横浜地方裁判所 平成25年(わ)731号 判決 2014年7月03日
主文
被告人を懲役2年6月に処する。
未決勾留日数中260日をその刑に算入する。
本件公訴事実中,被告人が平成24年3月20日神奈川県綾瀬市ab丁目c番d号前路上においてBの身体を傷害したとの点については,被告人は無罪。
理由
【罪となるべき事実】
被告人は,
第1平成24年3月20日午前2時10分頃から同日午前2時20分頃までの間,神奈川県綾瀬市ab丁目e番先駐車場において,A(当時51歳)に対し,同人の顔面を両手のげんこつで多数回殴り,さらに,同人の身体をつかんでその場に引き倒した上,同人の顔面,胸部,腹部等を多数回蹴るなどの暴行を加え,よって,同人に全治約4週間を要する眼窩骨折,肋骨骨折等の傷害を負わせ
第2前記暴行により前記Aが畏怖状態となっているのに乗じ,同人から金品を強取しようと企て,その頃,同所において,同人に対し,「財布と携帯を出せ」と怒鳴って脅迫し,その反抗を抑圧して,同人所有の現金約7万円及びキャッシュカード等8点在中の財布1個(時価合計約500円相当)を強取したが,被告人は,判示第1及び第2の当時,罹患していた躁鬱病による躁状態に飲酒の複雑酩酊による脱抑制が付け加わった精神症状により,心神耗弱の状態にあったものである。
【証拠の標目】
(省略)
【弁護人の主張に対する判断及び一部無罪の理由】
1 本件公訴事実
本件公訴事実は,判示第1,第2のほか,「被告人は,平成24年3月20日午後3時15分頃,神奈川県綾瀬市ab丁目c番d号メゾンC前路上において,しゃがみ込んでいたB(当時43歳)に対し,同人の左肩を手で突き飛ばし,同人の顔面を蹴るなどの暴行を加え,よって,同人に加療約1週間を要する顔面打撲等の傷害を負わせた」(以下「公訴事実第3」という。)というものである。
2 検察官及び弁護人の主張
検察官は,判示第1,第2のほか,公訴事実第3(これら3つを総称して,以下「本件各行為」という。)の当時においても,被告人が,複雑酩酊により心神耗弱の状態であった旨主張する。
弁護人は,本件各行為の当時において,被告人が,躁鬱病による躁状態に飲酒による酩酊が加わった結果,弁識能力及び制御能力を欠き,心神喪失の状態にあったから,責任能力は認められず,被告人は本件各行為につき無罪である旨主張し,被告人もこれに沿う供述をする。
3 判示第1,第2を有罪と認定し,公訴事実第3を無罪とした理由の要旨そこで検討すると,要するに,
(1) 被告人の当時の生物学的要素とこれが心理学的要素に与えた影響について,捜査段階で検察官により鑑定を嘱託されたD医師の見解は,検察官の上記主張を肯定しているが,同見解は,
① 被告人が判示第2によって得た現金でその後13時間飲酒を続けた可能性があり,判示第1,第2の時点と,公訴事実第3の時点で,酩酊下での運動能力も明らかに異っているにもかかわらず,被告人の精神症状について,判示第1,第2の時点と,公訴事実第3の時点とを,何ら区別することなく一括して考察している点,
② 鑑定人E医師が当裁判所に提供した専門的な知見によれば,「被告人に躁鬱病の症状が仮にあったとしても,同症状が被告人の複雑酩酊の状態に直接に影響を与えたとは考えられない」とするD医師の見解は,妥当とはいえない点,以上の2点からすれば,不合理であって,D医師の見解を直ちに採用することはできない。
(2) 続いて,公訴事実第3の直後,被告人の診察を実際に担当したF医師の見解,及び鑑定人E医師の見解等を踏まえた上,諸事情を総合考慮し,心理学的要素(弁識能力と制御能力)について法律上の判断を下す。
被告人には,平成14年頃,妻の死亡をきっかけに,躁鬱病に罹患した可能性がある。また,前科件数の増減をみると,平成14年の前後において,被告人の平素の人格が変容していることがうかがわれる。判示第1,第2の動機自体は不合理であるが,ある程度の筋道については,分からないではない。そして,判示第1,第2の態様は,いわゆる躁暴状態のようでもある。しかし,被告人は,判示第1,第2の直前,居酒屋で入店を断られた際,警察官が現れた状況に応じておとなしくなっており,その後,再び居酒屋に現れて経営者から邪険に扱われても,声を荒げることもなく一旦その場からいなくなっている。
