横浜地方裁判所 平成元年(ワ)624号 判決 1991年1月21日
原告
赤城喜久代
右訴訟代理人弁護士
岡部玲子
同
宇野峰雪
同
野村和造
被告
末永直
右訴訟代理人弁護士
渡辺徳平
同
本間豊
右訴訟復代理人弁護士
海野宏行
主文
一 被告は、原告に対し、金四三一六万六七七四円及びこれに対する昭和六〇年五月一二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを五分し、その三を原告の負担とし、その余は被告の負担とする。
四 この判決第一項は、仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告に対し、金一億〇六四二万四一〇一円及びこれに対する昭和六〇年五月一二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 本件事故の発生に至る経緯
(一) 原告と被告は、山岳同人東京青稜会のメンバーであったところ、昭和六〇年五月一二日埼玉県入間郡日高町所在の日和田山ロッククライミング練習場において、パーティーを組んで岩登りの練習をすることになった。原告は、岩登りは初めてであったので、原告と被告は、高さ約七メートルの露岩(以下「本件露岩」という。)である初心者用岩場で足慣らしをすることにした。
(二) 被告は、まず本件露岩の頂上付近に登り、そこに打たれていた二本のボルトにシュリンゲ(補助ロープを輪にしたもの)を通して転落しないように身体を固定して自己確保をした後、原告のゼルプスト(全身用安全ベルト)に一端を結んだザイルを手で繰り上げ、原告に登ってくるように促した。原告が、ザイルに引かれながら約2.8メートルの高さの足場(以下「本件足場」という。)までたどり着き、やや手前側に傾斜して被り気味になっている前方の岩に両手で捕まってバランスを取っている時、被告は、原告に対し、「足場がしっかりしているか。」と声をかけた後、ザイルで確保しているから岩から手を放すように指示した。原告はしばらく躊躇したが、被告の指示に従い、岩から手を放し、ザイルに体重を移した。
(三) ところが、被告は十分にザイルを確保しておらず、手を滑らせて二メートル以上ザイルを繰り出してしまったため、原告は、本件足場から転落して地上数十センチメートルまで落下し、頭部を地面に強く打ち付けて、第七頚椎を骨折し、頚髄損傷の障害を負った。
2 被告の責任
(一) 本件足場は、地面から約2.8メートルの高さに存し、その上方には被り気味の突き出た岩があり、これが胸や腹に当たって障害となるため、足場に立つと両足だけでは直立できず、前方の岩に捕まるか、ザイルでしっかりと体を支えてもらうなどの補助をしなければ、バランスが取れない所であった。したがって、被告は、ザイルをしっかりと確保しておかなければ原告が足場から転落してしまうこと、及び、転落した場合は本件足場と地面との距離が短いことから一瞬のザイルの握り込みの遅れにより原告が地面に衝突することは、十分予見できたはずであるから、ザイルから手がすべらないように十分に注意してこれを支持しておくべきであったのに、これをしなかったため、ザイルに体重をかけた原告は転落し地面に衝突してしまったものである。
(二) 被告はザイルから手がすべらないように十分に注意するほか、原告に結び付けたザイルの他端を付近に固定したり、自分の体に巻き付けておくなど、万一手を滑らせてもザイルが簡単には繰り出さないように、原告の転落事故を防ぐための措置を取っておくべきであったにもかかわらず、これをしなかった。
(三) また、原告が転落を開始した後も、被告がザイルの繰り出しを防ぐため、直ちに腰がらみないし腰確保等の適切な制動措置をなしうる体勢を取っていれば、原告の落下も短距離で済み、重症を負うことはなかったものであって、被告の確保措置はこの点でも不十分であった。
3 損害
(一) 原告は、本件事故後直ちに埼玉医大病院に入院し、頚髄損傷を伴う頚椎骨折と診断され、昭和六〇年五月二〇日脊椎固定手術を受け、同年六月一八日関東労災病院に転院してリハビリテーションを受け、その後更に国立リハビリテーションセンターに入所して、昭和六二年三月三一日同所を退院して、自宅療養を続けた。原告は、本件事故により、現在四肢痙性麻痺、躯幹胸部から下位の完全知覚消失、股関節以下の自動性喪失、膀胱直腸障害の後遺症を残しており、直立歩行は不可能で、日常的に車椅子の生活を送らざるをえず、排尿排便が随意的には不可能である。右のような後遺障害は、いずれも労災保険法における一級相当と診断されており、原告の労働能力喪失率は一〇〇パーセントである。
