横浜地方裁判所 平成24年(わ)576号 判決 2013年9月17日
主文
被告人は無罪。
理由
1 訴因変更後の公訴事実(以下,単に「公訴事実」という。)
「被告人は,医師免許を受け,横浜市旭区a町b番c号所在のA病院において,麻酔科医師として医療業務に従事していたものであるが,平成20年4月16日,A病院甲手術室において,執刀医他1名の外科医師及び2名の看護師による医療体制のもと被告人が麻酔を担当し,入院患者B(当時44歳)に全身麻酔を施した上,左乳房部分切除及びセンチネルリンパ節生検の手術を行うに当たり,被告人が,同日午前8時55分頃,前記Bに対し麻酔導入を開始し,同人を,自発呼吸のできない意識消失・鎮痛・筋弛緩状態にしたため,同人の生命維持のためには,麻酔担当医である被告人において,麻酔器に接続した蛇管の先端に付けられ,前記Bに装着されたマスクを通じて酸素を供給して呼吸管理をするなどし,同人の全身状態を適切に維持・管理することが不可欠なのであるから,同人の身体の状態を目視するほか,同人に装着されたセンサー等により測定・表示された心拍数・血圧・酸素飽和度等を注視するなどの方法で同人の全身状態を絶え間なく看視し,異変があれば適切に対処すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り,同日午前9時7分頃,漫然と同室から退室して約27分間にわたって前記手術室を不在にし,その間,同人の全身状態を看視するなどせずに放置した過失により,同日午前9時16分頃,前記Bの蛇管が麻酔器の蛇管取付口から脱落して同人の全身状態が悪化したのに気付かず,同日午前9時34分頃までの約18分間にわたり同人への酸素の供給を遮断させ,よって,同人に完治不能の低酸素脳症に基づく高次脳機能障害及び四肢不全麻痺の傷害を負わせたものである。」
2 本件における争点
公訴事実にあるとおり,A病院甲手術室で,平成20年4月16日,Bに対する左乳房部分切除及びセンチネルリンパ節生検の手術(以下「本件手術」という。)を行うに当たり,麻酔科医師である被告人が,麻酔担当として,Bに全身麻酔を施すため,同日午前8時55分頃,麻酔導入を開始し,Bを自発呼吸のできない意識消失・鎮痛・筋弛緩状態にしたこと,同日午前9時16分頃,Bに酸素を供給していた蛇管が,接続されていた麻酔器の取付口から脱落し,Bの全身状態が悪化したにもかかわらず,手術を担当していた執刀医らの誰もがそのことに気づかず,約18分間にわたり,Bへの酸素の供給が遮断されるという事態になり,その結果,Bに完治不能の低酸素脳症に基づく高次脳機能障害及び四肢不全麻痺の傷害を負わせたこと(以下,これを「本件事故」という。)及び被告人が同日午前9時7分頃から約27分間甲手術室を不在にしていたことについては,いずれも争いがなく,関係証拠上も明らかである。
本件での争点は,本件事故について,甲手術室を不在にしていた被告人に対し,刑事上の過失責任を問うべく,麻酔科医師である被告人に,麻酔導入後,甲手術室に常時在室して直接Bの全身状態を絶え間なく看視すべき業務上の注意義務があり,それに違反したといえるか否かである(なお,検察官は,期日間整理手続において,常時在室といっても,生理現象等により概ね5分程度離室する場合は問題にしない旨釈明している。)。
3 本件事故に至る経緯,本件事故の内容及びその原因について
本件での争点を考えるに当たり,まず,本件事故がどのようなものであり,その原因は何であったのか,被告人が本件事故との関係でどのような関わりをしていたのかをみることとする。関係証拠によれば,以下の事実が認められる。
(1) 本件手術は,甲手術室において,執刀医がC医師,執刀助手がD医師,麻酔担当医が被告人,器械出し看護師がE,外回り看護師がFという5名がチームとなって,午前9時から行われ,その際,手術中の肉体的・精神的苦痛を取り除くため,Bには全身麻酔が施されることとなっていた。
(2) 被告人は,麻酔担当医として,麻酔器の差込口に蛇管をつなぐなど機器等の準備をし,呼吸回路に異常がないことを確認した上,午前8時55分頃から,Bの静脈に麻酔薬(レミフェンタニル(鎮痛薬)とプロポフォール(鎮静剤)を使用)を投与して麻酔の導入を開始し,Bの入眠を確認してから,更に筋弛緩剤(ベクロニウム)を静脈に投与した。その結果,Bは,自発呼吸のできない意識消失・鎮痛・筋弛緩状態になったが,呼吸,心拍数,血圧がほぼ一定の値を示すなど,安定した状態であった。なお,Bは,事前の診察等の結果,麻酔中に問題が生じるような健康状態ではなかったことが確認されていた。