公訴事実第3の時点では,被告人の飲酒酩酊の程度は,更にひどくなっている。公訴事実第3の直前,被告人が標識等を工具でたたいたり,地面に工具を刺したりなど,被告人の異常な行動が目撃されている。公訴事実第3の直後,被告人は,自分で立つことができず,逮捕した警察官に対して「え,なんのことだ」と申し立てており,被告人は,自分の置かれた状況を判断する能力を失っていた疑いがある。公訴事実第3の動機は,被告人が通り掛かった車をいきなり止めて,いきなり被害者を突き飛ばしており,動機の了解不可能性が非常に強い。被告人は,公訴事実第3の後,しばらく警察署で睡眠をとった後,その日の真夜中まで,警察官に対し,自分のトラック運転の自慢をしたり,女性器をなめるのが得意であるなどという発言を,休むことなく繰り返し続けた。そのため,精神保健福祉法の措置入院のための通報がなされた。被告人は,翌日,措置入院となり,病院において躁状態の活発な精神症状を呈し,F医師によって躁状態を鎮めるリーマス(炭酸リチウム)を投与され,徐々に正常な精神状態を回復していった。翻ってみれば,被告人は,上記の警察署での睡眠を経て,飲酒酩酊による影響が薄れた後,その基底に有していた躁状態を活発に露呈し始めたものとみることができる。
以上によれば,公訴事実第3の時点において,被告人は,一見して行為の意味や性質を理解しているように見えても,罹患していた躁鬱病による躁状態に複雑酩酊による脱抑制が付け加わった精神症状を増悪させており,動機の了解不可能性を非常に強く示していることから,制御能力を喪失していたという合理的な疑いが残る。そして,判示第1,第2の時点では,上記のように増悪させておらず,警察官が現れた状況に対応できていたりしたが,躁暴状態のようでもあり,制御能力を著しく減退させていたという合理的な疑いが残る。
よって,判示第1,第2を有罪(心神耗弱)と認定し,公訴事実第3を無罪(心神喪失)とする結論に達した。
4 前記3の理由に係る補足的な説明
(1) 本件の前提事実
関係証拠によれば,本件の前提事実としては,別紙のとおり認められる。すなわち,本件各行為のうち,責任能力以外の点は,明らかに認定できる(弁護人は,別紙前提事実1のうち,「作業先等でのトラブルはなかった」との部分を争い,被告人もこれに沿う供述をするが,作業先等のトラブルを把握する立場にあった証人Gは,トラブルの存在を否定しており,同人の信用性には疑問の余地がないことから,被告人の上記供述は信用することができない。)。
(2) 生物学的要素とこれが心理学的要素に与えた影響
次に,責任能力のうち,被告人の当時の生物学的要素とこれが心理学的要素に与えた影響についてみる。
ア D医師の見解
この点について,D医師の見解は,(ア)被告人が,以前よりアルコール依存症に罹患し,本件各行為当時は,大量飲酒による複雑酩酊の状態にあったものであって,この精神作用物質の摂取による精神の障害が,被告人に甚だしい精神運動興奮,短絡的な行動,重大な暴力行為を引き起こし,本件各行為に至らしめた,(イ)被告人が躁鬱病に罹患している可能性はあるが,確定するだけの情報がなく,罹患していたとしても,躁状態が本件各行為に直接に影響を与えたとは考えられない,というものである。
そして,上記見解の根拠としては,(a)被告人には若年のころから飲酒の渇望や乱用等があった,(b)被告人は本件各行為当時にもうろう状態,せん妄状態等ではなかった(病的酩酊ではない),(c)公訴事実第3による現行犯逮捕の約6時間後の呼気中アルコール濃度が0.55mg/lと高く,同逮捕の約10時間後でも被告人は大声を上げて意味不明な言動を繰り返すのみであった,(d)被告人は本件各行為について健忘を残している(単純酩酊ではない),(e)複雑酩酊と病的酩酊は,飲酒に至る前の精神状態とは基本的に無関係である(躁鬱病の症状があったとしても,酩酊中の状態に直接に影響を与えたとは考えられない),などと指摘する。
イ 当裁判所の判断
しかし,D医師の見解は,以下の2点において,不合理である。
(ア) 判示第2による現金が使われて約13時間飲酒が続いた可能性
