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横浜地方裁判所 平成21年(わ)2640号 判決 2012年3月21日

主文

被告人は無罪

理由

1  公訴事実

被告人は,平成21年9月1日午後9時44分頃,横浜市中区新山下<番地略>付近道路において普通乗用自動車を運転中,自車左前部を甲野薫(当時17歳)運転の自転車に衝突させて同人を同自転車もろとも路上に転倒させ,同人に頭部外傷等の傷害を負わせる交通事故を起こしたのに,直ちに車両の運転を停止して同人を救護する等必要な措置を講じず,かつ,その事故発生の日時及び場所等法律の定める事項を,直ちに最寄りの警察署の警察官に報告しなかったものである。

2  当事者の主張

(1)弁護人ら

被告人は,本件事件の前提となる交通事故(以下「本件事故」という。)を発生させた時点で,従前から罹患していた1型糖尿病を原因とする無自覚低血糖に基づく意識障害に陥っていた。そして,被告人は,本件当時,著しい意識障害により,見当識が高度に障害され,本件事故の発生そのものを認識できていなかったのであるから,本件事件の故意はなかった。また,仮に,本件事件について故意があったとしても,意識障害によって,本件事件を起こした時点で,被告人には,行為の是非善悪を弁識する能力又はこれに従い自己の行動を制御する能力がなかった。昭和大学医学部教授W(以下「鑑定人」という。)の鑑定(以下,同人作成の鑑定書と同人の証言を併せて「本件鑑定」という。)によっても,本件当時の被告人は,被告人の有する1型糖尿病に基づく低血糖症(無自覚低血糖)により生じた意識障害の特殊な病態である「分別もうろう状態」に陥っており,その高度な意識狭窄により,周囲の情報は断片的に入力されていたと考えられるが,それらの情報と自分との関係が適切に判断できず,見当識は著しく障害されていたと判断され,全体の状況の中で,自らの行動が持つ意味合いについても,およそ理解できていなかったと考えられるとされている。したがって,被告人は無罪である。

被告人も,本件事故が起こったことを認識していなかったなどと供述している。

(2)検察官

本件当時の被告人の運転状況等と過去に被告人が低血糖症に陥った際の状況等を比較検討すれば,本件当時,被告人が,仮に低血糖状態に陥っていたとしても,鑑定人のいうような高度な意識障害はなく,見当識が十分に保たれており,現実を認識する能力に特段の問題はなく,かつ,認識した事実に従って合理的な判断及び行動が可能であったと認められるから,救護義務及び報告義務の存在を十分に認識し,それらの義務を履行することが可能であった。本件鑑定は,本件当時の被告人運転車両の走行状況や緊急逮捕時の言動,その他鑑定資料の評価,判断を誤り,記憶があいまいである旨の被告人の供述を全面的に採用したものであって,その鑑定結果は採用できない。

3  当裁判所の結論

当裁判所は,被告人には,救護義務違反については故意を認めることができず,報告義務違反については,故意は認められるが,責任能力を認めることができないと判断した。以下説明する。

4  説明

(1)関係各証拠により認定できる事実

ア  事故状況等

被告人は,平成21年9月1日午後9時44分頃,横浜市中区新山下<番地略>付近道路において,片側二車線の道路の左側車線の歩道側を這うように,時速30から40キロメートルの間の速さで普通乗用自動車(スバルR2,軽自動車)を運転中,進路前方に駐車中の車両をよけて進行した際,自車左前部を甲野薫(当時17歳)運転の自転車及び同人に衝突させて同人を同自転車もろとも路上に転倒させ,同人に頭部外傷等の傷害を負わせる交通事故を起こした。上記衝突により,被告人運転車両は,そのフロントガラスの大部分(助手席側を中心に全体の約4分の3程度)がくもの巣状に破損した。

イ  被告人の病歴等

(ア)診療録,診断書等の記載

被告人は,昭和63年12月,1型糖尿病を発症し,同月17日から翌年2月10日まで病院に入院し,退院後は,通院してインスリン自己注射を中心とする薬物療法,食事療法,運動療法を続け,現在に至っている。

医師は,平成21年9月24日の生理検査において軽度の自律神経障害を認める,同年6月29日,7月31日,10月9日及び11月13日の血液検査で低血糖を認め,後日の診察時問診により,それらが無自覚性低血糖であったと考えられると診断している(弁10)。

