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横浜地方裁判所 平成27年(わ)849号 判決 2016年1月29日

主文

被告人は無罪。

理由の要旨

第1当事者の主張と本件の争点

1  検察官主張の本件公訴事実(訴因訂正後のもの)は,「被告人は,平成27年5月25日午前零時40分頃,横浜市内のa荘A方において,同人(当時49歳)に対し,その顔面を殴るなどの暴行を加えた上,持っていた包丁(刃体の長さ約21.3センチメートル)の刃先をその喉元に突き付け,「殺すぞ」などと言い,もって凶器を示して脅迫し,さらに,同人を畳に仰向けに倒して馬乗りになり,その右腕を左手でつかんだ上,その左顔面直近の位置において,包丁の刃先を畳に数回突き刺すなどの暴行を加え,よって,同人に全治約1週間を要する口唇部挫傷,右上腕部挫傷の傷害を負わせたものである。」というものである。

これに対し,被告人は,Aの腕をつかんだり,平手で頬を叩いたことはあるが,それ以外の暴行や脅迫はしておらず,上記行為についても,Aが自傷行為に及ぶのを防ぐためにしたものであると供述し,弁護人は,被告人の供述に沿い,暴行行為の一部及び脅迫行為の存在を争うとともに,被告人がした行為については,正当防衛若しくは緊急避難又は少なくとも誤想防衛若しくは誤想避難(以下「正当防衛等」という。)が成立するから,被告人は無罪であると主張している。

2  以上によれば,本件の争点は,①被告人が,Aに対し,公訴事実記載の暴行,脅迫を加えたか,②被告人の行為に正当防衛等が成立するか,という点である。

第2当裁判所の判断

1  争点①について

(1)  本件の証拠構造と判断枠組み

本件では,目撃者は存在せず,検察官の立証が成功するかは,公訴事実記載のとおりの被害を訴えるA証言が信用できるか否かにかかっている。他方,被告人は,上記のとおり,A証言と大きく食い違う内容の供述をしているから,本件の判断枠組みは,A証言について,これと対置する被告人供述を踏まえてもなお,信用に値するものか否かを検討する,というものになる。

(2)  A証言の信用性

ア A証言の要旨

Aは,当公判廷において,要旨以下のとおり証言する。

平成27年5月24日夜からa荘のAの自宅に被告人と2人でいたときに,トイレに入った被告人が右手小指から出血したという出来事があった。Aは,絆創膏を探して被告人に渡したが,被告人は何が気に入らないのか怒り出し,Aが自衛隊を辞めた後,ラインのグループトークに元同僚で好きでなかったBを招待したことなどに文句を言ってきた。Aが言い訳をすると,被告人はAの髪の毛を引っ張り,右側の唇の上を左の平手で殴った。そのとき,テレビ台のカラーボックスに顔が当たってAの歯が欠けた。6畳間の柱の前で,被告人が「おまえは俺に一体何をしてくれたんだ。」と言ったのに対し,Aが「愛は見返りを求めるものではないんじゃないか。」と口答えをすると,被告人は,いきなり走り出して流しから包丁を持ってきて,左手でAの口を塞ぎながらAを柱に押さえ付け,包丁をその喉元に突き刺さるぐらいのところまで突き付けて,「殺すぞ。」「おまえを殺して俺も死ぬ。」と言った。Aが「殺せば。」と言うと,被告人は,包丁を持った右手を水平にスイングして包丁の柄か拳でAの左側の唇の上を殴り,唇が腫れ上がって出血した。Aが「こんな醜い顔で死にたくない。」と言うと,被告人は,Aを押入れ前の畳に仰向けに押し倒して体の上にまたがり,左手でその右腕を強くつかんだ上,右手に持った包丁で,その左顔面すれすれの畳を四,五回思い切り突き刺した。Aが,殺されると思って恐怖を感じ,「死にたくない。」と連呼すると,被告人は,包丁で畳を刺すのをやめた。Aは,玄関の側に被告人がいたことから,2階にある自宅窓から外に飛び降りた。Aが,背中に激しい痛みを感じ,両足の感覚がなくなり,立ち上がれないでいると,被告人がその場へやって来て,Aを抱きかかえてAの部屋まで運び,玄関のところにどさっと落とした。Aが「救急車を呼びたい。」と言うと,被告人は「何と言って呼ぶんだ。」などと言いながら,かばんの底でAの左目の辺りを何回も殴った。Aは「階段から落ちたことにするから。」と言うなどしたが,被告人は,救急車を呼ぶ理由を何回も確認しながら,しばらくかばんで顔を殴っていたため,Aの顔が腫れ上がった。その後,被告人は,いったん部屋から出ていった後,戻ってきて,再度かばんでAの顔面を殴り,「この荷物(被告人の荷物)を家に送れ。」と言った。その後,被告人がいなくなってから,Aは自ら119番通報をした。

