横浜地方裁判所 平成20年(わ)2328号 判決 2010年12月22日
主文
被告人を懲役1年に処する。
この裁判が確定した日から3年間その刑の執行を猶予する。
訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
(犯罪事実)
被告人は,平成15年12月6日午前3時57分ころ,業務として原動機付自転車を運転し,神奈川県鎌倉市<以下省略>先の右方に緩やかに湾曲する道路を,自車の後部にA(当時15歳)を同乗させて滑川方面から江の島方面に向けて時速約30キロメートルで進行するに当たり,ハンドルを的確に操作し,進路を適正に保持しながら進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り,ハンドルを的確に操作せず,進路を適正に保持しないで,漫然上記速度で自車を左に傾けながら道路左側端に寄せて進行した過失により,道路左側の歩道縁石に自車左側部を接触させて上記Aが転落を避けようとして左に出したその左足を同歩道に設置された鉄製支柱に衝突させ,同人を自車から落下させて同支柱の鎖に衝突させた上,路上に転倒させ,よって,同人に高次脳機能障害の後遺症を伴う入院加療約210日間を要するびまん性脳損傷,脳挫傷,左下腿骨骨折の傷害を負わせた。
(証拠の標目) <省略>
(争点に対する判断)
第1争点の概要
本件の争点は,公訴提起の適法性(争点1),判示事故時における判示原動機付自転車の運転者は被告人とAのいずれか(争点2),Aの負った傷害は被告人の過失によるものであるか(争点3)である。
弁護人らは,本件公訴提起は無効と評価され違法であると主張するとともに,判示の交通事故(以下「本件事故」という。)時において,判示の原動機付自転車(以下「本件車両」という。)を運転していたのはA(以下「A」という。)であり,かつ,Aの負った傷害は,被告人の過失行為によるものではない旨主張する。
以下,当裁判所の判断を示す。
第2争点1(公訴提起の適法性)について
1 弁護人らの主張の概要
①本件事故後,検察官が平成18年11月30日,被告人に対する業務上過失傷害,道路交通法違反被疑事件(当時)に関し,当時少年であった被告人に対しなした不起訴処分(以下「本件不起訴処分」という。)までの捜査遅延・放置及び証拠の捏造による違法,②本件不起訴処分の全件送致主義違背の違法,③本件不起訴処分後本件起訴に至るまでの期間の捜査放置及び有意な追加的捜査の欠如の違法があること,及びこれら①ないし③の違法な捜査及び違法な本件不起訴処分と連動する形で行われた本件起訴は,④嫌疑なき起訴であり,⑤時効を逃れるための起訴であるから,これら①ないし⑤の事情を総合考慮すると,本件起訴は,故意又は重過失により公訴提起の裁量権を著しく逸脱し,重大な職務違反に該当する極限的な場合に当たることが明らかであり,公訴提起は無効と評価され,公訴棄却されるべきである。
2 ①(当初の捜査遅延・放置)について
(1) 弁護人らの主張
本件事故に関する捜査は,事故直後から本件不起訴処分に至るまでの3年弱の間に,4つの期間に散発的に行われたが,その間最大1年2か月間もの期間が空くなど,合理的な理由がないまま少なくとも2度にわたって放置され,さらには証拠の捏造まで行われており,極めて重大な職務違反が認められる場合に該当するから違法である。
(2) 当裁判所の判断
本件は,Aの事故当時の記憶が喪失し,目撃者もおらず,その上,被告人も本件車両を運転したことを否認し,運転者がいずれであったかの認定に困難が伴う事案であるから,捜査にそれなりの期間を要することはやむを得ない。弁護人らは,被告人が否認していても犯人性を裏付ける客観的な証拠資料を収集すれば足り,また,被害者が存命していない場合等もあるのだから,その記憶喪失は空白期間を正当化する特段の事情にはならないと主張するが,捜査機関としては,被害者死亡の場合と異なり,直接証拠である被害者に記憶回復の可能性があれば,可能な限り記憶回復を待ち,十分捜査を尽くしたいと考えるのは当然である。交通事故等による記憶喪失はある日突然回復することも世上まれではないと思われるところ,Aは,平成17年10月には高校に復学できるほどに回復しており(平成18年11月10日付け総括捜査報告書(弁13)),捜査機関においてAの記憶回復を期待して当然であり,平成18年4月25日にAの記憶が回復していないことが調書化され,被告人が成人となる平成19年○月まで1年を切った平成18年11月ころ,警察から検察庁に事件送致されたと窺われることなどに照らしても,捜査機関が,「少年(被告人)に,家庭裁判所での審判を受ける機会を奪わない」ぎりぎりまでAの記憶回復を待っていたことが十分推測できる。上記4つの期間外に見るべき捜査がなされていないからといって,Aの記憶回復を待つこと自体,意味ある空白期間というべきであって,捜査の長期化には十分合理的な理由がある。なお,弁護人らは,捜査機関が捏造した証拠として,本件事故状況に関する平成18年10月27日付け捜査報告書(甲7号証)を指摘するが,後述のとおり,甲7が事故状況を捏造して作成されたものとは認められず,このほかに,捜査機関が証拠を捏造したとする事実も認められない。
したがって,空白期間があって捜査が長期化したからといって,違法があるなどとはいえない。
3 ②(本件不起訴処分の全件送致主義違背)について
(1) 弁護人らの主張
検察官が,平成18年11月30日,当時少年であった被告人に対しなした不起訴処分は,被告人に少なくとも酒気帯び運転,二人乗り運転という道路交通法違反の嫌疑が存在したことが明らかであり,担当検察官において容易に判断し得たこの嫌疑を見落とすなどしてなされたものであるから,少なくとも当該処分について重大な過失に基づく過誤が存することは明らかであって,本件不起訴処分は全件送致主義に違背し違法である。また,本件不起訴処分が本件公訴事実である業務上過失傷害の被疑事実について嫌疑不十分と判断されたのであれば,それは被告人が運転していたことの嫌疑が不十分であったことを意味するものであり,そうすると,本件はAの無免許運転による自傷事故である反面,被告人にはAの無免許運転の罪について幇助が成立するから,検察官は,無免許運転幇助の非行事実を捜査し,家裁送致しなければならなかったのであり,そのような事件処理が行われていれば,本件起訴がされた可能性はない。
