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横浜地方裁判所 平成21年(ワ)1025号 判決 2012年7月27日

原告

訴訟代理人弁護士

鈴木和憲

松尾浩順

被告

訴訟代理人弁護士

花村聡

"

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は、原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告に対し、三八七〇万〇一九八円及びこれに対する平成八年七月一三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

一  争いがない事実

(1)  本件事故の発生

ア 日時 平成八年七月一三日午後九時三五分ころ

イ 発生場所 神奈川県小田原市<以下省略>先 小田原厚木下り道路上

ウ 関係車両

原告運転の自動二輪車(以下「原告車両」という。)

被告運転の自動二輪車(以下「被告車両」という。)

エ 事故の態様

原告、被告ら五名がツーリング中、被告車両が遅れを取り戻すためにスピードをあげ、前の乗用車を追い越し、前に出ようとしたが、追い越し車両に気をとられ、前を走っていた原告車両に気づかず、時速一三〇キロメートル~一四〇キロメートルの速度で原告車両に追突した。

(2)  被告の責任

被告は、被告車両を運転し、前方不注意により原告車両に追突したから、民法七〇九条により、また、被告車両の保有者であるから、自賠法三条により、原告に生じた損害を賠償する責任がある。

(3)  原告の治療の状況等

ア 原告は、本件事故当日に東海大学病院に搬送され、同病院において、右大腿骨開放粉砕骨折、左距骨脱臼、左踵骨粉砕骨折、左橈骨遠位端骨折などの診断を受けて、平成九年七月一四日まで同病院に入院し、同日、神奈川リハビリテーション病院に転院し、平成一〇年一〇月一九日まで入院し、その後、通院し、平成一一年一〇月三一日に症状固定との診断を受けた。

イ 原告は、平成一三年五月一四日、自賠責保険について、以下のとおり、自賠法施行令別表第二の併合五級の後遺障害の認定を受けた。

左下肢短縮 八級五号

右膝関節機能障害 一〇級一一号

右二踵関節機能障害 一三級一一号

左下腿骨偽関節 八級九号

左足関節機能障害 八級七号

左一、二踵関節機能障害 一一級一〇号

左足部神経症状 一二級一二号

以上により併合五級

(4)  原告と被告との和解契約

原告と被告は、平成一五年二月二二日、本件事故による上記後遺障害等について、既払金一九七五万八八〇五円のほか、七五二〇万円を支払う旨の和解をした(以下「本件和解契約」という。)。そして、原告は、被告から上記和解金の支払を受けた。

二  争点とそれについての当事者の主張争点は、①原告が高次脳機能障害であるか、本件和解契約の効力が及ぶ範囲及び原告の損害額並びに②消滅時効の成否である。

(1)  原告が高次脳機能障害であるか、本件和解契約の効力が及ぶ範囲及び原告の損害額

(原告の主張)

ア 原告は、体調不良に悩まされていたが、平成一五年九月一一日に入院した際に「高次脳機能障害」と診断され、平成一九年二月二一日に、「びまん性軸索損傷、高次脳機能障害」の傷病名で症状固定の診断を受けた。

イ 原告の症状は、「神経系統の機能又は精神に著しい障害を残し、特に軽易な労務以外に服することができないもの」として、自賠法施行令別表第二の五級二号に該当するから、前記第二、一(3)イの傷害と併せて、併合三級に該当する。

本件和解契約締結当時は、「高次脳機能障害」による精神障害は予想しておらず、前提とされていなかった。したがって、原告は、被告に対し、「高次脳機能障害」による後遺障害についての損害賠償請求をすることができる。

ウ したがって、原告には、次の損害がある。

(ア) 逸失利益 一億一一四六万九〇〇三円

a 基礎収入

平成一九年賃金センサス産業計男子大学卒による平均賃金 六八〇万七六〇〇円

b 労働能力喪失期間

原告は、症状固定時に三二歳であったから、労働能力喪失期間は、三五年である。

c 労働能力喪失率 一〇〇%

d そうすると、次のとおり、一億一一四六万九〇〇三円となる。

六八〇万七六〇〇円×一六・三七四二(三五年のライプニッツ係数)=一億一一四六万九〇〇三円

(イ) 慰謝料 二二一九万円

(ウ) 合計 一億三三六五万九〇〇三円

(エ) (ウ)から既に受領している九四九五万八八〇五円を差し引くと、三八七〇万〇一九八円となる。

(被告の主張)