イ 客観証拠や争いのない事実との整合性

検察官は,A証言が信用できる根拠として,客観証拠や争いのない事実と整合している点を挙げるので,順次検討する。

(ア) 畳の損傷について

検察官は,被告人が包丁を畳に突き刺した状況に関するA証言は,A方6畳間の畳に,鋭利な刃物を刺したと認められる損傷4条及びかぎ裂き様の損傷1か所が存在することと整合していると主張する

この点,証拠によれば,平成27年6月1日に捜査機関がA方の現場確認を行った際,6畳間の押し入れ付近の畳の上に刃物を刺したことにより生じたと見られる損傷4条及びかぎ裂き様の損傷1か所が存在し,同損傷付近には長い毛髪様のものが落ちていたことが認められる。このことは,被告人が,6畳間の押し入れ前の畳の上に押し倒したAの左顔面直近の畳を,持っていた包丁で四,五回突き刺した旨のA証言と整合しているようにも思われる。

しかし,一方で,上記損傷の深さは,いずれも約1.5センチメートルから約3センチメートルの範囲に収まっており,本件の際に被告人が手にしていたと認められる刃体の長さ約21.3センチメートルの鋭利な柳刃包丁を,Aが証言するように「思い切り」畳に突き刺したことで生じた損傷にしては,深さが浅過ぎるといわざるを得ない。そして,A証言以外に上記損傷が本件で生じたことを裏付ける証拠はなく,上記損傷が本件以前の何らかの別の機会に生じた可能性を排斥することができないこと,毛髪様のものが落ちていた経緯も証拠上不明であることからすると,上記損傷の存在は,A証言の信用性を決定づけるものとはいえない。

(イ) Aの負傷状況について

検察官は,暴行及びそれによる負傷に関するA証言は,Aの負傷状況と整合していると主張する。

この点,証拠によれば,本件の後,Aは,口唇部挫傷及び右上腕部挫傷を負っていたほか,前歯が欠けていたことが認められ,このことは,被告人が,Aの左右の唇の上を殴り,その右腕を強くつかんだというA証言と整合しているようにも思われるが,これらの負傷結果は,後記のとおり被告人が自認する行為によっても生じ得るものである。

なお,Aの入院中の写真を見ると,Aの左目周辺が赤く腫れている様子が認められるところ,この傷がAの証言するように被告人がかばんで殴ったことにより生じたかについては,当該かばんが柔らかい素材で出来ているように見え,当時のかばんの内容物がポーチ以外明らかになっていないことも併せ考えると,このかばんにより生じたものとはにわかには考えにくく,Aが深夜,窓から飛び降りた際,どこかに左目を打ち付けるなどしたために生じた可能性も否定することはできない。

そうすると,Aの負傷状況がA証言の信用性を決定づけるものでもない。

(ウ) Aが2階の窓から飛び降りたことについて

検察官は,被告人が包丁を持ち出してきて生命の危険を感じたというA証言は,Aがa荘の2階の窓から飛び降りたという,争いがなく証拠上も明らかに認められるAの行動と整合していると主張する。

確かに,2階の窓から飛び降りるというのは尋常な行動ではなく,特段の事情がない限り,生命の危険などの差し迫った事情があったことを推測させるものであるが,Aについて認められる以下の事情に照らすと,この飛び降り行為は,Aが生命の危険を感じたことを当然に推測させるものとはいえない。

