横浜地方裁判所 平成23年(わ)1583号 判決 2012年10月19日
主文
被告人は無罪。
理由
1 本件公訴事実は,「被告人は,平成23年5月17日午前7時6分頃から同日午前7時14分頃までの間,横浜市 a 区 bc 丁目 d 番 e 号所在の A 株式会社 B駅から同市 f区 gh丁目 i番 j号所在の同社 C駅に至るまでの間を走行中の電車内において,乗客の D(当時14歳)に対し,同人の後方に立ち,衣服の上からその腰部付近に自己の股間を押しつけ,もって公共の乗物において,人を著しく羞恥させ,かつ,人に不安を覚えさせるような方法で,衣服の上から人の身体に触れる行為をしたものである。」というのである。
被告人が公訴事実記載の電車(以下「本件電車」という。)に乗り,被害者の後方に立っていたことは,争いがなく,関係証拠上も明らかであるところ,被告人は,被害者に対し公訴事実のような痴漢行為をしたことはないと全面的に否定しており,本件での争点は,被告人が被害者に対し公訴事実のような痴漢行為をしたか否かである。この点についての直接証拠は,当時,痴漢摘発の職務に当たっていた神奈川県警察鉄道警察隊第三中隊新横浜分駐所所属の警察官 E 及び F の現認供述だけである(なお,被害者は,証人として採用されて召喚を受けたものの,両親の反対が強く,公判廷に出頭しなかったため,証言を得られず,被害者の検察官調書についても,刑訴法321条1項2号前段の供述不能に該当しないとして,証拠請求は却下されている。)。そもそも,本件は,被害者が自ら痴漢の被害を訴えるなどして,その犯人を指摘するなどして事件となったケースではなく,痴漢摘発の職務に当たっていた警察官が,被告人の不審な行動から,被告人をマークしていたところ,被告人が痴漢行為に及んだとして被告人を逮捕したケースであり,痴漢行為を現認したとする警察官の供述が,本件での重要かつ直接的証拠である点に特徴がある。
2 そこで,以下,E 及び F 両警察官の供述の信用性について検討する。
まず,被告人が本件電車に乗り込むまでの経緯についてみると,E 警察官は,大要,次のように供述する。すなわち,本件当日,G線 B駅上り3,4番線ホーム(以下「本件ホーム」という。)上で痴漢行為の取締りの職務に従事していたところ,3番線に止まっていた午前7時発の快特電車の車内の様子をうかがうだけで乗車しない被告人を認め,痴漢常習者がよくやる行動と不審に思って見ていると,被告人は階段の下から本件ホームに上がってくる女性を見るなどしていた,合流した F 警察官にこのことを伝えると,F 警察官もその前に被告人の存在を見て知っており,F 警察官との間で,被告人が女性の後について列に並んだら一緒に電車に乗ろうと打ち合わせた,その後,4番線に到着した普通電車から降りてくる客を見ていた被告人は,制服姿の被害者が電車から降りて3番線ホームの乗客の列に向かうと,その後を追い,被害者の後ろに並んだ,そこで,自分たちも一緒に電車に乗り込むため,F 警察官は被告人の後ろに,自分は被告人の右側に並び,午前7時6分発の本件電車(特急電車,先頭から6両目の車両)に被害者,被告人に次いで乗り込んだ,なお,その際,上司のH 警部補に対し,「ターゲット発見しました!」などと携帯メールを送った,などという。F 警察官も,これに符合する供述をしている。
E 及び F 両警察官の供述は,相互に符合しているだけでなく,その内容に不自然なところはなく,具体性があること,H 警部補に対する携帯メールの存在とその内容からも裏づけられていること,痴漢摘発の職務に当たる警察官という立場からして,意識的に観察していたことがうかがわれ,また,被告人の動静を追う両警察官の行動は自然で合理的なものといえることなどに照らすと,その信用性には高いものがある。したがって,E 及び F 両警察官の前記供述によれば,被告人が,本件電車に乗り込むまでの間,実際に痴漢の相手を物色していたかは別として,少なくとも,E 及び F 両警察官から見て,電車内で痴漢行為に及ぶ可能性があるのではないかと思わせるような不審な行動をとっていたことは,認定することができる。