ア 原告が「高次脳機能障害」であること及び同障害が本件事故と相当因果関係があることは、否認する。

イ 原告は、本件和解契約より前から「高次脳機能障害」の治療を受けていたから、「高次脳機能障害」による損害についても、原告は、本件和解契約により、損害賠償請求権を放棄したものである。

ウ 原告の損害額は、否認する。なお、中間利息は、事故時から控除されるべきである。

(2)  消滅時効の成否

(被告の主張)

原告の症状固定日は、遅くとも平成一八年二月二一日であるから、本訴の提起時点(平成二一年三月三日)において、既に三年を経過している。

被告は、上記時効を援用する。

(原告の主張)

原告は、「高次脳機能障害」については、平成一九年二月二一日に症状固定したから、消滅時効にかかることはない。

第三裁判所の判断

一  事実関係

(1)  証拠<省略>によると、次の事実が認められる。

ア 原告は、a大学四年のときに、本件事故に遭い、大学は、中退した。

イ 原告は、平成一〇年一〇月一九日に、神奈川リハビリテーション病院を退院し、自宅でリハビリをしていたが、b株式会社(以下「b社」という。)に障害者枠で採用され、平成一一年一一月一日から、同社秦野営業所で働き始めた。原告は、電話によるクレーム対応処理を行っていた。初めは嘱託であったが、平成一三年四月一日には、正社員になった。原告は、隣にいる先輩社員に助けられるなどして、仕事をしていた。

原告は、平成一二年一一月に結婚した。結婚式は、ハワイで行った。

ウ 原告は、平成一三年九月ころから、下痢で頻繁にトイレに行くようになり、時に前胸部絞やく感があり、特に午前中が不良であった。原告は、同年一〇月下旬から、b社における仕事を休んだ。

原告は、過敏性腸症候群と診断され、平成一三年一一月八日から、神奈川リハビリテーション病院神経・精神科で診察を受け、抗うつ薬、抗不安薬を処方された。

原告は、平成一三年一一月二一日から、b社において勤務を再開し、平成一四年四月から、とうめい厚木クリニックに転院となり、同病院に通院した。

平成一四年○月には、原告に長女が生まれた。

原告は、平成一四年七月に、b社において、料金課に転属になり、電話による料金の回収を行っていたが、同年八月一八日から、再度、仕事を休むようになった。

エ 原告は、平成一四年九月五日から、再度、神奈川リハビリテーション病院神経・精神科で診察を受けた。原告には、消化器症状があり、また、抑うつ状態であった。

原告は、平成一五年九月一一日から、高次脳機能障害の評価のため、神奈川リハビリテーション病院に入院し、同年一二月五日に退院した。その後は、原告は、同病院に通院した。

原告が上記入院中に受けた検査の結果は、WAIS―Rでは、総IQ七五、言語性IQ七三、動作性IQ八二(平均範囲八五~一一五)であり、WMS―Rでは、言語性記憶一一一、視覚性記憶五五、一般的記憶九四、注意・集中七九、遅延再生八一(指数平均範囲八五~一一五)であり、三宅式記銘力検査では、有関係対語=7・10・実施せず(実施したものについては、いずれも基準値内)、無関係対語=0・2・2(いずれも基準値外)であった。また、頭部MRIでは、「明らかな脳損傷は認めないが、脳全体に萎縮がある。」と診断され、脳血流シンチグラフィでは、「両側前頭葉の軽度脳血流低下が認められる。側脳室の拡大又は側脳室周囲の血流低下が認められる。」と診断された。原告は、上記入院中に、高次脳機能障害であると診断された。

オ 原告は、引き続きb社の仕事を休んでいたが、平成一六年一〇月ころから、復職に向けて、神奈川リハビリテーション病院において、エクセルやワードの訓練を受けた。

原告は、平成一七年二月一日から、復職支援勤務となり、b社に出社したが、翌二日に、同僚から自家用車通勤(原告はb社から許可を受けていた)をとがめられ、下痢の症状が出た。原告は、その後、しばらくは出社したが、出社困難になり、同月二八日に退職した。

カ 原告は、その後も、神奈川リハビリテーション病院に通院していた。平成一七年四月~六月に、同病院で行われた検査の結果は、WAIS―Rでは、総IQ八四、言語性IQ八一、動作性IQ九二(平均範囲八五~一一五)であり、WMS―Rでは、言語性記憶八一、視覚性記憶九九、一般記憶八四、注意・集中八七、遅延再生八四(指数平均範囲八五~一一五)であり、三宅式記銘力検査では、有関係対語=8・9・10(8と10は基準値内、他は基準値外)、無関係対語=0・4・8(8のみ基準値内、他は基準値外)であった。これらの検査結果は、「言語性の知的機能と記憶力には、やや低下がまだ見られるが、それ以外では大きな問題は見られていない」、「職種の選択は必要だが、一般就労も可能と思えるレベルにある」と評価された。