(3) 被告人は,本件当日,A病院において,自己の業務を行いつつ,同時に行われていた他の手術室への応援を含めた手術室全体の調整や後期研修医の指導・補助をしなければならない,いわゆるインチャージの担当に当たっていたため,Bの状態が安定しているのを見計らって,午前9時7分頃,一人で硬膜外麻酔等を行う後期研修医Gの指導・補助をしようと,甲手術室を出て,15秒ほどで移動できる乙手術室に向かった。その際,被告人は,連絡用のPHSを携帯しており,F看護師に,インチャージのため退室するが,何かあったら知らせてほしいと告げた。
(4) C医師は,被告人が不在であるにもかかわらず,午前9時15分頃,F看護師にBのベッドの高さ及び角度の調整をさせ,タイムアウト(手術開始時に当該手術を担当するスタッフ全員が集まり,術式等の確認をするほか,麻酔科医師及び看護師の準備ができているかを確認する手続)の声掛けをした上,本件手術を開始した。なお,この際,被告人には手術開始の連絡はされなかった。
(5) 午前9時16分頃,Bに酸素を供給していた蛇管が,接続されていた麻酔器の取付口から脱落し,Bへの酸素の供給が遮断された。蛇管の脱落の原因は,確定はできないが,蛇管は外れやすく,ベッドの調整のときに外れることがよくあること,F看護師による前記ベッドの調整の直後に脱落していることなどからすると,これが原因である可能性が高い。
(6) 蛇管の脱落あるいはそれに起因するBの状態の異変には,甲手術室にいた誰もが気づかず,本件手術は続行されていたところ,F看護師が,午前9時31分頃,生体監視モニター画面に「SpO2」の表示がないことに気づき,その旨C医師に告げるとともに,Bの指先に付けた測定クリップを付け直すなどしたが,依然として数値の表示が出ないため,午前9時33分頃,PHSで被告人に「SpO2」の表示が出ないことを知らせた。
(7) 被告人は,乙手術室での指導・補助に熱心な余り,時間が経つのを忘れ,甲手術室に戻るのが遅れていたところ,F看護師の連絡を受けて,直ちに甲手術室に引き返し,本件手術が既に始まっていたことを知るとともに,蛇管が麻酔器から脱落していることにすぐ気づき,用手換気を続けるなど,応急措置を講じたが,午前9時37分頃,Bの心肺は一旦停止した。その後,C医師や応援の医師らが薬剤の投与や心臓マッサージ等の蘇生措置を施したことにより,心肺は再開したが,Bは公訴事実記載の傷害を負った。
(8) なお,甲手術室には,麻酔により意識消失等になった患者の状態を,目視等ではなく器械でもって確認できるように,心拍数,血圧,酸素飽和度等が随時測定されて,画面にその数値が表示され,その数値に異常があるなど,患者の状態に異変がある場合には,アラームが鳴るように設定されている,麻酔器モニターと生体監視モニターがそれぞれ設置されているところ,本件手術に当たっても,被告人において,両モニターが適切に作動するようにしていた(もっとも,被告人は,午前9時2分頃,Bの呼吸状態が安定しているかを確認する目的で,1回換気量を見るため,麻酔器モニターのアラーム設定を自動換気モードから手動換気モードに切り替えているが,その後,アラーム設定を元に戻さなかったため,麻酔器モニターのアラームは,APNEA CO2とPAW HIGHの2項目しか作動しないこととなった。)。そして,両モニターの記録をみると,麻酔器モニターにあっては,午前9時17分,28分,31分,33分の4回にわたり,Bの呼気から二酸化炭素が検出されていない,すなわち無呼吸状態であることを示すAPNEA CO2のアラーム表示がされていることが認められ,このときにアラームが発報したことが合理的に推認できる。また,生体監視モニターにあっては,SpO2(酸素飽和度)の数値が,午前9時19分には「77,70」,24分には「15,13」,29分には「--」と表示されていることが認められるところ,午前8時55分頃に同数値が「89」となった際にアラームが鳴っていることからして,下限が「90」に設定されていたことが合理的に推認され,したがって,これより低い数値であった前記各時刻においても,アラームが発報したことが推認できる。
しかるに,甲手術室にいたC,D両医師も,E,F両看護師も,これらのアラームが発報した(鳴った)音を一切聞いていないと供述している(午前9時33分頃に甲手術室に入ったリーダー看護師のHも,異様なほどの静かさであったと,当時の状況を供述している。)。しかしながら,被告人は,退室するまでの間も,再度入室してしばらくしたときにも,アラームの音を現に何度か聞いていること,アラームの通常の音量であれば,手術室内にいる者がこれを聞き落とすようなことは考えられないこと,アラームの音を一次的に消すことは可能であるが,状態が改善されないと2,3分後には再び鳴る仕組みになっていることなどに照らすと,前記の供述どおり,誰もアラームの音を聞かなかったという事実が本当にあったのか,疑問の余地が少なからずあり,仮にそのような事実があったとしても,それは,誰かが人為的にアラームの音量を絞るなどしたからではないかと考えるのが合理的である。
