横浜地方裁判所 平成21年(ワ)2552号 判決 2011年4月28日
原告
X
同訴訟代理人弁護士
野村和造
被告
Y株式会社
同代表者代表取締役
A
同訴訟代理人弁護士
安西愈
同
梅木佳則
同
松原健一
同
倉重公太朗
同
岡村光男
主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1請求の趣旨
被告は、原告に対し、6130万2588円及びこれに対する平成21年6月10日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は、かつて被告に勤務し、平成8年9月25日に死亡した亡B(以下「B」という。)の相続人である原告が、Bの死亡は、被告の安全配慮義務違反によって石綿(アスベスト)に曝露し、その結果、悪性胸膜中皮腫に罹患したことが原因であるとして、被告に対し、債務不履行又は不法行為による損害賠償請求権に基づき、損害額合計6130万2588円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成21年6月10日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。
1 前提事実(証拠によって認定した事実は各項末尾の括弧内に認定に供した証拠を摘示し、その記載のない事実は当事者間に争いがない。)
(1) 当事者等
ア 被告は、総合エンジニアリング企業であり、平成15年4月1日、商号をa株式会社から現在の商号に変更した。
イ Bは、昭和15年○月○日に生まれ、昭和36年5月7日に被告に入社し、被告のb造船所(以下「b造船所」という。)の電気課にて勤務し、昭和42年4月5日に被告を退職した。
Bは、平成8年9月25日、悪性胸膜中皮腫により死亡した(死因につき書証省略)。
ウ 原告は、Bの妻であり、遺産分割により、本件に係る損害賠償請求権を相続した。
(2) 石綿等
ア 石綿(アスベスト)
石綿とは、自然起源の長繊維状の珪酸化合物であり、長くて細い繊維に容易に分かれ、かつ、物理的強靭さ、科学的不活性(酸、アルカリに強い。)、電気、熱に対する絶縁性を有し、多様な応用範囲を持つ特性の故、広く利用された。
石綿労働者の作業環境中に浮遊する石綿繊維の太さは、1ミクロンないし5ミクロン程度であり、大気中に放出された石綿繊維は、長時間にわたり空気中に浮遊する。これは、人間がそれを吸い込む危険性が大きくなることを意味するとともに、石綿繊維が空気中を移動し、汚染が拡大することを意味する。また、石綿繊維が細くなればなるほど、人間がそれを吸い込む危険性が大きくなるとともに、いったん体内に取り込まれると、肺や胸膜、腹腔に深く入り、排出されにくくなる。
イ 石綿による疾患
石綿の吸入によって、石綿肺、中皮腫、肺がんが引き起こされ、また、胸膜疾患として良性石綿胸水と主にその後遺症としてのびまん性胸膜肥厚及び胸膜プラーク(胸膜肥厚斑)等が生じる。
ウ 悪性中皮腫
中皮は、漿膜と呼ばれる透明な膜であり、肺、心臓、消化管等の臓器の表面と体壁の内側を覆い、これらの臓器が円滑に動くのを助けているが、中皮腫は、この漿膜の表面にある中皮細胞に由来する腫瘍である。そして、胸膜や腹膜、心膜又は精巣鞘膜から発生する悪性腫瘍を悪性中皮腫といい、発症部位として多いのは胸膜である。
悪性中皮腫は、診断されてから短期間で死亡することが多く、有効な治療方法も確立されていない。
石綿曝露開始から発症ないし死亡までの期間は、一般的に30年ないし40年であると言われている。
(3) 遺族特別給付金等の支給
ア 原告は、石綿による健康被害の救済に関する法律(以下「石綿健康被害救済法」という。)施行後、同給付金の請求をしたところ(以下「本件請求」という。)、平成18年7月13日、特別遺族年金の支給決定がされ(以下「本件支給決定」という。)、平成21年5月27日時点での総支給額は240万円であった。
イ 原告は、Bの死亡により、遺族厚生年金を支給され、同日時点での総支給額は1859万3684円であった。
(4) 被告による消滅時効の援用
原告は、平成21年5月27日、本件訴訟を提起した。被告は、平成21年7月16日の第1回口頭弁論期日において、本訴請求権(原告の被告に対するB死亡に係る債務不履行及び不法行為に基づく損害賠償請求権)につき、消滅時効を援用する旨の意思表示をした(当裁判所に顕著な事実)。
