柏原簡易裁判所 昭和37年(ろ)8号 判決 1962年11月16日
被告人 細見八郎
大九・四・二五生 森林組合員
主文
被告人は無罪。
理由
本件公訴事実は、「被告人は、法定の除外事由がないのに、昭和三七年六月五日午後二時三〇分ごろ、第二種原動機付自転車を運転して兵庫県水上郡氷上町石生一、六五四の四番地先踏切を通過するにさいし、踏切の直前で停止しないで進行したものである。」というのである。そして、被告人が右同日同時刻ごろ第二種原動機付自転車を運転して右踏切を西から東に向つて通過したこと、そのさい道路交通法第三三条第一項ただし書に定める事由の存しなかつたこと、および、被告人が当時右踏切附近で交通の取締に従事していた柏原警察署警察官浅野頼治に踏切直前不停止の疑いでただちに停止を命じられ検挙されたことは、いずれも当裁判所が調べた各証拠によつてあきらかなところである。
道路交通法第三三条第一項は「車輛等は、踏切を通過しようとするときは、踏切の直前で停止し、かつ、安全であることを確認した後でなければ進行してはならない。ただし……」と規定し、第一一九条第一項第二号において「第三三条の規定の違反となるような行為をした者」は所定の刑罰に処すると定めている。右罰則の表現中にある「ような」という言葉は類似、例示を示す意味にも用いられるが、もしこのばあいにおいてもそのような意味で用いられていると解すれば、犯罪の構成要件があいまいになり罪刑法定主義に反する結果になるので、かく解することは許されない。すなわち、この「ような」はたとえば「以上のように」などのばあいと同じく事物の等価関係を表わすものであり、ただ法第三三条の主語が「車輛等」であり、罰則に定められた行為の主体が「者(人)」であるところから、車輛等の違反動作と人とを結びつけるためだけに用いられているものである。人のある行為が右罰則の設置によつて定められた命令規範に違反しているか否かはもつぱら法第三三条の解釈だけによつて決定しなければならず、それが右解釈によつて定まる義務に厳密には違反していないがそれとよく似たものだとして右罰則を適用することはできない。
そこで、法第三三条第一項本文の法意について考えてみたい。右本文中の「進行する」という言葉が停止の状態から踏切方向に向つて進行を開始することを意味することは文理上あきらかである。また、右本文は文章の形態からみるとき、「踏切の直前で停止した後でなければ進行してはならない」というのと「安全であることを確認した後でなければ進行してはならない」という二個の文章の共通部分を一つにまとめ「かつ」で結んだものである。したがつて、右本文に違反するのは「踏切の直前で停止せずにそのまま進み続けること」と「停止はしたが、停止ののちの進行を開始する時点までに安全を確認しなかつたこと」の二つである。本件では不停止だけが問題にされているので、さらに前者の違反のうち停止の意義について検討する。
停止したと言い得るためには、すくなくとも、車輛等の地面にたいする速度がいつたんゼロになつたこと、および、ゼロになつたのが時間の経過の中で点であるだけでなく瞬間たりとも持続したことの二つが必要である。点だけならいかにわずかな時間をとつてもその間車輛等の地面に対する位置はたえず動き続けているからである。もつとも、車輛等の構成物質はいずれもいくらかの弾性を持つものであり、かつ同一方向に向つて進行中いつたん対地速度をゼロにし再びこれをプラスにするためにはエンジンの回転力をより大にする、クラツチを接続させる、ブレーキをゆるめるのうちいずれかの人間の所作が必要である(摩擦のため停止しているところへこれにうちかつ外力が作用したようなばあいは例外)から、実際問題としては、踏切に向つて進行中時間の経過のなかで対地速度がゼロになる点があつた以上、それに引続きたとえ十の何乗分の一秒であるとしても対地速度がゼロの状態がある時間持続したものとみてさしつかえがない。純機械的には停止の意味は右で充分であるが、法第三三条にいう停止の意味をこれと異別に取扱うことができるであろうか。