松山地方裁判所 平成8年(わ)266号 判決 1997年7月03日
主文
被告人は無罪。
理由
第一 本件公訴事実の要旨は、「被告人は、法定の除外事由がないのに、平成八年九月一一日ころ、肩書被告人方自宅において、フエニルメチルアミノプロパンを含有する覚せい剤約〇・〇三グラムを水に溶かして自己の身体に注射し、もって、覚せい剤を使用したものである。」というものである。
第二 被告人は、当公判廷および捜査段階において本件公訴事実を自白している。
第三 当裁判所が、被告人が前記公訴事実につき自己の犯行である旨自認しているにも拘わらず、本件を無罪とする理由を以下説明する。
一 検察官の主張の要旨
検察官は、その請求にかかる被告人の尿の鑑定書等は証拠能力を有し、これらは、被告人の自白を補強する証拠となる旨主張する。
すなわち、警察官三名が、被告人方に当初から無断で立ち入る意図はなく、何ら有形力の行使はなく、同署に留まらせるため強要的言動をせず、しかも、採尿自体は何らの強制力が行使されることなく被告人の自由な意思により応諾したものであるから、本件は、最高裁第二小法廷昭和六一年四月二五日判決(刑集四〇巻三号二一五頁以下)(以下「昭和六一年最判」という)の事案に比し、右捜査手続の瑕疵は軽微である。とすると、警察官三名が令状なく被告人方へ立ち入った違法は本件採尿に際し特に重大な影響を与えたとは認められないから、被告人の尿の任意提出書(甲一)、領置調書(甲二)、鑑定嘱託書謄本(甲三)、鑑定結果について(回答)と題する書面(甲四、以下「鑑定書」という)および実況見分調書(甲五)は、違法収集証拠として証拠排除されるべきものではなく、同証拠はいずれも証拠能力を有することは明白である。
二 弁護人の主張の要旨
弁護人は、警察官三名が、令状なしで、被告人の居宅に侵入した違法捜査に引き続いて行なわれた右尿の任意提出および領置(押収)手続は違法であり、その違法な手続により採尿された尿の鑑定書等の証拠能力は否定されるべきである。本件は「昭和六一年最判」の事案とは異なり、警察官らの行為は被告人方の窓から侵入した犯罪行為であり、住居の平穏を著しく害している。そして、右違法捜査(さらに、見込捜査を含む)を秘して被告人を警察署へ連行し、それに気付かず既に帰宅を諦めている被告人から尿の提出を受けたものである。この様な違法捜査の結果得られた右鑑定書等に証拠能力を認めることは、将来の違法捜査の抑制の面から許されないことは明白である。従って、本件は、被告人の自白は存するものの、これを補強する証拠はないから、被告人は無罪である旨主張する。
三 採尿・緊急逮捕に至る経緯
被告人の公判廷における供述、証人乙山春男、証人丙原夏男、証人丁川秋男の各供述および捜査報告書等によると、次の事実が認められる。
1 伊予警察署の警察官は、平成八年六月一八日、裁判官に対し、同種前科が数犯ある被告人につき覚せい剤取締法違反(覚せい剤所持)被疑事件により同人方居宅の捜索差押許可状を請求し、同日右許可状の発付を受けた。同署生活安全課の警察官である乙山春男警部補(以下「乙山」という)、丁川秋男巡査部長(以下「丁川」という)ほか刑事二名は、翌一九日午前八時三〇分ころ、右許可状にもとづき被告人方居宅捜索のため同人方敷地内に入ろうとしたところ、同人が居なくなったため、同人方居宅の捜索を断念した。その後、右許可状は更新されないまま同月二五日の経過により失効した。
2 前記覚せい剤事犯による右捜索の際、被告人が現場から姿を消した事情を質すなどのため(乙山の公判供述、第五回公判速記録二丁裏三丁裏参照)内偵を続けていた乙山は、同年九月一三日午前七時三五分ころ、自家用車で出勤中、被告人方から明かりが漏れていることに気付き、このことから被告人が戻っているものと考え、前回被告人が居なくなったことから、同署に電話して応援を求め、自らは近くの駐車場から被告人方を監視していたところ、同署生活安全課の課長丙原夏男警部(以下「丙原」という)と丁川の二人が駆け付けた。