2 争点
本件の争点は、(1)被告の安全配慮義務違反の有無、(2)損害額、(3)消滅時効の成否、(4)被告による消滅時効援用の可否であり、以上の各争点についての当事者の主張は、以下のとおりである。
(1) 争点(1)について
ア 原告
(ア) Bの石綿曝露
Bは、造船工場であるb造船所において、船内の電気敷設、配電盤・照明等の機器類の据付け、電線と機器類との結線工事作業に従事していた。Bは、船内の密閉された換気の悪い環境の下、船内居住区内で作業をし、船内における他の作業者による石綿吹付け、その他の石綿を使用する作業により発生する石綿粉じんやB自身のアスベストボードへの電気機器類を取り付けるための穴開け作業による石綿粉じんに曝露した。
なお、Bは、被告退職後、c株式会社、d株式会社にそれぞれ短期間勤務した後、昭和48年3月から平成8年9月25日までe株式会社(以下「訴外会社」という。)に勤務していたが、訴外会社では、石綿が飛散しない職場又は石綿とは無縁の職場にしか勤務していなかった。したがって、Bの訴外会社における作業と中皮腫発症との因果関係は否定され、被告以外にBが石綿に曝露した職場は存在しない。
(イ) 被告の安全配慮義務の内容
使用者は、労働者に対し、労働者が労務に服する過程で、生命、身体、健康を害さないように配慮すべき義務(安全配慮義務)を負うところ、石綿粉じんの危険性は古くから指摘されており、被告は、石綿粉じん曝露による労働者の健康障害を予防するため、Bが被告に在籍していた当時、以下に述べる内容の安全配慮義務を負っていたというべきである。
a 作業環境管理に関する措置
① 被告は、石綿関連疾患の予防対策を講ずるため、作業現場における石綿粉じんの有無、程度を定期的に測定し、また、石綿粉じん濃度の測定結果に基づき、それまでの粉じん対策の効果を評価するとともに、作業環境を改善するための必要な措置をとるべきであった。
② 被告は、造船所において石綿粉じんが発生、浮遊しないよう、石綿の保管・運搬において容器ないし梱包を密閉化する措置をとるとともに、保管時に石綿を他の原材料と隔離すべきであった。また、石綿を使用する作業においては、囲い等を設けて密閉、隔離を図るべきであった。
③ 被告は、発生した石綿粉じんが飛散しないような措置をとるとともに、作業現場における全体換気装置、集じん機、局所排気装置の設置等、石綿粉じんを速やかに除去する措置をとるべきであった。
④ 被告は、前記各措置のほか、可能な限り混在作業を禁止し、あるいは抑制する措置をとるべきであった。
b 作業条件管理に関する措置
① 被告は、労働中の作業時間そのものを短縮するなど石綿粉じんに曝露する時間を短縮するとともに、休憩時間を十分に確保し、また、石綿粉じんから遮断された清浄な空気が確保された休憩所を設置すべきであった。
② 被告は、造船所の全従業員に対し、最適な防じんマスク等の呼吸用保護具及びフィルター等の交換部品を随時支給し、着用させるべきであった。
c 健康等管理に関する措置
① 被告は、労働者に対し、石綿関連疾患の発生メカニズム、石綿粉じんの有害性や危険性、同疾患の予防対策について教育すべきであった。
また、被告は、労働者に対し、前記a①の石綿粉じんの測定結果やそれに基づく危険の有無、程度を常時告知すべきであった。
② 被告は、石綿関連疾患の罹患者を早期に発見し、可及的速やかに適切な診察、治療を受けられるようにすべく、じん肺健康診断及び早期罹患病者対策を実施すべきであった。
(ウ) 被告の安全配慮義務違反
被告は、前記(イ)で述べた安全配慮義務をいずれも怠り、狭隘な場所において、B自身の作業や他の作業により発生する石綿粉じんの下、保護具を着用させないままBを作業に従事させ、悪性胸膜中皮腫を発症させたものであるから、信義則上の安全配慮義務違反(債務不履行)ないし不法行為による損害賠償責任を負う。
イ 被告
(ア) Bの石綿曝露について
Bは、被告に入社した際には電気課電装係(以下「電装係」という。)に配属されたものの、その後配属先が変更となり、被告退職当時には同課工作係(以下「工作係」という。)に配属されていた。工作係は、主に設備保全を行う部署であり、アスベストボードへの電気機器類を取り付けるための穴開け作業、他の作業者による石綿吹付けやその他石綿を使用する作業は全くなく、石綿粉じんが発生する作業環境ではなかった。
