横浜地方裁判所 平成12年(わ)572号 判決 2001年9月20日
主文
被告人Aを罰金五〇万円に、被告人Bを罰金三〇万円に、被告人Cを罰金四〇万円に、被告人Dを罰金三〇万円に、被告人Eを禁錮一年に、それぞれ処する。
上記被告人A、同B、同C、同Dにおいて、その罰金を完納することができないときは、金五〇〇〇円を一日に換算した期間、それぞれその被告人を労役場に留置する。
上記被告人Eに対し、この裁判が確定した日から三年間その刑の執行を猶予する。
被告人Fは無罪。
理由
(罪となるべき事実)
被告人Aは、横浜市立大学医学部附属病院第一外科部長及び同科内の心臓血管外科担当医師グループの指導者として、同科の医療行為全般を統轄するとともに、自らも同グループの医師等を指揮し、診察、治療、手術等の業務に従事していたもの、被告人Bは、同第一外科の病棟主治医グループの長として同病棟の入院患者に対する診察、治療、手術等の業務に従事していたもの、被告人Cは、同病院麻酔科医師として手術予定患者の麻酔管理等の業務に従事していたもの、被告人D(当時旧姓D')は、同病院の看護婦として第一外科病棟の入院患者に対する看護、診療介助等の業務に従事していたもの、被告人Eは、同病院の看護婦として手術における医師の介助等の業務に従事していたものであるが、平成一一年一月一一日、横浜市金沢区福浦<番地略>所在の同病院において、同病棟七階に入院中のG(大正一三年六月二一日生、当時七四歳)に対する僧帽弁形成又は置換の手術が同病院四階手術部三番手術室で、同じく同病棟七階に入院中のH(大正三年一〇月五日生、当時八四歳)に対する開胸生検・右肺上葉切除・リンパ節郭清の手術が同手術部一二番手術室で予定され、各被告人はこれを知っていたところ、
第1 被告人Dは、同日午前八時二〇分ころから午前八時三五分ころまでの間、前記患者両名を前記病棟から同病院四階手術室交換ホールへ搬送して手術室看護婦に引き渡すに当たり、患者の同一性を確認した上、これを一名ずつ確実に搬送して引き渡すのはもとより、仮に患者二名を同時に搬送して引き渡す場合においては、各患者の氏名等を一人ずつ確実に伝え、いずれの場合にあっても当該患者のカルテ、レントゲン写真、看護記録等(以下「カルテ等」という。)を、当該患者のものであることが判然分かるようにして同時的に引き渡すなどし、もって患者取り違えによる事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、同一時間帯の手術予定患者を遅滞なく搬送して引き渡す必要上、上記患者両名を同時に搬送したのに、上記交換ホール到着時に上記患者両名の姓を同時に告げるなどしたが、同交換ホール内の患者受渡窓口で一人目の患者Gを引き渡した際、手術室看護婦である被告人Eが同患者の氏名を了知したものと思い、それ以上に被告人Eに対して同患者の氏名が確実に了知されるように伝えず、さらに、被告人Eから患者Gに引き続いて患者Hを引き渡すよう指示されて漫然とこれを従い、患者Gのカルテ等を同患者の手術室介助担当看護婦に引き渡さない間に、二人目の患者Hを、その氏名等を伝えることなく上記患者受渡窓口で被告人Eに引き渡し、その直後に患者と面識のない上記患者両名の各手術室介助担当看護婦に、単に姓のみで特定して当該患者のカルテ等を手渡すなどし、各手術室の介助担当看護婦をして前記患者Gを患者Hの手術をする予定の前記一二番手術室に、患者Hを患者Gの手術をする予定の前記三番手術室にそれぞれ搬送させ、
第2 被告人Eは、同日時ころ、前記手術室交換ホールにおいて、病棟看護婦である被告人Dから同一機会に前記患者両名の引渡しを受けるに当たり、患者の同一性を確認できなかったのであるから、その氏名等を患者毎に確認するとともに、当該患者のカルテ等を同時的に引渡しを受けるようにするなどし、もって患者取り違えによる事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、上記患者両名を遅滞なく受け取る必要のほか、後輩看護婦の手前術前訪問した患者の氏名が分からないことが恥ずかしいとの思いや誰かが分かるであろうとの思いもあって、前記患者受渡窓口において、一人目の患者Gの引渡しを受ける際、被告人Dとのやり取りで同被告人が患者Hの姓を告げたものと思い、あいまいさを残したまま患者Gを患者Hとして受け取り、かつ、患者Gのカルテ等の引渡しを済ませていないのに、被告人Dに対して、二人目の患者(H)を続いて引き渡すよう指示し、同被告人をして、患者Gのカルテ等を同患者の手術室介助担当看護婦に引き継がせる前に、二人目の患者(H)の引渡しを行わせ、同患者の氏名等を聞かないまま漫然と同患者が患者Gではないかとして引渡しを受けたため、上記患者両名を当該患者のカルテ等と同時的に引き継がせる機会を失わせ、その直後に上記患者両名と面識のない各手術室介助担当看護婦らをして、単に姓のみで特定して被告人Dとの間で当該患者のカルテ等の授受を行わせ、前記のとおり患者Gを前記一二番手術室に、患者Hを前記三番手術室にそれぞれ搬送させ、
第3 被告人Aは、同日、前記三番手術室において、前記患者Gに対する手術全般に責任を有する執刀医として手術を施すに当たり、前記のとおり、同一時刻に複数の患者に対する手術が予定されているのを認識していたところ、手術室交換ホールにおいては病棟看護婦から手術室看護婦に患者の引渡しが行われており、複数の患者も出入りすることなどから患者を取り違える可能性がないではなかった上、執刀前に手術室内で実施した経食道心エコー検査において、患者Gに手術を施す理由となった僧帽弁腱索断裂を伴う前尖及び後尖の逸脱が見られず、左心室から左心房への逆流の程度が重度から軽度に変化し、異常であった肺動脈圧も正常であるなど術前検査と著しく異なる検査結果が出ていることを認識したのであるから、患者の同一性についても再確認し、患者の取り違えが判明した場合には直ちにその旨連絡して患者Gに対する誤った手術をも中止し、もって前記患者両名に対する事故の発生を未然に防止ないし中止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、上記検査結果の著変について患者の同一性確認の手段を全く講ぜず、患者Hに対し、同人を患者Gであると誤信したまま僧帽弁形成の手術を継続するとともに、患者Gの現在する前記一二番手術室に患者の取り違えを連絡する機会を失わせ、
第4 被告人Cは、手術中における患者の全身状態の管理を行う麻酔科医師として、患者Hの術前回診を行い、その容貌、身体等の外見的特徴、手術前の病状等を把握していた上、前記のとおり同一時刻に複数の患者に対する手術が予定されているのを認識しており、また、患者取り違えの可能性もないではなかったのであるから、同日午前八時四〇分ころから、前記一二番手術室において、前記患者Hに対する開胸生検・右肺上葉切除・リンパ節郭清の手術に関与するに当たり、麻酔導入前に患者の外見的特徴等や問診により患者がH本人であることを確認するのはもとより、同手術室内の患者の背中には、心臓疾患患者用の経皮吸収型心疾患治療剤(通称フランドルテープ)が貼付されていた上、既往歴として把握していた脊柱管狭窄症の手術痕が見当たらなかったのであるから、患者の同一性に疑念を抱き、患者Hの同一性について慎重に再検討を加え、患者の取り違えが判明した場合には直ちにその旨連絡して患者Hに対する誤った手術をも防止し、もって上記患者両名に対する事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、前記一二番手術室に搬送された患者Gを、その同一性を十分確認することなく、姓による声掛け等をしただけで患者Hであると軽信し、前記フランドルテープをはがし、手術痕が見当たらないことの理由を確かめず、患者の同一性に疑問を抱かないまま患者Gに麻酔を導入かつ継続するとともに、患者Hの現在する前記三番手術室に患者の取り違えを連絡する機会を失わせ、
第5 被告人Bは、同日、前記一二番手術室において前記患者Hに対する手術全般に責任を有する執刀医として手術を施すに当たり、前記のとおり、同一時刻に複数の患者に対する手術が予定されているのを認識しており、また、患者取り違えの可能性もないではなかった上、主治医でもある同被告人自身入室していなかったのであるから、患者Hの容貌、身体、剃毛範囲等の外見的特徴、手術前の病状等を把握し、手術室内の患者が上記H本人であることを確認して執刀するのはもとより、執刀後においても、手術前には所見として把握していなかった肺気腫が存在し、肺癌と疑われた腫瘤が見あたらないなど術前検査の結果と異なる所見を認識したのであるから、患者の同一性についても再確認し、患者の取り違えが判明した場合には直ちにその旨連絡して患者Hに対する誤った手術をも中止し、もって上記患者両名に対する事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、状況に応じた患者の同一性を確認する措置を採らず、患者Gに対する執刀を開始し、執刀開始後においても、所見の変化に疑問を抱いたものの患者の同一性につき再確認の手段を講じることなく、患者Gを患者Hであると誤信したまま開胸生検の手術を継続するとともに、患者Hの現在する前記三番手術室に患者の取り違えを連絡する機会を失わせ、
これら被告人五名らの各過失の競合により、執刀医である被告人Aら前記各患者の手術担当医らにおいて、同日午前八時四五分ころから同日午後四時一五分ころまでの間、同病院三番手術室において、患者Hに患者Gに行うべき麻酔及び手術を施し、執刀医である被告人Bらにおいて、同日午前八時五〇分ころから同日午後一時四八分ころまでの間、同病院一二番手術室において、患者Gに患者Hに行うべき麻酔及び手術を施し、よって、被告人C、同D、同Eにおいて、患者Hに対し、同手術の間麻酔状態に陥らせた上、全治約五週間を要する胸骨正中切開、心臓僧帽弁輪形成等の傷害を負わせるとともに、患者Gに対し、同手術の間麻酔状態に陥らせた上、全治約二週間を要する右側胸部切創、右肺嚢胞一部切除縫縮、右第五肋骨欠損等の傷害を負わせ、被告人Bにおいて、上記患者両名に対し、上記各傷害のうち、同被告人が入室した同日午前九時三五分ころ以前の麻酔状態に陥らせた部分を除いた傷害を負わせ、被告人Aにおいて、患者Hに対し、上記傷害のうち、全治約五週間以内の、胸骨正中切開及び同被告人が入室した同日午前一〇時三〇分ころまでになされた麻酔状態に陥らせた部分を除いた傷害及び上記患者Gに対し、同時刻以降の麻酔状態を継続させる傷害を負わせたものである。
(証拠の標目)<省略>
(事実認定の補足説明)
<編注:目次省略>
第1 本件の概要と争点
本件の概要は、要するに、被告人らは、患者の同一性の確認を怠り、平成一一年一月一一日午前九時から、判示病院第一外科病棟入院患者で心臓手術を予定していたGと肺手術を予定していたHに手術をする過程で、病棟看護婦被告人Dが患者両名をそれぞれストレッチャーに乗せて一緒に病棟から手術室交換ホールに運び、同ホールで順次ハッチウェイを通して手術室看護婦被告人Eに、その指示により相次いで引き渡したが、その際、患者のハッチウェイ手術室側受取役をしていた手術室看護婦被告人EがGをHと、HをGとして受け取ってしまい、それぞれの手術室看護婦に引き渡し、カルテ等の引継ぎの際も姓の確認だけで引き継がれたため、両名が取り違えたまま手術室に運ばれてしまい、そのためその後、Gの麻酔科医師被告人F、執刀医被告人Aら、Hの麻酔科医師被告人C、執刀医被告人Bら多くの医師や看護婦が手術に関与し、所見等にも不自然な点があったのに、その取り違えに気づかず、結局これらの過失が競合して、肺手術予定患者Hに心臓手術等を、心臓手術予定患者Gに肺手術等をして負傷させたというものである。
なお、手術が終わり、Gは午後三時三五分ころ、Hは午後四時二〇分ころ、集中治療室(ICU)に運ばれたが、Gの主治医グループの医師がHとして集中治療室に搬入されていたGの容貌の違いから取り違えに気づき、被告人Bは、そのころ、同医師からその旨指摘され、集中治療室の両名を見て患者を取り違えて手術をしたことに気づき、被告人Fは、午後四時四〇分ころ、Hの体重を計測した際、再度患者の同一性に疑問を抱いたところ、カーテン仕切の隣部屋にG本人がいるのを知って、患者取り違えに気づき、被告人Cは、その直後、被告人Fから指摘され、患者両名を見て、取り違えに気づき、被告人Aは、午後五時過ぎころ、帰宅途中に病院からの電話連絡を受けて知り、被告人D及び同Eも、そのころ、それぞれ連絡を受けて知った。
G、Hは本件により判示の傷害を負ったが、Hは、心臓手術による胸水が約二か月間にわたり消えることはなかった。また、その後不整脈が現れ、シックサイナスシンドロームと診断され、永久ペースメーカーを埋め込む措置を取られ、身体障害者一級の認定を受けるに至った。
なお、Hは、同年四月、当初予定されていた肺癌の手術を受けたが、神経内分泌系の大細胞癌という比較的珍しい型のものであり、その後、死亡した。
しかるところ、検査官は、各被告人に対し、判示注意義務のほかにも、様々な注意義務を設定してその法的責任を問い、他方、各被告人も、被告人A、同Fは過失を争って無罪を主張し、その余の被告人は概ね事実関係は認めるものの、被告人Cは注意義務の存否に疑念を主張し、被告人Eは因果関係がない旨主張し、有罪を認める被告人B、同Dも、業務上の注意義務の内容や程度を問題にするので、以下、前掲証拠に基づき検討する。
なお、本件では被告人毎に証拠関係を異にする部分があるが、断りのない部分については、共通の事実として認定できるものである。
第2 病院の組織、被告人らの地位、患者両名の状況等
前掲証拠によれば、これらの状況は以下のとおりである。
1 横浜市立大学医学部附属病院(以下「市大病院」という。)の組織
市大病院は、第一外科、麻酔科を含む二一診療科を有し、ベッド数は約六二〇床、医師・歯科医師約二二〇人、特別職診療医約七二人、看護婦・士等約六六五人を含む約一四〇〇人近い職員を有する病院で、平成八年四月には高度の医療を提供する能力等を有する特定機能病院として承認されている。