被告人は,判示第2によって,一万円札約7枚と少しの物品等の入った財布を入手し,うち2万円程度については,公訴事実第3までの約13時間のうちに,タクシーを使用したり,飲酒したりなどする代金の一部に費消したことが推認できる(別紙前提事実2(3)。なお,弁護人は,被告人には従前の手持ち現金があったから,上記のような推認は不合理である旨主張するが,被告人が会社の寮で日々受け取っていた内金や前の勤務地における差引き支給金は,酒代や作業中の出費等に日々使われていたと考えるのが合理的であり,上記主張は採用できない。)。そうすると,上記約13時間のうちにおいて,被告人が,更に飲酒を続けた可能性を否定することができない本件では,前記ア(c)で「呼気中アルコール濃度が0.55mg/l」という数値が得られている点を踏まえても,被告人における精神症状を考察するにあたっては,判示第1,第2の時点と,公訴事実第3の時点(この2つの時点を,以下「両時点」という。)とを,合理的に区別する必要性がある(このようなことは,関係証拠上認められる両時点における酩酊下での被告人の運動能力の差異からしても,明白である。なお,この間,被告人が不眠を続けたと考えられることについては,後記ウ参照)。
そうであるのに,D医師は,前記ア(ア)で,両時点を区別することなく,被告人の精神症状を一括して考察している点で,不合理である(なお,上記約13時間における被告人の行動を記載した報告書〔弁7号証〕は,当初,D医師による考察の資料中に含まれていなかったのであるから,同医師が上記のように合理的に区別する必要性に気が付かなかったとしても,おかしいとはいえない。)。
(イ) 躁鬱病による躁状態と飲酒の複雑酩酊による脱抑制との関係
D医師は,前記ア(c)の「意味不明な言動」が,第1にアルコール離脱による精神症状の可能性,第2に環境反応的な動揺の可能性,第3に躁鬱,躁状態も含めた本来の意味での精神症状の可能性がある旨,それぞれ指摘するものの,第3の可能性を否定しており(前記ア(ア),(イ)),また,仮に躁鬱病の症状があったとしても,複雑酩酊の状態に直接に影響を与えたとは考えられない旨述べている(前記ア(イ),(e))。その根拠として,(i)被告人は3回目の入院(平成25年8月)で躁鬱病と診断されているが,厳密な診断にはもう1回躁状態等が確認されるべきで,確かに1回目の入院(平成16年5月)では幻覚妄想という「精神病症状をともなう躁病」であった可能性があるが,当時の社会的逸脱状況や飲酒の持続,2回目の入院(本件直後の平成24年3月)まで8年近く治療なしに本来の心身状態を維持していたこと,少なくとも3回目の入院までに被告人が酩酊なしに治療を要する状態に陥っていないことから,躁鬱病は否定される,(ii)被告人は,アルコールの関与がなくても,3回目の入院において躁状態になったが,その直前において,本件のような攻撃的な行動に出ていない上,3回目の入院直前におけるテンションの高さと比較して,同年3月17~19日早朝の出来事が,どこまで飲酒の影響なのか,躁状態の影響なのかは判別できない,(iii)精神医学者のビンダーの論文によれば,心因性の酩酊は否定されているから,複雑酩酊等は,その飲酒に至る前の精神状態とは基本的に無関係である,などと指摘している。
しかしながら,まず,(i)の根拠は,2回目の入院直後,被告人がF医師によって躁状態を鎮静させる薬物治療を受け,平成24年4月に「♯1 躁うつ病」と診断された点(別紙前提事実5(3)),すなわち,3回目の入院以前に躁状態等が少なくとも1回確認されている点を,全く考慮に入れずこれを無視するものである。その上,被告人が「8年近く治療なしに本来の心身状態を維持した」という点も,確実な事実とはいえない(平成17年5月頃〔弁41号証〕に栃木県内のコンビニ駐車場で意味不明な言動を発して警察に保護されたり,平成19年4月に児童施設で壁を壊したりしたことなど)。以上によれば,(i)の根拠は,不確かなものというべきである(なお,検察官は,D医師が3か月以上もの期間をかけて多くの検査を行った上で鑑定した旨主張する。しかし,診察に従事した期間の点では,F医師の方が,より長期間〔平成24年3月22日~同年7月26日〕,被告人の精神症状を実際に検討したものである。)。加えて,アルコールという身近に存在する精神作用物質の影響を完全に除外する形で「治療を要する状態に陥った」のかどうかを判別しなければならないという点も,現実的なものとはいえない。なお,(i)の見方は,責任能力における精神障害を,幻覚妄想状態のみに,すなわち,D医師のいうところの「精神病症状」のみに限定する点に由来する理解とも考えられる。しかし,責任能力における精神障害は,弁識能力のみならず制御能力にも関連しているのであるから,行為を制御しにくい躁状態のような精神症状をも含むものと法律上は考えられる。