低血糖は,重大な中枢神経障害や生命の危険をもたらすので,血糖が下がると,様々な警告症状(空腹感,動悸,手足の震え,冷や汗等)により低血糖が自覚され,摂食などの行動を取る。しかし,インスリン治療中の糖尿病患者が低血糖に何度かさらされると,血糖低下に対する反応が低下し,警告症状がないまま,意識消失などの重大な低血糖症状に至ることがある(無自覚性低血糖,弁7)。

(イ)同僚らによる被告人の低血糖あるいはそれらしき症状の目撃状況a被告人が勤務する会社の産業医の供述

平成17年9月27日,同年11月28日,平成18年6月28日,平成21年3月16日及び同年5月20日,被告人は,業務中低血糖になり,意識もうろうとなったりしたが,ブドウ糖等を与えたところ,正常になった。手当てをして一見して大丈夫だなと思っても,質問すると答えにはならず,つじつまが合わないことがあった。b被告人の同僚乙山太郎の証言

被告人は,平成12年頃,非常に眠そうで,その後,ぐったりした状態になり,話しかけても反応がなくなったため,皆で担架又は椅子で診療所に連れて行った。その数年後,被告人は,同じような,ぐったりした状態になった。被告人は,平成21年4月下旬か5月頃,うつろな状態で,話しかけても,まともな答えは返ってこないような,反応はするが,非常にトンチンカンな感じの答えが返ってくるような状態になった。そこでまず,被告人の口元までコップを持っていって,ジュースを飲ませ,その後,皆で診療所に連れて行った(以下,4月の異動後間もなくのため,「異動後のケース」という。)。同年8月7日,会社の事務所のレイアウトの変更の作業の際,被告人に話しかけたら,非常に口調がぶっきらぼうというか,酔っ払いが話してるような,そういう投げやりな口調になっていて,また,視線もうつろで,定まらない感じに見えた。被告人は,「ちょっとおかしいです。でも,お昼御飯食べれば治るんで大丈夫です。」と返事をし,その後実際,お昼御飯を食べに自分で食堂に行った。戻ってきて,午後一緒に出掛けたが,そのときは,普段どおりの様子だった(以下「レイアウト変更のケース」という。)。c被告人の同僚丙川花子の証言

被告人は,平成13年頃,仕事中に眠っているような様子になり,しゃべることもできなくなり,そのまま医務室に運ばれることがあった。その後は,数年に数回程度,意識障害を起こした。被告人に仕事の段取りを説明して了解を取ったつもりなのに,被告人はそれを全然覚えてないということがあった。その際は,話をしているときからつじつまが合わなくなってきたので,これは調子が悪いんだなというふうに思い,途中で話を切り上げた。平成21年6月,被告人が運転して,出張で伊那に行った。一般道を走っていると,車が揺れ出し,10分間程度,ゆっくりと左右に揺れる蛇行運転を行った。信号待ちなどは普通にできて,センターラインも超えていなかったが,対向車の方にもちょっと向かいそうだったので怖くなり,被告人に対し,「タイヤがパンクしたんじゃないの。タイヤがおかしいんじゃないの。」というふうに声をかけた。被告人は,おかしいかなぁと答えたが,被告人の反応は鈍く,語尾が長くなって,声に張りがなくなっていた。もう一度声をかけると,被告人は,チョコレートを取り出して食べた。被告人は,すぐ普通の状態になって,普通のしっかりした運転に戻った。その後,被告人からお詫びもなく,普通のほかの話になったので,記憶がなかったのだと思う(以下「蛇行運転のケース」という。)。同年8月7日,会社の引っ越しの際,被告人は,周りの人とはしゃべらず,机の上に力なく座って,だらんとした感じでみんなを見ていた

(上記レイアウト変更のケース)。d被告人の内妻の証言

平成18年から被告人と同居しているが,平成18年の北海道での旅行中及び横浜のスポーツクラブから家に帰るときの2回,被告人運転車両に同乗した際,被告人の運転がおかしいということがあった。その際には,被告人との話がかみ合わないようになり,前を走る車との車間距離が詰まるなどした。危ないと感じ,「やめて」などと何回か叫んで,被告人に車を停止してもらい,ジュースを飲ませるなどした。それ以外にも,被告人が運転中に低血糖を自覚し,チョコレートを取ってなどと私に言って,食べることがかなりの回数あった。また,自宅で睡眠時に低血糖となり,意識を回復できず,口に糖分を含ませて置いておくしかない状態になったことも何度かあった。