2 入院患者の手術体制等
市大病院では、手術は同病院四階に一二ある手術室で行われ、各病棟から患者がエレベーター等で手術室交換ホールに搬送され、同ホールで二つのハッチウェイと一つのカルテ受渡し台を使用して病棟看護婦から手術室看護婦に患者の受渡しが行われていた。その状況は、別紙手術室配置図、同手術室交換ホール図のとおりである。
本件患者両名の手術等を担当したのは、後記のとおり第一外科及び麻酔科の医師であり、これを補助したのは看護部の看護婦である。第一外科は、同日同時刻である平成一一年一月一一日午前九時から、三番手術室でG、一二番手術室でH、一〇番手術室で内山千春の三名の手術を予定していた。
同病院では、手術等に当たっては、上記各科がそれぞれ分担者を決め、チームを組み、それぞれが自己の役目を果たす形をとっているが、本件では各分担者が集まり事前に打ち合わせをすることはなかった。
なお、市大病院では、患者の確認は、容貌等のほかカルテ等や呼び掛けによっており、リストバンド等格別の措置は導入していなかったが、証拠上これまで患者取り違え事故を起こしたことの証明はない。
3 関係各科の組織と被告人らの地位及び業務等
(1) 第一外科について
① 組織等
第一外科は、教授である被告人Aを第一外科部長とし、その統括等のもと、同科所属の医師は、心臓血管外科を担当し被告人Aらが指導、監督するヘルツグループと、それ以外の手術を担当しN講師らが指導、監督する一般外科グループによって構成され、さらに、一般外科グループは助手である被告人BをリーダーとするBグループと小野寺医師をリーダーとする小野寺グループによって構成されていた。
② 被告人A、同Bの地位
ア 被告人Aは、昭和四四年、市大医学部を卒業後、医師免許を取得し、以後、東京女子医科大学循環器小児外科教授等として心臓血管外科を専門とする医師ないし教員として勤務し、平成一〇年一一月から、市大病院第一外科部長兼同学部外科学第一講座教授として勤務していた。
イ 被告人Bは、平成元年、市大医学部を卒業後、医師免許を取得し、市大大学院卒業後、横浜市民病院等の勤務医を経て、平成一〇年六月から、市大医学部外科学第一講座助手兼市大病院第一外科医師として勤務し、同年一二月からは、Bグループの責任者をしていた。
③ 主治医グループ及び執刀医の決定等
第一外科では、患者に対する主治医は、原則として、複数の医師によるグループ制をとり、各グループが主治医グループを構成していた。
第一外科では、毎週木曜日午前中にカンファレンスを開き、原則として被告人A以下、同科の全医師が出席した上、各主治医グループによる翌週の手術予定の患者の病状、予定術式等の報告と全出席者による検討を経て手術の実施が決定され、被告人Aが執刀医、第一助手を指名し、各主治医グループにおいて第二助手を決定していた。
Gについては、ヘルツグループのKをリーダーに、柳、山崎一也、I医師が主治医グループを構成し、Hについては、Bグループの被告人B、研修医P医師が主治医グループを構成しており、平成一一年一月七日木曜日のカンファレンスで、患者両名の手術は、一月一一日午前九時、Gに対する執刀医に被告人A、第一助手にK医師、Hに対する執刀医に被告人B、第一助手にN講師、が各指名され、一月一一日朝には、各主治医グループにおいて、Gの第二助手にI医師、Hの第二助手に研修医P医師を、それぞれ指名した。第一外科では、他に同日同時刻にBグループの他の主治医グループによる内山千春に対する手術も予定されており、都合三件の手術が同日同時刻に予定されていた。
(2) 麻酔科について
① 組織等
麻酔科は、教授である奥村福一郎麻酔科部長が統括し、市大病院の麻酔を担当している。麻酔科では、手術部に提出された手術申込書に基づいて、毎週金曜日午前中までに、医局員が、翌週実施される予定の手術の麻酔科医師を決めており、手術内容等に応じ、研修医や経験が比較的浅い医局員からファーストと呼ばれる麻酔科医師を、より経験のある医局員からセカンドと呼ばれる麻酔科医師を、それぞれ選び、ファーストは、手術前には術前回診をして患者の状態を把握し、麻酔方法を計画等し、手術中には患者の全身状態の管理を含む麻酔管理にあたり、手術後には術後回診をするなどし、セカンドはファーストを指導、補佐していた。
② 被告人F、同Cの地位
ア 被告人Fは、平成六年、群馬大学医学部を卒業後、医師免許を取得し、主に麻酔科勤務医師としての経験を経て、平成一〇年六月から、市大病院に麻酔科医師として勤務し、同年一二月ころから、市大病院におけるほぼ全ての心臓手術についてファーストの麻酔科医師を担当していた。
イ 被告人Cは、平成九年、市大医学部を卒業し、医師免許を取得するとともに市大病院に研修医として勤務し、各診療科での研修を経て、平成一〇年一〇月から、麻酔科において研修を行っており、本件に至るまでに、約五〇例の手術についてファーストの麻酔科医師を担当していた。
③ G、Hに対する麻酔科医師の担当等
麻酔科では、平成一一年一月八日金曜日、Gに対するファーストに被告人Fが、セカンドに助手であるJ医師が、Hに対するファーストに被告人Cが、セカンドにO医師がそれぞれ選ばれた。
(3) 看護体制について
① 組織等
看護婦は、看護部に所属し、市大病院入院患者の看護等は、病棟においては、各病棟看護婦が、手術室においては手術部看護婦が担当していた。
② 被告人D(旧姓D')、被告人Eの地位
ア 被告人Dは、平成六年四月、看護婦として市大病院に勤務するとともに看護婦免許を取得し、平成一〇年三月から七階第一外科病棟(以下「7―1病棟」という。)に配属され、同病棟の入院患者に対する看護、診療介助等の業務に従事していた。
イ 被告人Eは、昭和六一年四月に看護婦免許を取得し、東京都内の病院などに勤務した後、平成四年四月から市大病院に看護婦として勤務し、平成七年四月から、手術部に配属されて、医師の介助等の業務に従事していた。
③ 病棟、手術部の看護体制
ア 病棟看護体制
第一外科が担当する入院患者は、7―1病棟に入院しており、G、Hは、同病棟に入院していた。
同病棟看護婦は、病棟婦長の下、三交替制が取られ、深夜勤は、午前零時三〇分から午前九時まで、三名の看護婦が担当し、午前九時に執刀を開始する予定の手術については、午前八時三〇分までに患者を四階の手術室交換ホールに搬送することとされ、三名のうちの一名の看護婦が患者を一人で上記交換ホールへ搬送しており、二名以上の患者の手術が予定されている場合にも、搬送に要する時間を短縮し、午前八時三〇分に間に合わせるため、一人の看護婦が二名の患者を同時に搬送することもあった。
被告人Dは、平成一一年一月一一日は、深夜勤を担当しており、当日予定されていた三名の患者を搬送することになった。
イ 手術室看護体制
手術部看護婦は、手術部婦長の下、各診療科を三グループに分け、これに対応して三グループに分けられていた。また、手術室担当看護婦のうち一人は、手術の前日などに病室の患者を術前訪問し、手術の説明や病状の把握等を行うのが原則とされていたが、勤務の都合上、手術に関与しない看護婦が術前訪問をすることもあった。
被告人Eは、第一外科等を担当する手術部看護婦グループに所属し、一月八日金曜日、内山に対する手術の介助を担当することとされたが、同日は、後記の経緯で、担当外の患者であるG、Hについての術前訪問を行った。なお、Gについては、遠藤恵、新名亜紀、関根真樹子の三名の看護婦が、Hについては、曽我部未央、赤穂幸子の両看護婦が、担当することとされていた。
4 G、H両名の病状及び身体的特徴
(1) Gについて
① 病状等
Gは、平成一〇年七月ころ、地域の病院において重度の僧帽弁閉鎖不全症と診断され、医師の紹介により、九月一七日、市大病院第一外科で診察を受けたほか、一〇月二〇日までの間、検査等を受けて上記診断が確認され、その後、犬の散歩中に転倒し、左後頭部に脳挫傷等を負い地域の病院に入院したことから、退院後の一一月二四日、市大病院第一外科で再び心臓の診察を受けて手術することが決まり、平成一一年一月六日、経食道心エコー検査等を受け、僧帽弁閉鎖不全症の程度が四段階中四度と重度であることなどが確認され、一月七日、7―1病棟に入院し、一月一一日午前九時に三番手術室で僧帽弁形成又は置換の手術を受けることになった。
② 容貌等の外見的特徴
Gは、本件当時、年齢七四年、身長約166.5センチメートル、体重約五三〜五五キログラム、後頭部左に約五センチメートルの手術痕があり、いわゆる職人刈りで、白髪混じりであるが、頭頂部付近の髪の毛が比較的黒々しており、眉毛も黒く、剃毛するほどの胸毛もなかった。
Gは耳が遠く、意識的に話し掛けないと反応がないことがあり、また、何でもはいはいと答え、本当に分かっているのか不安に感ずるようなところがあるとされていた。
Gは、手術の準備として、一月一〇日、病棟看護婦から、陰毛部分を含む剃毛を受け、手術当日朝、ヘルツグループの山崎一也医師により長さ一〇センチメートル、幅八センチメートル位のフランドルテープを背中(右肩胛骨下部付近)に貼付されていた。
(2) Hについて
① 病状等
Hは、平成一〇年一〇月一四日、高齢者保養施設の定期健康診断において、右肺に陰影が認められたことから、医師の紹介により、同月二二日、市大病院第一内科で診察を受け、同年一二月下旬ころまで同科及びその引継ぎを受けた第一外科で、胸部CT検査等を受け右肺上葉S2の部位に肺癌の十分な疑いがあり、これが縦隔のリンパ節及び右肺下葉S6の部位に転移している疑いもあることが確認されたが、確定診断が得られなかったことから、一二月二八日、7―1病棟に入院し、平成一一年一月一一日午前九時に一二番手術室で開胸生検・右肺上葉切除・リンパ節郭清の手術を受けることになった。
② 容貌等の外見的特徴
Hは、本件当時、年齢八四歳、身長約165.5センチメートル、体重約四七〜四八キログラム、腰部のすぐ上に約一五センチメートルの脊柱管狭窄症手術痕、左右の側頭部に各約1.5センチメートルの硬膜下血腫手術痕があり、白髪で、頭頂部は禿げ、眉毛も白く、白っぽい胸毛が少しあり、乳頭の周りの毛に長いのがあり、左頬に比較的大きなほくろがあった。
Hは、年齢の割にはしっかりしていた。
Hは、手術の準備として、一月一〇日、病棟看護婦から、陰毛部分を含まない剃毛を受けていた。
第3 手術室交換ホールにおける本件患者取り違えの状況―被告人D、同Eの注意義務違反の有無について
1 事実関係
平成一一年一月一一日の深夜勤に当たっていた被告人Dは、一月八日、手術予定表で、一月一一日午前九時からG、H、内山の三人の手術が予定されており、同被告人が同人らの手術室交換ホールへの搬送を担当することを知った。G、Hは、担当ではなかったが、同じ病棟患者であることから知っており、Hについては、手術前日、改めて病室を訪ねた。
被告人Eは、一月八日、コーディネーター役の新名看護婦から一月一一日の手術のうち内山を担当することを知らされるとともに、新名、関根看護婦らがGを、赤穂、曽我部看護婦がHを、それぞれ担当することなどを知ったが、同看護婦らの間にはG、Hの術前訪問に行く都合の付く者がいないことを知り、G、H両名の術前訪問を引き受け、一月八日午後三時三〇分ころ、7―1病棟を訪ね、G及びHに会い、それぞれ一五分間位、手術の様子について説明するなどした。被告人Eが両名に会ったのは、このときが初めてであった。
被告人Dは、一月一一日午前八時ころ、病室のGに前投薬の塩酸モルヒネを注射し、また、その背中にフランドルテープが貼ってあるのを確認した。
その後上記三名の患者の手術出しのため、先輩の中村恵看護婦に手伝ってくれるよう頼んだが、三名しかいない病棟の看護体制などから、結局手術出しは被告人D一人で行うことになり、手術時間に間に合わせるため、ストレッチャーで搬送できるGとHを一度に搬送し、ベッドでしか搬送できない内山は次に搬送することとなった。
なお、早めに一人ずつ患者出しをしようとしても、所定の時間より早いと、手術室看護婦が手術室交換ホール受け渡し窓口等におらず、受け入れて貰えず、搬送患者を手術室交換ホールで待たせてしまう蓋然性もあることから、手術出しをする場合に一人の看護婦が二名の患者を同時に搬送することもままなされていた。
被告人Dは、午前八時二〇分ころ、一人で二台のストレッチャーを押し、それに乗せられた患者両名を、当該ストレッチャーのアンダーバスケットに入れられた申し送り書類であるカルテ等とともに、同病棟エレベーター前から四階手術室前の手術室交換ホールに運び込み、奥のハッチウェイ側に、これに近い方から、G、Hの順に、並べて止めた。
被告人Eは、ハッチウェイ近くの手術室側リカバリールームでの手術室看護婦のミーティング終了後、担当の内山の手術準備のため一〇番手術室へ向かうべくハッチウェイの前を通りかかった際、手術室交換ホールに被告人DがG、H両名を搬送してきたのを目にして、自分が術前訪問した患者であることに気づき、自らこれを受け入れようと考えた。
被告人Dは、ハッチウェイに来た被告人Eを見て、同被告人に対し、「イチゲ(第一外科の通称)のGさん、Hさんです。」と、同時に両名の姓を告げ、引渡しのため、G及びHをそれぞれ脱衣させて全裸にし、下半身にタオルケットを掛け、頭に白色半透明帽子を被せた後、Gからハッチウェイに乗せて手術室側の被告人Eに引き渡そうとした。
被告人Eは、Gの引渡しを受けるに当たり、目前の患者がGなのかHなのか区別することができなかったが、Hの担当看護婦で後輩に当たる赤穂、曽我部両看護婦が近くに来ていた手前、術前訪問していたのに患者の特定、確認ができないことを恥ずかしく思うなどしたため、先に引き渡される患者の名前を確認するつもりで、「Gさん……。」と、質問か確認か判然としないような調子で被告人Dに声を掛けた。「Gさんと……。」と聞き取った被告人Dは、被告人Eが先に引き渡される患者がGであると分かっていて、次に引き渡す患者の名前を聞いたものと思い、次に引き渡す患者の名前を伝えるつもりで、「Hさん。」と答えた。
