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松江地方裁判所 平成13年(ワ)135号 判決 2002年5月16日

主文

1  被告乙川太郎は、原告に対し、金三七〇七万六〇四五円及びこれに対する平成一二年五月八日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  原告のその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用はこれを五分し、その2を原告の、その余を被告乙川太郎の負担とする。

4  この判決は、第1項に限り、仮に執行することができる。

事実

第1  当事者の求めた裁判

1  請求の趣旨

(1)  被告らは、連帯して、原告に対し、金五四二六万一一四九円及びこれに対する平成一二年五月八日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

(2)  訴訟費用は被告らの負担とする。

(3)  仮執行宣言

2  請求の趣旨に対する答弁

(1)  原告の請求をいずれも棄却する。

(2)  訴訟費用は原告の負担とする。

(3)  仮執行免脱宣言

第2  当事者の主張

1  請求原因

(1)  交通事故の発生

以下の交通事故(以下「本件事故」という。)が発生した。

ア 発生日時 平成一二年五月八日午後四時五〇分ころ

イ 発生場所 島根県安来市新十神町<番地略>

ウ 加害車 軽車両(自転車・<車両番号略>)

加害者 被告乙川太郎(昭和四四年四月五日生、以下「被告乙川」という。)

エ 被害車 軽車両(自転車・<車両番号略>)

被害者 原告(昭和一六年四月二三日生、本件事故当時五九歳)

オ 態様・結果 被告乙川は、自己の所有する自転車(加害車)の前後輪の制動装置が故障し、制動能力が著しく低下していることを十分認識しながら、平成一二年五月八日午後四時五〇分ころ、加害車に乗って交通整理の行われていない、左方道路の見通しが困難な変形十字路交差点を国道九号線方面から安来港方面に向かい時速約一六キロメートルで進行中、折から左方道路から同交差点に進行してきた原告が乗っていた自転車(被害車)を約3.3メートルの至近距離に発見したが、制動措置を講じることができず、加害車前部を被害車右側部に衝突させて、原告もろとも路上に転倒させ、原告に頭部外傷(左急性硬膜外血腫、びまん性脳損傷)、遷延性意識障害の傷害を負わせた。

(2)  被告らの責任

ア 被告乙川の責任

被告乙川は、前後輪ともに著しく制動能力を欠いていた自転車であることを十分に知悉しながら、これを運転し、左方道路の見通しの悪い変形十字路交差点を徐行したり、一時停止をすることなく通過して、原告運転の自転車に衝突して、原告に傷害を与えたものであり、被告乙川の重大な過失は明らかである。被告乙川は、そもそも、そのように著しく制動能力を欠いた自転車を運転すべきではなかったし、仮に、運転するにしても、ブレーキが殆ど効かない以上、特に見通しの悪い変形交差点に差し掛かった場合、左から進行してくる人や自転車の有無を十分に認識し、かつ、徐行(道路交通法四二条一号、二条二〇号、直ちに停止することができるような速度で進行すること)するか、一時停止をするかして、安全に運転すべき注意義務があった。

しかるに、被告乙川は、それらの注意義務を怠って本件事故を起こしたのであるから、民法七〇九条により、原告が被った後記(4)記載の損害を賠償する義務がある。

イ 被告株式会社○○製作所(以下「被告会社」という。)の責任

以下のとおり、被告会社は、民法七一五条一項の適用により、原告が被った後記(4)記載の損害を賠償する義務がある。

(ア) 使用者責任(民法七一五条一項)は、使用者が被用者を用いることによって利益を得ている以上、危険もまた負担すべきであるという報償責任の原理及び使用者が事業を拡大することにより生じた危険について使用者は危険を負担すべきであるという危険責任の原理に求められる。

(イ) 一般的に従業員は、雇用される会社まで通勤することによりその労務を初めて提供できるのであり、このような形で提供された労務により、使用者は利益を得ることができる。

本件でも、被告乙川は、平成八年一一月に自転車を購入して以後、約三年半の長きにわたって、自転車を毎日のように被告会社と自宅との通勤に使用していたのであり、自転車の使用なくしては、被告乙川の被告会社に対する労務の提供はあり得なかったものと評価し得る。被告会社は被告乙川が自転車で通勤することによって利益を得ていたのであるから、報償責任の観点から、通勤途中の危険について責任を果たすべきである。