4 本件争点についての考察
(1) 本件事故について刑事上の過失責任を問うために問題とされている被告人の行動は,甲手術室を不在にしていたことである。麻酔科医師である被告人が甲手術室を不在にしなければ,本件事故発生という結果が回避できたことについては,争いはなく,いうまでもないところである。また,被告人が甲手術室を不在にするに当たり,本件事故のような結果が発生することを予見できたかというと,全身麻酔中の患者がいれば,何らかの事情で酸素の供給が途絶え,そのため,患者の状態が悪化し,場合によっては,重症に至ることもあり得ることからすれば,一応予見できたといえる。しかし,そのような抽象的な予見可能性のみで過失を認めてよいかは問題であり,被告人の置かれた具体的状況,本件事故に至った経緯等を踏まえて,具体的な予見可能性があったかというアプローチから,更に検討すべきところである。ただ,本件では,検察官が,予見可能性の対象及び程度について具体的な主張をせず,結果回避義務(注意義務)にもっぱら焦点を当てて,過失を論じていることもあり,当裁判所は,上記のようなアプローチはとらず,過失犯の中心的な成立要件である結果回避義務(注意義務)に着目し,問題とされる被告人の行動が,被告人の置かれた具体的状況,更には当時の我が国の医療水準等を踏まえた上で,刑事罰を科さなければならないほどに許容されないものかどうかという観点から,過失犯の成否を検討していくこととする。
(2) まず,3で認定の事実関係によれば,本件事故については,被告人が甲手術室を不在にしていた間に,本件手術が開始され,その際,蛇管が脱落し,その結果,Bへの酸素の供給が遮断され,Bの状態に異常が発生し,これを察知した麻酔器モニター及び生体監視モニターがアラームを発報したにもかかわらず,その異変に甲手術室にいた誰もが約18分間も気づかなかった(そのため,被告人は,何かあったら連絡をしてほしいと告げて退室したにもかかわらず,異変の知らせが大幅に遅れた。)という問題があったことが,特徴として指摘できる。
そこで,この点が,被告人の不在という問題性を考えるに当たって,どのように影響してくるのかを,事象ごとに分けてみることとする。
① 麻酔担当医が不在のまま,本件手術が開始されたことについては,タイムアウトの趣旨に反するものであり,それ自体,問題ではある。被告人としても,本件手術開始に当たり,甲手術室に呼び戻されていれば,仮に,その時点で蛇管が外れていたとしても,すぐ気づいて,本件事故を招くようなことはなかったといえる。しかし,A病院では,麻酔担当医が不在のまま手術が開始されることもなくはないこと,被告人が甲手術室を離れたのは,本件手術が間もなく始まることが十分見込まれた時点であることからすると,被告人に対して,このようなこともあり得るものとして行動するように要求しても,あながち不当ではない。したがって,この点は,被告人の不在という問題性を考えるに当たって,さほど重視すべき事情とは思われない。
② 蛇管が脱落したことについては,その原因が何であれ,もともと蛇管が外れやすいことからして,被告人にとって特に意外なことではなく,被告人に対して,このようなことがあり得るものとして行動するように要求しても,何ら不当ではない。したがって,この点は,被告人の不在という問題性を考えるに当たって,さほど意味のある事情ではない。
③ Bの状態に異常が発生し,麻酔器モニター及び生体監視モニターのアラームが発報したにもかかわらず,その異変に甲手術室にいた誰もが約18分間も気づかなかったことについては,それが器械の故障等であれば別であるが,本件のように,甲手術室にいた者が,アラームが発報しているにもかかわらず,それを無視した,あるいは,その発報が聞こえないように音量を調節したということであるとすれば,明らかに異常なことであり,問題は大きい。被告人は,退室する際に,F看護師に何かあったら連絡をしてほしいと告げているが,それは,自分の不在中に,本件手術の開始をするか否かを問わず,麻酔器モニターや生体監視モニターのアラームが発報するようなことでもあれば,すぐに知らせてほしいという趣旨を含んでいることは明白である。そして,被告人とすれば,異変の知らせがあれば,すぐに甲手術室に戻り,蛇管の脱落にすぐ気づいて,本件事故を招くようなことはしなかったであろうことも,明白である。そうすると,被告人に対して,このような事態が起こることもあり得るものとして行動するように要求することは,いかにも酷であり,不当である。したがって,この点は,被告人の不在という問題性を考えるに当たって,消極方向に働く事情として十分に考慮してよいものといえる。
