横浜地方裁判所 平成11年(ワ)2192号 判決 2002年7月16日
原告
甲野太郎
同訴訟代理人弁護士
堀内敦
同
大谷豊
被告
学校法人北里学園
同代表者理事
佐藤登志郎
同訴訟代理人弁護士
畔柳達雄
同
木﨑孝
主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
被告は、原告に対し、701万2981円及びこれに対する訴状送達の日の翌日から支払済まで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
本件は、原告が、被告の開設する病院に入院し呼吸器疾患の治療を受けていた間に褥瘡が生じ、現在も完治していないなどとして、被告に対して診療契約上の債務不履行を原因として損害賠償を請求したものである。
1 争いのない事実
(1) 当事者
原告は、昭和12年7月29日生まれの男性である。
被告は、北里大学病院(以下「被告病院」という。)を開設する学校法人であり、医師A(以下「A医師」という。)は被告に雇用されて被告病院呼吸器内科に勤務している。
(2) 診療経過に関する基本的な事実
ア 原告は、平成8年5月2日、発熱、咳、痰等を訴えて被告病院内科・外来に受診し、同日、被告との間で診療契約を締結した。同内科医師は、原告の胸部エックス線撮影、尿検査、血液検査を行い、抗生剤等を処方して、1週間後の来院を指示した。
原告は、同月9日、再度被告病院内科・外来に受診し、37.7度程度の発熱、咳、腹痛、下痢が続くとの症状を訴えた。診察した同内科医師は、前回の検査結果から、気管支炎、肺炎を疑い、原告の喀痰の一般細菌検査及び結核菌検査を行い、抗生剤等を処方した。
イ 同月14日昼ころ、原告は、救急車で被告病院に来院し、2、3日前から39度の発熱、呼吸困難があるなどの症状を訴えた。被告病院呼吸器内科のA医師らが各種検査を行ったところ、原告は重い呼吸不全状態にあると認められたため、医師らは緊急入院の措置を採り、原告は同日被告病院に入院した。なお、原告の病名は当時不明であったが、後にシェーグレン症候群及びこれに伴う膠原病性間質性肺炎と判明した。
ウ A医師らは、緊急入院後直ちに、原告に対し酸素マスクを用いた酸素投与を行ったが、動脈血酸素量が正常値まで回復しなかったため、同日午後7時ころ、原告に対し鎮静剤及び筋弛緩剤を投与し入眠させた上で、気管内にチューブを挿入し高濃度の酸素を投与する人工呼吸器による呼吸管理を開始した。
また、原因疾患特定のための各種検査を行いつつ、各種抗生剤投与等を行うなどの治療行為を行った。
エ 同月22日まで原告の呼吸は自発呼吸によらず人工呼吸器によって行われていたが、同日、人工呼吸器が自発呼吸も可能な設定に切り替えられて鎮静剤の減量が開始され、同年6月2日には原告の意識は回復した。その後も、人工呼吸器からの離脱訓練が続けられ、同月24日人工呼吸器から完全に離脱し酸素吸入のみとすることができた。
オ 原告は、同年9月18日被告病院を退院し、その後も同病院呼吸器内科に通院して肺炎の治療を継続している。
カ 被告病院では、自力で体を動かすことのできない入院患者に対して、褥瘡(長時間臥床しているときに、骨の突出した部位の皮膚及び軟部組織が、骨と病床との間で長時間圧迫されることにより循環障害を起こし、壊死した状態をいう。)の発生を防止するため、通常、看護婦が2名1組となって2時間ごとに体位交換を行うものとされ、また、1日1回身体の清拭を行うものとされている。
キ 原告は、同年5月14日から同年6月2日までの期間(以下「本件期間」という。)には意識のない状態にあり、自力での体動ができず、体位交換、身体の清拭、排便用につけていたおむつの交換は被告病院の看護婦が行っていたが、同年5月17日、原告の左踵及び臀部(仙骨部)に褥瘡が生じていることが認められた。この時点では、仙骨部の褥瘡はいまだ発赤を示す程度にとどまっていたが、同月19日には仙骨部の褥瘡は水疱状態に進行した。
ク 原告は、鎮静剤から覚醒した同年6月2日、褥瘡による激痛を看護婦に訴えた。
ケ 被告病院は、原告が覚醒する以前である同年5月24日、同病院皮膚科の医師を往診させて原告の褥瘡の診察、治療を行わせ、その後も、同年6月28日から退院までの間に合計8回仙骨部褥瘡の壊死組織のデブリートメント(除去術)を行うなど、褥瘡の治療を行った。原告は、退院後も、平成10年1月9日まで同皮膚科に通院し、褥瘡の治療を継続した。
2 主な争点
(1) 本件期間において被告には褥瘡発生防止義務の違反があったかどうか。
(2) 平成8年6月中旬以降原告が有していると主張する両下肢下腿部の疲労感、疼痛等は、被告病院において生じた褥瘡又はその壊死組織除去手術が原因かどうか。
(3) 原告の被った損害
3 当事者の主張の骨子
(1) 争点(1)(本件期間における被告の褥瘡発生防止義務違反の有無)について
(原告の主張)
ア 褥瘡は、栄養状態が悪く、自分で体を動かすことが困難な患者に発生しやすいが、1ないし2時間ごとの体位交換、皮膚の清拭、マッサージ、栄養補給等を適切に実施することによってその発生を防止することが可能である。
原告は、本件期間中、被告病院の医師らにより鎮静剤及び筋弛緩剤を投与され意識のない状態にあり、自分で体を動かすことは全くできず、また、看護のすべてを被告病院が管理していたのであるから、被告病院には、原告との診療契約に基づき、1ないし2時間ごとの体位交換、皮膚の清拭、マッサージ、栄養補給等を確実に実行して褥瘡の発生を防止すべき看護管理上の義務があった。
イ ところが、被告病院は、原告の意識がなかった本件期間中、1ないし2時間ごとに行うべき原告の体位交換を怠った。
被告病院は、原告が入院した同年5月14日から褥瘡が発見された同月17日までの間、2時間ごとの体位交換を必ずしも完全に実行しなかったことを認め、体位交換を行うと呼吸不全が悪化し生命に危険が生じる状態であったことを挙げるが、診療録、看護記録等には、生命の危険を避けるために体位交換を控えたとの記載はない。また、左側臥位に体位交換したときは呼吸状態の悪化が見られるものの、仰臥位及び右側臥位への体位交換時には常に呼吸機能が改善しているのであるから、体位交換が生命の危険を生じさせる状態にはなかったはずである。
被告病院は本件期間中、1ないし2時間ごとの体位交換を失念し、看護記録に記載された合計30回しか体位交換を行わず、適切な体位交換を行うべき義務に違反した。
看護記録は、患者管理のために観察した事項のみならず看護措置の内容を逐一記録しておくべき医療記録であり、看護記録に体位交換を行った旨の記載がないことは、体位交換が行われなかったことを意味する。被告は、体位交換はルーティンで規則的に行うので看護記録に逐一記載しないと主張するが、行った措置を記録することなしに適切な看護管理を行うことはできず、仮に被告主張の方法を採るならば、ルーティンどおりに体位交換が行われなかった場合にはそのことが記載されるべきであるにもかかわらずそのような記載もないから、被告の上記主張は信用性を欠く。
ウ また、被告は、同年5月14日から同月19日まで一度も原告の身体を清拭することなく、このため、原告の褥瘡を発生させ、悪化させた。
このことは、この時期の看護記録にその旨の記載がないこと、原告の意識が回復した同年6月2日以降も、同月29日まで全身の清拭を全く行わず、1週間に2度程度手足のみを清拭を行ったにすぎず、大部屋に移った同月30日以降も、4、5日に1回の割合で清拭したにすぎないなど不十分な清拭しか行わなかったことからも明らかである。
(被告の主張)
ア 病院が、自力で体を動かすことのできない患者に対して、1ないし2時間ごとに体位交換、皮膚の清拭、マッサージ、栄養補給等を行うべき看護管理上の義務を有することは、一般論としては認める。