(ウ) 通勤は、従業員を抱える使用者たる企業にとっては本来の事業そのものではないが、事業の執行にとって不可欠の一部である。危険責任の観点から、使用者は、事業の執行にとって密接ないし不可欠な関係にある通勤途中に被用者が起こす不法行為の危険についても責任を果たすべきである。

本件では、被告乙川は、毎日の通勤のために自転車を使用しており、また、本件事故の約半月前には、被告乙川の自転車の制動能力が著しく欠いた状態になっており、被告会社は通勤途中での事故を十分に予測することができたというべきである。すなわち、本件事故は通勤の途中に内在していた予見可能な危険が顕在化したものと評価することが可能である。

(エ) 被告会社は、自転車は自動車に比して危険性が少ない乗り物であると主張するが、自転車でも、その衝突によって、他人に傷害を負わせることは十分にあり得るものであり、現に、自転車により多くの人損・物損事故が発生している。このような状況に鑑みても、自転車であるからといって、使用者責任を負わないということは、法理論上もあり得ない(特に、被告乙川の自転車は速度が速いスポーツタイプのマウンテンバイクであり、より一層、事故が発生しやすい自転車である。)。

(オ) マイカーによる事故の場合については、自動車損害賠償保障法三条の運行供用者責任の成否につき、運行利益と運行支配の帰属がポイントとなる。被告乙川は、パートやアルバイトといった管理のし難い勤務体系の従業員ではなく正社員であり、被告会社としては、被告乙川の勤務について、適切に管理すべきである。たとえ自転車通勤であったとしても、そこから生じ得る危険は管理可能なものとして、その責任を負担すべきである(運行利益と運行支配の帰属)。

(カ) 被告会社は、被告乙川が自転車を通勤用に使用することを承認しており、屋根付の自転車置場を設置し、他の従業員の自転車とともに、そこにとめさせていた。

(3)  治療経過

ア 原告は、本件事故により、以下のとおり、三〇〇日間の入院治療を余儀なくされた。原告は、現在でも皆生温泉病院にて入院治療中である。

(ア) 鳥取大学医学部附属病院

平成一二年五月八日から同年八月六日まで(九一日)

原告は、平成一二年五月八日、開頭硬膜外血腫除去術を受けた。

(イ) 皆生温泉病院

平成一二年八月七日から平成一三年三月三日まで(二〇九日)

イ 後遺障害

原告は、本件事故により、頭部外傷、頭蓋骨骨折、びまん性軸索損傷、硬膜外血腫等の傷害を受け、歩行障害、理解力、記憶力の低下等を含む高次脳障害、四肢不全麻痺が残った。原告は、平成一三年三月三日、「体幹機能障害・頭部外傷」として症状固定し、同月二八日、身体障害者福祉法により、第五級に認定された。これは、自動車損害賠償保障法施行令第二条の別表後遺障害等第五級二号(神経系統の機能または精神に著しい障害を残し、特に軽易な労務以外の労務に服することができないもの)に相当する障害である。

(4)  損害 五四二六万一一四九円

ア 治療費 八〇万九八七四円

平成一二年五月八日から平成一三年三月三日まで

イ 入院雑費 四二万円

(計算式)

1400円(1日分)×300日=42万円

ウ 休業損害 二五二万三〇〇〇円

原告は、本件事故時五九歳であり、夫、長女及び二女と一緒に生活していた。原告は、病気がちの夫(農業、六二歳)と長女(無職、三二歳)の世話と孫(五歳)の子守をしたり、家事をしたり、農業をしていた。原告は、少なくとも五九歳の女子の平均賃金(二五万二三〇〇円)を得ていたものと考えられる。

(計算式)

(25万2300円÷30日)×300日=252万3000円

エ 傷害慰藉料 三五〇万円

五級の後遺障害が残るような症状と入院期間(三〇〇日)を総合すると、傷害慰藉料としては、三五〇万円が相当と考える。

オ 逸失利益

一九〇五万一七八三円

(ア) 原告は、本件事故時五九歳であり、今後、一一年間働くことができた筈である。

(イ) 上記の事情に鑑みると、原告は、将来において、産業計・企業規模計・学歴計の女子の労働者の年齢別平均賃金を得たであろうと推認し得る。

(ウ) 後遺障害五級の労働能力の喪失率は七九パーセントである。

① 満六〇歳から満六四歳までの逸失利益…………一〇〇四万〇〇七三円

平成一三年(本件事故後一年)から平成一七年(本件事故後五年)