(二) 逸失利益
(1) 原告は、昭和二三年一〇月七日生まれで、本件事故当時株式会社千趣会(以下「訴外会社」という。)に勤務していたが、三ケ月を経過しても傷病が治癒しないため同社の就業規則による休職制度の適用を受けることになり、昭和六二年五月一〇日(満三八才時)退職を余儀なくされた。休職期間中の賃金は、従業員互助会によって相当額の支給を受けたため填補されたが、昭和六〇年一二月以降の賞与及び退職後の給与の支給を受けることができず、金一封の支給を受けたのみである。
(2) ところで、訴外会社の就業規則によると、従業員の定年は満五五才であり、更に本人の希望により引き続き五年間勤務することができる(この期間は昇給せず、退職金の基礎となる勤続期間に算定されない。)とされている。また、同社の基本給体系は、年功序列制度をとっており、従業員の各年度四月時点での満年齢に対応している。したがって、原告が、訴外会社の賃金規定により退職時から満六〇才までに取得できた基本給は、別紙給与目録記載の基本給欄記載のとおりである。
(3) また、原告は、同賃金規定により、一般職六号の資格手当月額三万円、基準外給与として職務手当月額五〇〇〇円、住宅手当月額三〇〇〇円、都市手当月額三〇〇〇円、計四万一〇〇〇円の各手当を受けていたが、これも喪失した。
(4) 訴外会社の賞与は、年間二回支給され、基準内給与の5.8ケ月から6.2ケ月の支給実績があり、昭和六〇年一二月には平均3.08ケ月、昭和六一年六月には平均3.04ケ月の支給がされた。したがって、原告は、少なくとも年間5.8ケ月の賞与を受けることができたものであり、その額は、別紙給与目録記載の見込賞与欄記載のとおりである。
(5) 原告の定年退職金は、訴外会社の退職金規定によれば、勤続三〇年となり、基準内賃金の23.75ケ月であり、その金額は五八一万四〇〇〇円である。
(6) よって、原告の休職・退職による逸失利益は、右算定基本額に別紙給与目録記載のようにライプニッツ係数を適用すると、少なくとも金六三九三万九五〇三円は存する。
(7) 原告は、退職時に金二四六万〇四〇二円の退職金を受けたので、結局訴外会社から支給されるべき給与についての損害相当額は、金六一四七万九一〇一円である。
(8) また、原告は、本件事故にあわなければ、満六七才までは稼働可能であったとみられるところ、満六〇才から六七才までの七年間の労働能力喪失による逸失利益は、女子平均年間賃金を基礎として計算すると、その年間賃金額は、年間二五〇万円を下回らない。そして、七年間についてのライプニッツ係数は、1.9780であるから、右期間についての逸失利益は、金四九四万五〇〇〇円を下回らない。
(9) したがって、原告の逸失利益は、少なくとも金六六四二万四一〇一円となる。
(三) 慰謝料
原告は、前記のように障害等級一級の認定を受け、治癒の見込みはないものとされており、車椅子から離れられない不自由な身体で、今後の一生を過ごさなければならなくなったものであり、原告にとっては、自らの人生を奪い去られたに等しいものである。これを慰謝するために必要な金額は、少なくとも金四〇〇〇万円を下回るものではない。
4 結論
よって、原告は被告に対し、不法行為による損害賠償請求として、金一億〇六四二万四一〇一円及び不法行為の日である昭和六〇年五月一二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の(一)のうち、原告が岩登りが初めてであったことは否認し、露岩の高さが約七メートルであることは知らない。その余の事実は認める。
2 同(二)のうち、原告がザイルに引かれながら足場にたどり着いたこと及びザイルに体重を移したことは否認し、足場の高さが約2.8メートルであったこと、原告が前方の岩に両手で捕まってバランスを取っていたこと及び原告がしばらく躊躇したことは知らない。その余の事実は認める。
3 同(三)のうち、被告が十分にザイルを確保しておらず、手を滑らせて二メートル以上ザイルを繰り出してしまったこと及び頭部を地面に強く打ち付けたことは否認し、地上数十センチメートルまで落下したことは知らない。その余の事実は認める。
