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横浜地方裁判所 平成12年(わ)749号 判決 2001年9月20日

主文

被告人は無罪。

理由

1  本件公訴事実について

(1) 本件公訴事実は、

「被告人は、平成11年12月30日午後8時25分ころ、横浜市a区b町c番地d荘e号室被告人方において、殺意をもって、

第1  A(当時62歳)に対し、所携の出刃包丁(刃体の長さ約14.7センチメートル)でその左側腹部を数回突き刺し、よって、即時同所において、同人を腹部大動脈刺創により出血死させて殺害し、

第2  B(当時60歳)に対し、前記出刃包丁でその背部、右腹部等を数回突き刺したが、同女に約129日間の加療を要する腹部刺創による小腸切創等の傷害を負わせるにとどまりその目的を遂げなかった」

というのであり、責任能力の点を除き、被告人が上記公訴事実記載どおりの行為(以下「本件犯行」という)をしたことは、当公判廷で取り調べた各証拠によりこれを認めることができる。

(2) なお、被告人は、第1回公判において、被害者両名に対する殺意を否認する陳述をしているが、本件犯行態様は、身体の枢要部である腹部等を刃体の長さ約14.7センチメートルの出刃包丁で突き刺すという、被害者両名を死亡させる危険性の極めて高いものであり、被告人も、被害者両名を上記包丁で突き刺したことは認識していたことなどからすると、犯行当時被告人が殺意を有していたことは優に認められる。

2  被告人の責任能力について

(1) 被告人の責任能力について、検察官は、本件犯行当時被告人は覚せい剤精神病に罹患しており、是非善悪を判断し、これに従って行動する能力が著しく減退した状態にあったことは否定しないものの、上記能力を完全には喪失していなかったと主張するのに対し、弁護人は、本件犯行当時被告人は重症の精神分裂病と等価の精神障害に罹患し、これによる幻覚妄想に人格を支配されていたのであるから、心神喪失の状態にあったと主張しているので、この点について判断する。

被告人の犯行当時の精神状態については、起訴前の医師C作成の精神鑑定書(以下「C鑑定」という)、裁判所に選任された鑑定人D作成の精神鑑定書及び同人の当公判廷での供述(以下まとめて「D鑑定」という)が証拠として存在するところ、C鑑定は、被告人は本件犯行当時心神耗弱状態であったと結論づけるのに対し、D鑑定は、明言はなされていないものの心神喪失を示唆する内容となっており、両鑑定の間ではその結論において意見が分かれている。

(2) そこで、被告人の犯行当時の責任能力について判断するに当たり、これに関係する事実関係を検討するに、関係各証拠によれば、主要な事実関係は概ね以下のとおりである。

ア  被告人は、昭和45年12月12日、横浜市内で、実父E、母Bの長男として出生し、4歳時に実父が蒸発したため以後はBに育てられていたが、Bは、同53、4年ころ被告人の養父であるAと知り合い、その後、同人と同居するようになった。被告人は、地元の小、中学校を卒業後、高校に進学するも1年時に中退し、その後はバーテンダー、土木作業員などのアルバイトをしていたが、遅くとも平成6年ころより、マリファナの使用を開始し、同7年ころからは覚せい剤の使用も始め、その後2年間ほどの間はこれらの薬物を頻繁に使用していた(なお、本件犯行当時、被告人は薬物を使用していない)。このころから、被告人は幻覚や妄想を体験するようになり、またBや姉に対して意味不明な言動をとったり暴力を振るうようになった。

イ  平成7年10月、被告人はBとともにF神経科を受診したところ、精神分裂病との診断を受け、投薬治療が開始された。その後、被告人ないし被告人の家族は、同10年8月25日まで同神経科への受診を断続的にではあるが続け、この間治療が継続して行われていた。

同年9月24日、Aが脳出血で倒れ入院することとなったが、このころより被告人には異常な行動が再び目立つようになり、同年10月11日、Bに対し突然暴力を振るったため警察に保護され、被告人はG病院に医療保護入院し、「覚せい剤使用による残遺性障害の疑い」という診断の下で治療を受けた。その後同月30日にH病院に転院となり、引き続き入院を継続することになったが、同病院では「多剤薬物性精神障害」との診断を受けた。なお、被告人は同病院に入院中、人が自分の体に入ってくるという幻覚妄想を多く体験した。