平成一二年度賃金センサス

……………………二九三万五五〇〇円

五年ライプニッツ係数

……………………………4.3294

(計算式)

293万5500円×4.3294×0.79

=1004万0073円

② 満六五歳から満七〇歳までの逸失利益……………九〇一万一七一〇円

平成一八年(本件事故後六年)から平成二三年(本件事故後一一年)

平成一二年度賃金センサス

……………………二八六万八三〇〇円

五年ライプニッツ係数

……………………………4.3294

一一年ライプニッツ係数

……………………………8.3064

(計算式)

286万8300円×(8.3064−4.3294)×0.79=901万1710円

③ 合計額 一九〇五万一七八三円

カ 後遺障害慰藉料 一三五〇万円

キ 将来の介護費用

二一三七万八七八〇円

(ア) 原告は、症状固定時(平成一三年三月)五九歳であり、平均余命まで27.19歳である。そのライプニッツ係数は14.643である。

(イ) 原告は、現在、皆生温泉病院に入院中であり、その介護(必要品の買物、預貯金の管理、入院費の支払い、衣類等の洗濯、外出時の付き添い等)は夫、長男及び二女がしており、いずれ自宅で療養せざるを得なくなる。その場合、リハビリ施設への送迎、入浴時の介護、食卓の用意、財産の管理、火気使用時の監視行為、外出時の付き添い等の必要がある。

その費用は、一日当たり四〇〇〇円が相当である。

(計算式)

4000円×365日×14.643=2137万8780円

ク 家屋改善費 五一万八〇〇〇円

原告は、いずれ自宅療養をしなければならず、その場合、原告の症状に見合った住みやすい構造にする必要がある。そのための費用は五一万八〇〇〇円が相当である。

ケ 以上損害合計

六一七〇万一四三七円

コ 過失相殺後の金額

四九三六万一一四九円

本件事故の発生については、原告にも二割程度の過失があったものと考えられる。

(計算式)

6170万1437円×0.8=4936万1149円

サ 弁護士費用 四九〇万円

原告は、本件事故の損害賠償の問題について被告らと交渉したが、結局話し合いがつかず、やむなく本件訴訟の提起・遂行を原告訴訟代理人に委任した。本件事故と相当因果関係の範囲内にある弁護士費用は四九〇万円とするのが相当である。

(5)  まとめ

よって、原告は、被告らに対し、不法行為に基づく損害賠償として、連帯して金五四二六万一一四九円及びこれに対する本件事故発生の日である平成一二年五月八日から支払済みに至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

2  請求原因に対する認否

(1)ア  請求原因(1)アないしエの事実は認める。

イ 請求原因(1)オの事実は争う。

被告乙川は、本件事故現場の信号機の設置されていないT字型交差点の直進路を国道九号線方面から安来港方面に向かって自転車を運転して時速約一六キロメートルで直進しようとしたところ、原告が自転車を運転して見通しの悪い左方脇路から一旦停止しないまま、T字型交差点を斜めに横断しようとしたため、自転車同士が交差点内で衝突して本件事故に至ったものである。当時、被告乙川運転の自転車の前後輪の制動装置について、整備不良のため制動能力の低下があったことは事実であるが、被告乙川は見通しの関係で、左前方約3.3メートルの至近距離において初めて原告を発見することができたのであるから、仮に、制動装置の整備不良がなかったとしても、本件事故の発生を回避することはできなかったというべきである。

これに対し、原告は、斜度五度の下り勾配の坂道を(被告乙川が走行していた直進路は平坦である。)一旦停止しないまま走行してT字型交差点に進入したものであり、しかも、原告運転の自転車も前輪の制動装置が欠落した整備不良車であり、坂道における制動能力に問題があったことなどを考えると、本件事故の主たる責任は原告にあるというべきである。

