横浜地方裁判所 平成20年(ワ)5172号 判決 2010年7月22日
主文
1 被告は、原告に対し、金337万0624円及びこれに対する平成21年10月16日から支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は、これを5分し、その1を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。
4 この判決は、原告勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第1請求
被告は、原告に対し、金424万9890円及びこれに対する平成21年10月16日から支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
1 事案の要旨
本件は、被告との間で預金口座取引を繰り返してきた原告が、平成19年5月30日に保佐開始の審判を受けた後、原告の保佐人であるAの同意を得ずに、平成19年6月7日から平成20年5月20日までの間、別表のとおり合計424万9890円を払い戻して(以下、別表記載の各払戻しを「本件各払戻し」という。)浪費したとして、被告に対し、本件各払戻しをすべて取り消した上、改めて同額の預金の返還を請求した事案である。
2 争いのない事実等
(1) 被告は、預金、ローン、その他のサービスを提供する金融機関である。
(2) 原告は、平成19年5月30日、横浜家庭裁判所において、精神疾患のため、自己の財産を管理、処分するには常に援助が必要であり、精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分であるとして、保佐開始の審判を受け、Aが原告の保佐人に選任された。(甲6)
(3) 原告は、被告横浜支店に普通預金口座を開設しており(口座番号<省略>。以下「本件口座」という。)、平成19年4月下旬に退職金として約1800万円が本件口座に振り込まれた。原告は、Aの指示を受けて、上記退職金の一部を自己の借金の返済に充てたり、定期預金に振り替えるなどした結果、前記保佐開始の審判を受けた当時、本件口座には約340万円の残高があった。また、原告は、その後平成20年6月まで、給与の一部を本件口座に入金させた。(甲1から3、20)
(4) 平成19年6月7日から平成20年5月20日までの間、本件口座から、本件各払戻しのほか、平成19年9月12日に61万2030円が引き出され、平成20年3月19日、同年4月8日及び同年5月8日にそれぞれ1万円ずつが被告に対するカードローンの弁済として引き落とされた。
(5) 原告は、平成20年7月2日ころ、その代理人弁護士を通じて、本件各払戻しを含め、原告が平成19年6月から平成20年6月12日までに本件口座から預金を払い戻した行為をすべて取り消す旨意思表示した。(甲4)
(6) 被告は、平成21年9月2日の本件弁論準備手続期日において、原告の前記取消しが認められる場合に備えて、同取消しによる原告の被告に対する預金払戻請求権と被告の原告に対する不当利得返還請求権とを対当額で相殺する旨の意思表示をした。
(7) 被告は、平成21年8月29日、Aに対し、訴訟告知した。
3 争点
(1) 本件各払戻しは、いずれも原告が行ったものか。
(2) Aは本件各払戻しにつき同意していたか。
(3) 免責約款の効力
(4) 原告は、本件各払戻しをなすに当たり、被告に詐術を用いたか。
(5) 原告が返還すべき利得額
4 争点に関する当事者の主張
(1) 争点(1)(本件各払戻しは、いずれも原告が行ったものか。)
(原告の主張)
本件各払戻しは、いずれも原告自身が行ったものである。
原告は、被告横浜支店又はセブンイレブンに設置してあるATMで預金を払い戻していた。
(被告の主張)
原告の主張は否認する。
(2) 争点(2)(Aは本件各払戻しにつき同意していたか。)
(被告の主張)
Aは、原告が平成19年4月に退職金の支給を受けること、原告が本件口座を有していることを知っており、その退職金の浪費を防ぐために、原告に対する保佐開始の審判を申し立てたのであるから、保佐開始の審判を受けた後も原告に通帳とキャッシュカードを持たせ、原告の自由処分に任せていた本件口座の預金については、Aがその払戻しに包括的に同意していたものというべきである。
