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横浜地方裁判所 平成20年(ワ)1359号 判決 2010年3月25日

原告

X1

同法定代理人成年後見人

A<他2名>

原告ら訴訟代理人弁護士

小野哲

被告

社会福祉法人 Y会

同代表者理事

被告訴訟代理人弁護士

長谷川久二

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一請求

一  原告X1

被告は、原告X1に対し、金一億三九二六万三二一一円及びこれに対する平成一七年一〇月二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告X2及び同X3

被告は、原告X2及び同X3に対し、各自金三三〇万円及びこれらに対する平成一七年一〇月二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要等

本件は、被告が設置運営する指定知的障害者入所更生施設において、被告の職員C(以下「C」という。)が、原告X1(以下「原告X1」という。)に暴行を加え、または過失によって原告X1をトイレ内で転倒させ、傷害を負わせたとして、原告らが、被告に対し、主位的請求として、不法行為(民法七一五条一項)による損害賠償請求権に基づき、予備的請求として、原告X2(以下「原告X2」という。)が、原告X1のために、被告との間で締結した知的障害者入所更生施設サービス利用契約の債務不履行(安全配慮義務違反)による損害賠償請求権に基づき、原告X1につき金一億三九二六万三二一一円、原告X2及び同X3(以下「原告X3」という。)につき各自金三三〇万円、並びにこれらに対する不法行為後である平成一七年一〇月二日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求めている事案である。

一  前提事実(争いのない事実及び後掲の証拠等により容易に認定できる事実)

(1)  原告X1は、原告X2及び原告X3の二男であり、知的障害者である。

被告は、神奈川県厚木市に指定知的障害者入所更生施設「a園」(以下「a園」という。)を設置運営する社会福祉法人であり、Cは被告の職員である。

なお、原告X1につき、平成一九年九月二六日、横浜家庭裁判所小田原支部で後見開始の審判がなされ(同庁平成一九年(家)第三五六八号)、原告X1法定代理人が成年後見人に選任された(甲二)。

(2)  原告X2は、平成一六年三月三〇日、原告X1に意思能力がなく、かつ成年後見人の選任もなかったことから、原告X1のため、被告との間で、a園の利用に関する知的障害者入所更生施設サービス利用契約(以下「本件契約」という。)を締結した(甲三)。

原告X1は、平成一六年四月、a園に入所した。

(3)  原告X1は、平成一七年一〇月二日午前四時五〇分ころ、a園において右前額部を打撲(以下「本件打撲」という。)し、裂傷を負った。原告X1は、午前八時過ぎにc病院に搬送されて手術を受けた後、いったんa園に戻ったものの、同日中に再びc病院に搬送され、その後、本体打撲に伴い頸部が過伸展したことによる頸部脊髄損傷(右前額部裂傷及び頸部脊髄損傷を併せて、以下「本件受傷」という。)と診断された(本件打撲及び本件受傷との関係につき甲六、文書送付嘱託)。

(4)  原告X1は、平成一七年一〇月二日にc病院に入院し、過気圧酸素療法、椎弓形成術などの治療を受けた後、平成一八年四月二五日にd病院(以下「d病院」という。)に転院した。その後、原告X1は、d病院を同年七月三一日に退院したものの、第五、第六脊椎間における頸部脊髄損傷、四肢麻痺、神経因性膀胱、膀胱直腸障害による便秘症の後遺症が残った。(甲七ないし一〇、二二)

三  争点

(1)  Cによる原告X1に対する暴行の有無(争点一)

【原告らの主張】

本件打撲は、原告X1が、Cから暴行を受けたことによるものである。

原告X1は、本件受傷により、額の内側と外側を二重に縫うほどの傷害を負い、その頸椎は高度に変形していた。このような重い傷害が発生したのは、人為的な力が加えられたからであって、原告X1は、被告主張のように転倒して受傷したのではなく、Cから故意による暴行を受けたのである。

被告は、当初、Cが原告X1のほかにも一名の入所者の介助をしており、目を離した隙に原告X1が転倒して本件打撲に至ったと説明していたが、この説明は虚偽であって、被告は、Cによる暴行の事実を隠蔽している。

