横浜地方裁判所 平成16年(わ)1106号 判決 2006年11月14日
主文
被告人は無罪。
理由
第1 本件公訴事実の内容
本件公訴事実は,被告人は,些細なことから夫である甲野一郎と口論となって立腹し,神奈川県綾瀬市<以下略>所在の同人らが現に住居に使用している木造瓦・亜鉛メッキ鋼板葺二階建居宅(床面積合計約62.37平方メートル)を焼損しようと企て,平成10年4月27日午前10時35分ころ,同居宅において,台所床面等に灯油を撒布し,ガスコンロの上にカーテンを置いた上,これに上記ガスコンロで点火して火を放ち,その火を灯油が撒布されている台所床面等に燃え移らせ,上記甲野一郎らが現に住居に使用する同居宅を炎上させ,更に,同居宅に隣接する同市<以下略>所在の北野二郎らが現に住居に使用している木造瓦亜鉛メッキ鋼板葺二階建居宅(床面積合計約66.92平方メートル)及び同市<以下略>所在の南野三郎らが現に住居に使用している木造スレート葺二階建居宅(床面積合計約101.02平方メートル)に順次燃え移らせ,よって,そのころ,上記甲野一郎方,上記北野方及び上記南野方の各居宅をいずれも全焼させて焼損したものであるというものである。
第2 弁護人らの公訴棄却の主張について
弁護人らは,カーテンをガスコンロの上に置き,ガスコンロに点火させてカーテンに燃え移らせただけでは放火罪の実行行為とはならない上,検察官は,カーテンに燃え移った火がどのようにして台所床面等に引火したのか,その因果関係の内容を明らかにせず,その立証も放棄しており,被告人の防御対象を明らかにしていないから,公訴棄却すべきである旨主張する。
しかしながら,放火罪については,必ずしも放火の具体的方法を明らかにしなくとも,問題とされている放火行為を判別することができ,審判の対象として特定することができるから,放火の具体的方法及びその因果経過についてまで詳細に特定する必要はない。本件公訴事実については,起訴状及び検察官の釈明により,被告人が,ガスコンロの上にカーテンを置いた上,カーテンにガスコンロで点火して火を放ち,その火を灯油が撒布されている台所床面等に燃え移らせた旨明らかにされているから,訴因の特定としては足りており,また,これ以上に因果関係の内容を具体的に特定する必要もなく,被告人の防御対象は明らかとなっている。弁護人の主張は採用できない。
第3 当裁判所の判断の概要
1 検察官は,本件火災発生当時,被告人方居宅にいたのは,当時2歳の幼児である被告人の長男甲野一男(以下,「一男」という。)を除くと,被告人とその夫甲野一郎(以下,「一郎」という。)の二人だけであり,そのいずれかの作為によって本件火災が発生したものであるところ,一郎の作為は否定されることから,犯人は被告人以外には存在しない旨主張する。
そして,被告人が本件放火の犯人であることを立証するための主要な証拠として,①一郎の捜査段階における検察官調書(平成11年10月19日付,同月26日付)を挙げ,これによれば,被告人は,床に撒いた大量の灯油に,コンロの上に置いて火を点けたカーテンで着火し,その火をコンロ台前の床から台所へ,更には和室等に燃え広がらせて被告人方居宅を焼損しようとしたところ,一郎にコンロ点火を邪魔されて容易にコンロに点火できなかったものの,一郎と揉み合い争いながら点火用スイッチを繰り返し押してコンロを点火し,その火をカーテンに燃え移らせ,その火を床に撒いた灯油に燃え移らせたことが認められる上,本件放火が,コンロ点火を制止しようとした一郎と揉み合いながら点火行為を繰り返した挙げ句の犯行であることに照らすと,被告人には本件放火の故意も認められるとし,また,②被告人は,捜査段階において,被告人方居宅に灯油を撒布し,コンロにカーテンを置いたことについて自認しているところ,これらの供述内容は被告人が放火犯人であることを裏付けるものであるとし,さらに,③本件火災に至るまでの経緯に関する被告人の供述等からすれば,被告人の本件放火の動機を推認し得るとする。
また,検察官は,④一郎が焼身自殺を図り,あるいは図ろうとした状況は全くないこと,また,⑤本件火災直後,被告人は,一郎に対し感謝の意を表し,同人を非難するような言動に全く出ていないことなどの事実は,一郎が本件放火の犯人ではないことを示すものであり,一郎が本件放火の犯人でないということは,すなわち,被告人が犯人であることの証左にほかならない旨主張する。
これに対し,弁護人は,被告人は,一郎と口論して灯油の入ったポリタンクを台所まで運び,灯油をこぼしたが,撒布したことはなく,ガスコンロの上にカーテンを置いたこともなく,ガスコンロで点火して火を放った事実はない旨主張する。
2 当裁判所は,検察官,弁護人及び被告人の主張を踏まえ,関係各証拠を検討した結果,本件の証拠関係においては被告人が公訴事実記載の罪を行ったことを示す直接証拠が存在しないこと,一郎供述及び被告人の弁解は,いずれも,両名による本件居宅への意図的な放火を否定する趣旨のものであること,一郎の検察官調書における供述及び被告人が自認する不利益な事実から認められる被告人の言動並びに客観的に認められる間接事実(情況証拠)を総合しても,本件居宅が焼損するに至った発火原因が一郎又は被告人による意図的な放火行為によるものと推認することができないことから,結局,公訴事実記載の放火行為をしていないとする被告人の弁解を完全に排斥することはできず,公訴事実を認定するには合理的な疑いが残ると判断するに至った。そこで,以下,当裁判所の判断を示すことにするが,まず,関係各証拠を総合的に検討した結果認められる本件前後の客観的事実を明らかにした上(第4),本件当時,本件居宅内にいて本件火災の原因を認識し得たのは,幼児であった一男を除くと,一郎及び被告人に限られることから,同人らの供述の信用性を検討し(第5,第6),これら供述により認められる事実及び上記客観的事実等の各情況証拠を総合し,前記①ないし⑤に掲げた検察官の主張について検討しつつ,被告人が本件現住建造物等放火の犯人である旨推認することができるかについて順次検討し(第7,第8),結論を示すこととする。
第4 証拠上容易に認められる事実
1 取調べ済みの関係各証拠<省略>
2 本件火災現場(被告人方居宅)の状況
(1) 本件火災発生現場である当時の被告人方居宅(以下,「本件居宅」という。)は,神奈川県綾瀬市<以下略>に位置し,同建物の東側は高さ1.2メートルのフェンスを隔てて同市<以下略>所在の東野四郎方居宅と,その南側は高さ1.2メートルのフェンスを隔てて同市<以下略>所在の南野三郎方居宅と,その西側は幅0.45メートルの境界線を隔てて同市<以下略>所在の北野二郎方居宅と,その北側は高さ1.2メートルのフェンスを隔てて同市<以下略>所在の西野五郎方居宅とそれぞれ隣接している。また,本件居宅は,木造瓦・亜鉛メッキ銅板葺2階建であり,その敷地面積は,76.47平方メートル(床面積一階が33.46平方メートル,二階が28.91平方メートル)であった(差戻前第一審甲1,3等)。
(2) 本件居宅の一階部分は,玄関を入るとその正面に廊下が真っ直ぐ伸びており,その廊下に沿って,玄関方向から見て右側に6畳和室が,その奥に台所があり,廊下の突き当たりに浴室があった。また,本件居宅は,廊下から6畳和室及び台所に直接出入りすることができる構造となっている。
(3) 上記台所の北東隅には,幅,奥行きがそれぞれ60センチメートル,高さが62センチメートルのコンロ台が,その横に流し台が設置されており,また,流し台後ろには高窓があり,本件時,その高窓には,レースのカーテンが取り付けられていた(同甲81)。さらに,上記コンロ台の前付近に食卓用のテーブル及び椅子が4脚置かれていた(同乙4等。なお,同甲1添付の見取図4によれば,台所の幅からコンロ台及び冷蔵庫を置く幅を除いた長さは約170センチメートルであり,かかる空間に食卓用のテーブル及び椅子4脚が置かれていたものと認められる)。
(4) 本件時,上記コンロ台の上に置かれ,被告人らが使用していたガスコンロは,二口グリル付き,リンナイ製,ハオKGS―4600GFであり(同甲36),そのガスコンロの上部(トッププレート)は台所床面から見て約92センチメートル程度の高さにあった(同第4回公判一郎供述12頁)。
3 本件火災発生に至る経緯
(1) 被告人は,昭和62年3月に自衛隊に入隊し,平成元年11月,同じく自衛官であった一郎と婚姻し,平成4年3月に除隊後,同年○月に長女春子を,平成○年○月に長男一男をもうけた。一郎らは,同年12月に本件居宅を購入したが,平成9年4月ころから,被告人及び子供らは本件居宅に,一郎は同人が当時勤務していたa航空基地内の寮に別れて住むこととなり,以後,一郎は週末になると本件居宅に帰宅するといった生活を続けていた。
(2) 被告人及び一郎は,頻繁に夫婦げんかをしていたが,その際,被告人が大声を出したり周囲の物を投げるといった言動に出ることが度々あり,また,一郎へのあてつけとして,実際に火を点けるということはなかったものの,同人の車の後部座席にライターで火を点ける素振りをしたこともあった。
一方,一郎もまた,夫婦げんかの際には周囲の物を蹴り飛ばすなどの行為に出たり,被告人に対する脅しとして,あるいは夫婦げんかを終息させたいとの思いから,一男をガスコンロの上にかざしてみたり,車に乗って暴走運転をするといった行動を取ることがあった。
(3) 被告人は,かかる夫婦げんかを繰り返すうち,次第に精神が不安定な状態となり,平成10年1月7日,一郎とともに,佐々木クリニックを訪れた。その際,被告人には,「情動失禁,強い抑うつ気分,自我萎縮,持続する希死感とその増強,精神錯乱,興奮状態,行動非抑制状態」といった症状が見られ,「心因反応(抑うつ反応),境界例人格障害の疑,自殺の可能性」との診断を受けた。同日,被告人の診療にあたった医師は,被告人には入院治療が必要である旨判断した(同甲53)。被告人は,上記佐々木クリニックからの紹介を受け,翌8日に北里大学東病院を訪れ,さらに,同月13日,けやきの森病院で診察を受け,その際には,「いらいら,興奮,不安,焦燥,不眠,抑うつ」といった症状を見せ,「心因反応(抑うつ状態)」との診断を受けた。被告人は,同日以降,同年4月25日に最終受診するまでの間に7回通院した(同甲56)。
(4) 一郎は,被告人がこのような状態であったことから,同年1月末ころまで休暇を取っていたが,同月末ころに仕事に復帰し,週末や祝日になると本件居宅に帰り,体調不良の被告人や子供らの世話をするといった生活を続けていた。
一郎は,同年4月24日,本件居宅に帰り,同月25日,同月26日と本件居宅で過ごしていたが,同日夜,被告人の体調が優れなかったことから,翌27日に春子が幼稚園に持参する弁当は被告人に代わって自分が作る旨被告人に話した。
(5) 一郎は,同月27日朝,春子が幼稚園に持参する弁当を一生懸命作ったにもかかわらず,被告人がその弁当を作り直したことなどに立腹し,同人に対し,「甘えるな。」などと怒鳴った。被告人は,一郎が自分の体調の悪さを理解してくれないなどと考えて腹を立て,同人と口論となり,一旦家を飛び出したものの,体調が悪かったことから,直ぐに本件居宅に戻ってきた。その際,被告人は,玄関から,一郎が6畳和室内のソファに座っているのを見,同人から被告人を心配する様子が全く窺われなかったことに,さらに激昂した。
被告人は,玄関三和土に置いてあった,灯油が一杯に入っているポリタンクのふたを外した上,それを持って,6畳和室に入り,ソファに座っている一郎のそばを通って台所に上記ポリタンクを運んだ。その際,上記6畳和室及び台所の床面に,ポリタンクの中に入っていた灯油が落ちた。一郎は,被告人の上記行動を見,同人の後を追って台所に行った。
4 本件火災発生時及びその直後の状況
(1) 本件火災発生時の状況
本件火災発生時,被告人と一郎とは,いずれも台所にいた。
一郎は,火だるまの状態になって,「あちあち,Y,助けてくれ。」などと大声で叫び,6畳和室に駆け込んだ。被告人は,直ぐに浴室に行って浴槽に水が溜まっているのを確認した上,一郎を浴室に誘導して浴槽につからせた。