そのため、被告人Eは、不安を抱いたまま、違っていれば誰か気づいてくれるだろうなどという安易な考えもあって、先に引き渡される患者がHであるものと思い、ハッチウェイを通じてあいまいさを残したままGを受け取ると、近くに来ていたHの手術担当の赤穂、曽我部両看護婦に、GをHとして引き渡した。そして、被告人Dに対して、同被告人が未だカルテ等の引渡しを行っていないのに、「じゃあ続けて。」と次の患者を引き渡すように促した。
被告人Dは、Hの引渡しの前に、Gのカルテ等の引渡しを済ませようとしたところ、被告人Eの指示を聞いて、手術室内部のことは手術室看護婦が良く知っているから、その指示に従うのが良いと考え、カルテ等の引渡しは、残ったHの引渡しの後に行うこととし、Hをハッチウェイを通して被告人Eに引き渡した。被告人Dは、この際、引き渡す患者の名前を告げることはせず、また、被告人Eも、被告人Dに対し、患者の氏名等を何ら確認することはなく、被告人Eは、不安を抱いたまま、前同様の考えからHをGとして心臓の手術を担当する新名、関根、遠藤看護婦に引き渡した。
被告人Dは、患者両名を引き渡した後、ハッチウェイ横のカルテ受渡し台で、Gの姓を呼んでG担当の関根看護婦にGのカルテ等を引き渡し、その際、Gには前投薬として塩酸モルヒネが投与されていることや背中にフランドルテープが貼られていることを申し送り、また、Hの姓を呼んでH担当の赤穂看護婦にHのカルテ等を引き渡し、緊張しているのではないかなどの申し送りをした。
上記G、H担当の各手術室看護婦らは、術前訪問をしておらず、各担当患者とは面識がなく、また、患者引継ぎ後手術室への搬送途中、肺手術のH担当側では、赤穂看護婦らが、Gに「Hさん、寒くないですか」などと、心臓手術のG担当側では遠藤看護婦らが、Hに「Gさん、寒くないですか」などと、それぞれ声を掛けたが、G、Hは、いずれも自己の名前が間違えられているのに気づかず、返事をしたり、頷くなどしたため、上記看護婦らもGとHとが取り違えられていることに気づかず、午前八時三五分ころ、GをHの手術予定の一二番手術室に、HをGの手術予定の三番手術室に搬送した。
2 被告人D、同Eの注意義務違反の有無について
(1) 被告人両名の職務
前記のとおり、被告人Dは、7―1病棟看護婦として、本件当日午前八時二〇分ころから、G及びH両名を手術室交換ホールに搬送し、同ホールハッチウェイ及びカルテ等受渡し台を通し、患者両名を手術室看護婦に引き渡す職務についており、被告人Eは、上記ハッチウェイの手術室側で患者両名を受け取る職務についたのであるから、いずれも、患者両名を取り違えず、確実に引き渡し、また、引き受け、各担当手術室看護婦に引き渡す注意義務があった。
(2) 被告人Dの注意義務違反の有無について
被告人Dは、本件当日朝は前記1のとおり同一時間帯に三名の手術が予定されており、7―1病棟看護婦は午前八時三〇分ころまでに、これら患者の手術出しをしなければならなかったところ、担当看護婦は深夜勤の三名だけであり、同病棟患者の看護についても配慮せざるを得なかった当時の看護体制のほか、患者の同一性を確認しながら手術室側看護婦に引き渡すことは、手術室交換ホールにおいても十分できるし、また、しなければならないことであることからみて、決して望ましい事態ではないが、被告人Dが一人で二人の患者を同時搬送したこと自体に過失があったということはできない。
しかしながら、手術室交換ホールには、他の診療科の手術予定の患者も搬送されてくる。まして、二名の患者を同時搬送して順次手術室看護婦に引き渡す場合には、一名の患者を搬送して引き渡す場合以上に患者の混同が生ずる危険性が高いことは明らかである。しかも、病棟看護婦においては患者の同一性の確認がなされていても、患者を受け取る手術室看護婦が必ずしも当該患者の手術担当看護婦とは限らない上、手術室看護婦は、通常手術前日に、短時間の術前訪問をして初めて患者を知るだけであって患者の同一性の把握が十分ではなく、まして本件では土曜、日曜を挟んでいたため術前訪問は三日前の一月八日になされている可能性があり、把握がより不十分となっている蓋然性があって、そのことは病棟看護婦である被告人Dにも予測できる状況にあったのであるから、被告人Dにおいては、手術出しをする者として二名の患者の同一性に過誤が生じないように最善の注意を払い、もって患者を受け取る手術室看護婦に当該患者を当該患者として確実に引き渡す注意義務があった。
しかるところ、被告人Dは、ハッチウェイの手術室側で患者受入れを担当した被告人Eに対し、「GさんとHさんです。」と両名の名前を同時に告げ、また、被告人Eが、あいまいに「Gさん……」と聞き返してきており、その趣旨が一義的に明確な状況でもなかったのに、質問の意味を確認することなく、もう一人の患者の名前を聞かれているものと考え、「Hさんです。」と答えており、そのことで被告人EがGをHではないかと思いかねない契機を与えている。
(以下、被告人D・同E関係。被告人Dは、当公判廷において、Hさんですと言ったとき、ストレッチャー上のHを指さしたとか、Gを渡すときにGである旨伝えた旨供述しており、捜査段階においても、Gを脱衣させてタオルケットを掛けるなどしていたときか、ハッチウェイに乗せるときに、被告人Eに対し、「Gさんです。お願いします。」と話し掛けた旨供述している。Hを指さしたとする点については捜査段階でそのような供述をしていないし、Gである旨告げた点についても、公判では普通の大きさの声だったとはいうものの、捜査段階では、その声は小さかったので、手術室の看護婦に伝わっていたかは正直言って分からない旨供述している。のみならず、当時被告人Eの近くで手術室側にいた赤穂、曽我部両看護婦も、GがGであると指摘する被告人Dの声を聞いていないと供述しているし、何よりも、被告人Eが被告人Dの言動からGをGとして確実に把握できていなかった事実に照らせば、被告人Dがいうような言動をしたとしても、その仕方において不十分であったことは否定できない。)
また、被告人Eに、ハッチウェイを通してHを引き渡すに当たっても、被告人Eの指示によるものとはいえ、先にGを引き渡しながら、患者の同一性確認の有力かつ確実な資料であるカルテ等を直ぐにカルテ受渡し台でG担当の手術室看護婦に渡さず、続けてHを引き渡し、その間に過誤が生じやすい状況が生じており、そのことも容易に予測できる状況にあるのであるから、当該患者がHであることを明確に告げるなどしてその同一性が被告人Eらに把握できるようにする注意義務もあるというべきである。
しかるに、被告人Dは、先にGを渡したことから次の患者がHであることは被告人Eも当然把握しているものと思い、Hをハッチウェイ上から引き渡すにあたり、当該患者がHであることを告げることなく被告人Eに引き渡している。
(被告人D・同E関係。被告人Dは、既にGの名前を伝えてあったので、改めてHの名前を伝える必要はないと思った旨公判供述をしているが、経過に斟酌する点はあるにしても、前記のような引渡しの状況を考慮すると、注意義務違反を否定する論拠とはできない。)
さらに、上記のとおりカルテ等を当該患者を引き渡して直ぐに引き渡さず、G、Hを連続的に引き渡し、カルテ等も同様連続的に引き渡し、これにより過誤が生じやすい状況があって、このことも予測できたのであるから、カルテ等の引渡しにおいても、それがどの患者のものであるかを、単に姓を告げるだけでなく、何時引き渡した患者のものであるかを特定するなどして患者の同一性に過誤が生じないようにする注意義務もあるところ、被告人Dは、単に姓のみで特定して当該姓の手術室担当看護婦にカルテ等を引き渡している。
以上によれば、被告人Dに判示のような注意義務違反があり、これが本件の一因となっていることは明らかである。
(3) 被告人Eの注意義務違反の有無について
被告人Eに過失があることは前記認定事実から明らかであり、このことは被告人Eも事実を認め、その弁護人も事実関係自体は争っていないところである。
しかるところ、被告人Eの弁護人は、被告人Eの過失とG、Hの各傷害との間には、麻酔や手術を担当した複数の医師らの過失が介在するから、因果関係がない旨主張する。
前記認定のとおり、被告人Eは、患者両名のいずれがGであり、Hであるかを確認できない状況にあったことを自覚しているし、また、手術室看護婦では被告人E以外にG、Hと面識のある者もおらず、その確認は一に受入れを担当している被告人Eの確認にかかっていることも把握している。したがって、被告人Eは、ハッチウェイを介して被告人DからG、Hを受け取るに当たっては、どの患者が誰かを確実かつ明確に認識し、当該患者を確実に当該患者担当手術室看護婦に引き渡すべき注意義務がある。
しかるに、被告人Eは、患者を遅滞なく受け取ることのほか、術前訪問をしていながら、患者両名の確認ができないことを後輩看護婦の手前恥ずかしく思う余り、被告人Dに曖昧に質問して被告人Dの「Hさんです。」という答に依存して、間違っていても誰かが気づいてくれるであろうとの安易な考えから、あいまいさを残したまま、GをHと思い、それ以上患者の確認に意を払うことなく、GをH担当看護婦に、HをG担当看護婦に、それぞれ引き渡したものである。のみならず、自身の確認がそのようなものであるのに、Gを受け取った後、被告人Dに対し、先に次の患者の引渡しをするよう指示して、患者とカルテの同時的送り込みによる患者取り違い防止の機会をも失わせ、さらに、Hを受け取る際に、被告人Dにその氏名を確認もしていない。
患者の受け入れを担当する手術室看護婦が患者の同一性確認という重大な事柄に対しこのような曖昧さを残したまま対応することは考えにくいところである。
この点、被告人Eは、捜査段階では、被告人Dとのやり取りから、GをHと思い込んでしまった旨供述しているが、公判供述によれば、これは判示のようなあいまいさを残したものであったことが明らかである。
このような経過からみれば、被告人Eの過失責任は明らかである。被告人Eは、善意とはいえハッチウェイを操作した以上、責任をもって対処すべきであって、患者確認の不十分さを認識し、これを容易に解消でき、解消すべき立場にあるのに、あいまいさを残したまま作業を進め、結局GとHの患者取り違えを生じさせてしまっている。これは、また、その内容からみて、市大病院の管理体制のせいにはしにくいところである。
そして、その後関与した医師や看護婦の過失行為がいずれも被告人Eらが取り違えた患者について、その取り違えに気づくべきであったことによるものであることや、患者が取り違えられた後は、例えばGがHとして扱われて手続が進められるが故に、その取り違えに気づくことがより困難性を増すことなどを考慮すると、同医師らの過失やこれによる患者両名の負傷も被告人Eらの行為がなければ生じ得なかった事柄であり、当初の取り違えが大きく寄与していることも明らかである。したがって、被告人Eの過失行為がG、Hに与えた傷害の結果と因果関係があることは明らかである。因果関係がない旨の被告人Eの弁護人の主張は採用できず、被告人Eに業務上過失傷害罪が成立することは明らかである。
第4 Gと間違えられたHに対する心臓手術室の状況―被告人F、同Aの注意義務違反の有無について
1 被告人A、同FとGとの関わり及び術前所見の把握状況等
(1) 被告人Aについて
① 一月七日木曜日のカンファレンスの状況
被告人Aは、平成一〇年一二月ころに、Gについて、僧帽弁の形成術になる可能性がある僧帽弁閉鎖不全症の患者がいて、近く入院してくる旨の報告を受けていたが、平成一一年一月七日第一外科のカンファレンスにおいて、一月一一日手術予定患者としてGが取り上げられ、その際、主治医グループのK医師らから、Gについて、既往歴として、平成一〇年一一月七日、犬の散歩中に転倒して後頭蓋骨骨折、脳挫傷の傷害を負ったこと、現症として、僧帽弁の逆流が生じている場合に聞こえる左心室収縮期の心雑音が六段階中三度であること、レントゲン写真から心胸郭比58.3パーセントで、正常値(五〇パーセント以下)に比べて心臓が大きく、僧帽弁逆流により心臓が肥大したものと考えられること、僧帽弁の前尖が逸脱し、逆流があることなどの説明を受け、レントゲン写真や諸検査の結果でこれを確認した。特に、平成一〇年一〇月二〇日実施の経胸壁心エコー検査の録画ビデオと平成一一年一月六日実施の経食道心エコー検査のビデオを見て、両者に違いがないことも確認しているが、これらによれば、左室の拡張、収縮の各終期の内腔の直径、左室後壁の厚さ、左房内腔の直径がいずれも正常値より大きいこと、僧帽弁の前尖、後尖の逸脱があり、その原因が腱索断裂であり、僧帽弁の前尖が左房側に大きく持ち上がって、その前尖の先には断裂した腱索がふらふらと浮遊していること、後尖も持ち上がって逸脱していること、前尖、後尖が前交連寄りの部分で逸脱していること、前尖が左房側に大きく持ち上がっていることから多数の腱索が断裂していること、僧帽弁逆流の程度が四段階評価で最も重い四度であり、逆流の状況については、逆流した血液の幅が広く深部の方まで到達していることなどを確認した。
また、心臓カテーテル検査で、肺動脈圧が平均圧四二(正常値一五以下)であること、肺動脈楔入圧が平均圧二一であること、大動脈圧が平均圧九〇台であること、同検査でも、僧帽弁逆流の程度は最も重い四度となっていることなどを確認した。
Gの主治医グループは、Gに対して僧帽弁の形成又は置換の手術を行うことになった旨発表し、難易度の高い手術となることから、被告人Aが執刀することになった。
② 被告人AのHの病状についての認識状況
また、同カンファレンスにおいて、同日同時刻から、Gに対する心臓手術のほか、Bグループの医師から肺癌の疑いのあるHに対する肺手術、内山千春に対する甲状腺亜全摘出の手術の発表についても聞いた。
③ 一月七日木曜日の教授回診の状況
被告人Aは、同日のカンファレンス終了後入院患者の教授回診をした際、聴診器で被害者Gの心雑音を確認したが、カンファレンスの説明と異なる印象はなかった。
(2) 被告人Fについて
① 一月六日の経食道心エコー検査の状況
