松山地方裁判所 昭和33年(わ)147号 判決 1958年11月06日
被告人 稲井勝
主文
被告人を禁錮四月に処する。
但し本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は日本人であるが、昭和二十九年一月二十四日頃から同年六月下旬迄の間に、有効な旅券に出国の証印を受けないで、本邦より本邦外の地域である中華人民共和国に出国したものである。
(証拠の標目)(略)
なお主任弁護人らの本件公訴事実に関する主張は別紙書面記載のとおりであり、これに対する当裁判所の判断は、次のとおりである。
一、出入国管理令六〇条二項が憲法前文及び憲法二二条に違反し無効であるとの点について、
しかし、憲法二二条二項の「外国に移住する自由」は無制限のままに許されるものでなく、公共の福祉のために合理的な制限に服すると解すべきである(最高裁判所昭和二十九年(オ)第八九九号 昭和三三・九・一〇大法廷判決参照)そして出入国管理令一条は「本邦に入国し又は本邦から出国するすべての人の出入国の公正な管理について規定することを目的とする」もので、その管理の必要上同令六〇条で本邦外地域に出国する日本人は適式の旅券を受けなければ出国してはならない旨を規定し、次いで旅券法六〇条において、旅券なくして出国することを禁止したのである、しかして旅券発給を拒否することができる場合として、旅券法一三条一項五号が「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者」と規定したのは、外国移住の自由に対し、公共の福祉のために、合理的制限を定めたと見るべきであるから、出入国管理令六〇条二項は、憲法二二条に違反するものではなく、勿論憲法前文とも抵触するものでもなく、合憲の規定というべきである。したがつて、主任弁護人らの違憲の主張は採用できない。
二、被告人の移住は期待可能性がないこと或は正当行為であるから刑事責任がないとの点について、
しかし主任弁護人らが主張するような動機から、被告人が中華人民共和国に移住せんとして旅券の下附を当局に申請したが、これを拒否された事実は本件においてはこれを認むべき証拠なく、仮にかかる事実があつたとしても、期待可能性の有無を定める標準は当該被告人或は特殊の思想感情を有するものを以てすべきではなく、一般常識ある通常人を標準にすべきであると解すべきところ(広島高等裁判所昭和二七年(う)第五三一号 昭和二七・一二・八判決参照)本件についてこれを見るに、当時の国内、国際情勢が弁護人主張の如きものであつたとしても、通常の日本人としては、かかる場合出国を思い止まるのが常識であつて、これは決して一般人に対し期待できないことではないので被告人に刑事責任なしということはできないし、又かかる事情の下における被告人の移住は、刑法第三十五条の正当行為であるとの所論も特殊の思想感情を前提とする独自の見解に基くもので採用できない。
三、訴因不特定の点について、
刑事訴訟法二五六条三項ができる限り日時場所及び方法を以て犯罪事実を特定することを要求しているのは犯罪の日時場所及び方法等は犯罪の構成要件ではないから必ずしも記載することを要しないが、犯罪の構成要件の記載のみでは、その公訴事実を特定できないことが多いから、これを特定するために、犯罪の日時、場所、方法等をできるだけ明示せよとの趣旨であつて、これらの記載がなくても公訴事実が特定せらるれば、その記載なき起訴状による公訴の提起といえども違法ではないと解すべきである。これを本件について見れば、出入国管理令六〇条第一項は「本邦外の地域におもむく意図をもつて出国する日本人(乗員を除く)は有効な旅券を所持し、その者が出国する出入国港において、入国審査官からその旅券に出国の証印を受けなければならない」、第二項は「前項の日本人は旅券に出国の証印を受けなければ出国してはならない」と規定しているところ、本件起訴状には「被告人は日本人であること、有効な旅券に出国の証印を受けないで本邦外の地域である中華人民共和国に出国したもので、出国の時は昭和二十九年一月二十四日頃より同年六月下旬迄の間であることを明らかにした上出入国管理令六〇条二項違反罪に問擬しているのであるが、およそ本邦から本邦外の地域に密出国するというようなことは他の一般刑法犯などのように、あらゆる場所と時においてひんぱんにたやすく行われるものでないから、右のような諸点が明らかにされているならば出国場所を明示しなくとも、又日時が一定の期限という程度にしか限定されていなくとも、右六〇条二項違反罪の公訴事実は特定ができているものと認めるに十分である、したがつてこの点に関する主任弁護人らの主張はその余の判断を要せず理由がない。
四、時効完成の点について
