横浜地方裁判所 平成19年(わ)16号 判決 2007年10月12日
主文
被告人を懲役5月に処する。
この裁判が確定した日から3年間その刑の執行を猶予する。
本件公訴事実中,業務上過失傷害の点は無罪。
理由
【罪となるべき事実】
被告人は,平成18年12月18日午前6時5分ころ,普通乗用自動車を運転し,横浜市保土ヶ谷区今井町<番地略>先道路の第二通行帯を走行中,事故のため進路前方に転倒していた甲野一郎(当時33歳)を衝突直前に認めたが,急制動等の措置を講じる間もなく,自車車底部で同人を轢過し,同人に入院加療約3か月間を要する骨盤骨折等の傷害を負わせるとともに,自車を転倒していた同人運転の原動機付自転車に衝突させて同車を引きずり,同車前部ライト付近を損壊する交通事故を起こしたのに,直ちに車両の運転を停止して同人を救護する等必要な措置を講ぜず,かつ,その事故発生の日時及び場所等法律の定める事項を,直ちに最寄りの警察署の警察官に報告しなかったものである。
【証拠の標目】<省略>
【一部無罪の理由】
本件業務上過失傷害の公訴事実は,「被告人は,平成18年12月18日午前6時5分ころ,業務として普通乗用自動車を運転し,横浜市保土ヶ谷区今井町<番地略>先道路の第2通行帯を戸塚方面から新横浜方面に向かい前方車両に追従して進行するに当たり,前方左右を注視し,進路の安全を確認して進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り,第1通行帯に進路変更した先行車に気を取られ,前方左右を注視せず,進路の安全確認不十分のまま漫然時速約60キロメートルで進行した過失により,事故のため進路前方に転倒していた甲野一郎(当時33年)を前方約16.9メートルの地点に認めたが,急制動等の措置を講じる間もなく,自車車底部で同人を轢過し,よって,同人に入院加療約3か月間を要する骨盤骨折等の傷害を負わせたものである。」というのである。
関係証拠によれば,本件事故現場は,主要地方道市道環状2号線(以下「環状2号線」又は「本件道路」という。)で,道路状況は,戸塚方面から新横浜方面に向かって左から約4.0メートルの歩道,約5.5メートルの合流加速車線,約3.2メートルの第一通行帯,約3.2メートルの第二通行帯,約3.0メートルの第三通行帯となっているアスファルト舗装された片側三車線道路であり,最高速度は時速60キロメートルと指定され,新横浜方面に向かい下り100分の3の勾配がある見通しの良い直線道路で,歩道側に約30メートル間隔で水銀灯が設置されていること,本件事故発生当時は夜明け前であり,天候は晴れであったこと,被告人は,本件事故発生前,職場に出勤するため被告人車両を運転して環状2号線の第二通行帯を戸塚方面から新横浜方面に向け,前照灯をつけて時速約60キロメートルで走行していたこと,甲野一郎(以下「被害者」という。)は,本件事故当日午前6時5分ころ,原動機付自転車(以下「被害車両」という。)を運転して環状2号線の第一通行帯を戸塚方面から新横浜方面に向けて進行中,左側の合流車線から本線へ進路変更しつつ合流してきた乙山二郎が運転する普通乗用自動車に接触されて,その衝撃で第二通行帯上に被害車両もろとも投げ出された(以下「第1事故」という。)後,第二通行帯を走行してきた被告人車両に轢過されたこと,被害者は事故当時,黒色のヘルメットを被り,黒色のスニーカーを履き,紺色のジャンパー,黒色のウインドブレーカーのズボン,黒色革製手袋等を着用していたこと,被害者は,本件事故により多発肋骨骨折,骨盤骨折等の傷害を負ったこと,被告人は,被害者を轢過した後,路上に転倒していた被害車両と衝突し,被告人車両前部で被害車両を引きずり火花を散らしながら約2キロメートルに亘って走行したこと,以上の事実が認められる。
被告人が被害者を轢過する本件事故を惹起したことは明らかであり,本件の争点は,被告人に前方注視義務違反があったか否かにある。被告人が時速約60キロメートルで本件道路を走行していたことから,必要停止距離(緊急事態を認知してから車が停止するまでの距離)は約40.4メートル(空走時間を1秒とした場合。弁1)であり,被告人が本件事故当時,路上に転倒していた被害者を,遅くとも約40.4メートル手前で認識することが可能であったか否かが問題となる。