被告人Fは、平成一一年一月六日午後三時ころから午後四時一〇分ころまでの間、麻酔科のJ医師が市大病院四階手術室内において行ったGに対する経食道心エコー検査の手伝いをしたことにより、Gを知り、その際、Gの様子や外来診察録、心臓カテーテル検査記録等のほか、上記経食道心エコー検査結果により、Gの前記(1)①のような病状を把握した。
② 一月八日金曜日の術前訪問の状況
被告人Fは、一月八日金曜日午後、手術予定表を見て、Gの心臓手術が一月一一日午前九時から実施され、被告人Fがファーストの麻酔科医師に、J医師がセカンドの麻酔科医師に指名されたことを知り、また、同日同時刻から第一外科の二、三人の患者が手術を受けることなどを知った。そこで、Gの麻酔経過記録表に必要事項を記載した。その過程で、Gの心臓の横径と胸郭の横径の比率が目測で六〇パーセント位と把握し、その旨も記載した。その後、術前訪問としてGの病室に行き、約一時間位問診を行い、その際、脳挫傷についても聞いたが、外来診療録等には、手術を受けた旨の記載がなかったため、後頭部の手術痕について確認することはなかった。また、歯の状況を確認し、上の前歯のやや左付近に自分の歯でない歯があるようなことを聞き、手術当日は、外せる歯があれば、外しておくよう指示した。さらに、聴診器を当てたところ、かなり大きく明瞭な心雑音が聞こえたため、その程度を三度とした。なお、Gの髪の毛が比較的黒々としていたことから思ったよりも若いと感じた。次いで、7―1病棟ナースステーションで、手術・検査指示票に、前投薬として、フランドルテープ等の続行、手術日の午前八時に塩酸モルヒネ五ミリグラムの投与、患者が眠ったら酸素吸入などの指示を記載した。
2 Gと間違えられたHに対する心臓手術の状況
(1) 被告人Fによる麻酔導入
① 麻酔導入前の状況
被告人Fは、午前八時から麻酔科の教授以下研修医まで医師全員が集まって行われる麻酔科のカンファレンスに出席し、ファーストとして担当するGの諸検査の結果等やGに対する麻酔計画を発表し、承認された。
被告人Fは、カンファレンス終了後の午前八時四〇分ころ、三番手術室に入室したが、既にGと取り違えられ手術台に仰臥していたHを見て別人と気づかないまま、Hに対し、「Gさんおはようございます。金曜日にお会いした麻酔科のFです。」などと声を掛けたのをはじめ、前投薬の効果等を確認する必要もあり、何度かGさんと声を掛けたが、Hは頷くなどし、Gではないことを主張することはなかった。
被告人Fが点滴などの取付けをしているときに、セカンド担当のJ医師が入室し、点滴から麻酔薬を注入した。
被告人Fは、Hのまつげを触って反応を見て麻酔が効いていることを確認したが、Gの眉毛が黒色であるのに対し、Hの眉毛は白色であったのに、その違いに気づかなかった。
② 麻酔導入後の状況
被告人Fは、口から気管内挿管をしようとした際、術前回診の際に、上前歯左付近に入れ歯があるようなことを聞いており、入れ歯があれば外してくるように指示しておいたのに、上前歯左付近の歯が全部揃っていたため、その辺りの歯に触ってみたものの、抜けなかったため、手術部看護婦に病棟看護婦からの申し送りがないか聞いたが、申し送りがないということであったため、そのまま気管内挿管にとりかかった。その際、Hに聴診器を当てたが、心雑音がないことや、心臓手術の患者なのに、胸毛が剃毛されていないことに気づかなかった。
被告人Fは、午前九時一五分ころまでに、各種カテーテルの挿入作業に取りかかり、この時、ヘアーキャップがずれてHの右側頭髪が見えたが、髪の毛の長さや色が違うのではないかと気づき、J医師に確認を求めたが、J医師は特に疑問を差し挟まなかった。
このころ、主治医グループのI医師やK医師が入室した。
この間、手術室に入室していた麻酔科の奥村教授が患者に胸毛や陰毛の剃毛がなされていないことに気づいて、その旨を指摘し、看護婦に剃毛を指示したが、同教授も近くにいた主治医らも患者がGでないことに思い至らなかった。
午前九時二〇分ころ、被告人Fは、経食道心エコー検査のため、プローベを患者の食道内に挿入し、その後、肺動脈圧の平均圧を見ると、術前の検査では四二であったのが、一三位に下がっていたため、J医師にそのことを報告した。
このころ、経食道心エコー検査のモニターを見たJ医師は、僧帽弁逆流がほとんどないことを知り、学生を連れて手術室に入ってきた同僚の岡崎薫医師にその旨話し、本件手術を参考にすべく見に来ていたL講師が執刀医と思っていたこともあり、同講師にも同様に話した。
被告人Fは、J医師から、逆流の状況が最も軽い一のトリビアルであることを聞き、また、経食道心エコー検査のモニターから、前尖と後尖は接合し、逸脱状態がなく、腱索断裂もないことが分かった。
被告人Fは、このようなことが重なったことから、再度当該患者とGとの同一性に疑問を持った。そこで、主治医グループでGのことを良く知るI医師やK医師に患者の確認を求めたが、はっきりした返事がなく、却ってI医師からは「散髪に行ったのではないか。」と疑問を否定する話をされた。しかし、被告人Fは、7―1病棟に山がつく患者が三人位いるらしいので、違う人が降りているかもしれないと思い、手術室看護婦に病棟に電話し、Gが手術室に降りているか確認するよう指示するとともに、J医師を介するなどして、L講師、I医師やK医師に、患者がGであるか確認するよう求めた。
間もなく、病棟からGは降りている旨の回答があり、I医師からは、さらに「胸の形がGである。」趣旨の発言などがあった。また、主治医グループの医師らは、J医師を交え、術前の所見と術中の経食道心エコー検査等の違いについて検討していたが、経食道心エコー検査に関してはその学識と経験において市大で一目おかれているJ医師が麻酔の影響かもしれない旨発言したため、L講師を始め皆納得してしまい、被告人Fも、自分の勘違いだったのかと思って、それ以上患者の同一性確認の措置を取ることはなかった。
(2) 手術開始後の状況
Hの身体は、消毒された後、K医師及びI医師が、Hの胸の部分を除いて覆布を掛け、午前九時四五分ころから、I医師及びK医師によって執刀が開始され、予め被告人Aから指示されていた胸骨正中切開等が行われるなどした。
胸骨正中切開が終わった後、K医師が被告人Aに連絡をし、被告人Aは、午前一〇時三〇分ころ、三番手術室に入室した。
被告人Aは、被告人Fから、経食道心エコー検査のモニターを見せられ、僧帽弁の逆流がほとんどないこと、肺動脈圧の平均圧が、術前カンファレンスで報告された四二から、一一ないし一二に下がっていることなどの報告を受け、またL講師からも同様の報告を受けた。なお、同手術室内にいた医師、看護婦らから患者の同一性が問題となったこと等は全く伝えられなかった。
被告人Aは、患者の同一性に疑いを抱かず、自ら経食道心エコー検査のモニターを見て、逆流がかなり少なくなっており、前尖、後尖も逸脱といえる程のものはなく、腱索断裂もないことから、手術の続行の是非を迫られたが、術前検査の結果が悪かったことや同一部位付近に少しとはいえ逆流があること、術中の経食道心エコー検査は術前のそれに比べ時間が短くて場面も限られていることなどから、これらの検査結果の違いについて、J医師同様麻酔の影響であろうと考え、手術の続行を決めた。
被告人Aは、午前一一時ころ、K医師が送血管を上行大動脈に挿入したり、脱血管を上大静脈や下大静脈に挿入するカニュレーションの作業をしている途中、K医師と交替し、Hに対する心臓手術に取りかかった。
この時、被告人Aは、Hの心臓を見て、術前所見でかなり肥大化した心臓を予想していたのに、心臓が小さいと思った。
午前一一時一三分ころ、人工心肺をスタートさせ、体外循環を開始したが、その後、脱血不良が生じ、低体温にするなどした。
午前一一時二〇分から三〇分ころ、Hの心臓左房の右側にメスを入れて切り開いたが、左房が思ったよりも小さく、僧帽弁が見づらいと思った。また、術前データで左房、左室の内腔が拡張しているとの報告を受けていたのに対して、ともに内腔は狭くて拡張はなく正常であると思った。さらに、術前の報告のように複数の腱索が断裂しているようなことはなく、前尖や後尖に逸脱がみられないことも分かった。そこで、生理食塩水を僧帽弁越しに左室へ流し込み、僧帽弁からどの程度の漏れが見られるか逆流テストをしたが、このテストにおいても逆流はほんの僅かであったが、逆流があるため、これをなくすべく、午後零時ころ、僧帽弁形成手術に取り掛かり、僧帽弁の前交連部の前尖と後尖の弁輪を縫って、前尖と後尖の間の弁口をつめたり、前尖の真ん中辺りの弁葉の切れ目を縫合したりした。
被告人Aは、午後零時四〇分ころから、左房の切開部位を縫合するなどし、午後一時ころから、心臓内の血流を再開するなどして、人工心肺を止め、体外循環を終了させるなどした後、閉胸作業を、K医師、I医師に任せ、午後二時ころ、三番手術室から退室した。
なお、この間、被告人Fは、J医師とともにするなどして、Hに対し、イソフルレン約二〇ミリリットルを吸引させ、フェンタニール約一六五〇マイクログラム、ミダゾラム約一七ミリグラムをそれぞれ静脈注入し、また、予め貯血しておいたGの自己血液約八〇〇ミリリットルをHに輸血した。
手術は、同日午後三時四五分ころに終了し、午後四時一五分ころHは集中治療室に搬送された。
3 被告人F、同Aの職務と注意義務の内容
前記のとおり、被告人両名は、執刀医あるいはファーストの麻酔科医師としてGの手術を安全かつ円滑に行う注意義務があり、これら医療行為は、患者の生命、身体に関わるものであって、当該患者に対しなされてこそ価値があり、医療行為としての正当性が是認されるものであることに鑑みれば、患者を取り違えてはならないことは自明の理であるとともに、かりそめにもあってはならない事柄であり、医療に従事するものは、それが主たるものであれ、補助的なものであれ、その職務に内在する基本的かつ根本的な要請として、患者の同一性を確認した上で医療を施す注意義務があるというべきである。
もっとも、前記のとおりGに対する手術はチーム医療としてなされており、診療担当者あるいはその補助者としてそれぞれが役割分担をしており、かつその分担を誠実に務めることが予定されている。そして、容貌等外見的特徴による患者の同一性確認は、高度の医療知識や技術等を要するものではなく、医師であれ看護婦であれ、その能力において特段の差異は認めがたいし、病棟からの患者搬出の当初から確認し、これを保持することが当然のこととして要求されているし、通常実践されており、なお、手術室入室前の方が、患者の確認がより容易であり、その確認に格別の困難性があるわけでもなく、他方、手術室に搬入されてしまうと、暗示性が強く、術前と術中検査等による所見の食い違いから患者取り違えに気づく契機があるにしても、取り違えられていることに気づくことはより困難性が増す。また、被告人Eが、医師は手術に向けて自分の神経をそちらに集中させるから、看護婦が患者の代弁者でなければならないと常々思っていると供述しているとおり、手術室では全員手術に向け神経を集中しがちであることからしても、手術室入室段階では患者の確認がなされていなければならないし、されているのが通常である。
しかしながら、希とはいえ、検察官や関係者が指摘するとおり、全国的には、熊本市立市民病院事件といわき市の妊娠中絶事件の二例の患者取り違え事故が生じ、患者取り違え事故が起こりうることが報道等されている。さらに、患者確認バンドをつけた場合でさえ装着時のミス等の危険性が指摘されている。まして、市大病院では、各診療科の患者が手術室交換ホールを通して病棟側から手術室側に引き継がれており、それが同時刻に行われる場合があり、現に一月一一日には第一外科だけで三名の手術が予定されていたことや、手術室交換ホールでは、患者は着衣を取り、半透明の帽子を被り、下半身にタオルケットを掛けられるため、容貌等の個性が失われやすい状況になっており、その過程等において患者の同一性を誤る危険性を内包している。さらに、一旦取り違えが生じると、取り違えが気づかれないまま引き継がれる可能性がある。これらの点に鑑みれば、患者の手術室入室後においても、患者の確認を誤って入室している事態を予見する可能性は、程度は高くないとしてもあったというべきであるから、被告人Fにおいてはもとより、麻酔科医師や主治医グループの入室後に入室した被告人Aにおいても、やはり患者確認の義務が失われることはないというべきである。
検察官は、本件患者取り違え事故の発生を捉えて、市大病院の管理が杜撰であり、予見が容易であったとしてるる主張し、また、各被告人ないしその弁護人も、一致して個々人の責任というよりも、市大病院の管理体制に問題があった趣旨の主張をする。
しかし、市大病院の管理に改める点があったにせよ、また、万全を期して精度の高い患者確認策を整備することが望ましいことはいうまでもないが、市大病院では、数え切れない多数の患者を扱いながら、これまで患者の取り違え事故を起こしたことがなく、また、全国的にも、多数の医療事故が発生する中、検察官が指摘する患者取り違え事故は上記二例だけである。これらのことは、多くの医療事故が発生しておりながら、患者取り違えにまで至ることが少ないことを示しており、明確に意識すると否とにかかわらず、患者の同一性確認にも相応の注意が払われており、患者取り違えの防止がそれなりにできていたことも示すものである。
市大病院においても、通常、上記搬送過程の中で、病棟看護婦と患者の引渡しを受ける手術部看護婦との間の声掛けなどによって、まず患者確認がなされ、続いてその患者のカルテ等の引渡しがなされ、さらに患者を受け取った手術部看護婦においても、患者確認を意図していたか否かはともかく、患者に対して姓での呼び掛けが行われ、また手術室入室後麻酔科医師によって姓による呼び掛けも行われていた。患者は様々であり、特に高齢者であったり、緊張や前投薬の影響により、患者の意識が必ずしも清明でない可能性があって、呼び掛けに的確に応答できない場合があり、患者確認の負担を、患者自身に負わせることはできないが、上記のように手術室看護婦や麻酔科医師による呼び掛けが、カルテ等との同時的引渡しと相まって患者確認に相当な役割を果たしていたことが認められる。