ウ  本件事故の前の状況

被告人運転車両は,事故現場から約1.9キロメートル手前の片側二車線の道路で左側車線の先頭車両として赤信号で停止していた。青信号になり,被告人運転車両は発進したが,右側車線を時速60から65キロメートルで走っていたポルシェに急加速して接近し,ポルシェの運転手が減速すると,それに応じて被告人運転車両も減速した。被告人運転車両は,ポルシェの後ろを走行し,そこから500メートルくらい走行した所で,本件事故が起きた。

被告人運転車両の後方の右側車線を時速40から50キロメートルで運転していた丁谷大介は,被告人運転車両が,それより遅い速度で,事故現場手前の道路の路肩ぎりぎりを走ったり,事故現場直前で駐車車両の右側を被告人運転車両が通過する際,駐車車両の右側ぎりぎりを通ったりしたのを目撃した。そのとき本件事故が起きた。

エ  本件事故直後の状況

本件事故直後,被告人運転車両は以前と同様,左車線をゆっくりとした速度で,先の信号のある交差点方向に向かって走行して行った。そして,前方の左車線には,近くの店舗の駐車場に入るためにポルシェが停車していたところ,被告人運転車両はほとんど止まるか止まらないかというくらいの速度に減速し,最終的にはポルシェに接近する直前で停車した。これに対して丁谷は,被告人運転車両がポルシェの後方で停車する前に,やや後方からクラクションを鳴らし,その後も,パッシングをするなどしたが,被告人運転車両は,ポルシェが駐車場に入って行ったら発進してそのまま止まらずに進行し,信号のある交差点で,左折しかできない車線を直進したりした。被告人運転車両は,その交差点を直進してからは以前よりも大分速度が速くなっていた。

丁谷は,被告人運転車両を追尾し,その間何度もクラクションを鳴らしたり,パッシングしたりしたが,同車両は,その後,事故現場から約718.8メートル離れた「ホテルニューグランド」先の交差点で,対面信号機が赤色の表示に変わったら,先頭の車両として同交差点の手前で停止し,その後再び上記信号機が青色の表示に変わると発進した。

オ  職務質問等の状況

(ア)事故現場から逮捕現場(横浜市中区本牧ふ頭<番地略>)までの被告人運転車両の走行経路につき,被告人の供述がなかったことから,警察官は,被告人運転車両は,幹線道路を走行し,交差点は左折したと推定し,実況見分を実施したところ,事故現場から逮捕現場まで約6.8キロメートルで,制限速度内で運転すると,所要時間は16分11秒であり,その間の信号設置か所は28か所であった。

(イ)警察官Aと同Bは,パトカーで警ら中,本件事故当日午後9時52分頃,ひき逃げ事件の緊急配備の指令を無線で傍受し,同日午後10時6分頃,対向して進行してくる被告人運転車両を発見した。同車両は,カーブの辺りでパトカーと擦れ違い,そのまま進行した。Bらは,パトカーを転回させ,赤色灯を点けて同車両を追いかけた。

Aがマイクで停止を求めたところ,被告人はすぐに停車したので,Aは,被告人に対し,同車両の運転席の横から,「エンジンを切ってください。」と言った。Aの方を見ていた被告人は,顔の向きを正面に変えたが,すぐにはエンジンを切らなかった。その後Aが2回ほどエンジンを切るように言うと,被告人は,自分でエンジンを切った。Aが,被告人に対し,運転免許証の提示を求めたところ,被告人は,すぐにズボンのポケットから財布を取り出し,2つ折りの財布を広げ,お札が入っている所に手を伸ばし,お札に指をかけた。そこで,Aが,「お札ではなく運転免許証をお願いします。」と言ったが,被告人は,再度お札に手を伸ばしたので,Aは,「それではなくて,運転免許証をお願いします。」と言った。すると,被告人は,カード入れ内の数枚のカードの中から運転免許証を取り出した。Bが,被告人に対し,「ガラスが割れてるけれどもどうしたんですか。」と尋ねると,被告人は,後方を指示して,「向こうで何かにぶつかった。」と答え,Bが,「何にぶつかったか分からないんですか。」と問いかけると,被告人は「何にぶつかったか分からない。」と答えた。