その後,被告人は,6畳和室の方から一男の泣き声が聞こえてきたことから,廊下に出ると,一男が6畳和室から廊下へ出てきたため,同人を抱いて浴室に戻った。一郎は,しばらくの間,呆然としていたものの,その後,我に返って,被告人に対し,「玄関から抱いて脱出する。一男をよこせ。」などと言って被告人から一男を預かり,同人を抱いて,すでに煙が充満し,炎が上がっていた廊下を抜けて玄関から外に脱出した。一方,被告人は,浴室の窓を壊して,そこから外に脱出した。
(2) 本件火災発生直後の状況
被告人は,一郎が本件居宅前路上に座り込んでいる傍に立ち,「良くやった。家族を守ってくれた。」などと叫びながら,水道のホースを手に持ち,一郎に頭から水を掛けた(同甲25)。
被告人は,一郎及び一男とともに救急車で病院へ搬送される際,「この子を助けてくれてありがとう。私はお風呂場から出られなくなったけど,戸をたたき壊して逃げられた。お父さんがこの子を助けてくれた。お父さんも助けて。」などと興奮状態で泣きわめいていた(同甲23)。
5 本件火災後の現場状況,火災の原因等
(1) 本件火災後の現場状況
本件居宅は全焼しており,6畳和室の中央から北西側隅にかけての付近及び台所の中央から北寄りにかけての付近の焼損が著しい。
6畳和室の焼き状況についてみると,カーペットの下の畳はすべて焼け落ちている。本件居宅の焼損状況等に基づいて本件火災の原因を鑑定した神奈川県警察科学捜査研究所の技術吏員A作成の鑑定書謄本(同甲7)によれば,6畳和室の床付近に配線されていた電気のコードが電気的に溶断していることが認められるが,同溶断は,コードの途中の部分であって,接続不良等で異常発熱を起こすような箇所ではないため,火災の熱による二次的な短絡痕跡で,発火に関与するものではないとされている。また,6畳和室の発火部付近には,上記コード以外に電気的な溶断等の特異痕跡のある電気器具類はなかった。
台所の焼き状況についてみると,同室の中央部が大きく焼け落ち,特に流し台及びコンロ台前は,最も強い焼きが見分され,床材が焼き細りしている。上記鑑定書謄本によれば,同所付近からは早期に燃えたことを指摘できるようなコードの溶断などは発見されていないが,二階などからの焼損落下物による影響かどうかについて判断し難いとされている。上記コンロ台の上に乗せられていたガスコンロは,コンロ台と共に焼け崩れた状態であり,その器具栓及び元栓が焼損しているため,その使用状態は不明であるものの,同所付近からはその他の燃焼器具類及び特異な資料は発見されていない。
(2) 本件火災の原因等
上記鑑定書は,「本件火災の発火部は,6畳和室の中央から北西側隅にかけての付近に存在したものと考えられ,その他に,台所の中央から北寄りにかけての付近にも発火部があった可能性がある。」,また,「本件火災原因を特定することはできないが,電気関係に起因した発火ではない。」旨結論付けていて,結局,本件火災現場の客観的状況からは,本件火災の発生場所及びその原因について特定するには至っておらず,6畳和室の中央から北西側隅にかけての付近又は台所中央から北寄りにかけての付近のいずれかの可能性が高いと認められる(同甲7,8)。
6 被告人,一郎及び一男の負傷状況等
(1) 被告人,一郎及び一男の負傷状況
本件火災により,一郎は,顔面,両上肢,胸腹部,背部,両下肢に約70パーセントの熱傷及び気道熱傷の重傷を負い,一男は,顔面,両手,両下腿,左足に約20パーセントの熱傷を負った(同甲21)。
一方,被告人は,右上肢熱傷(二度熱傷)及び気道熱傷の火傷を負った(同第11回公判B供述等)。
(2) 被告人,一郎及び一男の着衣への灯油の付着状況
本件時,一郎が着用していたTシャツ,Gパン,靴下(片方),被告人が着用していたセーター,Gパン,靴下(片方)及び一男が着用していたシャツ,半ズボン,靴下(片方)にはいずれも灯油の付着が認められ(同甲46),また,一郎が着用していた上着及びTシャツは激しく焼損している(同甲44)。
7 当裁判所が実施した検証の結果(当審職3)
(1) 平成18年4月18日,本件時,本件居宅において使用されていたガスコンロ(前記第4の2(4)参照)と同型のガスコンロ及び本件居宅の流し台後ろの高窓に取り付けられていたカーテン(被告人は,当審第10回公判において,同カーテンにつき,その材質等については,「ナイロンっぽい,木綿とかは全然入ってない真っ白の,はさみで切って切り売りしてるようなタイプの,真っ白のレース状のカーテンです。」などと答え,また,その大きさについては,「出窓の大きさの半分くらいかな。窓枠が,出窓が結構大きかったので,30センチくらいかな,ちょっと分からないです。30センチ,40センチ…くらいかしら。ホームセンターに行くと,大体長さは3種類で決まっているので,それと同じ大きさだと思うんですけど。」などと答えている。)と類似のカーテン(ポリエステル100パーセント,白いレース編みカフェカーテンを縦約30センチメートル,横約50センチメートルの大きさに切ったもの。)を使用の上,ガスコンロの左(強)右(弱)のそれぞれのバーナーの上にカーテンを置き,そのコンロの点火用スイッチで点火した場合におけるガスコンロの火のカーテンへの燃え移り状況について検証を実施した。
(2)ア カーテンを1枚置き,ガスコンロを点火後燃焼を継続した場合
左右のコンロいずれにおいても,カーテンを置き点火するとすぐにカーテンの下から炎が上がり,左側コンロの場合は直径約20センチメートル大,右側コンロの場合は直径十数センチメートル大の円形部分がそれぞれ燃焼したものの,これ以上は燃え広がらなかった。
イ カーテンを3枚置き,ガスコンロを点火後燃焼を継続した場合
左右のコンロいずれにおいても,点火して二,三秒後にカーテンの下から炎が上がり,左側コンロの場合は直径約20センチメートル大,右側コンロの場合は直径十数センチメートル大の円形部分がそれぞれ燃焼したものの,これ以上は燃え広がらなかった。なお,左側コンロで実施した際,ガスコンロの五徳の足の部分にカーテンが溶けた液状のものが付着し,しばらくの間そこから小さな炎が上がっていた。
ウ カーテンを1枚置き,ガスコンロを点火後すぐに点火用スイッチを押し,火を消した場合
左右のコンロいずれにおいても,点火用スイッチを押し,直ぐに消火したところ,一瞬炎が上がり,左側コンロの場合は直径約20センチメートル大,右側コンロの場合は直径十数センチメートル大の円形状にそれぞれ溶けて穴があいた。
エ カーテンを3枚置き,ガスコンロを点火後すぐに点火用スイッチを押し,火を消した場合
左側コンロの場合,点火用スイッチを押し,直ぐに消火したところ,カーテンの下に炎が見え,白い煙があがった。一番上に置かれたカーテンに数ミリメートルから1センチメートル程度の穴が数か所あき,その下の2枚のカーテンは,いずれも直径約20センチメートル大の円形状に溶けて穴があいた。
右側コンロの場合,1番上に置かれたカーテンに1センチメートル程度の穴が数か所あき,また,上から2枚目のカーテンは直径十数センチメートル大の円形状に溶けて五,六か所穴があき,さらに,上から3枚目のカーテンは直径十数センチメートル大の円形状に溶けて穴があいた。
第5 一郎の供述について
1 一郎の検察官に対する供述概要(当審甲1,2)
一郎は,平成11年10月19日及び同月26日,本件火災発生前後の状況につき,「被告人は,一旦家を飛び出した後,戻ってきて,玄関に置いていた灯油入りのポリタンクを持ち出し,台所の方に持っていった。今となっては,(被告人が)家のどこを通ってどのようにして台所へ持っていったのかは覚えていないが,1階の6畳居間の上や台所の床面に広範囲に灯油が広がっていた記憶がある。私は,被告人がポリタンクを持って台所の方に行ったのが分かったので,灯油に火でも点いたら危ないと思い,台所の方へ行った。現在では,被告人と台所で揉み合いになって全身に灯油がかかったのかどうか記憶がはっきりしないが,警察官に話した当時は,そのときの自分の記憶に従って,灯油が自分の全身にかかったということを話したと思う。
その後,被告人は,流し台後ろの高窓に取り付けてあったレースのカーテンを引きちぎるようにして取り外し,これを台所のコンロの上に置いた。
その後,被告人は,カーテンが置かれているコンロのスイッチを押してコンロの火を点けようとしたので,そのまま放っておけばコンロの火がカーテンに燃え移り,更に台所の床面などに広がっていた灯油に引火して大変なことになると私は思い,被告人の行為を止めさせようと思い,コンロの前に行って,被告人が押したコンロのスイッチを戻そうとした。被告人がコンロのスイッチを押したのを私が戻そうとすることが何回か繰り返された記憶があるが,正確な回数は覚えていない。
その後,コンロの側にいた時に自分の衣服に火がついているのに気付き,そのまま火だるまの状態になった。今となっては,どのようにして自分の衣服に火が点いたのかはっきり覚えていない。被告人がコンロのスイッチを押したのを私が戻そうとすることが何回か繰り返されてから,私の衣服に火が点いているのに気付くまでの間隔は,一瞬だったのかある程度の間があったのかについては,現在のところ,よく覚えていない。現在では,コンロの火がカーテンに燃え移ったのかどうかも覚えていない。
私が,事件当時,『家を燃やすくらいなら死んだ方がましだ』と言ったりコンロの上に上がったことはないし,コンロに火を点けたということも絶対ない」旨の供述をしている(以下,前記供述を「一郎供述」という。)。
2 前記一郎供述の持つ意味
検察官は,前記第3の1記載のとおり,一郎の前記供述によれば,被告人が,一郎と揉み合い争いながらガスコンロの点火用スイッチを繰り返し押して同コンロを点火し,その火を同コンロの上に置いたカーテンに燃え移らせ,その火を床に撒いた灯油に燃え移らせたことが認められる旨主張する。
しかしながら,後記第8のとおり,「台所床面等に灯油を撒布し,カーテンをガスコンロの上に置いた上,同コンロに点火する」という行為だけでは,本件放火の実行行為に着手したものとは認められないうえ,一郎の上記供述を見るに,同人は,ガスコンロの火がカーテンに燃え移ったのかどうかについては覚えていない旨供述しており,また,コンロの火がどのようにして台所床面等に撒かれている灯油に燃え移ったのかについては何ら供述していない(後記供述経過のとおり,一郎が,同人自身の記憶に基づくものとして,カーテンの火が台所床面あるいは同床面の灯油に燃え移ったとの事実を述べたことは一度もない。)のであって,「被告人が,台所床面等に灯油を撒布し,カーテンをガスコンロの上に置いた上,同コンロに点火した」との一郎供述が信用できるとしても,その供述自体から,検察官が主張する上記事実を直接認定することはできない。
もっとも,前記第4の3ないし5記載の事実に照らし,本件火災はガスコンロの火が何らかの原因によって台所床面等に広がっている灯油に引火して発生した可能性も認められる。そうすると,他に立証する証拠がない本件においては,被告人によってガスコンロの火を台所床面等に撒かれた灯油に引火させる何らかの行為が行われたものと推認し得るか否かを判断するに際し,本件火災発生直前の被告人と一郎の言動がどのようなものであったかということが重要な手がかりとなるところ,一郎は,被告人の放火行為に結び付き得る被告人と一郎の言動について供述していることから,その供述内容に信用性が認められるか否かが重要な意味を持つことになる。
3 前記一郎供述の信用性について
(1) 他の証拠との整合性について
ア まず,一郎が,「1階の6畳居間の上や台所の床面に広範囲に灯油が広がっていた」旨供述している点については,6畳和室及び台所付近の焼損が著しいことや本件火災現場の実況見分に立ち会ったGが,「現場は広範囲に灯油臭等がしており,普通の火事よりは焼きがひどかった。台所,6畳和室,玄関を入った辺りの廊下の辺りから灯油臭がした。」などと供述している(差戻前第一審第10回公判G供述)ことと符合している。
イ また,一郎は,「被告人が高窓に取り付けてあったカーテンをガスコンロの上に置いた」旨供述しているところ,後述のとおり,被告人も,本件火災発生直後,北里大学病院救命救急センターの医師B(以下,「B医師」という。)に対し,同旨の供述をしている。