(2) 当裁判所の判断
ア 酒気帯び運転等の不送致の主張について
本件不起訴処分をした検察官は,被告人が,本件事故時に座席後部にAを乗せて原動機付自転車を酒気帯び運転し,事故を起こし,同人に傷害を負わせた業務上過失傷害,道路交通法違反の被疑事実について不起訴処分としたものと窺われる。これに対し,弁護人らが主張する,その事故前に被告人が酒気帯び運転等をしていたことが明らかというのは,その後に,被告人がAと運転を交代し,事故を起こしたのはAであることを前提とするものである。しかしながら,運転交代の事実があれば,被告人の運転交代前・事故前の運転と不起訴処分がなされた事故時の運転(不存在となる。)とは別罪になるから,被告人の運転交代前・事故前における道路交通法違反の嫌疑の存在を見落として本件不起訴処分がなされたからといって,本件不起訴処分が,違法と評価されるものではない。弁護人らは,運転交代前・事故前の酒気帯び運転等を家庭裁判所に送致しなかったことにより,本件事故についても家庭裁判所の審判を受ける機会を奪ったと主張するものと考えられるが,検察官が,仮に,運転交代前・事故前の被告人の酒気帯び運転を立件し,家庭裁判所に送致していたとしても,家庭裁判所で審理されるのは,あくまで事故前の運転であって,その後運転交代の事実があったか否かや事故時の運転については何ら審理されない。
したがって,事故前の酒気帯び運転について家庭裁判所送致しなかったことが,全件送致主義に違背し,事故時の運転,まして業務上過失傷害の事実について被告人の家庭裁判所での審判を受ける機会を奪ったなどとは到底いえない。
イ 無免許運転の幇助の不送致の主張について
被告人に対する業務上過失傷害の被疑事実についての嫌疑不十分の理由が,過失の有無等ではなく,被告人の犯人性についての嫌疑が不十分ということにあったとしても,そのことから直ちに,本件事故時にAが運転していたとか,被告人にAの無免許運転の幇助が成立するという関係にはない(被告人が起訴されている現状に照らせば,不起訴処分をした検察官は,単に,被告人が運転していたとは断定できなかっただけであろう。)。したがって,検察官が,無免許運転幇助の非行事実で捜査し,被告人を家裁送致しなければならなかったとは認められず,被告人の家庭裁判所での審判を受ける機会を奪ったとはいえない。それに,仮に検察官が,Aが運転していて,被告人がそれを幇助したと「誤って」認定し,家裁送致し,被告人がその事実で保護処分を受けたと仮定しても,後日,本件業務上過失傷害罪で被告人を起訴できなくなる(少年法46条1項)とは必ずしもいえない。なぜならば,(誤って保護処分を受けた)無免許運転の幇助の事実と本件業務上過失傷害の事実とは,両立しない関係にはあるが,両者は,その罪質,被害法益,態様等,その主要な犯罪構成要素を全く異にし,公訴事実の同一性を欠くというべきであるからである。
4 ③(不起訴処分後の捜査放置等)について
弁護人らは,平成19年12月に検察審査会に対する申立てが行われた後,追加的な捜査に着手した平成20年9月まで,約9か月間の空白期間があるし,再捜査において,被告人の犯人性(被告人が運転していたこと)に結び付く捜査は全く行われていないから,捜査放置に合理的な理由はなく違法である,と主張する。
しかしながら,仮に捜査の放置があったとしても,その「放置期間」は,被告人が既に成人した後であるから,家庭裁判所での審判を受けさせるべきであるとの要請はないのであり,弁護人らが問題としているような違法はない。まして職務犯罪の一構成要素となるほどの違法があるとは到底いえない。
5 ④(嫌疑なき起訴),⑤(時効回避目的起訴)について
(1) 弁護人らは,本件不起訴処分後,本件起訴に至るまでに,被告人の犯人性を基礎付ける新たな証拠は何ら収集されていないため,本件起訴は嫌疑なき起訴であるが,他の違法と総合すれば,公訴棄却されるべきである,と主張する。
しかしながら,検察官が公訴提起するに当たっては,起訴時における各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば足りると解されるのであり,本件において取り調べた各証拠の内容及び弁護人らの不同意意見により撤回された証拠の立証趣旨等に照らすと,起訴時において,被告人に業務上過失傷害の嫌疑があったことが十分推測できる。確かに,一旦嫌疑不十分として不起訴処分としたのであるから,被告人に対する嫌疑の程度が低いものであったことは否定できないであろうが,不起訴処分の存在及びその後の捜査状況等のみから,本件が直ちに嫌疑なき起訴ということはできない。
(2) さらに,弁護人らは,検察官が,平成22年2月5日に実施された第5回公判前整理手続期日において,B(以下「B証人」という。)に鑑定を嘱託していることを明らかにした上,平成22年3月23日の第6回公判前整理手続期日において,B証人作成の鑑定書(甲29号証。以下「B鑑定書」という。)が証拠請求され,平成22年5月19日に実施された第7回公判前整理手続期日において,C(以下「C証人」という。)作成の交通事故解析書(甲21号証。以下「C解析書」という。)が撤回されたことなどの起訴後の検察官の訴訟活動に照らせば,起訴時において存在した証拠が,被告人の嫌疑を裏付けるものではなかったことが明らかであり,起訴後の補充捜査を実施する意図が透けて見え,公訴時効期間を事実上ないがしろにするための時効逃れの起訴である旨主張する。
しかし,検察官は,弁護人らが,平成21年4月15日に証拠請求されたC解析書について,C証人が本件事故の捜査に関与していたことを理由に,同解析書の作成者としてのC証人の適格性を争っていたことから,本件事故の捜査に関与していない第三者を探していたところ,B証人が見つかったので鑑定嘱託したのである。このようなB鑑定書が証拠請求されるに至った経緯に照らせば,B証人に対する鑑定嘱託がやや遅かったことは否定できないものの,検察官自らがC鑑定書が証拠として採用される見込みがなく,信用性も認められず,公判維持が困難であることを露呈させたことにはならない。したがって,検察官の起訴後の補充捜査をもって,本件起訴が嫌疑なき起訴であり,かつ時効逃れの起訴であるとはいえない。
6 結論
以上のとおり,本件公訴提起は適法であって,故意又は重過失により公訴提起の裁量権を著しく逸脱し,重大な職務違反に該当する極限的な場合に当たらず,公訴棄却すべき場合に該当しないことは明らかである。