しかし、原告は、同年5月14日の緊急入院時において、動脈血酸素分圧31.5トル(正常値は80トル以上。なお、1トル(Torr)は1ミリメートル水銀柱に等しい。)、動脈血酸素飽和度64.3パーセント(正常値は96パーセント以上)で、通常の酸素マスクによる酸素投与では酸素を補い切れず、鎮静剤及び筋弛緩剤を投与し人工呼吸器と完全に同調させた上での呼吸管理を必要とする重篤な低酸素状態にあり、重症肺炎の症状を示していた。人工呼吸器からの本格的な離脱練習を開始することができたのは、同月31日に入ってからであり、人工呼吸器を用いず酸素マスクのみで酸素を十分吸入できるようになったのは同年6月24日からであって、同月2日の時点では、いまだ原告の呼吸困難は重篤であった。また、原告の原因疾患(病名)は各種検査にもかかわらず長期間特定できず、シェーグレン症候群であることが確認できたのは同月4日に入ってからであり、間質性肺炎であろうと判断できたのは同月14日に行ったCT撮影後である。
以上のとおり、原告は、本件期間中、原因の特定できない呼吸器疾患による極めて重篤な呼吸困難状態にあり、体位交換を行えば呼吸不全が悪化して生命が危ぶまれる状態にあったもので、被告病院には、このような、体位交換を行うと生命に危険がある状態においてまであえて体位交換を行い褥瘡の発生を防止すべき義務はない。
イ 被告病院においては、体位交換が必要な入院患者について、通常、看護婦が2人1組になって2時間ごとに行うことになっている。
原告の場合、本件期間中、体位交換を行うことによって呼吸状態が悪化するため体位交換を全く、あるいは十分に行うことができないことがあったことから、同期間中、被告病院は原告の体位交換を必ずしも2時間ごとには行っていなかったが、容態が許す限り体位交換を行ったものである。
原告は、看護記録に記載してある時しか体位交換を行っていない旨主張するが、体位交換はルーティンワークであるため、看護記録に逐一これを行った旨の記載はしていない。むしろ、看護記録に体位交換に関する記載があること自体、体位交換が呼吸状態に悪影響を与える危険が現実的であったことを示すものであり、被告病院の看護婦らは、原告の呼吸状態を慎重に観察しながらできる限り体位交換の措置を採っていた。
ウ 被告病院は、原告が入院した同年5月14日から同年6月29日までの間、全身清拭と部分清拭を組み合わせ、1日1回は身体の清拭を行うようにし、原告が大部屋に移った同月30日以降も、少なくとも2日に1回は清拭を行っており、適切に清拭義務を履行している。
(2) 争点(2)(原告主張の両下肢下腿部の疲労感、疼痛等と褥瘡又はその壊死組織除去手術との因果関係の有無)について
(原告の主張)
原告は、本件期間中に臀部(仙骨部)に生じた褥瘡のため、被告病院皮膚科において複数回壊死組織除去手術を受け、現在も仙骨部には有痛性瘢痕がある。この痛みは激しく、そのため、原告は歩行に支障を来し、仰臥位での就寝や長時間の着座ができなくなるとともに、両腓骨神経麻痺が生じ、両下肢下腿部の疲労感、疼痛、硬直感等の感覚異常に悩まされている。
しかし、根治する可能性のある皮弁による形成手術は、原告が現在も受けている肺炎の治療のため麻酔による危険が大きくこれを受けることができず、そのために、治療は神経症状に対する対症療法にとどまらざるを得ない状態である。
(被告の主張)
原告主張の両下肢下腿部の疲労感、疼痛等と褥瘡又はその壊死組織除去手術との因果関係の存在は否認する。
原告の両腓骨神経麻痺の原因としては、原疾患である膠原病(シェーグレン症候群)、ステロイドミオパシー(膠原病に対してステロイドを投与したことにより引き起こされる筋病変)、間質性肺炎により長時間臥床していたことによる腰椎症、神経圧迫が考えられるが、仙骨部褥瘡は部位が全く異なり、両腓骨神経麻痺とは無関係であり、原告がこれに関連して訴えている両下肢下腿部の疼痛、疲労感、硬直感等の感覚異常の症状も褥瘡とは無関係である。
(3) 争点(3)(原告の被った損害)について
(原告の主張)
ア 医療費 280万2361円
以下の(ア)及び(イ)の合計額である。
(ア) 入院治療費 270万1840円
(イ) 通院治療費 10万0521円
イ 通院交通費 7万0620円
通院1回について要する公共交通機関による往復交通費2140円×通院回数33回=7万0620円
ウ 入通院慰謝料 350万円
平成8年6月15日から同年9月18日までの約3か月は褥瘡治療のため延長された入院期間であり、同月19日から褥瘡の治療のため通院した期間は19か月であるから、入通院慰謝料は350万円が相当である。
エ 弁護士費用 64万円
原告は、本件訴訟の追行を原告訴訟代理人らに委任し、勝訴判決が得られたときは64万円を支払う旨約束した。
(被告の主張)
すべて否認ないし争う。
なお、原告の入院期間はすべて原疾患(シェーグレン症候群及びこれに伴う膠原病性間質性肺炎)の治療のために必要な期間であり、褥瘡治療のために延長されたものではない。
第3 当裁判所の判断
1 診療の経過等
争いのない事実、証拠(甲1、甲2の1、2、甲3、4、乙1ないし9、乙11ないし17、証人石田千鶴、同A、原告本人)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(1) 平成8年5月2日
被告病院内科・外来に受診時の原告の訴えは、10日前から37度ないし38度の発熱があり、咳、痰等がある、別の病院で感冒の治療を受けているが、発熱が治まらないので来院したというものであった。
この時は、肺の打診・聴診ともに異常なく、胸部エックス線撮影、尿検査、血液検査を行った上、総合感冒剤(商品名PL)、気道潤滑去痰剤(商品名ムコソルバン)、各種炎症に適応する抗生剤(商品名クラビット)を各7日分処方した。
この時の胸部エックス線写真には、両下肺野、背側胸膜付近に強い粒網状影が認められ、尿検査では尿蛋白が出た以外異常はなく、血液検査では炎症と栄養障害の存在が認められた。
(2) 同月9日
原告は再度被告内科・外来に受診し、37.7度程度の発熱、咳、腹痛、下痢が1週間続いている旨訴えた。原告を診察した医師は、上記(1)の検査結果から気管支炎、肺炎が疑われたため、喀痰の採取による一般細菌検査及び結核菌検査(塗抹検査)を行うとともに、咽喉頭炎、肺炎等に適応する抗生剤(商品名ケフラール)、胃炎・胃潰瘍治療剤(商品名セルベックス)及び整腸剤(P―BTB)を各5日分処方した。
この日の結核菌検査の塗抹検査結果は翌10日に出たが、陰性であった。また、一般細菌検査の結果は同月13日に判明し、カンジダ(真菌)がわずかに認められた。
(3) 同月14日
ア 原告は、昼ころ救急車で被告病院へ来院し、呼吸器内科のA医師が診察に当たった。この時の主訴は、2、3日前から39度の発熱があり、前夜は強い呼吸困難で一睡もできず、尿失禁があるというものであった。この時の所見は、体温36.7度、血圧100/70、脈拍は1分間に102回で不整脈はなく、頻呼吸状態、チアノーゼがあり、聴診すると肺の両側で中下肺野にラ音(水泡音、捻髪音)があり、下肢に浮腫が認められた。
また、直ちに行われた血液検査の結果では、動脈血酸素分圧31.5トル、動脈血酸素飽和度64.3パーセント、午後0時36分時点の血液検査の結果でも、動脈血酸素分圧48.1トル、動脈血酸素飽和度77.4パーセントであり、極めて重篤な急性呼吸不全状態と認められた(空気呼吸下での動脈血酸素分圧60トル以下の場合が急性呼吸不全と定義されているところ、これは、動脈血酸素飽和度90パーセント以下にほぼ相当する。)。加えて、体内で炎症が起きていることが認められ、胸部エックス線写真では両中下肺野の一部に気管支透亮像があり、粒状影が同月2日の撮影時より増強していた。
A医師は、以上の検査結果及び原告の主訴内容に基づいて、原告の病状を重症肺炎による呼吸不全(肺炎の原因は特定できない。)と診断した。これにより、原告は、午後2時45分、被告病院呼吸器内科(8B病棟)に緊急入院し、A医師(主治医)に呼吸器内科医師3名を加えた治療チームが作られた。急性悪化時の呼吸器疾患に対しては原因同定及び症状軽減措置を行うことが基本的治療方針とされているところ、A医師らもこの治療方針の下にその後の治療を行うこととなった。