次に,被告人が本件電車に乗り込んでからの状況についてみると,E 警察官は,大要,次のように供述する。すなわち,被告人は,電車に乗ると,進行方向左側の窓の方を向いて立った被害者の真後ろに,同じ方を向いて立った,そこで,自分は被告人の左後ろに進行方向を向いて立ち,F 警察官は,被告人の左前に進行方向と反対側を向いて立ち,上半身を左に回して被告人が見えるようにしていた,被害者は,スクールバッグを足の間に挟むようにして床に置き,手提げバッグを左上腕部に掛けるようにして体の前で抱えて立っていた,電車が出て1,2分すると,左手に黒のかばんを持った被告人は,膝をくの字に曲げ,上半身をそらせながら右腕を後方に伸ばして座席の上のつり革をつかみ,下半身を被害者の臀部の辺りに突き出すような姿勢をとっており,被害者の臀部の左側と被告人の左側の太ももが密着しているのを確認できた,被告人のその状態,姿勢は,電車が出て3,4分後に一度被害者が後ろを振り向いたため被害者から離れてまっすぐ立ったとき以外は,次のC駅に着く手前までずっと続いた,F 警察官も被告人の痴漢行為を現認していることが確認できたので,F 警察官に目で合図を送り,電車がC駅に着くと,被告人をホームに降ろし,「車内で何をしてたか話せるか。」と聞いたら,被告人は「何もやってねえ。触ってねえ。」と怒鳴るように言った,F 警察官は被害者から事情聴取をしていたと思う,などという。F 警察官も,ほぼこれに符合する供述をするとともに,被害者のやや右寄りの尻から腰の間にかけて被告人の股間が当たっているのが見えた,被告人がいったん被害者から股間を離したとき,被告人のスーツのチャックの部分が盛り上がっているのが確認できた,C駅のホームで被害者に「痴漢されましたよね。」と聞くと,「そうです。」と答え,「後ろの人から腰の辺りに下半身を押しつけられて気持ち悪かった。」と言っていた,などと独自の供述もしている。
E 及び F 両警察官の現認供述は,相互に符合しているだけでなく,それなりに具体的であること,もともと被告人は,本件電車に乗り込むまで,前記認定のとおり,警察官から痴漢行為をするのではないかと思われるような不審な行動をしていたのであり,その流れからみても一応自然な内容といえること,両警察官は,被告人をマークして一緒に電車に乗り込んだのであり,被告人の挙動がしっかり確認できるような立ち位置をとって,それぞれに意識的に観察していたことが十分にうかがわれ,視認条件は主観的にも客観的にも良好であったといえることなどに照らすと,その信用性には問題がないように考えられなくはない。
しかしながら,(1)両警察官が述べる被告人の姿勢は,膝をくの字に曲げ,上半身をそらせながら右腕を後方に伸ばして座席の上のつり革をつかみ,下半身を被害者の臀部の辺りに突き出していたというものであり,これは,朝の混雑した電車内での痴漢行為としては,かなり異様であって不自然さを否めない。まさか警察官にマークされているとは思っていなかったにせよ,まるで他の乗客に自分は痴漢をしているとでも示しているかのような様相である。もちろん車内の混みようによっては他の乗客から死角になることもあり得るし,乗客の無関心さから見逃されることもあり得るところではあるが,少なくとも痴漢の犯人がわざわざこのような姿勢をとるというのは常識的に考えがたい(夜の混雑した電車内であれば,酒に酔った勢いで,あるいはその振りをして,このような行為に出ることも考えられるが,本件はそのような場面ではない。)。しかも,この姿勢は,本人にとってもかなり無理な体勢であるところ,B駅からC駅までの約8分のほとんどの時間,一時姿勢を直したときを除き,ずっと同じ姿勢を続けていたというのも,不自然というほかない。