第3争点2(本件車両の運転者)及び3(被告人の過失の有無)について
1 争点を判断する上で前提となる事実
関係各証拠によれば,以下の各事実を認めることができる。
(1) 本件事故に至る経緯
被告人(当時16歳)は,平成15年12月5日の夜,自身が所有していた本件車両を運転して,JR・a駅南口で,同級生であったA(当時15歳)と落ち合い,両名は同日夜から翌6日にかけて付近のカラオケ店で飲酒するなどした。本件事故から約1時間半後の飲酒検査の結果,被告人から,呼気1リットル当たり0.3ミリグラム以上のアルコールが検出された。
被告人は,同日午前2時ころ,Aを本件車両後部に乗車させ,両名とも酒気を帯びた状態で,カラオケ店付近から大船方面に向かって出発した。
(2) 本件車両の形状及び運転免許の取得状況等
本件車両は,スクータータイプの車両であり,運転席は腰掛式となっていて,運転者は乗車時ハンドル下のレッグシールド後部の床板上に両足を置く構造となっている。本件車両は,乗車定員が1名であり,後部座席及び同乗者が足を置くためのステップなどの設備はなく,同乗者は運転者の後部の車体にまたがって乗車することになる。
本件車両は被告人の所有であり,被告人は原動機付自転車の運転免許を有していたが,Aは同運転免許を有しておらず,Aに交通違反歴や事故歴はない。
(3) 本件事故現場の状況
本件事故現場付近の道路は,滑川方面から江の島方面(以下「進行方向」という。)に向かって緩やかに右方に湾曲し,同道路左側の歩道は,車道より約21センチメートル高くなっている。同歩道の縁石のやや内側には鉄製の車止め支柱が設置されており,各支柱の間にはそれぞれ金属製のチェーンが張られている。進行方向に進むと同支柱に代わって,ガードレールが設置されている。
(4) 本件車両及び乗員の転倒機序
被告人及びAが,公訴事実記載の日時・場所において,本件車両に同乗して進行中,同車両は,道路左側の歩道縁石に接近した後,車体の左側面下部のサイドカバー等が,上記ガードレールから進行方向反対方面に数えて,4本目と5本目の鉄製支柱付近の歩道縁石側面に約0.8メートルにわたって接触した。
Aは歩道縁石に左足をつき,その際,左下腿部を上記ガードレールから進行方向反対方面に数えて,3本目の鉄製支柱に衝突させ,車体左側に前のめりの状態で転落した。Aは,鉄製支柱の間に張られたチェーンにその胸部付近を強打して路上に転倒した。
本件車両は,Aが転倒した後もすぐに転倒しないで進行方向に移動し続けた後,縁石との接触から6メートル以上離れた地点で左側面を下にして転倒し,さらに,約8.3メートル滑走した。
被告人は,本件車両が停止した地点から,進行方向に向かって約1.7メートル先の路上に転落した。
被告人は,右手首あたりに若干の出血があったほかは,本件事故によって負傷せず,着衣の擦過痕も軽微なものであった。他方,Aは,判示のとおり,高次脳機能障害の後遺症を伴う入院加療約210日間を要するびまん性脳損傷,脳挫傷,左下腿骨骨折の傷害を負った。
(5) 本件事故時における被告人の着衣の状況
被告人は,本件事故時に,淡茶色のコールテンのズボンを着用していたが,同ズボンの右腰部分には,表面に黒系色調の円弧状の痕跡及びその円弧状の痕跡内側に茶系色調の汚れ状の痕跡が認められた。同ズボンの繊維は,生物顕微鏡を用いると白色と観察され,表面が平滑なセルロース系再生繊維である。
一方,本件車両のブレーキオイルタンクキャップには,表面が平滑な白色のセルロース系再生繊維が付着していた。
2 争点2(本件車両の運転者は被告人とAのいずれか)について
(1) B証人の公判供述,B鑑定書の概要(以下,これらを併せて「B鑑定」という。)
B鑑定において,本件事故時に本件車両を運転していた者について,概要,以下のように判断されている。
Aが本件事故時に本件車両の運転席に乗車し,被告人が同車両後部に乗車していたとしたら,Aが左下腿骨を骨折させるほど強く鉄製支柱に衝突させたのであるから,A及び被告人はともに前のめりとなり,被告人は,Aの背中に衝突して同人を押し,ともに進行方向左側に飛び出し,同車両もその場で横倒しになると推定される。また,Aが左下腿部を鉄製支柱に衝突させた際,握っていたであろうハンドルを左に切り,本件車両は進行方向左側に回転して,歩道縁石側面に衝突するはずである。
他方,被告人が本件事故時に本件車両の運転席に乗車し,Aが同車両後部に乗車していたとした場合,同人が鉄製支柱に左下腿部を強く衝突させ,同人は同車両後部に座っており,掴む物がないことから,同人のみが,同車両後部からすぽっと抜けるような格好で縁石の方向に落下して転倒すると考えられる。Aが本件車両から落下する際,同人の右足で同車両を左側に押したため,同車両はバランスを崩し,左側面を下に転倒し,被告人を乗せたまま,進行方向に滑走する。本件車両が停止したため,被告人は,前のめりになって同車両の前方に飛び出し転倒した。
以上の事実から,本件車両を運転していたのはAではなく被告人だと認められる。
さらに,被告人の着用していたズボンに付着した痕跡は,同ズボンの右腰前部分が本件車両のブレーキオイルタンクキャップと強く接触した際に印象されたと認められるが,このような痕跡は,同車両の前席にいた者しか付着できないので,上記結論を後押しする付加的な事情といえる。
(2) B鑑定の信用性
ア B証人の鑑定能力,公正さ
B証人は,タイヤの構造力学,運動力学及び自動二輪車を含む交通事故解析科学等に関する専門家であり,これまでに300件以上の交通事故に関する鑑定を行うなど,交通事故の解析,鑑定に関し,豊富な経験・知識を有すると認められる。
イ 鑑定手法等
B証人は,実況見分調書や写真撮影報告書などの客観的な資料に基づき,被告人,A及び本件車両の各転倒状況・位置,同車両と縁石との接触位置,被告人及びAの負傷状況等の各事実を確定させた上,本件事故時にAが同車両の運転席に座っていた場合と同車両後部に座っていた場合とをそれぞれ仮定し,被告人とAのいずれが本件車両を運転していたかについて検討するとの手法を採用している。つまり,Bの鑑定手法は,客観的事実を確定した後,Aが本件事故時に着座していた位置として考えられる可能性を検討した上で,Aが運転席に座っていたとしたら,上記各事実と矛盾する一方で,Aが同車両後部に座っていたとしたら,上記各事実を整合的かつ連続的に説明できるとして上記結論に至ったのであって,その鑑定手法及び物理法則への客観的事実の当てはめは合理的かつ明快なものといえる。