しかしながら刑事訴訟法二五五条の犯人が国外にいる場合とは、日本の行政権の及ばない地域にいる場合で、単なる旅行はこれに含まれないのであるが、被告人が日本の行政権の及ばない中華人民共和国に居住していたことは記録編綴の疏明資料により明らかなところである、しかしてこの国外に居る場合には犯人が逃げ隠れている場合と異なり公訴の提起も、起訴状の謄本の送達の能否も要件とはなつていないことは立法趣旨に照し、けだし当然のことである、したがつて本件時効は被告人が出国した判示昭和二十九年一月二十四日頃以降同年六月下旬迄の間において停止し、被告人が中華人民共和国より帰国した昭和三十三年七月十三日より時効は進行を始めたもので、本件起訴は同年七月二十五日であるから、出入国管理令違反による三年の公訴時効は未だ完成しないので、この点に関する右主張も理由がない。
よつて主任弁護人らの以上の各主張は採用できない。
(法令の適用)
出入国管理令第七一条、第六〇条第二項、刑法第二五条第一項
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 伊東甲子一)
主任弁護人等の主張
一、出入国管理令は憲法違反であるから本件公訴を棄却すべきである。
憲法前文は「日本国民はわれらとわれらの子孫のために諸国民との協和による成果とわが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのない様にすることを決意しここに主権が国民に存することを宣言しこの憲法を確定する。日本国民は恒久の平和を念願し平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において名誉ある地位を占めたいとおもう、われらは自国の主権を維持し他国と対等の関係に立とう、日本国民は全力をあげてこの目的を達成することを誓う」と書いてあり、第九条は戦争の放棄を宣言し、第十一条は国民の基本的人権の不可侵を保障している。そして第二十二条には外国移住(渡航)の権利を明白に定めている。しかるに出入国管理令第六十条は外国に渡航するものは旅券を貰つた上で出国しなければならないと定め、第七十一条は密出国した場合はすべて犯罪として処罰すると規定したものである、此の規定は旅券法第十三条一項五号規定(外務大臣は著しく且、直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれがあると認めるに足りる相当な理由があるものには旅券を発給しない)と切りはなして見ることは出来ない、わが国歴代の外務大臣は旅券法の此の規定をたてにして従来ソ連中国への渡航を何等の合理性もない口実によつて制限し旅券を殆んど出さなかつた故にわれわれは出入国管理令の前述の各項は明白に憲法前文及び第二十二条に抵触し無効であることを断呼として主張する。
二、被告人の出国は違法性がないから無罪の判決をすべきである。
出入国管理令は無効であり従つてこれを根拠として罰することは不当であり違法であるがこの外に特に本件において被告人を有罪にすることは違法、不当である、その理由は被告人が出国したといわれて起訴されている当時は、国際状勢は極度に緊張が激化し朝鮮戦争、ヴェトナム戦争等が米仏などの帝国主義者によつて強行されアジア地域の紛争は第三次世界大戦に発展する危険をはらんでいた。こういう状勢の中で世界の平和、日本人民の幸福を念願する善意を持ちそのためにあらゆる犠牲を惜しまず献身しようと決意した日本人民(これがまさに被告人である)が世界の恒久平和のために一貫して努力している中国人民と協力して第三次世界大戦の惨禍から日本人民を含む世界人民を救おうとしてその協力を求めるために中国に渡航するということはまことに勇敢であり人道上尊敬するに値する立派な行動といわなければならない、しかるに日本政府は憲法の条章にそむきその渡航の権利をじゆうりんしかかる目的で中国に渡ろうと欲求する人々に旅券を交付しなかつた、かかる場合この様な固い信念と決意のもとに(密出国)をする行動はこれを道徳的に見れば実に正しいことであり更に法律的に見ればまさに正当行為であるか又は期待可能性のない行動であつて絶対に違法性のないものである、即ち如何に出入国管理令の前述の規定があり形式的にはこれに抵触しようとも実質的には完全に無罪である、かかる正当であり犯罪性のない行為を弾圧しようとしてもこの本件起訴公判は米帝と岸反動政府の戦争政策核武装計画の具体的なあらわれでありわれわれはあくまでかかる反人民的反民主的政策に反対して闘うことを明確にしなければならない。
三、本件起訴状には、訴因として被告人が何時から何時迄の間に有効な出国の証印を受けないで本邦外の中華人民共和国に出国したと単に漫然記載しているに過ぎないが、右の記載程度では訴因は不特定であり、したがつて本件につき訴因を特定するには「被告人が中華人民共和国に出国するにはこのような手続方法があるのにその手続を経ずして何時何処から本邦外の中華人民共和国に出国した」というように、その日時場所、方法を明示すべきであるのに、その特定ができていないので本件起訴状は訴因の不特定により公訴棄却をすべきである。
四、被告人に対する公訴の時効が完成している本件公訴時効は三年であるが起訴状によれば被告人は昭和二十九年一月二十四日頃本邦より中華人民共和国に出国したものであるから昭和三十二年一月二十四日公訴時効が完成しているに拘わらず検察官は被告人を同年七月二十五日起訴しているから免訴の判決をすべきである。