ウ さらに,一郎は,「コンロの側にいた時に自分の衣服に火がついているのに気付き,そのまま火だるまの状態になった」旨供述しており,これによれば,本件火災は台所のガスコンロ付近から発生したものと考えられるところ,これは前記第4の5(2)のとおり,台所から出火した可能性があることと整合する。
エ 以上のとおり,本件火災発生直前の被告人の行動に関する一郎の供述部分については,他の証拠と整合する点が種々存在している。
(2) 供述時,一郎が置かれていた立場について
しかしながら,ガスコンロの火がどのようにして台所床面等に撒布されている灯油に引火したのかについて,一郎が何ら供述していないことは,前述したとおりである。
そして,検察官も主張するとおり,本件時,本件居宅にいたのは,当時2歳の一男を除くと,被告人と一郎の二人だけであることからすると,供述時,一郎は,被告人が本件の犯人でないとすれば,自分が本件放火の犯人として逮捕されかねない立場にあることを十分理解していたものと思われる上,前記供述当時,被告人が,一郎がガスコンロの上に乗って,その後火災が発生したなどと供述していたことをも考え併せると,一郎が,自らの逮捕を免れるべく,被告人のかかる供述を否定し,さらに,放火か失火かは別として,被告人が犯人であるかのごとき供述をする可能性も否定できず,一郎供述の信用性については,このような一郎の立場を考慮に入れ,慎重に判断しなければならない。
そこで,以下,一郎の供述経過等をも踏まえてさらに検討を加えることとする。
(3) 供述経過について
ア 一郎の供述経過
(ア) 一郎は,平成10年4月27日,本件火災により,前記第4の6(1)記載の重傷を負い,北里大学病院救命救急センターに搬送された際,同人の診察にあたった医師C(以下,「C医師」という。)が,一郎に対し,「何で火が点いたのか。」と質問した際,「コンロの火がカーテンに燃え移り,それが引火した。」旨話した(同第10回公判C医師供述)。
(イ) 一郎は,同年5月7日,上記救命救急センターから防衛医科大学付属病院に転院し,同日夜,同病院内のセンターICU(集中治療室)において,同病院の研修医であり,一郎を担当したD(以下,「D医師」という。)から,「こんなにひどいやけどになったんですけど,どうしてですか。」などと質問された際,「被告人がカーテンに火を点けようとしたのを制止しようとしたら,自分に燃え移ってこうなった。」旨答え,また,「昼頃育児に関して口論となり,被告人が灯油で湿らせたカーテンにガスコンロで火をつけ,家屋に燃え移り,受傷」した旨話した(同第10回公判D医師供述,当審弁15)。
(ウ) 一郎は,同年6月8日,上記病院において,弁護士Eから本件火災状況等につき尋ねられた際,同人に対し,「(一郎が)玄関で腰をおろしていたところ,灯油を撒く音がした。灯油の匂いはしなかったが,行ってみると,被告人が灯油缶を手に持って撒いていたので,止めろと言って止めさせた。被告人がさらに暴れ出したので,押さえ付けた。その後,火が点いた。火がガスコンロに点いたが,その時は,家は燃えなかった。被告人が,レースのカーテンを取り出してコンロに乗せた。被告人が,ガスコンロのスイッチをカチカチして自動点火させた。その時,被告人と押し問答になった。そして,灯油のかかった自分の足に火が点いた。その時,なぜ火が点いたかはっきりしないが,とにかく火が点いた。」などと話した(当審弁16,17)。
(エ) 一郎は,同月23日,上記病院において,同病院の医師立会の下,消防隊員F(以下,「F消防隊員」という。)から事情聴取を受けた際,「私は玄関に座って深呼吸をしたりしていた。被告人は,そのころ,ポリタンクを持って灯油を撒いたような気がする。そのときの様子は,赤いポリタンクを手で持ち上げて踊るような形で灯油を撒いた。気が付くと,被告人は台所のガスコンロの前にいて,点火用のスイッチをカチカチと押していた。ガスコンロに火が1回ついたが,その時は何も起こらなかった。次に(被告人は)台所の流しの出窓にかかっていたレースのカーテンを引きちぎって,ガスコンロの上に乗せ,また点火用のスイッチをカチカチと押した。私は危ないと思い,止めようとしたが,被告人はものすごい力で点けようとしたため,もみあいとなった。気が付いたら,台所の床に火が点いていた。私の足にも火が点いた。私が被告人と言い争ったとき,台所で転がったりしたときにジーパンに灯油が染み付いたのかもしれない。足元に火が点いて『アッ』と思った時には,天井に火が走った状態だった。」などと話した(差戻前第一審第8回公判F消防隊員供述,当審弁12)。
(オ) 一郎は,同年7月13日,上記病院から自衛隊中央病院に転院し,同月31日,同病院において,司法警察員G(以下,「G巡査」という。)に対し,「被告人が,何か訳の分からないことを言いながら,ポリタンクを両手に持ち,踊るように動きながら,1階の和室や台所等に灯油を撒きだした。私は,被告人の行為を止めようとし,灯油を撒いている被告人と台所で揉み合いになり,この時私の全身にも灯油が掛かってしまった。被告人は和室や台所のほぼ全体に灯油を撒いた後,流し台後ろの高窓に取り付けたレースのカーテンを引きちぎってコンロに置いた。私は,このまま妻がコンロの火を点ければ,部屋中に灯油が撒かれているので大変なことになると思い,被告人の行為を止めようとしたが,被告人は渾身の力を出してコンロのスイッチを押した。そして,カーテンが置かれたコンロの前で,被告人がコンロのスイッチを入れて火を点ける,私がそのスイッチを戻すの繰り返しで揉み合っている際,どこからか伝わった火が,私の着衣に燃え移り,一瞬のうちに私は全身火だるまになった。」などと話した(差戻前第一審第9回公判G巡査供述,当審甲3)。
(カ) 一郎は,平成11年10月14日,神奈川県大和警察署において,G巡査に対し,「被告人がどこからか灯油の入ったポリタンクを持ち出し,台所に向かったが,その時の光景が,今となっては良く思い出せない。その後は,被告人が,台所のコンロのスイッチを押そうとし,それを私が戻したりを一,二度繰り返した後,少し時間が経ってから,どこからか出火し,私の体は一瞬にして火だるまになってしまったのだが,今となっては,コンロのスイッチを被告人が押そうとし,それを私が戻したりを繰り返したのが,灯油を撒く前だったのか,その後だったのかも曖昧である。私は,火が出る瞬間は全く見ていないし,被告人が火を点けるような行動をしたのも見ていないので,なぜ火災になったか分からない。」などと話した(同甲4)。
(キ) 一郎は,差戻前第一審第3回ないし第7回公判(平成12年4月24日,同年5月11日,同月29日,同年6月29日,同年8月24日)において,「被告人が灯油入りのポリタンクを持っていたような記憶はおぼろげにあるが,被告人が灯油を零したのか,撒いたのかについては覚えていない。灯油が自分の衣服にかかったこと,被告人と揉み合ったこと,被告人がカーテンを引きちぎってガスコンロの上に置いたこと,私が被告人の灯油を撒く行為又はコンロのスイッチを押そうとする行為を止めようとしたことなどについては覚えていない。」などと証言した。
(ク) 一郎は,当審第6回及び第9回公判(平成17年9月1日,同年11月15日)においても,「被告人がポリタンクを台所まで持ってきたことはおぼろげながら覚えている。その後の記憶はないが,被告人が火を点けたところは見ていない。」などと証言している。
イ 供述変遷の概要
(ア) まず,一郎は,本件火災発生直後に「コンロの火がカーテンに燃え移り,それが引火した。」旨話して以降,捜査段階においては,被告人が灯油入りのポリタンクを台所まで持っていき,その際,台所床面等に灯油が広範囲に落ちたこと,台所の流し台後ろの高窓に取り付けられたカーテンを取ってガスコンロの上に置いたこと,被告人がガスコンロの点火用スイッチを入れて火を点け,一郎がそのスイッチを戻すということが繰り返され,被告人と一郎とは揉み合いとなったこと,その後,本件火災が発生したことについて繰り返し供述している。
(イ) しかしながら,一郎の供述を仔細に見ていくと,一郎の供述内容が一貫しているとは到底言うことができない。
すなわち,①一郎は,ガスコンロの火がどこから自分の体に燃え移ったのかという点に関し,平成10年6月8日及び同月23日の時点においては,「灯油のかかった自分の足に火が点いた」あるいは「台所の床に火が点いていた。私の足にも火が点いた。」旨話していたにもかかわらず,同年7月31日以降になると,「どこからか伝わった火が自分の着衣に燃え移った」あるいは「どのようにして自分の衣服に火が点いたのかはっきり覚えていない」旨供述が変遷している。また,②一郎は,同年5月7日には「灯油に湿らせたカーテン」などと供述しているが,それ以降は,一切そのような供述はなされていないほか,③被告人がガスコンロの点火用スイッチを押す際の状況について,一郎は,同年6月8日及び同月23日には「被告人がガスコンロのスイッチを押していて,ガスコンロに火が点いたが,その時は何も起こらなかった。次にカーテンをガスコンロに乗せ,また点火用のスイッチをカチカチと押した。」などと,被告人がガスコンロの上にカーテンを置く前後にわたってガスコンロの点火用スイッチを押し,点火した旨供述していたにもかかわらず,それ以降の供述では,被告人がガスコンロの上にカーテンを置いた後にコンロのスイッチを複数回にわたって押そうとした旨供述が変遷している。さらに,④被告人がガスコンロのスイッチを押してから一郎の身体に火が燃え移るまでの時間的間隔についてみても,一郎は,平成10年7月31日には,被告人と一郎とがガスコンロの前で揉み合っている際に一郎の着衣に火が燃え移った旨供述していたにもかかわらず,平成11年10月14日には,被告人と一郎とがガスコンロのスイッチの押し戻しを繰り返した後,「少し時間が経ってから」,どこからか出火した旨,同月19日には,ガスコンロのスイッチの押し戻しが何回か繰り返されてから,私の衣服に火が点いているのに気付くまでの間隔は,「一瞬だったのかある程度の間があったのかについては,現在のところ,よく覚えていない。」などと供述変遷を繰り返している。そして,⑤一郎は,被告人が本件現住建造物等放火の犯人として逮捕される以前においては,被告人が灯油を撒いたことなどについて明確に供述していたにもかかわらず,同人逮捕後の捜査段階においては,被告人がポリタンクをどのようにして台所へ持っていったのか覚えていないなどと話し,また,被告人がカーテンをコンロの上に置いたことやガスコンロの点火用スイッチを被告人と一郎とで押したり戻したりしたことについては取調官から追及されて供述するに至ってはいるものの,全体的に曖昧な供述へと変遷させ,さらに,被告人起訴後の差戻前第一審においては,被告人が灯油を撒いた点にとどまらず,被告人がカーテンをコンロの上に置いたことやガスコンロの点火用スイッチを被告人と一郎とで押したり戻したりしたことについても記憶がないといった供述に終始し,当審になると,記憶がないにとどまらず,被告人が火を点けるところは見ていない旨供述をさらに変遷させている。
ウ そして,このように供述が変遷している理由について,一郎は,被告人逮捕後の捜査段階における取調べの中で,「事件から1年以上が経過しているため記憶が曖昧になっているところがある」などと供述しているが,上記④にも見られるとおり,一郎の供述は,平成11年10月14日の供述とそれからわずか5日後の供述とを比較しても,異なる部分が見られることなどからすると,被告人逮捕後の供述変遷を単に時間が経過したことによって記憶が曖昧になったものと評価することはできない。次に,一郎は,差戻前第一審第6回公判や当公判廷において,本件火災発生直前の被告人の行動につき,記憶がない旨供述を変遷させた理由につき,「検察庁に行った時も,火災原因に関する記憶はなかったので,正直にわかりませんと答えたが,検察官に司法警察員調書などを見せられ,その状況からどうしたら火が点くのか推測して述べなさいと言われた。そのとき話した内容について,検察官にはあくまでも推測であってはっきりした内容ではありませんと言った。」などと供述しているが,一郎の検察官調書(当審甲1)を見るに,同人は,推測した部分とそれ以外との部分を明確に区別して供述している様子が窺われ,同人の上記供述は信用できない。