(原告の主張)
Aは、原告に対する保佐開始の審判がなされた後、本件口座の通帳とキャッシュカードを預かり、自分の部屋にある机の引出しの中に入れて保管していた。ところが、原告は、平成19年6月6日までの間に、Aの目を盗んで上記通帳及びキャッシュカードを持ち出し、本件各払戻しに及んだものであって、Aはこれに全く同意していない。
Aは、平成20年6月になって、原告が支給された退職金をもって、原告ら家族の自宅の改築をすることとし、本件口座の通帳とキャッシュカードを探したところ、見当たらず、原告を問い詰めて初めて原告が上記通帳等を持ち出し、本件口座の預金を使ってしまっていたことに気付いたものである。
(3) 争点(3)(免責約款の効力)
(被告の主張)
被告の預金規定において、家庭裁判所の審判により、保佐開始の審判を受けた場合には、直ちにその旨を被告に届け出るよう義務づけられており、この届出前に生じた損害については、被告は責任を負わない旨定められている。したがって、上記免責約款により、被告は、本件各払戻しにつき責任を負わない。
(原告の主張)
原告は、被告が主張する約款を提示されたことも、これを受け取ったこともなく、上記約款に同意していないから、原告に対する拘束力はなく、被告は免責されない。
(4) 争点(4)(原告は、本件各払戻しをなすに当たり、被告に詐術を用いたか。)
(被告の主張)
原告は、自分が保佐開始の審判を受けたことを認識し、Aに本件口座の通帳とキャッシュカードをいったん預けたにもかかわらず、上記通帳等を持ち出して本件各払戻しに及んだものであって、自分が被保佐人であることを隠して各払戻しを受けた原告の行為は、詐術に当たり、取消権を行使することは許されない。
(原告の主張)
原告は、被保佐人であることを黙秘して払戻しを受けていたにすぎないから、詐術には当たらない。
(5) 争点(5)(原告が返還すべき利得額)
(原告の主張)
ア 制限能力者が取り消した法律行為に係る返還義務の範囲は現存利益に限られるところ、原告は、精神疾患のため自己の財産を管理処分するには常に援助が必要であるとして保佐開始の審判を受けたものであるから、原告が本件各払戻しにより取得した現金を浪費したことは強く推測され、被告において、現存利益のあることを主張立証すべき責任を負うものと解すべきである。
また、主張立証責任の転換まで認められないとしても、上記事情に照らせば、原告が取得した現金を浪費したことは事実上推定され、反証のない限り、現存利益はないものと認められるべきである。
イ 本件各払戻しにより原告が取得した現金の具体的使途は以下のとおりであり、個別の払戻しとの対応関係は別表の「使途」欄記載のとおりである。
(ア) 野球チケットの購入
原告は、横浜スタジアムで行われる横浜ベイスターズ戦のチケットを購入しては、親戚や友人、会社の同僚、上司等に繰り返し無償で譲渡していた。平成19年度及び平成20年度に無償譲渡した上記チケットの購入金額は、少なく見積もっても合計242万7500円に上る。
(イ) 携帯電話の取次販売における差額負担
原告の勤務先のa社は、社員にb社の携帯電話の取次販売を委託しており、原告は、本件各払戻しを行った同一期間中、合計128台の携帯電話の取次販売を行った。
原告は、平成19年に通常2万6000円程度する携帯電話を5000円で購入できるというキャンペーンがあったところ、同キャンペーン終了後も5000円で携帯電話約20台を売却し、その差額を原告自ら負担していた。したがって、上記取次販売において原告が差額負担した合計42万円は、原告が浪費したものである。
本件各払戻しのうち、平成19年10月19日の15万円、同月29日の25万円の払戻しがこれに充てられたものである。
(ウ) 他人が使用した携帯電話料金の支払
原告は、アルバイト先の同僚の友人である男子高校生Bのために、原告名義で携帯電話を契約し、同人が通話料金等を支払う約束でその携帯電話を使用させていたが、その後、Bが上記携帯電話の通話料金等を支払わなくなり、原告が代わりに19万8266円を支払った。