また,B証人は,上記鑑定手法に則り,本件車両の転倒状況・衝突形態,被告人及びAの負傷状況及び被告人及びAの転倒位置の3点を重視し,それら3点に関する客観的状況を前提とし,上記(1)の結論を導いている。このような検討経過にも合理性が十分認められる。
ウ 結論
以上から,B証人には本件事故時における運転者を判断する経験・能力が十分備わっている上,本件鑑定に用いられた鑑定手法も合理的なものと評価できることから,B鑑定は十分に信用することができる。
(3) B鑑定の信用性,本件事故時の運転者に関する弁護人らの主張
ア 弁護人らの主張の概要
弁護人らは,B鑑定書の証拠能力及びB鑑定の信用性はないとして論難するとともに,本件事故時の運転者はAであることに関する事情として,様々な主張をしている。本件事故時の運転者はAであることを基礎付けるとして弁護人らが主張する事情は,B鑑定の信用性等に密接に関連すると思われ,それぞれに重複する部分も見受けられるので,以下で併せて検討することにする。
イ B証人作成の鑑定書の証拠能力,信用性について
(ア) 弁護人らの主張
B証人は,複数の証拠のうち,特定の証拠だけを取り上げ,その他の証拠を排除しており,また,捜査機関の把握した現場痕跡等を無批判に受容しており,特に,多数の客観的証拠と矛盾する捜査報告書(甲7号証)を盲目的に評価するなど,中立性客観性に欠ける。また,鑑定手法自体も,その推定は不正確かつ非科学的で客観的な状況と明らかに矛盾する。
(イ) 当裁判所の判断
上記(2)イ記載のとおり,B鑑定においては,B鑑定書の鑑定資料の項目に記載された各証拠(概ね,本件において検察官が証拠請求する証拠と重複する。)を検討の上,本件車両の転倒状況・衝突形態,被告人及びAの負傷状況,被告人及びAの転倒位置の3点の事情を中心的に抽出し,これらの事情を物理法則に当てはめ,上記結論に至ったのである。B証人がこのような鑑定手法を採用した理由は,客観的に動かし難い事実を鑑定の基礎に用いることによって,より確度の高い結論を導こうという意図があるものと推察される。したがって,B証人が,特定の証拠だけを排除し,捜査機関の把握した現場痕跡等を無批判に受容したとはいえない。
また,鑑定時には本件事故から6年以上経過しており,B証人が,本件事故時における被告人及びAの身長・体重・座高,本件事故現場の状況等を実際に確認することはおよそ不可能であり,その代わりに,検察官から提供された本件事故に関する各証拠を吟味したのである。B証人の鑑定に対する姿勢・態度にも問題は見られない。
さらに,B証人は,甲7号証の捜査報告書のみをもって,同人が重視すべきとする3点の事情を確定させたのではなく,その他の鑑定資料も含めて総合的に判断して確定させたことは,同人作成の鑑定書及び同人の公判供述から明らかである。弁護人らは,上記捜査報告書について,Aの左下腿部が衝突した金属支柱及び同人が胸部をぶつけたチェーンの各位置等に関して矛盾があり,証拠の捏造がなされた旨主張するが,Aの左下腿部が金属支柱に衝突するなどした時も本件車両は走行し続けていたこと等に鑑みれば,上記捜査報告書の写真間に矛盾があるとは認められず,他の証拠との齟齬も特段認められない上,捜査機関が本件事故における衝突状況及び転倒状況について,殊更捏造したとの事情も窺われない。しかも,B証人は,当公判廷において,Aの左下腿部が衝突した金属支柱及び同人が胸部をぶつけたチェーンの各位置は,B鑑定の結論に影響を与えない旨明確に証言している(同人の証人尋問調書65頁)。弁護人らの主張は当たらない。
このほか,弁護人らは,B証人の用いた鑑定手法が,その推定は不正確かつ非科学的と批判するが,上記(2)で用いられた鑑定手法は,同人の豊富な知識・経験に裏打ちされた,十分信用できるものといえる。
ウ A及び被告人の転倒態様について
(ア) 弁護人らの主張
B証人は,Aが,本件事故時に運転席にいた場合,「運転者は,ハンドルを握っていることから,運転者の足が支柱に強く当たった場合,車両は左に回転し,車両は縁石に衝突する。」旨述べるが,Aの左足は,本件車両を引きずるだけの力で鉄製支柱に固定されている訳ではないから,車両を左回りに回転させ縁石に衝突させることは不可能である。Aが本件事故時に本件車両後部に座っていた場合,警察官らが想定したように,Aが運転者である被告人を掴んでいなかったとすると,身体の重心が後方にかかることや,そもそも車両に対する拘束力が緩いことなどから,左下腿部を金属支柱に衝突させることによって,後頭部から仰向けに落下することは避けられず,また,Aは両足で本件車両を挟み込む形で乗車し,前方は被告人で塞がれているのであるから,同車両の進行方向左側に転倒することは極めて困難である。
また,同車両が左側を下にして転倒した後,被告人を乗せたまま,進行方向に滑走したとの推論は,被告人の転倒滑走姿勢や傷害部位等からして明らかに不自然である。
(イ) 当裁判所の判断
B証人は,当公判廷において,「Aの左下腿部が金属支柱に衝突すると,同人の上半身は,それまで行っていた運動,つまり本件車両の進行方向への移動を続ける一方で,左下腿部が金属支柱に衝突した点,つまり同車両の左側に作用点が生じるので,同作用点を中心にして,金属支柱の方向(左側方向)に回転しながら前のめりにつんのめるという現象が生じる。」「本件車両は不安定な状態で走っているから,運転者は,ハンドルをしっかり握っているはずであり,ハンドルは急激に左に切られ,本件車両は縁石,支柱の方向に向かい,歩道方向に突っ込んで乗り上げるなどする。」旨供述している(同人の証人尋問調書11頁以下,15頁以下)。Aが運転者であったと仮定した場合,本件車両が左回りに回転し,縁石等に衝突したはずであるというのは,Aの足の力によるものではなく,ハンドルが左に切られるからである。このようなB証人の供述は,その豊富な経験・知識に基づくものであり,物理法則にもかなったものといえる。弁護人らの前段,中段の主張は採用できない。
また,B証人の公判供述によれば,車両が転倒した後,運転者を当該車両に乗せたまま滑走した事例も幾つか存在することから(同調書67頁),その際の被告人の姿勢はつまびらかにはなっていないものの,本件車両が転倒後に被告人を乗せたまま滑走し,被告人が本件車両から右側を下にする形で落下しても何ら不自然ではない。