また,一郎は,被告人逮捕前の供述変遷の理由については,一切説明をしていない。
(4) 供述内容の不自然性について
さらに,一郎の供述には,重要部分についての説明が欠落している。
すなわち,一郎は,「被告人がカーテンをガスコンロの上に置き,そのコンロの点火用スイッチを押して点火しようとしたことから,そのまま放っておけばガスコンロの火がカーテンに燃え移り,更には台所の床面などに広がっていた灯油に引火して大変なことになると思って,被告人の行為を止めさせるべく,ガスコンロの前に行き,被告人が押したガスコンロの点火用スイッチを戻そうとした」旨供述しており,かかる経緯からすれば,一郎の注意は,当然ガスコンロの上に置かれたカーテンに向いていたはずであって,被告人がカーテンをコンロ台前の台所床面に落とした,あるいは置いたとすれば,一郎が,被告人のそのような行動について見ていないということはおよそ考え難いところである。にもかかわらず,一郎は,被告人がガスコンロを点火した後,どのようにしてその火が台所床面等に撒布された灯油に引火したのかについて,本件火災発生直後から何ら説明しておらず,これは極めて不自然と言わざるを得ない。
(5) 検討
ア(ア) これらの事情に基づき,一郎供述の信用性について検討してみるに,まず,一郎供述のうち,被告人が灯油入りのポリタンクを玄関から台所まで運んだ上,カーテンをガスコンロの上に置き,そのコンロの点火用スイッチを押した旨述べる部分については,前記のとおり,他の証拠とも符合し,また,その供述内容に不自然な点は窺われない上,捜査段階においては概ね一貫しており,特段信用性に疑問を抱かせるものはない。また,被告人と一郎との関係に照らし,一郎が自己の責任を免れる以外の理由で被告人が出火原因を作出したという虚偽の内容を積極的にねつ造して述べる理由はない。
(イ) 一郎は,差戻前第一審及び当審公判においては,上記供述部分について,記憶がないとの供述に終始しているが,精神医学を専門とするB医師が,一旦記憶が戻った後,再び記憶喪失となるようなことはないと思う旨供述している上,一郎は,本件火災発生前,被告人と口論となったことや火災発生後,被告人に浴室まで誘導してもらい,一男を抱いて外へ脱出したことなどについては記憶していて,記憶が欠落する態様も不自然であることからすると,一郎の記憶がないとの公判供述は到底信用することができず,上記第5の3(5)ア(ア)記載の一郎供述の信用性を左右すべき事情とはならない。
イ 他方,以下の点を考慮すると,本件火災発生当時の状況について,一郎が認識したことについて何ら隠すことなく供述したと認めるにはなお疑念が残る。
すなわち,前述したとおり,一郎の供述には多々変遷が認められ,とりわけ,被告人と一郎とがガスコンロの点火用スイッチを押したり戻したりして揉み合ってから一郎の身体に火が点くまでの間の時間的間隔について再三供述が変遷していること,被告人がガスコンロに点火した後,その火がどのようにして台所床面等に撒布されている灯油に引火したかという当然認識し得たはずの核心部分に何ら触れていないことに照らすと,ガスコンロの前で一郎と被告人とが揉み合いになってからの事実経過について,殊更に隠そうとしていることが窺われる。この点,一郎の公判廷での供述において記憶がないとするのは故意による放火犯人として訴追されている被告人をかばっているものとも考えることができるのに対し,前記第5の3(3)ア(ウ)ないし(オ)のように,被告人の行為が原因となって失火したととれる趣旨の供述をしていた段階においてもガスコンロの火がカーテンに燃え移り,さらに床面や一郎の体に燃え移った経過を一貫して説明していないことからすれば,被告人をかばうという理由以外の事情により,一郎がこの部分についての事実を殊更隠していたか,或いは,記憶に照らしても判然としないかのいずれかであると考えざるを得ない。これに加え,後記第7の2(3)イで後述するように,一郎供述によれば,一郎と被告人が接触するか直近にいる状態で一郎が火だるまになった(一郎の足元から引火したのであれば床面にも火がついていた)はずであるにもかかわらず,着衣に灯油がかかっていた被告人がなぜ火だるまにならず,前記第4の6(1)のように軽傷で済んだのかについて,自然かつ明快な説明をすることは困難である。そうすると,被告人がガスコンロを点火してから本件火災発生に至るまでの間には,更に何らかの事情が介在していて,かかる事情については一郎が意図的に供述しなかった可能性を疑う根拠が十分にあると言わざるを得ない。
加えて,一郎は,被告人が本件放火の犯人として逮捕されて以降,本件火災発生直前の被告人及び一郎の行動に関する部分につき,全体的に曖昧なものへと供述を変遷させ,被告人が起訴されて後は,上記部分に係る供述について記憶がないなどと不合理な理由を述べて供述しないといった供述姿勢を見せており,かかる態度をみても,一郎が,捜査段階において,同人の記憶した事情を全て隠すことなく話したと断定するには疑念が残る。
ウ 検察官は,一郎の検察官調書は,C医師,D医師及びF消防隊員に対する供述と合致するところ,同人らに対する一郎の供述は,本件火災で重度の熱傷を負った状況下において,種々の思惑や利害関係を考慮する余裕もない状態でなされたものであって,信用性の高いものである旨主張する。
しかしながら,一郎の検察官調書が,D医師及びF消防隊員に対する供述とは必ずしも合致せず,変遷している部分があることについては前述したとおりである。
加えて,C医師に対する一郎の供述についてみると,確かに,C医師は,一郎が北里大学病院救命救急センターに搬送されてきた際,その負傷状況からみて,同人には生命に対する危険も感じた旨供述しており,この時点において一郎が殊更虚偽供述をしようとしていたとは考えにくいと思われるところ,そのような状況において何ら思惑もなく率直に供述されたと評価するのであれば,そのような供述においてすら,被告人が本件居宅に放火したと率直に述べていないことを看過するのは相当ではなく,むしろ,一郎の素直な認識としては被告人による放火と思っていなかったのではないかとも考えられ,この供述が前記イの疑問を払拭するものであるとは到底言えない。また,D医師及びF消防隊員に対する一郎の供述についてみると,その供述内容からは,一郎がD医師らの質問内容を正しく理解して応答していることが認められる上,D医師及びF消防隊員は,一郎と会話をした際,一郎の意識ははっきりしていた旨,さらに,F消防隊員は,立会の医師から一郎との会話を中断されることもなかった旨供述しているのであって,これらからすると,一郎は,D医師及びF消防隊員から本件火災に関し質問された時点においては,健康状態の回復を期待していた可能性が高い。また,D医師の所属する病院は,一郎の勤務先とも関係がある施設であり,F消防隊員は火災原因を究明すべき立場にあることが,一郎の心理に自己の責任を回避する動機付けを与えた可能性も否定できない。そうすると,D医師及びF消防隊員に対する一郎の供述について,種々の思惑や利害関係を考慮する余裕もない状態でなされたものであるなどと即断することはできず,当該供述時,被告人がガスコンロの点火用スイッチを押してから本件火災発生に至るまでの間に一郎に本件火災の責任を生じさせかねない事情について一郎が意図的に供述しなかった可能性がないと考えるのも相当ではない。
以上によれば,一郎は,捜査段階において,本件火災直後から一貫してガスコンロの点火用スイッチを押してから台所床面等に撒布された灯油に引火するまでの経緯について供述していないところ,この点に関し,その間に一郎が火災の発生に寄与したと窺わせかねない事情が何ら存在しないなどと考えるのは早計であると言わざるを得ない。
エ 以上のとおりであるから,一郎供述を極めて信用性が高いなどとして同人の供述から直ちに被告人及び一郎の言動を認定し,被告人が本件現住建造物等放火の犯人であると推認することはできず,一郎供述の信用性や被告人が本件犯人であるか否かについては,被告人の供述等をも踏まえてさらに検討を加える必要がある。
第6 被告人の供述について
1 被告人供述の要旨
被告人は,差戻前第一審公判及び当公判廷において,本件火災当日の状況に関し,「私が具合が悪いので二階で休みたい旨一郎に言うと,一郎が私に対し,『甘ったれるな』と言った。私は,一郎に腹が立って一旦家を出たが,具合が悪くなってすぐに家に戻った。玄関から,一郎がソファの端に座っているのが見え,私は,自分が苦しんでいるのに一郎が平然としているなんて許せないと思った。私は,玄関に置いてある灯油入りのポリタンクのふたを開けた状態で,ポリタンクを持って6畳和室に入り,一郎の前を通って台所にポリタンクを運んだ。一郎の脇を通る時に,一郎の履いていたジーパンに灯油がかかったと思う。台所の床にポリタンクを置いた時に,灯油が相当程度こぼれたと思う。一郎が台所に来たので,私は一郎からぶたれると思ったが,一郎は,私の横を通り過ぎると,私の方を見ながらコンロの上に片方の足を置き,もう片方の足をダイニングテーブルの椅子に置いた。一郎は私の方に向かって,『この家を燃やすぐらいだったらおれが死んでやる』と怒鳴った。私は怖くなって一郎から目をそらした。その後,カチチチという音が2回した。その後,一郎が,『あちあち,Y助けてくれ。』って声を掛けてきたので,一郎を見たら,一郎の全身から炎が上がっていた。私は,一郎に,風呂場の浴槽に水が溜まっていることを伝え,一郎は,私の目の前を通って6畳和室の方へ行き,その後風呂場へ行った。その後,一郎と一男は玄関から脱出し,私は,風呂場の窓を壊して外へ逃げた。私は,外に出た時には一郎に対する怒りはなく,一男を連れて脱出してくれたことに対する感謝の気持ちになっていた。」などと供述している。
2 上記被告人供述の信用性について
(1) 供述経過・変遷について
ア 被告人の供述経過等
(ア) 被告人は,平成10年4月27日,本件火災により,北里大学病院救命救急センターに搬送された際,同人の診察に当たったB医師に対し,「家が燃えたら未練などなくなって出て行けると思い,コンロの上にカーテンを置いて燃やしてやると言って,さらに家の中に灯油を撒いた。夫はコンロの上に立ち,家を燃やすぐらいなら死んだ方がましだと言って火をつけた。」などと話した。
供述時,被告人は,大声で泣き叫び,落ち着きがなく,目は一点を凝視したような状態で,呆然とした様子だったので,B医師は,被告人に鎮静剤を与えるなどして落ち着かせながら話を聞いた(差戻前第一審第11回公判B医師供述,同甲22)。被告人は,同日,気道熱傷及び極度の精神不安定を原因として上記病院に入院した。
(イ) 被告人は,同年5月15日,急性ストレス障害との診断を受け,上記病院から北里大学東病院精神神経科に転院し,同年6月5日,同病院において,F消防隊員に対し,「和室のソファーに座っている一郎が見え,カッとなり腹いせに下駄箱の前にあった灯油のポリタンクを持って部屋にまいてやろうと思った。この時,蓋を開けたかどうかは覚えていない。和室にはカーペットが敷いてあり,後の掃除を考えると大変なので,台所から床がビニールタイプなのでそちらに行ってまいてやろうと,玄関から和室に入り,一郎が座っているソファーと吊り戸棚の間を通って台所に行った。この時,一郎の足に灯油がかかったと思う。また,台所へ行く途中に灯油がこぼれたかどうかは覚えていない。それから廊下に出て,ガスコンロの所で一郎が『アチチチチ』と言い,背中から火に包まれていた。」などと話した(同第8回公判F消防隊員供述,同甲67)。