【被告の主張】

Cは、原告X1に対して暴行を加えていない。

本件打撲は、原告X1がトイレ内にて転倒したことによるものである。

c病院のD医師(以下「D」という。)は、原告X2から「トイレから出ていって頭をぶつけたくらいで、このような大きな事故になるはずがない」、「棒などで頭を殴ったからではないか」と尋ねられた際、「事故のかなり以前より老人性頸椎変形症を発症しており、強度な変形が遠因となった」などと答えたというのであって、本件受傷は暴行によるものではないと考えていた。

(2)  Cの作為義務及び過失の有無、被告の安全配慮義務違反の有無、本件受傷に至る事故態様(争点二)

【原告らの主張】

仮に、本件受傷が、Cの暴行によるものではなく、被告が主張するように、原告X1がトイレ内で転倒して頭部をぶつけたというものであったとしても、Cには、転倒事故を回避するため、原告X1の手を取ったり、腰に手を添えて付き添うなどして、原告X1の歩行を介助すべき作為義務があった。しかるに、Cは、かかる義務を履行して原告X1を部屋まで連れ帰ることなく、トイレ内にて原告X1から手を離したため、原告X1が小走りした後に転倒して本件打撲に至った。また、Cは、原告X1が小走りを始めた後、追いついた上で歩行を介助することもできたのに、これをしなかった。

また、Cは、知的障害者である入所者において、予想外の行動に出る可能性があることを念頭に置いて介助を行うことが必要であって、しかも、原告X1は、a園に入所後、度々転倒していたというのであるから、体のバランスを失って転倒するような事故が生じることも予見可能であった。従って、Cには原告X1の転倒につき過失がある。なお、原告X1の転倒時、起きて活動している入所者は他におらず、Cが介助すべき入所者は原告X1のみであった。

さらに、被告は、本件契約に基づき、利用者の生命・身体の安全に配慮すべき義務を負っており、原告X1の転倒について安全配慮義務に違反している。

【被告の主張】

Cには原告X1の転倒につき義務違反や過失はなく、被告には安全配慮義務違反もない。

本件打撲は、原告X1が、トイレの洋式便器付近から出口付近に小走りに歩いていき、廊下に出るために出口手前で右に向きを変えようとした際に、足がついていかずに曲がりきれずに転倒し、顔面を手洗い台または手すりにぶつけたことによるものである。

原告X1は、平成一七年一〇月一日午後一一時四五分、a園b寮のデイルーム床に敷かれた布団で就寝したが、翌二日午前三時四五分に起床し、寮内を歩き回ったり、トイレに七回以上行って少量の排尿を繰り返すなどしていた。その後、原告X1は、午前四時五〇分ころ、右頬の自傷後にトイレに向かった。原告X1には、水で自傷部位を濡らす習慣があるため、Cが、原告X1の後を追い、洋式便器に屈んでいる原告X1の背後から両手で脇を抱え上げたところ、原告X1は、立ち上がって、出口付近に向かって小走りで向かい、転倒に至った。Cは、原告X1が小走りに出口に向かった際、普段通りの様子なので大丈夫だろうと安心し、見守ってしまった。

Cは、夜勤一名で入所者一八人の支援をしている中、多動症の原告X1を、洋便器から立ち上がらせ、一瞬安心して力が抜けたところで、原告X1が小走りで出口に向かったのであって、Cの原告X1に対する行動制御としては限界であった。被告の夜勤体制は、知的障害者福祉法に基づく人員配置基準以上のものではあるが、Cにおいて、原告X1と絶えず手をつなぐなどして常時行動制御することは不可能であって、これを可能ならしめようとすれば、入所者について個室に隔離したり、常に車椅子を使用させるなど、拘束的な措置を採らざるをえなくなる。被告においては、入所者について拘束対応をとることなく、できるだけ広い範囲を自由に行動できるようにしてきたのであり、入所者の行動の自由を尊重する限り、原告X1の転倒を防ぐことは不可能であった。

(3)  因果関係、損害額及び素因減額(争点三)