キ 原告は、平成一八年一一月一六日から、c病院に就職して仕事を始めたが、難しい仕事を要求されるなどしたため、腹痛などの症状が出た。そのため、平成一九年三月一五日に、同病院を退職した。

原告は、平成一九年一月二二日には、急に胸が痛くなり、頭がぼおっとして前向きに倒れたことがあった。

原告は、平成一九年二月二一日、神奈川リハビリテーション病院において、「びまん性軸索損傷、高次脳機能障害」について症状固定と診断された。原告の後遺障害診断書には、自覚症状として、「記憶力低下、就労能力の欠如、症状に波がある、気分が安定していない」、他覚症状及び検査結果として、上記エ、カの検査結果のほか、「行動観察上も対人対応拙劣などがみられている(訓練中に他人とけんかになりそうになるエピソードあり)。発動性の低下、感情コントロールの低下、固執、易疲労性などがみられる。」と記載されている。

原告は、平成一九年三月一一日に、大量の薬を飲んで、自殺未遂をした。

ク 神奈川リハビリテーション病院において、神経・精神科が廃止されたため、原告は、平成一九年六月一五日から、聖マリアンナ医科大学病院に通って、抗うつ剤の処方、カウンセリングなどの治療を受けている。同病院では、脳器質精神障害(低酸素脳症による)、うつ状態であり、脳萎縮、知能低下があると診断された。

平成一九年七月五日に、同病院で行われたWechsler式知能テストの結果は、「全検査IQ九一、言語性IQ九一、動作性IQ九四で、平均レベルにあるが、検査によってばらつきが大きい。言語的な理解や表出に関しては、平均的能力を保っている。ただ、粘って考えたり、説明したりといった積極性に乏しい面があるため、複雑なやり取りを要する場面では、持っている能力が十分発揮されないことがある。複数の事柄に注意を向け、蓄積した情報を基にスムーズな情報処理を行うのが苦手なことが推測された。図形処理や視覚情報から文脈を読み取り意味づけする能力は、平均以上である。一方、作業の処理速度は平均を下回っており、スピードは期待できない。」というものであった。それらを基にした心理テスト結果報告書には、「能力特性にあった無理のない就労(例:速さを求められない単純作業など)が望まれる」と記載されている。また、平成一九年八月二八日付けの同病院の診断書には、「精神障害を認め、日常生活に著しい制限を受けており、時に応じて援助を必要とする。」と記載されている。

ケ 原告は、自賠責保険の後遺障害の認定について追加請求をしたが、平成一九年四月一六日、高次脳機能障害の傷病名でされた治療は、本件事故との因果関係は認められないとして、認定しないとされた。

コ 原告は、平成一九年一〇月一八日から、福祉枠で、d株式会社に入社し、中古車両の洗車を行っていたが、足の障害のためにうまく仕事を行うことができず、頭痛、腹痛がひどくなり、平成一九年一一月二五日から休職し、平成二一年三月三一日に退職した。

その後、原告は、働いていない。

サ 原告の妻と子は、平成二〇年五月に家を出て行き、その後、原告と妻は離婚した。

原告は、一人で暮らしている。原告の母が、週二回、原告宅へ行って、家事を行っている。

シ 神奈川リハビリテーション病院の医師は、平成二二年三月一二日付け意見書において、「現時点を含めて、一般就労は不可能と考えられ、福祉的な対応がある職場でも就労は難しい状態であると考えられます。」と述べている。

ス なお、神奈川リハビリテーション病院における医療記録には、原告の既往症として、「元来、神経質、内向的で、自己主張が苦手、胃腸が脆弱、下痢をしやすかった。」との記載がある。

二  上記事実関係に基づき、判断する。

(1)  証拠<省略>によると、自賠責の実務において、高次脳機能障害の認定システムが導入されたのは、平成一三年一月からであり、労災保険の実務において、認定基準が改定され、高次脳機能障害の認定基準が設けられたのは、平成一五年八月であると認められる。