(2)ア  請求原因(2)アの事実は争う。

被告乙川は、平成一二年一二月二六日、松江簡易裁判所において、本件事故について、重過失傷害被告事件の略式命令により罰金四〇万円に処せられ、被告乙川が正式裁判を請求しなかったため、この略式命令は確定している。この略式命令の中で、松江簡易裁判所は、被告乙川が制動能力の著しく低下していた自転車を運転したことが重大な過失であり、これによって本件事故が発生したと認定している。

安来警察署が実施した実況見分の結果によれば、被告乙川は、左前方約3.3メートルの地点で原告を発見している。被告乙川が左脇道から一時停止をしないままT字型交差点に進入してくる自転車の存在を予想しながら全神経を左前方に集中させていれば、交差点のブロック塀が隅切りされていることから、左前方約7.3メートルの地点で原告を発見することが可能である。しかし、被告乙川が、時速約一六キロメートル(秒速4.44メートル)で走行していたこと、T字型交差点という道路の状況等からみて左前方に全神経を集中させながら自転車を運転することが求められているわけではないこと、時速約一六キロメートルという速度は自転車の常用速度の範囲内であり、危険な速度ではないことなどを考えると、被告乙川が左前方約3.3メートルの地点に至り原告を発見したことをもって、被告乙川に前方不注視の過失があったとはいえない。しかも、被告乙川が原告を発見した地点である②点から衝突地点である③点までの距離は2.1メートルしかなく、発見から衝突までの時間は0.47秒でしかない。自転車事故の場合の反応時間は、一般的に0.4秒ないし0.8秒といわれており、反応時間については、自動車を運転する場合と自転車を運転する場合とで基本的な差異はない。したがって、本件においては、被告乙川が原告を発見してからブレーキを作動させるまでの反応時間内に原告運転の自転車と衝突したことになる。すなわち、被告乙川の自転車の制動装置に故障がなかったとしても、ブレーキが作動する前に衝突が起きていたことになり、ブレーキの故障と本件事故の発生との間には因果関係がなかったことになる。

また、仮に、被告乙川が見通しの可能な地点file_2.jpg点において、原告を発見できたとしても、file_3.jpg点から衝突地点である③点までの距離は約5.1メートルであり、反応時間は、原告の位置が被告乙川の真正面ではなく、ブロック塀により死角となっていた左前方であることを考慮し、平均的な反応時間の中の0.8秒を選択するとすれば、空走距離が3.55メートルとなり、ブレーキが作動し始める地点から衝突地点までの距離は1.55メートルしかない。すなわち、時速一六キロメートルで走行していた自転車の制動距離を考えると、ブレーキに故障がなかったとしても、やはり、本件衝突事故を回避することはできなかったというべきである。

これに対し、原告は、斜度五度の下り勾配の幅員の狭い脇道から、一旦停止しないままT字型交差点の幅員の広い直進道路に進入したものであり、しかも、原告運転の自転車は、前輪のブレーキパッドが欠落しており、急制動に際し、後輪ブレーキより制動能力が高い前輪ブレーキの制動能力が全くなかった。原告がどの地点で被告乙川を発見したかについては確定できないものの、実況見分の結果によれば、原告の見通し可能地点file_4.jpg点から、衝突地点であるfile_5.jpg点までの距離は約3.8メートルである。そうすると、原告は、被告乙川が見通し可能地点から衝突地点まで約5.1メートル進行した間に、約3.8メートル進行したことになる。その結果、原告は、見通し可能地点から衝突地点まで、平均時速約一二キロメートル(計算式 3.8÷5.1×16≒11.92)で進行したことになり、原告が衝突地点までブレーキを全く作動させなかったのか、十分な制動力を加えなかったことが推測される。

以上のように、本件事故は、原告が制動装置に欠陥のある自転車を運転して、幅員の狭いT字型交差点の脇道から、一時停止しないままT字型交差点に進入した過失により発生した事故であり、本件事故の責任は主として原告にあるというべきである。

イ 請求原因(2)イの事実は争う。

通勤は業務に従事するための準備行為ではあるが、本来の業務に従事している場合と異なり、使用者が従業員に対して直接的な支配を及ぼすことはできない。したがって、通勤途上の交通事故については、マイカーが会社の外勤業務などに日常的に使用されるなど、会社がマイカー通勤を命令し、助長しているような特段の事情でもない限り、使用者責任は認められないと解すべきである。