次に,(ii)の根拠をみてみると,まず,この根拠は,被告人が3回目の入院直前に,認知症の迷い老人を怒鳴り付けたり,その翌日に更生施設の他の入居者に怒鳴り付け,胸倉をつかんだりする暴行を加えたという,攻撃的な行動に出ていた事実を看過している。その上,仮に,どこまで飲酒の影響なのか,躁状態の影響なのかが判別できないのであれば,被告人に有利に考えて,両方の影響,すなわち躁状態の影響をも併せて考慮するほかにはあり得ないのであるから,法律的にみれば,明らかに誤った根拠というべきである(両方の影響を考慮できるかどうかについては,(iii)の根拠も関係している。)。
さらに,(iii)の根拠をみてみると,E医師は,(iii)の根拠の妥当性に疑問があるとし,その理由として,次の3点を指摘している。(あ)ビンダーの論文は,「ビルンバウムの言う心因的酩酊」なるものを否定するところ,同論文では,その内容の説明がなされておらず,パラグラフの文意が明瞭ではない。他方で,同論文は,「複雑酩酊に対する個体的要因は何らかの一般的素因の中に認められることが多い」などと述べ,酩酊前の精神状態が複雑酩酊の発生に関与していることを示唆しているのみならず,強い恨みを抱く男性が恨みを抱いた相手の物品を複雑酩酊下でたたき壊した症例を紹介していたり,「複雑酩酊でも覚醒時の精神生活(の)連関がいまだどうにか保持されている」と述べていたりするなど,むしろ,同論文は,酩酊前の精神状態が複雑酩酊の状態に何らかの影響を及ぼすことを否定していないと理解するべきである(なお,E医師による(あ)の指摘は,検察官の主張するような,酩酊時における見当識ではなく,酩酊時と覚醒時という2つの時点における「連関」に係る内容である。)。(い)E医師が種々の資料に当たり,調査したところ,「飲酒前の精神状態が複雑酩酊後の状態とは基本的に無関係である」という学説や,それに基づいた鑑定例を見出すことはできず,逆に,複雑酩酊の状態は「その時の精神状態によっても強く左右され」「当時反応性鬱病の状態にあったため,相乗作用をなし,一層異常なる酩酊状態になったと推測される」とする鑑定例が,公刊物上に存在することを確認することができた。(う)躁鬱病の及ぼす影響とアルコールによる脱抑制の及ぼす影響とが,取り分け,制御能力に対して,こもごも相乗的に作用する旨の理解(アルコールが中枢神経系に作用する機序ないし効果は,飲酒に至る前の精神状態の影響による効果から中立的,独立的であるとの考え)は,肯定することができる。
E医師による(あ)の指摘は,D医師と同じビンダーの論文に依拠しつつ,ビンダーの論述内容を引用して反論するというもので,説得的であり,また,(い)の指摘は,文献上の議論を示すもので,同様に説得的である(なお,検察官は,(い)の鑑定例を1つの症例判断に過ぎない旨主張するが,(い)の鑑定例が文献上の根拠として,専門的な経験則を示すものである点に疑念の余地はない。)。(う)の指摘は,E医師の精神医学一般の専門的知見に基づくものであり,(あ),(い)の指摘に沿った内容でもあって,十分に尊重することができる(なお,E医師は,検察官の主張するとおり,アルコール関連の精神障害に特化した専門医ではないし,被告人と面接を行ってはいない。しかしながら,E医師が,臨床精神医学の専門家として,各種の精神障害につき十分な知識を有することは,その供述する内容からして明らかである上,E医師は,被告人と面接を行ったD医師及び被告人を診察したF医師の各見解について,その是非を当裁判所が判断するに際し,専門的な経験則等を当裁判所に提供して当裁判所の有する知識を補充するという立場にあったのであるから,E医師が被告人と面接を行う必要性は,認められない。)。
以上によれば,D医師のいう(i)ないし(iii)の根拠は,いずれも採用できず,同医師の見解は,被告人が躁鬱病に罹患している可能性を否定する点,及び仮に躁鬱病の症状があったとしても,複雑酩酊の状態に直接に影響を与えたとは考えられない旨述べる点で,不合理である。
ウ 小 括