ウ  被告人は、翌11年2月22日に同病院を退院し、その後再び上記F神経科に通院し治療を行っていたが、同年7月ころからは通院を止め、処方されていた薬も全く飲まなくなった。この間、被告人は人が体に入ってくるという幻覚妄想を継続して体験しており、治療を停止した7月ころからは多彩な幻覚妄想を持つようになるとともに、AやBの声で「殺すぞ」という内容の幻聴を聞くようになり、自分がAやBから殺されるのではないかと考えるようになっていた。

同年12月ころ、被告人は自室で寝たり、姉の部屋で音楽を聴いたり、辞書を読んだりしながら一日を過ごしていたが、このころになると被告人は幻覚妄想にとらわれるような状態になっており、事件の数日前には、ランドマークタワーのホテルで芸能人、サッカー選手、暴力団組長らが新薬を試すパーティーを開き、そこで殺し合いが行われている状況が眼前に広がっているといった内容の幻覚妄想を体験している。また、同年12月14日には、被告人はBに対し、退院して自宅で寝たきりになっていたAの面倒を見る旨申し出たが、当時有していたAが人を殺したという内容の幻覚妄想に従い、突然Aの顔面を殴るなどの暴行を加えた。

エ  犯行当日である同年12月30日、被告人は終始自分の体に人が入ってくるといった内容を含む多様な幻覚妄想を体験していたが、午後8時ころ、自分の体に入ってきた人を追い出すため入浴をした。その際、BからAの大便を処理するための水を汲むのに風呂場に入っていいか尋ねられ、被告人はこれを了承する返事をし、そこでBは風呂場に入り水を汲んだ後、トイレで大便を処理し居間に戻った。このとき、被告人は、Bの「おまえは誰だ」という幻聴を聞いており、以前より聞いていた「殺すぞ」という内容の幻聴の影響もあって、AやBに本当に殺されると思うに至った。そこで、被告人は殺される前にAやBを殺さなければならないと考え、風呂から出て自分の部屋に戻り、予め押入に隠しておいた出刃包丁を持って両親のいる居間へ赴き、無言のまま、まずBを襲い、次いでベッドに寝たきりになっていたAを襲った。この時、被告人は一瞬犯行を躊躇したが、依然として体の中に人が入ってくるという内容の幻覚妄想を有しており、当時体に入ってきていたという人による「やっちまえ」というような内容の幻聴を聞き、これに刺激されて本件犯行に及んでいる。

オ  犯行後、被告人は血のついた包丁を台所で洗って、流しの中に置き、自分の部屋へ戻って素肌の上に背広上下に着替え、すぐ近くのアパートに住んでいた姉の部屋へ行き、テレビないしラジオを聴いていた。そこへ、近隣住民から通報を受けた警察官が臨場し、興奮した様子の被告人に「何で来たか分かるか」と聞いたところ、当初「分からない」と答えていたが、問いただされると本件犯行を認めたため、被告人は緊急逮捕された。

(3) なお、被告人の有していた幻覚妄想の内容に関し、検察官は、D鑑定に際しての問診における被告人の供述は、捜査段階や公判廷における供述内容と比較して、信用性が低い旨主張している。

確かに、被告人の供述内容は曖昧・不明確な部分が多く、また、被告人は捜査段階では、両親に殺されると思い、殺されるなら先に両親を殺さなければならないと考えやった旨一貫して供述しており、体に人が入ってくる体験については公判廷での供述が最初である。さらに、本件犯行時に体験したとする「やっちまえ」という内容の幻聴や、犯行前に体験していた夢幻様の幻覚妄想については、D鑑定に際しての問診に至るまで明確には供述しておらず、その供述内容は誇大化していく傾向は否定できない。

しかし、D鑑定によれば、被告人に詐病ないし虚言の傾向は窺われないこと、C鑑定時における問診においても、「世間が凄いことになっているんじゃないかと思う」「父が世間に対してとんでもないことをやったんじゃないかと思う」といった内容の供述をしており、被告人が前記のような幻覚妄想を有していたことについての兆候が窺われること、D鑑定以前の平成12年7月に被告人が母親に宛てた手紙(弁2)には、本件犯行時の幻覚妄想についてD鑑定と同旨の内容の記載がなされていること、被告人の有していた幻覚妄想の内容が荒唐無稽であり、実際にこれを体験していない者が作出することは困難と思われることなどからすれば、被告人が幻覚妄想の内容について意図的に虚偽の供述をしているとは認められず、基本的にその信用性を肯定してよいと思われる。