合目的的な考慮から右の要件にさらになんらかの要件をつけ加えることができるかの問題である。旧道路交通取締法第一五条は「安全かどうかを確認するため、一時停車しなければならない」と規定していた。このばあいには、安全を確認するための停車であることが停車自体の属性として要求されているから、一見して止つたか止らないかわからないような停車では右にいう停車とは言えないと解する余地がある。しかし、法第三三条は、「踏切の直前で停止し、かつ、その上で安全であることを確認し……」などと表現されているのであればともかく、停止自体の属性についてなんら触れるところがない。すなわち、前述したように二個の文章を併列しこれを「かつ」で結んだものに過ぎず、しかも、一般に安全であることの確認は、理論上も実際上も、踏切の直前で停止することの有無とは無関係に充分にすることができるものであるからである。もちろん、道路交通法は安全の確認をより確実に励行させこれによつて踏切事故の根絶を期するためにこそその直前における停止を独立の義務として規定したものである。だが、停止義務を課した目的が右のとおりであるからといつてそのことからただちに停止自体の属性としてまで安全確認のためということが要求されることにはならない。どのような停止であれ、とにかく踏切の直前で停止することを命じそれを励行させるなら、そのこと自体によつて踏切通過時における車輛等の運転者の精神の緊張がより高度のものとなり、停止動作とは別の安全確認の動作もより確実になされ得るにいたることは自然のなりゆきである。ことに、運転者の大部分はみずからの交通安全に忠実であり善意であろうから、とにかくの停止さえ命じておけば、これを守る上において停止のうえでさらに安全を確認する行動に出る者が多いことであろう。すなわち、安全確認のためということを停止自体の属性としてまで要求しなくても、ただ停止を命じこれを励行させることによつて、これを命じた前記の目的はかなり大きく実現することができるのであつて、ただの停止さえをも命じないばあいに比較し、道路交通法制定の目的である道路における危険の防止、その他交通の安全と円滑の実現に寄与することが大である。だから、どんな停止でもよい、ただ形式的に停止さえすればよい、というなら無意味であり、そのような無意味のことを法が罰則をもつて強制しているとは考えられないという批難(検察官はだいたいこういう趣旨のことを主張している)はあたらないのである。
以上で検討したところから考えるに、法第三三条第一項本文にいう「停止」は結局前記のような純機械的な意味での停止を意味するものというべきである。したがつて、不停止の違反があつたというためには、車輛にこのような意味での停止さえなかつたことが立証されなければならず、一見して停止したか停止しなかつたかがわからない限界線上のばあいには相当問題になるわけである。
以上のことを前提にして本件の証拠を検討する。踏切の直前で被告人の車輛が停止しなかつたという証拠は証人浅野頼治の証言(第一、二回)、証人池上正司の証言および証人堀池浩の証言であり、同じく停止したという証拠は証人谷川輝治の証言と被告人の公判廷における供述である(ただし、以上のうち浅野証人の第一回証言ならびに池上証人および谷川証人の各証言はいずれも証人尋問調書による)。被告人の車輛がかりに踏切の直前で停止したものであるとしても、それがきわめて短時間のものであつたことは、被告人の供述自体および当裁判所の検証調書によつてあきらかなところである。ところで、右各証拠のうち、被告人が停止したという谷川証人の証言は、同証人の目撃位置が直後方約二十数メートルの地点であることおよび右述のとおり被告人の車輛の停止が瞬間以上を出ないことから考えると、ほとんど証拠価値を持たない。