横浜地方裁判所 平成14年(わ)965号 判決 2002年9月26日
主文
被告人を懲役5年に処する。
未決勾留日数中120日をその刑に算入する。
横浜地方検察庁で保管中のロープ1本(平成14年領第971号符号1)を没収する。
理由
(犯行に至る経緯)
被告人は,中学校卒業後就労して以来まじめに働き,昭和44年妻Bと婚姻し,翌年長女C,昭和48年長男Dをそれぞれもうけ,4人家族の生活を平穏に営んできたが,Cが昭和61年1月ころ(中学校3年時),学校でのいじめ等を契機に異常な言動をし,自宅に引き籠もるなどして精神分裂病(統合失調症)となった。このため被告人は,児童相談所に相談したうえ,Cを精神科に受診させ,それ以来,通院を続けさせ,症状が増悪した際には数か月入院させるなどして監護に努め,Cを昭和61年4月に私立高校に進学させ,平成元年3月には同校を卒業させ,親族の下で一応就労させるなどしていた。その間,医師から病名等の告知はなく,被告人も不安感から尋ねられずにいたが,平成3年2月ころの診察の際,カルテの精神分裂病という記載を垣間見て治癒の見込みがない病気だと絶望感を懐いたものの,治療が奏功してCは平成3年7月退院以降徐々に快復し,平成9年1月ころ知り合ったEと数か月の交際を経て結婚することとなった。被告人は,Cの快復を喜ぶ一方,病気再発の不安も感じていたが,結婚話の破談を恐れ,Eにその病歴を打ち明けることはできなかった。Cは家事の傍らパート勤めもし,平成10年12月長女,平成13年4月長男をもうけるなどEと平穏な結婚生活を送り,被告人もその将来への安堵感を懐くようになった。ところが,その矢先の平成13年6月ころ,Cがにわかに精神に変調を来したため,被告人方でCを引き取った。被告人夫婦と同居していたDは,私立の高校,大学を卒業し薬剤師として働き相当額の収入を得ていたが,Cの監護にはほとんど関与しなかったため,主に被告人と妻が面倒を見ていた。被告人は,Cが支離滅裂なことを言い,怒鳴り,手当たり次第に物を投げ,小火騒ぎを起こし,徘徊して警察に保護されるなどしたため,平成13年9月1日から3か月余り入院させ祈るような気持ちで快復を期待していたが,Cの症状は期待に反して退院後10日ほどで再び悪化し出した。それ以来,Cが怒鳴り,物を投げ,壁を蹴り,被告人や妻を殴るなどの日々が続き,被告人には一向に快復の見込みがないように思えて暗澹たる気持ちになり,妻も徐々に監護に疲れ,Cを恐れるようになっていった。被告人は,平成14年3月21日,Cが自分の靴,バッグ等を万引きしたため,その一部を弁償してCを連れ帰った。その時,Cはタレントに買ってもらったなどと言って万引きの認識すらなく,愛児の写真にすら関心を示さなくなっていた。このようなCを見て被告人は,病状が悪くなってもはや快復の見込みがないと絶望するとともに,今後の果てしない監護の負担,Cが犯すかもしれない犯罪等の被害やその弁償などを思い悩み,また,住宅ローンの残額等が相当額あることに加え,平成14年1月ころ,自宅の地主である義父からなされた土地の返還又は購入の請求への対応に苦慮しており,既にCの治療費等のほか,Dの学費にも相当多額を費して蓄えも底をつき,借り入れ等のあてもないことなどから,先の見通せないCの面倒を見続けることは経済的にもできず,さりとて家を持ち,家族3人収入のある被告人一家としては社会福祉の援助等を受けることはできないなどと一人で思い悩むとともに,被告人夫婦死後のCの行く末を案じるなど種々懊悩する余り,Cの殺害が頭をかすめることもあったが,その都度,Cには未だ快復への希望も残されていること,快復時のCの姿を思い起こすなどして自分を励まし,その思いを振り払っていた。
被告人は,平成14年3月23日夕刻,Cの希望に応じて妻と3人でドライブしていたが,その帰り道,妻が心身ともに疲れた様子で限界に達していると思えたので妻を自宅で下車させたうえ,Cを乗せて再度出かけた際,Cが長野へ遊びに行っているDとタレントを取り違えたようなことを言ったため,被告人がたしなめるとCが怒り出し凄い形相で「てめえなんか,信用していないんだよ」などと怒鳴り返してきたことから,Cが本当に狂ってしまいもう治らないとの思いが一気に募り,絶望の余り,Cを殺すほかないと,とっさに決意するに至った。
(認定犯罪事実)
被告人は,平成14年3月23日午後9時過ぎころ,神奈川県相模原市(以下省略)先路上に赴き,同所に停めた普通乗用自動車内において,助手席に座っていた長女C(当時31歳)に対し,同車トランクにあったロープ(長さ約4メートル,太さ約1センチメートル。平成14年領第971号符号1)で輪を作り,その輪を後部座席側からCの首にかけるやその端を力一杯引っ張って締め続け,よって,そのころ,その場で,Cを窒息により死亡させて殺害した。
