横浜地方裁判所 平成18年(ワ)2572号 判決 2007年9月27日
原告
X
同訴訟代理人弁護士
鵜飼良昭
被告
株式会社Y
同代表者代表取締役
A
同訴訟代理人弁護士
山西克彦
同
峰隆之
同訴訟復代理人弁護士
横手章吾
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1請求
被告は,原告に対し,平成16年5月から平成18年7月まで毎月25日限り各9万2100円及びこれら各金員に対する各支払期日の翌日から支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は,被告の従業員であった原告が,被告による賃金減額が無効であると主張して,被告に対し,雇用契約に基づき未払賃金の支払を求めた事案である。
1 前提事実(争いがないか後掲証拠又は弁論の全趣旨により認められる事実)
(1) 被告は,平成13年6月21日,株式会社a1(以下「a1社」という。)の子会社として設立された株式会社であり,土木・造園工事等の設計・施工及び管理等を主な業務としている。
原告は,昭和58年5月1日,a1社との間で雇用契約を締結し,平成13年7月1日付けで被告に転籍し(以下「本件転籍」という。),被告との間で雇用契約を締結した。
(2) 原告は,平成17年11月23日まで,黒川開発事務所(以下「黒川事務所」という。)に勤務しており,翌24日からは,成瀬第二地区事務所(以下「成瀬事務所」という。)に勤務するようになった。
原告は,平成18年7月31日,被告を定年退職した。
(3) 原告の本件転籍後の賃金は,当初年額819万6000円(月額68万3000円)であったが,平成14年4月1日付けで9%削減されて年額746万4000円(月額62万2000円)となり,平成15年4月1日付けで5%削減されて年額709万円(月額59万0900円)となった(以下,これら賃金の引下げを,「本件賃下げ」という。)。
なお,原告の賃金は,当月末日締め当月25日払であった。
(4) 全統一労働組合都市開発分会(以下「本件組合」という。)は,平成16年6月15日,a1社及び被告との間で,双方協議の上,次のとおりの労働協約を締結した(<証拠省略>,以下「本件労働協約」という。)。なお,原告は,本件組合に加入していない。
1,a1社は,組合員の被告への転籍時の以下の労働条件等が遵守されるよう,被告に対して必要な支援を行っていくものとする。
① 満63才までの雇用を確保するものとし,満60才以降は嘱託社員とし,1年更新による雇用とする。
② 賃金については次による。
a 平成16年度については,現行賃金とする。
b 満60才以降は,転籍時年収の50%とする。
2,前第1項について,a1社は,「4社合併」後の「新会社」が承継していくことに対して責任を持っていく。
3,被告は,組合員の雇用,労働条件に関しては組合と協議していくものとする。
4,被告は,組合事務所,組合掲示板の設置等の便宜供与については職場実態を踏まえ,組合と今後協議していくものとする。
5,a1社及び被告は,労働基準法並びに労働関係諸法令を遵守し,組合活動については尊重する。
(5) 原告は,平成18年5月22日,本件賃下げ後の賃金と賃下げ前の賃金の差額の支払を求める労働審判を申し立て,労働審判委員会は,同年7月19日,原告の申立てを棄却する審判をした(<証拠省略>)。原告は,同日,この審判に対して異議を申し立て,同手続は本件訴訟に移行した。
2 本件の争点及び当事者の主張
本件の争点は,本件労働協約が原告に適用されるか否か及び原告が本件賃下げに同意したか否かである。
(被告の主張)
(1) 被告は,a1社から被告に転籍した14名中13名が加入する本件組合との間で,「平成16年度以降については,現行賃金とする。」旨の本件労働協約を締結した。
本件労働協約の締結により,「一の工場事業場に常時使用される同種の労働者の4分の3以上の数の労働者が一の労働協約の適用を受けるに至った」(労働組合法17条)のであるから,本件労働協約は,本件組合に加入していない原告にも適用されるものである。
これにより,原告の平成16年度以降の賃金は,本件賃下げ後の賃金となったのであるから,被告に賃金の未払はなく,原告の請求は理由がない。
ア 黒川事務所及び成瀬事務所は,いずれも,株式会社aの事業場であり,原告は,これらの事務所に出向という形で勤務していたにすぎない。「一の工場事業場」とは,当該労働者の雇用主の事業場であり,原告の勤務していた黒川事務所及び成瀬事務所は,「一の工場事業場」に当たらない。