(2)股間を押しつけるというのは痴漢行為としては見ていて意図的か判断が微妙なケースであることを考えると,現認警察官としては,故意性を引き出そうとする余り,前述のように被告人の行為態様を誇張しているのではないかとの疑いすら出てくる。警察官が全く根も葉もないのに事実をねつ造して虚偽の現認供述をすることまではしないと思われるが,痴漢摘発の意識が過剰となり,せっかくマークした人物であるだけに,一見して疑わしき行動があればそれだけでクロと判断しがちになることも考えられなくはない。被告人がいったん被害者から股間を離したとき,被告人のスーツのチャックの部分が盛り上がっているのが確認できたという F 警察官の供述も,いかにもリアルな感じはするものの,かえって誇張ではないか(仮にそのような場面を見たにしても,思い過ごしではないか。)との疑いをぬぐいきれない。(3)また,E 及びF 両警察官の供述が相互に符合しているといっても,両警察官とも一緒に痴漢の摘発に当たっていた者で,いわば同じ立場にあり,この点はさほど重視できるものではない(供述のすり合わせを疑うことも可能である。)。(4)そして,本件では,両警察官の現認供述を裏づける証拠は何もない。被害者は,F 警察官によれば,C駅で確認したところ痴漢にあったことを認めたというのであり,後に被害届を提出していることも認められるが,果たしてこれが被害者の真意によるものであるか,被害者の供述がない以上,確認しようがない。本件の捜査では,他の目撃者(乗客)の確保もされておらず,被告人の着衣に被害者の着衣の繊維が付着していたか否かについての捜査も全くしていない。この捜査の在り方について,E 警察官は,自分たち二人で現認しているので,目撃者の確保までは必要ではなく,それで十分であった,被告人は本件電車に乗り込むときに被害者を押しながら入っていったので,その時点でも被告人の着衣に被害者の着衣の繊維が付着してしまい,どちらで付着したか判別できないと思い,繊維の捜査をしなかったなどと供述しているが,いずれも,余り納得のいくような説明とは思われない。なお,被告人が本件電車に乗り込むまでの間,警察官から痴漢行為をするのではないかと思われるような不審な行動をしていたことは前述のとおりであるが,それをもって被告人が両警察官が述べるような痴漢行為をしたことの裏づけになるものでないことはいうまでもない。(5)さらに,両警察官とも,被告人の被害者に対する挙動を注視していたにしては,B駅からC駅に至るまでの約8分間における被告人と被害者の様子について述べる内容は,ほとんど一定の場面の描写に尽きており,いささかあっさりし過ぎの感がないではない。
以上のようにみてくると,被告人が被害者の臀部に自己の股間を押しつけていたという E 及び F 両警察官の現認供述には,股間を押しつけていた態様や時間だけでなく,股間を押しつけていたこと自体にも,信用性に疑問が残り,この供述を額面どおりに受け取ることにはちゅうちょを覚える。
3 次に,被告人の供述についてみることとする。
被告人は,公判において,まず,本件電車に乗り込むまでの経緯について,大要,次のように供述する。すなわち,本件当日は,午後1時半から東京都府中市で研修を受けることとなっていたところ,午前中の時間を利用して,当時妻が暮らしていた妻の実家に行き,その後銀行に行って用を足そうと考え,妻が午前8時過ぎには仕事に出かけてしまうため,それに間に合うように,官舎の最寄り駅である G線 I 駅から電車に乗り,午前6時55分頃,B駅に着いて降車した,この日妻の実家に行くことにしたのは,前々日,かねてから良好な関係になかった義父への態度をめぐって妻と口論となった上,前日夕方,妻から,義母の仏前に線香をあげに来ないことなどの不満を述べるメールが送られてきたことから,妻に会って謝り,線香をあげようと考えたからである,B駅で降車後,妻の実家の最寄り駅であるJ駅に向かうため横浜市営地下鉄に乗り換えるつもりであったが,妻の実家に行けば義父に会うことになるし妻から責め立てられるかもしれないと考えると気が重くなり,妻の実家に行こうか行くまいか,本件ホーム上を移動しながら逡巡していた,そして,いったんこのままC駅まで行こうと考え,本件電車に乗った,B駅で痴漢の相手を物色するような行動は一切していないし,3番線ホームで被害者の後ろに並んだという意識もない,などという。
