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横浜地方裁判所 平成3年(行ウ)24号 判決 1992年11月26日

原告

三和君子

被告

川崎南労働基準監督署長渡邊勲

右指定代理人

本間勝弘

添田稔

越智敏夫

神尾武治

酒井宏和

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が昭和六二年一二月二八日付けで原告に対してなした労働者災害補償保険法による障害補償給付を支給しない旨の処分を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  原告は、住友生命保険相互会社川崎支社大師営業所に保険外務員として勤務していた昭和五四年一一月一七日、脳出血が発症し、救急車で医療法人明徳会総合新川橋病院(以下「新川橋病院」という。)に運ばれてそのまま同病院に入院した。

2  その後、同病院で約一年間で治療を受け、さらに、昭和五五年一二月三日、健康保険総合川崎中央病院(以下「川崎中央病院」という。)に転院して昭和五六年七月二五日まで同病院でリハビリテーションを受け、同日、補装具を使用すれば日常生活動作の自立が可能であるとして、左片麻痺の症状が完治しないまま同病院を退院した。

3  原告は、昭和六二年一〇月七日、被告に対し、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)による障害補償給付の請求をしたところ、被告は、同年一二月二八日付けで請求の趣旨記載の処分(以下「本件処分」という。)をした。

その処分の理由は、右障害補償給付請求権は、原告の後遺症が固定した昭和五六年七月二五日から労災保険法四二条に規定する五年の期間を経過したことにより、消滅時効で消滅したというものである。

4  しかしながら、右請求権の消滅時効はまだ完成していない。その理由は、次のとおりである。

(1) 労災保険法一二条の八、労働基準法七七条によれば、障害補償給付は、「労働者が業務上負傷し、又は疾病にかかり、なおったとき身体に障害が存する場合に」行うものとされているから、障害補償給付請求権の消滅時効は、負傷又は疾病が「なおったとき」から進行するものであり、ここに「なおったとき」とは、障害者として精神的に自立することが可能となったときをいうものと解すべきところ、原告が日常生活動作及び歩行の困難を克服して障害者として精神的に自立することが可能となったのは、昭和六二年三月である。

(2) 仮に右主張が認められないとしても、障害補償給付請求権の消滅時効は、請求権者が障害補償給付の請求をすることができることを知った時から進行するものと解すべきところ、原告がこれを知ったのは、昭和六二年一月中旬である。

5  よって、原告は、本件処分の取消しを求める。

二  請求原因に対する認否及び被告の主張

1  請求原因1の事実は知らない。

2  同2の事実中、原告が、昭和五五年一二月三日、川崎中央病院に転院し、以後、昭和五六年七月二五日までリハビリテーションを受け、同日、同病院を退院したことは認め、その余は知らない。

3  同3の事実は認める。

4  同4の主張は争う。

5  消滅時効に関する被告の主張は、次のとおりである。

(1) 法令上、障害補償給付請求権の時効起算点について特別の定めはないから、同請求権の消滅時効は、民法一六六条一項により、「権利を行使することを得る時」から進行するものと解すべきである。そして、ここに「権利を行使することを得る」とは、法律上の障害がないことをいうのであって、単なる事実上の障害(例えば、権利の存在を知らない等)はこれに含まれない。

(2) 障害補償給付は、「労働者が業務上負傷し、又は疾病にかかり、なおったとき身体に障害が存する場合に」に行われるものとされており、ここに「なおった」とは、業務上の負傷又は疾病の症状が固定し、治療の効果を期待し得なくなったことをいうところ、原告の症状は、川崎中央病院を退院した昭和五六年七月二五日に固定し、それ以上治療をしてもその効果を期待し得ない状態になったものであるから、この時に「なおった」ものというべきである。

(3) したがって、原告の本件障害補償給付請求権は、その「なおった」日の翌日である昭和五六年七月二六日から五年を経過したことにより消滅時効で消滅したというべきである。

第三証拠関係

本件記録中の書証目録記載のとおりであるから、これを引用する(略)。

理由

一  いずれも成立に争いのない(証拠略)によれば、次の事実が認められる。

1  原告は、住友生命保険相互会社川崎支社大師営業所に保険外務員として勤務中の昭和五四年一一月一七日午後六時三〇分ころ、生命保険契約を締結する約束をしていた客を訪問するため、京浜急行川崎駅近くの公衆電話で、その客の妻と打合わせをした。その直後に脳出血が発症してその場で意識を失い、救急車で新川橋病院に運ばれ、以後同病院に入院して治療を受けた。