4 同2の(一)ないし(三)は、いずれも否認する。
5 同3の(一)のうち、原告が埼玉医大病院に入院し、頚髄損傷を伴う頚椎骨折と診断されたことは認め、その余の事実は知らない。
6 同(二)及び同(三)は、いずれも争う。
三 被告の主張
1 本件事故の原因
本件事故は、以下の事実に鑑み原告の自招事故というべきであり、被告には、本件事故についての責任はない。
(一) 被告は、原告とパーティーを組んで本件露岩で岩登りの練習をするに当たり、原告に三点支持等の岩登りの基本を説明し、ゼルプストにザイルを結び、三点支持の仕方、特にホールド(手掛かり)やスタンス(足掛かり)を教えながら、単独で露岩の頂上に達した。被告は、登りながら途中の足場を確認していったが、一般に岩登りにおける足場は、皮製登山靴のつま先がかかれば十分であるところ、本件足場は、奥行きは三〇センチメートル以上あり十分固定されており、初心者の練習にも適していると考えた。
(二) 被告は、露岩の頂上で腰がらみ式の確保体勢(腰かけた状態で、原告に結ばれたザイルを右手で持ち、ザイルを腰の後ろに半周回し、もう一方を左手で握り、左右の手をそれぞれ脚の付け根部分に当てて安定を図る方法)をとって、原告に登ってくるように促し、ザイルを緩みのないように張った状態に保っていた。
(三) 被告は、原告が途中の足場のしっかりした所まで登って来たところで、足場の確実性を確認するため、原告に「足元が大丈夫か。」と聞いたところ、原告が「大丈夫。」と答えた。そこで、原告に正確に岩の上に立つという感覚を体得させるため、「バランスをとって手を離して立ってごらん。」と指示した。
(四) 原告は少し間をおいたが、その次の瞬間突然落下したものである。
(五) 被告は、事前に原告の足場を確認しており原告もこれに対して大丈夫と答えていたのであるから、足を滑らせるとは予測できず、被告は、原告がザイルに緩やかに体重を預けることを予測していたにもかかわらず、一気に落下したものであって、落下の原因は、原告が足を滑らせたか、勘違いにより全体重を一気にザイルにかけたかのいずれかである。
2 過失相殺
仮に、被告に過失があったとしても、以下の事情に鑑み、被告に本件事故の全責任を負担させることは、損害の公平な分担を究極の目的とする損害賠償制度の趣旨からしても妥当でないので、過失相殺を主張する。
(一) そもそも登山は、生命身体の危険性が高い野外活動であり、成人になって登山を行う者は、その危険性を十分知ったうえで行動すべきである。また、一緒に登山を行う者は、お互いの行動いかんによっては、双方の生命身体に危険の発生するおそれがあるのであるから、お互いに信頼しあい、かつ、お互いに自らの生命身体の危険を防止するように努めるべき義務があるというべきである。さらに、登山の中でも、岩登りは特に危険であるから、岩登りの練習を自ら希望し被告を誘った原告自身も、岩登りに対する知識を十分に習得し、その危険防止のために十分注意を払うべきであり、そのための努力を尽くすべきであった。
(二) また、原告は、本件事故直前において、本件露岩から両手を離すことによる危険を察知して、被告に対して危険防止方法を問い直したり、自ら危険と判断して、被告の指示を拒否するなどの行動に出るべきであった。しかるに、原告は、被告の強引な指示があったわけでもなく、被告の指示に対しての問い直しや拒否ができたにもかかわらず、危険防止のための何らの措置を講ずることなく、安易に両手を離したため、本件事故が発生したものである。
四 被告の主張に対する認否及び反論
1 被告の主張1の(一)のうち、被告が、三点支持等の岩登りの基本を説明し、ゼルプストにザイルを結び、単独で露岩の頂上に達したことは認める。
本件足場は、奥行きが三〇センチメートル以上あったとしても、前方に被り気味になっている岩が存していたことから、足場の幅全体に足を乗せることはできず、靴のつま先部分をかけざるを得なかった。被告は、足場は靴のつま先部分がかかれば十分と言うが、これは、両足以外に少なくとも片手で体重をささえているいわゆる三点確保がなされていることを前提に言えることであって、両手を離す場合には妥当しない。
2 同(二)のうち、被告が腰がらみ式の確保体勢をとったことは知らない。その余の事実は認める。
3 同(三)のうち、足場の崩落の心配のないことの確認がなされたことは認め、その余の事実は否認する。