また、池上証人および堀池証人の各証言は、その目撃位置が被告人の踏切通過附近と後記浅野証人の目撃位置とを結んだ線上ぐらいでしかも右浅野証人の後方四、五メートルぐらいの地点であつたこと、当時自動車のパンク修理にあたつていたこと、当時被告人とほぼ同時に踏切を通過した他の車輛もあり、とくに被告人の車輛を最大の注意をもつて見守つていたとは考え難いこと、同証人らは、浅野証人が笛を吹いて被告人を止めたことをはつきりと体験しておりしかもそれに引続き附近で被告人と右浅野証人が応酬しているのを興味をもつて聞いていたので、踏切通過時の被告人の車輛の動きに関する記憶ことに被告人の車輛が停止しなかつたという確信はこれらの事後の体験を経るうちにしらずしらずのあいだに作り上げられたのではないかとの疑が存すること、これらのことから考えると、やはり信頼をおける度合はうすく、後記のごとき浅野証人の証言とは独立した大きな証拠価値を持つているものとはいえない。すなわち、止らなかつたという証言が多いから止らなかつたのだと認めることはできないのである。そこで問題になるのは浅野証人の証言である。同証人は柏原警察署勤務の巡査部長であり警察官としての経歴も長い。当時四五歳ぐらいの壮年で目も悪くない。従来からしばしば本件の踏切で交通の取締に従事したことがある。当日も午後二時ごろから本件の踏切で踏切通過違反を主たる対象にして交通の取締に従事していた。同証人が立つていた位置は被告人が通過した附近の東側軌条から約四・七メートル東に行きかつそこから直角に南へ約九メートル行つた地点で、西から踏切に向う被告人の車を前方斜横からみることになり、この間のみとおしは、踏切遮断機の鉄柱が一本とそれに立てかけた鉄ばしご一本があるのを除き、良好である。この証人が右位置で取締のため踏切方面を眺めていたところ、午後二時三〇分ごろ、まず他の二台の原動機付自転車が並んで踏切にさしかかりいつたん停止したが、これにややおくれて被告人がさしかかり右二台の車輛の左側(北側)を通り右二台の車輛とほぼ同時に踏切を通過した。このとき浅野証人は、被告人の車輛が停止しなかつたものと認めただちに笛を吹いて被告人を止めた。同証人が被告人の踏切通過を目撃した情況は右のとおりであつて、そのとき被告人の車輛が停止しなかつた旨の同証人の証言には、一般に相当大きな証拠価値をおくことができる。しかし、停止がきわめて短時間のばあいには止らないと見えても実は止つていることがあるので、被告人の車輛がこのような微妙な行動をとつていたばあいには、右不停止の判断がたとえばタイヤの回転状況を注視し続けてなされた等、なんらかの確実な根拠にもとづいてなされたものと認められないかぎり、その例外に属するものである。本件はつぎの理由によりその例外のばあいに該当するとみなければならない。
当裁判所が本件の踏切現場を検証したさい、被告人は、事件当時の運転を再演してほしい旨の検察官がわおよび裁判所の要請に応じ、二度踏切通過の実演をした。裁判所関係者、検察官および浅野証人はこれを事件当時同証人が目撃した附近に立ち注意して見ていた。第二回目のときは被告人の車輛が踏切の直前で停止したことを確実に感知することができたが、第一回目のときは停止したものと断定することができなかつた。それにもかかわらず、被告人は第一回目のときも停止したことにまちがいないと供述している。被告人はこの実演にあたりエンジンをふかしたまま左ハンドルを握つてクラツチを切り、同時にブレーキをかけ、かけ終るや左手を開放してクラツチを接続させたのであるから、この間停止をしていたとしてもそれは瞬時のはずである。被告人は当裁判の最初から停止したことを主張しているのであるから、おそらく右第一回目の実演にあたつても確実に停止するように努めいたものと考えられる。しかも、その応訴態度のまじめさからみて、右実演のさいに実は停止していないのにもかかわらず停止したと嘘をついているものともとりがたい。そうすると、右実演時被告人の車輛はとにかく停止した、すなわち車輛の対地速度がゼロになつた時点があつたにもかかわらず、それが瞬時であつたがために前記の位置で見ていたわれわれの目で確認することができなかつたのではなかろうか。停止・不停止の微妙な限界上にあるうえ当時の車輛の対地速度を科学的に測定していたわけではないのでそうではないと断言することはできない。この疑は疑のまま残るのである。