すなわち,証拠によれば,Aは,①平成23年12月頃,出張先のホテルの上層階にある部屋の窓から大きく身を乗り出し,飛び降りるなどと発言してその場にいた男性2人に止められたこと,②平成24年5月頃,山梨県の山中にある人里離れたキャンプ場に行った際,辺りが真っ暗な中,突然はだしで山荘から飛び出して,泥だらけの足で体中に葉や草を付けて戻ってきたこと,③同年夏頃,上司宅マンションの高層階にあるラウンジで行われた懇親会で,上記②の出来事が話題に出ると,突然興奮して泣き出し,ラウンジのベランダに出ようとして周りの人に止められたこと,④平成24年12月頃,被告人方で被告人と口論した後,帰り際にその玄関で自身の左胸を包丁で刺したこと,⑤平成26年1月頃,A方で被告人と口論した後,Aの知人方へ行き,その際腹部に包丁による2か所の刺し傷を負い,緊急手術を要するほどの重傷を負ったこと(Aは,自ら軽く1回刺した後,上記知人に包丁を取り上げられて深く刺されたと証言する。)が認められる。これらに照らすと,Aには,感情的にかなり不安定な面があり,被告人と口論するなどして興奮した精神状態になると,時に自傷行為を含む突飛な行動に出る傾向があることが認められる。

そうすると,本件でAが2階の窓から飛び降りたことをもって,A証言の信用性を支えるものとみることには慎重であるべきである。

ウ 供述の一貫性

検察官は,Aは,被害直後から一貫して母親や救急隊員に被害状況を申告していたと主張する。

この点,救急隊員であるCの証言によれば,Aは,119番通報により臨場したCに対し,けがの原因について,当初「階段から落ちた。」と説明していたが,不審を抱いた同人から追及されると,「男友達とお酒を飲んでいて口論になり,身の危険を感じ,2階の部屋の窓から飛び降りた。」と説明を変えたほか,「顔を殴られた。」「包丁で脅された。」などと述べ,けがの原因について最初に違う話をした理由について,「男友達に迷惑が掛かるから。」と述べたことが認められる。

このように,AのCに対する申告が,本件直後になされたものであることに加え,Aが,けがの原因について当初異なる説明をしていたところ,救急隊員から追及されて初めて上記のとおりの申告に至っていること,異なる説明をしていた理由も自然なものであることを併せ考えると,申告内容が真実である可能性はそれなりに高いようにも思われる。

他方で,上記申告内容は,後記のとおり被告人が自認する行為の内容と必ずしも矛盾するものではなく,それをAが主観的にどのように感じたかを表現したにすぎないものとみる余地がある。しかも,本件では,既に認定したとおり,Aには,自傷行為を含む突飛な行動に出る傾向がある上,Aが,前記イ(ウ)の各事実のうち,①については否定し,②については山中に携帯電話を掛けに行っただけであると述べ,③については泣いていないし周りの人に止められてもいないと述べていることなどからすると,Aには,そのような自身の行動傾向を殊更に否定しようとする姿勢が見受けられる。こうした観点からすると,Aの救急隊員に対する上記申告内容については,Aが,興奮状態で2階の窓から飛び降りたという自身の突飛な行動を隠すために,「身の危険を感じた」という弁解をした可能性を否定することはできない。

なお,Aの母親は,本件後にAから公訴事実に沿う被害状況を聞いた旨証言するが,中立的な第三者ではなく,前記イ(ウ)⑤の事件が起きた後のAの職場の上司への対応ぶりなどにも照らすと,同証言がA証言の信用性を支えるものとは到底認められない。

エ 証言内容の合理性

検察官は,A証言は,具体的で迫真性があり,内容も自然であると主張する。確かに,A証言は,本件当夜の一連の事実経過を具体的かつ詳細に述べる内容であり,被告人が包丁を畳に刺したときに死にたくないと連呼したという場面などは,迫真性を備えているともいえる。

しかし,被告人とAの間で本件前日に交わされたラインのやり取りは,Aが,元同僚で好ましい感情を持っていなかったBをラインのグループトークに招待したことに関し,被告人がAに「無理して付き合わなくていい。」「楽しい仲間以外は声かけない。」などというメッセージを送り,Aを穏やかに諭す内容である。そうすると,この件に関して言い訳をするAに対して被告人が激高し,包丁を持ち出してAに突き付けながら,「おまえを殺して俺も死ぬ。」と脅迫するほどの事態に発展したというA証言の内容は,事実の推移に飛躍があり,自然な内容であるとはいい難いように思われる。