原告は、被告が「ロープで確保しているから、手を離してごらん。」と言ったので、手を離そうとしたが、本件足場は原告が履いていた靴のつま先の部分がようやくかかるくらいしかなく、前方の岩は被り気味になっており、その上に立てるような状態ではなかったため、被告に「とても手を離せない。」旨告げたところ、被告は「ロープで確保しているから大丈夫。手を離してごらん。」と告げたので、被告を信頼してロープに体重を移したのである。
被告が「手を離してごらん。」と言ったのは、原告を岩の上に立たせるという趣旨ではなく、初心者である原告にザイルの安心性を理解させるために、ザイルに体重を移させるという趣旨である。
4 同(四)の事実は、認める。
5 同(五)の事実は、否認する。
6 同(六)のうち、被告が直ちに制動措置をとったことは否認する。
第三 証拠<省略>
理由
一本件事故の発生に至る経緯
1 請求原因1の(一)のうち、原告と被告は、青稜会のメンバーであり、昭和六〇年五月一二日埼玉県入間郡日高町所在の日和田山ロッククライミング練習場において、パーティーを組んで岩登りの練習をすることになったこと、原告と被告は、本件露岩である初心者用岩場で足慣らしをすることにしたこと、同(二)のうち、被告が、まず本件露岩の頂上付近に登り、そこに打たれていた二本のボルトにシュリンゲを通して転落しないように身体を固定して自己確保をした後、原告のゼルプストに一端を結んだザイルを手で繰り上げ、原告に登ってくるように促したこと、原告が、本件足場までたどり着いた時、被告は、原告に対し、「足場がしっかりしているか。」と声をかけた後、ザイルで確保しているから岩から手を放すように指示したこと、原告は、被告の指示に従い、岩から手を放したこと、その直後、原告は、本件足場から転落して、第七頚椎を骨折し、頚髄損傷の障害を負ったことは、当事者間に争いがない。
2 右事実に、<証拠>を総合すれば、以下の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
(一) 被告は、大学時代山岳部に所属し、本件事故が起こるまで回数にして年間約二〇回、日数にして年間三〇日程度の登山をし、岩登りについても、俗に三大岩場と称される岩場を踏破するなど、山登りの経験が豊かであった。一方、原告は、昭和五九年一二月青稜会に入会してから本格的に登山を始めるようになり、登山活動に意欲的に参加していた。
(二) 原告は、昭和六〇年五月一日から五日にかけてパーティーを組んで、北アルプス穂高に登頂した際、通称白出のコルと呼ばれる岩場で、恐怖心のため足が出ないという経験をしたことから、岩登りの練習の必要性を感じていたところ、その帰りにパーティーを組んだ者のうちで、日和田山ロッククライミング練習場において、岩登りの練習をしようという話が持ち上がり、原告はこれに参加することにした。そして、原告は、被告から岩登りの技術を学ぶべく、被告と岩登りの練習について連絡を取り合った。
(三) こうして、原告と被告は、昭和六〇年五月一二日日和田山ロッククライミング練習場において、パーティーを組み岩登りの練習をすることになった。右練習場には、男岩と女岩と呼ばれる露岩があったが、いずれも原告のような初心者にとっては難易度が高くまた混雑していたことから、高さ約七メートルの本件露岩で足慣らしをすることにした。
(四) 右露岩では、中学生二名が岩登りの真似ごとをしていたが、被告は、その二名の身の危険を感じたので、その二名及び原告にザイルの結び方と三点確保の要領を教え、原告にヘルメットとゼルプストを貸し与え、ザイルを自己と原告のゼルプストに結び、単独で登攀を開始した。
(五) 被告は、登攀の途中で高さ2.8メートルの位置に奥行き約三〇センチメートルの本件足場のあることを確認し、頂上付近まで登り、腰を降ろして、そこに打たれていた二本のボルトにシュリンゲを通して自己の身体を確保した。
(六) 被告は、腰がらみの方法で確保体勢をとり、原告に登ってくるように促し、原告が登ってくるにつれザイルを手繰りよせ、手繰りよせたザイルを腰の後ろに回して、ザイルを弛みのない張った状態にしていた。
(七) ところで、本件露岩は、ホールド付近が被り気味になっており、本件足場の高さは約2.8メートルしかなく、ザイルの一瞬の握り込みの遅れで一秒経たないうちに落下、衝突してしまう高さにあった。しかし、被告は、そのような場所において、原告に登攀の途中で両手を離させ、ザイルで原告の身体を確保するための事前の打合せをせず、原告にどのような確保体勢をとり手を離せばよいのかについての説明はしなかった。