なお、原告が緊急入院した直後、原告の治療チームの医師は、原告の妻、長男及び長女を呼び、「原告は呼吸不全であり、一般の人の半分以下しか体の酸素がない。現在の病状は、重症肺炎による低酸素状態と思われる。肺炎の原因としては、細菌性、特にレジオネラ菌によるもの、結核性のもの、真菌(かび)性のもの等が考えられるが、これから調べていかなければならない。とりあえずは、現在大量の酸素を特殊なマスクで投与しているが、呼吸不全ぎりぎりである。これ以上の呼吸管理をするには、人工呼吸管理を必要とするが、これを行っても必ずというわけではないし、気胸、気道感染症等の合併症を生じ得る。また、急性期を乗り切っても、呼吸器から離脱できず、気道切開、長期呼吸管理を必要とする場合もあり得る。」旨説明した。
イ 緊急入院後、A医師らは原告に対し、直ちに酸素マスクによる酸素投与を行った。1分間15リットルの酸素を投与したことで、動脈血酸素飽和度は90パーセント近くにまで上昇したが正常値には達せず、動脈血酸素分圧も、午後3時10分に64.4トル、午後4時09分に74.5トル、午後6時14分に70.4トルで、呼吸不全状態ではないものの正常値には至らず、マスクを外すとすぐに動脈血酸素飽和度が83パーセントにまで低下し、マスクをしても90パーセントまで上昇するのに約3分かかり、体を動かすと70パーセント台まで低下することもあるなど、更なる増悪が予想される状態であった。
そこで、午後6時45分ころから、原告に対し、鎮静剤(商品名ドルミカム)及び麻酔前の投薬等に用いられる薬剤(商品名ホリゾン)が投与され、午後6時53分、気管内挿管を行い、人工呼吸器を装着して呼吸管理を開始した。また、原告にはパルスオキシメーターも装着され、指先で測定する動脈血酸素飽和度の数値が常時モニタリングされることになった。
原告に対しては、呼吸管理開始時、濃度100パーセントの酸素が投与された。これは、呼吸管理開始時に生じ得る人工呼吸器と患者の呼吸の不一致による一時的な血液中の酸素量急減を防ぎ、かつ、どの程度の酸素濃度が適当か判断するための措置であるが、本来、高濃度の酸素を長期にわたって投与すると、気道粘膜や肺胞壁等の肺組織に損傷が生じ、100パーセント酸素の場合、3時間で気管粘液輸送速度の低下、6時間で急性喉頭気管支炎、48時間で浸出性変化が認められるとされ、酸素濃度は60パーセント以下、できれば50パーセント以下に保つ努力をする必要があるとされている。他方、動脈血酸素分圧を60トル以上に保つことは生体にとって必要であり、これを下回るようであれば、肺障害の危険があっても高濃度の酸素を投与せざるを得ないとされている。
原告に対する上記の高濃度の酸素投与により、午後7時12分には動脈血酸素分圧82.6トル、動脈血酸素飽和度95.1パーセントにまで上昇したが、濃度100パーセントの酸素の投与にしては上昇が少なかったため、午後7時30分ころから、気管内挿管時の筋弛緩に用いられる麻酔用筋弛緩剤(商品名マスキュラックス)の投与を開始し、自発呼吸の一切入らない完全な調節呼吸として人工呼吸器とのより一層の同調を図ったところ、午後7時38分の血液検査では、動脈血酸素分圧は98.0トルに改善された。そこで、吸入気酸素濃度を90パーセントに下げ、更に呼吸管理を続けたところ、午後8時ころからは動脈血酸素飽和度93パーセント以上が維持されるようになり、午後9時50分の動脈血酸素分圧は96.9トルと良好であったため、午後10時、吸入気酸素濃度を80パーセントに下げ、その後、当分の間、人工呼吸器の設定はこの状態が維持されることとなった。
なお、その後の動脈血酸素飽和度の推移は別紙1のとおりであり、SpO2(パルスオキシメーターによって測定した動脈血酸素飽和度を指す。)は、おおむね90パーセント以上に維持された。
ウ A医師は、当初レジオネラ肺炎を強く疑ったため、これに効く薬剤として抗結核・抗ハンセン病抗生剤であるリファンピシン及び抗生剤エリスロマイシンを投与し、加えて、他の細菌性肺炎である可能性も考慮して、広い範囲の菌に効く抗生剤2種類(商品名ペントシリン及び同アミカシン)を投与し、炎症等の抑制を図った。また、原因特定のため、原告の喀痰を採取し、各種検査を行った。
原告に対する栄養投与は、同人が入院前下痢をしていたこと及び胃に内容物があることで嘔吐が起きた場合気管内に吐瀉物が入るのを避ける必要性を考え、経管栄養ではなく、点滴によることとした。
(4) 同月15日
原告は、人工呼吸器の吸入気酸素濃度80パーセントを要する重篤な呼吸不全状態下にあって、38.4度の発熱が認められ、A医師らにも救命できるか否か判断のできない状態が続いていたが、動脈血酸素飽和度は92パーセント以上を維持できていることが多く、ファイティング(人工呼吸器と自発呼吸が同調せず呼吸状態が悪くなることを指す。)も生じなかった。
ただし、午前10時には気道内分泌物吸引のため、動脈血酸素飽和度は一時的に80パーセント台後半に、午後8時には同じ要因で90パーセントに、午後8時30分にも90パーセントに、それぞれ低下し(気道内分泌物の吸引は、気道を確保するために必要な処置であり、これにより血液中の酸素濃度は上昇するが、吸引直後は一時的に血液中の酸素濃度が低下することがある。)、午後2時ないし4時ころにも一時的に吸入気酸素濃度を100パーセントに上げる必要が生じた。
この日の内視鏡検査により、原告の気管支や肺胞に感染症等の炎症が生じていることが示唆される数値が出た。また、この時の気管支肺胞洗浄液及び採取血液を各種検査に回し、原告の疾患の原因特定を図った。なお、前日採取した喀痰の結核菌塗抹検査の結果が判明したが、これは陰性であり、疾患の原因特定には至らなかった。
(5) 同月16日
原告の人工呼吸器に関する条件及び重篤な呼吸不全の状態は前日同様であり、発熱も引き続き39.1度程度認められた。
動脈血酸素飽和度はおおよそ93パーセント以上を保っていたが、午後2時、午後5時15分、午後8時及び午後10時にそれぞれ気道内分泌物の吸引により一時的に同値が90パーセント以下に低下し、午後5時45分ころには人工呼吸器とのファイティングが生じたため、ドルミカムの早送りを行った。
この日、同月14日に採取した喀痰の一般細菌検査結果が判明し、カンジダ(真菌)がわずかに検出された。また、前日採取した気道支肺胞洗浄液の結核菌検査結果も判明したが、陰性であって、疾患の原因特定には至らなかった。
(6) 同月17日
原告の人工呼吸器に関する条件及び重篤な呼吸不全の状態は前日同様であったが、体温は37度まで下がり、改善が見られた。また、原告への栄養投与が、点滴から経管栄養に変わり、特に長期にわたり経口的食事摂取が困難な場合の栄養補給に用いる経腸成分栄養剤(商品名クリニミール)が1日3回投与されるようになった。
原告の動脈血酸素飽和度はおおよそ93パーセント以上を保っていたが、午前4時、午前10時、午前11時20分及び午後10時には、気道内分泌物の吸引等により一時的に90パーセント前後、あるいは80パーセント台前半にまで低下した。
また、同月15日に採取した気管支肺胞洗浄液のカリニ肺炎検査結果が判明し、陰性であった。
午後5時30分、看護婦は、原告の左踵部に褥瘡があり、臀部(仙骨部)にも、圧力が除かれても色が引かない発赤(褥瘡の最も初期の段階)があることを認めた。そこで、看護婦は、直ちに、左踵部については足を持ち上げ、仙骨部についてはフローテーションパットを使用して、当該部分にかかる圧力を和らげる措置を採った。
(7) 同月18日
原告の人工呼吸器に関する条件及び重篤な呼吸不全の状態は前日同様であり、体温は37度台であるものの、炎症反応の改善は思わしくない状態であった。
動脈血酸素飽和度はおおよそ93パーセント以上を保っていたが、午前0時30分及び午後0時には90パーセント前後に低下し、また、午前9時40分、午後6時25分ころから午後6時32分ころにかけて及び午後8時45分にはそれぞれ人工呼吸器とのファイティングが生じ、ドルミカム又はマスキュラックスの早送りあるいは増量が行われた。