(3) 次に,3で認定の事実関係によれば,被告人が甲手術室を不在にしたのは,インチャージの担当として,乙手術室で硬膜外麻酔等を行う後期研修医の指導・補助のためであった。A病院では,本件当時,麻酔科において,インチャージのシステムが採用されており,インチャージの担当になった者は,手術に際しての麻酔業務のほか,同時に行われていた他の手術室への応援を含めた手術室全体の調整や後期研修医の指導・補助をしなければならないことになっていたところ,被告人は,まさに,本件当日,このインチャージの担当者であり,その一環として,乙手術室で硬膜外麻酔等を行う後期研修医の指導・補助に赴いたのである。したがって,被告人が甲手術室を不在にした用向きには,何ら問題はなかったといえる。
また,3で認定の事実関係によれば,被告人が甲手術室を離れたのは,麻酔導入を終えて,Bの状態が安定していることを確認してからである(なお,Bの健康状態は,その後何か問題が生じることが予想されるようなものではなかった。)。しかも,被告人は,甲手術室を離れるに当たって,PHSを携帯し,F看護師に対し,インチャージで出かけることも,何かあったら連絡してほしいことも言い置いている。そうすると,不在にしたタイミング等についても,格別問題はなかったといえる。
(4) ところで,検察官は,①麻酔担当医である被告人は,Bに全身麻酔を施したことにより,Bを自発呼吸のできない意識消失・鎮痛・筋弛緩状態にしたのであるから,Bの生命維持のため,呼吸管理をするなどして,Bの全身状態を適切に維持・管理することが不可欠となった,②したがって,被告人には,Bの身体の状態を目視するほか,Bに装着されたセンサー等により測定・表示された心拍数等を注視するなどの方法で,Bの全身状態を絶え間なく看視すべき業務上の注意義務があると主張するので,これについて付言する。
①の点は,一般論としては,全くそのとおりである。しかも,①でいう,患者の全身状態を適切に維持・管理することが,麻酔担当医の役割であることも,異論はない。ここまでは,弁護人も認めるところである。しかし,そうであるからといって,②のように,麻酔担当医が,常時,手術室にいて,患者の全身状態を絶え間なく看視すべきであるとして,具体的な注意義務を導くのは,余りにも論理が飛躍しているというほかない。
①のような事情は,別に本件に特有のものではなく,他の全身麻酔が行われる場合にも,共通していえることである。それでは,我が国の麻酔担当医が,当該医療機関での職務の体制や患者の容態,麻酔や手術の進行状況を問わず,全身麻酔をした患者に対し,手術室にいて絶え間ない看視をしているかといえば,決してそうではない(少なくとも,そうであるとの立証は,本件では全くされていない。)。確かに,検察官が援用する日本麻酔科学会作成の「安全な麻酔のためのモニター指針」によると,麻酔中の患者の安全を維持確保するため,「現場に麻酔を担当する医師が居て,絶え間なく看視すること。」という指針の記載がある。しかし,このモニター指針は,モニタリングの整備を病院側に促進させようという目的から作成されたものであり,麻酔科学会として目標とする姿勢,望ましい姿勢を示すものと位置づけられている(I医師の証言)。すなわち,この指針に適合せず,絶え間ない看視をしなかったからといって,許容されないものになるという趣旨ではない。なお,J医師及びK医師は,麻酔科医は絶え間ない看視を行うべきであるとの見解を,証人として述べているが,これは,麻酔科医が専門家として追求すべき手術中の役割は何かといった観点からの見解であって,我が国での麻酔科医の実情を述べるものではない。
(5) 以上みてきたところによると,甲手術室不在という被告人の行動は,その不在時間の長さ(甲手術室に戻るまでに約27分間,蛇管が外れたときまででも,約9分間)からして,インチャージの担当として後期研修医の指導・補助をしていたという事情があったとはいえ,いささか長過ぎたのではないかとの問題がなくはないが,被告人の置かれた具体的状況,更には当時の我が国の医療水準等を踏まえてみたとき,刑事罰を科さなければならないほどに許容されない問題性があったとは,到底いいがたい。したがって,本件事故について,被告人には,検察官が主張するような,常時在室してBの全身状態を絶え間なく看視すべき業務上の注意義務を認めることはできない。
5 以上のとおりであるから,被告人には,本件事故について過失は認められないから,本件公訴事実については,犯罪の証明がないことに帰着し,刑訴法336条により,被告人には無罪の言渡しをする。
(求刑・罰金50万円)
(裁判長裁判官 毛利晴光 裁判官 奥山豪 裁判官 松本美緒)