Bが,被告人に自動車から降りるように指示したところ,被告人は自分で自動車から降りて,ボンネットの左前に移動した。Bが,「先ほど向こうで自転車をはねた車があるんだけど,あなたではないですか。」と問いかけると,被告人は,「私はこれからどうすればよろしいんですか。」と問いかけてきた。被告人にパトカーの後部座席に乗るよう促すと,特にふらついた様子はなく,パトカーに自分で乗り込んだ。

パトカーの中で,被告人は住所,氏名,生年月日,職業については普通に答えられたが,事故現場までの行動等を尋ねると,その行動については答えることができなかった。仕事が終わって,スポーツジムに行って,帰宅する途中だったと説明はするが,発見現場までの道順について説明はできなかった。Bが,「ぶつかったんだったら,やはり止まって何にぶつかったか確認するのが運転手さんの義務なんじゃないですか,もし人でもはねていたら救護の措置を取るのが当然じゃないか。」と問いかけると,被告人は,「すいません。」と答えた。

(ウ)同日午後10時20分から25分頃,応援に駆けつけた加賀町警察署勤務の警察官C及び同Dは,同日午後10時半頃,被告人に対して飲酒検知を行うこととし,Dが被告人に対し,「お酒を飲んでいますか。」,「飲酒検知をしますがよろしいですか。」と質問したところ,被告人は,下を向いて返事をしなかった。そこで,Dは同じ質問を何度か繰り返し,被告人から,「飲んでいない。」との回答と,飲酒検知の承諾を得た。Dが被告人に対し,コップに水を入れてうがいをするように促したところ,被告人はコップを受け取り,口をゆすぎ,Dが外に吐き出すように言ったら,外に水を吐き出した。そして,被告人はDの依頼に応じてストローで呼気をビニール袋に吹き込んだ。その結果,アルコール反応は出なかった。Cの行った質問手続では,何度か同じ質問を繰り返した後,被告人が答えることがあった。その後,Cが,歩行検査等を行うために助手席ドアを開けて,被告人に外に出るように促したが,被告人はすぐには出なかったため,Cは,何度か声をかけて,手を貸した。被告人は,その手に掴まって立ち上がった。Cは,「まっすぐ立ってください。」などと声をかけたが,被告人は,まっすぐ立っていられなかった。

C作成の酒酔い・酒気帯び鑑識カードには,言語・態度状況につき,しどろもどろ,歩行能力につき,約10メートルを歩行させたところ,異常歩行,ふらつく,約2メートルで座ろうとした,直立能力につき,約10秒直立させたところ約3秒でふらついた,顔色につき,普通,目の状態につき,普通と記載がある。

(エ)被告人は,飲酒検知の後,同日午後11時,緊急逮捕された。

その後,被告人をパトカーで加賀町警察署に連れて行ったが,被告人をパトカーから降ろすときは,被告人は,自分では立てず,歩けないような感じであった。

(2)被告人供述の要旨

低血糖になっても自覚症状がないときがある。また,低血糖時の異常行動についての記憶が残らないことが多い。乙山太郎が証言した2件の異常行動について,平成21年4月下旬か5月頃の件(異動後のケース)は覚えていないが,同年8月7日の件(レイアウト変更のケース)は覚えている。蛇行運転のケースでは,丙川とのやりとりをしたのは覚えているが,そのような危険な運転をした認識はない。内妻のいう北海道での運転の件では,低血糖になり,目がちかちかしてふらついたことを覚えている。

本件事故当日は,インスリンを注射した後夕食のオムライスを食べた。その後,午後7時半頃,会社を出て,普段運転している自動車でスポーツクラブに向かった。スポーツクラブでは,7月にばね指の手術をした後で余り運動していなかったし,気分も乗らなかったので,歩行運動を15分から20分くらい行い,サウナに40分から50分くらい,風呂に5分から10分くらい入っていた。血糖値が低いという自覚がなく,水かスポーツドリンクは飲んだと思うが,特に糖分の補給はしなかった。