3 同日午前八時三〇分ころ、いずれも私服の丙原、乙山、丁川の三名は、犯罪の嫌疑はないが、被告人から事情聴取するため、被告人方の玄関(南側、施錠されていた。)、三畳の間付近(東側)および勝手口付近(北側、施錠されていた。)に別れて、それぞれ屋内に向かって「伊予署のもんじゃが、甲野さん、ちょっと出て来てや」などと約四、五分間声を掛けたが、居る様子が窺われるのに中からは何の応答もなかった。さらに、丙原は、屋内での物音を聞くに及び、前記三畳の間の掃き出し窓(地上二三センチメートル、幅二メートル、高さ一・二メートルの二枚引きガラス戸、以下「掃き出し窓」という)を引いたところ、たまたま施錠されていなかったため、その窓を開くことができ、そこから中を覗くと人(被告人)の動いている様子が確認できた。そこで、丙原は、被告人の承諾を得ることなく無断で、かつ前記捜索差押許可状の再発付はもとよりその他の令状も全く受けていないにもかかわらず、ただ単に「伊予署のもんじゃ、中へ入らしてもらうぞ」と告げたのみで、掃き出し窓から靴を脱いで同三畳間を経てそれに続く土間(屋内)に侵入し、乙山、丁川の二名も丙原同様、順次これに続いて掃き出し窓から靴を脱いで同三畳間を経て土間に侵入した。
4 丙原ら三名の警察官は、右土間で下駄箱を背にしていた被告人を三名で取り囲むようにした。そして、三名の警察官は、被告人に対し黙秘権があるとか、警察へ行きたくなかったら行く必要はない旨の説明もせず、前記捜索差押令状の執行に行った際、被告人が居なくなったときのことは、一切質問しないまま、乙山が、いきなり「あんたシャブやっとらせんかな、あんたやったんじゃろうが」などと質問したところ、被告人は、小さな声で「二、三日前にやったんよ」と答えた。今度は、丁川が被告人に対し「小便出してもらわないかんし、伊予署の方へ来てもらわないかんな」と告げた。丁川は、着替えなどの用意を申し出た被告人の後に付いて四畳半の間等に入るなどしたうえ、再度、覚せい剤の使用につき「あんた本当にやっとんかい」と尋ねると、被告人は「やっとんよ」と答えた。
その後、被告人は、下着等を入れたボストンバックと紙袋各一箇を両手に持ち前記玄関の施錠を開けて外に出た。丁川、丙原、乙山も被告人の後に続いて外に出た後、被告人は、玄関の施錠をした。
5 丁川は、被告人方東方の△△パーキング(被告人方から幅約二メートルの川と幅約四メートルの道路を隔てた場所。なお、当日は小雨が降っていた。)に止めていた捜査用車両を運転して被告人方前道路に南向きに駐車させたうえ、運転席の窓から、前記玄関前に佇立していた被告人に対し、同車両に乗車するよう指示すると共に側にいた丙原らも「さあ行くかな」等と言って乗車を促した。以前した複雑骨折により右足が悪い被告人は、指示されるまま前記荷物を持って同車両に向け歩き、二~三メートル離れて丙原、乙山の順で被告人に続き、丁川は開けた同車両運転席後部右座席を指示して被告人をそこに乗車させ、続いて丙原は同後部左座席に乗車した。丁川は同車両を運転して同日午前八時四〇分ころ同所を出発し、午前八時五二分ころ伊予警察署に着いた。乙山は前記パーキングに駐車させていた自家用車で丁川車両を追って同署に着いた。
