横浜地方裁判所 平成11年(行ウ)21号 判決 2000年11月29日
主文
一 被告川崎市長が原告に対して平成一〇年一二月一四日付けの一〇川財土第五六五号をもってした公文書非公開決定を取り消す。
二 原告の被告川崎市に対する請求を棄却する。
三 訴訟費用は、原告に生じた費用の五分の四と被告川崎市長に生じた費用を同被告の負担とし、原告に生じたその余の費用と被告川崎市に生じた費用を原告の負担とする。
事実及び理由
第一原告の請求
一 被告川崎市長(以下「被告市長」という。)が原告に対して平成一〇年一二月一四日付けの一〇川財土第五六五号をもってした公文書非公開決定(以下「本件決定」という。)を取り消す。
二 被告川崎市(以下「被告市」という。)は、原告に対し、金一〇〇万円及びこれに対する平成一〇年一二月一五日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の内容
一 概要
本件は、原告が川崎市情報公開条例(以下「本件条例」という。)に基づいてした不動産鑑定書の公開請求に対して被告市長が非公開決定をしたところ、原告がその取消しを求め、併せてその訴訟追行に要する弁護士費用相当額の損害賠償を被告市に求めた事案である。
二 前提となる事実(証拠により直接認められる事実については適宜主な証拠を事実の前後に記載する。それ以外は、争いのない事実である。)
1 当事者
原告は川崎市αに居住する者であり、被告市長は本件条例の実施機関である。
2 本件決定
原告は、平成一〇年一二月二日、被告市長に対し、本件条例に基づき、いすヾ自動車株式会社(以下「いすヾ自動車」という。)が所有するβの高等工業学校敷地(以下「本件土地」という。)を買い取ることとした際の資料である不動産鑑定書(以下「本件鑑定書」という。)の公開請求(以下「本件公開請求」という。)をした。これに対し、被告市長は、同月一四日付けで非公開とする旨の決定(本件決定)をした。
本件決定書の理由欄には、「本件条例七条一項三号イ該当。(理由)鑑定価格及び土地買収価格の算定根拠を公開することで、今後の同種事業の用地交渉に影響を与え適正な執行を妨げ、事務執行上重大な支障を生じることが明らかなため。また、専ら法人等の内部に関する情報のため。」と記載されていた(甲三)。
3 本件条例七条一項の定め
本件条例七条一項には、次のように定められている。
「実施機関は、次の各号のいずれかに該当する情報が記録されている公文書については、当該公文書の閲覧等を拒むことができる。
(1) 略
(2) 法人その他の団体(国及び地方公共団体を除く。以下この号において「法人等」という。)又は事業を営む個人の当該事業に関する情報であって、公開することにより、当該法人等又は当該個人の活動利益を害することが明らかであるもの。ただし、次に掲げる情報を除く。
ア 人の生命、身体又は健康を保護するため公開することが必要と認められる情報
イ 市民の生活に影響を及ぼす法人等又は個人の違法又は著しく不当な行為に関する情報
ウ ア又はイに掲げる情報に準ずる情報であって、公開することが公益上必要と認められるもの
(3) 市政執行に関する情報であって、次に掲げるもの
ア 略
イ 検査の計画、入札の予定価格、試験の問題、交渉の方針、争訟の処理方針等の市又は国等の機関が行う事務又は事業に関する情報であって、当該事務又は事業の性質上、公開することにより、当該事務又は事業の公正又は適正な執行を妨げるおそれのあるもの
ウからカ 略
(4) 法令の規定に基づき、公開することができないとされている情報」
三 主な争点とこれについての当事者の主張
1 非公開事由の存否
(被告らの主張)
(一) 価格折衝の難航による用地買収事務の支障
第二の二2に記載の土地(本件土地)は、首都高速道路公団が事業主体となって進めている高速川崎縦貫線の事業用地の地権者に代替地として処分するための用地である。被告市の用地買収システムによれば、買収対象地について、まず不動産鑑定士に鑑定を委託し、鑑定で得られた価格は、実際にはそのまま事業協力地権者に提示され、同意が得られれば、買収価格となる。したがって、本件鑑定書を公開することは、本件土地の買収価格を明らかにすることになる。
そうなると、未買収地の土地所有者が本件土地と自己所有土地との相違を正しく認識せずに自己に有利な価格を主張して、買収折衝が難航し、円滑な買収に支障が生じるおそれがある。
よって、本件鑑定書の公開は、本件条例七条一項三号イに該当する。
(二) 買収拒否による用地買収事務の支障
本件鑑定書を公開することは、買収交渉の相手方との取引価格を公開することであるから、取引価格を公開されることをおそれて用地買収交渉に応じない者も現われ、公共事業の円滑な執行に支障を生ずるおそれがある。