(ウ) 被告人は,一郎の父甲野太郎(以下,「太郎」という。)から,一郎が本件火災の原因は被告人にある旨話していると聞き,同年9月14日,神奈川県大和警察署に赴き,その際,一郎の同年7月31日付司法警察員調書の一部を見せてもらった上,同署の司法警察員H(以下,「H警部補」という。)による取調べを受け,「灯油を和室と台所の床に撒いてはいない。私はストーブの前から動いておらず,台所で一郎と揉み合ったこと,カーテンを引きちぎったこと,ガスコンロの点火スイッチを入れたことはない。次に覚えていることは,火については見えなかったが,一郎が大声であちあちと叫びながら,私の目の前を台所から和室方向に走っていったことです。」などと話した(差戻前第一審乙2)。
(エ) 被告人は,自衛隊中央病院に入院中の一郎を見舞い,同人と二人で居た際(同年7月31日以後)に,同人に対し,「一郎がコンロの上に上っているのを見た。火が出てるところは見ていないので分からないが,私は火を放っていないので,あなたじゃないの。」などと言った(同第4回公判調書中の一郎の供述部分18頁,当審甲1)。
(オ) 被告人は,平成11年10月7日,現住建造物等放火の犯人として逮捕されて以降は,概ね,「灯油入りポリタンクを持って6畳和室から台所へ向かう際,灯油を零しながら歩いた。台所床面に上記ポリタンクを置いた際,灯油が大量に零れた。その後一郎が台所にやってきて,私の脇を通って台所のガスコンロの前に行き,コンロの上に片足を置き,もう片方の足を椅子の上に置いた状態で私の方を向き,『家を燃やすくらいならおれが死んでやる。』などと言った。その後,私が一郎の様子が怖くて同人から目を背けていると,一郎が,『あちあち,Y,助けてくれ。』などと大声で言っているのが聞こえ,一郎の方を見ると,一郎が火だるまの状態になっていた。」旨の供述をしている。もっとも,被告人は,捜査段階においては,一郎がガスコンロの上に上がってから同人が火だるま状態となるまでの間に,「カチチチという音が2回した」などといった供述はしていない。
イ 供述変遷の概要
(ア) まず,被告人は,本件火災発生直後においては,灯油を撒いたことやガスコンロの上にカーテンを置いたことについて供述していたものの,それ以降はこれを否定している。
(イ) 次に,被告人は,本件火災発生直後においては,一郎が家を燃やすくらいなら死んだ方がましだなどと言ってガスコンロの上に上がった旨の供述をしていたが,平成10年6月5日及び同年9月14日の時点においては,そのような供述はしておらず,被告人逮捕後,再び同旨の供述を行うに至っている。
(ウ) 被告人は,捜査段階までは,一郎がガスコンロの上に上がってから同人が火だるま状態となるまでの間に,ガスコンロの点火用スイッチを押すような音がしたという趣旨の話をしていなかったものの,差戻前第一審公判及び当公判廷においては,「カチチチという音が2回した」などといった供述をしている。
ウ 供述変遷の理由
(ア) まず,被告人は,差戻前第一審第13回公判において,当初,B医師に対し,灯油を撒いた旨話した理由につき,「原因行為を作ったのは私であるということにして一郎をかばったからである」などと説明しているが,前記第6の2(1)ア(ア)記載のとおり,被告人は,B医師に対し,結果的には一郎がコンロの上に立って火を点けた旨話しているのであって,かかる供述内容からは,被告人が一郎をかばおうとしていたなどとは到底認められず,また,上記供述当時の被告人の錯乱状態からみても,同人に殊更虚偽供述をして一郎をかばおうと考慮するだけの余裕があったなどとはおよそ考え難く,同人の上記供述変遷には合理的説明がなされていない。
また,被告人は,同第13回公判及び当公判廷において,当初,B医師に対し,ガスコンロの上にカーテンを置いたと話した理由につき,「B医師から,『じゃ,どうやって火を点けようとしたの。』と言われたので,うそじゃないということを証明しようとして,『コンロの上にカーテンを置いて火を点ければ火が出るじゃないですか。』と答えただけである」などと説明しているが,同第11回公判B医師供述及び同人記載のカルテ(差戻前第一審甲22)を見るに,被告人が仮定の話としてガスコンロの上にカーテンを置いた話をした様子は一切窺われず,被告人の上記供述は信用することができない。
加えて,被告人は,捜査段階においては,一郎がガスコンロの上に上がってから同人が火だるま状態となるまでの間に,ガスコンロの点火用スイッチを押すような音がしたという趣旨の供述をしていなかったにもかかわらず,その後,供述を変遷させた理由についても,何ら合理的説明を加えていない。
(イ) 他方,被告人は,同年6月5日に,一郎がガスコンロの上に上がった旨の供述をしなかった理由につき,同第14回公判(27頁)等において,「一郎をかばえるものならかばいたかったが,それがかばえるものかどうか判断がつかなかったので,その部分だけ抜いて話した」などと説明しているので,F消防隊員作成の質問調書(同甲67)を見てみるに,確かに,同調書には,一郎が火を点けたなどと記載された部分はなく,どのようにして火災が発生したのかということについても何ら記載がなされていない。また,被告人は,同弁3号証において,「私は一郎が自殺したと思っていた。自殺あるいは夫の重過失があれば職を失い,一郎の治療がしてもらえなくなると思い,一郎のガスコンロの上の姿を故意に黙秘した。」などとも説明しているところ,被告人がF消防隊員と話をした際には,本件火災からある程度の時間が経過しており,その間に,自らも自衛隊に入隊していた過去を有する被告人が,一郎の自殺あるいは重過失で本件火災が発生したとすれば,一郎が自衛官としての職を失うであろうなどと考え,夫である一郎が職を失い,治療を受けられなくなることを心配し,同人をかばおうという気持ちを抱いたとしても不自然ではない。
次に,被告人は,同年9月14日に,一郎がガスコンロの上に上がった旨の供述をしなかった理由につき,当公判廷等において,「当初は一郎がガスコンロの上に上がったと思っていたが,一郎が足の裏を火傷していなかったので,自分の記憶違いなんだと思った。一郎に聞かなければ,話してはいけないと思っていた」などと供述しているところ,実際,一郎は足の裏は火傷していないのであって,被告人が,一郎の負傷状況を見て(ただし,被告人が一郎の足裏の負傷状況を確認した時期については証拠上判然としない。),自分が記憶違いをしていたと思ったとしても不自然ではない。また,前記第6の2(1)ア(エ)記載のとおり,被告人が,一郎が自衛隊中央病院に入院中,同人と二人で居た際に,同人に対し,「一郎がコンロに上がっているのを見た。私は火を放っていないので,あなたじゃないの。」などと話したことについては一郎も捜査段階から同旨の供述をしている(当審甲1)ところであって,このことからすると,「一郎に聞かなければ,話してはいけないと思っていた」旨の被告人の供述が直ちに信用できないとは言えない。
むしろ,被告人は,本件火災発生直後,錯乱状態にある中で,一郎がガスコンロの上に上がった旨供述していること,また,本件放火の犯人であるとして逮捕されるよりかなり前から,捜査機関ではない者,特に,一郎自身に対しても,同人がコンロの上に上がった旨の話をしていたことなどに照らすと,単にかかる供述部分について変遷が見られることをもって,被告人が,自己の責任を一郎に転嫁すべく,一郎がコンロの上に上がったとの話を作出したものであると安易に考えることは相当ではないと思われる。
なお,検察官は,「被告人の同年9月14日付司法警察員調書(差戻前第一審乙2)を見ると,同調書では,被告人は,一郎が火を点けたことについて明示的に供述してはいないものの,『一郎が大声であちっ,あちっと叫びながら,私の目の前を台所から和室方向に走っていった』と故意か過失かは不明であるものの,一郎が火を点けた趣旨の供述をしていることからすると,被告人が,同調書において,一郎がガスコンロの上に上がった旨供述しなかったことにつき,何ら合理的な説明をしていない」などと主張する。しかしながら,一郎が火だるま状態となったことは,一郎の負傷状況からすれば誰の目から見ても明らかなのであって,この点につき,被告人が殊更虚偽の話を作出する方が無理であるし,同調書によれば,被告人が,「火については見えなかった」などと前置きした上で検察官主張の上記記載部分の供述をしていたことが認められることからすれば,同記載部分をもって,被告人が同調書において,一郎が火を点けた趣旨の供述をしているなどと見ることはできず,検察官の主張には理由がない。
(ウ) 以上によれば,前記第6の2(1)イ(イ)記載の一郎がガスコンロの上に上がったという点に関する被告人の供述変遷理由については,被告人が,本件火災発生直後は,一郎をかばおうと考慮するだけの精神的余裕もなく,B医師に対し,一郎がガスコンロの上に上がった旨話し,その後,時間的経過とともに,夫である一郎をかばおうといった気持ちを抱くようになり,さらに,同人の負傷状況を知って以後は,自分が記憶違いをしていたなどと思ったことも重なって,F消防隊員及びH警部補に対し,一郎がガスコンロの上に上がったといった供述はしなかったものの,自らが現住建造物等放火の犯人として逮捕されて以降は,本件火災は自分が発生させたものではないということを主張すべく,再度供述を変遷させたと見ることもでき,被告人の上記供述変遷を一概に不合理であるなどとして排斥することはできない。そして,前記第6の2(1)イ(ア)記載の供述変遷については,時間的経過とともに,一郎をかばおうとの気持ちを抱くようになるとともに,一郎が犯人でないとなれば,当然被告人自身に疑いの目が向けられることは明らかであるから,自身に責任が及ばないようにするため,自己に不利益となるような本件火災発生直前の被告人の行動をも否定するようになったとみる可能性も十分に考えられ,また,同(ウ)については,一郎がガスコンロの上に上がっただけではどのようにして火災が発生したのか説明がつかないことから,事後的に,「カチチチという音がした」といった話を作出した可能性も考えられる。
(2) 他の証拠との整合性について
ア(ア) まず,被告人は,「台所のストーブの横に灯油の入ったポリタンクを置いた際,激しく置いたので,相当な量が台所床面にこぼれたものの,灯油を撒いたことはない」旨供述している。しかしながら,灯油の入ったポリタンクを激しく置いた際に灯油が零れただけであるという場合,ポリタンクの口がそれほど広いとは思われないことや,台所のストーブが置かれていた位置からコンロ台前付近までの距離に鑑みれば,灯油が相当量零れたとしても,零れた灯油がコンロ台前付近まで至るということはおよそ考えられないところ,関係各証拠によれば,コンロ台の前付近まで灯油が広範囲に広がっていたことが明らかであって,被告人の上記供述は本件現場状況と整合しない。
(イ) また,被告人は,「自分がガスコンロの上にカーテンを置いたこともガスコンロの点火用スイッチを押したこともない」旨供述しているが,これは,一郎供述のうち,信用性の認められる供述部分と整合しない。
イ 被告人の,「一郎は,私の方を見ながらコンロの上に片方の足を置き,もう片方の足をダイニングテーブルの椅子に置いた。その後,一郎が火だるまになった。」との供述が他の証拠と整合するか否かについてみるに,被告人は,怖くてガスコンロの上に上がった一郎を正視できなかったなどとして,一郎がどのような姿勢でガスコンロの上に足を置いていたのかという点に関し具体的に供述していないことから,その姿勢については判然としないものの,当公判廷において,台所に置かれていた椅子の高さについて,被告人は,座る位置は高くも低くもなく,ダイニングテーブルのセットとなっている椅子として通常の高さのものである旨供述し,また,前記第4の2(4)記載のとおり,ガスコンロの上部(トッププレート)は台所床面から見て約92センチメートル程度の高さにあったことなどからすると,一郎が,コンロの上に片方の足を置き,もう片方の足をダイニングテーブルの椅子に置くという姿勢を取ることは可能である。
次に,被告人の一郎がガスコンロの上に上がったという供述は,一郎が,「事件当時,『家を燃やすくらいなら死んだ方がましだ』と言ったりコンロの上に上がったことはない」旨供述していることと矛盾する。しかしながら,前述したとおり,一郎は,被告人がガスコンロの点火用スイッチを押してから一郎の身体に火が点くまでの時間的間隔についてはわからないなどと曖昧な供述をし,ガスコンロの火が台所床面等へ燃え移るまでの経過についても説明できていないことなどからすれば,一郎の「ガスコンロの上に上がったことはない」といった供述を完全に信用することは疑問であり,したがって,被告人の上記供述が一郎の供述と矛盾するからといって,直ちに,被告人の供述の信用性が否定されるものではない。