また,公訴事実そのものではないが,A証言によれば,被告人は,負傷して動けなくなっているAの顔面をかばんで何度も殴り,A方にあった自分の荷物を被告人の家に送るように言ったとされる。しかし,Aの話を前提にしても,負傷したAを被告人が更に殴る理由は理解し難いものがあるし,身動きできないAに荷物を送るよう命じたのも状況にそぐわない行動といえる。こうした事件後の状況に関する証言内容の不自然さは,公訴事実に関する証言部分の信用性判断にも一定の影響を与えるものといわざるを得ない。

オ 小括

そうすると,A証言は,客観証拠や争いのない事実と一応は整合し,供述も一貫しているようには見えるものの,証言の信用性を支える決定的な根拠があると断定することはできず,その内容にも不自然なところがあるといえる。

(3)  被告人供述の信用性

そこで,進んで,被告人供述の信用性を検討する。

ア 被告人供述の要旨

被告人は,当公判廷において,要旨以下のとおり供述する。

A方で,被告人がトイレに行ったときに右手小指にけがをして血が出た。被告人が水で手を冷やして血を止めてから,2人で酒を飲み始めたところ,Aが立ち上げた元同僚とのラインのグループトークなどについて口論になった。Aは,被告人が同グループトークから脱退したことを誤解し,「なんであなたはBの肩を持つんだ。」などと言って逆上して席を立ち,外に出て行こうとした。被告人としては,1年前にAが自分でお腹を切ったときのことが頭から離れず,Aを興奮した状態で外に出すと自分を傷付けてしまうというイメージがあり,Aが外に飛び出すのを防ぐために制止しようとした。しかし,Aが殴る蹴るなどして抵抗してきたため,被告人は,Aを何回も床に組み伏せ,平手でAの顔を二,三回叩いた。その後,被告人が組み伏せてはAが逃げるという追い掛け合いが30分位続き,被告人は,A以上の突飛な行動に出なければ,その場を収めることはできないと考えて,台所へ行って包丁を手にし,Aを布団の上に仰向けに倒して組み伏せ,馬乗りになり,左手でAの右腕を押さえ,右手に持った包丁の柄をAの額の上に乗せ,刃先を被告人の首の方に突き付けた状態で,「刺してもやる。殺してもやる。でもな,自分の大切な人がいつも血だらけになる姿を見る気持ちが分かるか。お前には分からないだろう。だったら俺を刺してみろ。」などとAに言った。Aが少し落ち着いたように見えたので,被告人は,立ち上がって押し入れの方へ向かい,被告人とAの間で,被告人が荷物を持って帰るからAにかばんを貸してくれと頼み,Aが断るといういつものけんかのパターンのやり取りが続いた。Aの答えが途切れたので被告人が布団の方を振り返ると,Aがいなくなっていて窓から飛び降りていた。被告人は,Aを抱えて部屋に戻った。Aが自分で救急車を呼ぶと言うので被告人は外に出て,救急車が来たのを確認してから,その場を後にした。

イ 客観証拠との整合性

証拠によれば,A方6畳間にある掛け布団に,血痕様のものがある程度まとまって付着していることが認められ,このことは,右手小指を負傷していた被告人が,Aを組み伏せて馬乗りになったのは,Aが証言するように畳の上ではなく,布団の上であるという被告人供述と整合的である。

ウ 供述内容の合理性

被告人供述は,A証言に勝るとも劣らない具体性,迫真性を備えており,被告人とAが口論に至った経緯についても,2人の間で本件前日に交わされたラインのやり取りや,AがBに対して抱いていた感情に照らし,自然な内容といえる。

そして,前記のとおり,Aには,感情的にかなり不安定な面があり,被告人と口論するなどして興奮状態になると,時に自傷行為を含め突飛な行動に出ることがあるのであり,被告人が,興奮して外へ出ようと暴れるAを落ち着かせるために,Aを組み伏せた上,その顔を平手で叩くなどして制止しようとしたが,目を離した隙にAが窓から飛び降りていた,という被告人の述べる一連の事実経過は,Aの行動傾向を踏まえれば,十分あり得る出来事といえる。