取引価格は、土地所有者の私的内部的な財産状況に関する情報であり、このような情報が保護されなければ、被告市と土地所有者との信頼関係は維持できない。
よって、本件鑑定書の公開は、本件条例七条一項三号イに該当する。
(三) 鑑定における情報量の低下による用地買収事務の支障
さらに、本件鑑定書中には、被告市が守秘義務を了承し、取扱いを誤ることがないとの信頼に基づき、取引事例の詳細な情報が記載されている。したがって、本件鑑定書を公開することは、被告市のような自治体等の公的機関に対する日本不動産鑑定士協会の信頼を著しく損なう。そして、今後は、鑑定書に詳細な情報が記載されなくなるなどして、事務の支障が生ずる。よって、本件鑑定書の公開は、本件条例七条一項三号イに該当する。
なお、(三)及び次の(四)は本件決定の理由には付記されていないが、このような理由も訴訟段階で主張することは許される。
(四) 不動産鑑定士の活動利益の侵害、著作権法による公開禁止の違反、用地買収事務の支障
本件鑑定書は、不動産鑑定士の著作物であり、その公表権は著作者にあり、これを被告市が公表することはできない(著作権―法平成一一年法律第四三号による改正前のもの。以下同様。―一八条・五九条)。それにもかかわらず、これを公表(公開)すると、著作者人格権を侵害することになり、不動産鑑定士の活動利益を害し、今後の鑑定委託が円滑に行われなくなり、被告市の用地買収事務に支障を来す。よって、本件鑑定書の公開は、本件条例七条一項二号、同項三号イ、同項四号に該当する。
(原告の主張)
(一) 解釈の指針
(1) 「国及び地方公共団体は、土地に関する施策の円滑な実施に資するため、個人の権利利益の保護に配慮しつつ、国民に対し、土地の所有及び利用の状況、地価の動向等の土地に関する情報を提供するように努めるものとする。」とされている(土地基本法一七条二項)。土地基本法によって設置された土地政策審議会(内閣総理大臣の諮問機関)は、「土地の実売買価格は個人の基本的人権に関わる情報とはいえず、その開示がプライバシーの侵害に当たるとは考えられない。」との判断を示している。このことは、自治体については、一層当てはまる。その理由としては、まず土地などの財産の取得に関する情報が得られなければ住民監査請求の前提が確保されないからである。第二に、公金を支出する土地の買受けには透明性が要請されるからであり、第三に地方公共団体による土地の買受けは地価公示法九条又は公有地の拡大の推進に関する法律(以下「公有地拡大推進法」という。)七条により公示価格を規準とするとされ、売主の主観的要素が反映することがないからである。このようなことから土地の価格についての情報は公開されることが要請されている。
(2) また、本件条例は、市民の知る権利を保障することが市政への市民の参加を推進することになり、公正かつ民主的な市政の確立することになるという考え方に基づくものである。公開に伴う支障の有無は、公開によって得られる公の利益との比較考量を踏まえて判断されるべきである。
(3) さらに、一般に条例は国の法令に違反することはできない(地方自治法一四条一項)ところ、行政機関の保有する情報の公開に関する法律(以下「情報公開法」という。)は、情報を開示することによる利益と開示によりもたらされる支障とを比較考量する趣旨を定めている(五条五号)。そして、本件条例は対応する情報公開法と規定の構造を同じくするから、同趣旨に解するべきである。
(二) 価格折衝の難航による用地買収事務の支障の不存在
土地の価格は所在地や形状によって千差万別であるから、一か所の土地の鑑定価格の公開が市内全域の用地交渉に影響するようなことはあり得ない。買収交渉に際し、合理的説得に応じない者もあろうが、公共事業の場合には土地収用法というムチが、他方で租税特別措置法というアメが用意されているから、売主の不合理な反対は、客観的支障とはならない。別件でされた調査嘱託に対する回答において、政令指定都市の中でも、他ならぬ被告市を含む三市が公社保有地の価格を全部公開しているが、そのことにより用地買収事務に支障はないとの回答をしている。本件で被告市長が事務支障を理由に非公開とするのは、右の回答と自己矛盾している。