(イ) 被告の安全配慮義務の内容について
我が国においては、昭和46年に特定化学物質等障害予防規則(昭和46年労働省令第11号。以下において、同規則の改正の前後を問わず「特化則」という。)が施行されるまでは、石綿による健康被害に関しては専ら専門家や研究者等による研究がなされていた程度で、国の法令による具体的な規制は行われていなかった。そして、石綿が発がん性物質であることを前提に規制が進められたのは、昭和50年10月に改正された特化則(昭和47年労働省令第39号)が初めてであり、石綿等の製造が全面的に禁止されたのは平成18年に至ってからのことである。
以下のような石綿に関連する法規制の変遷経過に照らせば、Bが被告に在籍していた当時、被告が石綿によってBの生命、身体に危険が及ぶことを予見するのはおよそ不可能であった。したがって、安全配慮義務の前提となる予見可能性を欠く以上、被告は、原告主張の安全配慮義務を負っていなかったというべきである。
(ウ) 被告の安全配慮義務違反について
被告は、Bが被告に在籍していた当時、粉じん作業に対してはじん肺法及び同法施行規則に則った対策を講じていたから、粉じん配慮における安全配慮という観点からも何ら義務違反がなかった。
(2) 争点(2)について
ア 原告
原告は、以下のとおり、合計6130万2588円の損害を被った。
(ア) 逸失利益 4172万6272円
Bの悪性胸膜中皮腫が発症する前年の平成6年の年収は784万6529円であった。そして、Bは56歳で死亡したから、労働能力喪失期間は12年間で、これに対応するライプニッツ係数は8.863であり、生活費控除率は40パーセントが相当である。したがって、Bの逸失利益は、次の式で算出される上記金額となる。
784万6529円×8.863×0.6
(イ) 慰謝料 3500万円
Bは、静穏な余生を過ごすはずであったところ、50代という若さで大きな苦しみの中で死亡した。その精神的苦痛を慰謝するためには、上記金額が相当である。
(ウ) 損益相殺 2099万3684円
原告は、第2・1(3)アのとおり、平成18年7月13日、本件支給決定を受け、平成21年5月27日時点での総支給額は240万円である。
原告は、同イのとおり、Bの死亡により、遺族厚生年金を支給され、同日時点での総支給額は1859万3684円であるから、これに前記240万円を加えた上記金額について損益相殺する。
(エ) 弁護士費用 557万円
原告は、本件事案の性質上、弁護士に訴訟の提起・追行を依頼せざるを得なかったから、損益相殺後の金額5573万2588円の約1割に相当する弁護士費用557万円は、被告の前記安全配慮義務違反と相当因果関係があるというべきである。
イ 被告
原告の主張のうち、(ウ)は認め、その余は否認し、争う。
なお、Bが60歳以降も死亡前の年収が得られるとは認められないから、60歳以降の基礎収入については年齢別賃金センサスによるべきである。
(3) 争点(3)について
ア 被告
(ア) 信義則上の安全配慮義務違反(債務不履行)に基づく損害賠償請求権
安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権に係る消滅時効は権利を行使することができる時から進行するところ(民法166条1項)、Bは平成8年9月25日に死亡したから、同日をもってBの中皮腫罹患により被った損害が確定し、Bの相続人である原告が被告に対して同損害賠償請求権を行使することが可能であったといえる。したがって、同損害賠償請求権は、平成18年9月25日の経過をもって消滅時効が完成している。
(イ) 不法行為による損害賠償請求権
a 静岡労働基準監督署(以下「静岡労基署」という。)の原告からの平成18年6月14日付け聴取書(書証省略。以下「本件聴取書」という。)に「病気の原因は何か先生に聞いたところ、『石綿が原因だ』と言っていて、主人も『a社で石綿を吸った』と言っていました」と記載されていることからすれば、B及び原告は、Bの生前から、被告の下で石綿を吸ったことによって病気になったとの認識があったのであり、Bが死亡した時点で、原告がBの中皮腫による死亡が被告における就業中の石綿曝露によるものであると認識していたことは明らかである。したがって、原告は、Bが死亡した平成8年9月25日の時点(どんなに遅くとも原告が本件請求書を作成した平成18年3月23日の時点)で「損害及び加害者を知った」(民法724条前段)ものといえるから、不法行為に基づく損害賠償請求権は、平成21年3月23日の経過をもって消滅時効が完成している。