この日、同月15日採取の気管支肺胞洗浄液の一般細菌検査結果が判明したが、これは陰性であり、疾患の原因特定に至らなかった。なお、同洗浄液については、他にガン細胞検査も行われているが、陰性と判明している。
(8) 同月19日
当初は、前日までと同様、吸入器酸素濃度80パーセントであり、午前4時には動脈血酸素飽和度が90パーセントに低下するなどしたものの、その後、動脈血酸素分圧が107.4トルとかなり改善したため、午後一時、酸素濃度を70パーセントに下げ、動脈血酸素飽和度の著しい低下もなかったころから、酸素濃度70パーセントの設定を当面維持することにした。ただし、午後5時35分には気道内分泌物の吸引により一時的に動脈血酸素飽和度が88パーセントまで低下し、また、午後10時8分及び午後10時25分には90パーセント前後に低下したため、ドルミカム及びマスキュラックスが増量された。
なお、この日、原告への経管栄養がクリニミール2に変わった。
この日、同月15日採取の血液の抗核抗体検査結果が判明し、膠原病が疑われる結果であったが、細胞免疫不全も疑わしい状態であり、原因疾患の特定には至らなかった。
午後1時、看護婦は、発赤の状態であった原告の仙骨部が、出血や液の浸出はないものの、7センチメートル×5.5センチメートル大の水疱に進行しているのを認め、この部分を殺菌消毒剤(商品名イソジン)で消毒し、生理食塩水で洗浄した上、褥瘡被覆剤(ディオアクティブ)を貼付して覆う処置を行った。また、左踵部の褥瘡は、4センチメートル×3.5センチメートル大で、黒色化し表皮等が壊死していたが、液の浸出はなく、この日は特別な処置を行わなかった。
以上のように褥瘡の悪化が認められたことから、看護婦は褥瘡についての看護計画を作成した。これは、1週間ごとに褥瘡の評価を行って計画を書き足していくものであり、この日は褥瘡の悪化防止のため、イソジンによる消毒、生理食塩水による洗浄及びディオアクティブの貼付、ディオアクティブの1週間ごとの交換が定められた。
(9) 同月20日
この日も動脈血酸素飽和度はおおむね93パーセント以上で比較的良好であったため、午前10時30分、吸入気酸素濃度を60パーセントにまで下げたが、動脈血酸素飽和度は94パーセント前後を維持することができた。ただし、午後4時、気道内分泌物の吸引により一時的に動脈血酸素飽和度が80パーセント台後半にまで低下し、午後8時20分には人工呼吸器との同調のためドルミカムの早送りが行われ、午後9時には気道内分泌物の吸引によって動脈血酸素飽和度が90パーセントに低下した。
A医師らは、いまだ原因疾患を特定できず、レジオネラ肺炎等を疑っている状態であったが、前日、膠原病を疑わせる抗核抗体検査の結果が出たため、血液を採取し、抗SSA抗体検査・抗SSB抗体検査を行うこととした。
なお、経管栄養が、昼の投与分からクリニミール3に変わった。
(10) 同月21日
原告は発熱が治まらない状態であったが、動脈血酸素飽和度が96ないし97パーセントと比較的良好な値を示したため、午前10時、吸入気酸素濃度を60パーセントから50パーセントに下げ、それでも動脈血酸素飽和度は94パーセント程度を維持することができた。ただし、午前10時、午後6時には気道内分泌物の吸引のため、一時的に80パーセント台後半、あるいは88ないし89パーセントにまで低下し、また、午後7時10分には頻呼吸となったため、ドルミカム及びマスキュラックスの早送りが行われた。
また、この日、医師らは、原告の原因疾患について間質性肺炎の疑いで、喀痰を採取し検査を行った。間質性肺炎とは、肺胞を中心に起きる実質性肺炎と異なり、肺胞の外側に位置する血管、リンパ管、結合組織等に生じる肺炎であり、本来、その診断には、肺の中を詳細に見ることが可能なCT撮影が有効である。しかし、この時期の原告は、いまだ重篤な呼吸不全状態であり、気道内分泌物の吸引等により動脈血酸素飽和度が80パーセント台にまで低下するなど不安定であったため、原告をCT撮影装置がある検査室に移動させることは危険であると判断されたことから、A医師らは、この時点ではCT撮影を行わなかった。
(11) 同月22日
吸入気酸素濃度50パーセントにおける呼吸状態が良好だったため、午前10時30分、これを40パーセントにまで下げたが、動脈血酸素飽和度は91パーセントで著しい低下は見られず、午後2時、午後10時及び午後10時40分に気道内分泌物の吸引等で若干低くなったものの、終日90パーセント以上を維持した。
さらに、午後2時には、人工呼吸器の設定を、調節呼吸から自発呼吸を優先させた補助呼吸に変更し、ドルミカム及びマスキュラックスの減量を始めて、原告の人工呼吸器からの離脱訓練を開始した。その後、数十分おきに少しずつドルミカム又はマスキュラックスを減量したところ、深夜には原告に自発的な体動が見られるようになった。原告の発熱は治まる傾向にあり、クリニミールも増量され栄養状態の改善が図られた。
しかし、同月14日に採取した喀痰の塗抹検査の結果が判明し真菌(カンジダ)の発育が認められるなどしたものの、同月15日採取の気管支肺胞洗浄液の真菌検査結果は陰性、同日採取の血液検査の結果クラミジア肺炎も陰性であり、原因疾患の特定には至らなかった。この段階で、A医師らは、鑑別すべき疾患として、レジオネラ肺炎、間質性肺炎、膠原病(肺出血)、ガン性リンパ管症を挙げ、原因特定のための各種検査を引き続き行うものとした。
(12) 同月23日
前日深夜から23日未明にかけて、原告と動脈血酸素飽和度は90パーセント以下の状態が続いていたが、午前9時30分から、再びドルミカム又はマスキュラックスを徐々に減量していき、正午までに両者の投与をいったん完全に中止したほか、人工呼吸器による呼吸補助の回数を減らすなど人工呼吸器からの離脱を進めた。この日は、午後5時20分まで9回のチェック時、常に動脈血酸素飽和度90パーセント以下の状態が続き、午後8時には、動脈血酸素飽和度が85ないし86パーセントという著しく低い値になったまま上昇しなくなったため、看護婦から医師への報告があり、医師の指示で、午後9時30分、ドルミカムの投与を早送りで再開し、人工呼吸器との同調を図った。この結果、いったんは動脈血酸素飽和度が95パーセントに改善したものの、なお不安定な状態が続いた。
なお、看護記録Ⅲには、「午前4時30分、体位交換後より動脈血酸素飽和度87と低値。吸引にて白色痰引けるも上昇せず、体位交換枕をとって仰臥位にすると、わずかに動脈血酸素飽和度が上昇してくる。」との記載がある。
この日、同月16日採取の血清の検査結果が判明したが、レジオネラ肺炎は陰性で、原因の特定には至らず、喀痰検査を更に行うものとした。
看護婦は、午後2時、仙骨部の褥瘡の処置を行ったが、このとき、褥瘡の大きさは7センチメートル×5.5センチメートルで、発赤があり、浸出はあるが出血はなかった。看護婦は、午後5時20分にも、仙骨部の褥瘡のディオアクティブのはり替えを行った。
(13) 同月24日
前日深夜から引き続いて動脈血酸素飽和度が不安定であり、午前0時以降約1時間にわたって、動脈血酸素飽和度83ないし89パーセントの状態が続き、痰の吸引によって気道が確保されても上昇が見られず、ファイティングがあったため、ドルミカムの早送り、マスキュラックスの投与再開、人工呼吸器による呼吸補助の回数増加、吸入気酸素濃度の上昇(40パーセントから50パーセントヘ)等で呼吸状態の改善を図った。その後、動脈血酸素飽和度が90パーセント以上に回復したので、午前8時45分に吸入気酸素濃度を50パーセントから40パーセントに戻した上で、午前9時、人工呼吸器の設定を補助呼吸から調節呼吸に変更し、人工呼吸器からの離脱訓練を一時中止した。その後はほぼ動脈血酸素飽和度90パーセント以上を維持しており、午前10時及び午後10時に90パーセントまで低下したのが最も低い状態であった。なお、看護記録Ⅲには、「午後0時、吸引、体位交換後も自発呼吸は入らず」との記載がある。