【原告らの主張】

ア 本件受傷により、原告X1に以下の損害が生じた。

(ア) 入院雑費 四五万六〇〇〇円

一日一五〇〇円の三〇四日間分として

(イ) 入院付添費 一九七万六〇〇〇円

一日六五〇〇円の三〇四日間分として

なお、d病院においては、病院からの指示に基づき、原告X2が、毎日入浴やリハビリテーションに付き添っていた。

(ウ) 付添人交通費 三〇万五七二〇円

c病院につき、片道三九〇円の二〇六日往復分である一六万〇六八〇円

d病院につき、片道七四〇円の九八日往復分である一四万五〇四〇円

(エ) 介護費 八四四〇万六三九九円

訪問介護交通費として二五六〇円

療護施設「e」の平成一九年一月から五月までの入所費として一九万九九四三円

同施設のデイサービス利用料月額七一九〇円の平均余命二九・七年分として一三〇万六三七四円

職業付添人による介護費用一日一万五〇〇〇円の平均余命二九・七年分として八二八九万七五二二円

(オ) 将来雑費 八二八万九七五二円

(カ) 将来の通院交通費 八一万七六一九円

(キ) 介護用品等購入費 八三万六七二一円

(ク) 家屋改造費 六万六〇〇〇円

(ケ) 入院慰謝料 三〇六万円

(コ) 後遺障害慰謝料 三〇〇〇万円

(サ) 弁護士費用 一三〇〇万円

以上合計一億四三二一万四二一一円から、原告X1が平成一八年一一月三〇日受領した損害賠償金三九五万一〇〇〇円を差し引くと、原告X1の請求すべき損害は一億三九二六万三二一一円となる。

原告X2及び原告X3は、息子である原告X1が、本件受傷により常時介護を要する後遺障害に至ったことについて、多大な精神的苦痛を被っており、近親者慰謝料として各自三〇〇万円、弁護士費用として各自三〇万円が損害となる。

イ (被告の主張イに対して)本件打撲以前には、原告X1に排尿・排便障害はなく、手指の使いにくさもなかったのであって、脊椎管狭窄はなかったか、仮にあったとしても軽度なものにすぎなかった。

【被告の主張】

ア (原告らの主張アに対して)(ア)ないし(ク)は否認ないし争う。(ケ)ないし(サ)は不知ないし争う。また、原告X2及び原告X3の慰謝料及び弁護士費用について、不知ないし争う。

入院実日数は三〇三日である。c病院及びd病院は、完全看護病院であり、入院付添費及び付添人交通費は不要である。

原告X1は、五歳から四八歳まで都立f病院等の精神科において入院治療を受けており、f病院では閉鎖病棟におり、夜間は個室隔離をされていた。原告X1は、知的障害の程度が重く、言葉による意思疎通が不可能であり、施設や部屋からの飛び出しや、自傷他害の可能性があるなど、本件受傷前から、見守りが必要な状態であって、本件受傷後と同程度の介助を要する状態であった。

イ 原告X1には、本件打撲以前から、第四頸椎から第七頸椎において高度の変形性頸椎症としての脊柱管狭窄があり、これが頸部脊髄損傷の素因となった。従って、素因減額として七割の減額がなされるべきである。

第三争点に関する判断

一  争点一(Cによる原告X1に対する暴行の有無)

Cが原告X1に対して暴行を振るったと認めるに足りる証拠はない。

かえって、《証拠省略》によれば、本件打撲は、原告X1がトイレ内で転倒したことによって生じたものであること、被告の原告X2に対する当初の説明が事実と違ったのは、被告職員がCをかばおうとして発言したにすぎないことが認められる。

二  前提事実、《証拠省略》によれば、本件について、以下の事実が認められる。

(1)  原告X1は、原告X2(大正一二年○月○日生)と原告X3(昭和七年○月○日生)の二男として昭和三〇年○月○日に仮死状態で出生した後、心身発達の遅れのため二歳で歩き始め、三歳時に言語発達遅滞、四歳頃から言語消失して異常行動が見受けられるようになり、過敏、易刺激性となって睡眠障害が生じる一方、急に外に飛び出すなどして徘徊放浪のため警察に保護されるようになった。

原告X1は、g病院、h病院及び東京都立f病院(以下「f病院」という。)などへの入院を経たものの、昭和四二年七月、京浜急行電鉄の線路に飛び出して電車を急停止させたことから、i病院の精神科に措置入院となり、同年一〇月一一日、f病院に転院後、平成一六年三月三一日まで同病院に入院していた。