これらのことに、本件取り違え事故が前記のような経過に起因していることに照らせば、市大病院の管理が本件の根本原因であるかのごとくいえるかは些かの疑問があるし、市大病院の管理を捉えて、予見可能性が高いとするのも賛同しがたい。
患者確認の過程やこれまでの実態等を踏まえれば、上記のとおり解されるのである。
4 被告人Fの注意義務違反の有無について
(1) 公訴事実の要旨と弁護人らの主張
被告人Fに対する公訴事実の要旨は、同被告人は、横浜市立大学医学部附属病院麻酔科医師として手術予定患者の麻酔管理等の業務に従事していたものであるが、判示冒頭事実記載のとおり、平成一一年一月一一日、市大病院において判示のとおりの患者G、同Hに対する各手術が予定されており、そのことを知っていたところ、手術中における患者の全身状態の管理を行う麻酔科医師として、患者Gの術前回診を行い、その容貌、身体等の外見的特徴、手術前の病状等を把握し、同患者に入れ歯を取り外すよう指示していた上、前記のとおり、同一時刻に複数の患者に対する手術が予定されているのを認識していたのであるから、同日午前八時四〇分ころから、前記三番手術室において、同患者に対する僧帽弁形成又は置換手術に関与するに当たり、麻酔導入前に患者の外見的特徴等や問診により患者がG本人であることを確認するのはもとより、麻酔導入後においても、頭髪の色及び形状、歯の状況、手術室内で実施した検査結果等が、いずれも患者Gのものと相違し、患者の同一性に疑念を抱いたのであるから、自ら又は同手術に関与する他の医師や介助担当看護婦らをして病棟及び他の手術室に問い合わせるなどして患者の同一性を確認し、患者の取り違えが判明した場合には直ちにその旨を連絡して患者Gに対する誤った手術をも防止し、もって上記患者両名に対する事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、三番手術室に搬入された患者Hを、その同一性を確認することなく、患者Gであると軽信して麻酔を導入した上、外見的特徴や術前における患者の病状との相違などから、その同一性に疑念が生じた後においても、単に電話により介助担当看護婦を介して病棟看護婦に患者Gが手術室に搬送されたか否かを問い合わせ、同病棟から患者Gを手術室に搬送した旨の電話回答を受けるや、その身体的特徴を確認するなどの措置を採ることなく、三番手術室内の患者はGであると軽信して患者Hに対する麻酔を継続するとともに、患者Gの現在する一二番手術室に患者の取り違えを連絡する機会を失わせ、判示末尾記載のとおり相被告人五名の各過失との競合により、患者両名に対し、同記載のとおりの傷害を負わせた、というものである。
これに対し、被告人Fの弁護人は、同被告人は、麻酔科医師として要求される患者の確認についての業務上の注意義務を尽くしており、無罪である旨主張し、同被告人も、麻酔導入前には患者の名前を呼んで同一性を確認したし、導入後においても、患者の同一性に疑問を持ち、そのことをセカンドの麻酔科医師のJ医師に報告した上、主治医にもその旨告げ、在室看護婦をして、7―1病棟の看護婦にGが手術室に降りているかどうか問い合わさせて、その結果、Gが手術室に降りている回答を得、また、術前検査との違いも、J医師の麻酔の影響ではないかとの話により解消されていたので、当該患者をGと信じたのであり、自分としては、行うべき義務を尽くしている旨公判供述している。
(2) 容貌等の外見的特徴による確認についての注意義務違反の有無について
被告人Fは、Gのファーストの麻酔科医師であり、また、麻酔は患者に対し、直接その神経を麻痺させるという生理的機能障害を及ぼすのであるから、主治医の麻酔導入前での在室の有無に拘わらず、麻酔科医師自身の責任として、麻酔を施そうとする患者が、麻酔、手術を予定された当該患者であるかどうかの確認をしてから麻酔を施すべき注意義務があることは前記のとおりである。
また、被告人Fは、術前にGの経食道心エコー検査の手伝いをしたり、手術前の術前訪問をして、その容貌等を一応把握していたことは明らかであり、他方、三番手術室手術台に仰臥していたHとは面識がなく、HがGと異なる容貌等をしていたことも客観的には明らかである。
検察官はこのような点を捉えて、被告人Fは、まず、麻酔導入前において、患者の容貌等の外見的特徴や問診により患者がGであることを確認すべきである旨主張する。
確かに、前記認定のような経過を考慮すれば、容貌等の相違に気づき、同一性の確認ができたのであり、注意義務に懈怠があったのではないかと考えられなくもない。
しかしながら、被告人Fは、三番手術室に入るや、手術台上のHに対し、麻酔のための意識状態を確認する趣旨を含めて、「Gさん、おはようございます。」などと何度かGの姓を口にして声を掛け、Hからは問い掛けに相応した返事を得ている。Hは、高齢とはいえ、比較的しっかりしており、応答内容に不自然さを疑わせるような事情があったとは考えにくく、このことは、手術室看護婦らも三番手術室に搬入途中姓を呼んで声掛けをしているが、異常を感じていないことからも裏付けられる。当時、市大病院においては、麻酔施用患者の確認は患者への声掛けによってなされており、カルテ等も揃っていることや、もともとが患者取り違えの予見可能性があるとはいえ、それほど高いものとは認めがたく、患者の入室過程にも格別問題視するような点も知らされていなかったことなどからみると、意識の混濁が窺われない患者に対し名前で語り掛ける方法が患者確認として不十分であったとはいえず、それ以上の問診をしなかったからといって非難することも相当とは思われない。もとより、患者確認の負担を、患者自身に負わせることができないことは前述のとおりであるが、そのことと被告人Fの注意義務違反を問うための問診が適切であったか否かは別問題である。しかして、被告人Fは、その場の状況から前投薬の効果を確認することを意識して呼び掛けをしており、これは麻酔科の慣行からみても一般的な方法であったことにも照らせば、やはり問診が不十分であったとはいえない。
しかも、外見的特徴については、GとHはともに老齢の男性であり、体格的にもそれほど顕著な相違があるわけではない。加えて、ともに手術室交換ホールで全裸となり、頭部には半透明の帽子を被り、下半身にはタオルケットが掛けられた状態にあるのであるから、髪の長さや濃さを含めて容貌等の外見的特徴から判別することはより困難な状態となる。これらの点からみると、多数の患者の中では大きくみれば似ているとの見方すらできないわけでない。また、麻酔科医師は、歯の特徴についても注意をし、入れ歯があれば外してくるように指示するのが一般であり、被告人Fも術前訪問の際、そのようにGに指示したことは認められるが、麻酔実施に当たり注意すべきは気管内挿管の際上前歯部分を損傷等する危険性があることなどによるところ、Gの上前歯の欠損部分は取り外しができない差し歯であり、この点はHにおいても同様であり、両名の間では上前歯に顕著な相違はないのであるから、これをもって、患者の相違に気づくべきであったというのも困難である。さらに、聴診器を当てながら心雑音に気づかず、眉毛に触りながらその色の違いにも気づいてはいないが、麻酔を施そうとするにあたっては、麻酔科医師は、麻酔が安全かつ円滑に施用できるように器具がセットされたかどうかに全神経を集中しているのであるから、これらの点に気づかなかったからといって法的非難に値するといえるかには疑問がある。
なお、被告人Fは、Gの後頭部にあった手術痕の確認をしてはいないが、同被告人の確認した医療記録中には手術痕についての記載がなく、症状的にも麻酔を実施するに当たって支障がないことが確認されているし、しかも既に患者は帽子を被っていたのであるから、後頭部の手術痕を確認をしなかったことを非難することもできない。
そもそも、人物を容貌等の外見的特徴に基づき記憶で確認することの困難性については人の観察力、記憶力の脆弱性、容貌等の相似性、人物観察の日常性、ストーリー性の乏しさ、被暗示性等から困難性があることが夙に指摘されている上、本件では、患者に上記のような相似点があり、しかも手術台上に横たわっている患者が当該患者であるとされており、暗示性が極めて強いのであるから、その困難性はさらに増大している。このことは、本件発覚後、被告人らや証人の多くが、容姿等外形的特徴で判断することの困難性に気づき、その旨指摘していることや、現に本件当時、Gのことを最も良く知る主治医グループが奥村教授から剃毛がされていないことの指摘を受け、また、被告人Fから患者の確認を求められたのに、気管内挿管等がされていて容貌が把握しにくい面があったにしても、その状態を踏まえて検討しながら取り違えに気づいていないことからも、窺われるところである。そして、麻酔科医師の術前訪問は麻酔実施の支障の有無を中心に比較的短時間行われるのが通常であることに鑑みれば、外見的特徴の記憶などという不確かさを残すものより、声掛けやカルテ等により当該患者の同一性を確認することが劣るとはいえず、本件の場合、外見的特徴から同一性に気づかなかったことをもって、被告人Fに注意義務違反があったとはいえない。
結局、被告人Fは、麻酔導入前において、なされるべき注意義務を怠ったというにはその証明が不十分である。
(3) 麻酔導入後の注意義務違反の有無について
次に、検察官は、被告人Fは、麻酔導入後においても、患者の同一性に疑念を抱いたのであるから、単に電話により介助担当看護婦を介して病棟看護婦にGを手術室に搬送したか否かを問い合わせるだけでなく、さらにその身体的特徴などを確認すべきであった旨主張する。
確かに、7―1病棟にGが手術室に降りているかどうかを問い合わせても、Gがどの手術室に降りているかを確認できるわけではないから、被告人Fの講じた措置が、患者取り違えの結果発生を防止する行動としては不十分であったことは否めない。
しかしながら、被告人Fは電話での問い合わせを指示しただけではない。すなわち、患者の同一性確認について、まず、指導者であるセカンドのJ医師に疑義を訴え、さらに第一外科の主治医グループにもその旨伝えて確認を求めた上で、なお自ら手術室看護婦に指示して病棟に電話をさせているのである。しかも、手術室看護婦から電話を受けた病棟看護婦によれば、電話をした手術室看護婦は何かくすくす笑っているような口調で「一寸変なことを窺いますが麻酔の先生が、何か一寸顔が違うって気がすると言ってるんですが。」という調子であったというのである。また、主治医グループもそのような重大な問題提起をされながら、本件手術の第二助手を務め、当日までに四回診察し、当日朝にも回診して会っているI医師は、髪について散髪したんじゃないかとか胸の形が同じだなどと公言し、本件手術の第一助手で胸骨正中切開までの手術をする予定で、既に一一回Gを診察していたK医師も、何ら同一性に疑義を抱かず、I発言を容認している。さらに、術前検査の結果と術中の経食道心エコー検査等とのデータの著しい相違については、その方面で一目おかれているJ医師が麻酔の影響ではないかと述べ、L講師ですら納得してしまっているのであり、これらにより、患者の同一性に関する疑義は解消してしまったというのである。
本件では、L講師も患者が違うんではないかと発言したというのである。在室者の中にはこれを聞いた旨述べる者もいるが、その発言に関わらず主治医らは格別の反応を示した様子がないし、被告人Fもこの発言を聞いていないことからみて、明確なものでなかった可能性が高いが、いずれにせよ、L講師は、同室内にいた医師の中で最も高い地位にあったが、この発言をするには勇気がいったというのである。まして、在室していた医師の中で最も若い医師の一人である被告人Fが上記のような発言をして問題提起をし、その確認を求めたことは医療従事者として正当に評価されるべきことであり、電話による問い合わせの不十分さを補って余りあるものである。在室者がこれを真摯に受け止めていれば、他の医師においてはもとより、看護婦においても、被告人Dから申し送りされていた背中に貼られている筈のフランドルテープの件を思い出してその有無を確認することにより、事故の防止ができたのである。
しかも、被告人Fの疑問を排斥した上記各医師らにおいて、術中検査と術前検査との顕著な食い違いについて医学的説明がつくとし、進んで麻酔以上に重大な侵襲行為である胸骨正中切開の執刀を開始している以上、被告人Fとしても、自己の思い違いと思ったとしても無理からぬところである。
被告人Fが提起した患者同一性に関する疑義を重大に受け止めず、同一性確認についてより豊富な情報量を有する立場にあり、あるいは被告人Fを指導、補佐すべき立場にありながら、被告人Fの疑問を排斥した他の在室者の罪が問われず、患者の同一性確認のため正当な問題提起をし、相応な努力をした被告人Fにさらに尽くすべき義務があるというのは過酷に過ぎて賛同できない。
被告人Fとしてはなすべき注意義務を尽くしたというべきである。
(4) 結論
結局、被告人Fには、三番手術室における患者の取り違えについて業務上の注意義務違反があったとの証明は不十分であり、したがってまた、一二番手術室における傷害についてもその過失責任の証明が不十分であるから、被告人Fに対しては、刑事訴訟法三三六条により無罪の判決を言い渡すこととする。
5 被告人Aの注意義務違反の有無について
(1) 麻酔導入前入室義務の有無について
検察官は、被告人Aが、三番手術室において、Gの手術全般に責任を有する執刀医であることを根拠に、判示注意義務のほかに、自ら又はGの手術に助手として関与する医師らを介し、麻酔導入前に入室して患者に対する問診を行なうとともに、Gの外見的特徴、手術前の病状等を把握し、手術室内の患者がG本人であることを確認して執刀すべきであるのに、その措置を採らず、助手をして胸骨正中切開を施された後に入室した過失がある旨主張する。