また、同月14日以来、4種類の抗生剤投与を続けているにもかかわらず、炎症反応の改善が不十分であったため、この日から、ペントシリン及びアミカシンに替えて、新たに、抗生剤2種類(商品名チエナム及び同ミノマイシン)の投与を開始した。
このころ、仙骨部及び左踵部の各褥瘡の悪化が認められたため、A医師らは、当日、被告病院皮膚科に対し原告の褥瘡治療を依頼し、これを受けて、午後4時、同皮膚科の医師が原告を8B病棟まで往診して診察した。このとき、仙骨部には壊死組織があり、左踵は血庖(いわゆる血まめ)の状態であったため、同医師は、仙骨部について壊死組織のデブリートメントを行い、イソジンで消毒し、褥瘡・皮膚潰瘍治療剤(商品名ユーパスタ軟膏)を塗布し、左踵部について血庖部の周囲にスポンジ(レストン)を当てて除圧するという処置をした。なお、壊死組織が残っていると組織が再生しないため、褥瘡治療は、壊死組織を除去することが不可欠とされている。
同日、原告の褥瘡に関し、看護婦により、「連日又は汚染時に、イソジン消毒、ユーパスタ軟膏、ガーゼ保護を行い、ビニールテープとオプサイトテープで固定する。体位交換枕は2つ使い、背部と腰部に深めに入れる。フローテーションパットを仙骨部に使用し、仙骨部がベッド柵側を向くようにし、除圧ができるようにする、体位交換枕で下肢を挙上し、踵部の除圧を図る。左踵はレストンとネットで常に除圧を図り、体位交換時には、レストンがずれていないかどうか常に確認する。」との新たな看護計画が立てられた。
(14) 同月25日
人工呼吸器の設定等は前日どおりであり、動脈血酸素飽和度は午前5時40分、午前10時及び午後8時に90パーセント前後であった以外は、92パーセント以上を維持した。もっとも、午後3時30分には人工呼吸器とのファイティングが生じ、マスキュラックスの早送りが行われた。
この日、仙骨部褥瘡は6センチメートル×7センチメートル大で周囲に出血があり、中央部から緑色の浸出液が生じており、上記看護計画に従った処置が行われた。なお、浸出液は、乾燥した黒色壊死組織を取り除いた次の段階等で多く生じるものであるが、感染症への注意が必要な状態とされている。
(15) 同月26日
人工呼吸器の設定は前日と同様であったが、動脈血酸素飽和度が終日低めで、午前0時、午前1時30分、午前1時45分、午前4時、午前7時、午前10時、午前11時、午後7時30分及び午後8時15分には、気道内分泌物の吸引、体位交換等を契機に85ないし90パーセントにまで低下したほか、午前4時、午前8時には人工呼吸器とのファイティングが生じるなど、呼吸状態が不安定であり、一時、人工呼吸器の吸入気酸素濃度を100パーセントにしなければならなかった。
なお、看護記録Ⅲには、「午前1時30分、左側臥位時に動脈血酸素飽和度87パーセントとなり、上がらなくなる。吸引するが変わらず、Nebと体位交換で動脈血酸素飽和度88パーセント。」、「午前2時、左側臥位から右側臥位にして、動脈血酸素飽和度は91パーセントまで上がる。」、「午前4時、左側臥位に体位交換したところ、ファイティング様となり動脈血酸素飽和度も86ないし88パーセントから上がらず。医師の指示によりドルミカム早送り。」との記載がある。
この日、仙骨部の褥瘡は前回と同じ大きさであったが、褥瘡からの浸出液が5枚目のガーゼ上層まで達しており、看護計画に従った処置が行われた。
(16) 同月27日
原告は、前日来39度の発熱が続いており、人工呼吸器の設定は前日同様であったが、午前2時、午前4時、午前4時45分、午前10時、午前10時10分には動脈血酸素飽和度が86ないし89パーセントに低下し、午前4時45分にはファイティングが生じた。しかし、午後には状態が改善し、医師の指示で2時間ほどマスキュラックス及びドルミカムの投与を中止、様子を見た。
なお、看護記録Ⅲには、「午前5時40分、左側臥位に体位交換したことになり動脈血酸素飽和度が上昇。」、「午前10時、動脈血酸素飽和度低め。仰臥位にし様子を見る。」との記載がある。
この日、同月20日に採取した血液の抗SSA抗体、抗SSB抗体の検査結果が判明し、その数値から、原告の疾患がシェーグレン症候群(膠原病の一種)ではないかとの疑いが生じた。また、レジオネラ抗原についても確認することとした。
この日、仙骨部褥瘡は、6センチメートル×7.5センチメートル大で、拡大傾向にあり、看護婦の処置内容は前回同様であり、2回行われた。
(17) 同月28日
人工呼吸器の設定は前日と同じであり、ほぼ終日動脈血酸素飽和度95パーセント前後の良好な値で推移し、午後6時35分及び午後9時に90パーセントに低下した程度であった。
なお、看護記録Ⅲには、「午前4時、左側臥位に体位交換しても動脈血酸素飽和度の低下なし。」、「午後9時、左側臥位時、動脈血酸素飽和度90ないし91パーセントと低値。右側臥位に体位交換後は、93ないし94パーセントに上昇。」との記載がある。
同日、A医師は、原告の妻及び長女に、「原告は重症の肺炎であり、普通の抗生剤が効かない。特殊な菌が原因と考えて治療している。また、肺炎以外の肺病変の疑いもある。膠原病、自分の体の免疫機能が自分に対して過剰に働く一種のアレルギーであり、自分の体に対して特殊な抗体を作っている。また、唾液腺等に抗体を作って口が渇くシェーグレン症候群も考えられる。エックス線撮影した肺の陰影と血液の炎症反応がある程度よくなってきたところで、横ばいの状態が続いている。肺炎と膠原病の肺病変では治療が異なるので、診断しなければならない。そこで、口唇粘膜の生検と、気管支鏡検査の洗浄液培養を行う。膠原病の自己免疫を抑えるにはステロイドホルモン治療があるが、感染しやすくなる、糖尿病が増悪する、骨がもろくなるなどの副作用が強い。しかし、このままでは治療が行き詰まっているので、ステロイドも使用しなければならない。気管挿管してから2週間経つので、そろそろ気管切開をしなければならないところまで来ている。」旨説明した。
また、肺炎・シェーグレン症候群の疑いで、気管支肺胞洗浄を行った洗浄液を細胞診検査に回した。
この日も褥瘡処置が行われ、褥瘡は乾燥していたが、浸出がガーゼ上層まであったため、通常の処置後、脳外ガーゼを2枚にして保護した。
(18) 同月29日
原告の動脈血酸素飽和度は、午前5時30分に88ないし89パーセントであったほかはほぼ98パーセントあるいは96パーセントという良好な値で推移したため、午前10時45分、吸入気酸素濃度を30パーセントに下げた。これによっても、動脈血酸素飽和度は92ないし93パーセントであり、午後0時05分、動脈血酸素飽和度が体位交換により86ないし87パーセントになったが、仰臥位にするとスムーズに戻り、その後も午後11時に気道内分泌物の吸引により88パーセントに下がったものの、ゆっくりとではあるが92パーセントまで戻るなど、大体において良好であった。しかし、発熱は続いていた。
なお、看護記録Ⅲには、「午前0時35分、左側臥位だが動脈血酸素飽和度は93ないし94パーセントと良好。」、「午前5時30分、仰臥位だが動脈血酸素飽和度低下あり、吸引するが改善しない。」、「午後0時05分、左側臥位にすると動脈血酸素飽和度が86ないし87パーセントに下がり、吸引しても変わらない。仰臥位にするとスムーズに90パーセント台に戻った。」、「午後8時、仰臥位で動脈血酸素飽和度92ないし91パーセントに低下。右側臥位にすると93ないし94パーセントと良好。」との記載がある。
この日、呼吸器内科医師の依頼を受け、被告病院皮膚科の医師が、シェーグレン症候群か否かを診断するために、原告の下口唇から小唾液腺の生体組織を採取しての検査(生検)を行った。これは、A医師らが、原告の全身症状に改善が見られないことから、原因疾患がシェーグレン症候群による間質性肺炎であれば至急ステロイド治療を行いたいと考えたためである。
この日も褥瘡処置が行われ、従前同様浸出が認められた。
(19) 同月30日