つぎに、右実演時の被告人の車輛の動きと本件時の被告人の車輛の動きとの異同を検討しなければならない。浅野証人は、「本件時の車輛の動きは二回の実演のうち第一回目のものに近い。だが、この両者とも停止をしていない。第一回目の実演時のような状況であつても不停止として検挙する」と証言している。また、同証人は、右両者のばあいにおける相違点を問われたのにたいし、車輛の新旧差(事実、実演時に使用した車輛は比較的新しいものであり、本件時の車輛はもつと古いものであつた)や車輛の通過位置の相違および事件時には車輛のハンドルがやや左にぐらつく動きがあつたが実演時にはそのような動きがなかつたことなどについて答えたが、かんじんの車輛の速度の変化状況の相違については何も答えない。すなわち、事件時の被告人の車輛の動きが第一回目の実演時のに比較してより不停止の方に近かつたものと認め得べき証拠はないのである。そうすると、事件時に同証人が他の何らかの確実な根拠にもとづいて停止しなかつたものと判断したのでないかぎり、当時の停止・不停止の有無についても第一回目の実演時のそれについて述べたのと同じ疑問が生じてくる。はたして同証人はなんらかの確実な根拠にもとづいて被告人の車輛が事件時に停止しなかつたと判断したのであろうか。この点に関し、同証人は、第二回の証言において、当時他の車輛が二台停車しているのでそれと対照しても被告人の車輛の停止していないことがわかる旨述べ、また被告人の車輛の車輪の回転が止らなかつた旨述べている。しかし、同証人の第一回および第二回の各証言内容ならびに被告人の公判廷における供述を比較検討するとき、右の他の二台の車輛が停つているところへやつてきた被告人がこれらの車輛よりさきに踏切を通過したのかどうかは確実でなく、その他同証人の右の供述があるまでの第一回および第二回の各証言の経過から考えると、右の供述は、あとからの理屈の説明か、あるいは停らなかつたことの同義反復の域を出ないものと考え得る余地が多分にあり、同証人が停止している他の車輛との対照または車輪の回転状況を注視しこれらによつて得たところを根拠にして被告人の停止・不停止を確実に判断したものとはいまだ認めがたい。この点は、同証人の目撃位置および当時被告人の車輛の手前に他の二台の車輛があつたことを考えるとなおさらのことである。そして、他に同証人が被告人の停止・不停止を判断するにあたりなんらかの確実な根拠に基礎をおいていたことを認めるべき証拠はない。
結局、被告人が事件時に踏切を通過したさい、その車輛の速度の変化状況は停止したかしなかつたかの微妙な限界線上にあつたと考えられるところ、浅野証人の証言によつてもそのいずれであつたかを確実に判断することができず、他にこの点をあきらかにし得るだけの証拠もないので、当時被告人の車輛は一見したところ停止しなかつたようにみえたもののその実対地速度がゼロになる時点があつたのではないかとの疑問が合理的な範囲で残ることを否定できない。
もつとも、池上証人、堀池証人および浅野証人の各証言(浅野証人のは第一、二回、このうち後者を除きいずれも証人尋問調書による)ならびに被告人の司法警察職員にたいする供述調書によれば、被告人は踏切通過直後浅野証人から不停止違反の疑で調べられたさい、はじめのうちは安全確認をしたと言つただけですぐに停止したことを申立てなかつたことがあきらかであり、これに反する被告人の当公判廷における供述は信用できないが、被告人が自己の停止時間の短かいことを自覚しこの点について運転者としての非を感じていたとすれば(被告人の当公判廷における供述によれば事実そうであつたことがうかがわれる)まず安全の確認をしたことを強調したい心理にとらわれていたことも納得できるところであるから、このことだけから前記の合理的な疑を消し去ることはできない。
以上のとおり、被告人が公訴事実の日時にその踏切を通過したさい、踏切の直前で停止しなかつた事実については証明が不十分であり、本件被告事件について犯罪の証明がないことに帰着するから刑事訴訟法第三三六条にしたがつて無罪を言渡す。
(裁判官 岡本健)