本件事故は自動車事故ではなく、自転車による通勤途上の事故である。しかも、自転車の運転が自動車の運転ほど危険性を伴うものではないことを考えると、本件事故について被告会社の使用者責任を問題とする余地はない。

(3)  請求原因(3)及び(4)の事実は不知ないし争う。

第3  証拠関係は、本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

/> 1 請求原因(1)について

(1)  請求原因(1)アないしエの事実は当事者間に争いがない。

(2)  本件事故の態様及び結果について(請求原因(1)オ)

前記当事者間に争いがない事実及び証拠(甲1ないし3、甲8の1及び2、甲11の1及び2、甲12ないし20、被告乙川本人)によれば、被告乙川は、自己の所有する自転車(加害車)の前後輪の制動装置が故障し、制動能力が著しく低下していることを十分認識していながら、平成一二年五月八日午後四時五〇分ころ、加害車に乗って、島根県安来市新十神町<番地略>先の交通整理の行われていない、左方道路の見通しが困難な変形十字路交差点を国道九号線方面から安来港方面に向かい時速約一六キロメートルで進行中、折から左方道路から同交差点に進行してきた原告が乗っていた自転車(被害車)を左前方約3.3メートルの至近距離に発見したが、制動措置を講じることができず、加害車前部を被害車右側部に衝突させて、原告もろとも路上に転倒させ、原告に頭部外傷(左急性硬膜外血腫、びまん性脳損傷)、遷延性意識障害の傷害を負わせたことを認めることができる。

2 被告らの責任(請求原因(2))について

(1)  被告乙川の責任(請求原因(2)ア)

ア  前記認定の事実及び証拠(甲1ないし3、甲8の1及び2、甲11の1及び2、甲12ないし20、証人甲野一郎、被告乙川本人)によれば、以下の事実を認めることができる。

(ア)  被告乙川は、平成三年四月に被告会社に入社以来、自転車通勤をしている。被告乙川は、平成八年一一月、マウンテンバイク(以下「本件自転車」という。)を購入し、通勤に使用していたが、平成一一年末ころか平成一二年初めころ、ブレーキが効かなくなり、自転車店に修理に出した。被告乙川は、その際、同店の人から、「ブレーキワイヤーを取り寄せるのに一週間近くかかる。」と言われたことから、とりあえず、応急措置としてブレーキワイヤーを締めてもらった。被告乙川は、同店の人から、「今度ブレーキの効きが悪くなったら、ワイヤーを交換しないといけない。」と言われた。平成一二年四月中旬ころ、本件自転車の前後輪のブレーキが再び効かなくなり、前後輪のブレーキレバーを握ると、ハンドルにブレーキレバーがくっつき、急制動ができないという状態になった。被告乙川は、「通勤コースには信号交差点などがなく、急停止する必要がないから大丈夫だろう。」などと安易に考え、その後も本件自転車を通勤に使用していた。被告乙川は、本件自転車のブレーキではタイヤがロックしないので、ブレーキによる制動(もっとも、実際には殆ど制動力がなかった。)と足を使って停止していた。

(イ)  被告乙川は、平成一二年五月八日、仕事を終えて、帰宅のために本件自転車に乗って、島根県安来市新十神町<番地略>先の交通整理の行われていない、左方道路の見通しが困難な変形十字路交差点(以下「本件交差点」という。)を国道九号線方面から安来港方面に向かい時速約一六キロメートルで進行していた。被告乙川は、司法警察員作成の平成一二年五月一三日付け実況見分調書(甲12)添付の交通事故現場見取図(以下「本件見取図」という。)の①の地点まで来たとき、進路前方の本件交差点付近で子どもたちが遊んでいる姿が見えたので、ペダルを漕ぐのをやめた。被告乙川は、ペダルを漕ぐのをやめただけで、足を使って減速することもしなかったので、本件自転車は惰力で進行した。被告乙川は、本件見取図の②の地点まで来たとき、左方道路から進行してくる原告運転の自転車を同図面のfile_6.jpgの地点に認めた。被告乙川は、すぐに、「ぶつかる。」と感じ、咄嗟にブレーキレバーを握ったが、急制動をかけることができず、同年五月八日午後四時五〇分ころ、同図面file_7.jpgの地点で、本件自転車の前部が原告運転の自転車の右側部と衝突した。原告は、その衝突により、同図面file_8.jpgの地点で転倒し、また、原告の自転車も同図面file_9.jpgの地点で転倒した。原告は、本件事故により、頭部外傷(左急性硬膜外血腫、びまん性脳損傷)、遷延性意識障害の傷害を負った。