b また、不法行為による損害賠償請求権は、不法行為の時から20年を経過した時に消滅するところ(民法724条後段)、Bは昭和42年4月5日に被告を退職したから、原告の主張を前提としても、不法行為の時から20年を経過していることは明らかである。
イ 原告
(ア) 信義則上の安全配慮義務違反(債務不履行)に基づく損害賠償請求権について
民法166条1項の「権利を行使することができる時」とは、法的障害がないというだけではなく、権利の性質上その行使が現実に期待できない場合も含まれるという解釈を基礎にしており(最高裁判所昭和45年7月15日大法廷判決・民集24巻7号771頁参照)、権利行使が現実に期待できるためには、損害の発生のみならず、因果関係や安全配慮義務違反の内容について知ることが期待できることが必要であるところ、本件では、本件支給決定がなされた平成18年7月13日以前の段階において、原告による安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の行使は現実に期待できなかったというべきである。
すなわち、アスベスト曝露による中皮腫は、何十年という極めて長期の潜状期間を経て発症するものであり、平成17年6月のいわゆるクボタショックによって初めて当該疾病が社会に広く認識されるようになったなどの特殊性があり、そもそも、一般労働者にとって権利行使の期待可能性がない状態であった。実際、原告は、Bの仕事内容は全く知らず、被告への連絡も、同年7月28日に訴外会社担当者が原告宅に訪れた際、Bの職歴から被告への連絡を勧められたことから初めて行ったにすぎない。そして、被告担当者が同年9月に原告宅を訪れた際も、「古いことなので資料がなく、どこの職場にいたか、どんな仕事をしていたのか全然分からない」「古いことだから労災も無理だ」と説明され、Bの就労状況や石綿の曝露状況について全く知らされず、原告がそれを知ったのは、調査復命書を見てからのことであった。さらに、石綿健康被害救済法においても、中皮腫の診断があったことから直ちに特別遺族年金支給がなされるわけではなく、しかるべき調査を経て初めて支給決定がなされるものである。
なお、原告は、静岡労基署に対し、かつて医師よりアスベストが原因の1つとして考えられると聞かされたことなどを話したことはあるが、医師が病気の原因について石綿と断定した旨を述べたことはないし、Bが「a社で石綿を吸った」と話したことはないから、本件聴取書は、聴取者が聞き違い、不正確なものを記載したものと思われる。
(イ) 不法行為による損害賠償請求権について
民法724条前段の「加害者を知った時」とは、原告が被告に対して損害賠償請求が可能であることを現実に認識した時と解すべきであるところ、そのためには損害の発生のみならず、不法行為の要件事実である因果関係や過失についての認識がなければならないところ、原告がこれを認識したのは、前記(ア)のとおり、どんなに早くても本件支給決定がなされた平成18年7月13日である。
また、同条後段の除斥期間の起算点は、当該不法行為により発生する損害の性質上、加害行為が終了してから相当の期間が経過した後に損害が発生する場合には、当該損害の全部又は一部が発生した時とされているから、本件において除斥期間の問題はない。
(4) 争点(4)について
ア 原告
被告は、特化則に基づく特別健康診断を一切実施しておらず、退職者に対しても、危険物に曝露された可能性があることを全く知らせなかった。
また、被告担当者は、平成17年9月に原告宅を訪問した際、原告に対し、「古いことだから労災は無理だ」「Bが会社に勤めていたことは確実だが職種についても調べたが古いことで全然分からない」と説明し、原告の権利行使を妨げた。
したがって、被告による第2・1(4)の消滅時効の援用は、信義則違反又は権利の濫用として許されない。
イ 被告
被告では、石綿を直接取り扱う業務を全て外部の専門業者に委託しており、被告従業員には行わせていないため、特化則に基づく健康診断の対象者はいない。