被告には,本社事業場以外には事業場は存在しないから,原告は,本社事業場に所属していたというべきである。
イ 本件労働協約は,被告のみと協約を締結するのでは納得のできる労働条件を確保できないとの懸念を持った本件組合が,親会社であるa1社を交えた合意を得たいと主張したことから,a1社が主体となるかのような表現をとったにすぎず,その内容は被告が労働者の処遇に関する基準を定めたものであることは明らかである。
また,「現行賃金とする」という規定は,現に給与規定に基づいて賃金の支給を受けている労働者にとって,十分に具体的な基準である。
(2) 原告は,平成17年に被告に対して,本件賃下げ後の賃金を前提として残業代を請求しており,原告はその残業代を受領して,この点は解決済みとなっている。このことが示すように,原告は,本件賃下げに同意しており,被告には賃金の未払はない。
(原告の主張)
(1) 被告と本件組合との間で,本件労働協約が締結されたことは認めるが,これは,次のとおり,原告に適用されるものではない。
ア 「一の工場事業場」とは,相関連する組織のもとに継続的に行われる作業の一体であるが,原告は,黒川事務所及び成瀬事務所から指揮監督を受け,労務管理を受けていたのであるから,これらの事務所が「一の工場事業場」である。
被告は,本社事業所が「一の工場事業場」であると主張するが,原告は,被告の本社事業所に一度しか赴いたことがなく,被告による指揮監督又は労務管理を受けたことはないのであるから,本社事業所は「一の工場事業場」には当たらない。
そして,原告が勤務していた「一の工場事業場」である黒川事務所及び成瀬事務所には,本件組合の組合員は勤務していない。
したがって,原告に関し,本件労働協約は,労働組合法17条の要件を満たさない。
イ 労働協約が適用されるのは,労働協約のうち規範的効力部分に限られるものであるが,本件労働協約の第1項は,被告が組合員の労働条件を守るようa1社が被告に対して必要な支援を行っていくというものであって,何ら組合員の処遇に関する基準を定めたものとはいえない。また,「平成16年度については,現行賃金とする。」との部分も,主体がa1社であり,内容が抽象的であるから,到底「基準」といえるものではない。
また,原告は,被告から,年俸制で賃金を受給しており,年俸額は,個別的労働条件そのものであるから,その決定は,個々の労働者との合意によらざるを得ず,労働協約の規範的効力は及ばない。
本件組合は,本件賃下げに反対するために結成されたものであり,本件労働協約第1項には,柱書に「転籍時の以下の労働条件等が遵守されるよう」と記載された上で,「現行賃金」と記載されているから,この「現行賃金」とは,本件賃下げ前の賃金を示すと解釈すべきである。
ウ 本件労働協約は,原告の労働条件を不利益に変更するものであり,これが原告に適用されると,原告は,累計441万6000円の賃金を減額されることとなる。原告は,本件労働協約について,労働審判申立て後,被告から提出されて初めてその内容を知ったものであり,本件労働協約締結に至る過程は,原告にとって全く不透明であって,原告の意思を反映させる可能性は皆無であった。また,原告は,本件組合が結成された後に,組合が発行するニュースでその結成について知ったもので,本件組合に参加する機会は与えられなかった。
このような甚大な不利益を,自ら意思決定手続に参加できず,その意思を反映させる手だてのなかった原告が受忍せざるを得ないとすれば,著しく正義に反する結果となるから,この労働協約を原告に適用することについては,著しく不合理と認められる特段の事情がある。
(2) 原告は本件賃下げ後の賃金を前提として残業代を請求したが,これは,労働基準監督署から,本件賃下げ前の賃金を前提に残業代を請求すれば被告から拒絶されるので避けた方がよいとアドバイスされ,これに従ったものにすぎない。原告は,これ以前から本件賃下げに反対し続けていたのであるから,本件賃下げに同意していないことは明らかである。
(3) 原告は,本件賃下げによって,月額9万2100円の賃金が減額され,退職までの間,1か月当たり9万2100円の賃金が支給されていない。そこで,原告は,時効の点も考慮して,平成16年5月分から退職に至るまでの未払賃金を請求する。
よって,原告は,被告に対し,平成16年5月から平成18年7月まで毎月25日限り未払賃金9万2100円及びこれら各金員に対する各支払期日の翌日から支払済みまで商事法定利率年6分の割合による遅延損害金の支払を求める。