昭和五五年一二月三日、同病院での脳出血の治療は終わったが、左片麻痺の障害が残ったので、リハビリテーションを受けるため、同日、川崎中央病院に転院した。

同病院に転院した当時の原告の症状は、左肩、肘、手関節拘縮著明で左上肢廃用、左下肢は麻痺及び内反尖足のため掴まり立ちはできるが歩行は不能、左上下肢の随意性は著明に低下、日常生活動作では入浴、着衣動作は介助を必要とするというものであった。

2  その後、同病院において、リハビリテーションを受けていたが、昭和五六年七月二五日、その目的を達し、同日、同病院を退院した。

この間の同年三月に、内反尖足の矯正手術を受けた。

同病院を退院した当時の原告の症状は、左上下肢は廃用状態であったが、短下肢装具及びT杖を用いれば数十メートルの独歩は可能(ただし、不安定で実用性はなく、車椅子が必要)、日常生活動作も可能(入浴には介助が必要であるが、衣服の着脱の動作は可能)、家事も一部可能であるというものであった。

3  退院後も、同病院に通院して、筋硬化をほぐすダントリウム及び脳循環改善血行増量剤カランの投薬を受け、三か月に一回程度の定期検診を受けているが、これはアフターケアとしての血圧等のコントロールと定期的な検査による再発の防止を目的としたものである。

これにより退院時の症状が改善されるというものではない。

以上の事実が認められ、右認定の事実によれば、原告の脳出血の後遺症は、遅くとも川崎中央病院を退院した昭和五六年七月二五日には固定したものということができる。

二  労災保険法一二条の八、労働基準法七七条は、「労働者が業務上負傷し、又は疾病にかかり、なおったとき身体に障害が存する場合」に障害補償給付を行う旨規定する。ここに「なおったとき」とは、負傷又は疾病による症状が固定し、治療の効果を期待し得なくなった時をいうものと解すべきである。

そして、労災保険法四二条は、障害補償を受ける権利は五年を経過したときに時効によって消滅する旨を規定するところ、法令上、その消滅時効の起算点については特別の規定がないから、右権利の消滅時効については、原則規定である民法一六六条一項が適用され、「権利を行使することを得る」時から進行することになる。そして、この「権利を行使することを得る」とは、単にその権利の行使につき法律上の障害がないというだけでなく、さらに権利の性質上、その権利の行使を現実に期待し得るものであることをも必要とすると解すべきである。

これを障害補償給付請求権についてみると、その権利は、「労働者が業務上負傷し又は疾病にかかり、なおったとき身体に障害が存する場合」に発生するものであるから、その権利を行使することを得る時とは、当該労働者がその負傷若しくは疾病が業務上生じたものであることすなわち業務起因性とその負傷若しくは疾病による身体障害の症状の固定を知った時、又は通常人であれば当然業務起因性及び身体障害の症状が固定したことを知り得るようになった時に権利の行使を期待し得る状態になったというべきである。

三  原告は、障害補償給付請求権の発生要件事実である業務起因性について、過重な業務が原因であると主張しているものと解される(<証拠略>)が、その業務が過重であることは、原告自身もっとも良く知り得ることであるから、過重な業務が脳出血の原因であるのであれば、意識を失っていた脳出血の発症直後はともかく、意識を回復してから症状が固定するまでの間に、そのことを知ったものと推認することができるし、仮にそうでなくても、右の疾病の性質と業務の態様とに鑑みると、通常人であれば、意識を回復した後、症状が固定するまでの間に、その業務起因性を知ることができたものといえる。そして、前述のとおり、原告の症状は、遅くとも昭和五六年七月二五日に固定しており、(証拠略)によれば、原告は、新川橋病院に入院中の昭和五五年一一月に症状が固定したことを前提として川崎市身体障害者更生相談所に身体障害者手帳の交付を申請していること、同年一二月三日に新川橋病院を退院する際に、同病院の医師から、内科的には治療するべきものがないと言われてリハビリテーションを勧められたこと、昭和五六年七月二五日には川崎中央病院の医師からリハビリテーションが終わったことを告げられていることなどが認められるから、これらの事実関係のもとでは、原告は、そのリハビリテーションが終わった時には症状が固定したことを知ったものとみることができる。したがって、その後遺症についての障害補償給付請求権の消滅時効は、その翌日から進行するものというべきである。

四  そうすると、右障害補償給付請求権は、原告が被告に対して障害補償給付の請求をした昭和六二年一〇月七日より前の昭和六一年七月二五日の経過により消滅時効で消滅したというべきであるから、これを理由に障害補償給付をしないこととした本件処分は正当である。

よって、本件処分の取消しを求める原告の請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小林亘 裁判官 櫻井登美雄 裁判官 藤原道子)

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