(2)  f病院入院時の状況

ア 原告X1は、f病院において重度精神遅滞、自閉症及びてんかんと診断されていた。

これら症状のうち、重度精神遅滞については、二七歳時において、言葉の発達が一〇ないし一一か月、言語理解が一歳四か月程度であり、てんかんについては、昭和四五年八月ころから、大発作てんかんが月に一回程度起きていたものの、投薬によるためか、昭和六一年以降は発作がほとんど見られないようになった。

イ 原告X1は、自傷傾向があり、時に他害傾向も顕著となって、他の患者に対し、首を絞めたり、目を突いたり、噛み付いたりすることがあったほか、素早い逸脱行動によって病院を離れたり、抜け出すことが度々あった。ただし、他害傾向における加害内容については、加齢と共にある程度緩和された。

ウ 原告X1は、f病院入院中、閉鎖病棟に収容されており、遅くとも平成三年以降、午後七時ころから午前六時ころまでは個室施錠による隔離措置が採られていた。

なお、f病院は、児童を主な対象とする精神病院であったため、患者一四名に対して概ね一六名の支援員という人員体制がとられていた。

エ 原告X1は、歩くペースが速く、かつ力が強く付添人を引っ張り歩くことがあった一方、平成七年ないし平成九年ころから、脳梗塞の疑いによる右不全麻痺や向精神薬の影響と考えられる歩行時のふらつきや前のめり歩行が見られるようになり、転倒の危険性が高くなった。歩行時のふらつきは、夜間覚醒時や起床時、午睡後が強く、立っていて突然膝から崩れるように転倒することもあった。

そのため、原告X1には、平成七年一二月から同一二年六月ころまでに、少なくとも以下の転倒事故等があり、このほか、院内での負傷に至らない転倒が頻繁にあった。

(ア) 平成七年一二月一二日朝、転倒し、後頭部に約五センチメートルの裂傷を負い、六針縫合した。

(イ) 平成八年九月一九日、突進して窓枠にぶつかったためと思われる受傷があり、右手指に挫創を負った。

(ウ) 平成九年三月一四日、散歩中に転倒し、左後頭頭頂部を打撲し、挫創を負った。

(エ) 平成九年五月一七日、散歩途中につまずき転倒して膝に擦過傷を負った。同月二三日、ホールのベンチを踏み外し、左頬部を打撲し、二センチメートルの裂傷を負った。また、同月二七日、前のめりに二回転倒し、左膝を打撲した。

(オ) 平成九年一〇月四日、ホールにて転倒し、左頬部に裂傷を負った。また、以前に突進転倒した際に折れた前歯二本について、同月二四日以降、歯科医の診療を受けた。

(カ) 平成一〇年一〇月から平成一一年一月までの間にも、椅子に座る際にバランスを崩して転倒したことがあった。また、原告X1は、介助者の手を払いのけ、階段を一人で下りたがる日もあったほか、他の患者の首や膝を掴むという他害行動があった。

(キ) 平成一一年四月二四日、食堂で転倒して右前額部を打撲し、約七センチメートルの裂傷を負い、五針縫合した。

(ク) 平成一一年六月一日、ホールにて転倒して下顎に約五センチメートル(深さ約一・五センチメートル)の裂傷を負った。

(ケ) 平成一一年七月九日、ホールにて転倒して右眉骨上に約二センチメートルの裂傷を負った。

(コ) 平成一一年一一月二五日ころ、転倒して、右側頭部に裂傷を負った。

(サ) 平成一一年一二月二六日ころ、自室で転倒し、外眼角脇に約一センチメートルの切創を負った。

(シ) 平成一二年三月七日ころ、外泊中に右大腿外側を打撲し、内出血した。

そのほか、平成一二年二月二二日及び同年六月五日ころにも、外泊中に転倒した。

オ 原告X1は、平成一二年六月二八日ころ、肢体一種一級の身体障害者に認定された。ただし、これは、原告X2が、外泊中における原告X1の行動を規制するため、車椅子の取得を望んだことによるものであった。

その後も、原告X1は、院内散歩では前のめりで突進歩行し、ペースが速くてバランスが悪い状態であって、転倒が絶えなかった。f病院では、原告X1について、散歩等の際にはヘッドギアを装着させた上で一対一対応による介助体制をとっており、階段昇降時には一対二対応となることも多く、次第に原告X1に対して常時ヘッドギアの装着を促すようになった。ただし、原告X1は、ヘッドギアの装着を嫌がり、自ら外してしまうことも多かった。