他方、被告人Aの弁護人は、同被告人は医師としてなすべきことは全て行っており過失はない旨主張し、同被告人も、患者確認は、自分が三番手術室に入室する以前に、いつもの手術のように、看護婦や他の医師らによって、当然に、また、確実になされているものと考えていたし、入室した時点では、既に胸部の切開はなされて、手術部位である胸部しか確認できない状態にあった、さらに、術前検査と術中の経食道心エコー検査や肺動脈圧の変化については、入室以前に、既に手術担当医師らによって検討され、麻酔導入による影響であるとされており、自分もそのように判断した旨供述している。
そこで、検討するに、被告人Aは、ヘルツグループの指導者であり、本件ではGの執刀医として関与した者であって、その立場は、主治医ではないが、Gに対する手術のリーダーとして、同手術についての最終的かつ最高責任者となるものである。また、本件手術は、前記のとおりチーム医療としてなされており、一般的には、看護婦は看護部の、麻酔科医師は麻酔科の指導に従うが、当該手術についての個別の指示等ができないわけではない。
しかしながら、Gの手術は執刀医である被告人Aが中心となって実施されるが、他の手術関係者も、それぞれに分担している補助的・準備的作業については、責任を持って、あるいは、連携してその職責を果たしているものであり、それぞれが分担を果たすに当たり自らも患者の同一性を確認していくことが求められることは前記のとおりである。しかも、容貌等の外見的特徴による患者確認は、執刀医がより優れているといった類のものではなく、むしろ、日頃から治療に当たっている主治医グループの医師や病棟から搬送する看護婦、次いでこれを受け継いで搬入する手術室看護婦の方がより優れていることはいうまでもない。また、手術室における麻酔導入前の問診の義務の有無についてみても、例えばGの場合には麻酔導入のため病棟で前投薬として既に塩酸モルヒネを投与されており、手術室内ではその状況を踏まえたファースト麻酔科医師の被告人Fが速やかに麻酔施用の準備をするとともに患者確認をしている。
患者の同一性確認の意味においては、教授回診して短時間回診をしただけの執刀医自身に麻酔導入前入室や問診を求めることは、無駄ではないにしても、どれほど有効かは疑問であり、むしろ主治医や看護婦で十分可能であり、却って、より良くなしうることが期待でき、特に患者を良く知る主治医が在室することは、患者の不安感を取り除き、麻酔導入に伴う緊急事態の発生にも即応できる面からみても、有効とも考えられるのである。このように他に有効な手段がある以上、執刀医自身が麻酔導入前に入室するか否かは裁量の範囲内に属する事柄というべきであり、患者の同一性確認のために一般的に麻酔導入前入室を義務とまで解するのは相当とは思われないし、本件当時Gの容態は安定しており、具体的にも麻酔導入前に入室を必要とする危険性があったことも窺われない。また、Gを良く知る主治医グループを麻酔導入前に入室させる義務の有無についてみると、麻酔器具の装着や麻酔の作用により容貌等の把握条件が悪化する前の麻酔導入前の方が患者の同一性確認がより容易であり、他方、手術担当医師は手術に神経を集中する必要性も高いこと、また、一旦取り違えが生じると、これが気づかれないまま引き継がれる可能性が高いことからすると、麻酔導入前あるいは手術室入室までの段階での確実な患者の同一性確認こそが期待されるのであり、検察官の主張も、その意味において理解できないではない。主治医グループの麻酔導入前入室の必要性については、被告人Aも認めているところである。
(被告人A関係。ちなみに、被告人Aは、これまでの勤務病院では、主治医が麻酔導入時に入室していたので、当然市大でもそうだと思っていた旨供述しているが、実態を把握していたわけではなく、また、主治医グループが当該時間帯に勉強会やICUカンファレンスに参加していることを聞いていたのに、入室時期について指導ないし確認した形跡がないことからすると、弁解に過ぎない。)
しかしながら、手術に携わる主治医グループの医師及び看護婦らも与えられた職務を遂行するに当たっては、その職務に内在する自らの基本的かつ根本的注意義務として患者の同一性を確認をしなければならないのであって、執刀医の注意義務を代理、代行するものではないというべきであるし、逐一執刀医の指示を仰がねばならないものでもない。現に市大病院ではそのような扱いで患者取り違え事件が本件まで発生していなかったことからみても、常に主治医の麻酔導入前入室が要求されるほどにその扱いが具体的危険性を帯びたものであったとは認められない。また、麻酔導入に伴う緊急事態についても、麻酔科医師自身が医師であり、相応の対応ができることや、例えば主治医グループもそのころには同病棟内に在室していて直ちに駆けつけられる状況にあるのであるから、これまでの取扱いが医療行為としての水準を逸脱するものであったともいえない。
ちなみに、第一外科のヘルツグループでは、当日の手術予定患者の容態が重大、緊急性を要する場合はともかく、容態が安定していれば、麻酔導入前に入室しても、麻酔を導入中は、緊急事態が発生しない限り、直接にはすることがないためもあってか、同グループが担当したICU(集中治療室)に入院している患者のケアについて認識を共通にし、容態の変化に対応できるようにするため、ICUカンファレンスと称して、ICU入院患者の当日の治療方針をICU担当医とともに協議し、確認するのを慣行としており、Gに対する麻酔導入時においても、Gの容態が安定していたことから、Kら主治医グループの医師はICUカンファレンスに参加するなどして、麻酔導入前に入室することはなく、また、被告人Aから、事前入室を指示されることもなかった。なお、本件当日のICU入院患者は重症であったが、ICUカンファレンスにKら主治医グループ全員が参加しなくとも、支障があるわけではなく、ICUカンファレンスに参加するか、手術室に入室するかは、各患者の容態を踏まえて主治医グループの医師の判断に任せられていた。また、Hの主治医である被告人BもHの麻酔導入前に入室していないが、これはBグループが主治医となっていた他の患者の退院の是非を判断する必要があったためである。
医師の従事している仕事は多様である。例えば、Kら主治医グループの容態の変化が生じやすいICU患者に対するカンファレンスへの全員参加や被告人Bの他の患者の退院の是非の判断などと、容態が安定しており、また、これまで患者の同一性について事故が起きたこともなく、現に患者の同一性を引き継いだ看護婦ら自らもその確認をしなければならない麻酔科医師も患者確認をし、またできる中での麻酔導入前の入室とを対比して、後者を優先させることが義務であるとまで言い切れるものかは疑問であるといわざるを得ない。主治医グループも、自己の職責を果たすために患者の確認をしなければならないが、それはその入室時期に見合った確実な確認方法を取れば足りるものというべきであり、患者の同一性確認義務が当然に麻酔導入前入室義務を導くものとは解されない。
そして、本件主治医グループの医師も、執刀医である被告人Aと同じ医師であり、指示された担当部分を任されているのである。被告人Aが執刀医になっているのは、患部の手術等に高度な技術や経験を必要とするからであり、患者の容貌等の外科的特徴や容態等を知っているからではない。むしろこれらの点は日々診察に当たっている主治医グループの方が、入室時期を含め、より的確な判断が期待できる。被告人Aが執刀医としての担当部分の実施に伴い事前に指示しておかなければならない特段の事情があればともかく、そのような事情のない本件においては、被告人Aが逐一入室時期まで指示しなければならないものとも思われない。
以上のような点を考慮すると、そもそも執刀医自身が麻酔導入前に入室する注意義務はないのであるから、その義務として、助手として関与する医師らを麻酔導入前に入室させ、これを介してまで同一性を確認する義務はなく、あえてこれを指示するか否かは裁量にかかわる事柄というべきである。これを義務とまで解するのは医師の業務の範囲を広く求め過ぎて医療の裁量の範囲を狭め、ひいては医療の停滞、萎縮にもつながりかねないものであり、相当とは思われない。
なお、本件において、主治医グループは、最も良くGを確認できる立場にあった上、既に気管内挿管等により容貌に変化があったとはいえ、被告人Fから、相応の根拠を踏まえた患者の同一性についての問題が提起され、これに真正面から直面させられて検討しながら、その判断を誤っているのであるが、その誤りについてまで、執刀医が負担すべきものとは言えない。また、このような点からみると、麻酔導入前に主治医グループの誰かが入室していたとしても、患者の取り違えに気づいたかどうかははなはだ疑わしく、麻酔導入前の入室が患者取り違えに気づくことになるとの証明もない。
したがって、被告人Aに、助手をしてGの胸骨正中切開をするまでの過程に注意義務違反があったとは認められない。
(2) 被告人A入室後の注意義務違反の有無について
執刀医であっても、患者確認義務があることは前記説示のとおりである。もっとも、通常は、執刀医入室までには、患者が当該患者として搬送され、麻酔や補助的手術がなされているのであるから、特段の事情がない限り、手術室在室者から同一性について特段の申出がなければ、一々患者の同一性に間違いがないか問い質さなくとも、室内の状況等を把握し、不自然な点がないことを確認すれば、患者としての同一性も保持されていると考えるのが自然であるから、患者確認をしたとみて妨げがないというべきである。その意味において、被告人Aが在室者に対し、患者の同一性を問い質さなかったこと自体を捉えて、注意義務違反があると言うことはできない。被告人Aは、在室者から患者の同一性が問題となった旨の報告は一切受けておらず、かえって、患者がGであることを前提にL講師や被告Fから所見の違いの報告を受けているのである。
しかしながら、前記認定のとおり、本件では、三番手術室の患者には術中の検査結果が術前の検査結果と顕著に異なる特異な事情が存した。すなわち、被告人Aは、三番手術室に入室して、L講師及び被告人Fから手術台の上の患者の検査データが手術前の検査データと顕著に異なることを知らされ、また自身経食道心エコー検査の映像でこれを確認している。
さらに、被告人Aは、手術前に予想していたより心臓が小さいことも認識している。
なお、後学のため見学に来ていたL講師も被告人Aの執刀前に同被告人に手術は必要ないのではないかとの話をしたことも窺われる。もっとも、そのような事情は、L講師在室中に既に明らかになっていたのに、同講師らは被告入Aの指示を求めに行くことなく、事前の指示に従い主治医グループにおいて胸骨正中切開まで進めていることに照らすと、その発言もどれほどの真剣味を帯びたものであったかは疑わしい。
しかして、かかる術中に術前の検査データないし術前に把握した所見との顕著な違いが得られた場合は、執刀開始前に医学的に合理的説明が付くか否かを検討、解明することが求められるのであり、その検討、解明は、患者の同一性確認にも当然及ぶべきものであり、かつ、まずもってなされるべきことである。
確かに、検査は患部等の全てをかつ正確に映し出すものではなく、それ故にこそ、例えばHに予定された開胸生検などが行われるのであり、データはあくまでデータであり、また、術中の検査については術前の検査よりも時間的に短く検査場面も限られている上、麻酔により相応の影響を受けることもありうるところであり、これをある程度考慮することもそれなりの合理性がある。さらに、本件では、Gのことを良く知る主治医グループがすでに執刀を開始してその後の手術を進めるための準備を終えて被告人Aの執刀を待つ状態にあり、患者確認の上準備を整えたと考えるのが自然な状況にあり、他方、患者の同一性の議論は全く知らされず、術前検査との違いについても市大の経食道心エコー検査の取扱いにおいて一目置かれるJ医師により麻酔の影響であるかもしれない旨の説明がなされて在室医師もL講師を含め、疑問が氷解したとする雰囲気にあった。しかも、術前の検査ではGの僧帽弁の逆流の程度は重度であることが確認されており、術中の検査によっても同様の部分からトリビアルとはいえ、逆流が認められており、さらに、手術にはある程度の迅速性、即決性が求められていることからすると、所見の相違自体から手術に踏み切るか否かは高度に医学的判断に属すると解する余地もある。
しかしながら、本件では、心臓手術につき豊富な経験と知識を有する被告人A自身経験したことがないと自認するほどの顕著な検査結果ないし所見の違いがある。このような特段の事情がある以上、例えば、在室者に対し変わったことはなかったかなどと尋ねるなどして、さらに患者の同一性について確認すべき注意義務があるというべきであり、被告人Aはこれを怠ったというほかない。被告人Aも、本件発覚後、検査結果からは、手術に不適応な状態であったとHの医療記録に記載しているのは、この趣旨において理解できる。
そうすると、被告人Aには、三番手術室入室以後になした手術についてHに対する業務上過失傷害の責任を負うべきものであり、その範囲は、入室後Hに与えた麻酔を含めた手術部分となる。また、Gに対する関係では、被告人Aが入室したのは午前一〇時三〇分ころであり、そのころには既にGの執刀は一二番手術室で開始済みであり、被告人Aが患者取り違えに気づいてもGへの執刀開始を止めることはできない関係にあるし、全証拠を検討しても、被告人A入室後、一二番手術室で傷害に相当するような手術が行われたことを確定することもできないから、Gに対する傷害については、入室後麻酔を中止させなかった限度で責任を負うものというべきである。
(3) 結論
以上のとおりであるから、被告Aは上記範囲において業務上過失傷害罪の責任を免れない。
第5 Hと間違えられたGに対する肺手術の状況―被告人B、同Cの注意義務違反の有無について
1 被告人B、同CとHとの関わり及び術前所見の把握状況等
(1) 被告人Bについて
被告人Bは、平成一〇年一一月末ころから、第一外科の外来グループのM医師とともにHに対する検査をするなどの診察を続け、その病状等を把握し、一二月二八日H入院後はその主治医グループのリーダーとして、度々病棟を訪れて診察し、平成一一年一月四日には、その親族に手術の必要性や危険性等を話し、また、H本人にも同様の説明をして手術を受ける意思があることを確認するなどした。
