,179mg/dl,118mg/dlと一貫して高値を維持している(前記1⑺エ,オ)。さらに,原告Aには,異常啼泣,易興奮性,痙攣といった低血糖を窺わせる臨床症状は見られなかった(なお,出生直後に見られた四肢末端のチアノーゼは,出生5分後には消失している。)。このような低血糖の臨床症状が見られないまま,突然に心肺停止に至るというのは,低血糖によって心肺停止に至る場合の臨床像として一般的でないこと(乙B15)からすると,原告Aの心肺停止が低血糖を原因とするものであったとは認められない。

これに対し,原告らが書証として提出するG医師の意見書2通(甲B21,22。以下「G意見書」という。)は,原告Aの心肺停止は低血糖によるものであり,O病院で血糖値が122mg/dlとなっていることについては,心肺蘇生後に放出されるカテコラミンの作用によるものにすぎず,また,上記低血糖は高インスリン血症によるものと考えられるとする(甲B21,22)。しかし,原告Aには,糖尿病母体児,LGA児等の高インスリン血症を引き起こす要因が見当たらない上,原告Aの血糖値は,O病院で上昇が見られた後,低血糖に対する特別の治療をせずに一貫して高値に保たれ,原告Aについて血糖値の低い状態が長時間持続していたとは認められない(甲A4の1,2,甲A18,乙A4の3,乙B15)。高インスリン血症性低血糖については,治療抵抗性があり大量のブドウ糖を投与しないと血糖値が維持できないとされており(前記1(3)オ(イ)(カ),上記態様推移はこれにそぐわないものである(乙B15)。

また,G意見書は,原告Aが重度の低血糖症に陥って,自律神経機能が作動しなくなった結果,筋緊張低下(弛緩)が次第に増強され,呼吸運動抑制,気道閉鎖(窒息)によって低酸素血症(心肺停止)を引き起こしたと考えられるとするが,上記のとおり,低血糖を窺わせる臨床症状はなかったことに加えて,原告Aが,上体を少し起こした原告Cの胸の上に置かれていたため,気道閉鎖の可能性が低いと考えられることからすると,カンガルーケア中に自律神経機能が作動しなくなって,筋弛緩,気道閉鎖に至ったと断定し得るだけの根拠はない。

⑸  以上のとおり,原告Aの脳性麻痺の原因は心肺停止による低酸素性虚血性脳症であるが,心肺停止に至る機序は不明であって,前記⑧の羊水,気道分泌物等による気道の閉塞,前記⑩の呼吸中枢未熟による無呼吸発作等の可能性も否定しきれないものである。

3  争点⑵(説明義務違反)について

原告らは,被告ないしその職員には,カンガルーケアの目的や効果のみならず,カンガルーケアのリスクや注意点,実施方法について十分に説明すべき義務があった旨主張する。

しかし,医療機関ないしその職員が,想定されるあらゆるリスクについて常に説明義務を負うものとは解することができないところ,前記認定のとおり,出生時に健常とされた新生児について,容体が急変して死亡や重篤な後遺症に至る例がたしかに存在するものの,その発生頻度は稀であること(前記1⑵),カンガルーケアは,それ自体が新生児の急変等のリスクを増大させるものではないとされていること(前記1(1)オ(ウ),1⑵ウ),カンガルーケアが,医療行為というよりは母子の接触及び授乳という自然的行為としての側面が強く,実施方法について詳細な説明がなければ行えないような性質のものではないことからすると,被告ないしその職員には,原告B及び原告Cに対し,カンガルーケアの目的や効果のみならず,カンガルーケア中に起こり得るあらゆるリスクや注意点,実施方法を説明すべき法的義務があったとはいえず,事前の説明に関して,債務不履行ないし過失があったとは認められない。

これに対し,カンガルーケア・ガイドラインには,「家族に対する十分な事前説明」の下にカンガルーケアを行うことが推奨される旨の記載がある(前記1⑴エ)。しかし,カンガルーケア・ガイドラインは,カンガルーケアの実施方法について統一的な見解がないという認識を前提に,「守らなければならない規則」ではなく,「皆様に利用していただきながら使いやすいように育て上げていく道具」という位置付けの下に作成されたものであって,フィードバックを得て適宜内容を変更することが予定されたものである。現に,カンガルーケア・ガイドライン作成後の平成22年全国調査においても,カンガルーケアの実施方法は施設によって区々であり,事前の説明については,実施前の妊婦への十分な説明と同意取得がされていた施設は48.2%と半分にも満たなかったこと(前記1(1)イ(イ))にも照らすと,カンガルーケア・ガイドラインの上記記載が当時の一般的な医療水準を示すものとは認められないから,上記結論は左右されない。