本件各払戻しのうち、平成19年11月9日の6万円、翌10日の5万円、同月14日の9万円の払戻しがこれに充てられたものである。
(エ) 他人の飲食代
原告は、ほぼ毎日友人やアルバイト先の同僚を連れて居酒屋に行き、飲食代をすべて負担していた。1年間のこうした飲食代は、合計すると342万円に上る。
(オ) 他人のタクシー代
原告は、友人らと飲食をともにした後、タクシーで帰宅する際、友人らの家を回ってから自宅に帰り、そのタクシー代金も全額負担していた。本件各払戻しの中から上記タクシー代金に充てられた金額は、少なくとも11万7000円に上る。
(被告の主張)
ア 現存利益の有無については、その現存利益のないことを利得者が主張立証すべき責任を負う。
また、原告は、a社に正社員として勤務しているものであって、契約や預金の引出しなどの意味も十分理解できているところ、単に自分の退職金を自由に使いたいと考えて本件各払戻しを行ったにすぎず、これが保佐人の意図に反するからといって、浪費を推定することはできない。しかも、原告は、本件各払戻しと同一期間中、本件口座の他の預金口座からも預金を払い戻したり、新たな借入れを行ったりしているものであるから、本件口座から払い戻した金員が、原告が浪費として主張する使途に用いられたとはいえない。
イ(ア) 野球チケットの購入について
原告が主張するように、242万円余りのチケットを購入したのか不明である上、いかなる理由で無償譲渡していたのかも不明であって、浪費とは認められない。
(イ) 携帯電話の取次販売における差額負担について
原告は、平成19年7月にa社が社員向けに行った携帯電話を一人1台5000円で購入できるというキャンペーンと、同年10月に一般客向けに行われた携帯電話を1台5000円引きで購入できるというキャンペーンとを混同している可能性がある。したがって、原告が負担していたとする差額が携帯電話1台当たり2万円であるか不明である。また、原告は、差額を負担することにより会社から表彰されたのであるから、利益が現存しないともいえない。
(ウ) 他人が使用した携帯電話料金の支払について
原告は、携帯電話を実際に使用したBに対し、立替払した金員の返還を請求することができるのであるから、現存利益がないとはいえない。
(エ) 他人の飲食代について
原告は、職場の係の中では唯一の正規雇用者であったから、他の者よりも地位が上だったのであり、そのような者が部下に飲食代をおごるなどといったことは通常の社会生活の中でもある。したがって、原告が他人の飲食代を負担したからといって直ちに浪費とはいえない。
(オ) 他人のタクシー代
原告が帰宅するに際してタクシーを利用したのは、終電もなくなって他に帰る手段がなかったからであり、浪費とはいえない。原告が他人の家を通ってから帰った場合でも、料金が大きく変わることはなく、浪費とはいえない。
第3争点についての判断
1 争点(1)、(2)(本件各払戻しは、いずれも原告が行ったものか。Aは本件各払戻しにつき同意していたか。)について
(1) 認定事実
前記争いのない事実等に加え、証拠(甲1から3、7、8、19から21、原告本人)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。
ア 原告は、昭和50年に高校を卒業し、a社に入社した後、昭和54年に結婚し、昭和55年にはAが、昭和59年には二男をもうけたが、平成元年に夫と離婚した。(甲19)
イ 原告は、離婚後、飲酒量が増え、仕事帰りに遅くまで酒を飲みに行くこともたびたびあったほか、借金を繰り返し、家族に判明する都度これを弁済していたが、平成13年9月ころには、新たな400万円の借金が発覚し、弁護士に依頼して任意整理の手続をとったことがあった。(甲19、20)
ウ 原告は、平成9年ころから定期的に病院に通院しており、心因性反応症、解離性健忘症と診断され、平成12年11月21日には、横浜市から障害等級2級との認定を受けた。(甲19、21)
エ 平成18年末ころ、原告が消費者金融から別の借金をしていたことが判明し、さらに、平成19年4月には原告にa社から退職金が支給されることが予定されていたことから、Aは、平成19年1月ころ、法律相談に訪れたところ、原告が被保佐人と認められる余地があると言われ、翌2月に横浜家庭裁判所に赴いて申立書の書式や必要書類の説明等を受けた上、同年4月5日、横浜家庭裁判所に対し、原告の保佐開始の申立てを行った。(甲8、20)