(ウ)  一方、原告運転の自転車は、後輪ブレーキは正常に作動していたが、前輪のブレーキパッドが脱落しており、前輪の制動能力がなかった。原告は、本件事故発生時、上記自転車に乗り、本件交差点を黒井田町方面から中海方面もしくは国道九号線方面に向けて進行していた。原告は、本件交差点に出る脇道の中央付近から右側に進路を変え、本件交差点の中心付近に向かって進行し、本件見取図のfile_10.jpg地点で被告乙川運転の本件自転車と衝突した。なお、原告が本件交差点に出るために進行していた脇道は本件交差点に向かって五度の下り勾配になっていた。

イ  前記認定の事実によれば、被告乙川は、本件自転車の前後輪の制動装置が故障し、制動能力が著しく低下していることを十分認識していたのであるから、公衆に危害を及ぼす危険のある道路で本件自転車を運転することは厳に差し控えるべき注意義務があったのに、これを怠り、「通勤コースには信号交差点などがなく、急停止する必要がないから大丈夫だろう。」などと安易に考え、本件自転車を引き続き通勤に使用し、本件自転車を運転して左方道路の見通しの困難な本件交差点を直進しようとして本件事故を引き起こし、原告に頭部外傷(左急性硬膜外血腫、びまん性脳損傷)、遷延性意識障害の傷害を負わせたことが認められるのであり、本件事故の発生につき、被告乙川に上記注意義務違反の過失があることは明らかである。

ウ  被告らは、本件事故発生時、被告乙川が左前方約7.3メートルの地点で原告を発見することが可能であったが、被告乙川は時速約一六キロメートルで走行していたこと、本件交差点の状況等からみて左前方に全神経を集中させながら自転車を運転することが求められているわけではないこと、時速約一六キロメートルという速度は自転車の常用速度の範囲内であり、危険な速度ではないことなどからして、左前方約3.3メートルの地点で原告を発見したことをもって被告乙川に前方不注視の過失があったとはいえない、原告を発見した地点から衝突地点までの距離は2.1メートルしかなく、時速一六キロメートルで走行していた本件自転車の制動距離を考えると、ブレーキに故障がなかったとしても本件衝突事故を回避することはできなかった、仮に、被告乙川が見通しの可能な地点(本件見取図file_11.jpgの地点)において、原告を発見できたとしても、衝突地点までの距離は約5.1メートルであり、平均的な反応時間の中の0.8秒を選択するとすれば、空走距離が3.55メートルとなり、ブレーキが作動し始める地点から衝突地点までの距離は1.55メートルしかないことになり、ブレーキに故障がなかったとしても、やはり、本件衝突事故を回避することはできなかった等と主張する。

しかしながら、被告乙川には、制動装置に著しい欠陥のある本件自転車を道路上で運転することを厳に差し控えるべき注意義務があったと認めるべきであることは前述のとおりである。また、被告らは、本件自転車にブレーキの故障がなかったとしても本件事故の発生を回避することはできなかったと主張するが、本件交差点は左方道路の見通しの悪い変形交差点であるから、本件交差点を国道九号線方面から安来港方面に向かって自転車を運転する者は、左方道路から本件交差点に出てくる自転車、歩行者等の存在を予測し、本件交差点の手前で十分減速すべき注意義務があり、ブレーキに故障がなければ、本件交差点の手前で十分減速することによって本件事故の発生を回避することが可能である。したがって、本件自転車のブレーキの故障がなかったとしても本件事故の発生を回避できなかったとは到底言うことはできない。

よって、被告らの上記主張は採用できない。

エ  以上によれば、被告乙川には、本件事故の発生につき、注意義務違反の過失があるから、民法七〇九条により、これによって原告が被った後記4認定の損害を賠償する義務がある。