この供述は,自己の心情も含め,非常に具体的であり,話の流れとしても不自然な点はないこと,妻や義父との関係,妻とのやり取り等については,妻の供述により裏づけられており,また,銀行に行く予定であったことも,被告人の所持品から裏づけられていること,捜査段階から一貫していることなどに照らすと,全くの作り話であるとはいえず,一概に排斥できないものがある。ただ,本件ホーム上での被告人の行動については,信用できる E 及び F 両警察官の供述と食い違う部分があり,全面的に信用してよいかは疑問である(この点,弁護人は,妻の実家に行こうか行くまいか本件ホーム上で逡巡していた姿が,両警察官に誤解されたのではないかという趣旨の主張をしている。確かにそのようにみる余地もあるが,それだけでは説明がつかない食い違いがある。)。
次に,被告人は,本件電車に乗り込んでからのことについて,大要,次のように供述する。すなわち,本件電車に後ろの乗客に押されながら乗り込み,進行方向に進み,これ以上押されないように,中央にあるつり革のうち進行方向一番左にあるつり革に右手を伸ばしてつかみ,進行方向左側を向いて立った,電車が出てしばらくすると,左斜め前に立っていた女子学生(被害者)が,電車入口付近の手すりと男性客との間に挟まった手提げバッグを取ろうと引っ張るなどしており,そのとき自分の前に被害者がいることに初めて気づいた,電車が出て5分くらいして電車が大きく揺れたとき,被害者がバランスを崩し,被害者の右肩が自分の胸に当たったことがあったが,それ以外被害者の体に接触するようなことはなかった,電車内では,左手にかばんを持ち,右手はずっと右腕を伸ばして先程のつり革をつかんでおり,立ち位置や姿勢はほとんど変わっていない,C駅で降りようとすると,男性から声を掛けられ,警察手帳を見せられ,「腰が前に出てただろう。」などと言われ,そのとき初めて警察官がいたことに気づいた,電車内での自分の挙動で警察官から痴漢行為ではないかと誤解を招くようなものは,全く思い当たらない,などという。
この供述は,被害者がバッグが挟まれて困っていた様子などのエピソードも交えるなど,かなり具体的であり,話の流れとしても格別不自然な点はないこと,捜査段階から一貫していることなどに照らすと,一概に排斥できないものがある。ただ,被告人が述べるようなことだとすると,E 及び F 両警察官が被告人を痴漢の犯人と考えたことが全くのでたらめということになるが,果たしてそうなのかとなると,その点は疑問といわざるを得ない。両警察官が実際に被告人逮捕に向けた行動に出たことからすれば,少なくとも,被告人に痴漢行為をしたのではないかと疑われるような挙動があったと考えるのが合理的であり,それをも否定する被告人の供述は,その限りで信用性に問題が残るというべきである。
4 以上のようにみてくると,全く身に覚えがないかのように述べる被告人の供述には,少なからず疑問があるが,そうかといって,E 及び F 両警察官の現認供述をそのまま信用できないことは,前述のとおりであり,他に,被告人が公訴事実のような痴漢行為をしたことを認めるに足る証拠もない。
よって,本件公訴事実は犯罪の証明がないことになるから,刑訴法336条により,被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。
(弁護人(私選)・村瀬景子(主任),田鍋智之,遠藤政尚)
(裁判官 毛利晴光)