また、被告担当者は、原告宅を訪れた平成17年9月の時点で既にBの死亡から約9年が経過しており、労働者災害補償保険法上の遺族補償給付を受ける権利が時効消滅していたため、原告に対し、労災申請ではなく、石綿健康被害救済法に基づく申請が必要となる旨を説明したのであり、「古いことだから労災は無理だ」などと述べたわけではない。そして、被告においてBの職種が判然としないのは、Bが被告を退職してから約40年が経過し、十分な記録が残っていない以上、やむを得ないものであり、被告は、現存する記録に基づき、必要な範囲で誠実に各種証明を行った。
第3当裁判所の判断
1(1) 原告の被告に対する債務不履行及び不法行為に基づく損害賠償請求権が認められたとしても、消滅時効の成立が認められれば、結局、原告の請求は理由がないことになるから、争点(1)及び(2)の判断に先立ち、争点(3)及び(4)について検討する。原告が第1回口頭弁論期日における意見陳述で「平成17年、新聞紙上やテレビのニュースで石綿問題が、取りざたされる様になり、主人が『a社でアスベストを取り扱っていた』と言っていたのを思い出し」たなどと陳述したことは当裁判所に顕著な事実であり、この事実及び第2・1記載の前提事実に、証拠(省略)を総合すれば、原告が本件請求に至った経緯等について、以下の各事実を認めることができ、原告作成の陳述書(書証省略、以下「本件陳述書」という。)の記載及び原告本人尋問の結果中、この認定事実に反する部分は後記(2)のとおり措信し難く、他にこの認定事実を覆すに足りる証拠はない。
ア Bは、昭和36年5月7日、被告に入社し、b造船所の電気課に配属され、昭和42年4月5日、被告を退職した。
原告は、Bから、かつてb造船所で働いていたことを聞いていた。
Bは、平成8年9月25日、悪性胸膜中皮腫により死亡した。
イ 原告は、平成7年ころ、Bを診察した静岡県立総合病院、聖隷浜松病院、浜松医科大学医学部附属病院のいずれかの呼吸器科医師から、Bの悪性胸膜中皮腫の原因が石綿である旨の説明を受けた。
また、原告は、時期は不明であるものの、Bから、被告において石綿を吸った旨を聞いた。
ウ 原告は、平成17年6月ころ、石綿問題が社会問題となる契機となったいわゆるクボタショックの報道により、石綿や中皮腫関係の言葉を頻繁に見聞きするようになり、アスベストが石綿と同じであること、石綿により中皮腫が引き起こされること、中皮腫が石綿曝露から何十年もの長期間を経て発症すること、造船所も石綿職場であることなどを知った。
エ 訴外会社の安全衛生課長は、同年7月28日、原告宅を訪れ、原告に対し、石綿問題により、国から訴外会社に対して中皮腫等に罹患している人がいないかという調査が来たため、名簿を確認してみるとBが載っていたので原告宅を訪れた旨を告げた。
そして、前記課長は、原告に対し、当時Bが勤務していた作業現場にあったボイラーの写真を見せながら、同現場では石綿に曝露することはあり得ない旨説明し、Bの訴外会社以外の勤務先を尋ねた。原告は、Bが被告に勤務していたことがある旨説明すると、前記課長は、原告に対し、被告において石綿被害が出ているようであるとして、被告の電話番号を教え、被告に連絡するよう勧めた。
オ 原告は、同年9月ころ、b造船所に電話し、この電話に応対した被告人事部人事企画室○○グループマネージャーのC(以下「C」という。)に対し、Bが悪性胸膜中皮腫により死亡した旨、Bが過去にb造船所で仕事をしており、その際にアスベストに曝露したことが原因であると思う旨を話した。
Cは、原告に対し、Bの被告における在籍の有無を確認した上で改めて連絡する旨を伝えた。
カ その後、CがBの被告における在籍の有無を調査したところ、①Bが昭和36年5月7日に臨時工として被告に採用され、電装係に配属されたこと、②その後、Bが同年6月1日に改めて本工として被告に採用され、電装係に配属されたこと、③Bが昭和42年4月4日に被告を退職し、退職時の配属先は工作係であったこと、④これ以外の途中期間のBの配属先や職種については全く不明であることが分かった。
そこで、Cは、原告に電話し、Bの被告における在籍が確認できた旨、その説明をするために原告宅を訪れたい旨、Bが実際に中皮腫により死亡したこと及び被告退職後のBの職歴を確認したい旨を伝えた。