前日の原告の状態がよかったことから、医師らは、この日から人工呼吸器からの離脱訓練を再開する予定であったが、午前0時30分、気道内分泌物の吸引により、動脈血酸素飽和度が88パーセントに下がり、また、午前4時、動脈血酸素飽和度が87パーセントに下がり、気道内分泌物を吸引しても上昇せず、午前4時15分には84パーセントにまで低下し、仰臥位に変更しても上昇せず、医師の指示で、吸入気酸素濃度を30パーセントから最終的に45パーセントにまで上昇させて動脈血酸素飽和度90パーセント以上を確保しなければならない状態になった(吸入気酸素濃度は午後3時20分に35パーセントまで下げた。)。加えて、午前5時40分、胸部レントゲン撮影により肺が気胸を起こしていることが分かり、左胸腔からトロッカーを挿入してドレナージを行い、ドレーンからのリークも多くなるなどしたこともあって、離脱訓練は再開されなかった。なおこの日、抗生剤ペントシリンの投与が中止された。
当日の看護記録Ⅲには、「午前4時15分、右側臥位から仰臥位に体位交換したが動脈血酸素飽和度上昇せず、医師の指示にて酸素濃度を上げる。」、「午後0時、左側臥位。リークやや下がる。」、「午後2時、右側臥位」、「午後5時、左側臥位。動脈血酸素飽和度88パーセント。午後5時20分、左側臥位から仰臥位にすると、すぐ動脈血酸素飽和度90パーセント台に乗る。」、「午後8時30分、右側臥位で動脈血酸素飽和度93パーセント」。「午後9時30分、右側臥位で97パーセント」、「午後10時、仰臥位で動脈血酸素飽和度95パーセント」との記載が見られる。
この日の褥瘡処置の際には、緑色の浸出液が認められ、褥瘡中心部組織は壊死状態であった。
(20) 同月31日
前日と同じ人工呼吸器の設定の下で、午前5時ころに、動脈血酸素飽和度が90パーセント以下となりアラームが鳴ることがあったものの、おおむね動脈血酸素飽和度は良好に推移した。動脈血酸素飽和度が90パーセント以下になったのは、午前2時20分、午前5時30分、午後8時及び午後8時20分であるが、気道内分泌物の吸引等によって回復した。
A医師らは、原告の人工呼吸器からの離脱訓練再開を試みることにし、午前10時30分、マスキュラックスの投与を中止し、午前11時55分、人工呼吸器の設定を自発呼吸優先に変更し、午後8時40分には呼吸器からの呼吸補助の回数を減らすことができた。もっとも、当日夜には、38.9度ないし39.2度の発熱があった。また、この日、クリニミールが更に増量された。
当日の看護記録Ⅲには、「午前2時20分、仰臥位から右側臥位へ体位交換」、「午前4時05分、右側臥位から仰臥位へ体位交換」、「午前8時30分、右側臥位」、「午後2時、右側臥位」、「午後8時20分、動脈血酸素飽和度低値。体位交換でも変わらず。」との記載がある。
(21) 同年6月1日
前日のマスキュラックス投与中止により、原告は体を激しく動かすようになり、有効な呼吸ができない状態になっていたため、午前1時、医師の指示でドルミカムを早送りし、数分後には更にドルミカムを早送りし、一時的にマスキュラックスも投与、人工呼吸器による呼吸補助の回数を増やすなど、人工呼吸器との同調を一時的に強く図ったが、その後、午前10時30分にはドルミカム投与を中止し、午後2時ころは人工呼吸器による呼吸補助の回数も減らした。しかし、ファイティングは生じず、動脈血酸素飽和度の著明な低下もなく、この日以後、マスキュラックス及びドルミカムは投与されなかった。動脈血酸素飽和度が90パーセント以下となったのは、午前0時、午前1時05分、午前2時、午前4時40分及び4時20分のみである。
看護記録Ⅲには、「午前2時、左側臥位から体位交換後、動脈血酸素飽和度やや低下あり。」、「午前4時40分、左側に体位交換するがドレーンからの空気漏れなし。」、「午前8時20分、体位によってもドレーンからのリークなし。」との記載がある。
この日も、上記看護計画に従った通常どおりの褥瘡処置が行われた。
(22) 同月2日
動脈血酸素飽和度の状態は、午前1時50分に89パーセントに低下した程度で、良好であり、ドルミカム及びマスキュラックスの投与を中止したことで、午前0時25分ころから、原告と目が合う、呼びかけに対してうなずくなどの反応が見られ、午前3時には、原告が右手首の疼痛を訴えたり、頻繁にナースコールするなどの行動をするようになり、完全に覚醒したことが認められた。そして、午後早い時間には、苦痛の表情で、臀部を指差して痛みを訴えた。
当日の看護記録Ⅲには、「午前1時05分、左側臥位で動脈血酸素飽和度88ないし89パーセントであるが、右側臥位に体位交換後値上昇。」、「午前4時40分、左側に体位交換すると動脈血酸素飽和度低下あり、仰臥位に戻すと動脈血酸素飽和度上昇見られる。」との記載がある。
この日、褥瘡看護計画のための評価が行われところ、仙骨部褥瘡は6センチメートル×7センチメートル大であり、大部分黒い被膜で覆われているが、周辺部には一部発赤があり、浸出液があった。また、右側に4センチメートル×5センチメートル大の褥瘡の広がりが見られた。このため、看護計画は、なお従来どおりの内容を維持するものとされた。
(23) その後の経過
ア 原告は、人工呼吸器からの離脱訓練を続け、途中、長期挿管のため原告の気道に傷害が生じ、平成8年6月7日、被告病院耳鼻咽喉科医師により、気道切開手術が行われ、同月13日に一時離脱訓練を中止するなどしたものの、同月24日、人工呼吸器から完全に離脱することができた。その後も酸素マスクによる酸素吸入を必要とする状態で呼吸状態の改善は十分でなく、同月中も38度から39度の発熱が続くなど、全身状態はむしろ悪化しているとも評価できる状態の時期もあったが、下記のとおりステロイド治療を開始するなどして症状は改善に向かい、同月28日以降は容態が落ち着いた。また、経管栄養による栄養投与が続いていたところ、同年7月8日の昼食からは経口食を摂取することができるようになった。
難航していた原因疾患の特定についても、同年5月29日に行った生検の結果について、同年6月4日、皮膚科より、「口唇生検の結果、唾液腺に形質細胞の湿潤が著明であり、シェーグレン症候群と診断できる。」旨の連絡が入ったほか(皮膚科においては、同月13日、「組織学的にはシェーグレン症候群である。」旨診断を決定した。)、同月12日には、気管支肺胞洗浄液の検査から、間質性肺炎であるとの判断が可能になり、さらに、上記のとおり、原告の呼吸状態が改善し移動に耐えられると認められたため、同月14日、被告病院放射線科の検査室において原告のCT撮影が行われ、その結果、間質性肺炎の診断が得られた。
このように原因疾患が特定できたことを受け、同月17日、原告に対してステロイド治療が開始された。一般に、間質性肺炎の場合はステロイド剤が有効であるとされるが、他方、ステロイド剤を投与すると、感染症に罹患しやすくなるため、細菌性の肺炎等感染症に対する治療には適しないものとされる。しかし、原告の場合、呼吸状態の改善が不十分であり、39度の発熱があるなど症状の増悪が見られたため、ステロイド剤投与に踏み切ることとしたものである。3日間は、ステロイド剤(商品名ソル・メドロール)1回1グラムの投与を行い、同月19日にはこれが間質性肺炎に奏効していることが認められたため、同月20日からはステロイド剤を変更し(商品名プレドニン)、治療を続けた。
以上のとおり、原告の病名については、シェーグレン症候群及びこれに伴う膠原病性間質性肺炎である旨、最終的な診断が下されることとなった。前者は原因不明の自己免疫疾患であり、後者は、各種の原因疾患により発症し、肺胞の外側に位置する血管、リンパ管、結合組織等に生じる肺炎であるが、後者は、厚生省により難治性特定疾患に認定された、いわゆる難病であって、原告は、重症度Ⅲ度ないしⅣ度と診断され、後に特定疾患医療費の給付を受けている。
イ 褥瘡治療は、呼吸器内科の看護婦が、皮膚科医師の往診を得ながら(同年6月28日、同年7月2日、同月5日、同月12日、同月16日、同月23日、同月30日、同年8月2日、同月6日、同月13日、同月16日、同月23日、同年9月3日、同月7日及び同月10日)、褥瘡の看護計画を立て、約1週間に1度看護の当否を評価しつつ(同年6月14日、同月21日、同月28日、同月29日、同年7月2日、同月5日、同月12日等)、ほぼ毎日処置を行っていた。