弁護人らの主張は,いずれもB鑑定の判断に関する信用性を覆すに足りるものではない。
エ A及び被告人の傷害部位について
(ア) 弁護人らの主張
Aは右前頭部に約3センチメートルの切創様の挫創を負っているが,このような傷害が生じる可能性があるのは,Aの転倒場所付近では,1本目の金属支柱か縁石に衝突させた場合しかない。B証人は,Aが路面に頭部を打ちつけたような供述をするが,上記負傷状況に反するものであり,信用性できない。そして,Aは,ガードレールから進行方向反対方面に数えて1本の金属支柱とチェーンにほぼ同時に衝突したと考えるのが合理的であり,Aが本件車両の左前方に放出されたことは明らかである。
また,仮に被告人が本件車両を運転し,同車両が転倒した後,被告人を乗せたまま,進行方向に滑走したと仮定すると,被告人も同車両とともに,左半身を路面に擦りつけるはずだが,被告人の身体の左側には着衣を含めて何ら擦過痕が存在しない。したがって,被告人が本件車両を運転していたとの主張は,被告人の負傷状況とも矛盾するものである。
(イ) 当裁判所の判断
医師の作成した診断書(甲15号証)によれば,Aは,右前頭部挫創を負ったことが認められるが,同傷害が生じる可能性について,弁護人らの主張するように,上記1本目の金属支柱か縁石に衝突させた場合しかないと即断することはできず,弁護人らの前段の主張に与することはできない。
さらに,本件車両が左側を下にして転倒した後,被告人を同車両に乗せたまま,進行方向に滑走し続ける際,被告人が本件車両の右側に乗りあがる姿勢で滑走し続けることも考えられるので(Bの証人尋問調書52頁),B鑑定が述べる本件車両の転倒後の被告人の挙動と被告人の身体の左側に擦過痕等が存在しないことは特段矛盾するものではない。
オ Aが本件事故時に履いていた左靴の底面に付着していた黄色塗料及び事故回避行動について
(ア) 弁護人らの主張
Aが本件事故時に履いていた左靴の底面から黄色塗料が発見されているが,これは,Aが縁石上に左足をつき,踏ん張ったことによるものである。ところで,本件車両のような原動機付自転車を運転し,車両を停止させるためには,運転者が片足を路面に接触させバランスをとる必要があり,車両の構造上も,運転者が足を路面に接触させやすいように設計されている。また,車両のバランスが崩れた場合,まずバランスを立て直そうと努力するのは運転者である。本件事故においては,ブレーキやハンドル操作による事故回避行動がなされておらず,唯一事故回避行動と評価し得るのは,Aの上記行動のみである。B証人の主張するように,仮に,Aが本件車両後部に着座し,被告人が運転していたのであれば,運転者でないAのみが事故回避行動をとっていることとなり,不自然である。したがって,Aが縁石上に左足を接触させ,踏ん張ったことは,Aが,本件事故時に本件車両を運転していたことを裏付けている。
(イ) 当裁判所の判断
弁護人らが指摘し,B証人も供述するとおり,原動機付自転車に二人乗りした場合,事故を回避するための行動を第一義的に行うのは,運転者であろう。しかし,そのことは,後部に着座している者が,転倒等の回避行動を一切とらないということまで意味するものではない。そして,本件車両の後部から,地面までの高さからすれば,同車両後部に着座していたとしても,事故を回避するため,高さ約21センチメートルの歩道縁石上に左足をつくことは十分に可能である。これは,本件事故現場において,本件車両後部に座った者から同縁石上に左足を接触させた写真(甲7号証添付の写真③)からも明らかである。
また,本件車両が歩道縁石に接近してから,同車両が停止した地点までの間隔は二十数メートルであって,しかも,被告人は,本件事故当時,少なくとも呼気1リットル当たり0.3ミリグラム以上のアルコールを保有する状態であり,しかも酒を飲みすぎた旨自認していることから,被告人の認知・判断能力は一定程度減退していたことが窺われる。このような事情に照らすと,被告人が咄嗟に事故回避行動を行うことが困難な状態にあった可能性があり,運転者ではないAのみが事故回避行動をとっていても特段不自然とはいえず,弁護人らの上記主張によっても,B鑑定の信用性は覆らない。
カ 本件車両のプーリーカバーに付着した被告人由来の繊維について
(ア) 弁護人らの主張
本件車両の左後部に設置されたプーリーカバーには,表面が平滑な白色セルロース系再生繊維が付着していたところ,かかる繊維片は,本件事故時に付着したものである。この事実は,被告人が本件車両の後部に座っていたことを示すものである。
(イ) 当裁判所の判断
表面が平滑な白色セルロース系再生繊維との点で,被告人が本件事故時に着用していたズボンの繊維と符合するものの,だからといって,上記プーリーカバーに付着していた繊維片が同ズボンに由来すると断定することは困難である。その上,仮に,上記プーリーカバーに付着していた繊維片が同ズボンに由来するとしても,同プーリーカバーから上記繊維片が発見されたのは,本件事故から1年以上経過した平成17年4月から同年6月ころと相当期間が経過していたことから,同繊維片が本件事故時に付着したと断定することもできない。
したがって,弁護人らの上記主張はその前提自体に問題があるといわざるを得ない。
キ 血痕について
(ア) 弁護人らの主張
本件車両には,フェンダー前部,ハンドル下部など同車両の前部を中心に血痕が付着しているところ,被告人は軽傷しか負っていないので,この血痕は,本件事故時にAの血液が飛散して付着したものである。この事実からは,本件事故時にはAが運転席に着席していたことは明らかである。
(イ) 当裁判所の判断
本件車両の状況を撮影した写真,当公判廷における本件車両自体の証拠調べにおいても,本件車両に大量に血痕が付着したことまでは認められない。しかも,本件車両には二人乗りするための設備がないので,同車両に二人乗りした場合は,被告人及びAの身体が相当密着していたと思われ,さらに後述のとおり,本件事故時に本件車両は時速約30キロメートルで走行していた。したがって,Aが本件車両後部に着席していたとしても,同人が左下腿部を鉄製支柱に衝突させた際などに,本件車両の前部付近に血痕を付着させることは不可能とはいえない。
ク Aの運転動機について
(ア) 弁護人らの主張