第3当裁判所の判断
1 事実経過
前提事実,証拠(<証拠省略>)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
(1) 当事者等
ア 原告,(昭和21年○月○日生)は,昭和58年5月1日,a1社との間で雇用契約を締結し,以降,主として土木・建築工事の施工監理の業務に従事した。
イ a1社は,主に都市整備公団から工事管理業務等を請け負う株式会社である。a1社は,平成16年7月1日,都市整備公団の関連会社である株式会社b,株式会社c及び株式会社dと合併し(以下この合併を「4社合併」という。),株式会社a(以下「a社」という。)となった。
また,都市整備公団は,同日,独立行政法人都市再生機構となった。
ウ(ア) 被告は,平成13年6月21日,a1社の子会社として設立された株式会社であり,土木・建築及び造園工事等の設計・施工及び監理や都市計画,環境計画及び土地区画整理に関する調査・企画・設計及び管理等の業務に関する請負及び受委託を主な業務としている。被告の設立時の代表者には,a1社の代表取締役社長であるB及びCの2名が選任され,平成17年6月27日,現在の代表者が就任した。
(イ) 被告は,平成13年6月30日,a1社との間で,次のとおりの内容の「出向に関する協定書」(<証拠省略>)を締結し,被告が従業員をa1社に出向させることに合意した。
(目的)
第1条 被告は,被告の従業員を別途締結する出向に関する覚書に基づき,a1社に出向させる。
(出向期間)
第2条 被告の従業員の出向期間は,別途締結する覚書により定める。ただし,定められた期間中においてもa1社,被告いずれかの申出により,双方協議の上期間を短縮又は延長することができる。
(勤務条件)
第3条 出向者の勤務時間等の勤務条件については,a1社の従業員就業規則に従う。
(給与の支給)
第4条 出向者の給与・賞与は,被告の基準に基づき被告より直接出向者に支給する。
(社会保険)
第5条 出向者の健康保険・厚生年金保険・雇用保険は,被告が付保する。ただし,労災保険はa1社の保険関係によるものとし,保険料はa1社が納付する。
(出向者負担金)
第6条 a1社は,被告に出向者負担金を支払う。負担金の額及び支払時期は別途締結する覚書により定める。
この出向者負担金には,消費税及び地方消費税は付さない。
(出向者の交替)
第7条 被告から出向した従業員について,a1社が不適当と認めたとき,又は疾病,その他の理由により就業不能となった場合にはa1社と被告が協議の上,被告は,当該従業員に替え,しかるべき従業員を直ちに出向させる。
なお,被告は,平成16年7月1日,a社との間でも,上記出向に関する協定書と同一の協定を締結している。
(ウ) 被告は,東京都中央区に本社を置き,他に支店,営業所等を有していない。被告には,平成18年3月末現在で,46名の従業員及び4名の役員が在籍しているが,被告の従業員等のうち,被告本社に勤務しているのは,被告代表者を含めて4名のみであり,その余の従業員は,ほぼ全員がa社(平成16年7月1日以前はa1社)に出向している。被告本社においては,従業員に対する賃金の支払及びそれについての事務等,従業員をa1社に出向させることについての事務が行われていた。
(2) 本件転籍
原告は,平成13年5月11日,数名のa1社の従業員とともにa1社本社に集められ,a1社の専務であるDから,55歳以上になる従業員は退職し,新たに設立される子会社(被告)に転籍してほしい旨を告げられた。原告に提示された転籍の条件は,次のとおりであり,同月25日までに転籍に応じるか否かの回答を求められた。
転籍日時 同年7月1日付け
退職金 平成12年度の基本給×60歳までの勤続月数
給与 年俸制とし,平成12年度の年収の80%を60歳まで支払う。60歳から63歳までは雇用を確保し,転籍時の年収の50%を支払う。
原告は,その後,被告への転籍に同意し,同年7月1日,a1社を退社して,被告との間で雇用契約を締結した(本件転籍)。原告の平成12年度のa1社における年収は,1022万9000円(月額85万2417円)であったが,被告における年収は,この約80%である819万6000円(月額68万3000円)とされた。
原告とともに同日付けでa1社から被告に転籍した従業員は,原告を含めて,9名であった(以下,a1社から被告に転籍した被告の従業員を「転籍従業員」という。)。