6 伊予警察署に着いた丁川らは、被告人を同署二階第四取調室に伴い同取調室奥に座らせた。被告人は、机を挟んで座わっている丁川の取調べを受け(なお、別室にいる乙山からこの様子は直視できる状態にある。)、約一〇分後の午前九時過ぎころ、丁川は、入ってきた上司の乙山に対し、被告人が採尿に応ずると言っている旨報告した。そこで、乙山は、採尿容器を持って右取調室にいる被告人を促して同署二階の採尿場所(男子便所)に案内したところ、被告人は午前九時八分ころ同所で尿を出し、乙山の先導で右取調室に戻った(なお、丙原は後方からこれらの様子を監視していた)。同取調室では丁川が準備していた予試験(尿中覚せい剤簡易検査キット、通称吸着チップ法)をしたところ、右の尿から覚せい剤反応が出た。丁川は、その旨、被告人に告げると共に上司である丙原と乙山に報告した。乙山は、同日午前九時三九分被告人を覚せい剤使用事犯(平成八年九月一〇日ころ自己使用)で緊急逮捕し、丙原が同日午後零時五六分裁判官に対し緊急逮捕状の請求をなし同日同令状が発付された。その後、前記鑑定書(甲四)が作成された。
7 被告人の態度等
被告人は、前記3ないし6の捜査中、観念し、やむなく、前記三名の警察官の指示されるまま行動し、同警察官に対して反抗的ないし抵抗するような態度を示すことは一切しなかった。従って、右警察官らは、被告人に対して有形力等を行使するなどの必要は全くなかった。
四 当裁判所の判断
1 本件の鑑定書等の証拠能力については、昭和五三年九月七日最高裁第一小法廷判決(刑集三二巻六号一六七二頁以下)を念頭に判断すべきところ、その見地から本件と類似の事犯につきなされた「昭和六一年最判」(事例判決)が存在するが、右「昭和六一年最判」と本件とは重大な点で事案を異にする。すなわち、「昭和六一年最判」の事例は、三名の警察官が、通常、人の出入りする場所である「玄関」から立ち入った事案であるのに対し、本件は、三名の警察官が、通常、人の出入りしない場所である「掃き出し窓」から侵入した異常な事案である。なお、警察官らが、それぞれ靴を脱いで屋内に入ったことは本件侵入行為の違法性の判断に消長をきたすものではない。さらに、丙原ら三名の警察官は、手数のかかる令状捜査の方法よりも安易な右侵入行為(事実行為)によりその捜査を遂げようとしたものであって(乙山の公判供述、第五回公判速記録一〇丁表参照)、当時、被告人が屋外に出てくるのを待てない程の緊急性、犯罪の明白性、重大性等を窺わせる事情は全く存在しなかった。これに加えて、乙山らの職務質問は以前のことすなわち平成八年六月一八日の被告人方の捜索の際、被告人が姿を消したことについての弁明を全然聞くことなく、黙秘権の告知も任意同行の説明もしないまま、いきなり、覚せい剤の自己使用について質問したものである。これからみると、右警察官らには、令状主義を潜脱する意図が窺われる。
2 しかして、被告人は一見素直に警察官らの指示に応じたもののようであるが、前記のとおり、以前した複雑骨折により右足が悪い被告人は、土間に突然侵入した三名の警察官に取り囲まれたため、観念し、警察官の指示されるまま行動(任意同行)せざるを得ない状況下におかれ、やむなく採尿手続に応じた(任意同行から緊急逮捕まで約五九分間に過ぎない。「昭和六一年最判」の事例では任意同行から通常逮捕まで約七時間二二分間かかっている。)点から見ると、被告人は、明示的承諾により行動したものではなく、観念して、やむなくその指示に従ったにすぎないとみるのが相当である。従って、被告人は、全く自由な意思のもとに採尿手続に応じたとは認め難い。
3 そうすると、三名の警察官の右行為は、令状主義の精神を没却する重大な違法行為であり、右捜査手続の瑕疵は軽微とはいえない。
よって、前記鑑定書等を証拠として許容することが、将来における違法な捜査を抑制する見地からして相当でない場合に該当すると認められるので、本件においては、被告人の尿についての前記鑑定書等の証拠能力は否定されるべきである
4 結論
本件公訴事実を裏付ける適法な証拠は被告人の自白のみであり、これを補強する証拠は全くなく、結局犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法三三六条により被告人に無罪の言渡しをすることとする
よって、主文のとおり判決する。(検察官石川雅巳出席)
(裁判長裁判官 田村秀作 裁判官 山本愼太郎 裁判官 釜元修)