(2)  被告会社の責任(請求原因(2)イ)

ア  前記認定の事実及び証拠(証人丁田三郎、被告乙川本人)によれば、被告会社においては、自転車通勤について特に制約をしていないこと、被告会社では、自転車通勤者のために必要な駐輪場を確保していること、被告会社では、平成一三年四月まで、自転車通勤であっても、自宅から被告会社までの距離が四キロメートルを超える場合はバス代相当分の手当を支給していたが、被告乙川の場合、四キロメートル以内なので、同人に対しては上記手当を支給していなかったこと、被告乙川の自宅から被告会社までは徒歩で二〇分ないし三〇分程度の距離であり、徒歩で通勤できない距離ではないが、個人的な便宜から自転車通勤していたことの各事実を認めることができる。

ところで、通勤は、被用者が本来の業務に従事している場合と異なり、使用者が被用者に対して直接的な支配を及ぼすことが困難な場合であるから、被用者が通勤手段として自転車を利用し、通勤途中に交通事故を起こした場合の使用者責任については、当該自転車が日常的に被用者の業務に利用され、かつ、使用者もこれを容認、助長していたような特段の事情のない限り、これを認めるのは相当ではない。すなわち、単に、被用者が自己の個人的な便宜のために当該自転車を通勤の手段として利用していたような場合には、使用者は民法七一五条一項の使用者責任を負わないものと解するのが相当である。

本件では、前記認定のとおり、被告乙川は本件自転車を日常的に業務に使用していたわけではなく、また、被告会社も、被告乙川が本件自転車を日常的に業務に使用することを認容、助長していたわけでもない。被告乙川は単に自己の個人的な便宜のために本件自転車を通勤の手段として使用していたに過ぎない。したがって、本件事故につき、被告会社は使用者責任を負わないものというべきである。

イ  原告は、報償責任及び危険責任等の観点から、本件交通事故の発生につき、被告会社に使用者責任が認められるべきであると主張するが、採用できない。

3 治療経過(請求原因(3))について

前記認定の事実、証拠(甲2ないし4、甲7、甲8の1及び2、証人甲野一郎)及び弁論の全趣旨によれば、原告は、本件事故により、鳥取大学医学部附属病院に平成一二年五月八日から同年八月六日まで(九一日)、皆生温泉病院に同年八月七日から平成一三年三月三日まで(二〇九日)、合計三〇〇日間入院して治療を受けたこと、原告は、現在でも皆生温泉病院にて入院治療中であること、原告は、平成一二年五月八日、開頭硬膜外血腫除去術を受けたこと、原告は、本件事故により、頭部外傷、頭蓋骨骨折、びまん性軸索損傷、硬膜外血腫等の傷害を受け、歩行障害、理解力、記憶力の低下等を含む高次脳障害、四肢不全麻痺が残ったこと、原告は、平成一三年三月三日、「体幹機能障害・頭部外傷」として症状固定し、同月二八日、身体障害者福祉法により、第五級に認定されたことが認められる。

4 損害(請求原因(4))について

合計 三七〇七万六〇四五円

(1)  治療費(請求原因(4)ア)

八〇万九八七四円

証拠(甲5の1ないし5、甲6の1ないし8)によれば、本件事故発生日(平成一二年五月八日)から症状固定日(平成一三年三月三日)まで、治療費として、少なくとも合計八〇万九八七四円の損害が生じたことが認められる。

(2)  入院雑費(請求原因(4)イ)

三九万円

入院雑費については一日分一三〇〇円とするのが相当である。したがって、以下のとおり、原告の入院雑費は、三九万円となる。

(計算式)

1300円(1日分)×300日=39万円

(3)  休業損害(請求原因(4)ウ)

二五二万三〇〇〇円

証拠(甲1、証人甲野一郎)によれば、原告は、本件事故当時五九歳であり、家事、農業、夫、病気がちな長女、孫の世話等をして暮らしていたことが認められる。原告は、五九歳女子の平均賃金(三五三万一〇〇〇円)を得ていたであろうと考えられる。よって、原告の休業損害は、以下のとおり、少なくとも二五二万三〇〇〇円となる。