同年6月14日ころからしばらくは、仙骨部の褥瘡は拡大し、中央部組織の黒色化(壊死)、周囲表皮の剥奪離、大量の浸出という状態が続いたが、皮膚科医師による壊死組織のデブリートメント(仙骨部のデブリートメントは、同年6月28日、同年7月2日、同月5日、同月12日、同月16日、同月30日及び同年8月2日に、左踵部のデブリートメントは同月16日に、それぞれ行われている。)、イソジン消毒、生理食塩水での洗浄、ユーパスタ軟膏、繊維性浸出液、壊死組織等を除去する繊維素溶解酵素剤(商品名エレース軟膏)、各種皮膚潰瘍用の感染治療剤(商品名ゲーベンクリーム)、消毒剤であるヨウ素(商品名カデックス)等の投与等の治療により、仙骨部は同年7月下旬ころから次第に新しい肉芽の盛り上がりが見られるようになり、同年8月中旬には壊死組織が消失し、左踵部もそのころには新しい肉芽が盛り上がるなど順調に回復を続け、同年9月の退院時には、原告の家族により自宅で褥瘡治療を続けられるまでに回復した。
ウ 同年9月18日、原告は退院し、以後、肺炎及び褥瘡について、被告病院の呼吸器内科及び皮膚科にそれぞれ通院して治療を続けるようになった。
(24) 現在の状況
ア 原告は、平成11年12月現在、被告病院呼吸器内科に通院を続け、ステロイド剤の投与を受けるなど肺炎の治療を続けている。
イ 原告の仙骨部には、現在、有痛性瘢痕が残存している。また、原告には、両腓骨神経麻痺があり、その関連で、両側下肢の軽度の障害、特に両下肢足関節機能の著しい障害がある(身体障害者福祉法施行規則別表第5号身体障害者障害程度等級表5級相当)。
2 争点(1)(本件期間における被告の褥瘡発生防止義務違反の有無)について
(1) 被告人は、診療契約の一内容として、原告に対して褥瘡発生を防止すべき看護管理上の義務を負っていたものということができるが、原告の仙骨部及び左踵部に褥瘡が発生したことは争いのない事実のとおりであって、特に、原告の仙骨部には、現在、有痛性瘢痕が残存しているものである(上記1(24)イ)。
しかし、褥瘡が発生したからといって、ただちに褥瘡発生防止義務違反として被告に債務不履行責任が生じると解するのは相当ではなく、治療行為を行う際に一般的に要求される義務を怠ったといえる場合に被告に債務不履行責任が生ずるものというべきである。
(2) 争いのない事実、証拠(甲2の1、2、乙1ないし4、乙6、証人石田千鶴、同A、鑑定人鈴川正之)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
ア 褥瘡
褥瘡とは、長時間臥床しているときに、骨の突出した部位の皮膚及び軟部組織が、骨と病床との間で長時間圧迫されることにより循環障害を起こし、壊死した状態をいい、直接の発生原因は、一定の場所に一定時間以上一定以上の圧力が加わることにある。通常は適宜寝返りを打つなどして患者が無意識のうちに除圧を図るが、運動障害等のために自分で除圧できない場合には、褥瘡が生じやすくなる。ただし、褥瘡は、血圧、静脈圧、酸素の量、浮腫の状況、栄養状態等患者の全身状態によっても影響を受けるため、体位交換を行えば必ず褥瘡発生を防止することができるわけではない。
とはいえ、褥瘡予防のための基本は体位交換であり、局部組織は、200ミリメートル水銀柱以上の圧力が2時間以上持続的に加わることで壊死を起こすことから、自力で体位を変え除圧をすることができない患者に対しては、原則として2時間に1回程度の体位交換を行い、一定の骨突起部上にかかっている圧力を取り除く必要がある。
イ 体位交換
(ア) 体位交換は、上記のとおり、原則として、自力による体位交換が不可能な患者について2時間に1回程度行うべきものであるが、体位交換の実施により、血圧低下、血液中の酸素量の減少、人工呼吸器とのファイティング等が生じることがあり、患者の容態によっては、これら体位交換による血圧、酸素量等の状態の変化に耐えられず、状態が悪化した場合に生命に危険を生じることがあるため、体位交換を行うに当たっては、このような危険を避けるべきものとされている。
(イ) 被告病院においては、一般に、自力で体位を変えることのできない患者に対して、偶数時間ごと、2時間おきに体位交換を行うこととされている。被告病院では、当該部屋を受け持つ2人の看護婦がペアになって体位交換を行うものであるが、自力で体位を変えることのできない患者に対する体位交換はルーティンワークとして行われるものであることから、このような体位交換の実施の有無は、看護記録に記載することを要しない取扱いが行われている。これは、同一勤務時間帯の中では同一の看護婦が同一の患者の体位交換を担当するため、体位交換の実施の有無を特に記載する必要がなく、担当看護婦が代わる場合でも、看護婦同士で体位交換の実施状況について申し送りをするので、看護記録に記載しなくとも業務に支障を来すようなことはないと考えられているからである。
(ウ) 原告は、人工呼吸器との同調のため鎮静剤及び筋弛緩剤が投与されて意識もなく、自ら体位交換を行うことができない状態にあった期間(本件期間がこれに当たる。)、被告病院の看護婦による体位交換の必要が生じたが、体位交換をすると血液中の酸素量や血圧が低下する場合があるため、特に重篤な呼吸不全状態にある原告については、動脈血酸素飽和度を90パーセント以上に保つことが非常に重要であった。そこで、原告の体位交換を担当する看護婦は、体位交換前に、まずパルスオキシメーターでその時点の動脈血酸素飽和度を確認し、これが94パーセントくらいであれば体位交換を行い、90パーセントを下回る場合には絶対に行わず、91ないし93パーセントの場合には、様子を見ながら試行してみるが、いずれの場合でも、体位交換をしてみて動脈血酸素飽和度が90パーセントを切った場合は、すぐ体位を元に戻して動脈血酸素飽和度の上昇を図ることとして、以後、原告の呼吸状態がある程度改善するまでは、体位交換を実施するか否かを慎重に判断するものとした。
被告病院の看護婦は、本件期間中、以上の基準に従って原告の体位交換を実施していたが、上記のとおり、体位交換の実施の有無を看護記録に記載することはしなかった。
(エ) 呼吸不全の患者の容態の重篤度を示す数値としては、動脈血酸素飽和度、動脈血酸素分圧があるが、酸素投与が行われている場合には、動脈血酸素分圧値を吸入気酸素濃度で除した値(P/F比)によって重篤度を判断することができる。P/F比の正常値は、450ないし500ミリメートル水銀柱であり、呼吸不全の境界値である「空気呼吸下で動脈血酸素分圧60トル」という値は、P/F比300メリメートル水銀柱に相当する。よって、P/F比が300ミリメートル水銀柱以下の場合は呼吸不全状態に当たるが、中でも、P/F比200ミリメートル水銀柱以下の場合は急性呼吸促迫症候群と呼ばれ、救命が困難で死亡率の高い重篤な呼吸不全状態に当たる。P/F比が200ないし300ミリメートル水銀柱の間は、急性肺障害と呼ばれ、急性呼吸促迫症候群よりは軽症であるがそれでもなお呼吸不全と評価される状態である。
原告のP/F比は別紙2のとおり推移しているところ、これは、① 平成8年5月14日の来院直後から同月19日ころまで、100ミリメートル水銀柱前後の状態が続いた期間(以下「A期間」という。)、② その後同月30日ころまで、200ミリメートル水銀柱前後まで次第に上昇した期間(以下「B期間」という。)、③ その後同年6月18日ころまで、200ミリメートル水銀柱台前後で推移した期間(以下「C期間」という。)、④ その後ステロイド剤投与によって250ミリメートル水銀柱台から300ミリメートル水銀柱を越えるまで上昇するようになった期間(以下「D期間」という。)、の4時期に区分され、原告が覚醒した同年6月2日はC期間が始まった直後に当たる。
ウ 清拭