キ Cは、平成17年9月13日、D総務グループマネージャーとともに原告宅を訪れ、原告に対し、採用簿(書証省略)及び解雇簿(書証省略)をコピーした上でB以外の社員に関する記載を全てマスキングしたものを見せながら前記カ①ないし④について説明した上で、被告退職後のBの職歴について口頭でヒアリングをし、Bの死因についてBの死亡診断書のコピーを受け取った。
その際、Cは、原告に対し、石綿曝露の場所を認定するのは労働基準監督署であるため、Cからは何とも言えないが、労災申請については、B死亡から既に5年以上が経過しているため、請求時効にかかっていると思われる旨、現在、請求時効によって労災申請ができない者を救済するためのアスベスト新法(石綿健康被害救済法)が検討されているので、その新法が施行されるのを待つことになると思う旨、同新法について動きがあれば被告から連絡する旨等を伝えた。
ク Cは、平成18年3月17日付けで、原告に対し、石綿健康被害救済法による対象者等の制度内容について説明した「『石綿による健康被害の救済に関する法律』制定のお知らせ」と題する書面、当該制度に関する厚生労働省作成のパンフレット及び石綿健康被害救済法特別遺族年金支給請求書を郵送した。
ケ 原告は、同年3月23日、本件請求をしたところ、同年7月13日、本件支給決定がされた。
なお、原告は、同年6月14日、静岡労基署の厚生労働事務官(以下「事務官」という。)から聴取を受けたが(以下「本件聴取」という。)、その際に作成された本件聴取書には「船内での作業なので、ここで、石綿に曝露したと思います。」「病気の原因は何か先生に聞いたところ、『石綿が原因だ』と言っていて、主人も『a社で石綿を吸った』と言っていましたので、a社での仕事により死亡したと思います。」などと記載されている。
コ 原告は、平成21年5月27日、本件訴訟を提起した。
なお、原告は、同年7月16日の第1回口頭弁論期日において、意見陳述をし、その際、「平成17年、新聞紙上やテレビのニュースで石綿問題が、取りざたされる様になり、主人が『a社でアスベストを取り扱っていた』と言っていたのを思い出し」たなどと述べた。
(2) 以上の認定事実に対し、本件陳述書の記載及び原告本人尋問の結果中には、これと相反する部分が存するので、これらの点について検討する。
ア 原告は、前記(1)イの事実に関し、その本人尋問において、Bの悪性胸膜中皮腫の原因に関し、医師から、アスベストが原因の1つと言われている旨の説明を受けたにすぎない旨供述し、本件陳述書にも同旨の記載がある。
しかしながら、同ケのとおり、本件聴取書においては、原告が、医師が「石綿が原因だ」と言っていたと述べた旨記載されているところ、本件聴取書が、事務官が原告に対してその内容を読み聞かせた上で原告が相違ないとして署名・押印して作成されたものであると認められること(書証省略)からすれば、その信用性は高いというべきであるから、その記載内容に反する本件陳述書の記載及び原告本人の供述(以下、これらを併せて「原告本人の供述等」という。)には疑問があるというほかない。
イ 原告は、前記(1)イの事実に関し、その本人尋問において、Bから「a社で石綿を吸った」との話を聞いたことはない旨供述し、本件陳述書にも同旨の記載があるが、前記説示のとおり、本件聴取書の作成方法に照らし、その記載内容の信用性は高いというべきである。
この点に関し、原告本人は、新聞報道等において造船所で石綿を吸って被害者が出ていることを知り、Bも被告において石綿を吸ったのではないかと考えていたため、本件聴取において、Bから「a社で石綿を吸った」との話を聞いたと話したのかもしれない旨供述し、本件陳述書にも同旨の記載があるが、この原告の思考過程自体がいささか不自然である上、同コのとおり、原告が本件訴訟の意見陳述においてもBから被告において石綿を吸った旨の話を聞いたと明確に述べていることからすれば、この点に関する原告本人の供述を信用することはできない。
そうすると、結局、Bから前記話を聞いたことはない旨の原告本人の供述等も措信し難いといわざるを得ない。
ウ 原告は、前記(1)キの事実に関し、その本人尋問において、Cが原告宅を訪れた際、Cから、Bが被告に在籍していた期間について説明を受けた上で、Bがどこでどのような仕事をしていたかは分からない旨の話は聞いたが、被告採用時及び退職時のBの所属先やアスベスト新法に関する話については説明を受けたことがなく、また、採用簿や解雇簿の資料も見せられていない旨供述し、本件陳述書には、Cから「古いことだから労災も無理だ」と話された旨の記載がある。