(3)  a園入所に至る経緯等

ア 平成一四年六月一七日昼ころ、原告X1は、原告X2と共に外出して福祉センターに行ったところ、一人でエレベーターに乗り込み、行方不明となった。その際、原告X1は、身元不明者として警察に保護され、a園にて一泊した。

イ 原告X1は、平成一五年ころ、f病院から、平成一九年ころに閉院し、都立病院の統廃合によって総合小児病院が設立される予定であること、児童年齢を過ぎた患者について、同病院にて転院先を探した場合には遠隔地になる可能性があることの情報提供を受け、平塚市福祉事務所の担当者(以下「平塚市担当者」という。)とも相談の上、原告X1がa園に入所できないか検討することにした。

ウ 平成一五年一一月二八日、a園において、原告X2と原告X1による見学とともに、平塚市担当者を交えて、原告X1の支援についての話し合いがなされ、飛び出し防止やf病院の閉院予定も考慮すると、出入り口に施錠がなされているa園での支援が望ましく、f病院での状況確認、a園での短期入所を経て、一年程度の評価期間を設けて、入所をする方針となった。

エ 平成一六年一月二六日、平塚市担当者及び被告の担当者が、f病院に赴き、主治医らと原告X1の支援方法について話し合った。その際、f病院からは、四〇年以上にわたる入院期間中、知的障害者施設への移行を促したものの、人員配置の手厚さや費用の点から入院継続が希望されたために移行ができず、長期間の入院となったこと、知的障害者施設で適応的な生活が営めると評価していることの説明があった。

その後、原告X1は、平成一六年二月中に九日から一一日及び二三日から二五日の二回、同年三月中に八日から一四日及び二二日から二八日の二回、合計四回のa園への短期入所を経た後、同年四月二日、a園b寮に入所した。

なお、原告X1には、平成一六年一月ないし三月の間にも、f病院において、ヘッドギアを外して床に投げたり、ポータブル便器にヘッドギアを入れ、その上に多量に排便するなどの行為が見られた。

オ f病院は、原告X1のa園入所に伴い、看護要約などによる情報提供を行った。その際、原告X1について、歩行時のふらつきが夜間覚醒時、起床時及び午睡時に特に強く、身体損傷の危険性が高いこと、f病院においては、終日ヘッドギア装着を促し、歩行時は一対一または一対二対応をしていることなどの情報もa園に提供された。

カ 原告X2は、a園に入所する原告X1のため、平成一六年三月三〇日、被告との間で本件契約を締結したところ、本件契約においては、契約目的について、利用者がその能力に応じた自立と社会経済活動への参加を促進することが規定されるとともに、被告の姿勢及び義務として、利用者の意思と人格を尊重すること、利用者の生命、身体、財産の安全・確保に配慮すること、緊急やむを得ない場合を除き、身体的拘束その他利用者の行動を制限する行為を行わないことが規定されていた。

(4)  原告X1のa園における生活状況

ア a園は、神奈川県の指導のもと運営されている指定知的障害者入所更生施設であって、概ね一二〇名の重度知的障害者(ただし、うち一〇名程度は短期利用者である。)が利用しており、職員一二二名の体制にて支援をしている。うち、b寮の定員は男性二〇名であって、いずれも知能指数三〇以下の言葉による意思交換ができない者に対して、食事、トイレ、入浴など生活全般の介助が行われている。

a園における夜勤者は寮毎に一名であって、b寮においても、午後九時から翌日午前六時四五分までの間、一名の夜勤者が、入所者定員二〇名による不眠、多動、粗暴行為、情緒不安定、夜尿ないし便失禁、発熱などに対する支援を行う体制となる。