オ 原告の退職金は本件口座に振り込まれることとされていたところ、平成19年4月25日に1299万7517円が、翌26日に493万8990円がいずれも原告の退職金として本件口座に振り込まれた。Aは、原告と相談し、まず当時判明していた原告の借金をすべて返済することとし、原告に本件口座の通帳とキャッシュカードを預け、平成19年5月24日までの間に本件口座から預金を一部引き出させ、借金を返済させた。また、同日、上記退職金のうち1000万円を被告の定期預金に振り替えた。Aは、その後、原告から本件口座の通帳とキャッシュカードを預かり、自室の机の引出しの中にしまった。(甲1、20)
カ 横浜家庭裁判所は、平成19年5月30日、原告が精神疾患のため自己の財産を管理、処分するには常に援助が必要であり、精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分であると認められるとして、原告について保佐を開始し、原告の保佐人としてAを選任する旨審判し、同年6月21日、同審判が確定した。(甲7)
キ 原告は、Aの机の中に本件口座の通帳とキャッシュカードがあるのを発見し、これをAに無断で持ち出して、別表のとおり、平成19年6月7日以降平成20年5月20日まで、被告の支店やコンビニエンスストアにあるATMで各払戻しを受けた。(甲1から3、原告本人)
ク 原告は、いったんa社を退職し、退職金を受給した後もa社から再雇用され、月額22、3万円程度の給与が支払われた。このa社からの給与のうち毎月10万円が本件口座に入金された(ただし、平成19年6月25日には13万円、同年12月10日には15万円が上記給与の一部として本件口座に入金された。)。(甲1から3、原告本人)
(2) 上記認定事実によれば、Aは、原告が保佐開始の審判を受けるに先立ち、原告から本件口座の通帳とキャッシュカードを預かり、自室の机の中にしまっておいたものであるが、その後、原告が上記通帳等を発見し、Aに無断で、これを持ち出して本件各払戻しに及んだものであり、本件各払戻しにAが同意していたとは認められない。
したがって、この点に関する被告の主張は採用できない。
2 争点(3)(免責約款の効力)について
証拠(乙5)及び弁論の全趣旨によれば、平成12年4月1日、被告の預金規定に、家庭裁判所の審判により、補助・保佐・後見が開始された場合には、直ちに成年後見人等の氏名その他必要な事項を書面によってお届けください、との規定が追加されたほか、この届出の前に生じた損害については、当金庫は責任を負いません、との規定が追加されたことが認められる(預金規定12条1項、5項)。そして、証拠(乙3)によれば、原告は、平成20年6月16日になって初めて、被告に対し、保佐開始の審判を受けたことを届け出たものである。
しかし、上記預金規定の定めは、保佐等開始の審判がなされた者にその旨の届出義務を課した上、これを怠った制限能力者の取消権の行使を事実上不可能とさせるものであるところ、原告のように、精神上の障害により事理弁識能力が著しく不十分であると認められた者に対して上記のような義務を課すこと自体背理といえる上、これを怠った場合の不利益も極めて大きいものであって、このような上記預金規定の定めは、制限能力者を一定の範囲で保護することとした民法の各規定の趣旨に著しく反するものであり、少なくとも制限能力者との関係では、その法的効果を認めることはできないと解すべきである。
よって、上記預金規定の定めを根拠に免責されたとの被告の主張は採用できない。
3 争点(4)(原告は、本件各払戻しをなすに当たり、被告に詐術を用いたか。)について
民法21条にいう詐術とは、自己が制限能力者であることを黙秘していた場合でも、それが制限能力者の他の言動と相まって、相手方を誤信させ、又は誤信を強めたと認められるときはこれに当たるものというべきであるが、単に制限能力者であることを黙秘していただけでは、ここにいう詐術には当たらないものと解すべきである(最高裁判所昭和44年2月13日第一小法廷判決・民集23巻2号291頁参照)。