4  争点⑶(低血糖に対する対応)について

原告らは,被告ないしその職員には,原告Aの出生直後の血糖値が28mg/dlであって,低血糖に陥っていることが判明していたにもかかわらず,適切な対応を怠った債務不履行ないし過失があると主張する。

⑴  治療義務違反

原告らは,被告ないしその職員には,原告Aの血糖値が28mg/dlと判明した午前9時15分頃の時点で,直ちにブドウ糖の経静脈投与をすべき義務(治療義務)があったと主張する。

しかし,新生児の血糖値は,出生後一過性に低下した後,低血糖のリスク因子がある場合を除いては自然と上昇するのが通常であり,健康な正期産児については,哺乳が遅れただけで症候性低血糖になることはないこと(前記1⑶ア(ア),ウ),出生直後の一過性の低血糖については治療をしなくとも予後に影響はないとされていること(前記1⑶イ(イ)b),そして,こうした知見を踏まえて,血糖ガイドラインを含む複数の文献において,低血糖のリスク因子のない新生児については,臨床症状が見られない限り,血糖値を測定することや治療することは無意味であって避けるべきでありとされ(前記1⑶オ),仮に低血糖であることが判明しても自然に上昇するのを観察すれば足りるとする見解が唱えられていること(前記1⑶オ(イ))からすると,前記のとおり低血糖のリスク因子も臨床症状も見られなかった原告Aについては,出生直後の血糖値が28mg/dlと低かったとしても,被告ないしその職員に,直ちにブドウ糖液の経静脈投与等の低血糖の治療をすべき義務があったとはいえない。

これに対し,G意見書(甲B21,22)は,原告Aについて,上記血糖値が判明した時点で直ちにブドウ糖液を経静脈投与すべきであり,また,カンガルーケアを再開すべきではなかったとする。しかし,G意見書において,ブドウ糖の経静脈投与等をすべきとする根拠として挙げられている文献(前記1(3)オ(イ),(エ),(オ)は,いずれもリスク因子がある児や臨床症状がある児についての記載であって(特に,うち1つ(前記1(3)オ(イ))には,「健常な正期産児に限れば,血糖値をルーチンに測る意味はない。たとえ,血糖値を測定して,それが低値であったとしても,生理的に上昇するのを確認するのみで良いわけである。」との記載がある。),原告Aの場合には当てはまらない。加えて,望ましい医療水準と法的義務として強制されるべき医療水準とが必ずしも一致するものではないことも踏まえると,G意見書を踏まえて検討しても,原告らの主張を採用することはできない。

なお,血糖ガイドラインにおいては,血漿血糖値が20ないし25mg/dl未満であることが判明した場合には,リスク因子の有無や臨床症状の有無を問わず,グルコースの経静脈投与をすべきとされていること(前記1⑶オ(ア)),L医師も,出生直後の血糖値が20mg/dlを下回った場合には直ちに搬送すべきであると供述していること(証人L)などからすると,極度に低い血糖値が判明した場合には,リスク因子や臨床症状がなくともブドウ糖液の経静脈投与等の措置を採るべき義務が肯定される余地も考えられる。しかし,上記のとおり,リスク因子のない児の無症候性低血糖については,上記のとおり,血糖値が自然に上昇するのを確認すれば足りるとする研究者の見解もあることからすると,その対応の在り方には相当の幅があり得るといえ,少なくとも,一般的な医療の水準についてのコンセンサスをある程度反映していると考えられる血糖ガイドライン(乙B4)が基準とする血漿血糖値20ないし25mg/dlを下回らない場合には,直ちにブドウ糖の経静脈投与をしなくとも,その当時の医療水準に照らして不適切であったということはできない。原告Aは,全血血糖値が28mg/dlであり,血漿血糖値にすると10ないし15%程度高い約30ないし32mg/dlの水準()であったから,上記極度に低い血糖値が判明した場合に当たらない。

⑵  再検査義務違反

原告らは,仮に上記治療義務が認められないとしても,被告ないしその職員には,カンガルーケアの再開に先立って血糖値を再検査すべき義務があり,これをせずにカンガルーケアを再開することは,債務不履行ないし過失を構成すると主張する。