被告市長がそのような対応をするのは、川崎縦貫道汚職事件に絡む被告市といすヾ自動車の密約を市民の目から覆い隠そうとしていることの現れである。すなわち、①被告市が訴外三田工業株式会社(以下「三田工業」という。)に対し、訴外日本金属工業株式会社(以下「日金工」という。)から買い取った川崎市γの土地の一部(一九八三・四七平方メートル。以下「δの土地(三田工業分)」という。)を、適正価格よりも一億五〇〇〇万円低い価格で売り渡すこと、②その反面、いすヾ自動車には右土地の残りの部分(以下「δの土地(いすヾ自動車分)」という。)を一億五〇〇〇万円高い価格で売り渡すことにより、日金工から買い受けた右δの土地全体の売買に関しては、被告市の損失がみかけ上は発生しないようにすること、③右②の措置は、当然いすヾ自動車の納得しないところであるので、いすヾ自動車所有の高等工業学校敷地(本件土地)を適正価格より一億八〇〇〇万円高い価格で被告市が買い上げることにより、いすヾ自動車には損失を発生させないこと(結局①の廉価払い下げによる損失は、③により被告市自身が負担すること)を骨子とする一連の不正な事務処理が平成七年から八年にかけて被告市役所内で推進されていたことが判明している。本件鑑定書は、右③の高等工業学校敷地(本件土地)の売買に関連して、本件土地の価格を鑑定したものである。
なお、本件決定は、専ら法人等の内部に関する情報のためという理由を挙げているが、保護する必要があるのは、法人等の固有の機密事項を含んだ内部情報であり、土地価格は客観的なものであり、これに該当しない。
(三) 買収拒否による用地買収事務の支障の不存在
被告らは、買収土地の価格が公開されると、今後そのことをおそれて用地買収に協力しない者が現れ、用地買収事務の支障が生じる旨を主張する。しかし、租税特別措置が施され、税負担が低いという動機付けがある以上、被告らの右の懸念は現実的ではない。
被告らは、買収価格を公開すると買収の相手方との信頼関係が維持できない旨を主張するが、土地の取得価格は、土地の客観的な価値により一律に決定され、相手方との交渉の余地が少ないから、公開することにより相手方との信頼関係を損なうものではない。
(四) 鑑定における情報量の低下による用地買収事務の支障の不存在
被告らは、本件鑑定書を公開すると、不動産鑑定士協会からの信頼を損ない、鑑定書への詳細な情報の記載が行われなくなり、今後の事務に支障を来す旨を主張する。しかし、著名な不動産鑑定士兼弁護士が、取引事例等を公開しても、その事務の公正かつ能率的な遂行を不当に阻害するおそれはなく、公開することがかえって公正な事務の遂行に寄与するとの意見を述べている。公益性の強い情報であれば、公開の要請が優先される。
なお、(四)及び(五)に対応する被告らの主張は本件決定に付されていなかった理由であり、これを訴訟段階で主張することは許されない。
(五) 本件鑑定書の著作物性の不存在等
被告らは、本件鑑定書を公開すると不動産鑑定士の著作権を害する等の主張をするが、本件鑑定書は思想又は感情を創作的に表現したことを要件とする著作権法上の著作物ではない。仮に該当する余地があるとすれば、評価額決定の判断過程の記述であるが、本件鑑定書では一般的方法によっていると見られるので、学術性・独創性はなく、著作物に該当しない。
仮に著作物性があるとしても、公表権は著作物の譲渡により譲受人に移転する(著作権法一八条二項一号)から、本件鑑定書の公表権は、本件鑑定書が被告市に交付された後は被告市に移転した。したがって、本件鑑定書の内容を公表すべきかどうかは鑑定依頼人たる被告市を基準に論ずれば足りる。
(原告の主張に対する被告らの反論)
(一) 原告は、土地基本法一七条二項及び土地政策審議会提言を根拠とする主張をしているが、本件鑑定書の公開の要否は本件条例に基づき判断されるべきで、それ以外の規定や提言を考慮する余地はない。
(二) 原告は、監査請求を実効的にさせるため価格の公開が要請される旨を主張する。しかし、本件条例七条一項三号は、公益性の有無・程度を考慮することにはなっていない。
(三) 原告は、自治体が購入する土地の価格は、地価公示法九条や公有地拡大推進法七条により公示価格を規準とするから、譲渡価格が公開されても支障は少ない旨を主張する。しかし、買収対象地の価格は公示価格からは見当がつくものではない。
(四) 情報公開法は本件決定時はもとより未だ施行されていないので、同法と整合的に解釈しなければならない理由はない。
(五) 本件鑑定書は被告市が不動産鑑定士に依頼して作成したものであり、被告市は、その交付を受けたが、著作権自体は被告市に移転したわけではない。著作権の移転を前提とする原告の主張は失当である。
2 部分公開の可否
(被告らの主張)
本件鑑定書の全体が著作物として非公開とされるべきであるから、部分公開はできない。仮にそうでないとしても、原告は本件鑑定書の価格の部分を知ることにその目的があったところ、価格の部分の公開は事務の支障となる。
したがって、価格以外の部分に公開できる部分があっても、原告の公開請求の趣旨が損なわれるので、結局、部分公開すべき場合に当たらない。
(原告の主張)
争う。
3 損害賠償請求の成否
(原告の主張)
違法な非公開処分を受けた者は、訴訟を提起する権利を有するが、被告市長(実施機関)と対等な立場に立つ必要から弁護士の選任を要する。したがって、違法な非公開決定とその取消訴訟に要する弁護士費用との間には因果関係がある。なお、原告の請求額は、弁護士報酬一四七万円の内金一〇〇万円であり、遅延損害金の起算日は、本件決定の翌日である。