転籍従業員は,被告に入社した際,全員がa1社に出向となり,a1社が運営する工事事務所に所属して,工事監理業務等を行った。
(3) 本件賃下げ
ア 転籍従業員9名は,平成14年2月27日,a1社本社に集められ,D専務から,同年4月1日より,その賃金を当時の年収から10%切り下げる旨を通告された。原告は,これに強く反発し,当初の約束を守るべきだと主張したが,被告は,原告の主張を受け入れなかった。
原告の賃金は,同年4月1日,約9%減額されて,746万4000円(月額62万2000円)となった。原告と同時に被告に転籍した他の従業員の賃金も,同様に減額された。
原告は,このころから,被告による賃下げについて,弁護士等に相談するようになったが,訴訟を提起するには至らなかった。
なお,被告は,同年4月1日にもa1社から転籍した5名の従業員を雇用している。
イ 被告は,平成15年3月上旬,転籍従業員全員に対して,電話で,同年4月1日からさらに賃金を5%減額する旨を通知した。
原告は,同日から,賃金を約5%減額され,原告の年収は,709万円(月額59万0900円)とされた。他の転籍従業員の賃金も,同様に減額された。
(4) 本件組合結成
被告は,平成15年6月23日,原告を含む転籍従業員に対して,同年8月1日から年収を原則420万円(月額35万円)にまで減額する旨を伝えた。
原告は,同年7月1日,東京中央労働局に相談に行き,本件賃下げ及びその後予定されている賃下げについて相談した。また,原告は,同月15日,転籍従業員のうち5名とともに,被告に対して説明を求めた。被告は,平成16年7月1日から都市整備公団が独立行政法人となるから,被告の在り方もそれに合わせなければならないなどと説明し,原告に理解を求めたが,原告は,転籍時の約束を守るべきであるとして,これに応じなかった。
転籍従業員のうち,少なくとも8名は,平成15年7月22日,本件組合を結成した。なお,原告と同時期に被告に転籍した転籍従業員のうち原告を除く8名は,いずれも本件組合の役員となっている。本件組合は,同日,被告に対し,団体交渉の開催を申し入れ,要求書を交付して,転籍時にした約束(年収を60歳までは転籍前の80%,63歳までは50%とすること)を遵守することや4社合併問題により引き起こされている雇用不安に対する経営責任を明確にすることを求めた。また,本件組合は,組合ニュース(<証拠省略>)を発行して,組合が結成されたこと,被告に対して団交を申し入れ,要求書を提出したことを記事にした。本件組合に加入しなかった原告も,この組合ニュースを受け取った。この組合ニュースには,本件組合の連絡先として,転籍従業員であるEの氏名が分会長として記載され,書記長として嘱託のFの氏名も記載されていた。
被告は,平成15年8月1日,3回目の賃下げを実施しなかった。
本件組合は,同年9月29日,組合ニュース2号(<証拠省略>)を発行し,被告による本件賃下げ及び賃下げ予告を非難した上で,賃下げを提案するならば経営資料を開示すべきであること,合併後の構想を明確にすべきであることなどを記事に記載した。この組合ニュースには,本件組合の連絡先として,転籍従業員の一人であり,分会長である前示のEの携帯電話番号が記載してあった。
(5) 本件労働協約締結
本件組合は,本件賃下げに強い不満を持つと同時に,今後被告によるさらなる賃下げが行われるか否かや,4社合併に当たって雇用が継続されるか否かに強い関心を持っていたことから,団体交渉において,被告の代表権も有していたa1社代表取締役のBに対して,a1社も参加する形での協約締結を求めた。
本件組合は,平成16年6月15日,被告及びa1社との間で,前提事実(4)記載の内容の本件労働協約を締結し,その中で,「平成16年度については,現行賃金とする。」とする定めが置かれた。
なお,本件組合には,同日までの間に,14名の転籍従業員中原告を除く13名が加入していた。
本件組合は,同月21日,組合ニュース3号(<証拠省略>)を発行し,本件労働協約が締結されたこと,本件労働協約締結後,B社長から謝罪があったことを記載した。原告は,この組合ニュースを見て,本件組合と被告との間で労働協約が締結されたことを知った。もっとも,原告が協定書の内容を知ったのは労働審判申立て後に被告が証拠として提出したときであった。
(6) 原告が勤務した各事務所について
ア 黒川事務所