しかし,前記のとおり,低血糖のリスク因子のない新生児については,臨床症状が見られない限り,血糖値を測定する必要はないとされていること,カンガルーケアは,急変等のリスクを増大させるものではなく,むしろ血糖を安定させる効果があるとの報告もあること(前記1⑴ア),無症候性低血糖の児に対しては,リスク因子がある場合でも,まずはブドウ糖液の経口投与をして1時間後に血糖値の再検査をすべきとする見解もあること(前記1(3)オ(ウ))などからすると,早急に血糖値を再検査しなければならず,血糖値の上昇が確認されない限りカンガルーケアを再開することは許されないと解することはできないのであって,原告Aの血糖値が判明した時点でブドウ糖液を経口投与した後,その約30ないし40分後に当たる午前10時に血糖値を再検査することを予定していた被告側の対応が,その当時の医療水準に照らして不適切なものであったと認めることはできない。

よって,この点に関し,被告ないしその職員に債務不履行ないし過失があったとは認められない。

⑶  小括

したがって,低血糖に対する対応に関し,被告ないしその職員に,債務不履行ないし過失があったとは認められない。

なお,被告において作成していた被告マニュアルには,血糖値が40mg/dl以下であれば直ちに医師に連絡すべきと記載されているのに,原告Aについてはこの連絡がされていない。しかし,被告マニュアルは,当時の一般的な医療水準を示す性質のものではなく,被告と原告B及び原告Cとの契約内容の一部となる性質のものでもないから,内規違反が直ちに債務不履行ないし過失を基礎付けるものではなく,上記結論は左右されない。

5  争点⑷(経過観察義務違反)について

⑴  医療機関ないしその職員が,想定されるあらゆるリスクについて常に経過観察義務を負うものとは解することができないところ,出生時に健常とされた新生児について,容体が急変して死亡や重篤な後遺症に至る事例は稀であり,また,カンガルーケアは,それ自体が新生児の心肺停止等の急変のリスクを増大させるものではないとされていることからすると,少なくとも平成23年1月当時,具体的なリスクが予見されない児のカンガルーケアに際して,パルスオキシメータ等による機械的モニタリングや医療従事者の同席といった経過観察を行うことが一般的な医療水準の内容となっていたとは認められない。

これに対し,カンガルーケア・ガイドラインには,出生直後の正期産児に対するカンガルーケアにつき,「機械を用いたモニタリングおよび新生児蘇生に熟練した医療者による観察など安全性を確保した上で」行うことが推奨される旨の記載がある。しかし,前記3において述べたところに加え,カンガルーケア中の経過観察の在り方について,平成20・21年全国調査では,医療スタッフが必ず同席していると回答した施設は58%,時に離席又は原則離席との回答をした施設は39%であり,時に離席又は原則離席との回答をした施設のうち51%はモニター装着をしておらず(前記1(1)イ(ア)),カンガルーケア・ガイドラインが作成された後の平成22年全国調査においても,カンガルーケア中の医療従事者の常駐率は74.8%であって,常駐しない施設も決して少なくなかった上,機械的モニタリングを実施している施設は49.9%(パルスオキシメータの装着は42.4%)に止まっていたこと(前記1(1)イ(イ))も踏まえると,カンガルーケア・ガイドラインの上記記載が当時の一般的な医療水準を示すものとは認められない。

⑵  また,原告らは,原告Aについては出生直後の血糖値が28mg/dlであることが判明していたのであるから,これを踏まえて,厳格な経過観察がされるべきであったと主張する。

しかし,血糖値の再検査を予定した被告ないしその職員の対応に債務不履行ないし過失があったといえないことは前記4のとおりであり,血糖値の再検査までの間に,被告ないしその職員に,機械によるモニタリング,被告の職員による付添いないしより頻回の巡回等をすべき義務があったということはできない。

⑶  そうすると,複数の看護師ないし助産師が,他の業務をも行いながら,新生児の母親等の家族からの要請があれば適宜対応するという被告ないしその職員の対応が,当時の一般的な医療水準に照らして不適切なものであったとは認められず,被告ないしその職員に,経過観察に関する債務不履行ないし過失があったとは認められない。

6  結語

以上のとおりであって,原告らの各請求は,その余の点について判断するまでもなく,いずれも理由がないから棄却することとして,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 森實将人 裁判官 西理香 裁判官 河村豪俊)

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