午後9時過ぎ頃,スポーツクラブの駐車場を出て国道16号線に出てから,八幡橋の交差点の手前までは覚えている。普段,その交差点を左折するはずで,毎日通っている道だから間違える訳もないのに,そのときはそのまま直進したらしい。八幡橋をちょっと過ぎた辺りで,いつもと景色が違うという感覚があった。道を間違えたというより,景色が違うとしか思わず,どこかで軌道修正するという考えも浮かばなかった。

それからしばらくは運転していたという感覚がなくて,道路上のライトや信号の色,車のテールランプなどの光が入ってきたような記憶しかない。

低血糖で糖分が脳に行かなくなり,物事を認識しなくなったり,考えることができず,判断できない状態になったりして,道を間違えたと思う(乙2)。事故の状況は覚えておらず,逮捕現場までどう走ったかも分からない。

その後で覚えているのは,警察官に車を確認するように言われ,車の前が壊れているなと思った後,警察官と何か話をしたなということである(乙1。ただし,公判廷では,この記憶はないという。)。加賀町警察署での所持品検査のときからの記憶は普通につながっていると思う。本件事故当日,同署では食べる物を何も出してくれず,注射もしておらず,本件事故の翌日午後1時から2時の間,自分で血糖値を測定したところ290という異常に高い数値だった。

(3)本件鑑定

鑑定人は,本件鑑定おいて,被告人の場合,以下のア及びイのとおり,本件当時低血糖(無自覚低血糖)を来す危険因子の多くに該当していた上,被告人の本件当時の精神状態は,「分別もうろう状態」に該当すると判断されることから,被告人は,本件当時,1型(インスリン依存型)糖尿病に起因する低血糖(無自覚低血糖)により「分別もうろう状態」に陥っていた,被告人の意識混濁の程度は比較的軽く,周囲の情報は断片的に入力されていたと考えられるが,高度の意識狭窄のため,それらの情報と自分との関係が適切に把握できず,見当識(周囲の状況の正しい理解)は著しく(高度に)障害されていたと考えられる旨の判断を示している。

ア  被告人の場合,本件当時,低血糖(無自覚低血糖)を来す危険因子の多くに該当していたこと

① 1型糖尿病の治療として食前に超速効型インスリンを注射した場合,食後から次の食前までの間に低血糖を来す可能性があるところ,被告人は1型糖尿病であり,本件事故当日も,夕食前に超速効型インスリンを注射していた。

② 運動中ないし運動後にも低血糖を来す可能性があるところ,本件事故当日,被告人はスポーツクラブに2時間弱滞在し,運動した後,スポーツドリンクを飲んだだけであった。

③ 無自覚低血糖の危険因子として,低血糖の反復,長期罹病,血糖コントロール不良,糖尿病自律神経障害などが指摘されているところ,被告人は,昭和63年12月に体調不良を訴えて入院し,1型糖尿病と診断されているが,治療記録によれば,これまで被告人の血糖値にはかなりの動揺があり,しばしば低血糖症を認めるなど,血糖コントロールが必ずしも良好とはいえず,平成8年頃からは無自覚低血糖が時に起こっていたと考えられ,最近はほとんど毎月のように見られていた。

イ  被告人の本件当時の精神状態は,「分別もうろう状態」に該当すること

「もうろう状態」とは,意識障害の一種で,意識混濁(専ら意識清明度が障害された状態)は比較的軽度だが意識野が著しく狭められた状態で,始まりと終わりがはっきりしていることが多く,後に健忘を残すものである。その特殊なケースとして「分別もうろう状態」があり,これは,意識混濁の程度が比較的軽く,一見その場に相応したかのようなまとまった行動が可能な状態で,異常な言動が外見上余り目立たないが,事後にその間の健忘を認めるものであり,かなり精緻で複雑に見える行動を取ることもあるが,チグハグな行動が少なからず混入している。かなり精緻で複雑に見える行動は,日常的にやり慣れた行為や受動的で半ば自動的な行為に限られ,高度な状況判断を要するような行動は不可能である。また,細かく観察すると,反応は乏しく,無意味で不自然な言動も必ず混入している。