Aは,被告人と遊ぶ度に本件車両の運転を熱望しており,その要望は熱心かつ執拗であって,被告人が過去に2回ほど本件車両の運転をAにさせたのも,その要望に根負けしたからであった。本件事故前も,Aは本件車両の運転を殊更熱心に望んでいた。したがって,Aには本件車両を運転する動機がある。
(イ) 当裁判所の判断
本件事故直前にAが本件車両の運転を切望していたか否かは,関係各証拠からは必ずしも明らかではないが,仮に切望していたとしても,そのことから直ちにAが本件事故時に本件車両を運転していたということは認定できない。
ケ 小括
以上のとおり,上記イはB鑑定の信用性を論難し,上記ウからクまでは,主として,B証人作成の鑑定書で明示的に考慮されていない事情から,B鑑定の結論は誤っていると述べるものである。しかし,上記イによっても,B鑑定の証拠能力及び信用性は減殺されることはなく,上記ウからクまでの主張にそれぞれ与することができないのは上述のとおりである。さらに上記イからクまでの各主張に加え,その他弁護人らが縷々主張するところを総合的に踏まえても,個々の客観的事実を連続的かつ合理的に説明しているB鑑定の信用性に疑義を差し挟む余地はない。したがって,B鑑定書の証拠能力が認められるのみならず,B鑑定の信用性は十分に認められる。
なお,B証人は,被告人が本件事故時に着用していたズボンの右腰前部分が本件車両のブレーキオイルタンクキャップと強く接触したとの事実が認められることをも踏まえて,前記結論を導いたと思われる。しかし,同ズボン右腰前部分及び本件車両のブレーキオイルタンクキャップからは,それぞれ表面が平滑な白色のセルロース系再生繊維が検出されたに過ぎず,本件車両の保管状況,いかなる態様で右腰前部分が同キャップに接触したかが明らかではないことなどを併せ考慮すれば,同ズボンの右腰前部分が本件車両のブレーキオイルタンクキャップと強く接触したと断定することはできず,その可能性があるにとどまるというべきである。しかし,B証人と当裁判所とで,前提とする一部の事実認定の確度に違いがあったとしても,B証人は,同事実を除外しても,B鑑定の結論に達すると明確に証言している(同人の証人尋問調書67頁)。よって,B鑑定の信用性についての判断が揺らぐことはない。
(4) 結論
ア 本件事故時における本件車両の運転者は被告人であること
前記のとおり十分に信用できるB鑑定に加え,本件車両は被告人の所有であったこと,被告人は,少なくとも本件事故前までは,Aに本件車両を運転させることに消極的だったことを自認していること,被告人が原動機付自転車の免許を取得していたのに対して,Aは同免許を取得していなかったことなどの事実は,B鑑定の結論と矛盾しないものである。
以上の事情を総合考慮すれば,本件事故時における本件車両の運転者は被告人であることが優に認められる。
イ 弁護人らの主張
弁護人らは,上記アの推認過程等に関して,検察官による重要な間接事実の変遷等の主張をするので,以下検討する。
(ア) 検察官による重要な間接事実の変遷
a 弁護人らの主張
弁護人らは,検察官が,公判前整理手続において,本件車両のハンドルを右側に切った事実を本件車両の転倒原因と主張していたにもかかわらず,冒頭陳述においては当該事実を主張しなかったことは,検察官が本件車両の転倒原因という最も基本的な事実について,その主張を何の前触れもなく撤回したことを意味し,公判前整理手続の意義を失わせ,憲法31条,37条に違反する旨主張する。
b 当裁判所の判断
しかし,公判前整理手続においても,検察官が本件車両のハンドルを右側に切った事実は訴因に含まれる事実ではなく,これのみを本件車両の転倒原因と主張していたものでもない。しかも,冒頭陳述は,裁判所に審理方針及び証拠の関連性などの判断資料を提供するとともに,被告人側の防御の便に資するものであるが,証拠によって証明すべき事実全てを仔細に述べる必要まではないのであるから,検察官が冒頭陳述において,ハンドル操作を誤ったとのみ主張し,その具体的な態様について主張しなくても,本件車両のハンドルを右側に切った旨の主張を撤回したことにはならない。なお,公判前整理手続においては,同整理手続が終了した後には,やむを得ない事由がない限り証拠請求をすることができない旨明文の規定がある一方(刑訴法316条の32第1項),十分な争点整理・証拠整理を行うという同手続の趣旨・目的やその実効性担保のために主張明示義務,証拠調べ請求義務,さらには上記立証制限が設けられたことに照らすと,同手続終了後の主張の変更等は差し控えるべきではあるものの,その義務を担保するための主張制限の制度は明文上設けられていないのであるから,検察官が仮にハンドルを右側に切ったとの主張を撤回したとしても,何ら違法ではない。
以上の事情からすれば,検察官が前触れもなく事実を撤回したとはいえず,まして,弁護人らが主張する憲法31条,37条に違反する事情があるとは到底いえない。
(イ) B鑑定と検察官が主張する立証構造との関連性
a 弁護人らは,本件のような間接事実からの犯人性推認は一般的経験則を前提とする法律的な事実認定作業であって,専門的経験則からなされる事実認定と異なるので,鑑定になじまず,B鑑定に記載された意見は,単なる検察官の推認の参考としての意見に過ぎない旨主張する。
b 当裁判所の判断
本件の公判前整理手続における証明予定事実の提示において,検察官は間接事実型の立証構造を示したが(平成21年5月29日付け証明予定事実記載書(2)),その中でもっとも推認力が強いとされた間接事実は,本件車両及び乗員(被告人とA)の転倒機序だと見受けられる。そして,かかる間接事実の推認力を物理学上,運動力学上どのように判断すべきかについて,特別の知識経験を用いて検討したのがB鑑定である。したがって,本件においては,本件事故時における運転者の特定という争点を判断する上での重要な間接事実(本件車両及び乗員の転倒機序)の推認力を判断する上では,専門的経験則からなされる認定を要するものといえ,弁護人らの上記主張は当たらない。
(5) 被告人の公判供述について
ア 被告人の公判供述の概要
私(被告人)は,Aを本件車両後部に乗車させ,JR・a駅付近を出発した後,Aから何度も同車両を運転させてくれと頼まれ,当初は断っていたが,最終的にはAと運転を交代し,私が同車両後部に座った。その後,Aが本件車両を運転していたところ,本件事故が発生した。まず,最初にAが本件車両から転落した後,私は本件車両から進行方向に時速約40キロメートル前後で投げ出され,路面に右腕から落下した。