(被告市の主張)
本件決定が適法であるから、損害賠償請求は理由がない。
また、仮に本件決定が違法であるとしても、法令の解釈につき異なる見解が対立していて、実務の取扱いも分かれているときに、一応の論拠の認められる見解によった以上、そのことに過失はなく、被告市は損害賠償責任を負わない。
第三争点についての当裁判所の判断(証拠等により直接認められる事実については、主な証拠等を当該事実の前後に記載する。争いのない事実及び一度認定した事実は、原則として、その旨を断らない。書証の成立は弁論の全趣旨により認められる。)
一 事務支障の有無
1 被告らの主張内容
本件決定の理由欄には「今後の同種事業の用地父渉に影響を与え、…事務執行上重大な支障を生じる…」とあり、被告らは、本件決定の理由の一つとして、用地買収事務の支障を主張する。そこで、まず被告ら主張の用地買収事務と本件鑑定書の関係を検討する。
2 経緯
(一) 被告市においては、市の縦断方向(北西から南東方向)の交通処理機能が不足しているために、その強化をすることとし、昭和六〇年一二月ころ川崎縦貫道路計画が具体化され、一般道路部は建設省が、自動車専用部は首都高速道路公団(以下「公団」という。)が各事業主体となり、平成三年三月には、公団に高速川崎縦貫線の都市計画事業承認がされ、現在公団は、用地取得及び施工を行っており、平成一一年一月末現在の用地取得の状況は事業に必要な面積三五・七ヘクタールのうちの約八〇パーセントに相当する二八・六ヘクタールである(乙一〇、弁論の全趣旨)。
被告市は、右の川崎縦貫道路事業を支援し、公団の用地買収に伴う住民等の生活再建対策を行う立場から、事業に協力する事業用地の地権者に代替地として土地を売却することとし、その代替地として提供するための土地を取得して、事業用地の地権者にこれを提供する業務を行ってきた(乙六、弁論の全趣旨)。
(二) 本件土地は、高速川崎縦貫線用地の地権者に代替地として提供するために、被告市がいすヾ自動車から取得する手続が進行中のものである。
すなわち、いすヾ自動車は、平成七年三月にその川崎工場の一部を土地収用法に基づき公団に売却した。いすヾ自動車は、その代替地を探していたところ、平成九年三月四日δの土地(いすヾ自動車分)八五二九・八六平方メートルを被告市から三四億〇一六二万二八六九円(平方メートル単価三九万八七九〇円)で買い受けることとなり、同月二五日に代金支払及び所有権移転登記がされた。もっとも、いすヾ自動車は、当初、δの土地(いすヾ自動車分)の買受けに関し被告市の担当者(A元用地部長)の提示額を了承していなかった。ところが、後記(三)のとおり、いすヾ自動車が所有する本件土地の被告市への売却価格について被告市からいすヾ自動車の了承する額による旨の確認書が提示されたので、いすヾ自動車は、δの土地(いすヾ自動車分)を買い受けたものである。(甲一・二)
(三) いすヾ自動車は、δの土地(いすヾ自動車分)の買受けと並行していすヾ自動車所有でいすヾ自動車川崎高等工業学校敷地であった本件土地(川崎市β六番二号所在の二七三一・五七平方メートル)を被告市の事業用代替地として公有地拡大推進法に従い被告市に売却する話を進めており、平成九年三月四日のδの土地(いすヾ自動車分)の買受契約締結日までに、本件土地上の建物、付属設備、構築物等を解体・撤去し、更地とし、被告市から本件土地の冒受価格等を記載した「高速川崎縦貫線事業協力者のための代替地提供に関する確認書」(以下「確認書」という。)が提示されるに至った。(甲一・二。なお、この確認書に記載された買受価格は、坪当たり一五四万〇〇四六円であるとの被告市の担当者の検察官に対する供述調書―甲一三―の提出はあるが、確認書自体の提出はない。)
そこで、いすヾ自動車は、先のとおりの価格で被告市からδの土地(いすヾ自動車分)を買い受ける旨の契約を締結し、次いで本件土地の売却契約を締結する予定でいたところ、被告市の前記元用地部長による収賄事件が発覚したため、本件土地の売却の手続が中断した。その後、いすヾ自動車は、被告市から本件土地の買受契約締結不能の通知を受けたが、平成一〇年一一月三〇日現在、民事訴訟の経緯を見ながら対処したいとの態度を取っていた。(甲一・二・一三・乙一五)
なお、右の民事訴訟とは、三田工業にδの土地(三田工業分)の返還を求めた住民訴訟(当庁平成九年(行ウ)第五八号)のことと思われるが、この事件については平成一一年九月二二日に当部で判決が言い渡された(職務上知り得た事実)。