被告人Bは、一月七日木曜日、Hの手術には自分が執刀医に、N講師が第一助手に指名されたことを知り、同日同時刻に他の手術が行われることも知り、また、その後も回診した。
(2) 被告人Cについて
被告人Cは、一月八日金曜日に、Hに対する手術のファーストに指名されていることを知り、また、主治医グループがBグループであることや、当日は、他にも第一外科の患者二名に対する手術が同時刻から行われることを知った。そこで、八日午後、Hの各種記録をみてその状態、病状を把握し、所要事項を麻酔経過記録表に記入し、次いで、Hの病室を訪ねて約二〇分位の術前回診を行い、既往歴や手術経験などを聴き取り、手術の際の麻酔に関する説明を行ない、歯の状況を観察し、一部入れ歯があるというので当日は外してくるように指示した。その後、手術・検査指示票に前投薬として胃酸を押さえるガスターの投薬指示の記載をし、セカンド担当のO医師に麻酔経過記録表に記載した内容などを報告した。
2 Hと間違えられたGに対する肺手術の状況
被告人Cは、一月一一日朝、前記麻酔科のカンファレンスに出席した後、Hのファーストの麻酔科医師として、午前八時四〇分ころまでには、一二番手術室に入ったが、Gは、手術台の上に頭には半透明帽子を被り、身体にはタオルケットを掛けられて仰向けに寝かされていた。
被告人Cは、Gの顔を見ながら声を掛けるなどしたが、Hの人相や容貌を覚えていなかったため、容貌の違いに気づかず、また、Gが被告人Bの指示の範囲を超えた陰毛の剃毛をしていたことにも気づかず、GをHだと誤信したまま麻酔の準備に入った。そして、硬膜外麻酔を実施するため、Gを左側臥位にした際、その麻酔部位に近い背中(右肩胛骨下部)にフランドルテープが貼付されているのを見たが、これがフランドルテープであると気がつかず、「何だこれ。」などと看護婦に言って、その理由を確認することなくこれを剥がした。続いて、その後入室していたセカンドのO医師とともに、既往歴として認識していた脊柱管狭窄症の手術痕が見当たらないことに気づいたが、被告人Cは術前訪問時背中を見ているのではないかと思ったO医師が検査だけだったのかなと話したことから、被告人Cもそれ以上理由をさぐることをせず、硬膜外麻酔を実施した。
続いて、被告人Cは、午前九時ころ、Gに対して、Hに予定していた麻酔を吸入させるための気管内挿管を行おうとしてその口を開けさせたとき、下の前歯が少し前に出て歯と歯の間に隙間が開いているなどの術前に見ていたHのそれと異なっているのを認識したが、患者取り違えの可能性には思い至らなかった。午前九時一五分過ぎころ、気管内挿管を終了し、その後も麻酔を継続したが、そのころ、Gの眼瞼にアイパッチが貼られた。気管内挿管終了後、O医師らとともに、手術に備え、Gの体位を左側臥位に整えた。
被告人Bは、麻酔導入後の午前九時三五分ころ、一二番手術室に入り、左側臥位になったGの体位を最終的に確認したが、診察の際などに見たHとの容貌や体格の違いなどに気づかなかった。また、Hの脊柱管狭窄症の手術痕を確認していなかったことから、Gの背部を消毒した際にも手術痕がないことに疑問を抱かなかった。
なお、被告人Cは、被告人Bに対し、上記患者の背中にテープが貼られていたことや脊柱管狭窄症の手術痕がないことや歯の状況が相違していると思われたことなどを被告人Bに伝えなかった。
被告人Bは、その後、Gに覆布を掛け、午前一〇時ころから、その背中から右脇にかけての皮膚を切開して第五肋骨を切断して肺を露出させるなどして開胸生検の手術を開始した。
被告人Bは、胸膜を切開し肺の表面を見たとき、これまでのHのレントゲン写真やCT写真には撮影されておらず、所見として把握されていなかった気腫性変化が多発しているのを見て、おかしいと思ったが、まず腫瘤を探すことが先決であると考え、この相違については深く検討しなかった。また、Hの肺の葉間は、これまでのレントゲン写真やCT写真では、比較的はっきりしていたのに対して、Gの肺の葉間が明確でなく、事前に把握していた所見と異なると認識したが、胸膜の癒着により、分葉が分かりにくくなっているだけなのかもしれないなどと考え、術前の所見と実際の肺の状況とが食い違っているとまでは思わなかった。
そして、手術前の検査で把握されていたHのCT写真上に存在していた直径約4.5センチメートル×約3.5センチメートル大の顕著な腫瘤を、第一助手をしていたN講師も肺の表面や裏側を触診するなどして探したところ、腫瘤を見つけることはできなかったが、術前のCT写真上の腫瘤の位置とはやや異なる部位に嚢胞が数個見つかったことから、その一番大きな嚢胞の壁を切開してみたところ、漿液性の液体しか認められなかった。そこで、肺を専門とする外科医で、その手術に関心を持って在室していた前記M医師にも探してくれるよう依頼したが、N講師に止められた。結局嚢胞しか見つからないため、N講師は、それらの嚢胞が術前の所見で認められた腫瘤の正体だという意見であった。しかし、被告人Bは、釈然とせず、念のため組織の一部を検査に回したり、二回にわたりポータブルレントゲン写真を取ったりしたが、やはり腫瘤がないことから、結局CT写真の腫瘤は、嚢胞の中に液体が詰まっていた状態のもので、手術中に見つけた嚢胞は、それが何かの原因で潰れたものであり、術前の画像から嚢胞の可能性を読みとれなかったのが判断の誤りなのではないかと考え、N講師の見解に従い、M医師も異論を挟まなかった。
そこで、被告人Bは、同日午後零時一五分ころから閉胸作業を開始し、同日午後一時四八分ころ、手術を終了させ、その後、状態が落ち着いてから、午後三時三五分ころ、Gを集中治療室に搬送した。
3 被告人B、同Cの職務と注意義務の内容
被告人両名は、執刀医あるいはファーストの麻酔科医師としてHの手術を安全かつ円滑に行われるようにする注意義務があり、そこには患者の同一性、すなわち一二番手術室内の当該患者がHであることを確認する注意義務もあり、患者が取り違えられていることの予見可能性もあることは前記第4の3において被告人Aらについて説示したと同様である。
4 被告人Cの注意義務違反の有無について
被告人Cの弁護人は、麻酔科研修医に麻酔科医と同様の責任追及がなされることには疑問があるなどと主張し、同被告人も、自分は、麻酔科の研修医であり、指導医の指揮監督の下にHと取り違えられたGに対して、麻酔措置を講じていたものであるから、研修医として行うべき義務を果たしている、また、研修医であるから、過失の基礎となる事実について知りうる立場ではない旨弁解している。
しかし、被告人Cは、研修医として指導者の指導、監督を受けているとはいえ、医師免許を取得し、医師として職務に従事し、現に患者を診察し、医療行為等を行っているものであり、必要に応じ指導者の指導等を求めることができるし、医局員に比べ少ない件数を担当していることも、一件一件慎重に取り組み、遺漏なきを期すためと解される。しかも、外見的特徴等による患者確認には格別の医療知識や技術を要するものではないことは前述のとおりであり、研修医であっても十分確認できる事柄である。そして、ファーストの麻酔科医師を担当し、患者に対して麻酔を施す以上は、患者確認をすべき注意義務を負っていることも前述のとおりである。
しかるところ、被告人Cは、手術の三日前にHの術前回診を行っており、その容貌等の外見的特徴を把握する機会を得ていたが、その際には、硬膜外麻酔をする際にチューブを挿入する背中や既往歴である脊柱管狭窄症の手術痕の確認をせず、入れ歯についても問診だけで済ますなどしており、やや形式的に流れていたと思われる点が窺われないではないが、本件当日は、手術室入室段階から、「Hさん。」と明示して、声掛けを行っていることや、前記のとおり手術室内での容貌等の外見的特徴による患者の同一性把握には困難性が伴うことなどを考慮すると、これにより患者確認をできなかったことが注意義務違反に当たるとみるにはその証明が不十分である。
しかしながら、被告人Cは、手術室において、麻酔の準備に当たり、Gの背中に、Hであれば異物というべきフランドルテープが貼り付けてあるのを見て異常を感じながら、セカンドのO医師に知らせることもせず、理由を確認することなく、間違ってテープを貼ってきたと安易に考え、これを剥がしてしまっている。
(被告人C関係。被告人Cは、当公判廷において、フランドルテープのことは知っていたが、普通は日時等がテープに記載されて胸部に貼られているのに、日時の記載がなく背中に貼られていたことからフランドルテープと思わなかった旨供述している。しかしながら、フランドルテープと認識できたかどうかが問題なのではなく、手術当日、術野の範囲内の、しかも硬膜外麻酔をする部位近くに長さ一〇センチメートル位、幅八センチメートル位の大きさのテープが貼られていることが異常なのであり、また、その異常を認識しながら、その理由も確認せず剥がし、知らせもしなかったことが問題なのである。)
また、Gの背中に脊柱管狭窄症の手術痕が見当たらないことに気づき、不思議に思ったのに、セカンドのO医師から「検査だったんじゃないかな。」と言われるや、術前回診でその手術痕を確認していなかったことをO医師に知らせないまま、同医師の発言に同調し、その手術痕が見あたらない理由の確認をしていない。
さらに、その後、肺手術用のチューブを口から気管に挿入する際、Gの前歯が、術前回診の際に見たHの前歯の様子と異なっているとの印象を抱いてもいながら、格別問題にもしなかった。
なお、検察官は、被告人Cは、主治医の被告人BがHの手術に対して指示した剃毛範囲と異なり、Gが陰毛まで剃毛されているのを見過ごした旨主張するが、陰毛の剃毛はHの麻酔の実施に支障がない部分であり、関心を持たなくてもやむを得ないところであり、これを認識しなかったからといって、非難することはできない。
以上によれば、被告人Cは、当該患者には上記の諸点があり、その確認を促す事情があって、その理由を確認すれば患者が取り違えられていることに気づき得たのであり、これを確認する注意義務もある。しかるに、被告人Cは、これを怠り、結局患者が取り違えられていることに気づかないまま麻酔を施したものであるから、Gに対する過失責任を免れない。また、被告人Cが上記義務を尽くしていれば、Gが同時刻ころに行われていた三番手術室のHと取り違えられていることが容易に把握できる状況にあったと認められるから、Hに対する心臓手術を中止させる機会をも失わせ、負傷に至らせたものと認められる。
以上のとおり、被告人Cについては業務上過失傷害罪が成立する。
5 被告人Bの注意義務違反の有無について
(1) 麻酔導入前入室義務の有無について
被告人BはHの執刀医であるとともに主治医であるが、検察官は、執刀医としての注意義務違反を問題とし、被告人Aと同様麻酔導入前入室義務があるとしており、被告人Bも、事実関係及び過失の存在についてはこれを認めており、その弁護人において、被告人Bの過失の程度は、その他の関与者の過失をも考慮して決められるべきものである旨主張しているに止まる。
しかしながら、麻酔導入前入室については、一般的には義務とまでは認めがたいことは、被告人Aに説示したとおりであるし、具体的にもHの容態等が麻酔導入前の入室を必要とする危険な状態にあったことも窺われない。したがって、独自に患者を確認すべき麻酔科医師の麻酔導入に伴う患者の同一性の過誤にまで責任を負わせることはできない。
しかし、被告人Bは、前記のとおりHの執刀医として、患者の同一性を確認する義務があるところ、同時にHの主治医でもある。被告人Bは、麻酔導入時には立ち会いたいと思っていたが、当日朝は、Bグループが主治医として担当した他の入院患者のレントゲン検査結果をみて退院の是非を決める必要があり、他方、Hの手術は長時間を要するところから、先に退院の是非の判断を済ませざるを得なかったため、麻酔導入には立ち会えず、一二番手術室入室時には、既に当該患者の麻酔導入は終わり、患者は手術台上に左側臥位で体位を取り、その確認を待っている状態にあり、容貌等は麻酔導入により把握しにくい状況にあったが、患者が取り違えられているとは全く思っていなかったことから、体位の確認をしただけで手術に着手したものである。
しかして、被告人Bは、たとえ当該患者に麻酔の挿管等がされていたとしても、その同一性確認義務を免れないし、むしろ麻酔導入前の入室ができなかったため、容貌等外形的特徴等による判別が難しくなればそれに応じた慎重な確認が求められるのである。そして、一二番手術室においては、ファースト麻酔科医師が研修医の被告人Cであっただけでなく、Bグループで先に入室しているのも研修医のP医師のみであり、その入室時期も九時一五分ころで既に患者はアイパッチがされ、麻酔のための気管内挿管等がほぼ終わったころであって、十分な確認ができる状況になく、このことは、P医師に入室を促した被告人Bもその時間帯から予想できる状態にあった。加えて、研修医はどうしても医療技術や知識の習得に目が向きがちであるし、そもそもが最も患者のことを知る主治医、すなわち被告人Bが患者確認をしていないことは執刀医としても当然理解しているのであるから、被告人Aの場合と異なり、単に手術室内の状況に異常がないことを確認するだけでは足りず、執刀開始前において入室時期に応じた確認方法をとってその同一性を確認する義務があり、これを怠ったというべきである。
(2) 開胸後の注意義務違反の有無について
また、被告人Bは、手術開始後に開胸して現れたGの肺を見て、術前のCT写真等で予想した所見と異なり、気腫性変化が多発し、また、術前のレントゲン写真やCT写真で認められていた癌が強く疑われる充実性の腫瘤が発見されず、種々の検討や調査をせざるをえないなど、不審なことが続いていたのであるから、上記のように主治医である被告人B自身の入室時期等をも併せ考慮すれば、開胸後においても、患者の取り違いに気づきうる転機及び可能性があったというべきであり、その点においても注意義務違反があったと認められる。