(証拠) 省略)
(法令の適用) 省略)
(量刑の事情)
本件は,父親である被告人が,監護に努めてきた愛娘の精神の病が快復しないと思い込んで絶望し,前途を悲観するとともに,周囲への迷惑等を思い悩んだ末,我が子を殺害してしまったという衝撃的で痛ましい事案である。
いかに精神を病み快復の見通しがないとしても,その生命の尊さが健常者に比して微塵も劣るものでないことはいうまでもない。まして本件被害者には快復の見込みがないという確たる診断がないのはもちろん,入退院を繰り返しながらも,一旦は快復して結婚し数年間は平穏な家庭生活を送っていたのであるから,真に痛ましいというほかない。何の落ち度もなく重い病に冒され,入退院等を余儀なくされ,愛する夫子とも引き離された挙げ句,31歳の若さでその生命を,あろうことか最も信頼すべき父親の手によって奪い去られた被害者は真に哀れであり,その心情は推察するに余りがある。また,残された幼い2児からその母親を永遠に奪い去ってしまった点も看過できない。本件の結果は極めて重大といわなければならない。
犯行の態様も,全く無防備な被害者の首にロープをかけた際,殺害されることに気付いて「殺さないで。」と被害者が哀願するのも無視して数分間絞め続け,窒息により絶命させたというもので残忍といわざるを得ない。動機においても,父親が,精神を病む娘を殺害することで背負う種々の負担から解放されようという考え方が全く是認できないことは自明である。被告人は,精神的・肉体的疲労,経済的負担や周囲への迷惑等を思い悩んだ末とはいえ,被害者の病状の詳細や今後の治療見込み等について医師に直接確認することすらせず,自己の独断で被害者が快復しないと決めつけているほか,治療の方法や対応方策等について経済的問題を含めて関係機関や専門家等に相談するといった努力を尽くさないまま,あまりにも性急かつ短絡的に殺害を決意したのであって,人命軽視の態度が甚だしいと指摘せざるを得ない。本件の社会的影響の大きさをも考慮すれば,被告人の刑事責任を軽視することはできない。
他方,被告人は,発病の前後を問わず被害者に深い愛情を注いで献身的に世話をし続け,その病状が悪化した後も,豊かとはいえない家計の中から合計3か所の病院への相当期間に及ぶ入院を含め十数年に亘る治療費を捻出し,将来への不安に苛まれながらも,家族にも頼れぬまま一人人知れぬ努力をし続け,精神的にも肉体的にも苦労が絶えない中で懸命にその監護に努めてきたのであって,それだけに被害者の快復に対する喜びが非常に大きく,その反面,その後の症状悪化によって計り知れない精神的衝撃を受け,絶望感に囚われてしまったものであることが窺える。
さらに,本件の直前ころには,精神的,肉体的疲労が蓄積し,それが視野を狭め,発作的に誤った決断につながってしまったことも窺えること,加えて,被告人に対し医療機関側から適切な助言・指導等がなされていれば本件にまでは至らなかったとも考えられるところ,被害者は前記のように数か所の医療機関において合計十数年に亘り治療を続けてきたのであるから,被告人が積極的に求めなかったとはいえ,これらの医療機関において患者家族に対する助言・指導等の機会は十分にあったと思われるのにこれがなされたとは認め難く,この点は真に残念というほかない。また,被告人方には,相当額の収入も得ている薬剤師の長男が同居しており,被害者の監護や治療の方策等について相応の協力や助言等をすることに何ら支障はなかったのであるから,被告人が積極的に求めなかったとはいえ,被害者の監護に心身共に疲弊し懊悩を深めていた被告人夫婦の苦労を理解しようともせず,ほとんど無関心であった長男の対応もまた被告人を追い詰めた一因といわざるを得ない。
このような状況下で,まじめで責任感の強い被告人が被害者の監護に疲れ果て自分一人を精神的に追い詰め誤った決断に追い込まれてしまったことについて,被告人一人を責めるのは酷に失する面があるともいえよう。加えて,本件の背景には,精神の病に対する社会一般の偏見や理解不足,精神医療体制の不十分さ等の問題点があると窺えること,被告人は,勤勉でこれまでおよそ犯罪とは無縁の生活を送り,もとより前科前歴は全くない。本件犯行後に被害者の遺体を乗せたまま,自動車を運転して警察署に出頭して自首したうえ,真摯に反省悔悟しており,今後も被害者の冥福を祈り続け,遺児のために尽くしたいと述べていることなどの被告人のために酌むべき諸事情が認められる。
そこで,これらの諸事情を考え併せると,主文の刑を相当と判断した。
(公判出席)検察官 矢吹雄太郎,溝口修
国選弁護人 千木良正
(求刑 懲役7年,没収)
(裁判長裁判官 廣瀬健二 裁判官 片山隆夫 裁判官 西村真人)