被告人の本件当時の精神状態は,以下のとおり,上記「もうろう状態」ないし「分別もうろう状態」に該当する。

① 被告人は,スポーツクラブの駐車場を出て自宅に向かい,八幡橋の交差点の一,二キロメートル手前までははっきりと覚えている,同交差点を誤って直進し,それからしばらくは運転していたという感覚がなく,光が入ってきたようなスポット的な記憶しかない,事故に関する記憶は全くない,その後で記憶がはっきりしているのは,警察署で話しているときで,それからの記憶は普通につながっている旨供述している。これは,全体のまとまった記憶が欠落し,断片的でつながりを欠く島状の記憶だけが辛うじて残っている状態(全健忘に近い部分健忘の状態)と判断される。

② 被告人は,八幡橋交差点に差しかかった頃,普段はその交差点を黄金町方面に左折するはずで,毎日通っている道だから間違える訳もないのに,そのときはそのまま直進した,八幡橋をちょっと過ぎた辺りで,いつもと景色が違うという感覚があった旨供述しており,この時点では明らかに注意力が散漫になっていたといえる上,被告人は,景色が違うとしか思わなかった,どこかで軌道修正するという考えも浮かばなかった旨供述しており,状況に対する判断力も低下していたことが分かる。

③ 被告人が健忘を認める1時間前後(八幡橋付近から加賀町警察署まで)の間,一人で車を運転して10キロ前後走行し,警察官の事情聴取に応じるなどかなり複雑でまとまった行動を取り,警察官にもさほど異常な印象を与えていないが,毎日車で通勤している被告人にとって,車の運転はごく日常的で,半ば自動的に実行し得る行為であったと考えられ,警察官の事情聴取の際の人定質問への正確な回答や,事故の確認に「すいません。」と答えたのは,受動的でいわば反射的な反応に過ぎなかったと推察される。

④ また,被告人は,本来の帰路から大きくコースアウトした道を走行し続け,多くの目撃者の前で重大事故を起こしながら,停車もせず低速運転でその場を去り,何ら対応措置を取らなかったほかにも,本件事故直前に,意味不明な急速な加速走行や,左側車線の左端を歩道とすれすれに這うように低速走行した,本件事故でフロントガラスがくもの巣状に破損し視界が著しく妨げられた状態で運転を続けた,警察官によるエンジン停止の指示に何度も躊躇し,運転免許証の提示を求められると財布を広げて数回お札を出そうとしていた,飲酒検知の途中でふらつき歩けなくなった,加賀町警察署に連行される際に一人で歩けない状態であったなど,被告人の行動には多くの不自然不可解でチグハグな行動が混入している。

(4)本件鑑定の信用性

ア 鑑定人は,その学識,経歴に照らし,鑑定人としての十分な資質を備えていることはもとより,鑑定において採用されている診察方法や前提資料の検討も相当なもので,結論を導く過程にも,重大な破たん,逸脱,欠落は見当たらない。鑑定資料とした被告人の供述もそれを虚偽として排斥すべき事情はなく,事故前後の被告人の行動等の評価も概ね裁判所の判断と同じであり,問題はない。また,鑑定が依拠する医学的知見も,格別特異なものとは解されず,その他鑑定人の鑑定の信用性を疑わせるような点は見当たらない。したがって,鑑定人の医学的所見は十分信用することができる。

イ  検察官は,本件鑑定は,被告人の弁解に捕らわれるあまり,被告人運転車両の走行状態や緊急逮捕時の被告人の言動などを総合的に評価することなく,それぞれの事実について多方向の観点から検討を加えることもないまま,判断を下した偏頗なものであるなどと主張する。しかし,以下のとおり,検察官の主張はいずれも採用できない。

① 本件鑑定は,被告人供述のみを判断資料としているのではないし,鑑定人も被告人の客観的行動とその供述の両方を総合的に判断して結論に到達したと供述しており,検察官の批判はその前提を欠く。

② また,被告人の供述は,被告人が本件事故以来一貫して同様の供述をしていること,本件事故前後において,前記(3)イ④で指摘されているような不自然不可解でチグハグな行動が認められたこと,さらには,過去に目撃された「蛇行運転のケース」などの際にも,他者(丙川)から見て,記憶がなかったと思われる状態にあったことなどに照らすと,これを虚偽として排斥すべき事情はなく,被告人の供述のみによって認められる事実についても,これを覆すに足りる証拠はなく,被告人が,刑責を免れようと意図していたものと断定はできない。鑑定が被告人の供述を前提としたことに問題はない。