(計算式)

(353万1000円÷365日)×300日=290万2191円(一円未満切り捨て。以下同じ。)

(4)  傷害慰藉料(請求原因(4)エ)

三三〇万円

前記認定のとおり、原告は、本件事故により、頭部外傷(左急性硬膜外血腫、びまん性脳損傷)、遷延性意識障害の傷害を受け、三〇〇日間入院したのであり、傷害慰藉料としては、三三〇万円が相当と考える。

(5)  逸失利益(請求原因(4)オ)

一九〇五万一七八三円

(ア)  原告は、本件事故時五九歳であり、就労可能年数は一一年である。

(イ)  前記認定の事実及び弁論の全趣旨によれば、原告は、将来において、女子の労働者の年齢別平均賃金を得たであろうと推認することができる。

(ウ)  後遺障害五級の労働能力の喪失率は七九パーセントである。

①  満六〇歳から満六四歳までの逸失利益は、以下のとおり、一〇〇四万〇〇七三円となる。

平成一二年度賃金センサス

……………………二九三万五五〇〇円

五年ライプニッツ係数

……………………………4.3294

(計算式)

293万5500円×4.3294×0.79

=1004万0073円

②  満六五歳から満七〇歳までの逸失利益は、以下のとおり、九〇一万一七一〇円となる。

平成一二年度賃金センサス

……………………二八六万八三〇〇円

一一年ライプニッツ係数

……………………………8.3064

五年ライプニッツ係数

……………………………4.3294

(計算式)

286万8300円×(8.3064−4.3294)×0.79=901万1710円

③  合計額 一九〇五万一七八三円

(6)  後遺障害慰藉料(請求原因(4)カ) 一三五〇万円

前記認定のとおり、原告は、本件事故により、歩行障害、理解力、記憶力の低下等を含む高次脳障害、四肢不全麻痺の後遺症が残ったのであり、後遺障害慰藉料としては、一三五〇万円が相当である。

(7)  将来の介護費用(請求原因(4)キ) 一六〇三万四〇八五円

(ア)  原告は、平成一三年三月三日の症状固定時に五九歳であり、平均余命は27.77年である。二七年のライプニッツ係数は14.643である。

(イ)  原告は、本件事故により、四肢不全麻痺、体幹機能障害の後遺症が残っており、生存中、家族の介護を受けなければならないものと考えられる。原告の後遺障害の程度を考慮すれば、将来の介護費用は、一日当たり三〇〇〇円とするのが相当である。よって、原告の将来の介護費用は、以下のとおり、一六〇三万四〇八五円となる。

(計算式)

3000円×365日×14.643=1603万4085円

(8)  家屋改善費(請求原因(4)ク)

五一万八〇〇〇円

証拠(甲9、証人甲野一郎)によれば、原告は、平成一四年四月中には皆生温泉病院を退院し、自宅に戻って生活する予定にしており、自宅を原告が生活しやすいように改造するために、工事費として少なくとも五一万八〇〇〇円が必要であることが認められる。

(9)  以上損害合計

五六一二万六七四二円

(10)  過失相殺後の金額

三三六七万六〇四五円

前記認定のとおり、本件事故の発生については、本件自転車の前後輪の制動装置が故障し、制動能力が著しく低下している自転車を運転していた被告乙川に大きな過失があったことは間違いないが、他方、原告の方も、前輪のブレーキパッドが脱落し、前輪の制動能力がない自転車を運転し、しかも、本件交差点に出る脇道の中央付近から右側に進路を変え、本件交差点の中心付近に向かって進行していたのであり、原告にもそれ相当の過失があったというべきである。その他、諸般の事情を勘案すれば、過失相殺割合は四割とするのが相当である。

(計算式)

5612万6742円×0.6=3367万6045円

(11)  弁護士費用(請求原因(4)サ)

三四〇万円

被告乙川が負担すべき弁護士費用は三四〇万円とするのが相当である。

5 結論

よって、原告の本訴請求のうち、被告乙川に対して金三七〇七万六〇四五円及びこれに対する本件不法行為の日である平成一二年五月八日から支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める部分には理由があるからこれを認容し、その余の部分は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六一条、六四条本文を、仮執行の宣言につき同法二五九条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

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