(3) 供述内容が不自然ではないこと
ア 被告人は,「一郎が,私の方を見ながらコンロの上に片方の足を置き,もう片方の足をダイニングテーブルの椅子に置いた。一郎は私の方に向かって,『この家を燃やすぐらいだったらおれが死んでやる』と怒鳴った。私は怖くなって一郎から目をそらした。カチチチという音が2回して,その後,一郎が火だるまとなった。」旨の供述をしているところ,検察官は,一郎が自殺を図る理由は到底見出せないなどとして被告人の上記供述には信用性が認められない旨主張する。
確かに,検察官主張のとおり,一郎の本件火災発生前の行動からは,同人が自殺を図る要因は全く見あたらず,また,一郎は喫煙者であって,ライターをタバコとともに持ち歩いていたということからすると,一郎が真に自殺を図るとするならば,わざわざガスコンロの上に上がるという行動など取らずに,所携のライターで灯油のかかった自己の身体に火を点ければよいのであるから,一郎が,突如自殺を図ろうなどと考えてコンロの上に上がったということは想定し難い。
イ しかしながら,被告人は,一郎がガスコンロの上に足を置いて以降は,一郎から目を反らしていた旨述べていて,足をガスコンロの上に置いた状態で,その点火用スイッチを押したなどと供述しているわけではない。また,被告人は,一郎がガスコンロの上に上がって,正視できなくなってから,「ある程度の間があって」,一郎が助けてくれと大声で叫ぶとともに,火だるまの状態になっているのを見た旨供述しており(差戻前第一審乙6。なお,被告人は,当公判廷においては,当初から時間が経過していて,一郎が「この家を燃やすぐらいだったらおれが死んでやる」と怒鳴ってから同人が火だるまの状態となるまでの時間的感覚については思い出せないという趣旨の供述をしている。),このことからも,一郎が火だるま状態となった時点において,同人がどのような姿勢を取っていたのか,どのようにして一郎の身体に火が燃え移ったのかについて被告人の供述からは不明であると言わざるを得ず,被告人が,客観的に,一郎が自殺を図ったと供述していると考えるのは早計であると言わざるを得ない(被告人は,一郎がガスコンロの上に上がった後,火だるまとなったことから,一郎の自殺だと思ったと述べていただけである。)。
ウ そして,一郎がガスコンロの上に上がったという点についてみると,一般的には,被告人の行動を制止すべく,同人を追って台所に駆け付けた一郎が,ガスコンロの上に上がるというのは突飛な行動のようにも思われる。しかしながら,前述したとおり,一郎は,従前,被告人との夫婦げんかの際,単に周囲の物を蹴るなどの行動にとどまらず,被告人に対する脅しとして,あるいはけんかを終息させたいとの思いから,一男をガスコンロの上にかざしてみたり,車に乗って暴走運転をするといった激情にまかせた行動を取ることもあったことに鑑みると,本件時,一郎が,被告人の言動に激昂し,同人に対する脅しとしてガスコンロの上に上がることも了解できる行動であるというべきであり,被告人の上記供述内容が,およそ考えられない荒唐無稽なものであるということはできない。
3 小括
以上によれば,被告人が,①灯油を撒いたことはなく,零しただけであるという点,②コンロの上にカーテンを置いたことはないという点,③ガスコンロの点火用スイッチを押したことはないという点,④「カチチチという音を2回聞いた」という点に関する被告人の供述には信用性は認められない。
他方,上記①ないし③に関しては,後記第7の1(1)のとおり,被告人の供述と異なる事実が認められるところ,これらの事実と,被告人が供述する,⑤「一郎が片方の足をガスコンロの上に置き,もう片方の足を食卓用の椅子に置いた」事実との関係を見ると,前記第6の2(2)イのとおり,一郎供述によっても被告人がガスコンロの点火用スイッチを押してから一郎の身体に火がつくまでの時間的間隔や経過が不明である以上,これら各事実は排斥し合う関係にはないことが明らかで,④についても変遷状況等から被告人が事後的作為的に話している疑いがあって信用できないに過ぎず,そのような音がしていなかったと明確に認定することもできないから,結局,被告人供述のうち上記①ないし④の部分と⑤の部分の信用性判断は不可分ではなく,上記①ないし④の信用できない部分があるからといって,上記⑤の部分の信用性を否定することはできないというべきである。また,⑤に反する証拠としては,これを否定する前記第5の1の一郎供述が存在するものの,前記のとおり,一郎供述においては同人が火災の発生に寄与したと窺わせかねない事情についてこれを隠すなどしている可能性を否定できないから,上記一郎供述をもって⑤を排斥することはできない。そうすると,上記⑤の供述部分については,変遷に根拠がある上,内容も不自然とはいえないから,検察官が主張する諸点を十分考慮しても,⑤の供述部分の信用性を排斥することはできないというべきである(なお,これまでの検討の結果,被告人が後に否定することとなった前記①及び②の事実の存在が認められるところ,事件直後においては被告人はこれらの事実と共に前記⑤の事実をB医師に話しているのであって,このB医師に対する供述に限ってみれば,その相手が捜査官ではなく精神科の医師であること,火災から免れた直後の興奮状態にあり,それまでの夫婦げんかの状態からは一転して一男を助け出した一郎に感謝する気持ちになっている状態でなされたものであることなどに鑑みると,出火の責任等を意識して作為的になされたものとは言い難く,少なくとも前記①及び②の供述については客観的事実にも符合しており,それと共になされたこのB医師に対する⑤の供述部分のみ信用性がないとするだけの理由は見出しがたい。)。
そして,被告人も一郎と同様,本件火災の直接の原因が何であるか明確に説明をしておらず,被告人の供述によっても,本件火災の発生原因を特定することはできない。
第7 当裁判所の判断
1 前記第4ないし第6に基づいて認定できる事実
(1) 前記第4の事実経過に加え,第5で検討し信用性が認められた一郎の供述部分及び第6で検討した被告人の供述部分のうち信用できる部分を総合すると,次の事実を認めることができる。
被告人は,前記第4の3の経緯から,一郎と口論となり,一旦家を飛び出したものの直ぐに本件居宅の玄関に戻ったが,6畳和室内のソファに座っている一郎の様子を見て,被告人を全く心配してくれていないと感じて激昂し,玄関三和土に置いてある灯油が一杯に入ったポリタンクのふたを外し,これを持って6畳和室に入り,ソファに座っている一郎のそばを通って同人や和室床面に灯油を撒きながら台所に行き,さらに台所の床面等に灯油を撒いた。その後,被告人は,流し台後ろの高窓に取り付けられたカーテンを外してガスコンロの上に置いた上,ガスコンロの点火用スイッチを押そうとした。一郎は,被告人の後を追って台所に行き,被告人を止めるためコンロ台の前でガスコンロのスイッチを戻そうとした。被告人がガスコンロのスイッチを押し,一郎が戻そうとすることが何回か繰り返された。その後,コンロ台付近において,一郎は着衣に火がついているのに気付き,火だるまの状態になって,「あちあち,Y,助けてくれ。」などと大声で叫び,6畳和室に駆け込んだところ,被告人が浴槽に水が溜まっているのを確認してから一郎を浴室に誘導し,一郎は浴槽につかって火を消した。
(2) これに対し,弁護人は,①灯油を撒いた事実,②被告人がカーテンを外してガスコンロの上に置いた事実,③被告人がガスコンロのスイッチを押した事実は認められないと主張する。しかしながら,①6畳和室のソファ周辺及び台所床面の広範囲にわたって灯油が落ちていたことについては明らかであるところ,被告人自身,本件直後,B医師に対して「灯油を撒いた」旨供述し,この供述は十分信用できる上,被告人が供述する灯油をこぼして歩き,台所の床にポリタンクを置いたという行動のみではコンロ台前付近の床面まで灯油が広がるとはおよそ考えがたいことからすると,被告人が台所床面等に灯油を撒いたことは明らかである。また,②カーテンをガスコンロの上に置くという行動は,特異な非日常的行為であるところ,前記一郎供述のみならず被告人も,本件火災直後,B医師に対し,「カーテンをガスコンロの上に置いた」旨供述しているのであり,独立になされた特異な事柄についての供述が合致していることからすれば,上記各供述部分の信用性は高く,かかる事実を認めることができる。弁護人は,被告人がカーテンを外してガスコンロの上に置いたとすれば,本件火災現場のコンロ台前付近からは,そのカーテンが通してある「突っ張り棒」が当然発見されるはずであるところ,同所からは,当該「突っ張り棒」は発見されておらず,これは被告人がカーテンを取ってガスコンロの上に置いてはいないということを示すものであるなどと主張するが,本件火災現場は焼損が激しく,2階の床部分が落下して様々な物が堆積しており,いかなる物が本件火災現場に残っているかについて全てを明らかにするというのは困難であったと思われる上,消防及び警察による実況見分においても,台所のガスコンロ付近から出火した可能性について推測しながらも,焼け残っているはずの当該ガスコンロの五徳すら片方しか確認されていないことなどからすると,当該「突っ張り棒」が発見されなかったとしても何ら不自然ではなく,弁護人の主張には理由がない。そして,③一郎の,捜査段階における「被告人がガスコンロの点火用スイッチを押し,私が戻そうとすることが何回か繰り返された」旨の供述には信用性が認められることに加え,被告人がカーテンをガスコンロの上に置いたことから被告人がガスコンロの点火用スイッチを押すことが十分可能な位置にいたこと,カーテンをガスコンロの上に置いた後,ガスコンロの点火用スイッチを押すという行動は一連の流れとして自然なものであることなどからすると,被告人がガスコンロの点火用スイッチを押したと認められる。
2 前記認定事実から本件公訴事実を推認することの可否についての検討
(1) 本件公訴事実を推認する際に考慮すべき事項について
前記第7の1(1)の事実からすると,本件火災については,被告人がガスコンロのスイッチを押したことによりカーテンに着火し,その火が被告人の行為により床面に広がった灯油に引火した可能性を認めることができる。この可能性は,被告人には本件居宅に放火する動機が存し,実際に台所等の床面に意図的に灯油を撒いた上,ガスコンロの上に易燃性のカーテンを置き,ガスコンロの点火用スイッチを押すなどの放火に向けた行為をしていること,他面,被告人と一郎の他には出火原因を作出する者がおらず,電気関係のショート等による失火は否定できること,一郎には本件居宅に放火する動機がなく,被告人の放火に向けた行為を制止しようとする行動をしていること,本件火災現場の焼損状況が上記可能性と整合していること,上記可能性に従って公訴事実を認めたとしても,前記被告人の供述の他にこれに明確に反する証拠がないこと等に基づいている。
他面,本件においては,被告人が放火の故意を抱いたとするには不自然な事情があるほか,上記事実経過の中で被告人が公訴事実記載の犯行をしたと推認するとすれば,一郎と被告人の負傷状況の差異を合理的に説明できるか,被告人がガスコンロの点火用スイッチを押し,一郎がこれを戻すという行為から,一郎が火だるまになって本件火災に至るまでの間に,被告人や一郎の他の行為が介入した疑いを容れないほど強く公訴事実を推認できるかどうかが問題となり,この点について他の事情の余地をどの程度強く排斥できるかが,公訴事実を推認するにあたって重要となるものと考えられる。
(2) 動機及び故意について