原告は,転籍してから平成17年11月23日まで,被告からa1社(平成16年7月1日以降はa社)に出向し,川崎市麻生区にある黒川事務所に勤務した。黒川事務所は,都市整備公団(平成16年7月1日以降は独立行政法人都市再生機構)の建物の一角を間借りして使用したものであった。
黒川事務所には,13名が勤務していたが,うち被告から出向していたのは原告及びGのみであり,Gは,転籍従業員でも,本件組合の組合員でもなかった。
黒川事務所では,担当地区内の都市再生機構から請け負った宅地造成,道路舗装,排水工事などの工事監理を行っており,原告は,工事が始まるまでは必要書類のチェックや打合せを行い,工事開始後は,現場における工事監理や品質管理等を担当していた。原告の出退勤管理や具体的な業務指示は,原則としてa1社(平成16年7月1日以降はa社)が行っており,被告は,賃金の支払等に必要な範囲でa1社から報告等を受けていた。
イ 成瀬事務所
原告は,平成17年11月24日から退職するまで,成瀬事務所に勤務していた。成瀬事務所には,原告の外4名の従業員がおり(うち1名はパートタイム),被告の従業員は,原告及びGの2名であった。
原告の成瀬事務所における業務も,黒川事務所在籍時と同様であり,日常的な業務管理は,a社が行っていた。
(7) 原告の残業代請求
原告は,平成17年11月12日,被告に対して,平成13年11月から平成17年10月30日までの時間外割増賃金268万2361円の支払を請求した。原告は,この請求に当たり,労働基準監督署からのアドバイスに従って,割増賃金の時間単価を本件賃下げ後の賃金で計算していた。
被告は,その後,原告に対し,本件賃下げ後の原告の賃金を前提とした額の割増賃金を支払った。
(8) 原告は,平成18年7月4日,満60歳となり,同月31日,被告を定年退職した。
2 本件労働協約の解釈について
前提事実によれば,被告は,平成16年6月15日,本件組合との間で,「平成16年度については,現行賃金とする。」旨の定め(以下この条項を「本件条項」という。)のある労働協約を締結した。そして,前記1認定の事実経過を勘案すれば,本件条項は,本件組合と被告双方を拘束するものであり,本件組合が本件賃下げに同意して平成16年度の賃金を本件賃下げ後の現行賃金とすることを認め,他方,被告が同年度に賃下げを行わないことを約束した趣旨と解するのが相当である。また,本件組合の組合員はいずれも転籍従業員であり,本件労働協約の第1項には「組合員の被告への転籍時」の労働条件についての言及があることからも,本件労働協約は,転籍従業員のみをその対象としたものである。
本件条項は,「a1社は,組合員の被告への転籍時の以下の労働条件が遵守されるよう,被告に対して必要な支援を行っていくものとする。」旨の定めの下に置かれているところ,原告は,①本件条項の内容がa1社を主体とするものであり,明確な基準を定めたものでないから本件条項には規範的効力がないこと,②「転籍時の以下の条件」との記載があるから,「現行賃金」とは,転籍時の賃金の趣旨であること,③転籍従業員には年俸制が採用されており,年俸制の賃金は個別に決定すべきであって,労働協約を適用することはできないことをそれぞれ主張する。
しかし,前記1認定事実によれば,被告は,設立後二度にわたって転籍従業員に対する賃下げを行っており,平成15年8月1日に三度目の賃下げを計画して転籍従業員に通知したものの,本件組合結成後にその実施を取りやめた経緯があり,本件組合には,さらなる賃下げを予防し,4社合併後の雇用及び待遇について確約を得る意図があったと認められるところである。そして,本件組合は,4社合併後も被告が労働協約の条項を守ることの確約を得るため,a1社を巻き込んだ形での労働協約締結を望んだものと認められる。
そうすると,①本件条項が被告による賃下げの予防を目的とする条項である以上,本件条項は被告に対して拘束力を及ぼすことを当然の前提としているものと認められるところであり,組合員らが現実に受領している賃金額と「現行賃金」との文言から明確な労働条件が定まるというべきであるから,本件条項の規範的効力を否定する理由はない。また,②本件労働協約には満60才以降の賃金は「転籍時年収」の50%とする旨の定めがあり,「転籍時年収」と「現行賃金」という文言が明確に区別して使用されている以上,「現行賃金」が賃下げ後の賃金であることは明らかである。さらに,③転籍従業員らの賃金には年俸制が採用されているが,年俸制であっても,労働条件の維持のため,労働協約により一律に労働条件を定める必要性があることはいうまでもないことである。