しかしながら、他方で、原告本人は、Cが30分ないし1時間程度原告宅にいた旨供述するところ、Cが原告に対してした説明内容が原告本人の前記供述どおりであったとすれば、その内容は極めて希薄なものであって、Cの説明は短時間で終わるはずであり、Cの滞在時間に関する原告本人の当該供述と整合しないといわざるを得ない。また、本件聴取書には「a社での仕事は、電気の配線をしていたようです。結婚前のことなので、最近会社の方から聞きました。」と記載されており(書証省略)、原告本人の前記供述は、本件聴取書の記載内容とも整合しない。さらに、原告本人は、被告から「『石綿による健康被害の救済に関する法律』制定のお知らせ」と題する書面等が郵送されてきたが、郵送後も被告からこれに関する説明を受けたことはない旨供述するところ、Bの在籍期間等について説明をするために原告宅にまで訪れたCが、前記書面等を原告宅に郵送するだけにとどめ、事前及び事後の説明を一切しなかったというのも想定し難い。したがって、平成17年9月13日におけるCの原告に対する説明内容に関する原告本人の供述等は信用することができない。
エ 以上アないしウで指摘した事実によれば、原告本人の供述等のうち、前記(1)記載の認定事実と相反する部分は措信し難いというべきである。
2 争点(3)について
(1) 信義則上の安全配慮義務違反(債務不履行)に基づく損害賠償請求権
ア 雇用契約上の付随義務としての安全配慮義務の不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効期間は、民法167条1項により10年と解され(最高裁判所昭和50年2月25日第三小法廷判決・民集29巻2号143頁参照)、同消滅時効は、同法166条1項により同損害賠償請求権を行使し得る時から進行するものと解されるところ、一般に、安全配慮義務違反による損害賠償請求権は、その損害が発生した時に成立し、同時にその権利を行使することが法律上可能となるというべきである(最高裁判所平成6年2月22日第三小法廷判決・民集48巻2号441頁)。
これを本件について見るに、Bは、第3・1(1)アのとおり、平成8年9月25日に死亡したから、同日をもってBの悪性胸膜中皮腫罹患による死亡に伴う損害が確定し、Bの相続人である原告が当該安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権を行使することが可能であったといえる。
そうすると、原告が本件訴訟を提起した平成21年5月27日の時点で、既に前記消滅時効期間である10年を経過していることが明らかである。
イ これに対し、原告は、第2・2(3)イ(ア)のとおり、最高裁判所昭和45年7月15日大法廷判決・民集24巻7号771頁を引用しつつ、「権利を行使することができる時」(民法166条1項)とは、法的障害がないというだけではなく、権利の性質上その行使が現実に期待できない場合も含まれるという解釈を基礎にしている旨主張する。
しかしながら、原告が引用する前記最高裁判決は、供託金取戻請求権の特殊性に照らし、事実上の障害も時効の進行を妨げると説示したものと解されるのであって、同判決の射程には限界があり、同判決の趣旨を安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権に及ぼすことはできないというべきである。そして、民法が消滅時効の起算点に関して一定の短期消滅時効についてのみ特則(民法426条、724条、884条等)を定めていることなどからすれば、同法166条1項にいう「権利を行使することができる時」とは、権利を行使する上で法律上の障害がないことを意味し、権利を行使し得ることを権利者が知らなかった等の事実上の障害は時効の進行を妨げないというべきである。
したがって、原告の前記主張を採用することはできない。
(2) 不法行為に基づく損害賠償請求権