前記1(1)キで認定したとおり、本件各払戻しは、原告が、被告の支店やコンビニエンスストアに設置されているATMを操作して払戻しを受けたものにすぎず、他に被告を殊更誤信させ、又は被告の誤信を強めた何らの原告の言動も認められないから、原告が詐術を用いたとは認められない。
よって、この点に関する被告の主張は採用できない。
4 争点(5)(原告が返還すべき利得額)について
(1) 原告が本件各払戻しにつき取消権を行使したことにより、原告は、被告に対し、現に利益を受けている限度において、払戻金の返還義務を負うところ(民法121条ただし書)、同条所定の現に利益を受けている限度とは、不当利得返還義務を全部又は一部消滅させる事由であり、条文の体裁に照らしても、不当利得返還義務の全部又は一部の消滅を主張する者において、現存利益の消滅を主張立証すべき責任を負うものと解すべきである。
(2) そして、金銭は、その交換価値としての高度の融通力に使用価値を有するものであり、利得した金銭それ自体を消費したとしても、通常はその対価を得ているか、支出を免れた利得者の他の財産が存するから、通常は、金銭による利得は現存するものと推定される。
しかし、原告が本件各払戻しにより取得した金銭の使途等についてみると、前記争いのない事実等に加え、証拠(甲1から3、14の(3)、15の(2)、17、19、20、23から28、31、原告本人)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
ア 原告は、保佐開始の審判を受けた後、勤務先であるa社の給与について、前記1(1)クで認定したとおり、本件口座に毎月ほぼ約10万円が入金されるほか、その残額である毎月12、3万円が原告のみずほ銀行の口座に振り込まれていた。また、原告は、土日にスーパーでアルバイトをしており、月額約4万円のアルバイト収入があった。
原告は、原告自身の生活費等に用いるため、上記みずほ銀行の預金口座の通帳とキャッシュカードについては、Aから渡され、原告の自由処分に任されており、また、上記アルバイトによる給与も原告が自由に使うことができた。
イ 原告の生活費は、毎月12、3万円程度であった。
原告は、前記みずほ銀行に入金された給与も毎月全額引き出し、本件口座から払い戻した預金やアルバイト収入と併せて上記生活費等に費消した。
(原告は、毎月の生活費にはみずほ銀行に入金された給与のみを充てていた旨主張するが、原告の本人尋問における供述に照らすと、原告は、各預金口座から預金を引き出した後、特段他の金銭と区別することなく引き出した現金を管理、使用していたものと認められるから、上記主張は採用できない。)
ウ 原告は、本件各払戻しにより取得した金銭を、上記生活費のほか、以下の使途に費消した。
(ア) 原告は、平成13年ころから、親戚や職場の上司、同僚等に頼まれるなどして、横浜スタジアムで行われるプロ野球のチケットを何日分かまとめて購入し、これを無償で譲渡することを繰り返してきた。その額は1度に10万円を超えることも多く、約30万円分ものチケットを購入することもあった。別表のとおり、本件各払戻しにおいて30万円を超える払戻金は、いずれも上記のように、野球チケットをまとめて購入し、無償で譲渡したものであり、他の払戻金においても上記チケット購入代金に充てたものがあった。
(イ) 原告は、a社の社員として携帯電話の取次販売を行っていたところ、平成19年6月末ころから年末にかけて、数台の携帯電話を、実際の販売価格より安く売却し、その差額を自ら負担した。本件各払戻中、平成19年10月19日の15万0105円の払戻し及び同月29日の25万円の払戻しは、いずれも上記差額負担に費消した。こうしたことにより、原告は、平成19年10月に13台、同年11月に39台、同年12月に7台の携帯電話を販売し、上記平成19年度第3四半期における第3位の販売成績を上げ、会社から表彰された。(甲14の(3)、17)