そうすると,被告人の当時の生物学的要素とこれが心理学的要素に与えた影響については,D医師が指摘する,精神作用物質としてのアルコールの過剰摂取と,上記イ(イ)のとおり,可能性を排除することのできない躁鬱病による精神症状とが,取り分け,制御能力に対して,こもごも相乗的に作用し,本件各行為に影響を与えたものとみるべきである。
より詳細にみると,次のとおりである。F医師によれば,被告人は,平成14年に妻を亡くしたことで気分障害(躁鬱病)を発症した(なお,被告人は,「一生独身」という携帯電話のストラップを持つなど,妻を亡くしたことについて,とても気に悩んでいたと認められる。)。被告人は平成16年に措置入院となり,幻覚妄想という「精神病症状をともなう躁病」の症状を呈し,その後,子供らと一緒に暮らせないなどのストレスを契機として,社会的に不適応な状況を惹起するなど,時折,ストレスに苦しんでいた。被告人は,本件直前に解雇処分を受け,子供らと一緒に生活する状況が遠ざかってしまい,「自分はこんなことやってちゃいけないんだ」と涙ながらに話していた。E医師は,被告人の病歴をみれば,病状が急激に悪化する特徴を有している旨指摘する。被告人は,判示第1,第2の前々日夜から前日未明にかけて不眠を続け,その後も公訴事実第3の時点まで睡眠をとった様子はうかがわれない。被告人は,判示第1,第2の時点の前,警察官に対して氏名を述べることを拒否したが,一旦はおとなしくなった。判示第1,第2の時点までの継続的な飲酒は,前日夕方以降の数時間に過ぎず,その時点で被告人は,身体を敏捷に動かすことができた。E医師は,被告人が,解体傾向ではあったものの,まがりなりにも被害者側と会話になっていた旨指摘する。他方で,被告人は,判示第2によって得た2万円程度の現金を費消して,公訴事実第3までの約13時間のうちに,更に飲酒するなどしたものと推認され,その間,身体で代謝できる以上のアルコールを摂取し,酩酊の度合いを悪化させていたものと考えられる。被告人は,公訴事実第3の時点では,被害者が直感的に危険を察知するような様相を呈しており,また,警察官に支えられないと立っていられず,敏捷に身体を動かすことができない状態であった。E医師は,公訴事実第3については,被告人が通り掛かった車をいきなり止めて,いきなりの犯行に出ており,動機の了解不能性が非常に強いものであって,その時点での被告人の精神状態が,了解不能な動機を形成する主要な役割を果たした旨指摘している。
以上によれば,判示第1,第2の時点では,アルコールの摂取と,可能性を排除することのできない躁鬱病による精神症状とが相乗的に作用し,被告人の精神症状は悪化していたというべきであるが,この症状との比較において,公訴事実第3の時点では,E医師の指摘するとおり,被告人の精神症状は増悪し,その症状はかなり重篤であって,同症状が被告人の行動に深刻な影響を与えていたものと考えられる。
なお,弁護人は,公訴事実第3の時点で,被告人の精神症状は確かに増悪したものと考えられるが,判示第1,第2の時点でも既に相当重篤な状態に達していた旨主張する。そして,その根拠として,両時点がわずか半日ほどしか離れておらず,精神症状に変化があったと考えるのは不自然であること,判示第1は抑制の効いていない態様であったこと,判示第1の直前である平成24年3月20日午前零時頃,あるいは同日午前2時頃に,被告人の精神症状が急激に増悪した可能性がある旨主張する。
しかしながら,両時点においては,継続的な飲酒時間や,身体の敏捷性,更には会話能力等の点で,明確な差異が存在しており,被告人の精神症状を別異に理解すべき合理性が明らかに認められる。他方で,同日午前零時頃から午前2時頃にかけて,上記の点において,明確な変化が存在するとみることは到底できない。なお,判示第1の態様については,確かに,後述(3)イ(イ)のとおり,抑制の効いていない内容とはいえるが,そのような態様の点のみを捉えて,両時点における精神症状の増悪というE医師の指摘を変更すべきものとみることはできない。弁護人の上記主張には理由がない。
(3) 諸事情の総合考慮による心理学的要素の法律判断
さらに,前記(2)の検討を踏まえた上,諸事情を総合考慮し,心理学的要素(弁識能力と制御能力)について法律上の判断を下す。
ア 犯行前の生活状態について