そこで,検討するに,本件事故状況を目撃していた証人丙川三郎(以下「証人三郎」という。)は,「事故当日,妻の丙川花子を助手席に乗せた車を運転して,側道の地点(甲11の実況見分調書添付交通事故現場見取図におけるもの。以下同様)を通って,環状2号線の本線に合流しようとした。地点で○×1地点に何かがあることが見えていた。地点で○×1地点で人が倒れていることに気付いた。ヘルメットが自分の方から見え,それが起き上がるように動いているのを見て人間だと思った。
上記の証言内容は,両証人が偶然本件事故を目撃したものであり,その視認状況や視認,記銘能力等にも問題がない上,具体的かつ自然で迫真性に富み,信用性を肯定できるものである。
両証人の証言によれば,(1)第二通行帯を走行していた被告人車両の前方に先行車1台が走行していたこと,(2)被告人車両と先行車との車間距離は十分に空いていたこと,(3)先行車は被害者が転倒していた地点の20ないし30メートル手前で緩やかな速度(証人花子によれば,時速20ないし30キロメートル)で第二通行帯から第一通行帯へ車線変更し,そのまま被害者の横を通過して行ったこと,(4)先行車が被害者の横を通過した時点で,被告人車両は被害者が転倒していた地点からかなり手前の地点(証人花子によれば,40ないし50メートル手前の地点)を走行していたこと,(5)被告人車両は被害者を轢過する前に減速していたことを認めることができる。そして,証人花子の証言によれば,被告人車両が減速を始めたのは,被害者が転倒していた位置から20ないし30メートル手前であったことが認められ,この事実からすれば,被告人が被害者が転倒していた位置から20ないし30メートル手前の地点において,進路前方に障害物の存在を認めていたものと考えられるが,この時,被告人が前方の障害物が人であることを認識していたなら,急ブレーキをかけるか或いはハンドルを左右いずれかに切るという行動を取るのが自然であると思われる。ところが,証人花子は「20ないし30メートル手前に来て,緩いブレーキをかけたように見えました。そんなにタイヤの鳴るような急ブレーキじゃありません。」と証言しており,被告人が被害者を轢過するまでに急ブレーキをかけた形跡はない。むしろ,証人花子は,「被告人車両が被害者に当たる直前に(被告人車両の)フロント部分が上がり,フロントが被害者の上に乗った。その様子を見てもうブレーキが間に合わなかったので,被害者に余り負担がないように,うまく乗り上げたと思った。」と証言していることから,被告人は,被害者が転倒していた位置から20ないし30メートル手前においても進路前方の障害物が人であると認識せず,さらに近づいて人であると認識したが,回避することができないまま被害者に乗り上げた可能性を否定することはできない。そして,前記(2)ないし(4)の事実に照らすと,先行車が第二通行帯から第一通行帯へ車線変更して被害者の横を通過し,その後,被告人車両が被害者の転倒していた位置から20ないし30メートル手前に来るまでに数秒間が経過しており,この間,被告人がずっと先行車の動きに気を取られて,進路前方の注視が疎かになっていたとも考えにくい。
ところで,平成18年12月25日午前5時25分から午前6時20分までの間,本件事故現場及び付近一帯で,被告人立会いのもとに被告人車両を使用して実施された実況見分において,本件事故現場の第二通行帯に被告人車両を停車させ,前照灯を下向きの状態で点灯させ,運転席に被告人を乗せ,第二通行帯に黒っぽい服装の警察官を仰向けに寝かせた状態で,被告人の指示説明による見とおし状況についての見分が実施され,被告人は,「①地点から約34.9メートル前方の黒っぽい物体に路面に反射したライトの光が当たり,良好に視認することができた。」,「②地点から約49.2メートル前方の黒っぽい物体が良好に視認することができた。」,「③地点から約65.0メートル前方の黒っぽい物体は見える(なお,乙5の警察官調書では,「目をこらして見たところ,黒い物体があるなぁ程度でした。」と説明している。)」と指示説明している(乙5,甲10)。しかし,「黒っぽい物体」が人であると認識できた地点についての説明はなく,実況見分調書(甲10)に添付されている「①地点,②地点,③地点から黒い物体の見とおし状況」の写真についても,本件事故当時の状況(被害者の服装や向き等)を正確に再現するものではないから,この実況見分の結果によって被告人が本件事故時,路上に転倒していた被害者を,遅くとも約40.4メートル手前で人であると認識することが可能であったことを認めることはできない。このことは甲44の実況見分調書についても同様である。