(4) 以上の認定判断等を前提に検討するに、本件犯行の動機といいうるものは、前記のとおり「殺すぞ」という幻聴を聞いた被告人が、殺されるならば先に相手を殺そうと考えたというものであるが、本件犯行当時、被告人がAやBから殺されるような状況は客観的には全くなかったのであり、幻覚妄想や幻聴を抜きに考えると、本件犯行の動機としては理解しがたいものといわざるを得ない。犯行状況についても、事前にこれといった兆候もなく、風呂から出た被告人がAとBのいた居間へ赴き、無言のまま母親であるBに対して自室から持ち出した包丁で突き刺し、その後寝たきり状態になっており、ベッドで寝ていた父親Aの腹部に包丁を数回突き刺したというものであり、不自然・不合理というべきである。さらに、前述したように、被告人の有していた幻覚妄想の内容は荒唐無稽であって、犯行当時の被告人の生活とは何ら関連性を有していない。

そうすると、D鑑定が、被告人は覚せい剤精神病に罹患しているとした上、「被告人の犯行は、<1>夢幻様の幻視をともなった<2>「殺される」という妄想による具体的な脅威と、<3>「やっちまえ」という瞬時の命令性の幻聴、そして<4>当時反復的に体験していた「人が中に入ってくる」という身体的被影響体験の四者が複合して起こされたもの」であるとしつつ、「犯行時においては重症の精神分裂病と同程度に重篤な幻覚妄想回帰型の症状を有しており、これは本件犯行に対して極めて大きな影響を与えた」として指摘するように、被告人が幻覚妄想に支配されていたとすると本件犯行はその説明がつきやすく、D鑑定はその信用性を肯定できると言うべきである。

他方、殺意の形成と行為は被告人の人格的特性によるものであり、その意味で犯行時は、理非の弁識、行為能力は著しく減退していたが喪失した状態には至っていなかったとして、本件犯行を被告人の人格の発現とするC鑑定は、被告人の本件犯行の全体像を十分に説明できているとは言い難く、また、鑑定の前提事実として、本件犯行前後に被告人が有していた夢幻様の幻覚妄想などについて十分考慮されていない点で、その信用性には疑問があるといわざるを得ない。

(5) 検察官は、被告人が限定責任能力を有していたとする根拠として、第1に被告人が本件犯行後、血の付いた包丁を洗ったり、現場を離れて姉の家に身を隠したり、訪れた警察官の問いかけに対して当初「わからない」などと対応した上、問いただされて犯行を正確に説明していることなど、被告人が罪の意識を有していたことを前提に合理的な行動をとっていること、第2に本件犯行に際し、被告人は被害者両名を刺すことを躊躇しており、これは被告人が規範意識に直面し事物の理非善悪を弁識していたことを示すものであることを指摘する。

しかし、第1の点について検察官は合理的と主張するが、被告人が犯行後、素肌の上にスーツを着た状態で姉の部屋でテレビないしラジオを聴いていたことなどからすれば、被告人の犯行後の行動は必ずしも合理的とは言い難い。第2の点についても、検察官の主張するような理解も不可能ではないが、D鑑定で指摘されているように、犯行を躊躇したとはいえ幻覚妄想に支配されていたからこそ結果として犯行に及んだという見方も十分可能であるというべきである。

以上からすれば、本件犯行を、被告人の人格の発現とみることが困難な面があることは否定できず、本件犯行当時、被告人に行為の是非善悪を弁識し、その弁識に従って行動する能力が限定的にでも存していたとすることについては疑問が残るといわざるを得ない。

3  以上のとおり、被告人が本件犯行当時心神喪失の状態にあったのではないかとの合理的な疑いを払拭し得ないから、刑事訴訟法336条により、被告人に対し無罪の言渡をすべきものとして、主文のとおり判決する。

(検察官粟田知穂、国選弁護人阪田勝彦各出席)

(求刑-懲役10年)

(裁判長裁判官 矢村宏 裁判官 柳澤直人 裁判官 石井芳明)

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