当時、8B病棟において、自力で入浴、清拭をすることができる患者は45人中10人程度であり、その他の患者の清拭は看護婦が介助して清拭を行っていた。清拭の内容、範囲は、患者の汚染の状態、疲労度等に応じて決めるもので、汚染が非常に激しい場合は、連日全身清拭を行うこともあるが、そうでない場合は、全身清拭は1日おきとし、その間に、上半身のみの清拭、下半身のみの清拭、洗髪、手浴、足浴等の部分清拭を組み込むこともあり、他方、汚染の少ない患者の場合は、全身清拭は3日に1度のこともある。そして、患者に対して行った清拭の日時・内容を1週間分の表に書き込み(保清表)、どの患者にいつどのような清拭を行ったか、誰でもすぐ確かめられるようにしておく。保清表は清拭が体位交換と異なり、ルーティンで内容や頻度が決まっているのではなく、個々の患者の状態に応じて内容を決める上、個々の患者を担当する看護婦が日によって変わるため作成されるもので、看護婦は、これを見てその日の担当患者について清潔援助の計画を立て、清拭を実施する(保清表は、正式な記録ではないため、作成後2週間でほとんど廃棄され、原告についての保清表も現在は残っていない。)。
原告は非常に発汗が多かったため、原告に対しては優先的に清拭を行っていた。平成8年5月14日の入院当初から同年6月30日まで個室にいる間、看護婦は、毎日全身清拭あるいは部分清拭を行っており、その割合は7対3くらいであった。また、同日大部屋に移ってからも、2日に1度程度は全身清拭あるいは部分清拭を組み合わせて行っていた。
エ 栄養管理
栄養投与の方法には、点滴の他に、口から摂取する経口栄養、消化器官へ通したチューブを通じて液体状の栄養剤を投与する経管栄養があり、経口栄養が最も優れているが、意識のない患者に対してはこの方法を用いることはできず、経管栄養も、全身状態の悪い患者の場合、胃等に内容物があると嘔吐等により気管内に吐瀉物が入り、各種合併症を引き起こす危険がある。
原告は平成8年5月14日時点で既に栄養障害を起こしている状態であり、かつ、極めて重篤な呼吸不全であったため、当初は経管栄養による栄養管理をすることができず、点滴を行わざるを得なかったが、同月19日からは経管栄養に切り替え、その後も徐々に経管栄養を増量していった。
(3) 上記(2)認定の事実に上記1認定の事実及び鑑定人鈴川正之の鑑定結果を加え、被告の褥瘡発生防止義務違反の有無について検討する。
ア 体位交換
(ア) 原告のP/F比の推移は別紙2のとおりであるが、本件期間は、100ミリメートル水銀柱前後であるA期間、その後200ミリメートル水銀柱まで次第に上昇したB期間、その後200ミリメートル水銀柱台前後で推移したC期間の3期間にまたがり、本件期間の始期である平成8年5月14日はA期間の開始の時点、本件期間の終期である平成8年6月2日はC期間の開始直後の時点に当たる。そして、P/F比が300ミリメートル水銀柱以下の場合は呼吸不全状態に当たるが、P/F比200ミリメートル水銀柱以下は急性呼吸促迫症候群と呼ばれ、救命が困難で死亡率の高い重篤な呼吸不全状態、P/F比が200ないし300ミリメートル水銀柱の間は急性肺障害と呼ばれ、急性呼吸促迫症候群よりは軽症であるがそれでもなお呼吸不全と評価される状態であることは上記認定のとおりである。
そうすると、A期間は、急性呼吸促迫症候群と呼ばれる、救命が困難で死亡率の高い重篤な呼吸不全状態であったから、体位交換を行うことによって動脈血酸素飽和度等が低下した場合に、人工呼吸器によって濃度100パーセントの酸素を投与するなどの治療を行ったとしても回復することができない危険性が現実のものとして存在したものと考えられる。したがって、原告の生命保持を最優先し、たとい褥瘡発生の危険性があったとしても、動脈血酸素飽和度等の低下の可能性がある体位交換を差し控えるべき時期であったといえる。
次に、B期間は、A期間に比較すれば改善が見られるものの、依然として急性呼吸促迫症候群に属するか、又はこれから若干程度だけ離脱しかかった状態にすぎないものと考えられるから、死亡率の高い危険な状態であることに変わりがなく、呼吸状態いかんで注意深く体位交換を試行してみることは可能であるが、機械的に2時間おきの体位交換を行うことは厳に慎まなければならない時期であったといえる。
さらに、C期間は、死亡率の高い危険な状態は脱しているものの、なお呼吸不全状態(急性肺障害)が続いているばかりでなく、P/F比は、ほとんどの期間にわたって250ミリメートル水銀柱を下回っていることを考えると、動脈血酸素飽和度等の低下をもたらす体位交換に慎重な姿勢をとることは十分理由があるものといえる。
加えて、本件期間の終期である同月2日の時点に至るまで、各種検査にもかかわらず、原因疾患がいまだ特定されていなかったところ、このことは、原告については、体位交換により状態が悪化した場合に、これを回復する手段を的確に選択することが難しい状態にあったことを示すものということができる。
(イ) このような状態の中で、被告病院の看護婦は、本件期間中、上記2(2)イ(ウ)認定のとおり、原告に対し、動脈血酸素飽和度が94パーセント以上であれば体位交換を行い、90パーセントを下回る場合は絶対に行わず、91ないし93パーセントの場合は、様子を見ながら試行してみるが、いずれの場合でも、体位交換をしてみて動脈血酸素飽和度が90パーセントを切った場合は、すぐ体位を元に戻して動脈血酸素飽和度の上昇を図ることとする等の方法で体位交換を行っていたものであることを考えると、たとい、結果的に2時間ごとの体位交換ができなかったとしても、このことをとらえて医療機関としての義務違反に当たるとすることは相当でないというべきである。
イ 清拭
被告病院の看護婦は、原告に対して優先的に清拭を行い、平成8年5月14日から同年6月30日まで個室にいる間は、全身清拭と部分清拭を組み合わせ、全身清拭が行われる日が7、部分清拭しか行われない日が3くらいの割合で、毎日清拭を行っていたものであることは上記1認定のとおりであり、このような清拭の実施状況について、被告病院に医療機関としての義務違反に当たるものがあるとすることは相当でないというべきである。
ウ その他
原告は平成8年5月14日時点で既に栄養障害の状態にあり、かつ、極めて重篤な呼吸不全に陥っていたため、当初は点滴による栄養管理を行わざるを得なかったが、同月19日からは経管栄養に切り替え、その後も徐々に経管栄養を増量していったこと、褥瘡発生に気づいた同日以後は、皮膚科医師の診察・治療を求めながら、看護計画を立てて褥瘡悪化の防止に努めていることは上記認定のとおりであり、これら被告の栄養管理や褥瘡治療の実施について、被告病院に医療機関としての義務違反に当たるものがあるということはできない。その他、本件期間中、被告に褥瘡発生防止義務違反があったことを認めるに足りる証拠はない(なお、原告は、褥瘡発生防止義務の一内容としてマッサージの実行をも挙げているが、褥瘡の発生の防止とマッサージの施術の実施との関連性については、これを認めるに足りる的確な証拠はない。)。
エ 以上の次第であるから、本件期間において被告に褥瘡発生防止義務違反があったとすることはできないものというべきである。
3 争点(2)(原告主張の両下肢下腿部の疲労感、疼痛等と褥瘡又はその壊死組織除去手術との因果関係の有無)について
原告は、本件期間中に生じた褥瘡又はその壊死組織除去手術に起因して両腓骨神経麻痺が生じ、両下腿部の疲労感、疼痛、硬直感等の感覚異常(上記1(24)イ参照)が発生したものと主張するが、原告主張のこれら両下肢下腿部の感覚異常と褥瘡又はその壊死組織除去手術との間の因果関係の存在を認めるに足りる証拠はない。また、仮にこの因果関係の存在を措定してみても、被告について褥瘡発生防止義務違反があったとすることができないことは前記2エ判示のとおりであるから、原告主張の両下肢下腿部の疲労感、疼痛等について、これを被告に帰責することは許されないものといわざるを得ない。
4 結論
以上の次第であるから、原告の請求はその余の点について判断するまでもなく、理由がない。
(裁判長裁判官・福岡右武、裁判官・藤原典子 裁判官・矢澤敬幸は、転補のため、署名押印することができない。裁判長裁判官・福岡右武)
別紙1、2<省略>