(四) ところで、被告市が代替用地を買い受ける場合には、一般に次のような手続を経る。すなわち、買収対象土地の価格について不動産鑑定士に鑑定を依頼する。完成した鑑定評価を資料として、被告市の内部組織である代替地取得・処分委員会が買収対象土地の買収価格を審査、決定する。担当部局は、この価格を地権者に提示して、交渉し、合意に至れば売買契約を締結する。(乙一一、証人B、弁論の全趣旨)
本件鑑定書は、被告市がいすヾ自動車から本件土地を買い受ける場合の価格を鑑定したものである(被告らの自認する事実)ところ、右のとおりの被告市の内部の事務手続の進め方から見て、被告市において本件土地の購入のための鑑定書が作成され、その後に(三)のとおり確認書がいすヾ自動車に提示されたであろうから、本件鑑定書の作成時期は平成八年ころ以降で平成九年三月四日までのことと認めることができる。
なお、本件土地の買受け申込みに際しては、鑑定書が複数作成され、最終的に作成された鑑定書は、本件土地の価格を別記(三)の確認書記載と同額の坪当たり一五四万〇〇四六円としていた旨を記載した被告市の担当者の供述調書(甲一三)がある。他方、本件公開請求は、「本件土地を買い取ることとした際の資料である鑑定書」の公開を求めたものであるから、右供述どおり複数の鑑定書があるとすれば、本件公開請求で求められた本件鑑定書とは、最終の右の価格に対応したものとなると思われる。
3 近隣地権者との価格折衝の難航による代替地取得事業の支障の有無
(一) そこで、次に右2の経緯を踏まえて、検討する。
まず、被告らは、本件鑑定書の公開により本件土地の買受価格が判明すると、近隣の地権者がそれとの比較で自身の土地に対する被告市からの買受申入価格が低いといった意見を述べるなどして、それらの地権者からの買受けが困難となる旨を主張する。
(二) しかし、一般にある売却土地についての価格が判明しても、近隣地の売却価格が当然に同じ額になるものではないし、機械的に算出されるものでもない。元来、形状、地形、方位、道路等の公共施設との位置関係等の個別要因によって、隣接する土地相互でさえ、その売却価格の単価に差があるのが通例である。そうすると、本件土地の買受価格を示すことになる本件鑑定書が公文書公開制度により公開(以下「開示」ということがある。)されたからといって、近隣地の地権者が、自己の土地の売却に際し、土地毎の個別の差異を無視して、本件土地の価格と同一の価格に固執するとは考え難いし、仮に固執する者がいても、実効性のある行動ではない上、保護に値することでもないから、本件土地の買受予定価格を意味する本件鑑定書の開示が、近隣の地権者からの代替地買受事務にとって有意な支障になるということはできない。仮に被告市が近隣地権者からの土地の買受けに成功しなくても、その原因が本件鑑定書の開示にあるということは考え難いのであり、真の実質的な原因は、地権者が土地を換金したくない強い意向を有しているか、地権者の希望売却価格が被告市の買受申入価格と隔たりがあるという点にあると考えられるのである。
(三) しかも、被告市が地権者から買い受ける価格は、地価公示法六条の公示価格を規準として算定した価格をもってその価格としなければならない(公有地拡大推進法七条)し、この規定を踏まえて具体的な買受価格が鑑定により定まった場合、その価格を地権者との交渉によって変更することはできないのであり、唯一変更することができるのは、時期が経過して、新たに評価をし直す時であるにすぎない(証人B)。このように、近隣の地権者に対する被告市による買受申入価格は本件土地の買受申入価格と別個であり、かつ両者共に変更のしようがないのであるから、買受申入価格を開示しては用地買収事務に支障を来すという議論の前提自体そもそも論理的には意味がないことである。本件土地の買受価格が地権者に判明するようだと被告市の担当者が手の内を見せてしまうので事務の支障となるとの供述がある(証人B)が、それも論理的ではない。のみならず、近隣の地権者に対して買受価格を提示せずに買受交渉をするということは通常考えられないのであり、そのようなことがあるとすれば、それはむしろ適当でないと思われる。
(四) もちろん、買収事務を進める立場からは、およそ価格が近隣地権者に開示されない方が効率が上がることはうかがわれ、被告らとしては、支障となる事由はいくら些細に見えることでも除くべきであり、本件鑑定書は非公開とされるべきであるとの趣旨を主張するものと思われる。