ア 被告人は,従前より激しやすい性格であった上,平成10年1月ころからは精神的に不安定な状態であったこと,本件火災当日,一郎と激しい口論をして家を飛び出し,その後,帰宅した際,同人が全く被告人を心配する様子でなかったことに激昂していることや,玄関に置いてあった灯油入りポリタンクを持って6畳和室及び台所床面に灯油を撒き,台所の流し台高窓に取り付けてあったカーテンを取ってガスコンロの上に置いた上,ガスコンロの点火用スイッチを押したという一連の行動は,検察官の主張するとおり,被告人の本件居宅を放火する動機ないし故意の存在をある程度推認させるものと考えられ,上記一連の行動は,被告人が,かかる動機に基づいて本件居宅を放火する準備行為を行ったものと捉えることもできないわけではない。また,被告人は,本件当日,B医師に対し,「家が燃えたら未練などなくなって出て行けると思い」などと,放火の故意を認めるかのような供述もしている。
イ しかしながら,以下のとおり,前記認定した事実経過から認められる被告人の動機や言動を仔細に見ると,必ずしも現実に本件居宅を放火する強い動機とまでは考えられず,放火行為の存在を強く推認させる間接事実とは認められないし,検察官が被告人の故意の根拠として主張する「被告人がガスコンロのスイッチを繰り返し押した」という点も,繰り返した回数が不明であることを別としても,被告人がその火を床面等に燃え移らせたという放火行為が認められた場合にその内心の事情を推認する限りでそのように指摘できるものであって,ガスコンロの点火用スイッチを押した際,被告人が,真に本件居宅を放火する故意を有していたと認定するにはなお至らないというべきである。
(ア) まず,被告人と一郎の口論は,一郎が作った弁当を被告人が作り直したことなどに一郎が気分を害し,被告人に対し,「甘えるな。」などと言ったことなどに端を発する夫婦げんかに過ぎず,その後,いくら一郎に被告人を心配する様子が窺われなかったとして被告人が激昂したとしても,いきなり本件居宅を焼損してしまおうと決意したというのは唐突に過ぎ,一応の動機と考えられるものの,確定的な放火の故意をもたらすほどの強い動機とは認められない。
(イ) また,本件居宅の広範囲に灯油を撒いた上,火を放てば,当時未だ2歳の一男が火災に巻き込まれ,死傷するといった結果を惹起する危険が高いことからすると,本件時,一男が本件居宅に居ることを認識していた被告人が,かかる一男への危険を生じさせることを認容し,本件居宅を焼損しようとしたとは考えがたい。このことは,本件火災発生後,被告人が必死で一男を救出しようとしていたことからも窺われるところである。
(ウ) さらに,被告人の以下の行動を見ると,被告人が,真に,床に撒いた大量の灯油に,コンロの上に置いて火を点けたカーテンで着火し,その火をコンロ台前の床から台所へ燃え広がらせて本件居宅を焼損しようと企図していたと推認するには不自然な面があると言わざるを得ない。
まず,灯油を床に撒くという行動を一郎に見られれば,同人がその後の行動を制止するというのは当然考えられるのであるから,被告人が,真に本件居宅を焼損しようとすべく,自己の計画を円滑に遂行しようとするのであれば,玄関に置いてあった灯油入りポリタンクを台所まで運ぶには,一郎にポリタンクを運ぶ自分の姿を見られることのないよう,廊下を通って直接台所に行った方が確実であるし,また,その方が台所まで行くのに近道でもある。にもかかわらず,被告人は,わざわざ一郎のいる6畳和室を通って台所までポリタンクを運んでいる。しかも,被告人は,玄関付近でポリタンクの蓋を開けた上,一郎の居る6畳和室においても灯油を撒き,さらには,同人の着衣に灯油をかけるなどの行為まで取っており,かかる行動からは,一郎に自己の行為を制止されないよう配慮した形跡は一切窺われず,むしろ,被告人に無関心な様子であった一郎に自己の行為を見せつけようとして取った行動のように見ることができる。
また,家には,新聞紙やティッシュペーパー等容易に燃焼する紙類などが当然置かれていたと思われるから,火を点ける媒介物としては,そのような紙類等を選択するのが通常であるかと思われるところ,被告人は,わざわざ,カーテンレールに通してあって外しにくいカーテンをガスコンロの上に置いているのであって,この点も,被告人が,本件居宅を焼損しようとしていたのではなく,被告人を追いかけて台所に来た一郎への当てつけのように見ることができる。
(エ) そして,被告人は,従前から,夫婦げんかの際,大声で怒鳴ったり物を投げつけるといった行為にとどまらず,一郎への当てつけとして,同人の車の後部座席にライターで火を点ける素振りをするなど過激な言動をすることがあったことなどに鑑みると,本件火災当日も一郎への当てつけとして,上記一連の行動を取ったと考えることが十分可能である。また,被告人が,家が燃えたら未練がなくなって出て行ける旨述べていた点も,真にそう考えて放火を決意したというより,そのような言動により一郎に当てつけ,あるいは一郎の気をひこうとしたとすればよく理解できるところである。
ウ 以上のとおり,本件火災に至る経緯,被告人の上記一連の行動からは,被告人がガスコンロの点火用スイッチを押そうとした時点において,本件現住建造物等放火の故意を有していたと認定することはできない。
(3) 被告人が,ガスコンロを点火してカーテンに火を点け,着火したカーテンを媒介物として灯油が撒布されている台所床面等へ燃え移らせた可能性について
ア まず,本件公訴事実及び検察官の同事実に関する釈明内容からすれば,検察官は,ガスコンロの火を台所床面等へ燃え移らせる媒介物として,被告人がガスコンロの上に置いたカーテンを想定しているものと考えられるので,以下,かかるカーテンが媒介物となり得る可能性について検討することとする。
(ア) この点,前記第4の7記載の検証結果に照らすと,カーテンが媒介物であると考えた場合,以下のような疑問を指摘しうる(なお,検証を実施するに当たっては,本件時,本件居宅で使用されていたガスコンロと同型のコンロを使用し,また,カーテンも本件時使用されていたものと類似のカーテンを用いた上,一郎の供述から,ガスコンロの上のカーテンの状態及びガスコンロの点火状態についてそれぞれ想定し得る場合を設定した上,検証を行っていることからすれば,その結果についてはある程度の正確性が認められるといってよい。)。
(イ) 当該検証によれば,カーテンをガスコンロの上に置いた上,ガスコンロを点火し燃焼を継続したという場合,カーテンは,いずれの場合によっても,五徳内の円形部分については燃焼するものの,それ以上に横方向に燃え広がることはなく,また,カーテンをガスコンロの上に置いた上,ガスコンロを点火後,すぐに消火したという場合にも,五徳の円形状に沿ってカーテンが溶け,穴が開くということはあっても,それ以上にカーテンが燃焼を継続することはなかったことが認められる。ガスコンロの上にカーテンがどのように置かれていたか一郎供述からも不明であるが,無造作に置かれていたとしても,水平方向に燃え広がらないことに変わりはない。
かかる結果に照らすと,本件時,被告人が,カーテンをガスコンロの上に置いた上,その点火用スイッチを押し,その後,燃焼を継続させたにしろ,直ぐに一郎が点火用スイッチを再度押すなどして消火したにしろ,カーテンをガスコンロの火から離した場合に,カーテンが独立して燃焼を継続するといった可能性は極めて低かったものと思われ,したがって,「着火したカーテン」を灯油が撒布されている台所床面等に落とす,あるいは置いたことによって台所床面等に火が燃え移るといった事態が起こる可能性もまた極めて低いと言わざるを得ない。
(ウ) 次に,当該検証結果によれば,カーテンを3枚重ねて置いた上,ガスコンロを点火後,燃焼を継続させた場合に,「コンロの五徳の足の部分にカーテンが溶けた液状のものが付着し,しばらくの間そこから小さな炎があがっていた」ことが認められるものの,かかる炎は,カーテンをガスコンロの火から離した上,約90センチメートル程離れた台所床面等に落とす,あるいは置くまでの間に,消火することが予測し得る程度の極めて小さなものであって,やはり,「着火したカーテン」を灯油が撒布されている台所床面等に落とす,あるいは置いたことによって台所床面等に火が燃え移るといった事態が起こる可能性は低いと言わざるを得ない。
(エ) 加えて,カーテンをガスコンロの上に置いた上,ガスコンロを点火した場合,カーテンが溶解して,五徳の部分に溶解したカーテンが付着し,カーテンを五徳から引き離すこと自体容易ではないことからすると,被告人が,一郎と揉み合っている中で,カーテンをガスコンロから引き離して台所床面等に落とすなどの行為をなし得るのかといった点についても疑問を抱かざるを得ない。
イ 次に,仮にカーテンを媒介物として,ガスコンロの火を台所床面等に燃え移らせることができるとしても,一郎及び被告人の負傷状況に照らすと,被告人が一郎と揉み合うなどする中で,着火したカーテンを台所床面等に落とす,あるいは置いたと考えるには,以下のような疑問が残る。
すなわち,①被告人と一郎とはガスコンロの点火用スイッチを押す,戻すなどして揉み合うなどしていたのであるから,その時点において,被告人と一郎の身体は接触していたか,接触していなかったとしても極めて近接した位置にあったものと認められること,②被告人に一郎を殺傷する意思はなかったと思われることからすると,仮に被告人がカーテンを落とす,あるいは置くといった行動を取ったのであれば,カーテンを引く動作になると思われ,そうした場合,一郎よりも被告人の方が出火場所に近い場所にいたことになり,コンロ台と前記食卓用テーブル間の比較的狭い場所であることも考えると,被告人の足元にも火が広がり,一郎のみならず被告人も火だるまになるなどして重傷となって然るべきである。それにもかかわらず,本件においては,一郎は約70パーセントの全身熱傷及び気道熱傷といった重傷を負ったのに対し,被告人の負傷の程度は,右上肢熱傷及び気道熱傷といった比較的軽微なものにとどまっており,なぜ,一郎だけが重傷を負い,被告人が軽傷で済んだのか自然かつ明快な説明をすることは困難である。
また,被告人が激昂していたとしても,自衛官でもある成人男性の一郎が,女性であり自衛官除隊後6年を経過し,その間2人の子を出産した被告人に対し,危機感を感じて懸命に放火行為を制止しようとして揉み合いになるなどしたのであれば,台所床面に灯油が撒かれて滑りやすいなどの状況を考えても,被告人がこれに抗して点火を遂げ,カーテンを床面に落とすなどの行為ができたとするのも不自然な面がある。
ウ 検察官は,一郎の捜査段階における検察官調書は極めて信用性が高いものであるという前提に立ち,カーテンをガスコンロの上に置いた上,これにガスコンロで点火して火を点け,その着火したカーテンを台所床面等に落とす,あるいは置くといった行動を一連の流れとして捉えていることが窺われ,そのような流れ,あるいは行為のつながりが主張の骨格をなしていると思われるところ,前記の疑問に加え,これに対応するように,一郎供述は,被告人がガスコンロの点火用スイッチを押してから本件火災が発生するまでに時間的間隔があった可能性を否定する内容ではなく,また,その間に介在した事情について,一郎が意図的に供述しなかった可能性も十分考えられることは前記第5の3(5)で指摘したとおりである。このことからも,被告人が,カーテンをガスコンロの上に置いた上,その点火用スイッチを押したとしても,その後,当然に着火したカーテンを台所床面等に落とす,あるいは置くといった行動に出たであろうなどと推認するには証拠上認められる間接事実により十分基礎づけられていない点が残り,上記疑問を払拭できないというべきである。
エ 以上の諸事情を考慮すれば,被告人が,カーテンにガスコンロで点火して火を点け,着火したカーテンを媒介物として灯油が撒布されている台所床面等へ燃え移らせた可能性は低く,むしろ,被告人及び一郎の負傷状況から見れば,本件火災発生時,被告人と一郎とはある程度離れた位置にいたと考える方が自然であることなどの事情に鑑みると,被告人がガスコンロの点火用スイッチを押してから一郎の身体に火が点くまでには,ある程度の時間的間隔があったとみる方が自然である。そして,被告人がガスコンロの点火用スイッチを押してから一郎の身体に火が点くまでの間に時間的間隔があったと考えた場合,その時間的間隔はどの程度のものなのか,その間に被告人及び一郎がどのような行動を取っていたのか,火災発生時,被告人及び一郎はいかなる場所にいて,どのようにして台所床面等に撒布された灯油に火が燃え移ったのか等について,本件ではほとんど明らかになっていないというべきである。