イ 被告人の公判供述の信用性
被告人は,本件事故前から,Aには本件車両を安全に運転する技術がないと考え,Aが運転する本件車両後部に同乗したことはなかった旨自認している。しかも,本件事故発生日は,被告人,Aともに酒を飲み,被告人から見ると,自身よりAのほうが酔っているとも感じていたというのである。そのような状況の中で,Aに本件車両を運転させ,自身が同車後部に同乗することは考え難いというほかない。被告人は,Aに本件車両を運転させた理由も特段存在しないと述べるが,それにもかかわらず,Aに本件車両を運転させたとする供述は不自然である。
また,被告人が述べる本件車両からの転倒機序は,信用できるB鑑定に反することに加え,時速約40キロメートル前後で投げ出され,路面に右腕から落下したとの被告人が述べる本件車両からの転落態様と,右手首あたりに若干の出血があったほかは,本件事故により負傷せず,着衣の擦過痕も軽微なものであったとの被告人の傷害の有無及び程度は明らかに矛盾するものである。
以上によれば,被告人の上記供述は信用できない。
ウ これに対して,弁護人は,被告人が捜査段階から一貫して犯人性を否認していること,本件事故前後の状況について反対尋問にも崩れていないこと,本件事故直前の乗車姿勢について具体的に供述しており,実際に経験していなければ供述し得ないものであること,虚偽供述の動機に乏しいこと等から,被告人供述は信用できる旨主張する。
しかし,捜査段階から公判廷に至るまで供述内容が一貫していることをもって直ちに被告人供述が信用できるということにはならない。また,Aと二人乗りをしたときの姿勢については,なるほど具体的で詳細な供述といえるが,被告人は,本件事故時以前にAと本件車両に二人乗りをしたことがある旨供述していることからすると,被告人が供述するところの二人乗りの状況が,まさに本件事故直前の際の乗車状況のことであるとまではいえず,したがって,この供述が具体的かつ詳細であることをもって,犯人性を否定する被告人供述の信用性が認められるとはいえない。虚偽供述の動機については,当時16歳の被告人が,飲酒運転の上,重大事故を起こして気が動転し,怖くなって一旦嘘をついたため,その後真実を言い出す切っ掛けが掴めないまま本日に至ったとか,被告人とAとの間の民事関係の結論に影響し得ることなど,幾らでもある。
したがって,弁護人の主張は採ることができない。
3 争点3(過失行為,因果関係等)について
(1) 本件事故時における本件車両の速度
ア C証人の公判供述,C証人作成の交通事故解析書(甲14)の概要(以下,これらを併せて「C解析」という。)
C解析において,本件車両が歩道縁石に接触する時点での走行速度は,時速約30キロメートルであると判断された。
イ C解析の信用性
C証人は,警察に約25年ほど勤務する警察官であり,複雑・難解なものを含む交通事故の鑑識活動を指導するなど,交通事故の解析に関する専門家であり,これまでに交通事故時における車両の速度解析を四,五十件ほど経験するなど,速度解析に関する専門知識・経験を有する者といえる。
C解析では,本件車両が左側を下にして転倒する直前の速度については,事故現場に痕跡のあった本件車両と路面との擦過痕約8.3メートルをエネルギーの算出式に代入して,時速約30キロメートルと導き出すことができると述べられているが,その時点から遡って,本件車両が歩道縁石に接触する時点での走行速度は直接には求められないとする。しかし,Aが歩道縁石に左足をついたこと,ブレーキ痕が見受けられないことなどを踏まえ,結論として,本件車両が歩道縁石に接触する時点での走行速度は時速30キロメートルと大きく違わないと判断した。このように,C解析は,本件事故現場の擦過痕等の客観的事実を基に算出されたものであり,その鑑定手法も合理的なものといえる。
以上によれば,C解析は十分信用することができる。
ウ 弁護人らの主張
これに対して,弁護人らは,C解析の証拠能力及び信用性はいずれも否定されるなどと主張している。
(ア) 証拠能力
a 弁護人らは,C証人は,本件事故に関する捜査に当初から関わってきた捜査の中心人物であり,客観的中立性に欠けるので,刑訴法321条4項の要件を具備しない旨主張する。
b しかしながら,捜査機関の人的資源には限界があることから,事件の当初から捜査に関わった者が,その後に当該事件に関する鑑定等に携わることも十分ありうる。同証人も,本件以外にそのような経験を有することを自認している(同人の証人尋問調書30頁)。このような事情を踏まえると,鑑定人としての客観的中立性が問題となり得るのは,当該事件の捜査の初期段階から関わることで,当該事件に関する予断や偏見を持つことであろう。しかし,C証人は,上記のとおり,客観的事実を物理法則に当てはめたのであって,そこに予断や偏見は窺われず,その他に,同人の客観的中立性を疑わせる事情は見当たらない。
したがって,C証人が当公判廷で尋問を受け,甲14号証が真正に作成されたものであると供述していることから,同解析書に証拠能力が認められることは明らかであり,弁護人らの主張は採用できない。
(イ) 信用性
a 弁護人らは,C解析において使用されたエネルギーの算出式について,停止距離を代入すべきところを,擦過痕8.3メートルを誤って代入しているので,C解析には信用性がない旨主張する。
b しかし,上記エネルギー算出式は,車両が路面と擦過することによりエネルギーが消費されて停止するという現象に基づくものであるので,代入すべき数値は擦過痕だと考えられる。
したがって,C解析において,誤数値が代入されたとは認められない。
(ウ) このほか,弁護人らは,検察官が主張する過失行為は,ハンドルを的確に操作せず,進路を適正に保持しないで,本件車両を左に傾けながら道路左側端に寄せて進行したことであるから,問題になる速度は,左側端に寄せた際の速度であって,転倒時の速度ではないところ,C解析においては,左側端に寄せた際の速度は明らかにされていないから,過失行為時の速度が立証されていない旨も主張している。
しかし,本件車両は,道路左側端に寄って歩道縁石に接触して間もなく転倒したのであるから,左側端に寄って歩道縁石に接触した際の速度と転倒した際の速度が大きく異なることはないといえる。