しかし、近隣地権者の右のような対応は、非合理的なものであって、本来保護に値しないものであり、被告市が右のようなことを理由に本件土地についての本件鑑定書の開示を拒否することは、保護に値しない近隣地権者の主張を結果的に保護することになり、相当ではないのである。もちろん、近隣の地権者にそのような対応をする手懸かりを与えること(本件鑑定書の開示も手懸かりの一つであろう。)により、買収事務が遅れることは予想される。しかし、近隣地権者からのその土地の買収目的は公共事業用地の地権者に代替地として提供するための土地の取得であり、公共事業用地そのものを取得するためではないから、その土地についての買収に手間取り、また買収自体が失敗に終わることがあっても、やむを得ないのであり、そのようなことは、代替地買収事務全体にとっては予想されていることであり、事務の支障とはいえない。また、近隣地権者には、代替地取得対象地ではなく、高速川崎縦貫線事業用地そのものの所有者がいる可能性もあり(乙七から九)、その者が本件土地の買受申入価格を知ることにより自己の所有地の売却価格との相異を主張して、買収に応じないとの態度をとる抽象的な可能性はあるが、本件においてそのような具体的事実はないし、仮に万一あっても、そのような稀な場合には最後の手段としての土地収用の制度があるから、そのようなことをも踏まえると、本件鑑定書の開示が、近隣地権者からの買収に際しての価格折衝を難航させ、右の用地買収事務の支障となるということはできない。
なお、この点は、原告主張のような解釈の指針という一般論から出発する必要はなく、被告ら主張のように本件条例の該当条項(七条一項三号イ)の解釈という点から出発するだけで十分である。ただし、そうした場合に、被告ら主張のような解釈となるのではなく、事務の支障とはならないとの解釈上の結論が導かれるということである。
(五) 以上のとおりであり、本件鑑定書の開示により近隣の地権者との価格折衝が難航して近隣の代替地取得事業に支障が生ずるとの被告らの主張は認められず、このことを非公開決定の理由とすることはできない。
4 近隣地権者の買収拒否による用地買収事務に対する支障の有無
(一) 被告らは、本件鑑定書が公開されると、近隣の地権者の土地の買収においてもその土地に係る鑑定書が開示されることになるところ、それでは近隣地権者が買収に協力しなくなるので、結局本件鑑定書の開示は、公共事業の円滑な事務の支障をもたらすおそれがある旨を主張する。
しかし、近隣の地権者が買収に応じるかどうかを決定する要素として重要なものは、当該土地保有への強いこだわりの事情があるかどうか、買収価格が高額かどうかであると考えられる。しかも、租税特別措置が施され、売却に伴う譲渡所得税について特別控除があるためその税負担が低く、私人に売却する場合と異なり、仲介手数料及び不動産登記手数料の負担の心配もない(証人B)。したがって、売却価格が買収後に開示されるかもしれないということが理由となって、地権者が売却に応じないのではないかとの懸念は、現実的ではない。そうすると、鑑定書が買収事務の終了後に開示されることが理由で当該土地の地権者との関係で買収事務の支障が生じるとはいえない。なお、3(四)で述べたことはここでも同様に当てはまる。
これに対し、買収事務が行われている過程の、未だ合意が成立する前の時期に買受申入価格が鑑定書の開示という方法により開示されるということになると、地権者の中には、買受申入価格情報を得た第三者の行動如何では不愉快な気持ともなり、結果的に買収自体を拒否することになる者もあるかもしれない。このように買収交渉途上の土地について買受申入価格が第三者によって交渉途上に知られることは、事実上ではあるが、またそれほど多くはないと思われるが、被告市の買収事務の支障ともなり、かつ、これを制限しても事後の開示は前記のとおり認めることができるので、文書公開制度を利用する者に著しく制限を加えることにもならない。したがって、当該土地自体についての買収が終了する前の時期における当該土地の鑑定書の第三者からの公開請求による開示については、当該土地の買収事務の支障となるおそれがあると解することもできる。
(二) (一)のとおり、買収事務の終了後の鑑定書の開示は事務の支障とは認められないが、買収事務の終了前の開示は買収事務の支障となるおそれがあるとの事由に該当する場合もあると考えられるので、本件鑑定書の開示が買収事務の支障につながる事前開示の性質を有する例となるかどうかを検討する。
被告市は、いすヾ自動車からの本件土地の買受交渉に先立ち不動産鑑定士に本件土地の価格の鑑定を依頼し、その結果作成されたのが、本件鑑定書である。そして、被告市は、本件鑑定書の作成後に、鑑定書の評価額を踏まえていすヾ自動車から本件土地を買い受けるための交渉を継続し、いすヾ自動車の了承を得られる買受価格を記載した確認書を提示し、いすヾ自動車の本件土地の売却についての内諾を得るに至った(甲二)。そして、いすヾ自動車は、この合意(法律的には売買の予約と考えるべきであろう。)を平成一〇年一一月三〇日現在被告市の解消意向に反してなお存続させる意思を表明している(2(三))のであるから、その後の同年一二月二日にされた本件公開請求は、買受けの予約の合意が成立した後のものであり、実質的には、買収合意後のものということが相当である。したがって、本件鑑定書が開示されても、いすヾ自動車がそれにより本件土地の売却を続行することが困難となるという関係にはない。また、被告市は、既に同年一一月三〇日までに本件土地の買受けを解消したい意向をいすヾ自動車に表明しており(2(三))、本件土地の買収事務を完結することに消極的である。