被告人は,高校中退後,長距離トラックの運転手やとび職等を転々とし,平成23年頃からは土木関係の会社で稼働していた。被告人の同会社での稼働状況は,仕事内容を良く把握し,積極的な姿勢であった。被告人は,平成2年頃に婚姻して2人の子供をもうけたが,平成14年に妻を亡くして以来,子供らを藤沢市内の施設に預け,単身で生活していた(上記婚姻時期について,D医師は,「平成9年(34歳時)に再婚した」と認識している。しかし,被告人の警察官調書〔乙1号証〕によれば,被告人は,28歳〔平成元年~平成2年〕のときに妻と結婚し,2人の子供をもうけ,その後妻が死亡したものと認められる。)。
被告人は,前記(2)ウのとおり,平成14年以降,気分障害(躁鬱病)を発症した(少なくとも,発症した旨の合理的な疑いが存在する。)。被告人は,平成16年に「急性一過性精神病性障害」ないし「精神病症状をともなう躁病」により措置入院となり,約1か月半入院した。しかし,退院後は,被告人は服薬せず,通院していなかった。
被告人は,平成2年頃の婚姻後(平成3年2月の刑執行終了後),平成14年の妻の死亡までの,およそ12年間においては,粗暴事犯で1度の罰金に,その他の事犯で1度の執行猶予付き懲役刑と1度の罰金に処せられただけであった。しかし,被告人は,平成14年以降,本件に至るおよそ10年間において,粗暴事犯で2度の懲役刑(執行猶予付き〔後に猶予取消〕1件,実刑1件)と2度の罰金に,その他の事犯で3度の懲役刑(いずれも実刑)と1度の罰金に処せられている。
以上のように,平成14年の妻死亡の前後を比較すると,被告人は,一応,通常人と同じ生活能力を維持し続けてはいたが,平素の人格は,気分障害の発症前と比べて粗暴な傾向を強めており,被告人の人格の変容がうかがわれる。
イ 犯行の動機・態様等
(ア) 判示第1に至るまで
被告人は,平成24年3月18日夜,外出した後,不眠を続け,翌朝未明に通り掛かりのトラックに同乗し,更にトラックの積み込み作業を手伝うなど,明らかな活動性の増大や,社交性の増大を示しており,また,上記作業で受傷して病院で診察を受けた際,興奮している様子であった。
証人Gは,同月19日昼における被告人の様子を当公判廷で述べている。同供述を子細に検討しても,この時点では,被告人と他人との間の意思疎通について,問題は生じていない。また,本件各行為の当時,被告人には,幻覚,幻視がなかった。そして,被告人は,同月20日午前零時過ぎころ,酔っぱらった状態で居酒屋Hに現れ,入店を断られて暴れたが,警察官が現れた状況に応じて,被告人はおとなしくなり,警察官と会話したりしている。そうすると,被告人は,同時刻頃において,周囲の状況に対する見当識を相応に有しており,行為の意味・性質を理解する能力について,それ程大きな問題を生じさせていなかったとみることができる。
(イ) 判示第1,第2について
その後,被告人は,判示第1,第2の時点直前,再び居酒屋Hに現れて,大事な物品を保管していた「筒」がなかったかどうか,Hの経営者に尋ねている。このような言動は,「筒」を隠されてしまったという,被害関係妄想の可能性があり(E医師の見解),この時点において,周囲の状況に対する見当識,ひいては行為の意味・性質を理解する能力がかなりの程度障害されていた疑いを否定することはできない。しかしながら,被告人は,Hの経営者から「筒」の在りかを知らないと告げられて,声を荒げることなく,その場から立ち去っている。そのような行動をみる限り,被告人の上記能力に係る障害の程度は,重篤なものであったとまでは評価できない。
また,被告人は,本件各行為について健忘を残しており,本件各行為を通じて,その意識は清明であったとはいえない。
判示第1,第2の動機については,被告人が,直前に「Iの知り合い」であるということをHの経営者らに述べたり,経営者と一緒に車に乗っていたHの客を殴る蹴るした後,客から金品を持ち去ったりしたことなど,前後の経緯から,その動機自体が合理的とはいえないものの,ある程度の筋道については,分からないではない(E医師も同様に評価する。)。