ア 民法724条は、不法行為による損害賠償請求権の消滅時効は、被害者が「損害及び加害者を知った時」から進行する旨規定するところ、この「損害及び加害者を知った時」とは、被害者において、加害者に対する損害賠償請求が事実上可能な状況の下に、その可能な程度にこれを知った時を意味するものと解するのが相当であり(最高裁判所昭和48年11月16日第二小法廷判決・民集27巻10号1374頁参照)、同条にいう被害者が損害を知った時とは、被害者が損害の発生を現実に認識した時をいうと解するのが相当である(最高裁判所平成14年1月29日第三小法廷判決・民集56巻1号218頁参照)。
これを本件について見るに、第3・1(1)の各認定事実、特に、原告が、平成7年当時医師からBの悪性胸膜中皮腫の原因が石綿である旨の説明を受け、Bから被告において石綿に曝露した旨を聞いていたこと、平成17年6月ころ、報道により、アスベストないし石綿と中皮腫の関係や造船所が石綿職場であることなどを知ったこと、同年7月の訴外会社安全衛生課長の説明により、Bは訴外会社において石綿に曝露したものではないと認識し、遅くとも本件聴取を受けた平成18年6月の段階ではBがb造船所、すなわち、被告において石綿に曝露したとの認識を有していたと認められることなどの事実からすれば、原告は、どんなに遅くとも本件請求書を作成した同年3月23日の時点で、被告に対する損害賠償請求が事実上可能な状況の下に、その可能な程度にこれを知ったものと認めるのが相当である。
そうすると、原告が本件訴訟を提起した平成21年5月27日の時点で、既に前記消滅時効期間である3年(民法724条前段)を経過していることが明らかである。
イ これに対し、原告は、第2・2(3)イ(イ)のとおり、「加害者を知った時」(民法724条前段)とは、原告が被告に対して損害賠償請求が可能であることを現実に認識した時と解すべきであり、そのためには損害の発生のみならず、不法行為の要件事実である因果関係や過失についての認識がなければならない旨主張する。
しかしながら、「加害者及び損害を知った時」の解釈については前記説示のとおりであるところ、損害賠償請求が可能な程度に加害者を知るとは、賠償請求の相手方が現実に具体的に特定されて認識し得る状態にあることを意味すると解されるのであって、加害者に対する損害賠償請求が可能であることを現実に認識することまで要するものではなく、ましてや不法行為の要件事実を全て認識することまで要求するものではない。
したがって、原告の前記主張を採用することはできない。
3 争点(4)について
原告は、被告が、①特化則に基づく特別健康診断を一切実施していなかったこと、②退職者に対して危険物に曝露した可能性があることを知らせなかったこと、③原告の権利行使を妨げたことを理由に、被告による消滅時効の援用が信義則違反又は権利の濫用として許されない旨主張する。
しかしながら、前記①は、被告の安全配慮義務違反を基礎付けることはできたとしても、被告による消滅時効の援用権をも失わせるような事情とまではいえない。また、仮に被告において前記②の事実があったとしても、前記説示のとおり、原告はどんなに遅くとも本件請求書を作成した時点ではBが被告において石綿に曝露したことを認識していたから、前記②は、少なくとも原告に対する関係においては被告による時効援用の可否を左右する事情とはならないというべきである。さらに、前記③についても、Cの原告に対する対応は第3・1(1)オないしクのとおりであり、Cの行為も含めて被告において、原告の被告に対する損害賠償請求権の行使を妨げたと評価し得べき事情があったとは認められない。
したがって、原告の前記主張は理由がなく、被告による消滅時効の援用は、信義則に反するとも権利の濫用に該当するとも認められない。
4 結論
以上の事実によれば、原告の被告に対する信義則上の安全配慮義務違反(債務不履行)及び不法行為に基づく損害賠償請求権は、第2・1(4)記載の被告による消滅時効の援用により、いずれも時効によって消滅したものと認められる。
したがって、原告の請求は、その余の点(争点(1)及び(2))について判断するまでもなく、理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法61条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 深見敏正 裁判官 佐野倫久 裁判官朝倉亮子は、転補につき署名押印することができない。裁判長裁判官 深見敏正)