したがって,弁護人らの主張は採用できない。
(2) 過失行為
ア 弁護人らの主張
本件事故時に,本件車両が左傾して走行していた事実はない。また,本件事故時において,本件車両は歩道縁石から約30センチメートル離れたところを走行していたが,道路が渋滞などしている場合には,歩道縁石との間隔が30センチメートルの場所を走行することが可能であり,当該行為自体には事故や接触の危険性が認められないことから,客観的注意義務自体も認められない。
イ 当裁判所の判断
前記1及び2で認定した事実によれば,被告人が,Aを本件車両後部に同乗させて進行中に,同車両を道路左側の歩道縁石から約30センチメートルほどまで接近させ,車体の左側面を歩道縁石側面に約0.8メートルにわたって接触させた後,Aが歩道縁石に左足をついたと認められる。このような経緯からすれば,その角度はさておくとしても,Aが歩道縁石に左足をついた際に,本件車両が左傾していたことは認められる。そして,Aが歩道縁石に左足をついた地点から,本件車両が歩道縁石に接触し始めた地点までの間隔はわずか数メートルに過ぎず,かつ,本件車両が時速約30キロメートルで走行していたことを併せ考慮すると,Aが歩道縁石に左足をついた地点から遡って,車両が歩道縁石に接触し始めた際に,本件車両が左傾していたと考えて間違いはないというべきである。
弁護人らの後段の主張は,渋滞した道路を原動機付自転車が走行することが前提とされており,その場合は,当該車両は徐行ないし低速度で走行することが想定される。しかし,本件車両は,本件事故の際,原動機付自転車の制限速度である時速約30キロメートルで走行していたのであるから,弁護人らの上記主張は,その前提において失当というべきである。
(3) 因果関係
ア 弁護人らの主張
Aの頭部負傷結果(びまん性脳損傷など)について,同人が本件車両から転落した際の姿勢,頭部をどこにぶつけ,いかなる経過で発生したのかなどが明らかではないので,同人の頭部負傷結果に関する因果関係が特定されておらず,その立証も成功していない。さらに,Aは,自らの意思で歩道縁石に左足をついたのであるから,同人の自過失があるといえる。
イ 傷害が生じるに至るまでの仔細な因果の経過が明らかにされなければ,刑法上の因果関係が認められないなどとはいえないところ,本件事故前においてはAが判示の各傷害を負っておらず,本件事故により,同人の左足を鉄製支柱に衝突させ,同人を鎖に衝突させ,路上に転倒させたため,上記傷害が発生したことは明らかであるから,因果関係は認められる。弁護人らの前段の主張は当たらない。
また,これまでに認定した各事実によれば,時速約30キロメートルで走行していた本件車両が,歩道縁石に接触したこと,Aは左足を歩道縁石についたことは明らかであるところ,相当程度で走行中の原動機付自転車から,理由もなく,足を歩道縁石の上につくことは通常考えられないから,Aは,本件車両が歩道縁石に接触してバランスを崩したために,そのバランスを立て直そうとしたものと認められる。したがって,Aの自過失があるとの弁護人らの主張に与することはできない。
4 結論
以上の次第であって,本件公訴提起は適法であるだけでなく,被告人が本件車両を運転していたとの上記犯罪事実も優に認められ,被告人には業務上過失傷害罪が成立する。
(法令の適用)
適用罰条 刑法6条,10条により,平成18年法律第36号による改正前の刑法211条1項前段
刑種の選択 懲役刑を選択
執行猶予 刑法25条1項
訴訟費用 刑訴法181条1項本文(全部負担)
(量刑の事情)
1 本件は,被告人(当時16歳)が,原動機付自転車を運転し,その後部に友人(当時15歳)を同乗させて道路を進行していた際,ハンドルを的確に操作し,進路を適正に保持しながら進行すべき注意を怠り,自車左側部を歩道縁石に接触させて,同人が転落を避けようとして出した左足を鉄製支柱に衝突させ,同人を自車から落下させて同支柱の鎖に衝突させるなどして,同人に高次脳機能障害の後遺症を伴う入院加療約210日間を要する傷害を負わせた業務上過失傷害(当時)の事案である。
2 被告人は,原動機付自転車を運転する際に,進路を適正に保持するという基本的,初歩的な注意義務に違反したもので,過失の程度は大きい。当時15歳の被害者は,鉄製支柱に左足をぶつけ,時速約30キロメートルで走行する本件車両から路上に転落させられるなどしており,事故態様は悲惨である。被害者は,判示のとおり,入院加療約210日間を要するびまん性脳損傷等の傷害を負い,本件以前の記憶の大半を失うなどしたばかりか,高次脳機能障害の後遺症も生じており,これからの長い将来,上記後遺症を抱えて生きていかねばならず,家族も生涯介護していくことを覚悟しなければならない状況にあるのであって,生じた結果は重大である。にもかかわらず,被告人は何らの慰謝の措置を講じていないばかりか,捜査段階から,本件事故時に本件車両を運転していたのは被害者であるなどと本件犯行を否認し,当公判廷においても不合理な弁解に終始しており,そこには反省の態度も見られない。
これらの事情に照らすと被告人の刑事責任は重い。
3 他方,本件事故時までに,被告人に非行歴はなく,普通の高校生として生活し,現在は結婚し,長男を設けている。また,捜査機関が意図したものではないにせよ,捜査が相当長期化し,その結果として,被告人は成人となり,本件事故に関し家庭裁判所での審判を受ける機会を失い,本件についての処分が定まらないまま不安定な状態で本件事故から7年以上経過するに至っているなど,被告人にとって酌むべき事情もある。
4 これら一切の事情を総合考慮し,本件については主文の量刑とした上,その刑の執行を猶予するのが相当と判断した。なお,検察官は,本件が公判前整理手続に付されてから約1年間が経過したころ,上記B証人に上記鑑定を嘱託し,その後,検察官立証の柱を同証人作成の鑑定書及び公判供述に据えた。これに伴い,それまでに弁護人らが行った公判準備活動が阻害された側面は否定できない。訴訟関係人は,充実した公判審理を継続的,計画的,かつ迅速に行うことができるよう,相互に協力する義務を有している(刑訴法316条の3第2項)が,捜査の遅延,起訴の遅れが1つの主要な争点とされている本件で上記のような事態が生じたのは甚だ遺憾であることを付言しておく。
(公判出席)検察官 大久保仁視
私選弁護人 千歳博信(主任),松木崇
(求刑 懲役1年)