このように、本件鑑定書の開示は、実質的な買受けの合意が終了した後のことである上、そもそも本件土地の買収事務を解消したい被告市にとっては、本件土地の買収事務の続行の支障ということを考慮する状況にはないわけであるから、本件は特殊な事案である。つまり、一般には買収事務の途上で対象地についての鑑定書が開示されるとその事務の支障となる可能性があるが、本件の場合には、そのような影響がない。そうすると、本件鑑定書の開示は、対象地の買収事務に支障が出る可能性があるのに第三者に開示されたという意味の一例となるものではなく、これが一つの例になって、近隣の地権者の土地についてその買収完了前にその鑑定価格あるいは買受申入価格が開示されるということに結びつくわけではない。そのことは、被告市から今後の近隣の土地の買収事務を進めるに当たって、当該地権者に説明することができることである。したがって、本件鑑定書の開示は、近隣の土地の今後の買収事務に際し事前開示を認めることになるものではなく、その事務の支障をもたらすおそれがあるわけではない。
5 いすヾ自動車からの信頼の喪失のおそれの有無
また、被告らは、取引価格は地権者の内部的な財産状況に関する情報であるから、これが保護されなければ信頼関係が損なわれると主張する。これは、いすヾ自動車からの買受予定価格の開示がいすヾ自動車との信頼関係を損ない、買収事務の支障につながるとの趣旨と解される。
しかし、前記のとおり、いすヾ自動車としては、本件土地についての売買予約に従い被告市が確認書で約束した価格で本件土地を買い取ってくれることを強く希望しているのであり、それと対比すると、本件鑑定書の開示云々ということはそれほど重大な問題ではない。したがって、買受けの予約を解消しようとする被告市の対応によりいすヾ自動車からの被告市に対する信頼は既に相当程度損なわれており、かつ、本件鑑定書の開示によりいすヾ自動車からの信頼喪失が加重される関係にあるとはいえない。よって、右の被告らの主張も理由がない。
6 鑑定士協会からの信頼喪失による事務支障の有無
(一) 被告らは、守秘義務を前提に不動産鑑定士に鑑定を依頼しているし、鑑定書には詳細な取引事例が記載されているので、本件鑑定書を公開することは、日本不動産鑑定士協会の被告市のような自治体等の公的機関に対する信頼を著しく損ない、今後、鑑定書に詳細な情報が記載されなくなり、被告市の用地買収事務に支障が生ずる旨を主張する。
(二) ところで、(一)の理由は、本件決定には付記されていなかった理由であるので、まず、このような理由を本訴において新たに主張することができるかを検討する。
この点については、結論的にいうと、新たな主張は許されると解するべきである(最高裁平成一一年一一月一九日第二小法廷判決・民集五三巻八号一八六二頁参照)。その理由は、次のとおりと考えられる。すなわち、本件条例に基づく公文書の公開請求をした者が、aという理由でされた非公開決定の取消訴訟を提起して勝訴しても、その後に実施機関が当該文書の公開・非公開の決定をする時には、その決定時期が異なるため、その決定は処分としては当初の決定とは別個のものとして扱われることになり、実施機関は判決の拘束力によりaという理由では非公開決定はできないが、bという理由で再度非公開決定を行うことができ、これは判決の効力に抵触するものではないと考えられる。このように同一人からの同一文書についての一個の請求事案という紛争が一個の訴訟で解決されないという可能性があるわけである。そのようなことを踏まえると、当初の訴訟で実施機関がaという理由だけではなく、bという理由についても主張する意思があるならこれを許し、できるだけ少ない回数の訴訟で同一文書の公開・非公開の最終決定まで行われるようにすることが重要である。もちろん、このようにすると、bという理由による判断の公正妥当を担保し不服申立ての便宜を与えるという理由付記制度の目的が維持されないことになるが、それでも、aという理由に基づく非公開決定の適否を審理判断した後に、bという理由で再度非公開決定がされ、これにつき改めて審理判断することに比べれば、全体としてみれば、なお優るということである。もちろん、当初の非公開決定の際にa及びbの理由に基づいて判断され、訴訟になってもa及びbの理由の当否が争点となり、その結果実施機関が敗訴すれば、判決の拘束力により文書が開示されるという運用が理想ではある。ただ、理想どおりに運ばない場合において、当初の非公開決定時に理由とすることのなかった事由でも、それが決定時の理由とされなかったことに背信的な事情でもない限り、訴訟段階でこれを主張することが許されるとするのが、それを許さないということよりもなお優るので、やむを得ず、これを認めることとするという趣旨である。