a園における人員体制は、国指定の施設運営基準を上回っており、夜間においても、宿直ではなく夜勤で対応していた。

なお、a園において、精神病院の入退院を繰り返している入所者の例は一件あったが、四〇年以上もの長期間にわたり精神病院に入院していた例は原告X1が初めてであった。

イ 原告X1は平成一六年四月二日にa園に入所したものの、当初は入所にあたっての課題を確認するための課題入所であって、いわば観察的な意味合いを持つものであった。

しかし、原告X1は、a園での課題入所中、逸脱行動によって所在不明になったほか、転倒が絶えず、例えば、平成一六年七月中にも、少なくとも以下の転倒事故があった。

(ア) 平成一六年七月一二日、足下が滑って転倒し、鼻を床に打ちつけて出血した。

(イ) 同月一四日、マット上に転倒した。

(ウ) 同月二二日、トイレに行こうとして転倒し、右眉付近に約二センチメートルの裂傷を負った。

また、原告X1は、個室施錠を嫌ったためか、割り当てられた部屋では寝ず、デイルームのソファーで寝るようになった。

そのほか、原告X1には、顔を叩くという自傷行為や、突発的に他の入所者に掴みかかりにいったり、引っ掻いたりという他害行為が見られ、これら他害行為は、要求が通らないときや強制されたときにストレス発散の形で行われることが観察された。原告X1が、他の入所者から叩かれたり、噛まれたりしたこともあった。

a園においては、原告X1のため、脚力強化及び体のバランスを整える個別プログラムとして、タイヤ引き歩行やバック歩行などを行うようになった。

ウ 課題入所における原告X1の逸脱行動や転倒事故等から、被告においては、f病院とa園との間の人的配置の差から起こる危険について対応できるかどうか疑問が生じ、原告X1について入所を継続してもらうかどうかについても賛否両論があった。

そこで、被告は、平成一六年七月二一日、原告X2及び平塚市担当者との診断会議において、入所後三か月間に転倒による怪我や所在不明などが生じ、今後も同様な出来事が起こりうることが懸念されることを報告した。また、同会議用の資料において、原告X1について、「足腰弱く、すたすたと歩く。気持ちが先に行ってしまっており、足元はまったく見ておらず、重心も安定していないため、よく転倒することがある。それにより擦り傷を負うことが多い。寮外での移動場面では職員補助のもと介助している。寮内では足元は相変わらずおぼつかないが、環境になれてきたせいか、転ぶ場面は減ってきている」、「ヘッドギアについては寮内においても、安全のためにはかぶっていただきたいのだが、嫌がって窓から外へ放り投げることを繰り返すので、園外の活動時のみ被らせている」などと記載した。

これに対し、同会議において、原告X2からは、原告X1の様子について細かく見てくれており、感謝しているなどの発言とともに、被告に対し、今後も原告X1をお願いしたい旨の依頼があった。また、平塚市担当者からも、被告に対し、的確な支援がなされていると思う、外へ飛び出した時の事故の予防については、万全にして欲しいとの発言があった。これらの依頼や発言を受けて、被告においても、原告X1の支援を継続することとなった。

その結果、遅くとも平成一六年七月三〇日までに、原告X1の入所は、観察的な意味合いを含む課題入所から、長期間の入所を想定した長期入所となった。

エ 長期入所後も、原告X1の様子には大きな変化はなく、例えば、平成一七年七月中においても、転倒して後頭部を打ったり(同月一日)、転倒して右足付け根の内側をすりむいたり(同月五日)、自傷したり(同月一二、二〇、二一、三〇日)、トイレに行って自傷部分を便器の水で顔を濡らしたり(同月二〇日、三一日)、つかみかかる、噛むなどの他害行為をしたり(同月二、三、四、五、六、八、一二、二〇、二二、二七、三一日)、逆に他者から噛まれたり(同月二六日)を繰り返していた。

また、原告X1は、他の入所者の雑誌を取り上げたり、ドアの開閉を繰り返したり、照明スイッチを動かし続けたり、窓から窓へ移動するなど四六時中動き回っている傾向にあり、a園における他の入所者と比較して、多動性が著しかった。

(5)  本件打撲に至る状況

ア Cは、平成一七年三月にj福祉専門学校を卒業後、同月中に行われた二週間の研修を経て、同年四月一日、被告に入社し、生活支援員となった。Cは、同年四月中に二回の夜勤見習いを経た後、同年五月からは月三、四回の夜勤業務を一人で担当するようになった。

イ 平成一七年一〇月一日、a園b寮には一八名の入所者がおり、Cが同日夜の夜勤担当であった。Cは、同日午後五時四五分に夜勤業務を開始し、午後八時四五分には遅勤業務者からの引継ぎを受け、午後九時から、一人で入寮者の支援を行う体制になった。なお、夜勤者には途中一時間の休憩時間があるものの、実際には、事務作業をしたり、絶えず入所者の動向を窺いながら、休憩を取らざるをえない状況であった。