検察官は,被告人が,居酒屋Hで酒を飲もうと思ったのに,経営者から店を追い出され,警察に通報された上,再びHを訪れた際にも入店を拒まれたことで,経営者に怒りを覚え,駐車場で車に立ち塞がった際に経営者をかばったHの客に怒りを向け,判示第1に及び,さらには,解雇されて所持金がなく,金欲しさから判示第2に及んだのであるから,動機については了解可能である旨主張する。しかしながら,被告人は健忘を残しているから,その動機は,必ずしも明らかではない。加えて,被告人が,怒りを覚えて判示第1に及んだというならば,判示第1の直前,大事な物品を入れた「筒」を捜して邪険に扱われたHの経営者に対し,声を荒げることもなく,一旦その場からいなくなったこと(別紙前提事実2(3))を合理的に説明することが全くできず,また,このように怒りを覚えた経営者ではなく,居酒屋Hの客(被害者)に対して危害を加えたのかという点についても,十分合理的に説明することができない。なお,検察官は,上記主張に際しては,被告人が,再びHを訪れて「筒」を探した際,地元の暴力団関係者であるIの名前を出したことを,その前提事実としている。しかし,Hの客(A)は,上記事実につき,「被告人が,ぼそぼそと話していたので,すべて聞き取れたわけではない」旨述べている上,Hの経営者(J)は,別紙前提事実2(3)のとおりに述べているに過ぎず(Jは「そんなの知らない,どこかに置いてきたんじゃないの?,と答えると,その男は,このときは,特に声を荒げたりすることなく,店の前からいなくなりました」旨述べている。),結局,検察官の上記前提事実は,他の供述による裏付けがなく,不確実なものというほかない。そして,判示第1の動機が合理的に説明できないならば,直後に敢行された判示第2の動機も同様というべきである。検察官の上記主張は採用できない。
判示第1,第2の態様は,被告人が,大声で怒号し,車から降りた被害者にボクシングのフックのような軌道で殴ったり,しつこく距離を詰めて繰り返し殴り,被害者が,記憶をなくすほど殴られ,その場に倒れ,財布等を被告人から要求されたりしたというのであって,このような被告人の激しい暴行の点をみると,いわゆる躁暴状態のような,異常行動のようにもうかがわれる(なお,検察官は,上記暴行を合理的,合目的的な行動である旨主張するが,行為を制御しにくい躁状態のような精神症状では,怒りの強さと暴行の悪質さが釣り合わない状態が出現するのであって,上記暴行を,脈絡のとれた合目的的な行動とみることは到底困難である。)。加えて,上記のような態様は,前記アの気分障害の発症後における粗暴な傾向と軌を一にしているといえるのであるが,発症前の傾向からは乖離している上,平成24年3月19日昼における被告人の状態(証人Gの当公判廷における供述)と比較しても,短期間における人格の断絶,異質性が見受けられ,抑制力があまり効いていないというべきである。
なお,判示第1,第2に十分な計画性があるとは,評価することできない。
(ウ) 公訴事実第3について
被告人は,平成24年3月20日昼,神奈川県大和市内の路上やタクシー乗車中に他人と口論に及んだ際,トラブルを避けるため警察官によってパトカーで搬送されており,被告人は,周囲の状況を的確に判断し,行動する能力を更に低下させつつあったものと考えられる(この事実は,当初,D医師による考察の資料に含まれていなかった。)。
被告人は,公訴事実第3の直前,その場所付近の道路上において,標識等を工具でたたいたり,地面に工具を刺したりする異常な行動をとっている様子を目撃され,その異常な様子については,そのこと自体で,110番通報までされる程度に達する内容であった。
公訴事実第3の動機については,前記(2)ウのとおり,被告人が通り掛かった車をいきなり止めて,いきなりの犯行に出ており,了解不能性が非常に強いものと評価できる(E医師も同様に評価する。)。また,被告人は,公訴事実第3の約11分後に現行犯逮捕された際,自分で立つことができず,ろれつの回らない状態で「え,なんのことだ」と申し立てるなどしており,被告人が,公訴事実第3の時点において,自分の置かれた状況を判断する能力(すなわち見当識)を失っていた疑いがある。