③ 検察官は,多くの目撃者の前で重大事故を起こしながら,被告人が,停車もせず低速運転でその場を去り,何らの対応措置を取っていないことを鑑定人が不自然と指摘する点について,軽い低血糖状態で事故を起こしたとの負い目があった被告人が,その場から逃走しようとすることは極めて通常の心理状態で,むしろ自然である,本件鑑定は,低血糖を繰り返している被告人が,低血糖の影響により交通事故を起こした場合,被告人がどのような行動を取るかといった視点での思考がなされておらず鑑定として不十分であるなどと主張する。

確かに,鑑定人のこの判断は,若干被告人を信頼し過ぎている面がないではないが,被告人が,「軽い」低血糖状態で,重大事故を起こしたことを認識したならば,自己保身を考え,逃走しようと判断する方が自然であるなどとはいえないと考えられるし,被告人が意識障害の状態にあったならば,それが軽微であったとしても,瞬時に自己保身の判断ができるかも疑問がある。被告人の行動には上記以外にも多くの不自然不可解でチグハグな行動が混入しており,被告人の意識障害を推認させるものが多い。鑑定人は他の事実関係を併せ考慮しており,この点に関する検察官の批判は本件鑑定の結論を左右するものとはいえない。

④ 検察官は,鑑定人は,八幡橋交差点を左折しなくとも,方向的には被告人の自宅に向かう経路であることを考慮していないし,ホテルニューグランド先交差点からの走行経路も問題視せず,複雑な道路状況も全く考慮しないまま,被告人の記憶がないとの主張に依拠して結論を出しており,鑑定として雑に過ぎるという。すなわち,被告人が,八幡橋交差点を直進しながら,その後進路を修正せず直進を続けたのは,意識障害がなく,そのまま進行しても通常の帰宅コースに合流できる旨現状を的確に判断していたとも考えられるし,被告人が,本件事故当時,意識障害に陥っていたのであれば,ホテルニューグランド先交差点から,無意識に自宅方向にそのまま直進しているはずなのに,その後,突然,自宅とは全く方向違いの埠頭に向けて走行したのは,事故を起こして,フロントガラスが破損した車両で帰宅する訳にはいかないと考えたとみるのが自然であって,進路の突然の変更の事実こそ,被告人が事故を惹起したことを認識していたことを如実に物語っているなどという。

しかし,直進しても自宅方向に向かうと被告人は判断したとの検察官の推論は,確たる根拠がないし,ホテルニューグランド先交差点から埠頭方面に向かうルートはそれほど複雑でもない(被告人が事故後左折したと推測される開港広場前は,道なりに進んでも大きく左に湾曲しており,その道路状況からすれば,左折して進路を変更するのもそれほど不思議ではない。)から,被告人が事故後埠頭にいた事実は,事故を認識し,逃げようとして人気のないところに行ったのだと直ちに推論できる訳ではなく,そういう推論も不可能ではないというにとどまる。これらは,被告人が分別もうろう状態であったとして説明がつくものであり,進路の変更が被告人に意識障害がなかったことを如実に物語るなどとはいえず,鑑定として雑に過ぎるとはいえない。

⑤ その他,検察官は,鑑定人が,前記(3)イ④で,不自然な点として指摘した各事実は,いずれも合理的,合目的であり,何ら不自然ではないなどと縷々主張し,また,蛇行運転のケースなど被告人の過去の低血糖らしき状態の際と比較し,同等であるとか,低血糖の程度は本件事故のときの方が軽微であったなどとも主張する。

しかし,前者については,既に指摘したこと以外では,本件事故前のポルシェに追従しての急加速は意味不明であるし,低速走行等については,それを目撃した丁谷は,法定速度以下で道路の歩道側を這うような形でぴったり左側に寄った形で走っていたため,事故を起こすちょっと前から不審感を感じていたと証言している。検察官は,本件事故後,フロントガラスの破損で視界が悪くなっていながら,事故現場からホテルニューグランド先交差点まで,安定した走行状態であったというが,そもそも視界が著しく妨げられた状態で平然と運転を続けること自体が不可解ともいえるし,その間にも,被告人は,左折専用レーンをそのまま直進したり,後方にいた丁谷運転車両からのクラクションやライトの点灯に気付いた様子もないなど,やはり,不自然不可解な行動が混じっている。運転免許証の提示を求められ,数回お札を出そうとしたことや,警察官の飲酒検知等の際,2度にわたり,一人で歩けない状態になったことは不自然不可解といえる。