ウ 原告X1は、平成一七年一〇月一日、部屋の点灯消灯を繰り返したり、トイレに行ったり、絶えず寮内を歩き回るなどの多動性の活動をした後、午後一一時四五分、デイルームにて就寝した。そして、翌二日午前三時四五分ころに起床し、寮内を歩き回るなどの多動性の活動を再び始め、トイレに行って少量の排尿をすることを七回以上繰り返した。Cは、このうち一、二回を除いて、原告X1についてトイレに行き、洋便器の水を飲もうとした原告X1を制止して、コップの水を与えるなどしていた。

なお、b寮のトイレは、横約六メートル(以下「長辺」という。)、縦約四メートルの大きさの部屋であって、一方の長辺に洋便器ふたつと和便器二つを並べ、もう一つの長辺に、洗面台ふたつ、出入り口、小便器三つ、洋便器一つを順次並べた構造となっており(以下、このうち、出入り口側の長辺にある洋便器を「本件洋便器」といい、出入り口に近い側の洗面台を「本件洗面台」という。)、出入り口に最も近い場所にある小便器及び本件洗面台には手すりがついていた。また、本件洋便器から見た場合、本件洗面台までの距離が約四・五メートルであり、本件洋便器から出入り口に向かうには、本件洗面台付近において右折しなければならない位置関係となっていた。

エ Cは、平成一七年一〇月二日午前四時五〇分ころ、原告X1が再びトイレに入っていくのを見たため、急いでトイレに駆けつけたところ、本件洋便器の前にかがんで手を汚水に入れているところであった。Cが、これを制するために、原告X1の後ろから両手で抱きかかえて立たせたところ、原告X1において、立ち上がったまま出入り口のある本件洗面台方向に向かって小走りで進んでいった。Cとしては、原告X1は出入り口を出てデイルームに戻るのであろうと考え、原告X1が、つかまれ続けたり、手をつながれ続けたりするのを嫌う傾向にあったこともあって、原告X1がトイレから出て行くのを見守っていた。ところが、原告X1は、本件洗面台付近において右折しようとしたものの、足がついていかず、右前額部を本件洗面台またはその周囲の手すりにぶつけて転倒し(以下「本件転倒」という。)、本件打撲に至った。

なお、本件転倒時において、起きて活動している入所者は原告X1のみであった。

三  Cの作為義務及び過失の有無、被告の安全配慮義務違反の有無、本件受傷に至る事故態様(争点二)

(1)  本件受傷に至る経緯としては、上記認定のとおりと認められるので、以下、これをもとにCの作為義務及び過失の有無、被告の安全配慮義務違反の有無を検討する。

(2)  上記認定事実によれば、遅くとも平成七年一二月以降、原告X1には、転倒事故が絶えなかったこと、a園においても度々転倒していたこと、被告やCは、f病院からの情報提供やa園における観察等によって、原告X1について、転倒の危険性が高いこと、特に夜間覚醒時には危険性が高まることを把握していたことが認められる。また、Cにおいて、本件転倒時において、原告X1と手をつなぐなり、原告X1をつかまえ続けたりしていれば、本件打撲は防げたことも推認できる。

しかし、他方、上記認定事実によれば、原告X1については、人的配置においてa園を上回り、かつ夜間は個室施錠による隔離措置を講じていたf病院においても、転倒を防ぎきることは不可能だったのであり、頻繁に転倒事故が生じていたことが認められる。そして、上記認定事実によれば、a園への入所は、f病院閉鎖予定に伴い、新たな受入先を探した結果であったこと、知的障害者入所更生施設の人員配置は、病院には及ばないものであり、a園への入所にあたってもそのことは前提とされていたこと、平成一六年七月二一日の診断会議において、被告が入所を継続した場合における転倒等の危険性について問題提起したのに対し、原告X2からの入所継続を希望する意見が出されたこともあって、原告X1をa園に長期入所させるに至ったことが推認でき、これらに照らせば、本件契約及びその後の長期入所において、原告X1の転倒を全て防止することまで被告の義務ないし目標となったとは窺うことができない。もちろん、被告は、本件契約によって、原告X1の安全配慮義務を負うに至ったのであるが、上記認定事実及び《証拠省略》によれば、被告は、知的障害者入所更生施設として、開放的処遇を通じて、利用者が通常人と同じ生活をしていくというノーマライゼーションの実現を目標にする一方、f病院と比較して人員も限られていることが認められ、原告X1に対しては、被告が施設運営基準に基づいて設定する人員配置において、可能な限りの安全配慮義務を負ったにすぎないものというのが相当である。