(八) 原告が、本件足場に立ったとき、被告は、原告に足場が大丈夫か尋ね、原告が大丈夫と答えたため、「手を離してごらん。」と言った。原告は、登山靴の先が三分の二位かかっている状態で、被り気味の岩をホールドとしてバランスを取っていたため、手を離すとザイルで確保していなければ落ちてしまうおそれがあり、また、登攀の途中で手を離す練習をするなどとは事前に説明もなかったので、意外に思い「冗談でしょう。」と言ったが、一瞬手を離し岩にしがみついた。ところが、被告は、「ロープで確保しているから、もう一回手を離してごらん。」と言ったので、原告は、被告がそこまで言うのなら大丈夫だと思って、手を離した。
(九) ところが、次の瞬間、原告は、仰向けに頭から転落し、被告がザイルを握り締め制動したが間に合わず、第七頚椎を骨折し頚髄損傷の障害を負った。
二被告の責任
1 前記一で認定の事実によれば、被告は原告に岩登りの技術を教示する立場にあり、原告は岩のぼりの初心者であったのであるから、被告は、原告に登攀の途中で両手を離させザイルと原告の足で身体の確保をする練習をするときは、まず、転落事故のないような場所を選択し、原告に事前にどのような確保体勢をとり手を離せばよいかを十分に説明し、手を離させる瞬間において、ザイルの確保をはかるタイミングがずれないように掛声をかけるなど転落事故が起こらないような措置を講ずるべきである。そして、転落事故が発生する場合に備えて、ザイルの確保を十分にしておく注意義務があるといわなければならない。
2 しかるに、前記一の認定事実によると、本件露岩はホールド付近が被り気味になっており、本件足場の高さは約2.8メートルしかなく、ザイルの一瞬の握り込みの遅れで一秒経たないうちに地面に落下、衝突してしまう高さであるのに、被告は、事前に原告に登攀の途中で両手を離させザイルで原告の身体を確保することについて何らの打合せもせず、したがって、原告にどのような確保体勢をとり手を離せばよいかを何ら説明しておらず、原告に手を離させる時、原告に対しロープで確保しているから手を離すよう指示しただけで、ザイルの確保をはかるタイミングがずれないような措置を何ら取っていないことが認められる。
3 以上認定の事実に照らすと、本件露岩で両手を離す練習をする場合には原告が転落しザイルに一気に加重がかかることまで予見すべきであり、被告には前記1認定の高度の注意義務があるにもかかわらず、漫然前記2認定のような練習をした点に過失があるものと認めざるを得ない。したがって、被告の右過失により原告に前記のような障害を負わせた点につき、被告は原告に対し、民法七〇九条に基づき、本件事故により生じた損害を賠償すべき義務がある。
4 なお、被告は、本件事故の原因は、原告がザイルに緩やかに体重をかけるとの被告の予測に反して、原告が足を滑らせたか勘違いにより全体重をザイルにかけたため一気に落下したことによるものであると主張するので、これを検討する。前記認定のように、原告は、登山靴の先が三分の二程度かかっている状態で、被り気味の岩をホールドとしてバランスを取っていた手を離したものであって、足を滑らせたものとは認めがたい。また、原告が勘違いによりザイルに一気に体重をかけたとの主張は、山登りの初心者である原告に対し、どのような確保体勢をとり手を離せばよいかを何ら説明しないままでは、被告の予測どおりの体重のかけ方をするものと期待することはできず、これにより被告が過失の責めを免れるものではない。
三損害
1 請求原因3の(一)のうち原告が本件事故後直ちに埼玉医大病院に入院し、頚髄損傷を伴う頚椎骨折と診断されたことは、当事者間に争いがなく、その余の事実は<証拠>により認めることができる。
2 逸失利益
(一) <証拠>によると、請求原因3の(二)(1)ないし(5)の各事実、及び、原告は、昭和六〇年一二月賞与として金五〇万八九〇〇円、同六一年六月賞与として金一四万八九〇〇円受領したこと、退職時(原告年齢三八才時)に金二四六万〇四〇二円の退職金の支給を受けたことが認められる。
したがって、昭和六〇年における原告の逸失利益合計額は一三万八八二四円(六四万七七二四円マイナス五〇万八九〇〇円)であり、同六一年における原告の逸失利益合計額は金一一〇万四四八〇円(一二五万三三八〇円マイナス一四万八九〇〇円)である。