(ウ) 原告は、Bに対し、毎月の通話料等は同人が支払う約束で、原告名義で契約した携帯電話を貸し与えたところ、Bは上記携帯電話の通話料を支払わなくなり、やむなく名義人であった原告が、本件各払戻しのうち、平成19年11月9日から14日までの間に払い戻した合計20万円の中から、同月15日、同人に代わって合計19万8266円を支払った。(甲15の(2))
(エ) 原告は、頻繁に職場の同僚や友人らと酒を飲みに行くなどし、その代金全額を原告が負担した。また、その帰りにはタクシーで友人宅を通って帰宅し、そのタクシー代も原告が全額負担した。原告が本件各払戻しにより取得した金銭の中から上記タクシー代として負担した額は少なくとも約11万7000円に上る。
エ 原告が本件口座の通帳とキャッシュカードを持ち出し、本件各払戻しを始めた平成19年6月7日の時点では、本件口座に342万6373円の残高があったが、その後、前記争いのない事実等(4)のとおり払い戻すなどした結果、平成19年11月14日にはほぼ残高がなくなり、その後は毎月本件口座に入金される給与の一部額を払い戻し、原告が本件口座の通帳とキャッシュカードを持ち出して使用していたことが発覚した平成20年5月末ころの時点では、本件口座の残高は約2万円であった。(甲1から3)
また、原告は、本件各払戻しと同一期間中、被告のほか数社から新たな借入れをしていた。
(3) 原告が本件各払戻しにより取得した金銭の使途は、上記(2)イ、ウで認定したとおりである。
ア 上記使途のうち、生活費に費消した分は現存利益がないとはいえない。そして、上記(2)イで認定したとおり、原告の生活費は月額12万円から13万円程度であり、これをみずほ銀行に入金される給与(月額12、3万円)、本件口座に入金される給与(ほぼ月額10万円)のほか、月額約4万円のアルバイト収入で賄っていたものである。そうすると、上記各給与額の割合に照らし、本件口座に入金された給与の中から生活費に回った金額は、月額約4万7000円と認めるのが相当である。したがって、本件各払戻しのあった平成19年6月から平成20年5月までの12か月間における生活費のうち、本件各払戻しによる払戻金が充てられた額は、合計56万4000円と認められる。
(計算式)
12万5000円(毎月の生活費)×10万円(本件口座に入金される給与額)÷26万5000円(原告の毎月の全給与額)≒4万7000円
4万7000円×12か月=56万4000円
※ 生活費とみずほ銀行に入金される給与額をいずれも12万5000円として計算した。
イ また、上記使途のうち、Bに貸し与えた携帯電話の使用料を同人に代わって支払った分も、原告は、Bに対する同額の求償権ないし不当利得返還請求権を取得しているものであるから、現存利益がないとはいえない。
ウ また、タクシー代についても、原告の供述によれば、友人の家を通って帰宅した場合の料金は概ね4000円から5000円であり、直接自宅に向かった場合の料金も、少ないときは2、3000円で済むが、多くはやはり4000円から5000円程度かかるというのであり、両者でほとんど差がないから、タクシー代に関しても現存利益がないとは認められない。
エ 他方、この他の使途(無償譲渡した野球のチケットの購入、携帯電話の販売差額金負担、他人の酒食代負担〔原告自身の酒食代については生活費において考慮済み〕)については、その費消により原告自身に対価的利益があったとは認められず、また、(2)で認定した原告が当時使用できた本件口座の他の預金等の財産状況、使用状況に照らすと、原告に支出を免れた他の財産があるとも認められないから、現存利益がないものと認めるのが相当である。
(4) そうすると、原告が被告に返還すべき金額は、本件各払戻しにより取得した金銭424万9890円のうち、現存利益の消滅が認められない生活費のうち56万4000円、携帯電話使用料の19万8266円、タクシー代の11万7000円を合算した87万9266円と認められる。
よって、被告のした相殺は、上記額の限度で理由がある。
5 以上によれば、原告の請求は、337万0624円及びこれに対する請求後の日である平成21年10月16日から支払済みまで商事法定利率年6分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから、主文のとおり判決する。
(裁判官 水倉義貴)
(別紙)<省略>