(4) その余の事情に関する検討
ア 本件火災発生後,被告人は,消火活動を一切行っていないことについて
被告人が,本件居宅を焼損しようと企図していたというのであれば,被告人が,消火活動を一切行っていないことも,「本件居宅を焼損させるため」であると考えることが相当である。
しかしながら,本件において,被告人に本件居宅を焼損する故意があったとは認定できないことについては既に述べたとおりである。そして,被告人が消火活動を一切行わなかった理由として被告人が述べている趣旨は,要するに消火活動をすることが思い浮かばなかったというものであるが,当時の状況においては,①一郎が火だるま状態となる等,不意の事態に遭遇して気が動転したり,②現に被告人がしたように,本件居宅の消火活動を考えるよりも,まず,一郎及び一男の救助に当たったり,③灯油が広範囲に撒布されていたことや火勢から,取るべき行動として,消火活動が思い浮かばなかった等,被告人の行動を了解できる心情は種々有り得るのであって,被告人が,消火活動を一切行わなかったことをもって,被告人が本件放火の犯人であると結びつけることはできない。
イ 火災直後,被告人は,一郎を非難するような行動に全く出ていないことについて
検察官は,被告人において,火災の原因が一郎にあったことを認識していたのであれば,まず,一郎を非難してしかるべきであるところ,被告人が一郎を非難するどころか逆に謝意を表したことは,一郎が放火の犯人ではないことを端的に示しており,一郎に本件放火の犯人性が認められないことは,すなわち,被告人が犯人であることの証左にほかならない旨主張する。
しかしながら,台所床面等へ灯油を撒くなどして,被告人が本件火災発生の一因を作出したことについては間違いないのであるから,被告人が,仮に火災の原因が一郎にあると認識していたとしても,一方的に一郎を非難することができなかった可能性も十分ある。また,被告人が,火災発生後,一男を必死で救出しようとしていたことからすれば,重傷を負った一郎が,一男を抱いて,煙が充満し,炎が上がっていた廊下を抜けて玄関から脱出してくれたことに対し,非難を忘れ,謝意を表したとしても不自然ではない。
ウ なお,検察官は,前記のとおり,一郎に本件放火の犯人性が認められないことは,被告人が本件放火の犯人を示すものであるといった主張をしているが,本件は,そもそもそのような証拠関係にはない。すなわち,既に検討したとおり,本件においては,被告人に現住建造物等放火の故意があったとは認定できないばかりか,具体的な行為が明らかにされていないのであって,一郎に本件放火の犯人性が認められないことから,直ちに被告人が放火したと認められるような関係にはない。
また,一郎供述及び被告人供述のいずれもが,それぞれ自己の故意による放火行為を否定しながら,他方の故意による放火行為をも供述せず,かつ,他方の過失による出火を窺わせるごとき供述をしながら明確な出火原因までは供述していないことに照らすと,一郎及び被告人は,自己の責任も他方の故意責任も免れようとする趣旨の供述をしているというべきであり,一郎が本件居宅を故意に焼損することはあり得ないという限度では一郎に本件放火の犯人性が認められないことは否定できないとしても,これまでの検討から明らかなとおり,そのことによって,一郎の過失により出火した可能性も排斥できない。
(5) 小括
以上のとおり,本件においては,被告人が台所床面等に灯油を撒き,ガスコンロの上にカーテンを置いた上,ガスコンロの点火用スイッチを押したことが認められるものの,その後,本件火災に至るまでの間の被告人及び一郎の行動に関する明確な証拠はない。
そして,一郎も被告人も本件火災の直接の原因については何ら話しておらず,また,一郎の供述も被告人の供述も全面的に信用性を認めることはできない上,その余の証拠を併せ検討しても,被告人に放火の故意を認定することも,本件火災の場所及びその原因を特定することもできず,その他,被告人が本件放火の犯人であると推認させる決定的な事情もないことからすれば,結局,本件では,本件火災を惹起したのは被告人か一郎か,それとも双方に責任があるのか,本件火災は放火によるものなのか失火によるものなのかなどについて認定する根拠を欠いていると言わざるを得ず,被告人がガスコンロの点火用スイッチを押して以降,同人によって本件火災を発生させるような行為が行われたと推認することもできない。
3 一郎がガスコンロの上に上がった際に同人の身体に火が燃え移り,本件火災発生の一要因となった可能性について
前記第6において検討したとおり,「一郎がガスコンロの上に上がった」旨の被告人供述については,虚偽であると断定し得ないことから,一郎がガスコンロの上に上がった際に同人の身体に火が燃え移り,本件火災発生の一要因となった可能性について検討する。
まず,一郎がガスコンロの上に上がった際に,自らガスコンロの点火用スイッチを押してその火を自己の身体に燃え移らせたということは,一郎に自殺の動機がないことから考えても,想定し難い。
もっとも,本件時においても,被告人が,ガスコンロの点火用スイッチを押す,一郎がそれを戻すといった行動を取った際に,ガスコンロの火が,その上に置いてあったカーテンに着火し,その火がくすぶるなどして完全に消えていなかった可能性も低いながら完全には否定できないことからすれば,前記第7の1(1)の事実のうち,被告人がガスコンロの点火用スイッチを押し,一郎と被告人とがコンロ台の前で揉み合いとなった事実に引き続いて一郎がガスコンロの上に上がったと想定すると,その際に,その火が一郎のくつ下やズボンなどに付着していた灯油に燃え移るなどして同人が火だるま状態になったとも考えられる。そして,一郎がガスコンロの上に上がったことが原因となって同人の身体に火が燃え移ったのであれば,出火元に居た一郎だけが重傷を負い,被告人が軽傷で済んでいることともよく整合する。また,このような仮説は,一郎が,自らの責任を免れるべく,被告人がガスコンロの点火用スイッチを押してから一郎の身体に火が点くまでの経緯について供述しなかったことや,被告人が逮捕された後,妻が灯油を床に撒布したことについては供述しつつも,今回の火災の責任は私にあると思うなどと供述し(当審甲3),さらに,差戻前第一審第3回公判において,検察官の「あなたや奥さんか,どちらかは責任をとらなきゃいけないと思っているわけですか。」という質問に対し,「はい。あるいは二人ともかもしれません。」などと話していることの理由としても自然なことと考えられる。
以上のとおり,一郎がガスコンロの上に上がった後,同人の身体に火が燃え移った間の行動については,被告人も供述していないことから,その間にどのような経緯があったかについて断定することはできないものの,一郎がガスコンロの上に上がった際に,同人の身体に火が燃え移り,その火が,一郎が浴室に向かうまでの間に,同台所や6畳和室の床に撒布されていた灯油に引火して本件火災が発生したとみる余地を否定し去ることはできないというべきである。
4 結論
以上のとおりであるから,本件においては,一郎の行動が本件火災発生の一要因を担った可能性も十分考えられ,また,取調べ済みの全証拠を精査しても,被告人が本件放火の犯人であると推認することはできず,結局,被告人が本件放火の犯人であると認めるには,なお合理的疑いを容れる余地がある。
第8 実行行為の着手時期等について
1 ところで,検察官は,被告人が,ガスコンロを点火し,その火をカーテンに燃え移らせたことにより,床に撒いた灯油に引火する状態を作出し,本件居宅を焼損する具体的危険を発生させたのであるから,この時点で放火行為の着手が認められるとして,その後の経過は,因果関係の範囲内にある限り,犯罪の成否に影響を与えないといった主張をしていることから,以下,本件における実行行為の着手時期について検討する。
2 まず,本件では,被告人が,台所床面等に灯油を撒いた事実が認められるが,灯油は揮発性が低い上,台所床面等に灯油に引火するような加熱物が存在したという証拠もないことからすれば,被告人が台所床面等に灯油を撒いただけでは,本件居宅を焼損する具体的危険性が発生したとは言えない。
次に,本件においては,被告人が,高窓に取り付けられていたカーテンをガスコンロの上に置き,ガスコンロの点火用スイッチを押したという事実が認められるところ,その後,被告人がガスコンロの火をカーテンに燃え移らせたとしても,カーテンの置かれ方や燃焼状況等により具体的に本件居宅を焼損する危険性が大きく異なることから,その時点において,直ちに,現住建造物等放火の実行の着手を認めることはできないというべきである。
すなわち,前記検証において,ガスコンロの火が燃え移ったカーテンは,五徳内の円形部分については燃焼して焼失するものの,それ以上に燃え広がることはなかったという結果が得られていることからすると,本件において,被告人が,ガスコンロを点火し,その火をカーテンに燃え移らせることができたとしても,それだけでは着火したカーテンが燃え広がって,ガスコンロ奥の台所壁面に燃え移るという可能性はなく,また,ガスコンロの上部(トッププレート)から台所床面までの距離は約90センチメートル程度離れていて,着火した媒介物を台所床面に落とす,あるいは置くなどの次の行為がなければ,ガスコンロの火が台所床面等に撒かれた灯油に引火する可能性もない。さらに,既に検討したとおり,燃焼を継続させたままカーテンが台所床面等の撒かれた灯油に落ちるという可能性もほとんどない。本件においては,ガスコンロの火をカーテンに燃え移らせたことをもって,本件居宅を焼損させるには,カーテンを台所床面等に落とす,あるいは置くといった行為を残すのみといった状況にもないと言わざるを得ない。
本件で用いられたようなカーテンが放火の媒介物となり得る場合があることは否定できないし,媒介物への点火行為により実行の着手を認めるに足りるだけの建物への焼損の危険性が生じることもあり得ないわけではないが,カーテンに燃え移らせたとしても上記のようにコンロの火に触れた付近だけが焼失して継続した燃焼に至らないなど,具体的な危険性を生じさせない場合が十分あり得ることに照らせば,カーテンの置き方や燃焼状況等,本件居宅を焼損させる危険性を基礎付ける事実関係が何ら解明できない場合にまで,被告人がガスコンロの上にカーテンを置き,コンロに点火してその火をカーテンに燃え移らせたということだけで,本件居宅を焼損する具体的危険性を発生させる行為を開始したものと評価することはできない。
したがって,検察官の前記主張は採用できない。
3 なお,被告人に現住建造物等放火罪以外の犯罪が成立し得るか否かについて検討してみるに,まず,本件においては,失火罪あるいは重過失失火罪が成立し得る余地はあるものの,検察官から訴因の変更も請求されていない上(当審第12回公判),事件発生から8年以上経過した現段階においては,証拠上,被告人に火災発生を防止すべきいかなる注意義務が課せられていたのか等につき明らかにすることも困難であることなどに鑑みると,上記犯罪の成立を認定することはできない。また,被告人が,台所床面等に灯油を撒布する等の行為を行っていることをもって放火予備罪が成立し得ないか検討してみるに,前述したとおり,被告人には本件放火の故意を認定することはできないことから,上記行為を放火の意思を実行に移す準備行為と捉えることもできず,したがって,放火予備罪の成立を認めることもできない。
第9 結論
以上検討してきたように,本件においては,被告人による放火行為及び放火の故意を認定するに足りる証拠がない。したがって,被告人に対する本件公訴事実については,その証明が不十分であって,犯罪の証明がないことに帰着するから,刑事訴訟法336条により被告人に対し,無罪の言渡をする。
よって,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・栗田健一,裁判官・日野浩一郎,裁判官・熊谷直穂)