この点,検察官は,以前に包丁で自傷行為に及んだことがあったというAがまたしても自傷行為に及ぼうとしていると認識しながら,その場を収拾するには突飛な行動に出るしかないと思って包丁を持ち出したのは不自然,不合理であると主張する。しかし,空手の有段者であるAが約30分もの間興奮して暴れていたという状況を前提とすると,これを収拾するためにはA以上の突飛な行動をするしかないと考えたこと自体は了解可能であり,不自然,不合理であるなどとはいえない。

エ 小括

そうすると,客観証拠と整合的であり,供述内容にも一定の合理性が認められる被告人供述を,不自然,不合理であるとして排斥することはできない。

(4)  結論

以上検討したところによれば,A証言については,信用性を支える決定的な根拠があると断定することはできず,その内容にも不自然なところがある一方で,これと対置する被告人供述を不自然,不合理であるとして排斥することはできないのであるから,A証言は信用に値するものとはいえない。したがって,A証言に基づいて事実認定を行うことはできず,被告人供述に基づいてこれを行うほかはない。

そうすると,公訴事実記載の行為のうち,本件で被告人がAに対して行ったと証拠上認められるのは,Aの顔を平手で数回叩いた行為と,Aを仰向けに倒して馬乗りになり,その右腕を左手でつかんだ行為(以下これらの行為を併せて「本件行為」という。)のみであり,その余の暴行,脅迫の存在については,合理的な疑いが残るというべきである。

なお,付言するに,被告人が,包丁の柄をAの額の上に乗せ,刃先を被告人の首の方に突き付けた状態で,「刺してもやる。殺してもやる。」などと言った行為が,「凶器を示して脅迫し」たといえるかが問題となり得るが,包丁の刃先はAに向けられていない上,上記発言を全体としてみれば,自傷行為を思いとどまるよう諭す内容であると理解するのが素直であるから,被告人に脅迫の故意があると認めるに足りない。

2  争点②について

次に,被告人の本件行為について,正当防衛等が成立するか否かを検討する。

被告人供述によれば,Aは,本件当夜,被告人と口論になり逆上し,Aを制止しようとする被告人に対し,殴る蹴るなどして約30分間にわたり激しく抵抗していることが認められる。前記のとおり,Aには,興奮した精神状態になると,時に自傷行為を含む突飛な行動に出る傾向があり,本件以前に被告人と口論になった際には,Aが被告人の目の届かない場所に行き自身の胸部又は腹部を包丁で刺すという自傷行為に及んだことが2度あり,本件当夜にもAは被告人が目を離した隙にアパート2階の窓から飛び降りて重傷を負っていることも考慮すると,本件当時,相当興奮した精神状態にあったAが,その状態のまま外出すれば,何らかの方法により重大な自傷行為に及ぶ現実的危険性があった疑いを拭い去ることができない。

思うに,本件で想定されるAの自傷行為は,Aが自身の胸部や腹部を包丁で刺すなどという生命に危険が及びかねない行為であって,自殺関与罪が刑法上規定されていることも踏まえると,違法と評価すべきものと解される。そうすると,被告人による本件行為は,Aが外出して自傷行為に及ばないようにAを制止する目的からなされたものであり,Aの生命身体という法益に対する不正の侵害が切迫した状況において,これを防衛するためになされた行為というべきである。また,女性ではあるが空手の有段者であり,被告人に激しく抵抗していたAを制止するには,ある程度の有形力行使は避けられなかったと思われること,本件行為によりAが負った傷害の程度も全治約1週間にとどまることに照らせば,本件行為は,防衛手段として必要かつ相当なものであったと認められる。

したがって,被告人の本件行為については,正当防衛が成立する。

第3結論

よって,被告人の本件行為は,刑法36条1項に該当し,正当防衛行為として罪とならないものであるから,刑訴法336条により,被告人に対し無罪の言渡しをする。

(求刑 懲役2年)

(裁判長裁判官 足立勉 裁判官 樋上慎二 裁判官 椙山葉子)

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