後者については,被告人の過去のケースは,概ねいずれも,同僚など一般人による一場面の目撃情報であって,比較の対象としてその意識障害の程度を判断するのは適当とはいえない。

本件鑑定に対する検察官の主張は,いずれも理由がなく,採用できない。

(5)総合判断

上記のとおり信用性が認められる本件鑑定を踏まえ,被告人の本件事件の故意及び本件当時の被告人の責任能力について検討する。

ア  本件事件の故意

被告人は,本件事故後も相当な距離を走行していたのであるから,大部分がくもの巣状に破損したフロントガラスの状態を認識していなかったはずはないところ,警察官(B)から,「ガラスが割れているけれどもどうしたんですか。」と質問され,後方を指さしながら,「向こうで何かにぶつかった。」と答えている(前記(1)オ(イ))のであるから,被告人は,少なくとも,本件当時,被告人運転車両と何かがぶつかり,その結果フロントガラスが損壊したとの事実を認識し,理解していたものと認められる。また,被告人は,その後,停止や警察官らへの報告をせずにそのまま走行していた事実も認識していた。したがって,被告人には報告義務違反の故意が認められると考えられる。

もっとも,被告人が,そのぶつかったものが人であるとの事実や,さらに,その相手が負傷したとの事実までも,未必的にでも認識していたかは疑問がある。確かに被告人は,本件事故後,警察官(B)から,「先ほど向こうで自転車をはねた車があるんだけれど,あなたではないですか。」と質問され,「私はこれからどうすればよろしいんですか。」と答えていることなどからすると,検察官が主張するように,被告人が,被告人運転車両が自転車に乗った人とぶつかった可能性,さらには相手が負傷した可能性を認識していたのではないかとの疑いもないではない。しかし,前記認定に係る被告人の本件当時の精神状態等に照らすと,少なくとも,被告人が,何かにぶつかったことにより,人が負傷したことまでも未必的にでも認識したと断定するのは躊躇される。したがって,被告人には,救護義務違反の故意は認められない。

イ  責任能力

報告義務違反については責任能力が問題として残る(仮に,救護義務違反についても故意が認定できるとすれば,これも同様である。)が,被告人は,認識した情報によって,自分がなすべきことを理解していたとは認められないから,結局,責任能力が認められないというべきである。

すなわち,被告人は,本件当時,1型糖尿病に起因する低血糖(無自覚低血糖)により「分別もうろう状態」に陥っており,意識混濁の程度は比較的軽く,周囲の情報は断片的に入力されていたと考えられるが,高度の意識狭窄のため,それらの情報と自分との関係を適切に把握できず,見当識(周囲の状況の正しい理解)は著しく(高度に)障害されていた疑いがある。そうすると,上記のとおり,被告人に認められる,被告人運転車両に何かがぶつかり同車両が損壊したとの情報の認識(人の負傷の情報認識まであったとすれば,それも含む。)があったとしても,被告人は,本件当時,「分別もうろう状態」に陥っていたため,認識した情報と自分との関係を適切に把握したり,全体の状況の中で自分の行動の持っている意味合いを理解できないため,その情報から,それは自分が起こした交通事故であり,それにより(少なくとも)被告人運転車両が損壊したから,直ちに最寄りの警察署の警察官に届け出なければならないということや,ぶつかったものが人であり,その人が負傷していた場合には自分がその人を救護しなければならないということなど,自分が何をすべきかについて思いが至らなかった疑いが残るといわざるを得ない。

結局,被告人には,本件当時,自分の行為の是非を弁識する能力及びその弁識に従って行動を制御する能力を欠いていた疑いが残り,責任能力を認めることができない。

5  結論

よって,被告人には,救護義務違反についてはそもそも故意を認めることができず,報告義務違反についても,故意は認められるが,責任能力を認めることができない。弁護人らの主張は概ね理由がある。結局,本件公訴事実については犯罪の証明がないことに帰するから,刑訴法336条により,無罪の言渡しをする。

(裁判長裁判官 久我泰博 裁判官 前澤久美子 裁判官 橋口佳典)

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