そうすると,本件労働協約そのものの効力及びその解釈についての原告の上記主張は,いずれも採用できない。
3 本件労働協約の一般的拘束力
以上のとおり,本件労働協約には規範的効力があり,平成16年度の賃金を本件賃下げ後の額とすることを合意するものであるから,仮に原告にこの労働協約の適用があれば,被告の原告に対する平成16年度以降の未払賃金は存在しないこととなる。
もっとも,原告は,本件組合に加入しておらず,本件労働協約の直接の名宛人ではない。そこで,労働組合法17条が「一の工場事業場に常時使用される同種の労働者の四分の三以上の数の労働者が一の労働協約の適用を受けるに至ったときは,当該工場事業場に使用される他の同種の労働者に関しても,当該労働協約が適用される」(いわゆる一般的拘束力が及ぶ)としていることから,原告に対して,本件労働協約の一般的拘束力が及ぶか否かにつき,以下検討する。
(1) 「一の工場事業場」について
ア 労働基準法は,その適用単位として,事業又は事業場を予定しており,この事業又は事業場とは,一定の場所において相関連する組織の下に業として継続的に行われる作業の一体をいうものである。そして,労働組合法17条にいう「一の工場事業場」も,この事業又は事業場を前提としており,「一の工場事業場」とは,原則として場所的観念によって決定され,一個の企業全体ではなく,個々の工場又は事業場を指すものと解すべきである。もっとも,同一の場所にあっても業務・労務管理が独立した部門については別個の事業場として切り離して労働基準法を適用すべき場合があり,他方で場所的に分散している場合であっても,それぞれが一の事業という程度の独立性がないものについては,直近上位の機構が一括して一つの事業場として取り扱われるべき場合もあり得るから,原告が現実に勤務していた事務所が当然に「一の工場事業場」となるものではない。
そうすると,「一の工場事業場」がいかなる範囲であるかは,原告の勤務する事務所等の場所的な要素のみならず,事業場が労働基準法の適用単位であることを前提とした上で,原告及びその他の被告の従業員らの勤務実態,原告及びその他の従業員らと被告及びa1社との間の契約関係,権利義務関係,本件労働協約の趣旨等を総合的に考慮し,労働組合法17条の趣旨に鑑みて決するほかないというべきである。
イ 前記1認定事実によれば,原告は,被告との間で雇用契約を締結し,これと同時にa1社(平成16年7月1日以降はa社。以下a1社と総称する。)に出向して,黒川事務所及び成瀬事務所に勤務している。そして,原告は,被告から賃金の支払を受け,他方で,a1社の事務所に勤務して,a1社の指揮命令の下に業務を行っていたものというべきである。被告は,原告に対する賃金支払に必要な事務を行っており,a1社は,原告の出退勤時間管理など,原告に対して業務命令を行う上で必要な事務を行っていた。また,被告は,a1社との間で出向に関する協定書を締結し,原告を含めた大半の従業員をa1社に出向させ,他方でa1社から出向負担金を受領していたものであり,出向期間や出向従業員の変更については,被告とa1社とが協議することとされ,従業員に出向を継続させるか否かについて,協議してこれを決定することとされていた。
このような事実関係から,出向後の原告と被告との間の権利義務関係を考えると,出向によって原告と被告との雇用契約は終了しておらず,被告は,原告に対して,賃金の支払義務を負っていたものであり,他方で,原告に対する労務指揮権の行使として,a1社の事務所においてa1社の指揮命令に服して労働するように命じたものと理解される。そして,原告は,被告に対して賃金債権を有しているとともに,賃金債権の対価たる労務提供義務も負っていたものであり,a1社における業務の遂行を通じて,被告に対する労務提供義務を履行していたものと理解するのが相当である。
原告とa1社との関係をみると,原告はa1社の規定する労働条件の下,a1社の指揮監督を受けて業務を遂行する義務を負っていたものであるが,a1社が原告に対して賃金支払義務を負わない以上,両者の関係は,原告が現実に業務を遂行することに応じた部分的な法律関係にすぎないものと解すべきである。
ウ 以上を前提とすると,被告は,原告を含めた大半の従業員をa1社に出向させ,a1社の業務を行わせて,他方でa1社から出向負担金を受領していたものと認められ,被告のこのような業務は,相関連する組織の下に業として継続的に行われる作業の一体であって,事業として取り扱われるべきである。また,このような被告の事業は,被告本社で統括していたものと認めるのが相当である。