被告人Bは、その後、N講師の発見された嚢胞が潰れたものではないかとの意見に対して釈然としないまま、受け入れてしまっている。嚢胞が潰れたものか否かの判断は、患者の同一性の点を除けば、関係証拠をみても、高度に医学的な判断に属するし、最終的には、第一助手であるN講師が指導的立場にあり、病態について判断に迷ったり、見解が分かれたりしたときには、同講師に最終的な決定権もあったと認められるから、その意見を尊重したことにやむを得ない面があるが、患者の同一性の有無に気づきうる可能性は被告人Bの方がより大きいのであるから、N講師の判断の是非が被告人Bの責任を軽減するものとはなしがたい。
(3) 結論
以上のとおり、被告人Bについては業務上過失傷害罪が成立するが、被告人Bが気づき得た時点では三番手術室の麻酔は既に開始されていたから、その後の入室以降の部分についてHに対する負傷の責任を負うと解される。
第6 まとめ
検察官は種々の主張をして各被告人の過失責任を追及しているが、被告人Fについては、犯罪の証明が不十分であるし、その余の各被告人については、各項において示した限度で責任を負うものと判断した。
(法令の適用)
被告人A、同B、同C、同D及び同Eの判示各所為は、いずれも刑法二一一条前段に該当するところ、以上の各行為は、一個の行為にして二個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪として犯情の重い、被告人A、同D、同EについてはHに対する、被告人B、同CについてはGに対する、各業務上過失傷害罪の刑で処断することとし、被告人A、同B、同C、同Dにつき、いずれも所定刑中罰金刑を選択し、各その所定金額の範囲内で、被告人Aを罰金五〇万円に、被告人Bを罰金三〇万円に、被告人Cを罰金四〇万円に、被告人Dを罰金三〇万円に、それぞれ処し、同被告人らにおいてその罰金を完納することができないときは、同法一八条により、金五〇〇〇円を一日に換算した期間、それぞれその被告人を労役場に留置することとし、被告人Eにつき、所定刑中禁錮刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人Eを禁錮一年に処し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判が確定した日から三年間その刑の執行を猶予することとし、被告人A、同B、同Cに生じた別紙訴訟費用一覧表の訴訟費用は、刑訴法一八一条一項ただし書を適用して、同被告人らに負担させないこととする。
(量刑の理由)
本件は、判示のとおり被告人らが患者の同一性の確認を怠ったため、病棟看護婦と手術室看護婦との間の手術室交換ホールにおける二名の入院患者及びカルテ等の引継ぎの際、患者を取り違え、その後関与した看護婦、医師もその取り違えに気づかず、結局これらの過失が競合して、肺手術予定患者に心臓手術を、心臓手術予定患者に肺手術をしたという業務上過失傷害の事案である。
市大病院は、県内有数の高度な医療を期待されている病院である。被害患者両名は、いずれも重い病気の治療のため市大病院を信頼するとともにその高度な医療に期待し、その生命、身体を市大病院に委ねて手術に至ったものであり、手術の二日前にICUを見学した際には、ともに激励し合ったというのである。
被害者両名の手術部位は、身体の生命機能を司る心臓、肺であり、それ自体危険性がある。患者本人やその家族にとっては大手術であり、手術の決断には医師を始めとする医療関係者への信頼が不可欠である。しかるに、被告人らは、患者の同一性を確認するという医療行為に内在する最も根本的かつ基本的行為を怠り、その負託に答えるどころか、あってはならない患者取り違えをし、あるいはその取り違えに気づかないまま手術をしてしまったものである。
負傷の結果は判示の程度にとどまったが、HにはGの多量の自己血液が輸血されており、死と隣り合わせの極めて危険なものであった。両名の血液型が適合するという僥倖に助けられ、最悪の事態を免れたことは、被害者両名及びその家族はもとより、被告人らをはじめとし本件手術に関与した医療従事者、そして市大病院関係者、ひいて医学界にとっても、不幸中の幸いであったが、被害者両名の受けた精神的、肉体的な衝撃には多大なものがあり、その結果の重大さは言うまでもない。本件の影響等もあり、被害者Gにおいてはついに本来予定されていた心臓手術を受けることなく、また、被害者Hにおいても、本来予定されていた肺手術の時期が遅れ、いずれも予定外の無用な入院を余儀なくされるなどしている。
被害者Gは、事故後、患者は医師を信頼して手術を受けるのだから、自分の患者を確認して欲しい旨述べている。余りにも当然のことであり、本件が市大病院のみならず、医療関係者に衝撃をもって受け止められている根源もここにあり、医療に対する信頼を大きく失墜させ、また及ぼした社会的影響も大きい。
本件過誤について検察官は被告人らの過失責任を導くために、被告人らはその責任を軽減するために、市大病院の管理体制に問題があった旨るる主張する。しかしながら、市大病院の管理に改める点があったにせよ、本件ではこれを過大視できないことは補足説明で説示したとおりである。
被告人らの刑事責任を軽くみることはできない。
他方において、被告人らは、いずれも事実関係自体は素直に認め、患者の同一性の確認において不十分であったことを反省、自覚するとともに、一致して被害者両名及びその親族に対する真摯な謝罪の心情を述べていること、期間に長短はあるが、医師あるいは看護婦として、いずれも情熱をもって医療に従事してきたものであること、本件により、横浜市から、被告人Aにおいて停職、その余の被告人らにおいて減給の処分を受け、また広く社会に報道されるなどの社会的制裁を受けていること、本件の背景として市大病院における労働実態、ことに同一時間帯に複数の患者の手術が集中するなどし、やむを得ず複数の患者を同時に搬送せざるを得ない状態があり、また、病院全体の雰囲気として、患者取り違えの危険性・可能性についての意識が乏しかったこと、横浜市と一名の被害者との間では示談が成立していることなどの各事情が認められる。
さらに、本件は五名の被告人らの過失が競合して生じた事案であり、各過失の内容、程度を離れてその責任を定めることはできない。そして、本件では、患者の同一性を確認しなかったとはいっても、手術室交換ホールにおいて二名の患者を目の前にしながらこれを取り違えた過失と、取り違えられて手術台の上に手術予定の当該患者として仰臥している者が本来の患者ではないことに気づかなかった過失とがあり、前者の方が同一性の確認が容易であり、後者の段階では、患者が取り違えられていることの予見可能性は高いものでないし、患者の同一性の確認もより困難になることは前記説示のとおりである。
しかるところ、本件の取り違えを生じさせたのは被告人Dと被告人Eとの患者受渡しの際であり、被告人Eは、自らの患者の同一性確認にあいまいさを残したままにしただけでなく、被告人Dにカルテ等の引継ぎを直ぐに行う機会も与えず、続いて患者を送るよう指示した点で二重の過誤を犯している。過失の内容は甚だ重大であり、その内容自体も市大病院の管理体制に責任を求めにくいものであって、その責任は、本件被告人らの中で最も重いというべきである。もっとも、被告人Eについては、自己の過失を認め、その経過につき率直かつ詳細に供述していること、被告人Eが本件患者の受け渡しに携わったのは、同僚看護婦や患者のためを思い、善意から出たものであること、これまで誠実に職務に取り組んできた実績があることなどの斟酌する点もある。
一方の引渡しをした被告人Dについては、患者の引渡しの対応に不十分な点があったとはいえ、一応は病棟看護婦としての手順は踏んでおり、同じ看護婦として手術室の患者受け取りを担当した被告人Eが患者が誰か分からなければ確認すると思うのも不思議ではないし、ましてあいまいさを残したまま受け取るとは考えにくいことも事実である。また、カルテ等の引渡しに当たっても、所用の申し送りをしており、殊に、G担当の手術室看護婦には、Gにはモルヒネの注射をしていることや背中にフランドルテープが張ってあることを明確に伝えており、患者の同一性を確認する有力な情報を伝達している。このような点を勘案すれば、被告人Dの過失はそれほど大きいものとはいえない。
また、本件発覚当初被告人Dの引渡しのミスが根本であるかのごとく言われるなどして精神的に追いつめられた状況があったことが窺われる上、本件により勤務の部署換えを余儀なくされていること、看護婦としての仕事に対するひたむきな取り組みや熱意が認められること、その健康状態など斟酌する点もある。
他方、被告人A、同B、同Cについては、前記のとおり手術室手術台上の患者の取り違えに気づくことはより困難性が増していること等の事情がある。本件においては、補足説明で指摘のとおり、被告人ら以外にも、多くの医療関係者が関わっており、術前と術中所見との間に食い違いがあったが、誰一人として患者が取り違えられていることに気づくものはいなかった。わずかに、被告人Fが、心臓手術が予定されていた三番手術室において患者の同一性についての疑義を相応の根拠をもって提示しているが、それも否定されてしまっている。このことは、一旦患者が取り違えられると、術前と術中所見に食い違いがあっても、取り違えに気づくことの難しさを示しており、多くの証人がその立場に立てば同じようなことをしたかも知れない旨述べているところであって、軽率とばかりはいえない面もある。また、被告人Fに疑問を呈されて患者の取り違えに気づく機会を与えられながらこれを生かせなかった医療関係者らが起訴されていないこととの処遇の公平についても考慮せざるを得ない。
加えて、被告人Aについては、前述のとおりL講師を含め、Gを良く知る主治医らさえ患者がGであることを前提とし、また、検査結果の著しい相違についてもその検査について一目置かれているJ医師の見方をふまえ室内が一致して麻酔の影響との雰囲気下にあった上、現実にも程度の差が大きいとはいえ術前の逆流部位と類似の部位から逆流があり、術前の所見が重度であったことを踏まえ手術に踏み切ったもので、患者の同一性を前提とした場合には、手術するか否かは高度な医学的判断に属すると解する余地があること、本件後、第一外科部長を辞任していること、同被告人の心臓血管外科における業績は、証人として出廷した他の医師らも一致して認めるところであり、これまで社会に貢献しており、今後も、その識見・技術を心臓疾患に苦しむ多くの患者のために発揮するとともに、後進の育成にも尽力することが期待できる立場にある。
被告人Bについては、問われているのは執刀医としての注意義務違反であり、なお、麻酔導入時に立ち会おうと思いながら立ち会えなかったのは、Bグループの責任者として、他の職務を果たす必要があったからであるし、被告人Cらから、フランドルテープが背中に貼られていたことや脊柱管狭窄症の手術痕が見当たらなかったことなどを知らされることがなく、患者の同一性の確認を促す転機が乏しく、その経緯には斟酌できる点が多いこと、開胸後は所見の食い違いを疑問に思い、慎重にできる限りの調査をしており、嚢胞が術前所見の腫瘤であるか否かの最終決定権はN講師にあったこと、開胸後の侵襲も最小限度に止まっていること、これまで医師として誠実に患者のために尽くしてきており本件の責任を痛感等する余り、市大及び市大病院を辞任していることが認められるところであり、本件での肺手術の際の対応等をみても、医師としての資質に欠けるところはなく、今後もその知識と技量を病気で苦しむ人のために生かすことが期待される。
被告人Cについては、やや軽率であった点は否定できないが、フランドルテープを剥がす際には看護婦の前で、「何これ。」と言ったが、格別の意見も得られなかったこと、本件当時は研修医であり、本件のため人事面での不利益を受けていること、患者の治療や後輩の指導などの職務に熱心に取り組んでいる様子が窺われることなどが認められる。
本件では被告人A、同Bは執刀医であり、被告人Cはファーストの麻酔科医師であって、それぞれの立場のほか、患者に対する直接の侵襲行為をしている。その意味では検察官が同被告人らの刑事責任を厳しく追及することも理解できないではない。しかしながら、本件は医療行為としてなされた麻酔や手術行為自体の誤りによるものではなく、その前提となる患者の同一性の確認を怠ったものであり、かつ、容貌等の外形的特徴による判断能力や確認の要求は、医師か看護婦かによって特段の違いがあるとは考えにくく、一旦取り違えられるとその同一性の確認に困難性が増すこと等は前述のとおりである。このような点からみると、各被告人らの責任は、医師であるか看護婦であるかではなく、それぞれの過失の内容、程度に応じるべきものであり、本件における各被告人の過失の内容、程度は上来説示のところから明らかである。
以上の諸情状を総合考慮すると、本件の患者取り違えは、矢張り被告人Eが前記のとおり二重の過誤を犯したことに根本原因があることは明らかである。これは善意から出たこととはいえ、許されることではなく、他の被告人らの過失を誘発する素地も作り出していることにも鑑みると、有利ないし斟酌すべき事情を十分考慮しても、その責任は重大と言わざるを得ず、禁錮刑を選択するのが相当である。
他方、その他の被告人については、前記諸状況からみて、いずれも主文の罰金刑に処するのが相当である。
よって、主文のとおり判決する。
(検察官北見映雅、同沖本浩(ただし、被告人A・同Fについてのみ)、被告人A弁護人岡本秀雄(主任)、同髙原將光、被告人B弁護人木村保夫、被告人F・同C弁護人吉羽真治(主任)、同菅野昭弘、被告人D弁護人鈴木元子(主任)、同手塚誠、被告人E弁護人岡田尚、各公判出席)
(求刑 被告人A、同B、同F及び同Cにつき、それぞれ禁錮一年六月、被告人D及び同Eにつき、それぞれ禁錮一年)
(裁判長裁判官・田中亮一、裁判官・前澤久美子、裁判官・竹林俊憲)
別紙
手術室配置図<省略>
手術室交換ホール図<省略>
訴訟費用一覧表<省略>