なお,前記(3)のとおり先行車が車線変更して被害者を回避した事実は認められるが,先行車が車線変更した理由が前方の物体を人であると認識したからとは断定できない。進路上に障害物があれば,これを回避して運転することは,運転者の行動としてごく普通にみられるものである。先行車の運転者が被害者に接近しているとき,いずれかの地点で,路上にあった物体が人であるとの認識に至ったとは考えられるが,それがどの地点であったかは不明である。
結局,被告人が本件事故時,路上に転倒していた被害者を,遅くとも約40.4メートル手前で認識することが可能であったのに被告人が前方不注視のために被害者の発見に遅れて本件事故を惹起した事実は,本件全証拠によるも明らかではなく,その証明はないことになるから,刑訴法336条により被告人に対し無罪の言渡しをする。
【事実認定の補足説明】
被告人は,公判廷において,判示事実について,「黒い物体(落下物)と接触したとの認識であり,人を轢過し,バイクと衝突したとの認識はなかった。」旨述べて事実を否認し,弁護人も被告人の供述を前提として被告人には人身事故を起こしたとの認識がないのであるから無罪であると主張する。
関係証拠から認定できる,①被告人が減速しながら被害者に近づき,被害者に乗り上げたこと,②その直後に路上に転倒していた被害車両と衝突し,被告人車両前部で被害車両を引きずり火花を散らしながら約2キロメートルに亘って走行したことに加え,衝突前には被告人車両の前照灯によって照らし出された路上に倒れている被害者や被害車両を明確に見ることが可能であったと考えられること(甲10の実況見分調書添付図面第1「ヘッドライト下向きの照射範囲」,甲44の実況見分調書添付の写真⑥,⑫)から,被告人には人を轢過し,バイクと接触したとの認識があったことは明らかである。被告人は,捜査段階から一貫して,路上にあった黒い物が人だと認識したことはない,被害車両と衝突し,これを引きずって走行したことにまったく気付かなかったなどと供述するが,その内容は,「バイクとの衝突音や引きずっていたバイクが地面とこすれる音を聞いた覚えはない。」,「火花が散ったとき,少し怖い気がしたのでどこかで止まってみようと思ったが,急に車線変更するのが怖く,周囲の車にも支障を来すと考えて様子をみることにした。」などという余りにも不自然なもので,証人三郎の証言(被告人車両と被害車両が衝突したときガンという大きな音がした,被告人車両が被害車両を引きずっていったときものすごい音で,ガーという音をさせていた。)とも矛盾するものであり,到底信用することはできない。
以上の次第で,関係証拠を総合して,判示事実を認定した。
【法令の適用】
罰条
判示所為のうち 救護義務違反の点平成19年法律第90号附則12条により同法による改正前の道路交通法117条,72条1項前段
報告義務違反の点 平成19年法律第90号による改正前の道路交通法119条1項10号,72条1項後段
観念的競合 刑法54条1項前段,10条(重い救護義務違反の罪の刑で処断)
刑種の選択 懲役刑選択
執行猶予 刑法25条1項
訴訟費用の不負担刑訴法181条1項ただし書
【量刑の理由】
本件は,被告人が普通乗用自動車を運転していた際,接触事故に遭遇して路上に転倒していた被害者を轢過して入院加療約3か月を要する骨盤骨折等の傷害を負わせ,被害者運転のバイクに自車を衝突させる等の交通事故を起こしたのに,救護義務及び報告義務を尽くさずに現場から逃走したという事案である。
被告人は,早朝に車を運転して職場に向かう途上,偶然,交通事故(第1事故)発生現場に行き当たり,路上に転倒していた被害者を回避できずに轢過する人身事故(第2事故)を起こし,そのまま現場から逃走したものであり,第2事故の経緯に酌むべき余地がないとはいえないが,被害者に重傷を負わせて救護することなく立ち去ったことは強い非難に値する。それなのに,被告人は不合理な弁解に終始し,被害者に対する謝罪や慰謝の措置をまったく講じていない。
以上によれば,被告人の刑責を軽視することはできないが,他方で,被告人には古い業務上過失傷害の罰金前科1犯があるのみで,正式な裁判を受けるのは今回初めてであることなど酌むべき事情も存するので,これらの事情をも考慮して,主文掲記の刑を量定し,今回に限り,その刑の執行を猶予し,社会内で更生する機会を与えることとした。
よって,主文のとおり判決する。