そして,被告は,原告に対し,本件雇用契約に基づいてa1社において業務を行うことを命じ,原告は,黒川事務所及び成瀬事務所において,a1社の指揮監督下で業務を行うと同時に,被告に対する労務提供義務を履行していたものである。そうすると,原告は,被告から出向を命じられた後も,上記被告の事業に使用されていたものと評価すべきである。そして,このような被告の事業全体からみた場合,原告が勤務していた黒川事務所及び成瀬事務所には,被告の従業員は2名のみしか勤務していなかったものであるから,これら事務所が被告の事業場といえる程度の独立性を有していたとはおよそ認められない。
また,労働組合法17条が労働協約締結の当事者ではない非組合員に対して,労働協約の一般的拘束力を認めた趣旨は,主として一の事業場の四分の三以上の同種労働者に提供される労働協約上の労働条件によって当該事業場の労働条件を統一し,労働組合の団結権の維持強化と当該事業場における公正妥当な労働条件の実現を図ることにあるというべきである(最高裁平成8年3月26日第三小法廷判決・民集50巻4号1008頁参照)。本件においては,被告の従業員の大半がa1社に出向し,その多くが異なる事務所に勤務しているが,その一方で,賃金は被告が決定して各従業員に支給していたものであり,これについて被告の従業員が労働組合を結成し,労働条件の改善を求める必要性は高く,また,これについて統一的な労働条件が適用される必要性は高かったものいうべきである。そうすると,労働協約の規定する労働条件の内容が被告からa1社に委ねられているものでない限り,a1社のいかなる事務所に勤務するものであっても被告本社を「一の工場事業場」として扱うことが,同条の趣旨に合致するというべきである。
以上の事情を総合すれば,労働協約に定められた転籍従業員の賃金が問題となる本件において,原告が所属する「一の工場事業場」は,被告本社に他ならないというべきである。
エ この点,原告は,a1社が黒川事務所及び成瀬事務所において,原告に対して指揮監督を行ってきたことを根拠に,原告の所属する「一の工場事業場」が黒川事務所及び成瀬事務所であると主張する。そして,確かに,これら事務所では,管轄区域内の工事現場の監理等が行われていたもので,その業務は,相関連する組織の下に業として継続的に行われる作業の一体というべきものであるから,これらの事務所がa1社の「事業場」であることは明らかである。
しかし,前述のとおり,原告とa1社との関係は,原告がa1社において業務を遂行することに応じた部分的な法律関係にすぎず,労働協約により決定される労働条件についても,原告とa1社との間では上記の部分に限定された範囲で適用されるにすぎないというべきである。したがって,労働協約の一般的拘束力の適用範囲を考えるに当たっても,原告が所属する「一の工場事業場」が黒川事務所及び成瀬事務所であると解する余地があるか否かは,当該労働協約に定められた労働条件の内容が,原告とa1社との関係で決定されるべきものであるかにより左右されるというべきである。
そこで,本件労働協約をみると,前記2説示のとおり,その内容は,被告における転籍従業員の賃金について規定したものである。前述のとおり,原告の賃金は,被告に支払義務があるものであり,その賃金額についてa1社は何らの決定権もない。そうすると,このような本件労働協約の一般的拘束力については,a1社の事務所である黒川事務所及び成瀬事務所を原告の所属する「一の工場事業場」と解する余地はないというべきである。
したがって,本件において,黒川事務所及び成瀬事務所は原告の「一の工場事業場」とはいえず,原告の上記主張は,採用し得ない。
(2) 労働組合法17条のその余の要件について
上記(1)説示のとおり,本件労働協約の一般的拘束力を検討するに当たって問題となる「一の工場事業場」は,被告の本社であり,前記2説示のとおり,本件労働協約は転籍従業員を対象とするものであるから「同種の労働者」とは,転籍従業員をいうものである。
前記1認定事実及び上記(1)説示によれば,被告本社を「一の工場事業場」として勤務する転籍従業員は,本件労働協約締結時に14名であり,そのうち13名が本件組合に加入していたものであるから,「一の工場事業場に常時使用される同種の労働者の四分の三以上の数の労働者が一の労働協約の適用を受けるに至った」ものといえ,原告はこの「一の工場事業場」に使用されていた非組合員であるから,原告に一般的拘束力を及ぼすにつき,労働組合法17条の要件は満たされているものといえる。