検察官は,被告人が,公訴事実第3の直後,110番通報をしようとする被害者に対し,「どこに電話してんだ」などと言って携帯電話を奪い取ろうとしてきた点を捉えて,被告人が犯行後に自己防御,危険回避的な行動をしている旨主張する。しかしながら,別紙前提事実3(3)によれば,被告人は,目の前の相手がどこかに電話している旨認識していたとまではいえるが,目の前の相手が警察に電話しようとしている旨認識していたとまでいえる明確な根拠は何ら存在しないのであって(乱暴な社交性の増大傾向とみることも可能である。),上記のような現行犯逮捕された際の言動等をみても,被告人が自己防御的な行動をしているとは到底評価することができない。検察官の上記主張は採用できない。
(エ) 被告人の措置入院
被告人は,平成26年3月20日午後3時26分頃過ぎに現行犯逮捕されてからアルコールを摂取しておらず,同日午後7時頃には睡眠から目覚めるなど,飲酒酩酊の状態から快方へと向かっていた。そうであるのに,(甲)被告人は,そのころから翌日未明にかけて,「大型トラックの運転はこうやるんだ」とか「おまんこ舐めるの得意なんだ」などと,異常な言動を休むことなく繰り返し続け,被告人について,精神保健福祉法の措置入院のための通報がなされるに至った。
被告人は,同月21日昼に措置入院することとなったが,(乙)病室内において,上半身裸で臥床して「ごちそうさんです」と発言したり,全裸になったり,しゃべり続けながら荷物の確認をしたり,「まだまだ食べられるなぁ」と発言したり,ファイティングポーズをとったり,上半身裸で床に寝るなどし,また,その翌日には,ベッドを解体したり,配膳を手で払いのけたり,下半身裸,あるいは全裸で寝るなどした。これらの症状は,躁鬱病における躁状態の鎮静の効用を有するリーマス(炭酸リチウム)の投与によって,同年4月初旬頃に解消された((甲),(乙)の事実も,当初,D医師による考察の資料に含まれていなかった。)。
(オ) 小 括
以上のとおり,前記(2)の検討を踏まえた上,犯行前の生活状態,犯行の動機・態様等を総合考慮すると,判示第1,第2の時点では,アルコールの摂取と躁鬱病による精神症状とが相乗的に作用し,被告人の精神症状が悪化していたが,被告人は,動機自体においてある程度筋道の了解可能性を維持していた上,直前において,居酒屋で入店を断られた際,警察官が現れた状況に応じておとなしくなっていること,その後,再び居酒屋に現れて経営者から邪険に扱われても,声を荒げることもなく一旦その場からいなくなったことなどからすれば,被告人が,判示第1,第2の時点で,弁識能力と制御能力を若干残していたことが優に認められる。
そして,公訴事実第3の時点では,被告人の上記精神症状は増悪し,その症状はかなり重篤であって,同症状が被告人の行動に深刻な影響を与えており,動機の了解不能性が非常に強く,短期間における人格の断絶,異質性が見受けられ,逮捕時において「え,なんのことだ」と申し立てるなど,自分の置かれた状況を判断する能力を失っていた可能性を排斥することはできず,その後数時間の睡眠を経て,飲酒酩酊による影響が薄れた後,その基底に有していた躁状態を活発に露呈し始めたものというべきであるから,被告人は,公訴事実第3の時点では,そのような躁鬱病による躁状態に複雑酩酊による脱抑制が付け加わり,制御能力を喪失していたという合理的な疑いが残る。
4 まとめ
以上によれば,弁護人の主張は,公訴事実第3の関係では理由があり,公訴事実第3については,責任能力の点で犯罪の証明がないことになるから,刑事訴訟法336条により被告人に対し無罪の言渡しをする。
そして,弁護人の主張は,判示第1,第2の関係では,被告人が心神耗弱の状態にあった限度で理由があるので,判示のとおり認定した。
【累犯前科】
(省略)
【法令の適用】
(省略)
【量刑の理由】
判示第1の暴行は,顔面を執拗に狙う悪質な態様であって,被害者が被った傷害は,入院を伴う重い内容である。被害者は,判示第2により当時の所持金をすべて奪われた上,判示第1の傷害によって仕事ができず,失職し,しばらくの間,生活保護を受給する程に困窮したというのであり,本件から波及的に生じた出来事は,悲惨な内容である。以上によれば,被告人の刑事責任は軽視することができない。
しかしながら,他方,被告人が被告人なりに反省の態度を示し,今後,躁状態を抑える薬の服用を続け,飲酒をやめるつもりであること,判示各犯行が心神耗弱者の行為であったことなどの酌むべき事情も認められるので,これらを総合考慮して,主文のとおり量刑した。
よって,主文のとおり判決する。
(求刑 懲役4年)
(裁判官 樋上慎二)
file_2.jpg別紙