したがって、本件事故が起きた平成八年当時は、高次脳機能障害について必ずしもその診断基準が確立されていなかったと認められる。

(2)  しかし、当裁判所で行った鑑定の結果によると、①MRI画像によると、やや脳室の拡大等萎縮傾向が認められるものの、有意とはとれないこと、②東海大学病院の初診時の診断書には、「意識障害なし」と記載されていること、③b社において勤務していることなどから、原告について、器質的脳損傷があるとは認められないとされている。そして、原告について、東海大学病院の初診時に意識障害が認められなかったことについては、入院時の診療録に「GCS4―5―6」(GCS4―5―6は、満点であり、意識清明を意味する)と記載されていることから裏付けられる。なお、原告の同病院入院時の診療録には、「JCS I―1」(JCS I―1は、「大体意識清明だが、いまひとつはっきりしない」を意味する)との記載もあるが、上記の「GCS」の記載や同病院の診療録の他の部分の記載からすると、同病院の初診時に意識障害が認められなかったとの上記認定を左右するものではない。また、東海大学病院の診療録には、病名として「頭蓋内出血」との記載があり、頭部CTの撮影がされているが、同病院の診療録には、頭部CTでは出血は認められなかった旨の記載がある上、同病院の診療録の他の部分には、「頭蓋内出血」を治療したとの記載も認められないから、原告に「頭蓋内出血」があったとは認められない。

前記一認定のとおり、原告について、神奈川リハビリテーション病院においては、高次脳機能障害と診断されており、聖マリアンナ医科大学病院においても、器質的精神障害と診断されていることとは、鑑定の結果は矛盾するものであるが、いまだ、これらの診断の方が、鑑定の結果よりも採用できるとの根拠は存しない。

(3)  また、仮に、原告に器質的脳損傷があるとしても、次の各事実からすると、本件事故と相当因果関係のある原告の後遺障害は、自賠法施行令別表第二の七級を超えるものとは認められない。

ア 原告は、b社に障害者枠で採用され、平成一一年一一月一日から、同社秦野営業所で働き始め、平成一三年四月一日には、正社員になり、同年九月ころまでは、普通に勤務としていたと認められることからすると、隣にいる先輩社員に助けられるなどしたことがあったとしても、これらの時期には、作業負荷に対する持続力・持久力や社会行動能力はもとより、意思疎通能力や問題解決能力についても、それほど大きな困難があったとは考えられず、したがって、「これらの能力のうちいずれか一つ以上の能力の大部分が失われている」、あるいは、「これらの能力の二つ以上が半分程度失われている」とまではいえないこと

イ 原告の知能に関する検査は、平成一五年、平成一七年、平成一九年に行われているが、後のものほど数値が良く、平成一七年の検査結果は、「言語性の知的機能と記憶力には、やや低下がまだ見られるが、それ以外では大きな問題は見られていない」、「職種の選択は必要だが、一般就労も可能と思えるレベルにある」と評価されており、平成一九年の検査においては、知能は平均的レベルにあるとされ、「能力特性に合った無理のない就労(例:速さを求められない単純作業など)が望まれる」とされていること

ウ 原告の後遺障害診断書には、「行動観察上も対人技能拙劣などがみられている(訓練中に他人とけんかになりそうになるエピソードあり)。発動性の低下、感情コントロールの低下、固執、易疲労性などがみられる。」と記載されているものの、他に、原告に、他人との関係などにおいて問題行動があると認めるに足りる証拠はないこと

エ 原告は、もともと「神経質、内向的で、自己主張が苦手、胃腸が脆弱、下痢をしやすかった」ことがうかがわれ、原告が、前記一で認定したような経過を経て、仕事をすることができなくなったことには、原告の心因的な要因も作用していると考えざるを得ないこと

三  不法行為による損害賠償の示談において被害者が放棄した損害賠償請求権は、示談当時予想していた損害についてのもののみと解すべきであって、その当時予想できなかった不測の後遺障害がその後発生した場合に、その損害についてまで、賠償請求権を放棄した趣旨と解するのは、当事者の合理的意思に合致するものとはいえないから、そのような後遺障害については、被害者は、後日その損害の賠償を請求することができる(最判昭和四三年三月一五日民集二二巻三号五八七頁参照)。

しかし、原告には、器質的脳損傷があるとは認められないか、認められるとしても、本件事故と相当因果関係のある原告の後遺障害は、自賠法施行令別表第二の七級を超えるものとは認められないから、結局のところ、本件事故と相当因果関係のある原告の後遺障害は、本件和解契約当時想定されていた併合五級を超えることはないものというべきである。

したがって、原告が、本件和解契約で支払を受けたもののほかに、被告に対して、賠償請求をすることができるとは認められない。

四  よって、原告の請求は、理由がないので、主文のとおり判決する。

(裁判官 森義之)

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