そして、本件決定に関し、右の背信的事情があったとは認められない。
(三) そこで、(一)の被告らの主張を検討する。
後記8後段の論点にも関連するが、まず被告市が本件鑑定書全体をおよそ他の者に開示しないという条件付きでその作成を不動産鑑定士に依頼したわけではない。また、一般に、不動産の鑑定を依頼した行政機関が鑑定書を裁判所に提出することなどは普通に行われており(甲一八)、不動産鑑定士としても、そのことは当然に了承していると思われる。したがって、本件鑑定書を開示することは、不動産鑑定士協会からの被告市に対する信頼の喪失を招くことにはならないし、用地買収事務の支障ともならない。
なお、鑑定書中に記載される取引事例などについては、取扱いを注意して、その部分にマスキングをして開示するなどの方法もあるので、そのような方法を利用すれば、鑑定書の開示に応じても不動産鑑定士や取引事例の取引当事者に予想外の迷惑を及ぼすことはないと考えられる。したがって、右のような点に配慮すれば、被告らの懸念するような意味での今後の鑑定依頼業務に対する鑑定の質を落とすこともない。
7 著作権の侵害等の有無
(一) 被告らは、「本件鑑定書は、不動産鑑定士の著作物であり、公表すると、著作者人格権を侵害することになり、不動産鑑定士の活動利益を害し、代替地買収事務にとって支障となる。したがって、本件鑑定書の公開は、本件条例七条一項二号、同項三号イ、同項四号に該当する。」旨を主張する。
(二) 本件決定の理由に付記されていない事由も訴訟段階で主張することができると解するべきことは、6(二)のとおりである。また、理由の追加だけではなく、該当条項の追加も同様の理由で許される。そこで、進んで、右(一)の被告らの主張が非公開事由となるかどうかを検討する。
不動産鑑定は、不動産鑑定士がその専門的知識と経験に基づき不動産の価格を評価するものであり、基本的には客観的事項を記載するものではあるが、創作的な表現部分もあるから、全体としては、著作物性を否定することはできない。したがって、不動産鑑定士には鑑定書を無断で公表されない権利がある。ただし、本件鑑定書のように行政機関から依頼を受けて作成し行政機関に交付した鑑定書については、特段の取り決めをしない限り、依頼行政機関が内部的にはもとより外部的にも法律に従いあるいは社会通念上許容される態様でこれを利用することは、不動産鑑定士も少なくとも黙示的には承諾しているのが通例と思われる。そうすると、特段の反証のない本件においては、本件鑑定書を作成した不動産鑑定士は右の点を黙示的には了承して本件鑑定書を被告市に交付したと認めるのが相当である。
したがって、本件鑑定書が開示されても、反証のない本件においては、作成者の不動産鑑定士はそのことを了承しているということができるから、本件鑑定書の開示は、著作者人格権を侵害しないし、不動産鑑定士の活動利益を害することもなく、代替地買収事務にとって支障ともならない。
8 まとめ
以上のとおり、本件鑑定書は基本的には非開示とする理由がないことになるので、本件決定は取り消さざるを得ない。
なお、本件決定の取消判決に基づいて本件鑑定書を開示する場合においては、前記のとおり部分的にマスキングをして全部開示をしないようにするのが適当な箇所(甲八・一八によれば、例えば、取引事例、鑑定人が鑑定書に押印した印影等)があるかもしれない。しかし、この論点は、被告らから、取引事例について本件条例七条一項三号イの事由の原因となるとの指摘がある(第二の三1(三))にとどまり、取引事例について同項一号(いわゆる個人識別情報)及び同項二号の非公開事由に該当するとの指摘はなく、鑑定人の印影については何らの指摘もないから、マスキングをするかどうか、その場合にどの程度行うか(取引事例についても所在地全部か、地番だけか等)の議論も必要となると考えられる。したがって、これらの点については、これ以上の判断は留保するのが適当であるが、いずれにしろ、本判決後の開示に際してはその取扱いについて注意する必要があると思われる。
二 損害賠償請求の成否
本件鑑定書のような文書の公開請求の扱いについては、諸説があり、非開示とした被告市長の処理は一応の見解に基づいたものであると解されるから、非開示とした本件決定に過失があるとまではいえない。したがって、原告の被告市に対する損害賠償請求は、理由がない。
三 結論
よって、原告の被告市長に対する本件決定の取消請求を認容し、被告市に対する損害賠償請求を棄却し、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 岡光民雄 裁判官 窪木稔 裁判官 平山馨)