また、退職金は、本来原告が満六〇才になった退職日に取得できるものであるから、原告が取得した満三八才時の金額を本来の退職時に支給される金額に換算すると、次のとおり六八五万四五八八円となる。
2,460,402÷0.3589 4236(21年間のライプニッツ係数)=6,854,588
したがって、原告年齢五九才時における合計所得額は、九九七万八〇〇〇円から六八五万四五八八円を差し引いた三一二万三四一二円となり、これに中間利息を控除すると、つぎのとおり一〇六万七七三七円となる。
3,123,412×0.3418 4987=1,067,737
以上から、原告の休職、退職に伴う逸失利益は、別紙計算書1(ライプニッツ係数は、少数点以下八桁まで計算した。)記載のとおり合計金六〇九三万八一八〇円となる。
(二) また、原告は、本件事故にあわなければ、満六七才までは稼働可能とみられるところ、本件事故時の賃金センサス(産業計・企業規模計・学歴計)によると、六〇才ないし六四才までの女子の年間給与額は、金二二九万三〇〇〇円であり、六五才からの年間給与額は、金二一三万五〇〇〇円であるから、その間の逸失利益は、別紙計算書2記載のとおり、合計金四四五万七〇二三円となる。
(三) <証拠>によると、原告は現在障害年金として、年額約金一三〇万円、地方公共団体から金三万五〇〇〇円の支給を受けていることが認められ、厚生省第一六回生命表によると、年齢三六才の女子の平均余命は45.57年であるから、少なくとも四五年間は、右支給額の支払いを受けられるものと認めるのが相当である。
したがって、右支給額に四五年分の中間利息(ライプニッツ係数17.77406982)を控除して左記のとおり計算すると、金二三七二万八二九〇円となる。
1,335,000×17.7740 6982=23,728,383
(四) 以上から、原告の逸失利益は、左記の計算のように、金四一六六万六八二〇円と認めるのが相当である。
60,938,180+4,457,023−23,728,383=41,666,820
3 慰謝料
前記認定のように、原告は、本件事故により頚髄損傷を伴う頚椎骨折の障害を受け、現在、四肢痙性麻痺、躯幹胸部から下位の完全知覚消失、股関節以下の自動性喪失、膀胱直腸障害の後遺症を残しており、右後遺症はいずれも労災保険法上後遺障害第一級と認定され、直立歩行は不可能で車椅子の生活を送らざるをえない上、排尿排便が随意的には不可能な状態である。
一方、本件事故の発生に至る経緯で認定したように、原告は、自ら進んで岩登りの技術を被告から学ぶべく、被告を誘ったものであり、被告は、いわば好意により原告に岩登りの練習をさせたものであるから、原告の被る精神的損害は、全く関係の無い第三者の行為により前記のような障害を負わされた場合に比較し低減されてしかるべきである。
以上のような事情を考慮して、慰謝料額は金二〇〇〇万円を相当と認める。
4 過失相殺
原告は、岩登りは初心者であったとはいえ、岩登りは、パーティーを組む者同志の相互協力を要する生命身体に危険のあるスポーツであるのであるから、自己の身体の安全確保については、自らも十分に注意すべきであり、原告としてもどのような確保体勢をとり手を離せばよいか被告に説明を求めるべきであったのにこれを怠り、漫然被告の言うがままに手を離した点について落ち度があるといわざるをえない。
原告の右落ち度を考慮して、過失相殺として損害額の三割を減額するのが相当である。
そうすると、右過失相殺後の損害は、金四三一六万六七七四円となる。
四結論
以上によれば、原告の被告に対する本訴請求は、金四三一六万六七七四円及びこれに対する本件不法行為の日である昭和六〇年五月一二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める部分につき理由があるから、右の限度でこれを容認し、その余の請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文を、仮執行宣言につき同法一九六条一項を、それぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官後藤眞理子 裁判官重富朗 裁判長裁判官鎌田泰輝は、転任につき署名押印できない。裁判官後藤眞理子)
別紙<省略>