(3) 本件労働協約を原告に適用することが著しく不合理であると認められる特段の事情の有無について
ア 以上のとおり,本件労働協約の一般的拘束力を原告に及ぼすについて,労働組合法17条の要件は満たされているものであるが,このような労働協約であっても,その適用によって未組織労働者にもたらされる不利益の程度・内容,協約締結の経緯,当該労働者が組合員資格を認められているかどうか等に照らし,当該協約を特定の未組織労働者に適用することが著しく不合理であると認められる特段の事情がある場合には,当該労働協約の規範的効力を当該労働者に及ぼすことはできないというべきである(最高裁平成8年3月26日第三小法廷判決・民集50巻4号1008頁参照)。
イ 原告は,本件賃下げにより1か月当たり9万2100円の賃金を減額されており,本件労働協約の適用を受けることによる不利益は甚大であると主張する。
しかし,前記1認定事実及び前記2説示によれば,本件労働協約は,本件賃下げに本件組合が同意するとともに,同年度の賃下げを行わないことに被告が同意したものである。本件労働協約の締結経緯を見ても,被告は,転籍従業員の賃金を平成15年8月1日に原則420万円(月額35万円)にまで減額する旨を通知しており,その下げ幅は,二回の本件賃下げによる下げ幅(合計約14%)を大きく上回るものであった。また,a1社は,都市整備公団の独立行政法人化にともない,平成16年7月1日に4社合併を控えており,本件組合には,4社合併により被告がさらなる賃下げを行うことについての危惧があったものと認められる。このような状況下で,本件組合は,本件労働協約を締結したものであり,被告は,その後,転籍従業員らに対して賃下げを実施していないものと認められるから,本件労働協約には,被告によるさらなる賃下げを予防する効果があったもので,本件組合がその対価として,本件賃下げを受け入れたことにも合理性があったというべきである。
また,被告は,本件労働協約締結後,非組合員である原告に対してもさらなる賃下げを行っておらず,原告が本件労働協約の適用により不利益のみを被ったと認めることはできない。
そうすると,本件労働協約を原告に適用することにより,原告は一定の不利益を被るものと認めることはできるが,その程度は本件組合の組合員と同程度であって,本件労働協約の適用による利益も得ているものと認めるのが相当である。このような事情を総合すれば,原告が本件労働協約の適用により受ける不利益は,合理的でありかつ受認し得る範囲内のものと評価すべきである。
したがって,本件労働協約の効力を原告に及ぼすことが,原告にとって著しく不合理であると認めるに足りる特段の事情はないというべきであり,これに反する原告の上記主張は,採用し得ない。
ウ また,原告は,本件労働協約締結に当たり,本件労働組合に加入する機会や,原告の意思を反映させる可能性がなかったと主張するが,前記1認定事実によれば,原告は,組合ニュースを受け取り,これを通じて,本件組合の分会長の氏名及び連絡先を知ることができたのであり,にもかかわらず,原告が積極的に組合に接触しなかったのは,従業員が各地の工事事務所に勤務していて日常的な接触の機会が少なかったという職場の特殊性に加え,原告自身が外部の労働組合に加入することに違和感があったことによるというのであり(<証拠省略>),原告には本件組合に加入する機会や本件労働協約に自己の意思を反映させる機会は十分に与えられていたものである。したがって,この点についての前記原告の主張は,採用することができない。
(4) 以上のとおり,本件労働協約は労働組合法17条の要件を満たすものであり,これを原告に適用することが著しく不合理であると認められる特段の事情もない。したがって,本件労働協約は,同条により原告に適用されることとなり,前記2説示のとおり,その内容は平成16年度の賃金から本件賃下げの効力に同意するものであるから,平成16年4月以降の原告の賃金額は,本件賃下げ後の額となったと認められる。
4 結論
そうすると,被告には,同月以降,原告に対する賃金の未払はなく,本件賃下げの無効を主張して,平成16年5月分以降の未払賃金の支払を求めた原告の請求は,その余の点を判断するまでもなく,理由がない。
したがって,原告の請求は理由がないから,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 吉田健司 裁判官 貝原信之 裁判官 伏見英)