なお、原告X1の安全確保のためには、f病院と同様に、夜間は個室施錠による隔離措置を講じることや寮内においてもヘッドギアを装着させることが方策として考えられるところではあったが、上記認定事実によれば、原告X1は、個室施錠やヘッドギアを嫌悪しており、仮にこれらを強制した場合には、ストレスのために自傷行為や他害行為が激しくなるなど、新たな危険を招きかねない状態にあったことが認められるのであり、被告がかかる方策を採らなかったことにも相応の理由があるというべきである。

(3)  そこで、本件転倒時におけるCの作為義務ないし安全配慮義務をみるに、上記認定によれば、被告におけるb寮の夜勤体制は、生活支援員一名が一八名の入所者の支援を行い、かつ休憩を一時間取るというものであったところ、原告X1は、起床後、多動性の活動を開始し、既に七回以上に及んでトイレに出入りを繰り返した上、再びトイレに入って本件洋便器に手を入れていたところをCに制止され、出入り口、ひいては就寝場所であるデイルームへと通じる方向にあたかも逃げるように向かったということになる。かかる時点においては、Cにおいて、原告X1の問題行動を制止し得たとしてひとまず安堵するのはやむを得ないことであるし、上記認定事実によれば、原告X1は手をつながれ続けたり、つかまえ続けられたりすることを好まないのであって、これを行えば原告X1にストレスが生じて新たな問題が生じる可能性もあるから、Cにおいて、さらに原告X1の手を取ったり、腰に手を添えて付き添うなどして歩行を介助する義務があったとまで認めることはできない。

原告らは、他に起きて活動している入所者はいなかった以上、原告X1の介助をすべきであったと主張し、確かに、本件転倒が現に生じたことからすれば、Cにおいて原告X1の介助を行わなかったことは悔やむべきことではある。しかし、開放的処遇のa園において、かかる介助をCや被告における他の職員の義務とすることは、原告X1が多動性の活動を行っている間、介助を行うために同人を常時ついて回ることを意味しかねないのであって、被告の人員配置上不可能を強いることになる一方、被告において、原告X1や同様の状態にある知的障害者の受入れを困難にし、これら知的障害者に対して、a園の利用、ひいては開放的処遇を通じた成長や社会適応の途を実質上閉ざすことにもなりかねないのであるから、相当ではない。

また、本件転倒はトイレ内で起きているところ、トイレにおける床、壁や附属設備などは硬質であることが多く、《証拠省略》によれば、a園におけるトイレも同様に硬質であって、転倒した場合には受傷程度が高くなる危険性があるから、原告X1の転倒についてより注意すべき場所であったことは認められる。しかし、上記認定のとおり、原告X1は、必要性が明らかではないトイレへの出入りを頻繁に繰り返していたというのであるから、トイレ内において、常時、原告X1に付き添ったり、介助し続けることは、被告の人員配置上不可能を強いることに変わりはない。従って、場所をトイレ内に限定したとしても、Cには、原告X1がトイレに入った際に、トイレを覗くなどして原告X1の様子を把握し、特段の危険が生じていないか注意を払う義務が認められる限度であって、上記認定事実によれば、Cに安全配慮義務ないし作為義務の違反があったと認めることはできない。

そのほか、証拠(C)によれば、本件転倒時における原告X1の歩き方は、普段と比べて若干速かった可能性が認められるものの、上記認定事実によれば、原告X1の歩き方は、普段から速いことが認められるのであるから、原告X1の本件転倒当時の歩き方をもって、原告X1に特段の危険が生じていたとか、Cが本件転倒を予期して介助をすべきであったとまでいうことはできない。

(4)  以上によれば、本件転倒について、Cの作為義務違反は認められず、被告の安全配慮義務違反についても同様に認めることができないから、原告らの本件請求は、その余の点(争点三)を判断するまでもなく、理由がない。

第四結論

よって、原告らの本件請求にはいずれも理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 河野匡志)

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